箸 伊藤左千夫 Guide 扉 本文 目 次 箸 一 二 三 四 五 六 七 一  朝霧がうすらいでくる。庭の槐からかすかに日光がもれる。主人は巻きたばこをくゆらしながら、障子をあけ放して庭をながめている。槐の下の大きな水鉢には、すいれんが水面にすきまもないくらい、丸い葉を浮けて花が一輪咲いてる。うす紅というよりは、そのうす紅色が、いっそう細かに溶解して、ただうすら赤いにおいといったような淡あわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。  庭の木戸をおして細君が顔をだした。細君は年三十五、六、色の浅黒い、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。 「ねいあなた、大島の若衆が乳しぼりをつれてきてくれましたがね」  こういって、細君は庭にはいってくる。主人はゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。 「そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無作法なやつじゃなあ、こら、いかんというに……」  主人のどなりと細君の足とはほとんど並行したので、主人は舌うちして細君をながめたが、細君は、主人の小言に顔の色も動かさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁先へきてしまった。  げたのあとは、ずいぶん目だって庭に傷つけたけれど、主人はふたたび小言はいわなかった。主人は、平生自分の神経過敏から、らちもないことに腹をたてることを、自分の損だと考えてる人である。いま細君にたいする小言のしりを結ばずにしまったことを、ふとおのれに勝ちえたように思いついて、すいれんのことも忘れ、庭を損じたことも忘れて、笑顔を細君にむけた。  細君は下女をよんで、自分のひよりげたを駒げたにとりかえさして、縁端へ腰をかけた。そうしてげたのあとを消してくれ、と下女に命じた。  細君は、主人からある場合になにほどどなられても、たいていのことでは腹をたてたり、反抗したりせぬ。それはあながち主人の小言になれたからというのでもなく、主人を恐れないからというのでもない。細君は主人の小言を根のある小言か根のない小言かを、よく直覚的に判断して、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。  主人は細君をそれほど重んじてはいないが、ただ以上の点をおおいに敬している。 「おまえは、とくな性だ」 とほめてる。細君も笑って、 「とくな性ではありませんよ、はじめから損をあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう」という。  世間には、ちょっとしたはずみで夫から打たれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫と仲よく話をする女がいくらもあるから、これは女性の特有性かもしれぬ。妻などはそれをすこしうまく発達したものであろうと、主人は考えている。  そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるのは、いささかきまりがわるくなる。それで近来主人は、ある場合にどなることはどなっても、きょうのようにしりを結ばぬことがおおいのだ。  乳しぼりというのは、五十ばかりの赤ら顔な、がんじょうな、人に会ってもただ頭をたてにすこし動かすだけで、めったに口をきかない。それでどうかすると大きな茶目を見はって人を見る。たいていの女であったら、気味わるがって顔をそむけそうな、すこぶる人好きのわるい男だ。  つれてきた若衆の話によると、乳しぼりは非常にじょうずで朝おきるにも、とけいさえまかしておけば、一年にも二年にも一朝時間をたがえるようなことはない。ただすこし頭の調子が人なみでないから、どうもこれまで一か所に長くいられなかったが、ご主人のほうで、すこしその気質をのみこんでいて使ってくだされば、それはそれはりっぱな乳しぼりだ、こちらのだんなならきっとうまく使ってくださるにちがいない、本人もそういってあがったというのであった。  細君は、こうひととおり話しおわってから、 「わたしはどうも、あまり好ましくないけれど、乳しぼりもなくてはじつにこまるから、おいてみましょうねえ」 とつけくわえた。主人も聞いてみると、すこしはうわさに聞いたことのある、花前という男だ。変人で手におえないとも、じつはかわいそうな人間だともいわれて、府下の牛乳屋をわたっていた乳しぼりである。主人はしばらく考えたのち、 「それはうわさに聞いたことのある変人の乳しぼりだ。朝おきるのがたしかで乳しぼりがじょうずなら、使ってみようじゃねいか。うまくいかぬことがあったら、それはそのときのこととして、とにかくおいてみるさ」  細君も不安なりに同意して、その乳しぼりをおいてやることになった。牛舎のほうでは親牛と子牛とを引き分けて運動場にだしたから、親牛も子牛もともによびあって鳴いてる。二、三日ぶり外へだされた乳牛は、よろこんでしきりに運動場をとびまわる。  洗濯物に気をとられてる細君の目には、雨あがりのうるおった庭のおもむきも、すいれんのうるわしい花もいっこう問題にはならない。 「それじゃそう」 との一言をのこして、また木戸から細君はでていった。 二  昼乳をしぼる刻限になった。女が若衆をおこす。細君は花前にひととおりのさしずをしてくださいというてきた。ほかのふたりの若いものは運動場の乳牛を入れにかかる。はり板をふみたてる牛の足音がバタバタ混合して聞こえる。主人も牛舎へでた。乳牛はそれぞれ馬塞にはいって、ひとりは掃除にかかる、ひとりは飼い葉にかかる。主人はここではじめて花前に会った。  五十になってもしりのおちつかない、落ちぶれはてた花前は、さだめてそぼろなふうをしているかと思いのほか、髪をみじかく刈り、ひげをきれいにそって、ズボンにチョッキもややあかぬけのしたのを着てる。白いシャツをひじまでまくり、天竺もめんのまっ白い前掛けして、かいがいしい身ごしらえだ。  主人はまずそれがおおいに気持ちよかった。花前は主人に対しても、ただ例のごとくちょっと頭をさげたばかりである。かえって主人のほうからしたしくことばをかけた。 「花前、おまえのうわさはちょいちょい聞いていたよ、こんどよくきてくれた、なにぶん頼むぞ」  花前は、はいともいわない、わずかに目であいさつしてる。主人は家の習慣とだいたいの順序とをつげて、これだけの仕事はおまえにまかせるからと命じた。  花前は、耳で合点したともいうべきふうをして仕事にかかる。片手にしぼりバケツと腰掛けとを持ち、片手に乳房を洗うべき湯をくんで、じきにしぼりにかかる。花前もここでは、 「どれとどれをしぼるのですか」 と主人に聞いた。  主人はこれとこれとと、つぎつぎ数えてつごう十余頭が乳のでるのだ。それからこの西側から三つめの黒白まだらが足をあげるから、飼い葉をやっておいて、しぼらねばいかぬとつげる。花前はそういう下から、すぐはじめの赤牛からしぼりにかかった。花前の乳しぼる姿勢ははなはだ気にいった。  左の足を乳牛の胸あたりまでさし入れ、かぎの手に折った右足のひざにバケツを持たせて、肩を乳牛のわき腹につけ、手も動かずからだも動かず、乳汁は滝のようにバケツにほとばしる。五分間ばかりで四升あまりの乳をしぼった。しぼった乳は、高くもりあがったあわが雪のように白く、毛のさきほどのほこりもない。主人はおぼえずみごとな腕前だと嘆称した。  乳を受け取って濾しにかけた細君も、きれの上にほこりがないのにおどろいて、 「なるほど、花前はしぼるのがじょうずだ」 と主人のところへ顔をだしてほめる。  花前は色も動きはしない。もとより一言ものをいうのでない。主人や細君とはなんらの交渉もないふうで、つぎの黒白まだらの牛にかかった。主人は兼吉をよんで、いましぼるからこの牛に飼い葉をやれと命じた。花前はしぼりバケツを左に持ちながら、右手で乳牛の肩のへんをなでて、バアバアとやさしく二、三度声をかける。  乳牛はすこしがたがた四肢を動かしたが、飼い葉をえて一心に食いはじめる。花前は、いささか戒心の態度をとってしぼりはじめた。じゅうぶん心得ている花前は、なんの苦もなくはね牛の乳をしぼってしまった。主人は安心すると同時に、つくづく花前の容貌風采を注視して、一種の感じを禁じえなかった。  その毅然として、なにかかたく信ずるところあるがごとき花前は、その技においてもじつに神に達している。しかるにもかかわらず、人に使われてるのみならず、おちついて使われている主人をすらえられないかと思うと、そこに大なる矛盾を思わぬわけにいかない。  見るところ、花前は、ほとんど口をきく必要のないまで、自分の思うとおりを直行するほか、なんの考えるところもないらしい。こう思うと、われわれの平生は、ただ方便を主とすることばかりおおくて、かえってこの花前に気恥ずかしいような感じもする。  花前はかえって人のいつわりおおきにあきれて、ほとんど世人を眼中におかなく、心中に自分らをまで侮蔑しつくしてるのじゃないかとも思われる。さりとてまた、五十になる身を人にたくして、とんと人と交渉しえない、世にもあわれな人間とも思われる。  主人が妄想に落ちて、いたずらに立てるあいだに、花前は二頭三頭とちゃくちゃくしぼり進む。かれは毅然たる態度でそのなすべきことをなしつつある。花前は一面あわれむべき人間には相違ないが、主人も花前を見るにつけ、みずからかえりみると、確信なきわが生活の、精神上にその日暮らしである恥ずかしさをうち消すことができなかった。 「だんな、くそがはねますよ、すこしどうかこっちへきてください」  そういう兼吉は、もはや飼い葉をすませて、おぼれ板の掃除にかかったのだ。うまやぼうきに力を入れ、糞尿相混じた汚物を下へ下へとはきおろしてきたのである。 「湯が煮たったから、ふすまをかいておくれ、兼吉」  流し場から細君の声で兼吉はほうきをおいて走っていく。五郎はまぐさをいっせいに乳牛にふりまく。十七、八頭の乳牛は一時に騒然として草をあらそいはむ。そのあいだにも花前はすこしでも、わが行為の緊張をゆるめない。やがて主人は奥に客があるというので牛舎をでた。 三  その夜の晩餐のときに、細君はそろそろこぼしはじめた。 「ねいあなた、人なみでないっち話ではあったけれど、よほど人なみでないようですねい、主人からものをいわれても、なるべくは返事もしたくないというふうですからねえ、あれでどうでしょうかねえ」 「うむ、変人だと承知でおいてみるのだから、いまからこぼすのはまだ早い、とにかく十日か二十日も使ってみんことにはわかりゃせんじゃないか」 「そりゃそうですけれど」 「えいさ、変人のなりがわかりさえすりゃ、その変人なりに使ってやる道があるだろう」  話もそれでおわりになったが、主人はこの花前のことについて考えることに興味を持ってきた。その夜もいろいろと考えた。  かれははじめから変人ではなかったろう。かれがあんなになるについては、かならず容易ならぬ経歴があったにちがいない。それがわかれば、いっそうかれが今日の状態に興味がふかいだろうけれど、わからぬものはしかたがないとして、きょう見ただけでもかれは興味ある変人だ。かれが顔色とかれが風采とに見るもかれがはじめから狂愚でないことはわかる。  かれが行動の確信あるがごとくにして、その確信の底がぬけているところ、かれが変人たるゆえんではあるが、しかしながらかれは確信という自覚があるかどうか、確信の自覚がないのに底ぬけを気づくべきはずのないのはあたりまえだ。おそらくかれには確信という意識はないにちがいない。確信も意識もないにしても、かれの実行動は緊張した精神をもって毅然直行している。その脈絡のていどや統一の範囲は、もうすこしたってみねばわからぬが、とにかく一部の脈絡と統一とはじゅうぶんみとめることができる。みょうな変人があったものだ。  なにひとつ人にすぐれたことのない人間からみると、ああいう人間のほうがたしかにおもしろい。あまりよく他と調和する人間にろくなやつはないけれど、そのろくでもないやつのほうが、この世の中ではたいてい幸福であるのがおかしい。  自分と花前とをくらべて考えるとおもしろい対照ができる。われわれは問題の大小を識別して、いつでも小問題をごまかしているが、花前は問題の大小などいう考えがはじめからなくて、なにごともごまかすことが絶対にできない。であるからわれわれは、近い左右前後はいつでもあいまいであるけれど、遠い前後と広い周囲には、やや脈絡と統一がある。花前になると、それが反対になって、近い左右前後はいつでも明瞭であって、遠い前後や広い周囲はまるで暗やみである。  まずちょっとこんなふうに差別されるようだが、近い周囲をあいまいにして世に処するということが、けっしてほこるべきことではなかろう。結局主人は、花前に学ぶところがおおいなと考えた。  そのよく朝であった。細君はたばこ盆に長いきせるを持ちそえて、主人の居間にはいってきた。 「花前は保証人があるでしょうか、なんでも大島の若衆の話では、親類も身内もないひとりものだということですから、保証人はないかもしれませんよ」 「うむ」 「金銭に関係しないから、そのほうはなんですけれど、病気にでもかかったらこまりゃしませんかねえ」 「そうさな、保証人のあるにましたことはないが……じゃちょっと花前をよんでみろ」  細君は下女に命じて花前をよばせる。まもなくかれはズボンチョッキのこざっぱりしたふうで唐紙の外へすわった。例のごとく軽く黙礼しただけで、もとよりものをいわずよそ見をしている。花前の顔色には不安もなければ安心もない。主人は無意職に色をやわらげてことば軽く、 「花前、おまえ保証人はあるかね」 「ありません」  花前は、よどみなく決然と答えて平気でいる。話のしりを結ばないことになれてる主人も、ただありませんと聞いたばかりではこまった。なみのものであれば、すぐにそれでおまえどうする気かと問いかえすにきまってるけれど、変人をみとめている花前にそういってもしかたがないから、 「うん、そうか」 といったまま、しばらく黙している。細君はじれ気味に、 「おまえずいぶん長いあいだ東京にいるというに、懇意の人もないのかね」  花前はちょっと目を細君にむけたが、くちびるは動かない。これは細君の問いがおかしいのだ。変人でとおった人間に懇意な人があるかでもあるまい。主人はしかたがなく、 「まあえいや、そんなことあとの話にしよう、えいや花前」 「保証人がなくていけなければ帰ります」 「いや、帰られてはこまる、えいから花前やってくれや、じゃこうしよう、おれが保証人になることにしよう、だからやってくれや」  細君は、目をぱちつかせて主人の顔を見る。  主人は目で細君を制す。勝手で子どもが泣きたったので細君は去った。花前もつづいて立ちかけたのをふたたび座になおって、 「この国で生まれた人間ですから、つまりはこの国のやっかいになってもしかたありません」  主人はきっと花前を見おろした。果然、花前にはなにか信念があるなと思った。それでさらにおだやかに、 「そうだとも、それでおまえの精神はわかった、それで、おれがおまえの保証人になるから、おまえ安心してやってくれ、まだ昼乳までにはすこし休むまがあるから休んでくれ」  こういわれて花前は、それに答うることばなく立った。花前は保証人になる人がないのではないらしい。自分のようなものは、いよいよ働けなくなれば、個人が世話するよりは国家が世話すべきだと思ってるらしい。それならば考えのすじはたっていると主人は思った。主人はうしろ姿を見送って、この変人いよいよおもしろいなと思った。 四  それから五、六日たった。花前の働きぶりはほとんど水車の回転とちがわない。時間の順序といい、仕事の進行といい、いかにも機械的である。余分なことはすこしもしないかわりに、なすべきことはちょっとのゆるみもない。細君はやや安心して、結局よい乳しぼりだと思った。  ところが花前の評判は、若衆のほうからも台所のほうからもさかんにおこった。花前は、いままでに一度もふたりの朋輩と口をきかない。自分は一分もちがわず時間どおりにおきるが、けっして朋輩をおこさない。それでいまだに一度も笑ったこともない。したがって人がどんなことしようと、それにいっこう頓着もせぬ。自分は自分だけのことをして、さっさとあがってしまう。  そうかといって、花前さんちょっとこれこれしてくれといえば、それにさからいもしない。自分のからだにだけは非常に潔癖であって、シャツとか前掛けとかいうものは毎日洗っている。  主人は笑って、それだけのことならばしごくけっこうじゃないかという。  台所のうわさはまたおもしろい。下女はだいいちに花前さんはえい人だという。変人だといってばかにするのはかわいそうだという。ご飯だといわなければ、けっして食いにこない。  一日二日まえ、下女がうっかりしてよぶのを忘れたら、ついに飯を食いにこなかった。若衆はすましたことと思ってさそわなかったとか。下女が夜おそくふと気づいて、聞きにいったら、まだ食わなかったそうで、それから食いにきた。  下女はとんだことをしたと悔やんでいた。花前が食事も水車的でいつもおなじような順序をとる。自分のときめた飯椀と汁椀とは、かならず番ごと自分で洗って飯を食べる。白いふきんと象牙のはしとをだいじに持っておって、それは人に手をつけさせない。この象牙のはしにはだれもおどろいてる。ややたいらめな質のもっとも優等な象牙で、金蒔絵がしてある。細君などは見たこともないものだといっている。下女の話によると、下女が花前さんのおはしはじつにりっぱなものですねえ、なにかいわくのありそうなはしじゃありませんかというと、しろりと笑うそうだ。  下女は花前さんを笑わせるにゃ、はしをほめるにかぎるといって笑っている。  しかし細君や子どもたちは、変人とはいえ、花前がいかにもきちんとした顔をしているので、いたずら半分にはしのことを問うてみるようなことは得しない。細君はどういうものか、いまだに花前を気味わるくばかり思って、かわいそうという心持ちになれぬらしい。  主人は以上の話を総合してみて、残酷な悲惨な印象を自分の脳裏に禁じえない。精神病者に相違ないけれど、花前が人間ちゅうの廃物でないことは、畜牛いっさいのことを弁じて、ほとんどさしつかえなきのみならず、ある点には、なみの人のおよばぬことをしている。いつかのように、この国で生まれた人間ですからというような調子に、人世上のことになんらか考えてやしまいか。人世問題になんらかの考えがあって、いまの境遇にありとせば、いよいよ悲惨な運命である。  こう考える主人は、ときどきそれとなく奥へ招いで茶菓などをあたえ、種々会話をこころみるけれど、かれが心面になんらのひびきを見いだしえない。なにを問うても、かれは、はあというきりで、なんらの語もつづらない。主人は百方意をつくして、この国で生まれた人間ですからというような糸口を引きだそうとこころみたが、いつでも失敗におわった。かれは主人に対したときにも、ときをきらわず立ってしまう。  あるときはその象牙のはしから話しかけてみると、なるほど下女のいうごとく、かれががんじょうな顔にしろりと笑いを動かした。しかしこれも笑うたきりで、それ以上には、なんの話もせぬ。依然たる前後の暗黒であった。  そのように花前は、絶対にほかに交渉しえないけれど、周囲はしだいにその変人をのみこみ、変人になれて、石塊を綿につつんだごとく、無交渉なりに交渉ができている。かくて数月をぶじにすごした。 五  人との交渉には、感情絶無な花前も、ふしぎと牛はだいじにする。愛してだいじにするのか、運動の習慣でだいじにするのか、いささか分明を欠くのだが、とにかく牛をだいじにすることはひととおりでない。それに規則的にしかも仕事は熟練してるから、花前がきてから二か月にして、牛舎は一変した観がある、主人はもはやじゅうぶんに花前の変人なりをのみこんでるから、すべてつごうよくはこぶのであった。  水車の運動はことなき平生には、きわめて円滑にゆくけれど、なにかすこしでも輪の回転にふれるものがあると、いささかの故障が全部の働きをやぶるのである。  主人は読書にあいて庭に運動した。秋草もまったく朽ちつくして、わずかにけいとうと野菊の花がのこっているばかりである。主人は熱した頭を冷気にさらしてしばらくたたずんでおった。露霜に痛められて、さびにさびたのこりの草花に、いいがたきあわれを感じて、主人はなんとなし悲しくなった。  こういうときには、みょうにものに驚きやすい、主人は耳をそばだてて、牛舎に荒あらしきののしりの声を聞きつけた。やがて細君も木戸へ顔をだして、きてくれという。いってみると、兼吉と五郎がふたりして、花前を引きたてて牛舎からでるところであった。  花前は、ややもすればふたりをはらいのけようとする。ふたりは、ひっしと花前の両手を片手ずつとらえて離さない。ふたりはとうとう花前を主人のまえに引きすえて訴える。兼吉は、 「わし、この気ちがいに打たれました、なぐり返そうと思っても、ひとりではとてもこの野郎にかないません、五郎さんがおさえてくれなきゃ……わし、こんな気ちがいといっしょにいるのはいやですから、ひまをいただきます」 「この若いものが、牛をたたいたから打ちました」 「わし、牛を打ったのではありません……」  主人は、まあまあとことばしずかにふたりを制した。秋のゆくというさびしいこのごろ、無分別な若ものと気ちがいとのあらそいである。主人はおぼえず身ぶるいをした。花前は平然たるもので、 「牛をたたくという法はない」  こう語勢強くいったきり、ふたたび口を開かぬ。ふたりはしきりに気ちがいなどに打たれたりなんかされて、とてもいられないとわめく。  話をまとめてみると、兼吉が尿板のうしろを通ろうとすると、一頭の牛がうしろへさがって立ってるので通れないから、ただ平手で軽く牛のしりを打ったまでなのを、牛をだいじにする花前は、兼吉がらんぼうに牛をたたいたとおこったらしい。それで例の無言で、不意にうしろから兼吉にげんこをくれた。  兼吉は、腕力では花前によりつけないから、五郎に加勢を頼んだのだ。事実は兼吉が牛をたたいたのかもしれないが、ふたりのいい状はそうであった。ふたりに同時に去られてもこまるから、主人はふたりを庭へつれこんだ。 「そうだ……気ちがいだから、おれに免じておまえたちもがまんしてくれ、おれがあやまり賃はだすから、花前も気ちがいながら、牛をだいじにしてからの思いちがいであってみるとかわいそうなところがある、だからおれがあやまる、これからおまえたちはふたりで仲間になっていて、花前は相手にせぬようにしていたらえいじゃないか、これで一ぱいやってがまんしてくれるさ、えいか」  兼吉も五郎も主人に、おれがあやまるからといわれては口はあけない。酒代一枚でかれらはむぞうさにきげんを直した。水車の回転も止めずにすんだ。生業ということにかかわっていれば、らちもないことにも怖じ驚くばかばかしさを主人はふかく感じた。細君もでてきて、 「わたしほんとにおどろきました、あのけたたましい声ったらないですもの、気ちがいがどんなことをしたかと思って……ああそうでしたか、まあよかった、それにしても花前はなんだかわたし、気味がわるくて……」  主人は細君のことばを打ち消して、 「花前の気ちがいぶりもわかってるのだから、すこしも気味のわるいことはないよ、こんどのことはどっちがどうだかわかりゃしない、乳しぼりが牛をだいじにするというのだから、たとえまちがっても憎くはないじゃないか」  細君は、 「そりゃそうですがねい」 とまだふにおちかねたが、主人は、 「あんなにいかいかしいふうをしておっても、しりのぬけてるのが、かわいそうに見えないか、ふびんをかけてやれ」 というのであった。細君の去ったあとで、主人は、おもしろいということのない花前がおこったというのはおかしいなと考えたけれど、その理由は解釈がつかなかった。  はじめて花前に笑わせた下女は、おせっかいにも花前にぜひ象牙のはしの話をさせるといって、いろいろしんせつに世語をしたり、話をしかけたりしたけれど、しろりと笑わせるのが精一ぱいで、それ以上にはなにごとをもえられなかった。もう根がつきたと下女は笑ってる。  かくて水車はますますぶじに回転しいくうち、意外な滑稽劇が一家を笑わせ、石塊のごとき花前も漸次にこの家になずんでくる。  ある日、主人のるすの日であった。警視庁の技師が、ふいに牛舎の検分にきた。いきなり牛舎のまえに車にのりこんできて、すこぶる権柄に主人はいるかとどなった。  兼吉と五郎は洗いものをしている。花前が例の毅然たる態度で技師先生のまえにでた。技師はむろん主人と見たので、いささかていねいに用むきを談ずる。  花前はときどき頭を動かすだけで一言もものをいわない。技師先生心中非常に激高、なお二言三言、いっそう権柄に命令したけれど、花前のことだから冷然として相手にならない。技師は激しているから花前の花前たるところにいっこう気がつかない。技師はたまりかねたか、ここでは話ができないといって玄関へまわった。あらたまってその無礼を詰責するつもりであったらしい。  玄関では細君がでて、ねんごろに主人の不在なことをいうて、たばこ盆などをだした。技師もここで花前の花前たることを聞き、おおいにきまりわるくなって、むつかしい顔のしまつに究したまま逃げ去った。夜、主人が帰ってから一家くずるるばかり大笑いをやった。兼吉と五郎は、かわりがわり技師と花前との身ぶりをやって人を笑わせた。細君が花前を気味わるがるのも、まったくそのころから消えた。 六  年が暮れて春がき、夏がきてまた秋がきた。花前もここに早一年おってしまった。この間、花前の一身上には、なんらの変化もみとめえなかった。ただ考え性な主人の頭には、花前のように、きのうときょうとの連絡もなく、もちろんきょうとあすとの連絡もない。まして一年とかひと月とかいう時間の意味のありようもなく、かれは生きるために働くのでなく、生きているから働くというような生活、きょうというほかに時間の考えはなく、自分というほかに人生の考えはない。いやきょうということも自分ということも意識していやしない。  してみると、かれに義務責任などいう考えのありようもなければ、きゅうくつも心配も不安もないわけだ。明るいところに魔の住まないごとく、花前のような生活には虚偽罪悪などいうものの宿りようがない。大悟徹底というのがそれか。絶対的安心というのがそれか。むかしは、宰相を辞して人のために園にそそいだという話があるが、花前はそれに比すべき感がある。  主人はまたこう考えた。かえりみて自分の生活をみると、じつになさけないとらわれの身である。わずかに手を動かすにも足を動かすにも、あとさきを考えねばならぬ。かりそめにものをいうにも、人の顔色を見ねばならぬ。前後左右に係累者はまといついてる。なにをひとつするにも、自分のみを標準として動くことはできぬ。とうてい社会組織上の一分子であるから、いかなる場合にも絶対単独の行動はゆるされない。  それでつまりよいかげんなことばかりをやって、まにあわせのことばかりいっておらねばならぬ。それというのも、義務とか責任とかいうことを、まじめに正直に考えておったらば、実際人間の立つ瀬はない。手足を縛して水中におかれたとなんの変わるところもない。  このせつない覊絆を脱して、すこしでもかってなことをやるとなったらば、人間の仲間入りもできない罪悪者とならねばならぬ。考えれば考えるほどばかげているけれども、それをどうすることもできないのがわれわれの生活状態である。  こう思うと自分がどれだけ花前に勝っているか、いよいよわからなくなる。むしろどうか一度でもよいから花前のような生活がしてみたくなってくる。  要するに、自分を強く意識するのがわるいのだ。自分を強く意識するから、世の中がきゅうくつになる。主人はこんな結論をこしらえてみたけれど、すぐあとからあやふやになってしまった。自分と花前との差別はどう考えても、意識があるのとないのとのほかない。自分に意識がなければ自分はこのままでもすぐ花前になることができるとすれば、花前はけっしてうらやむべきでないのだ。  大悟徹底と花前とは有と無との差である。花前は大悟徹底の形であって心ではなかった。主人はようやく結論をえたのであった。主人はこの結論をえたにかかわらず、さらば自分の生活にどれだけの価値があるかと思うてみて、やはりわけがわからなくなった。花前と大悟徹底とは、裏表であるが、自分と大悟徹底とは千葉と東京との差であるように思われた。  ここ一、二年水害をまぬがれた庭は、去年より秋草がさかんである。花のさかりには、まだしばらくまがありそうだ。主人はけさも朝涼に庭を散歩する。すいれんの花を見て、去年花前がきたのも秋であったことを思いだす。この日、主人は細君より花前の上について意外な消息を聞いた。  花前は、けさ民子をだいてしばらくあるいておった。細君はもちろん、若衆をはじめ下女までいっせいにふしぎがったとの話である。それは実際ふしぎに相違ない。これまでの花前にして、子どもをだいてみるなぞは、どうしても破天荒なできごとといわねばならぬ。  下女の話によると、タアちゃんはこれまでもときどき、花前、花前といって花前のところへいき、花前もタアちゃんの持っていったお菓子を食べたようすであったという。主人はこの話を非常な興味をもって聞いた。今後花前の上になんらかの変化をきたすこともやと思わないわけにはいかなかった。  その後自分も注意し家のものの話にも注意してみると、花前はかならず一度ぐらいずつ民子をだいてみる。民子もますます花前、花前といってへやへ遊びにゆく。花前は、ついに自分で菓子など買うてきて、民子にやるようになった。ときにはさびしい笑いようをして、タアちゃんと一言くらいよぶのであった。そう思って見ると、花前の毅然とした顔つきが、このごろは、いくらかやわらいできたようにも見える。若衆の話では、花前は近ごろ元気がおとろえたようだという。それでもその水車的運動にはまだすこしも変わるところはなかった。  それからひと月ばかり花前の新傾向はさしたる発展もなく秋もようやく涼しくなった。 七 花前の友人という人が、とつぜんたずねてきて、花前の身分がようやく明らかになった。  友人というのは、某会社の理事安藤某という名刺をだして、年ごろ四十五、六、洋服の風采堂どうとしたる紳士であった。主人は懇切に奥に招じて、花前の一身につき、問いもし語りもした。  安藤は話の口があくと、まず自分が一年まえに会ったときと、きょう会った花前はよほど変わっている。自分は十代から花前と懇意であって、花前にはひとかたならず世話にもなったが、自分も花前のためにはそうとう以上につくした。いまのような境遇になって、だれひとりおとのうてなぐさめるものもないうちに、自分だけはたえず見舞うておった。  その自分に対して、去年会うたときには、某牛舎に寝ておって、うん安藤かといったきり、おきもしなかった。それがきょうは、意外に自分を見るとうれしそうに立ちあがって、よくきてくれたといった。じつは自分は花前はもうだめとあきらめていたところ、きょうのようすでは精神の状態が、たしかにすこしよくなってる。この家へきたときからこのくらいか、あるいはいつごろから調子がよくなったかと問うのであった。安藤は真の花前の友である。  主人は花前が近来の変化のありのままを語ったのち、今後あるいは意外の回復をみるかもしれぬと注意した。安藤はもちろん見込みがありさえすれば、すぐにも自分が引き取って治療をこころみんとの決心を語り、つづいて花前の不幸なりし十年まえの経歴を語った。  花前は麻布某所に中等の牛乳屋をしておった。畜産熱心家で見職も高く、同業間にも推重されておった。母がひとり子ども三人、夫婦をあわせて六人の家族、妻君というのは、同業者のむすめで花前の恋女房であった。地所などもすこしは所有しておって、六人の家族は豊かにたのしく生活しておった。  それ以前から、安藤は某学校の学費まで補助してもらい、無二の親友として交際しておったのだが、安藤がいまの会社へはいって二年めの春、母なる人がなくなり、つづいて花前の家にはたえまなき不幸をかさねた。  その秋の赤痢流行のさい、親子五人ひとりものこらず赤痢をやった。とうとう妻と子ども三人とはひと月ばかりのあいだに死亡し、花前は病院にあってそれを知らないくらいであった。  そんな状況であるから、営業どころの騒ぎでない。自分が熱心奔走してようやく営業は人にゆずりわたした。花前は二か月あまりも病院におっていつまで話さずにおくわけにゆかないから、すべてのことを話すと、 「破壊しおわった断片の一個をのこしてどうするものか、のこったおれだってこまる、のこされた社会もこまるだろう、この一個の断片をどうにかしてくれ、おれはどうしてもこの病院をでない」と絶叫して泣いたけれど命数があれば死にも死なれないで、花前は追われるように病院をでた。病院をでてもいく家はない。待ってる人もない。安藤が自分の家へつれて帰ったものの、慰藉のあたえようもない。花前はときどき相手かまわず、 「どうせばえいんだ」 とどなる。  安藤は手のつけようがないから、ともかくもと湯河原へつれだした。そうして自分もいっしょにひと月もおってなぐさめた。どうかして宗教にはいらしめようとこころみたが、多少理屈の頭があったから、どうしても信仰にはいることができない。破壊以前が人なみよりもあたたかい歓楽に富んでおっただけ、破壊後の悲惨が深刻であった。  自分もそうそういっしょにはおられないので帰京すると、花前はそのまま一年半もその家におった。あっただけの財をことごとく消費して、ただ帰京の汽車賃で安藤の家に帰ってきた。そのときにはたしかに精神に異状を呈しておった。なにを話してみようもなく、花前は口をきかなかった。  その後無断で安藤の家をでて、以前交際した家に乳しぼりをしておった。ようやく見つけてたずねていくと、いつのまにかいなくなる。また見つけだしてたずねると、またいなくなる。ゆくさきざきの乳屋で虐待されて、ますます本物になったらしい。じつにきのどくというて、このくらい悲惨なことはすくなかろうと、安藤は長ながと話しおわって嘆息した。  主人もことばのかぎりをつくして同情した。しんせつな安藤はともかくも治療の見込みがすこしでもあるならば、一日も見てはいられぬといって辞し去った。  安藤は去ってから三日めに、車を用意して自身むかえにきた。花前は安藤のいうことをこばまなかった。いよいよ家をでるときには主人にも、ややひととおりのあいさつをして、厚意を謝した。台所へでて、無言にタアちゃんをだいたときには、家のものみなが目をうるおした。花前が去ったあと、あのはしの話を聞きたかったけれど、なんだかきのどくで聞かれなかったと下女も涙をふいた。  十日ほどたって、主人は花前を青山の脳病院におとのうてみた。花前は非常によろこんだ。話しするところによると精神のほうはますますよいようであるが、それと反比例にからだのほうはたいへん疲れてるように見えた。それから二十日ばかりして、花前は死んだと安藤から知らせてきた。 底本:「野菊の墓」ジュニア版日本文学名作選、偕成社    1964(昭和39)年10月1刷    1984(昭和59)年10月44刷 初出:「ホトヽギス 第十三卷第一號」    1909(明治42)年10月1日 ※表題は底本では、「箸」となっています。 ※「兼吉」に対するルビの「かねきち」と「けんきち」の混在は、底本通りです。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:高瀬竜一 校正:岡村和彦 2016年9月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。