妖人ゴング 江戸川乱歩 Guide 扉 本文 目 次 妖人ゴング おねえさま 巨人のかげ 悪魔の笑い声 大空の怪物 水中の悪魔 電話の声 黒い怪物 クモの糸 大トランクの出発 水の底 トランクの中 ふしぎな家 巨人の顔 俊一君の危難 少年人形 白いライオン 赤いトンガリ帽 鉄のかんおけ 生か死か 水底の秘密 ゴングとは何者 ふたりの老人 二挺のピストル 名探偵の奥の手 さいごの手段 地底の声 防空壕の中 五ひきのネズミ 水中のゴング 地上と地下 穴の上から ゴングの秘密 少年探偵団ばんざい おねえさま  空には一点の雲もなく、さんさんとかがやく太陽に照らされて、ひろい原っぱからは、ゆらゆらと、かげろうがたちのぼっていました。  その原っぱのまんなかに、十二─三人の小学校五─六年生から、中学一─二年ぐらいの少年たちが集まっていました。その中にたったひとり、女の子がまじっていたのです。女の子といっても、もう高等学校を出た美しいおじょうさんです。えびちゃ色のワンピースを着て、にこにこ笑っています。少年たちの先生にしては、まだ若すぎますし、お友だちにしては、大きすぎるのです。  そのおじょうさんのそばに、少年探偵団の団長の小林君が立っていました。そして、みんなに、なにかしゃべっているのです。 「きょう、団員諸君に、ここへ集まってもらったのは、ぼくのおねえさまを、しょうかいするためだよ。」  そこにいる少年たちは、みんな少年探偵団の団員だったのです。少年たちはぐるっと輪になって、美しいおじょうさんと、小林団長をとりかこみ、好奇心に目をかがやかせながら、団長の話を聞いています。 「おねえさまといっても、ほんとうのおねえさまじゃないよ。明智先生の新しいお弟子なんだよ。つまり、えーと、少女助手だよ。」  そういって、小林君は、ちょっと、顔を赤くして頭をかくまねをしました。 「ぼくは先生の少年助手だろう。だから、マユミさんは少女助手といってもいいだろう? 花崎マユミさんって、いうんだよ。」  すると美しいおじょうさんがニッコリ笑って、みんなに、ちょっと頭をさげてあいさつしました。 「マユミさんは明智先生のめいなんだよ。先生のおくさんのねえさんの子どもなんだよ……。」  マユミさんは、それをひきとって、 「なんだか、いいにくそうね。わたしが説明するわ。明智先生は、わたしのおじさまなのよ。ですから、わたし、小さいときから探偵がすきだったのです。それで、こんど高等学校を卒業したので、大学へはいるのをやめて、先生の助手にしていただいたの。おとうさまやおかあさまも賛成してくださったわ。そういうわけで、わたし、小林君のおねえさまみたいになったの。みなさんもよろしくね。」 「じゃあ、ぼくたちにも、おねえさまだねえ!」  とんきょうな声で、そんなことをさけんだのは、野呂一平君でした。野呂君は小学校六年生ですが、からだの大きさは四年生ぐらいで力も弱く、探偵団でいちばんの、おくびょうものでした。あだ名はノロちゃんといいますが、けっしてノロマではなく、なかなかすばしっこいのです。小林団長をひじょうに尊敬しているので、むりにたのんで団員にしてもらったのです。あいきょうものですから、みんなにもすかれていました。 「ええ、そうよ。みなさんのおねえさまになってもいいわ。」  マユミさんが、そう答えたので、少年たちのあいだに「ワーッ。」という、よろこびの声がおこりました。 「わたしは、探偵のすきなことでは、あなたがたに負けないつもりよ。わたしのおとうさまは花崎俊夫という検事なの。ですから、わたし、いろいろおとうさまからおそわっているし、おとうさまのお友だちの法医学の先生とも仲よしで、法医学のことも、すこしぐらい知っているわ。大きくなったら、女探偵になるつもりよ。おとうさまは、なまいきだとおっしゃるけれど、わたし、そう決心しているの。ですから、みなさん、仲よくしましょうね。そして、わたしも、少年探偵団の客員ぐらいにしていただきたいわ。」 「客員じゃなくって、ぼくらの女王さまだよ。女王さま、ばんざあい!」  ノロちゃんが、また、とんきょうな声をたてました。少年たちも、それにひかれて、「女王さま、ばんざい。」と声をそろえましたが、けっきょくはマユミさんを、少年探偵団の顧問にしようと話がきまりました。つまり、おねえさま顧問というわけです。こんな美しいおねえさまと顧問とが、いっぺんにできたので、少年たちは元気百倍でした。  さんさんとふりそそぐ太陽の光の下で、マユミおねえさまの、ひきあわせがすみました。なんという、たのしい日だったでしょう。みんな、その日のことは、一生わすれられないほどでした。 巨人のかげ  それから四─五日たった、ある晩のことです。少年探偵団員の井上一郎君とノロちゃんとが、井上君のおとうさんにつれられて、銀座通りを歩いていました。  井上君とノロちゃんとは、たいへん仲よしでした。井上君は団員のなかでも、いちばん大きく力も強いのですが、ノロちゃんは、はんたいに、いちばんこがらで力も弱く、おくびょうものです。そのふたりが、どうしてこんなに仲がいいのか、ふしぎなほどです。  井上君のおとうさんは、若いころに、ボクシングの選手をやったことがあり、いまでも、ボクシングの会の役員をしているので、ボクサーがよく家へ遊びにくるのです。井上一郎君は、そういう人たちに、ときどき、ボクシングを教えてもらうので、少年ににあわない腕っぷしの強い子でした。学校でも、井上君にかなうものは、ひとりもありません。  そういうわけでノロちゃんは、しょっちゅう井上君の家へ遊びにいくのです。きょうも、井上君のおとうさんにつれられて、いっしょに映画を見せてもらった帰りに、銀座でお茶をのんで、新橋駅のほうへ歩いていたのでした。 「あらっ、ピカッと光ったね、いなずまかしら?」  ノロちゃんが、びっくりしたように、いいました。ノロちゃんは、かみなりがきらいなので、いなずまにも、すぐ気がつくのです。  しかし、いなずまにしてはなんだかへんな光りかたでした。空を見あげると、星が出ています。かみなりの音もしません。 「いなずまじゃないよ。なんだろう?」  井上君も、ふしぎそうにあたりを見まわしています。  すると、また、まっ白なひじょうに強い光が、銀座通りをかすめて、恐ろしいはやさで、サーッと通りすぎました。 「ああ、わかった。サーチライトだよ。デパートの屋上で、照らしているんだよ。」  井上君のおとうさんが、ノロちゃんを安心させるようにいいました。デパートは、もう、しまっていましたけれど、屋上からサーチライトを照らすことは、べつに、めずらしくもありません。 「あっ、また、光った。なんだか、いたずらしているみたいですねえ。」  井上君がいいますと、おとうさんもうなずいて、 「そういえば、へんだねえ。サーチライトなら、空を照らすのが、ほんとうだからね。」 と、ふしん顔でした。  そのサーチライトは、下にむけて、銀座通りを照らしているのです。光が新橋のほうに、ポツッと出たかとおもうと、銀座の電車通りを、矢のようにサーッと走って、たちまち京橋のほうへ通りすぎてしまいます。その光が通るときには、銀座の商店でも、電車でも、自動車でも、歩いている人たちでも、瞬間、ピカッと、まっ白に浮きあがって見えるのです。  それから、しばらくすると、またサーチライトが光りましたが、こんどは、京橋のほうから、サーッとやってきて、井上君たちが歩いている、まむこうの大きな建物を、まっ白に照らしたまま、動かなくなってしまいました。 「おや、へんだなあ。あの銀行ばかり、じっと照らしているよ。」  ノロちゃんが、気味わるそうにいいました。  いかにもへんです。銀行は窓も入口も、すっかりよろい戸がおろされて、三階だての前面が、まるで映画のスクリーンのように、白々と照らしだされていました。サーチライトは、そこへむけられたまま、すこしも動かないのです。  こちらの三人は、おもわず立ちどまって、そのほうをながめていました。  すると、まっ白に光った銀行の壁に、上のほうから、黒い雲のようなかげが、スーッとおりてきたではありませんか。まっ黒なでこぼこのかげです。  まん中に、出っぱったところがあります。その下に、深い谷のようにくびれたところがあります。そのくびれたところが、開いたり閉じたり、動いているのです。 「あっ、人の顔だ。ねっ、井上君、あれ人間の顔だよ。」  ノロちゃんが井上君の肩に手をかけて、ささやくようにいいました。  まっ白に光った三階だてのコンクリートの壁に、実物の千倍もあるような人間の横顔が、うつっていたのです。だれかが、サーチライトのすぐ前に、顔をだしているのです。それがくっきりと、むこうの壁にうつったのです。生きた人間の証拠には、口を動かしているではありませんか。谷間のような深いくびれは、巨人の口だったのです。その上の出っぱったところは、鼻です。鼻の上に目のくぼみがあり、その上に、太いまゆがあります。そして、頭は、ぼうぼうとのびた、かみの毛におおわれています。  ちょうどそのとき、銀行の前は、ふしぎに人どおりがとだえていましたが、そこへ、左のほうから、ひとりの女の人が歩いてきたのです。その人はサーチライトの光を、まぶしそうにしていましたが、まだ巨人のかげには気がつきません。あまり大きすぎて、近くではわからないのでしょう。  洋服を着た若い女の人でした。たぶんおじょうさんです。そのおじょうさんが、サーチライトの光の中にはいったとおもうと、どこからともなく、みょうな音が聞こえてきました。 「ウワン……ウワン……ウワン……。」 という、教会のかねの音のようなかんじでした。それがよいんをひいて、銀座の夜空いっぱいに、ひびきわたるのです。 悪魔の笑い声  おじょうさんは、その音にびっくりしたように、空を見あげました。どうも、空からふってくるような音だったからです。それから、見あげた顔を、ひょいと、銀行の壁にむけました。そして、おじょうさんは、壁のかげを見たのです。そのとき、巨人のかげは、口を大きくひらき、するどい歯をむきだして、おじょうさんの頭の上から、いまにも、かみつきそうにしていました。実物の千倍の顔が、おじょうさんの真上に、のしかかっていたのです。  すると、空からふってくる、あのぶきみな音が、にわかに大きく、耳もやぶれんばかりにひびきました。 「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」  おじょうさんは、はっとして、かけだそうとしましたが、なにかにつまずいて、巨人の顔の下に、バッタリたおれました。  巨人の顔は、グーッと、さがってきました。そして、かわいそうなおじょうさんに、ガッと、かみついたではありませんか。  そして、また、顔を上にあげて、大きな口が、カラカラ笑っているように動きました。 「ウワン……ウワン……ウワン……。」  ああ、悪魔が笑っているのです。あざけり笑っているのです。教会のかねのような音は、悪魔の笑い声だったのです。それが銀座の夜空いっぱいに、なりひびいているのです。どうしたのでしょう? おじょうさんは、たおれたまま起きあがりません。どこか、けがでもしたのでしょうか。それとも悪魔にくい殺されてしまったのでしょうか。でも、まさか、かげが人をくい殺すことはありますまい。  こちらでは、おくびょうもののノロちゃんが、井上君のおとうさんにしがみついて、顔をかくしていました。顔をかくしても、音だけは聞こえます。恐ろしい悪魔の笑い声が聞こえてきます。  井上一郎君は、勇気のある少年ですから、じっと、むこうのできごとを見つめていましたが、なにを思ったのか、いそいで、おとうさんの洋服の袖をひっぱりました。 「おとうさん、あのたおれた人、ぼく見おぼえがあります。つまずいて、たおれそうになったとき、わかったのです。マユミさんです。おねえさまです。」 「えっ、おねえさまってだれのことだね。」 「ほら、このあいだ話したでしょう。明智先生の助手のマユミさんです。ぼくらの少年探偵団の顧問になってくれた、おねえさまです。」 「ああ、そうだったのか。それじゃ、あそこへいってみよう。」  おとうさんは、そういって、ノロちゃんの手をひっぱって、歩道から電車通りを、よこぎろうとしましたが、むこうの壁を見て、おもわず立ちどまりました。壁のかげが、かわっていたからです。  巨人の顔は消えて、そのあとに、巨大なクモの足のようなものが、もがもがと動いていました。 「あっ、悪魔の手だっ! おねえさまを、つかもうとしている。おとうさん、はやくいきましょう。」  一郎君が叫びました。  銀行の壁いっぱいに、五本の指の爪の長くのびた手が、たおれているマユミさんの上から、つかみかかっているのです。実物の千倍の手が、つかみかかっているのです。そして、あのぶきみな悪魔の笑い声は、まだつづいていました。空から、ふってくるように、ウワン、ウワンと、なりひびいているのです。  三人が、むこうがわに、たどりついたときには、もうそのへんは、黒山の人だかりでした。そして、いつのまにか、銀行の壁はまっ暗になっていました。悪魔のかげも、サーチライトの光も消えてしまっていたのです。  井上君たちは、人をおしわけて、たおれているマユミさんに近づき、井上君のおとうさんが、そのからだをだき起こしました。 「しっかりしてください。どこか、けがをしたんですか。」  すると、マユミさんが目をあけて、夢からさめたようにあたりを見まわしましたが、井上君とノロちゃんに気がつくと、 「あらっ、少年探偵団のかたね。」 とうれしそうにいうのでした。 「けがはないのですか?」 「ええ、べつに、けがはしていません。でも、わたし、夢を見たのでしょうか。恐ろしいものが、あの壁に……。」 「夢ではありません。ぼくたちも見たんです。大きな顔のかげでしょう。もう消えてしまいましたよ。」 「ええ、あれを見たひょうしに、つまずいてたおれたのですが、そのまま、なにかにおさえつけられているような気がして、起きられなかったのです。恐ろしい夢に、うなされているような気持でした。わたし、いくじがないのねえ。はずかしいわ。」  そういって、マユミさんは、ニッコリ笑いながら立ちあがるのでした。  そこへ、おまわりさんがかけつけてきましたので、井上君のおとうさんが、さっきからのふしぎなできごとを話し、マユミさんが名探偵明智小五郎の新しい助手だということも、つたえました。 「デパートの屋上から、サーチライトを照らして、あんないたずらをやったのに、ちがいありません。けしからんやつです。デパートを捜索して、そいつを、ひっとらえてください。」  警官はうなずいて、 「よろしい。すぐに本署に連絡して捜索をはじめます。あなたがたは、この人をうちへ送ってあげてください。」 といいますので、三人はマユミさんといっしょに自動車に乗って、明智探偵事務所におくりとどけました。そして、明智探偵と小林少年に、こんやのできごとを話しますと、いつもにこにこしている明智探偵が、なぜか、ひどく心配そうな顔になって、井上君のおとうさんに、こんなことをいうのでした。 「これは、ただのいたずらではないかもしれません。銀座のまん中で、そんなことをやってのけるやつは、ただものではありません。ぼくは、これが、なにか大事件のはじまりになるのではないかと心配しているのです。警察がいくらデパートを捜索してもむだでしょう。これほどのことをするやつが、むざむざつかまるはずはありません。」  この明智探偵の心配は、そのとおりになりました。警察の捜索は失敗におわったのです。  警官隊はデパートの宿直員に案内させて、屋上はもとより、各階のすみずみまでさがしまわりましたが、あやしいやつを発見することはできなかったのです。そのデパートには屋上にサーチライトがすえつけてありました。そのサーチライトが、つかわれたことは明らかです。しかし、それが何者のしわざであるかは、すこしもわからないのでした。そして、名探偵がさっしたとおり、これは、世にも恐ろしい怪事件のはじまりだったのです。 大空の怪物  銀座のできごとがあってから、三日目の真夜中に、まるで恐ろしい夢にうなされているような、とほうもないことがおこりました。  もう夜の十二時をすぎていました。どんよりとくもった、星のない夜でした。渋谷駅の近くの盛り場も、電灯が消えて、すっかり暗くなっていましたが、それでも帰りのおそい人たちが、戸をしめた商店の前を、おおぜい歩いていました。  十二時十分ごろでした。歩いていた人たちが、おもわず立ちどまるような、みょうな音が、どこからともなく聞こえてきました。それは、ニコライ堂のかねのような音でした。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  みょうに、心のそこにこたえる、ぶきみなひびきです。それが、なんだか、空の方から聞こえてくるように思われるので、みんなは立ちどまって、まっ暗な空を、じっと見あげました。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  その音は、だんだん大きくなって、しまいには空いっぱいにひろがり、こまくもやぶれるほどの恐ろしいひびきになりました。  あれとそっくりです。三日前の銀座の空からふってきた、あのぶきみなわめき声と、そっくりです。しかし、渋谷の大通りを歩いている人たちは、銀座の音を聞いていないので、まだわけがわかりません。ただ、気味わるさにふるえあがって、キョロキョロとあたりを見まわすばかりでした。  そのうちに、みんなが見あげている空に、びっくりするほど大きな白いものが、ボヤーッとあらわれてきました。白い雲でしょうか? いや、こんなやみ夜に、雲が白く見えるはずはありません。百メートル四方もあるような、えたいのしれない白いものです。それが、もやもやと異様にうごめいているのです。  暗い大通りを歩いていた人たちは、ひとりのこらず立ちどまって、まるで人形にでもなったように、身うごきもしないで、空を見あげていました。ときたまとおる自動車まで、車をとめて、運転手も乗客も窓をあけて、空を見あげているのです。  交番の前では、おまわりさんが、火の見台では、消防署のおじさんが、やっぱり、人形のように動かなくなって、空を見つめていました。  もやもやと、うごめいているものが、だんだん、はっきりしてきました。 「あっ、悪魔の顔だ! 悪魔が笑っているのだ!」  大通りに立っていたひとりの男が、とんきょうな声をたてました。  それをきくと、そばに立っていた人たちは、ゾーッと、身の毛がよだつような気がしました。いかにもそれは人間の、いや、悪魔の顔だったからです。百メートル四方もあるような、とほうもなく巨大な悪魔の顔が、みんなの頭の上から、おさえつけるように、空いっぱいにひろがって、にやにや笑っていたのです。  まっ暗な空に、その悪魔の巨大な顔だけが、ぼーっと白く浮きでているのです。なんて大きな目でしょう。ちょっとしたビルディングほどもある、でっかい目がギョロギョロと光って、ときどき、パチッ、パチッと、またたきをしています。鼻はそれよりも、もっと大きく、口も、おなじように大きいのです。はばが三十メートルもあるような大きな口が、にやにやと笑っているぶきみさは、それを見なかった人には、とても、想像できるものではありません。  深夜の大通りに、「ワーッ。」というような、なんともいえない声が、わきおこりました。あまりの恐ろしさに、人びとがみんなそろって、叫び声とも、うめき声ともわからないような、ふしぎな声をたてたからです。  その声を、うちけすように、またしても、 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  そして、空いっぱいの悪魔の顔が、グワッと、その巨大な口をひらきました。ひとつひとつが、一メートルもあるような白い歯があらわれ、その両はしに、するどくとがった巨大な牙が、ニュッとつきだしています。上下の歯のおくには、どす黒い舌が、うねうねと動いているのです。  人びとのあいだから、また「ワーッ。」という、ぶきみなひめいがおこりました。そして、みんな、両手で耳をふさぎ、目をとじて、その場にうずくまってしまいました。あまりに恐ろしくて、見ていられなかったからです。聞いていられなかったからです。  まるで、おいのりでもするように、地面にうずくまったまま、じっとしていました。だれも、逃げだすものはありません。逃げたって、空の悪魔はどこまでも、ついてくるからです。ちょうどお月さまが、いくら走っても、どこまでもついてくるように。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  やがて、恐ろしい空の声が、みるみる小さくなり、かすかになって、スーッと、消えていきました。  それでも、人びとは、まだ空を見あげる勇気がありません。まるで、死んでしまったように身動きもしないのです。  しばらくしてから、ひとりの男が、おずおずと目をひらいて、そっと空を見あげました。 「あっ、消えてしまった。みなさん、もう悪魔の顔はなくなりましたよ。」  それを聞くと、みんな目をあいて空を見ました。空はまっ暗で、もう、なんにも見えません。みんなの口から、安心したような「はーっ。」という、ためいきの声がおこりました。そして、人びとは正気をとりもどし、あの空のおばけが、もう一度あらわれないうちにと、それぞれの家庭へいそぐのでした。  読者諸君、いったい、これはどうしたことなのでしょう。その夜、渋谷の大通りを歩いていた人びとが、みんなそろって、夢を見たのでしょうか。それとも魔法にかかったのでしょうか。百メートルもあるような大きな顔が、空の雲の中にあらわれるなんて、そんなばかなことが、おこるはずがないではありませんか。  しかし、夢でも、魔法にかかったのでもありません。あの空のおばけは、渋谷のぜんたいの人が、見ていたのです。夜中に目をさまして、窓から空をのぞいた人は、みんな、あれを見ていたのです。  このふしぎなできごとのわけは、やがてわかるときがきます。「ウワン、ウワン。」という声の出どころも、わかってくるのです。しかし、それは、もうすこしあとのお話です。それまでに、みなさんも、ひとつ、そのわけを考えてみてください。  このふしぎなできごとは、あくる日の新聞に、でかでかと書きたてられました。写真はとらなかったとみえて、出ておりませんが、画家が写生した天空の悪魔の顔が、大きくのっておりました。それが、全国の新聞にのったものですから、この怪事件は、日本じゅうのうわさの種になったのです。  新聞は、三日前の夜の銀座のできごとと、関係があると書いていましたが、だれしも、そう感じました。巨大な黒いかげや、空いっぱいの白い顔の事件には、なにかしら、えたいのしれない悪念がこもっているのを感じました。  しかし、その悪念がどんなものだかは、まったくわかりません。明智探偵がいったように、なにか恐ろしい事件のぜんちょうだろうと、想像するばかりで、それが、どんな恐ろしい事件なのか、だれにもわからないのでした。  それからまた五日ほどたったとき、こんどは、まっ昼間、またしても、えたいのしれない気味のわるいできごとがおこりました。 水中の悪魔  明智探偵の少女助手マユミさんのおとうさんの花崎俊夫さんは、世田谷区に大きな邸宅をもっている、りっぱな検事さんでした。花崎さんにはマユミさんのほかに、もうひとり、男の子がありました。マユミさんの弟で俊一君というのです。小学校の六年生ですが、ねえさんとちがって、探偵なんかきらいで、学校の勉強がすきな、おとなしい子でした。  それは日曜日の午後のことです。俊一君は勉強につかれて、広い庭の中をさんぽしていました。花崎検事のうちの庭は三千平方メートルもあって、森のような木立ちがあり、そのまん中に、小さな池まであるのです。俊一君は、いま、その池のふちを歩いているのでした。  約五十平方メートルほどの小さな池です。水が青くよどんで、池の底は見えません。そんなに深くはないけれど、どろ深い池でした。おとうさんは、俊一君たちの小さいときには、この池のそばへ行ってはいけないと、きびしくいいつけていました。ひじょうにどろ深いのではまったら、どろの中へ沈んでしまうからです。よくいう「底なし沼」なのです。  俊一君は、三年生ぐらいまでは、この池がこわくてしようがありませんでした。俊一君のうちのじいやが、「あの池には主がすんでいる。」といっておどかしたからです。ひとりで池のそばへいくと、目も鼻もない、のっぺらぼうの海ぼうずみたいなやつが、青くよどんだ水の中から、ヌーッと出てくるような気がしたのです。  しかし、俊一君は、一年ぐらいまえから、そんなことを、こわがらないようになっていました。俊一君は学校のよくできる、かしこい少年でしたから、もうおばけがいるなんて、ばかばかしいことを考えなくなったのです。それで、へいきで、池のまわりを歩けるようになっていました。  その日は、どんよりとくもった、いんきな天気でした。まだ三時ごろなのに、そのへんは夕方のようにうす暗いのです。大きな木が、森のように茂っているので、光がよくささないからでもあります。  俊一君は池のそばに立って、ぼんやりと、青くよどんだ水の上を見ていました。風がないので、水は一枚の大きな青ガラスのように、じっとしているのです。  そうしているうちに、なんだかへんな気持になってきました。なぜだかわかりませんが、世界じゅうで、じぶんが、たったひとりぼっちになってしまったような、さびしいさびしい気がしたのです。  すると、そのとき、池の水が、ゆらゆらとゆれました。 「コイがはねたのかしら。」  俊一君は、そう思って水のうごいた場所を見つめました。この池には大きなコイが、なんびきもすんでいたからです。  じっと見ていると、なんだか大きなものが、水の底から浮きあがってくるように感じられました。コイではありません。もっとずっと大きなものです。池いっぱいの大きなものです。  俊一君は、くらくらっとめまいがしました。あんまり、へんだったからです。まるで池の底が、ぐーっと、もちあがってくるように見えたからです。  水が青くにごっているので、よくは見えません。でも、その大きなものが、スーッと浮きあがってくるにつれて、だんだんはっきりしてきました。  俊一君は、いまわしい悪魔を見ているのではないかと、うたがいました。それは、じつに、とほうもないものでした。ゆらぐ水の中をすかして見るので、たしかにそうだとはいいきれませんが、それはべらぼうに大きな、ほとんど池いっぱいの人間の顔のように見えました。  俊一君は、もう動けなくなってしまいました。からだが石のようにかたくなり、足がしびれてしまって、どうすることもできないのです。心臓のドキドキする音が、じぶんの耳に、聞こえるほどです。  見まいとしても、目がそのほうに、くぎづけになって、見ないわけにはいきません。それは、やっぱり、人間の顔、いや、悪魔の顔でした。池いっぱいの巨大な悪魔の顔が、水面に浮きあがってきたのです。  そいつは、水の中で、一メートルもある大きな目を、ギョロギョロさせていました。畳一畳もある巨大な口の、まっかなくちびるのあいだから、牙のような二本の歯が、ニューッとのぞいていました。  顔だけでも、こんなに大きいのですから、こいつの胴体はどんなにでっかいか、思っただけでも気がへんになりそうです。その胴体が、池のどろの中に深くしずんでいて、頭だけが顔を上にむけて、浮きあがってきたのかもしれません。  いくら、こわさに身がすくんだからといって、このまま、ぐずぐずしていたら、どんなことが起こるかわかりません。巨人の顔が水の中から出たら、どうでしょう。俊一君のからだの百倍もあるような、恐ろしくでっかい顔です。そいつが池の上いっぱいに、ヌーッと出て、ぱっくり口をひらいたら、俊一君なんか、ひとのみです。  俊一君は、逃げるなら、いまだと思い、下っ腹に力を入れて、「なにくそっ!」と、がんばりました。すると、いままで動かなかったからだが、動きだしたではありませんか。  それからは、もう無我夢中でした。死にものぐるいで走ったのです。まるで、ころがるように走ったのです。  俊一君が走りだすといっしょに、恐ろしい音が聞こえてきました。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  俊一君は知りませんでしたが、読者諸君にはおなじみの、あのニコライ堂のかねのような音でした。巨人はもう池の上に顔を出したのでしょう。でなければ、水の中では笑うことができません。  そのとき、俊一君のおとうさんの花崎検事は、洋室の書斎で本を読んでいましたが、検事の耳にも、あのぶきみな音が聞こえてきたのです。花崎さんは、びっくりして、いすから立ちあがると、窓をひらいて外をながめました。  すると、庭のほうから、まっさおになった俊一君が、かけてくるのが見えました。なにか恐ろしいものに、追っかけられてでもいるように、死にものぐるいで走ってくるのです。 「おい、俊一、どうしたんだ。なにかあったのか!」  声をかけますと、俊一君は、おとうさんの顔を見て、助けをもとめるように、いっそう足をはやめて、窓の下にかけつけ、両手をひろげて、窓わくにとびつこうとしました。  そのようすが、だれかに追っかけられて、入口からまわっていては、まにあわないというように見えましたので、花崎検事も、いそいで両手をのばして、俊一君をひっぱりあげ、窓から書斎の中にいれて、ピシャリと、ガラス戸をしめました。 「おまえの顔色は、まるで、死人のようだぞ。いったい、なにがあったんだ? けんかでもしたのか?」  花崎さんは、そういって、俊一君をいすにかけさせ、テーブルの上にあったフラスコの水を、コップについで飲ませました。  それで、やっと、俊一君は、声を出すことができるようになりました。そして、ことばもきれぎれに、池の中からあらわれた怪物のことを、しらせました。  すると、花崎さんは笑いだして、 「ハハハ……、おまえ、気でもちがったのか。そんなばかなことが、あってたまるものか。よしっ、おとうさんが、いって見てやる。」 と、俊一君がひきとめるのを、ふりはらって、書斎の外へ出ていきました。日本座敷の縁がわから、庭へおりて、池のそばへ、かけつけたのです。  俊一君は、おとうさんが、あの巨人にであって、食いころされるのではないかと、気が気ではありません。といって、おとうさんのあとを追って、庭へかけだす勇気もなく、ただ、やきもきするばかりでした。  ところが、しばらくすると、花崎さんは、のんきそうににこにこしながら、庭のむこうから、帰ってきたではありませんか。そして、書斎にはいると、 「俊一、おまえは、まぼろしを見たんだよ。池の中には、なんにもいやあしない。おとうさんは、長い棒きれで、池をかきまわしてみたが、なんの手ごたえもなかったよ。あの小さな池に、そんな巨人がかくれていられるわけがない。おまえは、あんまり勉強しすぎて、頭がどうかしたのではないかね。」 と、心配そうにいうのでした。  それを聞くと俊一君は、またびっくりしてしまいました。あんなでっかいやつが、とっさのまに逃げられるはずはないし、そうかといって、もう一度池の中へ沈んでしまったというのもへんです。だいいち、あいつは魚類ではないのに、池の水の中で、どうして息をしていたのでしょう。そこまで考えると、俊一君は、やっぱり、じぶんの頭がどうかしたのかしらと、思わないではいられませんでした。あれが、目をさましていて夢をみる、まぼろしというものだろうかと、なんだかじぶんがこわくなってくるのでした。  しかし、俊一君は、まぼろしを見たのではありません。あの巨大な顔は、ほんとうに、池の底から浮きあがってきたのです。それでは、花崎さんが、かけつけたとき、その巨人が、池の中にも、池の外にも、いなかったのは、どうしたわけでしょう。そんな大きなやつが、昼間の町の中を、のこのこ逃げだしたら、すぐに大さわぎになるはずではありませんか。 電話の声  俊一君のおうちの池の事件があってから、また三日ほどたったある日のこと、麹町アパートの二階にある明智探偵事務所の客間で、ひとりの客が明智探偵と話をしていました。  黒いビロードのだぶだぶの上着をきて、大きな赤いネクタイをむすび、かみの毛をながくのばした、画家か詩人のような、三十五─六の男です。大きなめがねをかけています。  この人は人見良吉という、あまり有名でない小説家ですが、お金持ちとみえて、一月ほどまえに、このアパートへ越してきて、明智探偵と同じ二階の小さな部屋に、ひとりぼっちで住んでいるのです。人見さんは、探偵小説家ではありませんが、探偵めいたことがすきで、よく明智探偵のところへ、話しにくるのでした。 「じつにおどろくべき怪物が、あらわれましたね。あなたの助手のマユミさんがおそわれたところをみると、どうやら、あなたに挑戦しているらしいではありませんか。」  人見さんが、ひたいにたれかかる長いかみを、指でかきあげながらいうのです。 「そうかもしれません。とほうもないことを考えだすやつも、あるものですね。」  明智が、にこやかに答えます。 「それにしても、空に巨人の顔があらわれたり、池の中から、巨人の顔が、浮きあがったりしたのは、いったい、どういうしかけでしょうね。あなたは、あれも、人間のしわざとお考えですか。」 「むろん、そうですよ。ぼくには、手品の種もおおかたは、わかっています。」 「え、おわかりですって? ほう、そいつは、すばらしい。ひとつ、ぼくに聞かせてもらいたいものですね。」 「いや、それは、もうすこし待ってください。いつか、あなたに、くわしくお話しするときがあるでしょうから。」  そんな話をしているところへ、助手のマユミさんが、コーヒーを持ってはいってきて、ふたりのまん中のテーブルにおきました。 「あ、マユミさん。もうすっかり元気におなりですね。しかし、このあいだの晩は、おどろいたでしょう。」  人見さんが、声をかけますと、マユミさんは、はずかしそうに、ニッコリ笑って答えました。 「ええ、ふいに、あんな恐ろしいかげが、あらわれたものですから……。」  そのとき、となりの書斎のデスクの上においてある電話のベルが鳴りだしたので、明智はそこへはいっていって、受話器を耳にあてました。すると、ウワン、ウワン、ウワン、ウワンと、みょうな音が聞こえます。耳なりかと思いましたが、そうでなくて、むこうの電話口で、そんな音がしているのです。二十秒ほどで、その音がやむと、こんどは、へんなしわがれ声が聞こえてきました。 「きみは明智先生かね。」 「そうです。あなたはどなたですか。」 「いまの音を聞かなかったかね。あの音で、さっしがつかないかね。」  おばけのような、気味のわるい声です。明智探偵は、さてはと、感づきましたが、わざと、だまっていますと、せんぽうは、いよいよ、気味のわるいことをいいだすのです。 「きみの助手のマユミを用心したまえ。いいかね。いまから三日ののち、今月の十五日に、マユミは消えてなくなるのだ。きみがいくら名探偵でも、それをふせぐことはできない。……十五日を用心したまえ。」  そういったかと思うと、またしても、ウワン、ウワン、ウワンという、いやな音が、受話器の中から、ひびいてきました。  明智探偵は、そのまま受話器をかけて、にこにこ笑いながら、客間にもどってきました。人見さんは、その顔を、いぶかしげに見つめています。  マユミさんが、部屋を出ていくのを待って、明智探偵が口をひらきました。 「人見さん、あなたのおっしゃるとおりでしたよ。やつは、挑戦してきました。」 「えっ、あの怪物がですか。」 「そうです。今月の十五日に、マユミを消してみせるというのです。」 「えっ、消してみせる?」 「つまり、誘拐するというのでしょうね。予告の犯罪というやつですよ。」  そういいながら、明智はへいきで、にこにこしています。 「そうすると、あの巨人は、やっぱり、ふつうの人間だったのですね。しかし、だいじょうぶですか。あいては魔法つかいみたいな怪物ですからね。」 「あいてが魔法つかいなら、こっちも魔法を使うばかりですよ。まあ、見ていてください。」  明智は、自信たっぷりです。 「でも、犯罪を予告してくるほど大胆なやつですから、油断はなりませんよ。あいつには、どんなてがあるか、わからないじゃありませんか。」  小説家の人見さんは、いかにも心配らしく、いうのです。 「そういう怪物とたたかうのが、ぼくの役目ですよ。けっして、ひけはとりませんから、ご安心ください。」  明智探偵は、人見さんを、ぐっとにらみつけながら、きっぱりと、いいきるのでした。 黒い怪物  その夕方のことです。マユミさんは、おとうさんの花崎検事のおうちに、用事があって出かけた帰り道、電車をおりて、千代田区のさびしい町を、麹町アパートのほうへ、歩いていきました。  明るいうちに帰るつもりだったのが、ついおそくなって、もう、あたりは、うす暗くなっています。  かたがわは長いコンクリートべい。かたがわは、草のはえた広い空地です。明智探偵は、さっきの怪物の電話のことを、マユミさんには話さないでおきましたから、そのことは知らないのですが、このあいだの銀座の事件や、弟の俊一君が見た池の中の怪物のこともありますので、いくらしっかりもののマユミさんでも、こんなさびしい町を通るのは、やっぱり、うす気味がわるいのです。自動車に乗ればよかったと後悔しながら、いそぎ足に歩いていました。  ふと気がつくと、むこうの電柱のかげに、黒い大きなふろしき包みのようなものが、おいてあります。 「どこかの店員が、おきわすれていったのかしら?」 と思いましたが、ふろしき包みにしては、なんだか、へんなかっこうです。まるで、まっ黒なでこぼこの、大きな岩のように見えるのです。  マユミさんは、ふと恐ろしくなって、立ちどまりました。そして、じっとにらんでいますと、むこうの黒いものも、こちらを、にらんでいるような気がします。目はないけれども、なんだかにらんでいるような感じなのです。  マユミさんは、ギョッとしました。黒いものが、かすかに動いたように思ったからです。 「やっぱりそうだわ。あれは、怪物がばけてるんだわ。」  そう思うと、にわかに、胸がどきどきしてきました。そして、もと来たほうへ、ひきかえそうとしましたが、うしろをむけば、黒いやつが、いきなり、とびかかってきそうで、逃げることもできません。  マユミさんは、ヘビにみいられたカエルのように、じっと立ちすくんで、その黒いものを見つめているほかはないのでした。  やっぱりそうです。黒いものは、動いているのです。もぞもぞと動いているのです。  やがて、黒いものが、ヌーッと上のほうにのびました。そして、ふわ、ふわと、こちらへ近づいてくるではありませんか。  マユミさんは、からだが、しびれたようになって、声をたてることも、どうすることも、できません。  それは人間の形をしていました。人間が黒い大きなきれを、頭からかぶって、電柱のかげにうずくまっていたのです。  そいつは、まっ黒な幽霊のように、ふわふわと、こちらへやってきます。そして、三メートルほどに近づいたとき、かぶっていた黒いきれを、パッとひらいて、顔を見せました。  ああ、その顔! マユミさんは、まだ見ていなかったけれど、渋谷の空にあらわれた巨大な顔、俊一君が見た池の中の巨人、あれとそっくりの恐ろしい顔が、そこにあったのです。  夕やみの中で、はっきりは見えませんが、顔ぜんたいが、ぼんやりと白っぽくて、大きな目が、ぎょろりと、こちらをにらんでいます。  そいつが、グワッと、口をひらきました。耳までさけた大きな口、白い二本の牙が、ニューッととびだしています。 「マユミ、おまえの運命を聞かせてやろう。今月の十五日、おまえは、この世から消えてしまうのだ。ある部屋の中から、煙のように消えうせてしまうのだ。わかったか。いくら用心しても、だめだ、明智にたのんでも、だめだ。かわいそうだが、これが、おまえの運命なのだ。よくかくごをしておくがいい。」  いいおわると、どこからともなく、ウワン、ウワン、ウワン、ウワン、ウワンと、あのいやな音が聞こえてきました。銀座や渋谷のときのような、大きな音ではありません。もっと、ずっと小さな、やっと二十メートル四方に聞こえるぐらいの音でした。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  怪物は黒いきれを、頭からかぶって、サーッと、原っぱの中へ、遠ざかっていきます。それとともに、あの音も、だんだん、かすかになり、ついにまったく、聞こえなくなってしまいました。マユミさんは、しばらくのあいだ、魔法にしばられたように、足を動かすこともできないで、ぶるぶるふるえながら立っていましたが、やっと、魔法がとけたのか、からだが動くようになったので、そのまま、いちもくさんに、明智事務所に向かってかけだしました。 クモの糸  そして、いよいよ、その日がきたのです。きょうは、十五日です。  マユミさんはアパートの二階の、じぶんの寝室に、とじこもっていました。明智探偵が借りている部屋は、浴室や、炊事場をべつにして、五間もあるのですが、そのいちばん奥まったところに、マユミさんの寝室がありました。もとは小林少年の寝室だったのを、小林君は明智先生の寝室に寝ることにして、新しく助手になったマユミさんに、じぶんの寝室を、ゆずりわたしたのです。  マユミさんの寝室へいくのには、どうしても書斎を通らなければならないのです。そして、その書斎には明智探偵が、一日外出しないで、がんばっていました。隣の部屋には、小林君がいます。そのうえ、マユミさんは、寝室のドアに中からかぎをかけているのです。これだけ厳重にしておけば、いくら怪物でも、どうすることもできないはずでした。  二階のマユミさんの寝室の窓は、アパートの横がわにひらいていて、その下は地面まで十五メートルもありました。アパートの横ががけになっていて、建物は高い石がきの上にたっていたからです。  ですから、窓のほうは、すこしも心配することがありません。そんなところを、よじのぼってこられるはずはないのです。  マユミさんは、朝から、その寝室にとじこもり、昼の食事は、小林君にはこんでもらって、部屋の中ですませましたが、午後になると、そうしてじっとしているのが、たいくつになってきました。  いままで、本を読んでいましたが、それにも、あきてしまったのです。  午後三時ごろでした。窓の外の、がけの下から、パーンと、なにか爆発したような音が聞こえてきました。  マユミさんは、びっくりして、窓のほうをふりむきましたが、すると、そのガラス窓の外を、赤、青、むらさき、黄色などの、うつくしい玉が、いくつも、いくつも、つぎつぎと、空のほうへのぼっていくのが見えました。  空は、どんよりと曇っていましたが、その白っぽい雲の中へ、五色の玉が、スーイ、スーイとのぼっていくのです。  マユミさんは、あまりのうつくしさに、まぼろしでも見ているのではないかと、びっくりしましたが、よく考えてみると、それは色とりどりのゴム風船のようでした。がけの下で、風船屋がそそうをして、つないであった糸がきれて、ぜんぶの風船が、空へ飛びあがったのかもしれません。  しかし、こんながけの下へ、風船屋がくるなんて、ありそうもないことです。マユミさんは、ふしぎでしかたがないので、おもわず立って、窓のそばへいき、ガラスの戸をひらいて、下をのぞいてみました。  そのときです。じつに、恐ろしいことがおこりました。窓のほうから、一ぴきの巨大なクモが、黒い糸をつたって、スーッと、さがってきたのです。  ほんとうのクモではありません。クモのような人間です。ピッタリと身についた黒いシャツとズボン下をはき、顔には黒い覆面をした、クモそっくりの人間です。そいつが、じょうぶな絹糸でつくった縄ばしごをつたって、真上の三階の窓から、おりてきたのです。  あっというまにクモは、えものにとびつきました。えものというのはマユミさんです。うっかり窓をひらいて、外をのぞいたのが運のつきでした。それを待ちかまえていた巨大なクモは、パッとマユミさんにとびついて、クモの毒ではなくて、麻酔薬をしませた白布を、彼女の口におしつけ、ぐったりとなるのを待って、そのからだを横だきにすると、窓をしめておいて、かた手で縄ばしごをのぼりはじめました。  空中のはなれわざです。マユミさんをかかえて、縄ばしごをのぼるなんて、よほどの力がなくてはできないことです。下を見れば、ゾッとするほどの高さです。絹糸をよりあわせた縄ばしごは、人間ふたりの重みで、いまにも切れそうにのびきっています。  それが切れたら、いのちはありません。  やっとのことで、三階の窓にのぼりつきました。そして、まずマユミさんを、窓の中にいれ、じぶんもはいって、縄ばしごをたくりあげ、ピッタリと窓をしめて、カーテンをおろしました。  あとは、なにごともなかったかのように、しずまりかえっています。二階の窓も三階の窓もしまっているので、マユミさんが、窓から引きあげられたことは、だれにもわかりません。  怪物の予告は、そのままに実行されたのです。マユミさんは、寝室の中から、煙のように消えうせてしまったのです。  三階のその部屋は、このアパートで、たった一つのあき部屋でした。怪物は、それを利用したのでしょう。  かれは気をうしなっているマユミさんの手足を、厳重にひもでしばってから、黒い覆面をはずして、ニヤリと笑いました。やっぱりあいつです。ボヤッとした白っぽい顔、大きな目、牙のはえた大きな口、人間ににているけれども、人間ではありません。深い地の底からはいだしてきた悪魔の顔です。渋谷の空や、花崎さんの庭の池にあらわれた、あのいまわしい巨人の顔です。 「ウフフフ……、これでまず、第一の目的をはたしたぞ。明智のやろう、ざまをみろ。名探偵ともあろうものが、マユミをまもることができなかったじゃないか。ウフフフ……。」  怪物はそんなひとりごとをいって、部屋にある戸棚をひらき、そこにかくしてあった大きなトランクを、ひっぱりだしました。外国旅行用の大トランクです。  トランクのふたをひらくと、手足をしばったマユミさんをだきあげて、そっとトランクの中にいれ、またふたをしてかぎをかけ、それを戸棚の中にいれて戸をしめると、怪物は、そのまま部屋を出ていってしまいました。トランクは、夜になるのを待って、どこかへ運びだすつもりでしょう。  ああ、明智探偵は怪物のために、まんまと、だしぬかれたのでしょうか? ほんとうに怪物が勝って名探偵が負けたのでしょうか? いや、まだ、どちらともきめることはできません。  それから三十分もたったころ、じつにふしぎなことがおこりました。  怪物は三階のあき部屋をたちさったまま、どこへ姿をかくしたのか、夜になるまで、帰ってきませんでしたが、そのるすのまに、なんだか、わけのわからないことがおこったのです。あのあき部屋のドアがスーッとひらき、中からマユミさんが出てきたではありませんか。そして、幽霊のように、足音をたてないで階段をおり、明智探偵の部屋へはいっていきました。  だれかが、助けたのでしょうか。  それにしては、助けた人の姿が見えないのがへんです。  ひとりで、ぬけだしたのでしょうか。それも考えられないことです。  あんなに厳重に手足をしばられたうえ、トランクにはかぎがかかっていたのです。どうしてぬけだすことができましょう。  明智探偵の部屋へはいってきたのは、マユミさんの幽霊なのでしょうか? 大トランクの出発  さて、その夜の九時ごろのことです。同じアパートの二階に住んでいる小説家の人見良吉が、明智の応接間へはいってきました。 「明智先生、ぼく、これから、ちょっと旅行してきます。京都まで夜汽車です。二─三日で帰ります。小説の種さがしですよ。……おや、明智先生、あなた、顔色がよくないようですが、どうかなさったのですか。」  人見さんが心配そうにたずねました。明智探偵はつくえの前にこしかけたまま、がっかりしたような声で答えます。 「あなただから、うちあけますがね。じつは、やられたのです。マユミが消えてしまったのです。」 「えっ、マユミさんが? いつ? どこで?」 「密閉された寝室の中から、消えうせてしまったのです。ドアには中からかぎがかけてありました。窓は地面から十五メートルもあるので、窓から出はいりすることはできません。そのうえ、ぼくは、一日寝室のドアの見えるところにいたのです。つまり完全な密室です。マユミは、その密室から、煙のように消えうせたのです。」 「すると、あの怪物は、ちゃんと、約束をまもったわけですね。」 「残念ながら、そのとおりです。」 「で、てがかりは?」 「なにもありません。しかたがないので、警察の手をかりることにしました。警察はけさから東京付近に、非常線をはって、あの怪人物をさがしています。しかし、おそらく急には、つかまらないでしょう。あいては魔法つかいのようなやつですからね。」  いつもにこにこしている明智が、青い顔をして、しおれかえっています。名探偵が、こんなにがっかりしたようすを見せたのは、あとにも先にも例のないことです。 「そりゃ、ご心配ですね。それにしても、明智先生、あなたは、あの怪物を、みくびりすぎましたよ。ちゃんと電話で、予告しているんですからね。すくなくとも、きょうは、昼も夜も、マユミさんのそばに、つききりにしているほうが、よかったですね。ぼくが旅行をしなければ、なにかお手つだいをしたいのですが、残念です。……小林君はどうしました。このさい、先生と小林君とで、うんと活動していただかなければなりませんからね。」 「小林も、すっかり、しょげていますよ。……小林君、ちょっと、ここへきたまえ。」  その声におうじて、むこうのドアがひらき、小林少年がはいってきました。いつも快活な小林君が、きょうは、うなだれた顔をあげることもできないようすです。 「小林君、しっかりしたまえ。きみが明智先生を、はげましてくれなくちゃ、こまるじゃないか。」  人見さんに、そういわれても、小林君は、まだうなだれたまま、かすかに、「ええ。」と答えるばかりでした。  そこへ、廊下のほうのドアをノックして、アパートの玄関番のじいさんが、顔をだしました。 「人見さん、お呼びになった運転手がきました。お荷物はどこですか。」 「ああ、そうか、いまいくよ。……明智先生、どうか元気をだして、がんばってください。ではいってきます。」  人見さんは、かるくおじぎをして、廊下のほうへ出ていきます。明智探偵と小林少年は、ドアのところまで、それを見おくりました。  ふたりが、ひらいたままのドアの中に立って、見ていますと、人見さんの部屋から、人見さんと自動車の運転手が、大きなトランクを、ふたりがかりで、エッチラ、オッチラと、はこびだしてきました。重そうなトランクです。  二─三日の旅行に、そんな重いトランクがいりようなのでしょうか。明智探偵も、小林少年も、それを、うたがわねばならぬはずでした。ところが、ふしぎなことに、ふたりとも、ぼんやりした顔で、だまって、それを見おくっているのです。  人見さんと運転手は、トランクをはこんで、エレベーターの中へはいりました。そして、そのエレベーターがおりていってしまうと、明智探偵と小林少年は、ドアをしめて、部屋にもどり、立ったまま向かいあって、顔を見あわせたのです。  ふしぎなことがおこりました。ふたりの顔から、あの心配そうなかげが、スーッと消えていって、にこやかな顔になったのです。そして、ふたりは、おかしくてたまらないように、笑いだしたではありませんか。 「ウフフフ……きみの変装はよくできたね。さっきのように、うなだれていれば、だれだって、小林君だと思うよ。」  明智探偵がいいますと、小林少年とそっくりのあいてが、女の声で答えました。 「わたし、顔をあげちゃいけないと思って、ずいぶん、がまんしましたわ。でも、うまく、あの人を、だませましたわね。」 「あの先生、トランクの中に、きみのかわりに小林君がはいっているとも知らず、とくいになって運んでいったね。いまにびっくりしても、おっつかないようなことがおこるよ。」 「でも、先生、小林さん、だいじょうぶでしょうか。わたし、なんだか心配ですわ。」  小林少年に変装したマユミさんが、まじめな顔になっていいました。 「小林君は、いままでに、こういう冒険は、いくどもやっている。いざとなると、ぼくでもかなわないほど、頭のはたらく少年だからね。だいじょうぶ、怪物のすみかをたしかめて逃げだしてくるよ。……人見は怪物から電話がかかってきたとき、ぼくの目の前にいたのだから、かれは怪物の手下にすぎないのかもしれぬ。だから、うっかり、あいつをつかまえると、かんじんの怪物を逃がしてしまう心配がある。それできみがトランクにいれられたのをさいわいに、小林君に身がわりをつとめさせたのだよ。こうして、怪物のすみかを、さぐってしまえば、あとは警察の力で、ひとりのこらず、とらえることができるからね。」  明智探偵は、さいしょから人見という小説家を、うたがっていました。それで、小林少年に、そっと見はりをさせておくと、マユミさんが、トランクにいれられたことがわかりましたので、小林少年を身がわりにする計画をたてたのです。  小林君は、夕がた女の服をきて、マユミさんとそっくりの姿に、変装して三階のあき部屋にしのびこみ、針金をまげた道具で、トランクの錠をひらき、もう麻酔のさめていたマユミさんを助けだして、縄をといてやりました。  そして、かわりに、じぶんがトランクの中へはいり、マユミさんに、外から、さっきの道具で、錠をおろさせたのです。トランクには、いきがつまらないように、ほうぼうに、小さな穴があけてあるので、いくら長くはいっていても、命にべつじょうはありません。  その夕がた、トランクにいれられたはずのマユミさんが、三階の部屋を出て、明智探偵の部屋にもどったのは、そういうわけだったのです。  しかし、トランクづめになった小林君は、これから、どうなるでしょう? いくら冒険になれているといっても、あいてが、あの恐ろしい妖人ゴングです。もしや、いままでに、一度も出あったことのないような恐ろしいめに、あわされるのではないでしょうか。  新聞は、この怪物に、「妖人ゴング」という名をつけていました。ゴングというのはドラのことです。あのウワン、ウワン、ウワンという声が、まるでドラを、ゴン、ゴンとたたくように聞こえるので、だれいうとなく、妖人ゴングという、怪物にふさわしい名がついたのでした。 水の底  にせ小説家の人見良吉と、大トランクをのせた自動車は、アパートを出発して、東へ、東へと走りました。人見がなにもさしずをしないのに、運転手は、かってに車を進めていきます。この運転手も、怪物の手下にちがいありません。  十五分も走ると、勝鬨橋の近くの隅田川の岸につきました。その岸に、こわれかかった倉庫のような建物があります。人見と運転手は、大トランクを運んで、その建物の中にはいりました。  人見が、どこかのスイッチをおすと、てんじょうからさがっているはだか電灯が、パッとつきました。建物の中には、こわれたつくえやいすなどがころがっていて、いっぽうのすみには、わらやむしろが、うず高くつんであります。  ふたりは、大トランクを、そのわらとむしろの中へかくしました。 「仕事は、真夜中だ。トランクの中のむすめさんは、さぞ腹がへっているだろうが、がまんをしてもらおう。いずれ、向こうへついたら、どっさり、ごちそうをたべさせてやるのだからね。じゃ、こんどは、れいのところへ、やってくれ。」  人見はそういって、運転手をうながして、外に出ると、倉庫のドアにかぎをかけ、そのまま自動車に乗って、どこともしれず立ちさりました。  さて、その夜の一時ごろ、人見は倉庫へ帰ってきました。倉庫のうらは、すぐ隅田川ですが、そのまっ暗な岸に、一そうの小船がついていました。人見は小船の船頭に手つだわせて、大トランクを船につみ、じぶんも、船頭といっしょに乗りこみました。  船頭は、ろをこいで、東京港のほうへ船を進めます。モーターもない旧式な船です。船の上には、トランクのほかに、みょうなものが積んであります。それは潜水服でした。しんちゅうでできた、大ダコの頭のような潜水カブトが、やみの中に、にぶく光っています。  人見は、船が岸をはなれるのを待って、へんなことをはじめました。  まず、ポケットから、たくさんのネジクギを出して、大トランクの息ぬきの穴へ、それを、ひとつ、ひとつねじこみ、すっかり、息がかよわないようにしてしまいました。トランクの中には、小林君がしのんでいるのです。こんなに、息をとめられたら、死んでしまうではありませんか。しかし、十分や二十分はだいじょうぶです。トランクの中の酸素が、すっかりなくなってしまうまでには、そのくらいの、よゆうがあるはずです。  穴をつめてしまうと、こんどは、船の中に用意してあった長い針金を、トランクのまわりに、グルグル巻きつけました。その針金のさきには、大きななまりのおもりが、いくつも、くくりつけてあるのです。  それから、人見は、背広の上から、潜水服を身につけました。しんちゅうの大ダコのような、ぶきみな頭、全身をつつむ、だぶだぶのゴム製の服、その足にも、大きななまりのおもりがついています。  船が勝鬨橋から東京港にむかって三百メートルも進んだころ、船頭はろをこぐのをやめて、船をとめました。あたりはまっ暗です。ずっと向こうに、東京湾汽船発着所のあかりが見えています。  船の中では、潜水服を着た人見と、船頭とが、針金を巻いて、おもりをつけたトランクを、やっこらさと、ふなばたに持ちあげ、そのまま、ドブーンと、水の中へ落としてしまいました。  ああ、小林少年は、川にほうりこまれたのです。もう助かるみこみはありません。小林君はマユミさんの身がわりになって、とうとう、殺されてしまうのでしょうか。  トランクをほうりこむと、つぎに潜水服の人見が、手に小さい水中灯をさげて、ふなばたを乗りこえ、水の中へはいりました。ふつうの潜水服とちがって、空気を送る管も、水の底から引きあげてもらう綱もついておりません。そのかわりに、潜水服の背中のところに、酸素のボンベがとりつけてあります。ちっそくする心配はないのです。  足から腰、腰から腹、腹から胸と、まっ黒な水の中へ沈んでいき、やがて、大ダコの頭も、見えなくなってしまいました。あとには、水面にぶくぶくと、白いあわが浮きあがってくるばかりです。  のぞいてみると、水面の下のほうが、ボーッと明るくなっています。人見がさげている水中灯の光です。しかし、その光も、だんだん底のほうに沈んでいって、ついに見えなくなってしまいました。 トランクの中  トランクの中に、とじこめられていた小林少年は、いったい、どんな気持だったでしょう。  自動車につまれて十五分ほど走り、どこかの建物の中へおろされたかと思うと、あたりはシーンと静かになり、だれもいなくなったようです。  それから夜中までの、長かったこと!  夜光の腕時計をはめていたので、ときどき、それを見るのですが、時間のすすむのが、じつにおそいのです。九時半ごろから、真夜中までの三時間あまりが、まるで、一ヵ月のように感じられました。  だんだんおなかがへってくる、のどがかわいてくる、その苦しさというものはありません。それに、夕がたから、からだをまげたまま、トランクづめになっているので、手も足もしびれてしまって、どこか背中のほうが、ズキン、ズキンと、いたむのです。  なんど、トランクをやぶって逃げだそうと思ったかしれません。ピストルも持っているし、ナイフもあるのです。トランクをやぶるのは、さしてむずかしいことではありません。  しかし、小林君は、歯をくいしばって、がまんしました。せっかく敵のすみかをさぐるために、トランクにはいったのですから、いま逃げだしては、なんにもなりません。あくまで、がんばるほかはないのです。  ときどき、うとうとと眠りました。けっして、こころよい眠りではありません。あまりのいたさ、あまりのひもじさに、頭がしびれるようになって、おぼえがなくなったのです。眠るというよりは、気をうしなったのです。いくどとなく、気をうしなったのです。  しかし、やっとのことで、真夜中になりました。そして、どこかへ、はこびだされました。ゆらゆらと、いつまでもゆれています。船に乗せられたらしいのです。ギイ、ギイというろの音が、かすかに聞こえてきます。  そのうちに、トランクのあちこちに、コチコチと、金属のふれあう、かすかな音がしました。それは、息ぬきの穴に、ネジクギをさす音だったのですが、小林君には、そこまではわかりません。  しばらくすると、なんだか息ぐるしくなってきました。いままで、トランクの中でも、かすかなすきま風のようなものを感じていたのに、それがぱったりなくなり、外の物音も、まったく聞こえなくなりました。  そのうちに、船のゆれかたと違うゆれかたを感じました。ふなばたに持ちあげられたときです。そして、らんぼうに投げだされるような気がしたと思うと、エレベーターでおりるときのような、スーッと沈んでいく感じが、しばらくつづきました。そして、からだのほうぼうが、チクチクと、針でさすように、つめたくなってきました。いくらネジクギでとめても、どこかに、かすかなすきまがあるので、そこから水がしみこんできたのです。  小林君が、それを水だとさとるまでには、何十秒かかかりましたが、ハッとそれに気がつくと、さては、水の中へ沈められたのかと、気もとおくなるほど、おどろきました。  しかし、びっくりしたときには、もう沈むのがとまっていて、しばらくすると、横にズルズルとひっぱっていかれるような感じが、すこしつづき、それから、こんどは上の方へ持ちあげられ、人の手で運ばれるような気持がして、やがて、どこかへおかれたらしく、ぱったり動かなくなってしまいました。もう水の中ではなさそうです。小林君は、やっと、いくらか安心しました。  カチカチと、音がします。トランクのかぎあなへ、かぎをいれて、まわしているらしいのです。 「さては、ここで、ふたをひらくんだな。」 と思うと、こんどはまたべつの心配で、胸がドキドキしてきました。  パッと、トランクのふたがひらかれました。おいしい空気が、サーッと吹きこんできました。電灯がついているらしく、目をふさいでいても、まぶしいほど、まぶたが明るくなりました。  目をあいて、あたりを見まわしたい。きゅうくつなトランクから飛びだして、おもうぞんぶん手足をのばし、深く息をすいたい。しかし、小林君は、ここが、がまんのしどころだと思いました。  それで、トランクの中に、じっと、身をちぢめたまま、そっと、かすかに、まぶたをひらいて、まつげのあいだから、外をぬすみ見ました。  ひとりの人間が、トランクの上にかがみこんで、マユミさんに変装した小林君を、じっと見ているのです。あいつです。大きな白っぽい、うつろの目、長い牙のはえた恐ろしい口、その顔が、五十センチの近さで、映画の大うつしのように、小林君の目の前にせまっていたではありませんか。 ふしぎな家  小林君は、マユミさんにばけているのを、見やぶられてはたいへんですから、わざと目をほそくして、ぶるぶるふるえているような、ようすをしていました。  さいわい、部屋がうす暗いので妖人ゴングは、まだにせものとは気がつきません。いや、たとえ、部屋が明るくても、明智探偵におそわった小林君の変装術は、なかなか見やぶれるものではないのです。 「ウフフフ……、マユミ! こわいか。だが、安心するがいい。べつに、おまえをとって食おうというわけではない。ただ、しばらくのあいだ、おれのうちに閉じこめておくのだよ。ベッドもあるし、ごはんも三度三度、ちゃんと、たべさせてやる。おまえは、その閉じこめられた部屋から、一歩も、外へ出られないというだけのことだよ。さあ立つんだ。そして、あっちの部屋へいくのだ。……おいきみ、手をかしてやりな。」  すると、ゴングのうしろにいた、ひとりの部下が、ツカツカと、トランクのそばによって、小林君をひき起こすのでした。  小林君は、あくまで女らしいようすで、立ちあがる力もないように見せかけながら、トランクを出て、床の上にうずくまりました。そして、あたりを見まわしますと、そこは、じつにきみょうな部屋なのです。  四方とも壁ばかりで、窓というものが、ひとつもありません。まるで大きなコンクリートの箱のような部屋です。むこうにドアがひらいていますから、外に、廊下があるのでしょうが、そこは、まっ暗で、なにも見えません。部屋の中にも、小さな電灯がひとつ、ついているばかりです。 「それじゃ、このむすめを、れいの部屋へ閉じこめておきな。……マユミ、そのうちに、ゆっくり、話しにいくからな。あばよ。」  ゴングは、そういって、さようならというように、手をふってみせました。  すると、部下のあらくれ男は、小林君の手をひっぱって、ドアの外にでました。暗い廊下をひとつまがると、そこのドアをひらいて、小林君を中へつきたおしておいて、パタンとドアをしめ、外からかぎをかけると、そのまま立ちさってしまいました。  その部屋には、電灯がついていないので、まっ暗です。小林君は、万年筆型の懐中電灯を持っていましたが、それをつけるのは危険だと思ったので、手さぐりで壁をつたって、グルッと、部屋をひとまわりしてみました。ここにも、窓というものが、ひとつもありません。この家に住んでいる悪人たちは、太陽の光がこわいので、わざと、窓をつくらなかったのでしょうか。それとも、なにかほかに、わけがあるのでしょうか。  部屋のすみにベッドがおいてあることが、手さぐりでわかりましたので、小林君は、ともかく、その上に寝ころんで、からだを休めました。長い時間トランクの中で、きゅうくつな思いをしていたので、そうしてながながと、寝そべっていると、じつにいい気持です。 「やつらが、ぼくをマユミさんだと思いこんでいるうちに、この家のようすをさぐって、逃げださなければならない。それには、どんな計略をめぐらせばいいのだろう?」  小林君は目をつむって、いろいろと考えていましたが、いままでのつかれが出たのか、しらぬまに眠ってしまいました。悪人に閉じこめられ、これからどんなめにあうかしれないのに、グウグウ寝てしまうとは、なんというだいたんさでしょう。さすがは少年名探偵です。こんなことには、なれきっているのです。  どのくらい眠ったのか、ふと目をさますと、あたりは、やっぱりまっ暗でした。まだ夜が明けないのかしらと思いましたが、よく考えてみると、この部屋には窓がないのですから、昼間でも、まっ暗なのでしょう。  小林君は、夜光の腕時計を見ました。八時です。ゆうべ川へほうりこまれたのは、夜中の一時すぎでしたから、八時といえば、あくる日の朝にちがいありません。  八時なら悪人たちももう起きているでしょう。いつ、この部屋へやってくるかもしれません。小林君は、ベッドの上に、身をおこして、いざというときの用意をしました。  しばらくすると入口のドアのほうで、カタンという音がして、パッと、電灯がつきました。やみになれた目には、ひじょうに明るく、まぶしいほどでしたが、じつは十ワットぐらいのうす暗い電灯なのです。  小林君は、その電灯の光で、ドアを見ました。すると、ドアに小さな四角いのぞき穴があって、そのむこうから、何者かの目が、じっと、こちらを見つめていました。さっき、カタンと音がしたのは、その、のぞき穴のふたをひらく音だったのです。  小林君は、それを見ると、さも、こわそうな顔になって、いきなり、ベッドの上にうつぶしてしまいました。むろん、ほんとうに、こわいと思ったのではありません。マユミさんにばけているのですから、こわがって見せなければならないのです。  すると、カチカチとかぎをまわす音がして、スーッとドアがひらき、ゆうべの部下の男がはいってきました。パンと牛乳をのせたおぼんを持っています。 「マユミさん、なにもそんなに、こわがることはないよ。親分とちがって、おれは親切ものだからな。エヘヘヘヘ……。さあ、これをたべな。それから、トイレは、むこうのすみにあるよ。部屋から出すわけにいかないから、まあ、あれでがまんするんだよ。」  見ると、むこうのすみに、西洋便所のような白いせとものがおいてありました。そのそばの台の上に、大きな水さしと、コップと、洗面器もあります。ゆうべは、まっ暗で気がつかなかったけれど、ちゃんと、そこまで用意がしてあったのです。  そうして、昼の食事、夜の食事と、なにごともなく一日がたって、二日目の夜がきました。妖人ゴングは、一度も、姿をあらわしません。どこかへ出かけているのでしょうか。  小林君は、一日じゅう、じっとがまんをしていましたが、今夜こそは、このふしぎな家を探検する決心でした。夜のふけるのを待って、部屋をぬけだすつもりです。  腕時計が十一時になったころ、小林君はスカートの中にはいている半ズボンのポケットから、まがった針金をとりだしました。そして、ドアのそばへいって、その針金をかぎ穴にさしこんで、なにかゴチゴチやっていましたが、しばらくするとカチンと錠がはずれて、ドアがひらきました。  ある大どろぼうは、針金一本あれば、どんな錠前でもひらいてみせると、いったそうですが、探偵のほうでも、ときには、錠前をやぶる必要があるので、明智探偵は、そのやりかたを、小林君におしえておきました。ですから、小林君は、いつでも、ポケットに、その道具の針金を用意していました。いま、それが、役にたったのです。 巨人の顔  外の廊下はまっ暗です。悪人たちは、みんな寝てしまったのか、なんの物音も、聞こえてきません。  小林君は、しばらく、耳をすまして、じっとしていましたが、もうだいじょうぶと思ったのか、半ズボンのポケットから、万年筆型の懐中電灯をとりだして、それで足もとを照らしながら、音をたてないように、廊下を歩いていきました。廊下は白っぽい壁です。  じきに、まがり角があって、それから、廊下が左右にわかれていました。右のほうは、ゆうべ、トランクからだされた部屋のあるほうです。小林君は、そちらへいかないで、左にまがりました。  すこしいくと、大きな白っぽい扉につきあたりました。その扉には錠がかかっていて、そこからさきへはいけません。小林君はしかたがないので、あとにもどろうとしました。  そのときです。二メートル四方もある、その大扉から、とつぜん、とほうもないものが浮きだしてきたではありませんか。  巨人の顔です。ギラギラ光った巨大な目が、こちらをグッとにらみつけています。一メートルもある大きな口が、グワッとひらいて、白い牙があらわれました。そして……、 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  あのゴングの声です。ドラを鳴らすような、ものすごいひびきです。  小林君は、いきなり逃げだしました。ところが、廊下を走っていくと、また、目の前に、あの顔が、ボーッとあらわれてきたではありませんか。そして、巨大な口を、みにくくゆがめて、「ウワン、ウワン、ウワン……。」と笑うのです。  窓のない家には、ばけものがすんでいたのです。しかも、巨大な顔ばかりで、からだのないばけものです。  小林君は、無我夢中でじぶんの部屋に逃げもどり、ピッタリとドアをしめて、中から、とってをおさえていました。さすがの小林君も、このとほうもないばけものには、すっかりおびえてしまったのです。  まもなく、廊下に足音が聞こえてきました。だれか、やってくるのです。ドアのとってが、外からグーッとまわされました。  小林君は、いっしょうけんめいに、とってをにぎっていましたが、外の力のほうが強くて、とうとう、パッと、ドアがひらきました。 「きさま、女ににあわない、だいたんなやつだなっ。……ひょっとすると……。」  とびこんできて、やにわに、どなりつけたのは、あのいやらしい怪物ゴングでした。  かれは何を思ったのか、ツカツカと、小林君のそばによると、ランランと光る目で、じっと、その顔をにらみつけていましたが、ヒョイと手をのばしたかと思うと、小林君の頭の毛をつかんで、いきなり、かつらを、めくりとってしまいました。  すると、マユミさんにばけた女のかつらの下から、小林君の少年の頭が、あらわれたのです。 「きさま、にせものだなっ。やっぱり思ったとおりだ。男の子が女に変装していたんだ。きさま、なにものだっ? あっ、わかったぞ。小林だな、明智の弟子のチンピラ探偵だなっ。ちくしょう! おれを、まんまといっぱいくわせやがった。」  ゴングは、いまいましそうに、どなりつけたあとで、あごに手をあてて、ちょっと考えていましたが、なにか決心したらしく、ぶきみに笑って、 「ようし、このお礼には、いいことがある。おれは人を殺すのがきらいだから、殺しはしないが、きさまを、おもしろいものの中へいれてやる。運がわるければ、そのまま死んでしまうのだ。だが、そんなことは、おれの知ったことじゃない。おれが手をかけて殺すのじゃないのだからな。ウフフフ……、こいつは、うまいおもいつきだぞ。ウフフフ……。」  ゴングが笑うと、どこからともなく、あのぶきみな音が、ウワン、ウワン、ウワン……と、聞こえてくるのでした。  ああ、ゴングのおもいつきとは、いったいどんなことなのでしょう。殺すのではないけれども、運がわるければ、死ぬかもしれないとは、なんという恐ろしいたくらみでしょう。 俊一君の危難  お話は、すこしもとにもどって、そのおなじ日の夕方のことでした。マユミさんの弟の、小学校六年生の花崎俊一君は、学校に野球の試合があって、帰りがおそくなり、午後五時すぎに、友だちの野上明君といっしょに、おうちへいそいでいました。世田谷区のさびしいやしき町です。  妖人ゴングの巨大な顔が、俊一君のうちの池の中にあらわれたほどですから、俊一君も、ねえさんのマユミさんと同じように、妖人のために、ねらわれているのかもしれません。明智探偵は、それを心配して、俊一君のおとうさんの花崎検事と相談して、俊一君を、ひとりで歩かせないことにしました。  いま、いっしょに歩いている野上君は、おなじ六年生ですが、学校でも、いちばんからだが大きく、いちばん力の強い少年で、また、少年探偵団の一員なのでした。それで、この野上少年にたのんで、俊一君の護衛をつとめてもらっているわけなのです。  そればかりではありません。明智探偵はもっと用心ぶかかったのです。ごらんなさい。ふたりの少年が歩いていくうしろから、まるでふたりを尾行でもするように、みなりのきたない子どもたちが、ひとり、ふたり、三人、四人、五人、遠くはなれてついてくるではありませんか。  それは、小林少年がつくったチンピラ別働隊の子どもたちです。上野公園で悪いことばかりしている浮浪少年を集めて、すこしでもよいことをさせようと、少年探偵団の別働隊をつくったのです。はじめは二十人以上いたのが、いまでは五人になっています。世のなかがよくなって、浮浪少年がへってきたからです。  この五人のチンピラ別働隊が、やっぱり、俊一君の護衛をつとめているのです。すばしっこい連中ですから、いざとなったら、なかなか役にたちます。  そのとき、人どおりのない広い道のうしろのほうから、砂けむりをあげて、一台の自動車が近づいてきました。そして俊一君のそばまでくると、ぐっと速力をおとし、俊一君とならんで徐行していましたが、とつぜん、パッと、自動車のドアがひらき、中から太い手がニューッとでて、あっというまに、俊一君を、車の中へ、ひきずりこんでしまいました。 「あっ、なにをするんだっ!」  いっしょに歩いていた野上君が叫びましたが、もう、あとのまつりでした。自動車はパタンとドアをしめて、グングン、むこうへ走っていきます。  野上少年は、いきなりかけだして、自動車のあとを追いました。それといっしょに、うしろからついてきた五人のチンピラ隊も、かけだしました。 「花崎くーん! 花崎くーん!」  みんなは、口ぐちにわめきながら走りました。青い自動車を追っかける六人の少年、しかもそのうちの五人は、きたならしい浮浪少年です。じつに、へんてこな光景でした。  しかし、いくらいっしょうけんめいに走っても、人間が自動車に追いつけるものではありません。だんだんはなれていくばかりです。  やがて、あまりにぎやかではないが、自動車のよく通る大通りにでました。そして、しあわせなことには、むこうから、からのタクシーが走ってきたのです。  野上少年が、「オーイ。」と呼びとめると、タクシーはとまりました。 「ぼく、少年探偵団のものです。あの青い自動車を追っかけてください。あいてに気づかれないように。……ぼくの友だちが、さらわれたのです。」  野上君がたのみますと、そのタクシーの運転手は、すぐに承知してくれました。まだ二十代の快活な青年運転手でした。  野上君が、ドアをひらいて乗りこむあとから、五人のチンピラも、われさきにと車の中へおしこんできました。三人の座席に、六人がかさなりあって乗ったのです。 「ワー、みんな乗るのかい。きみたちは学生じゃないね。それでみんな少年探偵団なのかい?」  運転手が、びっくりして、たずねました。 「うん、そうだよ。おれたちは、チンピラ別働隊っていうんだ。明智先生と、小林さんの弟子だよ。」  運転手はそれを聞くと、べつにもんくもいわずに車を走らせました。 「あいてに気づかれないようにって、むずかしいな。よっぽど、あいだをへだてなくちゃね。」  青年運転手は、この冒険が気にいったらしく、おもしろそうに、そんなことをいいながら、それでも、たくみに自動車の尾行をつづけるのでした。  だんだん、道がさびしくなり、両がわに、畑や森が見えてきました。もう世田谷区のはずれです。それに、日がくれて、あたりがうす暗くなってきました。  むこうに大きな建物が見えます。日東映画会社の撮影所です。  青い自動車は、その撮影所の裏がわのいけがきの外でピッタリとまりました。それを見ると、 「とめて! これからさきへいくと、あいてに気づかれる。ぼくたち、ここでおります。待っててくださいね。」  野上君が運転手にたのみました。 「うん、いいとも、きみたちが、どんな活躍をするか、ここから見ているよ。」  青年運転手は、たのしそうに答えました。  少年たちは、車をおりると、はなればなれになって、ものかげをつたいながら、青い自動車に近づいていきました。  青い自動車のドアはひらいていました。そして、そこから、力の強そうな、ふたりの男が、俊一君をつるようにして、外に出ました。  ああ、ごらんなさい。俊一君は、手足をぐるぐる巻きにしばられ、さるぐつわまで、はめられているではありませんか。 少年人形 「あそこまで、いってみようか。」  チンピラのひとりが、そっと野上君に、ささやきます。 「もうすこし、待つんだ。ひょっとして、みつかったら、たいへんだからね。」  野上少年は、チンピラの肩をおさえ、とめました。あたりは、だんだん暗くなってきます。夕方と夜とのさかいめです。もう二十分もすれば、すっかり日がくれてしまうでしょう。  じっとがまんをして、十分ほども待っていました。  すると、ふたりの悪者が、さっきの建物の角から姿をあらわし、なにか小声で話しながら、こちらへやってくるのです。 「おい、みんな、どっかへ、かくれるんだ。そして、あのふたりが、自動車に乗って行ってしまうまで、待つんだ。」  野上君が、小さい声で、チンピラたちに命令しました。  すると、いけがきからのぞいていたチンピラたちは、パッと、地面にうずくまり、はうようにして、むこうの木のしげみの中へ、姿をかくしてしまいました。なんというすばやさでしょう! チンピラたちは、こんなことには、なれきっているのです。  野上少年も、そのあとにつづいて、木のしげみに、もぐりこみました。そして、木の葉のすきまから、じっと、のぞいていますと、ふたりの悪者は、いけがきのやぶれめから、外に、出てきました。  ふたりのほかに、俊一少年の姿は、どこにも見えません。いったい、どうしたのでしょう? 手足をしばられ、さるぐつわをはめられた俊一君は、撮影所の建物のどこかに、とじこめられてしまったのでしょうか。  野上少年は、いっこくもはやく、俊一君を助けださなければならないと思いました。悪者のあとを追うよりも、俊一君の命のほうがたいせつです。  やがて、悪者たちは、そこにおいてあった自動車に乗って、どこともしれず、たちさってしまいました。少年たちの自動車は、ずっと遠くのほうに待っていたので、悪者は、それと気がつかないで、すれちがって行ったのです。  もうだいじょうぶと思ったとき、野上君は、五人のチンピラに合図をして、みんなが、木のしげみからはいだしました。 「これから、撮影所の中を探すんだ。俊一君は、きっと、どこかにとじこめられている。ほうっておいたら、死んでしまうかもしれない。いっしょうけんめいに探すんだよ。」  野上君がいいますと、チンピラたちは、コックリ、コックリと、うなずいてみせて、すぐに、いけがきのやぶれめから、中にとびこんでいくのでした。  建物の角をまがると、そこに広いあき地があって、撮影につかう大道具や小道具が、あちこちにおいてあります。はりこの鳥居だとか、石灯籠だとか、石膏でつくった銅像のようなもの、そのほか、いろいろのものが、雨ざらしになって、おいてあるのです。  そのなかに、白い石膏のライオンがうずくまっていました。日本橋の三越の玄関においてある、青銅のライオンと、よくにた形です。あれほど大きくありませんが、ほんもののライオンよりは、すこし大きいくらいです。それが、やはり、石膏の四角な台の上にうずくまっているのです。全身まっ白のライオンです。チンピラのひとりは、ライオンのそばによって、その足をなでながら、 「こんなの一ぴきほしいなあ!」 と、つぶやきました。すると、みんなが、そのそばによって、ライオンの恐ろしい顔を見あげるのでした。  それから少年たちは、撮影所の中の建物から、建物へと、まわり歩きましたが、どの建物も、みんなかぎがかかっていて、はいれません。  ただ一つ、大きなスタジオだけは、夜になっても、まだ撮影をつづけていて、入口がすこしひらいていたので、野上君は、その中へはいっていきました。 「おい、おい、きみはどこの子だい? むやみにはいってきちゃいけないよ。」  入口のうす暗いすみっこに、番人がこしかけていて、野上君をひきとめました。 「悪者が、この撮影所の中に、ぼくの友だちをかくしたのです。花崎俊一というのです。手足をしばって、さるぐつわをはめて、自動車でここへつれてきて、裏のいけがきのやぶれめから、しのびこんだのです。」 「ほんとかい? きみ。そんなことをいってごまかして、撮影を見にはいるんじゃないのかい?」 「そうじゃありません。ほんとうです。ふたりのおとなが、ぼくぐらいの子どもをつれて、この中へはいりませんでしたか?」 「そんなもの、はいらないよ。きょうは、子どもは、ひとりもはいらなかった。どっか、ほかを探してごらん。」  番人は、野上君のいうことを信じないらしく、いっこう、とりあってくれません。  野上君はしかたがないので、ほかを探すことにしました。入口のあいているのは、あとは事務所の建物ばかりです。そこへ、はいってみましたが、もう夜なので、だれもおりません。宿直の人がのこっているにちがいないと、ほうぼう探しても、ふしぎに人の姿が見えないのです。  でも、まさか、悪者が俊一君を、事務所の中へつれこんだはずはないので、また、外へ出て、裏のほうへ歩いていきますと、むこうのうす暗いなかから、なんだか小さなやつが、ピョン、ピョンと、とぶように走ってくるではありませんか。近づくのを見ると、それはチンピラ隊のひとりでした。 「あっ、野上さん、きてごらん。むこうに、へんなものがあるよ。」 「へんなものって?」 「いろんなものが、ごちゃごちゃおいてある。ひょっとしたら、俊一さんは、あそこに、いれられたのかもしれないよ。」 「よしっ、いってみよう。」 「野上さん、懐中電灯、持ってるの?」 「うん、ちゃんと、ここに持ってるよ。探偵七つ道具の一つだからね。」  野上少年は、そういって、ポケットをたたいてみせました。  チンピラに案内されて行ってみますと、それは撮影に使う小道具が、いっぱいならべてある道具部屋でした。どうしたわけか、そこの戸には、かぎがかかっていなかったのです。  ふたりは、懐中電灯をつけて、中にはいりました。  長っぽそい部屋の両がわに、ずっと棚があって、いろいろなものが、ならんでいます。むかしの行灯だとか、煙草盆だとか、いろいろな形の掛け時計、置き時計、むかしのやぐら時計、花びんや置きもの、本棚もあれば、洋酒のびんをならべる飾り棚もあります。それから三面鏡や、むかしのまるい鏡と、鏡台、まるで古道具屋の店のようです。 「あっ、あすこにいる!」  チンピラが、とんきょうな声をたてて、野上君に、しがみついてきました。  ギョッとして、そのほうへ、懐中電灯をむけますと、そこに、俊一君らしい小学生服の子どもが、壁によりかかっているではありませんか。  野上君は、「あっ。」といって、かけよりました。  近よって、懐中電灯で、その子どもの顔を照らしました。ちがいます。俊一君ではありません。それじゃ、いったい、どこの子なのでしょう。いや、どこの子でもありません。それは人間ではなかったのです。学生服をきた人形にすぎなかったのです。  よく見ると、少年人形のそばに、おとなの男や女の人形が、三つも四つも壁にもたせかけてありました。みんな撮影に使う人形なのです。 「なあんだ。人形かあ。おれ、てっきり俊一さんだと思っちゃったよ。」  チンピラが、がっかりしたように、つぶやきました。  そのときです。道具部屋の入口から、もうひとりのチンピラが、かけこんできました。 「野上さん、こんなとこにいたのか。ずいぶん探したよ。……みつかったよ。みつかったよ。俊一さんのかくれているとこがさ。」  そのチンピラは、息せききっていうのでした。 白いライオン  チンピラについていってみますと、さいしょはいってきたときに通った、あき地のまん中にある白いライオンのまわりに、三人のチンピラ隊員が、集まっていました。 「ここだよ。このライオンの中に、だれかいるらしいんだよ。ほら、聞いてごらん。」  チンピラのことばに、耳をすましますと、石膏のライオンの中から、コツコツと、みょうな音が聞こえてきます。だれかがくつで、ライオンのからだの内がわを、けりつづけているような音です。  野上君は懐中電灯をつけて、四角い石膏の台と、ライオンのからだとのすきまをしらべながら、グルッと、ひとまわりしてみました。  すると、すこし、すきまの広いところがありましたので、そこに口をつけるようにして、 「だれだ? この中にいるのはだれだ? 俊一君じゃないのか?」 と呼びかけました。 「ううん……。」  中から、かすかに人間のうめき声がもれてきます。俊一君は、さるぐつわをはめられていました。ですから、ものがいえないのでしょう。ただ、うなるほかはないのでしょう。 「よしっ、みんなで力をあわせて、このライオンのからだのこちらがわを、持ちあげてみよう。」  チンピラ隊員が、ぜんぶ野上君のそばに集まってきました。そして、台とライオンとのすきまに、手をかけて、一、二、三のかけ声で、力まかせに持ちあげました。  すると、うすい石膏とみえて、どうにか持ちあがるのです。ライオンのからだが横にかたむいて、二十センチほどのすきまができました。  そのすきまから、懐中電灯を照らしてみますと、中にひとりの少年がころがっていました。さるぐつわをはめられ、手足をしばられています。たしかに、花崎俊一君です。  チンピラのひとりが、どこからか、てごろな棒ぎれを持ってきて、持ちあげたすきまの、つっかい棒にしました。しかし、それでは、まだせまくて、俊一君を、外へひきだすことができません。 「もうすこし、長い棒がいいよ。」  だれかがいいますと、またべつのチンピラが長い棒を拾ってきました。じつに、すばしっこいものです。  みんなが力をあわせて、うんとこしょと、高く持ちあげておいて、その長い棒をささえにしました。そして、そのすきまから、やっとのことで、俊一君をひっぱりだすことができたのです。  みんなで、俊一君の手足の縄をとき、さるぐつわをはずしました。 「俊一君、ぼくだよ。野上だよ。ここにいるのは、少年探偵団のチンピラ別働隊の子どもたちだ。だいじょうぶかい? けがはしなかったかい?」 「うん、だいじょうぶだよ。きみたちみんなで、助けてくれたんだね。ありがとう。」  縄をとかれた俊一君は、起きあがって、みんなにお礼をいうのでした。 「あっ、いいことがある。ちょっと、そのつっかい棒をとらないで、待っててくれよ。」  チンピラのひとりが、そういったかと思うと、野上君の懐中電灯をひったくるようにして、どこかへ、かけだしていきました。  野上君は、俊一少年に、悪者の自動車を追跡したこと、チンピラ隊のひとりが白いライオンに気づいて、みんなで助けだしたことなどを話してきかせました。  やがてさっきのチンピラが、なにか大きなものを、こわきにかかえて帰ってきました。野上君が懐中電灯をうけとって、照らしてみますと、それは学生服をきた少年でした。あの小道具部屋にあった少年人形でした。 「こんなもの持ってきて、どうするつもりだい。」 「わからないのかい? 頭がわるいなあ。俊一さんのかわりに、この人形を、ライオンの中にいれておくのさ。やっぱり、手足をしばって、さるぐつわをはめておくほうがいいや。そうすれば、こんど、悪者がのぞきにきたとき、ほんとの俊一さんだと思って安心するよ。でも、よくみると、人形なので、おったまげるというわけさ。ウフフフフ……、なんと、うまいかんがえじゃないか。ねえ!」  このチンピラのとんちに、みんな、ウフ、ウフ、笑いだしてしまいました。そして、人形の手足をしばり、さるぐつわをはめて、ライオンのからだの中に、おしこむのでした。 「ほらね、そっくりだろう。さるぐつわで口がかくれてるから、ちょっと、人形とは気がつかないよ。悪者が、おったまげる顔を見てやりてえな。」  それから、つっかい棒をはずして、ライオンをもとのとおりにすると、みんなは、俊一君をかこむようにして、撮影所の外にでました。もうあたりはまっ暗です。そのまっ暗な中からヌーッと、かげぼうしのようなものが、あらわれました。 「みんな、うまくやったね。子どもを、とりもどしたのかい?」 「だれだっ?」  野上君が、俊一君を、うしろにかばって、どなりつけました。 「おれだよ。おまえたちを自動車に乗せてやった運転手だよ。」 「ああ、そうか、だれかと思って、びっくりした。俊一君は、石膏のライオンの中にいれられていたんだよ。それを、ぼくたちが助けだしたのさ。」 「そりゃ、よかったな。さあ、もう一度、おれの自動車に乗りな。どこへでも送ってやるよ。」  こうして、花崎俊一君は、ぶじに家にもどることができたのです。しかし、それで、この事件がおしまいになるはずはありません。俊一少年のゆくてには、まだまだ、恐ろしいできごとが待ちかまえているのです。 赤いトンガリ帽  そのあくる朝六時ごろのことです。隅田川と東京港のさかいめのあたり、造船工場などのある川岸に、ふしぎなことがおこっていました。  川岸の道路には、人が落ちないように、コンクリートの低いてすりのようなものが、ずっとつづき、ところどころ、それがきれて、船から荷物をあげるための広い坂道が、水面の近くまでくだっています。  まだはやいので、川岸には人どおりもなく、工場でも仕事をはじめておりません。そのさびしい川岸の道を、ふたりの労働者が、なにか話しながら歩いてきました。  ひとりは五十ぐらいの、ひょろひょろと、背の高いおとなしそうな男、もうひとりは、背が低くて、まるまると太ったおどけた顔の男です。長さんと丸さんです。丸さんの顔は、ゴムまりのようにまんまるで、目もまんまるですし、鼻までひらべったくて、丸いのです。くちびるのあつい、大きな口です。 「おや、へんなものが、流れているぜ。」  丸さんが立ちどまって、川岸のそばの水面を見ながら、小首をかしげました。 「うん、へんだね。こんなところに、ブイが、流れてくるなんて。」  長さんも、ふしぎそうな顔をしました。  それは、赤くぬった大きな鉄の筒のようなもので、水面から上にでている部分は、上の方がじょうご形にせまくなっているので、道化師のまっかなトンガリ帽を、うんと大きくしたような形なのです。中はからっぽで、空気がはいっていて、その力で、ぶかぶか浮いているのです。  このブイは船の航路のめじるしになるように、沖のほうに浮かべてあるのですが、そのくさりがきれて、隅田川の入口まで流れてきたのでしょうか。 「へんだね。べつに、あらしがあったわけでもないのに、こんなところに、ブイがあるなんて。」 「うん、それもそうだがね。もっと、おかしいことがあるよ。このブイは、いやに動くね。まるで生きているようだ。」  丸さんが、目をまんまるにして、ふしぎでたまらないという顔をしました。  まるほど、そういえば、巨大な赤いトンガリ帽は、波もないのに、異様にぐらぐらゆれています。トンガリ帽が、右にかたむいたかと思うと、すぐにまた、左にかたむき、それを、いつまでも、くりかえしているのです。道化師が、首をふっているみたいです。  このふしぎなブイは、どうしてこんなところに、浮いていたのでしょう。  なぜ、首ふり人形のように、ゆれていたのでしょう。それには、じつに恐ろしいわけがあったのです。それが、どんなわけだったか、みなさんひとつ、考えてみてください。 鉄のかんおけ  窓のないふしぎな部屋で、ゴングのために、変装を見やぶられた小林少年は、あれからどうなったのでしょう。  そのとき、ゴングは、小林少年の腕をまくると、どこからか注射針をとりだして、チクリとさしこみ、てばやく、なにかの薬を注射しました。すると、小林君は、くらくらとめまいがして、あたりがまっ暗になり、なにもわからなくなってしまいました。  それから、どれほど時間がたったのでしょうか。小林君は、ガクンと、恐ろしい力で、頭をなぐられたような気がして、目をさましました。しかし、あたりはまっ暗で、いま、どこにいるのか、さっぱりけんとうがつきません。  ゆらゆらとゆれています。めまいのせいかと思いましたが、そうではなくて、部屋ぜんたいが大地震のように、たえまなく、ゆれているのです。  心臓が、ドキドキしてきました。なんだか、おさえつけられるような、息ぐるしさです。あたりをさぐろうとしましたが、手をのばしきらないうちに、かたい、つめたい壁にさわりました。それじゃあ、部屋のすみにいるのかしらと、べつの方角へ手をのばすと、そこにも、かたい壁があります。あわてて、四方八方をさぐってみましたが、どこもみんな、かたい壁です。コンクリートではありません。鉄の壁です。  なんだか、大きな水道の鉄管の中へ、とじこめられているような気がしました。しかし、その鉄管は横になっているのではなくて、たてに立っているのです。そして、ゆらゆらと地震のようにゆれているのです。  小林君は、床にさわってみました。床も、つめたい壁です。手をのばして、頭の上をさぐってみました。てんじょうも鉄の板です。つまり、鉄でできたかんおけのようなものの中に、とじこめられていることがわかりました。  でも、この鉄のかんおけは、どうして、こんなにゆれているのでしょう。地の底に、うずめられたのではありません。まさか、空中をただよっているのでもないでしょう。すると? ああ、わかりました。水の上をただよっているのです。このゆれかたは、船のゆれるのと、そっくりです。  小林君は、トランクにいれられて、隅田川になげこまれたことを思いだしました。あの窓の、一つもないみょうな部屋は、きっと、隅田川の底にあったのです。妖人ゴングのすみかは、川の底にあったのです。なんという、うまいかくれがでしょう。  そこから、この鉄のかんおけにいれて、ほうりだされたのにちがいありません。鉄のかんおけの中には空気がはいっていますから、水の上に浮きあがって、川を流れているのでしょう。  ゴングは、「きさまが生きるか死ぬかは、運にまかせるのだ。」といいました。そうです。運がわるければ、死んでしまうのです。だれかがこの鉄のかんおけをみつけて、助けてくれなければ、小林君は死んでしまうのです。うえ死にするまえに、空気の中の酸素がなくなって、死んでしまうのです。  小林君は、そこまで考えると、あわてて、鉄のかんおけの内がわを、さぐりまわりました。どこかにふたがあって、ひらくようになっているだろうと思ったからです。  しかし、どこにも、ひらくようなところはありません。みんな鉄のびょうで、しっかり、とめてあって、小林君の力では、どうすることもできないのです。  そのうちに、だんだん、息ぐるしくなってきました。胸がドキドキして、耳がジーンとなりだし頭がいたくなってきました。空気の中の酸素が、すくなくなったからです。  一度息をするたびに、酸素がへって、炭酸ガスがふえてくるのです。それを思うと小林君は、気が気ではありません。いまに、鉄のかんおけの中は、炭酸ガスばかりになって、死んでしまうのです。ああ、どうすればいいのでしょう。助けをもとめようにも、あつい鉄の板でかこまれているのですから、声が、外までとどくはずはないのです。  からだじゅうに、つめたい汗がにじみだしてきました。心臓はいよいよドキドキとおどりだし、息がくるしくなってきました。酸素が、すこししか残っていないのです。  もう、だまっているわけにはいきません。声が、外まで聞こえないとわかっていても、助けをもとめないではいられません。 「助けてくれえええ……。」  小林君は、せいいっぱいの声で叫びました。声だけではたりないので、手と足を、めちゃくちゃに動かして、鉄の板をけったり、たたいたりしました。         ×    ×    ×  そのとき、隅田川と東京港のさかいめの造船工場のある川岸で、ふたりの労働者が、岸の近くに流れついた赤いブイを、ふしぎそうに見つめていました。朝の六時ごろのことです。 「へんだなあ、ブイがこんなところへ流れてくるなんて。きっと、おきのほうにつないであったのが、くさりがきれて、流れてきたんだね。」 「だが、あのブイは、波もないのに、いやに動くじゃないか。大きな魚が、下からひっぱっているのかもしれないぜ。」  ふたりの労働者は、気味わるそうに顔を見あわせました。赤くぬったブイは、魚つりのうきを何千倍にもしたようなものです。ですから、このブイをひっぱっている魚も、クジラのように大きなやつかもしれません。まさか、隅田川へクジラがはいってくるはずはないのですが、それにしても、こんな大きな鉄のブイを動かしているのは、どんな魚だろうと、うす気味わるくなってくるのでした。 「おやっ、へんな音が聞こえるぜ。どっかで、コンコンと、なにかたたいているような音が。」 「そうだな。まだ工場は仕事をはじめていないのに、いったい、なにをたたいているんだろう?」 「おい、この音は、あのブイの中から聞こえてくるようだぜ。見たまえ、ブイがヒョコヒョコ動くのと、あの音と、調子があっているじゃないか。」 「いやだぜ、ブイの中に、なにか動物でもはいっているのかな。」 「ばかをいっちゃいけない。ブイの中に動物なんか、はいれるわけがないじゃないか。」 「おやっ! ますますへんだぞ。かすかに人間の声が聞こえてくる。遠くのほうで、子どもが泣いているような声だ。」 「いまごろ、このへんに、子どもなんか、いやしない。やっぱりブイの中かな?」 「だが、ブイの中に、人間がはいっているなんて、聞いたこともないね。」  話しているうちに、ブイは、ヒョコヒョコとゆれながら、岸とすれすれのところまでただよってきました。 生か死か  ブイの中では、小林少年が、声をかぎりに叫んでいました。鉄のかんおけと思ったのは鉄のブイだったのです。 「助けてくれええ……、息がつまりそうだ。はやく、ここから出してくれええ……。」  もう声がでません。目がくらんで、気をうしないそうになってきました。大きな声をだし、手足を動かしたので、いっそう、息ぐるしくなったのです。心臓は、おそろしいはやさで、おどっています。  たらたらと、口の中へ汗が流れこみました。なんだか、ぬるぬるした汗です。いや、へんなにおいがします。血のにおいです。手でふいてみると、べっとりと、ねばっこいものがつきました。汗がこんなに流れるはずはありません。鼻血が出たのです。いつまでもとまりません。気味のわるいほど流れだしてくるのです。  耳の中で、セミでも鳴いているようなやかましい音がして、頭のしんが、ジーンとしびれてきました。         ×    ×    × 「おい、やっぱりそうだぜ。あのブイの中から、みょうな音が聞こえてくる。荷あげ場までおりて、ようすを見ようじゃないか。」 「うん、それじゃ、そばへいって、よくしらべてみよう。」  ふたりの労働者は、坂になった荷あげ場の水ぎわへ、おりていきました。ブイは、ちょうど、その水ぎわに流れついていたのです。  岸から手をのばせば、ブイにとどくので、労働者のひとりが、ブイの外がわを、コンコンと、たたいてみました。  すると、中から、おなじように、たたきかえす音が聞こえたではありませんか? 「おうい、ブイの中に、人間がはいっているのかあ?」  もうひとりが、大きな声でどなりました。  すると、ブイの中から、なにか、子どもの泣いているような、かすかな声が聞こえてくるような気がしました。 「やっぱりそうらしい。鉄板でかこまれているので、よく聞こえないが、たしかに人間がはいっている。どうすればいいだろう?」 「道具がなくちゃあ、どうにもできない、工場までいって、だれか、よんでこようか。」 「うん、それがいいな。じゃあ、おまえ、いってくれるか。」 「よし、ひとっぱしり、いってくる。ここに待っててくれよ。」  ひとりが、そういって、うしろに見える工場のほうに、かけだしていきました。         ×    ×    ×  ブイの中では、小林君は、もう息もたえだえに、ぐったりとなっていました。  外からコンコンと、たたいているようです。こちらもコンコンと、たたきかえしました。  かすかに、人の声がしたようです。とうとうだれかが、ブイをみつけてくれたのでしょうか。 「助けてくれえええ……、ブイをこわして、出してくれえええ……。」  さいごの力をふりしぼって、どなりました。  すると、また、鼻から、おびただしい血が、たらたらと流れだすのです。  もうだめだと思いました。このがんじょうなブイが、急にこわせるものではありません。それまで生きていられそうもないのです。もう、頭が、ボーッとかすんで、なにがなんだか、わからなくなってきました。  恐ろしい夢を見ているような気持です。妖人ゴングの、牙をむきだした恐ろしい顔が、やみの中から、グーッと近づいてきて、目の前いっぱいにひろがり、ゲラゲラと笑うのです。  そうかとおもうと、なつかしい明智先生が、にこにこしながら、助けにきてくれる姿が見えます。 「先生!」と叫んで、とびつこうとすると、明智探偵の姿は、スーッと、むこうへ、とおざかっていくのです。         ×    ×    ×  そのとき、川岸へ、さっきの労働者が、もうひとりの男をつれて、かけつけてきました。 「この人が、ブイのひらきかたを知っているというんだ。」 「そうか、それはよかった。すぐにあけてみてください。どうも、中に人間がはいっているらしいんです。」  男は、まるく巻いた縄を持っていました。そのはしを輪にしてブイに巻きつけると、ふたりの労働者に、岸の方へ、力いっぱい、ひっぱっているようにたのんで、じぶんは、大きなスパナを手にして、ブイのそばによると、鉄板をしめつけてあるびょうを、はずしにかかりました。  そして、一つびょうがとれたかとおもうと、つぎのびょうです。二分、三分、五分……時間は、みるみるすぎさっていきます。  ああ、小林君は、どうしているのでしょう。もう、息がたえてしまったのではないでしょうか。  やっと、八つのびょうがとれました。あとはハンマーで、ブイのふたをはずせばよいのです。  ガーン、ガーンと恐ろしい音がしました。ブイのふたに、すきまができました。 「しっかり、縄をひっぱっているんだよ。いいかい。」  男はそういっておいて、両手をふたのすきまにかけると、力まかせに、むこうへはねのけました。そして、ブイの中をのぞいたかと思うと、 「あっ、人間だっ。男か女かわからない、へんなやつが、ぐったりしている。死んでいるのかもしれない。」  そう叫んで小林君のからだを、ブイの中から、荷あげ場にひきだしました。ふたりの労働者も縄をはなして、そこへ近よってきます。 「あっ、顔が血だらけだ。殺されたんだろうか。」 「こりゃおかしいぞ。女の服をきているが、頭は男のようだ。それに、これは、まだ子どもらしいぜ。むごたらしいことをしたもんだな。」 「いや、まて、まだ死んじゃいない。脈がある。この血も、どうやら鼻血らしいぜ。」  ブイのふたをひらいた男が、小林君の上にしゃがみこんで、持っていたタオルで、顔の血をふきとりました。 「ただ、気をうしなっているばかりだ。こうすれば、いまに、息をふきかえすよ。」  男はこんなことになれているとみえて、小林君の両手をつかむと、一、二、一、二、と、あげたり、さげたりして、人工呼吸をほどこすのでした。  そのあいだに、労働者のひとりが近くの交番へ、このことをしらせましたので、まもなく警官がかけつけてきました。 「あっ、目をひらいたぞ。しっかりしろ。もうだいじょうぶだ。」  人工呼吸をやっていた男が、叫びました。  小林君は、荷あげ場のコンクリートの上に、あおむけに寝かされたまま、ぼんやりと、あたりを見まわしています。 「おい、気がついたか。きみは、いったい、どこのだれだ。どうして、ブイの中にはいっていたのだ。だれかに、とじこめられたのか。」  警官が、小林君の顔の上にしゃがんで、大声でどなりました。  小林君は、しばらくは口をもぐもぐやるばかりで、ものをいう力もないようにみえましたが、やっと、かすかな声をだしました。 「ぼく、明智探偵の助手の小林です。」 「えっ、明智探偵の? それじゃあ、きみは、あの小林少年か?」  警官はびっくりしたように、聞きかえしました。小林少年のことは、よく知っていたのです。 「それじゃあ、だれかにブイの中へ、とじこめられたんだね。あいてはだれだ?」 「妖人ゴングです。」 「えっ、妖人ゴングだって?」  警官の顔色が、さっとかわりました。そして、おもわず立ちあがると、怪物がそのへんに、かくれてでもいるように、キョロキョロと、あたりを見まわすのでした。  もうそのころは、七時にちかくなっていましたので、川岸の人どおりが多くなり、荷あげ場は、みるみる黒山の人だかりになってきました。 「くわしいことは、あとで話します。ぼくを明智探偵事務所へ送ってください。」  小林君は起きあがりながら、警官にたのむのでした。  警官は交番に帰って、本署にこのことをしらせ、明智探偵にも連絡したうえ、小林君をタクシーにのせて、麹町アパートの探偵事務所へ送りとどけました。  事務所についたころには、小林君はすっかり元気をとりもどしていました。そして、出むかえた明智探偵をみると、 「先生っ!」と叫んで、いきなりとびついていって、その胸にだきつくのでした。 「よかった、よかった。きみがぶじに帰ったのは、なによりうれしいよ。とんだめにあったそうだね。」  明智探偵はそういって、しずかに小林少年の背中を、なでてやりました。 「ぼく、もう死ぬかと思いました。先生におめにかかれないかと思いました。」  小林君は、なつかしそうに明智探偵の顔を見あげて、涙ぐむのでした。  こうして、小林少年は、あやうい命を助かりました。花崎マユミさんは、小林君が身がわりをつとめたのですからぶじですし、弟の俊一君も、野上少年とチンピラ隊によって助けだされ、妖人ゴングのたくらみは、すべてむだにおわってしまいました。  しかし、こんなことで、あきらめるような怪物ではありません。やがて第二の攻撃が、はじまるのです。妖人ゴングとは、そもそも何者でしょう? かれは、いったい、なんのために、マユミさんや俊一君をねらうのでしょう? 水底の秘密  小林少年が、ブイの中からすくいだされ、妖人ゴングのすみかは、隅田川の水底にあるらしいと、報告しましたので、ただちに、水上警察が、そのへんいったいの水中捜索をはじめました。潜水夫をやとって、川の底をくまなく探しましたが、ふしぎなことに、妖人のすみからしいものは、なにも見あたらないのでした。  あの事件から三日目の夜、名探偵明智小五郎は、妖人にねらわれているマユミさんと、俊一君のおとうさんの花崎検事のうちをたずねて、応接間で花崎さんと、今後のことについて、相談していました。  そこへ、あやしい電話がかかってきたのです。花崎さんは、テーブルの上においてあった電話の受話器を耳にあてたかとおもうと、さっと、顔色がかわりました。  受話器からは「ウワン、ウワン、ウワン……。」という、あの、気味のわるい音が聞こえてきたからです。 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」  その音は、だんだん大きくなって、耳のこまくが、やぶれるほどの恐ろしい音になりました。そして、 「ワハハハハ……。」 と、いきなり、人間の笑い声が聞こえてきたではありませんか。 「あいつです。ゴングが電話をかけてきたのです。」  花崎さんは、そこにいた明智探偵に、そっと、ささやきました。 「じゃあ、それをわたしに、おかしなさい。わたしが応待します。」  明智は、花崎さんの手から受話器をうけとって、あいてにどなりつけました。 「きみは、だれだっ?」 「ワハハハハ……、そういうきみは、だれだね。花崎検事かね?」 「ぼくは、明智小五郎だっ!」 「あっ、明智が、そこにいたのか。いや、ちょうどいい。それでは、きみと話そう。……おれがだれだか、むろん、わかっているだろうね。」  あいては、人をばかにしたような、ふてぶてしい調子で、ゆっくり話しかけてきました。 「ぼくに、話があるというのか。」  明智探偵も、おちつきはらっています。 「きみのほうこそ、ぼくに聞きたいことがあるというんじゃないかね。」  あいても、自信まんまんの、調子です。 「べつに聞きたいこともないね。ぼくは、なにもかも知っている。」 「フフン、日本一の名探偵だからね。……それじゃ、こっちから聞いてやろう。きみたちは、隅田川の底を捜索したが、おれのすみかが見つからなかった。しかし、おれは、ちゃんと、隅田川の水の底に住んでいたんだよ。ウフフフ……。このなぞが、わかるかね。」  ああ、やっぱり、水の底にすみかがあったのでしょうか。それが、あれほど、捜索しても、わからなかったのは、なぜでしょう? さすがの明智探偵にも、このなぞは、まだ、とけていないのです。しかし、わからないと、答えるわけにはいきません。 「むろん、ぼくには、わかっているよ。」 「ワハハハハハ……、自信のない声だな。やせがまんはよして、どうか教えてくださいといいたまえ。おれは、その種あかしをするために、電話をかけているんだからね。」  怪人は、なにもかも見とおしているのです。明智が、まだ、その秘密を知らないことを、ちゃんと見ぬいているのです。  こうなったら、明智のほうでも負けてはいられません。とっさに、そのなぞを、といてみせるほかはないのです。五秒間にこのむずかしいなぞを、とかなければなりません。いくら名探偵でも、そんなはなれわざが、できるのでしょうか? 「ぼくは、きみの秘密を知っているよ。」  明智は、おちついて答えました。 「ウフフフ……、あくまで、やせがまんをはる気だな。よろしい。それなら、おれが水の底のどこに住んでいたか、いってみたまえ。潜水夫をいれて、あれほどさがしても見つからなかったじゃないか。」 「それは、あのときには、きみは、隅田川の底に住んでいた。しかし、いまは、もう、同じところに住んでいないからさ。」  明智は、一時のがれのむだごとをいいながら、全身の気力を頭に集めて、このなぞをとこうとしていました。 「フフン、それは、むろんのことだ。おれはいま、陸上にいるよ。だが、水の底に住んでいたとすれば、そのあとがあるはずじゃないか。水の底の家が、そうやすやすと、こわせるものじゃないからね。」 「こわさなかった。しかし、もとの場所にはないのだ。」  明智は、苦しまぎれにそういいましたが、そのとき、パッと、ある考えが浮かびました。秘密がわかったのです。わかってみれば、じつに、なんでもないことでした。 「ウフフフ……やせがまんはよして、かぶとをぬぎたまえ。おれが教えてやろうといっているんだからね。」 「ぼくには、ちゃんと、わかっている。」 「フン、そうか。じゃあ、いってみたまえ。さあ、はやく、いつまでも、電話をかけているわけには、いかないからね。」 「潜航艇だよ。」  明智が、ずばりと、いってのけました。 「え? なんだって?」 「きみのすみかは、潜航艇だったというのさ。」 「へえ? 潜航艇が、隅田川にはいれるかね。」 「どんなあさいところでもこられる、小型潜水艇だよ。ずっと前に、ある犯罪者が小型潜航艇で、隅田川をあらしまわったことがある。ちゃんと、前例があるのだ。ハハハ……どうだね。あたったらしいね。」 「あたった。ウフフフ……、さすがは、明智先生だね。まさに、そのとおりだよ。」  怪人も、とうとう、かぶとをぬぎました。しかし、かれの用件は、そのことだけではなかったのです。 ゴングとは何者  怪人は、また、しゃべりはじめました。 「明智君、おれは執念ぶかいぞ。戦いは、これからだ。おれはマユミと俊一を、かならず、とりこにしてみせる。一度は、きみのおせっかいで失敗したが、そんなことで、ひきさがるおれじゃない。花崎検事に、そういっておいてくれ。一週間、そうだ、きょうから一週間のうちに、マユミと俊一をつれだしてみせる。そして、二度と、顔を見ることができないようにしてやる。妖人ゴングの名誉にかけて、これを宣言する。わかったか。明智君、いつか、きみにあうときもあるだろう。用心するがいい。おれは、こうと思ったことは、きっと、やりとげる男だ。」  この恐ろしいことばがおわると、またしても、 「ウワン、ウワン、ウワン、ウワン……。」 と、あのいやらしい音が、ひびいてきました。そして、その音が、だんだん小さくなって消えてしまうと、ぷっつりと電話がきれました。 「どうせ、遠くの公衆電話からかけたのでしょう。電話局でしらべて、警察にしらせてみても、とても、まにあいません。こうなれば、あいてがせめてくるのを、待つほかはありません。ところで……。」  明智探偵は、もとのいすにもどって、テーブルごしに、じっと花崎さんの顔を見つめました。 「こいつは、魔法つかいの妖人みたいに見せかけていますが、むろん、われわれとおなじ人間です。おそらく、あなたに、深いうらみをもっているやつです。マユミさんや、俊一君をいじめるのも、あなたに、気がちがうほど心配させるためです。なにか、そういう、うらみをうける、お心あたりはありませんか。」 「わたしは、いちじは、鬼検事というあだなをつけられていたほどで、悪いやつには、ようしゃなく、びしびしやるほうでしたから、犯罪者には、ずいぶん、うらまれているわけです。しかし、それはみんなむこうが悪いからで、こんな復讐をうけるおぼえはないのですが……。」 「でも、犯罪者というやつは、じぶんの悪いのは棚にあげておいて、検事さんを、うらむことがよくあるものです。なにか、重い罪をおかしたもので、このごろ、刑務所を出たものとか、または、脱獄したものとか、そういう、お心あたりはありませんか。」 「それなら、たいして多くはありません。まあこんな連中ですね。」  花崎さんは、テーブルのうえにあったメモの紙に、五─六人の名を書いて、明智に出してみせました。  明智は、その人名を、じっと見ていましたが、ある名まえを、指でおさえて、 「これです!」 と、低いけれども力のこもった声で、いいました。 「えっ? そいつが、あのゴングですって?」 「そうです。こいつでなければ、妖人ゴングにばけることはできません。こいつならば、じつに恐ろしいあいてです。」  明智はそういって、じっと、花崎さんの顔を見つめました。花崎さんも、青ざめた顔になって明智を見つめました。そうして、ふたりは、たっぷり一分間、身うごきもせず、異様なにらみあいをつづけたのです。  やっとしてから、明智のひきしまっていた顔が、にこにこ顔にかわりました。 「いや、そんなに、ご心配になることはありません。わたしがついていれば、けっして、あいつの思うようにはさせません。しかし、よほど用心しなくてはいけません。こうなったら、非常手段をとるほかはないのです。あいてが、妖人の魔法つかいですから、こちらも魔法つかいになるのです。そんなとほうもないことをと、おっしゃるかもしれませんが、そのとほうもないことをやらないと、あいつには勝てないのです。」  そして、明智は、なにか、ひそひそと、花崎さんの耳にささやくのでした。それをきくと、花崎さんの顔が、すこし明るくなってきました。 「なるほど、悪魔の知恵には、悪魔の知恵で、というわけですね。二重底の秘密というわけですね。わかりました。明智さんのお考えに、したがいましょう。いっさい、おまかせしますよ。」  そして、ふたりは、またなにか、ひそひそと、ささやきあうのでした。 ふたりの老人  東京都の西のはし、西多摩郡に、平沢という村があります。多摩川の上流に近い山の中で、けしきのよい小さな村です。  その村はずれに、一軒のわらぶきの農家があります。いちばん近い家でも、百メートル以上はなれているという、さびしい一軒家です。  このごろ、そこへ、見なれぬ人たちが住むようになりました。しらが頭に、白いあごひげのはえた、七十にちかいようなおじいさんと、十六─七のいなかむすめと、十二歳ぐらいの男の子と、としとったばあやとの四人ぐらしです。  いなかむすめは、あまり美しくありませんし、男の子も、黒くよごれたきたない顔をしています。ふたりは、きょうだいのようですが、学校へもいかず、山へ遊びにいくわけでもなく、いつも、一間にとじこもって、本を読んでいます。なんだか元気のない子どもたちです。  おじいさんも、畑仕事などしないで、たいていは家にいて、草花などのせわをして、暮らしています。  ある朝はやくのことでした。ちょうど、夏で、縁がわの前には鉢植えのアサガオがたくさんならんでいて、赤や青や紫の大きな花が、美しくひらいていました。  カーキ色の仕事服をきたおじいさんは、その前にしゃがんで、アサガオの葉の虫をとっていましたが、そのとき、 「おはよう。せいがでますな。」 という声が聞こえました。  ふりかえってみると、いけがきの外から、いなかもののじいさんが、にこにこ笑いながらのぞいていました。  よごれたゆかたを着て、しりはしょりしています。やっぱり、半分しらがになったごましお頭で、もじゃもじゃと、ぶしょうひげをはやしています。日にやけた黒い顔です。 「どなただね。見かけないお人じゃが……。」  しらひげのおじいさんが答えますと、いなかじいさんは、また、にこにこ笑って、 「わしは、この隣村のものじゃが、アサガオが、あんまりみごとなもんで、つい、声をかけただよ。」 「そうかね。おまえさんも、アサガオがすきかね。まあ、いいから、こっちへはいって見てください。」  そういわれたので、いなかじいさんは、しおり戸をあけて、のこのこ、中へはいってきました。 「まあ、ここへ、おかけなさい。いま、お茶でもいれますから。」  そういって、しらひげのおじいさんが、縁がわに腰をかけると、いなかじいさんも、ならんで腰かけ、アサガオのそだてかたについて、話がはずみましたが、いなかじいさんは、庭ぜんたいの草花が見たいというので、縁がわから立って、庭の奥のほうまで見まわるのでした。  主人のしらひげのおじいさんも、そのあとから歩いていきましたが、ふたりのあいだが、ずっとへだたって、いなかじいさんが、家の角をむこうへまがっていくのを待って、こちらの軒下においてある木の箱のふたをひらき、その前にしゃがんで、なにかやっていましたが、やがて立ちあがると、箱の中から一羽のハトが、ばたばたと飛びだして、サーッと空に舞いあがり、そのまま、どこかへ飛びさってしまいました。  いなかじいさんは、それには気がつかず、むこうの角からもどってきました。  それから、ふたりのおじいさんは、しばらく肩をならべて、庭の草花を見まわっていましたが、もとの縁がわへもどろうと歩きだしたとき、あとから、しらひげのおじいさんが声をかけました。 「ああ、もしもし、これ、あんたのじゃありませんか。ここに落ちてましたが。」  それは、ラシャでつくった、ひどくでっかいかみいれでした。 「あ、そうです。そうです。それは、わしのさいふです。」  いなかじいさんは、あわてて、それを受けとると、ふところへ、ねじこみました。 「ハハハ……、よっぽど、だいじなものがはいっているとみえますね。なかなか、重いじゃありませんか。」 「いや、いや、くだらないもんです。お金だといいんだが、ハハハ……。」 と、じいさんは、ごまかしてしまいました。  ふたりが、もとの縁がわに腰をかけると、しらひげのおじいさんは、 「では、お茶をいれますから、ちょっと、待っていてください。」 といって、奥へはいっていきました。  いなかじいさんは、ひとりになると、あたりを、キョロキョロ見まわして、縁がわから家の中へあがり、そっと、むこうの障子の奥をのぞくのでした。その障子の奥には、まだ、かやがつってあって、きょうだいの子どもが眠っているのです。  じいさんは、障子のすきまから、そのかやのほうを、じっと見ています。気味のわるいじいさんです。ひょっとしたら、どろぼうかもしれません。  そのとき、とつぜん、しらひげのおじいさんが、べつの部屋から出てきました。 「おきのどくだが、とうとう、わなにかかったね。」  いなかじいさんは、ぎょっとしてふりむき、 「え、なんだって?」 と、しらばっくれて、しかし、もう逃げごしになっています。 「ハハハハ……、だめだよ。逃げようたって、わしは、こうみえても、かけっこの名人だからね。」  いなかじいさんは、縁がわまではいもどって、もとのところに腰かけました。 「なにいってるだね。わしは、ただちょっと……。」 「ハハハ……、ただちょっと、かやの中のふたりを、たしかめにいったのだろう? じつは、もうくるか、もうくるかと、わしは、きみを待ちかまえていたのだよ。うまく、わなにかかったねえ。」  ふたりの老人は、恐ろしい顔でにらみあいました。おたがいの腹の底まで、見すかそうとしているのです。  そのとき、いなかじいさんは、すばやく、ふところに手をいれて、さっきのさいふの中から、小型のピストルをとりだし、さっと、しらひげのおじいさんにつきつけました。 「これはどうだね。ハハハ……、きみが拾ってくれたさいふの中には、これがいれてあったのさ。じたばたすると、ぶっぱなすぞっ。」  しかし、しらひげのおじいさんは、すこしもさわぎません。にこにこ笑って、じっとあいてを見ています。 「きさま、これが、こわくないのか。命がおしくないのか。」 「命はおしいよ。だが、そんなピストルは、こわくもなんともないよ。さっき、拾ったというのはうそで、きみのふところからぬきとって、たまをみんな出しておいたのだよ。」  おじいさんは、そういって、カーキ色の服のポケットから、ピストルのたまを六つとりだし、てのひらにのせて、じゃらじゃらいわせるのでした。 二挺のピストル  そして、老人は、にこにこ笑いながら、こんなことをいいました。 「わしは、きみが、いまくるか、いまくるかと、まい日、待ちかまえていたのですよ。奥のかやの中に寝ているきょうだいを、きみが、つれ出しにくることが、ちゃんと、わかっていたのでね……。」  すると、ごましお頭のいなかじいさんが、みょうな声をたてて笑いました。 「それじゃ、あんたは、わしがだれだか、知っているのかね……。」 「むろん、知っているよ。……きみは、ゴングという怪物だっ!」  ふたりは、縁がわから、すっくと立ちあがって、にらみあいました。 「うん、そのとおり。さすがは、名探偵の明智君だ。よろしい。それで、どうしようというんだね。」  いなかじいさんが、とつぜん、わかわかしい声にかわりました。  しらひげの老人は、明智小五郎の変装姿だったのです。こちらも、にわかに、わかわかしい声になって、 「こうするのだっ!」 と叫びながら、相手にとびかかっていきました。そして、 「マユミさん、俊一君、そこにあるほそびきを、持ってきなさい。こいつを、しばりあげてしまうのだっ。」  ああ、かやの中に寝ていたきょうだいは、花崎検事のむすめのマユミさんと、その弟の俊一君だったのです。  ふたりとも、いなかものに変装して、こんな山の中にかくれていたのです。  明智探偵の変装したしらひげの老人の声を聞くと、ふたりとも寝まきのまま、かやの中から、とび出してきました。マユミさんは、長いほそびきを持っています。 「ワハハハハハ……。」  ゴングの変装したいなかじいさんが、恐ろしい笑い声をたてながら、パッと、明智の手をすりぬけて、庭のまん中に立ちはだかりました。 「やっぱりそうだったな。そのふたりは、マユミと俊一だな。こんなところへかくしたつもりでも、おれのほうでは、なにもかも見とおしだ。明智先生、きみも、ぞんがい知恵のない男だねえ。」 「ウフフフフ……、知恵があるかないか、いまにわかるよ。きみは、たったひとりで乗りこんできた。こっちは三人だよ。三対一では、まず、きみの負けだねえ。」  明智の老人は、そういって、ゴングのじいさんに、とびかかろうとしました。  するとゴングは、右手を内ぶところにいれて、なにか、もぞもぞやっていましたが、その手をパッと出したときには、黒い小型ピストルが、にぎられていたではありませんか。 「ハハハハハ……、これがおれの奥の手だよ。ピストルはかならず二挺用意しているのだ。ひとつがだめになっても、もうひとつというわけだよ。」  たじたじとなった明智の顔を見て、ゴングは、とくいらしく笑いつづけていましたが、やがて、ピストルをマユミさんと俊一君のほうにふりむけました。 「きみたちふたりは、そのほそびきで、明智先生をしばるんだ。……明智君、縁がわに腰かけて、両手をうしろにまわしなさい。そう、そう、そうすれば、しばりやすくなる。さあ、子どもたち、明智先生のからだを、ほそびきで、ぐるぐる巻きにするんだ。はやくしろっ! でないと、このピストルを、ぶっぱなすぞっ。」  ああ、明智ともあろうものが、どうして、もう一つのピストルに気がつかなかったのでしょう。名探偵にしては、たいへんな手ぬかりではありませんか。いったい、マユミさんと俊一君の運命は、どうなることでしょうか。 名探偵の奥の手  マユミさんと俊一君は、しかたがないので、縁がわに腰かけている明智の上半身を、ほそびきでぐるぐると巻きつけました。  ゴングは、ピストルをかまえながら、そのそばにより、ほんとうにしばってあるかどうかをたしかめ、ほそびきの結びめを、いっそうかたく締めつけるのでした。 「明智先生、きのどくだが、おれの勝ちだね。マユミと俊一は、おれがつれていくよ。いなかじいさんに手をひかれた、いなか者のきょうだいだ。だれもあやしむものはない。さあ、ふたりとも、こっちへきなさい。」  ゴングのいなかじいさんは、急にやさしい顔になって、ふたりの手をとろうとしました。  すると、そのとき、みょうなことが起こったのです。  クックックックッ……というような、へんな音が聞こえてきました。おやっと思って耳をすますと、その音は、からだをしばられて、うつむいているしらひげの口から、もれているようです。  その音が、だんだん大きくなってきました。明智の老人が、首をあげました。おかしくてたまらないという顔つきです。笑いをかみころしていたのです。それが、とうとう爆発しました。 「ワハハハハ……、きみのほうに奥の手があれば、ぼくのほうにだって、いろいろ奥の手があるんだよ。小林君。かつらを取って、見せてやりたまえ。」  それを聞くと、いなかむすめのマユミさんが、両手を頭にあげて、女のかつらを、スッポリとぬいでみせました。女の子だとばかり思っていたのが、じつは、男の子の変装だったのです。 「ハハハハ……。どうだね、また、いっぱい食ったね。小林君は、このあいだ、マユミさんに変装して、きみにひどいめにあったばかりだ。おなじトリックに、二度もかかるなんて、ゴングも、もうろくしたもんだね。  それから、この子ども、俊一君じゃないよ。俊一君によく似た子どもをさがしだして、ここへつれてきたのさ。ハハハハ……。どうだね、せっかく、ぼくをしばっても、マユミさんと俊一君がにせものでは、なんにもならなかったね。  いや、そればかりじゃない。ぼくの奥の手は、まだあるんだよ。ほら、見てごらん。ぼくは、縄ぬけの名人だからね。」  しらひげの老人は、そういって、すっくと立ちあがったかとおもうと、しばられていた両手を、ヌッとつきだしてみせました。ほそびきは胴体に、ぐるぐる巻きになっていますが、両手がぬけてしまったのですから、もうなんの不自由もありません。  勝ちほこっていたゴングのいなかじいさんは、このふいうちに、あっけにとられて、ピストルを持つ手も、だらりとたれたまま、ぼんやりつっ立っていました。  きびんな小林少年が、それを見のがすはずはありません。女の寝まきをきた小林君のからだが、宙におどりました。 「あっ、ちくしょう!」  いなかじいさんが、どなったときには、もうピストルは、小林君の手ににぎられていました。ふいをうって、ピストルをうばい取ってしまったのです。  小林君は、そのピストルをかまえて、ゴングにねらいをさだめました。こんどは、ゴングじいさんのほうが、両手をあげる番でした。  しかし、ゴングもさるものです。いちじはおどろいたようですが、たちまち、気力をとりもどして、にやにや笑いだしました。 「ウフフフ……、で、どうしようというのだね。ピストルをうつのかね。だが、きみには、うてないのだよ。うてば、おれが死ぬんだからね。きみたちは、人ごろしなんか、できっこないよ。では、ピストルでおどかして、おれをしばろうとでも、いうのかね。ところが、それもだめだよ。おれは、しばられないからね。おれはもう、このうちに用事はないから、おいとまをするばかりだ。それじゃあ、あばよ。」  ゴングのじいさんは、相手がピストルをうつはずはないとたかをくくって、いけがきのしおり戸のほうへ、ゆうゆうと歩いていくのでした。 「待ちたまえ!」  明智探偵が、自信にみちた、おもおもしい声で呼びかけました。ゴングじいさんは、思わず立ちどまって、こちらをふりむきます。 「きみ、あれが聞こえないかね。ほら、だんだん、近づいてくるじゃないか。ぼくのほんとうの奥の手というのは、これなんだよ。」  明智は、にこにこ笑っていました。  ゴングじいさんの顔が、まっさおになりました。いけがきのむこうから聞こえてくる音が、恐ろしい意味をもっていたからです。  それは、自動車の音でした。いけがきのむこうに、その黒いボディが見えたかとおもうと、キーンというブレーキの音がして、しおり戸の前に自動車がとまり、そのドアがひらいて、三人の警官が、手に手にピストルを持って、とびだしてくるのが見えました。  立ちすくんだゴングじいさんのうしろから、明智の声がひびきます。 「わかったかね。きみはもう、のがれられないのだ。無電をそなえつけるひまがなかったので、伝書バトでまにあわせたのだ。さっき、きみが裏のほうへまわっているすきに、ぼくは、伝書バトを飛ばした。近くの町の警察署でかっている伝書バトだよ。  ハトは十分間で警察へ飛んでいった。ハトの足には、ゴングがきたという手紙をいれた通信筒がつけてあった。そこで、警官の出動となったのだよ。ぼくは、いろんなことをいって、きみをひきとめ、この自動車がくるのを待っていたのさ。」  三人の警官は、もう、しおり戸をあけてはいってきました。  ああ、妖人ゴングは、とうとう、つかまってしまうのでしょうか。  しかし、相手は魔法つかいのような怪物です。まだ、どんな奥の手が残っていないともかぎりません。なんだか心配です。胸がドキドキしてきます。 さいごの手段  立ちすくんでいたゴングじいさんが、パッと身をひるがえしました。 「おれには、さいごの奥の手があるんだっ。」 と叫びざま、明智探偵のほうへ突進してきました。小林君は、ピストルをかまえていましたけれど、うつことができません。それほどゴングは、すばやかったのです。  明智にとびかかるかと見ていると、そうではなくて、明智の横をとおりすぎて、いきなり、縁がわにとびあがり、あっと思うまに、奥の部屋にかくれてしまいました。  そのとき、警官たちは、もう、縁がわの近くまできていましたが、ゴングじいさんの姿が見えないので、ピストルをうつこともできません。 「裏へまわってください。裏から逃げるつもりです。」  明智の声に、警官たちは、家の横を裏のほうへ、とんでいきましたが、もう、まにあいません。ゴングじいさんは、一直線に、家の中を突っきって、裏手にとびだすと、そのまま、いけがきを乗りこして、裏山の森の中へ逃げこんでしまいました。そのはやいこと! まるで、つむじ風がとおりすぎるようでした。  三人の警官が、それにつづいて、森の中へとびこんでいったことは、いうまでもありません。  道もない森の中。頭の上は、いくえにも木の葉にとざされて、まっ暗です。イバラやつる草が、ゆくてをふさいでいて、なかなか、はやくは進めません。  ゴングじいさんの姿は、はるかむこうに、ちらちらと見えたりかくれたりしています。三人の警官は、ターン、ターン、ターンと、空にむかって、おどかしのピストルを発射しました。  しかし、そんなことで、おどろくゴングではありません。かれの姿は、ますます遠ざかっていくばかりです。  そのとき、警官たちは、ぞっとして立ちどまりました。 「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」  どこともしれず、あの恐ろしい音が聞こえてきたからです。はじめは小さく、だんだん大きく、しまいには、こまくやぶれるばかり恐ろしいひびきとなって、おそいかかってくるのです。  ふと気がつくと、むこうの木のあいだに、白いもやのようなものがたちこめていました。だれかたき火でもしているのかと思いましたが、そうでもありません。うす暗い森の下に、白いものが、ボーッとたちこめているのです。  警官たちは、思わず立ちどまって見ていますと、その白いもやの中に、ぼんやりと、へんなものがあらわれてきました。  あっ! 人の顔です。五メートル四方もあるような、でっかい人の顔です。いや人間ではありません。人間に、あんな牙がはえているはずはないのです。  ギョロリと光ったまんまるな目、大きな鼻、耳までさけた恐ろしい口、そこから、ニューッと、とびだしている大きな牙。  妖人ゴングです。ゴングが正体をあらわしたのです。 「撃てっ!」  警官のひとりが叫びざま、怪物の顔にむかってピストルを発射しました。あとのふたりも、それにつづいて、ターン、ターンとピストルを撃ちました。  しかし、白いもやの中の怪物は、びくともしません。大きな口を、キューッとまげて、あざ笑っているばかりです。  勇敢な警官たちは、いきなり、白いもやにむかって突進していきました。怪物につかみかからんばかりのいきおいです。  ところが、近づくにしたがって、もやの中の怪物が、とけるように、くずれていきました。そして、警官たちが、もやの中にふみこんだときには、もう、そこには、なにもないのでした。ただ、うすい煙のようなものが、ふわふわと、ただよっているばかりです。  そのとき、またしても、警官たちを、あざ笑うように、あのぶきみな音が、ひびいてきました。 「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」  その音にまじって、もうひとつの、みょうな音が聞こえてくるのです。 「ブルン、ブルン、ブルン、ブルルルル……。」  そして、サーッと嵐のような風が吹きつけてきました。そのへんの立ち木が、ざわざわとゆれています。  怪物が、なまぐさい風をまきおこして、天にでものぼっていくのでしょうか。警官たちは、なんだか、そんな感じがしました。  白いもやをくぐりぬけて、なおも進んでいきますと、むこうのほうが、パッと明るくなりました。そこで森がなくなって、原っぱがひろがっているらしいのです。小山のいただきが、原っぱになっているのでしょうか、つむじ風は、その原っぱのほうから吹きつけているらしいのです。  警官たちは、やっと、森をぬけて、原っぱに出ました。 「あっ! あれをみたまえ。」  さきにたっていた警官が、空を指さして叫びました。  ああ、ごらんなさい。小山のいただきの原っぱの空には、一台のヘリコプターが、舞いあがっているではありませんか。 「あっ、ゴングは、あれに乗って逃げだしたんだ。あいつは、ヘリコプターを、ちゃんと、ここに待たせておいたんだ。」  まだ、そんなに高くあがっていないので、すきとおったプラスチックばりの操縦席が、よく見えます。そこには、ゴングの部下らしいひとりの操縦者と、いなかじいさんにばけたゴングとが乗っていて、いなかじいさんは下を見おろして、にやにや笑っているのが、まざまざと見えるのです。  警官たちは、こぶしをふるって、空にどなりつけましたが、なんのかいもありません。つづけざまにピストルをぶっぱなしましたが、ヘリコプターにはあたりません。  ヘリコプターは、上へ上へとのぼって、東京のほうにむかって遠ざかっていきます。豆つぶのように小さくなり、それも、やがて見えなくなってしまいました。  妖人ゴングは、明智探偵のために裏をかかれて、なにもすることもできず逃げさったのです。しかし、さすがの名探偵も、ゴングをとらえることはできませんでした。まさか、ヘリコプターまで用意しているとは気がつかなかったからです。 地底の声  お話かわって、こちらは東京世田谷区の花崎さんの家です。ここでも、みょうなことが起こっていました。  西多摩郡の山の中にかくれていたのは、にせものだったのですから、ほんもののマユミさんと俊一君は、花崎さんの家の、どこかに身をひそめていたのかというと、そうでもありません。ふたりは、花崎さんの家からも、姿を消してしまったのです。明智探偵の計略で、ほんもののほうも、どこかへ、かくしてしまったのです。  おとうさんの花崎検事とおかあさんだけは、明智と相談のうえ、ふたりの子どもをかくしたのですから、ほんとうのことを知っていましたが、やとい人などは、なにも知りません。マユミさんと俊一君が、どこかへいってしまったので、ゴングにさらわれたのではないかと、おおさわぎです。  おとうさんやおかあさんも、うわべは心配そうにして、ほうぼうへ電話をかけてたずねたり、警視庁の中村警部にもしらせましたので、警部は数名の刑事をつれて、花崎さんの家をしらべにきました。  この中村警部は明智探偵の親友ですから、ちゃんと、ほんとうのことを知っていました。でも、世間には、ふたりがゆくえ不明になったと、見せかけておかなければ、ゴングをだますことができませんので、わざと、家さがしをしたりして、さわいで見せたのです。  それから毎日、ひとりの刑事が花崎さんの家につめきって、なにかの見はりをすることになりました。刑事といっても、ふつうのセビロを着ているのですから、花崎さんの事務員としか見えません。だれもあやしむものはないのです。  しかし、その刑事さんは、いったい、なにを見はっていたのでしょう。花崎さんの家の西洋館のはしにある、俊一君の勉強部屋に、刑事さんはいつも腰かけて、窓の外を見ていました。ゴングが庭へしのびこんでくるのを、待ちかまえているのでしょうか?  そのうちに、みょうなことが起こってきました。  ある夕がたのこと、ひとりのお手伝いさんが顔色をかえて、マユミさんたちのおかあさんの部屋へ、かけこんできました。 「おくさま、なんだかへんですわ。いま、お庭を歩いていましたら、どこかから歌をうたっている声が、かすかに聞こえてきたのです。それが、俊一さんが、いつもおうたいになる歌で、声も俊一さんと、そっくりなのです。わたくし、おやっと思って、庭の木のあいだを探してみましたが、だれもいません。それでいて、歌の声は、いつまでも、かすかにつづいているのです。おくさま、その声は、なんだか地の底から、ひびいてくるように思われました。わたくし、恐ろしくなりました。俊一さんは、もしかしたら、庭の地の底にいらっしゃるのではないでしょうか。その歌は、さびしい悲しそうな声でしたわ。」 と、さもこわそうに、うしろをふりかえりながら、うったえるのでした。  おかあさんは、それを聞いても、べつに心配らしいようすもなく、笑いながら、お手伝いさんをたしなめました。 「それは気のせいですよ。そんなばかなことがあるものですか。きっとへいの外で、どこかの子どもが、うたっていたのよ。」  お手伝いさんは、おくさまが取りあってくださらないので、そのまま、ひきさがりましたが、このふしぎなできごとは、けっして、お手伝いさんの気のせいではなかったのです。  俊一君は、ほんとうに、地の底で、悲しい歌をうたっていたのです。いったい俊一君はどこにいたのでしょうか。  ところが、その晩のこと、もっともっと恐ろしいことが起こりました。  花崎さんの家の上のまっ暗な空を、一台のヘリコプターが、通りすぎました。ブーンというプロペラの音が聞こえたのです。  しかし、飛行機やヘリコプターが、家の上をとおるのは、いつものことですから、だれも、あやしむものはありませんでした。  すると、それからまもなく、花崎さんのお庭の空いっぱいに、あの恐ろしい怪物の顔があらわれたのです。 「ウワン……ウワン……ウワン……ウワン……。」 という、ぶきみな音が、教会の鐘のようにひびきわたったので、花崎さんをはじめ家の人は、みんな、窓や縁がわに出て、空を見あげました。  すると、あの恐ろしい顔が、らんらんと目を光らせ、牙をむきだして、やみの空いっぱいに、花崎さんの庭を見おろして、ウワン、ウワンと、笑っていたではありませんか。  あいては雲の上の怪物です。どうすることもできません。みんなは、一つの部屋に逃げこんで、耳をおさえて、うずくまっているほかはないのでした。 防空壕の中  そのあくる日のことです。花崎さんの家の俊一君の勉強部屋に、見なれぬ刑事が、見はりばんをつとめていました。  刑事は、かわりあってやってくるので、毎日同じではありませんが、今日の刑事は、いままで、一度もきたことのない人でした。その刑事は、 「わたしは、二─三日まえに刑事をつとめるようになった、しんまいです。」 と、あいさつして、にやにや笑いました。なんだか、へんな刑事さんです。  その刑事は、お昼から夜まで、ずっと見はりをつづけていましたが、夜の九時ごろ、うちの人が、みんな寝室へひきとり、あたりが、しーんとしずかになるのを待って、刑事は俊一君の洋室の窓をあけ、そこから庭へとびおりました。  まっ暗な庭に立って、しばらく、そのへんを見まわしていましたが、だれもいないことがわかると、広い庭の木立ちの中へはいっていきます。いったい、この刑事は、なにをするつもりなのでしょう。  木立ちの中に、土手のように小だかくなったところがあります。刑事はそのそばによって、土手の横にある四角な鉄のとびらを、パッとひらきました。  それは、むかし、戦争のときにつくった防空壕の入口だったのです。戦争のときは、空襲があると、家じゅうのものが、そこへ逃げこんだものです。  花崎さんの庭にある防空壕は、ぜんぶコンクリートでつくり、鉄のとびらをあけ、階段をおりて、コンクリートの地下室にはいるようになっていました。  がんじょうなコンクリートづくりなので、こわすのがたいへんですし、物置部屋につかうこともできますので、花崎さんは、防空壕をこわさないで、そのままにしておいたのです。  刑事は、まっ暗な階段をおり、そこにもう一枚しまっている鉄のドアを、こつこつと、たたきました。 「だれ?」  中から、子どもの声が聞こえました。 「わたしだよ。おとうさんだよ。ちょっと、ここをあけなさい。」  刑事が、花崎さんとそっくりな声でいいました。このあやしい刑事は、ものまねの名人です。  カチカチと、かぎの音がして、鉄のドアがひらきました。  あっ、こんなところに! ……その地下室の中には、ゆくえ不明になったマユミさんと俊一君が、かくれていたのです。てんじょうからさがった小さな電灯が、ふたりの顔を照らしています。  ふたりはゴングをだますために、どこかへいってしまったと見せかけて、じつは、こんな地下室の中で、不自由な思いをしていました。食事は、だれも見ていないときに、おかあさんが、そっと運んでいてくださったのです。  ふたりは、おとうさんと思いこんで、ドアをひらいたのですが、そこに見しらぬ男が立っていたので、ハッとしてドアをしめようとしました。しかし、もう、おそかった! 刑事は、ドアをおしひらいて、地下室の中へ、ヌーッとはいってきました。 「きみたち、マユミさんと、俊一君だね。」  刑事が、にやにや笑いながらいうのです。 「そうだよ。きみはだれなの?」  俊一君が、ききかえしました。 「わたしは、警視庁の刑事だよ。きみたちを迎えにきたのだ。もう、外へ出てもだいじょうぶだよ。」  それを聞くと俊一君は、しばらく考えていましたが、ハッとなにかに気づいたようすで、 「じゃあ、なぜ、おとうさんだなんて、うそをいったの?」 「いや、あれは、ちょっといたずらをしたんだ。なんでもないよ。さあ、いこう。」  刑事はそういって、ふたりの手をとろうとしましたが、ふたりは、さっと身をひいて、それをさけました。 「いやだよ。じゃあ、なぜ、おとうさんやおかあさんが、じぶんでこないんだい? ぼくたちは、ちゃんと約束したんだ。この地下室へは、おとうさんと、おかあさんと、明智先生のほかは、だれもはいってこないはずなんだよ。もし、そのほかの人がはいってきたら、敵だと思えといわれているんだ。」  俊一君が、そこまでいいますと、ねえさんのマユミさんがひきとって、あとをつづけました。 「そうよ。それに、けさ、おかあさまに聞いたわ。ゆうべ、家の空に、ゴングの顔があらわれたんですって、あれは、ゴングがやってくる前ぶれよ。」 「そうだ。きみは、そのゴングか、ゴングの手下だろう。え、そうだろう。ぼくたちを、つれだしにきたんだろう?」  俊一君も、叫ぶようにいうのです。すると、刑事が、いやな笑い声をたてました。 「ウフフフフフフ……、おまえたちは、なかなかりこうだな。そう気がつけばしかたがない。おれはゴングだよ。ウフフフ……、手下じゃない。おれが、あの恐ろしいゴングなのだ。おれは変装の名人だから、なににだってばけられる。きょうはほんものの刑事を、あるところへ閉じこめておいて、その身がわりになって、ここへやってきたのだ。さあ、ふたりともおれといっしょに、くるんだっ!」  マユミさんと俊一君は、顔を見あわせて、くすりと笑いました。なぜでしょう。妖人ゴングが、こわくないのでしょうか。  俊一君が、いたずらっぽい顔をして、いいました。 「ところがね、ゴング君、おあいにくさまだよ。おれは俊一君じゃないのさ。ここにいるのは、マユミさんじゃないのさ。」  少年は、にわかに、ことばづかいが悪くなって、へんなことをいいだしました。 「おれは、チンピラ隊の安公というんだよ。そいから、このねえさんは、やっぱり、おいらのなかまで、ひでちゃんっていうんだ。さすがのゴングおじさんも、すっかり、だまされたねえ。ワーイだ!」  いったかと思うと、ひでちゃんと安公は、ゴングがつかまえようとする手の下をくぐって、すばやく逃げだしました。そして、あっと思うまに入口の外へとびだして、ピシャンとドアをしめ、外からかぎをかけてしまいました。  さすがの妖人ゴングも、チンピラ隊の安公に、してやられたのです。にせものだときいて、びっくりしたので、つい、つかまえる手のほうが、おるすになったからでしょう。  チンピラ隊の少年たちは、みんなリスのように、すばしっこいのですが、なかでも安公は身がかるいので有名でした。大敵ゴングを、むこうにまわして、まんまと、うまくやってのけたのは、えらいものです。 五ひきのネズミ  刑事にばけた妖人ゴングは、鉄のドアをおしたり、ひいたりしてみましたが、恐ろしくがんじょうにできているので、どうすることもできません。からだごと、ぶっつかってみても、びくともしないのです。  針金が一本あれば、錠をひらくぐらい、ゴングには、わけもないのですが、あいにく、そんな針金は、どこにもありません。ゴングはがっかりして、地下室のすみにおいてあるベッドに腰かけました。 「明智は、恐ろしいやつだ。まさか、ここまで、裏の裏があるとは知らなかった。」  西多摩の山の中まで出かけていくと、それが、にせもの。そして、こんどは、家にかくれているだろうと、やっとのことで防空壕を探しあてると、またしてもにせものだったのです。明智探偵の奥底のしれない計略には、さすがのゴングも、すっかり、あきれてしまいました。  ベッドに腰かけて考えこんでいますと、目のすみで、なにかしら、チラッと、動いたものがあります。  だれもいない地下室に、動くものがあるはずはありません。「へんだな。」と思って、よく見ますと、すぐ前のコンクリートの壁の下に、さしわたし十センチほどの、いびつな穴があいています。穴の中はまっ暗です。どうも、さっき動いたのは、この穴のへんでした。穴の中に、なにか生きものがいるのでしょうか。  大きなヘビでも住んでいるのではないかと思うと、いくらゴングでも、いい気持はしないとみえて、かれは、みょうな顔をして、じっと、その穴をにらみつけていました。  すると、まっ暗な穴の中から、チラッとのぞいたやつがあります。小さい目がキラキラ光って、口がとんがり、ひげがピンと五─六本はえています。 「なあんだ、ネズミじゃないか。」  ゴングは、思わずつぶやきました。ネズミは用心ぶかく、しばらく考えていましたが、ゴングがしずかにしていますので、だいじょうぶと思ったのか、チロチロと、穴からはいだしてきました。 「ネズミがくるからには、この穴は、外へ通じているんだな。それなら、この穴を大きくして、土を掘っていけば、逃げだせるかもしれないぞ。」  ゴングは、そんなことを考えました。たしかにこの穴は、あるところへ通じていたのです。しかし、それがどんなところだったか? もしゴングが、そこへ気づいたら、どんなにギョッとしたことでしょう!  さっきのネズミは、地下室のすみをつたって、スーッと、むこうへ走っていきましたが、すると、また穴の中から、小さな顔をだしたやつがあります。二ひきめのネズミです。  その第二のネズミが穴を出て、そのへんをうろうろしているあいだに、また、穴の中から、第三のネズミがはいだし、つづいて、第四、第五と、あわせて五ひきのネズミが出てきたではありませんか。 「へんだなあ。どうして、こんなにネズミが出てくるんだろう? ここには、たべものなんか、ありゃしないのに。」  ゴングは、なんだか気味がわるくなってきました。ネズミたちが、地下室に閉じこめられたじぶんを、からかいにきたのかと思うと、しゃくにさわってくるのです。 「こんちくしょうめ!」  ゴングはいきなり立ちあがり、足ぶみをして、ネズミを、もとの穴の中へおいかえそうとしました。  ところが、ネズミたちは、地下室をぐるぐる逃げまわるばかりで、どうしても穴の中へは、はいろうとしません。  なぜでしょう? これには、なにかわけがあるのでしょうか。ひょっとしたら、穴の奥に恐ろしい動物がいるので、ネズミたちはそれがこわくて、穴へもどれないのではないでしょうか。  そのとき、またしても、なんだか、へんなことが起こりました。穴の中から、水が流れだしてきたのです。  それを見ると、ゴングは、あることに気づいて、まっさおになってしまいました。  穴の奥には、たしかに恐ろしいやつがいたのです。それは水だったのです。ネズミどもは流れる水におわれて、この部屋へ逃げてきたのにちがいありません。  そのうちに、水の勢いがはげしくなってきました。ドーッと流れだしてきたかと思うと、つぎには噴水のように、恐ろしい力でふき出すのです。 「ああ、わかったぞ。この穴はあの池の底へ通じているんだな。」  ゴングは、花崎さんの庭に、池のあることを思いだしました。このお話のさいしょのほうで、池の中から巨大なゴングの顔があらわれたことがあります。あの池です。あの池の水が、この穴へ流れてくるのです。  ゴングが地下室へ閉じこめられたとき、だれかが、池の底にしかけてあるふたをはずして、水が流れるようにしたにちがいありません。  流れだす水は、みるみる地下室の床いっぱいになり、立っているゴングの足くびをかくし、その水面が、じりじりとあがってくるのです。  ネズミどもは、五ひきともベッドの上にかけあがりました。ゴングも、ベッドにのぼりました。  水面は、ぐんぐんと高くなり、もうベッドの上までのぼってきたではありませんか。  ゴングは、ジャブジャブと水の中を歩いて、鉄のドアに近づき、もう一度、おしたり、ひいたりしてみましたが、やっぱり、だめです。  水面はもう、ゴングの腰のへんまでのぼってきました。 水中のゴング  水はゴングの腰までになり、腹、胸、肩と、みるみる深くなってくるのです。大きな池の水ですから、このせまい防空壕が、てんじょうまでいっぱいになっても、まだあまるほどです。いつまでたっても、水がとまるようすはありません。ぐんぐん水面が高くなっていくばかりです。そのへんを、死にものぐるいで、泳ぎまわっていた五ひきのネズミが、つぎつぎと、ゴングのからだへ、のぼりついてきました。  ネズミたちにとっては、ゴングのからだは、広い海の中につきだしている岩のようなもので、そこへよじのぼるほかに助かるみちはないのですから、ゴングがいくらはらいのけても、執念ぶかくのぼりついてくるのです。  そのうちに、水はゴングの首をひたし、あごにとどき、口をかくすほどになってきました。もう立っていることができません。しかたがないので、ゴングは、つめたい水の中で立ちおよぎをはじめました。  ネズミどもは、ゴングの顔へのぼりついてきました。ゴングは変装しているのですから、かみの毛はカツラなのです。ネズミたちは、そのカツラのモジャモジャのかみの毛にしがみついて、はなれません。  手ではらいのけようとすると、死にものぐるいのネズミは、ゴングの指にかみつくのです。指ばかりではありません。耳たぶや、鼻の頭を、あのするどい歯でかみつくのです。ゴングの顔は、ほうぼうから血が流れて、恐ろしいありさまになりました。  ゴングは、「ちくしょう! うるさいネズミめ!」とつぶやきながら、ぐっと、水の中へもぐりました。頭を水の中に沈めてじっとしていますと、ネズミどもは息ができないので、ゴングの頭をはなれて、水面に浮きあがり、そのへんを泳ぎまわるのです。  しかし、ゴングのほうでも、いつまでも、もぐっているわけにはいきません。息がくるしくなって、ひょいと頭をあげると、ネズミどもは、待ってましたとばかり、またしても、ゴングの顔や、頭へ、泳ぎついてきます。そして、耳や、鼻や、くちびるを、ひっかいたり、かみついたりするのです。  ゴングは、なんども水にもぐって、ネズミをはらいのけましたが、いくらやっても同じことなので、もう、あきらめてしまいました。五ひきのネズミを頭にのせたまま、泳いでいます。  ふと気がつくと、防空壕のてんじょうからさがっているはだか電球が、水面とすれすれになっていました。もうてんじょうと水面のあいだは、六十センチほどしかありません。いつのまにか、それほど水かさがましていたのです。  しばらくすると、そのへんが、みょうな色にかわりました。電球が、水につかってしまったからです。てんじょうが、スーッとうす暗くなり、電球は水の中で光っています。電球のまわりの水が明るくなって、水面が波だつたびに、キラキラと美しく光るのです。  しかし、それも、ごくわずかのあいだで、やがてパッと電灯が消え、あたりは真のやみになってしまいました。  死んだようなやみの中、つめたい水の中、なんの音もなく、動くものといっては、立ちおよぎをするために、しずかに水をかいている、じぶんの手足と、顔や頭にすがりついているネズミのからだだけです。  さすがの妖人ゴングも、ゾーッと、こわくなってきました。  十分もすれば、水は防空壕のてんじょうにつくでしょう。そうすれば、もう息ができなくなるのです。水の中でもがきながら、死んでしまうのです。  いや、そんなことよりも、なんにも見えないこの暗さ。頭の上で、からだをくっつけあって、うごめいている五ひきのネズミ。手足を動かさなければ沈んでしまう、つめたい水。そういう、いまの身のうえが、なんともいえないほど恐ろしくなってきたのです。 「助けてくれええ……。おれは、息がつまりそうだああ……。だれか、きてくれええ……。」  死にものぐるいの声を、ふりしぼって叫びました。  ゴングはもう魔法つかいではないのです。こうなっては、どんな魔法も、つかえないのです。ただ、まっ暗な中で、水におぼれて死ぬのを待つばかりです。  いくら悪人だといっても、あんまりかわいそうではありませんか。明智探偵は、こうして、ゴングを殺してしまうつもりなのでしょうか。 地上と地下  そのとき、花崎さんの広い庭に、何十人という黒い人影がむらがっていました。ことに防空壕の土手のまわりに、おおぜいの人が集まっているのです。  懐中電灯が、あちこちで照らされ、夜の庭に、その光が、星のようにきらめいていました。  庭の池のまわりにも、四─五人の黒い人影がありました。みんな小さなからだです。子どものようです。  懐中電灯の光が、スーッと池の水面を照らしました。 「あっ、池の水が、あんなに、へっちゃったよ。もう防空壕が、いっぱいになったかもしれないよ。」 「うん、はやく助けてやらないと、あいつ死んじゃうかもしれないね。」  それは少年の声でした。  みると、池の水は、もう、いつもの半分ほどにへっているのです。  懐中電灯が動いて、ひとりの少年の顔を照らしました。あっ、井上一郎君です。少年探偵団の井上君です。すると、ここにいる少年たちは、みんな少年探偵団員なのでしょうか。  防空壕のまわりにも、小さい黒い影がむらがっていました。  防空壕の土手には、両方のはしに、出入り口の鉄のとびらが閉まっています。その両方の出入り口の前に、小さい影が集まっているのです。  いっぽうの出入り口の前で、こんな声が聞こえました。 「小林さん、だいじょうぶなの? あいつ魔法つかいだから、とっくに、防空壕の中からぬけだしてしまったんじゃないかしら?」 「だいじょうぶだよ。あいつは、魔法つかいじゃない。ただの人間だよ。悪知恵をはたらかせて、魔法をつかうように見せかけているだけだよ。いくらゴングだって、この厳重な防空壕から逃げだせるもんか。」  懐中電灯の光が動いて、チラッとふたりの顔を照らしました。ひとりは探偵団長の小林少年、もうひとりは、ちゃめで、おくびょうもののノロちゃんでした。 「そんなら、防空壕の中は、いまごろ水でいっぱいになっているだろうから、あいつ、死んじゃったかもしれないね。」  ノロちゃんが、心配そうにいいました。 「だいじょうぶだよ。明智先生は、人を殺したりなんかしはしないよ。ごらん! あれを。」  小林少年は、防空壕の土手の上を指さしました。  小山のようになった土手の上に、三人のおとなの影が見えています。ひとりは、そこに立って、懐中電灯を照らしながら、なにかさしずをしています。あとのふたりは、一本ずつシャベルを持って、しきりと、土手の上の土を掘っています。 「ああ、あそこへ穴を掘って、ゴングを助けだすんだね。」 「助けだすんじゃない。つかまえるのだよ。とうとう、ゴングも、明智先生の計略にかかってしまったねえ。これでもう花崎君たちは安心だよ。」  防空壕のまわりには、少年たちのほかに、数人の制服警官の姿も見えました。妖人ゴングを逮捕するために、手ぐすねひいて、待ちかまえているのでしょう。         ×    ×    ×  防空壕の水の中では、魔法の力をうしなったあわれなゴングが、きちがいのように、わめいていました。 「助けてくれええ……、だれか、きてくれええ……。」  しかし、壕の中は水ばかりで、空気はてんじょうにおしつけられているものですから、つまったようなへんな声になってしまいます。むろん、外まで聞こえるはずはないのです。  ゴングは叫びつかれて、とうとう、だまりこんでしまいました。水のつめたさで、からだがしびれてしまって、手足をもがきながら水に浮いているのが、やっとです。 「ちくしょうめ! 明智のやろう、おれをこんなひどいめに、あわせやがって……。だが、おれはまだ、あきらめないぞ。なんとかして、ここをぬけだし、こんどこそ、きさまを、とっちめてやるぞっ!」  ゴングは、口の中で、そんなことを、ぶつぶつ、つぶやいていました。  すると、そのとき、どこかから、ブルルルルル……という、へんてこな音が聞こえてきました。なんだか、オートバイのエンジンをかけているような音です。 「いや、ちがう。オートバイが、こんなところへくるはずがない。ひょっとしたら、水がどっかへ流れだしているんじゃないかな。小さな穴から流れだす音じゃないかな。」  ゴングは、手をのばして、てんじょうにさわりながら、じっと考えていました。  しかし、てんじょうと水面のあいだは、遠くなるどころか、じりじりと、近づいていることがわかりました。水がひいているのではないのです。 「ブルルルルルル……。」  その、みょうな音につれて、てんじょうにさわっている手がブルブルふるえてきました。つまり、コンクリートのてんじょうそのものが、ふるえているのです。 「ブルルルル……ブルルルル。」  その音は、ますます強くなり、てんじょうは、いよいよ、はげしくふるえてきました。  地震ではありません。しかし、なにか恐ろしい異変が起こる前ぶれではないでしょうか。さすがのゴングも、なんともえたいのしれぬこわさに、ふるえあがってしまいました。  あっ、たいへんです。コンクリートのてんじょうが、メリメリと音をたてて、ひびわれてきたではありませんか。それが、手さぐりで、わかるのです。  やっぱり、地震かもしれません。てんじょうがこわれ、その上の土手の土といっしょに落ちこんできて、ゴングは生きうめになってしまうのではないでしょうか。 「ブルルルル……、ブルルルルル……。」  音はすこしもやみません。そのうちに、上から、なにか、バラバラと落ちてきました。砂のようなもの、小石のようなもの、なかには、大きな石のかたまりのようなものが、頭の上にふりそそいで、水面に、ボチャン、ボチャンと落ちるのです。  ゴングは、いよいよ、この世のおわりがきたのかと思いました。もう、どうすることもできません。水の中へもぐってみても、助かるみこみはありません。ゴングはかくごをきめて、頭の上にふりそそぐ、砂や小石を、じっとがまんしているほかはないのでした。 穴の上から  防空壕の上の土手では、シャベルで掘れるだけ掘ると、あついコンクリートが、あらわれてきました。防空壕のてんじょうにあたる部分です。  もうシャベルでは掘れませんから、用意してあった電気さく岩機を庭の電灯線につないで、土手の上にはこび、コンクリートをこわしはじめました。よく、道路工事などで、労働者が長ぼそい機械を地面に立て、上から両手でおさえつけて、ダダダダダ……と、コンクリートをこわしているでしょう。あの機械なのです。  ゴングが地震だと思ったのは、このさく岩機のひびきでした。頭の上から落ちてきたのは、コンクリートのかけらだったのです。  見ているまに、さしわたし五十センチほどの穴があきました。待ちかまえていた明智探偵は、懐中電灯で、その穴の中を照らしました。  穴の下は水でいっぱいです。その水の中から、あわれなゴングの首が浮きあがっていました。頭には、まだネズミがとまっています。そして顔じゅう血だらけなのです。  明智に呼ばれて、土手の下から、ひとりの警官がかけあがってきました。警視庁の中村警部です。 「ゴングは、だいじょうぶか?」 「だいじょうぶ。もう水はとめさせたから、これいじょう、ふえることはないよ。それにしても、ゴングの顔は血だらけになっている。どうしたんだろう。」 「コンクリートのかけらが、ぶっつかったのかな?」 「いや、わかった。そうじゃないよ。見たまえ。あいつの頭には、ネズミがウジャウジャかたまっている、ネズミにかじられたんだよ。かわいそうなことをしたな。」  明智探偵はそういって、にが笑いをするのでした。  水の中のゴングは、しばらくは、なにがなんだかわからないように、ぼんやりと、穴の上を見あげていましたが、やがて、ことのしだいが、のみこめたらしく、ぐっとこちらをにらみつけて、どなりました。 「おい、そこにいるのは明智だな。そして、もうひとりは、中村警部か?」 「そうだよ。ひどいめにあわせてすまなかったね。だが、きみをとらえるのには、こんな手を考えだすほかはなかったのだよ。きみは、魔法つかいだからね。それにしても、きみの魔法はどうしたんだ。こんなときには、役にたたないとみえるね。」  明智が穴をのぞきこみながらいいますと、下から、また、にくにくしげな、どなり声が聞こえました。 「きさまなんかに、おれの魔法がわかってたまるもんか。いまに、どんなことが起こるか、見ているがいい。こんどこそ、もう、きさまを生かしちゃおかないぞっ!」 「ハハハ……、からいばりは、よしたまえ。きみは、ぜったい人ごろしはしないはずだったじゃないか。それに、きみはもう、魔法なんかつかえはしないよ。あれは魔法でも、なんでもないんだからね。」 「フフン、で、きさま、おれの魔法の秘密を知っているというのか。」 「すっかり知っているよ。だから、いくらきみがおどかしたって、ちっともこわくないのさ。」 「それじゃ、いってみろ。」 「なにも、いまいうことはないじゃないか。きみは、そのつめたい水の中に、まだがまんしているつもりか?」 「おれに、縄がかけたいのだろう。おれのほうでは、ちっともいそぐことはないよ。ここで聞いてやろう。さあ、いってみろ!」 「ごうじょうなやつだな。それじゃ、水の中で泳ぎながら、聞いていたまえ。きみの魔法といっても、たいていは、これまでに種がわれている。わからなかったのは、ゴングの顔が、空にあらわれる秘密と、ここの池の底から、大きなゴングの顔が浮きあがってきた秘密と、それから、れいのウワン、ウワンという音と、この三つぐらいのものだね。」 「うん、その秘密がわかるか。」 「子どもだましだよ。ウワン、ウワンという音は、テープレコーダーと、拡声器があれば、だれにだってだせるよ。拡声器の大きなやつをつかえば、何百メートルもむこうまで、ひびくからね。」 「ふふん、きさまの考えは、まあ、そんなところだろう。だが、あとの二つの秘密は、むずかしいぜ。きさまに、とけるかね?」  水の中から、首だけをだした血まみれのゴングの顔が、にくにくしく、あざ笑いました。 「なんでもないよ。二つとも、やっぱり、子どもだましさ。きみのやることは、いつでも子どもだましだよ。ただ、ちょっと、人の思いつかないような、きばつな子どもだましなので、世間がだまされるのだ。きみのくせを知ってしまえば、その秘密をとくのは、ぞうさもないことだよ。」 「で、とけたか?」 「むろん、とけたさ。」  ひとりは、穴の上にしゃがんで、懐中電灯を照らしながら、ひとりは血まみれの顔で、つめたい水の中に立ちおよぎをしながら、このふしぎな問答は、なおもつづくのでした。 ゴングの秘密  そのとき防空壕の土手のそばに、みょうなことが起こっていました。  そこには少年探偵団とチンピラ隊の子どもたちが、十人ばかり集まって、なにかひそひそとささやきあっていました。 「ね、この考え、いいだろう。おれ、マネキン人形屋のゴミ箱から、これをひろってきたんだよ。子どものマネキン人形だよ。こいつに俊一さんの服を着せるんだよ。」  チンピラ隊の安公という少年が、とくいになって、みんなに話しているのです。安公はじぶんと同じくらいの大きさの、マネキン人形をわきに立たせて、両手でたおれないように、かかえていました。かたほうの耳がかけ、手足もきずだらけになって、もうつかえない人形です。 「きみは、ずいぶん、へんなことを考えるんだねえ。そんなこと、うまくいくと思うかい?」  少年探偵団のひとりが、からかうようにいいました。 「うまくいかないかもしれないよ。だって、もともとじゃないか。まあ、ためしに、やってみるんだよ。だれか俊一さんの洋服かりてきてくれよ。」  チンピラの安公は、あくまでいいはるのです。  みんなは、小林団長の意見をきいてみました。すると、小林少年は、 「やってみたらいいよ。安公の考えはおもしろいよ。ゴングのやつ、だれも助けにきてくれないんだから、ひょっとしたら、その手にのるかもしれない。ぼく、俊一君の洋服かりてきてやるよ。」  小林少年は、そういって、まっ暗な庭のなかをかけだしていきましたが、しばらくすると、俊一君の着がえの服を持って、帰ってきました。  それから、みんなして、きずだらけの人形に俊一君の服を着せ、人形をしゃがませ、地面にみじかい木の棒を立て、たおれないようにしました。頭には学生帽を深くかぶせましたから、ちょっと見たのでは、俊一君とそっくりです。人形の顔も、なんだか俊一君ににているようです。  小林少年は懐中電灯で、それをしらべながら、 「うまくできたね。ぼくだって、ちょっと見たら俊一君だと思うよ。」 と、安公の知恵をほめるのでした。  やみのなかに、花崎俊一君のカカシがしゃがんでいるわけです。  それにしても、このカカシは、いったい、どんな役目をするのでしょうか。チンピラの安公は、じつにへんなことを、思いついたものです。  カカシができあがると、少年たちはそのまわりに立って、時のくるのを待ちかまえるのでした。  そのあいだにも、防空壕の水の中と、てんじょうの穴の上との、きみょうな問答がつづいていました。 「で、きさま、おれの魔法の種がわかるというのか。」  水の中のゴングが、あざけるように叫びました。 「空いっぱいにゴングの顔があらわれたのは、ガラスにかいた絵を映写したんだよ。」  明智探偵が、こともなげに答えました。 「子どもだましだよ。しかし、大じかけな子どもだましだ。まずヘリコプターを飛ばせて、白い煙を空いっぱいに、まきちらかすのだ。その煙がスクリーンになる。それに向けて、どこかの屋上にすえつけた、サーチライトのような強い光の映写機で、ガラスにかいたゴングの顔をうつすのだ。空にあらわれるゴングの顔が、なんだかもやもやして、はっきりしなかったのはそのためだよ。ゴングが笑っているように見えたのも、スクリーンの白い煙が動くので、そんなふうに感じられたのだ。  どうだ、そのとおりだろう。返事をしないところをみると、ぼくのいったことが、あたっているのだね。  だが、そんなことをするのには、たいへん費用がかかる。ゴングは、なぜそんなバカなまねをしたのか。それは花崎さんをおどかすためだよ。いや、世間ぜんたいをおどかすためだよ。そして、このぼくに挑戦したのだ。え、そうだろう。きみはそういう大げさなことがすきだからねえ。」  ああ、空にあらわれた怪物は、ガラスの絵を映写したのにすぎなかったのです。それにしても、なんというきばつなことを考えついたものでしょう。  水の中のゴングは、だまっていました。懐中電灯の光をあててみると、目をつむっています。明智にすっかりいいあてられて、一言もないというようすです。明智はなおも話しつづけました。 「池の中から、巨人の顔が浮きあがった秘密も、同じような子どもだましだ。大きなゴムびきのぬのか、ビニールに巨大なゴングの顔をかいた。目はガラスかプラスチックの目玉をいれ、鼻は高くふくらませ、口は大きくくぼませ、やっぱりプラスチックかなにかで、二本の牙をはやした。  その大きなゴムぬのかビニールの下には、空気のもれない袋を、いくつもくっつけておき、長いゴム管で、庭の茂みのかげから、あっさく空気を送ったのだ。すると袋がふくらんで、巨大な顔ぜんたいが、スーッと池の底から浮きあがってくるというしかけなのだ。  どうだ、これもあたっているだろう。いかにも、きみの思いつきそうな手品だからね。  俊一君が、あの巨大な顔を見て逃げだすと、木の茂みにかくれて、あっさく空気を送っていたきみは、すぐに、そこからとびだして、池の中の顔をひきあげ、袋の空気をぬいて、小さくおりたたみ、それを持って、姿をくらましてしまった。たぶん、そのときには助手がいたのだろう。でなくては、あっさく空気のしかけまで、ひとりで運びだすことは、むずかしいからね。」  これで妖人ゴングの魔法の種は、すっかりとけてしまいました。さすがに名探偵です。明智はずっと早くから、なにもかも見ぬいていたのでした。  水の中のゴングは、それでもまだ、だまりこんでいました。水の上に首だけが、じっと浮かんでいますが、生きているのか死んでいるのかわからないほど、しずかです。  明智は、なおも話しつづけます。 「おい、ばかに考えこんでしまったね。ぼくのいったことが、みんなあたっていたので、すっかり、しょげてしまったんだね。ハハハハ……、ところが、きみにはまだ、もっとでっかい恐ろしい秘密があるのだ。  きみはなぜ、マユミさんと俊一君を、執念ぶかくねらったか。それはおとうさんの花崎検事を苦しめるためだ。きみは花崎検事にひどいめにあったことがある。その復讐をしようとしたのだ。  花崎さんは、すこしも悪い人ではない。しかし検事としては、罪人をきびしくせめるのがつとめだ。だから、花崎さんにうらみを持つものは、罪人のほかにない。きみは花崎さんのかかりで、重い刑をうけたことがあるにちがいない。  ぼくは花崎さんに、そういう罪人の心あたりはないかときいてみた。すると花崎さんは、じぶんをひどくうらんでいるかもしれないという五─六人の名まえを、紙に書いて見せてくださった。その中に、きみの名まえがあったのだ。  ぼくは、さいしょから、その男ではないかとうたがっていた。ただ花崎さんに復讐するだけなら、あんな大げさな魔法を使うひつようはない。その男は、世間をあっといわせたかったのだ。ぼくの前に姿をあらわして、これ見よがしに、戦いをいどんできたのだ。  マユミさんがぼくの助手になったのが、こんどのきみの復讐の、きっかけになったのかもしれない。マユミさんをひどいめにあわせれば、花崎さんを苦しめるだけでなく、ぼくをおこらせることができる。きみは、いっぺんに二つの復讐ができるのだ。  またきみは、小林君や少年探偵団にもうらみがある。だから小林君を、あんな恐ろしいめにあわせたのだ。そして、少年探偵団をおびきよせ、からかったり、いじめたりするつもりだったのだ。  きみ、ゴング君。花崎さんばかりでなく、ぼくや小林君に、そういううらみを持っている男が、世間にふたりとあるだろうか。  ここまでいえば、もうわかっただろう。ぼくは、きみの正体を見やぶったのだ。」  明智探偵は、水の中に首を浮かべているゴングの顔に、まっこうから懐中電灯の光をあてて、底力のある重々しい声で、さいごの宣告をあたえました。 「きみは怪人二十面相だっ! べつの名は怪人四十面相だっ!」 少年探偵団ばんざい  ああ、妖人ゴングが、あの怪人二十面相だったとは、その場にいあわせた中村警部も、あっとおどろいたほどですから、だれひとり、そこまで気づいているものはありません。それをすっかり見ぬいた明智は、さすがに名探偵といわなければなりません。  明智は中村警部に、二十面相を水の中から、ひきあげることをたのみました。警部は、防空壕の土手の下にいた警官たちを呼びあげて、犯人を逮捕するように命じました。  そのとき、警官たちにまじって、小さな人影が防空壕の上にかけあがり、明智探偵のそばによって、なにかささやきました。小林少年です。  明智は小林君の話を聞くと、ニッコリ笑ってうなずき、 「それはいい思いつきだ。きっと、そういうことがおこるよ。」 と、ささやきかえすのでした。  二十面相は防空壕の穴の外にひき出され、手錠をはめられ、三人の警官にとりかこまれて、グッタリとうずくまっていましたが、やがて顔をあげると、明智にむかって、なにかいいはじめました。 「明智君、ざんねんだが、おれの負けだよ。まんまと、きみのしかけのわなにはまってしまった。きみの計画に、これほど裏の裏があろうとは、さすがのおれも気がつかなかった。こんどもまた、きみにやられたが、このしかえしはきっとするから、そう思っているがいい。  だが、明智君。たった一つ聞きたいことがある。マユミと俊一はどこにかくしたのだ。山の中にかくしたのも、にせものだった。この防空壕へかくしたのも、にせものだった。いったい、ほんもののふたりはどこにいるのだ。おれは手錠をはめられている。まわりには、おまわりがウジャウジャいる。もう逃げられっこないよ。秘密をうちあけても、だいじょうぶだよ。」  明智探偵はにこにこ笑って、それを聞いていましたが、相手のことばがおわると、すぐに答えました。 「ふたりは、ここにいるよ。マユミさん、俊一君、もういいから、ここへいらっしゃい。」  その声におうじて、まっ暗なむこうの茂みから、三つの人影がかけ出してきました。明智が懐中電灯をそのほうにむけますと、それは小林少年と、マユミさんと、俊一君であることが、わかりました。 「ああ、ここにいたのか。だが、いく日も庭にかくれていたわけじゃなかろう。いままで、いったい、どこにかくれていたのだ。」  二十面相が、くやしそうにどなりました。 「そんなに聞きたければ、おしえてやろう。ふたりは、ぼくのアパートに、かくまっておいたのだよ。」  明智がいいますと、二十面相は首をふって、 「うそをいうな。おれはきみのアパートを、いくどもしらべたが、あすこにはだれもいなかった。」 「ところが、いたのさ。ぼくのアパートには、いろいろのしかけがある。だれにもわからないかくれ場所も、ちゃんと作ってあるのだ。いくらきみが探しても、あのかくれ場所はわかるはずはないのだよ。」  明智探偵事務所は、麹町アパートにありましたが、アパートといっても、一室や二室かりているのではなく、六つぐらいも部屋があるのですから、こっそり工事をすれば、そういう秘密のかくれ場所を作ることもできたのです。  二十面相はそれを聞くと、まただまってしまいました。マユミさんと俊一君は、その問答のあいだに土手をおりて、そこにむらがっている少年たちのうしろに、姿をかくしました。 「おい、二十面相、立つんだ。警視庁の特別室が、きみを待っている。さあ、案内してやるから、きたまえ。」  中村警部がどなりました。二十面相は三人の警官にひったてられて、防空壕の土手をおりるのでした。中村警部と残りの警官は、懐中電灯を照らして、厳重にその前後を見はっています。  ところが、二十面相が土手をおりきったときに、なんだか、わけのわからないことが、起こりました。  あっというまに、三人の警官がつきとばされ、二十面相が走りだしていたのです。見ると手錠はいつのまにかはずされて、地面にほうりだされていました。  そしてやみの中から、二十面相の爆発するような笑い声が、ひびいてきたではありませんか。 「ワハハハハ……、おれは魔法つかいだ。手錠をはずすなんて、朝めしまえだよ。マユミはどこにいる。俊一はどこにいる。いまこそ、きみたちを、ひっとらえてくれるぞっ!」  二十面相はそう叫びながら、まっ暗な庭の中を、あちこちとかけまわり、マユミさんと俊一君を探しもとめました。  少年探偵団とチンピラ隊の少年たちは、「ワーッ、ワーッ。」と叫んで、ひとかたまりになって逃げまわっています。マユミさんと俊一君は、その中にまぎれこんでいるのか、どこにも姿が見えません。まるで、暗やみの中の鬼ごっこみたいです。逃げる少年たちの一団、それを追いかける二十面相、そのまた二十面相を追いかける警官たち。なにしろまっ暗な中ですから、懐中電灯が三つや四つあったって、なにがなんだかわけがわかりません。 「やい、マユミ、俊一、どこにいるんだ。いまに思いしらせてくれるぞっ。」  二十面相が、恐ろしい声でどなりました。 「ワーッ、ワーッ……。」少年たちは、ひとかたまりになって逃げていきます。そのとき、ひとりの少年が逃げおくれて、地面にうずくまっているのが見えました。 「あっ、俊一だな!」  二十面相はそう叫んで、その少年にとびかかっていきました。そしてたちまち、少年をこわきにかかえると、くるっと追手のほうをふりむいて、仁王だちになりました。 「さあ、人じちができたっ。おれに手だしをしてみろ、こいつをしめ殺してしまうぞ。さあ、どうだ。明智はいるか。おれの底力がわかったか。ワハハハ……、いいか、この俊一の命がおしかったら、みんな向こうに行けっ! おれがここをでていくのを追いかけるな。」  二十面相は、気ちがいのようにわめくのでした。すると、暗やみの中から、ひとりの小さい人影が近づいて、懐中電灯の光を、パッと二十面相のほうに向けました。 「おい、二十面相。この光で、よく見たまえ。きみがだいているのは、人間にしては軽すぎやしないかい? それは俊一君じゃないよ。俊一君によくにた人形だよ。」  二十面相はそれを聞いたとき、ギョッとしたように、こわきにかかえているものを見つめました。たしかに、人間にしては軽すぎたのです。防空壕の水ぜめでつかれはてた二十面相は、心がどうてんして、そこへ気がつかなかったのです。花崎さんの庭に、マネキン人形のわながしかけてあるなんて、だれが想像するでしょう。まして、血まよった二十面相、それを生きた少年と思いこんだのは、むりもないことでした。  俊一君だとばかり思っていた人じちが、人形だとわかると、二十面相は、ハッとして立ちすくんでしまいました。そこにすきができたのです。そのすきをのがさず、五人の警官が四方からとびついていって、二十面相をつきたおし、地面におさえつけてしまいました。  手錠はだめだとわかっているので、こんどは五人が持っていた縄をつなぎあわせて、二十面相の手といわず、足といわず、ぐるぐる巻きにしばりあげてしまいました。そして、みんなで二十面相のからだを持ちあげて、おもてに待っている三台のパトロールカーの一つへ運びました。  その自動車には、中村警部とふたりの警官が乗り込み、二十面相をおさえつけたまま、警視庁へといそぐのでした。のこる二台の自動車にも、それぞれ警官たちが乗りこんで、二十面相の車の前とうしろから護衛して走るのです。いかなる二十面相も、もうどうすることもできません。  花崎さんの庭では、少年探偵団とチンピラ隊の少年たちが、明智探偵と小林団長をかこんでいました。そこへ家のほうから、主人の花崎さん夫妻が近づいてきました。少年たちにまもられていたマユミさんと俊一君が、おとうさんとおかあさんのそばへ、とびついていきます。  花崎さんは、ふたりを両手でだきしめながら、お礼のことばをのべるのでした。 「明智さん、小林君、それから少年探偵団のみなさん、ほんとうにありがとう。わたしは、こんなうれしいことはありません。」 「こんやの殊勲者は、このチンピラ隊の安公ですよ。」  明智探偵が安公の手をとって、花崎さんの前におしやりました。すると花崎さんは、モジャモジャと、きたない毛ののびた安公の頭をなでながら、またお礼をいうのでした。  それから花崎さんは、マユミさんと俊一君の手をひきながら、家のほうへ、みんなを案内しましたが、日本座敷の縁がわに近づいたとき、中から書生さんがとび出してきました。 「いま、警視庁の中村さんから電話がありました。二十面相は、ぶじ警視庁の地下室へ閉じこめましたから、ご安心くださいって。」  それを聞くと、少年たちのあいだから「ワーッ」という歓声があがりました。そして、みんなはおどりあがるようにして叫ぶのでした。 「少年探偵団ばんざあい……。」 「チンピラ別働隊ばんざあい……。」 底本:「黄金豹/妖人ゴング」江戸川乱歩推理文庫、講談社    1988(昭和63)年4月8日第1刷発行 初出:「少年」光文社    1957(昭和32)年1月号~12月号 入力:sogo 校正:大久保ゆう 2017年12月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。