巷の子 室生犀星 Guide 扉 本文 目 次 巷の子  西洋封筒の手紙が一通他の郵便物に混じりこんでゐて、開いて見ると、わたくしはあなたのお作品が好きで大概の物は逃がさずに讀んでゐるが、好きといふことは作者の文章のくせのやうなものに、親身な知己を感じてゐるものらしく、そのくせのやうな所に讀んでまゐりますと、まるめこまれる自分の心の有樣がよく解りまして、そこで讀んでゆく速度をおさへてゐる間が大變に愉しうございます。先をいそいで讀まうとしながら故意とじらせるやうに、少しづつ頁を返してゆくうちあなた樣に手紙を書かなければならないといふ氣が、本の内容の面白さと一しよに連れられて固い決心をさせてまゐりました。わたくしは永い間バーといふものを經營してゐて、いまもお店のかんとくをしながら毎晩皆さんのおつきあひで、亂次のない毎日をおくつてゐる者でございます。だから、晝間はこんなにきちんとしたお手紙が書きたくなるのでせうか。或いはごぞんじかとも思ひますが、至つて小さな帽子を裏返しにしたやうな銀座の裏町に、澤山にあるバーのその一軒なんですけれど、女が一人でくらしてゆくには充分でございます。  この手紙の住所は品川區になつてゐて、住所は明記してあるがバーの所在がわざと書いてなかつた。手紙の筆蹟も上の方であり年齡三十七八、恐らく相當の美貌を持ち、心にも物質にも餘裕があつて作家には初めて手紙を書いて送つたといふこと、バーの名前を書いてないことが禮儀を加味してあることで、無難であつた。大抵、私は返事をかかなければならない場合、女の人には一さい封書はつかはない、誰が讀んでもよいやうに葉書に認めてゐるのである。この返事には即吟一句を書いて送つた。「草摘む子ところも言はで去りにけり」  また手紙が來てお店の住所がきもお知らせしたいのですけれど、いまはその時期でないやうな氣もいたしますゆゑお許し下さいと記し、お店にゐるわたくし自身をあなたにお見せしたくないし、わたくしもお店でおあひしたいとは思ひません、若しお許しがあれば品川の家からはお宅へは近いやうに思はれますからお訪ねいたしたいと、書いてあつた。品川にも家を一軒持つてゐる點からうかうかした返事も送れないと、例の俳句をむだがきにして置いた。「摘草の子には來るなといひにけり」こんなにはつきり言はなくともよかつたが、俳句も書いて了つては直すわけにゆかない、一度も會つたことのない人が來るのは窮屈である。それが美女でなければ困るが、美女であつてもなほ始末に困るといふ氣持で、さらにもう一句いくらか「くるな」といふ言葉をなだめて慊すやうに書いた。「摘草のうたごゑ土手もはるかかな」この返事にはお歌にあるやうでは、お訪ねしてわるいやうにも思はれ、お訪ねしないことにいたしました。ただ讀んでさへ居ればよい筈なのに讀者といふ者は、時には作家にあひたい氣のするものでございますと書き、俳句のことをお歌と書いてあるのも、俳句と書くのも御句としたためるのに、字句のひびきの惡いのを避けてお歌と書いたわけが、うがつた字句の表現だと思つた。  手紙といふものは大抵の女の人はうまく書く、手のとどかないところに手がとどいてゐて、手紙だけ讀んでゐるとこんな人がこくめいな小説を書いたら、舌の先がひかつてみんな舐めたやうに書くだらう、われわれの舐めるところは何時も決つた一ところだけに限られ、舐めないところは何時も舌もとどかないところだと思つた。彼女はお店であなたの小説が好きだとつい言つてしまふので、お客樣がおーい彼の人の本を買つてきたからと言つて頂かして下さる、お訪ねしたいのだけれど、何時かの「くるな」と仰言つたお歌をみると意地にでもあがりたい氣がし、しらべて見ましたら家からはくるまで十二三分しかかからない手近いお住居のやうで、早くお許しが出ればいいと思つて居ります。それはわたくし自身がお店のところもお知らせしないのが惡いのかも存じませんが、その内、きつと自然におわかりになるときがございませうから、その時までこのままお報せしたくない氣がいたします。來る晩もみにくく醉つてゐては突然いらつしつたらどんなに不愉快な女に思はれるかもわかりません。今夜こそお酒は控へめにしようと出がけに祈つて出てみるのですけれど、夜がふけるまでには何が彼やら判らなくなつてしまふ毎晩のふしだらでございます。それでも家には何時もちやんと着いてゐて、なにごともなかつたやうに清爽しく毎朝をむかへてゐるのです。摘草の子は晝間は温和しく野では十七八くらゐに見えますけれど、夜がくるとお下げがぐるぐる捲きあがつて、ばつさりと衿あしをぬりつぶしてしまひます。そのやうな時には何としてもお目に懸りたくはございません、と、彼女からまた西洋封筒の手紙がとどいた。  戰前から二度も入院した胃潰瘍の爲、私はキャバレーやバーには十四五年間に一度も行つたことがなかつた。酒を禁じられてゐる爲もあつたが、もひとつ、四十歳から六十歳までの永い二十年の間、私は酒ばかり飮んでその擧句バーに入りびたりになつてゐた。バーの居づらさ、バーの面白くない事、バーが結局なんにも心の足しにならない事など、芯にこたへ、時間と金の空費とにつくづく眼にかなしみを覺えて見る女達さへ、いとはしい者であつた。燈下管制の銀座の地下鐵で降り、また地下鐵で新橋まで歸つて其處から大森までの省線で家につくのだが、それでも五十四五歳の私は暗いふはふはした管制下の町を歩いてバーに這入り、街路の闇を此處でしたたかに嘔き下してゐた。街は硝煙臭かつたけれど、暗い中でも人殺しや暴漢なぞは今時のやうにはゐなかつた。かれらは燐寸の火を貸し合ひ、屋號の判らない家を教へるため隣組がそれを搜してくれたものだ、私はそんな街の中で飮んでゐたといふより女の顏のあたらしさを見ることで、この大動亂の隙間からなにかにありつかうとして、警報下では頸をちぢめて通うてゐた。この時期には人間の命といふものが大切にまもらねばならぬために、一さいの物がそれに仕向けられてゐた半面に、どうせ死ななければならないかも判らない瀬戸際も、そこに渦まいてゐたのだ。友達同士がわかれる時にこんど會ふときは生きてゐるかどうかな、などと戲談をいふところにまで私達は切羽詰つてゐた。醉うて拾圓紙幣をチップに支拂ひ、女の子がこれでたすかつたといふ言葉を耳にいれたくらゐ、金にも人々は行詰つてゐたのだ。街は暗く哈爾賓のキタヤスカヤの通りそつくりの、うすくらがりに通行人はかたまりながら歩いてゐた。街の通行人ですら自然にかたまつてゐたのだ、かたまつて居れば殺られても一人で殺られない依頼の氣があつた。聲も音もない通行人とふはふはした闇の中には、殆ど女性の歩いてゐるすがたは見えなかつた。  バーを開いてゐる店がすくなくなり、私達は裏口のゴミ箱の間から店の中にはいつて行つた。そこには戰爭といふものをなだめあやすやうな指先が動いて、扉を固く締め切つて外部の擾亂をまんまと遮斷してくれた。一杯のウヰスキがつがれるとその色を懷中電燈で照らして見て、あ、美しいと唸つた。粗服の女だちとあとに心配のない程度で金を分けあつた。今夜は怖さうだから早くかへつた方がよいといつて、十時には扉の鍵ががつちりと下ろされ、私は再び郊外の家に歸つた。一たい何の爲に此處まで出向いて來るのか、酒を飮む奴の意地の穢さも命を賭けての彷徨であるといふのか、または何かを誤魔化さうとするためだか、私は間もなく痛い肚をかかへて防空壕といふものの石積みを始めた。やらねばならない石を動かす所作で、私の胃潰瘍はぷすぷす穴があきはじめたが、藥でおさへ、毎日根氣好く石積みをやつた。バーはもはや見渡すかぎり一軒も店を開いてゐなかつた。通行人はもはや固まつて歩いてはゐない、皆ばらばらの距離を保ち一人でもたすかりたかつた。ばらばらな人はそれでも石の建物のかげでは自然に集まり、氣がついてまたばらばらに離れて行つた。  これらの擾亂から早くも十五六年經つて了ひ、私はバーやキャバレーには、懲りたやうな顏をして最早出掛けなかつた。思うてもいやであつた。なんにもならないのに反り返つて酒を飮み、次から次へと誰かを見ようと焦つてみたが、誰もそこにはゐない、お氣にいるひとはゐても私は年を老りすぎてゐたのだ、それもさうであらう、二十年も飮んで歩いてゐてまだそのくせが停らないやうな人間がゐるはずがない、バーの前を通ると此處はバーだつたなと思うて過ぎてしまふ、此處にはいつて願へば願ひのかなはぬことはないが、その願ひをどういふふうに披瀝すべきかがもんだいであつた。年とともに傲慢不屈になつた奴の願ひこそ笑ひ物になるよりほかに、何の足しにもならないのであらう、或る日は扉の前まで行つて引き返し或る日にはもうちよつとで、はいつて行かうとする自身を自分で引停めてゐることだつた。危いが危くない、はいつたら一どきに崩れてしまふ氣がし、くづれたつて構ふものかといふ氣もした。あと幾らもない命を藥で持たせておくより、一どきにつかつてしまへ、或いはじりじりと小出しにつかつてしまへ、紅顏はちきれるものを一人咥へて、月下の犬になれ、なにほどの事やある、私はそんな思ひでよく表に出て自分の家の前の道路を眺めに出てゐた。道路は鋪裝がくづれ凸凹になり、それでも、籬垣は野茨の花を覗かせたりして曲がり、曲がり角ごとにわづかな町すぢの變化があつた。或いは人一人通つてゐないやうな偶然の靜かさが、たつた今こしらへたばかりの新しい町の一部分にさへ見えて來た。郵便配達夫のすがたはその整へられた町の空氣を破つて、あらはれた。  彼女からはバーの名前も地理も書いて來ないが、それは自分で經營してゐるのだから交番で査べて貰つたら、すぐ判るだらう、併し銀座の交番でそんな調べ物をする氣鬱なことは出來ない、彼女からは度々お訪ねしてもいいかといふ手紙が來て、私はその手紙を妻に見せ、こんな人が來るんだがいいかどうかを聞き糺したが、妻はきつと面白い話が澤山あるだらうから、いらつしやいといふ返事をお出しなさいと言つた。これで妻への氣兼ねもなくなつたので、私はお見えになつてもよいといふ返事を出した。こんどもそのやうな意味の俳句を書かうとしたが、句は浮ばず只日曜日を日ざしにして來てもよいと云つてやつた。その日曜日に表にくるまが停まつて紅顏の中年の女の人が、なれた靴さばきで石疊の上を歩いて來たが、後ろに若い男がついて來た。一人かと思つたら二人づれかと私はその二人づれであることに注意して眺めた。彼女の顏をみるとこんな顏は化粧しなくとも、そのままでも見られる顏だと思つた。ひふはこまかく紅顏はましまろのやうにつやがあつて、滑らかさは及第だが餘りにひふが完全に美しすぎるので、却つて物足りないのつぺりした感じであつた。よくもこんなにひふの整頓を持つた人がゐるものだと思つた。彼女はこの人は寫眞家で一人でお訪ねするのも極りが惡いので、ついて來て頂いたのだと言つた。はきはきした物言ひに馴れてゐるが、相手の言葉も耳にいれてゐるといふ風でもあつた。  私はなぜお店の名前を言つてくれぬのかといひ、彼女はそれに答へる時に寫眞家の方を見て、いくらかの同意をもとめるふうでお店の所はもうお話してもいいわねといひ、銀座裏の店のありかを説明した。私にはその店の所在がすぐ判り、もつと早くに報せてもらへば私の方から訪ねたのにといひ、話は平凡できちんとしてゐて亂れたところがなかつた。この位の縹緻を持つてゐたら男といふ背景も澤山にあるだらうといふ私の見解は、初めてあつた時から此の人にちかづいて行つても取り捲きの一人になるのが落ちだといふ考へがあつた。柔かさは無限だがそれはそつとして置く柔かさであつて、ふれるには何か火燒をしさうでならなかつた。一旦かうきめると私には自分の好みとがらがあつて、この人の經驗といふものが私を通せん坊をし、たくさん經驗をもつた人のまはりをうろつくことがいやだつたのだ、私はこの美しい顏から何時もこれを眺めただけで、直ぐそこから引き上げることを顏自身がさとしてくれた。男といふものはすぐに關係まで持つて行かうとあせるものと、見てゐるだけで結構だといふ考へを始終持たなければならないものだ、ずるずるではいけないものだ、私は關係まで持つてゆかれないものには安心があつた。これは最初にからみついて來る問題なのだ、そして大概の場合殆ど例外なくそこから立ち去るのである。  彼女はひとつきに二度くらゐ花を携へて訪れて來た。若い寫眞家は寫眞をとり、美術品のある部屋に行つて彼女の立ちすがたの寫眞をとつた。この部屋へは誰も通さないのであるが彼女は寫眞をとるといふ特種な事情を、ここにも極めて自然に應用してゐた。寫眞をとるといふことは家庭をとる場合でも、平氣で何處でも通れる警察官の逞しい不遜をもつてゐるものだ。私は二人が美術品のある部屋に行つても立ち合はずに、机のそばにゐた。ただ私は彼女がかういふ自分の好きなやうな状態をふりまふことに、私がそれを默つて見てゐることの事情が單に寫眞をとるだけのことで、ここまで來てゐるのかどうかを思つた。これが女性だから私は默つてゐたが、男性であつたら何か言つたらうと思つたのである。そこに私は彼女の美貌に遠慮してゐるといふ指摘が當然あるべき筈であつた。間もなく寫眞家は庭のてつせんの花を撮り、それの美しい花瓣の撮影に就て妻は喜んだ。私はもつときちんとしてゐなければならないことを心に決めた。  私は一年半ばかりのあひだに、彼女の店を三度訪れたがその外の店へは行かず、私が二十年見續けて來たバーといふものの正體が、少しの進歩や發展もなくそこにあるのを見て、以前さういふところに通つてゐた私をまことにかなしく莫迦野郎だと思つた。         ○  だが、ここにバーといふところに行かねばならない一つのいきさつが、私のこころに生じた。こころに生じた問題だから、行つても行かなくともいいのであるが、莫迦につける藥はないと見え、くだくだと書き綴ることになつた。去年の夏、輕井澤では用件のある東京からの客が相次いで現れ、用件後にはきまつて客を送りながら町に出た、それほど自分の家といふものが茶の間から直ぐ道路に出られるやうな氣安さで、門にも夜は鍵をかけなかつた。外出の着換へもしなくともいいし財布を持つてゐなくとも、つけで、何でも買へたのである。そんな譯で私は履物を突つかけると客と町に出た。そして客へのもてなしのつもりでお茶を奢り、出立の客にはサンドヰッチくらゐ作つて貰ふこともあつた。喫茶店の中に銀座にある出張店が一軒あつて、なりの高い緑色のあんどんのやうなスカートをはいた女の子がいて、お茶をはこんで來たが笑つた顏を見せたことがなかつた。笑はないことも一要素の美感であり、さつと來てお茶をはこぶと、さつとあんどんをひろげて去つた。夏は百日滯在してゐるのであるから、その半分の日數は何時も客卓をここにしつらへてゐたのである。あんどんは現れあんどんは去り、私は投書家のやうに扉をくぐり扉の外に去つた。  或る日懇意な雜誌關係の人が來て、客卓をはさんだがその人の肩に寫眞機がかけられてゐた。私はその人に笑はない女の子を一つぱちんとやつたらどうかと言ひ、その人はよし判つたとカメラを本人の氣のつかない瞬時に、ぱちんと何枚も撮つた。一枚は銀のお盆を右の手に持つた立體のすがたと、一枚は客の注文を聞くためにやや腰をかがめたところ、またの一枚はやはりお盆にお茶碗をのせ、反り返つて客の方に向いてくる女給さんの恰好だつた。さらに彼女が事務卓の上でその日の傳票の書き入れしてゐる、まじめくさつた顏も一枚撮つたのである。われわれはさういふふうにして人の顏を盜んで寫した。寫眞といふやつは常にどろぼうの仕業だ、このくらゐ圖々しいどろぼうはゐない、とにかく百日の夏は終り、たうとう此の女の子はその間ぢゆう一遍も笑はずに、喫茶店が締められる一週間前に東京にかへつた。入口の勘定の所の少女にたづねると、女の子は早見さち子といひ十七歳であることが判つたが、十七歳とはどうしても見えないおませの顏であつた。  私の懇意な友人は現像した四枚の寫眞を送つて來てくれたが、どれも笑はない顏ばかりであつた。歸京の荷物を東京の家で開くとこの四枚の寫眞が現れ、抽斗に入れてゐたが客に見せるたびに、その片づけるところがまちまちになり、本の間から出たりして始末に困つた。そこでどろぼうをして撮つた寫眞は本人に返すことが、どろぼうの良心であることを考へに入れるやうになつた。私は娘と銀座に出たついでに彼女のゐる喫茶店に寄つたが、あんどん姫は入口の扉がかりで、この店でも美女の方なのか、例の長身を二つにがくつと折つて言つた。わあ、よくいらしつたと一遍に顏ぢゆうを笑はせた。私はなんだい今頃笑つたつて間に合はないぢやないかと、笑はない夏の間の叱言をいひたかつたくらゐ賑やかな笑ひ顏であつた。寫眞は撮られたことは勿論本人は知らない、私が持つてゐても持つ原因がないのでお返しするといひ、彼女の手に渡したのである。彼女は規則のきびしい喫茶店にゐながら、われわれと話してゐるあひだ、ボックスに腰をおろしたのである。喫茶店では客のかたはらに坐つてはならないのに、彼女は坐りこんで了つたのである。私はこんなボックスに坐つては他の客に惡いからお立ちなさいといふと、ハイといつて立ちながら夏はボーイさんにオートバイの後ろに乘せて貰つたりして、愉しく暮した、緑の裏小路、原つぱ、低い山などの景色に魅せられたらしく、彼女は來年の夏もゆきたいと言つた。十七歳などといふ年ごろは、一と月も見ないでゐると甚く變るものらしく、この人は鼻先が光るほど變つて見え、笑ひは顏ぢゆうに揉みくづれてゐてぽちやぽちやであつた。彼女はいまからなら食事のお供をしてもいいと言つたが、勤めの最中につれ出すことに氣が咎め、私はすすめなかつた。では、せめて其處らまで送つてゆくと言つたが、笑はない子が一どきに親しいなじみ方をしたので、その氣分を抑制する私の何時ものよう心ふかさが出て來て、それも斷つた。年を老り好いおぢいさんになることは、女の子を信用させるのだといふ私の考へに間違ひはなかつた。誘惑といふ奴はこんなとこで、葉裏の毛蟲のやうに列をつくり枝をのぼり始めるものである。  初冬の買物のついでにその喫茶店にいま一度立ち寄ると、早見さち子はこの店を去つて何處に行つたか判らず、一策を講じて輕井澤の店の入口にゐた少女を呼んできくと、何とかといふバーに勤めてゐるといひ、かういふ時のきつかけは直ぐにこの女の子のバーを尋ねる氣になつた。氣の重い人間がうかうかと乘る風船玉のやうな輕快な氣分であつた。何とかといふバーは二階だけをその客間にした奧ぶかいバーである。私はこれでバーといふものを終戰後十何年かの間に、たしか五度目の訪問であつたが、昨日も此處を訪ねてゐたやうにも辷りこみは滑らかであつた。早見さち子はどうしてあたいのゐる所が判つたかとそれを一等さきに聞き、つれの娘と堀のをばさまに挨拶をし顏ぢゆうに笑ひを零し、笑はないとお喋りも出來ない大聲で物を言ふ。バーではたらいて洋服を作りまた喫茶店にもどるのだと言つた。餘り賑やかすぎる騷ぎ方には年齡の若さがさうさせるらしく、歸りにはタクシーのある所まで送つて來た。  私はこの頃大宴會があると出席するが、大宴會は大概カクテル・パアティといふものであつて、街に出て食事をし直さなければならないもので、行きつけの料理店で食事を濟して直ぐ家にかへつても、獨身者の暮しではあと一時間くらゐは街にゐても、大して睡眠不足にはならなかつた。後の日に例の早見さち子のゐるバーをたづねたが、名前も二階の所在もわすれてゐて遂に一軒の二階にある知らないバーの客間にまよひこんで了つた。そこで一杯のビールを飮んで私が訪ねようとしたバーの所在を、そばに來てゐる三十近い貴婦人めいた人にたづねた。私が覗いた寶石商店の飾り窓で見た二十萬圓くらゐするダイヤを嵌めた貴婦人は、その何とかいふバーはどうやら客間の樣子ではお隣のバーらしい、この客間の前の廊下の奧にも一軒のバーがある、そこは女の子が二十人くらゐゐると彼女は言つた。私はダイヤをはめた指をよくみてゐると、水づかひなぞしない指であることも諒解したのである。貴婦人はその女の子は何といふのか聞いて來て上げませうと、まよひ込んだ私に氣を利かして言つた。年は七十くらゐで踊の師匠に見える私といふ人間がただ一人で訪れて來たことは、あはれであると見たのであらう、別の女の子に奧に行つてその人がゐたら呼んでいらつしやいと言つた。私は感謝してあなたはこのバーの經營者ですかといふと、ハイと答へた。ダイヤの指輪が彼女の指間にある原因が解り、私の生涯のあひだにつひに二十萬圓の指輪が買へなかつたことが、私に天くだる美女のゐなかつた原因であることを知つた。けちけちした原稿かせぎの憂目にはさういふだいまいの餘裕はなかつたのだ、私はこの貴婦人を眞正面にながめて、これは二十萬圓はすると思つた。背丈、顏の整ひ、からだにある白い脂は裸ではたくさんについて見えるが、外部では少ししか見えてゐない肉つきを見ると、どういふ男か知らないが巧くえらび拔いたものだと思つた。  使ひの女の子はかへつて來て、早見さち子といふ人はゐるが今日はお休みだと答へ、私はこの客間を外に出た。そして直ぐ家にかへつたがその日からバー通ひをするかと思つたら、私は二た月も出掛けないでバーといふところに行くがらと年でないことが判り、美しいダイヤの光威だけか眼にのこつた。何とかして二十萬圓のダイヤを買ひ、私自身でそれを嵌めてみたかつた。そして見飽きたら何處かに持つて行かう、何處の誰にやるといふわけではないが、取り出してこれを眺めてゐたら誰かの顏がうかんで來るだらうと思つた。私は寶石商店の前を通るとその玻璃窓内を覗きこんでゐた。寶石の匂ひも、寶石のこまかい強い光も女の人のひとみが發するつやに似てゐる。  或る婦人記者の人が來て「バーの女」を書いてほしいのだが、私が案内するから閑暇のある晩の時間をあけてくれといひ、あなたはお酒が飮めないからお酒の好きな男性の記者を一人呼んで來るからといふ事になり、私達三人は或る有名なバーにはいつて見た。女の人達には麗しい人がゐなくて、椅子に組んだ足ばかり私はながめてゐた。こんなに、ぬけぬけと足を組んで大膽に見せびらかしてゐる圖は、近頃、見たことがなかつた。私は往來では婦人の腓脛ばかり見てゐて、顏は見なくとも腓脛を見てお腹は何時も一杯になつてゐた。形とか長さとかいふ贅澤は言はないで、大概のふくらはぎは柔かで美しかつたが、けふ見る四五人の長い足は膝頭をいれて大膽不敵に、ぬうと差し出され私は歩かない不動の足に見惚れてゐた。  私達三人は早見さち子のバーに行かうといふことになつたが、この二人の記者も早見さち子を輕井澤で見て、顏は知つてゐた。男性の記者は例の寫眞を撮つてくれた人だ。私達が坐りこむと早見さち子が來て笑はない顏はたちまち笑ひ、縹緻が好いので誰にも持てるらしい、接吻はまだそれほど巧くは出來ないが、習つてゐるところだと言つたから誰が教へるのかと聽くと、客に言葉で習ふのだといつた。そして話のついでに私に難かしい小説をかくよりも、あたい達にわかるやうな優しい小説を書いてくれといひ、更に突然、私の耳のところに口を持つて來てそつと言つた。ここのバーではあたいは十九だと嘘を吐いてあるのだから、十七なんて言はないでくださいと何故だか念を押していつた。十七では惡いのかといふと、ホーリツではいけないことになつてんのぢやないか知らと、やつと口を私の耳から放していつた。  今年の正月年賀状をくれた時、早見さち子は去年はあなた樣にはうれしい事やら悲しい事やらが澤山にあつたが、今年はよい年であるやうにと何處で住所を知り、かなしいといふ事は女房の亡くなつたことを何時の間に知つたのか、さらに、うれしい事は本に賞を貰つたことを何處から聽いたのか、ちやんと知つてゐて年賀状に書き添へてあつた。こんな事を頭にうかべてゐると又低い聲で今度こそお家に遊びに行きますが何時おうちにゐるかといひ、あたい達は日曜がお休みだから日曜が都合がいいと言つた。私はたまの日曜日を僕なぞ面白くもないおぢいさんの家に來るより、何處かぱつとしたところで遊んだ方がいい、來てくれても外に客があると君も窮屈になるからと私は斷つた。すると早見さち子はでは夏に輕井澤に行つて滯在費がなくなり、お食事の事情がむつかしくなつたら食べに行かうか知らといひ、それなら何なりとご馳走しようと私は言つた。なんしろ、あたい達は日給だもんだからその日に貰つたお金は、みんな半端で油斷してゐると街でみんなつかつて了ひ、何にも身につかないといひ、他の女給さん達もせめて週給ならお金はまとまつていいのだけれどと、こぼした。だからあたい、毎晩うちに歸るとお母樣にその日のお金を預けて、ためて置いて貰つて纏まつた時に洋服や靴を買ふことにしてゐます。ほんまに週給にしてくれんかなあと異口同音に彼女らは嘆いて言つたのである。では晩くなつてくるまに乘つたら八百圓もかかつては何にもならないねといふと、くるまなんかに乘りはしません、電車でゐ睡りしながらかへりますと巖肅な表情で言つた。女給さんは皆くるまで歸ると聞いたがそれは嘘かしらと聞くと、あれは近くにアパートのある人でせう、あたいなぞ一家五人もゐるんですもの、くるまなんて恐しこつたと彼女はいひ、客と映畫に行つたことも一遍もないと言つたが、それも本當らしく他の女給さん達から冷かしも出なかつた。その時彼女は突然に何を思ひ出したのか言つた、輕井澤のお店で寫眞撮つたでせう、あの日何時頃に撮つたのですかと問ね、男の記者の人は答へた。さう、もう四時頃だつたらう、だいぶ薄暗くなつてゐたからと言つた。何故そんな事をいま頃になつて聽いたのか判らない、私は言つた、輕井澤の店ではちつとも笑はなかつたし、物言ふもんかといふ冷たい顏をしてゐたがどういふ譯かときくと、輕井澤では喫茶店の女としてゐただけで物も言はなかつたが、ごめんなさいと言つた。ここではお誘ひいただけば何處にでもお食事のお供にもまゐります、あなたとなら安心してゆけるといひ、私はその考へが一等危い奴なんだ、安心してつきあへる事程結果の危いことはないと戲談らしくいつたが、これは私の本音から起つて來る言葉であつた。併し彼女は危いと自分でさう仰有るんだから、却つて危くはないのでせうと言つた。  私は聲を低めてあれから鈴木君に會つてゐるのかと聽くと、こんなお店にゐるので鈴木さんにはずつと會つてはゐません、惡いものと答へた。鈴木といふ少年は十六歳、輕井澤の私の家の近くに別莊があつて、店で知り合つたらしく歸京後にも、その少年と街で待ち合せて逢つてゐたのだ。十六歳の少年と十七歳の少女とがお互に逢ふといふ話を此間彼女から愉しさうに聽かされ、私はこれほど人間の若い年齡をはつきりと見せつけられた事がなかつた。鈴木少年はがらも大きく私は散歩の途上で見かけてゐたが、ああいふ少年がもう女の子が「女」であることを見拔いてゐることで、私は唖然としたが直ちに諒解も出來る氣がしてゐたのである。では、もう逢はないつもりかと聞くと、このお店も所を知らせてないから、あたいの方から手紙を出さなかつたらもう逢ふことはないでせう、鈴木さんにはバーに勤めてゐるなんて手紙には書けはしませんと言つた。  では君は逢ひたくないのかと訊くと、逢ふのは外で逢はなければならないし既う人に顏も見知られてゐるから、喫茶店にゐる時のやうに無邪氣には街で待ち合ふ事で立ちん坊もしてゐられないんですもの、それに鈴木さんはこれから學校生活が永いんだし、あたいにはその邪魔をしたり鈴木さんといふ人を破壞したくないんですと、學ばざる仁義の表現に早見さち子は笑はない顏に戻りかけ、私はこの顏附に覺えを呼び戻され、まだあれから一年も經たないのに突きすすむところへは、どんどん早足で歩き續ける年齡を批評もしないで、連れの人とバーを立つて出た。後ろから送つて出て來たさち子は私共がくるまに乘る所まで蹤いて來て、その間ぢゆう自動車が來ると右側に立つてくるまを私から避ける位置に、自分ですすんで立つことも覺えてゐた。 底本:「はるあはれ」中央公論社    1962(昭和37)年2月15日発行 初出:「新潮」新潮社    1960(昭和35)年7月1日 入力:磯貝まこと 校正:岡村和彦 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。