剣の四君子 柳生石舟斎 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 剣の四君子 柳生石舟斎 草廬の剣 一 二 三 四 五 六 七 八 弓の家 一 二 三 四 五 求道の門 一 二 三 四 五 石のふね 一 二 三 四 五 六 一剣治天下 一 二 三 陽なた竹 一 二 三 四 氷の縁 一 二 三 四 草廬の剣 一  新介は、その年、十六歳であった。  大和国神戸ノ庄、小柳生城の主、柳生美作守家厳の嫡男として生れ、産れ落ちた嬰児の時から、体はあまり丈夫なほうでなかった。  母なる人が、青梅の実にあたって、月盈たぬうちに早産したせいだとか。──いわゆる月足らずの子であったとみえる。 「戦に出たい。戦に連れて行って下さい」  彼も、武門の子である。合戦のあるたび父にせがんだ。  が、父の家厳は、 「そちのような弱い肉体では、戦いに出ても物の役に立たぬ。柳生の一族は、病弱な子まで狩り出したと、敵方に笑われよう。──そういう望みは断って、むしろそちは僧侶になれ、学問をしておけ。柳生家の累代、戦に次ぐ戦に、代々何十名の戦死者があったか数も知れぬほどだ。そちの兄、康太郎も二上山の合戦に討死した。叔父御もおととしの出陣から帰らなかった。……のう、そういう人々の霊を弔うべく、僧門に入るのも意義のないことではない。そちの体の生れつきひよわいのは、一族の中から一子はそれに捧げよとの、仏天のおいいつけかも知れないのだ。宿命というものである。いらざる憂悶は抱かぬがよい」  と、懇に諭すのであった。 「…………」  新介は、黙って聞いているが、いつも涙をこぼした。顔を横に振るたび、その顔から涙が飛んだ。 「わからぬやつ! 女のくさったようなやつ! 嫌いだっ、あっちへ退がれっ」  果ては、その涙へ、恐い顔を示して、家厳は大喝した。  それも、父性の大愛から迸る声以外なものではない。  ところが。  ことし天文十三年の七月には、その父が好むと好まないに関わらず──子が望むと望まないに関わらず──否応のない戦火が、柳生父子を、一つ戦場に捲き落した。  連年、鎬を削りあってきた宿敵、大和の筒井栄舜房法印順昭が麾下二十万石の領土の精兵を、挙げて、この小柳生ノ庄のわずか七千石足らずの小城ひとつを、取巻いて、 「三日のうちに踏みつぶして見せる」  と、豪語し、そこの山上山下、野も畑も部落も、兵馬に埋めてしまったのである。  新介は、こうした危急が、わが家の石垣の下まで迫ったのを眺めやると、 「もう父もお叱りはなさるまい」  と、生れて初めての武者ぶるいを──恐怖の快感を、鎧の下の血は楽しむのだった。  そして、昼夜必死の防戦に、彼は搦手から水の手までの線を死守し、父の家厳は、一族と共に、専ら大曲輪の指揮に当り、時には自身、大手の木戸まで出て、士卒と共に奮戦していた。 二  石垣は血にそまった。  その血が黒くならないうちに、次の敵が、また石垣につかまって攀じ登ってくる。  岩石、材木、沸湯──糞泥までを、執念ぶかいその敵に浴びせかけた。 「多聞院日記」の記事によれば、この時の激戦は、三日に亙るとあるが、「柳生家家譜」には、七日を過とある──  何にしても、相互、夥しい犠牲を出して、揉み戦った酸鼻は分る。  筒井勢は、小柳生の在家散郷へ火をつけたから、その煙は、天を焦がし、畑はふみ荒され、百姓のすがたはおろか、家畜の影も絶えてしまった。  糧食の道、水の手の落口も、断たれてしまった。城中の兵は、眼に領内の焦土をながめ、身のまわりには、飢渇か死の影しか見られなかった。  が、なおも城は、頑強に落ちなかったので、筒井順昭は、自身伊賀を発して、忍辱山に陣を取り、 「これしきの小城に、七日もかかって、なお落ちぬと四隣に聞えては、筒井衆の名折れぞ」  と、激励した。  順昭は、後の筒井順慶の父にあたる人である。順慶とちがって、英武な名将と知られていた。──その忍辱山の陣所へ、柳生方の捕虜が一名、高手小手に縛られて来た。  その晩も、諸所の放火、陣地陣地の篝などで、夏の夜空は、真っ赤に煙って、地の草露に虫の音もなかった。 「坐れっ」 「それへ直れっ。──直らんかっ」  繩付の弱腰を蹴って、一群の将士が、床几の前へ突きのめした捕虜を一目見ると、筒井順昭は、 「ああ待て。手荒にするな」  と、思わず眉をひそめずにいられなかった。 三 「女か。病人か」  順昭は、まず訊ねた。  見るからに弱々しい一名の敵を、大勢して、さも手柄顔に生擒って来た味方の将士も、むしろ不快とするような順昭の語気だった。 「わしは、女ではないっ。病人などでもないっ。──柳生家厳の嫡男、新介宗厳なのだ。はや首を打てっ。首を打て!」  順昭の声に応じて絶叫したのは、彼の部下ではなく、彼の前にひき据えられている捕虜だったのである。 「何っ。柳生家の総領じゃと」  順昭が、思わず眼をみはると、籠手の傷口を縛りながら、繩付のうしろに付いて控えていた朝山氏堯という赭顔の勇将が、頭を下げて答え直した。 「幾度、水の手の樋を断ち切りましても、いつの間にか、城内へ水の通っている容子なので、それがしの手勢を伏せておきますと、夜ごと、この若武者が、決死の一隊をひきつれて、搦手から裏山へ攀じ、貯水池の樋をかけ直し、水路をひいて城内へ走りこむのを見届けました。──で、こよいこそと、それがし自身、待ちかまえて、袋づつみにしましたが、若年とはいえ──また、見たところ、仰せの如く、病人か女のような弱々しい姿に似気なく、死にもの狂いに抵抗し、味方の兵を、八、九人まで斬りつづけました」 「……ふうム?」  順昭は、呻きながら、毅然としている捕虜の色白な面に、じいっと、眸をすえたまま聞いていた。 「──憎ッくい小冠者めがと、それがしが槍を突けると、それにおる野添盛八、漆間八郎右衛門の両人も、左右から力を協せ、追いつめ追いつめ、扇形の空濠の窪へ、敵が足ふみ外して転げ落ちたので──討つなと、野添の槍を止めて、引っ縛げて参ったのでござります。──縛め捕ってから気づいたのは、意外にも、それが城主柳生家厳の息子であったということです。さして手柄とも存じませぬが、他ならぬ敵将の嫡子、君前に献げるのが至当と考え、物々しゅう思し召されましたろうが、ともあれこれへ引っ立てて来た次第でございまする」 「そうか。……いや、よく縛めて来た」  順昭は、初めの気色を改めて、 「小冠者、面を上げろ」  と、柳生新介を、睨めつけて、もう語気の端にも、不愍などはかけていなかった。  新介は、死闘に燃やした眸を、まだそのまま持って、容こそ、自若としていたが、 「面は上げておる。これ以上あげて、天を笑えというか。首を刎ねる際には、頸は伸ばすものと心得ておる。いらざる多言はお互いに無用であろう。はやく首を打てっ」  と、さすがに声は甲走っていた。 四  暁早い短夜。──濛々とこめる戦雲と朝霧に明けて、夜もすがら戦い通した籠城の兵に、ふたたび飢餓と、炎暑と、重い疲労が思い出された朝の一瞬。 「新介様あっ」 「若殿うっ。──若殿には、何処に」  搦手の兵たちが、大曲輪から大手の辺りまでを、血眼に、捜し合っていた。  それと同じ頃に、望楼の上では、 「敵が退いたっ。筒井勢は、いつのまにか、全軍退いて、今朝は、一兵も見あたらぬぞっ」  と、狂気して呼ばわる声もしていた。  敵が囲みを解いて、総退却したという歓びと、同時に、城主の嫡男の姿が見当らぬという憂いの声とが、黎明の一瞬に、齎されたのであった。  城外の水の手附近で、新介についていた部下は、全滅していた。生き残った者も、割腹していた。──が、新介の死骸はなかった。 「……もしや?」  父の家厳を初め、城中の者が、挙って案じていた一つの推定は、その日の午の刻になって、不幸にも、適中していたことが知れた。  囲みを解いて引揚げた敵の筒井城から、軍使が来た。 「御子息の生命は、捕虜として預かってある。降伏人として、城池を出らるる場合は、御子息の身は返して進ぜる。──御評議もあろうゆえ、回答には、三日の猶予をお待ち申すであろう」  軍使は、すでに勝者の態度で臨んで来たのである。いずれを選ぶも随意と、あっさり告げて帰った。  帰った後、惨たる一族の顔が、大曲輪の一室に集まった。どの顔も、眼は落ち窪み、髪は茫々として、血や泥や汗のうえに、さらに、濃い憂色に塗りつぶされていた。 「……どうするか?」  それだけのことだが、一致は難しかった。  家厳は、父として、心強く云う。 「生れながら、武門の後継とはなりかねる病弱な子だ。いつかは、僧門へ入れようとすら思い断っていた新介……。祖父以来の城池と名誉にはかえられぬ」──と。  だが一方。  親族の柳生河内、菅原夕菴、譜代の木村五平太、服部織部介、庄田喜兵衛次、和田、野々宮、松枝などの老臣旗下たちは、 「仰せではありますが、それは殿のお眼ちがいでありまた、われわれどもも、昨日まで、まったく若殿を、お見損ね申していたので、今日となっては、断じて、新介様を見殺しにいたすわけには参りませぬ」  と、頑強に云い張った。  三日の猶予は、経ってしまった。しかもなお、家厳の意見と、臣下の意見は、一致を見なかった。家厳としては、生けるわが子を受け取っても、筒井家に屈する恥辱を受けるに忍びなかった。また、自分のみか、城中七百の忠勇な将士をして、敵の足もとへ、拝跪させるに耐えなかった。──どう考えても、武門を捨てて武人はない。そうしか思えなかったのである。  すると。  三日目の黄昏、一書が届いた。  大和生駒郡の筒井城からである。──が、書面は公式なものではなく、また、敵からでもなく、そこに捕われている柳生新介から父へ宛てて来た私信であった。 五  敵の中にあるわが子。何を齎してきたこの手紙か。──父家厳の手は顫かずにいられなかった。  ──が、披いて、一目、その文字の様を見ると、何か、彼はすぐほっとした。少しも字体が乱れていなかったからである。  文面の意味は、次のようなものであった。  父上。  さても人間とは明日も知れないものであります。きのうまで御膝下で甘えておりましたが、きょうは見も知らぬ敵方の中に、捕虜の身となっていること、ふしぎなる天命と、柔順に深思しております。  不覚とは思いません。新介は、最後まで戦いました。恥ともいたしません。勝敗は兵家の常です。一生は今日だけのものではありませんから。  むしろ私はこの天命を奉じて歓びさえ覚えています。生れて十六年、不孝のみ重ねてきたこの病骨が、今こそ幾分のお役に立つかと存ぜられます。新介はすでに討死なしたるものと思し召され、この身を筒井家の質となし、即刻、和議をお講じ下さい。  祖廟の地こそ、病骨の子ひとりよりは、大事な筈です。忠勇な家士の面々こそ、私一人などには代えられない柳生家の石垣かと考えられます。  どうぞ御善処ありますように。  さもあらばあれ新介もまた、自ら生きゆく道を選んでゆくでしょう。御膝下を離れてむしろ今、人となる道を訓えられ、また、御両親様の大愛の一しお身に迫るものを新たに覚えておりまする。では呉々も、御自重のほどを。 筒井城内の短檠一穂の下にて誌 新介拝  父うえ様 「…………」  家厳は落涙がとまらなかった。玉砕を潔しとして主張していた一徹な愚かさを、日ごろ病弱あつかいにしていた子から訓えられて、背に百杖を下された心地に打たれた。 「そうだ。云うが如く、善処いたそう。……新介の志を生かして」  評議の間へ出ると、老臣以下、まだ暗澹とそこに坐っていた。家厳は、面々が夜に入ったのも知らずにいる態を見て、 「燭を燈せ」  と、武士どもへいいつけた。そして、 「燭が燈ったら、一同これへ寄れ。ただ今、敵方におる新介から、かような書面が届いたに依って、改めて諮りたい」  と、新介の手紙を示した。  それを見て、泣かない家臣はなかった。或る者は、声をもらして嗚咽した。 「──ついては、わしの心も決した。この新介が手紙の文面を篤と見よ。降伏とは書いてない。和議を講じてくれとある。ここに新介の真意があるらしい。──降伏は受け難いが、和睦を結ぶなれば悪しかるまじ、その代りに、自分は質子として、筒井家に留まる──という存念と相見える」  評議は一決した。  新介の意を旨として、即刻、筒井家へ使者を送った。使者は、 「降伏は申し出ぬが、和議なれば応じ申そう。条件としては、嫡男新介宗厳様を、長く質子として貴家へお預け申すべしとの主人家厳が意見にござります」  と、口上で伝えた。  これでは、対等にひとしい返答である。筒井方の不満は明らかなように思われたが、意外にも、 「承知いたした。御提示の条件をもって、宿怨を水に流し、改めて、隣交の誼みを結び申そう」  と、筒井順昭は、一言に許した。  思えば危うい限りだった小柳生の城も──天慶以来つづいて来た柳生ノ庄七千石の領土も──ために、計らずも無事なるを得た。筒井家の属国的な位地に落ちたことはぜひもなかったが、ともあれ新介の身一つで、父家厳以下、多くの家臣までも、一応は滅亡の淵から救われた。 六  兵は強く、領土は広い。  覇業を成した人物だけあって、筒井順昭は、やはり一世の雄であった。  彼に足らないものは、子であった。女子のみが多いのである。一男は夭折し、その下の藤勝はまだ幼い。 「他家の質子ながら、新介ほどの嫡男があれば」  とは、彼がいつも独り思うことだった。  合戦には十分に勝っていながら、また、筒井家とは比較にならぬほど領地も狭いし兵力も乏しい柳生家と、対等に近い和議を容れたのも、捕虜として連れて来た新介の飽くまで毅然たる態度と、一族を思う至誠に動かされた結果だった。 「藤勝。そちもちと、新介を見習えよ。いつまでも家臣どもに甘やかされて駄々ばかり捏ている和子様であってはならぬぞ。新介の刻苦に見習うて、朝は夙に起き、馬術、弓道の稽古に励み、読書もせねばならぬぞ」  四年間。──新介が質子としてここへ来てからいつか四年となる、──その間の彼の起居や修養ぶりに感じるたびに、順昭は、わが子にひき較べて、藤勝を訓戒せずにいられなかった。 「はい。はい」  藤勝は、ことし十五である。父の前では、非常に畏まるが、駄々で懶惰で底意地がわるい。順昭の歿後、領土をうけて、伊賀に本城を移し、筒井順慶と称したのは、この藤勝であった。  父から叱られるたび、新介の名が手本に出される。藤勝は、その反動で、城内に住むもののうちでは、誰よりも新介が嫌いだった。犬よりも下に新介を見蔑げていた。  この新介は、城内の片隅に、質子構えと称われる小さい一棟を当てがわれて住んでいた。戦国の世の慣いで、強国の城廓には、幾人も他国の質子が養われていた。 「弁之助。また、あの擒人の新介が、経文みたいな書を読んでるよ。石を投げこんでやれ、喧しいから」  藤勝は質子構えの墻を覗いて、供の近習にいいつけた。 「そんなことをなすってはいけません。およしなさい」 「お前が抛らなければわしが抛る」  小石を拾うと、止める間もなく、屋の内へ投げこんだ。  家の中で、石の弾ける音がした。しかし、読書の声は止まなかった。 「まだやっているな」  意地になって、三ツ四ツと投げこんだ。すると、墻の小門が開いて、 「悪戯をするのは何者ですか。そんなことをなさると承知しませんよ」  と、怒って出て来た者がある。  見ると、新介ではない。女である。しかも藤勝の姉にあたる由利女であった。 「あらっ? ……。姉上は、何だって、質子構えになんか来ているんですか」 「いいでしょう。来ていても」 「いけませんよ。擒人のいる囲いへなんか……おまけに、男の所へ、女のくせに」 「あなたこそ、今、何を投げたのですか」 「石さ、いけない?」 「なお悪いでしょう」 「大きなお世話」 「今日ばかりではありません。のべついろいろな悪戯をして」 「じゃあ、姉上ものべつ来ているんだな」 「お可哀そうではありませんか」 「誰が」 「新介様のことです。ですから、時折、お見舞に来て上げるのです。其方だって、もし戦に負けて、敵方へ質子となって行ったら、どんなに思いますか」 「父上にいいつけてやるぞ。こんな所へ、女のくせに、遊びに来て。──弁之助。行こう」  姉には敵わない。藤勝はぷいとそこから立ち去ってしまった。 七 「父上。由利どのは、質子構えにおる柳生新介の所へ、時々、行っておりますよ。いいんですか、あんな所へ女が行って」  藤勝が、或る折、口を尖らして、順昭へ告げ口すると、順昭は、非常に怖い顔を示して、反対に叱りとばした。 「何を云う。由利は、学問好きゆえ、新介がよく書を読むので、解らぬ所を質しに行くのじゃ。そちもちと、新介について、学ぶがいい」  藤勝はまた、新介のために叱られた。  順昭は、すでに自分の末娘の由利を以て、密かに新介へゆるしていたのである。和睦して六年、柳生家との間も、その後は至って円満なので、わが娘の一人を柳生家に入れ、それを機に、新介の身も、花嫁の輿と共に、柳生ノ庄へ帰してやろうと考えていたのだった。  父のそんな深い胸は知ろう筈もなく、藤勝は、それから四、五日後、新介が馬場から帰る途中に待っていて、 「おい、おい、擒人の新介。待て」  弁之助と二人で呼び止めた。  新介は、馬の稽古の帰りなので、身軽に扮装ち、少し汗ばんだ顔をしていた。 「これは、若殿でございましたか。何かご用ですか」 「おまえ、幾歳になる」 「二十一歳に相なりました」 「二十一にもなって、まだ質子か。よその国に飼われているのか」 「……はい」 「お前の体は、お前の体ではないのだぞ」 「はい」 「何でもはいはい云っているぞ。お前は意気地がないな」 「恐れ入ります」 「恐れ入ったら、俺の股を潜れ」 「はい」 「張合いのない奴だな。そんなに尾を振られては、おかしくない。……怒れ、怒ってみろ」 「…………」 「何を笑う。怒れと云っているのだ。こら、怒らないか」  脛を蹴った。胸を突いてみた。それでも新介が怒らないので、図に乗った藤勝は、いきなり彼の耳を掴んで引っ張った。  新介は、それでも逆らわなかった。犬のように引廻されていた。藤勝は、 「犬じゃ、犬じゃ、犬でも怒るが、この犬は、臆病犬だ」  突き離すと、その顔へ、唾を吐いて、逃げて行った。  新介は、懐紙を出して、顔の唾を拭きながら、さしたる血相も現わさず、静かに歩き出した。すると、物蔭から一人の武士が、寄って来て、 「新介どの、よい御修行だな」  と、その肩を叩いて慰めた。  ──誰か?  と、振向いてみると、それはこの城に二ヵ月ほど前から滞留して、家中の士に剣の法を教えていた神取新十郎とよぶ新当流の武芸者であった。  新十郎はまた、新介の耳へ、こう信念をもって囁いた。 「あなたは今に名を成すだろう。きっと大成する質だ。大事になさいよ」 八  天文二十年、新介宗厳は、二十五歳になった。  その春、彼は、由利女を携えて、十年ぶりで、柳生の城へ帰った。  ──が、父の家厳はもうこの世にいなかった。彼は、山間の八千石に足らぬ痩地と、数百の家臣と、古びたままの小城とを享けて、乱世の中からさらに乱世へと臨んで行ったのである。  永禄二年。筒井順昭もすでにその頃病死していた。  時は近づいた。信貴山城の松永久秀が、大和へ攻め入る事前に、 「呼応して、南の地より、筒井領へ斬り入られよ」  と、簡を通じてきた。  この時から、柳生一族は、筒井の隷属から離れた。そして松永弾正の七手の旗頭として重用された。  多武ノ峰の合戦では、山徒の僧兵と戦い、松永氏の勢が昂まるに従って、柳生家も当然、隆昌に向ったが、その弾正久秀が、三好義継と共に、永禄八年の夏、二条御所へ放火して、乱刃の下に、将軍義輝を弑逆してから、柳生宗厳は、彼にもすっかり望みを断って、 「わが兵馬は、逆のために動かさず。わが剣は、乱のために把らず」  と、絶縁状を送りつけて、それ以後、ただ山間の孤城に拠り、深く守って、敢て、天下の乱へ出なかった。  義輝将軍の亡き後の京洛は、まるで無政府状態に近かった。中央の乱は当然、諸州に波及して、いよいよ天下大乱の相貌を呈して来た。  禅に。  読書に。  また、養身鍛心に。  世の春秋もよそにして、以来数年のあいだというもの、柳生宗厳は、まったく門を閉じ客を謝して、草廬に籠っていた。  柳生から近い月ヶ瀬に、ことしも鶯の声が渓川伝いに聞えてきた。──折から、奈良の宝蔵院の僧を案内として、柳生村へ入って来た一行九人づれの武士がある。騎馬で先に立った人物はわけて風格が高い。  一行は柳生城の坂下門で駒を下り、宝蔵院の案内僧は、門をたたいて中の番士へ告げた。 「──前もって、書面にて申し上げておきましたお客方、元、上州箕輪の御城主、上泉伊勢守どのを御案内申しあげて参りました。宗厳様へ、その由、お伝えをお願いいたしまする」 弓の家 一 「奈良の宝蔵院」の住職で、胤栄という変った法師がある。宝蔵院流と称する槍をよくつかう。  宗厳は、彼をさして、 「わが道友」  と呼んで深く交わっていた。  彼も「道」をさがしている人間だった。宗厳も「道」を求めて熄まない。人生の道、兵法の道、禅の道、極まりのない道である。──おたがいに迷悟の定まらない者同士が、 「人と生れたからには、何とかして、人間が到り得る境地まで、この心を磨いて、辿り着いてみたい」  という熱望の悶えを──いわゆる道心を──常日頃から語りあっている仲であった。  月々、父母の忌日には、必ずその胤栄が自身で読経にやってくる。そしては、お互いの修行を語りあっていたが、つい四、五日前に見えた折、 「時に、わしは近頃、稀代な人を見たぞよ」  と、胤栄が云った。 「稀代な人とは」  宗厳が問うと、 「剣の達人じゃ。いや名人の境に達していよう。人品もよい。深淵をのぞくようでな。乱世の巷からもあんな人物が出るものかのう」 「よほど傾倒されておられますな。御僧はいったい、なかなか人にゆるさぬ方だが」 「四十年来、わしが参ったと感じたのは、ひとり伊勢守殿だけじゃ」 「伊勢守と云われますか」 「もと上州大胡の城主であったが、後、長野信濃守に仕えて一方の将となり、その主家長野氏も武田信玄に攻略されたので、以来、甲州武田家に随身して、客分同様、気ままに諸国を遊歴しておらるるとか」 「えっ。……では、上泉秀綱殿ではありませんか」 「御存じか」 「近頃、兵家のあいだでは、恐らく知らぬ者はございますまい」 「それにしては、寔に謙譲なお人がらではある」 「その伊勢守殿と、御僧はどこでお会いなされましたか」 「わしの寺で」 「ほ。何として?」 「訪ねて御座られたのじゃ。その前に、伊勢の太の御所──あの北畠具教卿を訪ねられ、具教卿より、奈良へ渡られたら、胤栄という変な坊主といちど会って御覧なされと聞いて来られたらしい」 「ああ。残念なことをしました」 「なぜな?」 「会い難い御仁に会える機を逸したではございませんか」 「そんなことはない。まだ当分は、わしの寺に遊んでおるというている」 「や。まだ御滞在ですか」 「いつでも御案内して参ろう。柳生城の当主宗厳どのにも、兵法の道には執心と、ゆうべも何かの折、おうわさしたところ、一度は御見に入りたいものと、伊勢どのにも云われてござった」 「何の、自分こそ、願うてもない倖せ、おさしつかえなき日を仰せ下されば、当方より出向くのが礼儀。御内意を聞いておいてください」 「よろしい。さっそく、寺へ戻ったら伝えてみましょう」  ところがその翌日、胤栄から折返して来た使いの手紙によると、伊勢守がいうには、自分は、武田家の客臣ではありまた、兵法修行のため遊歴中の身である。それにひきかえ、柳生殿には、一城の御当主、領民への御体面もある。先にお訪ねをうけては恐縮、自身から出向いて、御拝眉をねがおう。──そう当人の伊勢守が希望することであるから、近日、寺僧を案内につけて、お城まで参上する。当日は自分は同道できないが、さだめし興ある御清談が交わされよう。取敢えず、御返辞までを、と認めてあった。  ──それが、今日の伊勢守の来訪となったのである。勿論、前の日、宗厳から命じられてあるので、番士は、直ちに城門をひらき、そこにはまた、 「ようぞお越しを」  と、老臣以下、幾人かが出迎えに立ち並んでいた。 二 「お客様が見えられました」  小侍が、先にひとり、大手の坂道を駈け上って来て、宗厳のいる庭先から告げた。  宗厳は、朝から心待ちにしていた。 「そうか。今参る」  沓脱から草履をはいて歩み出た。  彼はことしもう四十七歳になる。  妻の由利とのあいだには、長男厳勝、次男厳久のふたりの子もあった。  いつか父となって──初めて亡き父の心がわかる心地も屡〻であったが──剣の道に志してから、彼はふたたび、幼稚な己に帰ってしまった気がする。 未熟 煩悩 迷妄 邪心  あらゆる痴人のもち前の短所と、身のみ大人になりながらなお、どこか大人になりきれない幼稚なものとが──四十七歳の自分を見まわす時、情けないほど、こびりついている。  抜いても抜いても伸びてくる雑草のように、未熟から脱けられない。迷妄から離れられない。邪心の濁りから澄みきれない。  こんなことで、剣の工夫などなろうか。  時には、諦めて、捨てようとした。  しかし。  剣を捨てたら、自己の醜さを、明らかに、自己に映してくれるものは無くなる気もする。  剣は鏡だと思う。  明澄な剣。──純一に心を研ぎすまそうとする剣。不断な心の緊張。  その道を捨てたら、何が、自分を救ってくれよう。──亡父のいた時は、亡父の訓誡に、たえず歪みを撓められていたが。  ……などとこの日頃、頻りと思い悩んでいた折も折である。宗厳は、 「抑、どんな人物か」  と、客の伊勢守を想像しながら、出迎えのため、彼方へ足早に歩いてゆく間も、何か少年じみた動悸さえ抱いていた。 三  この山は古い、砦作りの城も古い。  柳生一族が、この土地に住みはじめたのは、平将門の乱があった承平、天慶の時代からであった。  氏は、菅原の系類で、遠祖は、春日神社の神職をしていたが──武家勃興の機運から、ここの城寨に拠って、弓矢を兼ね、いつか豪族となって、源頼朝の覇が成った時、初めて柳生谷三千石を本領と扶持された家がらであった。  北条氏が強権を執った頃、いちど敗れて一族離散したこともあったが、後にまた、本領を回復し、後醍醐天皇が笠置山に行幸遊ばされて、官軍を召し募られた折には、柳生一族からも、中之坊という勤皇僧が出て、笠置衆徒に列し、正成の帷幕に参じ、建武の復古によく働いた。  ──そんな話も、宗厳は、御先祖の事績として、幼い時からよく聞いていたものである。  玄関前の巨きな杉。槇の喬木。  そこらの苔や草。  老仙のごとき磐石。石を縫うささ流れ。  みな、それからの物であった。  宗厳は今、そこに立って、坂の下から上って来る伊勢守と一行の者を待っていた。 「おお……奈良はあの森よな。月ヶ瀬は、南の方か。ああ暢びやかな」  客の一群れは、悠長であった。坂の途中の曲り角に立ちどまって、大和の春の昼霞に恍惚と眼を細めていたり、辺りの老梅の半開の花を愛でたりしていて、なかなか上って来ないのである。  ──が、やがて、此方へ足を向けると、伊勢守らしい先なる人物が、 「あれに佇んでおられるのは御主人であるか」  と、傍らの柳生家の者に訊ねていた。  宗厳の家臣が、 「左様にござりまする」  と答えると、伊勢守は、非常に恐縮した様子で、やや足を早め、真っすぐに宗厳の前まで来て挨拶した。 「武術修行の遍歴者に、御自身、勿体ないお出迎え、いたみ入りまする。てまえが伊勢守秀綱です。──よいお構え、遠方此方、思わず眺め入りました」  宗厳も、礼を返した。  そして初めて見る高名な剣人の風貌に眼をそそいだ。  伊勢守秀綱は、永正七年の生れ、その時五十七歳にあたる。  見たところ、至極平凡人である。鄙びた老武士といおうか、素朴の一語で尽きている。  別段烱々たる眼光を持っているわけでもないし、骨格もすぐれて頑健ともみえない。ただ異っているのは、何となく、接していると、春風のような温雅な和気につつまれる。髪はまだ白くない。唇の色も歯なみも壮者と変りがない。強いて普通人よりすぐれているかと思われるところを索めればそんな点ぐらいしか、見出せなかった。 「どうぞ」  客殿へ招じると、伊勢守は、従者のうちから二人だけを伴って座敷へ通った。  座についてから、その二人を、改めて主に紹介わせた。 「こちらは、門人鈴木意伯と申す者。──また、これにおるのも、弟子の疋田文五郎でござる」  その後から、 「よろしく」  と、両人が手をつかえた。  意伯はすでに老人であり、文五郎は、元服して間もないくらいな若者だった。 四  いつか、梅の梢に、宵月が水々しい。  短檠の灯もかすむ宵となったが、客も主も、話に飽かないのであった。 「剣の御修行へは、いかなる御発心から?」  と、伊勢守に、その動機を質されて、宗厳は、 「道に入りたいために」  と、答えた。  伊勢守は、黙ってうなずいた。  話題を転じて、 「御当家は、天慶以来、武名のきこえある武門でおわすゆえ、定めし御先祖のうちには、兵法に心を潜めたお方もおわそうな」 「特に、剣を学んだという者はございませぬ。──祖父のはなしに聞き覚えておりますことには、応仁の頃、柳生孫次郎家宗と申すのが、強弓をよく引きました由で、その頃、奈良坂八町を射通し、世間に伝えられましたため、弓の柳生よ、弓の家よ、と云われていたようでござった」 「ホ。然らば、弓にかけて、名誉なお家だの」 「祖父も、亡父も、そのせいか弓術は人なみに致したようです」 「では、剣に心を向けられたのは、御当主が初めてといえますな」 「少年の頃、筒井家に人質としていたことがあります。その折、筒井家の客となっていた神取新十郎という剣者と知りあい、後、当城へ招いて、数年のあいだ新当流を学び、その奥旨を授かりましたが──なぜか自身、どうしても、満足ができません。分け入れば分け入るほど、踏み迷うばかりです。己の未熟と不才がわかってくるばかりで、お恥かしゅうぞんじます」 「神取新十郎は、五畿内随一の兵法者。その人から、新当流の奥旨をうけられながら、なお御不足かの」 「生れつきの鈍才とみえまする」 「ははは。御謙遜であろう」 「いや、まったく」  我れ知らず、宗厳は、斬り込むような語気で云った。  必死に道を求める者の懸命なさけびが、つい迸って、眸からも燃え出たのである。  今だ。この人にこそ、日頃の懐疑を質し、悶えを打明けてみよう。そして、礼を篤うして師事してもよい。  ──この心の眼さえあくならば!  宗厳の胸には、さっきから、そうした熱情が抑えられていたので、我れにもあらず膝をすすめたのであった。  ところが。  伊勢守は、とたんに手の杯を、軽く下において、 「思わず長座を。……文五郎、意伯、おいとま致そうか」  と、さり気なく反らして、宗厳の眸が、何を訴えているかも見てくれない。 「せめて一夜」  と、留めてみたが、伊勢守は、春の夜道も好ましいゆえ、帰るという。  宗厳は、心残りでならなかったが、家臣三名に松明を持たせて、ここから奈良まで二里足らずの道を、送って行くようにいいつけた。 五  惜しい。実に惜しい。  つまらない座談に千載の好機を逸してしまった。  何ものかを、あの人から学ぶべきであった。  客の帰った後で、宗厳は、寝もやらずそんな悔いをくり返していたが、また、 (案外、平凡な人物でもある)  と云う考えもわいて来た。  世間の大家とか達人とかのうちには、ずいぶんまやかし者も多い。禅をやってみて、禅門の名僧智識などに見参してみても、よくそういう失望に会う。  得態のしれない公案や一喝をくれて取り澄ましていられると、 (これは抑、真ものなりや、偽ものなりや)  ちょっと惑わさせられる。  何ぞ知らん、ただの交際いになってみると、ただの俗人以上の何ものでもなかったりする。いや俗衆以下の場合さえ往々にある。  書にも画にも陶器や仏像にさえ偽物は世上に横行しているのだ。いわんや人間にあって不思議はない。  彼が騙くのではなく、こちらの眼が曇っている罪ともいえよう。──真を観るむずかしさ。直指人心。これができれば、もう或る所までその人間は達している。 「はてな?」  宗厳は、疑いだした。  宝蔵院の和尚にしても、ああ極言して賞めちぎったが、道において、あの和尚と自分と境地は、大差はない。 「真価はわからぬ。よし、もう一度、こちらから出向いて会ってみよう。そのうえで、伊勢守の人物が、名声の如く、高潔であり、彼の剣に学ぶものがあったら、改めて、師礼を執っても決して遅くない」  もし近日にでも、先へ旅立たれてはと惧れて、それから一日措いてすぐ、柳生宗厳はただひとりで城を出た。  ここに久しく、絶えて何処へも出ない主人が、遽に、 「奈良まで」  と、城戸へ向って行ったので、家臣の庄田喜兵衛次、服部織部介などが大手の坂まで追いかけて、 「どちらへお出ましなされますか」  と、顔いろを覗いた。 「宝蔵院まで参る。供はいらぬ。供に従くな」 「でも、お馬の口輪なと」 「いや歩いてゆく」  家臣たちは、茫然と見送っていた。  それほど、宗厳の姿は、道を求めるうつつな人であった。  彼の学んだ新当流の剣といわず、この時代のいわゆる刀法は、まだ極めて、技術も理論も粗い──ただいかに人を斬るかの工夫でしかなかった。  彼の理念は、そんな粗雑な構成の熟達で甘んじられなかった。  いちど、剣を離れて、禅に入ったのも、そのためだった。  けれども、混沌と、迷いに入るばかりだった。禅は禅、技は技、ばらばらである。自己の一体に溶けて一つの力となって生命の泉を滾々と音立てて湧かして来ない。──むしろその技すら徒に伸びなくなるばかりだった。 「…………」  黙々と、村を通ると、村の人々は争って、路傍に屈んだ。野を通れば、野の百姓たちは、土に坐って、彼の姿に礼をした。 「みな父の遺徳、祖先の恩沢だ。……わしはまだわしとして、真に、領民から土下座をうけるほどな何事も為していない」  彼はむしろ恥かしかった。  しかも彼のすがたは、よほど年老った百姓でなければ、 「御領主様……」  とは囁かなかった。実に、質素な身なりであった。木綿と藁草履と、一がいの笠しか飾っていない。  やがて、宝蔵院の寺内へかかった。  ここの寺も、住持が変り者なので、ひどく虚飾がない。がらんとして巨大な空洞のようである。  青銅の訪鉦が下がっている。備えつけの撞木でたたく。 「おうっ」  と、井戸の底から答えるように、黒衣の坊主がのしのしと出てくる。この僧も、柳生の城主の顔を知らない。  突っ立ったまま、見下ろして訊ねた。 「誰だ。武者修行か。……近国の郷士か」 求道の門 一 「──いや、遊歴の者ではない。自分は柳生宗厳でござる。胤栄どの在院なればお目にかかりたいが」  取次の法師の無礼を咎めないのみか、宗厳は、丁寧すぎるくらい、慇懃に云った。  しかも彼の気持は、極めて自然であった。  これへ来るまでのあいだに、宗厳の心は、自分が柳生城の主であるというような日頃の習慣や気位はとうに振りすてていた。道を求めて熄まないものだけが胸を占めていた。同時に身は出家にひとしい謙虚になっていた。 「あっ、宗厳様で」  突っ立っていた法師は、あわてて畏まった。知らぬがための非礼をくどく詫びて、舞い込むように奥へかくれた。 「どうなされたのです」  代って、胤栄が笑いながら姿を見せた。親しいうちにも、貴人を迎える如く鄭重に、自身案内に立って、宝蔵院の一間に招じた。 「寔に唐突だが、当寺の客、伊勢守どのには、まだ御逗留であろうか」 「御滞在でござるが、何か……?」 「されば、貴僧を通じて、お願いの儀があって参ったが」 「先日、伊勢どのから足を運ばれて、もう御昵懇のあいだだから、何も御遠慮には及びますまい。──御自身、おはなしなされてはどうです」 「いや一応、御内意を質して欲しい」 「よほど何か重大な儀でも」 「されば。この宗厳にとって、生死に関わる問題です」 「生死に」  動じない胤栄も、すこし眼をみはった。  長い交友なので、宗厳の人がらはよく知っている。かりそめにも衒気や大袈裟を云わない人である。その宗厳がきょうは沈痛な面もちで、  ──生死の問題  と云ったので、胤栄も驚いたのである。 「ほかの儀ではないが」  と、宗厳は、伊勢守に出会って後、またその前からも抱いていた苦悶を、何の見得もなく打明けた。 「──要するに、自分は自分に対して、日頃から不満でならない。未熟を知っている。多分な疑いを抱いている。まだ一日として、これでよいと、自分で安んじたことはない」  宗厳は、云うのであった。 「しかし人は、この身をさして、新当流の奥儀に達した者とかいう。畿内第一の剣であるなどとも噂する。いよいよもって恥かしい。何ぞ知ろうわし自身は、ここ数年前から、殆ど、壁に頭を打ちつけたように、道も悟れず、技も進まず、ただ昏迷があるばかりだ。時にはつかれ、時には諦めの嘆息が出て、剣も捨ててしまいたくなる。──かくまで喘ぎつめてきた剣の道、それはもうわしの生命だ、それを捨てて、宗厳の生はない」 「…………」  胤栄は耳をすましていた。  時には、怪しむように、宗厳の面を凝視したが、また、頷いては聞き入った。  道を求める熾烈な人のすがたは、路傍の眼から見れば、狂人かと疑われさえするものである。しかし宝蔵院胤栄には解る。胤栄も道の人である。同情せずにはいられなかった。 「それにしても、余りな御卑下。いかに自省のお強い性質とはいえ」  と、彼は心のうちで呟いた。  宗厳は、ことばを続けて、 「つい、他事のみ申し上げたが、そうした自分の衷心です。……実は一昨日、伊勢守どのに拝顔の折、よほどお打明けして、と存じたが、貴僧にこう申すようには云えぬのでござった。──小城ではあるが、柳生ノ庄の主として、あの城に坐しておることが、もういけないのです。今日は改めて、ただ一介の修行中の者として出直して来た次第。願わくば伊勢守どのへお通じ下されて、ひと手、御指南にあずかり申したい」  と、云った。彼は、そう云い終ると、胤栄に対して、両手をついた。 二  渡り縁をこえた宝蔵坊の一棟に、上泉伊勢守は、もうだいぶ長いこと逗留している。  甥の疋田文五郎と、高弟の鈴木意伯をつれて、今、裏門のほうからそこへ帰って来た。 「御見物でございましたか」 「おう、御住職か。あまり麗らかさに、春日の御社まで詣って来た」 「実は、お待ちしているお方がございます」 「どなたかの」 「柳生殿でござります」 「何、宗厳どのが。……それはまた思わぬ失礼を。いざ、お迎え下さい」 「いや、きょうのお越しは、そうした徒然のお訪ねではなく、実は必死なお気もちでお出でなされました」 「必死とな」 「実は、かような次第です」  胤栄は、板縁へ坐ったまま、宗厳の気もちと望みとを、つぶさに話した。  伊勢守は、縁の陽なたに腰かけたまま、聞いていた。いつのまにか、眼をふさいでいる。やがて、その眼をひらいて、胤栄を振向くと云った。 「近ごろ殊勝な人に出会うた。いかにもお望みにまかせよう。……しかし此方が観た眼も、世間のうわさに違わず、すでに柳生殿には、一流に達しておられるお方、この伊勢守に御指南するほどな力があるや否や疑わしいゆえ、仕合とあれば、承知いたしたとお告げ下さい」 「ありがとう存じます」  胤栄は、静かに、退がって行った。  しばらくすると、再び姿を見せて、 「御斟酌の儀、柳生殿にも、御承知のうえで、先へ、道場へ通ってお待ちなされております。おさしつかえなくば」  胤栄が、促すと、 「おう、すぐ参ろう」と腰を上げながら、伊勢守は、意伯と文五郎を振向いて云いのこした。 「明日は、当寺をお暇する。そち達はこれにおって、何かと旅行李の物など、取りまとめておくがよい」  伊勢守が立つと、胤栄は長い廊下を導きながら、今のことばを質した。 「どうしても明日は、御発足でございますかな」 「はからず長いことお世話になった」 「奈良から何処へおまわりですか」 「四国を経、九州へ渡ろうと思う」 「何やらお名残惜しいことで」  云ううちに、もう道場の床が見えた。寺院造りの太い丸柱のある広床は、講堂と云ったほうがよいかも知れぬ。  南都宝蔵坊の槍の道場といえば有名である。現住持の覚禅法師胤栄の槍も共に宇内に鳴っている。後に新井白石が本朝軍器考に誌すところの鎌槍──素槍に鎌を付けた工夫は、胤栄が晩年の発現といわれているから、伊勢守が同寺を訪れた頃は、まだそういう特色までは持っていなかったのであろう。  けれど毎日のように、ここの床を訪れて来る遠来の修行者と在住の法師たちとの間で、激しい仕合が行われていた。南都の僧俗にも稽古をうけに通って来る者が多かった。  つい先刻までは、その人々の鋭い気合だの、床を踏み鳴らす響きがしていたが、今来てみると、みな追い返したのか、寂として人影もない、また足脂に磨かれた広い板敷にも、塵ひとつ見えず、ただ何処からか映す春の陽が長閑に斜影をながしている。 「お。これは」  伊勢守は、そこにただひとりで坐っている宗厳のすがたを見ると、自分もひたと坐って、礼儀をした。  宗厳も、遠くから頭をさげた。  軽い挨拶がすむと、上泉伊勢守から起って、物腰しずかに、 「では」  と、支度をうながした。 三  木剣と木剣である。木剣はすでに真剣にひとしい。それが仕合を約して立ち対った際はなおそうである。打ち所が悪ければ死にもする。腕を折られ、脚を挫き、生涯の不具者となる例などはめずらしくない。  危険に対して何ら約束のない仕合。それがその頃の仕合だった。 「…………」  伊勢守は、まず宗厳が、どの程度に、身を捨ててかかっているか。それを木剣のさきから観るような眼ざしであった。  かりそめにも宗厳は一城の主である。多くの眷族も養っている当主だ。必死と口にはいうものの、どれほどに、その身分や俗念が捨てきれているか? 「……これは」  伊勢守のひとみが革まった。  彼は宗厳を、自分の想像していた以上に見直したらしい。きょうは生死の問題だと云ったという、最前胤栄から聞いたことばを思い出して、 「さもあろうか」  と、うなずいた。  動かない。  一方は山の如く、一方は水のように、木剣と木剣とは、ひそとしたまま動かないのである。  ただ刻々と、宗厳の形相が蒼白く硬ばって来た。毛髪のすべてが気息に喘ぎ出したように見える。  宗厳はそうした丹田のそこで、 「何ほどのことが」  と、気をもって、まず伊勢守を圧しようとした。  彼は無数の剣者を、きょうまでは、およそその気をもって圧伏し得た。剣はその後に加える勝利の形を取るものにすぎなかった。  ──が、きょうの相手は、如何ともすることができなかった。まるで無反応な存在である。山へ向って声を張るように、気ばかり渇れてしまうのだった。 「彼も人! われも人!」  肚の底で喚いてみた。が、そんな空しい相対性の観念を奮ってみても何のかいもない。いたずらに毛の根が汗ばむばかりだった。  猛鷲が蒐るように、宗厳はいきなり跳びついた。理念をふみ超えた一瞬の捨身である。床板が踏み抜けるように鳴った。ふたつの体のうごきが一渦の旋風とも見えたせつな、  ──戛っ。ぱツん!  二断に異様なひびきがした。  宗厳の木剣は打落されていたのである。  そして宗厳は、茫然と立っていた。 「おそれいりました」  坐って、両手をつかえると、しばらくは胸を正せなかった。肩で大きく息をしていた。  伊勢守も静かに坐って、 「失礼いたした」  心もちにこやかに顔を和ませて云う。宗厳は、その変らないすがたを仰ぐと、心の底から、 「無念な」  と、思った。  敵に怨みをふくむような小さい歪んだ憤念ではない。自分の未熟に対する憤りだった。  ──彼も人、われも人。  と思い較ぶるところから沸く無念である。自分へ責めそそぐ悲涙であった。 四 「席を改めて、お詫び申そう。何かと、一昨日のお名残もござれば」  伊勢守が起つと、胤栄も、惨たる面持して、気の毒そうに、 「いかがですか。奥へお越しになって、御悠りと遊ばしませぬか」  と、云い添えた。  さし俯向いていた宗厳は、 「いや、きょうはこれでお暇いたしたい。ただ上泉殿へお願いがござる。明日またお訪ね申しますゆえ、もう一度、お仕合くださいますまいか」 「折角のお望みながら、明日は早、当寺を辞して、旅の先へ立つつもりですが」 「えっ、明日、御出発とな……」  落胆したように、宗厳は云ったが、では早暁にでも出直して来るゆえ、ぜひぜひ、出立の間際でも、もう一度、仕合ってもらいたいと口を極めて頼んだ。 「それまでに仰せあるものを、無碍にお別れもなるまい。然らば左様に早朝でなくても、お待ち申していましょう」  伊勢守は、約束を承諾してくれた。 「どうして敗れた」  宗厳は、一夜を工夫に凝して、次の日また柳生ノ庄から宝蔵坊まで歩いた。  そして望みどおり立合ったが、殆どきのうと同じような負け方をした。  どう思ったか、伊勢守は、どうせのこと、もう一日滞在を延ばそうから、明日さらに一回、仕合してみようと、彼の方から云った。 「願うてもないこと」  と、宗厳は次の日は、さらに、思念に思念を凝らし、彼の前に立った。  ところが、その三回目の勝負も、無残に敗北してしまった。  しかも三日が三日とも、同じ負け方の下に敗れたのである。心外も無念も二日目までだった。最後の一敗をうけた時は、かえって何か痛烈な爽快さを覚えた。 「この人に敗れたのは当然だ」  伊勢守に対する欽仰の念が、彼の小我や妄念のすべてを解決したのである。──潔く、彼は伊勢守に入門を乞うた。 「お心根を見とどけた。不肖ながらお手を取って進ぜよう」  伊勢守は、九州へ立つ日取を遽に変更して、柳生城へ臨んだ。  柳生城では、元より師として、朝夕の礼をうけ、本丸の一棟に住んでいた。後に、彼の起臥の跡というので「新陰堂」と名づけられた建物である。  春の頃から秋まで、およそ半年の滞在だった。  その間に、疋田文五郎は、暇をもらって、ひとり廻国に出た。後に疋田陰流を創始して、栖雲斎と号し、伊勢守の門を出た者として、また伊勢守の甥としても、名を辱めなかった。  宗厳も、刻苦した。 「長い御縁の望まれぬ師」  と思えば、なおさら、伊勢守の一言半句も、一挙一動も、あだには接していられなかった。 五  朝、昼、夜、時も選ばず師事し研鑚した。また伊勢守もまた、訓えを惜しまなかった。  天地に秋の声を聴くと、一日、伊勢守は宗厳を室に招いて、 「もうよいでしょう。お別れしたい」  と、云った。  そして、別れるに臨んで、最後のことばとして訓えた。 「宝蔵坊へ三日お通いになって三日ともあなたが敗れた。その以後も、ただの一回も、この伊勢守に、あなたの木剣が触れたということはない。……これは何故か。お考えつかれたか」 「わかりません。ただ到らざるを知るだけです。──それは理法に依りましょうや、技に依りましょうか」 「理も技も超えたものです。理と考えれば、理念にとらわれ、技と考えれば、体にとらわれる。いったい人間の真体というものは、それ二つしかないものでしょうか。……否とはすぐにお気づきになろう。然らば、理にあらず、技にもあらぬ体は何か」 「…………」 「実はの」  伊勢守の語気も熱した。 「こうは申しながら、此方自身もまだ、容易にそこの会得はなり難ておる。ただ伊勢守として、信念いたしておるところは、無刀、その二字が極意です」 「無刀。──無刀の極意とは」 「医術の究明は、医術の無用になることを以て目標とし、法令の要旨は、法令の無き世を創つるにあり、兵馬の理想は、兵馬なき平和を招来するにある。──剣は、殺人をもって大願とせず、剣はまた、剣を帯ぶるがために、剣禍にも会う」  宗厳は、頭を垂れて、心に銘じていた。 「なぜ、あなたは、この伊勢守にどうしても勝てないか。理は簡単である。あなたは剣を持ってかかる。常に常に、剣に恃み剣に迷い剣に執着しておられる。それに反して、伊勢守はとくより剣を捨てておる。剣は持てど、剣に恃まず、剣に妄執せず、無刀の心をもって、体としておる。……いや理も体も超え、剣をすらあるとも思わず対しているのです」 「……あっ」  微かに、声を放って、宗厳はそれと共に、眸をあげた。  師と自分との、今までの距離が、心態の相違が、はっきりと心に見えた眸であった。  伊勢守は、なお語をつづけて、 「──が、それにしても、此方の申したことは、多年の体験と感得からつかみ得た単純な道理にすぎない。まだ、その理法を明らかにし、それを基本として一流の兵法を構成するまでには至っていない。それがしはすでに老年のこと、あなたはなお春秋に富む身、どうかそれを研鑚し、完成して、あなた独自の一流を興して下さい。──そこを闡明して天下を益してくれるほどな人は、御身を措いて他にはない。伊勢守は、実は非常なよろこびを以て、この半歳を送っていたのでござる。──わたくしからかくの通りお願いする」  伊勢守は、そう告げ終ると、門人たる宗厳へ、心から頭をさげた。 「三年後に、もう一度、お訪ねする」  次の日。  伊勢守はそう約束して立った。中国から九州路への遊歴に。 「三年後の仕合には」  と、宗厳は、ひそかに自分へも誓った。そのあいだの彼のすさまじい修行の辛苦と克己とはいうまでもない。彼の位置が、何不自由ない一城の主の身であるだけに、その苦しみは、自ら求めて苦しまなければ、享けられない苦しみだった。  苦しみのない修行などはあり得ない。  苦しみに迫られて、やむを得ずする苦しみと、進んで苦しみを求める心とは、大きな相違がある。  彼は、それに克った。  永禄八年の初夏、伊勢守がふたたび訪れた時、それは実証された。 「こうもお違いになったか」  伊勢守は嘆賞して、 「おそらく、自分の眼界では、今はあなたに勝る人はあるまい。天下無双の剣といってもよいでしょう。爾今は、あなた独自の一流をもって柳生流と称されるがよい」  と、云った。  同時に、一国一人に限るとしてある新陰流の正統の印可と共に、伊勢守が旅すがら描いた絵目録をも添えて授けた。  絵目録の末巻には、伊勢守が筆をとって、その旨を誌し、永禄八年卯月の月日をも追記した。 石のふね 一  天はふたつを与えない。  彼の十数年にも亙る刻苦精神が実をむすんで、心、体、理の基本を一系に統合し、ここに、柳生新陰流──なるものの大成もほぼ完うされたかと思われる頃、 「ああ。世も変った」  と、大和の一角から天下の推移に眼をうつすと、思い半ばに過ぐるものがあった。  彼が一度は扶持をうけて合力もした松永久秀は亡び、続いて、足利義昭も滅亡を遂げている。さらに、それらの旧勢力を一掃して、革新陣の先頭にあった織田信長も、本能寺一夜の兵燹裡に歿し去っている。 「いや、変ったのは、世の中ばかりではなかった……」  今さらのように、宗厳は、自分の身のまわりを顧みた。  住居は、依然として、柳生ノ庄の元の位置にあったが、彼の所領は、もう彼の手を離れて、領主の名は変っていた。  一家一族は、ここ数年、禄を離れ、放浪せざる牢人の境遇であった。 「これで三度か」  宗厳は苦笑して、自ら嘲った。  筒井順昭に敗れた時、一度、領地を失い、足利家没落と共に、二度、所領を没収された。  その後、大和に在りながら、九州の大友宗麟に属して、金子で三千石の扶持を送られてたが、その大友家が島津氏に侵略されてからは、仕送りも途断えていた。  のみならず、わずかな衣食の糧と恃む所領も、大和大納言秀長がこの地に来てから没収されて、まったく無領の一郷士にまで成下がってしまったのである。──幸いにも、祖先以来の砦の山は、邸内といえるので、藪を伐り林を拓いて、家族召使もみな鋤鍬を持ち、自分で耕して自分で喰う──自給自足を辛くも生活として今をしのいでいる有様であった。 「思えば気の毒な──」  と、宗厳は、わが身を憐れむより、まず家族が愍れまれた。家族を愍れむよりは、多くの家士を不愍に思った。  三度も領地を失っているので、その間に、自ら家臣も減り、また他へ仕官を求めて去った家士もあるが、今もなお、 「御主君が鍬を持つなら鍬を持って。御主君が肥桶をかつぐなら自分らも肥桶をかつぎ。──たとえ、稗を喰っても!」  と、踏み止まっている家中も多いのである。そうした不平も鳴らさない家士たちを見ると、宗厳は眼を熱くして、 「──何の徳もない自分に」  と、主人たる自分の不才が、独り責められもして、 「済まない」  と、心のうちで掌をあわせた。  慶長元年。  ことし柳生石舟斎宗厳は、六十八歳。  わが鬢髪の霜に気づいて、彼が見まわした彼の境遇はそんな中にあったのである。 兵法の舵をとりても 世のなみを 渡りかねたる 石の舟かも  処世の如才に欠けている自分の──いわゆる世渡り下手を喞って、彼はこんな歌を詠んだ。  石舟斎という号も、おそらくはそんな自嘲をもって──或いは超然たる自負心をもって、──その時代から自身の称としたのではあるまいか。自分の愚を、浮かぬ石舟となぞらえて、自嘲した和歌の作はもう一首みえる。 兵法は 沈みてあるぞ尊けれ 千代のながれに 朽ちぬ石ふね 二  七月。山城の国を中心に、大地震があった。  伏見の都市は、もっとも被害が多かったので、伏見の大地震といわれている。  もちろん大和も相当に震れた。  七、八百年も前から祖先代々住み古している柳生城の石垣なども、至るところ崩壊して、土の肌をむき出していた。  農家も傾いでいる屋根が多い。秋も近く、百姓はたださえ忙しいのに、各〻の家のことも措いて、 「お陣屋の石垣から先に」  と、その修築に集まって来た。  領主の資格がなくなってからでも、柳生城の周りの百姓たちは、石舟斎を見かけると、 「御領主さまが」  と、単なる口ぐせではなく、心からなついて、以前と少しも変るふうが見えなかった。  石舟斎も、子どもや孫どもを従えて、自身、諸所の崖くずれや仆れた門の修築を指図し、また自身手をくだして、泥まみれに働いていた。 「お年をめした大殿様が、わしらの手で足る土仕事を、あのようにまでなされないでも」  と、百姓たちは、家士を通じて、幾たびも、石舟斎が草鞋など召さないようにと願ったが、石舟斎は笑って、 「とんでもないことだ、それは百姓どもへ対して、わしの方から申すことばだ。百姓たちは、田にあって働ければ、五穀を産む手をもっておるのに、その暇をつぶして、わしの如き、無禄の隠士の住居を繕すに集まって来てくれておる。──勿体ないことである。何で、わしが安閑としていてよいものか」  そう云って、 「孫よ。土を担げ。──土を担ぐも兵法であるぞ。──五郎右衛門と宗矩とは、その石垣の崩れに石を積め。──石を積むは、智を積むのだぞ、智を積むのは、手でないぞ、頭で積むのだぞ」  と、従えている子息や孫たちを指揮し、その労働のあいだにも、何ものか、学ぶものを得させようとして訓えていた。  家士も日頃から百姓仕事には馴れている。主従は一体となって汗と土にまみれ、明るい初秋の陽の下に、勇壮な鍬の音、土の音などが、掛声の中に揚っていた。  ばらばらっと、大手の坂の下から、やはり野良仕度の家士のひとりが駈け上って来て、 「甲斐守様がお越しになりました。──黒田甲斐守様が、ほんのお身軽で」  と、あわただしく告げた。  石舟斎は、鍬の柄を立てて、 「なに、長政殿が」  と、坂下へ目をやった。  馬を家臣の手にあずけ、ただ一名で、もうこれへ登って来る人が見える。黒田甲斐守長政の姿であった。 三  長政は、黒田如水の嫡男であった。  彼はまだ若い。しかし父官兵衛孝高が早くも薙髪して、その封土豊前十六万石の家督を譲っているので、長政は若くしてすでに一城の主であり、京大坂にあっては、錚々たる若手の武将だった。 「やあ、老先生。えらい姿でお働きですな。この辺の地震の被害も、思ったより大きいので、道々、驚いて参りました」  長政は、師礼を執って、石舟斎の前に、こう挨拶した。  石舟斎は、木陰の床几へ、彼を招じ、自分も一憩みと腰かけて、 「いつもお身軽ではあるが、今日はまた、何事で?」  と、来意をたずねた。  双方、気軽な応対のうちに、親しみがある、情味が見える。石舟斎は、長政の恩師であり、長政は、石舟斎の愛弟子だった。  多年、剣の究明に没入して、世事をかえりみなかったために、石舟斎は領地をも失ったが、その代りに心には不動の光明を点じ、周囲にはいつとなく有為な弟子が多く集まっていた。  長政もその一人だった。父の如水と石舟斎とは茶禅の相識であった関係から、もっとも早く入門して、在京中は月に幾度となく騎馬でこの山荘まで通って来て、技を磨き、道をたずね、心法の鍛錬をうけていた。 「いや実は、老先生を世の中へ引出す大役を帯びて、徳川殿にも、必ずお連れして参ると、堅い約束をして罷り越したわけです。──老先生、長政がお供仕ります。枉げても、一度お会い下さい」 「誰とな?」 「徳川殿と」 「家康公へお目にかかって、どういうはなしをせいと仰せか」 「いえ、ただ一度会いたいと御意されておるだけのことです」 「天下多事の際、徳川殿ともあろう忙しいお方が」 「何の、多事なればこそです。──世は挙げて、老先生のような人材を求めている秋なのです」 「石の舟は石の舟、不器用が生れ性だ。沈んだが最期浮び出る気もない。──石舟斎には左様な御推挙無用でござる」 「強いて御推挙するつもりでもありませんでしたが、自然、武芸のはなしとなれば、老先生のおうわさに及び、長政のみならず、大徳寺の和尚も、その他の人々も、天下の剣道の名人といえば、上泉伊勢守亡きのちは、柳生の老龍以外にはないと──これは、吾々が推挙までもなく、世の名声というもので、徳川殿にも夙に聞かれておいでなされます」 「…………」 「で。それがしに対し、また父の如水に対しても、再三の御懇望なのでござる。──ぜひ一度、召連れて参るようにと」 「…………」 「折ふしこの度は、大坂城、聚楽、洛内などの、地震御見舞として、関東より上られ、ここしばらく、京都紫竹村の鷹ヶ峰に、王城御警固の任につかれ、野津の仮屋におられましたが、いよいよ、近日には関東へお帰りとあって、一しお御催促が急なのでござりまする。──枉げて、御苦労には存じますが、京都までお運び下さいますよう。長政の面目も立ちまする。かくの通り、おねがい申しあげます」 「…………」  老龍──柳生谷の老龍──近ごろ誰となく宗厳のことを世人はそうよんでいる。深淵の潜龍という意味か、蛟龍の池にひそむは伸びんがためというところか、とにかくそう称されている彼は、 「……さて」と、口のうちで呟いたまま、久しい間、秋の空に眼を放ったまま、考えこんでいる面持であった。  その眼を、ふと地に落すと、そこには土けむりを浴びて、哀れな家士や孫たちが、汗みどろに働いていた。彼の眸は、不愍にうごかされた。涙を溜めないばかりであった。 「長政どの」 「はっ」 「参ろう。すぐお供申そう」 「えっ。では、お越し下さいますとな」 「ただし、嫡子五郎右衛門と宗矩の両名に、もう一名孫の兵庫利厳を連れて参りたいが、どうあろうか」 「願うてもないことです。御子息、お孫たちまで、みな老先生をしのぐ俊才と、徳川殿もよくおうわさのことゆえ、お伴れ立ってあれば、徳川殿にもいっそうお欣びでございましょう」 「では、直ぐにも」と、心を極めると、悠長に構えたり、徒に勿体ぶっている石舟斎ではなかった。 「おうい。五郎右衛門、宗矩もこれへ来い。……孫はおらぬか、兵庫も呼べ」  と、自身さしまねいて、伴れてゆく若者たちを、土けむりの群れの中から呼び出した。 四 「何ですか。父上」 「祖父様。およびでございます」  名をさされた若者たちは、忽ち彼の前へ駆けて来て並んだ。どれもこれも土くさい百姓のように日焦けしているが、さすがにその態度や眼ざしには、老龍の子とも鳳凰の雛とも見える気稟を備えていた。  ──四男の五郎右衛門が、その時二十八歳。  ──五男宗矩は二十六歳。  そして、孫の兵庫利厳が、まだ十六歳だった。 「支度せい。これよりわしと共に、長政殿の案内で、京都にある徳川公の御陣所まで罷り出る。──各〻、手足を洗うて、厩の馬に鞍をつけ、先に坂下の門まで出ておるがよい」  いい渡すと、 「暫時、失礼を」  と、石舟斎は、自分も身支度のため、館のうちへ入って行った。 五  彼は、子福者のほうであった。  由利女と結婚したのが早かったせいもあろうが、男女十一人の子と、三人の孫とがあった。  だが、現在、男子で健康なのは、四男五郎右衛門と、五男の宗矩、そして孫の兵庫ぐらいしかなかった。  長男新次郎厳勝も、衆にすぐれた若者だったが、備前の浮田家に仕え、十六歳の初陣に鉄砲で腰を打たれ、不具の身となってから、柳生に帰って引籠ったままである。  孫の兵庫は、その子である。  また。  次男は久斎といって、早くから沙門に入り、三男の徳斎も病身で仏門に帰依していた。 「娘どもには苦労はない。……女子は産み捨て」  と、石舟斎はいつも笑った。その半面には、いかに男の子や孫たちには、彼が人知れず育成の丹精をこめているか、世に送り出す苦労をしているか、思いやらるるものがあった。 「そちたちは、石の舟ではならぬ」  どうかして、晩酌の室に、子や孫たちを集めて、微酔のことばで戯れなどする折、戯れのうちにも、石舟斎は訓えていた。 「わしが石の舟となったのは、わしが生い立頃から近年にいたるまで、世は乱麻のごとく、武門の道も、生きる道も、洪水のような濁流に侵され、正しく道をとろうにも、正しく進めず、正義にあろうとすれば、滅亡か餓死しかないような時代であったからである。──いわばこの石の舟は、洪水の濁流に、狡く韜晦して来たのじゃ。かくせねば、とうに柳生家そのものは、水泡の如く、亡び去っていたかもしれぬ。……いや七百年来のわが家も、この辺りのすでに亡き土豪の如く、過去の土中へ葬られ去ったにちがいない。石の舟なればこそ、貧しくとも、今なお、有る所にこうして有ることができたのじゃ。……柳生城この山に、消えずにあるこの団欒の燈火は、わしの眼には、むしろ奇蹟とも見える」  そういう述懐をしたことがある。  宗矩も五郎右衛門も、頭を垂れて、聞き入っていた。──わけて多感な兵庫利厳などは、 「祖父様は、お辛かったでしょう。口惜しいことが、幾度もあったでしょうね」  と、幼い胸にも、祖父の忍苦の生涯を思いやって、すすり泣きをし始めた。 「兵庫は、たのもしいやつ」  孫は可愛いいものという。老龍石舟斎も、眼のうちにも入れたそうな程、兵庫は愛していた。  しかし、盲愛ではなかった。  兵庫の天稟の才を愛したのである。事実、十六歳の兵庫は、すでに、叔父の五郎右衛門や宗矩をしのぐものがあった。  とはいえ、その五郎右衛門といい、宗矩といい、おそらく畿内の剣人では、比肩し得る者はなかった。 「もう何処へ出しても、独り歩きはできる者達よ」  と、石舟斎は、当人にも、他人にも、許してそう語っていた。  ──が、世間の真ん中へ連れて行くことは、恐らくその日が初めてといっていい。しかも、征韓の大役にかかってからとみに落陽寂寞の感ある大坂城の老太閤に比して、今や次の時代を負う人と目されている徳川家康の前へ出るなど、余りにも、この山の子らには、唐突な曠がましさであったに違いない。 六 「支度はよいか」  一蓋の陣笠を手に、老龍はもう身支度をして出て来た。 「祖父様。こちらです、こちらです」  遙か、坂下の大手門のそばで、孫の兵庫が手招きしていた。石舟斎は、自分の早支度をひそかに誇っていたらしいが、 「やっ、もう出おるか、さすがに、若者どもの早さよ。そうなくてはならぬ」  と、負けたのを欣ばしげに、足を早めて降りて行った。  馬の口輪は兵庫が把る。  石舟斎は、それに乗った。二人の子は、徒歩である。  案内役の黒田長政は、 「どうぞ御子息方にも、お馬に召されますように」  と、謙遜して、騎馬をすすめたが、 「いや、若い者には鉄脚がある。──いざ参ろう。御案内へ、先へ立たれい」  坂の途中の石垣の土煙はその時熄んで、秋の大気は澄んでいた。汗をふき、鍬の手を止め、百姓たちは、廬を出る老龍と、伴われてゆく鳳雛のすがたとを、見送っていた。── 「ああ、こうしてみると、大殿もお年を召したはず、若様にもお孫様にも、いつしかお立派な骨柄になられた……」  じっと、立ち並んで、目礼を送っている家士たちの眸には、涙があふれかけていた。 一剣治天下 一  近くの地には、紫野の大徳寺とか、その他、宿舎として恰好な建物がないではないが、家康はわざと鷹ヶ峰の麓に野陣を布いて、将士と共に野営していた。  こんどの大地震には、御所の築地も大破して、内裏の方々さえ幾夜か夜露の外に明かされたと聞えているほどなので、地震御見舞として上洛した家康のそうした慎みは、当然でもあった。  洛内守護の任を果し、併せて伏見城に秀吉の安否を見舞って、彼は近く関東に帰る予定であったが、なお、ここに野陣している間も、 「すべて戦時下の心得であること」  を、陣中の法規として、自身も日中は物具すら解かなかった。  日盛りの木陰に、軍馬も懶げに瞼をふさいでいた。蝉しぐれは、耳を聾するばかりである。 「やれやれようやく辿り着きました。老先生、どうか駒を降りて、暫時、木陰でお涼みください」  黒田長政は、そう云って、陣門の傍らに師の馬を曳きよせた。  石舟斎は、鞍の上からそっと降りた。従いて来た四男の五郎右衛門、五男の宗矩、孫の兵庫の三人は、 「おつかれでございましょう」  と、各〻、側へ寄って、老体の石舟斎を劬った。  長政は、その間に、 「すぐ戻って参りますから」  と、断って、陣中へはいって行った。もちろん家康へ取次ぐためであった。  間もなく引っ返して来ると、 「どうぞ」  と、改めて、長政は自身、案内役に立って、柳生家の人々を、営内へ導いた。  木陰木陰に幕舎がある。整然とした中にも、将士の笑いさざめきなどが洩れてくる──家康のいる仮屋は、林の小道をだいぶ歩いてからであった。翠を映して、葵の紋幕が、涼やかにうごいている。  鷹ヶ峰から落ちてくる水音がせんかんと耳を洗う。林間の一茶亭には、釜がかかっていた。その辺りのたたずまいでは、今し方まで、家康の主従と、大徳寺の僧などが、そこで茶を喫していたらしく思える。 「すぐにと、お仮屋の方で、お待ちうけになられていますが、お急ぎにはあたりません。それなる清流でゆるゆる汗をお拭い遊ばした上で、お支度もととのえ、それからお目通りなされたがよいでしょう」  長政は、士卒にいいつけて、小桶やら手拭などを、流れの側に運ばせた。 「──何事も其許任せに」  と云わぬばかり、石舟斎はうなずいて、彼のいうがままに、そこで顔の汗塩を洗い、手足をそそぎ、刀の笄を抜いて、孫の兵庫の髪まで撫でつけてやった。 「祖父様のお髷もすこし直しましょう」  と、兵庫は、笄を取って、石舟斎のうしろに廻った。  兄の五郎右衛門はまた、弟の袴腰をうしろから締め直してやっている。──こうした些事は日常の家庭で繰返している生活の断片にすぎないが、この林間に切離して見ていると、日頃の家風も偲ばれて、美しくもあり床しい情景でもあった。 「お支度はおよろしゅうございますか」  長政も一休みして、物陰から立出て来ると、石舟斎は礼儀を施して、 「お待たせいたした。御厄介ながら」  と、案内を乞うた。  そしてふと、もう一度、子や孫たちの姿を振顧ったが、五郎右衛門の顔いろが何となく蒼白く見えたので、 「そちは昨夜、充分に睡りをとらなかったとみえるな」  と、訊ねた。  五郎右衛門は、はいと頷いて、 「旅籠の蚤や蚊が気になって、まじまじと眼ばかり冴え、明け方になってすこしばかり眠っただけでした」  と、有りのままに答えると、石舟斎は袂から少量の紅殻をふくませた打粉を取出して、 「貴人の前へ出るに、そのような憔悴した面をもって、お目通りに伺うものではない。病者かと御覧ぜられるだけでも御不快であろう。これで程よく頬を刷いて、不つつかのなきように心を慥乎と持てよ」  と、訓えた。 二  仮屋と云っても、二の間三の間もある。わけて主室はかなり広い。  涼やかな藺筵が敷いてある。大名らしい客が二、三名、ほかに天海とよぶ僧、大徳寺の和尚などが座にあった。武将は各〻武装しているが、座談は至極気らくらしい趣であった。  柳生谷に古い豪族ではあるが、今は無禄の郷士にすぎない。当然、柳生父子は庭へまわって、地上に座を占めた。そして奥まった仮屋の一室に聞える人々の気配をそれと察して、両手をついて控えていた。──石舟斎、五郎右衛門、宗矩、兵庫という順に。  つかつかと奥から跫音が渡って来た。簀子縁から降りて、床几を持てとその人はあたりの者にいいつけている。それが家康であった。 「はっ。これへ」  と、近侍が彼のみへ、一つの床几を置くと、家康はなお、腰をおろさず、 「老体へもお席をさしあげい」  と、云った。  近侍は恐縮して、あわててもう一つの床几を、石舟斎の方にすえた。石舟斎は、 「畏れ多いお扱い」  と、固辞して、容易にそれへ着かなかった。  彼は、自分を迎える家康の厚い好遇に、年のせいか、涙もろい瞼の熱きをまず覚えた。六十八歳の今日まで、世が彼に遇して来たものは、白眼か、策謀か、利用か、酷薄か、いずれにしてもかくの如く温かなものには絶えて遇った例がない。  家康の心を酌むならば。  室には格式のうるさい僧侶や大名などもいるので、無名の一郷族を、座へ招じることはできないし、と云って、長政を使いとして、自身から迎えた客なので、礼も執らねばならない。──そう考えて自分から室を下り、石舟斎にも床几をすすめて、主客対等に話そうとする心もちが、云わでも、石舟斎にはよく酌み取れたのである。 「老人、遠慮は無用じゃ、床几へお倚りあれ。室内よりは、ここの木陰のほうが、むしろ清涼、ゆるりと語り申そう。──長政、老人へ床几をすすめてつかわさぬか」 「はっ。……老先生、あのように仰せられます。頂戴なされてはいかがでございますか」 「では、おことばに甘えるかの」  石舟斎は、ようやく、起って腰をうつした。  家康も剣道は学んだ。また、幾多の達人と称する者を見ている。  その眼と体験から見れば、石舟斎の何らの覇気も衒気もない、淡々たる朴醇な風は、これが上泉伊勢守なき後の宇内の名人かと疑われるほどであった。  が、さすがに家康は、 「これでこそ、真の名人」と、むしろその覇気のない姿に傾倒した。 「使いをもって、遠路、老体をわずらわしたが、実を申せば、江戸にある嫡子秀忠に、剣の良師を求めておる。早速であるが、徳川家に随身の意志はないか。それが問いたいのじゃ。もっとも長政を通じて、先に、余り気のすすまぬようなことは聞いておるが、もいちど、念のために……。どうであるな?」  家康は率直に、求めるところを云い出した。  それに対して、石舟斎は、心から頭をさげた。大きな知己の言として、感謝の色を満面にあらわして答えた。 「まことに忝いお言葉にござりますが、この老骨は、すでに御奉公申しても、御奉公のかいなき老朽に過ぎませぬ。また、物事にはや懶いくせがつき初めて、仕官の意志だに燃え立ちません。──が、願わくば、これに連れ参りました二人の男の子と、一名の孫のうちに、万一お眼鑑にかなう者がござりましたら、お取立て下されますように。実は、わたくしの方よりその儀お願いのために、このたびは進んで長政殿の御案内に従いて来た次第にござりまする」  すでに自分の老い先と命を自覚している石舟斎は、この雛鳥の孫や子を如何にもして世に出したいと思っていたに違いない。今、彼が家康に陳べたことばは、何のかざりも誇言もなく、平凡な頼みに過ぎなかったが、しかし、その淡なる辞句のうちには慈父の大愛というような切実な情愛がこもっていた。真心は面にあふれ、やはり愛児の将来を江戸の地にいつも想う家康には、その気もちが分りすぎるほどよく分った。 「いや、よく分った」  家康は大きくうなずいて、 「三名とも、さすがは柳生の子息なり孫なり、いずれもよい面だましいの若者とは見うけるが、して、石舟斎には、この家康が子息への師範として、このうちの誰をかわしへ推挙したいと申すか」 「所詮、まだ若年者、御師範などとは、烏滸がましゅう思われますが、お相手という程なれば」 「どちらでもよい」 「五男の宗矩をお召しつれ給われば、ありがたい仕合せに存じまする」 「宗矩をか」  と、家康は、改めて、石舟斎の床几の左に坐っている二人の若者をながめた。  家康から眼を注がれると、宗矩はハッとしたように頭を下げた。けれど彼の隣にある兄の五郎右衛門は、ここの木陰のそよ風と、耳を洗うような快い蝉しぐれの音に、先刻からうっとりとしていたが、いつのまにか居眠りをし始めていた。  また。石舟斎の右側にひかえていた孫の兵庫は、眼をつぶらに見はって、無遠慮に家康の顔ばかり見ているのである。血はひとつの父母から生れても、その性格は三人三様であった。 三  五郎右衛門の居眠りも、兵庫の無遠慮も、石舟斎は、これがありのままの若者と、許しているかのように、咎めもしなかった。  家康も、にやにや眺めて、敢て、それに依って、石舟斎の躾を疑おうとしなかった。 「宗矩は幾歳になるの?」 「二十六歳にございます」 「そちが推挙するからには、この三名のうちでは、宗矩がもっとも道に達しておると認めておるのか」 「いや」すこしあわてて石舟斎が答えた。 「当人を前において申してはいささか不愍にござりますが、剣の強弱としては、この三名の中で、宗矩がもっとも弱いかと存ぜられます」 「……ふウむ、一番未熟というか」 「未熟というおことばは恐れながらちと当りませぬが、弱いことは、慥に弱いと申されます。──けれども不肖石舟斎が宗矩に仕込みましたものは、徒に、強きを能とする剣道ではございません。──また、宗矩の性格に、そうした剣は身に持てぬところでもありますので」 「然らば、何をもって、宗矩は能とするか」 「治国の剣にございます」 「治国の剣。……それは初耳じゃが、どういう意味か」 「世を治めるの剣。民を愛護し泰平を招来するの経世の剣にござります」 「剣にもそういう徳があるか」 「術ではなく、道であります故に。──すでに道である以上、聖賢のこころ、禅の要諦、経世の要義、その道のうちにあらぬはございません」 「すると、学問だな、まるで」 「学問は理念を基とし、人の知性にのみ多く拠りますが、剣は、体得の実相を主として、生死の解決から先にして、ただ実践をもって道に入るものです。故に、これを君主が行って、治国経世に、その理を用いうるにしても、自ら知識から得たそれと、実相体得から入ったそれとは、現わされる御政道の上に、大きな相違があるかと考えられます」 「わかった」  家康は、豁然と、眼をあげて、梢のあいだの碧い夏空を見入った。 「……そうか。ムム、そうか。いやよく相分った。宗矩の性質もおよそその言葉で察せらるる。では宗矩を、今日より江戸の秀忠へ、奉公に差出すこと、異存ないな」 「何とぞ、お伴いねがいまする。宗矩、そちも、よう心を定めておろうな」 「はい」宗矩は、明確に答えたが、身に過ぎた大任を、果たして充分に勤められるかどうか、さすがにやや不安ないろを面にかくしきれなかった。 「彼方の茶屋へ来ぬか。……茶などつかわそう。めでたい主従のかため」  家康が床几を立った頃、五郎右衛門は渋そうな眼をあいて、そのくせ、何もかも知っているように、取澄ました顔をしていた。 陽なた竹 一  二十六歳、初めて老父の膝を離れて、彼は「奉公」の生涯にはいった。世の中に立ったのである。  その又右衛門宗矩が、ちょうど三十歳となった年の六月には、主君家康の軍に従って、上杉景勝を討つため、野州小山の陣中に、一旗本として働いていた。 「柳生どの、柳生どの。御主君のお召しであるぞ。急いで──」  近習の一名に麾ねかれて、宗矩は、何事かと急いで、家康の幕営へ駈けて行った。  家康は、祐筆に認めさせた自身の書面を、膝においた手に持って、床几に倚っていたが、 「宗矩か──」と、彼のすがたへ眼を与えると、手にしていたその書面を授けてから云った。 「この一書を持って、そちはすぐに陣を脱し、そちの郷里大和の柳生谷へ急げ。仔細はこれにある。……ただ老来、久しゅう相会わぬが、石舟斎にも変りないか、くれぐれ身をいたわるように、家康が申したと、よしなに伝えてくれい」 「えっ……では私は、せっかくの御合戦に、お供はかないませぬか」 「何も問うな。ただ急げばよい」 「……でも、上杉攻めの御陣中から、私のみ退去を命じられ、故郷へ帰って参りましたと、何でおめおめ老父に会って申されましょう。身不つつかのため、御陣中に留めおくこと相成らぬとの御叱責なれば、自決して相はてたほうが老父のよろこびと存じまする」 「はははは、疑うはもっともじゃが、そち一身に関わったことではない。何も申さず立帰って、石舟斎に儂が書面をわたし、そのうえのこととせよ」  宗矩はぜひなく退がって、即日、大和へ急いだ。──が、その途中、江州まで来ると、事態の真相がわかった。  上方の形勢は一変して険悪を極めていたのである。家康が野州へ向って手薄となったのを観て石田三成、小早川秀秋、浮田中納言、その他の反徳川聯合は、俄然、活溌な行動を起し、この機会に、大坂城以外の関東勢力を一掃せんものと、すでに大きな陣容のうごきが、京、伏見、近江、美濃の尨大な地域にわたって起され、その先鋒はもう関ヶ原の一端に、いわゆる「天下分け目」のただならぬ気を孕んでいたのだった。  小山陣から帰された者は、ひとり自分だけでないこともわかった。大小名の帰国してゆく者も多い。単身、物の具を携えて、何処へやら急ぐ藩士や浪人も町に見えた。 「何か、容易ならぬ御書面とみえる。時遅れては──」  と、宗矩は夜を日についで馬を励まし、郷里柳生谷へ急ぎに急いだ。 二  鷹ヶ峰で手放されてから、そのまま父と相会わぬこともすでに四年ぶりであった。どんなにお変りになったろう。いやいや、平常のお心懸、老来いよいよ御壮健かも知れない。  宗矩の心は、公私二つに惹かれていた。──主君から託された父への書面の内容も気がかりであった。 「やっ、叔父上ではありませんか」  兄の厳勝の子──兵庫はちょうど何処からか帰って来たところだった。以前とすこしも変らない小柳生城の坂門の外で、今、馬を降りた宗矩のすがたを見ると、驚いて駈寄って来た。 「オオ兵庫か、大きゅうなったな。はや二十二か。むむよい若者ぶり……。思わず見ちがえた」 「叔父上にもお変りになりましたぞ。逞しくおなりになりました。祖父様が御覧になったらどんなにお歓びでございましょう」 「父上は、御健勝か」 「おかわりもなく、近頃は静かに御書見を好まれています」 「……ああ、それを聞いて、ひとつは安心。兵庫、先に行って、お耳に入れい。宗矩が立帰りましたと」 「はいっ」  兵庫は、奥の丸へ、駈込んで行った。  宗矩は、外曲輪の玄関にかかる。かくと知ると、若殿のお帰りと伝え合って、昔ながら仕えている家臣や小者たちが、彼を迎えて、下へも措かない騒ぎである。 「おう、助九郎も達者か。庄兵衛も髪が白うなったの。やあ、五平太もおるか」  懐かしさに包まれながら、家臣たちに笠をあずけ、衣服の埃を打たせたり、草鞋の緒など解かせていると、奥からばたばたと駈けて来た一家臣が、 「お待ちください! 大殿からのおいいつけでござる!」  父のいいつけと聞き、また、その家臣の口吻にも、何やら峻厳なものを覚えたので、宗矩は、はっと立って、命を待った。  石舟斎の命を伝えて来たその家臣は、厳しい態度のうちにも、気の毒そうな容子を見せて告げた。 「ゆるしなきうちは、草鞋を解いて家に入ることは相成らぬ。用談は中門の墻を隔てて聞くであろうから、奥庭の境まで廻れ──とのお言葉でござりまする」 「かしこまってござる」  宗矩は、父の意に従って、解きかけた草鞋の緒を結び直し、庭づたいに、中門のほうへ廻って行った。  中門の扉は、片扉だけ開いていた。石舟斎は、その内側に立っていた。兵庫のことばでは、お変りもないといったが、四年ぶりに仰いだ宗矩の眼には、世にいう寄る年波の変り方が、余りにもはっきり父のすがたに見られた。  彼は、一目見ると、胸がせまって、あやうくも溢れかけるものを瞼に抑えながら、門の外に坐って一礼した。 「……宗矩でございまする。おわかれ申して後は、侍しては大御所様の御陣に、平素、仕えては江戸表の秀忠様のお側に。──以後、御奉公に明け暮れもなく過ぎておりましたので、ついぞ御膝下へ来て孝養もいたしませず、御ぶさたの罪、おゆるし下されますように」  彼が、そう云えば云うほど、眼にも見えるほど、老父の面は不機嫌な色になった。いや、巌へ刻んだ何人かの巨像のように、峻厳そのものを示すだけで、宗矩が胸にこみあげているような父子の温情らしいものは、その白い眉毛の一すじも見えなかった。 「……宗矩、何しに来た」  やがて老父が四年ぶりの子に対して、初めて云ったことばは、その一語だった。 「はっ。……申しおくれました。実は、大御所家康公の御一書を携えて、小山の陣中から馳せ参りました」 「では、飛脚役か」 「何かは存じませぬが、ただ急いで、柳生へ帰れとのおことばに依って」 「さてさて、そちも日頃、物の役に立たぬ者と、お眼鑑に見られておるものとみえる。──今は一兵たりと、おろそかにならぬ場合。ただならぬ急な風雲の際。──可惜、物の役に立つほどな男なら、御幕下より除いて、お飛脚などはお命じあるまいに」 「……面目次第もございませぬ。が、何はともあれ、この御書面を」  懐中のそれを取出して、老父の前へ捧げたが、石舟斎はなお手も伸べず苦々しげに云いかさねた。 「──と云うても、御奉公に出て以来、まだ四年、御用に立つ間もないは是非もないが、この父に対して、日頃の無沙汰の詫びなどは何事か。奉公はどんなものかさえ弁えおらぬか。……すでに、そちを御奉公にさし上げたその日から、石舟斎は、わしに宗矩という子があるとは思うておらぬ。ただわしが養育して世に出した一箇の者が、世にあって、いささかの奉公などしておるかどうか……それを案じる日はあったが」 「宗矩の心得ちがいでございました。おゆるし下さいまし」 「家康公の御書面を託されて参ったからには、そちは取りも直さず徳川家の使臣ではないか。なぜ、家臣どもにもてなされて、わが家へでも帰ったように嬉々とするか。また、石舟斎のまえに来て、大地になど手をつくか。──主命の何たるものかすら忘れ果てるなど、言語道断」 「……はいっ」 「立て。──あらためて、徳川殿のお使いとして迎えよう。ここは庭口ではあるが、石舟斎が隠居所、略儀はおゆるしあって、お通りください」  老父は、手ずから、左右の門をひらいて、わが子の使者を、座敷に迎え入れた。 三  家康からの内書には、上方の急変を告げてあった。それについて、柳生家もこの際できるかぎりの、兵員を至急ととのえ、関東軍の出向うまでに、その戦場へ駈けつけて合力するように──とのことだった。  石舟斎は、読み終って、 「内書のお旨、慥と承知いたしました」  と、宗矩に答えてから、 「御苦労であった。お使いはこれで達した。そなたもお役を果した上は、ゆるゆる旅装を解き、皆の者とも会って来たがよかろう」  と、初めて彼を犒った。  その夜、石舟斎は、一族や家臣を呼びあつめて、家康の内書を披露した。もとより石舟斎自身も、年こそよれ出陣して、曠古の大戦に加わる意気であった。 「では、われわれも、こんどの御合戦に加われますか」  心ばかりな酒宴となって、酌みかわす杯のあいだに、人々はどよめき合った。年久しく用いなかった髀肉は疼き、淵に潜んでただ鍛えるのみだった腕は鳴った。 「……時に、この中に、兄の五郎右衛門だけが見えませぬが、如何いたしましたか」  宗矩は、さっきからそれを怪しんでいたが、老人も兄弟も、五郎右衛門については、一言も触れないので、とうとう訊ね出したのである。  父石舟斎に伴われて、鷹ヶ峰の麓で初めて家康に謁した時は──自分と兵庫と、そして兄の五郎右衛門とが、三人してお目見得したものをと、宗矩は当時のことも思い合せながら、その姿の見えない座中を見まわして、一抹のさびしさを覚えたのである。 「ムム、五郎右衛門か。……あれについては、家臣のうちでもまだ知らぬ者もあろう。ちょうどよい折、語っておこう」  石舟斎はそう云うと、胸の傷むような面持であったが、実はと──その夜まで公表されていなかった四男五郎右衛門の所在をうち明けた。  五人の子のうち、ひとり五郎右衛門だけは、さすがの石舟斎も手におえない男だった。型にはまらないというよりは型以上に大きいのだなど日常も自身で豪語して憚らないような人物だった。従って、この苔ふかい柳生谷になど壮年までじっと屈していられる性格ではない。早くから家を飛出して、諸国を奔放に遍歴していたが、近頃、何かの手づるがあって、金吾中納言秀秋の小早川家へ仕えているという噂だけが聞えていた。 「ひとりぐらいは、柳生の蔓にも、ああいう変質の瓜もできてよかろう。──宗矩のごときは、余りに南向きのやぶ竹でありすぎるからの」  話し終って、石舟斎は、つぶやくようにこう述懐した。  南向きのやぶ竹とは、いったい何の比喩であろうかと、家臣たちは解けない顔していたが、そう例えられた当の宗矩には、よく分っていたとみえて、面目なげにさし俯向いていた。  幼少の頃、父の石舟斎が、道場に立って、手ずから子を木剣で打ち鍛え、また訓誡するたびによく、 (──陽なたの竹ではだめだぞ!)  と、云ったことを、宗矩は今、思い出すのであった。  宝蔵院の胤栄が、よく尺八を吹くので、その胤栄がある折、尺八のはなしにことよせて、 (御当家もお子達がたくさんであるが、子を育てるには、北向きの藪竹にしておかねばいけませんな)  と、云ったのを、石舟斎がひどく感心して、それ以来、つい子どもへも、口ぐせになって出ることばであった。  胤栄が云った尺八のはなしというのはこうである。彼が、多年の経験に依ると、尺八を作るため、よい竹を探し求め、多年手にかけてみると、結局、地味も肥え、陽あたりもよい南向きの藪に育った竹からは、一本の名管も生れたためしはない。  それに反して、地は痩せ、冬は氷や霜ばしらに虐げられ、生れながらの若竹のうちから、蕭々と寒風に苦しめられて育った北向きの藪からは、勿論、笛にもならない拗者もできるが、多くの名管はみなそこから生えた竹にかぎる──という話なのであった。 四 「老父のお眼からみれば、なおわしは、陽なたの竹か」  宗矩は恥じた。  ことし男子の三十歳ともなって、徳川家の一麾下となり、三千石の知行をうけて、奉公にある身が──と慚愧せずにはいられなかった。  また、不孝の大なるものと思った。  なぜなれば、石舟斎が、そういう胸のうちには、尺八の例もよく弁えながら、子を育てる親には、どうしても子を南の藪に育ててしまう──平常の反省と苦慮と愛情とが蟠っているからである。そして今宵──もう三十になったわが子を見てもなお、心ひそかに、陽なたの竹に育てたという悔いをにじませている胸を察しると、宗矩は必然に、 「まだどこか、自分が至らないからである。──自分の将来を、なお案じておいでになるからだ」  と、天性の未熟を、自ら責めずにいられなかった。  その宗矩と較べると、兄五郎右衛門の素質はまったく反対である。早くから器量は一族にぬきんでて、老父の剣すらひそかに睥睨するの風があった。が、その兄も、老父の膝下を去っているのみか、こんどは西軍の一方の雄たる小早川秀秋の陣にある。いうまでもなく、東軍に参加する石舟斎や宗矩とは、敵味方とわかれてまみえることになったのである。  初めて聞かされた家臣は、 「お心のうちはどんなであろう」  と、石舟斎の面を仰ぐのも胸の痛むここちがした。平常は秋霜のようにきびしいが、実は、世の親の誰よりも子には甘い煩悩をも一面に持っていることをみなよく知っているからだった。  それから数日の後。  久しくこの古城に聞かなかった鎧や具足の音が、鏘々と打揃って、陣列をなし、旗さし物や槍の光や馬のいななきと共に、美濃の戦場へ立って行った。  その中に、ことし七十二になる眉雪の老将が、ひと際、途上に見送る領民の眼をひいた。 氷の縁 一  九月十九日、関ヶ原の戦端はひらかれた。  宗矩は、家康に対して、 「父も何分老年ですから、願わくは父に代って、柳生の手勢をひっさげ、私に先鋒の一手をおいいつけ賜わりますように」  と、懇願してゆるされた。  家康がその東軍の大部隊を、野州小山から引っ返して、三州の池鯉鮒にまですすめて来たのを、逸はやく宗矩がそこまで出迎えに出た時に──であった。  大戦が終って、天下の事は徳川家に帰すと、宗矩もまた論功行賞にあずかった。  柳生本領二千石を封ぜられ、すぐ翌年、また一千石の加増をうけた。  そしてそれまでは、単に徳川秀忠の近衆のひとりであり、お相手役にすぎなかったが、以後明らかに、将軍家兵法師範という重職に登用され、但馬守に任官した。  で、かれは初めて、江戸に一家を興し、江戸柳生家の基礎をたてた。  世に出た子の将来を、そこまで見届けて、石舟斎も初めて、 「……まず、但馬もあれで」  と、安心したらしく見えた。  だが、世に巣立つ幾羽のうちには、悲運に終る子鳥もある。但馬守宗矩の兄──四男の五郎右衛門がそれであった。  元々、五郎右衛門だけは、幼年から石舟斎の規格にもはまらない豪放な性質ではあったが、その後、諸国をあるいているうちに、小早川金吾秀秋の家に仕えていると、風の便りに聞えていた。  関ヶ原の陣中にもいたであろう。一時は、徳川家と対陣した西軍のなかに。──戦の半ばからは味方の石田三成以下を裏切って、関東軍の一翼となった秀秋の麾下に。  けれど、五郎右衛門は、石舟斎にも弟の宗矩にも、ついぞ姿を見せなかった。  その後、慶長七年。  小早川家は断絶した。──彼もまた流浪して、伯耆国の横田内膳の飯山城に身をよせていたが、偶〻、その内膳は、主筋にあたる中村伯耆守に殺害され、飯山城は伯耆守の手勢にとり囲まれるところとなった。  五郎右衛門は、城内にいて、内膳の子主馬助をたすけ、まったく義のために、寄手の大兵をうけて奮戦したのであった。  城は、慶長八年の十一月十五日に陥ちた。その落城の際の彼の働きこそ、当時しばらく中国の武人たちに鳴り轟いたものであった。  五郎右衛門は、焔をついて、城から半具足で討って出たが、大太刀を揮って、仆れ歇むまで、敵の甲胄武者十八人まで斬り伏せて戦死したという。  新陰流の古勢「逆風」の太刀を平常から得意としていたので、その働きぶりは、殊にものものしかったとある。彼の従者の森地五郎八も、よく戦って斃れた。  彼の豪勇ぶりは、中国地方に、一躍、柳生流の名を高からしめた。──けれど石舟斎は、そのうわさはやがて柳生谷に聞えて人々の語り種となっても、ただ暗然とするのみで、すこしも歓ぶ色は見せなかった。 「彼の剣は、わしの本意でない。柳生流の剣の一面を具現した強さにすぎぬ。五郎右衛門に倣うてはならぬ」  むしろそう云って、周囲の子弟を誡めた。 二  長男の厳勝は先だち、その子久三郎は、朝鮮役で戦死し、次男の久斎、三男の徳斎、ふたりとも僧門に入ってしまうし、四男五郎右衛門は旅に果て、老齢の入道石舟斎の身辺も、ようやく、落寞として、さびしげなものがあった。  ひとり五男の但馬守宗矩に、伝血の望みは嘱されていたが、それも江戸常住となって、稀〻の便りが、せめての楽しみであった。  ことし七十六歳の八月吉日。  彼はひとり焚香静坐して、長巻の極意書をしたためていたらしい。  しかし、ふかく筐底に秘めて、人にも示さず、翌年また新たに一代の工夫と体験の精髄とを誌し、その年の末、ふたたび晩年に悟得した吹毛剣のことについて書き加えなどしていたが、翌年の春になると、長巻の末尾に奥書を染めて、ここにその業を終っていた。 「兵庫はいつ帰るのじゃ?」  時折、家人にたずねていた。  もうその頃、彼はひそかに、自分の天命に、ひとり期しているものがあったらしい。青葉若葉は、ことしの夏もしずかに山城の一荘をつつみ始めていた。 三  石舟斎が、掌上の珠のように、眼にも入れたいほど、鍾愛して措かなかったのは、孫の兵庫利厳だった。  骨肉的にも、その天性の剣をも、彼はこの孫を、 「わが家の至宝」  と、珍重していた。  だから平常もよく、 「そちは、他家から求められても、千石が一粒欠けても、仕官してはならない」  と、云っていたほどである。  肥後の加藤清正から、彼と昵懇な黒田長政を介して、正式に兵庫をその家中へ懇望して来た折も、 「千石ならでは」  と、断わった。ところが清正は、他の家士のふりあいもあるので、表向き五百石、内分千五百石、客分として迎えましょうと、要求以上の好遇をもって答えて来たので、 「それほどまで、孫の器量を御属望くださるなら」  と、一切を長政に託して肥後へ遣った。  けれどその交渉の最後にも、もう一つ石舟斎から清正へ条件を云いたした。その条件とは、 「兵庫事は、天性、御奉公を懈怠いたすようなものではござらぬが、何といっても、若年者、それに短慮のところもありますゆえ、落度あっても、死罪三たびまでは、お宥しありたい」  ということであった。  これを見ても、石舟斎が、どれほど兵庫を熱愛していたかがわかる。しかしまた、その無理な条件をも容れてまで客分に迎えた清正の熱心と寛度も大きなものと云わなければなるまい。  その兵庫利厳が、肥後へ行ったのは二十五の年だった。肥後にとどまることも短く、わずか二年で加藤家を辞し、その足で彼は九州中国から北陸地方を遊歴していたのである。  本年二十八歳となった。先頃の便りでは、四月頃までには柳生に帰るとしてあったが、五月にも見えず、六月も過ぎかけていた。 「……兵庫はまだ帰らぬか」  石舟斎は、病床について、寝たきりとなると、なおさら、それのみ待ちこがれているふうであった。 「ただいま戻りました。兵庫でございまする」  秋の初め、秋の訪れ──。久しぶりな声は柳生家に聞えた。  石舟斎のよろこび方はいうまでもなかった。  一日、秋の気の爽やかな昼。 「兵庫、こちらへ来い」  石舟斎は、病床を離れ、衣服もあらため、嗽水、手水までつかって、奥の一室へ、孫の兵庫を呼び入れた。 「おからだは如何ですか」 「たいへん気分がよい。しかしもう枯木じゃ、もう咲く花は待たれん。たいがい秋の末か、この冬であろう」 「何を仰せられますか」 「死期のことじゃ」 「そ、そんな……ことは」  兵庫は泣き出した。二十八の──しかも千五百石で求められるほどな武士の偉材だったが、幼少から一倍愛された祖父のまえでは、やはりただの孫であった。 「愚かな涙を……」  と、叱りながらも、石舟斎の面もまた、一抹の哀愁はある。人間と生れたからは、何人にも是非ない別離の傷心であった。 「あらためて、今日はそちに授けておくものがある」  彼は自筆の「柳生流印可」の長巻に添えて、かつて自身が、上泉伊勢守からうけた、「新陰流相伝の書」「新陰絵目録」の三つをことごとく兵庫に授けたのだった。 「わしに一族の児輩は多いが、これを役立たしてくれそうなものは、そちしかない。終生、師鑑としてこれに怠るな。道業はそち一身や一生のみじかいものではないぞ。世々ひろく末代の衆と国土に益さねばならぬ。これを享くる者の任はゆえに重い……たのむぞ、兵庫」 四  江戸表の但馬守宗矩は、国元の急報に接して、将軍家に暇を乞い、落葉しきりな晩秋の駅路を、大和へさして急いでいた。  にわかに病のあらたまった石舟斎は、病床からひとみを動かして、 「宗矩にも遙々見えられたか……」  と、将軍家へ対して済まないような呟きをもらした。  枕頭には、門下の木村助九郎、庄田喜左衛門、出淵孫兵衛、その他、多くの直門がみまもっていた。  その人々もみな、紀州家へ、仙台家へ、浅野家へ、各〻仕官して一流一派をもう立てている者たちだった。 「心にかかるものもない」  石舟斎は、自分という巨幹から、枝となり葉となり花となり実となっている一門の子弟をながめて、むしろ楽しげであった。  諸家からの訪問、諸侯自身の見舞も絶えなかった。  泉州の沢庵などが見えた日は、病室には談笑の声さえ聞えた。奈良の宝蔵院胤栄は、かれよりも十数年まえに歿していた。  冬が近づく。極寒に入る。  病は篤くなるばかりだった。  かれは一日、病臥のまま、その枕頭に、宗矩ひとりだけを招いて、 「見国の機──という旨を心得ておるか」  と、たずねた。  宗矩がつつしんで教えを乞うと、 「見国の機とは、兵法を通じて、一国の情勢を視ることである。剣理を基本として、経世民治の要を知ることじゃ」  と、云い、またやがて、 「そちは常に将軍家に対し、どういう心を旨として、剣を御師範申しあげておるか」  と、たずねた。 「天下を治むるの兵法をもって」  と、宗矩が答えると、石舟斎は満足して、かすかにうなずきながら、 「──庶人これを学べばすなわち身を修め、君子これを学べば学識を修め、王侯これを学べばすなわち国を治む。──庶人より王侯君子にいたるまで、みなその道はひとつ」  と、大声で云って、しずかに眼をふさぎ、ややあってから、 「そちには何の憂いもない。これで安心いたした」  と、云った。  きょうか明日かとも見える容態になっても、石舟斎は決して厠へ通うのに、ひとの手を借らなかった。手沢のかかった細竹の杖をついて、病室の濡縁から後架へゆくのを常としていた。  折ふし十二月の極寒ではあるし、伊賀境の山々から、粉雪は舞って、掃いても掃いても縁にたまった。板縁は鏡のように凍るので、誰もよく辷っては怪我をした。周囲の者は、石舟斎の足もとをそこに見るたびに胆を冷やしたが、石舟斎は決して辷らなかった。 「あの御病体でありながら、何として? ……」  と、人々がいぶかるのを耳に挾むと、石舟斎は枯葉のような頬にすこし笑みをたたえて云った。 「氷の縁をあるいて、後架へ通ううちに、わしは工夫をこらし、浮身の法というのを発明した。それは浮身の太刀とも名づけられるもの。……一太刀、把って、宗矩にも兵庫にも示したいが……」  その宵から昏々として、遂に、彼の七十八歳の生涯は、雪ふかい柳生谷の晨、静かに終りを告げた。いやその遺業に悠久を約して大往生をとげたものと云えよう。  すでに死期を悟り、その死の迫っていた数日前まで、氷の縁を杖つきながら、なお、剣の工夫をしていた彼のごときこそ、真の名人というべきであろう。ゆかしい哉、尊い哉。この心をもってすれば、あらゆる道に達し得ぬ道はあるまい。 底本:「剣の四君子・日本名婦伝」吉川英治文庫、講談社    1977(昭和52)年4月1日第1刷発行 初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社    1940(昭和15)年9月~1941(昭和16)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※初出時の表題は「日本剣人伝(三)柳生石舟斎」です。 入力:川山隆 校正:岡村和彦 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。