新書太閤記 第六分冊 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 新書太閤記 第六分冊 官兵衛救出 死後の花見 有馬の湯 屍山血河 秋風平井山 地下なお奉公 紅葉を喰う 父と父 軍旗祭 醜ぐさ 日本丸 丹波・丹後 二つの門 鷹を追う 折檻 名将と名将 父信長 用心濠 年玉 大気者 蘭丸 京都 潮声風語 中国陣 銭と信長 南蛮学校 古府・新城 高遠城 春騒譜 天目山 火も涼し 淋しき人 客来一味 富士を見つ 東海風流陣 官兵衛救出  秀吉の赴いている中国陣。  光秀の活躍している丹波方面の戦線。  また、包囲長攻のまま年を越した伊丹の陣。  信長の事業はいま、こう三方面に展開されている。中国も伊丹も依然、膠着状態と化している。やや活溌にうごいているのは、丹波方面だけだった。  そう三方面から日々ここへ蒐まって来る文書、報告なども夥しい。もちろん参謀、祐筆などの部屋を通って一応は整理され、緊要なものだけが信長の眼に供された。  その中から、佐久間信盛の一通が見出された。非常に気に入らない顔色でそれを読み捨てた。  読み反古の始末は蘭丸がする。 (……なにが、御意に召さなかったのか)  と、怪しんでいたので、その反古をあとでそっと披いてみた。べつに信長の気色に触れるようなことも書いてはない。ただそれには、伊丹へ帰陣の途中、竹中半兵衛を訪うて、かねてのお申し附けを催促しておいたという報告だけしか読まれなかった。  もっとも、微細に、その辞句の裏を読めば、信盛がいおうとしているところは、べつに深く酌めないこともない。 意外にも半兵衛儀は、まだ御申し附けの事を、実行しておりません。使者たるそれがし落度とも相成る事、厳しく督促いたしおきました。大事の御命、仕損じてはと、小心にも自身手をくだすつもりと見えました。近日に御命を果しましょう。それがしにとっても重々、迷惑、伏して御寛仁を仰ぎます。  こういったようなものである。この辞句の裏には何よりも信盛が自己の罪のみを汲々と怖れて弁解している気もちが出ている。いやそれ以外には何もないといってもいい。 (それが御機嫌に逆らったものであろう)  蘭丸にもその程度にしか考えられなかった。──けれど信長がこの書面を憎んで、信盛という人間に対しての認識を一変していたことは、やがての後に事実となってあらわれるまで、信長以外誰も信盛の肚を理解することは難しかった。  ただ、その一端として、窺われ得ないこともなかったといえる一事は、信盛から右のような通告に接しても、信長はその時、半兵衛重治の違命と怠慢に向っては、べつに激怒する容子もないし、その後も不問のまま敢えて自分からは督促していないことだった。  しかしまた、信長のそういう複雑な気の変り方を、竹中半兵衛とても、知ろうはずはなかった。  半兵衛はともかく、侍いて看護しているおゆうや家臣たちは、 「何とかなされずばなるまいが……」  と、案じ合い、なお何日になっても、その問題を処決する容子もない半兵衛の心を読みかねて、 「どう遊ばすおつもりか」  と、無言のうちに胸をいためていたことは一通りでなかった。  そのうちに一月も過ぎた。  二月も半ばとなった。  梅が咲く。──南禅寺の山門あたりにも、この草庵の軒ば近くにも。  日ましに陽ざしも暖かになって来たが、半兵衛の病は、やはり軽くなかった。気丈ではあり、むさくるしいのが嫌いなので、どんな朝でも、病室は清掃させ、そして浄らかな朝の間の陽ざしを浴みに、縁近い南の端に黙然と疲れるまで坐っているのが、朝々の習慣のようだった。  彼女はそこへ、茶を汲んでゆく。病中の一楽はその茶碗からたちのぼる湯気の虹を朝陽のなかに眩く見ることだった。 「けさほどは、お顔色も大変良いようにお見うけいたしますが」 「そうだろう」  茶碗を抱いていた細い手のひとつを、わが頬へやって撫でまわしながら、半兵衛は、 「わしにも春が来たらしいよ。たいへんいい。この二、三日は、わけて気分がいい」  と、笑ってみせた。  顔いろもよし、気分もこの二、三日は、わけて快いという。  そういう今朝の兄をながめて、おゆうは無上に欣しかった。しかし、またふと、淋しくもあった。  なぜならば、 (所詮、根治するとまでは、おうけあいいたしかねる)  と、これはいつか、そっと医者から戒告されていたことばである。  何かにつけて、それがすぐ胸をかすめるからであった。  けれど彼女は、ひとりこうきめている。──不治の病と医者にいわれながらも癒ったひとの例はいくらでもある。自分の真心と、不断の看護をもって、きっとこの兄を、もういちど健康にしてみせる。 いまは、そもじの御つとめ、それ唯ひとつと、丹精くれぐれたのみ入候  とは、ついきのうも、播磨の陣から彼女の許へ来た消息に見える秀吉のことばだった。 「お兄上さま。このぶんで御快方にむかえば、さくらの咲く頃には、きっとお床上げができましょう」 「ゆう……」 「はい」 「心労をかけたな。おまえにも」 「なんの……。またにわかに改まって、お兄上さまが、何を仰っしゃるかと思えば」 「は、は、は」  病者の笑いには力がない。半兵衛は愛しげな眼を凝らして、 「兄妹であるがために、却って日ごろは、ありがたいということばすらいったためしはないが、何か、改まって、今朝は礼を云いたくなった。……これも気分がよいせいであろう」 「それなら欣しゅうございますが」 「顧みれば、もう十年の余になるな、菩提山の城を去って、故郷栗原山の山中にかくれた時から」 「月日のはやさ。ふり顧ってみると、何もかも夢のようでございます」 「すでにその頃から、山中人のわしの側にあって、朝夕の炊ぎ、身のまわりから薬の世話まで、みなそなたがしてくれていた。思えば長いあいだの苦労を」 「いいえ、それもわずかの間でした。お兄上さまは、あの頃からよく、わしの病は癒るまいと仰っしゃっていましたが、それがたちまち御快方に向うと、秀吉さまの帷幕に参じて、姉川の戦、長篠の戦い、さては越前へ、大坂へ、また伊勢路へと、御合戦のやむ間もない年々を、あんなお元気にお過し遊ばしたではございませんか」 「そうだったなあ。……この躯でよくも耐えたと思うこともあった」 「──ですから、こんども御養生ひとつ、きっと癒ります。もとのお体になるにきまっております」 「死にたくはない」 「そんなことがあるものではございません」 「──生きていたい。生きてこの激しい世のなかの落着くさまを見とどけたい。また、かりそめならぬ主従の縁にむすばれた秀吉様の将来をも……ああ、からださえ丈夫ならば微力のかぎりお扶けして参りたい」 「どうぞ、そうして下さいませ」 「……だが」  と、半兵衛はふと声を落して、 「どうにもならないものが人間の天寿だ。いかにせん、こればかりは」  無念そうに呟いた。その眸を見て、おゆうは、はっと胸をつかれた。なにか、兄はひそかに独り期しているのではあるまいかと。  南禅寺の鐘はのどかに午をつげている。戦国とはいえ、梅が咲けば、梅に杖をひく人影も見え、梅が散れば、梅に啼くうぐいすの声もする。  快いほうとはいいながら、夜に入ると、春もまだ二月、草庵の燈は、半兵衛の咳き入る声に、寒々と揺れた。  ためにおゆうは幾たびか、夜半にも起きて、兄の背をさすり明かした。──ほかに家来もいるが、半兵衛は、 「彼らは一朝自分が戦場にのぞんだとき、自分の馬前を駈ける人々。病骨の背なかなどさすらせては勿体ない」  と気がねして、どうしても、家来の手にはそういうことをさせないのである。  その夜も、彼女は起きて、なおも兄の背をさすったり、台所へ通って、薬を煎じたりしていたが、ふと、板戸の外で、  ──ばりッ  と、垣根の古竹を踏み折るような音につづいて、何かひそかに囁きあう声がしたので、ぎょっと耳を澄ましていた。 「……お、燈火がもれています。お待ちなさい。誰か起きておりましょう」  外の人声は、やがて軒下に寄って来た。そして軽く、雨戸をたたく。 「誰じゃ?」 「おゆう様ですか。熊太郎でございます。伊丹へ参った栗原熊太郎、いま戻って参りました」 「おお。帰って来ましたか。──お兄上さま、熊太郎が帰って参りました」  弾んだ声で、彼女はこう奥の兄へ告げ、それから水屋の戸を引きあけた。  ひとりと思いのほか、三名の人影が星明りを塞いでいた。熊太郎は手を出して、おゆうから桶を借りうけ、ほかの二名を誘って、井戸のそばへ行った。 「……誰方であろう?」  彼女はそこに佇っていた。熊太郎というのは、半兵衛が栗原山に閑居していた頃から召使の童子として年来側近く育てて来た家来である。その頃は小熊と称していたが、いまはもう三十がらみの見事なさむらいとなっている。  その熊太郎が、釣瓶を汲みあげては桶へ水をそそぎ落すと、他の二名は、手足の泥や袂の血など洗い落している容子であった。  兄の半兵衛に命じられて、深夜ながら取り急いで、おゆうは小書院に明りを燈したり、火桶へ火を入れたり、客の褥をそろえたりし始めた。  兄のことばによると、 「熊太郎の伴れて来た客のひとりは、きっと黒田官兵衛どのだろう」  とのことに、彼女もすくなからず驚いた。去年から伊丹城の中に囚われて監禁されているとか、荒木の同類になって立て籠ったとか、いろいろ沙汰されている問題の人だからである。  公のことについては、まして機密な軍事にかかわる問題などは、日頃から家人にも一切何も語らない半兵衛であるので、おゆうにしても、栗原熊太郎が、去年以来、いったい何処へ何しに行って、長い間ここへ帰って来ないでいたか──その目的などもまるで知らないのであった。 「ゆう。わしの胴服を」  病間では、半兵衛が起き出て、衣服をかえていた。  案じられるが──おゆうは兄の性格として、どんなに病の篤いときでも、ひとたび床を出て客に接しるには、いつもそうある習慣を知っているので、 「はい」  と、胴服をそのうしろから羽織らせた。  病髪を撫で、口を嗽ぎ終えて、半兵衛が小書院へ姿を運んで行くと、家来の熊太郎と他の客ふたりは、すでに席について、物静かに主を待っていた。 「おうッ」  ひとりの客がすぐいえば、半兵衛も情感のこもった声で、 「やあ、御無事で」  と、答えながら、ひたと坐って、互いに手を取り合わんばかりだった。 「案じていたが」 「なんの、このとおりだ」 「──が、よくこそ」 「お身にも、心配をかけたそうな。その段、申しわけない」 「ともあれ、再会を得たのは、まことに天佑、めでたい。半兵衛にとっても、近頃のよろこび」 「いや、御主君や、尊公のお力によるものだ。忘れはおかぬ」  ふたりの歓び合っている様は、傍で見ている眼も熱くなって来るほどだった。──もう改めていうまでもなく、今宵のひとりは伊丹城から脱出して来た黒田官兵衛孝高だったのである。  ところで、最初から沈黙を守っているもう一名の年かさな武士は、ふたりの感激を妨げまいとさし控えているふうだったが、やがて官兵衛孝高にひきあわされて、こう名乗り出た。 「初めてお目にかかる気はいたしませぬ。てまえも羽柴家の一士で、いつも陣中ではおすがたを遠く見ておりました。──が平常はお味方の中にいることも少ない隠密組に籍をおいておりますので、或いはそちらではお覚えがないかも知れませぬ。蜂須賀彦右衛門の甥にあたる者で、渡辺天蔵と申します。以後はお見知りおきのほどを」  半兵衛は、膝を打って、 「やあ、渡辺天蔵どのとは、あなただったか。かねがねよくおうわさは聞いていた。……そういわれれば、どこかで一、二度は、お見かけしたこともあるような」  その間へ、家来の熊太郎が、末席からこう話をつないだ。 「実はゆくりなくも、伊丹の城中で、同じ目的の下に入り込んでいた天蔵どのと、城内櫓下の獄舎の前で出会うたのでございました」  すると、天蔵も、 「いやまったく、偶然といおうか、神の御加護と云いましょうか、図らずも、こちらの熊太郎どのと出会ったため、あの重囲の中から、辛くも官兵衛どのの身を救出することができました。もし、拙者ひとりか、熊太郎どのお一人だったら、或いは途中で、斬り死にしていたかも知れませんな」  相顧みて、莞爾とした。  ここにおいて、事情はあらかた明らかになっているが、なお云い足すならば、黒田官兵衛の救出については、秀吉のほうでも、今日までさまざまな苦心を重ねていたものであった。  或る時は、人を派して、荒木村重に彼の身の引き渡しを乞い、或る時は、村重の信ずる僧侶を入れてそれとなく説かせてみたり、手段をつくしたが、頑として、官兵衛の身は返されない。  この上は──と最後の手段を命じられたのが、渡辺天蔵であった。天変、兵変、火変、何か城内に虚の起る機会を待って、獄中の官兵衛を助け出せ──といいつけられたものである。  天蔵は城内に忍びこんで、その機会を待っていた。──と、つい二、三日前の夜、何か祝い事でもあったらしく、荒木村重の一族と将士は大広間に、また士卒にも残らず酒が振舞われた。折ふしその晩は、月もなく風もない暗い夜なので、 (こよいこそ)  と決行を計って、かねて目をつけておいた櫓下の大牢の外へ這いよってゆくと、そこに番人とも見えぬ男が、やはり自分のように忍びよって、しきりに牢内を窺っている。  怪しんで、初めは、もちろん油断せずに、測り合っていたが、どうやら城方の者でないらしいので、名をあかし合ってみると、 (自分は、竹中半兵衛の家来、栗原熊太郎)  と、先もいい、彼も、 (羽柴筑前守様のしのびの者)  と名乗ったばかりか、ここへ来た目的もまったく一つだと知れたので、互いに協力し始め、牢窓を破壊して、中なる官兵衛孝高を助け出すと、闇にまぎれて、城壁をこえ、石垣を辷り降り、水門口の小舟をひろって、濠を渡って逃げて来たものであった。  ──つぶさにそうした経路や苦心を聞いて、半兵衛は、 「熊太郎に、無理に命じたものの、成るか成らぬか、十中八、九までは、難しい望みと案じていたが──かく成就したことは、まったく神明の御加護とただありがたく思われる。……して、その以後の数日は、どうして過し、どうしてこれまで辿りついたか」  と、なおも熊太郎に向ってたずねた。 「さればです──」  と、熊太郎は功を誇るような顔もせず、畏まって、 「割りあいに、城外までは、難なく脱出しましたが、それからの方が難儀でした。諸所の木戸や柵に荒木勢が野営しているのです。ために、幾度か取り囲まれて、時には敵の刀槍の中で、ちりぢりに分れかけたりしましたが、ようやく斬り破り斬り破り逃げおわせはしたものの、その間に、官兵衛様には、左の足の膝がしらへ、一太刀うけておいでになり、跛行をひいて駈けるため、遠走りはできません。やむなく、農家を叩いて、納屋に寝たり、夜は這い出て、道ばたの堂にやすんだりして、やっと京都まで参りました」  と語り終るとすぐ、後から官兵衛自身が云い足した。 「なに、そうまでせずと、城を遠巻きにしておる織田軍の中へ逃げこめば、もっと楽に救われたろうが──城中で荒木村重からたびたび聞かされたことばによると──信長公にはこの官兵衛をいたく猜疑しておられるとか。──村重はそれを頻りにいって、自分に加担しろ、信長とはそんな人なのだ──と度々口説きおったが、自分として彼らの詭弁と一笑に附しても正直、かくまでの事情とも御存じなく、お疑いをかけられるとは、いささか心外でないこともない。……で、わざと寄手のお味方へ救いを乞うことを避けて、この京都までやって来た。何はともあれ、貴公のお顔も見たいと思って」  彼はさびし気に微笑した。半兵衛も、黙然、うなずいた。  問いたいこと、語りたいこと、互いに相尽すと、夜は白みかけていた。おゆうはもう朝の雑炊を台所で炊いていた。 死後の花見  語り明かした面はみな疲れていた。朝餉をすますと人々は少し眠りをとった。そしてふたたび覚めてからの話である。 「時に」  と、竹中半兵衛は、孝高へこう計った。 「ちと遽かだが、それがしは今日ここを立って、美濃の国許へまかり越え、その足ですぐ安土へ伺い、信長公の御処分をうけようと思う。──貴公のことは、自分からよろしく披露申しておけば、これより直ちに播州へ下られては如何か?」 「もとより拙者も、一日たりと安閑としている気はないが……。しかし」  と、官兵衛孝高は怪しむように、半兵衛の面を見まもった。 「まだ病中のお体で、急に旅へ立たれなどして、どうあろうな。お国許へとあれば、行く先に心配はないが」 「いや、きょう限り、病褥をあげて起きるつもりです。病に負けていては限りもなし、気分もここ数日来ずっと快い」 「──が、病の仕上げは、そこが大事と、よくいうこと。いかなる急用がおありか知らぬが、もう少し怺えてここに療養しておられてはどうかな」 「心のうちでは、この春と共に、もっと早く病間を出たいと念じていたのですが、実は、貴公の安否が分るまでと、心待ちに、旁〻、身の養生をもきょうまで長引かせていたところです。かく御無事を見とどけたうえは、それに懸る気残りもなし、同時に、安土城へ伺って、御処分を待たねばならぬ科もござれば、きょうこそ病褥あげの吉日、ここでお別れ申すことにする」 「安土の御処分をうけねばならぬ科とは? ……それは一体何事かな」 「まだ、おはなし申してないが、実は……」  と、半兵衛は初めて、去年から信長の命を拒み、今日まで敢えて「違背の罪を冒して来た事情」を彼にはなした。  官兵衛孝高は愕いた。何もかも初耳であった。自分の行動がそれほどまで信長に疑われていたことも。また、その嫌疑のために、わが子の松寿丸へ打首の厳命が出ていたことなども──まったく夢想もしていないらしかった。 「……そうだったか」  と、唸きのなかに、孝高はふと信長に対して、冷やかな感情の空虚を覚えた。単身、伊丹城へ入って、九死の中から一生をひろって帰って来たようなこの苦心も──それは帰するところ誰のためか。そう思うことをどうしようもない。  また、その反動には秀吉の深情や、半兵衛の友情に、瞼の中を焦かれるような涙をもたずにいられなかった。 「──では、安土へ行くと仰せあるは、信長公に謁して、その罪を自首する思し召ですか」 「さよう。かねてから期していたこと。──併せて、貴公のご潔白も申しあげるつもりです」 「かたじけないが、何で、この官兵衛の子のために、貴公を罪の座へすえられよう。その儀なれば、黒田官兵衛自身、安土へ参上して、一切を申しひらく。あなたは、ここにおいで下さい」 「いや、君命を拒んで今日に至った罪はそれがしにある。御身の知ったことではない。……ただ貴公に委嘱しておきたいことは、播磨の御陣にある秀吉様の傍にあって、この上とも、良い輔佐となっていただきたいことしかない。──罪を得るも、まぬがるるも、いずれにせよ、この病身、世に長い半兵衛とも思われねば、どうかくれぐれもお身に頼んでおく。一刻も早く、播磨へ下っていただきたい」  頼むように、半兵衛は友へ向って、両手をつかえた。  病人とはいうが、その病人の決心である。まして熟慮に欠けることのない半兵衛重治でもあった。云い出しては、断じてひかない。  ついに、官兵衛孝高も、 「それほどまでに仰せあるなら──」  と、彼の意に従わざるを得なかった。  その日。  友は東西に袂を別った。  官兵衛孝高は、すなわち渡辺天蔵をつれて、播磨の陣へ。  また、竹中半兵衛は病躯をおして、国許の美濃不破郡へ。──供には栗原熊太郎一名をつれたきりで、余の者も、妹のおゆうも草庵にのこして立ってしまった。  その兄の立つのを、おゆうは南禅寺の門前で泣きながら見送った。もうふたたび帰って来ない兄と思うて泣くのであった。共に見送っていた僧侶たちが、 「果敢なきおなげき」  と、しまいには倒れかかる彼女を抱きかかえるようにして山門のうちへかくれた。  半兵衛とても、おそらくは同じ思いを──いやより以上悲痛なものを抱いていたにちがいない。  急に調えた黒鹿毛の鞍も古びて佗しげな背にゆられながら、蹴上までかかると、思い出したように、彼は手綱をとめて、 「熊太郎」  と、馬の口輪をのぞき下ろした。 「──云いわすれたことがある。一筆ここで認めるゆえ、ちょっと走り戻って、ゆうに手渡してくれい」  と、いった。  懐紙を出して、馬上のまま彼は何か走り書した。それを文結びにして、 「わしは、ぼつぼつ先へ行っているぞ。あとから来い」  と、熊太郎に促した。  熊太郎は、それを預かると、畏まってすぐあとへ駈けて行った。半兵衛はもういちど南禅寺の境内を見下ろしていたが、 「──ああ、誤らした。自分の踏んで来た道には、毛頭悔いはないが、妹には、女の道を」  と、愁然、口のうちでつぶやきながら、駒の歩むにまかせて行った。  さむらいの道は一筋だ。かつて栗原山を下りて以来、目ざして来たこの道にくるいはない、悔恨はない。たとえ今日、人生を終るまでも。  けれど彼として──いや兄として、たえず心ぐるしく思われて来たことは、妹のゆうが秀吉の側室にいることだった。それは自然といえば極めて自然なうちにそうなって来た運命ともいえるが、彼の潔白がゆるさないのである。また、兄としての責任感にもたえず責められてならないのだった。女の道をえらぶ大事な頃を自分の側においておきながら──と。  しかしそれもはや十年のむかしに遡る悔いである。罪は自分にあって妹にはない。けれど自分のないのちはと、ひそかに妹のあとの半生をなお案じるのだった。  所詮は終生の栄華でもなし、女の不幸にきまっている。ことに心ぐるしいのは死を賭している士道の純白にも何か一点の汚染がのこるような気がするのだった。幾たびかこのことについては、主君におわびをして暇をもらおうか、妹に苦衷を打ち明けてどこかへ姿でもかくしてもらおうか、愚痴に迷ったこともあるかしれないが、つい適当な機会もなく過して来たものだった。 「……が、今は」  と、彼もきょうの出立を、帰らない旅としているので、それが妹にいえる気がした。あのいじらしい姿を見ては、やはり云いかねていたが、一筆歌に寄せていうことなら。  おそらく妹は歌の意をすぐ酌んでくれるだろう。そして自分のないのちは、兄のあとを弔うことを口実にして、蔓草の垣にも似ている閨門の花々の群れから脱れてくれるだろう。 「いまは何の心のこりもない」  この日の偽りない半兵衛の心境はそうであった。遅々、春の日は、まだ山科あたり、陽は舂きもしていなかった。  所領地の不破へ帰り着くと、半兵衛重治は、その一日を祖先の展墓にすごし、また一刻を、菩提山に佇んで、 「あの山も、この河も」  と、なつかしげに故郷の天地と語っていた。  久しぶりの帰郷ではあったが、長居は気もちが許さない。──今朝は起き出るとすぐ髪を結い、また病のため滅多にしない湯浴みをもして、 「伊東半右衛門をよべ」  と、命じた。  菩提山の裾野にも、城中の樹々の間にも、鶯の音がしげく聞える。また、どこかで小鼓も聞える。 「半右衛門にござりまするが」  白いふすまを背に、やがて豪骨な老武士が手をつかえていた。質子の目附兼傅役として松寿丸に附けてある者だった。 「半右衛門か、寄れ」  眼でさし招いて、 「かねてそちだけには、詳しく告げてあるが、いよいよ質子の於松(松寿丸のこと)どのを、安土へ伴れねばならぬ日が参った。今日にも打ち立つ所存。急ではあるが、その方より附添の衆にも申し告げ、すぐお支度あるように伝えよ」  主人の苦衷も事情も、よく弁えている半右衛門ではあったが、さすがに顔色をかえて、 「えッ。……では、どうしても於松様のお生命は」  と、鬢にふるえを見せた。  半兵衛は、笑って見せた。安心を与えるように、至極平静に、 「否。お首にはせぬ」  そしてなお云いたした。 「半兵衛の身にかえても、信長公のお怒りは解いてみせる。於松どのの父官兵衛には、はや伊丹を脱出して、播磨の御陣へ参加しておる。無言の潔白は示されたというものじゃ。──ただ残るものは君命を違背したわしの罪があるのみ」  半右衛門は黙然とそこを退って彼方の子ども部屋の方へ足を運んで行った。近づくとそこでは鼓の音だの嘻々として騒ぐ少年の声が賑やかにしていた。  松寿丸を中心に、舞の上手な幸徳という小坊主やら、家中の少年たちが、鼓を打って戯れているのだった。  竹中家では、数年来預かって来た松寿丸の身を、人質とも思われないほど優遇して来た。日常の教育、健康その他、わが子以上な愛育へ、より大きな責任感をも抱いて守り育てて来たものであった。  黒田家の方からは、井口兵助、大野九郎左衛門の二名が、附添って来たが、なお竹中家からも家臣伊東半右衛門を侍け、協力的にこの一子を珠の如く磨いていた。  そうした竹中半兵衛の好意の下に、きょうまでは、深い仔細も知らずに来た傅役たちも、いま半右衛門の口から、 「すぐお旅立ちの御用意を」  と、促されると、愕然、顔いろを失った。──秘されてはいたものの薄々の事情は察していたからである。 「では、安土へ?」  と、傅役の井口兵助と大野九郎左衛門が、絶望的な顔を見あわせて嘆息するのを、半右衛門は、 「御心配には及ばぬ。たとえ安土へおつれ申そうと、主人重治様の義心を固くお信じあって、何事もおまかせあるがよろしゅうござる」  と、しきりに慰めていた。  何も知らぬ松寿丸は、小坊主の幸徳や大勢の少年たちと、鼓を打ったり舞ったり、嘻々として遊びくるっていた。  松寿丸は、ことし十三歳。松千代とも、於松どのとも呼ばれている。  のちの黒田長政は、この少年だった。──他家の質子とはなっても、父孝高の剛毅と、戦国の骨太な育成に生い立って、すこしもいじけた子となってはいなかった。 「兵助、何だ。半右衛門が、何をいったのか」  鼓をおいて、於松は、井口兵助のそばへ駈けて来た。もうひとりの傅役、大野九郎左衛門と彼とが、顔見合わせたまま、何か、嘆息しているのを見て、子ども心にも、 (何か起ったか?)  と、心配を抱いてのことらしかった。 「いや、さして、ご心配なことではありません」  と、二家臣は、問わず語りにまず宥めて、 「すぐ旅立ちのお支度を遊ばして半兵衛重治様とともに、安土へおいでになるのです」 「たれが」 「和子様が」 「わしも行くのだって。……あの安土へ」 「はい」  ぽろぽろと泣いて顔をそむける傅役の二人を、於松は見てもいなかった。聞くと共に、おどり上がらぬばかり手を打って、 「うれしい。ほんとか」  座敷の方へ駈けもどっていた。  そしてお相手の少年や、小坊主の幸徳などへ向って、 「安土へゆくのだ。ここの殿とご一しょに、旅へ立つのじゃそうな。──もう踊りは止めた、鼓もやめた。仕舞え仕舞え」  それから大声してまた、 「兵助、九郎左。衣裳はこれでよいのか」  と、身支度を促した。  そこへ伊東半右衛門が来て、 「湯浴みをして、髪もきれいに束ねてさしあげるように──と、殿からのお気づけでございます」  と、注意した。  二臣は、於松の君を、湯殿へ誘った。そして風呂に入れ、髪もきれいに結い直して、門出の晴着にと、竹中家から贈られた衣裳を着せてみると、肌着も小袖もすべて純白な死に装束であった。 「──さてはやはり、半右衛門どののはなしは、われらを狂気させまいと、一時のなぐさめで、まことは信長公の面前で、お首になさるおつもりであろう」  ふたりは、そう解して、悲涙にくれたが、於松はすこしも頓着なく、白装束を着て、その上に、それだけは華やかな赤地錦の陣羽織に、唐織の袴をはいた。  白い小袖の上に重ねた赤地錦が、いとど美しく見えた。また、その紅顔の粧いが、さらに二臣の涙をそそった。身ぎれいにすると、二臣に連れられて、於松は、竹中半兵衛の部屋へ行った。半兵衛はすでに立つばかりに支度して、彼を待っていた。  立ち振舞──と称して、極く内輪だけで、小酒もりが交わされた。 「御飯をたくさんに食べて行かれよ。馬でも、旅は腹のすくもの」  と、半兵衛にいわれて、 「はい。ではもう一膳」  と、於松は元気に食事をすまし、飽くまで機嫌よく、家臣の泣き顔などは、まったく眼もくれずに、 「さ。参りましょう」  と、二度も半兵衛を促した。 「行って来るぞ」  半兵衛は、ようやく立った。──立って座中の一族や旧臣を沁々と見おろしながら、 「あとは、頼むぞ」  と、いった。  後に思いあわせれば、あとは──といったこの短いことばの中に、彼の万感と、死後の委嘱は、すべてこめられていたのであった。  姉川の戦いにも、またその以後も、殊勲のあるたびに竹中半兵衛は信長から幾度となく、恩賞も授かっているし、目通りも得ている。 (秀吉から聞けば、そちは秀吉の臣たるのみでなく師とも仰がれておるそうだが、信長もおろそかには思わぬぞ)  とは、かつて、姉川の役に、半兵衛の殊勲が聞えたとき、直接、信長から彼にもたらしたことばだった。  ──で、岐阜以来、登城も目通りも、直臣の格に扱われていた。いま安土の城へのぼって来た半兵衛重治は、側に、官兵衛孝高の嫡子於松をひきよせ、病後──いや病中とて、疲労は面にあらわれていたが、いつにない盛装をして、一歩一歩、鷹揚に御座之間のある楼上へ通って行った。  前夜、届けがあったので、信長は待っていた。  半兵衛を見るとすぐ、 「めずらしや」  と、いい、機嫌うるわしく、 「よく見えた。もそっと、間近う寄れ。ゆるす、褥をとれ。たれか半兵衛に敷物を与えい」  などと破格な宥わり方で、なお遠く平伏したまま恐懼している半兵衛の背へ、 「病は、もう快いのか。播磨の長陣では、心身ともに疲れたことであろう。信長から診せに遣わした医者のことばには、当分、戦場は無理、少なくもなお、一、二年は静養を要すると申していたが……」  かくばかり臣下に対してやさしい言葉をかけた例は、ここ二、三年来、珍しいことであった。半兵衛重治は、何か、欣しいとも悲しいともつかない戸惑いを心におぼえた。 「勿体ないお宥わりです。戦いに参っては病躯、陣後に帰っては、碌々御恩に浴すのみで、何ひとつ、御奉公らしいこともならぬこの病骨へ」 「いやいや、大事にしてもらわねば困る。第一には、筑前の力落しが思いやらるる」 「そう仰せ下されては、半兵衛、身の置きどころもございませぬ。本来、ここへ罷り出るさえ恐れある面を冒して、今日、お目通りをねがい出ましたのは、すでに去年──佐久間信盛どのをもって、わたくしまでお沙汰を下しおかれました、松寿丸どの打首の儀を、わたくし一存にて、今日まで」  云いかけると、 「待て待て」  信長は、遮って、半兵衛のことばなど、耳にもおかず、その傍らに、半兵衛とならんで手をつかえている少年へ、 「それか。於松とは」 「……御意にございまする」 「ううむ、なるほどのう。官兵衛孝高に似て、童形ながら、どこか違ったところが見える。たのもしい少年。──半兵衛、この上とも、愛しんで与えるがよい」 「では。……於松どのの首は」  半兵衛は、胸をあげて、信長を凝視した。もし今なお、この少年を打首にせよと、信長が云い張った場合は、死を賭して、その愚を諫め、その非を説破するの覚悟でこれへ来た彼であったのである。  ──が、信長には初めから微塵そんな気色がないばかりか、いま半兵衛から直視をうけると、突然、哄笑して、自分から自分の愚をかくしもせずこういった。 「そのことは、もう忘れてくれ。実は信長自身、あとではすぐ後悔しておったのだ。なんと、わしは邪推ぶかい漢よ。筑前に対しても、官兵衛孝高に対しても間のわるいことではある。──しかしさすがは叡智な半兵衛重治、よくぞ予の命を拒んで、於松を斬らずにおった。よくこそと、実はそちの処置を聞いて、胸なでおろしておったのである。──何をか、汝に罪ありと問おうや。罪は信長にある。ゆるせ、信長の至らなかったことを」  頭こそ下げないが──手こそつかえないが──信長は正直にいって、はやくその問題から話を逸らしたいような顔をした。  ──けれど半兵衛重治は、信長のゆるしに、易々として、甘んじるふうはなかった。 (忘れおけ。水に流そう)  信長はいったが、半兵衛は、むしろ歓ばない容子を示して、 「一たん仰せ出された儀を、このまま有耶無耶に過しては、あとあとの御威令にもかかわりましょう。父孝高の潔白と功に鑑み、松寿丸の打首は免じるが、然るべきよう子としても証を立てよ。また、この半兵衛が御命を違背した罪も、同様、みずから寸功をたてて償うべし──と、かように御意下されば、これに越す君恩はございませぬ」  と、心底のものを吐露するように、ふたたび平伏して信長の公明な仁恕を仰いだ。  もとより信長の気もちも、そうありたかったことである。半兵衛はあらためて、信長からその寛大を得ると、 「ようお礼を申しあげなさい」  と、傍らの於松へささやいて、臣礼を訓え、そしてまた信長に向っては、 「両名とも、或いは、これが今生のおわかれとなるやもしれませぬ。弥栄の御武運を祈りおります。今日は先もいそぎますれば、これでお暇を」  と、いった。信長は、解し難い顔をして、 「今生のわかれとは異なことをいう。それでは重ねて予の意に反くというものではないか」  と仔細を追求した。 「決して──」  半兵衛は、顔を振って、傍らの於松の扮装へ眼をそそぎながら、 「ごらん下さい、この和子の身支度を。すぐここより父孝高のいる播磨の陣へ参って、父に劣らぬ勲を立てて、華々と生死の関頭に、将来の命数をまかせる覚悟にござりまする」 「なに、では戦場へ行く気か」 「孝高も名ある武士、於松もその人の子。ただ御寛仁にあまえているも本意ではございますまい。──こう察して、半兵衛の取り計らったことでございます。ねがわくば、この少年の初陣のために、ひと言、勇ましく働けと、お励ましを賜わるなれば、どんなにありがたいことかわかりません」 「ううむ。……してそちは」 「病躯、何ほどの力も、お味方の足しとなるまいかに存ぜられますが、ちょうどよい折、於松を伴れて、ともども、帰陣の考えにございまする」 「よいのか。体のほうは」 「武門に生れて、しかもこのような秋、畳のうえで死ぬるのは、何とも口惜しゅうございます。薬餌に親しんでいても死ぬときには死なねばなりません」 「そうとは気づかなんだ。それまでの覚悟とあれば……。そうだ、於松にも、初陣を祝ってやろう」  信長は、少年の眼をさしまねいて、手ずから備前兼定の脇差を与えた。また家臣に命じて、勝栗土器をとりよせ、酌み交わして、 「めでたい。曠々とゆけ」  と、餞別けした。  少年十三、決して、早くはない初陣である。於松は、きょうここへ登城する前夜、半兵衛からよく嗜みをうけていたので、敢えて驚きもしなければ、また特にはしゃぎもしなかった。  しずかに、礼儀をして、半兵衛とともに君前を退って行った。信長は楼上の欄へ出て、その小さいすがたと半兵衛の影が城門を出てゆくまで見送っていた。  あくる朝、播磨へ向うべく、安土を早く立った。京都を通った。南禅寺の屋根は蹴上からその森を見下ろしただけで、遂に立ち寄らなかった。  半兵衛の心には、もう妹のことも国許のこともなかった。あるはただ戦陣のことだけだった。楽しみは、何事も、 (──死後の花見)  と期する百年の後にしかなかった。 有馬の湯  有馬の温泉町は暮れかけている。池之坊橘右衛門の湯宿へ、いま、ふたりの武士がそっと入った。  ひとりはただの旅すがた、ひとりはひどい跛行である。衣服も粗末、垢じみているどころか、側に寄ると臭いほどだった。 「すぐ寝床をひとつ展べてくれい」  部屋にすわると、宿の者へ、ひとりがすぐいいつけた。──跛行の男は、すぐ身を横たえた。 「いたみますかな」 「……どうやら、熱を持って来たらしく、膝ぶしの傷口が、火でもあてているように感じられる。はて、残念な」  跛行の男は、数日前、南禅寺の一庵で、竹中半兵衛とわかれて来た官兵衛孝高なのである。──あれまでは、襤褸を巻いているだけで、苦痛も傷口の大きさなども、さして意に介してもいなかったが、播磨へと志して、数里、歩き出してみると、まったく歩くにも耐え難いほどな激痛に襲われ出した。  伊丹城から脱出した晩、暗夜のなかで、何者とも知れぬ敵に一太刀薙ぎられた左の脚の関節部だった。……そっと、襤褸をめくってみると、血膿をふくんだ傷口は大きく口をあいていた。柘榴の胚子のように白い骨が見えるほど深さもふかい。 「このまま、陣中へ行かれても、どうにも、お手当の仕方はありますまい。むしろ、日は遅れようとも、有馬の湯につかって、しばし、御養生の上行かれては」  同行の渡辺天蔵が、しきりにすすめたのである。──考えてみると、身動きもままならぬ体を運んで途中、哨戒のきびしい兵庫街道あたりで、再び荒木勢に捕まるなどは愚な沙汰である。こういう愚は決して勇気ともいえまい。 「そうしよう」  官兵衛は、伴れのすすめをすぐ容れて、道をかえた。──それにしても、この有馬の温泉町へはいるには、細心な警戒を要した。何分にも、いたる処、荒木方の哨兵がいたり、木戸があったりするからだ。  着いた翌る日である。  池之坊の門口へ、ひとりの町人が佇んで、宿の女をつかまえ、何か、世間ばなしをしている。  外から戻って来た渡辺天蔵の耳に、ちらと、いやな言葉が入った。女へ、町人が訊いているのである。 「……いや、たしかに、いるだろう。町の衆から聞いているよ。きのう黄昏、跛行をひいた汚い客が泊ったと」  すれちがいに、天蔵の姿を、女は見ぬふりをして見送っていた。着くとすぐ宿の主へ、天蔵から口止めしてあるので、女は、答えに困ったものらしい。  天蔵は、部屋にはいると、蒲団の中の顔をのぞいて、 「どうです、昨夜、今朝と、まだ二度ほどの入浴では、効き目もありますまいが、すこしは楽になりましたか」 「む、む」  と、枕の上から振り向いて、 「だいぶ楽だ。温泉は効くものだな」 「せっかく、お楽になったところを、酷い気がいたしますが、今夜はここを立たねばならぬかと存じますが」 「なに。……ああそうか。嗅ぎつけて来たのだな」 「どうも、そんな気ぶりが」 「ぜひがない、いつでも立つ。決して、足手まといに考えてくれるな。いざとなれば、片脚ぐらいはなくても駈けるよ。ははははは」  障子の外に、人の気はいがした。天蔵はすぐ向き直った。官兵衛は手をのばして、刀を蒲団の下へ抱き入れた。 「ごめん下さいまし……。さだめしご退屈でございましょう」  宿の召使である。茶盆と共に膝を入れ、すぐ茶を汲みながら、世事ばなしを始めた。──が、ふたりとも、何か油断のならないものを、なお障子の蔭に感じていた。 「誰だ? ……。まだ外に、誰かつぐなんでおるようではないか」  官兵衛は、ふいに、そう咎めて宿の手代の顔いろを見た。 「はい、実は」  と、手代は、云い難そうに、 「どうしても旦那さま方へ、会わせてくれというて、肯かないものでございますから」  そういってから、障子の外の中縁へ首をさし出し、 「新七さん、おはいりよ。何をここへ来てから、もじもじしていなさるのじゃ」  と、いった。  さっき渡辺天蔵が門口で見かけた町人である。図々しく来たなと天蔵は眼をかがやかした。しかし、案外な気がふとしなくもなかった。というのは、 「はい。……ぶしつけに。……せっかくお休みのところへお邪魔しまして」  と、おずおず入って来たのをあらためて凝視すると、あながち荒木の部下が変装して来たというようなするどさは見えない。その道にかけては、多年、天蔵自身こそ本職であるから、いま一見すると、 (これは自分の勘ちがいであった)  と感じ、すぐ疑心を訂正していた。  で、それを官兵衛にも気づかせるように至極気らくに、 「さあ、入るがいい。その方もこの宿で入湯中のものか」 「いえ、伊丹の御城下におりまする銀屋新七という者でございます」 「なに、伊丹の者?」 「はい。釵や小金具などの、金銀の細工物をしておりますので」 「ふム……。して何ぞ、この方たちへ、細工物でも誂えてくれとでも申すのか」 「それもございますが」  と、軽く笑って、宿の召使へ、そっと包みらしいものを与えていた。そして耳のそばへ口をよせながら、 「お頼みだよ。いいかね」  とささやいた。  手代はうなずいて、すぐ立ち去った。いよいよ解せない町人と、官兵衛はにらまえていたが、銀屋新七というその男には、少しも暗さが見えなかった。 「さあ、これでいい。どうぞお両方も御安心くださいまし。もう人目はございませんから」 「いったい、そちは何者だ」 「さきほども申しあげました──伊丹の新七と申しまする」 「うそであろう」 「どうしてですか」 「そちのような町人に、何の縁故もない」 「いえ、大ありです。……場所が場所、人目もあるので、さきほどから不作法のみいたしておりますが、そちらにおいで遊ばすのは、播磨の小寺政職様の御家臣、官兵衛孝高様でございましょう」 「なにッ」  天蔵が、刀をよせて、眼からくわっと殺意を放つと、新七は、初めて跳びあがるばかり驚いて、官兵衛の夜具のすその方へ逃げまわりながら、 「お、おゆるし下さい。い、いけなかったら、もう、な、なにも申しません」  と平伏したまま、ふるえ抜いていた。 「いや、斬りはしない」  と天蔵は、無意識に出た自分の身構えを、自分で笑い消しながら、 「どうしてそれを知っているのか」  と、穏やかに訊ねた。  新七はしばらく口の渇きに口もきけない顔つきだったが、やがて横を向くと、懐中をひらいて、肌の奥から一通の書面をやっと取り出した。  封をひらいて、読み下していた官兵衛の面には、驚きと、涙とが、交錯していた。  黒田家の臣、母里太兵衛、栗山善助、井上九郎の三名が連署の書面だったのである。  書面の内には──  殿、伊丹の城中に、御幽囚をうけて以来、われわれ三名、いかにしても、お救い申しあげんものと、早くから城下の一商人銀屋の奥にかくまわれ、機を伺うこと半歳、ついに目的を達して、城中のさる者に賄賂を送り、村重誕生祝いの夜、城内より放火させ、お身近まで忍び入りましたところ、こはいかに、すでに獄舎は破れ、あたりは火ばかりで、おすがたは見あたりません。  さては、村重が手早く、お体を他所へ移し去ったものかと、一時は悲嘆絶望のあまり、三名刺し交えて死なんかとまでいたしましたが、その後、城内でもお行方をしきりに厳探中と聞え、さては、無事に他へお逃れあったか、さすればわれわれの苦心もむなしからず──と、実は御武運の幸を祝していたところでした。  折も折、昨夕、お姿を変えて、有馬の湯へひそかに御潜伏と、新七よりの情報に、狂喜雀躍、すぐにもお宿へうかがい、お目通りをとも思いましたが、なおそこらは敵地に遠からぬ所、人目の憚りもあり、かたがた、ふいにお愕かせ奉るもいかがと弁え、わざと一応、かく書面仕りました。  つぶさなことはなお新七より直々お聴取りを仰ぎます。  というような文意であった。 「新七とやら。……この書面によれば、母里、栗山、井上の三人は、わしが伊丹の城中に囚われとなったときから、そちの奥にかくれて、苦心をかさねていたようだが……今なお三名はそちの家に潜んでおるのか」 「はい。たしかに、お城外へ無事にお逃げになったことは知れましたが、なお、はっきり御生死をつきとめぬうちはと」 「して、そちと、三人とは、どういう縁故から……?」 「母里太兵衛様には、てまえの妹が、御奉公中から嫁にゆくまで、並ならぬお世話になっておりましたので」 「……ああ、知らなかった。家来三人が、よそながらわしの身を救い出しに来ていたとは」 「ここへお泊りと聞いて、お三人様とも、飛び立つように、すぐお目にかかりに行くと仰っしゃいましたが、どうして、この有馬も油断はなりません。強って、てまえがお止め申して、実は瀬ぶみに参ったわけでございまする」 「そうか。……いや、よく注意してくれた。ここもなかなか人目は多い。わしが宿を立つまでは、近づいてくれるなと伝えてくれい。脚の傷口も癒えきるまでには日数もかかろうが、まず一時の痛みさえ歇んだら播磨へ立つつもりじゃ。ここ五、六日も湯に浸って」 「では、帰りまして、そのようにお伝えいたしておきましょう。しかし、よそながら御身辺は、きっと、お守りしておりますゆえ、まずまず、ここにおいでの間は、大事ないものと、御安心あそばして、ゆるりと御療治なされますように」  新七はそう告げると、長居を避けてすぐ帰った。  すると次の日、池之坊の斜向いにある温泉宿へ、三人づれの旅商人が泊った。表二階の障子をたてた部屋の内から、一人はかならず外を見張っていた。  七、八日目頃である。黒田官兵衛は、渡辺天蔵を連れて、池之坊の門口を出た。足の痛みもよほど快くなったとみえ、歩行にもさほど跛行をひいていない。町端れまで来ると、馬を雇った。そして官兵衛だけは馬の背にゆられ、六甲の麓を右に望みながら兵庫路へさして行った。  赤松の梢に、山藤の花が垂れていた。道はひくい山陰をめぐってゆく。ふと、官兵衛は馬をとめて、 「天蔵。この辺で休もうか。後の者が追って来たらしい」  と、云いながら、もう鞍を降りかけた。  おうーい、おうーいと遠く呼ぶ声がしている。渡辺天蔵にも聞えていた。またその声の主が何者かもわかっていた。  柔らかい春の陽を正面に、陽炎も立ちそうな崖の山芝を背に、官兵衛は、木の切株に腰かけていた。  わらわらと、そこへ喘ぎながら追いついて来た三名の旅人がある。どれもこれも、名乗り合わなければ知れないほど、顔も姿も変っている。みな黒田家の家来で、みな官兵衛の若年からそばに仕えて来た者たちではあるが──。 「おお」 「殿!」  官兵衛は、腰をあげて、突っ立った。──同時に、その足もとへ、三名の家来は、ひたと、ひれ伏していた。 「……御無事なお姿を拝しまして」  母里太兵衛、井上九郎、栗山善助──そう三人のうちの誰かが云ったが、嗚咽をのんで、辛くもしぼり出した声なので、それは低くふるえ、異様にかすれて、よく言葉の意味も聞きとれないほどだった。  しゅくしゅくと、三人はただ泣いていた。欣し泣きである。男泣きである。戦場に立っては、鬼神もひしぎ、家庭にあっては、平素でも、泣くことを知らないといわれている人々が、ほとんど、手放しで、慟哭していた。 「…………」  茫然、官兵衛孝高も、いうべきことばを知らなかった。欣しくもありまたすまなくもある。子飼のこの者たちが、きょうまで、陰にあって、これほどまで自分の救出に苦心していてくれたということを──いまは眼のあたりにある三名の変り果てた姿に見たからである。  三名とも、各〻、旅商人に身を窶していたが、その容貌までを変えるため、母里太兵衛は、片鬢の毛を、焼ごてで焼いて、わざと大きな禿をつくっていたし、栗山善助は前歯を数本欠き、井上九郎は、元々、片眼を戦場でつぶしていた勇士だが、そのうえに、面に焼きあばたを作って、ふた眼と見られない顔をしていた。  滂沱と、ふたすじの、白いものが、官兵衛の頬にもながれたとき、少し離れて、街道を見まわしていた渡辺天蔵は、 「てまえは、お先に参ります。はや御身辺も安心ですから、後よりごゆるりと」  と、告げて、先へ立ち去った。  官兵衛は、腰をおろして、さて三名にむかい、手をも取らないばかりにいった。 「よろこんでくれ、このとおり身はふたたび天日を仰ぐことができた。天まだ官兵衛を見すてたまわず、この官兵衛にも、なお世にあって、なすべき事あれとのおいいつけあったものと深く思うておる。──伊丹の獄中にあるうちは、よもそち達が、城下にあって、そのようにわが身のため、苦心していてくれておろうとは、ゆめ気づかなんだが……幸いに、秀吉どのから遣わされた渡辺天蔵と、竹中どのから向けられた栗原熊太郎の両人の手で救け出された。それもこれも、後に思いあわせれば、陰にあって、そち達が、あらゆる策を講じてくれたおかげであった。手をつかえて礼ものべたい。どう謝してよいか、ことばも見出せぬ。ただただこの至らぬ主人に対してそちたちの忠節は辱いと申すしかない。──ただこの後は、天意によって保ち得たこの余命を、いかに使うべきか、いかにそち達にも酬うべきか、それしか今は考えられぬぞ。ゆるせ、わしも泣かずにはおられん」  と、官兵衛は肱を曲げて、その面にあてると、ややしばし肩をふるわせて、共々に泣いていた。  剛骨な中には、柔弱な内よりも却って、多くの涙をたたえているものとみえる。有馬路の真昼、往来の人もたえて、ただ山藤の香いのみが高かった。 屍山血河  三木城は、今なお頑として陥ちずにある。  この小さい一山城に、別所長治、長定の兄弟とその一族がたて籠って、こう長期に頑張り得ようとは誰にも予測できないことであった。  包囲長攻をうけてから足かけ三年。秀吉の軍勢に、城外を遮断され、糧道を断たれ、完全な封鎖のうちに孤立化してからも──すでに半年以上。  どうして喰っているのか。  どうやって生きているのか。  城兵のうごく影を見、元気な声を遠く聞くたび、秀吉方の寄手は、 「奇蹟?」  と、呆れるしかなかった。いや時には、何か不気味な感じすらうけないこともない。  なぐっても、叩いても、蹴っても、どう締めつけてもなお動いている生きものと闘っているような根気負けが、ともすると却って寄手の方に生じて──それは著しく士気を沮喪せしめることがある。 「自分から焦躁りをみせてはならん。疲れてはならん」  全軍の上に立つ秀吉としては、ようやく倦み疲れやすくなっている士気に対して、細心な注意をしながら、しかもその細心をおもてに現わすまいと自戒していた。  しかし、長陣の窶れと、苦慮の憔悴は、唇のまわりの髭にも、落ち窪んでいる眼にも蔽い得ないものがある。 「あきらかに誤算をした。いくら持ち支えるとしても、こう長く陥ちまいとは思わなかった」  彼は正直にそれを自分でも認めている。そして、戦争というものが、必ずしも兵数兵理だけでは割り切れないもののあることを、今、痛切に学んだ。  糧道も断たれ、水路も塞がれ、外部ともまったく絶縁されている城兵約三千五百が、餓死に瀕するのはまずこの一月中旬と見ていたのである。それが月の末になっても陥ちない。二月にかかっても頑としている。いや三月に入り、今や四月というのに、何たることだ。城中の士気はいよいよ旺んなるものこそあれ、降伏して来るような気ぶりもないではないか。  勿論、食はあるまい。城兵は牛馬を喰い木の根も草も喰い尽しているにきまっている。──が、なお煌々たる士心の不屈さが、石垣一つ敵に渡さないでいるのは、そうなればなるほど、べつにまたいよいよ熾烈を加えてくる一心一体の闘志があるからにちがいない。  要するに、三木城の現在は、生命力のかたまりだ。これに対して糧道を塞ぎ水道を断っても、それが直ちに落城の極め手とはいわれない。いや却って城兵の団結と情味とを外から強めさせてやるような観をすら呈してくる。  過ぐる二月十一日の夜のごときは、そうした決死の城兵が約二千余り、死を決して志染川を徒渉し、秀吉の各陣所へ夜襲をかけて来たほどである。士気の壮烈なることは、以て、察しるに余りがある。  その晩の暗夜戦には、秀吉方もかなり手痛い損害をこうむった。城兵は暁になって、将士三十五人、卒七百八十の戦死体を収めて、意気揚々と引きとったが、寄手はそれに倍する死傷を与えられた。──朝の陽が峰のうえに昇ったとき、志染川の畔も、そこここの崖や谷間も、文字どおり屍山血河の惨状をえがいていた。  また、三月に入っては、こんなこともあった。  別所長治の家老、後藤将監の家来が約七十人ばかり、骨と皮のようになって、ひょろひょろ降伏して来た。粥など喰わせて、ともあれ陣中に捕虜としておいたところ、この捕虜は、やがて夜半となると、俄然、行動を起して、忽ち寄手の一塞を占領し、武器を奪い、火を放ち、追々勢いを加えて、あやうく平井山の秀吉の本陣近くまで猛襲して来たものである。  もちろんこれは忽ち数倍する兵力で包囲殲滅してしまったが、その戦闘精神の強靱なことと、士節の高い心根には、寄手の将士も舌を巻いて歎服し、死体はみな一つ一つ手厚く葬って、そこらの野辺の花など手向けられていた。  死にもの狂いな城兵の抵抗はこの程度には止まらない。  中村五郎忠滋は、別所家の侍だったが、寄手方の一将、谷大膳とは以前から多少縁故があったので、対陣のあいだにも、時折、歌など書いて示して来た。 「ははあ、さては?」  と、大膳は、彼に二心あるものと読んだ。──で、ひそかに密者を忍ばせて、 「城中から裏切して、この方の人数を手引きするなら、落城の後、羽柴様に願って、所領家名の安泰はもちろん、将来良きように取り計らうが」  と、もちかけてみた。  果たして、中村は同心して来た。けれど万々、念を入れて、谷大膳は、人質を要求した。  すると一夜、暗にまぎれて、 「これは、わが家の惣領娘、何とぞ、大事の終るまで、お手許に」  と、妙齢十六、七の眉目うるわしい処女を、そっと城中から送って来た。 「よし」  と、谷大膳は、以後、時期攻口など、万端ぬかりなく諜しあわせて、或る夜、尖兵一千余人、中村五郎の手引のもとに、三木川の対岸の崖からよじのぼり、首尾よく城壁のうちへ送りこんだ。 「火の手や揚がる?」  と、谷大膳を始め、寄手は固唾をのんで合図を待っていた。──ところが、火の手はおろか、内からの裏切はおろか、却って、城門各所、ひしひしと守りかためて、遂に夜の明けるまで、寄手は一歩も近づき得ずに終ってしまった。  しかも。──中村忠滋の手引きで先に城中へ入った一千余の将士はとうとう一名も生きて帰って来なかったのである。中に入るやいな、完封殲滅、文字どおり血漿の巨墳をそこに作ってしまったのであった。 「憎さも憎し!」  谷大膳は地だんだ踏んだ。秀吉の前へ出て、慚愧、詫びることばも知らず、 「大切なお味方を一千も亡くした罪、今さら申すことばもございません。ねがわくば、大膳がこの首を刎ねて、以後の士気をお奮い遊ばしてください」  と、哭いて云った。 「ばかを申せ」  秀吉は叱った。──この上にもまた、そちのような将を一人死なしてどうする、というのである。とはいえ、苦りきるほかはなく、 「人質の娘はどうした?」  と、たずねた。  大膳は答えていう。 「きょう三木川に引き出し、父の中村忠滋や城兵の遠見しているまえで、磔刑にしてくるる所存です」 「磔刑に」 「……なお飽き足りはいたしませぬが」 「いや待て、まずい」  秀吉は、急にいいつけて、中村の惣領娘を、本陣へ呼びつけた。  父から旨をいい含められて、これに来ているほどな処女である。死ぬものと、清々しく覚悟をしているらしい。秀吉は殺すにしのびなかった。  ──が、はたと睨みつけて、 「父の忠滋と肚をあわせて、わが兵をあざむいた憎い女子、首にして死骸は裏谷へ取り捨てろ」  と、近侍の者へいいつけた。  侍たちは、平井山の裏谷の上へ引っ立てて行った。秀吉はあとで、 「城兵にとっては可憐な女子。そのいじらしき者を、三木川で磔刑にしては、一層、城兵の結束と決死の気を強めさせるようなものになる。人知れず処置したほうが得策であろう」  と、大膳や味方の将に、意中をはなしていたが、実は、その間に、側臣の堀尾茂助をあとから裏谷へ追いかけさせて、その惣領娘は、遠く戦場の外へ逃がしてやっていたのであった。  このことは、誰も知らなかったが、三木落城の後、丹波で捕われた中村五郎忠滋の前に、その惣領娘を呼んで、 「そちに与える」  秀吉からひき合わされたので人みな初めて彼の仁心を知ったのだった。中村忠滋が、以後、秀吉に随身を誓ったことはいうまでもない。  城中の結束のいかに強固なものかを、秀吉は、前の中村の惣領娘のときにも、手きびしく示されたが、その後の小競り合いにも、こんな一例があった。  まだ、十四、五の少年である。  いつも敵方から寄手の柵へ奇襲して来るときは、その先頭に立って、小つぶに似げない敏捷な働きをし、 「またあのチビ助にしてやられた」  と味方の首を持ってゆかれる度に舌打ちしていたものだが、いつかそれが陣中の聞え者になって、 「あれは、城将別所長治に仕えるもので、名は石井彦七、当年わずか十五歳だそうだ」  と、知れ渡っていた。  秀吉の小姓にも年少組がたくさんいる。うわさを聞いて、彼らは切歯扼腕した。石田佐吉、加藤孫六、同じく虎之助、片桐助作など、 「こんど出て来たら」  と、待ちかまえていた。  もちろん秀吉のゆるしによる。そのうちに三木川の南口の柵へ或る朝、敵の決死隊が朝討ちをしかけて来た。そのむらがる中にチビ武者の奮戦ぶりが見えた。助作、虎之助、佐吉など、 「きょうこそ」  と、争って駈けつけた。  秀吉は危ぶんで、 「子どもらを討たすな」  と、屈強な者にいいつけていたので、前後は大人の鉄甲が囲んでいた。すると、敵味方のあいだに力戦していたチビ武者の石井彦七に向って、誰か、遠矢を射たものがある。或いは、流れ矢であったかもしれない。  ところが、矢は、何と、可憐なる彦七の鼻の下に中っていた。もちろん、どうと仰向けに倒れた。そこへ、駈け寄った小姓組の面々が、 「ここな、小僧めが」  憎さも憎しとばかり、折り重なって、生け捕りにして来た。  蹴ったり、引き摺ったり、ようやく秀吉の前まで引っ立てて来たのを見ると、無残や、鼻の下に深く突き刺さった矢はまだ抜けずにある。  余りに、幼いのと、その痛々しさに、秀吉が、 「待て待て、鼻の下の矢から先に抜いてやれ」  と、いった。 「心得て候」  と、一、二名の者が、矢に手をかけたが、鏃は骨に引ッかかっているとみえて、彦七のからだに、足をふみかけて引っぱってみても、抜ければこそ。  彦七は、顔じゅう血になりながらも、黙って、それに任せていたが、さすがに苦痛にたえかねたとみえて、秀吉へ、 「お仮屋の柱をおかし下さい。さもなくては抜けません」  と、訴えた。  どうする気と、彦七の意にまかせてやると、彼は立って、陣屋の柱に、自分の頭と胸いたを、縄でかたく縛ってもらった。そしていうには、 「鍛冶鋏がありませんか。鍛冶鋏で矢をまっ直ぐに挟んで、一気にお抜き取りください」  といった。  これには、いわれた方が、やや顔の色を失ったが、彦七は、貧血も起さなかった。  この剛気を見ていた浅野長政は、秀吉に、 「ぜひ」  と、懇願して、助命を乞い、後に自分の家臣とした。  うら若い女性にも、まだ親の膝を離れたばかりな一少年にも、これくらいな気魄があるとすれば──三木一城は取るに足らない小城としても──これは容易に陥ちるわけはない。  秀吉は、事々に驚異した。──一致した精神力の強さといっても、よもこれほどまでとは今日まで考えていなかった。  ──こう城兵側の意気だけを語ると、いかにも寄手は、ただ受け身に、虚を衝かれてばかりいたようだが、秀吉の麾下にも、彼に劣らぬ若者はむらがっている。なんで、ひとり三木勢にばかり気を吐かせておこう。  小姓組にある脇坂隼人は、当年十六。ここの陣中で、或る折秀吉が、 「たれか、この母衣に望み手はないか。欲しくば与えるぞ」  と、一張の見事な赤い母衣を示して、諸士を見まわした。  金糸で山みち模様を縫い、赤地に白い輪交いが染め出されている。 「目ざましき母衣」  とは思ったが、諸将もちょっと手が出なかった。なぜならば、華やかな母衣を負うことは、同じに、母衣に恥かしくないほどな、華やかな武勲を公約することになるからである。 「わたくしに、それを、拝領させてください」  そういって出たのが、まだ十六の脇坂隼人である。秀吉はふり向くと、 「欲しいか」  と、隼人の上へ、投げ与えてやった。  その後、城の西坂の戦いに、隼人は身に母衣をかけて、死闘奮戦した。小さい体の腰帯に、敵方のさむらいの首二つをくくりつけて引揚げて来た。 「よしよし。その紋も、そちにくれる」  輪交いの家紋をも秀吉からもらったのである。それに感奮して、また数日の後、城壁の下まで戦い迫って行ったが、こんどは敵方から襲った一弾に中って、仰向けに倒れてしまった。 「やれ、無残」  と、すぐ味方の宇野伝十郎が、掻い抱いて、退こうとすると、 「嫌だ、退くのは嫌だ。何でもないッ」  と、急に隼人は腕の中でもがいて、伝十郎の手から離れてしまった。  弾は兜の鉢の真ッ向に中ったので、倒れたのは、一時眼が昏んだだけに過ぎなかったのだ。  それにしても、脇坂隼人は伝十郎の手をもぎ離すと、傍らの岩に腰うちかけて、悠々、兜の緒をむすび直し、さて落した槍を拾いとると、ふたたび真紅の母衣をひるがえして、敵の中へ駈け入ったという。なかなか見るも清々しいすがただった。  こういう者もあるし、また福島市松なども、この三木城攻めには、別所随一の剛勇と聞えた末石弥太郎を討って、秀吉の感賞にあずかっている。  もっとも、市松もまだ弱冠、尋常では討てるわけの相手ではない。その日、末石弥太郎が傷を負って三木川の草むらに、水を掬って休んでいたのを、いきなり屈み寄って、 「市松だッ、羽柴の家来、福島ッ──市松ッ」  と、早口に名のりかけながら不意に突きかけたものである。  名乗──と、ひと口にいうが、一度や二度の合戦をふんだくらいでは、しかも相手が相当な敵と知る場合など、思いのまま名乗声の揚げられるものではない。  せつなに、口も渇き、舌の根ももつれ、なにをさけんだか、あとでは自分でもわからない──というのが、後々、一騎当千なつわものと呼ばれるようになった人々にしても、正直に述懐するところである。  この時、市松は、一度敵の末石弥太郎に襟がみをつかまれて、すでに首を呈するところだったが、彼の郎党、星野なにがしという者が、そこをまた後ろから滅多斬りして、主従ふたりがかりでようやく弥太郎の首級を獲たのであった。  このほか、大崎藤蔵とか、黄母衣組の古田吉左衛門とか、蜂須賀彦右衛門の子家政とか、いちいち軍功をあげれば数かぎりもない働きは寄手の中にもあったのであるが──しかもなお頑として陥ちも揺るぎもしないのが別所一族のたて籠った三木城であった。  ──こういうところへ、しばらく陣地を退いていた病軍師竹中重治は初陣の少年、黒田松寿丸を伴れて戻って来たのであった。 秋風平井山  これよりも先に、秀吉は、渡辺天蔵の報告によって、黒田官兵衛が無事に伊丹の獄中から救い出されたことは聞いていた。  だが──  ここへ病中の竹中半兵衛が帰陣して来ようとは意外であった。  しかも、官兵衛のほうは、まだ帰陣していないのである。 「おう……」  と、その意外な面をもって、彼のすがたを迎えた秀吉は、 「どうして、ここへは?」  と、むしろ怪訝らずにはいられなかった。  長陣の仮屋はほとんど平常の住居のように住み古びていた。久しぶりにこの主従が対面したのはその一劃の幕の中だった。特に、半兵衛にも松寿丸にも床几が与えられ、秀吉も床几に倚っていた。  半兵衛は、頭を垂れて、 「長陣の御労苦、いかばかりぞと、お案じしておりましたが、思いのほか、お元気にわたらせられ、まずは欣しく存じまする。半兵衛も、御仁慈のおかげをもって、このところ御覧のごとく病も癒え、はやいかなる陣務にも耐え得べしと、自信もできましたれば、おゆるしも待たず、ふたたび帰陣仕りました。──ただならぬ御苦戦の折、しばしなりと、勤めを欠き、何かと御用も怠っておりましたが、向後はお心安く思し召しくださりますように」  いつものように静かな沈重な物腰である。ふいに姿を見た初めにはすぐ病体が案じられたが、こうして話しているうちに、 (まったく快方に向ったものとみえる)  と、秀吉も心のうちでやや安堵を抱いて来た。  一方、黒田官兵衛が、ここへ戻って来たのは、それから三日目であった。──官兵衛は、秀吉に会うと、男泣きに泣いて、 「このたびの難に当って、初めてあなたの真情というものが、真底から相分った。この厚恩は、死ぬまで忘れません」  と、いった。  また、竹中半兵衛に対しては、 「御友情のほど、骨髄に徹するほど、ありがたく思います。お礼のことばもない。ただこの上は、幸いに、なお生きることを得た生命を、あらん限りまで、よく生き用いて、おこたえ仕るしかありません」  と、再三、礼をかさねた。  松寿丸を呼んで、半兵衛が、 「長らく、質子として、それがしの手許におあずかりしていましたが、いまはその要もなしと、信長公より御帰家のおゆるしの出た御子息、久しぶりに、御父子、御対面なされたがよい」  と、つつがなく、父の手へ、松寿丸を返すと、官兵衛孝高は、子の大きくなった身なりへ、ひと目向けたのみで、 「来たか」  と云い、また、その扮装を見遣って、 「ここは、戦場、そちにとっては、一人前のさむらいに、成るか成らぬかの初陣の場所、父のそばへ帰ったなどと思うなよ」  と、諭した。  秀吉にとって、両の腕ともたのむ二人が帰って長らく堅氷に閉じられていたような帷幕も、ここ遽かに、何となく華やいで来た。  彼の周囲、彼の帷幕のそうした空気は、すぐ全軍の士気へ、微妙な作用をもって映る。  作戦、攻城は、急に活溌になった。城南城西の一塁一塁へ向って、寄手の兵は間隙を見ては攻めたてた。  五月になった。  雨季に入る。  ここは中国の山地なので、たださえ雨が多いため、道は滝津瀬と変じ、空壕は濁水にあふれ、平井山の本陣の、その登り降りには、泥土に踏み辷るなど、ここいささか快速を加えて来たかに見えた攻城も、ふたたび自然の力に阻まれて、まったく膠着状態になってしまった。  平井山の牙営から戦線四里にわたる寄手の支営を、黒田官兵衛は、たえず陣輿に乗って、見廻っていた。  片脚の傷口はついに有馬の湯でも癒えきれなかった。終生の跛行になりおわるらしいと彼自身も苦笑している。──で、兵卒に陣輿を担わせ、それに乗って、戦闘中の指揮にもあたっていた。 「……あれを見ては」  と、竹中半兵衛も病苦を忘れて激務を克服していた。奇なるかなこの帷幕は。──と誰かがつぶやいた。秀吉の双璧とたのむ謀将勇将のふたりが二人とも、満足な体でなかった。一方は宿痾の重い病軍師であり、一方は跛行の身を輿上に託して指揮奮戦にあたっている猛将官だった。  が、この二人が秀吉を扶けたことの尠なくなかったことは、ただその智謀だけのものではない。両者の悲壮なすがたを見るごとに、秀吉は崇高な感激と涙なきを得なかった。ここに至って、彼の帷幕というものは、まったく一心一体になっていた。  ただこれあるがゆえに、攻城の士気は弛まなかった。そしてなお半歳もかかったが、よく三木城の堅守を陥し得たともいえると思う。  もし寄手の帷幕に、不壊一体の中心がなかったら、恐らく三木城はついに陥ちなかったかも知れない。そして、毛利の水軍が、包囲の一角を突破して、ここへ粮米を入れるなり、或いは、備中から山野を越えて、急援に迫り、城兵と協力して、寄手の鉄環を粉砕し、羽柴筑前守秀吉なるものの名へ、ここで永遠の終止符を与えて事は終っていたかもしれないのである。  だから秀吉も、時には、余りに俊敏な官兵衛の働きや、その機智に、出し抜かれなどすると、 (また、あのちんばめが)  と、戯れ半分に、その驚嘆を、悪口であらわしたりすることもあったが、内心はふかく尊敬し、信頼していたことは確かで、彼が祐筆に記録させておいたところを見ても、それを半兵衛重治と対照して、 竹中ハ総軍ヲ己レノ任トシ、強チニ小事ニ精シカラズ、万自然ニ任セタリ。彼、先駆、殿ニアルトキハ、軍中何トナク心ヲ安ンジタリ。  と称え、また官兵衛に関しては、こういっている。 我等、播州ヘ入国ノ初ヨリ、朝暮、官兵衛ヲ側ニ置テ、ソノ才智ヲ計リ見ルニ、我等モ及バヌ処アリ。事ノ決断成リカネ、息ノツマル程、工夫ニ悩ム折ナドモ、官兵衛ニ語ラヒ、何トスルヤト問フニ、彼サシテ分別ニ惑フ態モナク、ソレハ箇様ニナスガヨロシクコレハ左様ニ仕ルガ然ルベシナド、立チ所ニ答ヘ、我等ガ両三日昼夜カカリテ分別ナリ難キ事モ、水ノ流ルル如ク決シテ少シモ過ツコトナシ、我等ガ及ビ難キ臨機応変ノ性ヲ得タルモノト云フベキカ。  これを見ても秀吉がいかに官兵衛半兵衛のふたりに嘆服し、またその扶けを徳としていたかが窺われる。  ところが。  その徳を大としていただけに、ここに秀吉の心へ、大きな傷手となることが起った。というのは──その年の雨季もすぎ、炎暑の夏もこえて、ようやく涼秋の八月になりかけた頃、半兵衛重治の病がどっと重くなって、もう今度は二度と、その病骨に、鎧具足もまとえまいと思われるような容体に陥ったことであった。 「ああ、天もついに秀吉を見捨てたもうか。まだ若い英才半兵衛に、余命をかし給わぬか」  と嘆いて、仮屋の一囲いに、秀吉も共に閉じ籠って、昼夜、看病に怠りなかったが、半兵衛の容子には、その夕べ、刻々と、危険が迫っているように見られた。  鷹之尾、八幡山などの、敵の支塁も、夕靄につつまれていた。  宵が迫る──  白い靄の中から、銃声が谺していた。秀吉は、平井山の一角に佇みながら、 「また、あの跛行どのが、余りに深入りせねばよいが」  と、敵へ迫って行ったまま、まだ帰って来ない官兵衛孝高を、案じていた。  あわただしい跫音が、その時、彼の横へ来て止まった。見ると、ぺたと、大地へ両手をついて、泣いている者がある。 「於松ではないか」 「はいッ」  官兵衛孝高の子、松寿丸は、半兵衛重治に伴われて、この平井山の味方へ初陣として加わって以来、もう幾たびか戦場も駈け、生れて初めて、鉄砲槍の中も歩き、わずかな間に、見ちがえるほど、気丈となり、骨太になり、また大人びていた。  七日ほど前から、半兵衛の容態が急変したので、秀吉は於松に向って、 (誰が枕許にいるよりは、そなたがいてやるのが病人にとっても欣しかろう。わしが看護してやりたいが、気をつかっては、却って病気によくあるまい)  と、自分に代る丹精を彼に命じておいたのである。  於松にとっても、半兵衛は、数年薫育をうけた恩人、また生命の親でもある。ここ昼夜その人の枕許に侍したまま具足も解かず、薬餌の世話に精根を傾けていた。  ──その黒田松寿丸が今、これへ駈けて来るなり大地へ泣き伏したのである。直感に秀吉は、はっと、胸を衝かれた。 「泣いていては分らぬ。於松何事か」  わざと、叱咜すると、 「おゆるし下さい」  と、於松は、籠手を曲げて、瞼を拭いながら、 「重治様には、もうものいうお力も弱られ、お生命は、こよいの夜半を持つまいとのこと。……どうぞ、戦いのお暇に、ちょっと、お越しねがいとうございます」 「……危篤とな」 「は、はい」 「医師のことばか」 「さようでございます。──が半兵衛様御自身は、私に向って、かならずとも、自分の容態をわが殿へも、陣中の人々へも、告げるなかれと、固く仰せられておりますが……。今生のお別れもはや間もないことなれば、ひと言、殿のお耳へ達しておいたほうがよかろうと医師、御家士方の仰せのままに、急いで、これまで、お知らせに伺いました」 「そうか」  と、答えた時には、秀吉もすでに観念の眼を心にとじていた。 「於松。……そちはわしに代って、しばしこれに立っておれ。やがて鷹之尾の戦場から、そちの父、官兵衛が引き揚げて来るであろうから」 「父は、鷹之尾に出て、戦っておりますか」 「むむ、例のごとく、輿にのって指揮にあたっておる」 「──では、私の方から、鷹之尾に行って、父に代って、兵を指揮し、父を半兵衛様のお枕辺へ呼びもどしてはいけないでしょうか」 「よくいうた。──そちにその勇気があるなら」 「行って参ります」  と、すぐ起って、 「半兵衛様の息のあるうち、父もひと目会いたいでしょう。口にこそ出さね、半兵衛様も、父の孝高に会いたいと思っているにちがいありません」  松寿丸は、健気に、そういうと、身なりに較べては、大き過ぎて見える槍の柄を横にかかえて、山すそへ、駈け下りて行った。  秀吉は、その踵を、反対のほうへ回らして、途中から次第に歩速を大股に運んでいた。営中、幾棟にもわかれている仮屋の一つに、燈火の影が漏れていた。そこが竹中半兵衛の寝ている病棟で、折ふし、そこの屋根越しに宵の月が淡くのぼりかけていた。  枕許には秀吉から附けておいた医師もいる。竹中家の臣もいる。ほんの板囲いに過ぎない仮屋の藺莚のうえではあるが、白い衾は厚くかさねられ、片隅には、職人図を描いた屏風が一張立てられてあった。 「半兵衛……。わかるか。秀吉じゃ、筑前じゃ、どうだの、気分は」  そっと、側へ坐って、枕の上の顔をさしのぞいた。  夕闇のせいか、半兵衛の面は、琅玕のようにきれいである。──かくまで人は痩せるものかと、涙なきを得なかった。  秀吉は、辛くなった。見ているのが、どうにも、傷ましい。 「医師」 「はい」 「……どうだなあ」 「…………」  医者は何とも答えないのである。もちろん時間の問題とその無言は答えているのだが──秀吉としてはなお、何とかならないものかと、云いたいのだった。  昏々としていた病人は、そのとき微かに手をうごかした。秀吉の声が耳へとおったらしく、うっすら眸をあけて、何か、近侍に意志を告げようとしていた。 「殿が、お見舞いに成らせられました。……殿が、お枕べに」 「…………」  うなずいて、なお、何かもどかしがる。──自分の身を抱き起せと、命じるらしいのであった。 「いかがでしょう」  医師をかえりみて、近侍が諮ると、さあ、と医師も答えきれない顔した。  秀吉は半兵衛の意を覚って、 「なに、起きたいと。まあ、そうしておれ、そうしておれ」  と、子をあやすように宥めた。  半兵衛は、微かに、顔を振って、さらに、近侍を叱った。といっても、もとより大きな声も出ないが、とたんに、落ち窪んでいる眼にそれが見えたので、はっと一も二もなく、近侍は彼の命のまま、二人ほどして、板のような病人の半身をそっと抱え起した。  夜具で身のまわりを支えようとすると、半兵衛は、無用と、退けて、唇をかみしめながら、寝床のうえから徐々に身をずり降ろした。  それは、今、息もたえんとする病人にとっては、必死な努力にちがいなかった。すさまじいばかりな懸命さである。凝視したまま──秀吉も医師も並居る家臣たちも、息をのんで見まもっているしかない。  ようやく、寝床を離れること二尺ばかり、藺莚のうえに、半兵衛重治は、きちと坐った。何たる肩の尖り、膝の薄さ、また両手の細さ。女にも見まほしい姿だった。  ひそかに、唇をしめて、息を調えているらしい。やがて、折れるように、ぺたと両手をつかえた。そして、 「はや、おわかれも、今夕にせまりました。……多年の御鴻恩、あらためて、お礼申しあげまする」  と云い、またすこし間をおいて、 「散るも咲くも、死ぬも生まるるも、ふかく観じてみれば、宇宙一円の中の、春秋の色相のみ。……おもしろの世かな。さようにも思われます。……殿には、御縁あってかく御厚遇をうけましたが、顧みるに、何の御奉公も仕らず、ただそれのみが、臨終の心のこりにござります」  糸のような声であるが、ふしぎにすらすらと唇からもれて来る。或る厳粛なる奇蹟に対する心地で、一同は、粛として容をあらためていた。わけて秀吉は、襟を正し、項を垂れ、両手を膝にのせたまま、慎んでその一語一語も聞きもらすまいとしていた。  まさに、消えなんとする灯は、滅前、鮮らかな一閃の光りを放つ。  いま、半兵衛のすがたは、その生命は、あたかもそうした崇高な一瞬に似ていた。  ──必死に、彼はなお、この世に最期のことばを、秀吉へ告げようとし、そして云いつづけた。 「多事、これからの多事多端、世のうつり変りは、寔に、思いやらるるばかりです。……大きな変革期のさかいにある今の日本。……生きられるものなら、半兵衛ごときも、生きてそのゆくてを見とどけたい。真実、左様に存じますれど……天寿、いかんともなし得ません」  次第に、ことばも明晰になってくる。生命力だけでものをいっているようだった。肉体そのものはさすがに時々大きく喘ぎ、肩を抑えては、次のことばまでの呼吸をやめていた。 「……が、殿。……あなた様こそは、かかる時代に、生れあわせ、また選ばれたるものぞと、御自身、お思いにはなりませぬか。……つらつら半兵衛が、見上げ奉るところでは、あなた様は、ゆめ、天下人たらんなどとは、野望しておいででない」  ここで、また、間をおいて、 「それが、今日までは、あなた様の御長所で特徴でもありました。──失礼ながら、あなた様は、お草履取であるときは、お草履取の職分に万念をつくし、また、一士分の身であるときは一士分の職分に全能をつくし、決して、徒らに上ばかり見て足を浮かしているような妄想家ではおわさなかった。いまとても恐らくは、そのお心にたがいなく、いかにせば中国探題の職分を完うしうるか、いかにせばよく信長公の御委嘱に最善な御満足をおこたえし得るか、またいかにせば目前の三木城を陥し得るか──それに御専念のほか、また他事や一身の栄達などはお考えないものに相違ございますまい」 「…………」  房中は寂として他に人はないようであった。秀吉はふかく垂れた頭をあげることも身ゆるぎも、まったく忘れ果てたもののごとくじっと聞いていた。 「しかし……です。かかる時代を収拾する大器量は、かならず天のお選びによって、どこかに用意されてあるものです。群雄天下にみち、各〻、この乱世の黎明を担うもの、万民の塗炭をすくうもの、われなり、われを措いて、人はあらじと、自負し自尊し、ここに中原の覇業を争っておりますが、すでに、偉材謙信は逝き、甲山の信玄亡く、西国の雄元就は、おのれを知って、子孫に守るを訓えて世を終え、そのほか浅井朝倉は当然の自滅をとげ、何人かよくこの大くくりを成し遂げて、次代の国土に文化に万民をして心から箪食壺漿せしめるような大人物がおりましょうか、残っておりましょうや……指を折ってみるまでもないではございませぬか」 「…………」  秀吉は、そのとき、むくと面をもたげた。──と、半兵衛の眼の窪からも、らんとして、射るような光が彼の面へ向って来た。──いま死なんとする臨終のものの眼と、なおどこまで生きるかしれない秀吉の眼とが、せつなに、葛藤した。無言のうちに、射合ったのである。 「信長公。──右大臣家をさしおいて何をもうすかと、あなたは心中に半兵衛のことばを御迷惑がっておられましょう。……そうです、そのお心もちはわかります。……けれど、信長公には信長公でなくては能わぬ使命をもって、天意は充分に、公に振舞わせておられます。現在の状態を打ち破るあの御威勢、今日までの百難をふみこえられて来たあの御信念、それは徳川どのでも、あなた様でも、よくなしうることではありません。信長公を措いて誰か時代の混乱をここまで統率して来ることができましょう。……さはいえ、それをもって宇内のすべてが革まるとはいえないでしょう。中国を征し、九州を略し、四国を治め、陸奥を伐つとも、それのみで、上朝廷を安んじ奉り、四民を和楽せしめ、しかも次の文化の建設、世々の隆昌の礎がすえられるとはいえません。……いえませぬ」  時代が英雄を生み、英雄が時代を創る。  また、破壊の英雄があり、建設の英雄もある。  天数人命、宇宙のふしぎな配置を、かりに天意とよぶならば、天意は、その時代に応じて英雄をつくり、その器量に応じて、任じる使命を、局限しているようである。  春秋三国の史に照らして、またかつての日本の治乱興亡をかえりみて──半兵衛はふかくそう観じているらしい。歴史の実をもって、現状の変を洞察し、また時局の底流を按じ、多年、身は秀吉の一幕下に置いては来たが、心は高く栗原山の山巓から日本中のうごきと、時代の帰趨とを大観して──或る結論を、 (こうだ。こうなる)  と、かたく胸奥に秘めていたものの如くである。  彼は信じている。  縁あって、多年、自身が輔佐したこの主人こそ、いわゆる破壊の時代を承けて必然現われなければならない──次の人ではないかと。  明け暮れ、余りに側近くいて、時には、夫人の寧子と夫婦喧嘩をしたり、時には、愚にもつかないことを歓んだり、鬱いだり、馬鹿をいったり──風采ときてはまた、他家のどの主人と見較べても、優るとは思えない──御主君であるので、とかく、そう偉材な天質と観るものは、まず、羽柴家の家中でさえ、十人のうちに一人とはないらしいが、竹中半兵衛は、この人に侍側し、この人のために半生を送ったことを、今とても、決して後悔していないどころか、 (よくぞ、かかる御主君に)  と、結ばれた天縁に対して、大きなよろこびと、そして臨終の間際までも、確乎とした生きがいを感じているのであった。 (この殿が、かねて自分の信じているような役割をもち、また将来の大を成しとげてくれるなら、重治そのものの形骸は、ここにおいて事の中道に死すとも、決して、空しき生命を終ったものとはならない。──この君の精神をとおし、この殿の将来をとおし、自分の理想は、何らかの象で世に行われよう。自分はこの喬木を大ならしめる根もとの肥料であっていい。ただこの喬木が、亭々、次代にそびえ、爛漫、この世を君が代の春とのどかにする日があれば──わが願いは足れりといえる。ひとは夭死というかも知れないが、以て半兵衛重治は充分に瞑すことができるというものである) 「……以上、申しあげたことのほか、もう……もういうべきことばは、何もございませぬ。どうぞ……殿。御自身をお大切にして下さい。またとなき御自身であることを信じて、重治亡きのちも、一層、御勉強あそばして……」  ──と、いったとき、半兵衛の胸は、朽木の折れるように、前へ曲った。それを支えるべく、細い手を、畳へ落したが、手にも、すでにその力さえなく、がばと、莚の上へ顔を俯つ伏せてしまった。  顔と莚のあいだから、とたんにぱっと、紅の牡丹が咲いたように、血しおが拡がった。もちろん吐いたのである。──秀吉はとびつくように、半兵衛のこうべを抱えた。なお、こんこんと流れるものが、自分の膝、胸へかかって汚れるのも意識せずに、 「重治ッ、重治ッ。わしを置いて。わ、わしを残して──そちひとりはや逝くか。そちに別れて、この後の軍に、秀吉は何としよう……重治ッ」  と、掻き口説いて、秀吉は大声で泣いた。醜態といえば醜態ともいえるくらい、見栄も外聞もなく、おいおいと泣くのであった。  ──がくりと、その膝に、項を折っている白い顔は、いまは主君の胸に甘えて、 (否とよ。これからのあなたには、もうそんな憂いはありません)  と、微笑みながら、秀吉の繰言を、否定しているようであった。 地下なお奉公  朝見た人も夕べはいず、夕べに見かけた人も晨には死んでいる。  そうしたことが、べつに無常観を誘うでもなく、日ごとに梢から散ってゆく紅葉を見るように見られている戦場にあって、どうして半兵衛重治の死だけが、こうもひどく秀吉を悲しませて熄まないのだろうか。  余りな彼の嘆き方には、共にそこで哭いていた人々ですらあやしんだほどであるが──やがてようやく子どものムシが収まったようにわれに回ると、秀吉は、冷たくなった半兵衛のからだを、自分の膝からそっと自分の手で白い衾の上に寝かしてやりながら、なお生ける人へでもいうように呟いていた。 「ひとの二倍三倍、長寿しても、やりきれない程な、大きな理想をもっていたのに、まだその望みの中道どころか、緒にもつかないうちに……。死にたくなかったろう……。わしにせよ、今迎えに来られても、山々、死にたくない……のう重治、いかばかり心残りの多かったことであろうぞ。可惜、おぬしほどな才をこの世にもって生れながら、その百分の一の思いも世に果さないでは、死にたくないが当りまえじゃ」  何たる恋々の多い人か。またしても死骸に向って愚痴である。掌を合わせて、念仏ひとついってはやらないが、綿々と喞ちごとは尽きない彼であった。 「せっかく、蜀に立つや、劉玄徳は、遺孤を孔明に託して逝った。孔明のかなしみは、食も忘れたほどだったという。──だが、わしとおぬしの間はあべこべだ。孔明に先立たれた劉備にひとしい。──ああ、孔明に先立たれてとり残された劉備。考えてみても、落莫たるものではないか。わしの落胆、わしのさびしさ、喩えるものもありはしない」  あわただしい物音が、そのときこの陣小屋の外に聞えた。松寿丸の知らせを聞き、戦場から輿に乗って、えいえいと急がせて来た官兵衛である。 「なに、もうだめかッ。……間にあわなかったか」  さも、残念そうに、大声で辺りに応えながら、官兵衛は跛行をひいて、ここへ入って来た。  そして、眼を赤くしたまま、枕許に坐っている秀吉の姿と、──今は一躯の冷たいなきがらとなっている友、半兵衛重治のすがたとを見て、 「……う、うむ」  と、重く呻いたまま、身も心も、挫けたように、腰をついてしまった。  それなりである。官兵衛も秀吉もただ凝然と一つものに眼を向け合ったまま、ものもいわず坐っていた。いつか室内は暮れて洞のように暗くなっていたが、燭を燈す者もなかった。死者の白い衾だけが谷底の雪みたいに見えていた。 「……官兵衛」  全身から嘆息をもらすように、秀吉の方からやがて一語いった。 「惜しいのう。かねて、むずかしいとは、思っていたものの……」  官兵衛も、それに対して、多くをいえなかった。共に茫然たる面持ちで、 「ああ、分らないものですな。伊丹の城に囚われて、所詮、亡いいのちと、諦めていたてまえは生きのび、だいぶ快い快いというていた重治どのが、あれからまだ半年も経たぬまに、こうなろうとは」  そこで、彼は気がついたように── 「これこれ、左右の方々、いつまで共に嘆き沈んでいたとて、どうなろうぞ。──燈火をつけぬか。そして、重治どのの御遺骸を浄め、室を掃って、安置せねばなるまい。いずれにせよ陣葬のこと、万端、充分には参らぬまでも──」  彼が、さしずを始めると、秀吉はいつのまにか、もうそこにいなかった。  ゆらぐ燭の光の中で、人々は寒々と働きはじめた。すると重治の枕の下から、一通の遺書があらわれた。黒田官兵衛に宛てて死ぬ二日ほど前に認めておいたものだった。  ──仮に平井山の一部に、重治の遺骸を厚く葬って、何やら、喪旗にふく秋風もさびしく、気落ちのあとの疲れも出て、陣中ともすれば寂寥にとらわれやすい真昼だった。  ひそとした陣幕の内を訪うて、黒田官兵衛は、一通の書を、秀吉に示していた。 「なに、半兵衛の遺書が、枕の下にあったと。……そちへ宛ててか」  秀吉は、促さるるまま、すぐ拡いて、読み下していたが、そのあいだ幾度となく、眼をあかくし、瞼を指で拭い、ついにはしばらく面をそらして、一気に読み終ることができなかった。  歿する二日前に、心友の官兵衛孝高へ宛てて認めたものではあるけれど、その書中のことばは、一行半句たりと、自分の望みや交友のことに触れているのではない。  冒頭からしまいまで、すべてみなこれ主君秀吉の身にかかわることか、将来の経営について、憂いを述べ、善処を託し、また日頃から脳裡にある経策をつまびらかに書き遺しているのだった。  その一節には、 ──たとへ身は化して土中の白骨となるとも、殿にして微衷をわすれ給はず、おこころのうちに、ふとだにも御想起くださるなれば、重治の魂魄は、いつなんどきたりとも、殿のうつし身のうちに息吹き奉り、草葉の蔭よりの御奉公も決してかなはぬ事とは存じ申さず……  と、書いているところなども見える。──生きている間の忠勤もなお足らずとし、若くして逝くこの世に恨みも思わず──白骨となってもなお奉公の道あることを信念して死を待ったかと、重治の心根を思いやると、秀吉は哭かずにいられなかった。どう気を取り直しても、涙が出て仕方がなかった。 「殿。……そういつまでも、お嘆きなすっている時ではありますまい。どうか、書中のほかの所へ眼を転じて、篤とお考えを願わしゅうございます。──そこに半兵衛どのが、三木城攻略の極め手として、書きおかれた一策がございましょうが」  官兵衛が、やがて、強くいった。従来、ずいぶん秀吉に打ち込んできた官兵衛ではあるが、こんどのことについては、すこし秀吉の痴愚凡情な半面をあけすけに見せられて、少しあいその尽きた顔つきであった。  重治はその遺書のうちに、 ──三木落城もあと百日を出で間敷は候も。  と、予言はしていた。けれど、ただ力攻して兵を損じることの不可なることを説いて、最後の一策を、味方のために、書き遺して逝ったものである。  ──敵方三木の城内で、もののよく分る人物といえば、やはり別所の家老、後藤将監基国に如くものはない。  自分のみるところでは、彼は大局の帰趨も分らず盲戦に強がっているような暗将ではない。戦前、姫路の城で同坐して、幾たびか語りあったこともあれば、自分とは浅いながら友交もあった人といえよう。  別封に、彼へ宛てて、一書を認めておいたから、これを携えて、一度城中に彼を訪い、彼、後藤基国をして、その主君別所長治によく利害を説かせ、大勢の帰するところを諭したなら、長治とて、よも鬼神ではなし、かならず開悟一転、城を開いて、和睦を乞うて来ようかと考えられる。  ただし、これを行うには、潮時の測りが肝要である。晩秋、地には枯葉捲いて、天には孤月寒く、そぞろ兵の胆心にも、父母や弟妹への思慕と郷愁の多感なる頃をもって、最もよしとする。冬近きを思うにつけ、飢餓に迫っている城兵はいよいよ悲壮な哀腸を抱いて死の近きを覚悟しているにちがいない。これへ徒らに力攻を加えることは、むしろ彼らによい死場所と死出の道づれを与えるに過ぎないことになろう。ここしばしは、戦いもやめ、彼に静思のいとまを与えて然る後、それがしの書簡を送って、懇ろに、かつ真情をもって、敵の城主と家老をお説きあれば、おそくも年内には、落着を見ること疑いもない。  と、筆をすすめ、なお、  ──成るか成らぬかなど、事に当るに先だって、自身から疑うようなことで、事の成るはずはない。  とも書き添えて、その実行を信念づけることまで忘れていなかった。  にも関わらず、幾分、成否を疑っているらしい秀吉の態を見て、官兵衛孝高は、遺書に見えない点を云い添えた。 「実は、その策について、半兵衛どの生前にも、一、二度語られたことはありましたが、時機でない、なお早いとて、見合わせていたものです。殿のおゆるしさえあれば、いつなりと、それがしが使いして、城中の後藤将監と会って参りますが」 「いや、待て……」  秀吉は、首を振った。 「──この春だったか、浅野弥兵衛の縁組という手引きで、城中の一将に、その策を用いたことがある。ところが、いくら待っても、返辞がない。後に探ってみると、その者が主人の別所長治へ降伏をすすめたのを、将士が怒って、即座に斬りころされたということだった。──半兵衛の遺策も、それと似たりよったり、まあ同じ策ではないか。下手をしたら、寄手の弱味を知られるばかりで、得るところは何もない」 「いや半兵衛どのが、行うに機を測るが大事といっているのは、そのことでしょう。今なればと存じますが」 「しお時かな?」 「確く信じまする」 「…………」  その時、陣幕の外で人声がした。聞き馴れている将士の声のほかに、どうも女らしい声もふと聞えた。  はからずも、この陣中へ秀吉をたずねて来た一女性は、亡き半兵衛の妹のおゆうであった。  兄の危篤と、知らせをうけるやいな、彼女はすぐわずかな従者をつれて危険も思わず京都を立ち、  ──せめて、ひと目でも、この世にあるお顔を。  と、ひたすら急いで来たのであったが、女の脚ではあり、物騒な戦地に近づくほど、道も思うまま捗らず、とうとう兄の臨終には間にあわなかったものであった。 「……おゆうであったか」  秀吉が床几の前に彼女の変り果てたといってもいい──旅姿とその面窶れをながめて──こう言葉をかけているとき、官兵衛孝高も小姓たちも、わざと側を外して、幕の外へ出ていた。 「…………」  おゆうは、涙ばかり先立って、いつまでも秀吉を仰ぎみられなかった。旅寝のあいだにも、長い長い戦陣の留守のまも、夢にすら見て恋い描いていた人であるのに、ここに来ては側へも寄れない心地に打たれた。 「……聞いたか。半兵衛の死を」 「……聞きました」 「あきらめい。ぜひもない」  それが秀吉としても、精いっぱいの慰撫であった。  ──が、おゆうは、秀吉からそう優しくなぐさめられると、雪解のように、心もなだれて、一度にせぐりあげて来る涙と共に、よよと声を放って、大地へ哭いた。 「よせ、よせ。見っともない」  あわてて秀吉は床几を離れて、何とはなく、立ち上がってしまった。ここに人目はないにせよ、すぐ幕の外に近習たちがいるので、家来の耳を気がねするふうなのてある。 「ふたりして、半兵衛の墓へ詣ろう。おゆう、尾いて来い」  秀吉は先に立って、陣屋の裏から山道をたどって、なお小高い一丘の上に登った。  一幹の松がうそ寒い晩秋の風に嘯いていた。その下に、土色もまだ新しい土まんじゅうが盛られてあり、一個の石が、墓標のかわりにすえられてある。  かつては、長陣の徒然に、この松の根がたへ莚をしき、月を賞しながら、官兵衛、半兵衛、秀吉と鼎坐して、古今を談じたこともある。 「…………」  おゆうは、草むらを見まわして手向ける花をさがしていた。  そして、秀吉の次に、土まんじゅうへ向って、額ずいた。  涙はもうこぼれなかった。人の命数を哭き悲しむには、余りに山上の自然は、宇宙の当然な理を、晩秋の草木をもって訓えている。──秋去れば冬、冬去れば春──自然の中には何の悲嘆も涙のたねもない。 「殿さま……」 「何か」 「おねがいがござりまする。兄のお墓を前に折入って」 「そうか。……ウム、そうか」 「おわかりでございましょう……。おそらく、殿さまのお胸には」 「わかっている」 「ゆうに、お暇をくださいまし。……おきき入れ下されば、兄もどんなに地下でほっとすることかと存じまする」 「身は地下に埋もれても、魂魄はなお奉公するといって死んだほどの重治じゃ。その重治が生前から気に痛んでいたこととあるのに、どうしてこの秀吉とて反けよう。心のままにしたがいい」 「ありがとう存じまする。おゆるしを賜わるうえは、兄の遺命どおり、兄の遺物を抱いて……」 「どこへ行くか」 「どこか、草深い里の尼院へでも」  またしても、涙にくれた。秀吉もあらぬ方を向いて立っていた。同じ自然の中には棲息していても、やはり人はあくまで煩悩の外のものではあり得ないとみえる。  ──散る紅葉や啼く小鳥、その清々しさには秀吉も学び得なかった。 紅葉を喰う  秀吉からいとまも許された。亡兄の遺髪や小袖を持った。陣中に女の長居は無用。おゆうは次の日すぐ秀吉に、 「お別れ申しまする。くれぐれもお身を御大切に」  と、旅支度までして、最後の暇乞いに出たが、 「まあ待て、もう二、三日、陣中にとどまっておれ」  と、ひきとめられた。  かけ離れた仮屋の一棟に、おゆうは幾日もぽつねんと、兄の遺髪を弔っていた。四日五日と過ぎるのに、秀吉からは何の沙汰もなかった。  山には霜がおりて来た。時雨るたびに四山の木の葉はふり落されてゆく。──と、一夜、めずらしく月の冴えた宵、 「おゆう様。お召しです」  小姓のひとりが、秀吉の使いとして、小屋をさしのぞき、 「こよいお出立の用意をあそばして、半兵衛様のお墓のある山の上までお越しあれ──との仰せでした。……ええ、すぐにです」  と伝えて、使いの小姓も、先へ行ってしまった。  身支度といっても、かねて旅包みとしてある物のほかは何もない。亡兄の遺臣栗原熊太郎と、ほか二人ほど連れて、おゆうはやがて、墓山へ上って行った。  草も木も枯れて、山路のながめは、落莫たるものだったが、その夜は、霜でもおりているように、月の光が白かった。  黒い人影が、六ツ七ツ、秀吉のまわりに佇んでいる。近習とみえ、おゆうの来たことを告げていた。中に、官兵衛孝高らしい影も見えたが、おゆうがそこへ行き着いた時は、もう辺りに見えなかった。 「おう、ゆうか。あれ以来、つい軍務に忙しくて、朝夕訪れもしてやらなかったが、……山もめっきり寒くなって来たし──心細く思うていたろう」  秀吉はやさしい。総じて誰にでも女にはやさしい秀吉であるが、この際、やさしくいわれることは、却って、情けでない気がした。 「これから先は、生涯独りで草深い里に住もうと、心に誓っておりますせいか、もうどこにいても、寂しいなどという心地はおこりませぬ」  彼女の答えを聞きながら秀吉はうなずき、うなずき、 「たのむ。半兵衛の後生をよう弔うてやってくれい。いずこに住もうと、生あるうちには、また会う折があろうが」  と云い、そして、その人の墓のある松の下を振り向いて、 「おゆう、あれに用意させておいた。もうこれ限り、そなたの妙な琴の音を聞く日もあるまい。……ずっと遠い以前、そなたは兄半兵衛に伴われて、当時、織田どのに抗して一族たてこもっていた美濃の長亭軒の城に臨み、琴を弾じて籠城の鬼となっていた将士の心をやわらげ、ついに城をひらいて降したこともあった。──半兵衛の霊にも手向けとなろう。秀吉も名残に聞きたい。……もしまた、その琴の音が、風のまに、ここから近い敵の三木城にまで聞えて、彼らのあら胆に、有情を思わせ、意味なき死を覚らせれば、これは大きなてがらだ。地下の半兵衛もどんなによろこぶことかしれぬ」  と、彼女をそこへ促した。それまでは、彼女も気がつかなかったが、見ると、松の下に、莚をのべ、その上に、一面の琴がおいてある。  足かけ三年にわたる籠城に、さすが気節を以て、上方武者は浮華軽薄のものと、一概に見下していた中国の将士も、いまは見るかげもない姿を持ち合って、 「討死は、きょうか、あすか。せめて餓え死にだけはしたくない」  と、ただそれだけを希望するに過ぎない窮極にまで墜ちこんでいた。  ──あさましい。  と、人のすがたには見ながらも、自分も死馬の骨を舐ぶり、野鼠を喰い、木の皮、草の根まで漁った。 「この冬はもう、畳を煮、壁土を喰うしか、食うものはない」  窪んだ眼と、窪んだ眼とが、おたがいを憐れみながら、なおこんなことをいっていた。──壁土を喰ってもなお、この冬を持ち越すつもりで気魄だけは失っていないのである。小競り合いでも、敵が寄せてくると、俄然、飢えもつかれも忘れはてて戦える。ところがこの半月余りは、いっこう寄手が襲って来ない。これはどんな死にもの狂いな目にあうより却って城兵には辛かった。  日が暮れると、城中一帯、どすんと、沼の底へ落ちたように真っ暗になる。燈火などは、一点たりと灯かない。魚油も菜たね油もみんな食糧として舐め尽してしまったのだ。朝夕は城中の冬木立へ群れる鵙だの雀だのという小禽が、何よりもよい食物と兵に狙われて捕られたため、近頃は鳥も知ってきたか、少しも城内の木には集まって来ない。鴉を喰ったことはたいへんな数で、その鴉さえほとんど手に入るのが稀れになったほどである。  ──がさっと、何か暗闇のなかで、鼬の駈けるような物音がしても、哨兵はすぐ、眼をひからせた。本能的に胃が胃液を滲出するため、その後では、きっと、 「腹が絞られるように痛い」  と顔をしかめ合うのだった。  その晩は、月がよかった。だが、城兵は、 「ああ。──月は喰えない」  と喞った。  見張っている寨や、城門の屋根に、わらわらと、落葉がこぼれてくる。ひとりの兵は、むしゃむしゃと紅葉を喰っていた。 「うまいか」  ひとりの哨兵が聞くと、 「藁よりはましだよ」  と、また一つかみ拾って喰う。  だが、忽ち、こそばゆくなったとみえ、しきりに咳をして、喰っただけの紅葉を吐き出していた。 「……あッ、御家老が」  誰か、突然、呟くと、みな気を緊め直して、槍の穂へ、確と、意志を示し直していた。──ひた、ひたと、ただ一人で、灯の気のない本丸のほうから歩いて来る人影がある。別所家の家老、後藤将監基国であった。 「やあ、大儀だのう。ご苦労だのう。何も変ったことはないか」 「べっして異状はございません」 「そうか……」  と、将監は、片手に携えていた矢を示して、 「夕方、平井山の敵陣から、この矢を射こんで来た。矢文を負わせて。……それによると、羽柴の客将、黒田官兵衛孝高が、こよいわしに面談したいとかで、これへ訪れてくることになっている」 「なに、官兵衛が、来ますと。──故主に反いて、織田の陣営に奔った中国武士の面よごし、参ったら、なぶり殺しだ。ただはおけん」 「いやいや、秀吉の使者として、あらかじめ、矢文で通告して来るものを、斬ってはならん。使者を殺すなかれ、これは兵家のあいだの約束だ」 「敵将でも、ほかの者ならともかく、官兵衛とあっては、肉を啖っても飽きたらぬ気がします」 「敵に、肚の底を、見すかされまいぞ。むしろ笑って迎えろ、笑って──」  と、将監がなだめているとき、ふと、それは非常に遠く、また断続してではあるが、琴かと思われるような音が、人々の耳に聞えて来た。  そのとき三木の城は、ふしぎな静寂に囚われていた。墨のような一色の夜の底には、呼吸する人の気もなく、空には颷々と影なく形なく舞う落葉の声が不気味に翔けめぐって──。 「あッ? ……。琴だ」  ひとりの兵が、突然、眼を宙へあげて呻いた。  じっと、立ち竦み合っていたほかの兵も、その声につられて、 「おお、琴の音がする! ……」 「琴の音だ! ……」  と、さもさもなつかしいものにでも巡り会ったように、眼をほそめ、耳をすまして、聞き恍れていた。  ここばかりでなく、恐らくは、櫓の上でも、武者溜りでも、支塁のここかしこでも、一瞬悉く同じ思いに囚われたのではなかろうか。  矢かぜ、銃音、雄叫びに、明けては暮れ、暮れては明け、ここ三年のあいだというもの、まったく家なく身なく骨肉なく──ただこの一城を中心に、飢えても傷ついても、屈せず退かず、鬼のごとく立て籠って来たひたぶるな身に──ふと聞えてきた琴の音は、卒然と、この中の将士の心に、さまざまな思いを喚び起させた。 ふるさとは こよひかぎりの命とも 知らでや人の われを待つらむ  元弘の忠臣菊池武時が、賊将少弐大友の軍に包囲されて、最期の孤塁から家郷の妻を思い、一子武重に歌を託して、母の許へ奔らせたというその辞世を──いまの自分に思いあわせて、思わず口誦さんだ人たちもあろう。  流離した老母を思い、絶えて消息のない子や弟妹のことを思い出した兵もあろう。いや、何も後顧はないこの身ひとつとしている兵にしても、石でない木でない有情の心琴を揺すぶられて、何とはない涙が眦からひとりでに垂れてくるのをみな、どうしようもなかった。 「…………」  家老の後藤将監も、まさにそうした中の一人だったが、あたりの兵の顔に気づいて、はっと、醒めたように、まず自分の心をとり直し、次に、城門の将士たちへ向って、わざと快活に、 「なに、寄手の陣地で、琴の音がすると。ばかなッ……。琴の音がなんじゃ。いずれ柔弱な上方勢のことだ、長陣に倦んで、里の唄い女でもつかまえて来て戯れているものだろう。そんなものに心を掻きみださるるなど、言語道断、もののふの鉄石心とは、そんな脆いものじゃない。のう、そんな脆いものじゃあるまい」  と、鼓舞しながら、すぐことばを続けて、各〻、われに返った顔へ、 「それよりは、持場持場の守りを怠るな。この城寨はちょうど、洪水の濁流を、じっと防いでいる堤と同じだ。堤は蜿蜒と長いが、寸土でも一尺でも、崩れたがさいご全部の破滅だ。──各〻の胸幅と胸幅をつなぎあって死すともうごくな。三木の城は、誰それの持場から破れて全城ついに陥ちたりなどといわれたら──貴さまたちの先祖はこの国の地下で哭くぞ。貴さまたちの子孫はこの国のあるかぎり笑いものの汚名を負うぞ。いいか、たのむぞ」  さらに、将監が、こう励ましているときであった。城下の坂下から、二、三の兵が駈けあがって来るのが見えた。──あらかじめ矢文をもって予告のあった敵方の客将黒田官兵衛孝高が、いま輿にのって、山下の柵門まで来た──という報らせであった。  官兵衛孝高は、輿の上で待っていた。  輿は木と藁と竹でつくられた軽いものである。屋根の蓋もなく、両側の腰も浅く、革紐を十文字綾に懸けて、わずかに身を支える程度にとどめ、輿上に坐ながら、大剣を揮って敵と戦闘するに便ならしめてある。  こういう構造なので、担い棒は挿し渡しでなく、前後べつべつに附いている。それを士卒四人が、あと先に別れて担ぎ、千軍万馬の中をも、駈けまわるのであった。  ──が、今夜の彼は、平和の使者である。官兵衛は黄の鎧下着に、卯の花おどしの具足を着、白地銀襴の陣羽織をつけて、輿のうえにあぐらを組んでいた。非常に都合のいいことには、彼は五尺一、二寸ぐらいな小男であり、体重も人より軽いので、士卒の肩も楽だったし、彼自身もそう窮屈を覚えなかった。  城寨の門の内で、やがて、たたたっと足音が聞えた。幾人かの城兵が坂の上から駈け戻って来たものらしい。 「お使い。通んなさいッ」  いかつい声と一緒に、眼のまえの柵門が大きく口を開けた。暗闇の中にひしめく兵の影は、一団百人以上もいるかと見えた。その波の揺れるたびに、閃々と槍の穂が瞳を刺す。 「大儀でござった」  と挨拶して、官兵衛は、 「それがしは、跛行でござれば、輿のまま罷り通る。無礼をゆるされよ」  と、断って、ただひとり供として連れて来た子息の松千代長政(松寿丸)のすがたを後ろにふり向き、 「松千代。先に立て」  と、命じた。 「はいッ」  と、父の輿の前へまわって、松千代は、敵兵の槍の中をまっ直ぐに歩いて行った──。輿は、四人の士卒に担われて、その後から柵門へ入ってゆく。  十三歳の一少年と、跛行の武者とが、悪びれた様子もなく、使いとして、自分たちの陣営に入って来たのを見ると、殺気立っていた餓狼のような城兵も、敵ながらこの父子を憎む気もちは起らなかった。──自分たちの臥薪嘗胆している戦いの苦しみを、ひとしく敵もしているものと、おたがい、もののふ同士の立場を思いやって、むしろ一種の同情すら抱いた。  柵を通り、城門をくぐり、やがて中門へかかると、そこに家老の後藤将監と城士の精鋭級が、厳然と、白眼を揃えて、来る者を待っていた。 (なるほど、これでは、食糧がなくなったくらいでは、なかなか陥落ないわけ、石にかじりついても、この城はこの人々で守られよう……)  官兵衛はここへ来るまでのあいだに、なお少しも衰えていない城兵の士気を見て、いよいよ自分の任の重きを感じた。──それはまた直ちに、主君秀吉の直面している現状の容易ならない立場が、思いやらるる深憂ともなった。── (どうしても、自分の託されている使命は、首尾よく果して、亡き半兵衛どのの霊をなぐさめ、また殿の直面しておらるる長囲難攻の御困難をも、ここで打開し去らなければならん)  と、独り心に誓いかため直していた。  今、そうした彼のすがたを、目前に迎えた後藤将監以下、城方の人々も、 「──これは」  と意外な思いに打たれた面持であった。  前年以来、勝ち誇っている寄手の敵将、さだめし威儀をつくろい、傲然ここへ臨むと思いのほか──供といえば可憐な一少年ひとりしか見えない。そして当の官兵衛は、将監のすがたを見かけると、いそいで輿を地上に降ろさせ、不自由な隻脚を立てて、 「やあ、別所どのの御家老、後藤基国どのとは、あなたでござったか。黒田官兵衛です。お使いに参りました。筑前守秀吉の代人として。──やあ、方々には、おそろいでお迎え、恐縮です」  と、にこやかに挨拶する容子、いかにも磊落で、しかも何の衒いも見えなかった。 父と父  敵中に使いした官兵衛の印象は、案外、敵に好感をもたれた。  君も武士、我も武士、もののふの慣いにこそ──と、勝敗の立場は度外して、心をもって心に接して行ったからであろう。  けれど、これだけで、彼の使命とする──開城降伏の勧告──を敵がうけ容れるわけではない。  燈火もない城中の一室で、後藤将監と会見、半刻ほどの後、官兵衛から、 「では、お答えを待つ」  と、席を立つと、 「いずれ、主人長治や諸将とも評議のうえ、御返辞つかまつる」  と、将監も立った。  こうして、会見当夜のもようでは存外、この交渉は、成立を見るかと思われたが、以来、五日経ち七日経ち十日経っても、城方からの返辞は音沙汰もなく過ぎた。  冬は、十二月に入り、とうとう対陣のまま第三年の正月を迎えてしまった。  尠なくも、寄手方たる平井山の陣営では、餅もつき、将士は少しずつの酒も頒けてのんだが、 「城方では」  と、敵ながら、この正月を、一体どうして露命を繋いでいるやら、何を食って生きているやらと──偲びやらずにいられなかった。  官兵衛の使いした十一月の末から十二月に通じて、三木の城は、実に、寂莫としたものをひそめて、沈黙していた。もう寄手に撃つべき鉄砲の弾すらないことは読めていた。けれど秀吉も今は、 「おそらく、城の余命も長くはあるまい」  とみて、無下な強襲も抑えていた。  単に、こうして、根競べというだけならば、秀吉のいまの立場は、決して困難とも逆境ともいえないが──この平井山の陣営も彼の立場も、決して、秀吉一箇の独立した戦いではなく──要するに信長の制覇に対抗する西、南、東、北の敵性連環の一角にぶつかって、その包囲環に撃破の穴をあけようとしている信長自体の、手脚の一つである秀吉に過ぎないのだ。従って、その主体たる信長の感情は、 (なにを、無為無策に)  と、前線の長陣を、焦々思っているかも知れないし、また日頃、秀吉にこころよからぬ周囲の者どもも、 (筑前どのには、始めから荷の勝つ大役)  とか、 (このまま、彼一手に、お任せおきあっては)  とか、さまざまな誹謗も行われていることは、疑いもないことだった。──その証拠には、やれ、秀吉は土着民の人気取りばかりやって、無用な軍用金を冗費しているとか、陣中の将士の反感をおそれて、飲酒の禁も厳格でないとか、何とかかとか、信長へ聞えてゆくほどな問題でもない些事がいちいち中央に聞えて行って、それが微妙な中傷の材料とされているのを見てもよく分ることだった。  ──が、秀吉は決して気にもとめなかった。彼も人間であり、ふつうの感情の持主である以上、眼中にないというわけではないが、 (些事は、どこまでも些事、糺せばいつでも明白なこと)  として気に病まないだけのことであった。  ただ、彼が憂いとしているのは、何といっても、西の強大、毛利というものが、かかるあいだに、着々と国内態勢をととのえ、また大坂本願寺の強固な勢力といよいよ緊密な作戦をこらし、東は遠く北条、武田に呼びかけ、北は丹波の波多野一族から裏日本の諸豪を誘導し、全日本にわたる鉄のごとき反信長陣の聯合を一日ましに強めてゆくことであった。  その力の、いかに隠然と、大きなものかは、現在、中央軍の直面している荒木村重一族の一伊丹城すら、いまもって、陥ちないことを見てもわかる。村重一族が頼んでいるのも、ここの別所一族が頑張っているのも、すべて自力とその城壁ではなく、 (いまに毛利軍が大挙して、救いに来る! 信長を撃つ!)  それなのである。  およそ始末のわるいものは、正面の敵でなく、陰の敵である。  石山本願寺、西国の毛利、こう両面の二つの旧大勢力こそ、まさしく信長の敵だったが、直接、死にもの狂いに信長の理想へ組みついて来ているものは、伊丹の荒木村重であり、ここでは三木城の別所長治などだった。 「可惜、胸と胸を打ち割って、語りあえば分る──敵ならぬ敵と、かくも死闘して、かくも長い月日をここに費やすとは」  と、こよいも秀吉は、慨然と、篝火を焚かせて、夜寒をしのいでいたが、ふと、うしろを振り向くと、そこには何の屈託も知らない小姓組のうちでも、年少な小つぶばかりが焚火に寄って、一月の寒さというのに、半裸体になり合って何かおかしげに騒いでいる。 「佐吉、松千代。おまえたちはさっきから、一体、何をはしゃいでいるのだ」  羨ましげに、秀吉が訊くと、近頃、小姓組の仲間に入った黒田松千代が、 「何でもありません」  と、あわてて肌を入れて、具足を着直した。  すると、石田佐吉が、 「殿さま。松千代どのは、穢いことと、お耳に入れるのを憚って、お答えを避けましたが、申しあげないと、御不審かもしれませんから、私から申しまする」 「ムム。何じゃ穢いこととは?」 「みんなして、虱を捕り合っていたのでございます」 「虱を」 「ええ。いちばん初めは、助作どのが、私の襟に這っていたのを見つけ、それから虎之助どのが、仙石どのの袖にも見つけ、みんなして、移るぞ移るぞといって、からかっているうち、こうして焚火にぬくもっていたものですから、誰の姿を見ても鎧の上に、虱がぞろぞろ這い出して来ました。──それから急に痒くなって、敵の大軍をみなごろしにするのだ、叡山の焼討ちだなどと、肌着の大掃除をやっていたところでございます」 「はははは。そうか。こう長の陣では、虱も籠城につかれたろう」 「けれど、三木城とちがって、ここには兵糧が豊かですから、焼討ちでもしないと陥ちません」 「もうよせ。そのはなしは。わしも痒くなった」 「殿さまも、もう幾十日、お風呂をお浴びなさらないかしれません。きっと殿さまのお肌にも、雲霞のごとく、敵が立て籠っているかもしれませんよ」 「佐吉。よせと申すに」  秀吉は、わざと、彼らに体をゆすぶってみせた。小姓たちは、自分ばかりが虱たかりでないことを証明されると、大よろこびに歓んで、 「ハハハハ」  と、雀躍りせんばかりくるくる廻った。  すると陣幕の外から陽気な笑い声と温かい煙にみちたここを覗いて、 「お小姓組の黒田松千代どのはここにおいでか」  と、ひとりの兵がたずねていた。 「はいッ、おります」  立ってゆくと、それは父の部下だった。 「御用の折でなければ、ちょっとお越しあるようにと、あちらのお小屋で、お父上が召されておられますが」  松千代は、秀吉の前に行って、 「参ってもよろしいでしょうか」  と、ゆるしを仰いだ。  はて──? と秀吉はそれへ眼をそそいでいた容子である。平常あまりないことだからである。しかしすぐ頷いて、 「行って来い」  と、いった。  松千代は父の家来に従いて駈けて行った。陣屋陣屋ではどこも火を焚いていた。またどこの部隊も陽気だった。もう餅も酒もないけれど、正月気分は幾ぶんかまだ残っている。──こよいは一月十五日だった。  父は陣屋の中にいなかった。この寒いのに、仮屋からずっと離れた山鼻の一端に、床几をおかせて、腰をかけていた。  吹き曝しである。見晴らすには何の邪魔物もないだけに、寒風は好き勝手に肌をめぐって血も凍えるばかりである。が、官兵衛孝高は、まるで木彫の武者像のように、ひろい闇へ向って、じっとしていた。 「父上、松千代にございますが」  そばへ来て、ひざまずいた子のすがたへ、彼は初めて、少し身を動かした。 「殿のおゆるしを得て来たか」 「はい。お断りして来ました」 「しからば、しばしの間、父に代って、ここの床几に腰かけておれ」 「はい」 「眸はしかと、ここから真正面の三木城をにらんでおれ。──というても、星さえ暗い、城の方には、一点の灯もない。おそらく見えまいが、じいっと、眸をこらしているうちに、自然、太虚のうちにも、うッすらと見えて来る。城の影が、敵の気はいが……」 「御用とは、それだけでございますか」 「それだけだ」  と、床几を譲って── 「ここ両三日からだ。この父がみるところでは、何となく、城の内に、ものの動きが感じられる。ここ半年以上もたえて見なかった煙なども立ち昇った……城をつつむ唯一の目かくしとなる木立なども、惜し気もなく伐り下ろして焚物にしている形跡がある。深夜、心耳をすまして、ここから聞けば、哭くような、笑うような、名状し難い人の声もするように思われる……いずれにせよ、この正月の松の内をこえて、彼らのなかに、一つの変ったうごきが起りつつあるのは事実だ」 「……あ。そうでしょうか」 「とはいえ、それは象で現ているものではない。うかと放言して、味方に徒らな緊張を起させ、誤っては、父の失態、また敵に乗ぜられる虚を作る。……ただ父はそれを感じておるため、こうして、おとといの夜も、昨夜も、床几をすえて、城を観ていたのじゃ。眼で観るのではなく──心眼をもって」 「むずかしい見張りでございますが」 「そうだ。むずかしい、がまた、やさしいともいえる。心さえ澄明にしておればよいのだ、妄想なく。──それゆえに、他の士卒には、命じておかれぬ。しばしだが、そちに代らせておくわけじゃ」 「わかりました」 「居眠るなよ。肌をさす寒風の中だが、馴れると、ふしぎに眠うなる」 「大丈夫でございます」 「そしてもし……ひとたび城方の方に、チラとでも、火の気を認めたら、すぐ諸将に諮れ。また、明らかに、城中の兵が、どこか一方から、城外へ出て来るなと見たら──それ、そこにある狼烟筒にすぐ火縄を投げこんで、それから殿さまのところへ駈けてゆけ」 「畏まりました」  松千代は、眼のまえの大地に埋けてあるのろし筒へ、そっと眼を落しながらうなずいた。  戦陣なので、当然ではあるが、彼の父は、彼に対して、いちどでも、辛いかとか、痛いかとか、慰めらしいことばをかけたためしがない。──けれど、事にふれ、折にふれ、こうして絶えず兵学の常識を教えて下さるのだとは、松千代にもよく分っていた。そして厳かな中にも、人知れぬ温かみを感じ得ている自分を、またなき仕合せ者と思っていた。  官兵衛は杖をついて、そこから仮屋の方へ歩み出していた。黙々と、ひとり山を下って行くらしい様子なので、従者が、あわてて、 「どちらへ?」  と、訊ねたが、官兵衛は、 「──麓まで」  と、簡単に答え、なお、 「輿は要らんぞ、輿はいらんぞ」  手を振りながら──跛行ではあるが──上手に杖にすがりながら、ぴょんぴょんと、軽く跳ぶように山道を降り始めていた。  あらかじめ、供に従いてゆく者は、命じられてあったとみえて、母里太兵衛、栗山善助のふたりが、それと見て、彼のあとから駈け下りて行った。 「殿、殿」 「お待ち下さいまし」  官兵衛は、杖をとめて、 「おう、両名か」  と、山の中腹で振り返った。 「お早いのには驚き入ります。御不自由なお脚下で、お怪我をあそばすといけません」 「ははは。跛行もだいぶ引き馴れて参った。気をつこうて歩くと却って転ぶ。ちか頃は、勘で跳ぶのじゃ、こつで歩くのじゃよ。見栄はいらんからのう」 「合戦の中ではいかがですか」 「戦場は輿にかぎる。乱軍となれば、双手に剣もつかえるし、敵の槍を奪って、突き返すことも自在。ただし、進退の駈引は、まことにままにならぬが」 「さこそと、お察しいたしております」 「けれどやはり輿にかぎるな。輿の上から雪崩れ打つ敵軍を眺めやると、むらむらと満身から大気が発する。叱咜する自分の声に、敵も退くかと思われる」 「……あ。危のうございます。この辺の崖道、山陰に雪があるため、雪解のしずくで辷りまする」 「下は渓流だな」 「お負いいたしましょう」  母里太兵衛が、背を向けた。官兵衛は、負われて渓流を越えた。  さて、何処へ行くのか?  それをまだ家来の二人とも聞いていない。つい今し方、麓の柵から、一人の武者が使いに来て、官兵衛の手へ何やら一通の書面を手渡して行ったのは見ていたが──それにしても何用が起ったのか、想像もつかない。  ただ松千代を呼びにやったとき、同時に、ほかの部署についていた太兵衛と善助へ、麓へ参るとき供して行け──ということばはうけていたが、内容はまだ聞いていないのである。 「殿……」  だいぶ歩いてから、ふと、そのことにふれてみた。栗山善助の口からである。 「こよいは何ぞ麓の陣地にあるお味方の部将から、お招きでもあって臨まれますので?」  すると官兵衛は、からからと笑って、 「なに馳走にでも、呼ばれて行くというのか。いつまで、正月をしていられるものぞ。筑前どののお茶会もすんだし……」 「では、どちらへ」 「行く先か」 「さればです」 「三木川の柵だ」 「えッ、河原の柵へ。あの辺は危険です」 「もちろん危ない。だが、敵にとっても、危ないところだ。ちょうど、相互の陣地と陣地が、相接しているところだから」 「それでは、もっと御人数を……」 「いやいや、敵も大勢は引き連れて来ぬ。従者一名に子どもひとりぐらいだろう」 「子どもを……」 「そうだ」 「解しかねまするが」 「まあ、黙って来い。知れても悪いことではないが、ひそかな方が、今のうちはよい。筑前どのへも、落城のあとになって、御披露に及ぼうと思うている」 「城は陥ちましょうか」 「陥ちないでどうする」 「失言しました。近いうちにと申し足すのを忘れました」 「まず、落城も、ここ両三日を出ることはあるまい。まかりちがえば、明日にも」 「えッ、明日にも?」  ふたりは、孝高の顔を見まもった。その面に、はや仄白く、水明りがうごいていた。──蕭条として、そよぐ枯れ蘆、瀬の水音も耳を打ってくる。  母里太兵衛と栗山善助のふたりは、そのときギクと足を竦めた。  河原の蘆の中に、敵らしい人影を見たからだった。 「やッ? ……何者か」  次の愕きは、刹那のそれとは違っていた。敵方の大将らしい者には相違ないが、ひとりの従者に幼児を担わせ、それ以外に、郎党もつれていないし、敵対して来る容子も見えない。──こちらから歩みよって行くのを、凝然、待つもののように佇んでいるだけだった。 「その方たちは、ここでしばらく待っておれ」  官兵衛のことばである。すべては主人の意中にあるものと察して、 「お気をつけて」  のみ答えながら、先へ歩いてゆく主人の影を見まもっていた。  官兵衛が近づいて行くと、蘆の中に佇んでいた敵も、すこし前へ歩み出して来た。そして相見るやいかにも昵懇そうに挨拶を交わしていた。十年の知己でもあるかのように。  かかる場所で、かかる敵味方のあいだで、こういう密会をしているのを認められたら、直ちに、敵へ気脈を通じるものと疑われよう。──が、二人はほとんど無関心であるものの如く、四方山の話など交わして、その末に、 「書面をもって、厚顔しくも、お願い申しあげたわが子とは、それに背負わせて来た幼児でござる。この戦陣の中、明日にも城とともに相果てる身をもちながら、なお煩悩な親心とおわらい下さるまい。……余りにもまだ何も知らぬ頑是ない者にござりますれば」  こういっているのは、敵方の将だった。それは、三木城の家老、後藤将監基国にちがいない。官兵衛孝高が昵懇のものといえば、去年の晩秋のころ、秀吉の使いとして、降伏の勧告に赴いたとき、親しく城中で会見したことがあるという──その後藤将監以外に、知っているものはないはずである。 「やあ、それへ、お連れ召されたか。どれどれ、お会い申そう。……御家来、背から下ろして、その和子をこれへ」  やさしく麾いているのは、官兵衛孝高である。将監の従者は、主人のうしろからおそるおそる進んで、背に紐で十文字に負って来た幼い者を解いて下ろした。 「お幾歳じゃ」 「お八ツにおなり遊ばします」  日頃から傅役として侍いていた郎党であろう。解いた紐で眼の涙を拭きながら、答えると、辞儀をして、うしろへ退った。 「お名は」  こんどは、父なる人の将監が答えて、 「巌之助といいます。母もすでに亡し……父もやがて。──官兵衛どの、切に、行く末よろしくご養育を」 「お案じあるな。それがしもまた子をもつ父。あなたの父としてのお気持はよう分る。かならずそれがしの手にお育て申して、成人の後は、後藤の家名を絶やさすまい」 「それ聞いて……あすの夜明けは……心おきなく討死ができまする……巌之助よ」  と、将監基国は、そこへ膝を折って具足のふところに幼いわが子を抱えて云い諭した。 「いま申す父のことばを、よう聞けよ、そちもはや八歳。さむらいの子というものは、いかなる時でも泣くではない。まだ元服とて遠い先だし、常の世なれば、母も恋し、父のそばにもいたい年頃であろうが──世のなかは今、このとおり合戦の真ッただ中じゃ。父にわかるるも是非なし、また君と共に死ぬるも当然、すべて、そなた独りが不運というのではない。まだまだそちは、こよいまで、父の側におっただけ仕合せ者──よう天地の神さまに、その仕合せをありがとうござりますとお礼をいえ。よいか……。そしてこよいからは、あれにおらるるお方──黒田官兵衛孝高様のそばにて、御主人とも、育ての親とも、大切に仕えるのじゃぞ。……わかったか。わかったであろうな」  頭を撫でて、こう云い聞かせると、巌之助は、黙って幾たびも頷いた。ぽろぽろと涙はもとよりこぼしていたが。  三木城の運命も、いまは旦夕に迫っていた。城中数千のもの、もとより城主別所長治と、かたく死をちかい、潔く死ぬべく、斬って出る覚悟をしていた。  家老後藤将監も、もちろん鉄石の心に、今とて寸分の揺るぎもない。──だが、彼にはただひと粒の幼児、巌之助があった。この頑是ないものまでを、死なすにはしのびない。また武門の意義を負わせるには──余りにもまだ年少すぎる。  一見、敵ながら、頼みがいある人物とみていた官兵衛孝高に、彼は書を送って、 (父母なき一孤児を、養育して賜わるや)  と、意中を明かしてみた。 (父と父、武士と武士、相見たがいのこと、おひきうけした。明夜、三木川の畔までお連れあれ)  とは、将監がきょう手にした官兵衛からの返辞だった。  で、ここへ、わが子を従者に負わせて、連れて来たわけであったが、さすがに、あすは死を期している身だけに、 (これが最後)  と思うと、つい、子を諭しながらも、彼もまた、不覚の涙をどうしようもなかった。  突き放すように、 「巌之助。そちからも、ようおねがいせい」  と、膝を立てて、その可憐しいものを、官兵衛の方へ、わざと力づよく、追いやった。  官兵衛は、幼児の手をとって、 「かならず、お案じあるな」  と、くれぐれも約し、やがて母里太兵衛を呼んで、 「陣地まで、負って行け」  と、いいつけた。  太兵衛、善助のふたりも、初めて主人の心と、こよいの用向きを解した。心得て候と太兵衛が巌之助を負う。善助がそばに従いて行く。 「……では」 「では、これにて」  云いつつも、別れ難かった。官兵衛も、心を鬼にして、早く去ることが、情けだと思いながら、つい逡巡して、去りがてに、同じことばを繰り返していた。  ──と、将監基国は、 「官兵衛どの、あすは戦場で、お目にかかりますぞ。おさらば。──その折に、おたがい、こよいの私情にさし挟まれて、槍さきを鈍らせては、末代までの名折れ、まかりちがえば、あなたのお首を頂戴するやも知れぬ。貴公もまたおぬかりあるな」  と、笑って、さらに、 「さらば」  と、投げ捨てるようにいうやいな、足を早めて、すたすたと城の方へ駈けて行った。  官兵衛は、早速、平井山へもどると、秀吉の前に出て、敵将から託されたこの幼児を見せた。 「育ててやれ。よい善根だ。──それになかなかよい子ではないか」  いいものを拾ったといわないばかり、子ども好きな秀吉は、眼をみはって巌之助の顔を見たり、傍へ寄せて、頭を撫でまわしたりしていた。  おそらく、まだ何もわかるまい、この正月でわずか八つになったばかりの巌之助である。知らない小父さんばかりいるこの本陣の中では、ただ団栗のような丸い目をきょろきょろさせているだけだった。  後の──ずっと後年に。  黒田家の数ある武士の中でも、彼こそ真の黒田武士ぞ、と世にいわれた後藤又兵衛基次とは、このときの木から落ちた山猿みたいなこの一孤児、巌之助であった。  ここに、三木城も遂に陥落を告げる日が来た。天正八年正月十七日である。城主別所長治は、弟の友行、一族の治忠とともに割腹して、城を開き、家臣宇野卯右衛門を降使として、秀吉へ一書をもたらし、 (抗戦二年、武門の尽くすところは果した。ただ忠勇な部下数千と、一族の不愍なる者どもを、すべて殺すは情として忍びない。ねがわくば足下に託し、足下の寛大に仰ぎたいが、尊意如何)  と、あった。  もちろん秀吉は、欣然その潔きねがいをいれ、併せて、三木の城を収めた。 軍旗祭  降使、宇野卯右衛門が、長治以下、三名の首を献じて、三木城内にある数千の助命を仰いだ日、秀吉側からは、浅野弥兵衛が応接に出た。  検分もすみ、開城の手続きも、滞りなく、終った。  秀吉は、全軍に令して、 「城内から出て来る降人どもには、わけて懇ろにしてつかわせ。──まず、大釜に粥を煮かせ、飢えたるものには、温かい粥を。病人には薬を。怪我人には手当を」  と注意した。  開城の日はほとんど、そうした餓鬼振舞と、施薬などに暮れてしまった。  宥わる方も、宥わられる者も、いまはおたがいに熱い眼をもち合っていた。 「──秀長」  秀吉は、義弟の羽柴秀長を呼びよせて、こう告げた。 「三木の城は、この後、そちに守りを申しつける。こうして陥した大事な一城であるぞ。心してよく守れよ」 「はい」  秀長は、重責を感じたように、首をたれた。いうまでもなく、彼は後の大和大納言秀長である。幼時は、父こそちがうが、秀吉と同じ尾張中村の茅ら屋に生れ、同じ母のひざに甘え、同じ貧苦と寒飢の中に育てられてきた骨肉である。──が今は、兄の力に励まされ引き上げられ、彼も一箇の部将として洲股、長浜以来、つねに秀吉の出陣といえば従軍していた。  この際──  秀吉が、三木城へ、弟を入れて、ここを引き払ったのは、彼の意志でなく、もっぱら官兵衛孝高の献言によるところが多かった。  秀吉としては、自身、三木城に入るつもりだったが、 (不得策です。──播磨一円を抑えるには、よろしく、姫路に拠るべしです)  と、官兵衛が力説したのである。  要害の堅城というのでは、三木の地形がすぐれている。しかし、領政交通の利は、断じて姫路が優っている。なお、中国の攻略、四国の征定など、将来の大計を考えれば、姫路城に拠点をおくことの利は、議論の余地もない。 「しかし……」  と、遠慮ぶかそうに秀吉はいった。 「姫路の城は、前々よりお許ら父子一族の住居ではないか。秀吉が入城しては」 「なんの、それがしどもへは、べつに一城を取って下し賜わらば結構です」 「うむ。そうするか」 「自慢ではありませんが、姫路の城は、南に飾磨の津をいだき、舟行の便はいうまでも候わず、高砂、屋島などへの通いもよく、市川、加古川、伊保川などの河川をめぐらし、書写山、増位山などの嶮を負い、中国の要所に位し、中央へも便ですから、大事をなすにはあの地に如くはありません」  ──で秀吉は、一も二もなく姫路へ入ったのであった。  黒田父子の主人筋で、一たん織田方へ味方しながら、中道で寝返りを打った御著の小寺政職は、三木陥落と聞くやいな、戦いもせず、居城御著をすてて、備後方面へ潰走してしまった。  世間は、もの笑いにした。しかし官兵衛孝高は、 「惜しむべし、惜しむべし」  と、痛嘆幾たび、このみじめな主家の末路に哭いた。  後のことにはなるが──彼がいかに末路の主家を悲しんだかということは、その後天正十年、流寓落魄の果てに、備後の鞆で政職が死んだとき、その子氏職が、落ちぶれ果てているのを求め、信長に詫び、秀吉にすがり、旧主の子の助命に骨を折って、黒田家の客分として迎え、故主の旧恩にむくうことを忘れなかった事実を見てもよくわかる。  君君たらずといえども臣臣たり、──智あるも智に溺れず、彼は真面目な漢であった。  中国探題の居城として、まさに姫路は絶好な拠点だった。秀吉はそこに移るとすぐ、 「この城郭もよいが、様式のすべてが旧い。この城の設けられたときは、一地方の防塞として築かれたのだろうが、いまは時代がちがう、目的もちがう。信長公の図南西覇の基点として、秀吉がその前駆をうけたまわるところのもの。もそっと、雄大たらねばならん、重鎮の風を示さねばならん」  一族の浅野弥兵衛にこう命じて、直ちに改築──というよりはまったく新たに規模を革めて、その工事に着手させたのだった。  彼の建築好きは、いわゆる私生活中心のそれとはちがう。建設好きなのである。信長が旧態を壊してゆくそばから、彼は新しいものを建ててゆく。信長の性格は、破壊によくあらわれ、秀吉の特性は、その建設好きによく出てくる。 「こんな大工事を起されて、信長公からお疑いをうけはしませんか」  官兵衛は心配した。信長の一面を知っているし、懲りていることもあるからである。が、秀吉は、 「だいじょうぶ──」  と、笑って、 「この城に、わしの母や妻子を入れさえしなければ。……わしの母や妻は長浜に置いてあるじゃないか」  と、いった。 「いかにも」  官兵衛もうなずいた。 「ところで、孝高。──足下は御著の城へ入って住め。幸いに、小寺政職が捨てて逃げたからそのあとへ」 「過分です」 「いや、お礼などは、却って、こちらが過分に存ずる。あの御著に住むには、なおなかなか骨が折れよう。──今もって、毛利に属する英賀城に三木通秋、山崎城に宇野祐清、朝水山城に宇野政頼など──あちこちに、うるさいのが、頑張っておる」 「お案じには及びません。その程度の、小城、山城などは、ひとつひとつ暇をみては、ふみ潰して参りますれば」 「──と存じて、御著に赴かれるようにたのみ申すのだ。何分たのむ。──そして岡山の宇喜多直家と聯絡をとられ、児島地方に砦をかためて、一先ずは、毛利の大軍をそこに喰いとめておかれよ。秀吉、但馬、播磨のうちの諸般にわたり、一掃除すました上は、直ちに、第二段の策に乗り出して合体申せば」  その約束は、六月から七月にかけて果された。占領地の内政やら、城郭の大改築、軍の再整備などがすむと──七月の二十日、御著の官兵衛の麾下を誘い、総軍、因幡、伯耆へ入った。  この二ヵ国にあった地方の小群雄も、西の毛利と、東の織田を見くらべて、きょうまでは叛服常なく、あしたに和を乞い、夕べには裏切り、始末の悪い存在だったが、秀吉の旗幟をいま眼前に見ると、ことごとく陣前に来て降順を約した。  ここに、中国攻進の覇業は、いちじるしく曙光を見た。──一時は、暗澹たる前途を思わせたが、三木一城の陥落以後、急速に、秀吉の軍威は振って、但馬、播磨、因幡、伯耆の四ヵ国はいまや完全に新しき勢力下に置かれることになった。 「──ああせめて、もう半歳も竹中半兵衛が生きていたら」  と、秀吉は、地下の人に、これを見せてやりたいと思うにつけ、 「官兵衛孝高の終始一貫変らぬ信義こそ、きょうある第一の功」  と、書をもって、信長に乞い、彼のために、播州で一万石の領土と感状とを乞いうけて与えた。  官兵衛は、初めてここに、大名の列に加わったのである。  また、それまでは、旧主小寺家からもらった小寺姓をも名乗っていたが、この時から、旧姓をまったく廃して、黒田姓ひとつに回った。  後の黒田如水──官兵衛孝高もこうして今や自他ともにゆるす一箇の武将とはなった。生れもつかぬ片脚の身は不具にこそなったものの、男のすがたの疵にはならない。  その後もまた官兵衛には、加増の恩命があって、城地御著から山崎の城へ移された。  重なる歓びを、家中の諸士にも頒つため──また戦風陣雨の幾春秋をきょうまで各〻の不惜身命の印ともふり翳して来た陣旗を祠るために、一日、大振舞いをほどこした。  救民を賑わし、町屋も業を休み、城中の諸士は、無礼講とあって、正月のように、昼から頬を赤く染めていた。 「あれ見い。きょうから戴くわれわれの軍旗を」 「御家紋も定められたな」  もの珍しげに、人々は、城頭を仰ぎあった。  それまでの旗幟は黒田家として定まったものもなく、仏号、星の名、干支などを、その時々に書いたものを用いていたが、そういう祈祷的なものであってはならぬと、官兵衛孝高がその地の惣社大明神に七日間の禊をとって、神前に新しい旗幟をたてならべ、神酒をささげ、のりとを奉じ、家士一統、潔斎して、 「士魂のうえ、常に神あり。神いますところ、四時、この旗あり。──誓って神意にたがい申すまじ事」  と、宣誓の式をとり行い、やがて城頭に翻したものである。  それはまたおそろしく大きな旗幟だった。幅は練絹で三幅。長さは一丈三尺。上下一尺五寸ほどは黒く染めて、上部の黒の中には永楽銭の紋を染め出し、その竿頭には「まねき」と呼ぶ一幅三尺ぐらいな五色の布を虹のごとく吹き流してある。  馬印も、それにつれて、雄大なものだった。余りに、これ見よがしに過ぎはしまいかと、家臣のひとりが、官兵衛にいうと、 「否々。筑前どのは、なべて豪気雄大の風がお好きだ」  と、彼は答えた。  また、従来の永楽銭の紋のほかに、藤の花を巴にした紋を定紋に加えた。これも官兵衛の考案とあるので、家中の人々は、何で藤巴を選んだか、彼の心を酌みかねていたが、きょう軍旗祭の神酒を一同していただく席上で、官兵衛からこういう話があった。 「──かつて、わしが伊丹城の獄中に囚われていたとき、獄舎の窓に、藤の花が咲いていた。この藤の花が咲きみつる頃は、到底、わが生命はあるまいと、朝に見、夕べに見、密かに覚悟をきめていた。……然るに、はからず、そち達の忠義や、また筑前どのや竹中半兵衛の情誼により、ふたたび世の陽の目を仰ぐ身とはなった。──そこでみずから怖るることは、かく隻脚の不具となっても、年月経てば、いつか往年の苦しみも恩も忘れ、横着なわがままごころが、とかく不足を思い出すもの。そうあっては勿体なし、そちたちの忠義にも、亡友の恩にもすまぬ……と、わざと、定紋に藤をえらび、小袖の紋を見れば、すぐ伊丹の獄中を思い出すようにいたしたのじゃ。……われ一生の事のみではない。子々孫々忘れぬようにな」  ──軍旗祭の祝いに、秀吉もその日、わざわざ山崎へ来て、歓をともにした。旗幟や馬印を見て、 「豪腹豪腹。官兵衛らしい」  と、非常に恐悦していた。  官兵衛はその日、一通の古手紙を取り出して、 「これは、殿の前で焼き捨てたいと思う」  と、いった。 「なにか?」  と、怪しんで見ると、それは秀吉から官兵衛へ与えた自筆の書状である。中国発向のとき、  ──御身を兄弟とも思うぞ、永代粗略にはせぬ。  と書き送ったものである。 「こういうものがあっては、却ってよろしくありません。君臣の別は厳たるこそよけれです」  と、彼は、秀吉の目前で、焼きすててしまった。 醜ぐさ  ──ここで視野を一転しよう。  敏くも、時代の方向を、見さだめたつもりで、中国経略の途中から、突如、主将の秀吉を裏切り、また盟主信長に反抗を宣言して、伊丹の城にたてこもった荒木摂津守村重の孤立化こそ、見ものであり、笑止な存在となった。 (三木城は陥ちない)  彼は、こう見たので、呼応したものであった。  また、 (今に、毛利の水軍が、海路を舳艫相銜んで東上してくる。また陸からは、吉川、小早川の精鋭が播州を席巻し、秀吉をやぶり、諸豪を麾下に加えて、怒濤のごとく中央へ攻めてくる!)  そう固く信じていた。  なおなお、 (同時に、本願寺も起つ)  と思いこみ、 (裏日本からは、丹波の波多野を始め、越前の残党も、あわせてふるい立ち、驕児信長を、中央につつんで、ふくろ叩きとする)  とも空想していたのである。  いや、それは決して、彼の空想だけでもなかった。事前において、毛利家からは、 (かならず、水陸より攻めのぼる)  という誓紙も入っていたし、細目にわたる攻守同盟の約文も交わされていたのである。  ところが。  一昨年六月、叛旗をたてて籠城以来、その秋になっても、毛利は進出して来ない。冬になっても、年は明けても、形勢は変ってこない。  さらに、一年を籠城し、ことしこそは、毛利輝元自身も、吉川、小早川も、西ノ宮附近に上陸し、大挙、信長を圧して来るかと見えたが──依然、その包囲は、示威恫喝にとどまっていた。  とこうするうち、三木の城もはや危ういと聞えて来た。 「三木の城さえ救い得ない毛利軍だとすると? ……」  と、村重もあわてだしたが、事すでに遅しである。 「しまった! 恃むべからざるものをおれは恃んだ!」  いまは足ずりして、独り自己の迷妄と暗愚を羞じるしかなかった。  顧みれば、左右の腕とも頼んでいた中川瀬兵衛、高山右近もすでに敵の招降に従って、伊丹の運命は見離されていた。  孤立。そこにしか、自己を見出し得なかった。  頻々、あらゆる方法で、毛利に来援を催促しても、 (八月には攻めのぼらん)  と、いい、 (九月には事故あれば、十月に至って援軍せん)  といい、返書のたび、猫の眼のように変るので、さしもの村重も、 (いかん!)  と、観念した。 主に引く 荒木ぞ弓の筈ちがひ 射るに射られぬ 有岡(伊丹)の城  寄手の者から世上にまで、こんな落首さえうたい囃されていた。当然、村重についてここに至った将兵の士気はひどく腐りきってしまった。九月の中旬頃である。足軽大将の中西新八郎、渡辺勘太夫、そのほか、だいぶな人数が、彼を見すてて脱走してしまった。  城を捨てて逃げて来た将士は、信長に降伏を願い出た。しかし信長は、 「ひとたび士道を廃らした降人ども、生かし飼うとも何の益にかなる。斬ってしまえ」  と、処置を命じ、ひとりも免し置かれなかった。  不義の旗、反臣の軍。村重もまた、毎日、散々に脱軍する部下を恨むこともならなかった。  信念を失った集団はもう何の力もないのみか、たがいにその腐敗を急いで、自解を早め合うだけだった。  次々と、部下の脱走がやまない中にあって、九月中旬の一夜、主将の荒木村重からして、一族の者にも無断で、極く身近な家臣五、六人を連れただけで、突然、城を脱け出し、尼ヶ崎方面へ逃げてしまった。 「何たることだ!」  あとの人々の憤慨はいうまでもない。各〻、足ずりして、村重の卑劣を罵った。  毛利に売られた荒木村重は、今また、その一族と部下を売ったのである。毛利の援助を恃み、主将の言を恃んで、共にこの城にたてこもった無数の人々は、いまやまったく見殺しに捨てられた。 「かくなる上は」  と、老臣の荒木久左衛門や、そのほかの歴々は、城を開いて、その妻子たちを人質として差出し、寄手の織田信澄へたいして、降参を申し出た。  その云い条もまた浅ましく、 「われわれども、袂をつらねて、村重に面会いたし、尼ヶ崎、花隈の二城も差出しますれば、なにとぞ、御仁恕をもって、一命だけはお救いおき下されたい。もしまた、村重がなお肯き容れぬ場合は、自分たちが一手となって、村重を討ち取り、尼ヶ崎、花隈の二要害も、寄手方に先立って、これを陥し、悉く信長公に献じ奉ります」  と、いうのである。  ──が一方、村重はなお、尼ヶ崎の支城にかくれて、頑迷に、無条件降伏には同意しない。自己の生命だけに執着しているからだった。  久左衛門たち一族は、持て余したか、うろたえたか、伊丹城へも戻らず、尼ヶ崎を乗り取る術もなく、 (身こそ大事)  と、ついにその醜劣な性根をあらわして、思い思いにそこから逃亡してしまった。  織田信長の寄手の一軍は、機をすかさず、伊丹城へ入って、これを占拠してしまった。  信長は、怒った。  敵国の崩壊は、当然、味方の大捷をここに齎すものだったが、それを歓ぶ前に、敵とはいえ、余りな醜さ、余りな卑劣に、武門人道のうえから、信長は持ち前の感情を激発して、 「いやしくも身を武門におきながら、末期に臨んで、妻子兄弟を人質に出して捨て去り、各〻身ひとつばかり助からんとするなど、弓矢の人なかには、前代未聞の醜事」  といい、 「醜類の面々、一匹も生けおくな。その妻子眷族も、見せしめのためすべて刑に梟けよ」  と、峻烈を極めた。  彼の憤りは、日本武士道の清節のために抑止できなかった。私憤よりも公憤のほうが大きかったのである。けれどその処分の苛烈が、醜類の敵だけに止まらず、かよわい妻子眷族にまで及んだので、世人はその酷たらしさに、みな面を蔽った。人間の美醜両性、ぜひない世相の一面とはいえ、いまその惨状を筆にするも傷ましい気がする。ざっと誌せば、その折、信長の手に捕われていた敵方の妻女百二十幾人と、その召使の女たち三百八十余人は、すべて、一ヵ所に集められ、鑓、薙刀、鉄砲の類で殺された。──その悲しみ叫ぶ声は、天地に谺して、眼に見、耳に聞いた人々は、十日も二十日もその日の記憶を忘れることができなかったということである。 歴々の上﨟たち、衣裳美々しく粧はれたるまま、かなはぬ道とさとり、並居たるを、さもあらけなき武士たち請取、その母親にいだかせて、引上げ引上げ張付にかけ──  とは、当時の見聞記に書かれている一節である。  処刑は苛烈を極めた。  それらの上﨟たちに仕えていた侍女、若党などの百何十人も、まわりに乾草を高く積んだ四つの空家に押し籠められて、一刻のまにみな焼き殺された。  また幼い子どもらや、その乳母などは、車一輛に、七、八人ずつ乗せ、それを幾輛もつらねて、京都の町々を引き廻しにして曝した。  六条の河原では、やがてそれらの可憐しい和子たちや女房たちの打首が執行された。 みな歴々の女房衆にてましませば、肌には経かたびら、色よき小袖うつくしく出立、少しも取みだれず神妙也。……中にもたし女と申すは、聞えある美人、かつてはかりにも人にまみゆる事もなきを、あらけなき雑色共に、小肱つかんで車に追ひ乗せらる。最期のときも、彼たし女と申すは帯しめ直し、髪高々とあげ、小袖のえり押しのけて、尋常に斬られ候也。いづれも最期よかりけり。 「信長公記」の筆者はその折の実状をこう書いている。たし女とは、村重の妻であるとも噂された。伊丹一城の男ばらが、前代未聞の醜態を巷に曝した中にあって、ともあれ、醜草の中にも花は花らしくと──一点の清香を放ったものであった。  それと、当時、世人の賞め者となって、ひそかに涙をそそがれたのは、荒木久左衛門の息子で十四歳になる少年と、伊丹安太夫の伜のわずか八歳といういたいけな幼児だった。  ふたりとも、死の座にひき立てられて来ても、少しも悪びれず、 「最期所はここか」  と訊ね、河原の素むしろに直ると、掌をあわせて、頸に刃を受けたという。 「何たるいさぎよさ」 「いじらしい和子たち」 「親の顔が見てやりたい」  それもこれもみな荒木一人の逆意から──不料簡から──と、世人はごうごうと彼の罪を責め、またこれらの人質を捨てて逃げた親たちを恨み罵った。  けれど、その荒木村重やその親たちを、憎むとも、 「科もない幼児や女房衆を、こうまで苛烈に遊ばさなくても」  と、世人は、信長の処刑の余りにも峻烈すぎたことにも、決してよい感じは抱かなかった。 「おそろしいお方ではある」  という畏怖のみが先だって、信長が、武門の節義を正すために敢えてした大乗的な憤りまでを読み知ることはできないのである。 「あのお方に叛いたものは、悉くこんな目にあうぞ。これはわざとこうして見せた右大臣様のおしめしじゃろ」  つとめて善意に解釈したつもりで、人々はまずこんなところで口をつぐんだ。そしてこの稀有な出来事を、一生のうちでも忌わしい見聞の尤なるものとして、みな少しも早く記憶から消し去ろうとするものの如くであった。  一方、伊丹城を始め、花隈や尼ヶ崎の支城を捨てて諸所へ逃げかくれた男らしからぬ男どもは、当然、見つかり次第討ち取られた。中には、 「世を捨てたら?」  と、寺へ駈け込んで、一夜に髪を剃りこぼち、きのうの具足太刀を、数珠法衣に着かえて、どこまでも命を保とうとした醜類中の醜もあったが、 「仮借すな」  とある信長の厳命に、織田軍の兵はそれらの者もすべて山門から引きずり出して斬った。  ただここに最も世人を歯ぎしりさせた一事は、この酸鼻を起した当の張本人荒木村重が、ついに追捕の網にもれて逸早く逃げてしまったことである。  うわさには、花隈から兵庫の浜へ出て、船をひろい、備後の尾道へ落ちて行ったとあるが──杳としてしばらく所在が知れなかった。  さもあらばあれ、彼村重は、もう人の中の人ではあり得ない、完全に死んだものだ。いやなお、どこかに生を偸んでいる限り、窒息の苦悩をしながら腐肉を抱えているものにすぎない。 日本丸  こんどの荒木村重退治の合戦にあたって、織田方に一異彩を加えた手勢がある。九鬼嘉隆の率いる水軍だった。  摂津の花隈城陥落の日、この船手勢は、思いもうけぬ海上から霧を払ってあらわれ、艨艟数十艘を浜にならべて軽舸を下ろし、たちまち川口から溯って各所へ陸戦隊を上げ、花隈から逃げ落ちて来る敵のものをことごとく首にして、信長へ献じたのである。 「船手は海上のそなえとのみ思うていたが、機に応じて、陸上の働き奇特なことである」  と、信長は、九鬼嘉隆の本高三万五千石へ、さらに七千石の加増を与えて、 「いよいよ水軍の充実に力をいたすように」  と、励ました。  織田氏の水軍は、その部門ができてから、まだわずか三年ぐらいしか経っていないのである。もとより非常に幼稚だった。  けれど、その短日月のうちに育成して来たものとしては、目ざましい発達といわなければならない。  なにしろ、ごく近年までは、信長自身すら、兵事といえばほとんど攻城野戦のこととして、海上の軍備までには思いいたる遑もなかった。  その通念を破って、彼に、 (水軍なくしては)  と、痛切に、その必要を知らしめてくれたものは、敵であった。西国の強大毛利なのである。  大坂石山本願寺の頑強な交戦力は、信長がいかに畿内の陸上から包囲しても、その交通路を遮断しても、すこしも衰えるふうがない。──その持久力と反抗はむしろ日を逐うて強烈にさえなって行った。──で、その依って来る原因をつきすすめてみると、何ぞ知らん、武器も弾薬もまた夥しい食糧も、海上から商船に偽装した毛利方の兵船が、いくらでも満々と帆をはって、安治川口から大坂市街へそれを輸送しているのだった。 (そこを断たなければ)  と、彼は陸上の装備と、訓練のない、また極めてあり合わせな漁船など集めて、大坂の川口で毛利の水軍を阻めた。それは三年前の天正四年頃のことである。  ここでは、さしもの織田軍も、惨敗を喫した。以来、彼は、 (水上の戦いでは、われまだ毛利の敵にあらず)  という非を痛切に知った。そしてひそかに水軍の建設に苦慮していたが、いわゆる素質のない将兵を基本としては、その業は容易でなかった。  赤壁の江上戦に、魏の精猛を率いる曹操が、完敗を喫したのも、当初、彼の軍隊の兵は多く北国産の山沢に飛躍したものであり、それに反して、江南の国呉の兵士は、大江の水に馴れ、南海の潮に鍛えられたものが多かったことに、大なる敗因があったという。  いま、安土の豪壁を地上に築いた信長である。その勢力と財をもって、彼にまさる兵船を造ることは至難でなかった。──現に琵琶湖の往来にさえかなり巨きな船舶はもっている。  けれど、彼が苦しんだのは、船の大や数ではなかった。その機動の生命となる人である。  柴田、佐久間、滝川、その他、羽柴筑前と見まわしても、適任とは思われない。西海の雄藩毛利とはおのずから質がちがう。  折も折。  こういうところへ、彼に接近して来た一人物がある。九鬼嘉隆という贅肉もなく骨じまりの慥乎とした色のくろい男だ。いわゆる潮みがきにかけられた皮膚と生きのいい鰡みたいな眼をもって、 「てまえに仰せつけあるなら、毛利に劣らぬ水軍を組織し、かならず数年のうちにあなたの麾下に加えてみせる」  と、或るとき、信長の前で、信念がなければ決していえないことばをもって、云い断ったのである。  嘉隆は、伊勢の産だとあり、その一子は、鳥羽の城主原監物の聟でもあるというので、信長も相当に礼遇し、その言にもかなり耳をかたむけた。  面がまえもよし、海事の知識にも富んでいる。信長は一見、  ──この男、用える。  と、思った。  九鬼右馬允嘉隆は、信長から水軍の建設をいいつかると、鳥羽、熊野などの船大工や、多年海上で動作に馴れた水夫などを糾合して、やがて七艘の大船を作り立て、これを堺の浦へまわして来た。  彼の使命は、西国から輸送される軍需船を、大坂の海口で封鎖するにある。  毛利方では、堺の浦に忽然と出現した一船団を、当然にすぐ探知していたが、 (一夜作りの織田の水軍、何ほどのことがあろう)  と、多寡をくくって、相かわらず、九鬼船隊の視界のまえを、悠々と、兵糧や武器を満載して舟行していた。 (やらせておけ。やらせておけ)  右馬允嘉隆は、時を計っていた。そしてその年七月の烈風の夜──毛利方の大船団が大坂港へはいったのを見とどけると、 (こよいこそ)  と、舳艫をしのばせて襲いかけた。 ──九鬼右馬允は九艘の大船に、無数の小舟を相添へ、山のごとく飾りたて、敵船まぢかく寄せつけ、やにはに大鉄砲をいちどに放ち懸る。  と、当時の記録に見える。「山のごとく飾り立て」とあるのは船楼や艫に、旗幟だの鑓や熊手を植えならべて進んで行ったものであろう。  この夜、風浪が高かったので、碇泊中の西国船は各〻、船と船とのあいだに繋綱をとりあい、また海泥に深く碇を下ろしていた。  たちまち一艘が火災を起した。すわと、抗戦に立ち向ったときは、ほかの船にもあちこち飛火が移っていた。敵にのみ気をとられていた毛利勢は、繋綱を切って、友軍の火の船を、まず先に避けねばならないことを忘れていたのである。 (よし引き揚げろ)  燃えさかる数艘の巨火へ、さらにさんざん矢や小銃をうち浴びせて、九鬼船隊はすばやく淡の輪方面へ逸走した。──毛利方の水軍は、してやられたりと憤って、 (多寡のしれた伊勢や熊野の漁夫兵、大国毛利の水軍の面目にかけても揉み潰せ)  と、残余の大船小舟をととのえて、堂々たる船陣をつくり、淡の輪の海上へ追いかけて行った。  物見の舟を放って、とつこうつ敵船をさぐっているうちに夜があけた。朝霧のあいだに双方の石火矢や銃火がかわされ出した。すると、思いもうけぬ方から霧を破って、またべつな一船隊が毛利方へ迫撃して来た。その旗艦らしい一艘には、あきらかに滝川左近将監の旗じるしが望まれた。何ぞ知らん伏勢があったのである。  九鬼右馬允の乗っている大船には、熊野権現の大幟と日の丸がひるがえっていた。名づけて日本丸とよぶそれは、胴の間七間縦十数間という熊野船だった。  荒浪の中を乗りまわし乗りまわし、鯨のように日本丸は暴れまわる。近々と寄せては、敵船へ松明を投げこみ、退いては、大鉄砲をうちこむのだった。  七月の陽が、海面をも焦くばかり高くなった頃、淡の輪の海上は黒煙にみちていた。毛利方の船はほとんどといってよいほど焼き沈められた。風浪がつよい日なので、炎は高く壮観をきわめた。  このことは、堺、大坂の耳目を震駭させた。信長の勢威を知っても、なお毛利の富力と強大をずっと高く評価している一般民も、これはと、それまでの常識と観念の訂正にまごついた。  抜け目ない信長は、ここに自己の水軍を持つと、それらの大船を連ねて豪壮な船飾りをほどこし、一日、近衛公やそのほかの公卿を堺へ招いて船御覧の催しをした。もちろん彼は民衆を忘れない。貴賤僧俗、男女老幼、すべての者へも船見物をゆるし、堺の数日を船祭に沸きたたせた。 丹波・丹後  山陽の北部には山陰がある。  ふたつを併せて中国という。中国攻略は、当然、二方面作戦にならざるを得ない。  秀吉が、山陽に働いているあいだ、山陰方面の司令官としては、明智光秀が任じられていた。  山陰は、光秀の働き場だった。  ここ数年に、光秀は、よくその任に対して、功を挙げた。  細川藤孝を副将として、丹波、丹後の敵性を、一城一城、攻め陥して行ったのである。  この地方の強敵は、何といっても、波多野秀治の一族だった。  討伐にかからない前は、その大敵の本拠、八上城を中心として、ひとしく織田信長へ反意を示している大小地方武族の旗は、各地の要害に散在する四十余ヵ所の城と、三十余ヵ所の砦にわかれて翻っていたものである。  それをここ数年間に、営々と攻め、孜々として降し、約三分の一にまで伐り平らげて行ったのは、まさに山陽の秀吉の武勲と比べても、決して遜色のない惟任光秀のてがらといっていい。  もちろん信長が光秀に信頼することも、その功労を賞揚することも、決して秀吉以下ではなかった。 「筑前と日向とは、まず、織田軍の双璧であろう。いずれも錚々、いずれも若い。両者の働きを見くらべるは、当代の壮観というもの。彼らもよき世に生れあわせたが、予もよき将を左右に持ったな」  率直に、信長は、或る時、老臣たちへこういったこともあるそうであるが、物に感じると、人いちばい激賞して惜しまない信長としては、それも決して政治的なことばではなかった。  その証拠には、特に、惟任の姓をゆるされ、丹波亀山の城に六十万石を附与され、一門の眷族もみな余栄をうけて、いまの明智日向守光秀は、もうむかしの漂浪零落時代の十兵衛光秀ではなかった。 「この御厚恩をわすれてはならんぞ」  とは、光秀自身が、つねに六人のわが子にも、甥や姪の一族のものにもいっていることばであった。  その心がけは必然に、所領地の内治や法令にもよくあらわれていた。彼は、信長の名を辱めない新興勢力下の一大名として、次々に、領民をよく悦服させていた。 おまえ見たかや お城のにわに きょうも桔梗の花がさく  領民はそう謡って、新しい領主の温情とその家門を祝福した。  光秀の明晰な頭脳をもってする文化の振興や新味ある政治は、到底、前に住んでいた地方豪族の施政ぶりなどとは比較にならないものであっただけに、土着民は、たちまち彼に随喜した。また風を慕って、戦わずして彼の城門に投降して来る地方武族もすくなくなかった。  酒井孫左衛門、加治見石見、四方田但馬守、萩野彦兵衛、並河掃部助など、みなその砦を捨て、部下をつれて、この春、彼の家臣となった人々である。  だが、かんじんな丹波第一の敵の嶮要──八上城だけはなおまだ頑として陥ちずにあった。  細川藤孝、織田信澄、滝川一益、丹羽五郎左衛門などの諸将が、光秀を援けて、年来、伐りくずしにかかっていたが、波多野秀治は、時に帰順したり、時には反抗したり、また忽ち、勢威を旺んにして来たり、どうしてもその防塞と敵性は抜くことができなかった。  天正七年の五月である。 「今でしょう、八上を叩くのは」  これは、秀吉からの献議だと聞えている。両面作戦とはいえ、その機動は、たえず一つに活流している。播州方面の手は今なら移動できるという秀吉の保証によって、 「一挙に、八上を陥せ」  とある信長の総攻撃の令は発しられたのである。すなわち光秀の本軍は山城方面から、秀吉の弟秀長の軍勢は但馬方面から、また丹羽五郎左衛門の一手は摂津口からと、三方面から競進の勢いで波多野の牙城八上へ迫った。  羽柴秀長、丹羽五郎左衛門、この二将にひきいられた各大隊は着々、その担当地域に戦果をあげて、敵性の砦や城地を、席巻して行った。  ──が、光秀の前面は、ある程度で停頓を見てしまった。しかしそれは主隊として、ここで彼が絶対に粉砕して見せなければならない──敵の牙城八上との対峙であった。 「明智勢の面目にかけて陥せ」  光秀の指揮は、いつになく、実に激越を極めた。 「──あらゆる犠牲をはらうとも」  と、部下の将士に、夜も夜討を朝にも朝討を、敵に息つく間も与えないほど、味方をも猛烈に督した。  けれど、八上城は陥ちない。──そのあいだには、羽柴軍や丹羽軍の赫々たる戦功が両方面から聞えてくるのである。──光秀は、膠着したままの自軍をながめて、 「あら。恥かし!」  と思った。  信長の恩寵を、人いちばい厚くうけている自身を、そこに顧みるほど世上にたいしても、 「かくては名折れ」  と、焦心らずにいられなかった。  悠々と政治軍事の経策に理念をめぐらしている人である時、彼は世間にもざらにない大器であった。いわゆる人材のすぐれたものであった。けれど、その裏面性の感情から衝かれて、ものの思考に入ると、別人のように、みだれやすかった。当面の些事にもひどく拘泥して、明晰な頭脳も、それに支配されてしまう。  かれの聡明と、文化人的なつつましさは、平常の言語行動においては、彼の内部にそんな脆弱な欠陥があることなどは、まったく気ぶりにも他人へ覗かすことはしない。一族近臣にすら窺わせない。ただ彼自身が、自身だけで、 (──こんなことでは)  と、誡めているだけだったから、その胸中の苦悶はまた人いちばいのものであった。 「だめです。あらゆる作戦も、ほとんど城中の敵には、何のこたえもないかのようで。──この上はただ濠を深め、柵をかため、長囲を期して、敵を干乾しにするよりほかには」  と、帷幕の智嚢も、前線の部将も、いまは挙って、それにだけ一致していた。  光秀の兵理軍学の蘊奥も、ここに至ってはすでに施し尽きていた。しかも彼は、今日明日のうちにも、敵城を揉みつぶさねばと焦心っていた。 (──さだめし歯がゆき者と、信長公も思し召しつらん。丹羽、羽柴の友軍も、あれ見よ光秀が手を焼いておるわ、と密かに笑いてやあらん)  などと味方の上下の思わくまでを、こんな中にもひとり苦慮する光秀であった。  さらに、ここは自分の働き場所──丹波の役であるという責任感もある。惟任日向守たるの誇りもある。断じて、悠々と、ここに膠着を続けてはいられない。 「なに。長陣で囲んでいるしかないと、いやいや、光秀には疾くより考えておることもある。無為無策の長陣をきめこんで、友軍のめざましい戦功をよそに眺めてなどおられようか。……作左、作左」  と、一方にいる部将たちの一名を呼び、 「いつぞやそちが本陣へ伴れて参った大善院の和尚をもう一度呼んで来い。夜に入るもかまわぬ、すぐにだぞ」  と、いいつけた。  旗本、進士作左衛門は、命をうけると、すぐ駒をとばして、多紀郡の大善院へ駈けて行った。  攻城数月、すでに季節は夏に入っていた。陥ちない城を目のまえに、光秀は、毒虫や蚊を追うべく篝を焚かせて、その夕迫る煙のなかを黙々歩み巡っていた。  大善院の住持が、進士作左衛門に伴われて、光秀の陣所へ見えたのは、それから間もないことだった。 「夜中、ご苦労であった」  と、光秀はこれを、帷幕に迎えて、左右の者を退け、ほんの近側の、二、三名と住持を加えただけで、何か、密議をこらしていた。  八上城の波多野一族と大善院とは交渉浅くない。 「貴僧の骨折りひとつで、領下の民の塗炭の苦は救われ、城中幾千のものの生命は安泰を得よう。この任務こそは、僧侶たる御身に課せられた当然の使命というものではおざるまいか」  光秀は、切々、彼を説くのであった。  城中へ行って、波多野秀治兄弟を説けとて、招降の使いを命じたものである。  それも、理において、嫌といえないように、光秀は明晰に理論だてて説き伏せた。大善院の見るところでは、公平に見ても、まだこの八上の城を挟んで戦っている攻防両軍の勝負は、いずれが勝ち、いずれが衰えたとも見えない。むしろ寄手は、やや攻めつかれ、守城側の士気のほうが、はるかに振っているかとも思われるのであった。  ──が、否み難く、大善院の住持は、 「成るか成らぬかは、天意にまかせて、ともあれ、最善の努力を尽しましょう」  と、約した。  光秀は、懸念した。彼の口吻からも、すでに事の不成功が予感されたからである。無条件では──と、この交渉に熱意のもちきれないような容子が、住持の面にありあり読めた。  内心、功を収めるに急だった光秀は、自身から一つの具体的な条件を提出した。──大善院は、いかに彼が焦心っているかを憐れみながら、 「それならば、城中へお使いに参るにも、単に降伏をすすめるというのでありませぬゆえ、守将の御面目も立ち、事を運ぶにもまことに運びよいかと思われます」  と、多分にその可能性のあることを告げ、やがて深更に退去した。  大善院では次の日、本目の西蔵院と協議をすすめ、和議の斡旋にあたるべく、万端その備えをしていた。  程なく、光秀の本営から、西蔵院側へ、ひとりの老女が送られて来た。それは光秀の母ということに表面いわれていたが、事実は、かれが養っている叔母であることは旧臣などみな知っていた。また西蔵院や大善院側でもうすうすは知っていたが、飽くまで光秀の母として鄭重に取り扱い、城中との折衝が運ぶに至って、これを人質として、守将の波多野秀治の許へ送った。  それに従いて、当然、大善院の住持も、使いとして城へ行った。秀治と会って、彼が伝えたところは、 「もともと信長公の御本意は、室町以後の諸国の乱脈を、統合一和するにあって、決して各地の旧家旧領の制を、徒らに打ち壊し、また徒らに討殺することが、本来の御趣旨ではおざらぬ。──光秀どのが最もつよくいわれている重点はそこで、たとえ御開城あるとも、誓って、本領安堵と御家名の存続は請けあうとの固い御約定を示されておる。御母堂までこれへ遣わされてまでの御誠意に対しても、何とぞここは御賢慮のほど切に仰ぎあげまする」  それに対して、波多野秀治は、 「降伏はいやだ。しかし対等の和談ならば」  と、いい、また、充分心のうごいた証拠には、 「ともかく、光秀と会見してみての上で」  と、まで応じる色を見せて来た。  その結果、光秀と波多野秀治とは、まったく素肌な心と心とをもって、話し合ってみようとなり、一日、本目の西蔵院で双方会見の約束が成り立った。 二つの門 「──お見合わせになってはいかがです。断るぶんには、今からでも関いますまい」  一部の将士は、波多野秀治の出城を、心もとなく思うらしく、切に諫めた。  右衛門大夫秀治は、きょう城を出て光秀と会見するため、もう身支度から供揃いまでしているのである。何で今さら──といわぬばかりな顔して、 「いかに光秀なればとて、自身の老母を質として、この城内へあずけておきながら、この秀治に危害を加えるはずはあるまい。安心せい」  と、笑って出かけた。  いうまでもなく和睦のための会見だ。服装もつとめて平和的に装うが礼儀である。しかし万一を慮かって、供には屈強な士ばかりを選りすぐって連れて行った。騎馬、徒歩、総体八十余名という人数。かなり物々しくはあった。  列は、本目の西蔵院につく。  住持以下出迎える。  山門に駒をつないで、右衛門大夫秀治は、院内へ通った。  時刻をたがえず、明智光秀の側でも、すでに来ている。大書院二間を抜いて、西の間に城方の波多野主従、東の間に寄手方の光秀とその侍将たちが、おごそかに居並んでいた。  きのうまで、城壁と濠をへだてて、矢弾を交わして来た敵味方が、いま閾一すじを間において、こう対坐したのである。 「…………」  らんらんとした眼と眼が、いずれも卑下なく、相手方の顔やすがたを見つめ合った。瞬間は、やはりどうにもならない。味方敵方の意識に圧しられて、顔のすじも肩の骨も、硬ばりきったままだった。  しかし西蔵院や大善院の住持が出て、きょうのよろこびを述べ、この長い籠城と猛攻の根くらべが、平和裡におさまって、波多野氏の旧領も安堵となれば、領民もどれほどありがたく思うであろうか──などと巧みに扱うと、ようやく、双方の心体もほぐれ出して、そこに何とはなく人間的な親しみすらお互いにわきはじめた。 「何もありませぬが」  と、僧衆が立ち出で、饗応の膳がくばられる。光秀は、膳部を見ると、 「こう閾をへだてていては、いつまでも対峙しているような形でおもしろうない。打ち交じろうではないか、一名おきに」  と、みずから努めて親しみを寄せて行った。  波多野秀治は、彼よりももっと磊落だった。ほんとに交われば赤裸になれそうな人物である。光秀のことばに、 「いかにも」  と、すぐ同意を示し、すすんで床の間をうしろに光秀と隣りあって着席した。  光秀は、杯をすすめ、また、籠城百日に近いあいだの防戦ぶりを、口を極めて賞めた。  秀治は、哄笑して、 「そうですか。そんなに寄手方としては、攻めあぐみましたかな。面目至極じゃ。惟任光秀どのの軍勢に持て余されたとあっては──」  と、酒はつよいとみえ、すぐ杯をほしては光秀に返しながら、秀治はなお談じる。 「城攻めの成否は、またたくまに陥ちれば陥ちる。或る期間をすぎて、陥ちこじれると陥ちないものでござる。城中の人間はいくらでも飢餓と危険に馴れて来ますからな。すでにそれがしの八上の城なども、それになりかけて来たところで、広言ながら、この先まだ一年や一年半は支えてごらんに入れてもよい。はははは」  ふと、光秀が座中を見わたすと、城方の者は、云い合わせたように、箸もあまりとらず、杯も唇へ運んでいなかった。  ──ああさすがに嗜み。  光秀はながめ遣ってひそかに感服した。 (みなが、揃って、喉から手が出そうな食物を──日頃の飢じさを、じっと、つつましく怺えているな)  と、察したのである。  城中にはすでに二十日も前から兵糧が完く尽きているはずである。ここにいる城方の面々も充分に食べていたとは思われない。食べていたにせよ、ただ露命をつなぐに足りる程度に胃の腑をしのいで来たに過ぎまい。  それを、いかにも、 (こんな食膳には飽いている)  という顔して、珍味佳酒のまえに、泰然としているのは辛いだろう。武士は食わねどというが──また、これもきょうの和睦の交渉に強味をもつひとつの兵法とはいいながら。  光秀は、秀治へいった。 「御家中の方々みな、主君のあなたへ御遠慮のように見うけらるるが、どうか其許よりお声をもってちと過せと、おゆるしを与えて下さらぬか。われらの方の者どもは、かくの通り気ままに頂戴しておるゆえ」 「やあ、お心入れな」  と家来思いな秀治は、自分がすすめられたより欣んで、さて城方の一同へ向い、 「飲め飲め。せっかく、ああ仰せられるものを、辞儀固くして、戴かぬはかえって無礼に似る。──飲めぬ者は箸なと取れ」  と、いった。  黙然と、城方の面々は、かしらを少し下げた。それからおもむろに箸を上げ、杯を手にし始めた。努めてがっつかないように。  会見の最初からの約束で、今日の一会は、いわゆる厳めしい談判ではなく、勝敗優劣の念も去って、酒間の談笑のうちに、和そうと思えば結び、非と考えたら別れよう──そういう条件のもとに敵味方一座したものであるから、光秀と秀治とは、この辺からぼつぼつその話に触れているような容子であった。  至極、武人肌でまた磊落な波多野秀治は、光秀のものやわらかさや、驕慢のふうもなく、心から接待してくれる態度に、すっかり感激してしまったらしく、 「爾後のおあつかいは、御身にまかせる。ただ城中の者の生命と、その後の扶持だに保証して賜るなら」  と、無血開城の大事を、ほとんど一諾にひとしいことばをもって、光秀にこたえているのだった。 「いや其許が、それ程までに光秀を信じて下さるなら、信長公へたいしては、光秀かならず一身を賭しても、八上城の旧領安堵のことと御家門諸臣の永続は、おうけあいいたし申す。誓って、御名誉をも傷つけはいたさぬ」  光秀もまた、それに対して、力をこめて云った。  宴が終る。  終ってまた、会談に入る。  和議はここに成った。剛愎な波多野秀治は、 「おまかせすると決めたからは、すべてを貴所に御一任する」  と、むすんだ。 「では、このままの休戦状態を、長く滞らせておいては、兵と兵のあいだに、勝手な事端をおこさぬ限りもない。ここからすぐ御同伴申すゆえ、安土へ参って、信長公に直接お会いなされては如何」  光秀のすすめに、 「異存はござらぬ」  と、秀治はこうなると飽くまでさっぱりしていた。  城中へも、使いが行く。  寄手の陣へも、 (和談成立、数日休戦)  の趣を、光秀から伝令をもって、諸所の攻口へ伝えしめる。  かくて、午まえからの会談は、半日にして一決していた。また夕餉時となったので、夜食は光秀の饗応として、陣中から酒肴すべてを取り寄せ、こんどは精進料理に限らない晩餐となった。  秀治も、家臣一同も、すっかり心をゆるしたものか、午よりはよく過した。そして灯ともし頃、ここで身支度をして、すぐ安土へ出発となった。 「御乗馬は、西門口へまわしてあります。御家来方も、はやそこにてお待ちうけです」  右衛門大夫秀治は、さいごに室を立って、三、四名の側臣にかこまれながら寺の玄関を出たが、そこで案内者として待ちうけていた明智方の人々がそういうので、 「御苦労」  と会釈しながら、夕闇の境内を縫って、西門の方へ従いて行った。  ところが、彼よりも先にどやどやとここを出た波多野家の諸臣は、同じように外に待っていた明智方の武士たちに、 「御主人の御乗馬は、東門の外につないでおきました。どうぞ、あちらへ」  と、指さされたので、彼らは主人の秀治が行った方角とは真反対な、東門の方へ伴われていたのである。  いずれ自分らの主人は、すぐあとから来るものと信じていた。しかし、東門の外へ出てみた途端にふと怪しんだのは、そこに待っているはずの乗馬も小者たちの影も見えない。ただ寥々たる夕闇があるだけだった。 「御乗馬や供の者は、いずれにおりましょうか」  一団になって佇みながら、波多野家の臣たちがこう明智方の者へたずねると、そのことばが終らないうちに、四方の夕闇から一斉に答えたものがある。  ド、ド、ド、ドッ、ドッ──  銃声と、弾けむりだった。  何でたまろう。そこにいた約四、五十名の人影は、折重なって打ち倒れ、或いはのけ反り、或いは跳びあがった。  口々に異様な声で、 「──あっ」 「計ったなッ」 「ひッ、卑怯!」  と、いうような叫びが渦まいたが、それも瞬間。  辛うじて、弾をのがれた三分の一ぐらいな人々が、 「ちッ、ちくしょうッ」 「うぬッ」  と、明智方の武士へ向って、大刀を抜き、眼をいからして、猪突して来た。  けれどそれに対しての、第二段の備えのあった明智方では、たちまち木陰や物陰から、一隊の槍組をさしまねき、 「ひとりも遁すな」  と、追い包んだ。  夕月の下に、青光りするものはみな鮮血であった。生きて八上の城へ馳せ帰ったものは、十人に足らなかったろう。──その余の小者はすべて明るいうちに捕虜となっていたものだった。  東門の銃声は、当然、宵のしじまを破って、西門の方まで聞えた。  右衛門大夫秀治と、近臣の三、四名とは、ちょうど、たった今、西門の外へ足をふみ出したところだった。  さすがに、休戦中の銃声には、剛愎な彼も、愕としたらしく、低い石段の途中に、その歩みを立ちすくめたまま、 「光秀どの! 惟任どの」  と、すぐ前後を見まわした。  その一瞬へ来ても、彼はまだ光秀のきょうの饗応に見えた好意や、あの温和な物ごしや、なおまた固く誓った和議に対して、疑いをさし挿んでみようとはしなかったのである。 「や。お見えになりませんが」 「いや、すぐ今の今まで、伴れ立っていたが?」  秀治は、降りかけた石段を後ろへもどった。そして、自分が先に来過ぎたかと──西門をくぐって境内のほうを覗きこんだ。真っ暗な門の陰からピラと魚に似た光が走った。大型な笹穂の槍であった。無意識に── 「ばかッ」  と、秀治はさけんだ。  怖ろしい大声だった。山門の棟木にぐわんと鳴ったような。──それと共に、彼の佩いていた陣刀は電光をえがいて槍のケラ首あたりを斬り落していた。  しかも、彼の眼にとまったのは、その一槍だけだったが、事実はうしろからも一本の槍がいちどに彼の身ひとつへ蒐まっていたのである。陣刀一閃のもとに、彼が前なる一槍を斬り落していたとき、彼のからだは、そのまま横へ泳いで行った。二ヵ所の槍傷に堪えやらず──。 「ううむッ。小人めッ」  光秀の奸智を罵ったのであろう。そう唸きざま、山門の壁に身をぶつけると、そのまま倒れて息絶えた。  この突発事に、当然、彼の近臣、三、四名も無事でいるわけはなかった。けれど、その人々も網のなかの魚でしかない。あたりに潜んでいた鉄甲の武者の、夥しい人影は、たちまち包囲して、縛りあげたのか、斬りころしたものか、その結果すら見え分かぬほど、手早く仮借なく始末してしまった。  八上の城は、こうして落城してしまった。  守将なく、重なる部将も、みな城外へ出て、だまし討ちに打たれてしまっては、いかに頑強な城兵でも、支え得るわけもない。  一難を抜いた光秀軍は、つづいて、赤井一族の宇津城を攻めやぶり、進んで福知山の鬼ヶ城を略し、ここに丹波全州の平定を完うして、援軍の丹羽、織田信澄らの味方へも、まず面目を保ったし、安土へ対して、勝軍を報じることができたが──彼の心中には、この勝軍を心から歓ぶことができたかどうか。  その後、八上城の残軍は、城を出ても、ことごとく光秀に心服したかのような色を示していた。しかし世評は、彼をめぐっていろいろに沙汰した。  もっとも多い非難は、 「いかに功を焦心ればとて、母なるお人を城方へ人質としてさし出す所為はなかろう。しかも、城将をあざむくための方便とすれば、危ないことは知れているに」  と、いう声だった。  かりそめにも母と名のあるものを、光秀たりとも、そんな具には用いていない。人質に送ったのは、実は叔母であったのだ。以て、光秀はみずから慰めようとしたかもしれぬが、やはり慰めきれないものが、心にわだかまっていたにちがいない。  彼は、荒木村重のように、荒削りな神経の持ち主ではない。いや人いちばい繊細でもあり、また正邪を知り善悪の批判にあきらかな知能である。  それだけに、あとの苦味はいつまでも消えまい。  亀山領内の民治には、明主ぞ仁君ぞと仰がれていながら、その政治的手腕にも似あわず、軍事にかけては、焦心り気味がみえ、不手際が目立った。殊にそれを、三木城その他の攻略を遂げた秀吉の行き方と較べるにおいて、一だんまずいと思わせるものがあった。 鷹を追う  信長も、多忙であった。  わけてここ両三年の生活は。  彼のいるところ、政務の中枢となり、彼の赴くところ、軍の本営となる。  そのあいだに、好きな角力を見たり、山陽、山陰その他の戦場から戻って、折々、伺候する部将をねぎらっては、大いに酒宴も張り、例の、 「──人生五十年、ゆめまぼろしの如くなり。死のうは一定」  とある得意な小舞を歌ってみせたり、また、家臣と家臣の家のあいだを取り持って縁結びの世話までやいていた。  細川藤孝は、丹後の一色義直を亡ぼして、その田辺の城を、信長に献じ、信長から、 「御身、そこに在るべし」  と、ゆるされて、いま、丹後一円の地を所領している。  その細川藤孝と、隣国丹波の明智光秀とは、親戚以上の親睦をつづけている。  ふたりの仲は、信長にまみえる前からの交わりだった。  まだ光秀が時にも主にもめぐまれず、越前の朝倉家に客となって、訪う人もない浪宅に微禄していた頃、初めて門をたたいて、将来の希望を語りあった人こそ細川藤孝であった。  その将来の人物を、 (信長のほかにはない)  と見極めて、共に、越前を脱して、将来の計を岐阜城に説き、以来、款を通じて、今日までその志を、信長に託して、成し遂げて来た──藤孝、光秀のふたりだった。  だから、ふたりが会えば、かならず往年のことを思い出して、 「あの時は。この時は」  と、苦労を語りあうことが、他目にも羨ましいほど親しい藤孝と光秀なのである。  信長も、この二人の功は、充分に認めていた。いわゆる譜代の臣以上なものがある。とりわけ細川藤孝には、その家筋の高さに対しても、別格の尊敬を払っていた。 「幽斎の息子、与一郎忠興、あれはもう幾歳になるな?」  ふと、老臣の林佐渡は、信長から突然、こう訊かれてまごついた。  幽斎というのは、細川藤孝の道号である。歌道や茶道では、幽斎のほうが通りがよい。信長もまた親しみを示しているつもりか、多くの場合、その方の名を呼び慣れていた。 「さあ? ……」  と、佐渡は額に手をあてて、 「御記録所へ参って、調べて参りましょうか」  と、立ちかけた。 「それには及ばん」  信長は、制した。近ごろは、佐渡もすこし耄碌気味な、と舌打ちするように、 「二十歳は越えたろうな」 「細川どのの御嫡男は、初陣このかた、御功名も度々聞えておりますれば、はや、それどころではございますまい」 「光秀には、たしか、息女が多かったように聞いておるが」 「お子、七人のうち、上の五人までが、女子ばかりとか……いつかおこぼしなされておられましたが」  こんな座談が出てから間もなくである。信長はいつのまにか、細川、明智両家の家庭にすっかり詳しくなっていた。縁故のある臣下からいろいろ聞きあつめて耳ぶくろへ入れておくので、誰よりも精通するはずであった。  その年の九月。  両家のあいだに、華やかな婚儀が執りむすばれ、媒人は、 「我なり」  と、信長みずから名乗ってそれを盛大にさせた。  婚儀の後、花婿花嫁は、安土にお礼に来た。至極、似あいの夫婦であった。花婿の与一郎忠興は、後の細川三斎。  花嫁は、明智家の三女で、時まだ十六の蕾であったが、やがて細川家の内室、ガラシヤ夫人といえば、垣間見たこともない者までが、美人だそうな──と噂した。  内には、臣下と臣下との、こういう家政的な些事にも心を用いながら、外にはまた、着々と、大局へ向って、大きな手を打ってゆくことも忘れていない信長であった。  いま、彼の企画にある最大な宿題として、密かに手をつけている問題は、  対本願寺との政治的解決  であった。  それを為すに、 「機会は今だ」  と、彼はみたのである。  およそ信長がここまで来る百戦苦闘のうちに、寝てもさめても、信長の苦慮となっていたものは、本願寺門徒の活躍であった。表面的には、教団という極めて消極的な存在でありながら、その執拗な反抗と、抜けきらない潜勢力とには、まったく手を焼いて来たものだった。  その本願寺に対して、 「一撃に抹殺せん」  とばかり、大坂出兵を断行し、川口、桜ノ岸に、堂々と展陣して、しかも何の効果も挙がらず、却って、彼らの結束と抗戦を強めたのみで退陣した元亀元年から──顧みると今年天正八年まで──ちょうど足かけ十一年になる。  あきらかに、本願寺軍と織田軍とのあいだに、合戦が宣せられてから、実に、十一年間。この長期を、信長が、この怪敵のために、悩まされ、妨げられ、また常に一部の兵力をそれに割かれて来た有形無形の損害は、言語に絶しるといってもよい。  が──隠忍に隠忍をかさねて、いまやようやく、根本からその患を除くときが来た。いまこそと、彼はひそかに、手に唾して、それへ取りかかったのである。  八年の二月、大挙して、京都へ出た信長は、その夥しい人数と行装の威を誇示しながら、山崎、郡山、伊丹などの大坂近郊を、巡遊していた。 「鷹を追うのじゃ」  と称して、鷹狩と触れてはいたが、その狩衣をかなぐり捨て、その将士の勢子に矢弾を命じて、 「屠れ」  と、号令一下すれば、石山本願寺を中心とする全大坂の教団街は、一挙に、灰ともなし得るほどな布陣と兵力と、そして明瞭な意志とを、彼へ示していた。  そういう態勢を作っておいて、信長はおもむろに、 「どうするか?」  と、彼の思慮を、ながめていたのである。  足もとは見すかされていた。さしも全土にわたる教門の勢力をあつめて、この浪華の一丘に、巍然たる特異な法城を構えていた石山本願寺も、もう以前ほどな実力はなくなっていた。  ここ十一年間の推移があきらかにその衰退を実証している。  まず将軍義昭の没落は、その第一だった。遠く聯携して、腹背からたえず信長を苦しめていた反信長派の一環、武田信玄が忽然と死去したことも、本願寺にとっては、片翼をもがれたようなものだったし、つづいて越前の朝倉、江州の浅井、伊勢の長嶋門派の殄滅をうけたことなど──満身創痍の傷手だったといっていい。  わずかにたのんでいた上杉謙信も逝いた。紀州地方の雑賀門徒も、信長にくだってしまった。松永久秀また討たれ、播州の三木城、伊丹城の荒木村重、丹波の波多野一族までが──相次いで、征伐をうけ、本願寺からながめているかすかな希望までを、地上から掃いつくされてしまった形である。  なお強いて、恃めば、 「東には、武田勝頼。西には大国毛利がある」  という豪語も吐けないことはないが、その武田も長篠の一敗に屏息し、西国の毛利も、このところ一戦一退のみをつづけ、加うるに元就以来の保守主義もあるので、果たして、この上積極的に東上の意志があるかどうか──すこぶる覚つかないとみなければならない。どう楽観的にみても、いまや石山本願寺は、あらゆる外勢力と絶縁された無援の島であった。  兵略と、政略と。  こう二つは、いつも、二つで一つであった。信長の胸の中では。  いまや衰兆を現わして来た孤立本願寺にたいしても、 「陥とせば、陥ちる」  と、確信をもって、ながめながら、信長はまだ、一気にそれを、力攻しようとはしなかった。 「相成るべくは、一兵をも損せずに」  と、思慮し、また、 「石山の法城を中心に、方八町の門前町、そのほか浪華三里の内の町屋、港、橋々などを、兵火にかけて、灰燼とするも惜しい」  と考えているからであった。  彼の兵馬が、表面、鷹狩ととなえて、大坂近郊の地を、示威的に巡遊しているあいだ、彼の命によって、洛中にとどまっていた佐久間右衛門、宮内卿法印などの外交家たちは全力をあげて、関白近衛前久にはたらきかけ、 「本願寺のために。いや、法燈の滅却と仏徒数十万を救う意味で」  と、理を説いて本願寺一類の大坂退去を慫慂していた。  近衛前久は、信長とも親しかったが、とりわけ本願寺新門跡の教如や、その父の顕如上人とは昵懇だった。  そんな関係もあるところからすすんで、 「身にかえても」  と、その衝にあたることをひきうけた。  勅命を奏請して、まず、 「事なきように」  と、本願寺側を諭した。  けれど十一年のあいだ、全門徒の血と信仰をもって、信長に抗し、ここに拠って来た本願寺としては、いまいかに恃む味方を諸所に失ったからといって、 「では」  と、すぐ大坂から地方へ後退することも為し難かった。  新門跡の教如は、強硬派の随一である。父の顕如が、 「──この上は」  と、大坂退去の意を発表すると、彼は彼でまた、 「われらは、一寸たりと、当石山御堂は退きませぬ。たとえ父君以下、門徒ことごとくこの地をお去りあろうとも」  と、号して、さらに防塁を築き、同心を語らい、廻文を飛ばしなどして、 「信長と最後の一戦せん」  と、激気いやが上にも、昂いものがあった。  けれど、大坂を退くべし、との通達は、もう一近衛前久の調停ではなく、すでに、朝廷からのお心遣いであった。勅命であった。 去ル程ニ、大坂退城仕ルベキノ旨、辱クモ禁中ヨリ御勅使降サレ、門跡、北之方、年寄共如何アルベキヤ否ヤノ儀、権門ヲ恐レズ、心中之存ジ寄ノ旨趣、残ラズ申シ出ヅベキノ由尋ネ被申──  と、その折の古記に見えるとおり、勅答を迫られていたのである。  衆議、また幾回かの評定をかさねた結果は、当然、こういう答えしか案じ出せなかった。 第一には。勅命に違背すべからず。 第二には。所詮、信長に敵抗しても、信長には勝ち得ない。 第三には。門徒一般の実状を見ても、既にその非を悟っている。これ以上、無辜の人命を犠牲にするは、仏者のえらぶ道ではない。 第四には。法燈の保存。  なお、ここは退くべきであるという理由は、いくつも数えあげられる。  それに反して、強硬派の玉砕主義は、要するに、武門と沙門の立場を混同しているきらいがあった。  結局、五月には、大坂退去が宣言された。それからも、葛藤はあったが、遂に、七月下旬から八月初めにかけて、最後までふみとどまった強硬派の教如の一類もみな大坂を立ち退いた。その終りの日こそ、浪華津にこの街が開かれて以来の見ものであった。  法城の請取役は、織田家の臣矢部善七郎であった。  大坂市内外にある本願寺の、端城や木戸の砦など、五十一ヵ所の守りは、つぎつぎに破却されていた。  いまは裸城の石山御堂に、矢部善七郎以下の夥しい織田兵が乗りこんで来たその日まで、教如上人と六、七名の扈従は、なお去りがてに残っていたが、善七郎から、 「御切腹のおつもりか」  と、糺されて、 「否、否」  と、上人以下は、ぜひなく囲みの一方を解いてもらって、悄然、石山を立ち退いたものであった。  伝来の宝物も、仏具調度の七珍八宝も、ことごとく堂宇のうちに遺したままであった。 「やがて、信長が来て、検分のとき、醜しくも、取り乱したるものかな──などといわれては恥辱ぞ」  と、本願寺側でも、その以前に、あらゆる什物宝器を展列して、いちいち目録を添え、塵を払い、欄を浄め、立つ鳥水を濁さず──のことばの通りきれいにして去っていた。  最後の最後までふみとどまっていた教如は、その去るときに、法衣の袂へ、茶入れ一ツ入れて行っただけであった。そしてその日のうちに、泉州佐野川の辺まで落ちのびて行ったという。 爰ニ大坂ヲ創テ初メテヨリ以来四十九年ノ春秋ヲ送ルコト、昨日ノ夢ノ如シ、世間之相、事時之相ヲ観ズルニ、生死ノ去来、有為転変ノ作法ハ、電光朝露ノ如シ、タダ一声称念ノ利剣、コノ功徳ヲ以テ、無為涅槃之部ニ至ランニハ如カジ──  当時の人、太田牛一の手記によれば、大坂開市以来の繁栄と、顕如、教如などの心中を、いかばかり口惜しくも名残惜しけんと、こう記述している。 ──然リト雖モ、今、故郷離散ノ思ヒ、上下涙ニ打沈ム、然ウ而、ヤガテ退城ノ後ハ、信長公ノ御成アツテ、御見物ナサルベシ、其意ヲ存ジテ、退去ヲ前ニ、端々普請掃除ヲ申シツケ、表ニハ弓鉄砲ノ兵具、ソノ員ヲ懸並ベ、内ニハ資財雑具ヲ改メ、有ベキ態ヲ結構ニ飾置キ、御勅使、御奉行衆ヘ相渡シ、八月二日未ノ刻、雑賀ノ浦、淡路島ヨリ数百艘ノ迎ヘ船ヲ寄セ、端城ノ者ヲ始メトシテ、右往左往ニ縁々ヲ心ガケ、陸路海路ヲ蜘蛛ノ子散ラスガ如ク別レ候。 イヨイヨ時刻到来シテ、松明ノ火ニ西風来ツテ吹キ懸、余多ノ伽藍一宇モ残ラズ、夜昼三日、黒雲トナツテ焼ケ終ンヌ……。  故意か、自然か。  こうして極めて合法的に石山本願寺の空け渡しはすんだが、そのあとで、一炬、全山の堂塔伽藍と、多年の築城的門塁は、三日三晩にわたって、炎々、大坂の空に歴史の光煙を曳いて、すべては灰と化してしまった。  火は、あらゆるものの決裁と清掃を執り行う時の氏神だ。そして残る白い灰は、次の土壌に対して、はやくも文化の新しい萌芽をうながし、灰分的な施肥の役目をはたしている。  このとき、誰が思い至っていたろうか。  やがて、この丘の灰のうえに、大経綸を抱いた主が居館を構えようとは。  しかもそれが、安土を数倍も大きくしたような構想をもった、かの大坂城の出現であろうとは。  いやいや、もっと、誰にも予想できなかったであろうことは、その大坂城に君臨するものが、いま中国の一隅にあるところの、筑前守秀吉なりとは──たとえそのとき、偉大な予言者があって明らかに予言しても、万人が万人とも、誰もほんとにはしなかったであろう。 折檻  涼みがてら──。あたかも、そんなふうにすら見える。  信長は、川舟で、宇治橋を見、そのまま大坂へ下って来た。  本願寺開城の直後である。八月の十二日だ。残暑の陽は、川波を射、舷をつよく刎ね返している。 「於蘭」 「はい」 「何を考えておる」 「……べつに何事も」  蘭丸は笑った。  紫の幕が、信長と蘭丸だけのいる一囲いを、めぐっていた。近習の多くはみな艫の方に陽の直射を浴びている。川舟なので屋形は小さかった。  そのかわり、この一舟を中心として、数百艘の川舟が、笹の葉を撒いたように清流をくだってゆく。 「涼しさに居眠ったか」  信長も苦笑する。  風を孕んでは、紫の幕が裾をはためかせる。蘭丸の顔に、その色や、波の影が、頻りに映る、頻りに揺れうごく。 「料紙、硯筥があるか」 「備えてございます」 「これへ」  と、信長も、さきほどから、実は何か考えこんでいたらしいのである。──で、蘭丸が、妨げぬように沈黙をつづけていたので、自分の思案顔に、ひとの顔まで、思案顔に見えたのかも知れない。  蘭丸は、硯の面へ、水滴からわずかをこぼして、静かに墨を下ろした。気みじかな信長は、料紙と筆とを手にして、もう待っている。近頃になく、その眉に、険しいものが潜んでいる。 「これに置きました」 「うむ、む……」  と、のみである。  ──蘭丸はあとへさがった。衣摺れも憚るようにである。信長は、何やら苦念しては書き、書いては眉を恐くしている。まったく、きついお顔である。敏感な蘭丸は、  ──これはただ事でない。  と、ひそかに寒い思いがした。  人には、ゆめ、語れることではないが、蘭丸自身にも今、心痛にたえないものがあるのだった。──それと信長の眉のむずかしさと見くらべて、 「──何か、この身に」  と、そぞろ惧れられたのである。  幼少から多年、信長に近侍しているので、信長の感情をその眉や唇に見ることは、誰よりも敏い蘭丸であっただけに、 (きょうのお書き物は、凡事ならじ……)  と予察されたのであった。  彼の直感は、過っていなかった。けれど幸いにも、それが自分に対するものかと惧れた心配は外れていた。  その日、信長が船中で書いていたのは、折奉書三枚にもわたる長文の折檻状であったのだ。──或る一臣下の怠慢に対して、日ごろの憤りを発し、峻烈な辞句をつらねて、その罪状を責めつけたものであった。 「いま大坂はお手に入り、積年の禍根はのぞかれ、こうして宇治の清流を、爽やかにそれへ向って御入城あろうという──かかる日に、どうしてそんなおむずかりを起されておいでやら?」  と、蘭丸はひとり呟いていた。けれど、こういう機微な心理になると、いくら信長の胸の中に住んでいるような蘭丸でも、  ──わからぬお方。  と、つくづく思うしかなかった。  方八町四方という石山御堂の城構えは、三日三晩の火にかかっても、まだ一部の建物はのこっていた。  信長は、そこに入城すると、すぐ認めておいた折檻状を、中野又兵衛、楠木長安、宮内卿法印の三人にあずけ、 「佐久間信盛父子へ、これを渡せ」  と、使者の役をいいつけた。  信長が大坂へ入って、その占領地を検分の後、第一に発したものは、怠慢な臣下にたいするこの、  折檻状  なるものであった。  大鉄鎚は、佐久間右衛門信盛父子へ下った。  いや、それを頭上に受けない者までが、例によって、峻烈極まる信長のそれが始まったかと、他人事ならず身をちぢめて、 「いったい、どんな罪状で?」  と、成行きを見まもっていた。  使者の手は、冷然と、信長自筆の問責状を、佐久間父子に手渡したと伝えられた。  信盛父子は、ここ五年ばかり、石山本願寺に対する寄手の大将として、大坂の抑え城に在番していたのである。──つまり石山御堂の落城は、本来、彼の手によってなされなければならない任にあったのだ。  とかくして、五年の間、この対大坂の寄手勢というものは、何もなすことなく暮れていたのである。  いわゆる無為空日を過していたのだ。信長が、いかにこの間を、焦々思っていたことかは、今、その譴責状となってから、初めてみな、 「ごもっとも」  と、思い当った。  相手は、十一年余も、信長自身ですら手を焼いて来た門徒の本拠である。これが佐久間勢の一手で陥ちなかったからといって、ただそのことのみでは、そう責めもしまい。  信長が怒ったのは、次のような箇条によるものであった。 一。=在任五年のあいだ、ほとんど、戦争らしい戦争を開始していない。これは世間がみないっていることだ。 二。=力攻が至難なら、策略外交もあるべきである。しかるに、五ヵ年間、まだ、一度も、安土へ献策を携えて来たためしもない。 三。=兵力不足を常に喞ちおる由であるが、信長としては、三河、近江、和泉、紀州、そのほか根来衆など、七ヵ国の在郷に、人力、兵糧、何事にもあれ、大坂寄手の勢へ与力すべしと申しつけてある。大将として信盛父子もそれは篤と承知のはずであるに関わらず、少しもそれらの人的資力も物資も活用しようとはしない。これ、無能、無策、未練、戦意に欠けているためでなくて何であろうぞ。 四。=この間、軍費を冗費しながら、与力、被官の輩には恤まず、ひたすら自家の費えを惜しみ、衆心みな軍を離れ、士紀また振わず、世上に織田軍たるの面目を汚し、この戦国の中に、ひとり悠々閑日を偸んで、今日に至る。実に前代未聞の怠け者とは汝らのことである。何のかんばせあって今、信長にまみゆるや。  ──大要、以上のような罪状をかぞえあげたものであるが、辞句痛烈、こんな生やさしい程度ではないのである。  このほかの条にも、自身、面罵するような激語がずいぶん見える。  たとえば、 「汝は、信長の代になってからでも、三十年奉公して来たが、そのあいだ、佐久間右衛門が比類なき働きをしたと、世間から称えられたような例が、一ぺんでもあったか」  と、いうような言葉や、 「丹波国にある惟任日向守の働きをみろ、天下に面目をほどこしているではないか。次には山陽数ヵ国を平定している筑前守秀吉にも辱じたがよい。小身でも池田勝三郎は、花隈城を攻め陥している。またそちと同様の宿老ながら、柴田修理亮勝家は、すすんで北国攻めに当り、難治の地に苦労しているのを何と思う」  と、痛罵を加え、その上、 「汝のような者が、信長の統業下にあることは、世間のうたがい、物笑い、日本にとどまらず、明国、高麗、天竺、南蛮までの恥さらしである」  とまで極言しているのである。  これを受けた佐久間父子が、いかに慄え戦いたかはいうまでもない。  信長の使者から、口上で、 「即日、遠国へお立ち退きあるべし」  と、云いわたされた佐久間信盛父子は、いわゆる取るものも取り敢えずといったような狼狽ぶりで、 「お詫びは、いずれ後から」  と、匆々、高野山へ逃げのびた。  ところが、信長の令は、なおそこまで追求して、 「高野に在住は罷りならぬ」  と、達した。  信盛父子は、生ける心地もなく、そこからさらにまた、紀州熊野の奥へ落ちて行ったという。 ──譜代の下人召使にも見離され、足にまかせての逐電也。われと我が草履を取るばかりにて、徒歩はだしのすがた、昨日はゆめか、見る目も哀れの有様とぞ。  当時の筆記に見ても、時人は何の同情も持たなかった。むしろ信長の厳罰を当然として、この一事件を、冷笑視していたらしい。  森蘭丸も、そのひとりだった。  彼は、賢いので、こういう噂に対しても、自分から先に口を出して、死屍に鞭打つようなことばは決して吐かなかったが、近習の同輩が、あれこれと、佐久間父子のうわさをして嗤うと、 「あまりに、寵遇に狎れすぎてお在でたからじゃ。五年余の間、天王寺に在陣中も、茶之湯ばかりに凝られて、陣務はいっこう怠っておられたという。信長公にも、お茶はお好きの一つであり、茶はよく遊ばされるが、佐久間父子とはお心入れがちがう。……何事にせよ、手がける者の心入れ一つで、邪道ともなれば、修養ともなる。ともあれ、五ヵ年の長い間、それを黙って視ておられた公も公なれば、甘えていた佐久間も佐久間。われらも、顧みて、日常に誡めねばなりますまい」  こんな程度に、当らず障らずの批判はしていた。  けれど、実をいえば、蘭丸は心のうちで、 「あの御折檻状が、佐久間父子へ下るものでよかった。……ああ心配な」  と、人知れず、ほっとしたり、なお安んじきれないものを、胸の奥に残して、頻りと心を労っていたのである。  それは、彼自身の問題ではなかったが、自分以上なものの身に関わることだった。  ──と、いうのは、蘭丸の老母──森三左衛門可成の後家の妙光尼と、本願寺方の謀将鈴木重行とは、かねがね信長にはごく内密で文通など交わしていた。  十一ヵ年、信長に抗戦した本願寺陣営には、実に、鈴木重行という稀代な謀将がひそんでいたのである。重行は、蘭丸の母の妙光尼が、後家となって後は、ひたむきに仏門を慕い、信仰のこととなれば、何ものもない女性であると知ってから、法話や仏縁を頼って、その人にいつか昵懇をむすんでいた。  そして、蘭丸の母から、安土の動静を、それとなく、たえず探り取っては、本願寺方の作戦に利して来たのである。  その鈴木重行も、いまは本願寺一類の人々とともに、十一年の寓営をあとに、何処かへとおく落ちのびてしまった。──従って、複雑な時局や、世情にうとい蘭丸の母自身は、自分の行為が、今日までどんな妨げを主家にしていたかなども、今もって気がつかず、ただ茫然としているのであろうが、 「もし、知れたら?」  と、このところ蘭丸の心痛というものは、一通りではなかったのである。  疾くから、母に諫めたこともあるが、母は、絶対にそんなことはないという。早くから、良人とわかれた母にとって、たった一つの信仰であったし、子として、無下な意見立ても云いかねるまま、ただ、 「……困ったもの」  と、蘭丸は、今日まで、そのことについては、細心な警戒を、母の周囲に払いとおして来たのである。  佐久間父子の処分が片づいた後も、蘭丸はまだ安心しきれなかった。  蘭丸ばかりでなく、信長の衆臣はみな、過去の行為や、身を顧みて、 「他人事ではない」  と、無言のうちに、動揺していた。  大坂に停まることわずか五日、その月十七日には、信長はもう去って京都へ移っていたが、二条城に入るや否、彼はまたまた、宿老の林佐渡守通勝や、安藤伊賀守父子へ対して、  ──遠国へ追放申しつけらる。  という折檻状を発したのだった。 「何事も、やり出せば、徹底的にやるお方。きっと、まだあるぞ」  とは、みなひそかに、囁き合っていたことだったが、譜代中の譜代、林佐渡がその槍玉にあげられようとは、たれも思いもしていなかったし、当人さえも、寝耳に水であったとみえ、譴責の使者が行っても、 「お戯れではないか」  と、初めのうちは、真に受けなかった程だったという。  それもその筈。──今日、信長が彼を処罰した理由は、いまから二十五年前、信長がまだ清洲にあって暗愚で乱暴な若殿と──四隣からうとんぜられていた頃の旧い問題なのである。  その頃、林佐渡が、彼にあいそをつかし、信長の弟の信行を奉じて、織田家のあとに立てようと謀んだことがある。 「いまだに、あんな昔のことを、深くお心のそこに据えておられたのか」  と、聞く者はみな呆れもし、慄え上がりもした。──二十五年という長い過去を洗いだてすれば、どんな者にも、多少の過失や怠慢は各自に必ず思い出された。  また、同時に追放された安藤伊賀守父子の罪案も、十四年前の旧いことだった。  信長が、伊勢へ出馬したとき、その留守に、甲州軍を引き入れようと計ったらしい形跡があったのである。──が、これは未然に敏くも信長の知るところとなって、当時、安藤伊賀の一味は、詫状を入れて、一応、すんだ問題になっている。 「──それを、十四年後の今日となって?」  と、人々は信長の余りに強い執念に今さら驚きと戦慄を抱かずにいられなかった。──どうしても宥せぬものならその時罰しられたらよいにと思った。いまようやく、天下の大半がその有に帰し、敵性の牙城大坂までが掌に入ったこの時に会して、何も、ふた昔も前の臣下の罪や過失を罰しなくてもよいであろうに──と、恐怖をとおり越して、臣はいささかその苛烈な追求に対して、うらめしい感じさえ抱いた。  わけて、蘭丸の心痛は、ひと通りではない。朝夕、信長の側にいて、信長の眉を見ているだけに、気が気ではない。 「……もし、母と鈴木重行とのことが、ちょっとでも、お耳にはいったら」  と、逸早く、母のいる安土へ向けて、弟の坊丸を使いにやり、また兄の森伝兵衛にも言伝けて、過去数年のあいだ、鈴木飛騨守重行と往復した手紙などは、一切、密かに焼き捨ててしまうように注意しておいた。  その坊丸が帰って来た。人目のないところで、蘭丸は、坊丸へたずねた。 「手落ちなくいたして来たか。また母の禅尼へも、過去のこと、これから先のことも、ようくお心得あるように、お諭しいたして来たか」 「はい。母の禅尼も、今度という今度こそは、よくお解り下すったようです。──けれど、兄上の伝兵衛様には、なかなかまだこれで心配がなくなったとはいえぬと仰っしゃって、嘆息しておいでになりました」 「まだ何か、後日の患があるといわれておいでたか」 「そうです。いくら手紙などを焼き捨てても、かんじんな鈴木飛騨守重行という者がこの世に生存している限り、なんにもならないと仰っしゃっていました」 「……ううむ、その重行は、本願寺一類と共に落ちのびて、今はどこにいるやら?」  蘭丸も、眉を曇らした。 名将と名将  大坂も。また本願寺一門も。──と、その総敗退が聞えて、この際、もっとも衝撃をうけたものは、当然、中国の毛利であった。  すでに、その地盤の一角、播磨から但馬、伯耆にわたるまで、秀吉の進攻に、刻々、削り取られているところへ──この飛報である──さらに濃い敗色を加えたことは蔽いようもなかった。  近畿にも、丹波、丹後にも、恃む味方は次々と倒れてしまい、いまは織田氏の圧力を、全面的、直接に受けもし防ぎもしなければならない立場を余儀なくされて来た。  毛利家には、元就の遺言であったという、一つの方針があった。鉄則があった。  それは、 (分を守り、中国を固め、父祖が百戦によって得た領土を失うな)  ということだった。  しかし、時の潮は、決して、元就の遺言のみを、敢えて避けてはいなかった。  滔々として、その保守主義の防塁へも、革新を迫って来た。  吉川元春も小早川隆景も、智勇兼備とよんで恥かしくない大将である。ただこの国に生れ、この家門に育ち、その遺訓を奉じて、 「中国の尺土たりとも、敵に委すな」  と、戦い、また戦い、あらゆる善戦を施して来はしたものの、要するに、その起ち向っている立場は、時潮の逆であった。──抗し得ぬ時代の怒濤にたいして、ひたぶるにその保守的家訓の旗を、血にまみらしているものであった。  さもあらばあれ、毛利も誉れある武門の家だ、両川も非凡といえる将器である。ここまでの戦績を見ても、遠くは越後の謙信、甲斐の武田までを、外交的機略に用い、また、その名分を大きくするためには、前室町将軍の義昭を自己の国土に引き取って養い、中央には、本願寺の法門勢力の広大な組織とその財その実力を余すなきまでに利用し、水軍に陸上に、あらゆる反間の策、正面攻撃など──驚くばかりな大規模と遠謀の下に、よく戦いぬいて来たことは、天下の認めているところだった。  もし、毛利方に、吉川元春なく、小早川隆景もいなかったとしたら、毛利輝元の名は疾くに屠られ、中国全土はこれより数年も前に、信長の治下に収められていたにちがいない。  いま、そのあらゆる外郭陣営を破られても、なおかつ、  ──中国に毛利あり  の厳然たる勢威を失わずにいるのは、実に、智勇双璧の両川が、その指揮にあればこそといっても過言ではない。  ──が、必然の結果として、年ごとにその陣容が、退嬰策になってゆくのは是非もなかった。  隆景は、もっぱら山陽方面の防禦にあたり、吉川元春は、山陰道のふせぎに当っている。  これに対して、秀吉は、 「まず、鳥取の城を」  と、奪取にかかった。  そう意志して、行動にかかり出すまでには、かなり長い時間があった。そのあいだが、秀吉の戦いなのである。  いざと、攻めにかかるときは、彼としてはもう仕上げを成すようなものだった。  数ヵ月前から、彼の命をうけた黒田官兵衛は、若狭方面へ潜行して、その船舶を買い占め、鳥取地方に散在している食糧という食糧は、あらゆる手段をつくして他へ運漕させてしまった。  また、吉川元春が、そこの味方へ、粮米を積んでは、海上から輸送する途のあることを知って、沿海洋上に、船隊を配備して、それをも完全に封鎖してしまった。 「もう、よい頃です」  官兵衛から、時到れりと、鳥取城の弱まった情報を手にすると、秀吉は初めて、軍をうごかして、敵の城下に迫ったのである。  もちろん秀吉の軍がそこへ到るまでには、因幡、伯耆などに散在する敵の諸砦を、その前年から、次々と、攻め潰して行ったものである。  鳥取の城には、初め、山名豊国がたて籠っていた。  秀吉は、その前に、鹿野城を陥したとき、多くの降人の中から山名豊国のむすめを見出して、陣中に留めておいた。 「豊国ごときは、札つきの豹変武士である。初め、元就の威に伏して、毛利に従い、後には、尼子、山中の勢力に脅かされてそれに組し、近年また吉川、小早川に款を通じて、この一女を人質にさし出していたもの──かかる武士を動かすには、矢弾を消費するまでもない」  と、秀吉は、その第一次攻戦の折には、ほとんど戦わずに、山名豊国の招降に成功していたのだった。  それは、豊国のむすめを、きれいに粧わせて、城から見える麓の丘に立たせ、 「やよ、見給え」  と、城中へ呼びかけたのである。  豊国が、城から見ると、美しく化粧したわがむすめが立たされている。そしてその側には、新木の磔ばしらが聳えていた。 「むすめも不愍、因幡の所領も惜しと思わば、よくよく御分別あるがよかろう。──御返答は明朝まで相待たん」  と、城外から云い送った。  案のじょう、山名豊国は、その晩、使者を出して、降伏を誓って来た。  けれど、彼の家臣のうちには、硬骨もある。 「余りといえば、薄志弱行な」  と、主人ながら、豊国にあいそをつかし、結束して、豊国を、他国へ放逐してしまった。  そして、急使を、毛利軍の吉川勢に報じ、 「急援をたのむ」  と、告げた。  吉川元春は、すぐその部下の勇将、牛尾元貞を向けたが、元貞が、矢痍をうけて、病臥してしまったため、ふたたび、 「市川雅楽允、参れ」  と、代りの将を派遣した。  けれどなお、誰か、毛利一族のものを上に戴くのでなければ、士気の程も心もとないという鳥取からの要請に、吉川経家が新手八百余人をひきつれて、城へ入った。  前からの城兵とあわせて、約二千人が一つになってたて籠ったわけである。けれど、それ以外にも、城下の家族や百姓などの非戦闘員も悉く、城郭内に避難したので、たちまち在庫米は食べつくしてしまった。  城の西を賀露川は、北流して日本海へそそいでいる。そして糧米を積んだ船舶は、ここを遡って、城兵の糧を運んでいたのである。  だが、それは従来のことで、ここ二ヵ月余も、その軍需船は、はたと絶えてしまった。──若狭その他の地方にあって、糧米買止めの策と海上封鎖に活躍していた、秀吉麾下の黒田官兵衛が働きは、ようやく顕著になり、城兵の胃の腑へ、直接こたえて来たのであった。 「もう城中の糧は、あと半月を支えるほどもない」  急は、度々、吉川元春の手許へ告げられた。元春は、ために、数百石の糧米を、自領から取り寄せて、これを一船隊で海上から廻送したが、時すでに遅し、そこは封鎖されていたし、陸上には、秀吉の大軍二万が着いて、もう到るところを取り囲んでいたのである。  秀吉は、鳥取城外の帝釈山に陣し、水ももらさぬ包囲陣を布いていた。  勇敢な城兵は、暗夜、たびたび袋川を泳いで、芸州の味方との連絡を計ろうとしたが、一兵たりとも、秀吉の布陣の網の目を潜ることはできなかった。  みな、捕虜となるか、その場で殺された。  かくて、山陰第一の要塞を誇っていた鳥取城も、自焚全滅か、開城降伏のほかはなくなった。  まだ、もうひとつ、城兵にとって、致命的な事実があった。  八月の一夜である。  瀕死の城兵に、糧を入れるため、毛利方では、運送船五隻に、兵船十隻をもって護衛にあたらせ、海上から決死の覚悟で、賀露川を溯って来たのであった。 「来たな」  と、河口の警備隊は、これを繋ぎ狼煙で、沿岸の味方へ報らせた。  夜半だったが、封鎖陣には、一尾の魚も通さないほどな手配りがととのっていた。  羽柴秀長、藤堂高虎、細川藤孝の援軍などが、一丸になって、河中の船団をつつみ、小舟から投げ柴投げ松明などで、彼の主船を焼き沈め、乗員三百余人の毛利兵を殲滅してしまった上、その主将鹿野元忠の首をあげて、城中へ、 「各〻が、鶴首してお待ちかねのものも、かくの通り」  と、送りつけた。  七月中でさえ、鳥取城のうちには、もはや一粒の糧もなく、兵のうちにも、避難民の中にも、餓死や病者がふえていたところである。──もうそれに怒って反抗する気力も乏しかった。  羽柴秀長は、藤堂高虎に諮って、もう敵方も参ったであろうと、能弁な一臣下を、使いとして、敵の一拠点、丸山の陣へ、 「はや、降伏せられよ」  と、説きにやったが、その使いは帰って来なかった。よくよく調べてみると、案に相違して、使者は馘られてしまったということがわかった。 「小癪な」  と、秀長も高虎も、直ちに、一挙粉砕をもくろんで、行動にかかりかけたところ、忽ち、秀吉の本陣から、 「みだりに動くなかれ」  という厳命が来た。  炎熱八月の雲の峰の下に、帝釈山の旗幟は、すずやかに、また、こともなげに、ひるがえっていた。  例によって、秀吉は、何かにつけ、いちいち安土の信長へ使いを派していた。  ──かように計らいたいと存じますが如何でしょう。  ──かくかくの事態に見えますゆえ、かく致しておきました。  時には、無用なと思われる事々まで、いちいち急使を立てていた。  信長の代理として、高山長房が陣中の視察に来た。それが月の中旬頃。  九月──空しく過して──やがて十月となると、秀吉は初めて、堀尾茂助吉晴をよび、 「城中へ使いして来い」  と、命じた。そして、 「かような使いは、そちとしては初めての勤めであろう。心して参れよ」  と、いろいろな心がけを訓え、茂助もいつか、自分の側で、かような任務にも当る一かどの武者になったか──と感慨深そうに彼のすがたを見まもった。  回顧すれば、もう十数年前になる。信長が、斎藤義龍の岐阜を攻めるに当って、金華山の峰つづきを、その裏山から攀じて奇襲したとき、山中で道案内をした一樵夫──まだ十六、七歳の、山家育ちの若者こそ、今日、寄手の一方に、一部隊をあずかり、人後に落ちない武者振りを見せている──この堀尾茂助であった。  ふと、今も、 「はやいものだのう」  秀吉は思わずにいられなかった。わが息子の育ったのを見るような眼でながめた。 「よくお旨を奉じて、行って参ります」  茂助は、この大役に、感謝した。懸命な容子が顔いろに出ていた。 「待て、待て」  立ちかける茂助へ、秀吉は念を押すようにいった。 「この使い、できそうか。自分に問うてみて、──」 「はい。きっと」 「さきに藤堂家の臣は、即座に斬られておる。覚悟はあるか」 「もとより、事不調の節は、生きては帰らぬ所存にござります」  すると秀吉は、急に不きげん極まる顔をして、 「坐れ。もう一度そこへ坐れ」  と、叱った。  堀尾茂助は、坐り直した。なんで急に秀吉の叱りをうけるのか、彼には分らなかった。 「使者のつとめは、使者の役を完全にしとげるこそ、本分というもの、それ以外の覚悟など要らざることだ。死に赴くことなら余人でもする。敵を説く使者はそんな生やさしい肚では難しい。死にもならず、生きて帰ることもなおできず、という境に性根をすえて説かねばならぬ。吉川経家も中国では誉れのある武将。しかも秀吉の大軍につつまれながらも、きょうまでの長日月を、かくの如く立派に守りとおしている者だ。それを説く。戦よりは難しいぞ」  秀吉のいうところを、茂助は、両手をつかえたまま、耳朶の充血してくるほど、熱心に聞いていた。 「御意。よくわかりました。めったに生命は捨てぬよう、ただ懸命をこめて、行って参ります。お使いを果して来まする」 「よし、行け」  茂助は、いちど自分の陣所へ退った。それから身支度をすずやかに改めて、ただ一人で敵の城中へ赴いた。  寄手の使者が来たというので、吉川経家は、 「ともあれ、会おう」  と、城中の一間へ彼を引いた。  かかる使いに、茂助はまだ不馴れである。また、特に弁舌の士でもない。  そしてなお、すでに、この城は持ちきれないことも、目に見えている敵ではあったが、秀吉から云いふくめられて来た通り、茂助は、礼を篤うして、飽くまで敵の善戦を敬い、慇懃、理をつくして云った。 「主人筑前守には、この鳥取城のお守りを、よくこれまでお支えなされたと、口を極めて、われら部下の者にも、嘆賞しておられます。けれど、もはや糧道も絶え、御名分も立ったというもので、これ以上、おすがりあっても、餓死のほか途はございますまい。あなた方武士たちは、斬って出て、死に様もお心のまま選ぶことができましょうが、傷者、病人、また三千余の領民を共に餓死させるは、無情の至りです。私義にこだわって大義なきものです。ところで主人筑前守がお心では、わずか二人の者の生命だにお差出しあれば、全城の生命は甦える。あなたの御名誉をも十分に考慮しようと、頻りに安土ともお打ち合せにござりますが」 「はははは」  経家は、黙って聞き入っている途中から、ふいに笑い出した。しかし嘲笑ではない。この使者の飾り気のなさを、その眼は、むしろ愛している。 「あいや、お使者」  と、彼もていねいに呼んだ。 「誰が、いつ、降伏致すと申しやったかな。筑前のひとり呑込みであろ。筑前が望みは、城中の難民やわが士卒の生命ではあるまい。鳥取の城であろう。そうはやすく参らん。これには、経家が住んでおる」 「いや、おことばですが、この一城、攻めおとさんとするならば、これはもう陥ちます、誰の眼にも」 「陥せ」  経家が、軽く、突き放すようにいうと、茂助はあわてて、 「お互い、武門の弓矢は、そう故なく用いるべきではありますまい」 「そう秀吉がいうたか」  茂助は、顔あからめて、ちょっと次のことばを見失ったが、飽くまで、その誠実をこめて、 「はい。主君のことばでもありました。また、それがしの信じるところでもあります。そもそも、憎むべきものは、先に、ここの城主山名豊国を、家来の分際として追放した山名の臣、中村春次と森下道与の二名です。この二人の首を打って、城中数千の生命をお救いあるようにと、主人筑前からのおすすめにござります」 「要らざることをいう。中村、森下の両名は、寄手にとっては憎むべき者か知らぬが、わが毛利軍にとっては、またなき忠臣、その首を渡すなどということはできぬ。──できぬ相談というものじゃ」  経家は言外に、開城の意のあることを仄めかしていた。  この事ある前から、吉川経家としては、夙に或る決心を抱いていたのである。到底、持ち支えようはない鳥取城の守将として彼の信念した肚のものは、  おのれを殺して、衆を救おう!  それであった。  ところへ、秀吉の使いとして来た堀尾茂助のことばによれば、 (あなたのお首は求めない)  という。 (前の山名豊国を追放した二臣の首さえお渡しあれば、あなたは本国安芸へお引き揚げあるがよい。構えて、秀吉は、貴下の首を安土へ献じて、自分の功を誇らんなどとは思うていない)  と、懇ろに伝えてよこしたのであった。  これは、経家の抱いている意志とは、反対な申し越しである。  しかし、秀吉がその優越な立場に驕らず、たとえ政略にせよ、敵将に示そうとするその寛度と好意は充分知ることができる。  また、その使者も、智者弁者をえらばず、特に、堀尾茂助一箇をさも気軽そうに向けて来たのも、尠なからず、敗者の心情を酌んで、こちらの意気地を駆り立てないように、意を用いていることが分る。 「…………」  使者の堀尾茂助が、至って口少ない男なので、経家も、無言にまかせて、あれこれと、胸のうちで思案していた。  ──秀吉のような、世事にも人間の心理にも理解のある者への徒らな意地立てや強がりは、効なきことと思われた。経家は、いま使者をうけたこの機を逸すべきではないと、独り問い独り答えたあげく、やがて茂助へ向って云った。 「開城のこと、同意いたすであろう。立ち帰って、筑前どのへ、そう伝えてくれい」 「えッ……。では」  茂助は、茫然とするほど、歓びにつつまれていた。こんなにやさしく彼が城地の明け渡しを承知しようとは、まったく予期していなかったからである。 「──だが、あわせて、この儀も慥と、筑前どのへ御念を押しておかれたい。山名の二臣は、飽くまで馘ることはならん。この城の守将は吉川経家なり。守将の責任は一切を負うもの。経家一人の切腹をもって、城中の将兵を始め、難民どももことごとく御保護の下におひき取りねがいたい。──さもなくばこの城を、無血開け渡しは成りかねると」 「仰せ、立ち帰って、主君におつたえ申しあげます」 「筑前どのの麾下浅野長吉どのとは、前々より面識もある。使者の見えたのを幸いに一書、託したいが、届けてくれるか」 「おやすいこと、お届けしましょう」 「しばし、休息していてくれ」  経家は奥にかくれて、手紙を認めて来た。それをあずかると、茂助は間もなく城を出た。  すぐ秀吉に復命した。  秀吉は浅野長吉を呼んで、書面をわたし、内容をたずねた。 「──やはり、自分の一死をもって、すべてを赦されるならば──という旨しか認めてございません」  長吉は、自分宛のその書面を、秀吉に見せた。  秀吉は、真から惜しむもののように、 「長吉、もう一度、そちと茂助と二人して行って来い。そしてよく経家を諭し、山名の二臣の首を出して、自身には、芸州へ帰るようにすすめたがよい」  といった。  浅野長吉はさっそく茂助吉晴と共に、ふたたび城中へ赴いた。けれど、経家の心をひるがえすことはできなかった。 「惜しいが、ぜひもない」  秀吉は、遂に、経家の要求を容れた。  望みがかなって、十月二十五日の昼、吉川経家は、城外の真教寺へ移って、切腹した。  ──まだ若い身を、実にしずかに、すずやかに、腹を切って、城中数千の生命にかわって逝った。  同じ日。  吉川経家の近臣──奈佐日本助、佐々木三郎左衛門、塩谷高清の三人も、主君のあとを追って、腹を切った。 「いたましい哉」  秀吉は篤く弔った。  首は函送して、これを、安土の信長に供え、遺物の種々は、安芸の吉川元春の許へ送り届けてやった。 「第一に、米を施せ」  秀吉が、鳥取城を占領すると、まっ先に手をつけたのが、城中の飢民と、城外の窮民の救済だった。  即日、三百石の米が、それらの人々を潤した。  次には、交通の復旧である。袋川の橋も、その日から架設にかからせた。 「これからは鳥取も、羽柴筑前守様の治下になる」  と聞えると、驚かれるばかり、この城下の様相は一変して、山陰地方の離民を吸収した。  戦のため、一時、ここを避難して帰って来た土着人ばかりでなく、 「わしは丹後から移って来た」 「おれは丹波だが」  と、語り合っている町人百姓もある。  物売りも寄る、職人も集まる、遊芸人も流れて来る。僧侶、医師、何くれとなく一つの社会を構成するに必要な百業の人々が、求めずして、集合して来る。それらの者の口うらをひいて見ると云い合わせたように、 「──筑前守様の御領下にいれば、何となく安心で、それに、同じ暮すにしても、陽気で、張合いが持てて、何となく励みがつく。──丹波、丹後、そのほか畿内も、住むにはもう安心だが、陽陰と陽なたほどな違いがある」  と、いうのである。  批判も学問もない民衆の声とはいえ、どうやらこの相違は、近年に至って、かなり明瞭に、民衆のうちに印象づけられて来た。──国々各地方の戦いの実相というものは、口から口をつたわるのか、案外、民間などには知れていそうもないことまで、実につぶさに、また、かなり正確なところまで、よく知れているのだった。  惟任光秀どのは、こう戦ってこう勝った。そしてこういう法令で治めているが、内実は、どうだとか、こうだとか──までをいう。  また、信長が出向いて、直接、指揮に当ったり、占領治下の後始末したところなどは、余りに、その峻厳に、民衆はただ恐れ竦んでいる風があった。  たとえば、信長公の御出馬と聞くと、その地方の民衆は、 「もう戦も長くない」  と、その威力によって、どんな頑強な城も敵も瞬くまに屈服するであろうことを信じるかわりに、 「あのお方が御征伐に向って来られては、草も木も枯れはててしまう」  平和の近づく歓びよりも、これから酷寒の冬に向うような恐怖に近い顫きのほうを先に抱いてしまうのだった。  それはともかく、鳥取陥落の報に、毛利方のうけた衝撃はいうまでもない。  吉川元春は、自身、安芸を発し、同じ頃、秀吉は、占領地を宮部善性坊、木下重堅の二将にあずけて、姫路へ退陣して行った。  急を救わんと駈けつけて来て間に合わなかった吉川軍と、功をとげて帰る秀吉軍とは、途中、伯耆の馬之山に、相互、必殺を期して対陣した。  だが、大軍と大軍は、相対峙したままで、一ヵ月余も、兵を交えずに、そのまま、別れてしまったのである。  去るに臨んで、秀吉はいったという。 「戦わないのもまた、戦法のひとつだ。元春の器量はよく分った」と。  吉川元春もまた、安芸へ引っ返しながら、独り喞っていたということである。 「中国の将来はいよいよ多難だろう。彼の如き者が現われる時代では──。今や世は凡事の戦乱ではない」 父信長  いそがしい。だが、秀吉はほとんどそのいそがしさに、 「たまらぬ」  と、愚痴をこぼしたことがない。  鳥取を始末し、馬之山に対陣し、姫路城へ帰るとすぐ、 「船舶はどうだ。充分に、用意はあるか」  と、舟手の者へ質問である。  四国へ渡海する考えを持っていた。なぜならば、これより前に、黒田官兵衛の手勢は、鳥取城の陥落も見ずに、寄手の陣から後退して、急に、淡路へ渡り、四国に散在している雑然たる敵性の烏合に、しらみつぶしの剿滅を加えていたからである。  四国に勢力を持って、頑然、信長に対抗している敵は、由来、長曾我部元親であったが、信長は、その敵に対して、三好の一族を遠くから援護して当らせ、ともかく今日までは、その伸展を制して来た。  ところが、その三好の力ぐらいでは、もう長曾我部勢力の防火壁として立つには、覚つかなくなった。急は、秀吉に通報され、秀吉は、鳥取攻城中の兵力を割いて、黒田官兵衛に仙石権兵衛を添え、 「四国の急へ」  と、赴かせたのである。  しかし、彼にとっては、飽くまで、中国攻略が経営の根幹であり、四国は、傍系にすぎない。 「長曾我部元親なるものも、風の中に抛っておけば、炬火になる質がある」  とは思いながらも、今は、それへ灰をかぶせて、埋め火の程度にしておけばいい。  淡路を占領して、大坂と中国との海上を安穏ならしめ、その須本城に仙石権兵衛を入れて、四国の抑えを命じると、また直ちに、官兵衛を連れて、姫路へ帰って来た。  それが、十一月の半ばごろ。  そして帰るや否──といっていい。  こんどは、備中の児島へ向い、出陣の指令を出す。  そこの麦飯山城に、植木出雲守が鮮明なる敵色をひるがえしているのだ。児島奪取の計は、その前からも、官兵衛が、 「今のうちに」  と、しばしば献言中だったが、その都度、秀吉は、 「まあ、まあ」  と軽く聞き流し、 「あれには考えもあるから」  といっていたものである。  この際、その考えとは、どんなことかがわかるわけだった。──と、出陣の間際になって、さては、と官兵衛には頷けた。  かねて、秀吉は、長浜の自分の家庭へ、主君信長の四男於次丸を、養子として乞いうけ、妻の寧子と、留守中さびしげな老母とに、それをあずけて中国へ来ていた。  その於次丸も、いつか、元服の年ごろとなった。それかあらぬか、秀吉は、この春以来、 「武将の子だ。陣中の困苦にも馴れねばならん」  と、長浜へ迎えを出し、わざわざこの戦場の地へ、わが子を呼びよせておいた。  ときには、前線に連れて行って、風雨にも打たせ、飢餓も味わわせ、怖い中を歩かせたりしていた。 「あんなにも厳しくなさらないでも」  と、士卒たちが、傷ましがるようなことも、秀吉は、知らぬ顔していた。  こんど、麦飯山の出征には、兵力一万五千が発向を命じられている。秀吉はもちろんそれに対して、老巧な臣と、勇敢なる若手の将を、部隊部隊に配しはしたが、総大将としては、 「於次にそれを命じる」  と、発表したのである。  そして、初めて軍の上に立って、戦いへ臨むわが子を招いて、 「よく、習んで来いよ」  と、云いきかせた。  勝って来いとも、死ぬ気で行けともいわなかった。時に、於次丸はまだ十四歳だった。  やがて十二月の中旬ごろ、於次丸の軍は、功を遂げて凱旋した。  養父でもあり、中国総督でもある彼だが、秀吉は凱旋将軍をむかえるの礼をもって、わが子を待った。  そして、座に請じ、肩を撫でて、 「よういたして来た。どうだ戦というものは、おもしろいものだろうが。敵に勝つとは、こうするものかということが、わかったであろう」  と、いった。  彼はまた、この歓びを、ひとりで陶酔している気はない。もうひとり自分以上に歓んでもらいたい人がある。いや、自分の満足感はさて措いて、その人のために、この歓びごとを、構成したのではないかとさえ思われぬこともない。 「於次が初陣の勲功をお聞きあられたなら、右大臣家におかれてもいかばかりか、お歓びあろうぞ。さっそく、安土へ使いを立ててお報らせ申そう」  浅野弥兵衛をして、その使者にえらび、即日、手書を持たせて、安土へやった。もちろん右府信長へ宛ててである。  書簡の内容をくだいていえば、秀吉の口吻のまま、こんな意味がしたためてあった。  はやいものです。於次も十四歳になりました。老母も愚妻の寧子も、日ごろは、眼のなかへも入れたいほど可愛がって、長浜の奥から外へも出しませんが、かくては行く末大器となる質を可惜盲愛のため親が弱めてしまうようなものですから、このたび中国の役を幸い、陣中へ招いて、つぶさに戦陣の悲雨惨風を味わわせ、約一年を過させました。  そのため、めっきり気丈者になり、骨柄も失礼ながら、あなた様に髣髴たるものが見え参りました。そこでこのたび備中麦飯山の植木出雲守の征伐をいいつけ、一万五千の大将となし、晴の初陣に立たせましたところ、攻略わずか一ヵ月足らずにて凱旋し、戦の統率ぶりも養父の慾目ばかりでなく大出来でした。どうか共々およろこび下さい。  ついては、歳も押しつまりましたし、久々で御健勝の体をも仰ぎ申したく、近く歳暮の儀をかねて、出府いたすつもりです。そのせつなお詳しくお物語りしますが、さしずめ、於次も早、男一人前の働きもいたしたことですから、この機会に元服させて、羽柴少将秀勝と名のらせたくぞんじます。秀吉の名は殿より頂戴のもの、その秀の一字はまた親譲りのもの、御意如何でございましょうか。  大体、こんなふうに率直な親心を述べた書簡であった。  信長の歓びかたは一通りでなかった。そのてがみには眼を細くして何度も繰り返し繰り返し読んだものである。  ──わが血をわけた子、四男の於次丸、それは臣下の家とはいえ、やはり他家の嗣子に遣ってあるということは、親ごころの当然として、たえずどこかで、どう育っているやらと、案じられていたものにちがいない。 「信長も、心から満足いたしおると、よろしく伝えてくれよ。そして、筑前自身、歳暮に出府の由、心待ちにいたしおるとも申しそえて」  使者の浅野弥兵衛は、厚くねぎらわれて、姫路へ帰った。  この前後である。信長にとっては、もう一つ同じことが重なっていた。  それは、年久しく、甲州に質子として養われていた末子の五男御坊丸が、甲州の使者に伴われて、安土へ送り還されて来たことである。 用心濠  信長の第五子、御坊丸というのは、ずっと以前、美濃の岩村城の城主遠山景任へ、養子にやった子であった。  元亀三年の頃、その城主は、没落した。──城もろとも、御坊丸の身は、敵方なる甲斐の武田家に引き取られ、以来、信長の血すじなので、武田勝頼は、よい人質と、手許に養っていたものである。  それを──その御坊丸の身を、わざわざ甲州から送還して来たのであるから──信長のよろこびは、秀吉から於次丸の元服を報じて来た以上でもあるはずなのに、 「そうか」  と、いったのみであり、御坊丸の成人を見ても、 「大きくなったの」  という一言を与えただけで、あとは家臣と一しょになって、甲州の使者を歓待する宴席へ臨み、自身、酒をすすめてばかりいる。 「なぜか、御坊丸様のお帰りには、さして御喜色もうかがわれぬが」  家臣たちの方が、却って、こんどのことを、慶賀し合ったり、またその欣びの見えぬ信長を、物足らなく、感じたほどだった。  程なく、甲州の使者たちは、満足して還った。信長はそのあとで直ぐ、 「時なるかな時なるかな。ついに待っていた日は近づいた」  と、侍側の腹心に洩らした。  そして、なおいうには、 「甲州の勢いも、はや落日の褪色をあらわして来たではないか。──われから求めもせぬ質子を、送りかえして来たことは、われに寄せる甲州の媚態でなくて何であろうぞ。この一事によって見るも、甲軍の内容に昔日の意気は衰えて来つつあること慥かである」  果然。  彼は、わが子の無事成長を見たことよりも、その一瞬に、甲軍の衰兆を直感して、父として欣ぶこと以上のよろこびを、べつなところに、もっと大きく、ひとり歓喜していたのであった。  使者の歓待に、みずから出て、何かと、胸をひらいて語り合っていたような振舞いも、使者のことばなどから、自己の直感を卜してその確信をつかむためであったことを──後になって、 「ははあ……。そういう御遠謀であったか」  と、侍側の腹心たちは、ようやく覚り得たのであった。  日ごろ、信長が手もとに蒐めている甲州の近状やら、こんどの使者の言などを綜合して、もう一つ、信長をして、甲州の亡兆を確信させたものは、武田勝頼が、この夏の七月以来、父祖代々の住居である躑躅ヶ崎の居館のほかに、「御新府」と称する新城を、甲州韮崎の辺りに築いて、もうそこへ引き移っているという事実であった。  信長は、そのことを指摘して、 「──信玄はやはり信玄であった。彼は、その存生中に、天下へこう云っていた。われ一代のうちは、甲州四郡の内に、決して、城郭は構えず、濠一重の館にて結構、事は足るなりと。……いま、勝頼の代になって、そこを引き移り、新城に拠ったのは、すでに父信玄の自信を失ったからであろう」  ともいった。  書庫のうちから、一面の城絵図を取り出させて、彼は、侍側の腹心たちへ、 「それを展げてみよ」  と、命じた。  味方の諜者が、苦心して写しとって来た甲府の躑躅ヶ崎の絵図面である。これを世上一般では甲館と称したり、お館とよんだり、また躑躅ヶ崎城ともいっているが、決して城造りではなく、平凡平坦な土地に、水濠ひと重廻らした大きな邸宅にすぎないのである。  東西百五十五間、南北百六間という広さではあるが、一丈ほどの築土堤と、四方の門と、用心濠があるだけだった。 「どうじゃ……これを見ても、信玄は、甲斐一国を城としていた意気がわかろう。──しかしすでに、子の勝頼となっては、甲府、韮崎のみしか、彼の城でない」  信長は、すでに、甲斐一円を、わが掌にしたように、城絵図をのぞきこんで云った。 年玉  多事多難であった今年──天正九年という歳も、余すところ僅かになった。  その年暮に迫ってである。  中国の総督、羽柴筑前守秀吉、安土へ上府す──と公然に称えて、彼は、その任地播州姫路からものものしくも出向いて来た。 (いずれ年暮には伺って、ごきげんを拝しまする)  とは、さきに養子の於次丸の元服を書中で報らせたときにいってある。もちろん信長も待ちかねていたことである。  その於次丸、元服して、羽柴秀勝となった養子も伴って。  そして安土へ、着くと、 「秀吉。ただ今、御府下に到着いたしました」  という趣だけを、早速に、城中へ達しておいて、ひとまず宿所へ入った。  その由は、すぐ信長の耳へ上申される。信長は、 「来たか」  と、面を明るくして、すぐ侍臣の堀久太郎と、菅屋九右衛門を呼び、 「久々にて、戦地から秀吉の上府じゃ。多年の陣務、戦場の不自由、思いやらるる。──明朝の登城には、充分、なぐさめて遣わしとう思う。饗膳のこと、そちたち奉行いたせ。たくさん馳走してやれよ」 「承知仕りました」 「彼も、むかしの藤吉郎ではない、いまは数ヵ国を所領する諸侯である。その心得をもって致さねば、馳走も馳走にはなるまいぞ」 「はい。粗略なきよう今夕より諸事準備いたしおきまする」  ふたりは退って、膳部や調度の係をあつめ、献立の協議や、用具の品々を命じてから、城外へ出て行った。  あらかじめ、明朝の秀吉の登城時刻やら、相伴の人員やらを問い合わせ、また、信長の懇篤な内意をも伝えておくためであった。  秀吉の一行が泊った桑実寺の宿所は、まだ混雑していた。 「堀、菅屋の両名ですが」  と、幕打ち廻したそこの玄関へ訪れると、中小姓の福島市松と加藤虎之助のふたりが、出迎えに出て、 「どうぞ、お通りください。殿には、ちょうど唯今、さっそくに旅の垢をと、お風呂所へお入りになっていますが」  と、いそいそ両使を請じて、寺中の大書院へ案内した。  ふたりは、湯から上がって来る秀吉を、そこで待ちながら、茶菓を運んで来る小姓や挨拶に来る家臣などの出入りを眺めて、 「羽柴どのの家風というか、ここへ来ると、家中の誰もが、まことに気軽で、容態ぶらずに、世辞ぶらず、至ってみな明るい感じがする。──一家中というものは、こうありたいものだが、さてなかなかこう参らんものでな」  などと噂していた。  そこへ、黒く拭き磨いてある方丈の大廊下の方から、秀吉のすがたが見えた。後ろについて来る家臣たちも、置去りにするほど、彼の足の運びは、無造作で早かった。 「──やあ、御両所」  座に着かないうちからである。  ふたりの後ろからこういって、それから着席し、 「しばらく。御機嫌よう──」  は、手をつかえて、礼儀となってからの、ほんの形式だけの挨拶だった。  堀久太郎と、菅屋の二人は、ここでふと、信長のことばを思い出していた。──むかしの藤吉郎には非ざるぞ──と念を押されていることだった。  で、ここへ来ての挨拶にも、充分に心のなかで、その注意を構えていたのであるが、先方の秀吉自身が、いっこうむかしの藤吉郎と変りのない会釈なので、このつぎ穂が継がないように、二人とも、何かあわてて、 「やあ、これは」  といってみたり、また、 「その後は、おつつがもなく、大慶至極で──」  などと改まって、席を辷るなり、慇懃の礼を執ってみたりしていた。 「さあさあ。お寛ぎあって」  と、秀吉は早速にも、戦場のはなしである。  また、少し見ない間にも、安土の町とその文化が、長足な進歩を遂げているには驚いた──などと座談に興じ入ろうとする。 「いや、実はその」  と、菅屋と堀のふたりは、辛くも、ことばをさしはさんで、 「今日は、右府様の御内意をもたらして、お使いに参ったのでござれば」  いうと、秀吉は、 「や、や。わが君のお使いとして渡られしか。──粗略、粗略」  と、あわてて席をすこし下がって坐り直し、 「まだ、お届けのみに止めて、自身御挨拶にも罷り出ぬ間に、君より先へお使いを賜わって、怠慢、申しわけもござりませぬ──。して、御内意とは」 「いや、恐縮なさるには及びません。右府様にも、お待ちかねのこと、かたがた、其許との御対顔を、非常なおたのしみとしておらるるらしく、明朝、筑前が登城のみぎりには、こう饗応せい、こうもてなせと、御自身、おさしず遊ばすような次第です。──で、明日の御予定などもあらかじめ伺っておきたいと存じて」 「それはそれは、身に余ることです。いつもながらの君恩」  秀吉は、平伏して、明朝の登城時刻を答え、また、二通の目録をさし出して、 「拝顔の儀をすました上は、またすぐ中国の任地へ赴かねば相なりませぬゆえ、一度の上府をもって、歳暮の御祝儀と、年賀の年玉を兼ね、いささかばかり新占領地の国産の品々を携えて参りました。これは筑前がほんの手土産代りと申しあげて、よろしく、御前へ御披露のほどを」  と、頼んだ。  一通は、右大臣家へ。  もう一通の目録は、御簾中、ほか奥向女房衆へのものであった。 「お取次ぎ申す」  と、押しいただいて、堀久太郎がふところに納め、 「では、おつかれのところでもあるし、われらも、明朝のお支度に忙しい。そろそろ、お暇をしようではないか」  連れの菅屋九右衛門をうながして匆々に辞しかけると、 「あいや、しばしお待ちあれ」  と、秀吉も一緒に立って、そのまま奥へ立ち去った。  ぜひなく、両使とも、そこに佇んでいたが、だいぶ手間どれるので、何故待たせるのかと疑いながら、広縁へ出て、折ふし冬ざれの寺の庭面に、霜除けをかぶって、仄かな紅を見せている寒牡丹など眺めていた。  ──と、特徴のある、さっ、さっ、と聞える跫音がして来て、秀吉から二人をこう急きたてた。 「さあ、参ろう。お待たせ致した」  おや? と思って振向くと、秀吉はすっかり衣服を着かえている。しかも礼服であるのみならず、何を問う間もなく、もう玄関のほうへ向って先に歩き出しているのだ。  使者の馬も、彼の馬も、もうそこに廻されてある。小姓たちが、わらわらと、先を争って供につく。 「──何処へ?」  と、訊く必要もなさそうだ。礼服を着かえて出て来たからにはお城へ行くつもりであろう。しかし羽柴筑前守の登城は明朝ということになっているから、城門でもまごつくだろうし、何よりは、信長も予期していないことだ。どういうものだろう、その辺は?  堀、菅屋のふたりは、すこし案じ顔して従いて行った。秀吉は、顧みて、 「両所、御案内をたのむ。──君公の方から先にお使いを賜わりながら、明朝までとは申せ、御挨拶にも及ばず、城下におるのは、まことに恐れ多い。──今日は、お目通りはさし控え、ただお広間まで参って、陰ながらお礼だけを申し述べて参りとう存ずる。いざ、お先へ、お先へ」  と、道をひらいた。  そこはかとなく、仄かな燭は燈されはじめている。女房衆の声かと思う。遠く近く嘻々としたさざめきが洩れて来る。安土の奥の殿深くは、宵ごとにちかづく初春を待つ支度などに忙しいのであろう。  狩野山楽の絵、また某の彫刻など、ここは当代の巨匠の精華をあつめた芸術の殿堂でもある。むかし──といっても遠くもないわずか二十年足らずの清洲の小城から較べれば、ここの主の右大臣信長も、時には感慨なきを得ないにちがいない。  奥殿と中殿とのあいだを渡してある唐橋の欄に立って望むと、無数の舞扇を重ねたような天守閣の五層の廂と、楼門の殿閣の大廂とは、見事な曲線を宙に交錯させている。そして山上から麓にいたるまでも、豪壮な建築物の壁や屋根の森のあいだに点綴され、それから平面に展けている安土城下の全市街は、濃藍な暮色のなかに星を撒いたような灯の海をなしていた。  信長は、いま、食膳に向いかけていたが、 「なに、筑前が見えたと」  意外そうにいうとすぐ、一室から一室へと、歩を移して、 「袴。袴」  と、小姓の者へそれを急いた。そして毎夕、食膳のときには、給仕に侍る女房衆のあきれ顔を振向いて、 「──夜食は、あとに致す。膳部は退げてよい」  と、いった。  あわてて小姓たちのさし出す袴をとって穿きかえるべく、その紐を結びながら、 「久太郎、九右衛門。……筑前はどこに通っておるか」  と、信長はまた、一隅へ目を向ける。  堀久太郎と菅屋九右衛門は、こう信長を狼狽させたことをひどく恐縮しながら、 「お広間に通ってただひとり控えております。今日は、陰ながら遠く御礼のみを申し上げて、宿所に戻り、予定どおり、明朝登城して、お目通りを仰ぐつもり、お耳へ達しるには及ばぬ──と仰っしゃっておられますが」  答えると、信長は、 「筑前らしいわ。気も軽々と見えたもの哉、せっかくのこと、会わずに帰す法やあろう。こよいは、忍びの対面ぞ。会おうぞ! そっと一目」  軽々しくも来たるもの哉──と、手をたたいて信長はすぐ袴を穿きかえたという。信長は気さくが好きだ。気軽な中に認められる誠意を砂中の金のごとく愛する。  ──などと思って、へたに狎れたりして近づけば、かならず激怒に触れるのだ。  事大主義は嫌いかと思えば、出入りの威儀、君臣の礼儀などには、徹頭徹尾、やかましやのほうである。  かりそめにも、それを軽んじたりなどしたら、いかなる譜代でも諸侯でも、たちどころに痛罰を喰う。──で、侍側も諸将も、またあらゆる文化面の人たちも、信長にまみえるときは、精進潔斎の心地で接しる。挙止一語半句、みだりにも笑わず、かりそめに戯れない。  だから時々、信長としては、甚だじれったいものを覚えるにちがいない。人間の味とか、本心の光とかいうものの乏しい嘘の中に住んでいる自分に、まず嫌気がさして来るらしい。いきなり客をまえに、大あくびと共に、伸びなどして、 (ああ、明けても暮れても、木像と話しているというものは、退屈だのう。とはいえ、木像自身も、身をもて余すじゃろう。衣冠束帯、脱ごうにも脱げんし──)  こんなことをいったりする。  何か気にくわないと、ひとのことをよく木像木像という。安土の殿楼に人は多いが、その中にも彼はたえず追求しているのだった。──真実な生活味と、人間の感じがする人間とを。  今宵しも、彼の求めている気もちに、いつも、ぴったりする男がひょことおとずれて来たのである。  しかも、明朝登城という約束を、信長のことばでいえば、気も軽々と、儀容や形式にこだわらず、不意に今夜のうち来てしまったという──まことに埒外な男である。 「やあ、久しや、筑前か」  袴の紐もまだ結びきれぬまに、彼はもう大股に広間へ来ていた。そしてそこにただひとり坐っていた秀吉のすがたを見るや否やの声であった。 「さても、さても、懐かしいぞ。会うは明日とのみ思うていたに、よう来た、よう来た。──この広間では広すぎて寒い。こなたへ来い。此方へこそ」  と、さしまねく。  これは驚くべき例外である。右大臣家みずから先に立って、しかも自分の居間へと案内するのであった。  秀吉たるものも、この主君の歓待に、どうして易々と甘んじていられよう。 「……あ、いや。わが君」  なにか、あわてていおうとはした。けれど、信長がさっさと行ってしまうので、身を屈めたまま、膝をもって駈けるように追いすがり、 「勿体ないお扱い、お座所にお在して、近臣へおいいつけ給われば」 「まあ、よい。入れ」  すでに、常住の一間の前である。信長の気もこよいは実に軽々と見うけられた。──それ、筑前に褥をとらせよ、寒いから手炉を与えよ、茶よりも、酒がよかろう、まだ夕食は前かすんだか──などという細々しいことまで、左右に命じ、彼にたずね、さながら親身の弟でも迎えてくれるようだった。 「……はい。……はい。はい」  とばかりの他は、秀吉は平伏したまま答えも出なかった。何をいおうとしても、ただ感泣が先だってしまう。有難なみだというものか、甘やかな感情の底から、時々、嗚咽になりそうな熱いものが痞みあげて来てならなかった。  それを見ると、信長もまた、眼の縁に充血をあらわした。泣き虫な男と泣き虫な男とが寄ったように、しばしはお互いに面をそむけ、小姓や近臣の怪しむ眼を憚っていた。  やがて、信長はいった。 「極暑の頃からこの極寒にいたるまで、因幡、伯耆の僻地において長々の苦労。病みもしつらん、老いもしつらん、などと案じていたが、思いのほか、却って、若やぎて見ゆる。筑前、ひと頃よりは若うなったのう」  若くなったぞと、自分のみ賞められていては、相すまないと思ったのか、秀吉は、 「いや、わが君にも、年ごとにお若くなるやに仰がれます」  と、これへ来る前に剃ったばかりの髯痕を撫して、初めて、笑った。  膳部、銚子が来る。杯は、和やかな主従のあいだを、幾たびも往復する。こういう打ち溶けた待遇は、一族の者でも、めったに恵まれないものであった。 「於次が、初陣したそうな。いつのまに、具足を着る年になったかとおもうほどじゃ。早いものだの」 「ひと目、御覧に入れたく存じました。──明朝は連れ参ります。長浜の寧子や老母にも、見せたいと思いますが」 「見せたがよかろう。これまで来たついでじゃ。そちも一夜は長浜へ泊れ」 「いえいえ、そうしてはおられませぬ。なお、播州の任地には、二年も三年も、妻子の顔を見ぬ部下は、たくさんおりますれば、秀吉ひとりが、老母の膝にあまえ、妻の顔を見てかえったとあっては」 「きびしい遠慮じゃの。……そうそう、久しく甲州に取られていた五男御坊丸が、武田家から送りかえして来たことを、そちは聞いていたか」 「……おうわさに」 「どう思う?」 「めでたいことと存じました」 「御坊丸の無事をか」 「それもそれ……また一つには、織田家の御武運にとっても」 「むむ」  と、多くをいわず、また聞かず、胸と胸にうなずき合って、 「さっそく、明春には、山路の雪の解けるとともに、甲州へ討ち入ろうとおもう……が、どうだな」 「然るべしと存じます。熟れた木の実を揺すぶるようなものでしょう」 「いや、そうもなるまい」 「徳川殿を語らい、十分、三河衆にも働かせたがよろしゅうございましょう」 「家康からも、しきりと、甲州入りの儀を、これまでにすすめては来てあったが、大坂表の本願寺一類の始末がつかぬうちはと、ひとえに大事をとっていたことが、今日となってみれば、却ってよかったように思わるる」 「わが君が甲州へお入りの頃には、秀吉の兵馬も、備中へ乗り入れ、芸州の毛利が中軍へ、なだれ入っているやも知れません」 「甲州と、中国と、その攻略はいずれが早かろうか」 「むろん甲州がお早く片づきましょう」 「筑前」 「はい」 「弱音をふいたの。信長に負けじと、そちが強がるかと思うたが」 「毛利と武田とでは、本来、その強味がちがいます。甲山峡水は嶮なりといえ、嶮の破るるときは、一挙にして潰えの早いものです。武田譜代の士馬精鋭、なお数万騎ありましょうと、すでに信玄という支柱を欠き、内に和なく、各〻、誇って譲るなく、しかもその人、その地の利には、文化に遠く、武器も戦法も、はや時代遅れといってよいでしょう」 「中国におりながら、そちは却って、甲州方面の機微に詳しいようではないか」 「おのれを知り、敵を測るためには、どこの国とも睨みあわせておらねばならぬ必要からです。──武田に比せば中国の毛利というものは、なかなか跡形もなく亡ぼし去ることはできません」 「そんなに根づよいか」 「海運の利便、海外からの文化、殊には物資にもめぐまれ、人は鋭感でまた智的です。加うるに、その豊かを内にもちながら、故毛利元就が遺訓はまだ一族に生きていますから、ただ武力一途でそれを絶滅せんなどは思いもよりません。──戦いつつ、攻めつけつつ、お味方もまた彼に劣らぬ文化と政略を布いて、土着の領民をも悦服せしめてゆかぬことには、ただ一城一城と戦い取っても、結局、さいごの勝利──真の戦果は、掴むことができますまい。……どうか、秀吉の戦い遅々として捗らずとも、ここ数年は、大洋を旅するごとく、風と波とに、おまかせおき下さるようひとえに御寛容を仰ぎまする」  かくも親しい主従というものがあるだろうか。夫婦の仲というもおろか、刎頸の友といってもこれ程ではあるまい。  信長も秀吉も、更けるを忘れている容子だった。このぶんでは、夜もすがら語っても語り尽きまい。──部屋を隔てて控えている近習たちの顔いろに案じている色も出るほどだった。 「明朝のこともあれば、そっと、筑前どのへ、御注意申しあげてみてはどうか」  やはりその中へ来て控えていた菅屋九右衛門が、堀久太郎に小声で諮った。久太郎もそれには同意だ。黙ってうなずくと、すぐ起って、縁へ廻り、二間ほど越えて、おそるおそるそこの一室へゆるしをうけて入った。  そして、秀吉のうしろへ寄り、それとなく時刻を注意すると、秀吉も初めて気がついたように燭をながめて、 「ほう。もうそんな深更か、いや、何も覚えず、つい、意外な長座を」  座をさがりかけると、信長はまだ飽かない顔して、 「久太郎、何じゃ」  と、いう。 「いや明朝もお早い御登城、余り夜も更けましたことゆえ」 「ムム、そうか。筑前も旅装を解いたのみであったな。さだめし疲れていたろうに」 「なんの、余りの欣ばしさに、私こそ、御寝の時刻もわきまえず……」  と、堀久太郎の好意を謝して辞しかけながら、その堀久太郎へ、そっと訊ねた。 「今夕、宿所においておあずけ致した目録は、御覧に供えて下されたか」 「いや、それすらまだ、わが君のお目にかける遑もありません。何せい、これへあなた様を御案内して来るとすぐ引き続いてのお物語りで──」 「そうそう、これは筑前が落度でござった。では、お後にでも」  云いのこして、彼は、やがてそこを退出した。  その後で、堀久太郎と菅屋九右衛門の両名から、さきに秀吉から取次を託されていた献上品の目録を、信長の前へさし出した。  御前へ。  という一通のほかに、  御奥女房衆へ。──とある二通のそれを披いて、その品々の名目を読み入っていた信長は、 「ほう」  と、幾たびか、眼をみはっていた。  物驚きをしない信長も、何かそれにはよほど驚いたらしい。例外な献上事に相違ない証拠には、寝所に入る前、ふたりへ念を押して、 「筑前が心をこめての献上品、篤と見てやらねば、彼の誠意にたいして悪しかろう。明朝、彼がそれを山へ運びまいる頃には、相違なく信長へ知らせい。──信長、天守の上から一見いたすであろう」  と、いって眠りについたのをみてもわかる。  饗応奉行の堀、菅屋のふたりは、さて何事かと顔見あわせた。ただ事の献上物ではないらしい。それを天守閣から望見しようという信長のことばもあるので、 「塵一つもあっては」  と、にわかに、夜半ではあったが、足軽や小者をあつめて、山上門から山上門の道筋はいうまでもなく、玄関前の広庭、さては麓の濠の唐橋あたりまで、すべて視界に入るところを、夜明けまでに隈なく掃かせ、さらに、琵琶湖の砂をいちめんに敷かせて、果てなきまで、きれいに箒目のあとを立てた。 「物々しいお迎え。そも、明日は誰方様の御登城か」  と、まだ仔細を知らない人々は目を見はった。よほど貴顕な堂上人でも見えられるのであろうと、誰もが想像していたふうであった。  ゆうべもいたく晩かったのに、今朝もまた信長は夙くから起きていたふうであった。  彼の座右には、目につく者がひとり召し呼ばれていた。堺の千宗易である。茶道衆のひとりとして、茶事があればかならず趣向を問われ、また平素にも信長の相手によく見える者ではあったが、この頃としては、その姿をここに見せたのは珍しいといえるのである。  なぜならば、大坂本願寺落去の直後に、きびしい追放を喰った佐久間右衛門父子に対するお咎めのうちに、  ──陣中、茶事に耽り、風雅にうつつ抜かす事、言語道断。  なる一箇条があり、その詰問的な辞句からみると、信長は、かの仏教にたいして、苛烈な破壊をやったように、近年の茶事流行の弊風に対しても、また、極端な強圧をやり出すのではないかと、世の茶道者流はみな怖れおののいたのであった。  東山殿からの茶が武家一般に伝わって、それが公式な饗応のあとに、また、各〻の家庭のうちに、さらに、陣中の交友や心養にまで用いられだして来た傾向は、もう近年ともいえないほど、また流行ともいえないほど、日常のものになりきっていたが、これに伴う趣向の数寄とか道具の贅とか、淫すればおのずからどんな道にも余弊の生じるのは同じことで、この道にも近ごろはややそういう悪風がないでもないとは、茶外の人の非難ではなく、茶道に携わっているものの口から憂いられていたことでもある。  その憂いが、果たせる哉、佐久間追放の罪状のひとつとして、世上に喧伝されたので、 (ふたたびお叱りのあらぬうちに──)  とばかり、極く近頃、茶杓や袱紗いじりをし始めた諸侯までが、折角の志を急に変じて、 (茶などは知らぬが無事)  とばかり、遠ざかってしまったのが、ここすくなからずあるらしい──という下火をあらわしていた。  だから自然に、茶事の往来も聞かれず、堺や京都を中心として、いわゆる「茶家」と呼ばれている者の門戸までが、ひっそりとしてこの道のさびれを思わせていた折に、千宗易のすがたがここで見られたことは、久々の珍しさというよりは、それに心をもつものにひとつの明るさを感じさせていたにちがいない。  ──今朝、その宗易は、疾くから、安土の園内の茶室に入って、ひとりの茶弟子を手伝いに、しきりと室内の拭掃除から露地の清掃まで自身の気のすむまで心を入れてしていたが、やがて炉の灰も見、道具のかざりなども終ると、 「一応、御内覧をねがいまする」  と、信長の室へ来て、それの終ったことを告げた。  信長は、うなずいて、すぐ共に起った。茶席は六畳であった。茶入れかざりには秘蔵の大海が出ている。──花入れは目につくが花はまだ挿けてない。客を迎える寸前に挿けるべく水屋甕のそばの小桶に根を浸してある。 「よろしかろう」  一閲して、信長は露地へ出た。ぴょいと、木陰へ退って、平ぐものように地に額ずいた者がある。 「誰だ?」  うしろから宗易が、 「弟子の者にございまする」  と答えると、何もいわず、通って、広庭へと歩みながら、 「宗易。まだ霜も解けぬ。けさはちと早すぎたかな」  と、顧みて笑った。  それから、築山の亭に立ち寄って、近頃とみに茶事がさびれた噂などを宗易が持ち出すと、信長はまた哄笑して、 「そうか、そんなふうにみな受け取っておるか。どうした勘ちがいやら、信長はまだかつて茶事を禁じた覚えはない。──だが、佐久間ごとき無能がそれに溺れるはひとつの茶弊、茶害ともいえよう。世をあげて戦い、或いは孜々と働いている中に、ひとり閑逸を貪るためにのみし澄ましている者あれば、それは茶避、茶懶の徒とも申すべきか、信長は感心せぬ。……が、秀吉のような忙しい男には、すすめてもやらせたい。けさの炉はその支度、釜の湯も、彼のごとき男にこそ汲まれたかろうに」  近習たちが迎えに来た。やがて筑前どのが御登城の時刻も近づいて候うとある。信長は宗易をのこして天守閣へ立ち去った。  陽はたかく、冬の朝はあたたかに煙っている。木々の梢の氷花も露ときらめき、一望、安土の全市も、霜に濡れていた。 「ええ、ほウい」 「えーッ、ほウッ」  旺んな声が、麓の城門から聞えて来た。信長は眼をこらした。彼のそばには、簾中の女房衆もおり、子息たちもいた。もちろん近習小姓は居ならんで、みな朝陽のなかに眩ゆげな顔をそろえていた。 「やあ、あれか」  信長の嘆声だった。  今の信長をして、目をみはらせる程な物資は、けだし容易な物ではない。  その信長が、 「──見ずやあれを」  と、指さしながら、傍らの人々を顧みながらいうのである。 「何と、夥しい進物の台の数ではないか。あれがみな筑前の手みやげなりと彼は云いおる。中国入りのしるしまでに、携えて来た進物とは、いやさすがに、大気者大気者。あはははは」  実に愉快そうに信長は眺めて止まず、笑って止まなかった。  けれど、彼以外の人々は、ただ眼をうばわれていた。また、胆を飛ばしていた。  およそ、安土城が創まって以来の出来事にちがいない。山麓から目の下まで、かなり長い坂道の門から門のあいだは、後から後からと担い上げて来る、進物台の列でうずまったまま、いくら見ていても、列が終りそうもない程だった。そのあいだをまた羽柴筑前守が家中として、見栄えの劣らない者どもが、各〻盛装を凝らし、進物之奉行として、或いは警固や足軽頭として、陸続山へ登って来る。 「まだか。……まだ続くか」  信長もあきれ顔に、 「かほどな進上物とは、おそらく世上に例しもあるまい。信長でさえ、眼に見たは初めてじゃ。この安土城の門をすら、筑前めは、狭くいたしおる。無双な大気者よ」  その目録は、ゆうべのうちに一見していたが、まさか、これ程とも思っていなかったものとみえる。信長は、あたり隈なく聞えるような声で、大気者という感嘆を、二度も三度もくりかえしていた。  進物台の総数は、二百幾十という数だった。多門、中門をこえ、大玄関の広場に先頭が順にそれを下ろして並べていても、まだ麓の門は、あとの台を入れていた。  庭上、広前にいたるまで、城内は満目それでいっぱいになった。被いの布を払って披露された品々は、その一端をあげても──お小袖之料二百余反、播州杉原紙二百束、鞍置物十疋、明石干し鯛千籠、蛛蛸三千連、御太刀幾振、野里鋳物の種々などと──その数も品目の多いことも、まったく言語に絶している。つまり当時の人々の慣例や常識にないことであった。 「やあ、見えたか」  やがて、謁見の広間に、席をかえて、秀吉を待っていた信長は、ゆうべの信長とちがって、日常、諸侯に接しるとおりな信長であった。  秀吉も、いと慇懃に、 「爾来は、陣務のため、つい奉伺を怠りまして」  と、詫び、 「いつもながら御健勝のていを拝して」  と、式どおりな礼儀を述べたが、ただ今朝の登城には、養子の秀勝を連れて来たので、 「かくの如くに」  と、その元服すがたを、信長の眼に供えた。そして主君の満足そうにうなずく面を仰いで、彼自身も同じ満足をこの朝に抱き合った。 大気者  饗応には、秀勝も同席したが、後の茶の湯には秀吉だけが招かれた。  お相伴には、丹羽五郎左衛門と長谷川丹波守。それに、医師の道三がお詰という顔ぶれ。  亭主役の信長は、いつのまにか衣服もかえて、簡素な十徳を着ていた。陰の水屋には宗易の心くばりがはたらいている。 「筑前には、但馬、因幡などの陣中でも、折ふしには、茶をいたされておられるか」  信長の問いである。  炉のまえに在る彼のすがたは、そこに懸けられてある姥口の霰釜とともに破綻なくひたと坐っていた。話しぶりにも幾ぶん亭主という心もちが加わって、丁寧なうちになお親しみをも示している。それは臣下との語らいというよりは茶友を迎えているすがただった。 「いや、どうも、それがです……」  と、秀吉もここでは暢々とくつろいで、 「ふと、致してみたり、また、とんと忘れ果てたり。また茶というものと私とがいっこう一つになりません。たまたま、服むにしても、相かわらず不精なことのみしておりまして、かように清々とお茶室のうちでいただくことなどは」  相客の五郎左衛門長秀がわらい出して、 「いやいや、筑前どのには、それが結構茶の精神に適っているものでしょう。無法の法です。無規格の中の大規格です。ちょっと寸法にははまらないかのように見うけられるが、御辺には御辺の寸法というものをちゃんとお備えになっておられる。むしろお羨ましいほどである」 「これはたいへんなお褒めにあずかりましたな。茶の精神とやらも、いっかどまだ弁えんので、折角のお褒めも、どこをどう買っていただいたのやら分らぬが」 「その茫漠としているところですな。たとえば春霞のたなびいている天地のようなお寛さ。そのお懐のうちには海もたたえ山もそびえ野も広々とあるかのようで──また、ないかのようでもある──といったような茫漠さが」 「ぼんやりしていてよろしいと仰せられますか」 「そう思う」 「すると、茶の心とは、ぼんやりしているほどよろしいもので?」 「いや、そうはいえません。これは筑前どのに限ったことで」 「むずかしい! いや、厄介なものですな」 「それを筑前どのには、いともやさしく、気軽に持っておられようが」 「何も分らんからで」 「うははは。これはどうも、いくら申しても、蒟蒻問答のような」  客と客のはなしを、水屋の陰で、宗易はじっと聞いていた。何か、興深そうに耳をすまして。  ひそかになった。信長自身が、点前しているものとみえる。茶柄杓から茶碗におとす湯の音が、しずかに聞える。それは量にしては、小柄杓一ぱいのわずかな湯であったが、茶室の静寂をやぶるただひとつの音であった。聞きようによっては、とうとうと滝つぼへおとす千丈の飛瀑とも大きく聞える。  茶筅の音。そして亭主からすすめる。客側がいただく。それらのかそけきうちに交わされる主客の和敬の礼と睦みを、水屋の宗易はやはり前のままの姿で、板敷に凍りついた人の如く聞きすましていた。  一碗また一碗、お正客からおつめまで、一巡すると、やがて亭主の信長も、自服で一ぷくのみながら、客とともに四方山のはなしに交じる。ここでは床の花を愛であい、高麗茶碗の古雅を語り、露地の風趣や、冬日のあたたかさなど──話題はまったく日頃の戦陣や人間の葛藤を離れて、おたがいにさながらの生命を養い楽しませようとした。──ひとたび事ある日には、その生命を最大価値にまで昂めて捨てもし働かしも得るように。  そのあとで、茶入れ、茶板など拝見のことがあり、それがすむと、亭主の信長は水屋へ退る。  客は隣の広間へ移って、雑談にくつろいだ。  信長も、あらためて、それへ出て、客一同へ向い、手をつかえて、 「まことに、不行き届きでござった。何の興もあるまいが、ゆるゆるおはなしなと」  と詫び入っていう。  客は臣下、亭主は主君。ここでの形は、何か逆さま事に見えるが、たとえ主君でも亭主である以上、客に対して、慇懃、いやしくも和敬を崩さないことは茶礼である。──常に群臣を下に睥睨して、皇居へ伺候するとき以外は、頭を下げることを知らない信長にとっては、ここはよい修行室になるともいえよう。客に仕え、自分に慎み、低頭屈身、すこしの粗相もないように、終始、おのれの心を人の満足と歓びのために提供しきるなどという行いは、とても信長の性には合わぬことと思われもするのだが、それがこの茶室では極めて自然に行えるのだった。主君が奉公人となり、奉公人がかりに主座にすわってみる。これは小閑のあそびといえ、なかなかおたがいによい反省にもなった。 「御亭主には、いつのまにやら、お点前も行作も、お見事になられましたな。きょうは、篤と拝見して余りのお変りように、思わず見恍れました」  これはお正客の秀吉が、そこで話の口きりに述べたお世辞であった。すると次客の丹羽五郎左衛門長秀が、 「それはそのはずです。失礼ながら、ここの御亭主には、何事にむかっても、不可能ということはないのです。自分には出来ぬということは仰せられた例しがない。──ですから茶道の御勉強にかかっても、桶狭間や長篠の戦場へ奮迅したあの心ぐみでやるのだと、いつかもおはなしがあったそうで、京の大黒庵も、驚き入っておりました」  亭主の信長は笑いながら黙ってそれを聞いている。客と客との興じ入るのにまかせた。  秀吉がたずねた。 「大黒庵とは、誰方です」 「京都の六角堂の隣に住む武野紹鴎のことです」 「あ。紹鴎ですか」 「ここの御亭主のお手ほどきは、初めに、その紹鴎がお導き申しあげたが、近ごろは、堺の千宗易が伺って、お磨きをかけておる。されば、御上達はあたりまえともいえましょう」 「宗易。あれなら御師範として、申し分はありますまい」 「織田の軍が、初めて、堺へお討入りのせつ、どこやらの家で、お茶をあがられ、その折、侍坐しておられた筑前どのが、挨拶に見えた千宗易を一見されて──これは名器だ──と仰っしゃったそうな」 「そんなことを云いましたな。はははは」 「後に、それを思い合わされてか、安土へ召しよばれ、近ごろでは、ここの御亭主がよく仰せられるおことばにも──筑前は大気、宗易は名器、一対の者と、一しおお目にかけられておられます」  亭主の信長は、初めて口をさし挟んで、 「筑前には、その後、宗易とも久しゅう会わぬことであろうの」 「はい。両三度は、何かの折に相見ておりますが、中国へ参って以後は」 「幸いじゃ。あとでこれへ呼ぼう」 「ほ。参っておりましたか」 「水屋をいたしおる」 「それは、ぜひ……」  と、待ちもうけている折へ、縁をめぐって来る静かな跫音がした。 「宗易か」 「はい」 「入るがよい」  そこの障子が腰低くあいて、冬日の中に宗易のすがたが見えた。  宗易が加わってからそこの座談はなお賑わった。多くは他愛ない世事ばなしである。また、茶器名物のことなどだった。  その茶器のはなしから、宗易が唐物茶入れについてかなり詳しい説を述べた。するとそれまで、いっこう分っているようないないような顔をしていた秀吉が、俄然、口をひらいて、それらの花器や茶入れの渡って来るところの明という国がらについて、その風俗、気候、山川、地域の広さなどを、見て来たように得々と語り出した。 「日本国内の御始末も、一応お成し遂げあそばした暁には、こなたの御亭主にも、いちどその明国へお渡りあって、長江千里という流れを溯り、南宗北画などによくみるような程よきところに、茶室をお建てになってはいかがで」  信長は、客の談と尊敬して、いちいち頷いて、 「ほ。……ほう左様か」  と、さも感じ入ったように聞いていたが、口辺のどこやらではやや笑っているようでもあった。  宗易もまた、にやにや聞いていたが、秀吉が弁じ終るのを待って、 「おはなしで思い出したが、わたくしの茶の徒弟に、折もあらば、筑前守様にお目通りをして、お礼を申しあげたいといっている者がある」  と、いった。 「はて、誰であろう。あなたの茶弟子のおひとりで」 「はい。お忘れはありますまい。御幼少のときには、尾張の中村でよく遊んだこともあるなどといっていました。成人の後には、長浜のお城へ拾われ、だいぶお目かけられていたそうで、当人は、再生の御恩人じゃと申しております」 「あ。思い出した」  と、秀吉は小膝を打って── 「では、於福ではありませんか。もと清洲の茶わん屋捨次郎の息子。後に、流浪していたのを、しばらく長浜へ拾って飼いおいたことがあるが」 「その福太郎です。お察しのとおり……」 「於福が、宗易どのの御門弟になっているとは、これは知らなかった。どういう御縁でしたか」 「堺の南之荘の辻に、塗師宗祐というものがおります。宗祐ではおわかりになるまいが、本名を杉本新左衛門といい、彼の塗る鞘をそろり鞘などと申すところから、曾呂利新左衛門というほうがよく世間に聞えておるようです」 「ああ、曾呂利ですか」  丹羽長秀がそばから頷いた。医師の道三も知っている顔つきをあらわして微笑む。  宗易は、ことばをついで、 「てまえが、於福を弟子にいたしたのはその曾呂利の家が機縁でした。棗などを塗らせるため、折々、訪ううちに、いつも見馴れない男が、漆粕を漉したり、木地の下拭きをしたりしています。仕事の手すじはなかなかよい。気もねれているし、人なつこい男。目をかけておるうちに、わたくしに縋って茶を学びたいという。職人が学んでどうするというと、茶道具をつくるからには、茶の心がなくては、良い器はできぬからという。師匠の曾呂利もともに、この男には、何か知れぬが、おもしろいところがある。すこし置いて、庭掃除でも雑巾がけでもさせてみて下さいとしきりに頼む。……ま、そういった次第でかれこれ三年ほど側においてみましたが、至極、心得がよく、やがて一かどの茶人にはなれようかと楽しんでいるわけです」 「そうですか。それを聞いて、何やらこの筑前までが、ほっと安心いたした。中村にいた頃からの幼友達ですからな。いつも思い出すごとに、幸せを祈っていたものです」 「では、お庭先へなと、呼んでみましょうか。会ってやって下さるか」 「これへ来ておるので」 「供に連れて来て、何かと、掃除の手伝いなどさせておりました」  亭主の信長はさき程から、客のはなしの穂を折らぬようにと、控えめに口をつぐんでいたが、ふと、笑いだして秀吉へ、 「思い出した。その於福とやらのことで思い出した。筑前がさい前、得意になって話された大明の知識は、於福が幼少のとき、父の茶わん屋捨次郎から聞いたはなしの又聞きではないかの。……どうも、予がいつか於福から聞き取った話と余りにも変っておらぬが」  と、その時云い出した。 「やあ」  と秀吉は、仰山に、恐縮の手を頭へあてて、 「──では、いつの日か、御亭主には、その於福を召されて、親しく、明土の国情をお聞きとりになっておられましたか」 「だいぶ前であるが、宗易の口から、こんど茶門の徒弟にゆるした男に、めずらしい素姓の者がおると聞いたのじゃ。──十数年の長いあいだ、陶器の技術を習ぼうため、明の景徳鎮に渡り、かの地にとどまるうち、異国の一女を妻として子まで生ました。そしてやがて日本へ帰国の日には、その子を連れ帰ってそのまま家に養い、この国の子らと何ひとつ変らぬように育て上げて来たという。……その茶わん屋捨次郎の子なるものが、いま宗易の許におる於福じゃそうな」 「これはどうも、秀吉よりは、もっとお詳しそうですな。……御亭主も、宗易どのも、お人が悪い。前もって、そうならそうとお断り置きくだされば、明国の話をするにも、多少、手加減がありましたものを」 「ははは。いや決して、客どのに恥をかかせんなどという気はなかったが、筑前にも、海外の事どもに、さる関心を持っておるやと、心から耳かたむけて、御身の明国に対する知識を窺うていたまでじゃ」 「それではなおいけません。浅薄なところをすっかり御亭主に観破されたようなもので」 「何の何の、まだ日本には、堂上方はいうに及ばず、諸侯のうちでも、識者とみずから任じおる面々でも、明国と問うても、どんな国がらか、また暹羅、呂宋、天竺などを訊ねても、どの辺か、どんな国か、皆目、弁えぬものがまず十中八九といってよい。──然るに、筑前には、茶席において唐物茶入れ一つ見るにも、異国の茶わん一つ手にして観るにも、いつも油断なくそれらの器物をとおして海外の事情と文物に触れようとする心がけが見える」 「おそれ入りました。実をいえば、幼少の頃、於福の父の茶わん屋に奉公中から、かの地に長くいた捨次郎と申すものから、そうした話を聞くのが娯しみのひとつでした。けれど以後は、さる事情に詳しい者に会う折もなく、至極お恥かしい程度の知識しかございませぬ」 「あすの夜、あらためて、また登城されるがよい。この安土へ蒐めた舶載の品々、悉く展じて見せよう」 「ぜひ、おねがいいたします」 「また、御身も、信長がゆるした程の大気者じゃが、もっと大気な輩が、幾人もおる。それらの者にも会わせよう。呂宋、暹羅、和蘭陀、天竺など、南蛮諸州のくわしいはなしも聞きおかれたがよい」 「遠い異国のことに、左様に詳しい輩がおりますか」 「おる」 「ははあ。宣教師ですな」 「ちがう、ちがう」  と、信長は手を振って、 「きょうは茶事。その儀は、あすの夜の馳走にしよう。あすの夜、渡られい」  と、笑った。  間もなく、お正客の秀吉たちは、亭主の信長と宗易に見送られて、茶庭の柴折門から退った。  松落葉のしっとり積んだ道に、針葉樹の梢から陽がこぼれている。いま茶席の柴折門を辞して、安土の庭を戻ってくる秀吉の影を慕って、 「もし、もし。……殿さま」  と息せいて追って来た者がある。  秀吉は歩みをとめて、その男を眼の前に待った。葛布の小者袴に藍木綿の肩衣を着ていた。秀吉の足もとへ来て額ずくなり両手をつかえたまま云った。 「お久しゅうございました。茶わん屋の福太郎でございます。長浜からおいとまをいただいて去った──」 「おう、於福よな」  秀吉は膝を折って、共にそこへ跼まりながら、まるで身寄りの者に親しむように、 「達者か。さてさて、どことなく、物腰までも変ったのう。その後は、堺の宗易の門に入って、茶道修行に身を入れておるそうな。秀吉も聞いて安心したぞ。……勉強せいよ、一筋に」  彼の肩へ手をかけて懇ろに励ますのだった。遠いむかしの友達時代を思い出させるような温情があふれている。が、その頃を考え出すのは、於福にとって、辛かった。また、余りにも今は身分の懸隔がありすぎる。彼は、秀吉の手の下に、いよいよその肩を低く伏せて、 「……それだけを、ちょっとお耳に入れて、欣んでいただきとう存じまして、まことに、御無礼とはぞんじましたが、お戻りを窺って」 「いや、歓んでおるとも、わが事のように、秀吉はうれしく聞いた。中国の探題羽柴筑前守と一介の茶弟子於福とは、おのずから奉じゆく道はちがうが、世に楽土を創て、人に益し、あわせて自分一箇も人間らしゅう達成してゆこうとする志に変りはない。──今はなお、合戦また合戦と、遑なき世の中だが、かならず次には、おまえたちの奉公がいよいよ大事な世となって来よう。それまでに確かりと励んでおけよ、自分を作っておけよ」 「ありがとうございまする」 「また会おう」 「……御機嫌よう」  於福は、秀吉の膝を払った。そして自分はなお松落葉の上にひざまずいたまま、秀吉の影が、櫓門の陰にかくれ去るまで見送っていた。  秀吉は清々しい心を抱いて宿所へ帰った。きょうのお茶のあいだも愉快だったし、於福が適当な道をみつけて、そこに正しい生き方をしているのを知ったことも欣しい一つであった。  秀吉は、自分の知る周囲に、ただひとりでも、不幸な者があると気にかかった。親類遠縁から故郷の旧知の端にいたるまで、自分を頼みとする者なら心にとめて、その息災を計っていた。それはあながち人のためにするのではなく、彼自身が幸福であろうとする希いから来ているものだった。周囲に不幸な者を見ながら、自分だけを幸福とし、その幸福に満悦していることは由来できない性質の彼だからである。  桑実寺の宿所へ帰ると、彼はその日、手紙をかいた。  湖畔、ここから程近い、長浜を思いながら、久しくそこに留守している老母と、そして妻の寧子へ宛ててである。 歳暮、新春の御祝儀をかねて、多忙の陣中から上府し、右大臣家に謁し、一両日は滞在はすれど、すぐにもふたたび中国の御陣へ帰らねばならぬ身ゆえ──  と書中に詫びて、留守の近状を問い、自分の健康をも告げて、加藤虎之助と福島市松のふたりに、使いとしてそれを持たせてやった。  つぎの日は。  せめて今日一日だけでも、長陣のつかれ、旅の気疲れなど、すべてを一擲して、気ままに宿所に籠っていたいとしていたが、それも周囲がゆるしてくれない。 「筑前どのには、御在宿か。池田じゃ」  早朝からもう訪客であった。池田信輝が見える、滝川一益が来る。  それが帰ったと思うと、佐々成政が立ち寄り、蜂谷頼隆が訪い、市橋九郎右衛門と不破河内守が同道して見え、京都の貴顕から使いやら、近郷の僧俗から、種々の物を持って、 「おなぐさみに」  と、献じに来るものやら、午過ぎては、休養どころか、門前市をなすばかりだった。  時も時、年暮なので、歳暮の祝儀を述べるため、安土へ参向の諸侯が期せずして集まっているせいもある。あすは北陸の柴田勝家も入府するだろうと聞え、また前田利家の宿所にも、夥しい荷駄がいま着いたなどと客の口にうわさされていた。  噂といえば、応接いとまなき中なので、誰がいったことやら、秀吉は頭にも止めていなかったが、 「明智どのに、何か、御不首尾なことでもあったのか」  と、惟任光秀について、囁く人が多かった。 「御歳暮の献上にと、数頭の名馬を曳かれて見えられたが、何やら御前ていよろしくなく、お上にはそれらの物をすぐ突っ返されたなどと沙汰する者があったが──」  というものもあるし、また、 「いやいや、昨夜、細川どのやその他、大勢の者に、御酒を下された席において、明智どのばかりいつものように冷静な面を澄まして、興じ入る乱酔の徒をながめていたのを、右大臣家のお癖として、却って、ちと小憎く思されてか、光秀飲めと、大杯を強いられ、飲まぬか、なぜ飲まぬ、強って飲めなどと──一瞬ではあったが、険しいお模様があったそうな。そんなことが、種々に聞えたのではないか」  という者もあった。  そうかと思うと、 「めったに、口にはいたされぬがあの衆には、どうも異心があるらしいということを、なぜか、ちらちら耳にいたす。その出所はよくわからんが……」  などと由々しい事柄を、めったに口外はできぬがと断りながら、衆の中で口外している人物もある。  人物というものも、それが一国一城の主とか、一方の将とかになって、重責を感じ、自重を怠らないでいるときは、各〻、しかるべき人柄を保っているが、酒に蝟集して、座興放談に耽りなどしていると、案外な不用意を露呈して、知らぬまに、重大な波紋を作っていることが多い。  幾歳になっても、男性には童心が失せない。殊に戦国の諸将にはみなその愚に似たものが濃い。集まると小児みたいに他愛なくなる一面があるのだった。──故にこんな口にも出すまじきことばを口に出したりする者もあるのだろうが、信長を始めとして、安土を中心とする諸列侯の中で、そんな愚劣な童心振りのみじんない者といったら、それは十目十指、たれでもすぐ、  惟任日向守光秀  と、いうにちがいない。  あの知性と、あの冷静な風采とは、明智どのとうわさすれば、すぐ瞼に描けるほど、たれの脳裡にも、際だって、鮮やかに、また冷たく映っていた。  秀吉にくらべ、秀吉にも劣らないその戦功や、また織田随一といってよい頭のよさ、軍治両政の知識には、ひそかに推服していたのも、余りに教養のにおいを表に持ったその人品には、何人も、なぜか親しめない。むしろ、離れてそれを観たがる雰囲気をもってめぐっていた。  せっかく、きょう一日の宿所の閑を、気ままにと考えていた私生活を、こう朝から夕までの訪客攻めと、その訪客の醸す思い思いな雑談とに煩わされては、秀吉も、閉口するばかりか、 (人の陰口などは迷惑)  という顔も時には示したろう。  そう考えられるのが、常識であるが、ここの主は、また変っているのだ。──明智どのにはどうも謀叛の兆しがある──などと重大な口外をする客が傍らにいようと、べつにそれへ目をくれるでもなく、 「ははは。左様かなあ。ふーム……。それは美味かろう。それがしも帰陣したら、ぜひそれは食ってみよう」  と、大声でべつな客と話に熱中していたりなどしている。  何かと思えば、冬季の陣中、食物に困ったとき、兜の鉢金を鍋として、猪肉や山鳥を捕っては食ったという話などに、ひどく傾聴しているのだった。  それでもなお、一方の客たちが、人の陰口に興じて、光秀の是々非々などくり返していると、 「甘いなあ、諸公も。そういう類の風説は、いわゆる埋言の計と申して、他国から敵対国へ来ている者が、そっと火だねを埋けて行った場合が相応に多いもの。惟任どののうわさなども、出どころは、ひょっとしたら先頃帰国したという甲府筋の者ではないかな。──それが人に火のついたときはいくらでも沙汰していられるが、いつ何時、自分が火だねにされているやも知れぬ。御用心、御用心」  これで話はおしまいになってしまう。秀吉が呵々と笑うと、それについて、是といった者も、非といっていた者も、同じ哄笑の下に、それを忘れ去ってしまった。  よい機として、秀吉は、 「やあ、もう日暮に迫るか。実は今夜は、御礼のため、もう一度登城いたして、明朝には、また中国へさして帰陣の予定。失礼だが、これで……」  と、客の帰りをうながして、自分もさっさと、湯殿へはいってしまった。  時間がないのは口実ではない。家臣たちは事実もう明早暁の出発に、何かと荷梱をまとめているのに、訪客がたえないため、片づかないで困っているのだ。秀吉もそれを察して、あれも要らぬ、これも要らぬ、こよいはほんのお別れのごあいさつ、略服でよい、客ももうお断りしろなどと──湯殿から上がるなり衣服を着けながら云っていた。  すると、そのいいつけが、まだ表の者まで届かないうちであったため、いっていることばの下に、また取次が来て告げた。 「惟任日向守さまが、お越しになられました。ちょうど同日の参府、久しぶりに、お会いして帰りたいと、慇懃に仰せられて──」 「なに、日向どのが来た?」  秀吉は、何か偶然のような気もした。それと、登城のまぎわだし、折のわるいような気もした。けれど、取次へは、すぐこう云っていた。 「書院へお通し申せ。そして、しばしの間、御猶予とな」  その猶予は、これから髪を結い直すためだった。元結はかえなかったが笄や櫛をもって、ひとりで髪をなでつけていた。 「──馬に鞍をつけて、表へ曳いておけよ。間もなく登城するゆえ」  外に控えていた近臣たちへいいつけると、秀吉はその足で、客書院のほうへ廻った。  ふつうの居館とちがって、寺院なので、たそがれの一刻は、何となく、物のあいろも深沈と仄暗い。──ふと彼がそこを開けると、まだ灯りの来ていない広やかな壁と畳の寒々とした中に、寂然と独り──たとえば、一箇の砧青磁の香炉がそこに在るかの如く──澄んだ面をしてひたと坐っていた。 「やあ、どうも」  いつでもだが、秀吉の声は、その伽藍がもっている寂寞を鐘のように破るものだった。  主の明るさに対しては、客もどうしても快活にせずにいられなかった。 「やあ、これは。──筑前殿にはいつもながらお麗しい御気色で」  光秀としては、最大な表現といっていい。努めて磊落であろうとしたのだ。けれどすこし話しているまに、そういう努力はすぐ霧消して、彼のすがたはやはり知性の結晶に回っていた。  隆い鼻すじから額にかけて、てらりと聡明が光っている。この年暮でちょうど五十四を越えようとしている光秀であった。凡材でも五十四の年輪を数えるほどになると、おのずから重厚が備わって来る。まして治乱の中に心胆を磨き、逆境から立身の過程に飽くまで教養を積んで来たほどな人物というものには、云い知れぬ奥行がある、床しいにおいがある。 (──良いさむらい哉)  秀吉の眼で見ても、しみじみ思う。信長がその寵愛を傾けて打ちこんだのも無理はないと思う。丹波亀山の城にあって、五十四万石を所領する諸侯として見ても、すこしも不足のない人がらと頷ける。 「筑前どの。何をおわらいでござりますか」  ふと、話のとぎれに、光秀からこう訊かれて、秀吉は初めて、しげしげと客に見入っていた自分の恍惚に気がついて、 「あははは。いやべつに」  と、卑屈なく声を放って、さり気なく措こうとしたが、もし光秀がひがんではいけないと考えたものか、 「あなたもだいぶお薄くなって来ましたなあ、額の際が」  と、思いもよらぬことを云い出した。そしてそのあとへなおこう云い足した。 「お口の悪い信長公は、てまえのことをさして、猿々とおっしゃるように、あなたのことをば、きんか頭とよく呼ばれる。丹波のきんか頭(禿頭という方言)が負けずにやりおるわ──などと日頃のおうわさにもよくお口に遊ばす。あははは、今、お頭を見ておるうちに、ふと、お上のお戯れを思い出したのでござった。おたがいにいつか年経りましたなあ」  秀吉は、自分の鬢を撫でた。かれの頭髪はまだ黒い。はっきり光秀とは、九歳の年下を示している。 「いや、御辺などは、まだまだ……」  光秀は、羨ましげにすら、相手を見ていた。何不足ない栄達を自覚しながら、年齢だけはもう十年も若くあって欲しいなあと云いたげな顔いろである。  自分のきんか頭を云い出されたことから、客としての居心地は、たいへん気楽になって来た。光秀は、何でも云いたいことのいえる秀吉の性格にも、また羨ましさを感じないでいられなかった。  今夕、丹波へ帰国するので、ちょっとお顔を見に御門前まで立ち寄った──と、さっきもいっていたが、何ごとか、折入って胸の思いでもじッくり聞いてもらいたいような容子が、光秀には見えた。  にも関わらず光秀は、容易にそれを持ち出し得ないのである。秀吉は、折ふし出かける間際ではあり、客の容子にも観えるものを感じたので、 「──時に、惟任どの、お目にかかったのが、幸いだ、人のうわさというものは、何を云い出すやら知れたものではないが、さりとて、火のない煙と打ち捨てて措こうも、衆口金を鎔かすの惧れがある」 「なんぞ、それがしのことについて、お耳にふれた儀でも……」 「されば、親しい御辺のこと、これは書面をもっても、お告げせずばなるまいと思っていたところです。あなたは、誰かへ書いて与えた詩に、亀山城の北にある愛宕山を、周山に擬らえ、御自身を周の武王に比し、信長公を殷の紂王となしたようなことはありませぬか」 「やくたいもないことを」  光秀は手を振った。やや面を青白うして、二度までいった。 「やくたいもなや! いったい、誰がそんな悪意のある取り沙汰をば──」  光秀の吐いた声は、沈痛そのものであった。言葉というよりは長嘆に似ていた。  けれど、秀吉は、それ程な相手の深刻な表情を見ていながら、まるで鞠でも受けとるように、彼の口真似そのままにいった。 「まったく! いやまったく。──やくたいもない! やくたいもないことをば。──あはははは」  この笑い声はまた、天井を揺するばかりだった。次の間に控えていた家臣が驚いて、何事かと、襖を細目に開けてみたくらいであった。 「これ、これ」  その気配へ、秀吉は目ざとく振り顧って、 「──馬を曳いたか」  と、たずねた。  家臣がそこから、 「御用意はととのうておりまする」  と、伝える。  光秀は、急に、燭台の灯へ、面をあげた。 「おお、ついうかと、つまらぬ話にお出ましの間際を邪げ、思わず失礼を──」  と、褥を退け、そしてなお起ちもやらずに、 「申さば、世間の毀誉褒貶、これはたれにも、避けられぬこと、また歯牙にかけるにも足らぬことにございましょうが、最前も仰せのごとく、衆口金を鎔かすのたとえもある。慎まねばなりません。……何とぞ、やくたいもない一儀は、以後、お耳にふれるごとに、唯今のごとく、お笑い捨てくださるように」 「心得申した」  こんどは真面目に、深々と相手へ同情の眼を凝らして、 「御辺にも、余りに深くお気にとめぬがよろしい。僭越とお叱りなくば、この筑前のごとく、物事にちと無神経でおられたら──と申しあげたい」 「それは常々おうらやましく存じておる」 「では」  と、促して、 「こよいは、これより御礼のため登城いたしますから」 「長座仕った」  主客一しょに起って、書院を出、玄関のほうへ共に歩いて行った。  草履を穿いてからも、山門の外の駒つなぎまで、なお肩を並べ合っていた。光秀はなおもっと早く、もう少し時間の余裕を見て、この人を訪わなかったかと悔いているふうだった。 「さあ、お召しなさい」  先へ、駒をすすめて、秀吉は佇んだ。なおここまで主客の礼儀をとっているのである。語り尽きない残り惜しさを滲ませていたが、光秀は、御免と会釈して、先に馬上の人となった。  秀吉も、鞍へ移った。  そしてこの門前から、双方の従者の列は、各〻の主人を先にして左右に別れた。  安土の夜を行くには、松明も提灯も要らなかった。歳暮のせいか、町の灯は種々な色彩をもち、家々の灯は赤く道を染めて、春を待つ騒めきを靄々と煙らせていた。冬靄の空には、一粒一粒に、星が滲んでいた。 「この頃は、聞き馴れない唄や器楽が流行るのう」  秀吉は、家来にはなしかけた。従者のひとりがそれに答えて、 「この町に、南蛮寺が建ってからだそうです。異国の笛とか抱琴が入って来たばかりでなく、その音階に馴れて来て、これまであった歌謡の節や曲までが、何となく違って来たと申します」 「でも、洛中の六条坊門にも、南蛮寺はあったが、こんな風潮はなかったようだが」 「まだあの頃は、二、三ヵ国の宣教師しかおりませんでした。けれど近頃、この安土の町に住んでいる異国人の種類はたいへんです。皆が皆、宣教師ではありませんが、それが連れて来た家族やら召使やらを加えますと……」  ──なるほど、辻へかかると、賑やかな雑鬧の中には、かならず異人のすがたが見えた。松や竹や餅など売っている日本の歳の市を、物珍しそうに見物して歩いていた。  信長はその夜も、彼が帰国の暇乞いに来るというので、心待ちに待ちわびていたらしい。  全城の燭は、秀吉を迎えた。  主従、夜食を共にした。また、堀久太郎から、拝領物の沙汰などあった。 「御品々は、明朝、御出立までに、御宿所へお届け仕ります」  とて、その内容だけを聞いた。国次の刀や、茶の湯の名器十二種などである。 「かさねがさねの重恩。ただ冥加のほどおそれます」  秀吉はありがたさの余り、涙にも暮れそうな姿だった。そして暇を告げかけると、 「いや待て、なおまだ、きのう申し交わした約束が残っておる」  といって、信長は、彼を促して城楼の上へ伴った。  ここの一閣へは、よほどな貴賓でもないと案内されることはないし、重臣でもほんの、二、三の者しか知っていないということだった。 「きのう茶席で約束したように、そち以上な大気者を見せてつかわそう。はいれ」  信長は一室を開かせた。  驚くべき人間が、そこの扉を開いたのである。更紗を纏い、黒い皮膚に、珠や金環を飾っている二人の黒奴だった。  しかしこの黒奴については、秀吉はそう瞠目もしなかった。安土の城内で度々見かけていたし、また宣教師から薦めたものということも知っていたからである。  けれど、信長に従いて、一歩室内へ入ると、思わず、ああという声が出た。ここは安土の内かと疑った。  大きな部屋と小さい部屋と、二つがひと間になっている。あわせて約百坪ほどな広さはあろう。その壁、その天井、装飾、床、敷物にいたるまでことごとくが、異国の色彩と調度品で彩られていた。 「その床几へ倚って休むがいい」  信長は、椅子をさして、床几と称んだ。美わしい天鵞絨と密陀塗のような塗料をもって造られてある。  秀吉は、観るものに、眼が忙しかった。  次室と広間との境には、裾長やかな帳が一方へ絞られてあり、それは天竺織というか、欧羅巴のゴブラン織というものか、秀吉すら初めて見るものだった。  呂宋、交趾、安南あたりの舶載品らしい陶器、武器、家具の類から、印度とかペルシャなどから齎した物らしい鉱石の塊や、仏像、絵革、聖多黙縞、それから南蛮船の模型だの、金銀の細工品だの、自鳴鐘だの──と数えて行ったら限りもないほどである。  その間にも、しきりと鼻を襲ってくるのは、まだかつて日本の上では嗅いだことのない執拗な香料のにおいであった。そうした視覚、嗅覚、あらゆる官能から異様な刺戟をうけて秀吉はやや呆れ顔をしていた。  あまりに珍奇な世界へいきなり連れて来ると、子どもは側の親も忘れて口をきかなくなる──そんなふうな秀吉であった。  信長は、それを見て、ひそかに楽しんでいた。どうだ、といわないばかりな顔して──。  と、秀吉はふいに、つかつかと彼方の壁へ向って歩いて行った。そこには日本的な六曲屏風が二面だけ現わして立ててあった。彼は手をかけてその六曲全面を部屋へ展いた。そして、腕拱みして、その前に坐ってしまった。 「……うーむ」  と、唸っているように見える。  金泥の地に、重厚な顔料で、地図が描いてあった。 「……?」  秀吉はやがて、それへ顔をすりつけるようにして、頻りと、何かさがしていた。  その背なかへ、微笑を向けながら、信長が遠くからたずねた。 「筑前。何をさがしているのか」  すると秀吉は、見向きもせず、なお屏風に顔を彷徨わせながら答えた。 「日本です。……日本は、どこでしょう」  信長は歩いた。そして、彼のうしろに立って、にやにや笑っていたが、やがて教えていう。 「筑前、筑前。そんな所をいくら見ていても日本はないぞ。その辺りは、羅馬、西班牙、また、埃及などという国々の抱いておる内海──」  その屏風の左半双の端から、右の半双面の方へと、信長は秀吉をさしまねいた。  そして、秀吉と並んで、屏風絵の世界地図の前に坐った。  葡萄牙の、一宣教師が献上したものを原図として、狩野派のお抱え画工がそれを美術化して、六曲一双に濃彩をもって描いたものなので、もとより地図というほど精密でもないし、また、原図そのものからして、まだ地球の全貌図としては、はなはだ幼稚杜撰なものであったことはいうまでもない。  けれど、大体において、世界の広さは描かれている。地中海もあれば、印度洋もあり、大西洋もあった。太平洋も紺碧な厚い顔料に塗りつぶされてあった。 「筑前。見よ」 「はあ」 「日本はここだ。この細長い島国。われらはこの上に生れている」 「これが日本でございますか。……これが」  秀吉は、凝視した。  息もせずに見つめていた。  そして顔を離すと、あらためて、六曲一双の屏風の広さを──いや世界の広さを見直して──また眼のまえの細長い一島嶼の小ささを全図と比例しては見入っていた。 「支那、南蛮諸島、西欧の国々、どこと見くらべても、何と、日本は小さいのう。小さいではないか」  信長がいうと、秀吉は、しばらく黙っていたが、 「そうとも思いませぬ」  と、答えた。  そして、さっきからとんでもない所を見まわして、日本をさがしていた海外的な知識の浅さを、ここで取り返そうとする面目を以て云った。 「おそれながら、わが君も、お体といっては、五尺二、三寸。お肉は薄く、決して大男ではありません。然るに、世には六尺豊かの大男と称する者、たくさんおりますが、あながちそれをもって、大なる人物とは思えませぬ。故に、絵に描いた国の広さや、小ささには秀吉決して驚きませんが、ただこれをみていると、頻りに、嘆じられるものが痞みあげて来ます。──思わず、ああと嘆きたくなります」 「最前から、しきりに感に打たれておる容子だが、そちらしくもないぞ、何をさようにかなしむのか」 「桶狭間の御合戦のみぎり……またその後も折々、わが君がよくお口にあそばす小歌の一節を思い出しまして」 「はて、妙なことを、そちはかような折に思い出すな。──人生五十年……あの歌か」 「左様でございます。この世界の広大を、この生命のあるうちに見尽すには、五十年では足りそうもありませぬ。せめて百年は生きたいものと思いまする。ああ、生きたい、生きたい。──折角、この身、日本に生れ、やわか、中国、四国、九州ぐらい見物して、それで生涯の満足ができましょうや。君には、如何思し召すや存じませんが」 「こやつが」  信長は、いきなりその右の手を以て、秀吉の肩を、強く叩いた。それは、会心の笑みと力とをこめて思わず打った強さだった。 「覚くも、わが胸を察して云いおるわ。生きようぞ、百年も」  この時代の人の眼孔は大きかった。  日本を、当時の日本だけにしか、観ることの出来ないような狭小な眼は、徳川期になってから、後天的に努められた観念である。  信長は、後の鎖国主義などというものを、知らなかった。  秀吉においては、日本の小ささをさえ知らなかった。彼の世界観は、彼の常識と観念の上から、日本を最大なものと考えていた。日本と較べるような地球上の「大なるもの」はあるわけがないとひとり呑みこんでいた。  だから彼はこよい信長から、六曲一双にわたる全世界の地図を見せつけられて、日本の存在をその尨大な陸地面からさがし求めるのにまごついたにしても、西欧南洋北夷諸州の箇々の大きさに、そう驚きはしなかった。  ただ、 「これが日本か」  と、眼を凝らして、 「思っていたよりは小さい」  と、感じただけに過ぎなかった。  そして、嘆じられたのは、  ──世界は広大だ。  ということだった。人の天寿はそれに比して、余りにも短いと思ったことだった。  彼ばかりでなく、総じて徳川鎖国主義以前の──元亀、天正の人間には、おぼろげながら、万里の波濤の彼方にも、人とよぶ異人、国とよぶ国が、無数にあることについて、詳しく知っていた。その海外知識はまた、宗教を通じ、美術を通じ、鉄砲を通じ、織物や陶器や自鳴鐘を通じて──日に月に滔々と東漸して来た時でもあった。 「国は多いよ、海は広いよ、けれど何千何万里、漕ぎ巡ってみたって、日本のような国は、ありはしない。唐天竺といったって、ありはしない」  こんな言葉は、幼少の時から、秀吉などよく聞かされていたものである。  尾張の中村附近にも、そういうことをよく語る年老が、二、三人はいた。  村の人のいうには、 「彼の衆はみな若い頃には、八幡船とかいう船に乗って、明国から南蛮へまで押し渡ったものじゃそうな」  とのことであった。  秀吉がまだ子どもの頃だった天文年間には、もう和寇はだいぶ下火になっていた。けれど昔を語る潮焦けのした老人は、まだたくさん田舎に生きていた。 「もっと多くの話を彼らから聞いておけばよかった」  と、長じて後は、惜しいことをしたと、秀吉も思い出すことがあったが、とにかくそうした人々が、民間に語り伝えて来た海外知識もまた、決してばかにできない下地を持っている。  いわんや堺、平戸そのほかの海港と、呂宋、安南、暹羅、満剌加、南支那一帯の諸港との往来は、年ごとに頻繁を加えて来るし、それが国民一般の宗教に、軍事に、直接生活に、濃く影響し始めてきた今となっては──その政治的重要性からも、信長が多大な関心をもっていたことは、当然すぎるほど当然なことだった。 「…………」 「…………」  この夜。  信長と秀吉とは、世界地図の六曲屏風を前にしたまま、ずいぶん長いこと、黙然と坐りこんでいた。黙想に耽っていた。  何を語りあったろうか。  それはその屏風しか聞いていたものはない。けれど、結論において、ふたりの理想が合致していたことは確かだ。なぜならば、やがて深更、ふたたび暇を告げて別れるに際し主従の面には、これまでにない、もっともっと深い男児の心契ともいえるものが、あきらかに双方の眉宇にたたえられていたからである。 蘭丸  早暁の出立だった。  庭面も、屋根も、霜が白い。桑実寺の広間小間には、また燈火を立てている。  早飯は秀吉の習慣だ。箸をおくとすぐ身支度もすましてしまう。  それに遅れまいと、障子の外、廻廊の彼方などを、あわただしく家臣たちの跫音が往来している。荷梱など運び出している。 「昨夜、帰って参りましたが、深更の御退城、すぐお寝みになられましたから御返辞をひかえておりました」  福島市松と加藤虎之助は、この出発間際の寸暇を見て、秀吉の前へ復命に出ていた。  ふたりは、秀吉の意を帯して、長浜の城に在る母堂と夫人を見舞い、留守の近状を、つぶさにまた、秀吉の老母と寧子夫人から言伝かって来たのであった。 「おう、ゆうべのうち、帰っていたか。して、どうじゃった。長浜の様子は」 「はい」  と、市松がいう。 「どなた様にも、おかわりもなく、わけて御母堂さまには、たいへん御機嫌でいらっしゃいました」 「そうか、この冬、お風邪も召さずに、起きておられたか」 「中国からの殿のお便りには、いつも身を案じて給もるゆえ、寒いうちは、外へ出て百姓もせぬようにしておる。そして、筑前どののすすめに従い、部屋を温かにし、合間には、鼓の大倉、小舞の幸若などを招いて、奥方さまやその余の御家族たちに囲まれ、至極、陽気に暮しておるから、もういささかも陣中では留守を案じて下さるな──と、くれぐれも左様に仰せられました」 「そうか。いや、それを聞いて、安心いたした。つい間近の安土まで参りながら、ちょっとの暇に、顔ぐらいは、見せに来てもよさそうな……などとお愚痴はなかったか」  こんどは、虎之助へ向って訊ねた。元々から二人は、遠縁の者だけに、こういう家庭の内輪事も、秀吉も気軽に訊かれ、また答える方も、どこか気安く語られるのであった。 「お愚痴どころか、お母堂さまには、私たちが伺っていたところへ、ちょうど右府様からもお迎えの使いがお見えなされて、久しぶりのことである、筑前が安土に参っておるゆえ、寧子様を伴い、ちょっとわが城へ来て対面してはどうか──とありがたい御諚があったにもかかわらず、お母堂さまのお答えには、中国の役すら、まだ半途と聞く、安土に来たのも、公の御用、こちらから婆や妻などが会いになど行っても、あの子は決してよろこび顔をいたしますまい。折角、右府様のありがたい思し召ではござりますが、お断り申しあげまする──と、美々しいお迎えのお船をも、むなしくお返しになったほどでございまする」  虎之助は、市松ほど弁舌がまわらない。わけて主君の前では、畏れるの余り吃り気味なので、これだけ伝えるには一所懸命であった。  それをもどかしく思ったのか、秀吉は聞いている途中から、身をまげて、傍らの文机や文庫から手まわりの物を取って、腰に帯びたり、懐紙をふところへ納めてみたり、まるで空耳に聞いているかのような容子に見えた。  そして、虎之助が、語り終るとすぐ、 「よしよし、使いの返事、よくわかった。もう今朝はここを立つ。はやはや外へ出て、そちたちも、供廻りのことなど急げ」  追い立てるように、退けてしまったのである。  二人は、倉皇として、そこから出て行った。──と、入れちがいに、堀尾茂助が、何事か告げるべく、またそこの障子を開けると、秀吉は独りで泣いていた。懐紙を面にあてて涙を拭っているのである。 「…………」  おや? という顔して、そのまま、茂助が障子の下にうずくまっていると、秀吉はひどくあわてて、 「吉晴。何用だ?」  と、まるで咎めるような声音でいった。 「はッ、はいッ……」  茂助も理由もなくあわてて、早口に、 「右府様のお使いとして、森長定どのがお越しですが」  と、取次いだ。 「なに。森蘭丸どのが」  秀吉は、何か、唐突な感じをうけたように呟いたが、すぐ思い当ったらしく、 「──ああそうか。お迎えして、あちらの客書院へお通しせい。ここは取り散らしておれば」  と、自分も立ち上がった。  ゆうべ安土へ暇乞いに登ったとき、信長から拝領物の目録を賜わった。その品々を今朝、蘭丸に持たせて、これへ差向けられたものであろう。秀吉はそう察しながら、客書院へ歩いていた。  案のじょう蘭丸は、国次の刀、十二種の茶器など、信長からの餞別の品を携え、上座に坐って待っていた。  相変らず美しい。華著な装いを凝らしている。すでに、今年あたり、二十三、四歳にはなるはずだが、今もって、世間が美童と目しているのも無理はない。  主君の使者なので、秀吉は下にすわり、一応の礼儀があって後、初めて話も日頃の親しみ振りに返る。 「もう、お立ちでしょう」 「いやいや、お急ぎ下さるには及ばぬ。いずれ一夜は京都のつもりですから」 「せっかくたまたまの御出府でしたのに、御休養の暇もなかったでしょう。しかし上様の御機嫌は近来にないものでしたな」 「訪客の多いには閉口いたした。柴田どのも北陸から今日あたり御着府とか」  それには答える興味もなく、蘭丸長定は軽くたずねた。 「明智どのも、お立寄りになられたそうですな」 「見えられた。旅づかれか、少しお元気がなかったようだ」 「何か、申されてはおりませんでしたか」 「何かとは?」 「上様からお叱りをうけられたこととか、私のうわさなど」 「いや、べつに」 「お気のどくに堪えません。このたびは、非常な御不首尾でお帰りなされた。きっとその鬱を筑前どのに聞いて戴こうと思っていたにちがいない」 「では、明智どのが、信長公からいたく叱られたという沙汰は、ただの噂ではなかったのかな」 「いったい、明智どのの重くるしい勿体振りが、日頃から上様のお気性にはちくちくと御不興を刺戟するのです。それがたまたま、御酒宴の中であらわに爆発したというに過ぎません。──然るに、明智どのには、女性のような邪推をなさる一面から、何か、この蘭丸長定が君側からそれを焚きつけでもしたように取っておらるるらしい。……これは蘭丸として心外にたえぬところです」 「ははは。そうかなあ。彼も惟任光秀、亀山の城主、当代の人物だ。それがしには分らんが、仰っしゃるような感情があるとすれば、何か、そこにべつな原因があるのではないか。お身様の方に、そう猜疑せらるるべつな理由が」 「思い当るのは、私が、鈴木重行のことを、上様へ御忠告したことがあるだけです。かの本願寺の謀将鈴木重行の始末について……」 「その重行が、本願寺散亡の後、どうしたというのでござる?」 「あなたも御承知ないか。大坂石山の没落とともに、姿をかくしていた鈴木重行は、いつのまにか名を変えて、丹波亀山の城中に客臣となっていたのです。──十二年の久しきあいだ、織田家を悩ませた本願寺の黒幕の謀将を、おゆるしも仰がず、匿うなどという行為は、明らかなる叛意と申されても仕方がないではございませぬか。かりにあなたが、信長公であった場合、それを知ってもなお光秀どのを、重臣として、快く、迎えておられますか」  こういう時、秀吉の面は、すこぶる微妙なものを湛える。  熱心に聞き入る色もあらわして来ないし、といって、相手の訴える気もちをへし曲げて、うわの空に外らしているという顔でもない。 「ふむ。ふむ。なるほど」  いずれともつかない頷きを見せてはいるが、彼自身の意志は、そのあいだ縹渺として、天外に遊んでいるのかもしれない。  正直なところは、余りこういう話題には触れたくないとするのだろう。ひとの陰口、毀誉褒貶、中傷讒訴、これに関わっていた日には限りがないからである。障子の桟のチリを吹いて、わが目もチリにこすらなければならない。秀吉の性分に合わないことだ。  のみならず、彼としては、すでに前日、光秀から這般の消息はうかがっている。さすがに、五十余齢の光秀は、童形の青年蘭丸とはちがって、露骨にことばには出さなかった。けれど秀吉には、充分、 (……ははあ)  と、その意中も葛藤の根も読みとれていた。ほぼ察しがついていたのである。  蘭丸の母堂の妙光尼が、帰依するの余り、かねてから本願寺軍の謀将鈴木重行のため、表面信仰、裏面密謀、ふたつの仮面の使いわけに操られていたことを──その危険を──軍事にたずさわる秀吉としては、当然な防諜監視の眼から疾くに覚っていたからである。  蘭丸は母思いだ。また、才長けた好青年でもある。  母の妙光尼の老後の幸福も、兄弟多勢の今日の出世も、ひとえにみな蘭丸の君寵浅からぬためといってよい。  彼らの亡父、森三左衛門可成の忠節が、深く信長の胸に銘記されていたことも間違いないにせよ、信長が蘭丸に傾けている信用と寵愛は、また格別なものがある。  それ、これ、思い合わせれば、石山本願寺の滅散後、鈴木重行が、何かの縁をたよって、明智光秀に恃み、亀山城の家中に、姓名を変えて、なお生きているということは、蘭丸にとって、到底耐え難い不安を抱かせられたにちがいない。 (もし、重行の口から、母妙光との、前々からのことが、事細かに洩れでもしたら?)  こう恐怖し出したら、蘭丸とて、じっとしていられないのも無理ならぬことである。信長の君寵も信用も一度に覆って、その代りに何が妙光尼に与えられるか、蘭丸に酬われるか、余りにも明白である。  石山本願寺落去のときから、すでに蘭丸はその恐怖を抱いて来た。佐久間信盛父子の追放だの、宿老林佐渡の末路だの、すべて髪の毛ほどでも信長に異心を抱いたものの処断には、たとえそれが遠い過去であろうと昨日の事であろうと決して宥さないのが、愛されているわが御主君であった。特に、蘭丸が人知れず胸をいためているその事一つは、身ひとつだけの心配でなく、母以下、森兄弟一門の今や致命的な不安となっているのである。 「──やあ、世間は面白い。たまたま、戦陣から出府して、世間ばなしをいろいろうかがうと、いやもう限りもなく、世の味を満喫いたす。まずそれだけこの安土は、平和の余裕綽々たりで、四民を安からしめておるわれらの寸功もありといえましょうか。われら戦陣に在る身では、晨にはきょう死ぬかと思い、夕べとなれば明日はとちかい、明けても暮れても、慾といえば死に花を如何にとしか考えられぬ者にとっては、またなき耳の楽しみ、腸の薬でござる。来年はまた一、二度出て参りたいもの。──今朝は立ち際で甚だ落着かんが、次の出府の機にはぜひゆるゆるとおはなしいたそう。……あははは。きょうはどうも、失礼ばかりで」  これは、間もなく、秀吉が、蘭丸とともに席を立って別れる際にいった世辞である。これこそは、ほんとの世辞であった。  秀吉の行装一列が、まばゆい朝日の下を、桑実寺の門前町から流れ出てゆく時、使者の蘭丸もまた安土の城門へむかって帰っていたが、何ぞ知らん、この地上におけるこう二人の相識は、この時が終りだった。誰か、この朝から半年後の本能寺の変を予知することができようか。 京都  秀吉は京都に一泊した。  京都。──京都のすがたは実に一変した。  わずか十年前の京都を知っている者はみなそういう。二十年、三十年前の京都を見ている人々はなおのこと、隔世の感なきを得ないという。  それほどな推移を短いあいだに示していた。  まず、何より違って来たことは、洛中に入るとすぐ、大君ここにましますという光耀と清潔さに盈ちていることと、その「民」たるをもって幸福としている人々の平和な生活ぶりだった。  それとまた、ここに立てば、  説明なしに、日本の正しい在り方とは、やはりこうであったかとおのずからわかる心地もしてくるのだった。  一般の庶民が感じるところは、やはり秀吉が感じるところだった。  彼は、その少年時代、東海道を漂泊中などに、よく仰いだことのある──あの富士の秀麗な山容を──今の京都にふと思いあわせた。  千古万代、この国とともにある不壊の富士も、雲におおわれて、一天晦冥まったく人界から見えなくなる数日もある。  と思うと、忽ち一片の雲だにない澄明の青空に、飽くまであざらかなその姿容を示す日もある。  あくせくと、下界の生業に追われている人々は、その全姿を眼に仰ぐせつなのみ、  ああ、富士。  と、呼ぶ。驚嘆する。  そしてはまたそれに馴れて忘れるともなく、雲を見ては雨を嘆くばかりで、雲のうちにも不壊の富士のあることを思わなくなる。  近くは、応仁以後からつい室町幕府の末にいたるまで、もっと前には、足利氏、北条氏などの暴政を私した時代など、思えば、この国の曇と晴も、富士と雲とのように、繰り返され繰り返され、治乱久しいものであった。 (──今の京都は、晴れた日の富士のようだ)  秀吉は、洛中に馬を駐めるたびに、ここ二、三年は、いつも同じ感激を抱く。  そして、 (これは、何に依って来たものか)  と、考える。  雲そのものの変化は問題ではない。富士そのものの実存だけが動かない事実である。  けれどその快晴を齎したものは、なんといっても自分の主人信長の力だったと思う。信長がなかったらなお乱雲晦冥の下に、多くの四民は、さる堂上の公卿が日記にも書いているように、  ──如何に成りゆく世にやあらん。  と、恟々、安き思いもなく、きょうを送っていなければならなかったろう。  それが、今はどうか。  皇居をめぐる山紫水明のひかりといい、町屋町屋の輝きといい、そこに生業いし、そこに楽しみ、そこに安堵しきっている市民といい、つい一昔前の、室町幕府の治下には、まったく見られなかったものが盈ちあふれているではないか。  誰よりも信長をよく知りぬいている秀吉は、また信長の理想を今眼で見た心地がした。兵馬倥偬の中に、武人として、伊勢神宮を修理したり、禁裡の築土の荒れたのをなげいて、御料を献じたりしていた人に、信長の父信秀がある。そんな篤志家はあの時代にはほとんど稀れだったといってもいい。  思うに信長が、朝廷に仕える一信長をもって任じだしたことは、父の影響によるものであり、そして父以上、積極的な性格をそれに加えて来たのであった。  御所の造営。  御墻の築き。  内大臣拝受の御礼。  御節会の復興。  そのほか内裏の御経済の改良やら、公卿殿上の生活安定から、諸祭事の振興など、あらゆる面にむかって、彼は皇室の復古に心をかたむけた。  室町幕府を捨てて足利義昭を追ってから、わずか十年、眼のあたりに、ここまでの推移と民生活の安定を見ては、もうこの頃の信長をさして、 (公方の謀叛人)  などという者もいなくなっていた。かの叡山焼き打ち直後には、 (稀代なる大魔王)  とまで罵った法師輩まで、彼にきのうの非難を繰り返し得ないのみか、共に、今日の明るい洛中洛外にあって、その平和に浴しているすがただった。  わけて、ことし天正九年の春に行われた馬揃いの盛観は、年の暮れかかる今になっても、人々は何かといえば、忘れ得ない語り草としていた。  この春の大馬揃いは、要するに平和の大祭であり、信長の覇を誇った示威でもあり、また、外人宣教師などに対する国際的意味も多分にあったが、もっと、重大な意義としては、親しく至尊の臨御を仰いで、兵馬の大本を明らかにしたことであった。  遠い上古には、防人と称され、つわものとみずから誇り、都に集う若者たちが歌ったという、 つるぎ太刀 腰にとり佩き すめらぎの 御門のまもり 我を措きて人はあらじ  のあの気高い王朝時代の──きれいな濁り気のない、純正無垢な誇りと誓いとを──尠なくも、信長は、この大馬揃いの挙行をもって、身にも示し、世にも顕わそうとしたことは確かである。  いつの世からか、皇室と武門とのあいだは、建国のときの神則、天皇の兵は治安を守る防人であり、軍は国の御楯であり、剣は我を磨き人を生かす愛ですらあった本質から私にうごき紊れて、時には分離し、時には皇室を威嚇するなど、その弊は、応仁以後の室町末期にいたってまったく極まっていたといっていい。  その紊れを時代の主人公として世もゆるし自身も任じている信長が、このとき大馬揃いの催しをもって、それらのあらゆる意義を、理窟や法制に恃まず、上下ともに楽しみ歓ぼうとしたことは、さすがに武弁一遍の頭領ではない、偉大なる政治家としての信長のすがたをここには見られるのであった。  さて、その景観を思い起してここに一端を写してみるならば──  その日は、二月二十八日、京洛の春も闌の頃だった。  上京内裏の東から南への馬場八町には、若草の色もまだ浅く、柵のところどころの八尺柱は、緋毛氈でつつまれていた。そして、禁裡東之御門外のあたりに、御出御をあおぐ行宮は建てられてあった。  仮殿とはいいながら、それは清々しい白木に金銀の菊花が鏤められ、珠簾には紫の紐が神々しく垂れて、大屋根の甍もさながら金砂を刷いた大和絵そのままに霞んで見える。  摂家以下、殿上月卿雲客はことごとくそこに陪観の席を賜わって寄り集うていた。──衣香あたりをはらい、四方に薫じ、箇々の御粧い、御儀の結構、華やかなこというばかりもなく、筆にも詞にも述べ難し──とはその日の有様を書いている当時の筆者の嘆声であった。  日月の旛、五色の御旗、ゆるやかに春風のなぶる下には、なお御親衛の弓、矛をたずさえる防人の隊伍が、花園の花のように揃っていた。そして時刻の辰の刻(午前八時)の頃としなれば、遠く、下京の本能寺から、貝の音は聞えて、──一番隊、二番隊、三番隊、四番隊と、京の大路を練って一条東の馬場口へすすんで来る行列の出発を報らせていた。  その頃もう馬場のまわりには人か霞かと疑われるほど、数十万の民衆は、この日の盛儀を微かにでも拝もうものと雲集していた。  やがて、柴田勝家、前田利家などの、北国衆がまず、信長の馬廻りとして、さきに馬場へながれて来た。燦々と、その旌旗や甲かぶとに旭光がきらめいて、群集は眼もくらむような心地に打たれた。  ──が、これはほんの前奏曲にすぎない。やがて七番隊の武井夕菴が馬場にはいると、次に、信長のすがたが見えた。 御床几持四人。奉行市若。地を金に、浪を絵取りたり。左に、御先小姓、御杖持北若。御長刀持ひしや。 また、御小人五人、御行縢持小市若。 召されたる御馬大黒。惣御人数二十七人。 右、御先小姓、御行縢持小駒若。御木刀もち糸若。御長刀持たいとう。  これは「信長公記」の中の一節であるが、ほんの左右の供人だけを誌してあるに過ぎない。そのほか扈従近臣の壮美な粧いに至っては、ただただ言語に絶した偉麗というほかはない。  さて、信長自身のその日の装束はといえば、 梅花ヲ折テ首ニ挿シ 二月ノ雪、衣ニ落ツ  の心かと当時の筆者は形容している。 ──御頭巾は唐冠、うしろに花を立てさせられ、御小袖は紅梅に白、上に蜀江の錦をかさね給ふ。御肩衣、紅どんすに桐唐草なり。お袴も同然。お腰に牡丹の作り花をささせられ、御太刀、御佩き添へはさや巻の熨斗付也。 御腰蓑には白熊、鞭をおびられ、白革のお弓懸には、桐のとうの御紋あり、猩々皮の御沓に、お行縢は金に虎の斑を縫ひ、御鞍重ね、泥障り、御手綱、腹巻、馬の尾袋まで紅の綱、紅の房、鞦には瓔珞を付させられ──  と、実地に見た者の感激を、そのままここに借りるとしたら、それは際限もないくらいな描写である。  もっとも、この日に着用する信長ひとりの装束のため、京都、奈良、堺などの唐綾、唐錦、唐刺繍の類から、まだ一般には珍しいゴブラン、印度金紗、南蛮織のあらゆる物まで、選り蒐めてその粋を凝らしたものだった。細川与一郎──藤孝の子の彼なども、その係の一員だったので、信長の着用する蜀江の小袖の袖口につかう金縒を捜すため、京都中を奔走してようやく適当な品を見出したというほど、金力と人力がそれまでには費っていたものである。 (──まるでこの世のお方とも見えない。住吉明神の御影向でも仰ぐようだ)  と、その日の群集が、ただ、もう礼讃したというのも、あながち誇張な嘆声ではなかったであろう。  織田家の血すじは、総じて美男型であり、女子はみな美人である。この年、信長は四十八歳、なお端麗な余風をとどめているばかりでなく、気稟はまだ青年に劣らず、眉にも頬にも化粧をほどこし、きょうを曠と装ったのであるから、陪観の外国人の群れ──耶蘇会の代表者などもみな驚目をみはって、 (すばらしき大演武会の司会者は、また欧羅巴の国王間にも到底見られない華麗豪壮な扮装に鏤められた端正なる一貴人であった──)  と、彼らが各〻の本国への報告書に、あらゆる讃辞をもって伝えているのも無理ではない。  しかもそれは、信長一人の盛装と、扈従の美観だけではなかった。信長は、この大馬揃いに出場を命じた諸侯へ対しては、すべてに向って、 「天子の御叡覧にそなえ奉る曠の日にてあるぞ。明国、南蛮、西夷の国々へまで聞えわたるわが国振の武家式事ぞ。心いっぱい豪壮せよ、美術せよ、われとわが姿と行動とを芸術せよ」  と、命令したのである。  実に、この盛典を機として、時の人々は、それまでの余り好まない暗灰色をいちどにかなぐり去ったといっていい。  時人の心理は、まさに今、夜の明けたような曙色を欲していた。明るさに向ったときは明るい色を、身にも世間にも彩りたいのが本能だった。希望に燃えている、豪壮を愛している、殺伐な裏には優雅に渇いている、血腥い半面には華麗を慕う。──それは武人自身でなく、むしろ暗鬱な戦国の下に長く恟えいじけて来た民心にたいして、 (さびしむなかれ。歓べ、謳え。このとおり時勢は、今し刻々と暁天のような光彩にうつりつつあるぞ)  を感じさせる為にもなった。  さて、この曠世な大演武には、信長の一族、岐阜中将信忠、北畠中将信雄、織田三七信孝、柴田、前田、明智、細川、丹羽そのほかの諸侯から将士約一万六千余と、会衆十三万余人という盛況の下に行われ、各人各隊の演技のあった後、やがて最後の番には、信長自身、演技に立ち、悍馬に跨がって馬場を縦横に駈けめぐり、馬上剣をふるい槍を把り、またその槍を投げて、的を射たりした。  衆人の喝采は、その度ごとに鳴りもやまず、天地を動かすばかりだったという。  馬上から、的を睨み、槍を投げては、的を射潰す彼の演技は、風神颯爽として、華麗壮絶を極め、しかも一度の失敗もなく、五、六たびも繰り返された。  十三万余人といわれるその日の会衆は、一箇の信長を、みな自分の持物でもあるかのように、歓呼し、礼讃し、果ては、 「さすがだ!」  と、対象視しているぐらいでは飽き足らなくなり、ひろい馬場の外では、熱狂した人浪のしぶきが、 「如何にや如何に」  と、踊り狂っている態が、はるか、玉座の御間近にある堂上諸卿の席からも眺められたとみえ、その辺りの無数な顔もことごとく紅潮をたたえ、また微笑みをふくんでいた。  時に──  御階の下から、わらわらと、十二人の朝臣たちが、信長のほうへ駈けて来て、 「勅使」  と、声をかけた。  いま演技をすました信長は、地に降りて疲れた馬を宥わっていた。馬は海から泳ぎ上がったように汗に光り、その全身から湯気をたてていた。 「勅使です」  二度目の声に、彼は、はっと気づいたものか、馬の下にひざまずいた。  勅使は、綸言を伝えていう。今日の事、叡覧あって龍顔殊のほか御うるわしく、上古末代の見もの、本朝のみか、異国にもかほどのさまはあるべからずと宣わせ、斜めならぬ御気色に仰がれた。千秋万歳、御名誉なことであるという犒いだった。 「…………」  信長は、感泣していた。  亡父信秀の志を、子として、いまその一つでも成し遂げたような心地もしたろう。  たそがれ頃、彼は、路傍の群集から、さらに大きな歓声をもって送られながら、宿所の本能寺へもどって行った。  群集は、口々に、 かかるめでたき世に生れ合はせ、天下安泰、黎戸の烟り戸ざさず。生前の思ひ出、ありがたき次第にこそ──  と、云い囃したとあり、なおまた、 忝く、かけまくも、一天万乗の大君を、信長公の御盛儀のため、間近う拝み奉る事、ありがたき御代かなと、貴賤老幼の輩、ただただ合掌、感じ敬ひ申し候事、この世はさながら歓喜感涙のうるはしき大一宇とも見え侍り候也  と、その日の状況を記録した筆者、太田牛一もまた感激のなかに浸って書いている。  …………  秀吉は今、京都を通過しながらその日を偲び、また主君の一日の偉大を考え、ひいては自分に顧みていた。 潮声風語  秀吉は、大坂へかかった。  淀川まで来ると、 「先にお着きのお荷駄は、すべて積み終り、御船中のお囲幕も、万端、ととのうておりますれば」  と、九鬼家の使いである。  迎えの使者はなおいう。 「陸路のご予定にございましたろうが、浪華の浦まで道をまげてお立ち越えねがいまする。それよりお船に召されて、海路、姫路へのお渡りまで、われわれども、お供仕りますれば」  秀吉は、淀川に近い休み茶屋の床几をかりて、供の人数と一緒に休息中であったが、口上を聞くと、自身気軽に出て、 「それは、九鬼殿のご好意か」  と、たずねた。  三人の使者の答えには、 「主人の命によってお迎えに罷り出ましたが、お船廻しの儀は、安土の上様から早打をもってのお指図と伺っておりました」  と、ある。 「大儀」  と、秀吉はすぐ承知し、 「九鬼衆の使いにも、茶など与えよ」  と、左右へ心づけた。  彼としては、勿論、もう平定した播州と中央とのあいだの往来などは、さして危険ともしていなかったが、信長はなお、 (道中いかなる変があろうも知れぬ──)  と、秀吉の帰国を後からふと案じ出して、海上を行けと、にわかに、船手方の者へ、その用意を早打でいいつけたものとみえる。 「かくまでに、この秀吉の身を、大事と思し召し下さるのか」  と、彼は心のうちで、安土の方を振り顧らずにはいられなかった。  何条、その知己に反くべき──である。秀吉は、九鬼家の案内に従って、その夕方、大坂の川口から船に乗った。  船は、かつて、この沖で、毛利家の輸送船団を撃砕した戦歴をもっている軍船の一つである。  艤装いかめしく、大鉄砲の銃座もすえてあるし、長柄や、鈎槍なども、舷に立てならべてあった。  けれど、船楼の一間は、あたかも本丸住居の一部屋を、そのまま移して来たように、衣桁もあれば金屏風もあり、蒔絵の文棚、小鼓、香炉、火鉢、褥、膳具酒器など、ないものはなかった。 「幸いに、海上は穏やかです、どうか夜もすがらでも、お過しください。飾磨の浦に着くまでは」  と、九鬼家の家臣という三名のさむらいが、船中料理の粋をこらして、やがてそれへ伽に出て来た。 「船旅は楽でいい」  と秀吉は、近侍たちと打ちくつろいでいたところだった。さっそく杯を与えて、 「この船は、何石積みか」  と、質問した。  織田軍の船手方、九鬼家の家臣といえば、みな潮焦けのした顔に鯔のような眼を持って、歯ばかり白いさむらいばかり多い。ここに臨んで接待役に当った三名も、年配はみな四十以上らしいが、骨逞しく、贅肉なく、ひどく大きな手を、不器用に両膝へ乗せて、坐り仕事は不勝手でござると、その容子からして物語っている。これなん今、天正時代の海国武士とでもいう者どもか、風采いかにも洋々と寛く、顔にも陸棲人士のごとく焦ついた神経などなく、各〻、鯱か鯨の子みたいに、頗る縹渺たる風格のなかに、また一種の楽天的な気概をそなえている。 「は。何でござるか」  ひとりが反問した。  陸上での政治的な勢力とか、そこでの権勢家とか何とかいう憚りも、彼らにはすこしも反映していない。故に、媚び諂いも知らないぶっきら棒である。──秀吉は、その三人のぶっきら棒を、愛すべきもの哉と、見まわしながら、もう一度いった。 「この船は一体、何石積みか。──これで朝鮮国ぐらいまでは、航けるかな?」  接待役の三名は笑った。ただ笑っているだけで答えをしない。秀吉はすこし腹をたてた。 「何を笑う。わしの問いが何でおかしいか?」  すると急に恐懼して、ひとりが謹直に答えた。 「この船は、七百八十石積みで、三本帆檣。ただ今、これで朝鮮まで行けるやとのお訊ねでございましたが、高麗、大明はおろか、安南、柬埔寨、婆羅納、暹羅、高砂、呂宋、爪哇、満剌加はいうに及ばず、遠くは奥南蛮から喜望峰の岬をめぐり、大西洋へ出て、西班牙、葡萄牙、羅馬、どこへでも、行けば行けないところはございませぬ」 「ふ……ウム」  秀吉は、すこし鼻白んだ。  彼らの親切な説明によって、この船の力も、可能な航海の範囲も、分ることはよく分ったが、同時に、自分の幼稚な愚問に気がついたからである。 「南蛮南蛮と、よくひと口に申すが、いったい、それらの国々のどこをさして、南蛮ととなえおるか」  こんどは平凡を旨として質問した。答える方も平凡にいう。 「呂宋、爪哇、婆羅納、安南、暹羅あたりまでを総じて南蛮諸国と申し、また島々とよび、満剌加から先、臥亜などを奥南蛮とも申しております」 「臥亜とはどこか」 「天竺でござります。てまえどもは印度といっておりまする。臥亜には東印度総督がおりまする」 「そこまでは、航路どれほどな日数を要するか」 「長崎から媽港あたりまでですと、順風でおよそ十四、五日には着きましょうが、それから先は天候まかせで、予定の日をもっては参るわけにゆきません」 「どうして」 「暴風雨にあえば、島に寄って隠れ、船が壊れれば、船を修理し、道程ではなく、度胸と根気の航海ですから」 「その方たちは、至極、審らかなことを申すが、いったいそのような航海をして、南蛮までも参ったことがあるのか」  するとまた三名は、曖昧な笑顔を示しているだけで、口をつぐみこんでしまった。お互いに答えを譲り合っているらしいのである。 「ないこともございませんが──」  と、やがて中の一名が思い切ったように答え出して、 「それを仔細に申し上げますと、だんだんわれわれの前身が──つまりおさとが知れて参ることになり──この儀は主人九鬼嘉隆よりも、平常、図に乗って自慢げに語ることは相成らぬと、固く戒められておりますことゆえ、ちと、どうも」 「これこれ、それは自慢顔に無用なおしゃべりは慎めといわれたのだろう。大隅殿(嘉隆)に叱られたらわしが詫びてやる。どういうことだ、語って聞かせい」 「──では、申し上げてしまいますが、実は、われわれどもは年久しく、海浪人の身にござりまして、かような窮屈な武家奉公は、去ぬる天正五年、信長公より勢州の九鬼右馬允殿に仰せ付けられ、織田家の水軍というものが組織されました折に、初めて九鬼殿に呼ばれて召し抱えられたもので、その前は、弓矢を持ち、海上往来はいたしおりましても、武家奉公というものは一向に存じない者にござります」 「そう詫び入らんでもよい。決してその方たちの作法とか言語などを咎めはせぬ。……それよりは、何だ、海浪人とは?」 「つまりその、海上浪人のことで」 「ははあ、和寇か。──おぬしらの前身は」 「まあ、そのようなものでござります」  八幡船なるものに乗りこんで、海濤万里をものともせず、南の島々から大明の沿海はいうに及ばず、揚子江は鱖魚のごとく千里を遡り、高麗の辺境までも鯨遊して、半生、海を家として送って来た男どもの果てであると聞くと、 「ほうッ……」  と、秀吉は、わざとのように、眼をまろくして、いきなり前の銚子を把った。 「ばかなやつだ。さあ飲め」  これが次に飛びだしたことばで、そのことばの下からまた──。 「愚にもつかん輩ではある。最前から何をもじもじ云い憚っておるかと思えば、前身、和寇と呼ばれていたというだけの遠慮か。いやはや、笑止千万。そんな小さい胆を持って、よくも海上を暴れ廻っておられたもの。主人九鬼殿もちと分らん男であるな。──八幡船、和寇、何がいかんか。秀吉なども、もし、十六、七歳の頃に、その方どもと巡り会うていたら、かならず汝らの手下に属して、南海西蛮大明高麗、ひとわたりはぜひ見物しておいたろうに、残念に思う。──いや、まったくだぞ」 「はッ……」  三名が、首を揃えて、恐縮すると、秀吉は銚子をつきつけて、 「順に、杯を持て、あらためて一巡酌してつかわす。……よく致した、よく致した」  何を犒われているのか、彼らには自覚がなかった。故に秀吉は、銚子を下に置くと、それを歯痒がって、諭すのであった。 「和寇というもの、いつのまにか、海上に影をひそめてしまったな。惜しいものとはいわん、また秀吉、奨励もせんが、自体、八幡船の活躍は、起るべくして起ったものだ。……と、思わんか」 「はあ」 「遠い上古、神功皇后さまの挙を今日より偲び奉っても、あの前後からすでにいかにこの国を侵さんとする外夷があったか思いやられようが。降って、元寇の変に、相模太郎時宗をして、一剣護国の難にあたらせ、民ことごとくの憤怒が、筑紫の大捷となった時の如きは、それの最も歴然たるものだ。十万の元兵、数百の艨艟、すべてを日本に失ってから、さすがに懲々したか、その後は襲って来なくなった。……だが鎌倉以後、もし来られたら、あの大難以上な大難だったろうと思われる時代は、この国内にだいぶ続いた。たとえば、吉野の宮の時代、足利幕府の初期、つづいて応仁の乱、義満、義政などの無能な将軍の腐敗政治に委されていた時世などに……どうだ、想像してもみよ、もし元寇があったら」 「左様でございますな」 「幸いに、高麗も明も、元ほどな威を、彼もその時代は、持たなかったからいいが──それにせよ、室町幕府の腐敗ぶりがそのまま海外に露呈していたら何とも知れん。……それを、室町将軍の援護でもなく、また幕府の指令でもなく、ただこの国の民の意欲で、気ままに、存分に侵攻を防禦していたのは、汝らの仲間だった。汝ら、八幡船の力といってもいい」 「ははあ。そうですかな」 「いや、待った。その方どもの時代になっては、八幡船もすでに末期、和寇という名ばかり残って、恐らくその魂は失われていたろう。──だが、かつては、その方どもの先祖にはあったものだ。ひとつの信念があったに相違ない。なくて何であんな大胆不敵ができる。生命を波濤に抛てるか。由来、この国の民というものは、故なくして生命は捨てん。いかなる匹夫でも生命の価値を知っておる。大明、高麗の各地に上陸り、珍器重宝をどんどん持って来た。だから海賊だといっている。愍れむべし、笑うべし、そんな行為はついでの仕事だ。──そもそも、その方どもの祖先には、もっとべつな熱情があった」  日頃から云いたくていたことにちがいない。秀吉は、なお云って熄まなかった。  和寇の功績を。  また、和寇の気もちをだ。見よ、八幡船の起ったところ、彼らの出生地は、みな国難のときの記憶と、体験のもっとも強かった西国や、南海の士民なることを──と。  その中には、国内に志を伸ばせない豪族のくずれもいたろう。海賊の徒党に過ぎない暴れ者もいたろう。けれど鎌倉以後の剛毅大志のさむらいもいた。現に、みずから長い旗に書いて「海賊大将軍」と名乗っていた村上なにがしと呼ぶ和寇の大将のごときは、足利氏に亡ぼされた楠家の一族だったともいう。  すでに、国を愛するがために血をながした一族のわかれが、一帆万里をこえて、国外に武を振うとき、どうしてその生命の光焔に、護国のたましいが発しられないわけがあろう。国を愛する念の出ない理由があろう。  ふかく思ってやらなければ可哀そうだ。和寇の涙を。──和寇の心を。  国外千里の異境に、名もわからず、花一枝の手向もうけず、天の星とともに黙している土中の白骨にも、いわせれば、綿々と、憂国の所以を吐くかもしれない。  事実。  室町幕府の長い時代を、ふたたび元寇の襲来もなく、外夷のうかがう眼からも防いでいたのは、幕府そのものの力でも何でもない。私設国防軍をもって任じていた、彼ら和寇の功績ではなかったか。 「みずから、海賊大将軍と唱えていたのは、事海外に関し、万一の難を、自国の外交上に及ぼすまい、愛する本国へ迷惑をかけまい、またその国家の名を傷つけまいとする──のふかい考えからと思われないこともない」  ──などと秀吉のはなしは尽きないほどだった。そして前半生を八幡船に送って来たという三名は、却って、 「はあ、なるほど」  と、ただ感じ入っているばかりである。  秀吉は、ここで話の気をかえた。 「近頃はまた大いに事情が違うて来たな。西班牙のゼビエーという宣教師が来たのは、たしか天文二十年頃とか聞いているが、以来、来るわ来るわこの日本へ。……信長公が、至極、そこのところを不即不離に、包容なさるものだから、南蛮の島々、奥南蛮の大国、西欧の諸辺から、種々な物を舶載してくる。だがゼビエーは本国へ書簡をもって云っている。──この国だけには兵船を向けて来るな。文化と宣教師は送ってもとな」  冬荒れか、船はすこし揺れて来た。寒さも痛烈に夜更けを覚えさせる。秀吉は、彼らから聞くだけを聞き、語るだけを語り尽くすと、 「寝むぞ。──そちたちはなお心ゆくまで飲んでおるもよい。旅だ、楽しめ」  と云いのこして、さっとべつな船室へはいって眠ってしまった。  内海とはいえ、沖へ出ると、かなり大きな濤音が船体を横に搏つ。  快い眠りのなかへひき込まれながらも、秀吉の浪漫的な空想の血だけはなおどこかでうずいていた。  半眠りのなかのその空想がさまざまな幻像をえがく。  茶わん屋の座敷が泛ぶ──  少年の頃だ。自分の手はひびあかぎれに腫れている。  大勢の奉公人のすみに、ちょこなんと、畏まっている自分だった。手代もいる。飯炊き男もいる。下婢もいる。  主の茶わん屋捨次郎は、美しいお内儀と、息子の於福をそばにおいて、火鉢と晩酌の膳をそばに、よいごきげんでみんなに話をして聞かせている。  それがいつでもご自慢の大明国のはなしだった。十年以上も、大明の景徳鎮にいて、支那の陶磁の製法を習んでいた人に下僕として仕えていたというこの家の主の見聞談はまた、どんなに尾張あたりの田舎しか知らない奉公人たちにとっては、驚異であったものかしれない。  けれど、誰よりも、その驚異を大きな眼と、熱心な耳で、聞き入っていたものは、その頃まだ、日吉といっていた──自分だったろう──。そう秀吉はいまなお少年の日に、胸ふくらませた鼓動を思う。  芽というものは強いものだ。きっとその生命を日光へ伸ばさずにはおかない。  考えてみると、自分の中に、夢のままで終るか実現するかはべつとして、ともあれ、一度はかならず海外の未知の地をも踏んでみたいという夢を抱いていた。  それが図らずも、数十年後、自分と同じ夢の持主とこの世で遭遇したのである。 (おまえもか) (あなたもですか)  心底を語りあってみてお互いに驚き合ったものである。日本には自分のような夢を抱いているものなど自分以外にはあるまいと、どっちも思いこんでいたからだ。その人を誰かといえば、いまの主人の信長公であった。ひとつ理想を持つ御主人とめぐり合う。こんな倖せなことがあろうかと、秀吉は真実そう思うのであった。  海外について学ばねばならぬ。徐々に、眼孔の小さい諸将にも、狭小な考え方を改めさせてゆかねばならない。 (ああ濤音がする。この濤は、大明の岸をも搏ち、南蛮の島々にしぶき、西欧の国へもつづいている。古来、この国の者は、何でこう日本の内にのみ屈曲してせめぎ合って来たことだろう。ひとり信長公に至っては、従来の英雄とすこし型がちがっていて、眼界のひろさが、けたちがいだ。かつてない文明人でもある。旧い物にはすさまじい破壊力をあらわすがまたそれ以上の建設的な情熱を持っておられる。お年は明けて四十九歳、なお、二、三十年は優に御活躍できよう。よしこの二十年に……)  秀吉は唇をむすんでほんとに深い眠りに入った。けれど彼を乗せた船はまだついそこの山陽の地へさしてゆくに止まる。しかも人生の測り難さは、この帰路の旅が、主君信長との最後の別れになりつつあるものとは、遂に、夢にも知らずにいたことであった。 中国陣  秀吉は姫路へ帰った。  帰る匆々、彼は中国総司令官として、誰よりも高いところに位置していた。  播州、但馬、美作、因幡などの占領下の諸将は、入り代り立ち代り姫路を中心に去来した。  それらの人々からの歳暮の辞や礼物を、こんどは受ける身に立つ秀吉であった。 「みなに頒けてやれ。一物も残さんでもよい」  浅野弥兵衛に命じて、彼は、その悉くを、部下の全将士に頒けて今年の労を犒らい、また来たるべき年の覚悟についてこう云い渡した。 「来年こそ重大な意義をもつ年だろう。そしていよいよ多事なことはいうまでもない。今までのいかなる年よりも急激に天下の相貌は一変し、宇内の文化も遷ってゆこう。どう遷ってゆくかといえば、旧態の破壊撃砕もほぼ一段落をつけ、なお戦いつつも建設期へ入ってゆく。ここに、新しきを創て、人文清新を競い、久しく枯田衰煙の歎きにあった民をしてみな再生のよろこびに会わしめる。それなくては信長公の多年の戦いも、ただ単に覇たるにとどまり、真の世業というわけにならん。世業とは何、私業でないことだ。国業だ。いやしくも天日の下に、剣槍を振舞い、人血を地にながす業が、かりそめにも私業であってよかろうか」  と、日頃の思いを述べ、 「しかも筑前守は、また来る年にも、各〻の血ぶるいを励まし、いよいよ剣槍を研ぐべしと叱咤するだろう。これ決して、筑前が求めるに非ず、信長公が強いるのでもない。天地の命だ、いわばわれらみな悉くこの世この国の奉公人だ、信長公はただその奉行におわし、秀吉はそのお手先の一人たり。いま筑前その任をおびて、この中国に軍をすすめ、毛利を討つも、毛利にして、時勢にあきらかなれば、抗し難きここの理に目をみひらき、旗を巻いて、われらに合体して来るべきだが、かなしいかな元就以来の毛利は、保守、排他、旧態固執、その国政は一毛利家の家計にとどまり、その奉じるところすべて私業に過ぎない。──年明くれば早速にも、わが中国陣はふたたび合戦を展開しよう。彼も名だたる強大な武門、侮り難いものはあるが、彼は私業の兵、われは世業の軍、勝つことは決まっている。必勝の進軍、間近し。初春三箇日は、大いに飲み、大いに心胆を養っておくがよろしい」  と、むすんだ。  諸将は日頃から秀吉の恬淡を知っていた。その秀吉のことばとして聞くとき初めて世業という意義に大きな感動を覚えた。ひとり毛利家ばかりでなく、総じて戦国初頭から群雄割拠しはじめた各地の豪雄英傑のあいだには、私業のみあって世業はなかった。いわんや国業とまで理想し自覚しているほどなものはほとんどなかったといっていい。  秀吉が、今までになく、麾下の将士に、こんな訓示をしたのも、こんど安土から姫路に帰ってくる途中、船中で彼自身が大いに覚ったことが要因となっていたかもしれない。  海外を考える。  それは当然、  日本を考える。  ことの始まりだからである。日本を日本だけにしか考えられない狭量と狭鼻がこの中で角逐し、この中で私業の争いを繰り返して来た群雄割拠はそれであった。それも無意義ではなかったが、もう今日に至っては、意義も理由もない。むしろ障害だ。秀吉はこう信じて来たのである。  天正九年は暮れた。  中国陣は、次の段階へ向って、春とともに、準備おさおさ怠りなかった。  明けて、天正十年。  この正月となると、毛利方の陣営へはもう挙国的な防戦気がまえが漲っていた。  山陽方面の総帥小早川隆景は、敵の総帥秀吉が、思いのほか早く、中国へ帰陣したので、彼と信長との会見に、何らかの大方針が決まったものと見、それに備えるべく、諸所の味方へ令を飛ばして、 「時やいま非常、中国の興亡この際にかかる。年暮の辞儀を廃さん。歳首の祝礼も、敢えて努むには及ばず。それただ敵に尺地寸土も辱むるなかれ──」  と、激励していた。  そして、一月の末、ふたたび檄を発して、 「備後三原に会せよ」  と、その日時を通報した。  備中高松の城主、宮路山の城主、冠山の城主──加茂、日幡、松島、庭瀬などの主要な七ヵ城の守将は、前後して三原に集まった。  隆景は、その人々に告げた。 「山陰山陽両方面とも、今日までの戦況では、遺憾ながら秀吉の精鋭の駸々たる攻勢に利があって、毛利方に戦捷があったとはいいがたい。しかも彼の兵力は年月とともに増強され、やがて十万にのぼろうとしている。そして備後境へ襲せて来るからには、宇喜多直家がその案内者たることも想像に難くない。宇喜多は多年わが毛利方の一翼だったが、利を見て信長へ款を通じた者である。これも是非なし、敵に武門の節義を売ろうというほどな者には、またその人間だけの小理窟と打算があるにちがいない。ところで、信長、秀吉からは、将来もあらゆる計策や利をもって、内々に、御身方まで味方に引き入れんと手をくだくに相違あるまい。明らさまにここで隆景は申しておく。信長へ通じたいと思う者は、遠慮なく彼に従って去るがいい。古今に例のないことでもないから、今のうちならば隆景も、さまで遺恨にはふくまぬであろう」  平常にはないことばである。  ことばそれ自体が、隆景の決意のほどを割って見せるにも余りがあった。 「…………」  七城将は、ややしばらく、黙然としていた。  そのうちに一名が、 「ただいまの御諚は口惜しいことにござります。多年御恩顧の輩を、左様に心許なき者と思し召されてか」  と、声を嚥んだ。  つづいて発言した者も、 「この期に、何の二心を抱きましょうや。大事な境目の守護を仰せつけられ、死すとも誉れと覚悟してあるのみにござります」  と、答えた。隆景は、一言、 「満足に存する」  といって、あとは馳走の酒にまかせた。  酒宴中にも攻防二様の政略やら、方針について、種々談合があった。そして、協議も酒の興も尽きると、 「この初春は諸事祝儀も一切、先の佳い年に延ばしたが、これは臨戦の門祝いである」  といって、七将の者へ、各〻一腰ずつの脇差を与えた。  七人の将は、 「御勝利の上、重ねてまた、めでたくお祝いの日にお目にかかりましょう」  と、退出しかけた。  すると、高松城の守将、清水長左衛門宗治だけは、ひとりその挨拶を欠いて、自分だけはべつなことばで、その拝領物にこたえた。 「それがしどもの持口は、たとえば洪水に当る土堤のようなもの。敵十万の怒濤は、どこを切るや分りませぬ。さある場合は、自分の持分においては、城を枕に討死あるのみです。この長左衛門には、重ねてめでたくお祝いに逢わんなどとは存じも寄りません。この御拝領はその意味で一しおありがたく頂戴して参りまする」  清水長左衛門宗治は、真を吐いた。よい加減がいえなかったのである。  といって、他の六将が、嘘言を飾ったわけではない。宗治以外の者は、ただ真がいえなかった。総帥小早川隆景に対してばかりでなく、自分の心に対して、 (こんどは必然、味方毛利側の総敗軍はまぬがれぬ)  とは、云いたくなかった。云いきれなかったのである。  だが、隆景は当然、それをみずから知っているべき位置にいた。  彼の胸心算では、 「いかによく動員し尽しても味方の兵力は四万八千──乃至五万せいぜい」  と、みている。  敵はといえば。  摂津の伊丹、花隈の二城がくずれ、大坂本願寺が滅去してから、頓に増兵運輸の利を得て、この春には、固いところ十万以上の兵力を挙げて来よう。  いや、筑前守秀吉のことだ。目安十万と見せて、十三万も、さらに十五万も、怒濤のごとく次々に送って来るかもしれない。  いずれにせよ、兵力において、すでに毛利方は、半分に足るまい。  加うるに、士気の問題だ。  いかんせん山陰山陽とも敗軍をつづけているばかりか、信長を孤立せしむべく計ったあらゆる紐帯の要所要所はことごとく彼のために破砕されてしまったかたちである。  しかもなお隆景が、 「むざとは」  と、心中に恃んでいるものは、ただひとつ、元就精神ともよぶべきものがまだ中国武士にはあることだった。  毛利元就が、本国安芸の吉田山に城を築いたとき、  ──人柱は要らず、魂柱こそ要るなれ。  といって、土台深くに「百万一心」と刻んだ巨石を埋めたことがある。このことは元就在世中からたえず藩士のたましいへ家訓としてうち込まれていたものである。  ああ、それが今、この中国の興亡のわかれ目に来て、どれほどなものをいうか、光をあらわすか、試さるる秋とはなった。  事実、智者といわれる隆景も、今日ではもう策もなかった。滔々たる中央織田の大軍と秀吉の指揮に対して、 「所詮、小策などは無益」  と、観念していた。  最善をつくし、必死で当る。  それしかなかった。また、どうしても防戦防禦を専らとするしか方針も立たなかった。  かくて、一月、二月、三月──警固おさおさ怠りなく、厳に密に、山川草木、およそ中国の土にあるものはすべてを動員して来るべきものを待ちうけていた。  一面、秀吉の方でも、着々と戦備はととのえられ、その大方針としては明らかに、  ──一挙備中に入り、高松城を占め、進んで安芸の本城吉田山に肉薄して、否やなく毛利をして、城下の盟をなさしめん。  と、いうにあった。  播磨、因幡、但馬に散陣していた秀吉の麾下は、二月中に、はやくも姫路に集合を命ぜられていた。  三月末、姫路を発したとき、その兵力は、すでに優に六万はあった。  堂々、岡山城に着く。  ここには宇喜多秀家の軍勢二万余騎がある。  宇喜多勢、先鋒を命じられ、まさに備中へ入るの態勢をとった。  その前に。 「一応は」  と、不調は承知ながら、秀吉は蜂須賀彦右衛門と黒田官兵衛とを使いにたてて、高松城の城主清水宗治に、降伏をすすめた。 「かたじけないが」  と、宗治はまず毛利家の「百万一心」の実を示してきれいに断った。ここに中国陣の戦局はついに最後の段階へ直面することとはなった。 銭と信長  わかれたその後とても、心契の主従は、何かにつけて、朝夕遠くから思いを交わしていたにちがいない。  中国陣の秀吉と、安土にある信長とは。  秀吉は相かわらず軍務のひとつとして、まめに安土へ消息を出していた。信長はいながら毛利の版図を俯瞰していた。そして、 「──彼さえおれば」  と、その方面の策略は、安心していたにちがいない。  その秀吉を、中国へ見送ってから、安土で年を迎えた信長には、新春と共に、年暮の混雑へさらに輪をかけたような多忙がめぐって来た。いや、多忙を作っていたというほうが適切である。  天正十年、壬午正月。 隣国の大小名、御近族の御衆、そのほか参賀の輩、百々之橋よりおのぼり成され候に、夥しき群集にて、築垣を踏みくづし、石と人と一つになつてくづれ落ち、死人も有、怪我人は数知れず、刀持、槍持の若党共は、槍刀を失ひ、迷惑したるもの多し……「信長公記」  正月早々、年始の客は、こんなふうに安土城へ押しかけたものとみえる。ひとりの信長へ、ひと口の年賀をのべるために、あの総見寺山の広い石段道や大手の惣門から奥へかけて、こんなにも芋を洗うような混雑を呈したとは、信長の威光というか人気というか、人心の流れ方というものの怖ろしさをさえ考えさせる。  もっとも、人死にすらあった程だから、ことしの年賀は、特に異例で、毎年こんなことがあったわけでもあるまい。  どうしてこんな騒ぎになったかというと、信長が、除夜の晩に、 「元日の年賀客は、誰彼を問わず、ひとり百文ずつの礼銭をとれ。めでたく新春に会い、今日を無事に過ごし、信長に謁して賀を述べられる冥加として、百文ぐらいな年賀税は徴してもよろしかろう。──堀久太郎、蒲生右兵衛、ふたりして明日は奉行せい」  と、いいつけたことに起因する。  それだけでなく、信長は、 「年賀税をとる代りに、日頃人々には開かぬ城中の秘閣深殿をあけ放ちて、悉く見物させてつかわすがいい」  と、開放を免したからだった。  人気といえば、これも人気を喚び起した原因といえよう。  すでに、数日前から、安土の町々に旅舎をとって、待ちかまえていた大小名や、或いは、有資格者の町人、儒家、医師、画人、工匠、あらゆる階級のものから、大小名の家中も挙げて、 「きょうの折をのがしては」  と、いちどに山へさして来たから堪るべきわけはない。人死にまで生じるような満山の大混雑となってしまった。  だが人々はそれだけの値打もあったと後悔はしなかった。  まず総見寺毘沙門の舞台から見物し、表之門から三之門に入り、御殿主から白洲まで来て、ここで、御慶を申しあげる。  ──といっても、人浪に揉まれるし、後から急がれるし、肝腎な信長の顔もすがたも見えはしなかった。ただ、 「あれが三位信忠卿」 「今、向うへ行かれたのが、織田源五様」 「こちらを見て、笑っていらっしゃるのが、北畠中将信雄卿ではないか」  などとせめて一門の歴々を、遠くから望む程度で満足し合っていた。  いや、一般の者が、満足もこえて、感激にひれ伏したのは、はからずも、この安土城のうちにかつてありとも聞いていなかった「御幸の間」を、この日、拝観したことであった。  安土に「御幸の間」があろうとは、一般には、きょうまで、思いも及ばなかったことである。  いつかは、主上の行幸をここに仰いでと、人知れず忠誠を心がけていた信長の用意を今知るとともに、人々は、 「こうして、恭しくも、至尊の玉座を眼のあたりに拝観するとは、一生の思い出。ありがたい極み」  と、ここへ来ると自然、雑鬧の人波もみな自発的にひそまり返って、階の下、廊の陰など、思い思いに額ずき合った。  こうして、年賀の群集は、次々に殿中の座敷を見物して歩いた。狩野永徳のふすま絵に佇み、繧繝縁や高麗縁の畳に目をみはり、みがき立てた金壁に気もすくみ、恍惚とした心地で白洲へ降りると、 「御台所口より戻れ」  と、城士が通路を指さし、大勢の足は自然に、結いまわされた青竹垣に誘われて、御台所の側へ流れ、お厩口へあふれ出して行った。  するとそこに、思いがけなくも信長自身が、近習たちと共に、新莚の上に立ちはだかっていて、 「礼銭を忘れずに置けよ。百文ずつの礼銭をわするるな」  と、手ずから銭を受取っては、後ろへ向って投げているのだった。  もちろん無数な群集のさし出す無数の手と銭とは、とても信長ひとりでは受けきれない。堀久太郎の部下や、近習も、手伝い手伝い受けてはうしろへ投げている。  けれど、群集の心理は、必然、信長の前へ前へと押して来た。わずか百文の税を、信長に手ずから受取って貰えるなどは、これも一代の光栄、この後はないことと思うのであった。  こうして信長のうしろには、またたくうちに、銭の山が幾つもできた。それを足軽組の者がすぐ叺につめ込んだ。そして叺詰の銭は間もなく奉行の手から城下の役所へ下げ渡され、安土の町々に窮民を尋ねて、この正月をぽかんとしていた貧民を戸ごとに賑わした。  そうして裏町の隅々まで、この正月には飢えている顔はない、と想像することも、信長にとってはやはり一つの愉楽だった、自己の正月を大らかにするものだった。 「どうだ、年賀税は。おもしろいことだったろう」  堀久太郎に向って、彼はあとでそう誇った。  久太郎は、初め奉行を命じられた時、かりそめにも天下の覇者右大臣家たるものが、そんな平民的な真似を遊ばしてよいだろうかと案じていたが、民衆の声は、まったく自分の憂いとは反対なものであったので、 「実に、結構な思いつきでした。参賀の人々も生涯の語り草と大よろこびですし、お礼銭のお施しをうけた窮民たちは、うわさを聞きつたえ、これはただの銭と違う、右府信長様のお手にふれたものだ、ただ費やしては勿体ない、これを資にし、来年の正月までには、困らぬようにしよう……左様にみな申しおりますと、役人どもまで歓んでおりました。かような善事は、来年の正月も、また次々の年頭にも、吉例といたしてもよいかと存じまする」  と、口を極めて称えた。  すると信長は、存外、すげなく首を横に振って、 「二度とはいたすまい。窮民どものよろこびも、それに狎れさせたら、それは却って、政を執る者の科となる」  といった。  この正月半ば、森蘭丸は、お使いに派遣されていたが、公務を果して、岐阜の城から帰って来た。 「もどりました」 「於蘭か。大儀だった」 「岐阜の御金蔵の鳥目一万六千貫、のこりなく束ね直して参りました」 「そして、蔵出しのこと、中将へも、委細頼みおいたか」 「はい。お旨のとおりに」  信長は満足そうに頷いた。  織田中将信忠の岐阜城へ、蘭丸が使いした用件というのは、かねてそこの金蔵に入れておいた巨額な金が、年久しく山積みのままになっているので、信長が、 (さだめし鳥目の束ね縄もみな腐っていよう。一切縄を改めて束ね直して来い)  と、命じたものである。  土蔵の中の金の縄目は何年ぐらいで腐るものか──までを心得ている信長に、蘭丸は心の底から、 (ひとは御主君の軍略の才のみ知って、経済的な御頭脳は余り認めないが……経済といわず、この君に対しては、秘か事は少しもできない)  と、つくづく畏れた。そしてそういう驚嘆に出会うたびに、母の妙光尼のなした過去の過ちが案じられ、鈴木重行を家中に匿っていると聞く明智光秀の一挙一動が心懸りになるのだった。  とはいえ、それは蘭丸一箇の心の影である。或いは、幻に過ぎないほどな、思い過ごしかも知れない。ここでの問題はおのずからちがう。  彼の使いの用件を聞くと、はしたない奉公人の末は、 「さすがに、吝い御大将。お目のつけどころが偉い。またそれへ蘭丸とは、打ってつけのよいお使い」  などと陰口し合ったが、やがてその後、もっと深い事実を知ると、彼らは、自分で自分の口を抓らずにいられなかった。  いったい信長には、その豪放と派手気に似合わず、本性は吝嗇なのだという評がよく世間に撒かれていた。また実際、その例ともいえるようなことを挙げればいくらでもあった。  ──で。いわゆる召使い根性から、今度の金の縄直しの件も、さっそくその口吻で囁き合ったわけだが、なんぞはからん、その後伝えられたところによると、岐阜城の金は間もなく、続々金蔵から搬出されて、世の陽の目を見ているという。  しかも、その金はみな、陸輸海運などで、みな伊勢へ送り出されていた。  思い合わすと。  伊勢大神宮は、ここ三百年このかた、遷宮の執り行いもなく、神廟の荒れようは畏き極みであったし、国家的な神事も久しく断えたままになっていたので、信長は、新宮御造作のことを思い立ち、昨年来、すでにそれに着手させていたのであった。  その御費用として、新宮造作の奉行は、およそ千貫という額を予算して、年暮に差し出したところ、信長は、 「さきに自分が勧進した、やわたの八幡宮の造営も、予算三百貫というのが千貫をこえた。このたびはわけても伊勢の御事、三倍はおろか数倍も要ろう。御費用を切りつめるな」  と、いって、かねて有事の備えにとしてあった岐阜蔵の金子をそれに捧げたのである。信長のケチはこうしたケチだった。彼は、武人銭を愛すという誹語に対して、みずから恥じない信条を持っていた。 南蛮学校  一月も半ばを過ぎた。松や竹も除れてから安土の市民は気がついたのである。 「何じゃろ。たいそう荷を積み込んで、毎日よく船が出て行くが?」  その船は、例外なく、湖南から湖北へ行くものだった。  と思うとまた数千俵の米が、陸路を車馬で蜿蜒の列をなして行く。  それも湖岸を北へ北へと流れた。  安土の殷賑は二十日正月を過ぎても衰えは見えない。旅客の往還と、参府帰府の諸侯は相かわらず繁しいし、街道にお使番の早馬や、他国の使臣の寛々たる歩みを見ない日もなかった。 「瀬兵衛。参らぬか」 「どちらへです」 「鷹を放ちに」 「何よりの好き。ぜひお供仕りましょう」 「三助も来い」  浅春のひと朝だった。  信長は安土を出た。供の衆は前夜からきまっていたが、ちょうど参り合わせた中川瀬兵衛を誘い、また池田勝三郎信輝の子、池田三助も供に加えられた。  お鷹八据を八人の鷹匠にすえさせ、供の近習も多くは騎馬で、愛智川の近くまで遠乗りをかねて出かけた。信長の好きは、騎馬、角力、放鷹、茶道といわれているくらい、狩猟は趣味のひとつだった。 毎日ノ御鷹野、御辛労申ス計リモナシ。御気力ノ強サ、諸人感ジ申ス也──勢子衆ト供ニ御狂ヒアリテ、御気ヲ晴ラセラル。  祐筆もこう記している。勢子や弓の衆はためにへとへとになるのだった。趣味といい余技といえば消閑のなぐさみに聞えるが、茶の湯にせよ何をやるにせよ、彼のはそんな生ぬるい沙汰ではなかった。  たとえば、相撲にしても、それを安土で観ようとなると、江州、京都、浪華そのほかの遠国からも千五百人からの相撲取をあつめて興行したりする。諸侯、群集と観覧のあげく、日が暮れてもまだ飽きないで、家臣の内から幾組も土俵にのぼせ、 (堀久太郎と蒲生忠三郎。ふたりして相撲え)  と、組合わせを命じたりしている。  忠三郎とは、後の蒲生氏郷。久太郎とは音に聞ゆる堀秀政である。こういう一世の人物や勇将を端的に土俵へあげて闘わせて観る愉快さには、またべつな興味もあったに違いなかろうが、ともかく兵馬倥偬のあいだにあっても、彼は天放快活に遊ぶ日はよく遊んだ。その遊びにも天下の事を成す気宇をあらわしていた。  だが、この正月の愛智川行は、至って簡素だった。そして放鷹もあまりせず、ほんの野駈程度にすまし、携帯の茶の湯道具を取り出させて野立てで一服のんだりしてすぐ帰りを命じた。  ところが、この日、信州木曾の一族の苗木久兵衛という者が、供も連れずただ一名で、ここへ信長を訪ねて来ている。信長は、久兵衛の手から書簡を受け取り、一読すると、 「義昌、他お身内の意嚮、たしかに信長承知はいたしたが、然るべき人質など、安土へ送り来ぬうちは、否とも応とも、即答いたし難い」  と、答えて、後のことは、家臣の菅屋九右衛門とよく談合したがよいと云い残して去った。  きょうの鷹狩は、ここで木曾の使者と落ち合うことが主要な目的であったかもしれない。彼の帰途を追って、やがて菅屋九右衛門が追いついて来ると、すぐ鞍側へさし招き何事か小声に聞き取った上、 「そうか。ウウム、そうか」  と、満足そうに幾たびもうなずいていた。  その時の帰り途である。鷹狩の列は安土の町へ入って来た。──と、信長は駒を停めて、木立の中の異国風な建物を振り仰いだ。  そこの窓から提琴の音がながれて来る。彼は急に馬を降り、従者の一部だけを連れて門内へ入って行った。 「右府様のお立寄りですぞ」  先に駈け出していた池田三助が扉を排して、階上に呶鳴った。  階段の下の廊下には、大きな裸男の彫像があった。基理蘇督の像か何か三助は知らない。三助はつい珍しげに見まわしていた。 「おう……」  牛のような声が答えた。階上からである。二、三人の宣教師があわただしく降りて来た。信長はもう家の中に立っていた。 「オオ。君主さま」  宣教師は、仰山に表情して、最大な敬意と不意の愕きを、こもごもに示した。  ここは隣の南蛮寺と共に創てられた附属耶蘇学校であった。信長も寄附者のひとりだが、高山右近だのそのほかの帰依大名が、材木から校舎の内の物まで、一切寄進して出来たものである。 「授業の模様を参観いたしたい。子供らは集まっているだろうな」  信長の望みを聞いて、宣教師たちは狂喜しながら光栄を語り合った。そのおしゃべりに関いなく、信長はどしどし階上へ登ってゆく。  狼狽を極めながら、宣教師の一人は先に教室へ走って、生徒達にこの唐突な貴賓の参観を告げた。  提琴の音がはたと止む。私語がしんと鎮まる。信長は教壇に立ってややしばしこの一堂をながめていた。 (珍しき寺子屋もあるものかな)  と云いたげな顔つきだ。教室の机や腰かけなど、悉く泰西風である。一冊ずつの教科書を各〻机の上に置き、さすがに諸侯や旗本の子弟だけに、信長のすがたを仰ぐと粛として礼をした。  十ぐらいから十三、四歳の児童が多い。中には元服前後の少年もいる。みな名門の子ではあり、華麗な欧風文明のにおいにくるまれているので、町にある日本の寺子屋とは、比較にならない花園だった。  だが、どっちがほんとの人間を薫陶するか、信長のあたまのうちでは、すでに解答はついているらしかった。故に、さして感嘆も驚異もしていない。手近な机の上から生徒の教科書を取りあげて、黙ってめくっていたが、それもすぐ生徒に返して、 「いま、提琴を弾いていたのは誰だ」  と、たずねた。  信長の問いを受け継いで、宣教師の一名が、生徒に質した。信長はすぐ察した。この教室には今まで教師はいなかったものとみえる。生徒たちはまた、それをよいことにして、西洋の楽器を弄したり、雑談したり、嘻々と騒ぎ合っていたところだったにちがいない──と。 「伊東ゼローム殿です」  生徒たちは、自分らの中のひとりへ、方々から眼をそそいだ。  信長も、その視線を辿って、十四、五歳の一少年を見出していた。 「はい。あれにおります、ゼロームでありました」  宣教師が、指さすと、その少年は真っ赤になって俯向いた。信長は、覚えのあるようなないような気がして、 「ゼロームとは、誰か。誰の子だの」  と、またたずねた。  宣教師は厳かに、子の師として、その生徒へ告げた。 「ゼローム、起立して、君主さまに、お答えしなさい」  その生徒は起った。机と机のあいだに、姿勢よく起立し、信長のほうへ礼をした。 「はい。私です。今ここで提琴を弾いておりましたのは」  言語も明晰である。眸に卑屈がない。貴人の子らしい感じがある。  信長は、その眼へ、きびしい眼をそそいだ。しかし、少年は眼を俯せない。 「おまえだったのか。提琴を調べていたのは」 「はい」 「何の曲を弾いていたのか。洋楽にも曲譜があるのだろう」 「あります。私がいま弾いていたのは、以色羅列の民が埃及を出る太闢の聖歌でありました」  少年は得意らしい。あたかも、こんな質問に答えることのある日を待っていたかのように、スラスラいった。 「誰に教わったのか」 「師父ワリニヤーニに教えていただきました」 「ああ、ワリニヤーニか」 「右大臣様にもよく御存じでいらっしゃいましょう」  少年は反問して来た。 「むむ、見ておる」  と、信長はうなずいてから、 「ワリニヤーニは、今どこにおるか」 「ついこのお正月までは、日本におりましたが、もう長崎を立って、媽港から印度のほうへ帰ったかもしれません。従兄弟からの手紙には、多分二十日頃出帆するだろうと書いてありました」 「そちの従兄弟とは」 「伊東アンシオと申します」 「アンシオなどとは聞き及ばん。日本名がないのか」 「伊東義益の甥、義賢のことであります」 「お。あの何か、日向飫肥の城主、伊東義益が一族のものか。そしてそちは」 「はい。義益の一子です」  信長は奇妙なおかしさにくすぐられた。この切支丹文化の花園に教育された小ましゃくれた美少年を見ながら、その親の伊東義益という男の、我武者な髯面を聯想したからである。九州大名の大友、大村、有馬などといい、またその伊東義益といい、西日本沿海の城下は、近年いよいよ濃厚に、南蛮色や欧風の文物に彩られてきた観がある。  鉄砲、火薬、望遠鏡、医薬品、皮革、染織類、日用器玩の類、何でも信長は迎え入れるに吝でない。わけても医学、天文、軍事に関する物など大いに欲求し熱望しているといっていい。また、それに伴う多少の弊風も仕方のないお添え物とまず大きく呑みこんではいる。けれど歯も咀嚼しようとせず、彼の消化器も絶対に拒否しているものがある。宗教と教育であった。  しかし、その二つを宣教師に与えなければ、彼らは武器も医学もその他の物も持って来ない。信長は大きな意義を文化に賭して、この安土の一区劃にも、南蛮寺やその学校を許していたが、さてこうして、心にもなくやらせている学園から、芽や蕾を持ちかけている球根や苗木を見ると、 「これでは困る」  と、ここの子弟の将来を憂い、また、 「いつまで、放漫に捨ててもおかれまい」  と、急に考えられもするのであった。  信長はそこを出ると宣教師たちに導かれて、華麗な休息室へ導かれた。そして貴人のために特に備えてあるかのような金碧燦然な椅子に倚った。宣教師たちはまた、自分らが貴重としている自国の茶や煙草などを出して、この大賓に饗応したが、信長は手にもふれないで、 「いま、伊東義益の子の申すには、ワリニヤーニはこの正月の末、日本を船出するとかいうことだが、もう帰ったのか」  と、たずねた。  宣教師のひとりが答えて、 「いえ、こんど師父が、欧州へ行かれるのは、自分の御用ではなく、日本の文化のために、御使節の御案内役に従いてゆくのです」 「使節とは?」  信長は不審な顔をした。九州はまだ彼の勢力下でない。九州の諸大名と海外との交友や通商には、彼も尠なからぬ神経をはたらかせていた。 「まだお聞きおよびございませんか。実はワリニヤーニの発案で、いちどは是非、日本の有力な子弟に、欧羅巴の文明を視ていただかなければ、真実の通商も国交も始まらないと、欧州諸国の国王、また法王までを説いて、その御承諾を得、いよいよこんど日本からその御使節を遠くお迎えすることになりました。そしてその人選にのぼった御使節の方々は、十六歳を頭にして、まだ皆、いとお小さい少年たちばかりであります」  と、それらの者の人名までを詳しく告げた。  ほとんどが、九州の大藩の子弟だった。伊東義益の甥伊東アンシオの名もその中にあった。大村、有馬の一族の子もあった。 「それは、勇ましい」  信長は、欧州の遠くへ立つという、十六歳を頭とした少年使節の行を、心からよろこんだ。  が、同時に、 「ままになるなら、その少年たちに会って、自分の精神の一片でも、餞別に語って、信念の中に持たせてやりたいが」  と、思った。  何のために、欧羅巴の諸国王が、また師父ワリニヤーニなどが、大名の子弟らを、さまで熱心に欧州見学に連れてゆくのか。文化的意志は諒解する。しかしまた彼らが最後に期している大きな野望も信長は充分に洞察している。その二つをあわせて、信長は、安土の城にもある地球儀を、いつも眺めているのである。 「ワリニヤーニは、そのため、去年京都を去る折、口惜しげに申しておりました。安土の主君様の御事を」 「ほ。……何とな?」 「安土の主君様は、いつでも御洗礼をおうけ遊ばしそうでいながらさてとなると、容易に、うんとお頷き遊ばさない。とうとうこの度も、安土の主君様に御洗礼をおさずけせずに欧州へもどるのが、ただ一つの心残りであると……」 「は、は、は。そうか。そういっておったか」  信長は、椅子を立った。そして鷹を拳にすえて後ろに立っている従者に向って、 「思わず道草した。さあ帰ろう」  いうやいな、もう大股に階段を下りて、忽ち扉の外で駒を呼んでいた。さっき提琴を弾いていた伊東ゼローム以下、生徒たちは、校庭に整列していた。 古府・新城  韮崎の新府の城は、御台所や上﨟たちの住む奥の館まで、すべて落成した。 「同じ正月を迎えるならば」  と、武田勝頼は、父祖数代の古府──甲府の躑躅ヶ崎からこの新府へ──年暮の二十四日というのに、引き移ってしまったのである。  その引越しの壮観と美麗さは、沿道の百姓たちに、この正月となっても、まだ語り草となっているほど、言語に絶したものだった。  勝頼とその簾中を始め、侍く数多の上﨟たちや、大伯母の君とか、御むすめ子とか、京の何御前とかいう女性の輿や塗駕だけでも、いったい何百つづいたろう。  一族の老武者、若武者、またお旗本やら、近習やら、それぞれのお役の者やら、金銀の馬鞍、青貝の鏤め、蒔絵の光、開いた傘、つぼんだ傘、弓とうつぼの群、鉄砲の筒の列、赤柄の槍の林……。そうして行列の果てなく続く中にも、もっとも人目を奪ったものは、武田重代の法性之旗で、 南無諏訪南宮法性上下大明神  の十三字が、真紅の布地に金色にかがやいているのと、もう一旒は、人も知る信玄が座右の軍旗としていた、紺地精好織の長旗に、こう二行の金字が記してあるものだった。 疾如レ風徐如レ林。侵 掠如レ火。不レ動如レ山  それはまた信玄がふかく心契していた道の師、恵林寺の快川和尚が筆になるものとは、どんな者でも知っていた。 (ああ、あのお旗の霊は、躑躅ヶ崎が館を捨てて行く、きょうのお引き移りを、何とも惜しんでいないだろうか)  甲府の領民は、誰もがそんな哀愁に似た感じを抱いた。そしてこの孫子之旗や十三字旗が、ここを立っては川中島へ赴き、その帰るごとに、帰って来た勇士たちも領民も、同じ感激と涙と嗄れるばかりの喊声で、迎え合い答え合った永禄前後の頃が、今は、何となく恋しく振りかえられた。  そして確かに、同じ物にはちがいないが、その頃の孫子之旗と、きょう見る孫子之旗とは、べつな物のような気がしてならなかった。  しかしまた、それらの一族門葉の車駕金鞍と共に、韮崎新府へ移されて行く夥しい重器珍宝、軍需の資材などが、蜿蜒何里のあいだ、牛車や車輌の列になって流れ行くのを見ると、 「甲州はまだ強国だ」  と、意を強うせずにいられなかった。信玄以来の自負心だけは、将士はもとより領下の者にまであった。  そうして、引き移ってからまだ間もない新府の城であったが、二月の声を聞くと、ここには古くからある白梅や紅梅がもう綻びかけ、勝頼は今も、叔父の武田逍遥軒と共に、奥の丸からその梅林のあいだを縫いながら、鶯の声をよそに、頻りと何か語りながら本丸の道へと歩いていた。 「──この正月の賀にも、ついに顔をすら見せぬ。病気というが、何か、叔父上のほうに、消息はありませぬか」  勝頼がいう。  それは、勝頼の従弟にあたる、一族の穴山梅雪のうわさをしているのであった。  武田方にとって重要な南方の要衝、駿河口の江尻の城をあずけてあるその梅雪が、ここ半年以上も伺候せず、何があっても病気と称して出て来ない心配からであった。 「いや、ほんとに病気らしく思わるる。梅雪入道は正直な男、よも仮病などではありますまい」  そういう逍遥軒こそ、亡兄信玄の気性に似もやらで、実に誰にも負けない好人物なのだから、勝頼としては、この答えに、安心しきるわけにもゆかなかった。  逍遥軒は口をつぐんだ。  勝頼もそれなり沈黙した。──が、二人の歩みだけは、黙々とつづいてゆく。  本丸と奥の丸との間には、雑木の狭い谷間がある。渓流もある。左右の崖には梅が咲きかけていた。  その谷間の橋まで来たときである。何に驚いたか鶯が一羽落ちるように、翻って逃げた。──と、同時に梅の崖から、 「お館。それにお在でられましたか。一大事です」  と、跡部大炊の子で、近習役の跡部源四郎が、顔のいろを変えて、何事か告げに来た。  逍遥軒は叱って、 「源四郎。ちと嗜みをもて。一大事などということは、さむらいが滅多に口にすべきではない」  と、いった。  若い近習に訓える意ばかりでなく、逍遥軒は、勝頼の愕きを宥めるためにもいわざるを得なかった。なぜならば日頃の剛毅にも似合わず勝頼がひどく顔色を変えたからである。  ところが、源四郎は、 「かりそめには申しません。真実一大事にございまする」  と、はや崖道を駈けて来て、橋のそばに平伏し、 「ただ今、御表へ、信濃高遠の仁科五郎様からの早打があり、木曾義昌殿、逆心の旨を、告げ参られました」  と、一息にいった。 「えっ、木曾が?」  と、愕として、疑いと、半ば、信じたくないような感情を声にして放ったのは、武田逍遥軒のほうであった。勝頼はすでに或る予感をもっていたのか、唇を噛んで、近習のすがたを見下ろしているのみだった。  逍遥軒は、容易にしずまらない胸の鼓動を、なお語気のふるえにみせながら、 「書状は。書状は」  と、早打が携えて来たはずの仁科五郎信盛の手簡を求めた。  源四郎は、答えて、 「事は、火急。寸刻も争えばとあって、五郎信盛様の御手簡は、第二の早打がお持ちするであろうとのこと。ただ今、着いたばかりのお使いは、口上をもって、右の儀を、お館へと、云い終るやいな倒れて、前後も弁えませねば、煎薬を与えてそっと休息させておきました」  まだ手をつかえている源四郎のそばを大股に通りこえて、勝頼は、うしろの逍遥軒へ、大声して云った。 「五郎の手簡など、見るまでもない。木曾の変心は、事実だろう。彼といい、梅雪入道といい、近年、いぶかしい兆候はいくらもあった。──叔父御、御苦労ながら、また御出陣ください。勝頼も参りますれば」  それから一刻と経たないうちに、新府今城の櫓から太鼓が鳴っていた。城下には陣触れの貝がながれている。梅は白々と暮れかけている山国の静かな春のたそがれを物々しげに。  発向はその日のうちだった。韮崎の夕日に焦かれながら木曾路へ向った軍馬は初め五千──夜に入ってなお一万近くも立った。 「よくぞ、彼より叛心を明らかにした。この事なくば、忘恩の賊も、討つ日はなかった。この度こそ、木曾のみか、二心ある者、悉くを、粛清して余すなく、甲軍の陣紀を一新せねばならぬ!」  抑え難き憤りもこめて、途中、勝頼はしばしば馬上でつぶやいた。けれど、彼と共に怒り、彼と共に、木曾の不信を憎む声は少なかった。  勝頼は相変らず強気である。  北条と手を断っても、 (北条、何者ぞ)  とばかり、この大きな後ろ楯の力を顧みもせず捨ててしまった。  周囲の献策で、多年、質子としていた信長の子を、安土へ送り返しはしても、心のうちではなお、 (信長ずれが、何するものぞ)  という軽視は充分に残していたし、浜松の徳川家康に対してはなおさらのこと、 (やがて、見よ)  と、いう反撃ばかりを、常に、長篠以後は殊に、誇示していた。  強気が悪いわけではない。積極の精神だ。強気は心の瓶に満々と湛えておくべきものである。わけて強者絶対の戦国ではなおさらともいえる。けれどそれには絶対に、軌を過らない文化的な省察と、一見、弱気にも似ている沈着な力の堅持が必要である。  みだりな強がりは、正しい相手を威嚇できない。むしろ逆効果を生んでしまう。勝頼の剛毅勇邁は、ここ数年のあいだに、ようやく信長や家康からそういう観察のもとに軽んじられて来た傾向がある。  いや、敵国ばかりではない。甲州の中においてすら、ややもすると、 (信玄公が御在世ならば)  という声がする。  一族、譜代の輩が、折にふれ、事にふれ、故主を慕うこころは、それだけの空虚を今に抱いている証左だともいえる。  信玄は、強力な軍国政治で押し通した。けれど、一族郎党をして、いや領民すべてのものに、 (この主君があるからには)  という絶対な安全感をもたせて、自分に頼らせきった。  勝頼の代となっても、軍役、徴税、そのほかの諸政すべて、信玄の遺法どおりに行っていたが、何か欠けていた。  勝頼には、その欠けている「何か」が、何であるか分らなかった。いや、欠けていることすら気づかない憾みがあった。  和と。中心への信頼だった。  こう二つの足らない強力な信玄政治は、却って一族の和を齟齬しはじめた。ひいては、信玄時代には、上下一般の信条だった──甲州ノ四境ハ一歩モ敵ニ踏マセタル例ナシ──という誇りにも、 (この分では)  という危惧をどことなく抱かせるような傾きがあらわれて来た。  それが長篠の大蹉跌を境にして、顕著となって来たことはいうまでもない。あの大敗戦は、ただに甲軍の装備とか戦略上の失敗とかにとどまらず、勝頼の性格的な短所──また日常の強気に対しても、彼を柱と恃む周囲や一般が、ひどく失望を覚えて、 (勝頼公は、やはり信玄公ではなかった)  という認識を急にあらためさせたことが、後の重大な頽勢を醸す原因となっていた。  木曾福島を守る木曾義昌が、信玄のむすめ婿でありながら、方向一転を計り出したのも、 (勝頼には持ちきれぬ)  と、甲州の将来に見通しをつけ出したことに始まっている。彼は、美濃の苗木城の遠山久兵衛を介して、もう二年も前からひそかに款を安土の信長に通じていたのであった。  諏訪の高原から木曾福島へ、甲軍の部隊は、幾筋にもわかれて行った。  みな、往くときは、 「木曾勢のごとき、一揉みに踏みつぶさん」  と、大言して立った。  けれど、日を経て、諏訪之上原の本陣へ聞えて来る戦況は、一として、武田四郎勝頼父子に、会心の笑みを刻ませたものはなかった。いや、会心の笑みはおろか、 「なかなか、木曾も頑強です」 「福島の嶮岨を擁し、難所に奇計をもうけ、お味方の先鋒もまだそれへ近づくだに、よほど日数を要するものと見られます」  など、捗々しくない戦報ばかりであった。 「自身、その場へ、臨まぬことには──」  勝頼は、聞くごとに、唇をかんだ。彼の性格にあるものが、旺んに忿懣し、じりじりと埒のあかぬ戦況に業を煮やしはじめていた。  月をこえて、二月の四日頃だった。  所詮、この程度どころでない大悲報が諏訪へはいって来た。このときの混乱と騒擾と、武田方の生色を奪った愕き方というものは、けだし信玄以来の甲州人としては覚えがない程なものであった。  諸地方からの早馬や物見の者など、いちどに諏訪口からここの陣所へ混雑して、口々にいうところは皆、次のように一致していた。 「安土の信長、織田麾下へ、急に出動の令を発し、すでに、信長自身も、江州を出たとのこと」  またいう。 「──駿河口よりは、徳川家康の手勢、関東口からは北条氏政の兵、また、飛騨方面から金森飛騨守、呼応して、いちどに甲州入りを目ざし、伊那口には、信長信忠の父子、ふた手にわかれて、はや乱入と聞えわたり、高き山に登ってみますると、東、西、南──いずれを眺めても、濛々たる薄煙が、遥かに望まれておりまする」 「……信長が! 家康が! そして北条氏政までが? ……」  愕然、勝頼は、腰をついたように叫んだ。  諜報の報告どおりに聞けば、自分の立場は、すでに袋の中の鼠にひとしい。  つい、七十日ほど前ではないか。──親切をこめて、わざわざこちらから信長の質子を安土へ送り返してやったのは。  そのとき、使いの者に、信長は何といったか。 (武田家におあずけしておくのは、わが家におくより気安う存じていたが、かくまで御養育の上、お送り返し賜わるとは、四郎勝頼の温情、寔に忘れ難い。この一事は、いよいよ両家の親和を永久にする楔ともなるであろう)  そういったというではないか。  その信長が。  勝頼は、敵の不信に、髪も逆立つような感情を示した。そしてこの感情の中には、自分を省みてみる余裕など微塵も失くなっていた。  だがまだまだ信長に対する彼の怒りは、遣り場があった。この騒然たる陣営に黄昏れの迫った頃、 「──先手の武田逍遥軒どの初め、一条右衛門大夫どの、武田上野介どのにいたるまで、夜来、各所の御陣地を捨て去り、いずことも知れず逃げ退かれて候う」  という報が入った。  もちろん木曾の前線からである。 「嘘だろう」  勝頼は、信じなかった。  しかし、その夜のうちに、かかることまで、すべて事実に相違ないことが、次々の飛報によって、否みようもなく証明された。 「何たること!」  勝頼は、罵った。 「木曾のごときは、疾くに亡ぶ家なるを、旭将軍以来の名門とて、父信玄がむすめまで嫁がせて、一族並に待遇して来たものではないか」  と、あたりの者へ云い散らし、陣営の内を檻の中の猛虎のように歩きながらなお云い熄まなかった。 「逍遥軒も逍遥軒だ。かりそめにも勝頼の叔父、一族の長老ではないか。戦陣を退いて無断、逃げ退くとはどういう料簡か。その他の奴輩に至っては、ただ不忠忘恩、いうも口の穢れッ……」  彼は、天を恨み、人を恨んだ。そして自分を恨むことを忘れていた。  そうした程、平常から暗愚な彼でもなかったが、よほど肚のできている人間でも、彼の立場に置かれたら、動転せずにいられなかったろう。いわんや勝頼の程度では無理もなかった。 「ぜひもない儀。この上は、一まず陣払い仰せ出されて」  小山田信茂やその他のすすめで、勝頼はにわかに諏訪之上原から引っ返した。さあれ何たる寂寥さだろう。二万余人と数えられた兵数が、まだ一戦も交えぬのに、旗本以下、彼に附随して韮崎まで帰ったもの四千ばかりに過ぎなかった。  悶々とやり場のない心を訴えようとしたのか、彼は、恵林寺の快川和尚を呼び迎えた。  どこまで、悲運は急に来るのか、ここに帰城してからも、彼は、かさねがさねの凶報をうけていた。それは、一族の穴山梅雪入道も明らかに離反を宣して、事もあろうに、その拠城江尻を敵に委したばかりか、徳川家康の道案内をつとめて、甲州乱入の先手にあるというのであった。  自分の妹聟にあたる梅雪までが、こう歴々と、反心を示し、しかも自分に向って滅亡を強いて来るという事実を見ては、彼も、苦悶のなかに、少しは、自己を顧みずにいられなかった。  いったい、自分のどこが悪かったのか? ──ということをである。  しかもなお、一面には、負けじたましいを、いよいよ猛くして、百方防備を命じながら、韮崎の新城へ、快川を迎えたのは、時すでに遅しではあるが──彼としてはしおらしい自省の現われであった。 「父の信玄が歿してからちょうど十年。長篠の合戦を経てよりまだ八年。どうして、かくも急激に、わが甲州の武将どもは、かつての節義を失ったのでしょうか」  勝頼は、和尚にたずねた。  対座したまま、いくら経っても、快川の方から何もいわなかったからである。 「つい十年前までの武将は、こんなものではなかった。各〻、恥を尊び、名を惜しみ、かりそめにも、主君に裏切るなどということは、父信玄の在世中、稀れにもなかったものです。いわんや一族においてをやです」  快川はなお瞑目していた。  冷たい灰のような相手に対して、勝頼はさながら火のように云いつづけた。 「しかも、その叛逆者を討ちに向った者どもまでが、皆、一戦も交えぬばかりか、主命もまたずに、離散するという始末です。これが、さしも上杉謙信にすら、川中島以南、一歩も踏みこえさせなかった甲州の一族や武将のすることでしょうか。いったい、かかる士風の頽廃は、世の中の罪でしょうか、彼ら自体が堕落して来たのでしょうか。もっとも馬場、山県、小山田、甘糟、その他の宿将の多くは老い、多くは歿し、いま残っているものは、その次代の嫡か、乃至はまた、往年の父信玄が直属のつわものとは、たいへん人間もちがって来てはおりますが……」  快川はやはり答えなかった。  この老師も老いを思っているのかもしれない。信玄とは並ならぬ心交のあった快川は、齢もはや七十をこえていよう。雪を置いた眉の下から、変れば変るものと、亡き信玄の後継ぎを眺め入っている体であった。 「老師。──事ここに至ってからでは遅いと思し召すか知りませんが、政治の布き方が悪ければ政治を。軍紀の統率がいけないなら大いに軍紀の振粛を。……勝頼は革めんと苦慮しています。老師は道友、父に訓えられたことも多大であったと聞いています。何とぞ、不肖の子勝頼にも、善策をお授け下さい。どうか、お教えを惜しみたまわず……信玄の子ぞと思し召し……ここが悪い、かく致せ、ああせいと、忌憚なくお聞かせを仰ぎとうぞんじまする」 「…………」 「では、勝頼から申してみます。父の歿後、いよいよ国防を厳にし、軍備を増強するため、河川関門の徴税、そのほかの諸税など、急に増して取り上げたのが人心を離れさせたのでしょうか」 「否」  快川は頭を振った。勝頼は急きこんで、 「では、賞罰の分明に、勝頼の落度がありましたろうか」 「なんの……」  雪眉の面がしずかにまた、横へ振られただけである。  勝頼はついに、泣かんばかりな声をして俯っ伏した。豪気強情、稀に見る自尊心の持主も、快川のまえには身もだえして哭いた。 「哭かれな。四郎どの。御身は決して不肖ではない。不孝な御子でもない。……ただお気づきあらぬ落度が一つあられた」  やがて、快川は喩した。やさしく宥めた。 「──御身と信長とを、並び立たせた今の時代が無情じゃな。所詮、あなたは信長の敵ではない。甲山は文化に遠く、信長は地の利を得たりというが、否、重因はそれではない。信長は、一戦一戦戦うにも、一令一令政治するにも、心の裡、かならず朝廷を忘れず、朝廷の奉公人をもって、武門自身の本分としておる。皇居の造営、馬揃いの天覧など、ほんの一事だが、また信長の万事ともいえる。当然じゃ。甲州ならずとも、割拠の群雄に属するものが、みな帰するところへ帰してゆくのは」  信玄に聘されて、甲斐の恵林寺に来る前の快川和尚は、京都の妙心寺に出世し、美濃の崇福寺にいたのである。  正親町天皇には、禅に御心をよせ給うこといと深くおわした。妙心寺の愚堂など幾たびか召されて宮中の禅莚に参じている。従って、朝廷に奉じる禅家一般の臣節にも、武家以上かたいものがあった。わけて快川は、こんな遠隔にありながら、去年、天正九年には、畏くも、正親町天皇より大通智勝国師の号をいただいて、特賜の天恩に感泣していた。  そうした快川の心境から、世勢の大きなうごきと、この甲州の推移をながめていると、今、勝頼の痛切な質問にたいして答え得るものは、前にいった一語しかなかった。  彼は、亡き信玄とは、心契のあいだにあったし、信玄が彼を尊崇したことも一通りでなく、彼も信玄を信じること篤く、その七周忌の偈には、故人を評して、  ──人中ノ龍象。天上ノ麒麟。  と称えたほどであるが、なお決して、その父に比して、子の勝頼を、いわゆる不肖な者とはしていなかった。  むしろ勝頼には、同情していたほどである。人が、勝頼の非をいえば、 (それは、望むが無理じゃよ。余りに親が偉すぎた)  と、答えるのが常だった。  彼として、いささかなお、不足を思うならば、もし今日まで、信玄が生きていてくれたなら、その信玄をしてその業を、甲斐一国にとどめさせず、もっと大いなる意義の下に、その大器宏才を用いさせたにと悔やまれることであった。しかし、すでにその大処に着眼して、源平時代以後の武門の割拠的存在を、皇室中心に、徐々と是正し、またみずから臣下としての、その範を身に示している信長というものの大きく中央に在る今日となっては──信玄よりなんといっても人物の小さい勝頼では、快川の嘱望はまったくなくなったといっていい。──春秋すでに去る。快川の気持だったにちがいない。  では、その勝頼をして、織田家の麾下にひざまずかせ、せめて信玄亡きあとの安全をはかろうとせん乎──これはできないことだった。新羅三郎以来の名族、また余りに宇内に耀きすぎた信玄の名にたいしても、勝頼たるものが甘んじて今さら、信長の膝下に、降を乞えるものではない。  また、それ程までに、辱も意地もない武田四郎勝頼でもない。  領下の庶民の間には、信玄時代の政治よりも悪くなったという声もある。重税を課されたのがその重なる原因とみられる。けれど快川がみるに、勝頼は決して、自分の贅や驕りのためにそれをしたのではない。悉く軍事に向けているのである。武器、戦法、あらゆる文化も、中央はもとより四隣の国々まで、ここ数年間に、長足に発達し、銃器火薬の購入だけでも、信玄時代の支出程度では、到底それらの国々と伍しては行かれなくなっていた。 「お身を大事になさい」  快川はやがて辞しかけた。 「はや、御帰山ですか」  勝頼はなお問いたいことを胸いっぱい抱いていたが、松籟颯々、呼びかけても、答えは同じものしか聞かれないことを察して、 「これが、最後のお別れやも知れません」  と、両手をつかえた。  快川も、数珠をまとった指を、下について、 「おさらば」  と、いった。否とはいわずに帰り去った。 高遠城 「いざ、甲山の春を探って、桜を狩り草を摘み、帰路は東海に出て、富士見物などして来ようか」  出陣のことばに、信長はこんなことを云いながら、安土を立った。  こんどの甲州入りには、充分な勝算があったらしく、どこか悠々たる門出だった。  二月十日、すでに信濃に入り、伊那口、木曾口、飛騨口などの手配を終る一方、関東方面には、北条家を促し、駿河方面からは、同盟国の徳川家康に、進撃を催促していた。  姉川、長篠の戦いなどの時からみると、こんどの甲州討入りは、まるでわが畑の物でも採りに行くような信長の落着きぶりであった。  もう敵国の中に、敵ならぬ味方がいた。苗木城の苗木久兵衛も、木曾福島の木曾義昌も、彼の旗を、ひたすら待っていた者に過ぎない。  織田信忠、川尻与兵衛、毛利河内守、水野監物、滝川左近などの岐阜から岩村へ入った軍勢など、その行くところ敵なしという有様だった。  武田方の砦々は、風を望んで降ってしまい、武田一族が守るところの松尾城も飯田の城も、夜が明けてみると、空城になっている。 「伊那口方面は、ほとんど支える敵もなく進んでいる」  こういう聯絡をうけた木曾口方面でも、 「これでは何やら物足らな過ぎる」  と、将士のあいだには、こんな談笑さえ交わされていた。  この手の軍勢は、二月十六日頃、鳥居峠へかかっていた。そしてここで埋伏の味方、苗木久兵衛父子の兵と合し、奈良井附近ですこしばかり敵の抵抗もあったが、小合戦で終り、敵の遺棄死体四十余名を葬ったに過ぎなかった。  馬場美濃守信房の息、昌房のたてこもっていた要害深志城も、またたくまに陥ちてしまい、これへ迫っていた織田長益、丹羽氏次、木曾義昌などの合流軍も、燎原の火のように、次々と甲州の外廓を攻めつぶして進んだ。  勝頼の叔父逍遥軒すら、伊那郡の一城をすてて逃げたほどである。一条右衛門大夫、武田上野介、同左馬之助などが、旗を巻いて、行方を晦ましたとて怪しむにあたらない。  何がかくも、彼らを脆くさせていたのか。原因は複雑ではあるが、また簡単にいえないこともない。  ──こんどは甲州も保てぬ。  悉くの武田方が、いつのまにか必敗を観念していたのだった。或いはむしろこの日の来ることを待っていた傾きさえあったのである。  だが、こういう時、たとえいかに必敗を知っていても、 「ここに我あるを知れ」  という侍らしい侍が現われない例しは古来からなかった。  信州高遠の城にあった仁科五郎信盛は、まさにその人であった。信盛は、四郎勝頼の弟でもある。  そこまでほとんど、一気に席巻して来たので、織田信忠は、 「これも、およそ」  と見込みをつけ、一書をしたためて、弓勢の強い一武者に、矢文として、搦手の山から城中へ射込ませた。もちろん勧降状である。  すると、城中からは、すぐ返書が来た。──芳札披閲ソノ意ヲ得候──という起筆から堂々とした文面で、終りには、 当籠城ノ衆ハ、一旦身命ヲ、勝頼方ヘ武恩トシテ報イ居リ候ヘバ、臆病ナル輩ニハ準ズベカラズ、早々御馬ヲ寄セラル可候。信玄以来、鍛練ノ武勇手柄ノ程、御目ニ懸ケ可候。恐々謹言  と、墨匂わしく覚悟のほどが答えてあった。  信長の命をうけている中将信忠である。しかも若い。 「よしッ、その分ならば」  と、強襲を命じた。  搦手之口、大手之口から、寄手はふた手にわかれて城へ攻めかかった。  初めてここに、戦らしい戦が見られた。仁科信盛以下、城兵一千余は、もちろん死を期してのことだ。さすがに甲州武者の武勇はまだ廃っていない。  二月から三月初めにかけて、高遠城の石垣は、攻守両軍の兵がながす碧血に塗られた。濠際半町を隔てて結い廻してあった第一柵も突破され、濠も石や草や土木に埋められ、寄手は駈け渡って来て、敏捷に石垣の下にへばりつく。 「うぬ」 「来てみろ」  上の土壁や築土越しに、恐ろしい敵の目が無数に覗き下ろす。そして槍を出す、岩石を落す、油をぶっかける、材木を転がして来る。  石と共に、材木と共に、また汚水のしぶきと共に、寄手の兵は、石垣の七分目、八分目まで攀じのぼって来ては墜ちてしまう。  しかし、陥ちた兵ほど、勇敢だった。陥ちてもなお意識があるのは、すぐ刎ね起きて、また、 「何を」  と、石垣へ取りつくのである。  その兵のすがたを見た兵は、その敢然たる勇姿へわっと声を送り、後から後から負けじと攀じのぼる。そして墜ちてはまた繰り返し、墜ちては石垣にとりつき、奮迅のまえには何ものもない。  しかし、守る方にも、決してそれに劣らない一致と死力がある。  土壁、築土、櫓などから、半身或いは全身を曝して、それへ応戦しているのは、城中でも逞しい甲州武士のみで──寄手の側からは知れなかったが──一重城壁内の活動を見るとすれば、そこにはさらに涙ぐましい全城一心の奮戦ぶりがあった。  籠城と同時に、ここへ避難して将士と共にたてこもった無数の家族、老いたるも幼きも、女も、そして身重の妊婦までが、悉く、防備の何かを手伝って、必死に働いているのである。  若い女は、矢を運び、老人は焼けついた鉄砲の掃除をし、また傷負いを扶けたり、兵糧の炊ぎに働いたり、どこもかしこも混乱沸くが如き騒ぎを呈しておりながら、しかも誰が命じるでもなく、一すじの秩序はその中にきちんと立っていて、愚痴めいた顔一つ混じってはいなかった。 「所詮、急には陥ちますまい……。いかなる犠牲も惜しまずと申すなればべつですが」  寄手の一将、河尻肥前守は、中将信忠のまえに出て、余りな力攻めの無理と、過大な犠牲をここで払うことの非を説いた。 「ちと、討死負傷が多すぎたな」  信忠も、反省しているのである。肥前守は舌を鳴らしていった。 「しかもまだ、あの通り、城は、頑然たるものです」 「策はないか。何か、良策は」 「思うに、城兵の強味は、まだ新府には勝頼ありと、信じているからでしょう。──ここを一まずおいて、先に甲府、韮崎を攻むるのも一策ですが、そうするには全体的な作戦がえを要します。……もっともよいのは、新府の落去、勝頼の死を、城方へ信じさせるにありますが」  信忠は、うなずいた。  三月一日の朝だった。寄手から射込んだ二回目の矢文が城内に落ちていた。 「児戯にひとしい偽文、攻めあぐねた寄手の顔を見るような」  仁科五郎信盛はそれを読んで笑った。  矢文には、こう書いてある。 去ヌル二十八日、甲館落去、勝頼殿ニハ生害アリ。一門ノ面々ニモ或ハ殉ジ或ハ降人トナリ、甲州中府スデニ定マル。 片々一地方ノ一城ニ過ザル当城ニ於テ、武門申シ立テアルモ既ニ意義ナカルベシ。早々、城門ヲ開カレ、本領ノ安堵ヲコソ計ラセ給ヘ。 織田中将信忠、情ヲ叙ベテ、敢テ勧ム。 「甘いものだな。見え透いたこんな小手技を、兵法とでも思うているのか」  その夜、五郎信盛は、小宴をひらいて、家の子郎党たちに、その書を示し、 「もし、これに意をうごかす者があるなら、遠慮はない、明夜までに、裏谷からこの城を落ちて行くがいい」  鼓を打ち、謡を微吟し、いと楽しく夜を更かした。  その夜に限って、各侍大将の妻女たちも召しよばれ、一巡り杯を賜わった点などから、一同は早くも、 「こよい限りのお胸であるな」  と、直感していた。  果たして、翌二日の朝、五郎信盛は、大薙刀を杖ついて、左の太い足に、草鞋をくくりつけ、その片足を引き摺り引き摺り城の多門まで歩いて来て、 「昨夜来、なおこの城にふみ止まり、今日をここに待ち合わせたる人々は、一同、この下に集まり候え」  と、命じて、自分は多門の上へ登って行った。  やがて、床几を置かせて、多門の上から彼が見まわすと、城中の老幼婦人をのぞいた精鋭の将士千人足らずの人数は、ほとんど一名も減っていなかった。 「…………」  黙祷でもしているように、彼はしばらく頭を下げていた。──御覧ぜよ、なお甲軍にはこういう者もおりますると、父信玄の霊に念じているのであった。  やがて、面をあげた。きっと全軍をそこから見ていた。  彼は、兄の勝頼のように、豊頬美肉の男子でなかった。長く田舎暮らしの質素に甘んじていたので、何の贅食も奢侈も知らない。颯々と山野の風に育って来た若鷹のような眼ざしを備えていた。  生年三十四歳、父信玄に似て毛ぶかく、眉は長く、唇は大きい。 「さてきょうは、雨かとも思うたが、一天は晴れわたり、遠山の桜も見え、死ぬには佳すぎるほどな日和となった。とはいえ、われら何ぞ、浮雲の富をのぞんで名を捨てんや。……ただ五郎信盛、一昨日の防戦に、見るとおり片脚に深傷を負い、進退もままならぬゆえ、まず、各〻が最後のいくさを見とどけた後、悠々と、ここに敵を待ちうけて存分合戦の後まいるぞ。──いで、大手、搦手を押し開いて、雄々しき山桜花の散りぶりを見せよ」  その朝の彼のことばだった。  おう、おうッ、と答えあう声の嵐、口々に、畏まって候うと呼ばわり猛ぶ武者たちの人渦。そしてみな顔は、多門の上なる主人のすがたを仰いで、今を見納めぞと、しばしは同じ声のみを繰り返していた。  死ぬか生きるかでなく、絶対にこれは死の一途であった。  城の門は、城中の者の手で、敢然と、大きく開かれ、千余人の将士は、喊の声をあげて斬って出た。  大手の一門と、搦手の一門から。  寄手の備えは、その第四陣まで突きくずされた。  一時は、織田信忠のいる中軍すら、危うくも、混乱しかけた。 「退けや。出直せ」  と、城方の侍大将、今福又右衛門は、頃を計って、城中へ迅速に退いた。  小幡周防の隊、春日河内守の隊なども、今福隊に倣って、 「帰れ帰れ」  と、引っ返す。そして、各〻、獲た首をかぞえては、多門の上の主君に見せ、 「湯など一杯飲んで、また出直します」  と、悠々たる意気を示した。  こうして、大手、搦手とも、一休みしては駈け出し、斬り崩してはまた引き揚げ、大波の寄せ返すような激戦を繰り返すこと六度、首を獲ること四百三十七級──その日もはや暮れなんとして──ようやく味方の人数にもめっきり減りが目立ち、残る人々もすべて満身創痍を負って、恙なく歩いている人影はほとんどなかった。  パチパチと生木の焼けいぶる響き。ごうごうと炎の迫る音。すでに寄手は、ここかしこから、城中へなだれこんでいた。  仁科五郎信盛は、なお多門の上にいて、味方の最期を──その一人一人の働きまでを──眼じろぎもせず見とどけていた。 「殿ッ。殿ッ。──いずれにおわすか」  家中の小菅五郎兵衛は、多門の下を駈けめぐっていた。信盛は上から、 「これにおる」  と、健在を知らせ、ようやく近づいたな、そちの顔も見せよ──と下をさし覗いた。  五郎兵衛は、煙の上に、主君の影を仰ぎながら、 「小山田備中どのを始め、お味方の将士、あらましは早お討死です。殿にも、御生害のお支度を遊ばしますように」  と、喘ぎ喘ぎ告げた。 「五郎兵衛、ここへ登って来い。──介錯に」 「はッ。ただ今」  大きく上へ答え、五郎兵衛はよろよろと、多門の階段の方へまわって行ったが、いつまでも楼上へは来なかった。いたずらにそこの梯子口からは、刻々と、濃い煙が昇って来るだけである。  信盛は、べつな狭間の板扉を押して、覗いてみた。もう下に見えるは敵兵ばかりだった。──がただ一人、その大勢の中に奮闘している味方がある。しかも薙刀を持った女性であった。 「あ。諏訪勝左衛門の妻が……」  信盛は、いますぐ死ぬ身なのに、ふと抱いた意外な感を、解こうと努めた。 「日頃、ひとの前では、薙刀を持つなどはおろか、口すらよう得きかぬほど、内気なあの婦人が……」と。  しかし、彼自身、今はすることが迫っていた。そのまま、狭間から大声あげて敵へ云った。 「信長、信忠の手勢ども、しばし常に返って、虚空の声を聞け。この世の千年も歴史では一瞬。信長いま覇を誇るも、散らぬ桜やあらん、燃えぬ覇城やあるべき。──永劫、散らず、燃えず、不朽のものとは、どんなものかを、いま見せてやる。信玄が五男五郎信盛が見せてやる」  織田兵がそこへ登って来てみた時は、腹十文字に掻っ切った死体のみで、首はもうなかった。そしてここも一瞬のまに春の夜空を焦がす火柱と化った。 春騒譜  新府韮崎城の混雑は、この世の終りを叫んでいるようだった。 「はや高遠も陥ち、御舎弟信盛様以下、城とともに、悉くお討死の由にござります」  こう家臣から聞いたとき、武田四郎勝頼も、動ぜぬ顔色に受けて、 「ううむ、そうか」  とはいったが、さすがに、いまは自分の力の及ばないことを、明らかに観念した容子であった。  つづいて、次の早打には、 「織田中将信忠の兵は、すでに上諏訪から甲斐へ乱入──御被官の一条右衛門大輔どの、清野美作どの、朝日奈摂津どの、山県三郎兵衛どの御子息など、戦うも降るも、容赦なくこれを殺し、斬っては路傍に梟けながら、潮のごとくこれへ近づきつつあります」  またの飛報には、 「信玄公のお血すじたる盲人の龍宝法師も、敵の手にとらわれ、敢えなき死をおとげなされた由」  と、聞えて来た。  そのときこそ勝頼は眦をあげて罵った。 「無慈悲な織田勢。盲人の法師に何の罪やある。何の抵抗力があるかッ」  しかし彼は自分の死のほうが、より強く今は考えられてきた。じっと、空しい唇を噛んでは、心の波の底に、 「こういう憤りを外に出しては、勝頼、逆上せりと思われぬでもない。あたりの家臣どもにも不面目──」  と、自制しているふうだった。  神経が太い、粗いと、彼の剛毅な表面を全部に観ている者も多いが、実は、家臣にたいしてすら、細かい気をつかう勝頼であった。それにつれて、彼の節義とするところも、主人としての面目も反省も、総じて小乗的だった。  父の遺風をうけて、彼も快川和尚から、その禅義を授かっていたが、同じ師、同じ禅を学んでも、信玄のような禅を活かし得なかった。 「──まちがいではないか。高遠の城だけは、まだまだ半月や一月は支えきっていると信じていたが」  高遠陥落と聞いたときなど、こういう呟きすら洩らした程である。防戦上の誤算というよりは、人間としての未熟さを忌憚なく出している。何せい、生れながらの素質はあっても、その未完成なうちにこの時運に会ってしまったのである。  ここ数日、彼のいる本丸は、広い評定の間とそのほかの袖部屋まで、すべての襖をとり外し、さながら連日連夜の大地震でも避難しているように、一門一族、家老その他、みな起居を共にし、雑居しているのだった。  もちろん、庭さきにも、幕を張り、楯をならべ、兵は高張を掲げて、夜も寝ずに警備している。  そして、刻々の状況は、大手から中門を通り、直接庭づたいに、ここに報じられ、勝頼は、縁越しに早打の報せまで、自身聞いていた。  去年、普請したばかりの、木の香の新しさも、金銀のちりばめも、調度の美も、何もかも、今はすべてが、邪魔物、足手まといの物としか、誰の目にも映らなかった。 「お館さまには、いずこにお在せられましょうか」  かいがいしく、裳をくくしあげた女房が、侍女ひとりをつれて、御台所のお使いと称し、その混雑な庭面から、ほの暗い広間の中の人群れを見わたしていた。  それほどそこには、老若の武将がいっぱいにいて、何やら騒然と、思い思いな声をもらしていた。  彼女は御台所付きの女房で茅村の局という。やがて勝頼の前へ来て、奥の丸からのお使いという旨をこう訴えていた。 「何せい彼方の曲輪は女子のみでございますゆえ、こことは違い、泣き惑うてはただうろうろ、どう宥めても、悲嘆してやみませぬ。御台所の仰せ遊ばすには、いずれにせよ、最期はひとつ時、奥の丸の女子どもも、こなたへ共に立て籠り、侍衆とひとつにいたら、すこしは覚悟も早くつこうかとの御意にござります。おゆるしあれば御台所様のお座も、すぐこなたへお移しいたして参りますが、如何でございましょうか……」  勝頼は聞くとすぐ、 「それがよい。奥方も幼い者たちも、みな連れて、わしの側へ移って来い」  と、いった。  そのとき彼の周りには、ことし十六になる嫡男の太郎信勝だの、宿将真田昌幸、小山田信茂、長坂長閑などもいて、何か評議中らしかったが、茅村の局が立ちかける前に、信勝は、つと進んで、 「父上。それは却って、およろしくありますまい」  と、諫めた。  不機嫌に──というよりは、むしろ尖った眉、眼ざしを、子に向けて、 「なぜ、いけない?」 「……でも、女子たちがこれへ来ては、足手まといになります。悲嘆を見て、剛気な侍どもの心も乱れがちになります」  太郎信勝は若年ながら、今、一説を主張していたところである。すなわちここは新羅三郎以来の父祖の地、同じ戦うにも死ぬにも、最後の最後まで、先祖の地でそれをなすべきで、新府を捨てて奔るのは、武田家の名にかけて最大な恥辱だと云い張っていたところだった。  それに対して、真田昌幸は、 「ともあれ、四面すでに敵、甲府は盆地なので、一度敵の侵攻に会っては、湖の底にいて、水をうけるようなものです。この上は、上州吾妻へおのがれあるが然るべきでしょう。三国山脈の一端まで逃げおわせれば、四顧、いずれへ出るも国々はあり、隠るる術もあり、なおお味方を糾合し、御再起の便りもつきましょう」  と、進言していた。  小山田信茂は、また、 「上州方面にもはや、年来、甲州家に宿怨ある輩が、織田の手廻しを迎え入れて、火の手をあげ、道を塞いでいる。お館以下大勢して、無難に通れようとは考えられぬ。如かずこの上は、郡内の岩殿山にひとまず御籠城遊ばし、その上の御思案。そのまにはなお、四散したお味方も馳せ加わりましょうし……」  という献策をすすめた。  長坂長閑も、 「それがよい」  と、同意を示し、勝頼の心もほぼ傾いていたところなのである。  勝頼は、信勝にそそいだ眼を、次には黙って、茅村の局へ向けて、こう促した。 「起つがよい」 「では、ただいまのことは、御台所様のお望みのように……」 「うむ、そうせい」  茅村の局は去った。  信勝の主張はこれで父に否定されたことになった。彼は、無言に返って、さし俯向いた。  残る問題は、上州吾妻へ遁れて行くか、岩殿山方面にたて籠るかの二つだった。しかしそのいずれにしても、この新府を捨てて亡散することは、もはや勝頼の心にも宿将の胸にも、避け難い運命と諦められているもののようである。  三月三日。毎年のようならば、桃の節句に奥の丸に華やぐ日を、勝頼の簾中一門の老幼は、黒煙に追われながら、新府の館を捨てて落ちた。  もちろん勝頼も城を出た。附き従う侍たちも残らず城外へ出た。けれど勝頼はその総勢を顧みて、 「これだけか」  と、唖然たる顔をした。  宿老の面々をはじめ一族の典厩信豊までが、いつのまにかここに姿がない。聞けば今朝暗いうちからの混雑に乗じて、各〻郎党を連れて、自分自分の在所や城へ遁れ去ってしまったというのである。 「太郎。いたか」 「おります。──父上」  十六歳の太郎信勝は、孤影の父に寄り添って、共に駒をならべていた。  そのほかは旗本から平侍や足軽までを合わせても、千人には足りなかった。しかも夥しい数は、簾中以下上﨟たちの塗駕や輿や、被衣姿や徒歩、駒の背などの傷々しいものの数であった。 「おお、燃ゆるわ」 「焼け旺ることよ」  未練のふかい女たちの群れは、韮崎を離れて十町も来ると、歩みもやらずみな振り向いた。  朝の空に、火焔と黒煙を高く挙げて、新府の城は今し焼け落ちようとしている。ちょうど明け方の卯の刻頃(午前六時)にみずから放けた火であった。 「長生きはしとうない。何たる末を見ることぞ。これが信玄公のお家の果てか……」  勝頼の伯母君とよばるる尼や、信玄の孫むすめという可憐な乙女や、一門の妻女やその召使の女たちなど、みな簾中の乗物にとりついて泣き沈むやら、抱きおうて嘆くやら、また幼子の名を呼び交うなど──金釵環簪も道に委して顧みるものなく、脂粉や珠玉も泥土にまみらせて惜しむ眼もなかったという──長恨歌のうちにもある漢王の貴妃との長安の都を落ちる状にも似て、道はすこしも捗らなかった。 「いそげ。──何を哭く。──人の世のつね。百姓たちの見る目も恥ずかしいぞよ」  勝頼は、励まし励まし、遅れがちな駕籠や輿に入り混じって、東へ東へ、逃げのびた。  小山田信茂が城を恃んで、甲府の旧館もよそに見ながら、山へ山へと、めざして行くのである。その間にも、輿を担う凡下は姿を消し、荷を持つ小者や駕籠の者も次々に逃げ去り、いつか人数は半分に、またその半分に減ってしまった。  勝沼辺の山中へ来たときは、二百人ほどの総勢のうち、騎乗の武者は、勝頼父子を入れても、わずか二十騎足らずという、あわれな変り方を見せていた。  しかも、ここまで唯一の恃みとして来た小山田信茂は、勝頼主従が駒飼の山村にまで辿り着くと、急に変心して、 「ほかへお立ち退き候え」  と、笹子の嶺道を切り塞ぎ、勝頼らの来るのを拒んだ。  勝頼父子をはじめ、一同ははたと当惑した。ぜひなく道をかえて、田子という部落まで遁れてゆく。ここは天目山の山裾という。春は撩乱だが、見はるかす限りの野も山も今わの慰めにもならなければ頼みともならなかった。そして今はわずか、四十四、五人となり果てた末路の人々は、途方に暮れている勝頼ひとりをなお杖とも柱とも恃んで、ひと所に寄り添うたまま、茫然と、吹く山風の中に佇み合った。 天目山  織田徳川の聯合軍は、はやくも甲州内へ怒濤のごとく入って来たと、この辺の土民までが云い合っている。  家康の軍は、穴山梅雪を案内として、身延から文殊堂を経、市川口へ。また織田信忠は、上諏訪に進攻し、諏訪明神そのほかの諸伽藍を焼きたて、沿道の民家までも黒煙としながら、残兵を狩り立てつつ韮崎、甲府へ向って夜も日もなく急進して来るという。  ついに、最後は来た。三月十一日の朝である。 「織田勢の先鋒、滝川左近、篠岡平右衛門などの兵が、はや近くの村々に入りこみ、ここにお館以下御一門がおわすことを里人から聞き知ったらしく、遠巻きに通路を断って、やがてこれへ押し襲せて来るらしゅう見うけられます」  これは、ゆうべから里へ出て、敵の情勢をさぐって帰った勝頼の側衆小原丹後が息喘いて今朝告げて来たことである。  ここ数日、勝頼父子をめぐる残余の侍四十一名と、簾中上﨟たち五十人の一群は、天目山のうちの平屋敷とよぶ所に、しばしの柵を結って立て籠っていたが、こう聞くと、 「今は……」  と各〻、死ぬ身支度に忙しかった。  その中に御台所の勝頼夫人は、白い花のような容顔にやや茫としてみえる現をたたえ、館の奥の丸にあるとおりに坐っていた。  よよと泣き縋ったり取り乱したりしているのは、彼女をめぐる女房たちであった。彼女らは口々に、 「こんなことになるものなら、いっそ新府のお館においで遊ばした方がましであったもの。お傷わしゅう。これが武田の御簾中ともある御方のおすがたか」 「生れては、北条家の姫様として、珠のように愛しまれ、嫁いでは武田四郎勝頼様の御簾中とも仰がれた御身が……」 「まだ御年も十九というに」  などと限りない悲嘆と悲嘆を交わして、果ては人目もなく声を放って泣きみだれる上﨟さえあった。 「奥方。奥方」  勝頼は、その妻を顧みて、 「いま、小原丹後に、馬をいいつけたぞ。いつまで、これにいても名残はつきず、はや敵も麓近う迫って来たという。──ここは相模の都留郷にも近いと聞く。そなたは、はや去るがよい。山を越えて、相模の実家親が手許へ帰れ。北条方の骨肉たちは、よも悪うは計るまい」  と、急きたてた。 「…………」  夫人は眼に涙をいっぱい溜めてはいたが、決してここを起とうとはしなかった。却って、その眼は良人のことばを恨んでいるかのようだった。 「土屋。土屋右衛門。奥方を馬の背へ抱き乗せてやってくれい」 「はい」  側衆の土屋右衛門が、畏まって、夫人の側へ寄りかけると、夫人はにわかに、涙をはらって、良人の勝頼へ云った。 「まことの侍に、二君はないように、いちど嫁いだ女子には二度と帰る家などあろう筈はありません。ここからひとり立ち去って、小田原へ帰れとは、お慈悲には似ても、妻の身として聴くには、余りにお情けないおことばにござります。……わたくしはここを動きませぬ。御最期までお側におります。そしてその先までもお供をさせていただきまする」  そのときまた、秋山紀伊守の家来たちが、 「敵は間近です」 「ふもとの寺近くまで来ております」  と、眉に火がつくように注進して来た。  勝頼の夫人は、侍女たちの悲嘆を叱って、 「嘆いてばかりいる時ではない。用意のものをこれへ備えてたも」  と、きつくいった。  まだ二十歳にも足らぬこの夫人は、最期がせまるほど端正を失わずまた水のように冷静であった。  かえって、良人の勝頼こそ、その夫人の落着きぶりに、たしなめられる心地がした。 「はい……」  と立った侍女たちは、素焼の盃と銚子とを取り揃えて来て、勝頼父子のまえにおいた。  こんな物まで夫人はいつのまにか支度しておいたものとみえる。白木の三宝の土盃を、黙然と、勝頼にすすめた。  勝頼は手にとった。そしてまず飲んで、嫡子の太郎信勝にわたした。次に、夫人とも酌みわけた。 「殿。土屋の兄弟たちにも、おながれを……。土屋、この世のおわかれ、今のうちに申しあげよ」  これも夫人の心遣りであった。  近習の土屋惣蔵は、その弟ふたりと共に、実によく忠勤を励んでいた。兄の惣蔵は二十七、次の弟二十二、末の弟十九。兄弟一致して、新府落去からここまでの途々悲運の主君を守って、涙ぐましいばかり仕えて来た。 「これで、思いのこすこともありません」  いただいた盃を乾すと、兄の土屋惣蔵は、にことしながら弟たちを顧みた。そしてまた、勝頼夫妻に向って、 「このたびの御悲運は、まったく御内方の一族に、離反があったためによる。殿にも、御台所様にも、こうしておいで遊ばす間も、人の心は知れ難いものと、定めし恟々と、安きお心地もないでしょう。……が、そうした人ばかりがおる世の中でもありません。せめて、御最期の一刻だけでも、ここにいる者はみな一心同体ぞと、人を信じ、世を信じ、お潔く、また安らけく、死出のお門立ち遊ばしませ」  と、なぐさめた。  惣蔵はつかつかと起って行って、上﨟たちの中にいるわが妻の側へ寄った。突然、そこで「きゃッ」と魂切る児のさけびがしたので、勝頼が、遠くから、 「惣蔵、逆上せしか」  と、激しく叱った。  惣蔵の妻も、声をあげて泣いている。彼は、五ツになるわが子を妻の眼前で刺し殺したのであった。血刀も収めず、惣蔵は遠くから勝頼のすがたへひれ伏して、 「おなさけないお叱りです。ただ今申しあげた言葉の証に、まず、足手まといのわが子から先に、死出の道へ立たせてやったまでのこと。いずれ惣蔵も、わが君のお供して参りまする。先といい、後というも、わずか一刻……」 のこりなく ちるべき春のくれなれど さきだつはなを あはれとも見つ  面を袖に蔽うて、あわれと泣きしずみながら、勝頼夫人が口誦さむと、侍女のうちのひとりが、同じように咽びながら、 咲くときは 数にも入らぬ花ながら ちるには洩れぬ春のくれかな  と、詠んだ。そして声の終るのと共にはや幾人かは、懐剣を抜いて、われとわが手に、乳を刺し、喉を突いて、流るる血のなかに黒髪を浸された。 びゅうん── 矢唸りが近くをかすめた。 ぶすッ、ぶすッ、と辺りの土が刎ねて掘れる。 彼方には小銃の谺がする。 「来たぞッ」 「お館。御用意を」  武者たちは、総立ちになった。  勝頼は、子の太郎信勝へ、 「よいか」  と、覚悟をただした。  信勝も、一礼して、起ちあがりながら、 「お側を離れずに死にましょう」  と、答えた。 「さらばぞ」  と、父子が、駈け出そうとするとき、夫人はうしろから初めて大きな声して良人へ云った。 「お先に参っておりまする」 「……オオ」  勝頼は、立ちどまった。そしてその目に凝視した。短い刃を持って、山の端の月とも見える真白い面を仰向けたまま目をふさいだ夫人が、日頃、愛誦している法華経の五之巻の一章をしずかにその唇から唱えているすがたを。 「土屋。土屋」 「はいッ」 「介錯をしてやれ」 「……は。……はい」  しかし夫人は、その助けの刃を待たずに、自ら法華経のながれ出る唇の中へ、手の懐剣をふくんだ。  がばと夫人のすがたが、前へ俯っ伏したせつな、ひとりの上﨟が、 「御台所様には、はやお立ち遊ばしましたぞ。皆々にも、死出のお供、おくれませぬように」  と、残る人々を励まして、すぐことばの下に、自分も刃を仰いで仆れた。 「おさらば」 「いざ」  呼び交わし、さけび交わし、五十余名の女子たちは、撩乱、野分に吹き荒らさるるお花畑の花のように、或いは横ざまに、或いは俯向けに、或いは、相抱いて刺し交えに、悉く自刃してしまった。  この中に、あわれなのは、乳のみ児や、まだ母の膝を離れない幼児の泣き声だった。土屋惣蔵は、そうした子を持つ母ばかり四人ほどを、遮二無二、馬の背へ押しあげて、鞍へ縛しつけ、 「あなた方は、ここを落ちても、不忠ではない。せめてお命を保ったら、子を育てて儚い故主の御一門の御供養なとなされるがよい」  と、子供と共においおいと泣く母親を叱りつけて、それらの者を乗せた馬の三頭を、槍の柄でびしびし撲った。  馬は驚いて、母子の泣き声をのせたまま、向う見ずに駈け去ってゆく。──土屋惣蔵は、弟たちを顧みて、 「さあ、いいぞ」  といった。  そのときもう山の上へ上って来た織田方の滝川左近、篠岡平右衛門などの部下の顔はつい先の方に見えていた。  柵の際で、勝頼父子は、まっ先に敵兵の目がけるところとなって取り囲まれている。その側へ、加勢に走ろうとすると、味方の跡部尾張守が、反対な方へ逃げ腰で駈けてゆく。 「不忠者ッ」  かっとした惣蔵は、まずその方へ向って、追いかけていった。そして、 「跡部。どこへ行くか」  と、うしろから一刀浴びせつけると、血ぶるいして、今度は、まさしく敵の中へ駈けこんだ。  最後の一戦。それは武門の者にとっては、この世の名残をし尽すことだった。 「弓の代えを。土屋ッ、弓の代えを」  勝頼は、二度も弦を切って、弓を持ちかえた。惣蔵は側を離れず主君の楯となっていた。  面々、あるかぎりの矢を射尽すと、弓を投げて、長巻を持ち、或いは、太刀をふりかぶった。  当然、敵兵も、眼の前へ来た。しかし斬ッつ斬られつの白刃戦も一瞬の間でしかない。大勢はきまっている。 「おさらば」 「殿。若君ッ。おさきに参りますッ」  呼び交わし、呼び交わし、ばたばたと討死を遂げてゆく。勝頼もはや鎧を朱に染め、 「太郎ッ……」  と、わが子を呼んだが、もう眼は血にかすんでいる。うごくものはすべて敵にしか見えなかった。 「殿ッ。惣蔵めは、まだおります。お側におりまする」 「土屋か。敷皮を持て。はや……生害をせん」 「こなたへ行らせられませ」  土屋惣蔵が肩をかす。勝頼は彼にすがって、約百歩ほど退いた。  敷皮の上に坐る。矢瘡、槍瘡、すでに手がきかない。急ぐほど、手はみだれる。 「御免ッ」  見るにたえず、惣蔵はすぐ介錯した。そしてわが刃に落した主君の首級にとびついて、それを抱えると男泣きに号泣した。 「弟ッ、弟ッ」  十九の弟にそれを渡してお首を持って逃げろという。けれど弟もまた泣いて、どうしても嫌だという、兄と一緒に死ぬという。 「ばかッ。行け!」  突き飛ばしたが、すでに遅い。兄弟のまわりは敵兵の鉄桶と化っている。無数の槍と刃のしぶきをかぶって、土屋兄弟は、華々しい死を果した。  中の弟の二十二歳になるほうは、終始、主君の嫡男太郎信勝の影身にそい、この若い主従も、同じ頃、討死していた。  太郎信勝は、よほど美しかったとみえ、武田一門の死を誌すに少しの同情もない「信長公記」の筆者すら、 御年十六歳、さすが歴々の事なれば、容顔麗はしく、肌は白雪に似たり、潔さ、余人に優れ、家の名を惜み、父の最期まで心に懸け、比類なきの働き、感ぜぬはなかりけり  と、極力、そのきれいな死に際をほめ称えている。  勝頼父子、土屋兄弟以下、討死相伴の衆としては、次の人々の名を列記している。  秋山紀伊守。長坂長閑。小原下総守、同じく丹後守。跡部尾張、同子息。安部加賀守。鱗岳長老。  以下四十一名侍分。  ほか五十余名簾中上﨟たち。  時刻はまさに巳刻(午前十時)ごろで、諸事終っていたという。  武田家はここに亡んだ。  長坂長閑、跡部大炊などが、勝頼を陥しいれた佞臣という云い伝えは嘘である。跡部は、最後になって逃げ腰を見せ、土屋惣蔵に殺されたが、それでもこの日まで勝頼のそばにいたし、長閑は立派に主君に殉じている。  また、勝頼の首を見て、信長が足蹴にして罵ったというのも嘘である。反対に慇懃床几を下って、その首に敬礼したという家康の人物を引きたてるために、捏造した徳川時代御用史家のこしらえ事にすぎない。  ほんとは、月の十四日、呂久川の陣中で、勝頼父子の首を実検し、そのとき、 「日本にかくれなき弓取の子も、運尽きては、こうなるものか。あわれよの」  と、左右の者へ呟いたという。  そして飯田の木戸に梟けさせたというのが、平凡なる真相であった。 火も涼し  東山梨の松里村へ、その日夥しい兵馬が入った。もちろん全軍織田色である。大将は三位中将信忠と聞えたが、 「すぐ部署につけ」  と数千の兵を分けて、包囲にかかった直接の指揮者は、麾下の河尻肥前守だった。  目標は、恵林寺だった。  けれど、山林一里四方、境内一万六千余坪の寺内である。ほとんど、村全体をつつむほどな大掛りにならざるを得ない。  包囲は即日終った。  黄昏れである。選ばれた四名の御成敗奉行人が、くつわを並べて山門へ向った。  織田九郎次、長谷川与次、関十郎、赤座七郎右衛門などである。それに部下の兵若干とはいえ、鉄砲や素槍をたずさえ、それらの兵は甲州全地を蹂躪して、皆どこかで鮮血を味わっている、いわゆる常ならぬ殺気の持主だった。──あわれあの衆が山門をたたいた果てはどうなるのか──と村の人々は戸のすき間や壁の蔭からのぞいていた。  奉行人四名は、 「おらんのかッ。誰も」  本堂に上がってどなっていた。  地内はいわゆる七堂伽藍が巍々としていた。七十二門の廻廊、三門、草門、鼓楼、五重の塔など、甲州第一山の名刹たる名に恥じない。けれど、黄昏れの色深く、葉桜や若葉の蔭に、老鶯の啼き迷うのが時々聞かれるぐらいなもので、本堂も洞然、留守のような静けさだった。 「方丈へ踏みこんでみろ」  関十郎が云った。  ことばの下に、土足のままの兵たちが、廻廊を左右に駈け出そうとしたとき、 「誰だッ」  と、強い声を響かせて、紙燭を持った一僧が、内陣柱の蔭からこなたへ歩いて来た。  奉行人の中の織田九郎次が、ずかずかと此方からも歩み寄って、 「おう、そちは先日、挨拶に出た勧心とかいう者だな」  勧心はかくべつ驚きもしなかった。静かに、紙燭を下に置いて、平伏した。 「これは、中将様のお旗本衆でございましたか。寺を訪うひとには、おのずから礼もあり、あれに訪鉦も備えてあるに、本堂の上まで、土足でみだれ入るお客は、さしずめ夜盗か、血まようた落人衆かと危ぶみ、わざと、失礼いたしました。おゆるしのほどを」 「坊主、その方は先日も、無用なことばのみ吐いて、中将信忠卿のお使いを怒らせたが、また今日も、われらをわざと腹立たすつもりか。それでは大きな損であろうが」 「お使いのお旨に、正直なお答えを仕るのほか、まだ自身の損得など、考えたこともございません」 「おまえはそれでよかろうが、師の快川国師にとって不利だろう。快川のほかにも、一山にはまだ、たくさんな長老、衆僧、稚子、雲水などいるだろうに」 「あ、いや。わたくしの言葉は、一語としてわたくしの言ではありません。みな和尚のおことばです」 「快川の言だというか」 「はい。相違ございませぬ」 「ではなぜ、快川が出て、自身お答え仕らんか」 「塵外のおひと、殊には老躯、たいがいな俗務は、わたくしが皆、いたしております」 「俗務とは何かッ」  赤座七郎右衛門が、横から足をつめて睨みつけた。勧心という僧は、首を曲げて、柄に鳴った彼の手を、冷やかに振り仰いだ。  織田方の軍使は、きょうまでに、二度もこの寺に臨んでいる。  そして、命じるには、 (当寺内に潜伏している足利義昭の手先、上福院というもの。また以前六角承禎といい、今は佐々木次郎と変名している人物。もう一名は、大和淡路守という織田どのを呪う曲者。こう三名の首を揃えて出せ。──首にして差し出すことが沙門では出来ぬというなら寺から突き出せ。いずれでもよい)  と、達したのであった。  恵林寺側は、そのたびに、言を左右にして、 (畏りました)  と、いわない。  のみならず、いつ使者が臨んでも、その応対は、きょうの通りなのである。門を叩く雲水を見るのと何らの変りもない冷淡さだ。 (誠意がない)  と、織田軍は観たばかりでなく、自分たちに対して、被征服者一般の抱いている反感すら示しているものとなして、 (この上は)  と、わざわざ仰山にも、数千の軍勢を、こんな山村まで押しすすめて来たわけだった。  四名の奉行人は、舌打ちして、 「返答を待つの、待たぬの。また、いるの、いないのと、かような一野衲を相手にして、暇どるのもくだらない。かつ面倒だ。この上は、家捜しを行うまでではないか」 「まず。それしかない」 「やるか」 「ただ、寺域は広い。伽藍も多い。やるとなれば、もう一応、河尻殿へ沙汰して、これへ人数および、万全を尽さぬと、可惜、野鼠を逃がす惧れもある」 「よろしい。それがしが、その人数をつれて、すぐ取って返して来る。それまで、監視をたのむ」  長谷川与次が、織田九郎次へいって、廻廊から階を降りかけた。そのときである。 「お待ちください」 「……?」  振り顧ると、稚子を連れたひとりの老僧が、廻廊の横に立っている。与次は、それへ向って、すぐ云った。 「お身は、この寺の和尚、快川か」  老僧はたそがれの中に白い眉を横に振った。 「わしは、ここの末院宝泉院の雪岑でおざる。快川国師ではない」 「末院の和尚か。して、何の用か」 「寺内に逃げこんだ武田どのの残党をつき出せとの御意。快川も決してお拒みはしておらぬと聞くが……」 「われらの求める者は、そのような木ッ端武者の処分ではない。上福院、佐々木次郎、大和淡路の三名だ」 「そのようなものはおるかしらて。……いや、何かはよく知らぬが、もう一応、あしたの朝まで、静かにお待ち下されてはどうかな。かならず、雪岑も仰せを奉じて、いるものなら突き出す、おらぬものならば、お詫びに罷り出る。いずれともはっきり御挨拶に伺わせまする」 「誰をか」 「国師を」 「しかし、おらぬなどという詫びはうけぬぞ。当方には、確として証拠もにぎっており、また密訴して出た証人もあることだ」 「それほど、慥かなことなれば、おそらく寺内にいるのでしょう。しかし、合戦以来、縁故を辿って、此寺に落ちて来た武田衆は、身分ある者、身分のかろい者、何分大勢のことですから、入念に糺さねば」 「ではかならず明朝までに、快川自身、河尻殿のお陣所まで挨拶に来ることを、汝が誓うか」 「かたくお誓いいたします。雪岑の首にかけても」 「確と、約したぞ」  念を押して、奉行四名は、ひとまず陣所へ帰った。  明朝辰の下刻(午前九時)までには、かならず寺中から挨拶に出向く──という雪岑長老の口約束をとって。  さればとて、もちろん警戒の手はゆるめない。織田勢は終夜、村の道々に、大篝を焚いて、半ば威嚇していた。  ところがその夜半に、恵林寺の裏山づたいに、そっと脱け出したものがある。三人の法師だという。上福院、佐々木次郎、大和淡路の変装したものに違いない。見とどけたのは織田兵ではなかったが、山小屋の樵夫が降りて来て、朝になって村へ訴え出たのである。 「なぜ、夜のうちに知らせぬか」  と、訴えたあげく、二人の樵夫は、胆のちぢむほど叱られた。  時刻といえば、すでに辰の刻だった。 「寺中からの挨拶など待つまでもない」  河尻肥前守、織田九郎次、関十郎、数千の兵は、山門裏門から恵林寺へなだれ入った。  方丈、庫裡、いずこも、掃き清めてあってきれいである。ただ、内陣にあった信玄の木像がない。またどこかへ寺宝の文書や墨付などは運び去ったらしく、ひらひらと、そこらにこぼれ落ちている数片が眼にとまるだけだった。 「や、や。人もおらぬ」 「どこへ?」  このうろたえは、すぐ解決した。寺の四方から火を放けても、転び出す者はほとんどなかった。寺中のひとすべては、本堂を立ち退いて、楼門のうえに上っていたからである。 「あれだッ。あれにおるわ」  河尻肥前守と織田九郎次は、馬をならべて、鞍上から指さしている。むらがった兵たちも首をあげてそこへ眸をあつめた。驚くべきものをそこに見たような眼いろである。凝視したまま、しばしがほどは、みな心をうつろにしていた。  山門の楼上、正面には、朱の椅子に倚り、紫衣金襴の袈裟をつけた老和尚のすがたが見えた。いうまでもなく一山の長老快川国師である。  左側に、雪岑、また藍田、右側には大覚和尚。そのほか老僧十一名、弟子僧数十人、生ける羅漢図のようにずらりと並んでいた。いやまだ、そのほかにも、寺中の老幼、稚子、堂衆まで、ひと目に数えても百五十人に近かろうと思われる人々が、恐ろしげに、幼きは老いたる者へ、老いたるは若者へ、抱き合ったまま竦んでいた。 「和尚ッ」  馬上から肥前守が呼んだ。  快川は、答えない。  織田九郎次が、また呶鳴った。 「快川ッ。あざむいたな」  白い眉は動きもしない。 「焼き殺せッ」  河尻肥前守が、叱咤した。山門の下には柴、薪、焼き草が積みあげられた。織田九郎次は、馬を跳び下りて、ためらう兵を叱った。 「なぜ、火を放けぬッ。草だけ積んで見ていて何になるか」  煙は楼門の千本廂へ立ちのぼった。 「衆僧」  快川は初めて口をひらいて左右の法友へいった。 「諸人、今、火焔の裡に坐す。法輪いかに転ずるや。各〻、転語を下して、最後のことばとされよ」  みな、一偈を唱えた。もう焔は欄をこえて、快川のすそを焦がしていた。稚子老幼の阿鼻叫喚はいうまでもない。いま偈を叫んだ僧も唸いてのたうちまわっていた。  快川は、いった。 「──安禅必ズシモ山水ヲ須ズ。心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ。喝」  快川の死は、それを眼で慥と見ていた者でも、いったい彼は死んだのやら生きたのやら、分らない気持につつまれた。 安禅必ズシモ山水ヲ須ズ 心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ  と、さけんだ焔の中からの声がいつまでも耳から去らなかった。  満身の法衣がみな焔と化し、腰かけている朱椅子も火になっていながら、快川の体はまだ、そのまま姿勢もくずれていなかった。  楼門の上の老幼衆僧がみな、焔の壁や焔の床に昏絶して、声も出さなくなり、びくとも動かなくなってからでも、快川のすがたはまだ紅蓮の傘蓋をいただき、猛火の欄にかこまれながら、椅子に倚って、平然としていたのである。  あやしい奇蹟のような恐怖感に囚われた山門下の武者輩は、 「あれよ」 「……あれよ」  と、囈言のような声を放って遠巻きに見まもっているだけだった。  ふしぎや、焔の勢いが最も旺んになった頃、快川の眼が二つ白く、火と黒煙の中に、くわっと開いたように感じられた。  間もなく、山門の廂は、ばらばらとくずれ、火塵はまるで華火のように噴きあげて、快川の影も、だんだん黒く変ってきたが、しかもなお曲彔に懸ったまま倒れもせずに楼上にあるではないか。  その影を失ったのは、山門の大厦が、大きな響きを立てて焼け落ちた瞬間だった。  焼け落ちたのちも、巨大な火の山は、終日、紫いろの余燼をめらめらあげている。そしてようやく夕方には灰になった。  その夜、恵林寺に屯した数千の兵は、大半、快川の夢をみた。いや夢にあらぬものが、あくる日も夢のように、頭につきまとっていたのかも知れない。 「士道を悟った」  心ある者は、そういう感銘をもらした。そして、 「快川のような境地にまでなり得れば、武士、僧侶の差別はない。いわゆる達人の境だ。われわれ、朝にも夕べにも、血腥い戦場を駈け、敵の死を見、友の死を送り、自分の死をも、覚悟はしていながら、戦場以外では、さて、そこまでには成りきれない」  そんな述懐をもらす武者もあった。  とにかく快川の死は、それを伝え聞いた織田、徳川の全軍にまで、何かしら大きな問題を投げかけた。  生死観。──生死の大事。  つまるところそれであった。  古来あらゆる智識や達人が、仏教に問い、儒道に質し、またその究明に身をもって、十年二十年の難行苦行を試みたのも、その究極は、生死の問題でしかない。  そのいのちを、鴻毛よりも軽んじて、主君の馬前、乱軍のちまたを、何十遍となく往来したというさむらいでも、居を家に、身を平時に還した日常では、やはり戦陣中のようにはゆかない。  で、道を聴く。禅に参じる。  或いは、聖賢に問う。或いは、剣を練って、胆心を養う。  それとて、なかなか徹しきれないのが、おたがいの常である。死は、生きているかぎり生と対立する。何事に当ってもこのあいだにさまよう。 (死が何。二度とは死なない)  口ではいえるが、またやさしいが、同時に、難しい。生きとし生けるものすべて、この問題を課せられている。その自覚もない者は、死を惧れぬのでなく、生もよく知らない人というほかはない。  或いは、いう者もあろう。快川はなぜ死を選んだかと。  素直に、武田与類さえ、寺内から突き出せば、無事にすんだのではないかと。  武人ではない、沙門である。それでも、非難はなかろうにと。  そうだ。足利期を通じ、室町没落までの禅家はそんなものだった。けれどかつての鎌倉時代の禅門では、そんな妥協の卑屈はゆるさなかった。  北条時宗が、断乎として、 (蒙古討つべし)  と為した大決心も、いわば大禅機である。その時宗に、一語を贈って激励した仏光禅師を見ても、当時の禅林の気骨稜々な風は窺える。  その禅も、いつか文字禅、理論禅になり、遊戯に堕し、風流に化し、そして骨抜きになりかけた時、ここに日本僧快川が在ったのである。  僧童七十四名、堂塔三十宇、七堂の荘厳も一火としてしまったが、快川の気魄とともに、それは光焔万丈をあげて、禅の認識を、ふたたび世に新たにした。  さればとて、快川は、時代に反抗したのではない。時勢に盲目であったのでもない。彼は、それより前に、明らかに勝頼へ対しても云っている。 (何事につけ朝廷を尊び、朝廷を中心として統治をなす主義の信長には、地方の侍や土豪とて、おのずから心をひかれ、一地方の主たるに過ぎぬ武門の主人に対しては、つい離るるともなく心入れのちがって参るのは、ぜひもない成行きと申そうより、自然に帰するが如きものでしょう。決して、信玄公の御子として、あなたが不肖な子というわけではない)  そう慰めているのを見ても、彼はその自然に帰してゆく時勢に反抗する理由もないし、また盲目でもないことは明瞭である。  にも関わらず、彼が、求めて死についたのは凡人の眼にこそ、驚嘆されたり、異なことのように映るが、彼自身は、元来、生死の別に、さしたる区別を持っていないし、死中生有り、生中生無し。極めて自然な行為だったにちがいないのである。  しかもその自然な行為のうちには、故信玄の恩顧に対する厚い情誼もあったし、平常、禅林の堕落に対して訓えたい気もちもあったに相違ない。しかも、その生命は枯化するなく、肉体のないいのちも、幾世にわたって、思うところの動きをなしうるのであるから、むしろ欣然として、大火焔の裡に微笑をたたえていただろうと思われる。  さて。  世変転化は、落花と倶に行く春の移りも早く、甲州の山野は信長の領下に染められ、右府信長の征旅は日程のとおりすすんだ。  三月十日。高遠城着。  同月十九日。諏訪入陣。同時に、軍政発令。  二十日。木曾義昌来謁。義昌に旧領筑摩郡に安曇を与う。  同日。穴山梅雪参礼。梅雪には、旧領そのままの朱印を下附。  廿三日。滝川一益を、上野信州の二郡に封じ、関東管領の重職にのぼす。  廿六日。小田原の北条氏より米千俵到来。  ──といったように彼の陣門と軍旅の道は、往来、出入り、繁昌を極めていた。 淋しき人  木曾口や伊那を攻めた兵もやがて続々諏訪に集結した。諏訪は信長の軍勢であふれた。  彼の宿所、その総本陣たる法養寺では、二十九日に、全軍将士への論功行賞を発表し、また次の日には、諸将を会して、戦勝の祝宴を催した。  これより前に、恩賞の沙汰をうけていた者のほかに、この度の拝受者には、  徳川家康には、駿河を加封。  河尻肥前守には、甲斐の一部と諏訪郡を。  森長可には、信濃四郡を。  毛利秀頼には、伊那郡を。  団景春には、岩村城を。  森蘭丸には、兼山城を。  などの行賞が目立っていた。  いろいろ遠方から気をつかってくる北条氏政にたいしては、梨地蒔絵の太刀一腰与えただけで、 「いずれ家督相続もいたさねばならぬな」  と、暗にそのときはそれを認めてやろうという程度の口吻をもらしたに過ぎない。  みな信長の一心に出ることだ。恩賞の厚薄はぜひもない。甲州討入だけのものでなく平常の勤めぶりや首尾不首尾も加味されているものとみな解している。で、ここにも君側から離れずにある森蘭丸なども、ひそかに、 「このぶんでは、過去のことなど、すこしもわれらには御懸念もないらしい」  と、受賞のよろこびよりは、むしろ母の妙光尼のために、胸なでおろして、森一家の累進を、ひとり祝っていた。 「お兄上の長可どのにも、信濃四郡の封を受けられ、まことにお覚えのめでたいことで」  と、羨む人々から祝辞をいわれても、以前のように、そう後ろめたい気もしなかった。  祝宴の席でも、蘭丸の面には、つつみきれない得意があふれていた。  信長から、於蘭、ひとつ小舞せい、といわれればすすんで舞い、鼓をせよと命じられれば、非常によい高音をその掌から出して聞かせた。 「きょうは、惟任どのにも、めずらしくお過しになられてみゆるの」  座中、どこかで、そんな会話が聞える。みると、諸大将のうちに光秀も交じっていた。話しかけたのは、隣の滝川一益であった。 「酔わいで何としましょう」  光秀はまったくいつにない酒気に染まった顔をしている。信長から何かというとよくいわれる「きんか頭」のすこし禿げ上がった生え際まで赤くてらてらさせていた。  そして一益へ、 「一盞、いただきましょう」  と、杯を乞いながら、非常に明るい口吻でなおいった。 「長い人生にも、きょうのようなめでたい日に会うことは、そう幾度もありますまい。あれ、御覧ぜられい。墻の外はいうに及ばず、諏訪一帯は申すもおろか、年来われらの骨折って来た効あって、いまや甲信すべてお味方の旌旗に埋まっているではありませんか。多年の宿願が、眼のまえに、実現したのではおざらぬか……」  彼の声は、常のとおりで、さして大声でもなかったのに、ひどくそのことばは、一座によく通った。  なぜならば、ここかしこで、私語騒然としていた者が、いつとはなく口をつぐんで、  信長の顔と、光秀の方とを、見くらべていたからである。  信長の眼は、まっ直に、光秀のきんか頭を見すえていたのであった。  余りに、ものの観えすぎる眼というものは、時によると、見出さなくてもいい不幸をも見つけ出す。なくてすむ禍いをもあるものにしてしまう。  光秀のきのうからの姿に、信長の眼は、そうしたものまで観とっていた。  常に似あわず光秀は、努めてことば多く明るく粧っている。  そんなはずはない。  と信長は観るのだった。  なぜならば、こんどの論功行賞には、意識的に、彼の名を除外してある。武人として、行賞にもれることは、事そのものよりは、功のない身をみずから辱ることのほうに、むしろ痛切な寂寥がある。そのさびしさを、光秀はどこにもあらわしていないのだ。この人中では却って反対な笑顔や楽しげな会話にばかり立ち交じっている。  正直でない。いつわりだ。  どこまでも裸になれない漢。可愛げのないやつではある。  なぜ、愚痴のひとつも、こぼさないか。  ──信長の眼は彼を見ていればいるほど、さっきからこうきびしくなっていた。酒気も手伝っていたろうが、無意識についそう観えてならないのである。  ここにはいないが。  秀吉を観る眼には、そういう感情を唆られる危険はなかった。家康を観るにしても、こうまで意地わるくはならない。  それが、光秀のきんか頭に接しると、むらむらと、眼のなかで、ひとみが一変する。かつては、決して、こうでなかった。いつのまにとも覚えない時の推移とともにこうなっていた。  この時、かかる事件から、こう遽かに変った、という変り方でないのである。強いてその一劃期をさがすならば、彼が光秀へ感謝するの余り、坂本城を与え、亀山の本城を持たせ、惟任の姓をさずけ、むすめの嫁入りにまで世話をやき、逐次、出世を追わせて、丹後五十余万石に封じたりなど、優遇を極めた──その優遇の翌日あたりから──すこし彼の光秀にたいする眼は、前とちがって来たことはたしかだといえよう。  それともう一つは、こればかりは、光秀自身にしても、どう改めようもないその風采、人品などに、原因がある。いやしくも事を処理して過らない明晰なきんか頭の生え際の照りを見ると、信長の感情は、彼の性格的なにおいに向って、ひどく天の邪鬼な焦気が立ってくるのだった。  だから、信長の意地悪な眼は信長から射向けるのでなく、光秀そのものが、自然に唆りたてるのだともいえないことはない。それは、光秀の聡明な理性が何かに光るときほど、信長の天の邪鬼が、言語や顔いろに現われるのを見ても分ることだった。これを公平にふたつ合わせて鳴った掌はいったい、右掌が先か、左掌が先か。そう第三者は見ていてもさしつかえない。  ともあれ、今。  滝川一益を相手にさりげなく話していた光秀のすがたへ、じっと注いでいた信長の眼は、すでに凡事と見えなかった。  光秀は、気がついた。──無意識に何かはっとしたらしい。なぜならば、信長が、とたんに席を起ったからである。 「日向。これ、きんか頭」  信長の足のつま先へ、光秀は面を伏せて慎んでいた。と、その首すじを、冷やかな扇の骨が二つ三つ軽くたたいた。 「はッ。はい……」  光秀の面色は、その酔も、きんか頭の額の照りまでも、さっと褪せて、土のように変じていた。 「座を退れ」  信長の扇は、彼の頸すじから離れたが廻廊を指して、なお剣の如く見えた。 「何事か存じませぬが、御けしきを損い、光秀、恐懼身のおき場も弁えませぬ。どこが悪いと、お叱りくださいましょう。この場にて、お叱りくださるも厭いませぬ」  詫び入りながらも、彼は、平伏したまま、身を辷らせて、廻廊の広縁へさがった。  信長も、そこへ出た。  どうなることかと、満堂の人々は酔をさまし、口腔の乾く思いをじっと抱いていた。  ──どたっと、そこの板の間に大きなひびきがしたので、わざと、気のどくな光秀のすがたから眼をそらしていた諸将も、はっとして、室内からみな振り向いた。  扇は、信長のうしろへ、投げすてられてある。  見ると、信長は。  こんどは手ずから光秀の襟がみをつかんでおられる。そして何かいわんとする光秀にその余裕を与えず、ずずずと圧して、廻廊の欄干まで押し詰め、もがく頭を、ごつごつ欄干に小突いていた。 「──なんというた。日向。たった今、なんというたか。──われら、骨折りたる効あって、この甲州に織田家の兵馬が充満ちて見ゆるは、まことにめでたい日であるとな。──左様に申したであろうが」 「も、もうしました……」 「これッ」 「……あ」 「いつ、汝が骨折ったか。今日の甲州入りに、いかほどな殊勲をなしたというのか」 「も、勿体ない」 「なに」 「光秀、いかにお祝酒に酔いましょうとも、なんで左様な、驕りがましきことばを」 「さもあろうず、そちに、驕り得る理由はない。したが心の油断というもの、信長が酒興にまぎれ、耳をそらしておると思うて、つい不平を申したな」 「畏れ多い。天地の神も御覧あれ。光秀、破衣孤剣の身より、今日の重恩をいただきながら、なんとて」 「いうな」 「お放しください」 「放してやる」  信長は突き退けて、 「於蘭。水」  と、大声で呼んだ。  蘭丸が、器に水をたたえて捧げた。その水を手にとる眸は火であった。彼は彼自身の心火に燃やされて肩で息をしていたが、光秀は、いつか主君の足もとを去ること七、八尺も向うに、襟を正し、髪をなでて、板敷に胸もつくばかり平伏していた。 「…………」  あくまで取り乱さないそのすがたが、なぜか好意に見えないのみか、信長の足をしてさらにそれへ歩ませようとさえしかけた。 「……あッ。もし」  蘭丸がたもとを抑えなければ、ふたたび広縁の床が鳴ったろう。蘭丸は多くをいわず、また眼の前のことに触れなかった。 「お席へおかえり下さいまし。信忠様。信澄様。また丹羽どのを始めとして諸将方、手もちぶさたに、お控えでいらっしゃいます」  信長は素直に、大勢のなかへ戻って来た。けれども坐らなかった。そのまま、座中を見まわして、 「ゆるせ、興醒めたことであろう。各〻は、存分に。存分に」  云い捨ててさっさと、奥の房へかくれてしまった。 客来一味  土蔵長屋の廂に、燕が、群れ鳴いている。陽の暮るるも知らず、親燕は巣の中の雛に、餌を運びぬいているらしい。 「画題になりますかな」  ひろい中庭を隔てた住居の一室で、明智の老臣、斎藤利三が客にいう。  客は、海北友松という画人。この諏訪の人ではない。  五十前後か。画人ともみえない骨ぐみ。無口である。幾棟もある味噌屋蔵の白壁が、そこだけを辺りの夕闇から暮れ残している。 「いや、この戦時中、ふいにお訪ねして、世外人の悠長なはなしばかり……。おゆるし下さい。さだめし、御陣務も多かろうに」  友松は、暇を告げるつもりらしく、長座したしとねを退がりかけた。 「まあ、よかろう」  斎藤内蔵助利三は、おっとりしたものである。うごかずに、ひきとめて、 「せっかく見えられたのに、光秀様に、お目にかからず帰られるなどという法はない。主君、お立帰りの後、お留守に、友松どのが見えましたと申しあげたら、なぜ止めておかなかったかと、わしが叱られる。まず、まず……」  と、殊さらに、新しい話題を出して、このゆくりない来客をひきとめていた。  いま京都に家を持っているが、海北友松は、江州堅田の人。つまり光秀の領する坂本城の近くに生まれた由縁をもっている。  のみならず友松は、以前、武人として、岐阜の斎藤家に禄仕していたことがあるので、その頃から、内蔵助利三とは、よく知っていた。──利三も、明智家に属するまえは、斎藤一族のうちに驍名ある稲葉伊予守長通に仕えていた時代があるからである。  友松が、浪人後、画人生活に入って行ったのには、岐阜の滅亡という理由が進退を明らかにしているが、利三が、故主をすてて、明智家の家人になったことには、複雑な内容があり、旧主と光秀とのあいだに生じた葛藤を、信長のまえにまで持ち出して、裁決を仰いだような、紛争もあったりした。  しかしいまは、その当時、世間を騒がせた噂など、誰も忘れて、彼の真っ白な鬢髪を見るものは、 (明智家にとって、なくてならぬお人)  と、その重要な老職の位置と人がらとを、みな矛盾なく尊敬していた。  信長の本陣法養寺だけでは、宿舎の割当てがつかないため、一部の将は、諏訪の町家に分宿していた。  明智の一隊は、ここの旧い味噌問屋に屯し、兵も将も、数日来の戦労から解かれている今日であった。  主の息子らしいのが来て、留守居の斎藤利三へいう。 「御家老さま。お風呂をお召しなさいませぬか。お士衆、足軽衆まで、はや夕餉の兵糧もおすみになりましたが」 「いやまだ、殿のお帰りもないうちは」 「殿様には、だいぶ晩ういらせられますな」 「きょうはの、御本陣におかれては、戦勝の大宴じゃ。殿にも、あまり参れぬ御酒をたんと戴いて、めでたさのあまり、酔を過しておらるるものとみゆる」 「では、お夕餉など、先へおすましなされては」 「いやいや、お戻りを見ぬうちは、食事も摂りとうない。……したが、折角、引き留めたお客には気のどくじゃ。客人だけを、湯殿へ案内してくれぬか」 「昼のうちお見えなされた旅の画師でございますか」 「そうじゃ。あれに蹲まって、退屈そうに、独り牡丹畑の牡丹を見ておる。声をかけてやってくれ」  息子は退ってゆく。そして隠居所の裏を見まわした。黒々と牡丹の叢咲きしている前に、海北友松は、ぽつねんと、膝を抱いて、眺め入っていた。  すこし後から斎藤利三がそこの柴折門から出て行ったとき、もう息子も友松もいなかった。  利三は、実はすこし気懸りになり出していた。主君の帰りが遅すぎる。祝賀の大宴なので、ずいぶん今日は盛会だろうし、長くもなろうとは察しられたが、 「……それにしても」  と、やや不安に似たものを覚え出していた。  旧い茅葺門を出ると、道はすぐ湖畔の街道に出る。諏訪湖の西空にはまだ残照が仄明るい。内蔵助利三は、街道の彼方へしばらく眼をすましていた。  案じていたほどのこともない。やがて彼の主人はこなたへ向って来る。馬、槍、従者などの一群を従えて。  けれど、その影が近づくにつれて、内蔵助利三の眉には、やはり不安に似たものが去らなかった。なぜならば、どこか常とはちがう気がしたからである。  戦勝の祝宴から帰って来たひとの姿とも見えないのである。颯爽と馬上にゆられ、その従者たちも、きょうは賜酒の酔に、華やいでいるはずなのに、悄然と、その光秀は、徒歩で来る。  乗馬は、郎党に曳かせ、至極浮かないすがたで、歩いて来る後から、従者たちも、同様に、どこか冴えない空気をながして、黙々と、供して来るのだった。 「これまで、お迎えに出ておりました。おつかれにございましょう」  利三が、前に屈むと、光秀は、なにか驚いたように、面を向けて、 「利三か。……いや心ないことをした。儂が帰りの遅いのを案じていてくれたの。ゆるせ、ゆるせ。ちときょうは御酒をいただき過したゆえ、わざと酔を醒まそうものと、湖畔を徒歩うて戻って来たのじゃ。顔いろが青いとて案じるなよ。気分もだいぶ快うなったし……」  何か御不快なことにお遭いだったとみえる。多年側近く仕えている主人である。内蔵助利三が見のがすはずはない。  けれど、敢えて、深くは問わなかった。ただ、いかにその気色を慰めようかと、この老職は、その世に馴れ人に練られた心をくだいて、宿舎に入ると、主君光秀の身のまわりの世話までやいていた。 「いかがですか。あちらのお座所で、まず茶なと一ぷくさしあげましょうか、それとも、お召かえのついでに、すぐお風呂をお浴みあそばしますか」  戦場に立てば、驍名敵を畏怖せしめるに足る猛将利三が、小姓の手もからず、光秀の小袖から袴をはく手助けまでしているのだった。光秀には、この老臣の、やさしい舅御にも似ているいたわりがよく分っている。 「湯浴みか。……そうだの。こういうときは、一風呂浴びたらさだめし爽やかになるかもしれんな」 「そう遊ばしませ。御案内いたします」  利三は、いそいそ、先へ立つ。  風呂と聞いて、早速、次の間にいた小姓が、この家の息子に告げにゆく。  紙燭を持って、息子は、宵の湯殿の入口に、うずくまっていた。 「田舎風呂でござりまする。まことに、やぶせくて、諸事行き届きませぬが」  光秀は、息子の影へ、眼を落したが、黙ってそのまま湯殿へ入る。小姓、利三がうしろに寄り添う。  しばらく、中で湯の音がしていた。利三が外から云った。 「殿。……お背中をおながしいたしましょうか」  光秀の声で、 「小姓がおろう。老体の手をかりては気がすまぬ」 「いえいえ」  利三は、入って行った。そして小桶に湯を汲んで、うしろへまわった。かかる例はないが、ここは戦陣の出先、また折ふし、きょうは常ならぬ主人の顔いろ、何とかして、その気分を、一転させたいと願うのであるらしい。 「一方の将たる者に、垢など落させては」  光秀はあくまで謙虚だった。家臣に対してもつねにこう遠慮気を示すのは光秀の特長でもあり短所でもあると、利三などは、むしろその性格の一面は余りよいとは考えていないほうであった。 「何の何の。この老骨の武名などは、桔梗の御旗の下にあればこそで、明智家あっての内蔵助利三。利三あっての明智家ではございませぬ。さすれば、生きて御奉公しておるうちに、一度ぐらいは、わが君のお肌の垢など洗い流すことも、身の思い出と申すもので……」  利三は、袴をからげ、片襷をかけて、彼の背を洗っていた。仄暗い湯気と明りの中に、光秀は甘んじて、背を洗わしながら、首うなだれて、黙りこんでいた。  内蔵助利三が、自分に尽してくれる心入れを、そのまま、自分と信長との君臣のあいだに移して、ふかく自省しているのだった。 (ああ過てり)  光秀は心のうちで痛切に自分を責めた。何を不快としていつまで根に持って苦しんでいるか。信長ほどな良い主君を持ちながら、自分の忠節と情操とは、この一老職にも及んでいないではないか。ああ恥かしい。──彼はうしろから利三にザッとかけられた湯を、あだかも水のように心へ浴びた。  湯殿を出ると、光秀の気色も語音も変っていた。心気一爽。利三もともに爽やかを覚えた。 「やはり一浴してよかった。悪酔ばかりでなく、疲れもあったとみえる」 「御気分が癒りましたか」 「内蔵助。もうよいぞ。そちも心を労うな。さばさばいたした」 「きょうのお顔色では、凡ならぬ御不快と、実は、お案じいたしていましたが、なによりでございました。……では、お耳に入れますが、お留守の間に、珍客が見えられて、お帰りをお待ちしておりまする」 「ほ。この戦場の仮宿へ、珍客とは」 「画師の海北友松どのが、ちょうどこの甲州に旅しておられ、他は訪れぬまでも、殿にはちょっとでもお目通りして、御機嫌を問うて参りたいと、昼から来ておりました」 「どこにおるの」 「てまえの部屋と定められたあの隠居所に控えさせておきました」 「そうか。ではそちの部屋へ参ろう」 「殿からお運び遊ばされては、客が恐縮いたしましょう。後より御前へ連れ参りまする」 「いやいや、客は一風流子、格式張るには及ばぬ」  母屋の広間には、光秀のため、鄭重な夜食が支度されていたが、彼は、内蔵助利三の部屋で、客の海北友松を交え、至極簡素な夕食を共にした。  友松と会ってからの彼は、いよいよ明るい面もちに返って、南宋北宋の画風を問い、東山殿の好みと土佐の絵所の比較を論じ、また近世の山楽などの狩野調から和蘭陀絵の影響などにいたるまで、その方面にも日頃から浅からぬ修養のあるところを洩らして、ひいてはなお、 「自分も、老後にでもなったら、清閑をたのしみ、童学のむかしに返って、絵でも描いてみたいと思う。そのうちに、ひとつ光秀のために、絵手本を描いておいてくれい」  などといった。 「かしこまりました。不つつかですが、ぜひ認めて、お手許にさしあげましょう」  これは友松も心から欣んでいうことのできる返辞だった。光秀のために、光秀の晩節は、ぜひともそういう所へ落着かせたい。閑雅へ導きたい。穢すことあらしめたくない──とは、昼もここで内蔵助利三としみじみ語り合ったことだからである。  友松は中国の梁楷の画風を倣って、狩野、土佐ともべつに、近頃、独自な一家の画境を開拓し、ようやく世人に認められて来ていたが、なぜか安土の襖絵を信長から委嘱されたときには、病気と云い立てて、乞いに応じなかった。  信長に亡ぼされた斎藤家の遺臣たることを思えば、信長の居室の装飾に、その筆を用いることを潔しとしなかった彼の心事はわかる気がする。  外柔内剛ということばは友松の人がらにそのままあてはまる。その友松なればこそ、光秀の聡明も理性も信じられなかったのである。この冷静や叡智もひと足踏み辷らすと、いつなん時、常識の大河を決して、みずから濁流に身をまかせないとも限らない──およそ正反対なあぶな気を──この人も多分に持っていることを彼は平常からはらはらした眼で見ているのだった。  で。その光秀からこよい、絵手本でもと乞われると、それこそこの人の晩節を完うする所以と考えられたのである。そして光秀自身も、ふかく自身のあぶな気に反省していることも分って、何せよ、それは早速にも、画いて上げねばなるまいと思われたことだった。  光秀は、その晩、快眠した。  一浴のおかげであった。また、思わぬ佳い客のお蔭であったと思う。  暁──  兵はもう暗いうちから起きて、馬には草飼い、身には甲い、そして腰兵糧までつけて、主人の出るのを待っていた。今朝、法養寺に勢揃いし、諏訪を立って、甲府に向う。そしてさらに、東海道を経て、安土へ凱旋という予定。 「殿。はやお身支度も」 「おう内蔵助か。ゆうべは、よう眠ったぞ」 「それはおよろしゅうございました」 「立ち際に、友松へ、志ばかりと申して、路用の手当なと遣すがよい」 「ところが、その友松どのは、今朝起きてみますと、もうおりませぬ。兵と共に起き出て、まだ夜も明けぬうち、一笠一杖の気軽さ、飄乎として立ち去ったものとみえまする」 「さても気がるな……」  と、光秀はつぶやきながら朝の空を見て、 「羨むべき境涯ではある」  と、いった。  内蔵助利三は、その前へ一巻の画軸を展げて、 「かような物を置き残してまいりました。忘れ物かと思いましたが、よく見ますと、まだ墨の痕も乾いておりませぬ。……思うに、昨夜殿からおたのみ遊ばした絵手本をすぐ思い立って、ゆうべあれから眠らずに朝まで画いていたものと考えられます」 「なに、寝ずに」  光秀は、画巻のうえに、ひとみを落した。朝の光になおさら白い紙のなかに、みずみずと大輪の牡丹一枝が描かれていた。そしてその絵の肩に文字があった、「無事是貴人」と賛語してある。 「無事是貴人」  口のうちに誦みながらそこを巻いてゆくと、大きな蕪之図が繰り展べられた。蕪の題語には、 客来一味  と、ある。  何の苦心もなく一抹したかのような墨画の蕪であったが、見入っていると、土のにおいが鼻をつくばかり迫って来る。大地の生命をそのまま一茎の葉とはちきれそうな根にもった蕪の野性は、甚だしく無邪気にまた屈託なく、光秀の理性を嗤っているかのようであった。 「…………」  あとは、いくら繰り展げても、何も描いてなかった。余白のほうが遥かに多い。 「この二図で、夜が明けてしまったものとみえますな」  利三も絵は好きなので、共に頸をのばして、鑑賞していた。  光秀には、その蕪が、見ているうちに、裸の嬰児が、手をひろげて、欠伸しているように見えて来た。  美を見出すよりは、理を酌むような心理になって来るのである。光秀は、長く観ていることを惧れた。 「内蔵助。巻いてくれ」 「お預り申しておきましょう」  そのとき遠くの空に貝の音が聞えた。本陣法養寺から市中の諸隊へ用意をうながしているのである。血戦の巷に聞く貝はいんいんと悽愴な余韻をひいて何ともいえぬ凄味のあるものだが、かかる朝の貝の音はいかにもおおどかな悠々と寛いだ気もちのするものであった。 「いざ、寄場へゆこうか」  光秀もやがて馬上の人になっていた。今朝の彼の眉は、今朝の甲斐の山々のごとく、何の曇りも翳していなかった。 富士を見つ  いちど富士を見たい。  それは信長が多年抱いていた願望だった。およそ、自己の欲することとして、能わぬことのない信長に、いったいどんな私欲があったかといえば、 (富士を見たい)  という恋であった。  尾張に起って、西へ西へと、その驥足を伸ばして来た信長は、まったく、ことし四十九の今日まで、富士山を見ていなかった。  長篠までは出馬したが、富士の神容には接していなかったし、参州吉良まで鷹狩に出向いたこともあるが、ついぞ富嶽の秀麗は仰いでいない。 (いつかは、いちど)  思いながら年々、北征南略、中央にある日も、劇務と人にかこまれて、そんな簡単な──他愛ない少年の希望にも似たことが──却って信長の心には長いあいだの憧憬となっていた。  四月の四日。  信長はもう甲府にいた。  相模の北条氏政は、その居館へ、また使いを立てて、 「御滞陣のおなぐさみまでに」  と、武蔵野に狩猟して獲たという雉子五百羽を贈って来た。  それからまた、三日目には、目録に添えて、  馬十三頭  鷹三疋  とを献上して来たが、信長は躑躅ヶ崎の館の広庭に、それを曳かせ、一見しただけで、 「馬、鷹ともに、さして珍重するに足らぬ物。──信長の気に入らぬと申して、氏政の許へ持ち帰れ」  そういって受取らなかった。  北条の使いは、面目悪げに、持って帰った。そして、忌々しさの余り、誰もいないところへ来ると、 「増長坊め」  と、舌打鳴らした。  こんなこともあったりして、信長はその月十日、いよいよ甲府を出発し、待望の「富士見物」をしながら凱旋の途についた。  彼の全軍が、甲府を出る朝の町々は、この盆地の城府がひらかれて以来の賑いだった。  いかに新羅三郎以来の家武田氏が、ひと頃の隆盛を極めた文化があった所にせよ、中央の精兵と衛軍の豪美荘重な粧いにはくらべようもない。かの馬揃えの天覧に、御簾のあたりの月卿雲客を驚嘆させ、三十余万の民衆の眼を奪った絢爛に劣らない曠のいでたちが、この日も、信長とその前後の諸大将旗本をつつんでいた。  後漢のむかし、魏の曹操が、西涼軍の北夷の兵が自分らの行装に、おどろきの眼をみはって、指さし囁きあうのを見て、馬の上から、 (おまえ達は、何を驚き珍しがっているのか。この曹操とて、目はふたつ、鼻はひとつ、人並と何のかわりもない。変っているのは、知識深謀の才だけだ)  と、未開の西涼勢をからかいながら通ったというが、きょうの信長の面上にも、沿道の民衆にたいして、ややそれと似たような得意さがうかがわれた。  五彩の霧が行くように、旌旗の列は、笛吹川にそうて下る。  やがて、川を越えて、蛯口。──町屋はみな商いを休み、道を浄め、砂を掃き、領民はみな香を焚かんばかりに軒下につつしんで出迎えた。そしてここには徳川家の武士が大勢出て、警固や、接待の事にあたっていた。 「近衛どのが、お目にかかりたいと申しまするが」  この町へ入ったとき、一行の中にいた近衛前久が、旗本を通じて、信長に面接を求めた。  前久は、龍山と号し、近衛信尹の父にあたる。そして太政大臣の現職にある。  朝廷と武門のあいだにあって近衛前久はよくうごいていた。武門によって下意を上達するうえに都合のよい人でもあったらしい。永禄四年といえば川中島の大戦のあった年であるが、その夏も、彼は上杉謙信の乞いに応じて、上州厩橋に会し、謙信の小田原攻めに従軍し、越後へも行っている。  関白氏長者ともある重臣が、軽々しく諸州を歩き、武将の陣門を出入りするので、室町幕府からも妙な眼で見られたらしい。京都へ帰るとまもなく職を削られ、前久自身は、失踪してしばらく行方を晦ましていた。  その頃、嵯峨にかくれて、嵯峨記を書いたり、詩歌風月を友として、本来の公卿生活にもどっていたが、信長が出て、室町幕府を廃し、義昭を趁うと、またいつか世間に出て、信長のため薩摩に使いしたり、石山本願寺との交渉に出向いたり、そしてことし二月、太政大臣の重職を拝していた。  こんど甲州入りの役に従って、信長の陣中にあったのも、もちろん信長の乞いによるものでなく、前久の望みであったろう。信長としては現職の太政大臣などいう大賓は、わけて陣中、好まぬ荷もつだったにちがいない。  ──お目にかかりたい。  この前久からこう改めて云いよこしたので、信長は、彼の存在を急に思い出したような顔して、 「そうそう。まだこの中にいたか」  と、つぶやいた。  輿を降りて、近衛前久は、沓の運びも雅びやかに、長い軍列の遥か中ほどから此方へ歩いて来た。  兵、旗本、諸将、みな最大の礼と静粛を姿勢にとった。けれど信長は、馬から降りもしない。 「やあ」  と、鞍の下へ来た前久を至極あっさり迎えて、何か? と問うような眼をみはった。  諸人環視の中なのに、その眼を見ると、前久は、つい要らざることをしてしまった。馬上の人に対し、その無礼をとがめもせず、却って自分のほうから笑顔や会釈をして話しかけたことである。 「右府には、富士見物をしながら東海道を経て、安土へ御凱旋とうけたまわるが、予も共々、同道してよかろうか。何のおさしずもなきまま、これまで軍に従いて参りはしたが、いっこうわれらの身まわりは、かもうてくれる者もない」  待遇がおもしろくないらしい。不平を訴えに来たものだ。  信長は訊き直した。 「なに。何ですと?」 「いや、その、前久も右府と共に東海道を上ってもよろしかろうと、念のため、聞きおくわけじゃが」 「近衛。わごりょうなどは、木曾路を廻って帰られたがよかろう。晴々しゅう凱旋する兵とともに、東海道をあるくはおかしかろ。まず、まず、木曾路を上りませ」  云い捨て、さっさと、先へ馬を進め、その日の宿舎へ入ってしまった。  前久はとり残された。ぜひなく彼は柏坂の麓から道をかえて中山道へ廻ったが、このことは、だいぶ旅行中の評判になった。ずっと後に書かれた「三河後風土記」の筆者など、  ──信長の粗暴さもあらん  などと記しているが、粗暴だけでいえることばではない。この性格があってこそ頑固な旧態一掃もなし得たのである。しかし、このとき諸将の中にいた明智光秀などは、自分の心事にひきくらべて、近衛前久の立場を、ひどく気のどくに眺めていた。  翌る日は、裾野の本巣湖泊りだった。 「冬のような」  と、信長をはじめ、行軍の将士はみな寒気におののいた。  前に、富嶽を仰ぎ、うしろに湖を見る落葉松林の中にすべて新しい木口の宿殿が建てられてあった。  ここへ着いて、徳川家の将士の出迎えをうけ、本陣内の青畳の上に坐ると、信長はまず、 「行き届いたことよ」  と、道中から宿舎まで、隈なく心入れの行き渡っていることを、徳川家の家臣へ、褒めたたえた。  事実、こんどの事に、徳川家康が頭をつかっていることは、なみたいていなものではないらしい。何せい、信長のきげんをとり結ぶのは難しい。まして、満足を感ぜしめるなどは、よほどでなければ求められない。  だから、きょう一日の道中を振り返ってみても、道の悪い所は、石を除き、樹を払い、橋はすべて新しく架けかえてあるし、山坂は土をならし、谷へ降りれば、谷間に茶亭が造られてあり、峰へ登れば、見晴しを計って、お茶屋の設けが待ちうけ、彼処では、里の女が茶を献じ、ここでは思いもうけぬ美人が、山の物を料理し、風光を景物に、一献進上のもてなしがあるなど、かりそめにも一日中の旅を飽かしめないように、あらゆる気心が配られていた。  北条氏政が、苦労して、武蔵野の雉子や、相模の名馬をあつめ、これをうやうやしく献上に出ても、 (気にいらぬ)  とばかり、目にも入れず突っ返したほどな、大ざっぱかと思うと、道々の箒の目にも、宿舎の手洗鉢にたたえてある水にも、真心があるかないか、ひと目で知ってしまう信長の眼であった。  もしこの行に、秀吉が加わっていたら、家康のこの行届き方を眺めて、真に誠意の現われと観たか、これは喰えない曲者と察したろうか。とにかく、信長なる一箇の気むずかしやをして、こうまで旅の日々を、日々是好日として楽しませるなどという手腕も、決して尋常一様な人間のよくなし得る設計ではない。おそらくこの状況を、はるか中国の遠くにいて、便りに聞いただけでも、秀吉の胸中には、家康のすがたが、従来より一倍大きく腹蔵に据え直されたにちがいない。その程度の想像は確かであるといっても過言にはならぬと思う。  夜は夜とて、酒肴の善美、土地の名物、鄙びた郷土の舞曲など、数々のお伽。そして宿殿の外には、夜空も焦がす大篝火を諸所に焚きつらね、 (侍どもが、かくまで、心をこめて、警固しておりますれば、かりそめにも、御道中とて、御不安のないように)  と、彼の眠りの安らかなるようにというところまで、少しの抜かりもなく、徳川家の誠意を示していた。  夜もすがら篝火にいぶされていた墨の富士は、暁と共に、茜色を映し、信長が本巣湖を出立する頃は、飛ぶ雲すらない一天に、くっきりと白妙の全姿を見せて、その裾野のゆるやかに野へつづく果てまで、鮮らかな線を描いていた。 「めずらしい。実に、このように、富士が全姿を見せることは、一年のうちでも、極めて稀です。右府様の富士御見物に、山霊木花咲耶姫にも、雲をはらって、お迎え遊ばしているものと思われます」  徳川家の人々は、富士にも意があるように、口々にきょうの快晴をたたえあった。 「富士。富士」  信長は馬上で幾たびも子どものように讃嘆を発した。  見飽きぬ面持で、 「見たか」  と、扈従の人々へも、感動を求めた。  こういう会心なものに対しながら、やはり平常の如き理性をもって、すこしも表に感激をあらわさない大人どもが、信長には、張りあいがない、飽きたらない。  ふと、彼は、 (秀吉がいたら)  と思ったが、また、 (いや、あれは何度も、見ているかもしれないな)  と、思い返した。  そんなことを考えながら何気なく振り向いた諸大将の列の中に、ちらと、日向守光秀の顔もあった。 (……何だ、あの顔は)  彼のひとみは、翡翠が水底を覗いたときのように、じっと、光秀の面を見ていた。 (彼。すこしも、今日の旅を楽しんでおらぬ。富士に対しても何の興もないらしい。法養寺のことを、まだくよくよしておるな。女々しいやつ)  思わず舌打ちが出た。自分が楽しもうとするとき、自分の眷族のなかに、ひとり楽しまぬものがあることを知ると、信長は、つつがない五体のなかに、ただ一本痛んでいる歯みたいに、気にかかって、楽しむ心の邪魔になった。  ──が、そのとき、彼の行くての先に、わあっという頗る大らかな喊声がきこえた。今朝、暗いうちに、道筋の先駆をして行った小姓衆が、各〻、若駒にまたがって、裾野の広さを吾がもの顔に駈け廻り駈け廻り、責め馬しているのだった。 「やりおるな」  信長はにことながめて、 「この広い天地へ出ては、魚のように、鳥のように、人も振舞いたくなるの。いで、予も一鞭」  つぶやいていたかと思うと、信長は衝動的に、いきなり鞭打って駈け出した。道案内の徳川家の諸臣、まわりの旗本、諸大将以下、行軍のものすべてを置去りにして、ただ一騎、十方碧落のうちへその影は、一羽の小鳥の如く溶けて行った。 「あッ」 「あれ」  驚いた人々は、口をあいたまま、あっけにとられていたが、しかしまだ平常の謹直と、裃を着た気持から解かれることなく、 「駈け続きましょうか」 「いや、それも」  などと徒らにこの周章えを周章えまいと自重していた。  兎でも追っていたか、彼方此方を、自然の児となって、縦横に跳びまわっていた騎馬の小姓衆は、どこかで、 「おおういッ……」  と呼ぶ声に、ふと、眸をその方へ放ってみると、自分らの仲間とも思われぬ絢爛美衣の一貴人が、鞭をあげてさしまねきながら、裾野を横に駈けてゆく。 「あッ。良い馬だな」 「誰だろ」 「迅いはず。馬も良いはず。お上だッ」 「なに。御主君か」  天を翔けてゆくような鞍のうえから、信長は此方へ向って、遠い声を張りあげていた。 「小姓ども、小姓ども。追いついてみよ。われと思うものはつづいて来い」  聞くやいな、小姓たちは、 「なにくそ。馬は劣っても、手綱にかけては、負けるものか」  草埃りを蹴たてて、われがちに、信長一騎を追いかけて行った。  上野ヶ原、井手野、富士の裾野の平らかな限りを、駈けに駈け、狂いに狂いして、馬も信長も、汗みずくに濡れた。 「ああ、爽やか」  燃えたつ汗の気とともに信長は空を仰いで云った。甲州在陣中、何か生理的に鬱屈していたものが、はじめて発散したように快適を覚えた。風邪気の微熱が除かれたように軽々した。  彼のからだの汗が肌に冷えて来たころになって、ようやく小姓衆は追いついて来た。信長は愉快そうに笑って、 「遅いぞ、遅いぞ。もし戦場であったら、汝らは、今日、またとなき大将首を取り逃がしたであろう」  と、戯れた。  すると小姓の一人、湯浅甚介が、 「ですから、以後は、わたくしども小姓組の厩にも、名馬を多くお備えおき下さいませ」  と、臆面なくいった。  その云い分が気にかなったとみえて、信長は、 「よしよし。申し出た順に、まずこの馬は、甚介にくれる。乗り負けするな」  と、すぐ鞍を降りて、手ずから馬の口輪を甚介に渡した。  甚介も、朋輩も、眼をまろくした。そこへ、厩中間の虎若、藤九郎、弥六、小熊、彦一などが大汗かいて駈けつけて来る。  ほどなく蘭丸も追いつき、その他の近習も寄って来た。  徳川家の士が、 「近くに、お茶屋の設けもございますゆえ、御休息遊ばして」  と、導いてゆく。  そこまで、信長は歩いた。 「汗におよごれの御容子。お湯殿でおぬぐい遊ばして、御服を召しかえられますように」 「風呂の用意もあるか」 「日中はおおかた御不用とはぞんじましたが、いつどこにても、お汗を洗うほどな設備はいたしおきました」 「さてさて、入念な」  徳川家の好遇には、不足を思うときがなかった。  湯を浴み、衣服をあらため、ここで一献を酌む。  そのあいだに、将士はみな弁当をつかう。徳川家から足軽のはしにまで、茶菓が頒たれる。  やがて出立。富士の人穴見物にゆく。  ここにも、お茶屋があり、一献進上となる。  ところへ、大宮神社の神官、社僧などが、大勢して、出迎えに見えた。信長は、 「みな、大儀だな。道の掃除まで行き届いたことに思う」  と、犒って、それぞれへ、杯を与えた。  神官達の案内で、頼朝の狩倉のあとを質し、白糸の滝を見物し、また、しばし浮島ヶ原に馬を立てて、舂く夕富士にわかれを告げながら、やがて大宮の宿駅へさしてこの行軍はゆるやかに流れていた。  部落部落は、篝を焚いていた。高いところから見ると夕霞が赤く虹のように地を染めていた。山家の人々がいかに驚嘆したろうか想像も及ばないほどだったにちがいないが、信長の眼には何里行っても掃き浄めた道の砂と、とざした草屋しか見えなかった。  だが、一歩大宮に入ると、軒ごとに万燈をともし、幕をもって壁をかこい、花を挿け、金屏風をすえ、人はみな晴衣を着て、町中、大祭のような賑いであった。  それに、徳川家康は、自身、譜代の家臣とともに、この大宮に待ちあわせて信長の迎えに出ていた。信長一行がここへ着いたのは、もうとっぷり暮れた宵であったが、その明るさは昼をあざむくばかりだった。 東海風流陣  その夜の泊りは、大宮神社の社内だった。本殿、拝殿をのぞく以外は、すべて信長一行のために、旅舎として宛がわれた。  わけても、信長の座所は、金銀珠簾の結構をつくし、彼が一夜の休息のために、すべて新たに普請したものと思われる。  とりわけ警固には万全を策した用意が窺われる。四方には木小屋を設け、信長の直属の旗本を配し、また三河武士の隊を、随所の木戸に置いて、座所にはいささかの不安も感ぜしめない。 「信長にたいし、かくまで、心を用いられ、御誠意のほど、奇特に存ずる」  容易に、満足を満足といわない信長も、その夜、家康の心からの歓待には、こういわずにいられなかった。 「──それにひきかえ、北条氏政の仕方は、心のそこが見え透いておる。甲府から大宮までの道すがらにも、随所に氏政の手勢が働き様は、この眼で確と見て参った。かくせぬものは、人の心のうそと真」  信長は酔後についこう胸中の不満をもらした。  こんどの甲州入りには、徳川家も北条家も、ともに兵を出して、信長を扶けることになっていたが、北条勢の働いたのは、この大宮近傍から裾野の寒村あたりを焼き払っただけで、さして重要な所には少しも、戦果を挙げていないのである。要するに、真実を示していない。そして献上物や口先だけで、信長の歓心を取り結ぼうとしたのだった。  が、そんな辞令や尋常な形式でごまかされる信長ではない。北条家からの献上の馬匹を、 (気に入らぬ)  と突っ返したのは、すでに無言の表示だった。  今頃は定めし北条氏政も内心安からぬものを抱いていよう。信長の近習たちは、こんどの経過と、信長の口吻から見て、そんな想像を持つのだった。 「夜も更けました。それに日ごと、山坂の御旅、おつかれにございましょう。いずれまた明朝」  家康は、頃をはかって、退席しかけた。すると、信長は、蘭丸に告げて、 「申しつけておいた品々を、徳川殿へ披露申せ」  と、いった。  蘭丸から目録をわたした。信長の嘉賞をあらわした礼物の品である。  一 御脇差吉光之作  一 御長刀作一文字  一 御馬黒ぶち  家康は篤く礼をのべて退った。名馬黒ぶちは、信長が常に離さず伴れている愛馬である。馬好きな信長としては何物にもかえ難かろうに、それをしも割愛して贈ったのは、誠意にたいして誠意を見せたものであろう。家康もまた、心ひそかに、満足を抱いた。  譎詐権謀を常道としているこの戦国に、二十年来、あざむかず、またあざむかれず、同盟のよしみを持ちつづけて来たものは、決して双方の利害だけによるものではない。信長も真実は知る人だった。家康も真実を尽した。氏政のようなごまかしをもってこの動流変貌の烈しいときを渡ろうとするような、あぶない芸当はする気もなかった。  明ければ、十三日。  信長は、払暁すでに、大宮を立って、浮島ヶ原から愛鷹山を左に見て進んでいた。旅行中も、寝るには晩く、起きるには夙い信長だった。朝の食事嗽いなどは暗いうちにすまし、宿舎を立ってから、一、二里も行った頃、ようやく、日の出を見るのが、ほとんど毎朝の例であった。  日々の行軍、日々の風流は、このときも随行していた信長の祐筆太田牛一が、その「信長公記」に克明に書いている。却ってその原文に見るほうが、髣髴と当時を偲ばしめるものがある。 四月十三日。払暁ニ大宮ヲ立タセラレ、愛鷹山ヲ左ニ御覧ジ、富士川ヲ乗越サセラレ、蒲原ニ御茶屋ヲ構ヘ、一献進上候也。 ココニ暫シ御馬ヲ立テラレ、吹上ノ松、和歌ノ宮ノ仔細ナド御訊ネナサレ、向フ地ハ伊豆ノ浦目羅ヶ崎カナドツラツラ聞キ及バセラレ候。 高国寺、吉原、三枚橋、伊豆相模ノ境目ニアル城ナドニモ、何カト訊ネ質シ給ヒ、由井ノ磯浪袖ヌレテ、ココニ興津ノ白浪ヤ、田子ノ浦浜、三保ヶ崎、三保ノ松原羽衣ノ名所名所ニ御心ヲツケラレ、江尻ノ南、久能ノ城、御尋ネナサレテ、ソノ日ハ江尻ノ城ニ御泊。  天候は毎日よかった。  十日の夜、裾野の宿で、夜雨の音を聞いただけであった。  本巣湖では、初時鳥を聞いた。この夜、江尻の城でも聞いた。 「夏も近いな」  信長はつぶやいた。  新緑を思い、近づく夏を思うにつけ、心のなかに、何かもう次の事業の段階に、忙しいものが駈けめぐっている。  次の段階。もちろんそれは中国攻略への決定的な方策でなくてはならない。  ──秀吉は如何に。  初時鳥の音に抱く彼の感慨は、詩でも歌でもなく、それであった。  彼に、詩はない。しかし、彼のいまなしている日々のことは、そのまま大なる長賦の詩であった。 四月十四日。夜ノ間ニ江尻ヲ立タセラレ、駿河府中ニ御茶屋立置、一献進上申サル。 今川ノ古跡、千本桜ナド詳シク尋ネ聞シメサレ、阿倍川ヲ越エ給ヒ、武田四郎勝頼ガ此地ニカカラレ候折ノ持舟ノ城トイフヲ問ハセラル。又、山中路次通リ、鞠子ノ川端ニ山城ヲ拵ヘ、防ギノ一城有。 名ニシオフ宇治ノ山辺ノ坂口ニ、御屋形ヲ立、ココニテ一献進上。花沢ノ古城、コレハ昔、小笠原肥前ガタテ籠リシ折、武田信玄、コノ城ヘ取懸リ、人数多討タセ、勝利ヲ失ヒシ城也。 山崎ニハ虚空蔵マシマス。能ク尋ネ訊カセラレテ、ソノ日ハ田中ノ城ニ御泊。  次の日の日誌を見ても、 十五日。田中、未明ニ御出立。  とある。  ほとんど毎朝、暗いうちの早立だった。  大井川は、馬で渉った。  それも家康の心くばりで、万一があってはならぬと、川の上下に何百人という人間を並べ、その人垣の間を信長の馬が渉って行く。  大天龍には船橋が架けられてあった。やがて浜松に入る。浜松は家康の居城ではあり、同盟国の城下なので、その歓迎には、領民もあげて祝意を表し、待遇も馳走も、善尽し美尽したものだった。  次の日。吉田泊り。  吉田城の酒井忠次に送られて、池鯉鮒から鳴海へ入った。これまでが徳川領、鳴海から先は織田領なので、ここには織田家の一門が凱旋の主君を出迎えに立っていた。で、徳川家の諸臣は、ようやくその大任を終って、各〻、ほっとした面持で引っ返した。  鳴海から清洲への道。それは十九日の旅だった。  この道、そこらの河、田畑、まろい山、麓の藁屋根、信長のひとみは、飽かず馬上から見まわしていた。 「変らぬものよ。……はや二十三年と経つに」  思い出は尽きない。永禄三年、時も今頃。  桶狭間へ。桶狭間へ。  あの真昼、汗と土けむりをあげて、駈け出して行った自分のすがたを。 「……若かったなあ」  さしもの彼も、今にして顧みれば、自分の元気にわれながら驚嘆を禁じ得ない。  よくもあれで勝てたと思う。まんまと今川義元の首を見ることができたと思う。  いま沁々、それを回顧すると、 (はて? あれは一体、自分のしたことか。自分だけの力だったか)  と、あやしまれた。  ふと彼は、自己の驕慢に気づいていた。天を怖れた。そうだ、以来わずか二十三年に、これほどの業を成して来たのは、ただに自分だけの力ではない。またわが将士だけの力でもない。  大きくは、神明の加護、小さくは、父母の余徳を思った。それあっての織田信長なるを今、みずからふかく考えた。  熱田之宮に下馬して、口を嗽し手を清め、まずは神前に額ずいた。  その夜の泊りは、なつかしの清洲であった。  故郷。  実に、はからずも、彼はこよいを、故郷にすごすのだった。  ──後に思いあわせれば、これこそ、産土の導きか、尽きせぬ宿縁か、それとも天が不言のうち、彼の人生の名残を尽させたものだろうか。  こよい四月十九日から、わずか四十余日の後には、本能寺の猛火の中に、その肉体を一塊の灰となしていた信長だったのである。  知らない。知るよしもない。それから四十余日後の身の運命など、もとよりこのときの信長が、思い寄るわけもない。  だが、あだかも彼の霊は、すでにその時からそれを予知していたように、清洲の城のおくつきに詣でては、久しぶりに父信秀の墓前を掃き、そこから暮靄遠く、政秀寺の方を眺めては、 「ああ、爺がいたら」  と、信長の眼に、うたた回顧を起させていた。  まだ少年の頃、老臣の平手中務政秀は、手にもおえぬ少年信長を諫めるため、老腹を切って死んだ。──信長の父信秀から、 (たのむぞ)  といわれた生前の一言を、ついに死をもって尽したのである。  この老臣のことだけは、信長も一生胆に沁みこんでいたとみえ、何かよいことがあるとかならず、 (爺がいたら……)  と、よく口にもらしていた。  その供養に建てた政秀寺はここから近い。清洲の城から信長は今こそ、爺や、安心してくれよと、胸のうちで云っていたにちがいない。  政秀ばかりではない。その老臣に、懇々、亡きあとを頼んで逝った信長の父も、おそらくは、 (あれが、成人しても、この清洲一城が、無事に保ってゆければよいが)  と、いまわの際まで、案じていたにちがいない。そしてその信長が、今日の如くあろうとは、夢にも思っていなかったであろう。  二十日は、岐阜に着く。  稲葉山の新緑に、また、ここは信忠の城でもあるし、信長はもうわが家に帰ったようなここちである。  だが、翌朝は、また早立。  ろくろの渡しでは、お座船飾りして、稲葉伊予が、船中で一献進上する。  垂井では、ここにも休息の屋形をしつらえて、犬山の御坊──去年武田家の質子から送り帰された信長の末子が──待ちもうけ、やはり一献進上の儀があり、今洲でも、佐和山でも、山崎でも、ほとんど一駅一駅に、茶屋屋形の設備と、織田領下の各臣が出迎えに出ていた。  その人々には。  丹羽五郎左衛門、山崎源太左衛門、不破彦三、菅屋九右衛門などがある。  湖畔に出ると、近くの長浜城から、羽柴家の臣が、秀吉の留守とて、名代に出ていた。 「筑前の老母は息災か」  と、信長はそれらの者に訊ね、振り顧って、長浜の城を見ていた。  こうしていよいよ彼が安土へ着いたのは、黄昏れ早めの時刻であったが、城下全体はこの日挙げて商いも休み、朝から凱旋軍の歓迎にあらゆる心をくだいていた。  さすがに、信長の騎馬、幕将たちが、城門に入るまでは、静粛、拝伏、ただ夕空に雲の紅々と燃ゆるのみだったが、長い長い軍隊の列も、ようやく終りになろうとし、陽も没して、夜の灯火がつきかけるや、わあっと、どこからとなく沸きあがった歓呼から歓呼の波を喚んで、そのまま街中は灯と踊りと酒と歌と音楽の坩堝になった。 「城下は、たいへんな騒ぎらしいのう。踊っているな。踊っているな」  信長は、湯殿のうちで、旅の垢をながしながら、街の光景を、想像していた。  踊りの歌声や、それにつれる笛太鼓、鉦の音までが、お湯殿まで聞えてくる。 「夜食は、大仰にすな」  湯からあがると、近習へいいわたしていた。十一日間の旅行中、いたるところの馳走攻めに、さすがの彼も、湯漬に梅干一つぐらいな味が恋しかった。  さらさらと、それを一、二碗すますと、すぐであった。 「信孝を通せ」  と、すぐ座をあらためていた。  神戸三七信孝が来てひかえていたのである。信孝は、四国攻めの陣に派遣を命ぜられたので、人数その他のさしずを仰ぎ次第、直ちに出発するつもりで、これへ見えたものだった。  夕刻、城中に入ってから、まだ二刻とも経っていないまに、もう信長は、四国征伐の方策に没頭していた。 「征って参ります」  三七信孝が退ると、 「留守中の文書を出せ」  と、それを見る。  多くは、陣中でも見ていたが、なお残余の書状やら何かの文書は山のようにつかえていた。  とりわけ、彼の重大な関心は、中国陣に関するものだった。  これも、刻々甲州在陣中から、報告は手にしていたが、二月九日以来、征旅まさに七十日、そのあいだの状勢の推移は、信長の予測をやや裏切って、どうも捗々しくない感がある。  静止を知らない彼の精力は、久しぶりに還って、安土に坐ると、そこに寛ぐ心地にはならないで、忽ち、次の段階に対して、いかに戦うか、必勝を期すか、思索苦吟、寝ても枕を耳に熱うしていた。 底本:「新書太閤記(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年6月11日第1刷発行    2010(平成22)年6月1日第20刷発行 初出:太閤記「読売新聞」    1939(昭和14)年1月1日~1945(昭和20)年8月23日    続太閤記「中京新聞」他複数の地方紙    1949(昭和24)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「太閤記」「続太閤記」です。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2015年9月1日作成 2015年11月16日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。