二十七歳 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 二十七歳  魂や情熱を嘲笑うことは非常に容易なことなので、私はこの年代に就て回想するのに幾たび迷ったか知れない。私は今も嘲笑うであろうか。私は讃美するかも知れぬ。いずれも虚偽でありながら、真実でもありうることが分るので、私はひどく馬鹿馬鹿しい。  この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二、三分間、一筋か二筋の涙というものを、ながした。そのときはもう日本の負けることは明らかな時で、いずれ本土は戦場となり、私も死に、日本の男はあらまし死に、女だけが残って、殺気立った兵隊たちのオモチャになって殺されたり可愛がられたりするのだろうと考えていたので、私は重荷を下したようにホッとした気持があった。  つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。  私は大井広介にたのまれて、戦争中、「現代文学」という雑誌の同人になった。そのとき野口冨士男が編輯に当って、私たちには独断で矢田津世子に原稿をたのんだ。その雑誌を見て、私はひどく腹を立てた。まるで私が野口冨士男をそそのかして矢田さんに原稿をたのませたように思われるからであった。果して井上友一郎がそうカン違いをして、編輯者の権威いずこにありやと云って大井広介にネジこんできたそうであるが、井上がそう思うのは無理もなく、それだけに、矢田津世子が、より以上に、そう思いこむに相違ないので、私の怒りは、ひどかったのだ。  けれども、そのとき、野口冨士男の話に、矢田さんが、原稿を郵送せずに、野口の家へとどけに来たという、矢田さんは美人ですねという野口の話をききながら、私はいささか断腸の思いでもあった。  まだ私たちが初めて知りあい、恋らしいものをして、一日会わずにいると息絶えるような幼稚な情熱のなかで暮していた頃、私たちは子供ではない、と矢田津世子が吐きすてるように云った。それは愛慾に就て子供ではないという意味ではなく、私たちは大島敬司という男にだまされて変な雑誌に関係していたので、大島に対する怒りの言葉であったが、私は変にその言葉を忘れることができない。  あなたは大人であったのか。私は? 私は馬鹿馬鹿しいのだ。何よりも、魂と、情熱の尤もらしい顔つきが、せつなく、馬鹿馬鹿しくて仕方がないのだ。その馬鹿らしさは、私以上に、あなたが知っていたような気がする。そのくせ、あなたは、郵便で送らずに、野口の家へわざわざ原稿をとどけるような芸当ができるのだが、それを女の太々しさと云ってよいのだか、悲しさというのだか、それまでを、馬鹿馬鹿しいと言い切る自信が私にはないので、私は尚さら、せつないのだ。  その頃から、あなたは病臥したらしい。そして、あなたが死んで、ハガキ一枚の通知になるまで、私はあなたが、肺病でねていることすら知らなかった。  私の母は私とあなたが結婚するものだと思いこみ信じていたが、ぐうたらな私に思いを残して、死んでいた。あなたのお母さんは生きていたのだ。あなたの死亡通知の中には、生きているアカシの、お母さんの名があったから。矢田チエという、私は名すら忘れてはいない。私の母以上に、私たちの結婚をのぞんでいた筈であった。私があなたの家で御馳走になり酔っ払うのを目を細くして喜んでいるお母さんであった。際限もなく私に話しかけるお母さん。けれども、その言葉は、あなたの通訳なしには、私には殆ど分らなかった。ひどい秋田弁なのだから。  死亡通知は印刷したハガキにすぎなかったが、矢田チエという、生きているお母さんの名前は私には切なかった。そして、その印刷した文字には「幸うすく」津世子は死んだと知らせてあった。「幸うすく」、あなたは、必ずしも、そうは思っていないだろうと私は思う。人の世の、生きることの、馬鹿馬鹿しさを、あなたは知らぬ筈はない。  けれども、あなたのお母さんは「幸うすく」そう信じているに相違なく、その怒りと呪いが、一人の私に向けられているような気がした。そして、私は泣いた。二、三分。一筋か二筋の、うすい涙であった。そして私が涙の中で考えた唯一のことは、ある暗黒の死の国で、あなたと私の母が話をして、あなたが私の母を自分の母のように大事にしてくれている風景であった。そして、私は、泣いたのだ。  私は、この尤もらしい顔附が切ない。こう書いてしまうと、これだけの尤もらしさになってしまう、表現のみじめさが切なく、馬鹿馬鹿しいのだ。そうかと云って、そうであるまいとすると、私はてんから、情熱と魂を嘲笑してしまうような気がする。私は果して書きうるのか。        ★  私はそのとき二十七であった。私は新進作家とよばれ、そのころ、全く、馬鹿げた、良い気な生活に明けくれていた。  当時の文壇は大家中堅クツワをならべ、世は不況のドン底時代で、雑誌の数が少く、原稿料を払う雑誌などいくつもないから、新人のでる余地がない。そういう時代に、ともかく新進作家となった私は、ところが、生れて三ツほど小説を書いたばかり、私は誘われて同人雑誌にはいりはしたが、どうせ生涯落伍者だと思っており、モリエールだのボルテールだの、そんなものばかり読んでおり、自分で何を書かねばならぬか、文学者たる根柢的な意欲すらなかった。私はただ文章が巧かったので、先輩諸家に買いかぶられて、唐突に、新進作家ということになってしまったまでであった。  私は同人雑誌に「風博士」という小説を書いた。散文のファルスで、私はポオの X'ing Paragraph とか Bon Bon などという馬鹿バナシを愛読していたから、俺も一つ書いてやろうと思ったまでの話で、こういう馬鹿バナシはボードレエルの訳したポオの仏訳の中にも除外されている程だから、まして一般に通用する筈はない。私は始めから諦めていた。ただ、ボードレエルへの抗議のつもりで、ポオを訳しながら、この種のファルスを除外して、アッシャア家の没落などを大事にしているボードレエルの鑑賞眼をひそかに皮肉る快で満足していた。それは当時の私の文学精神で、私は自ら落伍者の文学を信じていたのであった。  私は然し自信はなかった。ない筈だ。根柢がないのだ。文章があるだけ。その文章もうぬぼれる程のものではないので、こんなチャチな小説で、ほめられたり、一躍新進作家になろうなどと夢にも思っていなかった。  そのころ雑誌の同人六、七人集って下落合の誰かの家で徹夜して、当時私たちは酒を飲まなかったから、ジャガ芋をふかして塩をつけて食いながら文学論で徹夜した。その夜明け、高橋幸一(今は鎌倉文庫の校正部長)が食う物を買いに外出して、ついでに文藝春秋を立読みして、牧野信一が「風博士」という一文を書いて、私を激賞しているのを見出したのである。  人間のウヌボレぐらいタヨリないものはない。私はその時以来、昨日までの自信のないのは忘れてしまって、ほめられるのは当り前だと思っていた。そのとき二十六だった。七月頃であった。そしてその月に文藝春秋へ小説を書かされ、それ以来、新進作家で、私の軽率なウヌボレは二十七の年齢にも、つづいていた。  そのころ、春陽堂から「文科」という半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村礒多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらいであったと思う。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍らしかったほど、不景気な時代であった。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」というのを連載した。  この同人が行きつけの酒場があった。ウヰンザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のようなものでもあったせいらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気がよかったが、他の我々は大いに貧乏であった。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立って飲むことが多かった。私が酒を飲みだしたのは牧野信一と知ってからで、私の処女作は「木枯の酒倉から」というノンダクレの手記だけれども、実は当時は一滴も酒をのまなかったのである。改造の西田義郎も当時の飲み仲間であるが、私はこの酒場で中原中也と知り合った。  ある夜更け、河上と私がこの店の二人の女給をつれて、飲み歩き、河上の家へ泊ったことがある。河上は下心があったので、女の一人をつれて別室へ去ったが、残された私は大いに迷惑した。なぜなら、実は私も河上の連れ去った娘の方にオボシメシがあったからで、残された女は好きではない。オボシメシと云っても、二人のうちならそっちが好きというだけのことではあるが、当時私はウブだから、残された女が寝ましょうよと言うけれどもその気にならない。そのうちに河上が、すんだかい、と言って顔をだした。彼は娘にフラレたのである。俺はフラレた、と言って、てれて笑いながら、娘と手をくんで、戻ってきた。この娘は十七であった。  その翌朝、河上の奥さんが憤然と、牛乳とパンを捧げて持ってきてくれたが、シラフで別れるわけにも行かず、四人で朝からどこかで飲んで別れたのだが、そのとき、実は俺はお前の方が好きなんだと十七の娘に言ったら、私もよ、と云って、だらしなく仲がよくなってしまったのである。  この娘はひどい酒飲みだった。私がこんなに惚れられたのは珍らしい。八百屋お七の年齢だから、惚れ方が無茶だ。私達はあっちのホテル、こっちの旅館、私の家にまで、泊り歩いた。泊りに行こうよ、連れて行ってよ、と言いだすのは必ず娘の方なので、私たちは友達のカンコの声に送られて出発するのであるが、私とこの娘とは肉体の交渉はない。娘は肉体に就て全然知識がないのであった。  私は処女ではないのよ、と娘は言う。そのくせ処女とは如何なるものか、この娘は知らなかった。愛人、夫婦は、ただ接吻し、同じ寝床で、抱きあい、抱きしめ、ただ、そう信じ、その感動で、娘は至高に陶酔した。肉体の交渉を強烈に拒んで、なぜそんなことをするのよ、と憤然として怒る。まったく知らないのだ。  そのくせ、ただ、単に、いつまでも抱きあっていたがり、泊りに行きたがり、私が酒場へ顔を見せぬと、さそいに来て、娘は私を思うあまり、神経衰弱の気味であった。よろよろして、きりもなく何か口走り、私はいくらか気味が悪くなったものだ。肉体を拒むから私が馬鹿らしがって泊りに行かなくなったことを、娘は理解しなかった。  中原中也はこの娘にいささかオボシメシを持っていた。そのときまで、私は中也を全然知らなかったのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによって大いに私を呪っており、ある日、私が友達と飲んでいると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかかった。  とびかかったとはいうものの、実は二、三米離れており、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スイング、フック、息をきらして影に向って乱闘している。中也はたぶん本当に私と渡り合っているつもりでいたのだろう。私がゲラゲラ笑いだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめている。こっちへ来て、一緒に飲まないか、とさそうと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になった。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くようになったが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れていたのではなく、私と友達になりたがっていたのであり、娘に惚れて私を憎んでいるような形になりたがっていただけの話であろうと思う。  オイ、お前は一週に何度女にありつくか。オレは二度しかありつけない。二日に一度はありつきたい。貧乏は切ない、と言って中也は常に嘆いており、その女にありつくために、フランス語個人教授の大看板をかかげたり、けれども弟子はたった一人、四円だか五円だかの月謝で、月謝を貰うと一緒に飲みに行って足がでるので嘆いており、三百枚の翻訳料がたった三十円で嘆いており、常に嘆いていた。彼は酒を飲む時は、どんなに酔っても必ず何本飲んだか覚えており、それはつまり、飲んだあとで遊びに行く金をチョッキリ残すためで、私が有金みんな飲んでしまうと、アンゴ、キサマは何というムダな飲み方をするのかと言って、怒ったり、恨んだりするのである。あげくに、お人好しの中島健蔵などへ、ヤイ金をかせ、と脅迫に行くから、健蔵は中也を見ると逃げだす始末であった。  その年の春、私は一ヶ月あまり京都へ旅行した。河上の紹介で、そのころまだ京大の学生だった大岡昇平が自分の下宿へ部屋を用意しておいてくれたが、そのとき加藤英倫と友達になった。彼は毎晩、私を京都の飲み屋へ案内してくれて、一週間ほど神戸へも一緒に旅行した。加藤英倫も京大生で、スエデン人の母を持つアイノコで、端麗な美貌であるから、京都も神戸も女友達ばかり、黒田孝子という女流画家の可愛い女に惚れられており、この人は非常に美人であったが、英倫はさのみこの人を好んでいるようでもなく、神戸の何とかいう、実にまずい顔の、ガサツ千万な娘になんとなく惚れるような素振りであった。外見だけであったかも知れぬ。彼はセンチメンタル・トミーであった。  これは蛇足だが、この神戸の旅行で、私はヘルマンの廃屋とかいう深山の中腹の五階建かの大洋館へ案内された。ヘルマン氏は元来マドロスか何かで、貧乏なのんだくれであったが、兄が大金満家で、これが死に、遺産がころがりこんで一躍大金持になったのだそうで、そこでここに大邸宅をつくり、五階の上に塔をたて、この塔の中に探照燈を据えつけ、自分の汽車が西の宮駅へつくと、山の中腹の塔の上から探照燈をてらす。ヘルマン氏光の中へ現われ、光の中なる自動車に乗る。この自動車が邸宅へはいるまで、自動車と共に探照燈の光が山を動いて行くのだそうで、この探照燈は私が行ったとき、まだ廃屋の塔の中にそのまま置かれていた。軍艦などの探照燈と全く同じ大袈裟な物々しい物であった。  もう一つ、ブッタマゲルのはヘルマン先生の酒倉だ。庭の中の山の中腹へ横穴をあけて、当時の金で八万円の洋酒をとりよせ、穴の中へつめこんだ。驚くべき大穴倉だが、実に驚くべき洋酒の山で、私が行ったときも、ギッシリアキビンの山がつまっていたが、奥には本物もあったかも知れぬ。そこでヘルマン先生は、かねて飲み仲間の親友マドロスに隣地へ小意気なバンガローをたててやり、二人でひねもす、よもすがら、飲んでいたそうで、ヘルマン先生なりふり構わず、ボロ服に、貧乏時代からのマドロスパイプをくわえたまま、酒の外には余念がなかったそうである。  独探のケンギを受けて、大正五年だかに国外退去を命じられたという。無実のケンギで、探照燈がたたって怪しまれたという話であったが、快男子を無益に苦しめたものである。飲み仲間のいたバンガローに当時は日本人の老画家が住んでいて、廃屋廃園に、私達を案内してくれ、ヘルマン氏の思い出をきかせてくれたのであった。廃屋は各階毎に寝室があり、寝室にはバスルームがつき、要するにヘルマン氏は、その日の気分によって、何階かで下界の海を眺めて酒をのみ、酔いつぶれて、バスにつかって、寝てしまう万全の構えがととのえられているわけだ。女なんか目もくれなかったというから、私はとても及ばぬ。これには私も、ブッタマゲた。  矢田津世子は加藤英倫の友達であった。私は東京へ帰ってきた。加藤英倫も東京へ来た。たぶん彼の夏休みではなかったのか。私には、もはや時日も季節も分らない。とにかく、私と英倫とほかに誰かとウヰンザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウヰンザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二、三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。        ★  さて、私は愈々語らなければならなくなってきた。私は何を語り、何を隠すべきであろうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。  私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」というのを一つ書いただけで、発表する雑誌もなくなってしまったのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であった。つまり、矢田津世子に就てであった。  私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑っていた。ただ、私は、矢田津世子に就て書くことによって、何物かが書かれ、何物かが明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるようにならなければいけないのだと考えていたのであった。  始めからハッキリ言ってしまうと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかった。然し、メチルドを思うスタンダールのような純一な思いは私にはない。私はただ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかった。接吻したことすら、恋し合うようになって、五年目の三十一の冬の夜にただ一度。彼女の顔は死のように蒼ざめており、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかっているようで、私はただ苦しみの外なにもなかった。たかが肉体ではないか、私は思ったが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、という心の叫びをどうすることもできなかった。  そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会いたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなったから、そして、私自身の肉体が厭になったから、と。そのときは、それが本当の気持であったのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会わないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。  その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のようであった。私は彼女の肉体をはずかしめるために小説を書いているのかと疑らねばならないことが幾度かあった。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。  私は戦争中、ある人妻と遊んでいた。その良人は戦死していた。この女の肉体は、最も微妙な肉体で、そういう肉体の所有者らしく、貞操観は何もなく、遊ぶ以外に目的はないようだった。  この女は常にはただニヤニヤしているばかりの凡そだらしない、はりあいのない女であったが、遊びの時の奔騰する情熱はまるで神秘な気合のこめられた妖精であった。別の人間としか思われない。  然し、淫楽は、この特別な肉体によってすらも、人の心はみたされはせぬ。私が矢田津世子の肉体を知らないことに満ち足りる思いを感じるようになったのは、そのときからで、それは又、あたかも彼女の死のあとだから、無の清潔が私を安らかにもしてくれた。  魅力のこもった肉体は、わびしいものだ。私はその後、娼婦あがりの全く肉体の感動を知らない女と知ると、微妙な女の肉体とあいびきするのが、気がすすまぬようになっていた。  娼婦あがりの感動を知らない肉体は、妙に清潔であった。私は始め無感動が物足りないと思ったのだが、だんだんそうではなくなって、遊びの途中に私自身もふとボンヤリして、物思いに耽ることがあったり、ふと気がついて女を見ると、私の目もそうであるに相違ないのだが、憎むような目をしている。憎んでいるのでもないのだけれども、他人、無関心、そういうものが、二人というツナガリ自体に重なり合った目であった。 「憎んでいる?」  女はただモノうげに首をふったり、時には全然返事をせず、目をそらしたり、首をそらしたりする。それを見ていること自体が、まるで私はなつかしいような気持であった。遊び自体がまったく無関心であり、他人であること、それは静寂で、澄んでいて、騒音のない感じであった。  そして私は矢田津世子の肉体を知らないことを喜んだ。その肉体は、この二人の女ほど微妙な魅力もこもっておらず、静寂で、無関心である筈はない。私にとって、女体の不完全な騒音は、助平根性をのぞけば、侘しくなるばかりだから。淫楽は悲しい。否、淫楽自体が悲しいのではなく、我々の知識が悲しい。  私は先ほどスタンダールのメチルドのことにふれたが、あれはどうも、ひどい誇張で、本心であるとは思われない。私にとって、矢田津世子はもはや特別な女ではなく、私は今に、もっとバカげた、犬のような惚れ方を、どこかの女にするような予感がつきまとっている。そのくせ私は、惚れることには、ひどく退屈しているのだが。        ★  英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行った。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいう飜訳本であった。私はそれが、その本をとどけるために、遊びに来いという謎ではないか、と疑った。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらい、思い耽らねばならなかった。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいというのですか。そう信じていいのですか。  然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であったSという家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来しており、私も子供の頃は屡々遊びに行ったものだった。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせいであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせいだった。私は遊びに行った始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。  その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。  この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たために幾度かが眠り得なかった苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいずれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があった。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちている。失恋と同じ嫉妬にすら満ちている。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかった。  そのころ「桜」という雑誌がでることになった。大島というインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加わり、矢田津世子から、私に加入をすすめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だったが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会うことができるから、と言う。私は夢の如くに、幸福だった。私は二ツ返事で加入した。  私たちは屡々会った。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会っているときだけが幸福だった。顔を見ているだけで、みちたりていた。別れると、別れた瞬間から苦痛であった。 「桜」はインチキな雑誌であったが、井上、田村、河田はいずれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらったのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じていたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せただけで夭折したのは残念だった。彼はすぐれた詩人であった。  インチキな雑誌であったが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせいだと思われる。  ある日、酔っ払った寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾ったのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアイビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てで、ポケットへもぐしこんだという。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋していることは知らないのだ。居合せたのが誰々だったか忘れたが、みんな声をたてて笑った。私が、笑い得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。  私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会った日、矢田津世子の同伴した男というのが、即ち、時事の最高幹部なるWであった。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまま別れて私が自席で友人達と話していると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞していられるのです、と言った。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであった。 「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいということの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされていた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思いだした。彼は後日、作家となった笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるような邪推が、──私は邪推した。せずにいられなかった。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、呪った。  寅さんの話は思い当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられていたのである。  如何なる力がともかく私を支え得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であった。        ★  私はまったく臆病になった。手紙は三日目ぐらいに来つづけていた。同人の会でも会ったし、その他の場所でも会っていた。  Wのことは同人間でも公然知れわたっていた。彼等は私の心事を察して、私の前では決してそれに触れぬようにいたわってくれたが、いたわりすらも、私には苦痛であった。  創刊号の同人の座談会で、私は例の鼻ッ柱で威勢よく先輩諸先生の作品に悪口雑言をあびせつづけたものであったが、その中で一句、私の言葉に矢田津世子が同感した言葉があった。私はその言葉を忘れたが、それは恋人に対してのみ用いる種類の甘ったるい言葉であった。  校正の日、同人全部印刷所へつめていたが、まさしくその日は日曜であり、矢田津世子のみ、真杉静枝か河田かに校正をたのみ、姿を見せていなかった。その日曜が矢田津世子にどういう日かは、あらゆる同人が知っていたのだ。  座談会の例の一言に、河田だか、田村だか、井上だか、ふきだして、これは凄いね、このままケズらず載せたものかね、と見廻すと、真杉静枝が間髪を容れず、ケズることないわ、ホントにそう言ったのですもの、と叫んだ。それは低いが、強烈な語気で、私はその後ずいぶん真杉さんとはおつきあいしたが、このような激しい語気はほかにきいたことがない。深い憎しみが、こめられていた。  私は然し、わが身の如くに、切なかったのだ。私が憎まれているが如くに。私は矢田津世子をあわれみ、真杉静枝をむしろ呪った。同時に真杉静枝に内心深く感謝したのは、私も切に、この言葉のケズられざらんことを乞い、祈っていたから。  その一言は、私にとっては、絶望の中の灯であったのだ。悲しい願いがあるものだ。この一言が地上に形をとどめて残ってくれますように。せめて、この一言のみが、掻き消え失せてくれないように、と。  私は然し、私の必死の希願に就て、自ら一語も発することができなかった。私はただ、幸いに残り得た一語のいのちを胸にだきしめていたのである。ああ、これは残そう。これは面白い言葉じゃよ、とそれに答えた河田の言葉を私は今も忘れることができないほどである。  私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいということを母に言った。母も即座にうなずいていたが、やがて日数へて、いつ結婚するか、という。私は胸をしめつけられて、返事ができず、ようやく声がでるようになると、もう厭なんだ、やめたんだ、と答えて席を立った。  然し、三日にあげず手紙が来ているのだから、母は私の言葉を痴話喧嘩ぐらいにしか受けとらず、あるとき親戚の者がきたとき、私を指して、今度、矢田津世子と結婚するのだ、と言う。嘘だ! 結婚しないと言っているのに! 私は唐突に叫んだ。叫ぶことが、無我夢中であった。私の血は逆流していた。私は母の淋しい顔を思いだす。  その頃だった。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになって、足もとをフラフラさせ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行こうよ、お金は私が持っているから、と言う。暮れがたであった。私は仕事があって今夜は酒がのめないからと嘘をつき、ともかく、そのへんまで送ろうと一緒に歩くと、女は憑かれたようにとりとめもなく口走り、せつなげな笑いが仮面のようにその顔にはりついている。そのうちに、ふと、知ってるわ、矢田さんに惚れたんでしょう、と言った。恨む声ではなかった。せつなげな笑いが、まだ、はりついていた。気象の激しい娘であった。モナミだか千疋屋だかで、テーブルの上のガラスの瓶をこわしたことがある。ボーイがきて、六円いただきます、と言う。娘は十二円ボーイに渡して、隣のテーブルの花瓶をとると、エイと土間に叩きつけて、ミジンにわって、サヨナラと出てきた。そういう気象を知っている私であるから、私に対する娘のあまりのか弱さに、私は暗然たる思いもあった。 「片思いなの?」  娘は私の顔をのぞいた。それは、優しい心によって語られた、愛情にみちた言葉であった。恨む心はミジンもなく、いたわる心だけなのだ。私は答える言葉もなく、答えたい心もなかった。  このへんで別れようと私が言うと、ウン、娘はうなずいて、私の手を握り、まだつづいているあの切なげな笑いで、仕事がすんだら、又、のもうよね、そう言って、娘は手をふり、素直に闇の底へ消えてしまった。これが娘と私との最後の別れであった。  私も、亦、矢田津世子を恨む心はなかった。なじる心もなかった。矢田津世子は、私に向い、一緒に旅行しましょうよ、登山したい、山の温泉へ泊りたい、と言う。私はただ笑い顔によって答え得るだけだ。その笑い顔は、私の心はあなたのことで一ぱいだ、いつもあなたを思いつづけている、然し、私はあなたと旅行はできない。旅行して、あなたの肉体を知ると、私はWと同じ男に成り下るような気がするから。あなたにとって、私が成り下るのではなく、私自身にとって、Wが私と同格になるから。私はあなたに就いて、Wのことなど信じたくないのだ。それを忘れてしまいたい。それを知らずにあなたを恋したあのままの心を、私は忘れたくないのだ、と。もとより私の笑い顔がそのような意味であることを、矢田津世子が解きうる由もない。  河田誠一が矢田津世子を訪ねたのも、その頃だ。なぜ坂口と結婚しないか、それをすすめるために。その話を、私は河田から告げられず、矢田津世子から、きかされたのだ。  その知らせには、たしかに意味があった。なぜあなたは結婚しようと言わないのか。言ってくれれば、私はいつでも結婚するのに、という意味が。矢田津世子のあらゆる讃辞が、河田誠一にささげられて、私の前に述べられている。その心のあたたかさと、まじめさと、友情の深さに就て。それは、すべて、河田の彼女への忠告を彼女がうけいれたというアカシであり、私に対するサイソクであった。私はそれに対しても、ただ、笑い顔によってのみ、答えていた。  私の心は、かたくなであった。石の如くに結ぼれていた。  要するに、私は自分の心情に従順ではなかったのである、本心とウラハラなことをせざるを得なくなる。それが私の性格的な遊びのようなもので、自虐的のようでもあるが、要するに、遊びだ。私はそのころ牧野信一の家で、長谷川何とかいう手相、指紋の研究家に手をみられて、君の性格はアマノジャクそのものだ、と言われた。然し、アマノジャクとは何か。ヒネクレているということの外に、アマッタレているという意味があると私は思う。物自体よりも物を雰囲気的に受けとろうとする気分的なセンチメンタリズムも多分にあり、要するに、いいところは一つもない。然し、本人は案外いい気なもので、それに私は、センチメンタルではあるけれども、同時に、野放図な楽天家でもあった。ええママヨ、どうにでもなれ、ということが、いつも、つきまとっているのだから。  矢田津世子と私は「桜」をやめた。二号目ぐらいで、菱山もやめた筈だ。私はもう、あのころのことは殆ど記憶にない。雑誌のことも、矢田津世子のことも。私は特に彼女のことをつとめて忘れようとした長い期間があるのだから。  そのころのことで変に鮮明に覚えているのは、中原中也と吉原のバーで飲んで、──それがその頃であるのは私は一時女遊びに遠ざかっていたからで、中也とのんで吉原へ行くと、ヘヘン(彼は先ずこういうセキバライをしておもむろに嘲笑にかかるのである)ジョルジュ・サンドにふられて戻ってきたか、と言った。銀座でしたたかよっぱらって吉原へきて時間があるのでバーでのむと、ここの女給の一人と私が忽ち意気投合した。中也は口惜しがって一枚ずつ、洋服、ズボン、シャツ、みんなぬぎ、サルマタ一枚になって、ねてしまった。彼は酔っ払うと、ハダカになって寝てしまう悪癖があるが、このときは心中大いに面白くないから更にふてくされて、のびたので、だらしないこと甚しく、椅子からズリ落ちて大きな口をアングリあけて土間の上へ大の字にノビてしまった。女と私は看板後あいびきの約束を結び、ともかく中也だけは吉原へ送りこんでこなければならぬ段となったが、ノビてしまうと容易なことでは目を覚さず、もとより洋服をきせうる段ではない。仕方がないから裸の中也の手をひッぱって外へでると、歩きながらも八分は居眠り、八十の老爺のように腰をまげて、頭をたれ、がくんがくんうなずきながら、よろよろふらふら、私に手をひっぱられてついてくる。うしろから女給が洋服をもってきてくれる。裸で道中なるものかという鉄則を破って目出たく妓楼へ押しこむことができたが、三軒ぐらい門前払いをくわされるうちに、ようやく中也もいくらか正気づいて、泊めてもらうことができた。そのとき入口をあがりこんだ中也が急に大きな声で、 「ヤヨ、女はおらぬか、女は」  と叫んで、キョロキョロすると、 「何を言ってるのさ。この酔っ払い」  娼妓が腹立たしげに突きとばしたので、中也はよろけて、ひっくりかえってしまった。それを眺めて、私達は戻ったのである。  私が連れこまれた女のアパートは、窓の外に医院があって薬品の匂いの漂う部屋であった。女はううんと背伸びをして、ふと気がついて、背伸びをしたいなと思う時でも、する気にならない時があるわね、と言った。ほかに意味も翳もない単純な笑い顔だった。お人好しで、明るくて、頭が悪くて、くったくのない女であった。朝、目をさまして、とび起きて、紙フウセンをふくらまして、小さな部屋をつきまわって、一人でキャアキャア喜んでいたり、全裸になって体操したり、そして、急に私にだきついてゲラゲラ笑いだしたり、娼家の朝の暗さがないので、私はこの可愛い女が好ましかった。  窓をあけて青空を眺めたら、私は急に旅行に行きたくなった。女も大賛成で、私は人から貰って三日目ばかりの時計、これは全く私に縁がないようにその宿命が仕組まれていたとしか思われないほど高級品であったから、女は大いに気をきかし、勇み立ち、この質屋、あの古物商、知りあいの商店の旦那をよびだして、かけあったり、もういい加減で売っちゃえと云っても、ダメダメ安すぎる、大いにハリキッて倦むことを知らない。質屋の出入にも、腕をくるくるふりまわしながら飛んだり跳ねたり、ヘッピリ腰でのぞきこむかと思うと急に威勢よくコンチハと大きな声で戸をあけたり、まるで天性あらゆる宿命を陽気に送り迎えているとしか思われぬようだった。そして、私の沈黙の気質だの、陰鬱な顔附などを全然気にかけていなかった。バスの車掌をしていたが、おツリの出し入れが面倒くさくてやめてしまったのだそうで、道を歩きながら車掌のマネをしてみせて、次は何々でございます、ストップねがいます、大きな声、往来の人々がビックリふりむいて顔を見るのを気にかける様子もない。  私達は足掛け八日旅行した。たしか八日だったと思う。八日帰りがなんとか言ったが、金がなくなってしまったので、女が大いにケンヤクを主張して安温泉を廻って歩き、ヒルメシはカツドンばかり食わされた。私がおかしくて仕方がなかったのは、この女は人の顔の品定めなどテンからやらぬたちなのだが、バスに乗った時に限って女車掌の品定めをして、あら、あの子、凄いシャンだ、と言う。一向にシャンでもないから、君の会社はよっぽどデブばかり揃ってたんだな、と笑うと、この時ばかりはいささかてれて、ウームと一と唸り、メーデーだか何だかに赤旗かつぐのが羨しくてバスの車掌になったのだけれども、共産党になれと言われて、閉口したのだそうである。まったくこの女はオッチョコチョイで、出鱈目だったが、共産党の地下運動にはカブトをぬぐ性質に相違なく、五十銭寄附したけれども、あとは降参、逃げだしたと言っていた。モグることができないタチであった。  私が旅館でふと思うのは、矢田津世子もWとこんなところへ来るのだろうな、ということだった。尤も、我々の旅館よりは高級であるに相違ない。待合であるかも知れぬ。尚それよりも怖れたのは、この旅先で、矢田津世子とWの姿を見かけないか、ということだった。私と女が見られることへの怖れではなかった。純一に、彼等の姿を見かけることの、その事実を確めさせられることの恐怖と苦痛であった。  私はそのころ、路上でふと立ちすくむことがあった。胸は唐突にしめつけられ、呼吸が一瞬とまっている。私はふりむいて一目散に逃げる衝動にかられているのだ。私は街角を怖れた。又、街角から曲って出てくる人を怖れた。私は矢田津世子の幻覚におびえていたのだ。よく見れば似つかぬ女が、見た瞬間には矢田津世子に思われ、私は屡々路上に立ちすくんでいたのであった。  別して私は温泉で、矢田津世子とWの幻覚になやまされた。こんな安宿に彼等が泊る筈はないと信じながら、廊下で見かける人影に、とつぜん胸がしめつけられ、息がつまって、立ちすくむ。隣の男女の話声の、よくきけば凡そ似つかぬ女の声が、始めてきこえた一瞬だけは矢田津世子の声にきこえてしまう。  私は女給と泊り歩いている私が、矢田津世子への復讐であるような心は、ミジンもなかった。私は今、すぐこの足で、矢田津世子を訪ねて、結婚しましょう、と言えば、結婚することもできるのだった。それは疑うべからざることで、そのことだけでは、一とかけの疑念も不安もなかったのだ。もとより、憎む時間はあった。然し、私があの人の影におびえて立ちすくむとき、私自身の恐怖の中には、あの人に苦痛と恥辱を与えたくない思いやりが常にこめられていたのだ。  同時に私はWを憎んでもいなかった。矢田津世子とW。矢田津世子と私。私の心には、この二つを対比し、対立させる考え方が欠けているか、或いは非常に稀薄であった。矢田津世子とW。私はそれを考える。最も多く考えた。然し、矢田津世子と私、という立場に対立させて考えてはいなかった。つまり、同一線上に二つを並べていなかったのだ。  私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしまう。結婚すれば、私は勝ちうる。果して、勝ちうるであろうか。私はむしろ、対立と、自分の低さ、位置の低さを自覚するばかりではないか。  私は然し、そのように考えていたわけではない。そのように考えることの必要が、必要すらも、欠けていたのだ。即ち、私は、すでに結婚を諦めていた。時に軽率な情念のそれをめぐって動くことをとめる術はないけれども、より深い、恐らく心意の奥底で、大いなる諦めを結んでいた。不動盤石の澱みの姿に根を張った石に似た雲のような諦念がある。それは一人の愛する女を諦めているばかりではなかった。より大いなるものを諦めていた。より大いなる物とは? それは私には、分らない。ただ、何物か、であるだけだった。そして、その大いなる何物かの重い澱みの片隅に、一人の女がいるだけのことであった。  私はむしろ、この明るいオッチョコチョイの女給をつれて、矢田津世子が一緒に行こうと云った山々、上高地や奥白根の温泉宿へ行ってみればよかったと思った。なぜであるかは分らない。それはどうでもよいことだ。私はただ、私をそこへ誘った矢田津世子は、だから、たぶん、ほかの男とはそこへ行きはしないだろうと、ふと考えた。然し、又、だから、たぶん、あるいは今ごろ、そこにいるのではないかと、とも考えた。とりとめもなく、ふと、思う。私は山を歩いている。穂高を、槍を、赤石を。すると、私のつれている女は、矢田津世子だった。そして私は、ものうい昼の湯の宿の物思いから、我にかえる。私の女が、ひとりで喋り、ひとりでハシャいでいるときにも、私はそれをきいたり見たりしているような笑い顔で、ふと物思いに落ちこんでいた。 「あなたは奥さんないの? アラ、うそ。あるでしょう」と、女がきく。 「あるよ」 「お子さんは」 「一人だけ」 「あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ」 「どうして、分る」 「ほら、当ったでしょう。私の経験なのよ。私みたいな変チクリンなお多福を可愛がる人の奥さんは、御美人よ。私、何人も、その奥さんの顔を見てやったわ。美人女給を口説く人の奥さんは、みんな、ダメ。でもね、私を可愛がる人は、特別優秀なのよ。なぜだろうな。よっぽど私が、できそこないなのかしら」然し、女は、どことなく可愛い顔立ちだった。それに、姿がスラリとして、色気があった。心が無邪気であるように、全身に、無邪気な翳がゆれていた。二十三とか四であったが、十七、八の小娘のようなところがあった。全裸になって体操するのが大好きで、ひとり余念もなく、大らかで、たのしげで、だから清潔で、温泉の湯ぶねの中でも、のびたり、ちぢんだり、桶をマリか風センにして遊んでいたり、いつも動いているのだ。男に裸体を見せることを羞しがらず、腕や腹や股に墨筆で絵を書かせてキャアキャアよろこび、だからむしろ心をそそる色情は稀薄であった。マネキンになりたいけれども、シャンじゃないからダメなんだ、とこぼしていたが、私はそのとき、なるほどこれは天来のマネキンとでもいうのだろうなと思ったほど、常に動きが、そして言葉が、生き生きとしていた。あれは、どこの宿であったか。もう旅の終りで、あの日は沼津で映画だか芝居だか見て、私はそれを見ながら二合瓶をラッパのみにして、いくらか酔っていたのだが、それから長岡だかその隣りの温泉だかへ泊ったときであったと思う。女はいくらかシンミリして、 「ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあわない。私、このへんの酒場で女給になって、稼ぐから」 「チップで宿銭が払えるものか」 「ああ、そうか」女はひどくガッカリした。もとより、それは気まぐれだった。気まぐれ千万な女なのだ。私を愛しているせいなどでは毛頭ない。然し、気まぐれながら、いくらかシンミリしているので、それが珍らしいことだったから、私は今も何か侘しさを思いだす。私はその後、よく旅先の宿屋の部屋の孤愁の中で、このときの女のことを思いだしたものだった。 「このくらい遊んで帰ると、私だって、ちょっと、ぐあいが悪いのよ。あとは野となれ、山となれ、か。あなたの奥さん、さぞ怒っているだろうな。ねえ、マダム、怖い?」女の顔はいつもと違って、まじめであった。 「もう十日、もうひと月、ねえ、私、このへんで稼いで、一緒にいたいな。あなたのマダムをうんと怒らしてやりたいのよ。私、どこかのマダムを二、三人、殺してやりたいわ。厭になっちまうな」と言った。そして笑った。それはもう、いつもの通りの女であった。シンからお人好しの女でも、そんな残酷な気持があるのかな、と、私は面白かった。顔も知らない対象にまで嫉妬だか癇癪だか起している、そのくせ、はっきりした対象にはむしろ嫉妬を起しそうもない女であった。  私はそのとき、矢田津世子は死んでくれれば一番よいのだ、ということをハッキリ気附いた。そして、そんなことを祈っている私の心の低さ、卑しさ、あわれさ、私はうんざりしていた。まったく一と思いに、この女とこのへんの土地で、しばらく住んでみようかと、女には何喰わぬ顔で、思いめぐらしたほどであった。        ★  私の心の何物か、大いなる諦め。その暗い泥のような広い澱みは、いわば、一つの疲れのようなものであった。その大いなる澱みの中では、矢田津世子は、たしかに片隅の一ときれの小さな影にすぎなかったが、その澱みの暗い厚さを深めたもの、大きな疲れを与えたものは、あるいは、矢田津世子であるかも知れぬと考える。  私はそのころから、有名な作家などにはならなくともよい、どうにとなれ、と考えた。元々私は、文学の始めから、落伍者の文学を考えていた。それは青年の、むしろ気鋭な衒気ですらあったけれども、やっぱり、虚無的なものではあった。私は然し、再びそこへ戻ったのではなかったようだ。私の心に、気鋭なもの、一つの支柱、何か、ハリアイが失われていた。私はやぶれかぶれになった。あらゆる生き方に、文学に。そして私の魂の転落が、このときから、始まる。  私はもう、矢田津世子に会わなかった。まる三年後、矢田津世子が、私を訪ねて、現われるまで。 底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波文庫、岩波書店    2008(平成20)年11月14日第1刷発行    2013(平成25)年1月25日第3刷発行 底本の親本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房    1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行 初出:「新潮 第四四巻第三号」    1947(昭和22)年3月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:Nana ohbe 校正:酒井裕二 2015年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。