たま襻 一葉女史 Guide 扉 本文 目 次 たま襻 上の一 上乃二 (中の一) (中の二) 下 上の一 をかしかるべき世を空蝉のと捨て物にして今歳十九年、天のなせる麗質、をしや埋木の春またぬ身に、青柳いと子と名のみ聞ても姿しのばるゝ優しの人品、それも其筈昔しをくれば系圖の卷のこと長けれど、徳川の流れ末つかた波まだ立たぬ江戸時代に、御用お側お取次と長銘うつて、席を八萬騎の上坐に占めし青柳右京が三世の孫、流轉の世に生れ合はせては、姫と呼ばれしことも無けれど、面影みゆる長襦袢の縫もよう、母が形見か地赤の色の、褪色て殘るも哀いたまし、住む所は何方、むかし思へば忍が岡の名も悲しき上野の背面谷中のさとに形ばかりの枝折門、春は立どまりて御覽ぜよ、片枝さし出す垣ごしの紅梅の色ゆかしと延びあがれど、見ゆるは萱ぶきの軒端ばかり、四邊は廻ぐらす花園に秋は鳴かん虫のいろ〳〵、天然の籠中に收めて月に聞く夜の心きゝたし、扨もみの虫の父はと問へば、月毎の十二日に供ゆる茶湯の主が夫、母も同じく佛檀の上にとかや、孤獨の身は霜よけの無き花檀の菊か、添へ竹の後見ともいふべきは、大名の家老職背負てたちし用人の、何之進が形見の息松野雪三とて歳三十五六、親ゆづりの忠魂みがきそへて、二代の奉仕たゆみなく、一町餘りなる我が家より、雪にも雨にも朝夕二度の機嫌きゝ怠らぬ心殊勝なり、妻もたずやと進むる人あれど、何の我がこと措き給へ夫よりは孃さまの上氣づかはしゝ、廿歳といふも今の間なるを、盛りすぎては花も甲斐なし、適當の聟君おむかへ申し度ものと、一意專心主おもふ外なにも無し、主人大事の心に比らべて世上の人の浮薄浮佻、才あるは多し能あるも少なからず、容姿學藝すぐれたればとて、大事の御一生を托すに足る人見渡したる世上に有りや無しや知れたものならず、幸福の生涯を送り給ふ道、そも何とせば宜からんかと、案じにくれては寐ずに明す夜半もあり、嫁入時の娘もちし母親の心なんのものかは、疵あらせじとの心配大方にはあらざりけり、雪三かくまで熱心の聟撰みも、糸子は目の前すぐる雲とも思はず、良人持たんの觀念、何として夢さら〳〵あらんともせず、樂みは春秋の園生の花、ならば胡蝶になりて遊びたしと、取とめもなきこと言ひて暮しぬ、さるほどに今歳も空しく春くれて衣ほすてふ白妙の色に咲垣根の卯の花、こゝにも一ツの玉川がと、遣水の流れ細き所に影をうつして、風なくても凉しき夏の夕暮、いと子湯あがりの散歩に、打水のあと輕く庭下駄にふんで、裳とる片手はすかし骨の塗柄の團扇に蚊を拂ひつ、流れに臨んで立たる姿に、空の月恥らひてか不圖かゝる行く雲の末あたり俄に暗くなる折しも、誰が思ひにか比す螢一ツ風にたゞよひて只眼の前、いと子及ぶまじと知りても只は有られず、ツト團扇を高くあぐればアナヤ螢は空遠く飛んで手元いかゞ緩るびけん、團扇は卯の花垣越えて落ちぬ、是は何とせんと困じ果てゝ、垣根の際よりさしのぞけば、今しも雲足きれて新たに照らし出す月の光りに、目と目見合して立たる人、何時の間に此所へは來て、今まで隱れてゞも居しものか、知らぬことゝて取乱せし姿見られしか、見られしに相違なしと、面俄にあつくなりて、夢現うつむけば、細く清しき男の聲に、これは其方さまのにや返上せんお受取なされよと、垣ごしにさし出す我が團扇、取んと見あぐれば恥かしゝ美少年、引かんとする團扇の先一寸と押へて、思ひにもゆるは螢ばかりと思し召すかと怪しの一言、暫時は糸子われか人か、有無の間に迷ひし心、本の心に歸りし時は、卯の花垣に照る月高く澄んで、流れにうつる影我一人になりぬ、さるにても彼の人は誰ならん、隣家は植木屋と聞たるが、思ひの外の人品かなと、其方を眺めて佇立めば、風に傳たはる朗詠の聲いとゞ床しさの數を添へぬ糸子世は果敢なきものと思ひ捨てゝ、盛りの身に紅白粉よそほはず、金釵綾羅なんの爲の飾り、入らぬことぞと顧みもせず、過ぎし心に恥かしや、我れ迷ひたりお姿今一度見まほしゝと延び上がれば、モシと扣へらるゝ袂の先、誰れぞオヽ松野か何として此所へは否や何時の間にと詞有哉無哉支離滅裂 上乃二 丸窓にうつる松のかげ、幾夜詠めて月も闇になるまゝにいと子の心その通り、打あけては問ひもならぬ、隣の人の素性聞たしと思ふほど、意地わろく誰れも告げぬのか夫ともに知らぬのか、よもや植木屋の息子にてはあるまじく、さりとて誰れ住替りし風説も聞かねば外に人の有る筈なし、不審さよの底の心ろは其人床しければなり、用もなき庭歩行にありし垣根の際、幾度びか顧りみて思へば、さてもはした無きことなり、氏も知らず素性も知らず、心情も何も知れぬ人に戀ふとは、我れながら淺ましきことなり、定なき世に定めなき人を頼む、婦人の身はかなしと思もひ絶て、松野が忠節の心より、我大事と思もふあまりに樣々の苦勞心痛、大方ならぬ志は知るものから、夫すら空ふく風と聞きて、耳にだに止めんとせざりし身が、何ぞや跡もかたも無き戀に磯の鮑の只一人もの思ふとは、心の問はんもうら恥かし、人知らぬ心の惱みに、昨日一昨日は雪三が訪問さへ嫌忌くて、詞多くも交はさゞりしを、如何に聞て如何ばかり案じやしけん、氣の毒のことしてけるよ、いで今日の日も暮なんとするを、例の足おとする頃なり、日頃くもりし胸の鏡すゞしき物語に晴さばやとばかり、垣根の近邊たちはなれて、見返りもせず二三歩すゝめば遣水の流がれおと清し、心こゝに定まつて思へば昨日の我れ、彷彿として何故ゑに物おもひつる身ぞ、廣き園生は我が爲めに四季の色をたゝかはし、雅やかなる居間は我が爲めに起居の自由あり、風に鳴る軒ばの風鈴、露のしたゝる釣忍艸、いづれをかしからぬも無きを、何をくるしんでか、要なき胸は痛めけん、愚かしさよと一人笑みして、竹椽のはしに足を休めぬ、晩風凉しく袂に通ひて、空に飛かふ蝙蝠のかげ二つ三つ、夫すら漸く見えず成ゆく、片折戸を靜かに音なふは聞なれし聲音なり、いと子厨のかたに聲をかけて、玉よ雪三が參りたりと覺るに、燈火とくと命令ながら、ツト立て門の方うち見やりしが、闇にもしるき白き手を擧げて、稚兒が母よぶ樣に差まねぎつ、坐敷にも入らではるかに待てば、松野は徐ろに歩みを進めて、早く竹椽のもとに一揖するを、糸子かるく受けて莞爾に、花莚の半を分けつゝ團扇を取つて風を送れば、恐れ多しと突く手慇懃なり、此ほどはお不快と承りしが、最早平日に返らせ給ひしか、お年輩には氣欝の病ひの出るものと聞く、例の讀書は甚だわろし、大事の御身等閑におぼしめすなと、知らねばこそあれ眞實なる詞にうら耻かしく、面すこし打ち赤めて、否とよ病氣は最う癒りたり、心配かけしが氣の毒ぞと我れ知らず出る侘の言葉に、何ごとの仰せぞ、主從の間に氣の毒などゝの御懸念ある筈なし、お前さまのおん身に御病氣その外何事ありても、夫はみな小生が罪なり、御兩親さまのお位牌さては小生が亡兩親に對して雪三何の申譯なければ、假令身にかへ命にかへても盡くし參らする心なるを、よしなき御遠慮はお置き下されたしと恨み顏なり、これ程までに思ひくるゝ、其心知らぬにも有らぬを、この頃の不愛想我が心の悶ゆるまゝに、詞交はすが懶くて、病氣などゝ有もせぬ僞りは何ゆゑに云ひけん、空おそろしさに身も打ふるへて、腹たちしならば雪三ゆるしてよ、隔つる心は微塵もなけれど、主の家來の昔しは兎もあれ、世話にこそなれ恩もなにもなき我が身が、常日ごろ種々の苦勞をかける上にこの間中よりの病氣、それ程のことでも無かりしを、何故か氣が欝ぎて、心にも無き所置ありしかもしれず、夫がつひ氣の毒にて言ひたるなれど、心に障はらば二度とは言はじ、汝に捨られて我れ何としてか世には立つべき、心おさなければ目にあまることも有らん、腹立しきことも多ならんが、外に寄る邊のなき身なるを、妹とも娘とも斷念めて、教へ立られなば嬉しきぞと、松野が膝ゆり動かして涙ぐめば、雪三身を退りて頭を下げつゝ、分にあまりし仰せお答への言葉もなし、お心細き御身なればこそ、小生風情に御叮嚀のお頼み、お前さま御存じはあるまじけれど、徃昔の御身分おもひ出されてお痛はしゝ、我れ後見まゐらする程の器量なけれど、赤心ばかりは誰れ人にまれ劣ることかは、御心やすく思召せよ世にも勝れし聟君迎へ參らせて花々しきおん身にも今なり給はん、嗚呼がましけれど雪三が生涯の企望はお前さま御一身の御幸福ばかりと、言ひさして詞を切りつ糸子が面じつと眺めぬ、糸子何心なく見返して、我は花々しき身にならんの願ひもなく、まして聟むかへんの嫁入りせんのと、世の人めかしき望み少しもなし、只汝さへ見捨ずは、御身さへ厭はせ給はずは、我が生涯の幸福ぞかしとて嫣然とばかりうち笑めば、松野じり〳〵と膝を進めて、孃さまは夫ほどまでに雪三を力と覺しめしてか、それとも一時のお戯れか、御本心仰せ聞けられたしと問ひ誥むるを、糸子ホヽと笑ひて松野が膝に輕く手を置きつ、戯むれかとは問ふ丈も淺し、親とも兄ともなく大切に思ふものをと、無心に言へば忝なしと一ト言語尾ふるへて消えぬ (中の一) 洗ひ髮の束髮に薔薇の花の飾りもなき湯上りの單衣でたち、素顏うつくしき夏の富士の額つき眼に殘りて、世は荻の葉に秋風ふけど螢を招ねきし塗柄の團扇、面影はなれぬ貴公子あり、駿河臺の紅梅町にその名も薫ほる明治の功臣、竹村子爵との尊稱は千軍万馬のうちに含みし、つぼみの花の開けるにや、夫が次男に緑とて才識並らび備はる美少年、今歳のなつの避暑には伊香保に行かんか磯部にせんか、知る人おほからんは佗しかるべし、牛ながら引入れる中川のやどり手近くして心安き所なからずやと、打うめかれしをお出入の槖駝師某なるもの承はりて、拙郎が谷中の茅屋せき入れし水の風流やかなるは無きものから、紅塵千丈の市中ならねば凉しきかげもすこしはあり、足を運び給はゞ忍ぶが岡の緑樹の朝つゆ、寐間着のまゝにも踏み給ふべし、螢名所の田畑も近かり、只天王寺の近き爲に、蚊はあまり少なからねど、吹き拂ふに足る風十分なり、兎に角思ひ立たせ給へとて、紀の守が迷惑氣にも見えず誘ふにぞ、夫好からんとて夏のさし入りより、別室を仮住に三月ばかりの日を消しゝが、歸邸の今日の今も猶殘る記臆のもの二ツ、隣家に咲ける遲咲きの卯の花、都めづらしき垣根の雪の、凉しげなりしを思ひ出ると共に、月に見合はせし花の眉はぢて背けしえり足の美くしさ、返す團扇に思ひを寄せし時憎くからず打笑みし口元なんど、只眼の先に沸き來たりて、我れ知らず沈思瞑目することもあり、さるにても何人の住家にや、人品の高尚かりしは、無下に賤しき種には有るまじ、妻か娘か夫すらも聞き知らざりし口惜しさよ、宿の主は隣家のことなり、問はば素性も知るべきものと、空しくはなど過しけん、さりとて今更問はんもうしろめたかるべしなんど、迷ひには智惠の鏡も曇りはてゝや、五里の夢中に彷徨しが、流石に定むる所ありけん、慈愛二となき母君に、一日しか〴〵と打明けられぬ、さはいへど人妻ならば及ぶまじことなり確めて後斷念せんのみ、浮たる戀に心ろを盡くす輕忽しさよとも覺さんなれど、父祖傳來の舊交ありとて、其人の心みゆる物ならず、家格に隨ひ門地を尊び、撰りに撰りて取る虫喰栗も世には多かり、藻くずに埋もるゝ美玉又なからずや、哀この願ひ許容ありて、彼女が素性問ひ定め給はりたし、曲りし刀尺に直なる物はかり難く、惑ひし眼に邪正は分け難し、鑑定は一重に御眼鏡に任さんのみと、恥たる色もなく陳べらるゝに、母君一ト度は惘れもしつ驚ろきもせしものゝ、斯くまで熱心の極まりには、何事引き出られんも知るべからず、打明けられしだけ殊勝なり、萬は母が胸にあり任せたまへと子故の闇に、ある夕暮の墓參の戻り、槖繩師許くるまを寄せて、入りもせぬ鉢ものゝ買上げ、扨は園内の手入れを賞めなどして、逍遙の端に若し其人見ゆるやと、垣根の隣さしのぞけど、園生廣くして家遠く、萱ぶきの軒ば半ば掩ふ大樹の松の滴たる如き緑の色の目に立て見ゆるばか、聲きくよすがも有らざりければ、別亭に澁茶すゝりながら夫となき物語、この四隣はいづれも閑靜にて、手廣き園生浦山しきものなり、此隣りは誰樣の御別莊ぞ、松ばかりにても見惚るゝやうなりとほゝ笑めば、否や別莊にはあらず本宅にておはすなりと答ふ、是を話しの糸口として、見惚れ給ふは松ばかりならず、美くしき御主人公なりといふ、然ればよなと思ひながら、殊更に知らず顏粧ひつゝ、主人は御婦人なるにや、扨は何某殿の未亡人とか、さらずは妾なんどいふ人か、別して與へられたる邸宅かと問へば、否や然からず舊をいはば三千石の末流なりといふ、さらば旗下の娘御にや、親御などもおはさぬか、一人住みとは痛はしきことなりと、早くも其の人不憫になりぬ、此處の主も多辨にや咳勿躰らしくして長々と物語り出ぬ、祖父なりし人が將軍家の覺え淺からざりしこと、今一足にて諸侯の列にも加へ給ふべかりしを不幸短命にして病沒せしとか、或は其頃の威勢は素晴しきものにて、いまの華族何として足下へも依らるゝ物でなしと、口濘らして遽しく唇かむもをかし、夫に比べて今の活計は、火の消しも同じことなり、彼れほどの地邸に公債も何ほどかは持たまふならんが、夫も孃さまが身じんまく丈漸々なるべしと、我れ入り立ツて見し樣な話しなり、老爺は何として其やうに委しく知るぞと問へば、否や拙郎は皆目知るはずなけれど、一昨年病亡りし孃さまの乳母が、常日頃遊びに來ての話なりといふ、お歳は十九なれどまだまだ十六七としか見えず、夫から思へば松野どのは大層に老けられたりと我一人呑込顏、その松野殿とかは娘御の何ぞと問はれて、成るほどなるほど御存じは無き筈なりとて、更に松野の爲に頣しばらく働かせぬ、さればこそ暮やすき、秋日の短時間に、糸子主從は竹村夫人が胸中の知己とぞなれりける (中の二) 心は變化するものなり、雪三が徃昔の心裏を覗はゞ、糸子に對する觀念の潔白なること、其名に呼ぶ雪はものかは、主人大事の一ト筋道、振むくかたも無かりし物の、寄る邊なき御身憐れやとの情やう〳〵長じては、我れ一人をば天が下の頼もし人にして、一にも松野二にも松野と、隔だてなく遠慮なく甘へもしつ㑃強もしつ、睦れよる心愛らしさよと思ひしが、そも〳〵流れに塵一ツ浮びそめし初めにて、此心更に追へども去らず、澄まさんと思ふほど掻きにごりて、眞如の月の影は何處、朦々朧々の淵ふかく沈みて、目に遮ぎるは月を追ひ日に隨ひて艶いよ〳〵艶ならんとする雨後春山の花の顏、妍ます〳〵妍ならんとする三五夜中の月の眉いと子が容姿ばかりなり、かゝりけれども猶ほ一片誠忠の心は雲ともならず霞とも消えず、流石に顧りみるその折々は、慚愧の汗背に流れて後悔の念胸を刺つゝ、是は魔神にや見入れられけん、有るまじき心なり、我れに邪心なきものと思せばこそ、幼稚の君を托し給て、心やすく瞑目し給ひけれ、亡主に何の面目あらん、位牌の手前もさることなり、いでや一對の聟君撰み參らせて、今世の主君にも未來の主君にも、忠節のほど顯はしたし、然かはあれど氣遣はしきは言葉たくみに誠少くなきが今の世の常と聞く、誰人か至信に誠實に、我が愛敬する主君の半身となりて、生涯の保護者とはなるべきにや、思へばいとも覺束なきことなり、我れに主從の關係なくば、我れ松野雪三ならずは、青柳いと子孃の手を取りて、生涯の保護者とならんもの天が下に又とはあるまじ、さりながら是は叶なふべきことならず、仮にもかゝる心を持たんは、愛するならずして害するなり、いで今よりは虚心平氣の昔しに返りて何ごとをも思ふまじと、斷念いさましく胸すゞしくなるは、青柳家の門踏まぬ時なり、糸子が愛らしき笑顏に喜こび迎へて、愛らしき言葉かけらるゝ時には、道に背かば背け世の嗤笑にならばなれ、君故捨つる名眞ぞ惜しからず、今日は思ふ心もらさんか明日は胸の中うち明けんかと、眞實なる人ほど戀は苦るし、斯かるおもひの幾筋を撚り合はされし身なるものから、糸子が心は春の柳、そむかず靡びかずなよ〳〵として、無邪氣の笑顏いつも愛らしく、雪三よ菊塢の秋草盛りなりとかきくを、此程すぐさず伴ひては給はらずやと掻口説きしに、何の違背のある筈なく、お前さま御都合にて何時にてもお供すべしと、松野は答へぬ、秋雨はれて後一日今日はと俄に思ひ立て、糸子例の飾りなき粧ほひに身支度はやく終りて、松野が來る間まち遠しく雪三がもと我れより誘いぬ、と見れば玄關に見馴れぬ沓一足あり、客來にやあらん折わろかりと歩を返せしが、さりとも此處まで來しものを此まま歸るも無益しゝと、庭より廻ぐりて椽に上れば、客間めきたる所に話し聲す、徐ら次の間にかいひそまりて聞くともなしに耳たつれば、客はそも誰れなるにや、青柳といふこゑいと子と呼ぶ聲折々に交りぬ、さても何事を談ずるにや、我れにも關係あり氣なるをと、襖に寄りて靜かに聞けば、斷續して聞ゆるもの語の意味明亮にあらねども、大方は知れ渡りぬ、聞く人ありとは知らぬものゝ詞あまりは高からず、松野に向ひて坐したるは竹村子爵が家從の何がし、主命に依りて糸子縁談の申し込なるべし、其時雪三决然とせし聲音にて、折角の御懇望ながら糸子さま御儀他家へ嫁したまふ御身ならねばお心承るまでもなし、雪三斷然お斷り申す御歸邸のうへ御前体よろしく仰せ上げられたしといひ放てば、然る仰せあらんとは存ぜしなり、然らば聟君としては迎へさせ給はずやといふ、否とよ兎に角に御身分柄つり合はず、末のほど覺束なければと言ひかゝるを打けして、そは御懸念が深すぎずや、釣合ふとつり合ぬは御心の上のことなり、一應いと子さまの御心中お伺ひ下されたし、其お答へ承はらずば歸邸いたし難し平にお伺ひありたしと押返せば、それ程に仰せらるゝを包むも甲斐なし、誠のこと申上ん、糸子さまには最はや定まる人おはすなりそれ故のお斷はりぞと莞爾と笑めば、家從は少し身を進ませて、始めて承はりたり何方への御縁組にや苦しからずは仰せきけられたしと雪三の面キツと見れば、糸子も間ひの襖の際にぴつたりと身を寄せつあやしのことよと耳そばだつれば、松野例に似ぬ高調子に然らば聞かし參らせん御歸邸のうへ御主君、殊に緑君に御傳へ願ひたし、糸子が契約の良人とは、誰れにもあらず、松野雪三即ち斯くいふ小生 下 戀は一方に強よく一方に弱はきものと聞くは僞はり何方すてられぬ花紅葉の色はなけれど松野の心ろ根あはれなり、然りとて竹村の君が優さしき姿一度は思ひ絶えもしたれ、淺からぬ御志の忝なさよ、斯く思ふは我れに定操の無ければにや、脆ろき情のやる方もなし、扨も松野が今日の詞、おどろきしは我のみならず竹村の御使者もいかばかりなりけん、立歸りて斯く斯くなりしとも申さんに、何は置きて御さげすみ恥かしゝ、睦ましかりしも道理、主從とは名のみなりしならんなど、彼の君に思はれ奉らん口惜しさよ、是も誰れ故雪三故なり、松野が邪心一ツゆゑぞ、然かはあれども御使者歸路につき給ひし後、身を投げ出しての詞今も忘れ難し、御身は竹村を床しと覺すか、緑どのとやら慕はしく思ひ給ふか、さらばいか斗り雪三憎しと覺すなるべし、さりながら徃日の御詞は僞りなりしか、汝さへに見捨ずば我が生涯の幸福ぞと、忝けなき仰せ承はりてよりいとゞ狂ふ心止がたく、口にするは今日始めてなれど、盡くしたる心はおのづから御覽じしるべし、姿むくつけく器量世におとりしとて厭とはせ給はゞ、我れも男のはしなり、聞かれ參らせずとて只やはある、他人の眺めの妬ましきよりはと、花に吹く嵐のおそろしき心ろも我れ知らず起らんにや、許るさせたまへとて戀なればこそ忠義に鍛へし、六尺の大男が身をふるはせて打泣し、姿おもへば扨も罪ふかし、六歳のむかし」我れ兩親に後れし以來、延びし背丈は誰の庇護かは、幼稚の折の心ろならひに、謹みもなく馴れまつはりて、鈇石の心うごかせしは、搆へて松野の咎ならず我が心ろのいたらねばなり、今我れ松野を捨てゝ竹村の君まれ誰れにまれ、寄る邊を开所と定だめなば哀れや雪三は身も狂すべし、我幸福を求むるとて可惜忠義の身世の嗤笑にさせるゝことかは、さりとて是れにも隨がひがたきを、何として何にとせば松野が心の迷ひも覺め、竹村の君へ我が潔白をも顯されん、何方にまれ憎くき人一人あらば、斯くまで胸はなやまじを、果敢なの身やとうち仰げば空に澄む月影きよし、肘を寄せたる丸窓のもとに何んの咡きぞ風に鳴る荻の友ずり、我が蔭ごとか哀れはづかし、見渡す花園は夜るの錦を月にほこりて、轉ぶ白玉の露うるはしゝ、思へば誰れも消ゆる世なるを、我が身一ツなき物にせば、何方に何の障りか有るべき、我れ憂き世の厭はしきは今はじめたることならず、捨てんは兼てよりの願ひなり、歎くべきことならずと嫣然と笑みて靜かに取出す料紙硯、墨すり流して筆先あらためつ、書き流がす文誰れ〳〵が手に落ちて明日は記念と見ん名殘の名筆 底本:「武蔵野 第二編」今古堂    1892(明治25)年4月17日 初出:「武蔵野 第二編」今古堂    1892(明治25)年4月17日 ※表題は底本では、「たま襻」となっています。 ※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。 ※「いと子」と「糸子」の混在は、底本通りです。 入力:万波通彦 校正:Juki 2019年2月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。