民族の感歎 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 民族の感歎  斎藤さんの文学や、学問に理会のおそかったことが、私一代の後悔でもあり、遺憾でもある。勿論今の人たちのうちでは、私などが最長い愛読者であるには間違いない。ただその研究・作物を愛する道を知ることの遅れたことが、どんなに私の損失になっているかわからない。作家から言っても、千樫・赤彦と移って、其後、斎藤さんの具有する諸相を理会する時が、やっと到ったのである。それだけに、今における尊敬は、私にとって深刻なものである。が、何故もっと若い、触れ易く受けやすい時代に、斎藤さんを自分胸臆のものにしておかなかったかと思う。全面的に此人を感じることの出来たのは、今から思えば、肝腎私が、アラヽギを去って後のことであった。 松かぜは裏の山より音し来て、こゝのみ寺に しばし きこゆる 松かぜのとほざかりゆく音きこゆ──。麓の田居を 過ぎにけるらし 石亀の生める卵を くちなはが待ちわびながら 呑むとこそ聞け こういう歌を作る境地に達した人と、しんから近づいて行って、心を重ねてものを言うことの出来ぬ寂しさを思うたことであった。その頃考えた。こういう極度に整頓した生活を表現することの出来る人が、同時に作った「石亀の歌」である。これにも尋常我々の音の感覚と変ったものが、通じているに違いない。これを唯作者の持つ特異の境地にある、異質のものと見過すのは間違っているだろう。そう思って、「がれいぢ」の歌・「ぼろ切れの如く」の歌・「ねずみの巣」の類の、それから後も続々あらわれた別殊の歌風にあるものとせられている歌の類を考え併せて行った。其作品に通じているある宗教観──或は逆に、宗教観を据えて見る時、理会の深くなるような種類──そういうものが、更にもっと底にあることを感じた。そして将来具相せられようとするものが、既に示されているらしいことをほのかに感じた。それが又後に愈著しくなって来ようとしていることを、私の心は、疑わなくなっていた。其が此人に逢う機会をなくした後の私に、気のついたことの一つであった。  互に近く山を距てて夏を住みながら、消息せずに暮した強羅の作を、幾度も見た。特に箱根山中でも、風物の変化の乏しい所に夏毎を籠って、而もあれだけの量の作物を為している。山を距てて姥子の奥に起臥して居た私などは、唯驚歎するばかりだ。風物によってのみ作っている我々から立ち離れて、風物自身の如く、静かにたたみ込まれた心の奥を打ち出して来る事の出来る境地に達した事を意味しているのだ。これに前後して、長崎の歌があり、更に一日のうち物を言わずして過すことの多い、そうして見る風物も、何一つ親昵感を起す物なき欧洲遠行中の多量の歌。又支那・満洲の無限につづく連作とも言うべき歌々。それから近年の北海道の諸作。それらのものの上に通じていて、而もどうしてもはっきり顕れて来ない姿のあることが、思われていた。  長い日のうちに、ただ一度二度異国のおとめが用を達するため、どあを開いて声をかけて来る。──こういう人間接触も、歌にすることの出来る人は、少しは、あるだろう。併し、唯物もない水平線や流沙に向って、倦んじ暮す大洋平原を心に活して詠むことの出来た人は、他に誰があったろう。国境を越えて更に国境へ──長い鉄路の経験──唯もう漠々たる長沙を幾日も眺め暮す生活などは、座談にのぼすことすらおっくうな筈である。而も、それをちゃんと、生活からかっきり截り出して作品にしている。ほかに学問や歌に対する手柄はいろいろあるが、この一つは、よく我々の同時代人には、見取っておいてほしいものである。  我々の次々の時代には、もうどういう風に、歌の考え方が変っているか訣らないからである。殆こう言う空虚を歌にすることの出来た人は、前人には一人もいなかったと言うことが言いたいのである。斎藤さんが、最尊敬する万葉人には、ややそうした風も見えるが、これはただ音調のみの世界を描き得たものがあるというだけのことであった。私をこわがらせる──こうした空虚を具相する心、此人の心を俟って具相し得た真実相が、茲にはあったことを言っておきたいのである。  日本人が尊び馴れて来た観念文学には、更に奥があって、それがこの人にとりあげられている。そういうことが、自信を失ってしまった日本人の心に、新しい力となって来ること、其に期待を掛けずには居られない。  茂吉文学の愛唱せられている奥に、更に見忘れられた真実がある。そう言うことも考える必要がありはしないか。  だが此事は、もっとこの人の人柄から出る学問と、関聯させて説くべきであった。 〔一九五二年四月〕 底本:「エッセイの贈りもの 1」岩波書店    1999(平成11)年3月5日第1刷発行 底本の親本:「図書」岩波書店    1952(昭和27)年4月 初出:「図書」岩波書店    1952(昭和27)年4月 入力:川山隆 校正:岡村和彦 2013年6月14日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。