引越し 中原中也 Guide 扉 本文 目 次 引越し  実際その電報には驚いた。僕としてそんな用命にあづかつたことは生れて初めてでもあつた。「アスアサゴジヒキコシテツダヒタノム」といふのだ。朝五時!……僕は此の十幾年といふもの夜昼転倒の生活をしてゐるのだ。それを電報打つたその親戚も知らないわけでもないのだ。驚いたといふよりも癪に障つたね。三十年近く広島といふお天気の好い街の教会で伝道婦として働いたその叔母の甘えた気持が──といつて別に当人甘えたといふのでもあるまいが、その生活といふものがそも〳〵甘えたものであつたのではあらうが、そいつが癪に障つたね。  プリプリしながら、だがその晩は七時にはお湯屋に行き、目覚時計を四時に掛けて八時には床に這入つた。  翌朝遅れたと思つて、慌てて先方に行着いたのは六時半だつた。目覚時計を聞きながらまた眠つたからだ。行つて見るとまだ叔母は朝御飯が漸くすんだばかりで、ゆるゆるとお茶を飲みながら近所の人とトラックの話をしてゐるのだ。トラック一台に積めるかどうかといふ。どうせ積めるに決つてゐると、腹の立つてゐる矢先ではあり「えゝこなひだ府の何とか課長さんの引越が一台で出来たといふ新聞の記事を見ましたよ」と、僕は二人の間に立ちはだかるやうに云つたのだつた。すると叔母は「ソレ〳〵またあんたの癖が出ましたよ」といふやうに僕の顔を視るのだ。それから猶一台で足りるものかしらと案じてゐるのだ。やれやれ今日一日棒に振る覚悟をするより仕方もないと僕は思つた。  とにかく寒い朝だつたよ、三月になつてはゐたが、来る途中、日の当らない所は凍つてゐた。偶に早く起きたせゐもあつてか、その朝を思ひ出すたび、叔母のお茶碗から立つてゐた湯気が白々と見えてくるのだ。  無事にトラックも一台で難なく積めると、引越す先は鍋屋横丁を這入つて左に曲つて、も一度左に曲つて一寸行つた右側であるさうな。「あんたトラックに一緒に乗つて行つて荷物を運び入れてゐて頂戴、そのうち私も行くから」と云ふ。結局僕一人が引越の手伝ひ人であり、その弱々しい、事実またちよく〳〵大病を患ふその叔母と僕との二人だけが引越万端のことをするのだとすると、まづまづ僕一人が大部分のことをしなければならない。「木村は、生徒を預つてゐる身だから、自分では休まうと云つたがどうしても休んでは不可ないといつて学校にやりました」さうである。木村といふのはその叔母の末つ娘の亭主で小学教員、その末つ娘なる郁子といふのは産院にゐるのだ。ガタガタ〳〵トラックの荷物の中に挟まつて揺られながら、僕は久々で午前の西武電車の沿線といふものを眺めたのだ。「生徒を預つてゐる身」とは甚だ確固たる信条(?)ではないか。僕の方はと云へば、尠くとも叔母の目には、中学を出たつきり上の学校へも行かず、十年ブラブラしてゐるブラ公なのだ。郷里の方には大学に行つてゐることになつてゐたのが五年目にバレて、だから「親を欺いた者」でさへもあるのだ。引越しの手伝ひ位しか能のないのは当り前であつた。さういふ軽蔑のされ方ならその叔母のみならず毎度のことで、そんなことで腹が立つのでもなかつたが、何がなし癪に障つて、トラックの上にゐて顔に当る朝風は自分の一切合切をみる〳〵削り減らしてしまふやうに感じられる。  荷物を、運転手と僕とで運び入れて、運転手と助手とが帰つて行くと、僕一人になつた。なんと鍋屋横丁の裏辺りから東京高等学校の辺りにかけてといふものは、いやな東京の郊外中でもわけてもいやな所であり、硝子障子から外をみると、枯草の野ッ原の中で子供が三つ凧を揚げてゐる。どれもこれも白い菱形の小さな凧で、僕の魂の如くはかなく風に浮揚してゐる。枯草は針金のやうに硬くて、トゲトゲとした檜か何かの森が遠くに見える。叔母の来るのはいやに遅いが、どうせ近所へのお暇乞ひがまた長いのであらう。何処にゐても人附合の広い奴ではある。伝道婦なぞといふ奴は、何処に行つても信者といふつながりでそれからそれへと知合ひを作つてしまふ。今度の此の家だつて、後で叔母の云ふ所によると、信者が家主であるさうで、その家主老夫婦が自分達の隠居のために建てたんださうで、値段に比べたら却々立派な家である。  退屈だし寒いので、火でも起こさうと隣りの部屋を開けると、驚いたことにはそこはもうチヤンと机や本箱が配置されてをり、火鉢には火が起こつてゐて、薬鑵も掛かつてゐる。天井からは糸ゴムで飛ばす飛行機が六機もブラ下つてをり、机の上には「綴り方教材集」なぞといふ本が置いてある。予て飛行機作りがその先生の道楽だと聞いてゐたから、それは正しく先生の書斎に相違ない。さういへば先刻トラックに積み込む時、先生の物らしい物がないとは一寸思つた所だつた。それにしてもこれはどうしたことだらう。先生は学校を休んで一寸そこらへ出掛けたのであらうか? それにしても先生の荷物だけ先に運んであるといふのはどうしたことだらう……。壁をみるとユトリロの風景の複製と、誰のだか知れない裸かの女三人が浅瀬でボートに乗移らうとしてゐる絵とが掛かつてゐる。机の上には当時まだ珍品であつたペン軸型の万年筆や硯箱の彼方には、硝子の中に昆虫の這入つた文鎮が置いてある。ハテどんな奴ぢややら……。僕はまだその木村先生といふのを知らないのである。先生は既に叔母の娘の亭主になつてから一年余りになるが、結婚した頃、間もなく転任させられるらしかつたし、何処へ転任させられるかはハツキリしないので、荷物を運んでもまた直ぐ引越になるのは面倒だといふので、時々叔母とその娘の所に泊りに来ることにして転任を待つてるうちに一年経つてしまつたのであり、従つてその一年間に一度しか訪ねなかつた僕はその先生をつひぞ見掛けたことはないので、そのことが今やつと思ひ出せてみると、その先生の荷物だけが先に来てをり、先生は既にその家にゐて、火を起こしといて学校に出掛けたものであることも今漸く分るのだが、それにしても親戚のことといへば大概のことを記臆せず、今産院で生れた子供だつて男か女かも今朝何とか叔母が話してはゐたがもう忘れてしまつてゐる僕のことだから、どうぞ僕が今その先生の部屋を開けた時の驚きだつて、どうぞシラバツクレてゐるなんて思はないで下さい。  飛行機……ホオ、沢山あるな。近くに野ッ原があるから、これからは大いに飛ばせて遊べるでありませう。ホオ……と僕はお道化てゐるんだがまだ見ぬ先生に意地の悪い気持を抱いてゐるんだが、煙草をまづく感じ出すと、飛行機のみならず、洋服掛にまで、異常な好奇心を覚ゆるのであつた──とにかく御幸福なお方であらせられるよ。叔母さん、叔母さんだつてさうなんだゾ。郷里を出てより十三年、親戚といふのはテンキリ訪ねず、郷里を出た当坐訪ねて来た父の義父は玄関で追つ払ひ、学校に行かないので友達も出来ず、僕のやうに独りで暮して来た青年といふものは稀であらうが、その僕には信者の家を格安に借りるなぞといふことが、東京に出て一年やそこいらで出来る人種といふものが、如何に容易に世を渡つてゆくものであるかと、思はないではゐられない。勿論それを羨みはせぬ。だが叔母さん達には僕の気持なぞは到底分るまいし、分らうともしないといふことは癪なことだ。叔母をだつて、何も訪ねる筈でもなかつたのだが、二十代より後家でありその後貧乏のしつづけで、息子はをらずからだは弱く、おまけに僕も此の十三年間に、可なり心身共に疲労し、チツトは気も軟らかくなつたからこそ訪ねたやうなもので、予てほかの親戚で聞いて御承知ではあらうが、僕が過ぐる一年間に一度訪ねたといふことは、どんな意味にまれ破格のことですゾ。読者に申上げるが、小生は親がないのでもない、貧乏といふ程でもない、それどころか恐ろしい子煩悩の親を持つ者であり、小生がその親を離れて文学青年暮しを十三年もやつて、その間親はたゞ送金する以外の何者でもないといふ生活をするためには、僕としてよつぽど骨が折れたのだし、文学は三度の御飯よりも好きであつたのだが、それにしてもその時間の余裕にかけては天下一品の生活が自分に出来たといふのは、我ながら不思議にさへ思はれます。小生の親父が、息子はみんな帝国大学に入れて洋行させようと思つてゐる理想派であることを申上げれば、そして現在三十にもなつた小生が、これからでも高校に這入ると云へば勇み立つでもあらうその親父が、どんな運命の手配りによつてか、とまれかくまれブラ公をブラの儘で野放しにしてゐるといふことは、実に前世の約束とでも申しませうか。といつて何も茲でこんな私事を開陳に及びたいのではありませぬが、一寸掻い摘んで云つておかなければ、引越しの手伝ひをさせられるといふだけのことでプリプリしてゐると思はれる心配がある上に、今やつとお午近くになつて、漸く御到着の叔母と、これから荷物の片附けをするについて小生のとる態度が、甚だ横著に見えはしないかと心配があるからであります。 「君ちやん(僕の名、実は君介、どうもブラ公みたいな名ですよ)どうも遅くなつて御免よ、富田の奥さんがいろんな話をしなさるから、あとからあとから話しなさるから。こつちはイライラするけれど、彼方は親切に何やかと訊ねなさるから、牧代(姉娘)はどうしたか、生れた子供は丈夫かと訊ねなさつて……」とニコニコしながら呼吸をつきながら、仰向き勝なその顔の、アザヤかな色の唇がさういふのである。「お腹を拵へないことには、手伝つても貰へまいから、まづお午御飯だが、あの七輪にタンと火を起こして頂戴」「あゝ疲れた疲れた」と云つてパツタリ坐る。  火を起こしてそれから僕は近所の乾物屋を探し、コンビーフと福神漬を買つて来た。御飯が煮けるまでにはまだ時間があるといふので、それからまたハタキと箒を買ひにやらされた。  酒屋の御用聞きが現れて、何なりと御手伝ひしませうと云ふと、有難いが「あれを何処これを何処と、片附けるのは却々自分でないと分らないから」と、それをニコ〳〵しながら、長々とやるのでその御用聞きはしまひには僕の顔を見て笑つてゐた。それから猶二三の御用聞きが現れたが、そのたんびにその調子であつた。これがお天気の好い中都会で、平和な信者達の間に三十年、伝道婦をやつた女といふものであらう。もう随分生れた時とは心理の構造が変つてをり、さればにや時々今にも死にさうな病気をやるのである。それがまた不思議に癒る(心は悪くないが、浅墓であることの象徴みたいだと予てブラ公はさう思つてみてゐるのである)。そのたんびに信者等はニコニコして「あゝ神の御救ひだ」と云ふのであらう。  その教会は板で囲つてあり、六百坪位の庭園を有し、フランス人のからだの大きい、学者肌の神父がゐて、その神父は大きい望遠鏡を持つてゐて、甞て夏の静かな夕べ、その庭に立つて空の星を見せて呉れた。当時僕は中学の二年生で夏休みだつたから叔母のゐるその教会にゐたのである。「此の地球以外にも、人間が住んでゐるでせうか」と訊ねると「ゐません、絶対にゐません!」と断乎とその時神父は答へた。昼間は毎日暑く、今産院にゐる娘は「ブーラ、ブーラ、ブーラブラ」といふ象といふ題の児童唱歌をオルガンで歌ひ、姉娘は夜になるとパウリスタに連れてつてアイスクリームを食べさせてくれた。エレベーターに初めて乗つたのも、その夏である。顔を見合せれば「神」や「義務」の話をする叔母を除いては、その夏休みは優に懐かしい夏休みであつた。庭には沢山の花が咲いてゐたが、何の花であつたか、その色合ひだけしか覚えてをらぬ。 「五十人の生徒をあづかつてゐるのだから、その人間が自分一人の用事のために学校を休むなぞといふことはなりません」と、叔母は茶棚を片附けながら、押入れの中を拭いてゐる僕に喋舌りつづけてゐた。僕の先刻捨てに行つた塵芥が、裏庭の風の吹いて来る方寄りであつたことを「誠意がない」と勝手に決めて始めたお説教以来ブツ続けである。僕としてたゞまだ塵芥箱もないことだし、隅ッコに暫時捨てたわけで、おまけにそこらに前ゐた人が捨てて行つたのだらう、ボール箱や新聞紙のキレが相当散らかつてゐたので、そのお説教が始まつた時は全く意外であつた。その由を弁解したら、それもさうかと一応は分つたらしかつたが、それでも猶そのお説教を続けるのは、僕にやつぱり一体全体「誠意がないのか」それとも、大概の老人がさうであるやうに、たゞもう剛情なのか。ニコニコ〳〵しながら、今もまだ喋舌つてゐる。 「木村さんも信者なんですか?」 「あれは話をしても却々分りません。再三すゝめるけれど却々剛情で洗礼を受けない。信者でないからあんな裸かの女の絵なぞ掛けてゐたり、信者でない者はどうしても不可ない。此の前私があれの下宿へ行つた時あの絵のこともいつたのだがまた掛けてゐる。信者でない者はどうしても分りません。」  押入の掃除をすませて、漸く中から出て来ると、前ゐた人が忘れて行つたらしい粗末な白木の小さな神棚(神道の)、それが茶の間の長押の上に三角の棚を打付けてその上に載せてあるのだが、それを下ろして呉れといふ。下ろして「これはどうしますか」と訊くと、一応家主さんに届ける、家主さんは信者だから家主さんのではないが、家主さん隠居夫婦が此の家を出た後半年ばかりゐたといふ人達のものだから、家主さんからその人達に渡して貰らふ。人の物を無暗に捨ててはならないといふ。  あゝもうよさう、片附いたのは夕刻だが、それまで絶えずお説教であつたと、いくら云つたつて同じことだし、それらのお説教をたゞたゞ列挙してゐた日には、退屈なために遂には僕の方が少々大袈裟だと思はれまいものでもない。  それから半年の後、フト僕の下宿に現れて「私はこれから一人また広島に帰る」と云つてニコニコしてゐたが、その後母よりの手紙によるとどうも木村といふ人と折合がわるいのらしいといふのである。さういへば、ニコニコの底に、なんだかひどく悲しさうな色があつたのだが、また、何か云ひたげで遂に云はずじまひであつたが、人の悪口を云つてはならぬものとばかりに、相変らずの気持であつたのだらうと、幾分不憫でもあつた。教会の附近の黄色い土塀つづきの、夕方はしづかり下りて来る彼処へ、ではまた落付いたな、あゝあゝと、僕は思ふのだつた。なんだかミシンの音がして、炊煙がゆつくり棚引いて、鉄道の貨物配達車が、今日の最後の便を配達して廻つてゐる、そして夜が来ると十才ばかりの子供が「ゆんべの仇打の蚤取粉」と云つて蚤取粉を売つて歩く、広島の市のさういつた背景の前に、僕に暇乞ひに来た時の姿して、その時持つてゐた手提袋を持つて、仰向いて空をみてゐる叔母の様子が、程よい感傷を唆るのであつた。  その後、せめて木村夫婦の所を訪ねようといふ気もあるのだが、まだ訪ねない。聞けばその後また横浜の小学校に転任したさうであるが、ナニ、ブラ公なぞが訪ねた所で誰が喜ぶものでもあるまい。 (一九三五、三、二三) 底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店    2003(平成15)年11月25日初版発行 底本の親本:「椹野評論 創刊号」    1940(昭和15)年5月1日発行 ※()内の編者によるルビは省略しました。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:村松洋一 校正:noriko saito 2018年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。