間花集 三好達治 Guide 扉 本文 目 次 間花集 この小詩集を梶井基次郎君の墓前に捧ぐ 砂上 鶯 晝の月 路傍の家 理髮店にて 工場地帶 漁家 平津 村の犬 揚げ雲雀 一家 廐舍 新緑 チューリップ 百舌 水村 午前十時 藤浪 桃花源 畎畝 春日 庭前 椎の蔭 鐵橋の方へ 朝 晩夏 蝉 虻 ある寫眞に 新秋 黄葉 空山 夜明けのランプ 夜の部屋 空林 瀧 一つの風景 雉 頬白 早春 雪景 雉 千曲川 「檸檬」の著者 鞍部 訪問者 故郷の街 鯉 後記 この小詩集を梶井基次郎君の墓前に捧ぐ 砂上 海 海よ お前を私の思ひ出と呼ばう 私の思ひ出よ お前の渚に 私は砂の上に臥よう 海 鹹からい水 ……水の音よ お前は遠くからやつてくる 私の思ひ出の縁飾り 波よ 鹹からい水の起き伏しよ さうして渚を噛むがいい さうして渚を走るがいい お前の飛沫で私の睫を濡らすがいい 鶯 「籠の中にも季節は移る 私は歌ふ 私は歌ふ 私は憐れな楚囚 この虜はれが 私の歌をこんなにも美しいものにする 私は歌ふ 私は歌ふ やがて私の心を費ひ果して 私の歌も終るだらう 私は眼を瞑る 翼をたたんで 脚を踏ん張つて この身の果を思ひながら それは不幸だらうか? 私は私の歌に聽き耽る」 晝の月 ──この書物を閉ぢて 私はそれを膝に置く 人生 既に半ばを讀み了つたこの書物に就て ……私は指を組む 枯木立の間 蕭條と風の吹くところ 行手に浮んだ晝の月 ああ あの橇に乘つて 私の殘りの日よ 單純の道を行かう 父の許へ 路傍の家 その家の窓のほとり 一つの節孔から 鼠の鼻が見え 隱れ いま そこを囓つてゐる 壁の中から いそがしく食器を洗ふ音 理髮店にて 「鋏で切つてやつたんです 腫物ができたから」 憐れな金絲雀よ お前は指を一本切られた 元氣な仲間のあひだにあつて 片脚で立ちながら 思案の後でお前は歌ふ 私は耳を傾ける 稀れになつたお前の歌に 工場地帶 夕暮れの堀割に ほのかに降りた冬の霧 移るともなく移つて行く 一つの船の艪の軋み ……船夫の動き 岸邊にたつた煙突の をちこちの煙のなびき 漁家 街と街との間から 山が見える 青い靄がかかつてゐる 家と家との間から 川が見える ……舟がゆく 渚から 黒い猫が歸つてくる 南天の實で遊ぶ子ら 靴の踵をふみつぶして 平津 黒く光つた柱に 春が來た その柱暦に 堤は遠く枯れたまま あれ 犬が走る 枯れた蘆間を 犬が走つてゐる 飛びたつ鳥もない…… 村の犬 かすかな木魂さへそへて 犬が啼いてゐる 靜かな晝の村 私はそこに立ちどまる 庭の隅 藏の前だな 一つの屋敷の奧で 犬が啼いてゐる 川向ふの葱畑から またひよいと犬がとび出して 耳を傾ける 揚げ雲雀 雲雀の井戸は天にある……あれあれ あんなに雲雀はいそいそと 水を汲みに舞ひ上る 杳かに澄んだ青空の あちらこちらに おきき 井戸の樞がなつてゐる 一家 鶫の群れは 石鹸工場の空を來て 川を越え ……四つ手網しづかに上る 三角洲の樟の森に降りる 枯れた梢に 彼ら一家は休んでゐる 廐舍 梅散り 廐に蠅が生れ 曳き出された馬の腹に 小川の反射がゆらいでゐる 私の影は 葱畑の葱の上 新緑 林の上の碧い空 繭のやうな白い雲 新緑のみづみづしさは 繪のやうだ ……夢のやうだ 私は吊橋の上に佇つて わが身の影を顧みる 自分の眼が 信じられなくなつたから チューリップ 蜂の羽音が チューリップの花に消える 微風の中にひつそりと 客を迎へた赤い部屋 百舌 槻の梢に ひとつ時默つてゐた 分別顏な春の百舌 曇り空を高だかと やがて斜めに川を越えた 紺屋の前の榛の木へ…… ああその 今の私に欲しいのは 小鳥の愛らしい 一つの決心 水村 木立から木立へ移りながら 惡企みする春の百舌と 支柱にかけた竪網の 風に搖らぐ瀬戸の錘と それらいづれも 雀の聲をまねてゐる とある屋敷の橙に そして雀も啼いてゐる 午前十時 午前十時 家鴨小屋の戸が開く 堰が切れた! 屋敷の裏の狹い空地へ 彼らは溢れ出る 躓きながら 彼らは溪流のやうに 眞白になつて走りこむ 滿潮の堀割へ! 歌ひながら 羽ばたきながら 藤浪 そこにとまらうとして 花の前でひと搖り搖れる 蜜蜂の羽音…… 勤勉な昆蟲よ 私の半生も どうかお前に學びたい さうしてやがて 私の日の終焉にも 私は自分を想ひたい そこに潜りこんで ひと房の藤浪に 隱れてしまふお前のやうだと 桃花源 青い山脈 白い家鴨 貸ボートにペンキが塗られ 綻びそめた桃畑 畎畝 家鴨が三羽 畝を越える 土くれをころがしながら 鶺鴒が隣りの畑へ ついと逃げる 春日 葱畑の前の床屋 鏡の前の黄水仙 赤い手套が落ちてゐる 路をうつすその鏡に 庭前 「何ごとぞ 紅梅を蹴る小鳥あり 思ひあがるや 人を怨むや」 「めつさうな とんだこと 知らなかつたよ 女流歌人のお宅とは」 椎の蔭 椎の蔭 苔むした土藏の屋根に 鶺鴒がきて なぞへを歩む ステッキを振りながら 右に二歩 左に三歩 落し物を さがしてゐる 鐵橋の方へ 嘴の黒い家鴨が一羽 靜かに水脈をひろげてゆく うつらうつらと 低い堤を私は歩む 私たちはしばらく 鐵橋の方に向つて進む 同じ速度で 朝 電柱の頭に 雀が啼いてゐる つぶらに實つた茄子畠 土藏の壁に 朝日がさして そのまぶしさにしやがんでゐれば 旅にある身が夢のやう たち上るのも惜しくなる 晩夏 二枚の羽を一枚に合して 草の葉に憩ふ 小さな蝶 君の名は蜆蝶 蜆に似てゐるから わが庭の踊子 ゆく夏の裾模樣 蝉 蝉は鳴く 神さまが龍頭をお捲きになつただけ 蝉は忙しいのだ 夏が行つてしまはないうちに ぜんまいがすつかりほどけるやうに 蝉が鳴いてゐる 私はそれを聞きながら つぎつぎに昔のことを思ひ出す それもおほかたは悲しいこと ああ これではいけない 虻 詩を書いて世に示す しかも私は 世評など聞きたくない この我儘を許し給へ 私は虻のやうに 羽音を殘して飛んでゆく ある寫眞に それは夏の終り 二度目に孵つた燕の雛の 軒端に騷がしい頃であつた かうして私たちが この前庭の 樅の木の下に ひとかたまりに寄り合つたのは…… 君は笑つてゐる 君はうつむいてゐる 君は借りもののベレをきてゐる さうしてあなたは 子供を抱いて 頸をかしげて うら若い母の姿 新秋 石には虻 障子には蝶 しばし彼らも休んでゐる 薄の穗波 磁石の針 私の朝の感情も 今ひとつ時搖ぎやむ それらの上を飛び去つて 山の端に入る白い雲 唸りながら 飛びながら 宙にとどまる熊ん蜂 黄葉 この清麗な朝の この山峽の空の靜けさ もの足りなさ…… なぜだらう 私の耳が私に囁く お前一人がとり殘されたと なぜだらう 橡の黄葉の鮮やかさ はや新雪の眩ゆい立山 ああ 彼らは旅立つた この峽の燕らは 空山 休みなく歌ひながら せつかちに枯木の幹をノックする 啄木鳥 お前を見てゐる私の眼から あやふく涙が落ちさうだ なぜだらう なぜだらう 何も理由はないやうだ 風の聲 水の音 夜明けのランプ 宿をめぐる小雀の歌 さあ起きよう 友よ こんどは君の眠る番だ 棚の上に 君のベッドに君を還さう ……夜明けのランプよ 夜の部屋 夜は初更 ランプは暗い その跫音をきくうちに 私の額にとびのつた 曲者! 刺客! お前の髭が私を擽る ああ 冬の夜の伴侶 蟋蟀よ 空林 山毛欅のかげ 枯草に彼は臥てゐる 雲を見てゐる 彼は私に會釋をする さうして煙管をとり出だす どこの村の男であらう 媒鳥の鷽は啼かないで 餌壺の粟をひろつてゐる 籠にかかつた晝の月 瀧 それの向うの 一つの尾根の高みから 炭燒きの煙が揚る…… 耳鳴りほどの谿谷の聲 薪を割る杳かな木魂 一羽の鶸の飛びすぎる 狹間の奧の絶壁に 五寸ばかりに躍つてゐる 瀧 一つの風景 ここに私は憩ひ ここに私はたち上る 行かう 行かねばならぬ それは林である それは朝である 赭土の路が 山の麓を繞つてゐる 雉 身を以て 虹をかけ 七彩の雉がまひたつ 雪の山から 青空に 頸をのべ 頬白 日が暮れる この岐れ路を 橇は發つた…… 立場の裏に頬白が 啼いてゐる 歌つてゐる 影がます 雪の上に それは啼いてゐる 歌つてゐる 枯木の枝に ああそれは灯つてゐる 一つの歌 一つの生命 早春 ──馭者は煙草を喫ひながら 旅籠のある丘を降る からの橇馬車 櫻の枝に 頬紅さした鷽の群れ 啾々と 呼びかつ應ふ…… 雪景 丘の上に 濕けたからだを干してゐる斑牛 そのうす赤い乳房の下から 谿が見え 町が見える 今橇馬車が橋を渡る…… 火ノ見櫓に 風見の矢 雉 遠い山 平野 脚もとの小さな町 川 橋 まるみある雪の襞から 七彩の十字架なして いまこの眺望を劈くもの 澤を渡る 雉 千曲川 通りがかりの挨拶の 私のまづい口笛に 梢から鷽が應へる あちらを向いたまま 彼の妻がまづにげる やがて彼も繁みに隱れる 遠く 霧の斷え間に千曲川 「檸檬」の著者 谿を隔てた 山の旅籠の私の部屋 その窻の鳥籠に 窻掛けの裾がかかつてゐる 白い障子に影をうつして 女が一人廊下を通る ああこのやうな日であつた 梶井君 君と田舍で暮したのも 鞍部 丘の上に 蜜蜂ほどに呻つてゐる 發電所 その上の 鞍部に一つ小屋が見える 小屋の軒端に人が出る 馬が出る そこの窪みに 靜かに雲が捲いてくる 訪問者 春はいま 蜜蜂の訪問時間 彼らは代る代る 私の窻に入つてくる さうして一つ一つ 私の持物を點檢する 外套 帽子 辭書 麺麭 梨 肉叉…… さうして訣れの挨拶に 私の耳を窺きにくる 故郷の街 ああまた 鐵橋を渡る貨物列車 堤の草に山羊が二匹 川蝦を釣る子供らは 渚に竿をならべてゐる その淼々たる水の彼方 煤煙深い街の上に いま三日月は落ちかかり ランプをともす外輪船…… 鯉 夜の園生の 寂寞に鯉が跳ねる 何事か覺束なげに 私の心は歩みをとめる さうして耳を澄す この平凡な夜の 感慨に 何でもない 私の心よ 行くがいい お前の路を 後記  六月三十日、六蜂書房より梶井基次郎全集下卷を受取る。夜半「書簡」の處々を拾ひ讀みしてゐるうち、思はず心を動かし、卷を蓋ふて寢に就かうといく度か試みては、また机の前にかへつて飜讀する。さうして枕に就てからも、耿々としてもの思ひ、遂に眠をなさず天明にいたる。彼と私の交游は、僅かに數載を越えなかつたが、今また事にふれて、まことに思出は縷々として限りがない。ああ、疏慵にして才薄き私の如きものが、やうやく今日この處まで、たどたどしき道のりを歩み來つた過去を顧みるにつけても、彼の友誼により、その策勵に扶けられること甚だ少くなかつたのを忘れ得ない。この感慨は、何かしら私をして、底薄暗い千仞の谿間をのぞきこむやうな思ひをさせる。またそれらの過去の日は、的皪として冰霰のやうに、私の眼前にある。  七月一日、たまたまこの小詩集を編んで校を終つた。野草閒花、摘んで以て彼が墓前に供ふと云爾。 信州上林の客舍に於て 三好達治 底本:「三好達治全集第一卷」筑摩書房    1964(昭和39)年10月15日発行 底本の親本:「定本三好達治全詩集」筑摩書房    1962(昭和37)年3月30日 初出:漁家「三田文學 八卷四號」    1933(昭和8)年4月    平津「三田文學 八卷四號」    1933(昭和8)年4月    村の犬「三田文學 八卷四號」    1933(昭和8)年4月    揚げ雲雀「三田文學 八卷四號」    1933(昭和8)年4月    一家「帝國大學新聞」    1933(昭和8)年5月1日    廐舍「帝國大學新聞」    1933(昭和8)年5月1日    新緑「帝國大學新聞」    1933(昭和8)年5月1日    チューリップ「帝國大學新聞」    1933(昭和8)年5月1日    桃花源「一家 一號」    1933(昭和8)年4月    ※(「田+犬」、第4水準2-81-26)畝「一家 一號」    1933(昭和8)年4月    春日「一家 一號」    1933(昭和8)年4月    庭前「セルパン 二五號」    1933(昭和8)年3月    椎の蔭「セルパン 二五號」    1933(昭和8)年3月    鐵橋の方へ「セルパン 二五號」    1933(昭和8)年3月    朝「改造 一四卷一二號」    1932(昭和7)年12月    晩夏「改造 一四卷一二號」    1932(昭和7)年12月    蝉「改造 一四卷一二號」    1932(昭和7)年12月    虻「改造 一四卷一二號」    1932(昭和7)年12月    空山「文藝評論 一卷二輯」白水社、「セルパン 三六號」    1934(昭和9)年2月    夜明けのランプ「セルパン 三六號」    1934(昭和9)年2月    夜の部屋「文藝評論 一卷二輯」白水社    1934(昭和9)年2月    空林「文藝評論 一卷二輯」白水社    1934(昭和9)年2月    瀧「文藝評論 一卷二輯」白水社    1934(昭和9)年2月    一つの風景「世紀 創刊號」    1934(昭和9)年4月    雉「世紀 創刊號」    1934(昭和9)年4月    頬白「世紀 創刊號」    1934(昭和9)年4月    早春「文藝 二卷五號」改造社    1934(昭和9)年5月    雪景「文藝 二卷五號」改造社    1934(昭和9)年5月    雉「文藝 二卷五號」改造社    1934(昭和9)年5月    千曲川「文藝 二卷五號」改造社    1934(昭和9)年5月    「檸檬」の著者「文藝 二卷五號」改造社    1934(昭和9)年5月    鞍部「世紀 一卷四號」    1934(昭和9)年7月    訪問者「世紀 一卷四號」    1934(昭和9)年7月    故郷の街「世紀 一卷四號」    1934(昭和9)年7月    鯉「世紀 一卷四號」    1934(昭和9)年7月 ※「窓」と「窻」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「閒花集」となっています。 ※「庭前」「椎の蔭」「鐵橋の方へ」の初出時の総題は「春信」です。 ※「空山」の初出時の表題は「啄木鳥」です。 ※「夜の部屋」の初出時の表題は「旅の部屋」です。 ※底本では「閒」と「間」が混在していますので「閒」を包摂適用せずに外字注記しました。 入力:kompass 校正:大久保 知美 2018年7月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。