五月雨 一葉稿 Guide 扉 本文 目 次 五月雨 (一) (二) (三) (四) (五) (六) (一) 池に咲く菖蒲かきつばたの鏡に映る花二本ゆかりの色の薄むらさきか濃むらさきならぬ白元結きつて放せし文金の高髷も好みは同じ丈長の櫻もやう淡泊として色を含む姿に高下なく心に隔てなく墻にせめぐ同胞はづかしきまで思へば思はるゝ水と魚の君さま無くは我れ何とせんイヤ汝こそは大事なれと頼みにしつ頼まれつ松の梢の藤の花房かゝる主從の中またと有りや梨本何某といふ富家の娘に優子と呼ばるゝ容貌よし色白の細おもてにして眉は〓(「霞」の「コ」に代えて「マ」)の遠山がた花といはゞと比喩を引くもこぢたけれど二月ばかりの薄紅梅あわ雪といふか何か知らねど濃からぬほどの白粉に玉虫いろの口紅を品よしと喜こぶ人ありけり十九といへど深窓の育ちは室咲きも同じこと世の風知らねど松風の響きは通ふ瓜琴のしらべに長き春日を短かしと暮す心は如何ばかり長閑けかるらん頃は落花の三月盡ちればぞ誘ふ朝あらしに庭は吹雪のしろ妙も流石に袖は寒からで蝶の羽うらの麗朗とせし雨あがり露椽先に飼猫のたま輕く抱きて首玉の絞り放し結ひ換ゆるものは侍女のお八重とて歳は優子に一ツ劣れど劣らず負けぬ愛敬の片靨誰れゆゑ寄する目元のしほの莞爾として手を放しつ不圖見返りて眉を寄せしが又故にホヽと笑つて孃さま一寸と御覽遊ばせ此マア樣子の可笑しいことよと面白げに誘はれて何ぞとばかり立出る優子お八重は何故に其樣なことが可笑しいぞ私しには何とも無きをと惱ましげにて子猫のヂヤレるは見もやらで庭を眺めて茫然たり孃さま今日もお不快御坐いますか否や左樣も無けれど何うも此處がと押して見する胸の中には何がありや思ふ思ひを知られじとか詞をかへて八重やお前に問ふことがある春につきての花鳥で比べて見て何が好きぞ扨も變つたお尋ね夫は心々でも御坐いませうが歸鴈が憐れに存じられます左りとては異なことぞ都の春を見捨てゝ行く情なしがお前は好きか憐れといへば深山がくれの花の心が嘸かしと察しられる世にも知られず人にも知られず咲て散るが本意であらうか同じ嵐に誘はれても思ふ人の宿に咲きて思ふ人に思はれたら散るとも恨みは有るまいもの谷間の水の便りがなくは流れて知られる頼みもなしマアどの位悲しからうと入らぬ事ながら苦勞ぞかしとて流石に笑へばテモ孃さまは花の心を宜く御存じ私しが歸鴈を好きと云ふは我身ながら何故か知らねど花の山の曉月夜さては春雨の夜半の床に鳴て過ぎる聲の別れがしみ〴〵と身にしみて悲しい樣な淋しいやうな又來る秋の契りを思へば頼母しいやうにもあり故郷へ歸るといふからして亡き親の事が思はれますと打しほるれば夫は道理わたしでさへも乳母の事は少しも忘れず今も在世なら甘へるものをと何ぞにつけて戀しければ子の身では如何ばかり心ぼそくも悲しくも有らうなれど及ばずながら私しは力になる心姉と思ふてよと頼むは可笑しけれど歳上なれば其約束ぞ何時も〳〵云ふことながら私しは眞實の同胞と思ひますと慰められて嬉しげに御縁あればこそ親どもばかりか私しまでめぐり廻つて又の御恩海とも山とも口には如何も申されねどお前さまのお優さしさは身にしみて忘れませぬ勿躰なけれどお主樣といふ遠慮もなく新參の身のほども忘れて云ひたいまゝの我儘ばかり兩親の傍なればとて此上は御座いませぬ左りながら悔しきは生來の鈍きゆゑ到底も御相談の相手にはなされて下さる筈もなし別ものに遊ばすと知りながらお恨みも申されぬ身の不束が恨めしう存じますとホロリとこぼす膝の露を優子不審しげに打まもりて八重は何が氣に障つてか思ひもよらぬ怨み言つもりて見よかし何の隔てゞ隱しだてをするものぞ母さまにさへ申さぬことも遂ひに話さぬ時はなきを今日に限つて其やうな事いはれる覺えは何もなけれどマア何と思ふてぞといふ顏じつと打仰ぎて夫々それが矢ツ張りお隔て何故その樣にお藏くし遊ばす兄弟と仰しやつたはお僞りか、僞りでは無けれど隱くすとは何を、デハ私しから申しませう深山がくれの花のお心と云ひさして莞爾とすれば、アレ笑ふては云はぬぞよ (二) 思ひ入る路は一ト筋なれと夏引きの手引きの糸の乱れぐるしきは戀なるかや優子元來才はじけならず柔和しけれど悧發にて物の道理あきらかに分別ながら闇らきは晴れぬ胸の雲にうつ〳〵として日を暮らすをお八重しかぞと見て取りぬ我れも思ひの無き身ならねば他人ごとなりとも悲しきを假初ならぬ三世の縁おなじ乳房の寄りし身なり山川遠く隔たりし故郷に在りし其の日さへ東の方に足な向けそ受けし御恩は斯々此々母の世にては送りもあえぬに和女わすれてなるまいぞと寐もの語に云ひ聞かされ幼な心の最初より胸に刻みしお主の事ましてや續く不仕合に寄る方もなき浮草の我れ孤子の流浪の身の力と頼むは外になし女子だてらに心太く都會の地へと志ざし其目的には譯もあれど思ひはいすかのはしも無く尋ぬる人を引かへて尋ねぬならねど身に恥づれば我れとは訪はれぬお主のもとへ又見出されて二度の恩あるが中にも取分けて孃さまの御慈愛は山の中の峯たかきが上も高く海の中の沖深きが上も深しお可愛や誰れ人を彼のやうに思しめして御苦勞なき身の御苦勞やら我身新參の勝手も知らずお手もと用のみ勤めれば出入のお人多くも見知らず想像には此人かと見ゆるも無けれど好みは人の心々何がお氣に染しやら云はで思ふは山吹の下ゆく水のわき返りて胸ぐるしさも嘸なるべしお愼み深さはさることなれど御病氣にでも萬一ならば取かへしのなるべきならず主は誰人えぞ知らねど此戀なんとしても叶へ參らせたし孃さまほどの御身ならば世界に苦もなく憂ひもなく御心安くあるべき筈をさりとては又苦の世の中やと我身に比べて最憐がり心の限り慰められ優子眞實たのもしく深くぞ染めし初花ごろも色には出じとつゝみしは和女への隔心ならず有樣は打明てと幾たびも口元までは出しものゝ恥かしさにツイ云ひそゝくれぬ和女はまだ昨日今日とて見參らせし事も無きならんが婢女どもは蔭口にお名は呼ばずて光氏さまといふとかやお姿は察せよかし夫に引かれてゞは無けれど彼の人は父さま無二の御懇意とて恥かしき手前に薄茶一服參らせ初しが中々の物思ひにて帛紗さばきの靜こゝろなく成りぬるなり扨もお姿に似ぬ物がたき御氣象とや今の代の若者に珍らしとて父樣のお褒め遊ばす毎に我ことならねど面て赤みて其坐にも得堪ねど慕はしさの數は増りぬ左りながら和女にすら云ふは始めて云はぬ心は描かぬ畫もおなじ事御覽じ知る筈もあらねば萬一やの頼みも無きぞかし笑はるゝか知らねども思ひ初し最初より此願ひ叶はずは一生一人で過ぐす心憂きに送る月日のほどに思ひこがれて死ねばよし命が若しも無情くて如何に美るはしき夫人むかへ給ひぬとも愛らしき兒生れ給ふとも聞く身のつらさが思るゝぞとてほろ〳〵と打泣けばお八重かなしく身を寄せてお前さまは何故そのやうに御心よわい事仰せられるぞ八重は元來愚鈍なり相談してからが甲斐なしと思しめしてか馴れぬ御使ひも一心は一心先方さまどの樣な御情しらずで有らうとも貫かぬといふ事ある樣なし何ともしてお望み屹度叶へさせますものを御内端すぎてのお物思ひくよ〳〵斗り遊ばせばこそ昨日今日は御顏色もわるし御病ひでも遊ばしたら御兩親さまは更なる事なり申すも慮外ながら妹と思ぞとての御慈愛に身は姉上をもうけし心お前さま大切なほどお案じ申さずには居りませぬを忌はしや何ごとぞ一生一人で世を送るの死んで思ひを遁がれたしのと突きつめた御心に必らずお成り遊ばすなと宥める身さへ眼はうるみぬ、堪忍せよかし和女にまで苦をかけてあらぬ思ひに心を盡くすが我が身ながら口惜しきなり左りとても彼の人の事斷念がたきは何ゆゑぞ云はで止まんの决心なりしが親切な詞きくにつけて日頃の愼みも失なりぬと漸々せまりくる娘氣に涙に咽びて良時ありしが、八重さぞ打つけなと惘れもせんが一生の願ひぞよ此心傳へては給はるまじや嬉しき御返事聞きたしとは努々思はねど誰れ故みじかき命ぞとも知られて果てなば本望ぞかしと打しほるれば、又しても其樣なこと御前さま此々とお傳へ申さば好きお返事は知れた事なり最早くよ〳〵とは思しめすな、否や〳〵それは八重が知らねばぞ杉原さまは其やうな柔弱な放垨なお人で無ければ申出してからが心配なり不埒者いたづら者と御怒りにならば何とせん、夫は餘りのお取こし苦勞岩木の中にも思ひのなきかは無情き仰せの有る筈なし扨も御戀人は杉原さまとやお名は何とぞ、三郎さまと申のなり此頃來給ひしは和女が丁度不在の時よ一ト足違ひに御歸宅ゆゑ知らぬのは道理と云ひかけてお八重の顏さしのぞき此願ひ若し叶はゞ生涯の大恩ぞかし諄うは云はぬ心は是よと合はす手に嬉しき色はあらはれたり (三) 雲雀のあがる麥生なゝめに見渡しながら岡のすみれを摘あらそひし昔しは何の苦か有りし野河の岸に菊の花手折とて流れ一筋かち渡りし給ふ時我はるかに歳下の身のコマシヤクレにも君さまの袂ぬれるとて袖襻かけて參らせしを如何に人にも笑はれけん思へば其頃が浦山し君さま東京へ歸給ひし後さま〴〵續く不仕合に身代は亂離骨廢あるが上に二タ親引つゞきての病死といひ憂きこと重なる神無月袖にもかゝる時雨空に心のしめる我れを取らへて郡長の忰づらが些少の恩鼻にかけての無理難題やり返して遣りたけれど女子の身は左樣もならず柳にうけるを宜きことにして金やらん妾になれ行々は妻にもせんと口惜しき事の限り聞くにつけても君さまのことが懷かしく或る夜にまぎれて國を出でつ漸々東京へは着きし物の當處なければ御行衛更に知るよしなく樣々の憂き艱難も御目にかゝる折の褒められ種にと且つは心に樂しみつゝ賤しい仕業も身は清し行ひさへ汚がれずばと都乙女の錦の中へ木綿衣類に管笠脚袢はづかしや女子の身不似合の菓もの賣りも一重に活計の爲のみならず便りもがな尋ねたやの一心なりしが縁しあやしく引く方ありて不圖呼び入れられし黒塗塀お勝手もとに商ひせし時後にて聞けば御稽古がへりとや孃さまの乘したる車勢ひよく御門内へ引入るゝとて出でんとする我と行違ひしが何に觸れけん我がさしたる櫛車の前にはたと落しを知らず曵しかばなど堪るべき微塵になりて恨みを地に殘しぬ孃さま御覽じつけて氣の毒がり給ひ此そこねたるは我身に取らせよ代りには新らしきのを取らすべしとの給ひしかど元來落せしは我が粗忽なり曵かれしも道理破損しとて恨みもあらず况てや代りをとの望みもなし是れは亡母が紀念のなれば他人に奉るべき物ならずとて拾ひ納めて懷にせしをいとゞしく御不愍がり扨は親も無き人か憐れのことや先庭口より我が部屋まで來よ身の上も聞きたしとて連れ給ひぬ今こそ目馴れたれ御座敷の結搆お庭のたゝずまひ華族さまにやと疑がひしは一に孃さまの御言語容姿にも依りし物か其お美くしき孃さま御親切にも女子同志は互ひぞとて御優しき御詞我もしきりに嬉しくて尋ぬる人ありとこそ明さゞりしが種々との物語に和女の母御は斯々の人ならずやと思ひ寄らぬ御問ひ誠に若かぞ何として御存じと云へば忘れて成るべきか和女と我れとは兄弟ぞかし我れは梨本の優なるをとて手を取りての御喜び扨は母が乳を參らせたる君なりしか御目にかゝりし嬉しさに添へて落ぶれし身はづかしと打泣きしに榮枯は時なるものを歎く事かは萬は我れに委せよかし惡るき樣にはなすまじければ今日より此處に身を落つけずや母樣には我れ願はんとて放し給はず夫樣も又くれ〴〵の仰せに其まゝの御奉公都會なれぬ身とて何ごとも不束なるを彼は彼此は此と陰になりてのお指圖に古參の婢女も侮どらず明日の我れ忘れし樣な樂な身になりたるは孃さまの御情一ツなり此御恩何として送るべき彼の君さまに廻り逢はゞ二人共々心を合せてお話し相手に成るべきをと何につけても忍ばるゝは又彼の人の事なりしが思ひきや孃さま明日今日のお物思ひ命にかけてお慕ひなさるゝ主はと問へば杉原三郎どのとや三輪の山本しるしは無けれど尋ぬる人ぞと知る悲しさ御存じ無ければこそ召使ひの我れふし拜みてのお頼み孃さま不憫やと思はぬならねど彼の人何として取持たるべき受合ては立ちし物の此文には何の文言どういふ風に書きて有るにや表書きの常盤木のきみまゐるとは無情ひとへといふ事か岩間の清水と心細げには書き給へど扨も〳〵御手のうるはしさお姿は申すも更なり御心だてと云ひお學問と云ひ欠け處なき御方さまに思はれて嫌やとはよもや仰せられまじ我れ深山育ちの身として比べ物になる心はなけれど今日までの憂き苦勞は何ゆゑぞ逢はんと思ふ夫一ツに萬の願ひをかけ置きしに今目の前に逢ふ日は來ても逢ふが悲しき事義に成りぬ孃さまの御恩は泰山の高きも物の數かはよしや蒼海に珠を探れと仰せらるゝとも夫に違背はすまじけれど我が戀人周旋んことどう斷念めてもなる事ならず御恩は御恩これは是なり寧そお文取次いだる体にして此まゝになすべきか否や〳〵夫にては道がたゝず實は斯々の中なりとて打明けなば孃さま御得心の行くべきか我こそは夫で宜けれど彼れほどまでに思しめし入れたもの左らばと云ひて斷念のつく筈なし我身の願ひが叶へばとて現在お心知りながら夫もつらし是れも憂しと迷ひに心も夕暮の空お八重つく〴〵詠むれば明日も晴日か西の方のみ紅ゐの雲たな引きぬ (四) 男も女も法師も童も容貌よきが好きぞとは誰れ色好みの言の葉なりけん杉原三郎と呼ばるゝ人面ざし清らかに擧止優雅たが目に見ても美男ぞと見ゆればこそは罪つくりなれ我ゆゑに人二人まで同じ思ひにくるしむ共いざやしら樫の若葉の露かぜに散る夕ぐれの散歩がてら梨本の娘病氣にて別莊に出養生とや見舞てやらんとて柴の戸おとづれしにお八重はじめて對面したり逢はゞ云はんの千言百言うさもつらさも胸に呑みて恩とも言はず義理とも言はず沸かへる涙も人事にして御不憫や孃さま此程よりのお煩ひのもとはと云はゞ何ゆゑならず柔和しき御生質とて口へとては出し給はぬほど猶さらに御いとほしお心は中々我が云ふやうな物にはあらず此お文御覽ぜばお分りになるべけれど御前さま無情お返事もし遊ばされなば彼のまゝに居給ふまじき御决心ぞと見る目は如何につらからぬ事か久し振にて御目にかゝりし我身の願ひ是れ一ツなり叶へさせ給はゞ嬉しかるべきをとて取次ぐ文の思ひ切りても涙ほろほろ膝に落ちぬ義理といふもの世に無かりせば云ひたきこといと多し別れしよりの辛苦は如何に或る時はあらぬ人に迫まられて身の遁ればの無かりし時操はおもし命は鵞毛の雪の夜に刄手に取りしことも有けり或時はお行衛たづね詫て恨みは長し大河の水に沈む覺悟も極めしかど引れし後ろ髮の千筋にはあらで一筋に逢ふといふ日を頼みにして今日までも過せし身なりと云ひたけれど孃さまの戀も我が戀にも淺さ深さのあるべきならず我れまだ其事を口にせねば入譯御存じなきこそよけれ御恩がへしにはお望み叶へさせまして悦び給ふを見るが樂しみぞと我れを捨ての周旋なるを他しごとは思ふまじ左るにても君さまのお心氣づかはしと仰ぎ見れば端なくも男はじつと直視ゐたりハツと俯向く櫨紅葉のかげ美るはしき秋の山里に茸がりして遊びし昔しは蝶々髷の夢とたちて姿やさしき都風たれに劣らん色なるかは愁ひを含めど愛らしき雨の撫子しほれて床し三郎の心何と知らねど優子の文を手にとりつ淺からぬお心辱けなしとて三郎喜こびしと傳たへ給へ外ならぬ人の取次こと更に嬉しければ此文は賜はりて歸宅すべしとて懷中に押いれつゝ又こそと坐を立つに扨は孃さまの心汲とり給ひてかと嬉しきにも心ぽそく立上る男の顏そと窺ひてホロリとこぼす涕を藏くし孃さまにも嘸ぞお喜び我身とても其通りなり御返事屹度まちますと云えば點頭ながら立出る廻り椽のきばの橘そでに薫りて何時か月に中垣のほとり吹のぼる若竹の葉風さら〳〵として初ほとゝぎす待べき夜なりとやをら降たつ後姿見送る物はお八重のみならず優子も部屋の障子細目に明けて言はれぬ心〻を三郎一人すゞしげに行々吟ずる詩きゝたし (五) 便りまつ間の一日二日嬉しきやうな氣づかひな八重に遠慮は入らぬものゝ又言ひ出すかと思はるゝも恥かしくじつと堪ゆる返事の安否もしやと思へば萬一やになるなり八重は大丈夫と受合へど夫は氣やすめの詞なるべし彼の文とても御受取になりしやならずや其塲で其ま〻御突き戻しになりたるを我れに力落させまじとて八重の繕ひて居るにはあらずや否や〳〵八重として其樣のことある筈なし人を疑がふは罪ふかき事なり一日二日待給へ好き御返事の參るは定ぞと言ひしに違ひは無かるべし若しさうならば何とせん八重は上もなき恩人なれば何ごとなり共氣に入ることして悦ばせたし歳は下なれど分別ある人とて言少なゝれば願ひは有や望みはなしや知れ難きを何とせん扨も人妻となりての心得は娘の時とは異なる物とか御氣に入らば宜けれど若し飽かれなば悲しき事よ先それよりも覺束なきは彼の文の御返事なり御覽にはなりたり共其まゝ押まろめ給ひしやら却りて御機嫌をそこねもして愛想づかしの種にもならば云はぬに増る愁らさぞかし君さまこそ無情とも思ふ心に二ツは無し不孝か知らねど父樣母さま何と仰せらるゝとも他處ほかの誰れ良人に持べき八重は一生良人は持たずと云ふものから我が身とは自ら異りて關係はることなく心安かるべし浦山しやと浦山るゝ我をば知らで吐息をもらしぬお八重はつく〴〵有し日の事を思ふに男心の頼みがたさよ我れ周旋する身として事整ふは嬉しけれど優子どのゝ心宜く見えたり三郎喜こびしと傳へ給へとは餘りといへど昔しを忘れ給ひしお詞なりトおもふは我が身の妬みにやお主樣ゆゑには身を殺して忠義を盡くす人さへ有るを我一人にて憂きをしのばゞ何處も事なく納まるべきなり何氣なき孃さまが八重や八重やと相談相手に遊ばすを御恨み申は罪のほども恐ろしゝ何ごとも殘さず忘れてお主さまこそ二代の御恩なれ杉原三郎といふお人元來のお知人にもあらず况てや契りし事も何もなし昨日今日逢しばかり若かもお主さまの戀人に未練のつながる筈はなし御縁首尾よく整のへて睦ましく暮し給ふを見るが切めての樂しみなり我れは望みとて無き身なれば生涯この家に御奉公して御二タ方さま朝夕の御世話さては嬰子さま生まれ給ひての御抱き守り何にもあれ心を責めて仕へんか夫は何としてもなる事ならず兎ても角ても憂き世なれば人訪はぬ深山の奧にかき籠りて松風に耳を澄まさば宜かるべけれど夫すら彼の人見捨てゝは入り難かるべしとてつく〴〵と打歎けど人に見すべき涙ならねば作り笑顏の片頬さびしく物案じの主慰めながら我れ先づ乱るゝ蓴の戀はくるしき物なるにや成るとは見えて覺束なき人の便りをまつとは云はず杉原さまはお廿四とやお歳よりは老けて見え給ふなり和女は何と思ふぞとて朧氣なこと云ふて見る心や流石に通じけんお八重一日莞爾やかに孃さまお喜び遊ばす事あり當てゝ御覽じろと久し振りの戯れ言さりとは餘りに廣すぎて取り處が分らぬなりと微笑ば左らば端を少し聞かし參らせんお前さま何より何よりお嬉しと思しめす事が有べし夫なりとて容易は言ひもせず夫ぞとは知れど猶も知らぬ顏に八重が例に似ぬことよ先づ云ふて聞かしても宜さそうなと打怨ずれば其やうに御いそぎなされますなと打笑ひながら彼の君より御返事が參りしなり是がお嬉しからぬ事かと咡かれて耳の根くわつと熱くなりつ胸とヾろかれて噛む袖の下に密と置く藻しほぐさ俄には手にも取らぬをお八重察して進めつゝ取まかなひて封を切らすに文にはあらで一枚の短冊なりけり兩女ひとしく見る雲形 茂りあふわか葉にくらき迷ひかな      みるべきものを空の月かげ 意味の存する處何方ぞや茫として闇きわか葉のかげいとゞ迷ひは茂り合ふばかり晴るゝよし無き空の月の心〻に判じて見れど何れ眞意と得ぞわき難く喜こぶべきか歎くべきかお八重はお八重優子は優子斯く云はれなば斯くせんの决心互に堅けれど思ひの外なる返しには何と定めて何とせん未練は流石ありそ海のおきて見つ又取りて見つながめに飽かねど吐息されて八重はマア何と思ふぞと人の詞を待て見るあな覺束なの三十一文字や (六) 怪しや三郎の便りふつと聞えず成りぬ待つには一日も侘しきを不審しかりし返事の後今日や來給ふ明日こそはと空だのめなる日を重ねて十日半月さては廿日憂き身につらき卯月も過たり五月雨ごろのしめり勝に軒の忍艸は我が類ひの引きては葺かねど池のあやめの根ながき思ひにかき暮らされて袖にも水かさの増さりやすらん此處は別莊の人氣も少くなく氣に入りの八重を置ては別莊守りの夫婦のみなれど最愛の娘病氣との事なり本宅よりの使ひ絶ま無ければ事によそへて杉原のこと問はするに本宅にも此頃さらに參り給はずといふ左るにても何とし給ひしにや我心をさなくて卒爾に文など參らせたるを如何に厭はしと思しながら返しせざらんも情なしとて彼れよりは夫となく御出のなきか此頃のお哥の心は如何に茂るわか葉の今こそは闇らけれど時節を待たば空の月の逢みるべきぞとならば嬉しけれど若しやの願ひに左樣見ゆるにや寧そ愁らからば一筋ならで頼みのある丈まどはるゝなり扨もお便りの聞えぬは何故我れ厭はせ給ひなば此處へこそ御入來なく共本宅へまで御踈遠とは不審しゝ夫ほどまでに御嫌ひになるほどなら優しげな御詞なぜ仰せおかれけん八重が思ふも恥かしきまで彼の時は嬉しかりしを此まゝに見返りもし給はずは今さら面ても向けがたし悲しき事よと娘氣に頼みをかけて見つ又ときつ思案にもつるゝ撚糸の八重が歎きは又異なり茂る若葉の妨げと仰せられしは我が事ならずや闇き迷ひと歎じ給へど夫れ悟りたればこその御取持ちなれ思ひ合ふ中のお兩方に我が生涯の望みも頼みも御讓り申して思ひ置くこと些少なきを何はゞかりての御遠慮ぞや身を觀ずれば御恨みも未練も何もあらずお二タ方さま首尾とゝのひし曉には潔よく斯々して流石は貞操を立るとだけ君さまに知られなば夫を思での我れなるに此身ある故に孃さまの戀叶はずとせば何とせん身退ぞくは知らぬならねど義理ゆゑ斯くと御存じにならば御情ぶかき御心として人は兎もあれ我よくばと仰せらるゝ物でなし左らでも御弱きお生質なるに如何つきつめた御覺悟をも遊ばすまじき物ならず御最愛のお一人娘とて八重や何分たのむぞと嚴格い大旦那さまさへ我身風情に仰せらるゝは御大事さのあまりなるべし彼につけ是につけ氣づかはしきは彼の人の事よ有りし日の對面の時此處に居給ふとは思ひがけず郷里のことは我れ聞きたり辛苦さこそなるべけれど奉公大切に勉め給へと仰せられしが耳に殘りて忘られぬなり彼れほどにお優しからずば是れほどまでにも歎かじと斷ち難き絆つらしとて人見ぬ暇には部屋のうちに伏し沈づみぬ何れ劣らぬ双美人に慕はるゝ身嬉しかるべきを何を厭ふてか三郎かき絶て影も見せず疑念は重なる五月雨のくも、薄らぐべき由もなくて、世をうみ梅實の落る音もそゞろ淋しき日を幾日、をぐらき窓のあけくれに、をち返りなく山時鳥の、から紅ゐにはふり出でねど、涙に袖の色かはるまで同じ歎きを別に知る主從の思ひさても果敢なし優子はいとゞ世を知らぬ身のお八重が素振り得も察せず氣の毒や我身大事にかけるとて痩せ見ゆるほど心配させし和女の情は忘れぬなり左りながら如何ほど盡くしてくるゝ共なるまじき願ひぞとは漸〻に斷念たり夫につきて又別に父樣母さまへの御願ひあれど御二タ方なり和女なりに歎きをかくるが愁らきぞとてしみ〴〵と物語りつお八重の膝に身をなげ伏して隱くしもやらぬ口説ごとにお八重われを忘れて抱き合ひ詞もなくよゝと泣きしがお前さまに其やうな御覺悟させますほどなら此苦勞はいたしませぬ御入來の無きは不審しけれど無情き御返事といふにもあらぬを早まつての御考へは御前さまの樣にも無し今しばしの御辛抱ぞ其うちには何ともして屹度お喜こばせ申べし八重が一心を憐れとも思しめして其やうな悲しいことお聞かせ遊ばすなとて力を添へぬ優子嬉しく手に手を取りて前の世では何でありしやら兄弟にもなき親切この後とも頼むぞや是よりは別しての事何ごとも汝の異見に隨がはん最早今のやうな事云ふまじければ免してよと詫らるゝも勿体なく待てば甘露と申ますぞやと輕るげに云へど義理は重し袖に晴れ間は見えぬ物の限りあればにや今日珍づらしく鳶なきて雨の餘波に軒ばの露に照る日あたらしく玉をみがきて庭の木かげも心地よげなるを籠居てのみ居給ふは御躰にも毒なる物をとお八重さま〴〵に誘ひて邊りちかき野の景色田面の庵の侘たるも又をかしかるべし御覽ぜずやとわりなくすゝめて柴の戸めづらしく伴ひ出でぬ人の心のうやむやは知らずや茂る木立すゞしく袖に吹く風むねに欲しゝ植はたす小田の早苗青々として處々に鳴き立つ蛙の聲さま〴〵なる彼れも歌かや可笑しとてホヽ笑む主に我れも嬉しく彼方の萱ぶき此の垣根お庭の中に欲しきやうなり彼の花は何ならんと小走りして進み寄りつ一枝手折りて一輪は主一輪は我れかざして見るも機嫌取りなり互の心は得ぞしらず畔道づたひ行返りて遊ぶ共なく暮す日の鳥も寐に歸る夕べの空に行く雲水の僧一人たゝく月下の門は何方ぞ浦山しの身の上やと見送くれば見かへる笠のはづれ兩女ひとしくヲヽと呌びぬ 底本:「武蔵野 第三編」今古堂    1892(明治25)年7月23日出版 初出:「武蔵野 第三編」今古堂    1892(明治25)年7月23日出版 ※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。 ※「優子」に対するルビの「いうこ」と「ゆうこ」、「孃」に対するルビの「じやう」と「ぢやう」、「主樣」に対するルビの「しゆうさま」と「しうさま」、「主從」に対するルビ「しゆうじう」と「しうじう」の混在は、底本通りです。 入力:万波通彦 校正:Juki 2020年4月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。