うつせみ 樋口一葉 Guide 扉 本文 目 次 うつせみ 一 二 三 四 五 一  家の間數は三疊敷の玄關までを入れて五間、手狹なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は廣々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場處も小石川の植物園にちかく物靜なれば、少しの不便を疵にして他には申す旨のなき貸家ありけり、門の柱に札をはりしより大凡三月ごしにもなりけれど、いまだに住人のさだまらで、主なき門の柳のいと、空しくなびくも淋しかりき。家は何處までも奇麗にて見こみの好ければ、日のうちには二人三人の拜見をとて來るものも無きにはあらねど、敷金三月分、家賃は三十日限りの取たてにて七圓五十錢といふに、それは下町の相場とて折かへして來るはなかりき、さるほどに此ほどの朝まだき四十に近かるべき年輩の男、紡績織の浴衣も少し色のさめたるを着て、至極そゝくさと落つき無きが差配のもとに來りて此家の見たしといふ、案内して其處此處と戸棚の數などを見せてあるくに、其等のことは片耳にも入れで、唯四邊の靜とさはやかなるを喜び、今日より直にお借り申しまする、敷金は唯今置いて參りまして、引越しは此夕暮、いかにも急速では御座りますが直樣掃除にかゝりたう御座りますとて、何の仔細なく約束はとゝのひぬ。お職業はと問へば、いえ別段これといふ物も御座りませぬとて至極曖昧の答へなり、御人數はと聞かれて、其何だか四五人の事も御座りますし、七八人にもなりますし、始終ごたごたして埓は御座りませぬといふ、妙な事のと思ひしが掃除のすみて日暮れがたに引移り來りしは、合乘りの幌かけ車に姿をつゝみて、開きたる門を眞直に入りて玄關におろしければ、主は男とも女とも人には見えじと思ひしげなれど、乘り居たるは三十許の氣の利きし女中風と、今一人は十八か、九には未だと思はるゝやうの病美人、顏にも手足にも血の氣といふもの少しもなく、透きとほるやうに蒼白きがいたましく見えて、折柄世話やきに來て居たりし差配が心に、此人を先刻のそゝくさ男が妻とも妹とも受とられぬと思ひぬ。  荷物といふは大八に唯一くるま來りしばかり、兩隣にお定めの土産は配りけれども、家の内は引越らしき騷ぎもなく至極寂寞とせしものなり。人數は彼のそそくさに此女中と、他には御飯たきらしき肥大女および、其夜に入りてより車を飛ばせて二人ほど來りし人あり、一人は六十に近かるべき人品よき剃髮の老人、一人は妻なるべし對するほどの年輩にてこれは實法に小さき丸髷をぞ結ひける、病みたる人は來るよりやがて奧深に床を敷かせて、括り枕に頭を落つかせけるが、夜もすがら枕近くにありて悄然とせし老人二人の面やう、何處やら寢顏に似た處のあるやうなるは、此娘の若も父母にてはなきか、彼のそゝくさ男を始めとして女中ども一同旦那樣御新造樣と言へば、應々と返事して、男の名をば太吉太吉と呼びて使ひぬ。  あくる朝風すゞしきほどに今一人車に乘りつけゝる人のありけり、紬の單衣に白ちりめんの帶を卷きて、鼻の下に薄ら髯のある三十位のでつぷりと肥りて見だてよき人、小さき紙に川村太吉と書て貼りたるを讀みて此處だ〳〵と車より下りける、姿を見つけて、おゝ番町の旦那樣とお三どんが眞先に襷をはづせば、そゝくさは飛出していやお早いお出、よく早速おわかりになりましたな、昨日まで大塚にお置き申したので御座りますが何分もう、その何だか頻に嫌におなりなされて何處へか行かう行かうと仰しやる、仕方が御座りませぬで漸とまあ此處をば見つけ出しまして御座ります、御覽下さりませ一寸斯うお庭も廣う御座りますし、四隣が遠うござりますので御氣分の爲にもよからうかと存じまする、はい昨夜はよくお眠になりましたが今朝ほど又少しその、一寸御樣子が變つたやうで、ま、いらしつて御覽下さりませと先に立て案内をすれば、心配らしく髯をひねりて、奧の座敷に通りぬ。 二  氣分すぐれてよき時は三歳兒のやうに父母の膝に眠るか、白紙を切つて姉樣のお製に餘念なく、物を問へばにこ〳〵と打笑みて唯はい〳〵と意味もなき返事をする温順しさも、狂風一陣梢をうごかして來る氣の立つた折には、父樣も母樣も兄樣も誰れも後生、顏を見せて下さるな、とて物陰にひそんで泣く、聲は腸を絞り出すやうにて私が惡う御座りました、堪忍して堪忍してと繰返し〳〵、さながら目の前の何やらに向つて詫るやうに言ふかと思へば、今行まする、今行まする、私もお跡から參りまするとて日のうちには看護の隙をうかゞひて驅け出すこと二度三度もあり、井戸には蓋を置き、きれ物とては鋏一挺目にかゝらぬやうとの心配りも、危きは病ひのさする業かも、此纎弱き娘一人とり止むる事かなはで、勢ひに乘りて驅け出す時には大の男二人がゝりにてもむつかしき時のありける。  本宅は三番町の何處やらにて表札を見ればむゝ彼の人の家かと合點のゆくほどの身分、今さら此處には言はずもがな、名前の恥かしければ病院へ入れる事もせで、醫者も心安きを招き家は僕の太吉といふが名を借りて心まかせの養生、一月と同じ處に住へば見る物殘らず嫌になりて、次第に病ひの募ること見る目も恐ろしきほど凄まじき事あり。  當主は養子にて此娘こそは家につきての一粒ものなれば父母が歎きおもひやるべし、病ひにふしたるは櫻さく春の頃よりと聞くに、それより晝夜瞼を合する間もなき心配に疲れて、老たる人はよろ〳〵たよ〳〵と二人ながら力なさゝうの風情、娘が病ひの俄かに起りて私はもう歸りませぬとて驅け出すを見る折にも、あれあれ何うかして呉れ、太吉々々と呼立るほかには何の能なく情なき躰なり。  昨夜は夜もすがら靜に眠りて、今朝は誰れより一はな懸けに目を覺し、顏を洗ひ髮を撫でつけて着物もみづから氣に入りしを取出し、友仙の帶に緋ぢりめんの帶あげも人手を借りずに手ばしこく締めたる姿、不圖見たる目には此樣の病人とも思ひ寄るまじき美くしさ、兩親は見返りて今更に涙ぐみぬ、附そひの女が粥の膳を持來りて召上りますかと問へば、いや〳〵と頭をふりて意氣地もなく母の膝へ寄そひしが、今日は私の年季が明まするか、歸る事が出來るで御座んしやうかとて問ひかけるに、年季が明るといつて何處へ歸る料簡、此處はお前さんの家ではないか、此ほかに行くところも無からうではないか、分らぬ事を言ふものではありませぬと叱られて、それでも母樣私は何處へか行くので御座りましやう、あれ彼處に迎ひの車が來て居まする、とて指さすを見れば軒端のもちの木に大いなる蛛の巣のかゝりて、朝日にかゞやきて金色の光ある物なりける。  母は情なき思ひの胸に迫り來て、あれあんな事を、貴君お聞遊ばしましたかと良人に向ひて忌はしげにいひける、娘は俄に萎れかへりし面に生々とせし色を見せて、あのそれ一昨年のお花見の時ねと言ひ出す、何えと受けて聞けば學校の庭は奇麗でしたねえとて面白さうに笑ふ、あの時貴君が下さつた花をね、私は今も本の間へ入れてありまする、奇麗な花でしたけれどもゝう萎れて仕舞ました、貴君にはあれから以來御目にかゝらぬでは御座んせぬか、何故逢ひに來て下さらないの、何故歸つて來て下さらぬの、もうお目にかゝる事は一生出來ぬので御座んするか、それは私が惡う御座りました、私が惡いに相違ござんせぬけれど、それは兄樣が、兄が、あゝ誰れにも濟みませぬ、私が惡う御座りました免して免してと胸を抱いて苦しさうに身を悶ゆれば、雪子や何も餘計な事を考へては成りませぬよ、それがお前の病氣なのだから、學校も花もありはしない、兄樣も此處にお出でなさつては居ないのに、何か見えるやうに思ふのが病氣なのだから氣を落つけて舊の雪子さんに成つてお呉れ、よ、よ、氣が附きましたかえと脊を撫でられて、母の膝の上にすゝり泣きの聲ひくゝ聞えぬ。 三  番町の旦那樣お出と聞くより雪や兄樣がお見舞に來て下されたと言へど、顏を横にして振向うともせぬ無禮を、常ならば怒りもすべき事なれど、あゝ、捨てゝ置いて下さい、氣に逆らつてもならぬからとて義母が手づから與へられし皮蒲團を貰ひて、枕もとを少し遠ざかり、吹く風を背にして柱の際に默然として居る父に向ひ、靜に一つ二つ詞を交へぬ。  番町の旦那といふは口數少き人と見えて、時たま思ひ出したやうにはた〳〵と團扇づかひするか、卷煙草の灰を拂つては又火をつけて手に持てゐる位なもの、絶えず尻目に雪子の方を眺めて困つたものですなと言ふばかり、あゝ此樣な事と知りましたら早くに方法も有つたのでしやうが今に成つては駟馬も及ばずです、植村も可愛想な事でした、とて下を向いて歎息の聲を洩らすに、どうも何とも、私は悉皆世上の事に疎しな、母もあの通りの何であるので、三方四方埓も無い事に成つてな、第一は此娘の氣が狹いからではあるが、否植村も氣が狹いからで、どうも此樣な事になつて仕舞つたで、私共二人が實に其方に合せる顏も無いやうな仕儀でな、然し雪をも可愛想と思つて遣つて呉れ、此樣な身に成つても其方への義理ばかり思つて情ない事を言ひ出し居る、多少教育も授けてあるに狂氣するといふは如何にも恥かしい事で、此方から行くと家の恥辱にもなる實に憎むべき奴ではあるが、情實を酌んでな、これほどまで操といふものを取止めて置いただけ憐んで遣つて呉れ、愚鈍ではあるが子供の時から是れといふ不出來しも無かつたを思ふと何か殘念のやうにもあつて、眞の親馬鹿といふのであらうが平癒らぬほどなら死ねとまでも諦めがつきかねるもので、餘り昨今忌はしい事を言はれると死期が近よつたかと取越し苦勞をやつてな、大塚の家には何か迎ひに來るものが有るなどゝ騷ぎをやるにつけて母が詰らぬ易者などにでも見て貰つたか、愚な話しではあるが一月のうちに生命が危いとか言つたさうな、聞いて見ると餘り快くもないに當人も頻りと嫌がる樣子なり、ま、引移りをするが宜からうとて此處を搜させては來たが、いや何うも永持はあるまいと思はれる、殆んど毎日死ぬ死ぬと言て見る通り人間らしき色艷もなし、食事も丁度一週間ばかり一粒も口へ入れる事が無いに、そればかりでも身躰の疲勞が甚しからうと思はれるので種々に異見も言ふが、何うも病の故であらうか兎角に誰れの言ふ事も用ひぬに困りはてる、醫者は例の安田が來るので斯う素人まかせでは我まゝばかり募つて宜くあるまいと思はれる、私の病院へ入れる事は不承知かと毎々聞かれるのであるが、それも何うあらうかと母などは頻にいやがるので私も二の足を踏んで居る、無論病院へ行けば自宅と違つて窮屈ではあらうが、何分此頃飛出しが始まつて私などは勿論太吉と倉と二人ぐらゐの力では到底引とめられぬ働きをやるからの、萬一井戸へでも懸られてはと思つて、無論蓋はして有るが往來へ飛出されても難儀至極なり、夫等を思ふと入院させやうとも思ふが何かふびんらしくて心一つには定めかねるて、其方に思ひ寄もあらば言つて見て呉れとてくる〳〵と剃たる頭を撫でゝ思案に能はぬ風情、はあ〳〵と聞居る人は詞は無くて諸共に溜息なり。  娘は先刻の涙に身を揉みしかば、さらでもの疲れ甚しく、なよ〳〵と母の膝へ寄添ひしまゝ眠れば、お倉お倉と呼んで附添ひの女子と共に郡内の蒲團の上へ抱き上げて臥さするにはや正躰も無く夢に入るやうなり、兄といへるは靜に膝行寄りてさしのぞくに、黒く多き髮の毛を最惜しげもなく引つめて、銀杏返しのこはれたるやうに折返し折返し髷形に疊みこみたるが、大方横に成りて狼藉の姿なれども、幽靈のやうに細く白き手を二つ重ねて枕のもとに投出し、浴衣の胸少しあらはに成りて、締めたる緋ぢりめんの帶あげの解けて帶より落かゝるも艶かしからで慘ましのさまなり。  枕に近く一脚の机を据ゑたるは、折ふし硯々と呼び、書物よむとて有し學校のまねびをなせば、心にまかせて紙いたづらせよとなり、兄といへるは何心なく積重ねたる反古紙を手に取りて見れば、怪しき書風に正躰得しれぬ文字を書ちらして、これが雪子の手跡かと情なきやうなる中に、鮮かに讀まれたる村といふ字、郎といふ字、あゝ植村録郎、植村録郎、よむに得堪へずして無言にさし置きぬ。 四  今日は用なしの身なればとて兄は終日此處にありけり、氷を取寄せて雪子の頭を冷す附添の女子に代りて、どれ少し私がやつて見やうと無骨らしく手を出すに、恐れ入ます、お召物が濡れますと言ふを、いゝさ先させて見てくれとて氷嚢の口を開いて水を搾り出す手振りの無器用さ、雪や少しはお解りか、兄樣が頭を冷して下さるのですよとて、母の親心附けれども何の事とも聞分ぬと覺しく、眼を見開きながら空を眺めて、あれ奇麗な蝶が蝶がと言ひかけしが、殺してはいけませんよ、兄樣兄樣と聲を限りに呼べば、こら何うした、蝶も何も居ない、兄は此處だから、殺しはせぬから安心して、な、宜いか、見えるか、兄だよ、正雄だよ、氣を取直して正氣になつて、お父さんやお母さんを安心させて呉れ、こら少し聞分けて呉れ、よ、お前が此樣な病氣になつてから、お父樣もお母樣も一晩もゆるりとお眠になつた事はない、お疲れなされてお痩せなされて介抱して居て下さるのを孝行のお前に何故わからない、平常は道理がよく解る人ではないか、氣を靜めて考へ直して呉れ、植村の事は今更取かへされぬ事であるから、跡でも懇に吊つて遣れば、お前が手づから香花でも手向れば、彼れは快く瞑することが出來ると遺書にもあつたと言ふではないか、彼れは潔く此世を思ひ切つたので、お前の事も併せて思ひ切つたので決して未練は殘して居なかつたに、お前が此樣に本心を取亂して御兩親に歎をかけると言ふは解らぬではないか、彼れに對してお前の處置の無情であつたも彼れは決して怨んでは居なかつた、彼れは道理を知つて居る男であらう、な、左樣であらう、校内一の人だとお前も常に褒めたではないか、其人であるから決してお前を恨んで死ぬ、其樣な事はある筈がない、憤りは世間に對してなので、既にそれは人も知つて居る事なり遺書によつて明かではないか、考へ直して正氣になつて、其後の事はお前の心に任せるから思ふまゝの世を經るが宜い、御兩親のある事を忘れないで、御兩親がどれほどお歎きなさるかを考へて、氣を取直して呉れ、え、宜いか、お前が心で直さうと思へば今日の今も直れるではないか、醫者にも及ばぬ、藥にも及ばぬ、心一つ居處をたしかにしてな、直つて呉れ、よ、よ、こら雪、宜いか、解つたかと言へば、唯點頭いて、はいはいと言ふ。  女子どもは何時しか枕元をはづして四邊には父と母と正雄のあるばかり、今いふ事は解るとも解らぬとも覺えねども兄樣兄樣と小き聲に呼べば、何か用かと氷嚢を片寄せて傍近く寄るに、私を起して下され、何故か身躰が痛くてと言ふ、それは何時も氣の立つまゝに驅出して大の男に捉へられるを、振放すとて恐ろしき力を出せば定めて身も痛からう生疵も處々にあるを、それでも身躰の痛いが知れるほどならばと果敢なき事をも兩親の頼母もしがりぬ。  おまへの抱かれて居るは誰何、知れるかえと母親の問へば、言下に兄樣で御座りましやうと言ふ、左樣わかればもう仔細は無し、今話して下された事覺えてかと言へば、知つて居まする、花は盛りにと又あらぬ事を言ひ出せば、一同顏を見合せて情なき思ひなり。  良しばしありて雪子は息の下に極めて恥かしげの低き聲して、もう後生お願ひで御座りまする、其事は言ふて下さりますな、其やうに仰せ下さりましても私にはお返事の致しやうが御座りませぬと言ひ出づるに、何をと母が顏を出せば、あ、植村さん、植村さん、何處へお出遊ばすのと岸破と起きて、不意に驚く正雄の膝を突きのけつゝ縁の方へと驅け出すに、それとて一同ばら〳〵と勝手より太吉おくらなど飛來るほどにさのみも行かず縁先の柱のもとにぴたりと坐して、堪忍して下され、私がわるう御座りました、始めから私が惡う御座りました、貴君に惡い事は無い、私が、私が、申さないが惡う御座りました、兄と言ふては居りまするけれど。むせび泣きの聲きこえ初めて斷續の言葉その事とも聞わき難く、半かかげし軒ばの簾、風に音する夕ぐれ淋し。 五  雪子が繰かへす言の葉は昨日も今日も一昨日も、三月の以前も其前もさらに異る事をば言はざりき、唇に絶えぬは植村といふ名、ゆるし給へと言ふ言葉、學校といひ、手紙といひ、我罪、おあとから行まする、戀しき君、さる詞をば次第なく並べて、身は此處に心はもぬけの殼になりたれば、人の言へるは聞分くるよしも無く、樂しげに笑ふは無心の昔を夢みてなるべく、胸を抱きて苦悶するは遣る方なかりし當時のさまの再び現にあらはるゝなるべし。  おいたはしき事とは太吉も言ひぬ、お倉も言へり、心なきお三どんの末まで孃さまに罪ありとはいさゝかも言はざりき、黄八丈の袖の長き書生羽織めして、品のよき高髷にお根がけは櫻色を重ねたる白の丈長、平打の銀簪一つ淡泊と遊ばして學校がよひのお姿今も目に殘りて、何時舊のやうに御平癒遊ばすやらと心細し、植村さまも好いお方であつたものをとお倉の言へば、何があの色の黒い無骨らしきお方、學問はえらからうとも何うで此方のお孃さまが對にはならぬ、根つから私は褒めませぬとお三の力めば、それはお前が知らぬから其樣な憎ていな事も言へるものゝ三日交際をしたら植村樣のあと追ふて三途の川まで行きたくならう、番町の若旦那を惡いと言ふではなけれど、彼方とは質が違ふて言ふに言はれぬ好い方であつた、私でさへ植村樣が何だと聞いた時にはお可愛想な事をと涙がこぼれたもの、お孃さまの身になつては辛からうではないか、私やお前のやうなおつと來いならば事は無いけれど、不斷つゝしんでお出遊ばすだけ身にしみる事も深からう、あの親切な優しい方を斯う言ふては惡いけれど若旦那さへ無かつたらお孃さまも御病氣になるほどの心配は遊ばすまいに、左樣いへば植村樣が無かつたら天下泰平に治まつたものを、あゝ浮世はつらいものだね、何事も明すけに言ふて退ける事が出來ぬからとて、お倉はつく〴〵まゝならぬを痛みぬ。つとめある身なれば正雄は日毎に訪ふ事もならで、三日おき、二日おきの夜な〳〵車を柳のもとに乘りすてぬ、雪子は喜んで迎へる時あり、泣いて辭す時あり、稚兒のやうになりて正雄の膝を枕にして寐る時あり、誰が給仕にても箸をば取らずと我儘をいへれど、正雄に叱られて同じ膳の上に粥の湯をすゝる事もあり、癒つて呉れるか。癒りまする。今日癒つて呉れ。今日癒りまする、癒つて兄樣のお袴を仕立て上げまする、お召も縫ふて上げまする、それは辱し早く癒つて縫ふて呉れと言へば、左樣しましたらば植村樣を呼んで下さるか、植村樣に遇はして下さるか、むゝ遇はして遣る、呼んでも來る、はやく癒つて御兩親に安心させて呉れ、宜いかと言へば、あゝ明日は癒りますると憚りもなく言ひけり。  正しく言ひしを心頼みに有るまじき事とは思へども明日は日暮も待たず車を飛ばせ來るに、容躰こと〴〵く變りて何を言へどもいや〳〵とて人の顏をば見るを厭ひ、父母をも兄をも女子どもをも寄せつけず、知りませぬ、知りませぬ、私は何も知りませぬとて打泣くばかり、家の中をば廣き野原と見て行く方なき歎きに人の袖をもしぼらせぬ。  俄かに暑氣つよくなりし八月の中旬より狂亂いたく募りて人をも物をも見分ちがたく、泣く聲は晝夜に絶えず、眠るといふ事ふつに無ければ落入たる眼に形相すさまじく此世の人とも覺えずなりぬ、看護の人も勞れぬ、雪子の身も弱りぬ、きのふも植村に遇ひしと言ひ、今日も植村に遇ひたりと言ふ、川一つ隔てゝ姿を見るばかり、霧の立おほふて朧氣なれども明日は明日はと言ひて又そのほかに物いはず。  いつぞは正氣に復りて夢のさめたる如く、父樣母樣といふ折のありもやすると覺束なくも一日二日と待たれぬ、空蝉はからを見つゝもなぐさめつ、あはれ門なる柳に秋風のおと聞こえずもがな。 底本:「樋口一葉全集第二卷」新世社    1941(昭和16)年7月18日発行    1942(昭和17)年4月10日再版 底本の親本:「校訂一葉全集」博文館    1897(明治30)年1月9日発行    1897(明治30)年6月再版 初出:「讀賣新聞」    1895(明治28)年8月27~31日 ※「太吉太吉」と「太吉々々」の混在は、底本通りです。 ※送りがな、振りがな、漢字の使い方の不統一は、底本通りです。 入力:万波通彦 校正:岡村和彦 2014年11月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。