京洛日記 室生犀星 Guide 扉 本文 目 次 京洛日記 前書 一、薪一休寺 二、龍安寺 三、妙心寺 四、靈雲院 五、東海庵 六、隣花庵 七、去風洞 八、大徳寺方丈 九、大仙院 十、聚光院 十一、高桐院 十二、無隣庵 十三、西芳寺 十四、放送局 十五、飛雲閣 十六、うすゆき 十七、京の町 十八、旅愁 十九、手帖 二十、圓山公園 二十一、食堂車 前書  十年前に金澤にゐて京都の寺を見に出かけようとして、芥川龍之介君に手紙を出してその話をすると、簡單な京案内のやうなものを書いて呉れた。文庫からその手紙を取り出して見ると卷紙一間くらゐに、お土産まで細心に注意して書いてあつた。「京都の宿は三條木屋町上ル中村屋といふ家へとまらるればよからん 家はきたなけれど加茂川叡山の眺めよろし 茶代は一週間十圓か十五圓にてよろし それより下はやつてもそれより上はやるべからず 女中は五圓、これも一人にやれば澤山なり 食事は近所の茶屋のをとつてくれる故上等也 金閣銀閣は是非見給へ、兩閣とも案内人は説明しながらずんずん進めど 遠慮なくゆつくり見物する方得なり 觀覽料に高下あり 高きは薄茶とお菓子が出る 一度はのんで見るも一興ならん 東山より本法寺(?)高臺寺皆一見の價値ありどちらも四條より下なり 粟田口の青蓮院も人は餘り行かぬところなれど襖畫張つけ等もよろしく夜も小ぢんまりとしてよろし 是非見るべし 大徳寺相國寺建仁寺も見て損をせぬ事うけ合なり 博物館にも名高き青磁など見るべきものあり是亦一見を吝む勿れ お茶屋は瓢亭、伊勢長にて足る 西洋料理はへどの如して食ふ可らず北野のまるやのすつぽんも有名なり 是等は皆中村屋より電話をかけさせ給へ 同封の名刺二枚、一枚は中村屋へ、一枚は小林雨郊と云ふ畫家へなり(中略)「みすや」といふ針屋の針「駿河屋」と云ふ菓子屋の羊羹、その外菓子は麥ボオロ、うハろか(イタミ易イ)、豆ねぢなど土産に貰ふとよろこびます。(大正十三年九月十二日)  いかにも澄江堂らしい親切な手紙であるが、その年も都合が惡くて上洛できずに何時の間にか十一年も經つて了つた。手紙の中村屋へ行くにも名刺が失せてゐるので、わざわざ手紙を持つてゆく譯に行かなかつた。  京都に着いて五分も經たないあひだに、佐分さんが見えた。佐分さんは西川一草亭氏の高弟である。何でも彼でも佐分さんの言ひなりにならないと、お上りさんの私には東も西も分らないのである。佐分さんの手帖と私の手帖の何枚かがお寺の名前で一杯になつてゐる。二人は手帖を出し合つては話をし、七條の驛から電車に乘つた。一番遠いところを先に見ることにしたのである。  宇治の端れごろから、厚い緑を膨らがしてゐる茶畠が見え出した。冬枯れの野に健康な緑色を見ることは樂しい。芥川君のあてかいな、あては宇治の生れどすといふ前書のある、「茶畠に入日しづもる在所かな」の句を思ひ出した。宇治の村は夏蜜柑も光つて見える懷かしい在所のやうであつた。 一、薪一休寺  田邊といふ町で電車から下りると、燒芋屋の湯氣が甘い匂ひを漂はし、芋釜の漆喰の肌に芋のつぼやき、ほこほこと書いてあつた。ほこほこといふのは京都の言葉であらうが、柔らかくゆでられたお芋の感じがまつすぐに出てゐた。  田邊から一休寺に近づくほど家並が古く、白壁のある築地が見え、田甫が見え、古い田舍の感が深かつた。一休寺の石疊の門をはいると、とつつきに三本の老杉が立つてゐて、それがこの寺の古いことをすぐに教へてくれた。ふた側にある低めの土塀の瓦がとても美しかつた。京都の寺々の瓦はみんな立派なものであるが、或る意味で京都は瓦の都であるかも知れなかつた。どこを見ても瓦が漢墨のやうにくすんでぎしぎしと押し合うて見えるからである。老杉の下にゆくと、太い根が二尺ばかり肌を露はしてゐるのが、とても逞しかつた。地面に半分ばかり入つてゐる確かりした食ひ込みの剛直さは、まはり六七尺もある老杉と釣合うて何ともいはれず美事だつた。  薪一休寺の薪といふ意味はどういふんでせうとたづねて見たが、佐分さんは知らなかつた。一休さんの廟のある前庭を見た。村田珠光の作であるが、四百年も前に作られた庭であるとは思へないほど、親しい新しさがあり、小ぢんまりと纏まり令人のやうに羞かんで見えた。此處は這入つてはならぬので外から眺めるだけであつたが、小鳥一羽下りてゐない靜かさは、大切にしまはれてゐた古い繪畫のやうであつた。ここまで美しくなるといふことは年代のせいもあるが、しかも此の新しさは何ともいへないよく保護されて來た新しさであつた。掘り出物の三島のやうにまるで新しい。  白砂がよく生きて敷きつめられ、處々の石の間につつじの圓物をかがつた、優しいお庭である。美しいより外にいひ樣のない庭であつた。廟堂の疊屋根の焦茶いろに沈んでゐるのに立派な瓦が釣合つてゐて、これも無類に澁かつた。  庫裡の煤で光つてゐる梁や柱や板の間に、煤竹を編み込んだ大衝立があつたがこれも古色愛すべきものであつた。三方鍵型にした奧庭は中心を三尊形式にして、石とつつじでかがつてあつたが、名園といふものはかういふものかと私は却つて土塀の瓦に見惚れた。石川丈山、松花堂、佐川田喜六の合作であるさうであるが、石庭はどこまでも一本調子でゆくべきであると思うた。奧の松の下かげにある四五の石のくみ方はうまかつたが、三尊形式といふものが無理な行方であると思うた。いまさらに立石を疊むといふことの難かしいこと、相當の名人がやつても落着かないでゐることを感じた。新しい松が二本立つてゐるが、あれはどうにかならぬものかと思うた。  裏手の墓原に出て見ると、五輪塔が一尺くらいのから、茶人、佐久間將監の一間くらゐある巨大な五輪塔までずらりと併んでゐて、白い石苔をかぶつたまま、美しさのために夜啼きをしてゐるやうであつた。倒れかかつて靠れ合つてゐるのや、脊伸びをした相輪が星にとどきさうに見えるのや、累々として私の心にぎしぎし詰め寄つて來るやうであつた。  佐分さんがうどんを食べようと言つて、私どもは庭を辭して小さいうどん屋にはいつた。佐分さんはその爺やから薪といふのは字名であることを教はり、一休さんがお見えになる前、七百年前には荒寺であることを聞かされた。そして私はうどんを少し殘すと、爺やはうどんを殘す人があるか、火鉢にあたつてみんな食べて行きなはれ、と、親切に叱つて呉れた。私はうどんの殘りを啜らねばならなかつた。  私はうどんを啜りながら、まるで一休寺にある杉苔といふ苔は古い錦のつづれのやうに見えて來て、しかもそのつづれの美しさは無類なものに思はれた、殊に廟の前の小さい庭が庭であるよりも古い掛物のやうにも思はれてならなかつた。しかもこの温かい古い繪を冬になつて見に來たことも、他の季節には見られぬ嚴しさと温かさとを感じられたのである。この庭の骨ばかりを見せてゐることもいいと思うた。 二、龍安寺  龍安寺の山内にはいると、町の女房が一人風呂敷包を提げてゐて、結び目から杉の枯枝が一杯に覗いてゐた。薪拾ひをするのにも風呂敷を用意する、この古女房の心がけが頼母しかつた。これは京女がかういふ局ましやかな風俗を持つてゐるのかも知れない。  町の中で降らなかつたのに、石庭を圍うてゐる土塀の六枚下ろしに葺いた瓦の上に、程よろしく新しい雪が鱗形に殘つてゐた。石庭の王者であるこの庭の石と石の靜まり返つてゐる光景は、二度三度と見直すごとに深められてゆく。六十坪に十五の石が沈み切つてゐるだけである。併し無理に私どもに何かを考へさせようとする壓迫感があつて、それがこの庭の中にゐる間ぢう邪魔になつて仕方がなかつた。宿にかへつて燈下で考へるとこの石庭がよくこなれて頭にはいつて來るやうである。固い爺むさい鯱張つた感じがうすれて、十五の石のあたまをそれぞれに撫でてやりたいくらゐの靜かさであつた。相阿彌の晩年の作であるといふ志賀直哉氏の説は正しい。只、爺むさく説法や謎を聞かされるのは厭であるが、相阿彌のこの行方は初めはもつと石をつかつてゐてそれを漸次に拔いて行つたものかもつと少なく石を置きそれに加へて行つたものか、盤景をあつかふやうな簡單な譯に行かなかつたに違ひない、相阿彌が苦しんでゐるのが固苦しい感じになつて今も漂うてゐるのであらう。  この石庭の裏山に大抵の人が見逃すらしい、素晴らしい寶篋印塔のあることを發見したが、室町時代のものらしい寶篋印塔の清瘠なやつれが、灰を見るやうなさびれを感じさせた。相輪を埋めてゐる石苔が笠臺の上から基礎まで、ぺつとりと灰に薄い緑色をまぜた花のやうに蒸しついてゐた。笠にあるたるき模樣の美しさは類ひないほど、五基相叫びながらその美と美に疼いてゐた。就中、基礎を二重にした一番高い相輪をいただいてゐるのが、とりわけ逸品であつた。  その他に小さい五輪塔が茸のやうに立つてゐて、どれにも風化の圓みが行はれ、石苔を帶びて恍惚せざるを得なかつた。寶篋にせよ輪塔にせよ肝心なものは深いやつれの行き亙つてゐるものほど、寂莫の羽ばたきがよりよく私には聞えるのである。  かへりに石庭が土塀の額ぶちにはめ込められてゐて、どの石も動かないやうになつてゐることを感じた。これは額の中の庭であつてそのやうに大切に藏つて置かなければならないものであつた。  石塀のきはにあるえい山苔のやうなものが生えてゐたが、これはこの額ぶちを彩どる一つの下草である。これは氣をつけないと忘れてしまふが、重い役目を持つてゐて下草といふものがどういふ時にもいるものだと切に感じた。  山内の松と落葉樹とが冬ざれの中に立つてゐて、池を抱きこんでゐる姿がそのままに筋ばかりの美しさを見せてゐた。  龍安寺の解説のなかに昔書いた私の文章が引用されてゐるのに氣がついて、きまりの惡い思ひがした。それをしらずに五錢出して購めた私は、知らずにゐただけに自分の解説を買うたのは可愛い男であると思つた。知つてゐて購はずに歸つたらそれは神經に少しくらゐ應へるにちがひない。 三、妙心寺  妙心寺の本堂上に鐘をつく館が飛び出してゐて、本堂廂ぎはまで大梯子が架けられてあつた。屋根の上は屋根の勾配に從うた筏梯子がかけられ、本棟と少し下つた鐘樓との間に又別の小梯子が懸けられてあつた。私は立派な建物にかういふ粗末な梯子のあることに釣合の子供らしい喜びを見出した。綺麗すぎる妙心寺の間にかういふ梯子を見出すことで、私は固苦しさから脱けられるやうな氣がしたのである。  本堂に登る石壇が一寸ばかり滅入り込んでゐて、その間に何やら青い葉が覗いてゐた。よく見ると、それは冬も青い葉をもつ白花を着ける菫であつた。この石壇一つだけ滅入り込んでゐるのも不思議であるが、かういふ隙間に菫が生えるといふことも珍らしかつた。石疊から石疊をたたんである境内に一本の雜草もないのに、菫が忍んで生えてゐるのも、清い感じであつた。 四、靈雲院  庫裏からの板廊下が蝕ばんで、その腐蝕の跡が數珠模樣のやうな彫りを見せてゐた。古い板廊下の美しさや柔らかい踏みごこちが、有難い程だつた。  墨繪をかいた是庵の作になる石庭は、石がお互に蜘蛛の糸を微かに引き合うてゐるやうな弱い釣合を見せてゐた。どれも因縁のある配置であつたが、よわよわしい物足りなさが感じられた。  ──玉座の前はお召しものをお脱ぎくださいませ。  案内役の老いた僧侶が恭々しく注意した。私どもは襟を正して玉座のあつた一段深い、奧の間を拜したのである。そこは御簾を垂れた薄ぐらいなかに何百年か前の、玉座を護つてあつたのである。  この妙心寺塔頭の靈雲院には珍らしい火防の大團扇が、鳶口や火事繩と一しよに庫裏の入口に立てかけてあつた。鳶口は何處の寺でも見受けたが、火防の團扇はここだけしか見られなかつた。長さ七尺くらゐの柄のさきに黒塗の團扇がついてゐて、白い墨で靈雲といふ二字が書かれてあつた。火事の折に火の子をふせぐ爲らしい。それから僧都の履物を入れる下駄箱があつたが、中から女持の紙入のやうな艶めかしい沓が覗いてゐて、それが妙に頭にのこつてならなかつた。 五、東海庵  白砂を敷きつめた間に、七つの石を配した中庭があつた。これも石と砂より外には何もなかつた。子供らしいやうで、何か考へてゐるやうな配置であつたが、見る方が素直になれない氣持だつた。意味ありげな振舞は私には感心できなかつた。譯もなく感心させてくれる庭はないものか。  奧庭もさほど深い感銘がなかつたが、隱れたところで偶然か庭の奧に筧の落ちる音がしてゐた。  この東海庵の庫裏には例によつて火防の大鳶口と小鳶口とが十挺くらゐ、壁に架けられてあつた。古い金具の錆びた味ひは、鳶口だけに妙に注意を惹いて來てならなかつた。上框のどつしりした古材の立派さは、むしろ煤で光つてゐて奧の方が艶めかしい位赭肌が剥げかけてゐて、美しさの極みであつた。 六、隣花庵  私は通りすぎようとして足を停めた。下寺の小さい前庭の一つも手入れをしてない松五六本と苔とが眼にはいつたのである。外に見えるものは切張りをした本堂正面の二枚の障子くらゐで、その切張りをした薄い氷のやうな障子紙があざやかであつた。  五六本の松の根もとは苔が蒸しついてゐて、金澤の寺などにもかういふ靜もるといふ感じのする庭があるが、この妙心寺境内の壯麗な古い建物のなかでは、かうも靜かな技巧のない素直な庭があるものかと、私はそろそろ里心がついて來たのであつた。餘りに凝りすぎて瘠せた庭々のなかを歩いてくると、もはや私のからださへ衰弱するやうな慘酷な造庭技術の中で、寧ろ私は嘘ばかり見て歩いてゐるのではないかとさへ思はれるのであつた。それ故、私はしばらく庭の中に立つて何處といふあてもない、松の木と苔と、ななめに射した京都どくとくの寒々とした薄い冬の日ざしを眺めた。私のやうな人間が庭など眺めて歩いて、心の足しになるつもりか知らと思うた。この庭には何もないがまた一切があつてこれだけでも庭は既に事足れりではないか、──佐分さんにこの話をしようと思うたが、默つて石疊の上に出て行つた。門札は無隣庵としるされてあつた。 七、去風洞  去風洞でお茶が出、お孃さんが紙を折るやうな手つきで茶を立てられた。私はお茶の法を存じませんからといひ、野人禮にならはぬことにした。  薄ぐらくなつて庭に出て見たが、池のへり、池への逃げ口に生えた石菖に一本の枯葉もないのに驚いた。圓物の高さ一間くらゐの庭を劃つた寒竹と檜葉の垣根のしきりが、土用波のやうに十二三間も續いてゐて、その手入れの程が私にこたへた。  玄關入口の芭蕉の株をみんな剪つてあつたが、只、それだけでよかつた。こんどから京都に來るならお茶をひととほり心得て置かないと、參ることがあると思うたが、私のごとき野人がお茶をならつたら空々しくなり、私はその空々しいために弱ることだらうと思うた。 八、大徳寺方丈  大徳寺方丈を訪ねると、古い町家の錢箱のやうなものが庫裏に出してあつて「書出入」と書いてあつた。  遠州作の方丈正面の庭も白砂をしきつめ、左手に少しばかりの樹木と、樹木の間に立石を食ひ込ませ、前に石を二つ三つあしらつてあるきりであつた。比えい山を取り入れ、東山を取り入れた遠州の手法であつたが、私の氣持はこの石庭についてゆけなかつた。どこにも私の氣持をやすらげてくれるところもなく、只、きうくつな鹿爪らしいものばかりが重なつて感じられた。私は悲しくさへなつて行くほど感情ぬきの庭の固さが、心に影響して來たのである。立石を樹木の間に立てかけたのはどういふ意味か、それが奈何なる意味をも作者の遠州は説明してはならないのである。私は淋しく方丈を辭したのである。 九、大仙院  龍安寺の相阿彌は大仙院の石庭では全く異つた複雜な、少しくらゐ煩さい位の多くの石を馳驅して、瀧から流れる一すぢのせゝらぎを作つてゐた。橋から下の方、岸から川の中に頭だけ出してゐる、平明な石が利いてゐた。舟が浮んでゐる有樣で舟型の石が流れに向つて行く光景であるが、その舟石が大きすぎてゐるのが却つて無器用で面白かつた。狹い庭にごちやごちや石をならべ、ともかくもこれだけのものを作り上げるといふことは、凡手では仕上げられない仕事であらう。  川下に立つて見ると遠近法があつて、何やら可笑しいが子供でなければ相阿彌が作る庭らしい。これだけの相の異つた石材を集める爲には、相當に苦心をしたであらう。京都だからこれだけの材料を蒐めることができたのであらうし、江戸ではかういふ秀れた石がないのである。京都に名苑が多いのは何と言つても石が豐富であるからである。しかも、假りにこれらの石を一つだけ外して見ると、素晴しい時代と佳絶の氣持をもつてゐた。そしてどの石も名品であるに違ひない。  この庭を作るときに狹いために植木屋らはからだを動かすに都合がわるかつたに違ひない、しかも複雜な手法を重い物で現はすことは並大抵ではなかつたであらう。 十、聚光院  聚光院で利休の墓を見た。  これは生前に利休の愛した朝鮮の塔石らしかつた。台座に十六體の佛が丸浮出しに彫られ、その形が雲煙のやうに柔らかく古びてゐて、中の胴は灯袋になり笠といふ程のこともない笠から、すぐ浮彫の相輪が芋のやうに立つてゐた。素朴ないかにも利休が好きさうな石塔であつた。燈籠として見れば灯袋の調子もよく、灯袋上に角の彫りがあつて、下の佛の彫りを引締めてゐる。併しこの石塔の美しい佗びた氣持は相輪にあることは勿論で、その無恰好さの面白さに至つては私も初めて見たほどである。重々しいが鈍重ではなく、寂落とした灰色の淋しさは再び見ることの出來ないものである。利休もまた自らこれを墓碑に選んでおいた氣持は、細川三齋に似た佗びた心持に似てゐる。  その他に五輪塔が澤山あつたが、此處に珍らしく餅搗臼を茶碗くらゐの形にちぢめた水入れの、水鏡を淺く取つた石が塔の前に置いてあつた。私は始めて見たのであるが却々庭の置物として見ても、相當に見られる水入れのやうに思へた。石質に赭みをふくんでゐるのも、利いてゐる色だつた。 十一、高桐院  入口が田舍寺のやうに質素であつた。  先客があつて佐分さんと私とは暗い客間に通され、お婆さんと息子との先客に挨拶を交した。お寺で人に會ふと人間は禮儀を厚くするやうになるものである。お婆さんは身分の高い人らしく貴人の方々の噂をしてゐられた。  此處では方丈さんが手づから茶を立てて、出された。私は何年振りでお茶を呑むか分らない程、久しく濃緑の美しい泡をすゝつたことがなかつた。佐分さんはお茶人であるから膝辷りも手つきも鮮やかであるが、私は何にも知らないから一應それを斷つて私の流儀を終始してゐたのであつた。なまじひ、知つたか振りは却つて見苦しいものだつた。私は僧侶であつた父をしばらく振りで思ひ出し、子供時分によく父に立てて貰つたお茶の旨かつたことを思ひ出した。それほど父は子供の私を對手にするほどお茶を立てることが好きであるらしかつた。  納豆が出た。納豆は毎年大徳寺で作る茶菓であるらしいが、鹽氣が煮しめられて鳥渡からすみのやうな味ひであつた。酒の肴によいといふと方丈は笑つて、あるひは結構かも知れまへんと云つた。つれの佐分さんは私が出した御明料に幾らか足して出したらしく、うまい納豆は白紙に包まれて家苞にしてくれた。これを東京にかへつて酒のさかなにしようと竊かに考へた。  細川三齋の愛してゐた石燈籠を見たが、厭味がなく、靜かにやつれてゐて、ほそみも眼立たない素直な石燈籠であつた。細川三齋は參覲交替の旅中にも行く先々の宿場の庭にこの石燈籠を建てて眺め、これを鐘愛措かなかつた。死んだあとは墓にせよといふ言ひ附けで、たうとう墓にしたのださうである。三齋といふ人もよくよくの好者であつたらしい。旅行先に石燈籠を携つて歩くといふと今では變であるが、その氣持は最後に墓碑にまでしたことでよく解るのである。  この石燈籠の四圍を繞らした石の柵に、重い石の扉がついてゐて細川三齋の紋章をあらはしてあつたが、風雨にいためられ苔を蒸した氣持のよい一枚石の姿といひ、見逃しがたいものであつた。  けさがけの手洗鉢といふ、けさの四角な模樣をあらはした古井戸くらゐある大手洗は、どつしりと重い感じがあつて豪壯なものであつた。佐分さんはもつと高みに据ゑるとよいと言はれ、私もさう思うた。  裏の杉の立樹に山鳩がほうほう啼いて、飛石づたひに歩く私の耳をかすめた。本堂の天井から支那のものらしい古い塗燈籠が下つてゐたが、藏の中にあつたのをそのままにして置くのが惜しいから、此處に釣るして見たのですと機嫌のよい方丈さんがいひ、細みすぎるが却々よいと私は考へた。  此の庭では飛石がよかつた。えらんで、きたへたやうな小飛大飛が苔づいたまま、懷かしいばかりに打たれてあつた。茶室も結構であつた。棕梠繩で十文字に括つた石を四個置いてあつたが、それは此處から先に行つてならぬといふ、庭の掟であるらしかつた。石庭ばかり歩いてゐたので、茶庭にはいると細かい感情に行き逢うて何かほつとしたやうな氣持になるのであつた。 十二、無隣庵  山縣さんの別邸であるが、瀧の落口から右よりの疎林が美しい冬どきの枯枝を揃へてゐた。水を淺くとり、石を低く、流れのへりが細かい好みを表はしてゐた。それに京都どくとくの煙とも霧ともつかないよごれた空氣がこの新しい庭をよく見せてゐた。  佐分さんは感心なことには池には鯉がゐませんといはれたが、深みのあるために浮く粗朶の間に一杯の鯉が見え隱れしてゐた。これくらゐの水の豐富さがあるのだから鯉を放さずにゐられませんね、鯉がゐない池があつたら敬禮しますと私はいつたが、佐分さんは自分で見せて案内する庭を却々ひいきにしてゐるし、愛してもゐる、これが本統だらうと思うた。かへりに留守番の女の人が京の人らしく、愛想よく、お掃除が行きとゞきませんと、云つてくれた。 十三、西芳寺  西芳寺は苔寺ともいはれる程、苔が庭を隙間なくたたみ込んで、いまは冬どきの庭の骨を見るばかりであるが、厚い苔が深々と少しさびれを見せて一面に生えてゐた。けふは案内役が大河内傳次郎君であるが、うしろから室生さん見なはれ松の根が橋の上にまで這うてゐると云つた。そして茶室に泊るならお貸しゝてもよいとお寺のおばさんが言つて呉れ、大河内君はぜひ此處にお泊りなさいと云つた。私はやはり町の中にゐた方がいいといふと、いまでもカフエにお出でですかと大河内君がいひ、私は參つた氣持で行くと答へたが、何か胸につかへる弱つた氣分だつた。  池の水そこに淺い緑の藻が生え、水が美しく透明に澄んで夏のやうであつた。たつつきを穿いたお寺のおばさんは、庭が好きで好きでかなはん、ご飯焚くこともお針仕事も庭に出てゐると忘れまつせ。苔の剥げてゐるところは赤土を置いてそこへ苔の粉をばらばらと撒いておくと、すぐ生えます。さう云つてお寺のおばさんは話好きと見え、小さい飛石はわたしが打つたのだとか、いまではお寺にも電話を引いてあるから御用の時はいつでも架けてくれとか、松の根元には秋には松茸が生えるとか、今年は十二月の末に珍らしくあやめが二本咲いて、元日の佛の花に剪つてお上げ申したとか、全山にひびくおばさんの聲は絶えることがなかつた、ちよつと掃きに出てゐても、もう少しもう少しといふふうに掃いてゐて何もできはらんと、血色のよい顏を頻りに動かして云つた。  うしろは五萬坪もある深い藪になつてゐて、筍や竹材で一年三千圓くらゐ收入があるとおばさんが云つた。群る竹幹の間に、高啼きを續けてゐるひよどりの聲が鋭どかつた。  樫の實のこぼれてゐる小徑を山の方にとると、枯山水を摸した石の大群があつた。夢窓國師の作であるこの庭の高みに、これだけの石を疊むことは南北朝時代には大變な仕事であらうと思うた。かへりに白い土塀の下に生えた寺の入口のすぎ苔を美しいと思うた。薪一休寺でもすぎ苔が美しかつたが、何といつても廣大な庭一面に苔の生えてゐるところは、西芳寺だけであつた。お寺のおばさんは苔盜人の話をくどくどと大河内君に物語つてゐたが、大河内君は門の外に出ると、人の善いおばさんですねと云つた。  天龍寺にはいつた時はもう暗くなつて、昨夜の薄雪がところどころに斑に殘り、松吹く底冷えのする皓々たる風が寒かつた。何ちう京都は寒いところだと私はふるへて云つたが、私も寒がりでして京都はこれでこまりますと大河内君は赤い頬をして云つた。自動車はうす雪のけはひを見せた嵐山の下を通るころ、そとは全く暗くなつてしまつた。 十四、放送局  大阪の放送局から俳句のことを話して呉れと云ひ、僕は放送をしたことがないからと此前も斷つたが、こんどは京都の放送局が靜かでいいから其處から放送してくれてもいいからといふので、僕は京都見物かたがた出掛けて行つた。明治大學の講師になつて一ぺんきり講義をして、あがつて了つて卒倒しさうになり講師を辭した僕は、今度は一分間原稿紙一枚の割で、であります調子の原稿を二日分作つて行つたから、それを旨く朗讀すればよかつたのである。けれども三等寢臺にねころんでゐる間も放送のことを考へると、何か氣がかりでよく眠れなかつた。  三等寢臺といふのは至極暢氣だつた。僕は中段を取つてゐたが夜が明けると、廊下のカーテンを先に起きた人があけて呉れたので、寢ころびながら朝日に温かく蒸されてゐる、懷しげな冬がれの麥畠が見え、これはいい景色だと思ひ、煙草を喫みたくなつたが、三段にしきつた上の段の人も、下の段の人もまだ眠つてゐた。こつそり少しづつ喫んでやれと思うて灰皿がはりに紙で灰を受け、窓外を眺めながら一服してゐると禁斷の煙草は却々旨かつた。僕と同じい中段の向側の人も先刻からむづむづしてゐたが、僕が喫み始めたのでやつと安心をしてその人も煙草をふかし始めた。そして鞄の中から石鹸箱の蓋のやうなニツケル製の物を取り出し、その中に灰を落してゐた。うまい事を考へついたものだと思うてゐると、その人は僕の煙草の灰が落ちさうになつた時分に、そのニツケル製の蓋をのせた手を伸して、僕の方へ差し出してこゝに落しなすつたらといふのであつた。これはどうも濟みませんと云つて僕はいまさら不思議な人情を感じた。この模樣だと放送も旨く行くぜ、案ずるよりも生むが易いといふぞ、僕は縁起のよい氣持で、朝曇りのした春寒い七條の停車場に降りた。  旅館は花の師匠さんに頼んで置いたので、七條の通りから袋小路の奧にある家で旅籠屋くさくなくて靜かな宿であつた。放送は出勤前の人々に聞いて貰ふ關係上、朝の七時四十分といふのだが朝起の僕でさへ少しつらかつた。夕方になつて放送局に宿を言つて置くことを忘れ、外を散歩しながらそれを思ひ出して自働電話の箱の中にはいつて行つたが、東京にゐてさへ電話をかけたことのない僕は、分らない京都の言葉と、自働電話の手續きが判らないので、箱の中で外國に行つて西洋語で電話をかけるやうにしどろもどろになつて了つた。やつと電話をかけてしまふと交換手といふものは却々勘忍づよくて、親切者だわいと思うた。  朝六時に起きると、まだ屋根の上を見ても暗かつた。宿の者はやつとお湯を呉れてから、飯を焚くらしかつた。昨夕、少し早目に迎へを頼んで置いたので七時五分に放送局の自動車が來た。外套を着たり帽子をかぶると氣持が更まるので、宿にゐるまゝの姿で、くるまに乘つた。放送局まで十分くらゐのあひだ原稿を大きな聲で復習して見た。どうせ放送局の自動車だから關はんといふ氣になつて、いい氣になつて、音讀してゐた。  放送局は靜かで氣持を亂すものがなく、温かくなつてゐて、少しもあがることがなかつた。アナウンサーの人が出て來てお茶をのんで話してゐるうち、妙な今日の後見役のやうな氣がして親しかつた。初めてですから五分間ほど前からマイクロホンの前に坐らして下さいといふと、放送室につれて行つてくれた。わたくしが御紹介しましたらおはじめ下さい、先刻からあなたのお話してゐらしつたとは、ちよつと心持大きめな聲でおはなし下されば澤山です、さうです、そのくらゐのお聲で、──ではどうぞ、……そこで僕はしやべり始めた。三四枚くらゐを夢中でやつて了つてこれは少し早口だと思ひ、二枚ほど少し落着いてしやべつてゐるうちに、また早くなつてゆめうつつのうちに三四枚しやべつて了つた。誰が聞いてゐるか分らんから確かり腹をすゑてかからねばならんぞと思うて、また氣を取り直してしやべつてゐるうち、ふしぎに調子に乘つてこんどは得意になつてしやべつてゐることに、氣がついた。この野郎いい氣になつてゐやがると思うてゐると、ハツとしてうしろにゐる筈のアナウンサーがそつと室の外に出て行つたらしい氣はひを感じた。はて、聞くに堪へないから出て行つたのではあるまいか、いや、それとも何かの用事かな、さう思つてゐるうちに又室の中にアナウンサーが戻つて來たやうな氣はひがした。助かつたやうな感じだつた。二十四枚しやべつて先刻から何度も見ようとしても見られなかつた腕時計を見ると、卅分を二分すぎてゐた。僕は左の手をうしろで動かしてもう濟みましたといふ合圖をした。アナウンサーは僕を自由にしてくれた。  控室にもどると妙な震へをからだに感じた。講演前に感じなかつた胴震へだつた。アナウンサーは外へ出て聞いて見ましたが、よく分りましたと言つた。やはり室を出たのだ。では六點くらゐ貰へますかといふと、少し早口のやうですと言つてくれた。  宿にかへると女中が何もいはないのに、よく聞きはりましたと言つたから、三遍吃つたでせうといふと、さうでしたかい、と、頼りない返辭だつた。  中一日置いてもう一度朝も早くに放送しなければならないので、例によつて迎への自動車の中で豫習をしながら行くと、朝の遲い京都の町家はやつと起きたばかりらしかつた。例によつて制服の下役の人が玄關前に迎へてくれ、わづか三度しか顏を見ないのに妙な人なつこい氣持を感じた。アナウンサーの人がこの間の人と違つてゐたが、すぐ親しくなり一緒に室にはいつて行き五分ばかりぢつとして、しやべり始めた。防音裝置がしてあるので自分の聲が低くなつて聞えるのが、却つて能くしやべれるやうな氣がした。この前の日はお湯を飮むこともできなかつたが、こんどは放送前からお茶碗の蓋を取つて置いて何時でも飮めるやうに手元に置いてあつたから、それを飮むだけの餘裕があつた。お湯が大變にうまかつた。出來るだけゆつくりしやべるやうにしてゐたが、やはり早くなつてしまつた。この前の日から見ると樂にしやべつて控室に行つたが、やはり濟んだあとにからだが震へて仕方がなかつた。これは仕事を濟した安心と、さらに新しい憂慮から來る震へかも知れなかつた。  かへりの自動車にのる前に、アナウンサーの人にも、また默々として送迎してくれる制服の下役の人にも、今まで他人に感じたことのない親しみと別離とを感じた。放送が厭で心配だつたからさういふ間に會つた人々であつたから、殊に懷しい氣がしてゐたのかも知れない。  宿にかへると、女中が茶を入れながら、よく聞えました、と云つた。咳を一つしたが聞えましたかといふと、それはつい聞き落しましたと云つた。  東京の放送局の多田不二君が來て、實は心配して大阪で聞いたが、あれなら相當聞けますと云つてくれた。君は寢床の中で聞いたのでせうといふと、いや、友達甲斐に起きて聞きましたよ、と云つた。放送といふものは辛いものだ。原稿を用意しなければならないし、風邪を冒いては聲が出ないし、前の晩は夜更しはできないし、飯を食ひすぎてもいけないし、……さう言つて僕には大役を濟ましたやうな氣がした。京洛の寺を見て歩いてゐる間も、しよつちう放送のことが心配になつて仕方がなかつたのだ。この話を大河内傳次郎君と會つてすると、僕なぞも撮影中は風邪を冒いてはならんとよく氣にする、昨日の放送は半分ほどでだれかかつて心配になつたが、すぐ直つて安心した。このごろ、どうも人を斬つたあとの足のつかひ方が氣になりますと言つたが、なるほど、氣がつかなかつたが、足といふものの形が重大な役目をしてゐるのかと思うた。僕は足をあまり注意して見たことがなかつた。 十五、飛雲閣  京都に來てから毎日雪がふらぬ日はない、時雨の都であるだけに日がさしてゐるのに、うすい雪がゆつたりした降りやうをして、そして何時の間にか止んでゐる。けふは京都を立つ日なので旅館の奧さんが次の間に來て、お約束の短册をかいてくれるやうにいふ。若しもお母さんが頼みにくいならわたしが行つておねがひすると娘が言つてゐますといふ。その娘といふのはまる一週間も泊つてゐる間ぢう、ついぞ顏を見せたことがなかつた。洗面所でうしろ姿を一遍と學校の歌らしいものを二度ばかり聽いただけで、僕に顏を見られまいと逃げ隱れでもしてゐるやうであつた。  短册をなぶりがきをしてゐると、女中が來てだまつてお茶をいれて置いてゆく、奧さんに一枚娘さんに一枚、そして女中にも一枚たのまれてゐるが、書きそこなつた短册があとに殘らなかつた。その譯を言ふと女中は泣くやうな顏をしたので、東京から送るといふ約束をした。  大河内傳次郎君があまり遲いので電話をかけると、こちらでも先刻から待つてゐるのだといふ。ではすぐこれから出掛けると大河内君が言つたので、同君の來るまでに表に出て晝飯をたべることにした。七條の角の料理屋で拙い鷄の油上げと林檎を一つ食べたが、給仕に出た女がお酒をのまないかといふ。僕は晝間は酒をのまないことにしてゐるのだ、きみは呑むのかといふと、今朝から五本ばかり呑んだと青い眼をすゑて云つた。言葉が東京者らしかつたので、きみは東京ものかといふと、淺草の生れだといかにも人をなめたやうな調子だつた。京都に流れて來てゐる女はたいてい京都の人をなめてゐるやうである。  宿にかへると間もなく大河内君が來たが、けふも酒氣をおびて老美少年のやうな赤い頬をしてゐる。どうして晝間呑むのかといふと、大阪の方に子供を置いてあるからつい淋しくて呑んでしまふと言つた。日活スタヂオの近くの家では彼はいつも運轉手と二人暮しだつたから、ついお酒をのむのであらうと思うた。  けふは本願寺の飛雲閣を見たいのだが、實は紹介する人がなくてこまつてゐると僕がいふと、譯をいつて頼めばいいでせうと云つた。きのふ、あなたにお會ひできなかつたから京極へ行つて一杯呑んでゐて、ふと忠治大會があつたので覗いて見ましたが、あのころは伊藤さんはじめ皆が熱心であとさき關はずに演つてゐたので、ついお終ひまで見てしまひました。と云つたから、忠治時分は野蠻だつたからよかつたのだ、あの時分から見るともうみんな大家になつてゐますからといふと、シツカリせねばならんですねと大河内君が云つた。  本願寺では時計が四時に𢌞つてゐて掛りの人が、もう薄暮だから飛雲閣はくらくてだめでせうと云つた。その薄暮といふ言葉が耳の中に殘つたが、どんなに頼んでも聞いてくれさうもなかつた。大河内君は奧さんの仲人の名前をいふと、やつと僕らを見直してくれ、仕方がないから言ひ合つて大河内君と二人の名刺を出すことにした。すると先刻薄暮といふ言葉をつかつた意地わるく僕を突放さうとした人が、こんどは急に好意を持つて奧の方へ行つて見物できるやうにして呉れた。そんな時でも大河内君は穩やかな女性的な眼つきで、少しも不穩な顏をしなかつた。  飛雲閣の庭は久しく箒を入れないらしく、京都の庭らしくなく荒れたままであつた。子供がはいると見え五六枚の齒朶の莖がまとめて、石の上に置いたまま枯れてあつた。石燈籠が大抵笠の方が缺けてゐて一本として無瑕なものがなかつたが、みんな時代といひ好尚といひ立派なものが多かつた。深く肌までしみ込んでゐるやつれが、眼にのこつた。これくらゐのが手にはいるといいんですが、と、大河内君がむらがる石燈籠の中をゆききした。十二三基はあるやうに思うた。朝鮮から持つて來たらしい三つの塔の笠を累ねた輪塔に、立派な細かいたるき口を見せたのが草の中にあつたりして、驚きを深くした。  飛雲閣の中で豐臣秀吉の湯殿を見たが、蒸風呂になつて板のすき間から温かい湯氣が上ることになつてゐる。一坪の厨子のやうな湯殿の外は洗ひ場が十疊くらゐあつて、美しい腰元が片手をついて俯向いてゐるのを、秀吉は眼に入れながら湯どのから出てくるのが、よく想像することができた。次の間は脱衣の居間になつてゐて、冠を置く棚が吊られてあつた。 十六、うすゆき  本願寺を出ると、小雪がちらついて、寒さは水の中にゐるやうに底冷えがして來た。加茂川に出て河原にまだ青い芝を見てからなるべく古い昔の町家のあるところに車を馳らしたが、しまひに寺と寺の間の小路に出ると、いきなりまた明るい通りに出た。今まで通つたことのない町だと大河内君が云つたが、その時暗いところから突然に巡査が出て來てかういふリヤカーでさへ漸と通れるところを、車で來るなんて君も亂暴な男だと詰問した。大河内君が何やらいふと、お客さまはそのまゝ默つてゐなはれ、と、京都はお𢌞さんまで優しい言葉つきだつた。結局あとで、來るやうにと運轉手は免許状を一時預けねばならなかつた。わしもあぶないと思つたが知らんことやから、しかたがありまへんと、運轉手が云つた。さうや、わしも通つたことのない道だと思つてゐた、あとで叱られて來なさいと大河内君がいふと、あとで叱られに行きますわいと、小ちやい體をした氣のよい運轉手が云つた。  わらじやで夕飯をとることにしたが、通された火の氣のない部屋はまるで寒さが待ちかまへたやうにしがみ付いた。爐に火が起つてどうやら生きたこゝちのした時分に、お三人さんのお客が見えたから今少し狹い部屋に入れ替つていたゞけぬかといふと、もうその支度を始めた。いまから火の氣のない部屋に代ることはできても、寒さのためそんな氣は起らなかつた。この儘ここに置いて貰へませんかと大河内君が暢氣な、何なら替つてもいいやうな氣はひを示したので、僕はもう寒うて動けんがなと、坐り込んで動く氣色を見せなかつた。で、やつと寒い目に會はずに濟んだが、大河内君はだいぶ經つてからあんまりなことをいふ家ですねと云つたきり、相渝らず穩やかであつた。かれの眼が柔和であるやうに少しも尖つたところがなかつた。自分では氣が短かいつもりでゐるのに、氣が永いとよくいはれますと云つた。僕はよほど先刻老女を叱りつけようと思うてゐたと云ひ、僕らが映畫で見てゐた大河内よりも、本物の大河内の方がよほど出來てゐると思うた。  宮川町のお茶屋に行つたが、茶の間に誰もゐないし呼んでも出て來なかつた。大河内君が料理場まで行つて何やらさんと呼びつづけると、やつとお内儀さんが出て來て、おほきに濟みまへんと云つた。暢氣だな宵のうちから寢てゐてと大河内君がいひ、二階へ上つた。一杯呑んでゐると、女が出て來たが、どれも古い顏ばかりだつた。眼尻の釣り上つた、鼻の小隆い、ほそり切つた、それだけで手に負へない健康をもつてゐさうな女ばかりだつた。或る舞妓めいた女の顏は十五錢の竹の串にさした人形そつくりで、氣味がわるいくらゐだつた。  ここでも大河内君はにこにこしてゐながら、胸のところから襯衣をのぞかし呑手らしくちびりちびりとやつてゐた。時々、笑ふ聲が心から笑つてゐるやうで、僕なぞいかにいつも世間に氣をとがらしてゐるやうで、もつと太平になつてもいいと思はれた。  十一時半の夜汽車で歸京するので、十時に逢ふ人があるから四條の交叉點で下ろしてもらうことにした。停車場まで行かうといふのをまだ一時間あるから、それだけ一人で呑んで京都に別れたい、あなたは先におかへり下さいといふと、そんなら四條のまん中で室生さんを下ろして上げるんだよ。逢ひたい人があるさうだからと大河内君がいふ。醉ふとこの人は妙に美しくなる。これは何のせゐかと考へると本物の大河内は老美少年であるからである。  四條でおりると、時計を見て、まる一時間、僕は小さいカフエで一人で呑んでゐた。此處は九州から出て來た人ばかりやから安心して呑みなはれ、と女が云つた。九州の女がそないに京の言葉をつかふのはよくないぞといふと、九州から出てくるとすぐ京の言葉をおぼえたのよ、と云つた。時計が十一時になるとあと三十分はくるまの十分、宿へ寄つて荷物をとるのに五分、停車場での五分をさし引いて、僕は十分間ぐづついて呑んでゐた。京都のカフエの女たちは温和しいのと、さうでないのと、ごつちやになつてゐた。斷髮で洋服を着た女が京都の言葉でしやべつてゐると、少しも似合はなかつた。何を言つても、おほきに、おほきにと言はれるので、しまひに馬鹿にされるやうな氣がした。四條の町角の長崎屋といふ喫茶店によつて、醉ざめがはりのソーダ水をのみにはいると、京都のインテリ階級の若い男女があつまつてゐるのに、面喰つた。落着いたやうな美しい女の人を見たが、どの人も東京者のやうにせか〳〵してゐないやうであつた。 十七、京の町  表通りで荷車の曳子が犬に綱の先引きをさせてゐるのを見かけたが、けふもまた犬の首輪と胴輪とに綱をつけて、疲れてゐるのに犬は傍見もしずに引いてゆくのを見た。頭にその哀れさがつかへて來てならなかつた。荷車の引子も犬なぞに氣をつかはないで、汗を流して引いてゆくのが犬がゐるだけに一そう見る方がつらく感じた。  錢湯に行つて五厘券といふものを呉れたが、五厘券十枚ためてただで湯に入れるらしかつた。さういふ五厘券といふものが生活の急所をいかにも鋭く突いてゐるやうで、私は辭退しずに貰つてかへつた。湯殿は東京とくらべると暗い、そして二人ばかり藥湯にはいつて上つた人が板の上に桶を枕にして、寢そべつてゐた。私の田舍にさういふ風俗があつたが、東京でそんな浴客を見たことがなかつた。それからもう一つ驚いたことは、或る浴客が水を出し放しにしてゐて、自分は上つて身體を洗つてゐながら、やはり水をとめなかつた。僕は氣が氣でなくその水を停めに入つたが、おかげでお湯は生ぬるくなつてゐた。僕はわざわざ宿の湯にはいらずに來たことを、悔いるやうな氣持であつた。  鋸屋さんで鋸目立と白く染めぬいた、鋸の繪をかき出した店があつた。僕は何度もそこの前を通り合せたが、その暖簾のやうなものがなぜか心に印象を受けた。肌の眞黒な鋸の繪が描いてあつて、鋸の齒が小刀のやうに尖つてゐた。  その隣に數珠ばかり賣る店があつた。數珠が小粒なのや大粒なのや、長いのや短いのやそれからまた頭痛のする位の大玉の數珠が吊されてあつた。僕は放心状態でその前を通つて行つたが、あれは數珠といふものだぞ、と、ただ、それだけ心でいひ心で答へるに過ぎないくらゐであつた。併し妙に忘れられなかつた。  自動車の上から町を見てゆくうち、百足屋(むかでや)といふ看板の出てゐるのが眼にとまり、何を賣る店であらうと思うた。むかでを賣る店であらうか、それとも足袋屋のことであらうかと思うたが、宿にかへつて聞くとすぐわかつて面白くないから、僕はいつでも百足屋といふのはどういふ譯であらうと自問自答してゐるに過ぎなかつた。或ひは屋號かも知れなかつた。  京都のお寺の拜觀料は心づけとしないで、草履代として一定にしたらどうでせう。西芳寺は一人二十錢に定めてあつたが、そのくらゐに定めたらいかゞなものでせう。三人の場合は五十錢にしたらいかがなものでせう。  京の女の人の言葉は優しい、男の人は優しすぎてあかん。僕なぞお上りさんに見られたらしく停車場に下りるとすぐに自動車に乘らうとして習慣的に近づかうとすると、車やさんが眼の前につツ立つて來て、自動車だと五十錢だが、わしの車だとその半分で行きます。損なことをしなさらんとわしの車に乘りなさいと親切にいつてくれるのであつた。なるほどそれもさう也、急ぐ旅ではなし、くるまやさん七條河原町までやりなされ! 十八、旅愁  京都に寺院や庭を見に來る人は大抵二日くらゐで歸つてしまふが、殊に庭を見る人は一日に三つ以上の庭を見るのは無理である。一日に二つくらゐ見てをれば感じが紛れなくてよい。僕は三つくらゐ見て歩いたが手帳にでも書いておかないと、佳いところを見ても忘れてしまふやうになるのだ。  どこの寺でも庫裏の板の間や廊下、戸や障子といふものが煤光りがして美しかつた。こつくりした煤色の材木が何ともいへない古さを持つてゐる。それに濕氣のある土地だけに瓦に苔があつて、瓦の立派さとよく釣り合つて美しい。  太秦村に大河内傳次郎君をたづねると、四年前に逢つた時とは少し肥つて好い血色をしてゐた。僕は鼠小僧の解決篇を見ないので、今夜で、替るといふので町へ行つて二人で見物した。自分の主演映畫を見たらどんな氣がするか分らないが、大河内君は神妙にだまつて見物をしてゐて、濟むまで何もいはなかつた。僕もいはなかつた。  京都の市中の家々の庭などで小さいものでかなりによく出來たものもあるらしいが、さういふ町家の庭といふものを一つも見なかつた。却つて名苑などと違つた意味で、そんな庭に呼吸を吹きかけたいやうな好い庭があるかも知れない。朝はいつも曇つてゐて、日が射しても明るくないぼんやりした日ざしは薄ら寒く、どこの庭を見て歩いても苔が生えてゐて、日かげによく調和して沈んだ色に見えたのである。空氣や濕度、不快活な日光などがどれだけ、京都の庭をよく育てゝゐるかも知れないのだ。  京都の女の人は大てい言葉つきから或る親しみが感じられるが、實際は言葉の優しさが性格にあるかどうか分らない。たゞ、東京辯の鋭い調子ばかり聞いてゐる僕などは、ひつそりと入つて來て用事をして呉れる旅籠屋の女中が、時時に物をいふ言葉を聞いてゐると大變に柔和に、心持ちよく接せられるやうである。外ではそれほどではないが、旅籠屋の靜かな部屋のなかでは一入に京都の女の人の言葉が優しく聞える──殊に僕などのやうに滅多に旅行をしない人間に取つては、京の女はたとひ少し綺倆がわるくても旅愁くらゐは感じさせてくれるやうである。或ひは綺倆がわるいほど旅愁が旅愁らしく感じられるかも知れぬ。美人といふものは騷々しい感じがするものであるが、綺倆のわるい女ほど靜かで、質のよい女になると美人よりもつとシンミリした味ひをもつてゐるものである。 十九、手帖  昨夜おそくに東京から多田不二君が來たので、離れにあんないして寢るやうに言つて置いたが、早起の僕の起きた時分はまだ多田君は寢てゐた。この旅籠屋の庭も狹いが石燈籠や九輪塔があつて、捨石のうへに寒椿が古い縮緬切れのやうに散落してゐた。宿屋とは名ばかりで一週間も泊つてゐるのに、客は僕ばかりだつた。薪で焚くらしい朝飯が毎朝のやうに二階の僕の耳にきこえた。  幾ら待つても起きて來ないので、此間から見て歩いた寺々の庭の印象記を書きはじめた。一日に幾つも庭を見て歩くと、印象がまぎれて稀薄になり、どの庭も同じいやうに配置が入りこんでならなかつた。おもに石庭ばかり見て歩いたせゐか、それも相阿彌や遠州のものばかりを見てゐたので、どの庭も同じい感じであつた。僕は手帳を覗いては原稿をかいてゐたが、僕の手帳は聯絡のない文字ばかり印象風にかいてあるので、本人の僕でさへよく判らなかつた。西芳寺などは、苔寺、茶室、お寺のおばさん、たつつき、杉苔、夢窓國師、どんぐりのおちてゐる徑、石の山、五萬坪の藪、といふふうで、他人が見たら少しも分らなかつた。  龍安寺の近くの石屋に高さ一尺くらゐの五輪塔があつて、それを購めて東京に送るやうに托んだが、子供の供養塔らしく、形の纒つた工合といひ、古さといひ、鳥渡見のがしがたいものであつた。年號は正徳であつた。墓など對手にしないと見え、誰も買手がないので、思うたよりも手ごろの値段で買へた。  三枚位書いてゐると、多田君が起きたらしく、朝湯にはいつてゐるらしい階下で湯の音がした。一しよに朝の食事をすますと、多田君は京都の放送局にちよつと寄りたいと言ひそれなら四條の長崎屋といふ喫茶店で會ふことに時間を定め、ぶらぶら京都の町を歩いて見ようといふことにした。  午後一時に長崎屋に行き二階から四條の交さ點を見下せる、日當りのほかほかする窓ぎはに坐つてゐたが、お茶もうまいしパンも旨かつた。四條の通りにいままで此所でお茶を喫んでゐた見覺えのある男女が、向ふ側をゆつくり散歩でもするやうに歩いて行つた。いままで此所にゐた人達であつたせゐか、不思議なものを見るやうな氣がしてならなかつた。  時計を見ると一時二十分も過ぎてゐるので、窓にもたれたまま、眼をとぢて少し居眠りしようかと思うた。東京にゐると日南ぼつこをしてゐるが、京都へ來て一週間は日光のある町を歩いてゐても、ゆつくり日南ぼつこをしたことがなかつた。寒い松のある寺々を見て歩くだけでも、からだが冷えるばかりで日南ぼつこなど、思ひもよらない贅澤なことであつた。何百年も經つ寺の建物の中の寒いことや、冷え切つてゐる空氣は、京都特有の底冷と相俟つて人氣がすると、それにしがみつくやうな寒さであつた。僕は嚏をしたり咳をしたりして霜に焦げた庭を見て歩いたのであつた。  やつと多田君が來て僕はねむさうな眼をあけたが、やはり二三分くらゐ眠つたものらしく、その居眠りの短いあひだのうつとりした氣持が、多田君の顏を見ると一そう樂しく思ひ出された。僕はいま居眠りしてゐたんだが、その間にもどこかの寺の庭の中にゐたやうな氣がするといふと、多田君はサンドヰッチが皿の上に夥しくのつてゐるのに呆れて云つた。 「これで二十錢とはばかにやすくしたものだね。」  さういへば一人で食べきれないくらゐの盛澤山のサンドヰッチであつた。パンの間に胡瓜の青い肌が覗いてゐて、ここだけは、早春のやさしい淺い色を見せてゐた。京都はサンドヰッチもやすく出來るやうに思はれ、僕は一皿みんなたべ、多田君の分までつまんで食べてしまつた。 二十、圓山公園  祇園近くまで僕らはぶらぶらと暢氣さうに歩いて行つた。  呉服やの番頭のやうな男に僕は祇園の町をたづねたが、その男は女の揚代やら風俗やらをていねいに話をしてくれ、何なら祇園近くまで行くから一緒に行つてもいいと言つたが、それを斷つてやはり用なしのぶらぶら歩きをつづけた。  祇園近くの骨董屋でいろいろ見て𢌞つたが、すぐにほしいものが見當らなかつた。石屋に𢌞つて燈籠を見てあるいたが、どれも氣に入らずに出た。晝の祇園の町を歩いて濃い緑茶が喫みたいと思うたが、あがりにくくて只、歩いて行くばかりだつた。うす暗い家がつづいて益々お茶が喫みたかつた。  芥川君の教へてくれた豆板といふ砂糖と豆とで固めた菓子を買つたが、却々しつかりした味があつて旨かつた。みすやの針は宿のおかみさんに頼んで置いたから買はぬことにした。男の子におみやげを搜して見たが、男の子のみやげといふものは却々見當らなかつた。  圓山公園の煙草屋に朝鮮物の小抽出のついた小箪笥が店に置いてあつた。煙草を購ひながらこれは珍らしいものですねとお世辭をいふと、いや、これは朝鮮から取つて來たものですが、どうも支那のものと違つて脆くていけません。と坊さんらしい店番が云つた。圓山公園は面白くない公園だな、と多田不二君がいふ。さうだよ、ああいふ煙草屋に朝鮮の箱を出しておくなんか、賣るつもりか知らんが面白くないところだと、僕は眼のぐりぐりな先刻の男を思ひ出しながら云つた。  知恩院の石段をのぼりながら僕は二十五年前の、やはり寒い冬のあひだにここの段々を登つて行つたことを思ひ出した。上田敏氏の書齋に坐り込んで、詩のことをべちやくちや喋つてゐた僕は二十一歳の少年だつた。小汚ない書生の僕が言ひやうもなく不愉快に思ひ出された。  梅の老木があつて滿開だつたが、埃で花がよごれて見えた。史料編纂の井川さんにあんないして貰ひ、庭を拜見した。  井川さんと多田君と僕は小ぢんまりした祇園のお茶屋で、夕方になり酒を汲んだ。成瀬無極さんを呼ばうと井川さんは言ひ、僕は輕井澤でお目にかかつた以來だから、四五年會はないと言つた。成瀬さんが見えられ、宗瑛さんの話が出、宗瑛さんのお母さんの話が出て、いや脚本の朗讀をして宗瑛さんにきらはれて了つたと、氣輕な子供らしい成瀬さんが云つた。  多田君が歸京するので、早くに二人でお茶屋を出たが、そとに薄い雪がしののめのやうな景色のなかでふつてゐた。何といふ薄い雪だらうと思うた。四條の酒場で二時間ばかり飮んでゐるうちに、多田君は醉うてうとうととし出した。あんたら東京のお人やが、何をしてゐるお方やと女だちが言ひ、何をしてゐる人に見えるかねと言つたが、そんなこと分りはしまへんと言つた。  薪一休寺、西芳寺、龍安寺、高桐院、──それらの庭々の苔はまるでゆめのやうに、眼に殘つて蒼かつた。  それらの石庭には大抵粗い白砂をしきつめてあつたが、それは南蠻砂とかいふ雲母のやうに光を見せてゐる砂であつた。東京ではその南蠻砂をしいた庭を見たことがなかつた。  僕の一番に喜びを感じたことは、遠州や相阿彌、夢窓國師の考へてゐたことと、どれだけも僕の考へてゐることにまちがひのないことであつた。只彼らの築庭に生活苦がなくのんびりとしてゐて、豪奢を極めたところが羨ましかつた。僕の庭はいつも生活や經濟と比例する範圍の造庭であつたから、樹や石をすゑてゐても、あまり高價なものは使へず、自ら生活面がにじみ出てゐて悲しかつた。僕らの庭はそれで澤山であつた。それであるから樂しいのであるかも知れないのだ。 二十一、食堂車  食堂車にはいると朝食の時刻におくれてゐるせゐか、四五人の客しかゐなかつた。朝食にビールを飮んでゐる人と、米の食を旨さうに噛んでゐる人と、夥しい洋食を片つ端から食べてゆく人と、それからやつと汽車のつかれで一杯の紅茶を半分しか喫めない婦人とがゐた。いかにも女の人の體質の弱々しさが半杯の紅茶に感じられた。僕はパンと紅茶とをできるだけの時間をかけて、その間に汽車の中の退屈をもみ消さうと、ゆつくり食べてゐた。新聞をすみからすみをあさつて讀むと、まる三十分かかり、見ればビールの客のほかの顏ぶれが違つてゐた。  間もなく遲くおきた人達で食堂は一杯になり、僕の前に三人、よこに一人坐り、僕は廣げた新聞紙をたたまなければならなかつた。そして何か註文しないとわるいやうな氣がし、また紅茶を一杯のむことにした。  食堂のあるじは旅行になれてゐる人ほど、食堂にはいつて來る時間がおそいといふ意味のことを話してゐたが、成程、さうかと思うた。ボーイは少女ばかりで何だか蝶のやうに脊中にエプロンの紐を結びつけ、どれも不健康な顏色をしてゐた。昨夜、京都から乘り合はした大學生風な三人づれが、隅の方で逞しく大聲で話しながら、洋食を食べはじめ、朝からビールを飮んでゐた。三等寢臺にねころんで朝からビールを飮むといふことが、さういふ年齡の僕などには思ひもよらない贅澤であつた。鋭い青年らしい、旺盛な言葉づかひなどが僕には騷々しいものに感じられた。僕は腹がふくれてゐるが、手持無沙汰になり、また緑茶を一杯註文した。それから漬物とを、──默つて卓上の花や、窓外の景色ばかり見て居られなかつたからである。  太秦村の端れからだいぶ自動車を馳らせてゐるうちに、竹の枝垣をめぐらした深い藪が見え、その藪の前に、白いひと筋の古風な田舍道路が走つてゐた。これはよく時代劇で見る場面で、何所か見覺えのある道路であつた。これほど京都に來たといふ感じのする風景はなかつた。關東の平野の平凡さにくらべると、京都の風景はしみじみしてゐて古い時代との關係以外に、いつも懷しい風景をひろげて見せてゐた。七條停車場から少しゆくと沼池になり、そこにある茅や蘆の枯れたまま林立してゐるのは、立派な繪を畫いて見せ、枯れ穗の美しさは色といひ淋しさといひ、無類であつた。その茅のしげりが見えなくなると、潟のやうな沼のやうなところに出て、それを電車の上から見てゆく氣持は、とても東京の郊外などでは見られない景色であつた。  すぐ前にゐる人の食事がすむころに、やつと僕は食堂車を出て來たがまだ寢臺の上にねてゐる人があつた。大森の家につくとこんどの旅行の出がけから風邪をひいてゐた長女の熱は、やつと昨夜降つたとかで屏風を幾折も重ねたなかに元氣に起上つてゐた。宿のおかみさんに買つて來てもらつた人形と、竹下駄と、豆板や縫針がみやげであつた。十日間といふものは晝は歩きつづけであり、家に居れば書きづめに書き、晩は飮みつづきに酒にひたつてゐたが、自家に坐るとあまりに忙がしかつたために諸事夢のやうな氣がしてならなかつた。その夢のやうななかに寒い寺々の堂や廊下や築地の塀などが映つて來て、京都に行つてよかつたと思うた。永い間の願ひも叶うたやうな氣がしたが、心がふとつてだいぶ詰め込んだ豐富な思ひがした。ひよつとすると龍安寺などがこんど見て來た庭のうちで最も心に澄み切つてゐるのではないかと思つた。 底本:「現代紀行文學全集 第四卷 西日本篇」修道社    1958(昭和33)年4月15日発行 初出:「隨筆集 「文藝林泉」」中央公論社    1934(昭和9)年5月23日発行 ※「纏」と「纒」、「台」と「臺」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。初出でも同じ表現の場合はママ注記としました。 ※芥川龍之介からの手紙が閉括弧で閉じられていないのは底本通りです。 ※室生犀星全集第五巻(新潮社)の解題(p.483)によると「うハろ」は「ういろ」ではないかとのことです。 入力:岡村和彦 校正:きりんの手紙 2020年2月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。