夏虫行燈 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 夏虫行燈 風入れ異変 一 二 三 葉隠れ恋 一 二 三 四 宿怨の介錯人 一 二 三 四 水装束 一 二 三 四 荒川づたい 一 二 北斗の顫き 一 二 三 灯皿の罪 一 二 風入れ異変 一  迅い雲脚である。裾野の方から墨を流すように拡がって、見る間に、盆地の町──甲府の空を蔽ってしまう。  遽かに、日蝕のように晦かった。  板簾の裾は、大きく風に揚げられて、廂をたたき、庭の樹々は皆、白い葉裏を翻して戦ぎ立つ── 『おう。雷鳴か』  昼寝をしていた高安平四郎は、顔に乗せていた書籍を落して、むくりと寝転ると、 『……襲るかな? 一暴れ』  頬杖ついて、廂越しに、暫く雲行でも観測しているように、呟いた。  ──と。その睫毛の先を、白い電光りが、チカッと掠めて、霹靂はすぐ屋の上を翔け廻った。 『お、大きいぞ。──これやあ、出向かずばなるまい』  平四郎は、刎ね起きて、すぐ身支度した。  甲府城の森や天主には、過去に幾度も落雷の歴史がある。その都度、火災を起しては、苦い経験を重ねているので、大きな雷鳴の伴う風雨には、たとえ非番の者でも、即刻、お城へ馳けつけるという掟になっている。  もっともそれは、俗に『番衆番衆』と称ばれる軽輩の番士役に限ってはいたが。  平四郎は、その組役の一人で、番衆長屋に住む気軽な独り者、然し、年齢はわりあいに取っていて、もう三十は超えていた。 『おい、婆や、お城へ行って参るぞ』  庭へ呶鳴って── 『五刻を過ぎたら、お城へ泊ったと思ってよい。戸締りして、早く寝めよ』  と、云いたした。  紫陽花や八ツ手が、海のように揺れている裏庭の方で、 『はい。はい』  婆やの返辞がしたが、ふと、縁先に取り込んである、一抱え程な干衣を見ると、中に、艶やかな女着物が一枚、紛れこんでいた。 『はて、こんな物は、家には無い筈だが──。婆や、婆や、何処から取り込んで来たのだ』  云っているうちに、婆やは又、次の一抱えを、持って来て、縁先へ置いた。  その中にも、羅衣の女小袖だの、扱帯だのがあった。 『──旦那様。それは多分、上のお屋敷からでございましょう。きのうも今日も、虫干をして居らっしゃいましたから、風に舞って、お庭の中へ、吹き落ちて来たに違いございません』 『ウム、萩井家のか』  平四郎は、その衣裳を手に持って、下り藤の刺繍紋を見ながら呟いた。  婆やも、眼をみはって、 『たいそうお金に飽かせた衣裳でございまするの。京染の裾模様──』 『婚礼着だな』 『きっと、お小夜様の……』 『こんなもの!』  平四郎は、それを、ふわーっと庭先へ抛り投げて、婆やへ云った。 『風に舞って来たとはいえ、これ見よがしな贅沢衣裳、取り込んで置くには及ばん。崖の下から呶鳴って、萩井家の者に、取りに来いと云え』  庭へ捨てられた裾模様へ、もう白い雨の線が、斜めに降りかけていた。  その間にも、雷鳴は、絶え間なく鳴りはためいて── 二  甲府の御番城は、平城だった。  城主はない。  幕府から支配役をいいつかって、御城番として松野豊後守、加役として宮崎若狭守──何っちも千五百石程度の旗本が、甲府在住で、これを守っているのだった。 『やあ、お出合御苦労』 『よいあんばいに、大した事もないらしいな』  詰め合った番衆たちは、持場持場で、そう云い合った。  陽暮れ方──雲は切れて、笛吹川の上流の空は、淡い虹さえ見せた。 『これだから、夏中は非番の日でも、落々休んじゃ居られぬよ』 『拙者も、きょうは大丈夫と、釜無川の瀬へ、鮠を釣りに出かけて居ったところ──あの雷鳴だ』 『──が、まあ無事でよかった。休みはまだ三、四日あるし』  ふだんは二日詰の一日休みであったが、この土用中は、交代に七日ずつの賜暇をもらっていた。  空を見さだめて、非番の者たちは、夕虹の下を帰って行ったが、平四郎は、宿直部屋の同僚と話しているうちに、将棋が初まったので、つい燈火を見てしまった。  すると、同僚の雑賀丹治が、 『高安。ちょっと顔を──』  と、外へ誘った。 『なんだ? ……』 『まだ其許は知るまいな。御城内でも、内密に伏せておるから』 『知るまいとは』 『貴公が聞いたら、定めし小気味よがる事だろうと思って、そっと耳に入れるわけだが、図書係りの海野甚三郎な、何うやら、切腹ものらしいぞ』 『えっ、海野が』 『されば』 『いったい、それは何うした理由で』 『貴公に取っては恋敵──まあ隠さんでもいいさ──その海野甚三郎が、切腹ものとは、耳よりな話じゃないか。萩井家のお小夜どのを挾んで、甚三郎と其許のあいだに、紛争のあった事は、おれも薄々知っていた』 『そうか、海野が切腹となるのか』 『いや、まだ決まった事ではないが、九分九厘までは……という破目になっておるのだ。もっと詳しい事を聞かせたいが』  と、見廻して、 『そうだ、彼れへ行かないか』  と、櫓門のある堤の陰へ誘った。 三  三日ほど前から、御番城の蔵方では、武器係り、道具係り、図書係りなど総勢で、例年のように、御蔵の風入れにかかって、毎日、虫干に忙殺されていた。  事件は、つい昨日のこと。  御蔵奉行の岩瀬志摩が、台帳にあわせて、順々に、検分してくるうち、図書係り海野甚三郎が持場の品が一点、不足している事実を発見した。  しかもそれは、この甲府城の宝物中でも、代表的なもので、曾つては、将軍の台覧にも供え、元禄年中の城主柳沢吉保も、垂涎措かなかったといわれる──土佐光吉の歌仙図に近衛信尹の讃のある──紙数にすればわずか十二、三枚の薄い帖だった。 (あれが紛失したと!)  居合した者は青くなって、 (一大事だ。何と、幕府へ云い訳を──)と、騒ぎ立った。  奉行の岩瀬志摩は、 (詮議の邪げになる。ここにおる者以外への口外は、一切差し控えられたい。──係り海野甚三郎は、お品の出るまで、退城はならぬ)  と、云い渡した。  で──昨日から、甚三郎は、一室に閉じこめられ、紛失した歌仙本の行方には、密々、厳しい捜査が行われているが、今日に至るも、行方はとんと分らぬらしいというのである。       ×         ×           ×         × 『虫干の御蔵収めは、後四日。──その四日のうちに、紛失物が出なければ、甚三郎は、切腹するしかない。──まあ事情は、こういう理由だが』  と、雑賀丹治は、薄ら笑って、 『そんな破目にある甚三郎を、悪く云うではないが、日頃からいやに君子ぶッて、美い男を鼻にかけ、交際いはしない奴だから、誰も同情する者はない。──この事件を、知っている者は、あいつ近頃、お小夜どのとの縁談で、ふわふわしているから、こんな失態を起したのだろう──と誰も皆、云っておる』  ちょうど、五刻の鼓が、櫓で鳴った。 『ふーム、そうか。……そういう事情か』  とのみ頷いて、平四郎はただ聞いていたが、平四郎は、決して愉快そうな顔いろではなかった。 『どれ、帰ろうか』  丹治と別れて、彼は、帰途についた。  城の乾門では、果して、奉行の下役が詰めていて、退城の者を止め、いちいち体調べをして通した。  平四郎も、検められた。 『何か、御城内に、変った事でもあったのでござるか』  知らぬ顔して聞くと、 『いや、ちと……』  と、口を濁して、役人たちは、真相に触れることを避けた。 葉隠れ恋 一  ──見たことか。人の思いでも。  同僚の前では、そんな顔は見せなかったが、平四郎は心のうちで、そう思わないこともなかった。  甚三郎とは、お互いに、終生、解けない宿怨に結ばれている仲である。 『萩井家のお小夜も思い知ったろう』  星になった夜空の下を歩きながら──彼は苦笑した。  ──あの甚三郎さえなければ、お小夜は、自分の妻となっている筈の女だ。 (ちょうど、こんな、星の夜だった……)  と、彼は今も思い出される。  一夏、笛吹川の畔で、溺れかけている少女を救ったことがある。乳母らしい女のさけび声に、馳けつけてみると、それは御番城の兵学教頭、萩井十太夫の娘。  身を挺して、激流の中から彼が救い上げて来た娘は──その頃まだ軽かった。十四ぐらいな愛くるしい少女で、お小夜という名は、後に知ったのである。 (娘の恩人だ)  と、いうので、それ以来、平四郎は萩井家の家族から、特別親しく扱われた。  お小夜も、年経つほど、親しみを見せ、又、妙齢の美しさを増して行った。  ──それはもう、七年前になる。  然し今では、萩井家の家族は何うか。  彼女が、自分を見る眼は何うか?  以前とは、まるで違う!  ひと頃は、彼女の聟に──と、堅い約束こそしないが、口に洩らさぬばかりに、萩井家の家族は皆、自分を遇したものだった。  自分も、いつか心に、彼女を未来の妻として、抱いていた。  その為に、勉強した。誰よりも励んだ。兵学も、剣道も、弓道も。──やがて萩井十太夫の後を継いでも、 (彼なら恥しくない)  と、云われる迄、自分を鍛えて置こうとしたのも、その希望があるからだった。 二  海野甚三郎は、そうした折へ、忽然と、帰って来た。甚三郎は、長崎へ遊学していた者である。新しい蘭学も、西洋兵学も、砲術も、あらゆる新知識を蓄えて帰って来たばかりか、家すじも、平四郎と比較にならないし──何よりは又、彼は美貌で挙止も正しく、品行もよかった。 (甚三郎様、甚三郎様)  萩井家の家族たちは、皆、彼の知識や新しい話に傾倒した。  わけて、お小夜は、彼に依って、蕾の春を、訪れられたように、急に、容子まで変って来た。  そのうちに、間もなく、甚三郎は正式に、縁談を持ちこんだらしい。異議なく纒まって、この五月には挙式を──と云う噂だったが、十太夫がふと病床に就いたので、秋までに延期されたのだった。  だが。  平四郎にとっては、延びようと、何日になろうと、それはもう、萩井家から云わせても、関りのない他人でしかない。  生憎と又、平四郎の住居は、萩井家の崖下で、心の外に置こうとしても、何かにつけて、崖上の屋敷の様子は、手に取るように映るのだった。  未練がましく、近くに住んで居たくないとは、重々思う事であったが、崖下の番衆長屋は、いわゆる組屋敷で、勝手に転居する事も許されない──  怏々と、楽しまない日を、幾月もうそこで暮したことか、人知れず葉隠れに燃えて腐って、やがて散るしかない──真紅の花の悩みのように。  近頃は、兵書、剣道の修行も抛って、くさくさすれば、町へ出て、居酒屋の床几を占めた。──そんな事から二、三の同僚のうちでは、 (まあ、我慢せい)  とか、 (お小夜ばかりが女じゃなし、もっといいのを持って見返してやるさ)  とか、同情する者もあった。  けれど彼の意中には、そんな程度の言葉では、慰めきれないものがある。──又、今日聞いた甚三郎の破滅を知っても──猶々、慰めきれないものがある。  それは、お小夜の心だった。  何うして、彼女が、自分に反いて、甚三郎へ傾いて行ったか──。恨みつらみは、親の十太夫にもない、家族たちにもない、甚三郎にもない。  唯、彼女のそれにあった。 三  帰りがけ──その晩も、いつもの居酒屋に立寄って、平四郎は、 『亭主、冷酒でよい、一杯くれい』  薄暗い片隅の床几に腰かけて、黙然と、肘をついていた。  誰か、後でコソコソ話し声がするので、何気なく振向いてみると、土間から上って、三畳ばかり敷ける小部屋に、衝立を置いて、飲んでいる二人の浪人者の腰だけが見えた。 『──だって、何うせ京都へは上らなければなるまい』  と、一方が小声でいう。 『それやあそうだが……』 『してみれば、山越えして、奥多摩から武州へ出るなんて、嶮岨な道をとって、しかも廻り道したりするよりは、江戸表へ寄らずに、真っ直に京都へ出てしまおうじゃないか』 『中山道を取ってか』 『いや、そう行くのは、誰も考える所だから、裾野へ出て五湖を横ぎり、東海道へ突き抜ける』 『ウム、だが何っ方にしても、もういちど、市之丞様に会った上で──』  と、云いかけた時、一方の浪人が、 『叱……』  と、目くばせして、膝を小突いた手が、衝立の陰にちらと見えた。  平四郎は、耳にも止めない様子をして、 『亭主、きょうの酒は、いつもの酒とは少し違いはせぬか。──もう一つ、酌いでみてくれ』  その間に──二人の浪人は、土間の草鞋へ手を伸ばして、 『勘定は置いたぞ』  やや慌て気味に出て行った。 四  市之丞。──確にそう聞えた。妙に、その名が、平四郎の耳へ残った。 (この城下で、市之丞と名乗る者は? ……)  と、考えていると、 『旦那、召上ってみて下さい。樽を代えてみましたが』  と、亭主がそれへ、桝でなみなみと、次のを酌んで来てそっと渡す。 『おやじ』 『へい』 『今出て行ったのは、毎度ここへ見える客か』 『いいえ、先刻の雨上りに、飛び込んできたフリのお客でございます』 『江戸者のようだな、言葉や物腰が……』 『左様でございます。けれど、何かお話の様子では、青沼の光沢寺に泊って居るような口吻でございましたが』 『光沢寺といえば──一蓮寺の別院だな』 『はい、左様に聞いておりますが』 『ふウ……む』と、何か独り頷いて、 『亭主、きょうのも又、お帳面だぞ』 『へいへい、何日でも』  平四郎は、ぶらぶら帰って来たが、五刻過ぎたら寝ろといっておいたので、婆やはもう戸締りを固くして寝ていた。  戸を軽く叩いて、呼び起しているまに、彼は、崖上の萩井家の灯影の辺りから、微かに、琴の音が流れて来るのを聞いた。 『……オ。お小夜はまだ、知らないと見える』  平四郎は崖を仰いで、ふと唇を噛んだ。  婆やが、眠たい顔して、戸を開けた。平四郎は家に這入るとすぐ、 『昼間、風に吹かれて、紛れ込んで来た女小袖は、萩井家へ返してくれたか』 『はい、お返しいたしました』 『誰が取りに来た?』 『わたくしが持って行って、裏門にいる小者へ渡してやりました』  聞くと、平四郎は不機嫌に、 『だれが届けて遣わせといったか。崖の下から呶鳴って、取りに来いと云ってやれと、吩咐けておいたではないか。──何で此方から持って行くような弱味がある。禄の高下はあるが、萩井家も武家なら、高安平四郎も武家だ。──ばかなッ』  と、珍らしく老婆を叱って、仆れるように、寝床へ横になってしまった。 宿怨の介錯人 一  詮議は、極秘の裡に行われているらしい。  萩井家でさえ、知らない様子なのである。 (もう後三日。──もう後二日)  と、平四郎は心のどこかで、朝夕、海野甚三郎の身に迫る死期を数えていた。  寝転んで、書を読んでいる間もふと、ニタリと、悪魔的な微笑みが自でに唇の辺へのぼってくる── (俺は何も知らぬ間に、他人がしてくれた復讐だ。天の為す事だ。思えばよくしたもの……)  と、思う。  ──琴の音は、毎夜聞えた。──音は澄んでいて、乱れていない。何う聞いても、清純な処女の指から転ぶ音であった。 『だが、思えば、可哀そうな』  と、平四郎もふと思わぬでもなかったが、強いて、自分の心を、残酷に持って、 (いや、当然だ。おれの苦しんで来たことに較べれば)  と、軈ての快哉を──その八絃の夢が断れて、お小夜が怨歎する日の快さを──昨日も今日も、ひそかに待ちつつ、土用の休み日を暮していた。 二  もう今日は、虫干仕舞。蔵収めの日であった。  同時に、詮議の日数も、その日限り。 (分ったか。無い儘か?)  紛失した歌仙本の安否よりも──実は海野甚三郎の生死のわかれに興味を抱いて、平四郎は、その日から、城へ詰めた。  城内へ来てみると、いつぞやは知らない顔をしていた者も、今日は、公然と、 『盗賊は一体、外の者か、内の者か?』 『元より、外部の者だろう』 『いや、外部から忍び込んで、盗まれたとすれば、吾々も共に落度ではないか』 『下手人が城内にあるとすれば?』 『いう迄もなく、図書係りの甚三郎を疑うしかあるまい』 『だが、彼んな物を、盗んでどうするか』 『金になるさ』 『なるかな?』 『しかも莫大な金になる。上方の茶道具屋の手にでもかかれば、あの一枚でも、数百金に売れようというものだ』  などと、詰所を覗いても、何処へ行っても、首を集めてその噂に持ちきりの態だった。  紛失の歌仙本は、遂に、其日に至るも、下手人が知れなかった。  ──そこで、城番の松野豊後守は、係り役甚三郎に、自決を促し、その由を、江戸表へ急報すると共に、彼も又、幕府のお叱りを待つ、となったのだ。  事件は、そうして、その朝、全貌を衆に曝したのである。  ──甚三郎が切腹する!  これも人々を驚かせたに違いない。  何処よりも真っ先に、彼の家には、夜明け方、使が走った。  萩井家へも、誰かが駈けた筈である。 (惜しい人間を──)  と、彼の才気や新知識を、哀傷む者もあった。 (才人才に溺る──じゃないかな?)  と、密かに、歌仙本の行方も、彼の所為らしく、疑いの目で見る者もある。  半日は、騒ぎに暮れ、午過ぎは、城内は重い空気につつまれ、夕方からは、城全体が、死ぬ者の死の座のように、冷ややかな夜気の中にあった。  その中では、誰も皆、踵が地につかないように歩いていたが、唯一人、高安平四郎だけは、終日、冷然と、乾門の番衆小屋に腰かけて、人の噂に口を入れなかった。 三  真夜半の九ツ刻(午前零時)──までには、もう一刻(二時間)ほどしかない。  正九刻に切腹と聞いているので、 (近づいて来たな)  と、口には誰も出さないが、番衆小屋の人々も、皆、無口になった。  どんな人間に対しても、その死となれば、日頃の憎悪や感情を超えて、誰もが、一種冷ややかな厳粛感に打たれてくるものとみえる。 『高安氏、交代だ。──休むがいい』  乾門は、四人ずつ交代で、四刻半から明け方までの入れ替りだった。  平四郎は、黙々と頷いて、内曲輪の休息所の方へ歩いて行った。  ──すると、後から馳けて来て、 『高安』  と、呼び止める者があった。  振向いて見ると、奥役の頼母木与四郎兵衛であった。  与四郎兵衛は、胸と胸のつくほど近く寄って来て、 『平四郎。聞けばおぬしは、萩井家の道場でも、据物斬りでは、第一の腕だそうだな。……嫌な役目だがひとつ引受けてくれんか』 『何ですか』 『介錯人だ』 『……?』 『──嫌だろう。誰も嫌がって承知せんのだ。何といっても、日頃から一つお城に勤めていた同僚の首を斬るのだからな』 『甚三郎殿の介錯ですな』 『ウム』 『拙者で御不足がなければ勤めましょう』 『やってくれるか』  と、与四郎兵衛は安堵した容子で、 『じゃあ、奥の丸へすぐ来てくれい』  と、先に立った。 四  そこは、武器櫓の下で、昼間でも暗い、板敷の部屋だった。  ほかの部屋から持って来たらしい絹行燈が一つ、ぼうと燈っていた。 『甚三郎殿』  頼母木与四郎兵衛が、頑丈な板戸を開けて、中へ云うと、 『はい』  と、割合に落着いた返事が聞えた。  甚三郎の声である。  数日、陽の目を見ず、ここに坐ったきりなので、色はよけいに白く見え、心もち憔忰して、日頃の美貌が、よけい凄愴に冴えて見えた。 『もはや、時刻でござりますか』  と、与えられてある一枚の畳のうえから云った。 『いや──時刻はまだ──半刻の余もござるが、介錯人の事でござる』 『寔にお手数で……』 『番衆の内より、高安平四郎を選びました故、左様御承知ねがいたい』 『えっ』  甚三郎は、髪の毛まで顫かせて、 『平四郎が、私の介錯人ですとな?』 『お望み人もあろうが、勝手はゆるされませぬぞ』 『はっ……。だが、お訊ねいたしとうござる』 『何か』 『それは、平四郎から申し出たことでございまするか、それとも又』 『いやいや、然るべき者がないので、立会人の吾々から頼んだことじゃ』  些か、心を安らいだように、甚三郎はがっくりと首を垂れ、 『……あ、左様でござりますか』 『まだ、時刻もある故、その間に、お書遺しておく事でもあれば、それへ料紙硯を上げてあるから、何なりとも』 『御好意辱けない。それぞれへ、先程から一筆ずついたして置きました』 『お、左様か。──では』  と、与四郎兵衛が引き退がろうとすると── 『あ、もし。……暫く』 『何ぞまだ……?』 『お願いがござります』 『仰っしゃってみるがいい』 『余の儀ではありませぬが、介錯人が、腕に聞えのある高安平四郎とあれば、私も身躾みして、立派に死にたいと存じます』 『いや、尤もなおことば』 『就ては、甚だ恐れ入るが、妻の許まで、使を走せて、水装束を取寄せたいと存じますが、お許し下さいましょうか』 『はて、其許に、妻がござったか』 『萩井十太夫殿の娘小夜は、十太夫殿の御病気のため、挙式は取り遅れましたなれど、自分の云い交した妻に相違ございませぬ。──その小夜の許まで、誰方かお使を願いたいのです』 『自分の一存では計らいかねる。お待ち下さい』  と、与四郎兵衛は退がった。 水装束 一 『お城からお使でござりまする』  半、顫え声で、取次の者は、閾の外から告げた。  仄暗い彼女の部屋は、萩戸と目の細かい絵簾に囲まれながらも、冷ややかな香のけむりと、密やかな嗚咽を今朝から閉じこめていた。 『……はい、何ですか』  人の気配に、お小夜は、強いてきっとした声で振向いた。 『御城内から、使の者が見えて、甚三郎様の水装束を取りに参りましたが』  水装束──云う迄もない死装束──彼女はぎくっとしたが、猶、落着きを失うまいと努めながら、 『承知しましたと云って、使を返して下さい』 『お品は』 『後から私が自身でお城まで持参いたします』  取次が去ると、彼女は、次の化粧部屋へそっと移った。  彼女は、鏡台に向って、眉を剃り、そして歯も染めた。  自分の所へ、死装束を取りによこしたのは、甚三郎もすでに、自分を妻として、検死や立会へ届け出たにちがいない。 (妻としてなら、死に際に、一目の別れを許して下さるかも知れぬ。……もしそれが能わぬ時は、せめて、死骸をここへ戴いて帰って来ましょう)  こう突嗟に思い出したからである。  お城までは、さして遠くもない。わざと仲間一人連れず、彼女は、甚三郎の死装束を、白木の衣裳蓋へ乗せて、心づよくも、歩いて行った。  病床にいる父へも、何も告げなかった。十太夫の容態は今朝から快くなかった。  まだ、杯も挙げないうちに、この悲嘆である、怒濤のような涙がこみ上げたがっていた。けれど、十太夫の娘だった。兵学教頭の家庭に仕込まれたお小夜であった。──もう胸には次の大事をいっぱいに考えつめていたのである。 (彼のお方に、邪な行がある筈はない。誰か、甚三郎様を墜し入れよう為に、計ったことじゃ、たとえ甚三郎様の亡い後も、きっと、その下手人を見出して、お怨みをお晴らし申しあげねばならぬ。それが私の生涯の勤めになった……)  大手へ行く町通りを避けて、乾門の搦手へ行く草原の中の町を、夜露に裾を濡らしながら、うつつに歩いてゆく彼女だった。  ──すると、野中のひょろ長い樹の下から、誰か、人影がうごいて、彼女の後から近づいて来たかと思うと、 『小夜どの。小夜どの』  と、呼びかけた。  彼女は、何かしら、ぞっとした。  高安平四郎の声──とすぐ感じたからである。 二  城内から使の出た後、平四郎も又すぐ、 『躾みの一腰を差し代えて参ります故──』  と、立会衆の控え部屋へ断って、わが家へ、刀を取りに帰ったのである。  ──だが、果して、それが目的だったか、又は、彼女をここに待ち受けるのが目的だったかは分らない。  然し、打ち見た所、平常の腰の刀とは、確かに違って、寸長な見るからに反打の烈しい刀を横たえては居た。 『どなたかと思ったら、平四郎様でございましたか』 『暫くお目にかからなかったが、今宵は計らずも、一生に、又とあるまじき、不思議な役目を仰せつけられた。──貴女も、この平四郎も』 『…………』  彼女は、胸に抱いている水装束の台へ、ふと、眼を落したが、 『貴方に、不思議なお役目とは?』  と、涙も見せず問い返した。──いや、平四郎の姿を見た途端に、涙とは反対な、むしろ抗争的な強い意志が、ぐっと胸に立ち直っていた。  平四郎は、薄ら笑いに、歯を見せて、 『これが不思議な宿縁でなくて何としよう。──海野甚三郎の介錯人は、かくいう平四郎に吩咐けられましたぞ』 『げッ……。あなたが……あの甚三郎様の御介錯を』 『お小夜どの。今、茅屋から取って来たこの備前長船は、自慢ではないが、すばらしく斬れますぞ。御安心なさるがよい』 『…………』  彼女の涙は、遂に、理性の堰を突き破った。肩をふるわせて、俯向くと共に、思わず地へ咽んでしまった。  けれどそれは、この期になって、甚三郎の死を悲しむ涙などではなかった。もっと強い、反抗的な、呪咀をこめた──口惜し涙であった。 『あなたは……平四郎様! ……あなたはよくも、そんな事を、私の前で仰っしゃられます』 『云われないで何うしましょう。海野甚三郎に対して、一寸の恩もなければ、友達の誼みもない』 『けれど……そうして御自慢なさる据物斬のお腕前は、一体、誰から教えられたのでございますか』 『……ム。それは貴女の父十太夫殿からだったなあ』 『又。……今誇って仰っしゃった、備前長船も、誰から戴いた刀だと思し召すか。それも、父の十太夫が……私が幼い時、笛吹川で溺れる所を、助けて戴いたお礼にと──貴方へ贈った物ではございませぬか』 『それを、覚えておられたか』 『忘れて何といたしましょう』 『──ならば、生涯、口が腐っても云うまいと思ったが、平四郎も一言申すぞ』 『オオ、仰っしゃいませ!』 『……いや。……止そう』  と、平四郎は、感情の儘、こみ上げかけた声をふと落して、 『……大人げない。はははは』  相手が、冷ややかになると、彼女はむしろ赫として、 『卑怯な! 卑屈な! ……。その通り、何も仰っしゃれないではございませんか』 『云えないと思うか』 『ええ、私には、何も云われる覚えはございませんもの』 『じゃあ云うが──小夜どの、貴女はよくも、この平四郎を弄ったな』 『え……弄ったとは』 『まだ、甚三郎が長崎表から帰らぬうちの事……よう胸に手を当てて思い出してみるがよい』 『思い出す事? べつに、あなたとの間に、そんな、心にふかく刻まれた憶い出は何もございません』 『ないっ?』 『ええ……ありませぬ!』 『では……では何日か──』と、平四郎の声の方が、顫えを帯びて、むしろ彼女よりは、女々しく聞えるほど甲走った。 三 『忘れもせぬ──』と、眼をふと塞いで、 『そうだ、其女が十六の春、お父上の十太夫殿も、家族もあらかた、花見に出て留守だった。其女は風邪の床に、瞼を腫らして寝ておった。──そこへ拙者も留守を頼まれて欣しい看護をしていた時、其女は、この平四郎に何というたか』 『その事は覚えていますが……そんな言葉は忘れました』 『忘れた?』  と、早口にたたみかけて、 『──では、その夏、荒川の堤へ、螢狩りに行って、あの帰るさ、闇路を戻りながらの言葉は』 『みんなして、笑いさざめきながら、冗談を云い合って帰りました』 『何! 冗談だと? ……。ウーム……冗談』  平四郎はもう、自分へ云って自分で答えるように呻いて、 『すると……其女がこれ程の言葉は皆、戯れ事であったというのか』 『もしも、何か貴方のお心に、恋として残るような言葉でも云ったことがあったでしょうか』 『──もうよい。アアそんなものか』  平四郎は、何か、悪夢から醒めたように、凝と、空し身になって星を仰いでいたが、 『小夜どの。……よく判っきり云ってくれた。では、其女はこの平四郎を、微塵も、好きだと思ったことはなかったのだな』 『ええ……。ただ、父から、生命の御恩人じゃ、忘れてはならぬ、有難く思わねばならぬと、何かにつけて云われていたので──何うしたら、それが貴方に映るかと』 『……ふ、ふ。そうか。それだけのものか』と、自嘲して── 『それが、拙者を弄り物にした証拠だ。だが小夜どの、きのうは他人の身、今日はわが身。──天は公平だな、あははは』 『今のお言葉は、それ見た事かという意味でございますか』 『元よりの事』 『解りました。さては、卑劣な謀み事をして、甚三郎様を墜し入れた下手人は……?』 『なにッ』 『いいえ! 貴方でございましょうが。問うに落ちず語るに落ちる、今の言葉、貴方の仕業にちがいないっ』 『──で、あったら、何うするか』 『もう、恩人とは云わさぬ。女ながら、萩井十太夫の娘、縄を打ってお城へ──』 『はははは。その細腕で』 『おのれっ』  お小夜は、抱えていた装束台を、小袖ぐるみ、相手の面へ投げつけて、次の突嗟に、短い刃を抜くや否、身を挺して、斬りつけて行った。 四  平四郎は、喝と、気当てを返して、 『洒落た真似をするなっ』  と、身をひらいた。  刃のような彼の平掌が、彼女の手元を強くはたいた。  懐剣は、草むらへ飛び、彼女の体は、平四郎に手頸をつかまれて、前へ泳ぎかけた。 『其女の惚れた男とは、少し骨の筋がちがうぞ。──介錯人の使命をうけたのを幸に、甚三郎の細首を落して無念をはらし、明け方迄には、他国へ逐電と考えていたが、もうこう口を割ったからには、お城へも戻れまい。女を討ったと云われては、末代まで、高安平四郎の恥になるから、生命だけは助けてくれる。はやく城内へ戻って、好きな甚三郎でも、助太刀に連れて来い。尋常の勝負なら、青沼の光沢寺で待っていてやる』 『……オオ。云やったな! ……。では慥に、紛失物の下手人は』 『もうここ迄云ったら、誰の仕業か、推量がつくだろう。──早く、御城内へ訴えに馳けて行け。九刻を過ぎると、間にあわぬぞ』  云いながら、平四郎は、彼女の体を、勢よく草の中へ突き放した。  ──女の力! 及ばぬ腕! 口惜しさに、彼女はいちど、わっとその儘、泣き崩れたが、 『ま! まてッ──』  叫んで、再び起ちかけた時は、もう平四郎の姿は、草露の光る彼方へ、跳る魔形のように、馳け去っていた。 荒川づたい 一 『何うしたのであろう?』  立会の者の控え部屋では、当夜の検死を初め、役人たちが、顔を見合せていた。 『もう、九刻に近かろうが……』 『平四郎も戻らぬし』 『水装束もまだ届かぬというが』  云っている間に、その九刻は、髪切虫の啼く音のように、時計の間からギリギリと聞えた。 『いつ迄、待っても居られまい。──死罪の者に対して、猶予を与えなどしては、江戸表への御報告も偽りになる』  当夜の立会人のひとり──城番加役宮崎若狭守の子息市之丞がそう云って、真っ先に、執行に立った。  それに伴れられて、 『では、折角の望みだが、水装束も間にあわぬな』 『小袖はよいが、介錯は誰がいたすな』  などと口々に呟きながら、時刻と、市之丞の言葉に促されて皆、起ち上った。 『平四郎の戻りが間にあわねば、ぜひもない、介錯はそれがしがする』  この中では、市之丞が若かった。──で当然の意気らしく、それは響いた。  然し、御城番の次席である若狭守の次男なので、家柄としては、この中の誰よりも高い。それを老人達は、やや憚かって、 『いや、市之丞様のお手を煩わさぬ迄も、誰か、居らぬ事はござりますまい。──誰か、即刻呼んで、申しつけますれば』 『いや、もう時刻がない』  市之丞は、大股に控え部屋を出、武器の櫓の下まで歩みかけた。  ──と。そこへ慌しく、 『お待ち下さい。甚三郎の切腹、暫く、お待ち下さいっ』  息を喘いて馳けて来た与四郎兵衛が、切腹部屋の前まで出揃った人々を見て、手を振った。 『何で留めなさる』  一人が、強くたしなめた。 『いや、下手人が、分ったのでござる!』  与四郎兵衛の言葉は、絶叫するようだった。 『──われわれは、まんまと、その下手人に、騙かられたのじゃ。折角、御城内にいたものを、逸してしもうたのだ』 『──して、誰だ? 下手人とは』  市之丞は、眼を光らして、問い詰めた。 『されば高安平四郎と相分った』 『何、平四郎──が』  皆、意外な顔を見あわせて、 『然らば、紛失物を奪ったのは、平四郎の仕業と仰せあるか』 『甚三郎に、恨みがあって、彼奴が謀ったことだと申す』 『──誰の口からそれが知れましたか』 『今。御城門へ訴えて来た、萩井十太夫殿のお娘──小夜どのがそう申すのじゃ。しかも、その訴えによれば、平四郎自身が、小夜どのに、自己のやった復讐を誇って、そのまま逐電したとも云う。──これは偽りであろう筈はない』 二  他に、下手人が出た以上、海野甚三郎にはもう、下手人の嫌疑はない。  然し、責任はまだ、充分にある。  それは、真実の下手人を、捕えることだ。人々の意見は、そこで即決を見て、すぐ甚三郎を、切腹部屋から出した。  そして、立会人と共に、すぐお小夜に会わせ、猶つぶさに、彼女の口から、真相を聞き取らせた。 『──では平四郎は、尋常に勝負するなら、青沼の光沢寺で待つといったか。確かに、そう云ったか』  甚三郎は、何度も、お小夜に確めた。  人々も、そこを大事と、耳を欹てた。  お小夜は、有の儘に、 『はい、まだ貴方の死を見ないで去るのが、心遺りのように、確かに、そう云って、逃げ退きました』  と、答えた。 『それっ、すぐ手配をすれば──』  と、役人たちは、先を急いて、すぐそれぞれの支度に急いだ。  討手の人数は、忽ち揃った。  日頃、平四郎と余り誼みのない若侍のうちから、約二十名ほど選抜って、それに、練達な役人が三、四名付き添い──宮崎市之丞を、先に立てて甲府城から馳け出した。  それより一足先に、海野甚三郎と、お小夜の二人が、青沼村をさして、急いでいた。こう二人は、当然、討手の誰よりも真っ先に向わなければ、一分が立たない立場にある。  城下端れから、荒川に添って、山地へ向いながら小一里も行くと、右側の小高い所に、一宇の寺が見える。  まだ、明け方には、間があったが、水明り星明りに、何処となく仄青い明るさのある道だった。 北斗の顫き 一  ──それよりは、やや先に。  お小夜を突き放して、住み馴れた甲府の深夜も、惜気もなく捨てて馳けた高安平四郎は、真っ暗な光沢寺の山門を風のように潜っていた。  庫裡へ廻って、 『起きろ。起きろ』  ほとほととそこの戸を揺すぶる。  寝ぼけ眼の納所僧が、 『どなたで?』  と、見上げた。 『江戸の者だが──』無造作に云って、 『泊っているだろう?』  と、訊ねた。  皆まで訊かずに、 『あ……御浪人方のお連れで』 『そうだ』 『どうぞ……』  すぐ、蝋燭をつけかける手を制して、 『坊主』 『はい』 『この光沢寺は、一蓮寺の別院だな』 『左様で──』 『一蓮寺は、御勤番加役、甲府在住の宮崎若狭守どのの菩提寺だな』 『仰っしゃる通りでございます』 『──すると、この光沢寺と、宮崎家との縁故も、だいぶ浅くないな』 『はい。何かにつけ、お世話になっておりまする』 『江戸から来ている──おれ達の連れの浪人達は、そんな筋から、ここへ寝泊りしているのじゃないか』 『よく……存じませんが、何しろまあ、どうぞ』 『いや、ちょっと聞いておきたいのだ。御加役の御子息、市之丞どのは、何日見えられたえ』 『今朝ほども、お見えになりました』 『今朝ほども──か。成程』 『蚊がひどう御座いますから、どうか、中へお這入り遊ばして』 『奥に泊っている浪人たちは、何と申す名だな』 『えっ……御存じないので』 『忘れたのだ。まだ浅いつきあいだから』 『お一人は、菅馬之助様、御一名は、服部太蔵様と仰っしゃいます』 『どこにいる』 『この広い廊下を突き当って、右の端れの広間を御寝所にしていらっしゃいますが、お起し申して参りましょうか』 『それには及ばん。──おい坊主ちょっと出い。戸外へ出い』 『な……なんでござりまするか』  平四郎は、僧侶の襟元をぐいと掴みよせて、怖しい眼で睨みつけた。 『怪我をしない所へ行っておれ。そして、静かにするのだぞ。声を立てたら、斬り捨てるぞよ』 二  柳町の燈に飲み歩いて、今し方、大酔して帰って来るなり、寝汚なく夜具の上に身を抛り出した二人だった。  ──でも、油断のない男とみえて、服部太蔵がふと、 『おい、馬之助、馬之助』  と、連れの菅馬之助の耳を引っ張った。  ううむ……と寝呆け声を出して、何か、云いかける口を、叱っ、と抑えて、 『おかしいぞ。──おいっ、眼をさませよ。何か、庫裡の戸があいて、人声がするようだ』  と、囁いた。  漸く、菅馬之助も、首を擡げて、 『人声が? ……何処に』 『もう聞えなくなったが』 『耳のせいだろう』 『風の音にも、心を措くという奴だな』 『金儲けとなれば仕方がない』 『明日は立とうぞ。足もとの明るいうちに』 『だが、あれだけ持っていた所で、路銀がなくっちゃあ』 『今夜は、事が決まると云っていたから、明日はお見えになって、路銀もくださるだろう』 『……おやっ?』 『……?』  二人とも、喉に、唾を溜めた。みしりっと、廊下のきしみが、梁に伝わって、何か神経を尖らせられたからである。  ──と。障子のすぐ外であった。 『馬之助。太蔵。路銀をやろう、顔を貸せ』 『──げっ?』  刎ね起きて、あわてて、大刀を抱えこみながら、 『だ、だれだっ』 『この辺の遊び人だ。顔を貸してもらいてえ』  遊び人と聞いたので、頭から呑んで、 『こらっ、誰に断って、這入って来たか』  馬之助が、がらりと、障子をあけて顔を出す途端に、 『冥途の草鞋銭。それっ』  ぴゅっん──と細い刃金でも唸るように刀が鳴った。馬之助の首はわずかに胴へ皮を余して、でんと、廊下へぶっ仆れた。 『──あッ』  仰天して、服部太蔵が逃げかける背へ、平四郎は跳びかかって、ぶんと、肩先へもう一つ入れた。  うーむと、服部太蔵は、仰向けにひっくり転った。然し彼の浴びたのはミネ打ちであって、単に、眼を眩したに過ぎないらしい。  平四郎は、太蔵の体を、横抱きにして、元の庫裡から、何処ともなく、出て行った。  ──然し、それから後、間もなく、彼の姿は再び、本堂の前に現われた。そして、正面の階段に、腰をおろして、白い北斗のまたたきを、無言で見つめながら、何ものかを心待ちに待ち構えているふうであった。 三 『──おうっ、彼れに、人影が』  今、此の寺の石段を喘ぎ登って来た男女は、一歩、山門を這入るとすぐ、そう云って、ぎくと足を竦め合った。  いう迄もなく、お小夜と、海野甚三郎のふたり。  白く、冴え切ったお小夜の決死の顔に反して、甚三郎の方は、むしろ土気いろに、体も硬ばり、どこか微かに顫えていた。  切腹部屋から出された瞬間から──彼は、ふたたびもう、死というものを、思うのも怖しくなってしまった。  わけて、お小夜の姿を見てから、俄に、未練な──生への執着が──堪らなく強くなっていた。  それに、武道にかけては、自信がない。  いわんや高安平四郎を相手にしては。  ──だから、今、平四郎のすがたを、本堂の階段に見ると共に、 (まだ、後詰は来ないか)  と、山門から後を、無意識にふり顧った。  平四郎は、意地悪く、 『来たか!』  と、彼方から男女へ声をかけた。  声をかけられてはもうそれ迄だった。 『オ! 居ったな、高安平四郎』  男女して、左右から駈け寄っても、平四郎は、腰かけている階段から、動こうともしなかった。 『待っていたのだ』  そう云って、底気味のわるい眼で──何っ方から先に刀の錆にするか──と舌なめずりして見較べるように、 『相思相愛、死ぬも生きるも、一蓮托生と、ふたりして追って来たな。──だが、こう見るところ、男の甚三郎には顫えが見える。長崎仕込みの軽薄才子──もし生きて添っても、その構えでは、末始終が心もとない』 『な、なにを云うぞ。この期になって、世囈い言を』 『ふン……後の加勢が来るあいだ、世囈い言を聞いていたほうが、其っ方に取っては、無難ではないか。──今度はお小夜に一言云おう』  と、少し膝を向けかえて、 『嗤ってくれ、おれは何という煩悩の痴人か。其女の一顰一笑を、みな自分勝手に受け取って、独りで恋をし、独りで悩み、独りで迷い、揚句の果に──又これからも、生涯独りで彷徨い出そうとしている』 『……もう……もうそんな繰り言、聞く耳はないっ。甚三郎様に罪を着せる為、盗んだ品を、これへ出して、武士らしく、そなたこそ腹を切ったがよい』  彼女は、健気に、詰め寄った。  眼にも入れない容子で、平四郎は、云いたい事を、云い続けた── 『そこで、凡痴なおれは、腹の底から、甚三郎も又其女も、恨みに思ったこともあるが、一日一日、おれの描いていたおれの幻は消え──わけても先刻、草原の中で、正直な其女の気持を聞いてからは、朝の月みたいに、恋の相手は消えてしまった。──そして唯、今も胸に残っているのは、笛吹川から抱き上げた頃の──十三、四歳のあどけない小娘だけだ。その小娘は、たとえ嗤われても、永遠におれは愛する! ……愛さずにいられない!』  と、怪しく昂ぶった声を顫わせて、 『……では、甚三郎の御家内、お小夜どの、倖せに送るがよい。──又、お小夜どのの良人甚三郎へも云おう。どうか末長く、可愛がってやるがいい。生憎とおてまえは才子肌だ、男にすら、今度のように鼻毛を抜かれる。まして女には、長いうちに何うあろうか。こんな女房を持って、浮気をしては罪だぞ。その時は、平四郎がゆるさんぞ。──』  と、ぬっくと起ち上ったかと思うと、 『では、おさらば』  と、二人を捨てて、右の廻廊の方へ、ずかずか歩き出して行った。 灯皿の罪 一  何やら、謎めいた言葉に、お小夜も、甚三郎もやや呆っ気にとられていたが、平四郎が逃げる気と勘づいたので、はっとしながら、 『──待てっ、御番城の宝物を掠めて、その儘、巧みに逃げようとて、そうはさせぬ』  と、甚三郎は、大きく呶鳴りながら、廻廊の上へ、刎ね上って、背後から抜打に斬りつけた。  ばっ──と、刃風を顔の前へ交して、 『云い残した』  と、平四郎は、彼の小手先を、ぐいと掴んだ。 『お小夜どの』  と、次に、突いて蒐ろうとしている血相へ振向いて、 『紛失した歌仙本は、確かに、この寺の奥の客間にある筈。血まみれの中を後でよく検めてみるがよい。──猶、不審な事、分らぬ点は、この床下へ、ふん縛って突っ込んである浪人へ問い糺すがよい。──尤も、彼奴の口書は、いずれ密封の上、江戸表の評定所へ一通、御城番松野豊後守どのへ一通──各〻へ二通に認めて、後から飛脚でお届けするつもり』  と、伸び上って、 『おお、後詰が来たな。──あの中には、御加番宮崎若狭守のせがれ市之丞も居ることだろう。あれも性の悪い凡痴の一人』  と、笑って又、 『お小夜どの。其女のような、あどけなくて、美しい処女は、ちょうど、夏の夜の虫を焼く絵行燈のようなもの──燈に罪はないが、焼かれる虫にも無理はないのだ。──ただ市之丞のような佞物は、焼いても飽き足らぬ佞物だが……』  もうその時、早くも、廻廊の横へ、裏手へ、 『逃がすなっ』  討手の声──そして跫音の雪崩れ、──喚き、犇めき。  ──さらば!  と、云っている間もなかった。  どどどどっ……と廻廊の一角へ馳けて、ひらりと欄を越えた平四郎の影は二、三名の者を刎ねとばして、裏山の闇ふかく──いやもう小禽の声に明けかけた水色の黎明の中へ、溶け入るように紛れてしまった。 二 『しまったっ。──早く、近道を登って、先を塞げっ』  市之丞は、馳けて来て、追い惑う侍たちを、叱咤した。 『うぬっ』  暁闇の大地から、不意に誰か、彼の足をつかんだ。  市之丞は、もんどり打って、 『あっ、何をいたすっ』  云わせも果てず、海野甚三郎は、彼の上へ、馬乗りになって、 『下手人ッ、召捕った』  と、呶鳴った。  市之丞は、もがきながら又、怒りの眼をつりあげて、 『ば、ばかなッ。わしを下手人とは、何を申す。──発狂したか、甚三郎』 『だまれっ。かねて不審なかどもあるにはあったが、よもや御加番の子息がと、打ち消していたのが不覚だった。──それがしを罪に墜し入れ、自滅させようと計った曲者は、確かに、汝に相違ないっ』  意外なことばに、役人や討手の侍たちも、ばらばらと駈け寄って来て、一時は、まったく甚三郎の発狂かと怪しんだが、お小夜も共に、信念をもっていうので、 『では』  と、言葉にまかせて、床下を捜すと、俵縛りに縛られた浪人の服部太蔵が引っ張り出されて、 『市之丞様、もう運の尽だ。あっしゃあ、平四郎に責められて、もうすっかり喋舌ってしまいましたぜ』  と、泥を吐いてしまった。  彼の自白に依って、総ては、明白になった。  市之丞も又、かねてから、お小夜を恋していた一人だったのである。  だが、お小夜はそれも、平四郎に対するのと同じように、何の警戒もしなかったし、甚三郎に向って、べつに注意もしていなかった。  ──けれど市之丞としては、多年の恋に、業を煮やし、あらゆる術策を尽した上の──自暴自棄なのであった。その果に、彼女の良人と選ばれた甚三郎を、自滅させる為に、二人の浪人を雇って、歌仙本を盗めと唆かし、城内へ忍び込む手引までしてやったものである。  だが、市之丞の為た手口も、洗ってみると、極めてまずい、坊っちゃん仕事でしかなかった。──やはり焼け死ぬ虫は愚には違いないが、無心の絵行燈の灯皿の方に、むしろ罪ふかいものがある。無心であっても、罪ふかい灯のまたたきに、処女は心しなければならない。 (昭和十三年八月) 底本:「吉川英治全集・43 新・水滸傳(二)」講談社    1967(昭和42)年6月20日第1刷発行 初出:「婦人倶楽部 別冊付録」大日本雄弁会講談社    1938(昭和13)年8月 ※「行燈」に対するルビの「あんどう」と「あんどん」の混在は、底本通りです。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2014年2月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。