音楽と世態 中原中也 Guide 扉 本文 目 次 音楽と世態  近頃は音楽界は盛んであるやうだ。演奏方面は勿論として、作曲家も没々出て来る。──つまり音楽界は盛んであるのだ。そこで音楽は盛んであるか如何。  そこらのお坊つちやんが、──まあ、お坊つちやんだつて、貧乏人だつて、貧乏人だつてお坊つちやんだつてそんなことが此処で問題ではないのだが、──少しばかりお玉杓子を並べることを覚えようと、大いに沢山お玉杓子を並べることを覚えようと、或は、ハーモニーが新しからうと古からうと、オーケストレーションが器用に出来ようと高速な思想の持主であらうとあるまいと、ジャズだらうと俗謡だらうとソナタだらうとファンテジイだらうと、──問題ではない。  私に問題なのは、要するに彼が如何に音楽を要求したかが問題であつて、言ひ換れば、彼れの魂が如何に音楽に於いて満足されたかが問題なのである。  だいたい芸術といふ、最も悲劇的な仕事は最も喜劇的に見られ易いならはしである。山賊仲間に聖者のゐたためしは先づないが、修道院の中には天使から悪魔までがずらりとゐる。面白いことで結構なことで、それが決定的に見た場合の世の中といふもので、この儘世界が化石してしまふのなら、せめて活人画くらゐにはなつてくれるのなら、いふがものはないのだが、化石にもならないし、時計は依然廻つてゐるし、その間に様々な椿事は出来してゐるし、其処に幸福と不幸とが湧き返り立ち返つてゐるからには、偶には良心とかつて元気な小僧もゴソゴソしだす。  何しろ近頃の世の中は、──尠くとも知識階級は、まるで肚が坐つてゐない。何のことはない妄想家流であつて、ジャズだつてオネガだつてアッターベルヒだつてラヴェルだつてシトラウスだつてマーラーだつて、妄想家流──といつて妥当でなければ幻想家流である。彼等は、自分が自分の主人たり得てはゐない。神経的、或は潔癖精神的に幻想のげにも脆い臍の緒を掴へることによつて、心境の一断想を歌ふばかりである。それを聴いて感じられるものは、はや気分でさへない、云つてみれば気分の暈縁くらゐな所かもしれない。  しかしともかく、それらの音楽によつて多くの人々が、好い気持にされてゐるのだから文句はないのだが、然しもと〳〵気分の暈縁なぞといふオボコイものを聴いて喜んでゐる連中が取引のこととなると俄然骨ばつてくるし、而も楽々骨ばれるやうに前以て備へてゐるので、「音楽と世態」なぞと今並べてみたくなるのである。それにしてからが昔々から掛引のうまい大作曲家といふのは見当らないし、特別なのを除いて商売者は坊間音楽に涶涎垂らしてゐたのであるから、今更驚いてみせるにも当らないが、然し近頃ヂァズといふ素晴らしい「床上手」で、その余はまるでアンポンタンな女が民間と同時に高尚な方面でも大いに意義ありとされたり、専門家──ラヴェルにしろシトラウスにしろ、もうちよいとアスレティクになればヂャズとその精神に於て変らない様な有様で、ポール・ランドルミイや墺太利の爺さん達を除いては誰もがさういふ傾向に賛同し、却々理論家達は応援さへしてゐる所をみると、料理屋ではもはやミツバやオシタシくらゐしか売れないんだらうと思つてみてゐると、ビフテキだつて却々出るのださうだから、若し君にとつてバッハがのろいどころか親み深いものであり、シューベルトがあやしく哀しいものであるなら、ちよいとは白眼せざるを得まい。………  それをいふのが、ラヴェルなんて一つの作品の何処をどれだけ切つて聴いたところで全体通して傾聴した所で、生理的影響に相違があるだけでそのほか格別変りはない程軽便で近代的であるからにはビステキを半分食ひ残したつて誰も叱らないやうなものかは知らないが、オシルコとビステキ、ミツバとビステキ──と並べてみると、がつかりするくらゐ違ふ──なんて冗談はもうよして、以下森厳の気に満ちて二三行語らうと思ふ。  クラシックはテンポが遅いどころか、「ああした深いことをもう云つてのけたのか」と、君が若しミュジックなるものの存在に耳を触れるに相応しければ当然感ずる次第なのであつたかも知れない。グリイヒなぞといふ少々案じ込み過ぎてるのはまあ別といふことにするとしても、一音は一音を生みつつ進むバッハを、仮設的対象敷衍の巧奢者ラヴェル輩よりもアマいなぞといふのが音楽界の常識となり得たる今日──否々それを常識と互に心得合つて悦に入るか、それとも交際費用とするかがあられもな、東京中央楽壇の色潮ではある。  それあまあ、昔だつて一般世人は美術家より装飾美術家の方をリアリスティクだと思つてゐたものではあるらしい。所でラヴェルなんてバッハが見たら苦労性なデコラトゥールだ。執固い塩梅師だ。自覚的な何物をも観せてくれないで神経生存の報告をして下さる。  それといふのが世態で何しろ神経生存だけになつてゐて、まづまあ金ピカ流儀を覚えて「嗤はれないやうに嗤はれないやうに」か、又一方「我等は若きプロレタリアだツ」になるほか差当つて帰趨を知らないからである。  何しろ問題ばかり多くつて解釈は六感的飛躍でやつとけあ結構とあつて、言換ればお道具ばかり沢山あつて朧ろに霞む埃が附いててそれが近代的リュックスなのであつて、その道具のどれでもいいからまあ折々は、嫌さうな顔をして欲しがれば線が太いといふことになるので、何しろ生活といふ生活が脊に腹はかへられぬ範囲以外には出なく、──一方で大人達がさうだと他方女学生達は盛んに、書いた字も読めないくらゐ色どりこまかな封筒でオシタシに舌鼓を打つたのよ、なんてな重要事件を随分忘れてゐられるお友達に出したりしてゐる。  ところで思ひつくまゝに男学生はと見れば「クラシックも夏の夜なんか二階の障子を明けつぱなしてビールでも飲みながら聞いてれや、それやまあ構はないのだが」とか、「あらゆるコンチェルトをヂャズに書換へるべきだね」とか、「ドビュッシイだつて、もう古いさ、雲や水だものねそれよりももつと、我々に近いものがいくらだつてあるさ」とか、「要するに音楽全体は僕は、和音とオーケストレーションにあると思ふね」とか。等々々々。が、まあこのおしまひの手合なんぞは、云つてることに何の意味もないにしてからがチヨイト頭を捻ること言換れば位置にお構ひなしに移動の万能範囲を拡げることが、いとも優秀なことのやうに思はれることは現時の流行感冒である。  ところで音楽批評家はといふと、「どうだ、夜の絵は──さう日光の御厄介ばかりならんで」なぞと画家に云ふ画家の叔父さんみたいな思ひ付きを並べるか、(まあその叔父さんなんざあ甥に親愛を感じて云つたのだからまあまんざら空無ではないがね。)それともも少し上等になると、例へばヴィオロンの批評には、「まづ、ボーイングはと……つまりボーイングなる眼点よりしてこの提琴演奏家はと……」といつた具合らしく、発表された批評文恰かも生理衛生の答案みたいなのがあるのである。その答案の前に履歴書を置き、後に「将来あり」と記しておけば、六十余州に音楽批評の名を辱しめないといふんだから、「人に打解けないやうに」とだけを旨に、倶楽部で駄舌つて就寝前に「欧州だより」と新刊書のカタログを熟読すれば、人間母親の腹を痛めてより墓穴に入るまでの、空の空としてからが生きとし生ける者にとつて全部たる生涯は糊塗されるのである。尤もその間にはマホービン持つて坊やと郊外散歩をしたこともあれば「あははは、あんなことを云つてらあ……だつてお父さん‼ セルロイドとエボナイトとは違ひますよ」なんて五つ六つの子供に云はれて、「さうかい」なんちつて鼻ピクツカセタこともあつたのである。吁‼  何れにしても、要は各人の感性の問題で、「各感性は各感性也」と云はれれば文面上辻褄は合つてもゐようが、「各感性は各進化しつつある」現実の世界は、可動的グラヒカル・リプレゼンテーションとやいふらむか、而して、可動的グラヒカル・リプレゼンテーションは可動的である故に名附け難いので、人類は結局、同好の士、非同好の士と、アダムより我等が子々孫々に至るまで、最後の段階では情意的(気分的、間違へないでね)であり、高遠なる思索家とは、遂に貧血症のことだらうか? 底本:「新編中原中也全集 第四巻 評論・小説」角川書店    2003(平成15)年11月25日初版発行 底本の親本:「フィルハーモニー」    1930(昭和5)年6月号 初出:「フィルハーモニー」    1930(昭和5)年6月号 ※()内の編者によるルビは省略しました。 ※底本巻末の編者による語注は省略しました。 入力:村松洋一 校正:noriko saito 2014年9月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。