蒼白き巣窟 室生犀星 Guide 扉 本文 目 次 蒼白き巣窟  私はいつも其處の路次へ這入ると、あちこちの暗い穴のやうな通り拔けや、墨汁のやうな泥寧の小路から吐き出される種々な階級の人々を見た。職工、學生、安官吏、または異體の知れない樣々な人々が、みんな醉つぱらつて口々に何かしら怒鳴つたり喚いたりしながら、同じ路次から路次を繩のやうにぞろぞろと群をつくつて、熱心な眼つきで、その路次の家々の障子硝子の内に、ほんのりと浮いてゐる白い顏を見詰めてはあるいてゐた。家々の軒燈はあまり明るくないため、燐寸箱を積み重ねたやうにぎつしり詰つた路次は、晝間も日光がととかないので、いつも濕々してゐる溝ぎわの方から、晩方の家々の炊事の煙が靄とも霧とも分らない一種の茫とした調子で、そこらの板圍ひや勝手口の風通しのわるいあたりをうす暗くしたばかりでなく、障子硝子の窓ぐちに座つてゐる女等の顏をも暈して見せてゐた。ちやうど路次を通る人々はすこし背をかがめるやうにすると、内部から硝子窓にぴつたりと顏をおしつけるやうにして座つてゐる女等の眼が、何よりも最初に眺められるやうになつてゐた。かういふ巣窟にありがちな家々の藍ばんだ何だか埃つぽい薄暗さは、假面のやうに濃く白い顏をくつきりと浮き上らせ、ことに魚族のやうな深い澄んだ光をひそませた女等の眼が、じつと、わいわい騷いだり惡口をついたりしながら行く人々の上に注がれてゐた。それはまるで眼ばかりで働くやうに利巧で艷々しく、その上、それ自身が微笑をふくんで、くらい暗のなかにほんのりと漂ふてゐるやうな、しづかな誘惑の味深い光をもつてゐた。  ときとすると、硝子の窓ぎわに温かさうな女の呼吸が、いつの間にか寒い晩など、よく硝子の地をかすませたりして小さい露をつづつてゐる上を、そつと指さきで何か無駄書きをしてゐる女等もゐた。そうかと思ふと、まだ宵のほどになつたばかりだのに、もう幾人かの客を濟した亂れた髮姿で、上から壓し潰された蝉のやうに平つたくなつて、窓ぎわにつツ伏して睡てゐる女もゐた。さういふ疲れきつた睡眠状態にゐながらも彼女らは往々機械的に路次の方へ聲をかけた。彼女らの方からは、いつも其小さい硝子窓から見上げるやうにすると逞しい男らの黝ずんだ姿が、家とは反對な高みをもつた道路の上に、幾本ともない太い嚴丈な棒杭のやうに、あるものは永い間佇んだりしてゐるのが見えた。 「あなた…あなた……。」  と、その聲はわかやいだ艷めいた手で、いきなり□□をまさぐるやうな美しい動かない力で、いつも人々のすべてを刺戟した。ときには暗い行止まりかと思はれるほどのゴミ箱のかげからも、ひよんな支那料理の一品賣の屋臺の裏のほうからも、または、じいい…じいい…とおけらの泣いてゐる溝水にうつる障子窓からも、やさしい手で喉首をなでまはすやうに女らしい疳尻りをふくんでは、あちこちから、まるで蜂の巣換りどきのやうに、慌しく呼ばれたり呼ばれたりしてゐた。なかには引き裂いたやうな露き出しな強烈さで、いきなり門口でふらふらして醉つぱらひにかじりつく女等もゐた。 「いけない。いけないたら──。」  と若い學生がふいと迷ひ込んで、いきなり捕へられて藻掻いたりしてゐるのもあつた。鳥餠のようにぺつとりと十文字にへばりついた白い手は、柔らかいものの結けないのが常のやうにぐるぐると捲き強むばかりであつた。その初々しい學生の謝るやうな言葉が次第に根負けして、すこしづつ怒りを交へたりすると、いつも女等は、どおんと胸を一つ小衝いて置いて放してやつたりした。 「あんまりお出ぢやないよ。おまへさんは何も知らないんだから。」  と、それでも、やや疲れたらしい聲で言つて、また次の男にかじりついたりするのであつた。それら一切の繩のやうに綟れ込んだ群衆は、夜が深くなればなるほど、ぐるぐると小路からも小路、通り拔けから新道へと、果もなくとぐろを卷いて四千何百戸といふ巣窟の窓々や勝手口を殆んど蟻のやうに噎せかへつて、口々で馴染み女に惡體をついたり、追ひかけたり、巫山け散したりしてゐた。  そこでは群衆の氣持は荒々しかつたが、しかも何の人々の表情にも皆な柔らかい何かしら樂しげな、その半面はかなり陰氣になつて見えたとはいへ、みな醉つて騷ぎ廻つてゐることは殆んど一致してゐた。しかも、どの人々にも明らかな弄り癖のある表情が浮んでゐて、それがとうてい下等な昆蟲でも翻弄してゐるやうに、何かしら變つた新しい興味に誘はれたいやうなところがあつた。しかも、どういふ卑しい商人、官吏、夜學校の生徒までが、すべてこの階級の女等をひやかすときは、自分よりずつと數段下等な動物を見下ろすやうな目や態度をしてゐるのであつた。此等の群衆の大半は、この巣窟を訪ずれることによつて、殆んど自分が上等な人類でもあるやうに反り身になつて、紙卷きを咥へながらわめき立てたりして歩いたりしてゐるのであつた。しかも、その惡しざまな呶鳴り聲は「半分腐りかけてゐる」女等を指適したり、懲毒で赤くなつた不幸をあばき立てたりするのであつた。 「おほきにお世話だ。かう見えてもお前さん達においそれとからだを委せることはお斷はりだよ。」  などと、女等も金切り聲で叫び返したりしてゐた。さう言ふ片方から、もう優しみを含んだ白々しい聲で、他の男を呼び立てたりするのであつた。罵り合つたり弄り合つたりしてゐても、すぐ子供のやうに何も彼も忘れて了つたやうにケロリとする種類のものであつた。さうかと思ふと、煮え切らないで、いつまでも遊ぶとも遊ばないとも、どつちつかずに愚圖々々と窓ぐちにこびりついて、女の顏ばかりまじまじと眺めてゐる男などを非常にいやがつた。 「いけすかない野郎だよ。あつちイお出よ。」  と言つて、ぴつしやりと頬打を食はして、障子をいきなり閉める女もゐた。男は、きまりわるさうに、まだもぢもぢしながら其處らにうろつくのもゐた。開け放した自由な中に女等は、持ち前の美しい眼に樣々な微笑をつやつやしく泛ばせながら、いつも、うつとりしたやうな男にしなだれかかるやうな光をしづかに表はしてゐた。  おすゑの家もその燐寸箱の奧まつた一軒で、いつも窓ぐちでほそ長い顏をあらはして、通りがかりの客を呼んでゐた。私はその近くまでゆくと何時も彼女の少し鼻聲になつたのをきくと、人の善すぎるやうな、善すぎるためにいつまでも此巣窟から足を洗ふことのできないやうな性分をよく考へたものだ。いつも私は默つて窓ぎはに佇むと、おすゑは、 「まあ、お前さんなの、おはひり。でも默つて立つてゐちや誰だか判らないぢやないの。」  と言つて、すぐ格子戸をあけてくれた。そしてすぐ自分の居間へつれこんだ。三疊の二階には小さな鏡臺と派手なモスリンの大きな座布團が、温かさうに明るい眼覺めるやうな模樣を浮かせてゐた。 「寒くなつたわね。でも、よくいらしつて呉れたのね。」  まじまじと膝をすすめた。すこし長すぎるくらゐな、ぽつたりとゆたかな肉附きをもつてゐる顏は、そのうつとりした少しの惡氣もあらはすことのできない正直さうな眼と能く釣合つてゐた。 「また默り込んでゐるのね。この人の癖よ。宿からずつと此方へ來たの。」 「ずつと此方へ來たんだ。何しろ寒くてしやうがないんだ。お酒は──。」 「いま持つてくるわ。寒いツつて言つてゐてお襦袢も着てゐないぢやないの。シヤツ屋で買へば出來合ひのいいのがあるわ。着物一枚ぐらゐの温かさがするわ。」  と言つて、私の襟のところを見た。十二月もあと一週間で行き詰つて、松飾りがもうあちこちの軒下に樹てられるころだ。 「襦袢も欲しいが……しかしそのうちに買ふさ。」  と私は肩をすぼめて火鉢を抱くやうにした。表の路次を往き來する下駄の音が絶え間なく織るやうにする。鼠啼きや、巫山戯る騷しい叫び聲などがした。 「ほら、膝のところが隨分綻びてゐるぢやありませんか。下宿に縫つてくれるものがゐないの。」 「誰もゐない。洗濯屋くらゐなものだ。」 「さう。ぢやわたし縫つて上げよう。脱がなくてもいいわ。坐つてゐたつて縫へるの。」  と、おすゑは階下へ針の道具をとりに下りて行つた。膝のところの縫目が何時の間にか綻びて、永い間布の間によれこんだ紺絲が、古い繩のやうにぐたぐたに紺地を褪まして、寂しさうに弛んで、引つ張つて見るとずつとほつれ出してゐた。そこから指さきをつつ込むと、埃つぽいやうな氣がした。それと同時に冷えきつた膝がしらが、石か何かのやうにこりこりに凍え上つてゐるやうだつた。谷中から上野の踏切の橋をわたつて近道をして歩いて來たことも思ひ出された。  おすゑは上つてきて、 「立膝をしておいでよ。さう、さう。ずゐぶん着疲れさしたのね。」  よごれ目のそれとわかるのを㧓み上げるやうにした。 「何年着ることか。」私はこたへた。そしてまた、 「大丈夫かな。膝に刺すなよ。」と言ふと、 「わたしだつてお針を習ひに行つたことがあるわよ。」と言つて、指さきで二三度揉むやうにして絲尖を結ぶと、古い絲を拔いて、裾の方からしやくり上げるやうにして縫つた。 「どうせ裏から縫へないんだから、この位ゐでいいでせう。これなら電車へ乘つたつて恥かしくないわ。」 「これでいいとも。」  私は正しい縫目をしづかに見た。ふしぎなほどしやんと膝のところがして來た。「なかなか上手いな。」といふと、 「お襦袢もこさへて上げたつていいわ。晝間はあそんでゐるんだから──こんど何日に來るの。それまでに縫つて置いてあげるわ。どんな布でもいいでせう。」 「さう──明後日頃また來よう。」 「それまでにこさへて置くわ。」  さうして私の袂や襟を指さきで計つて見たりした。「小さい方だわね。」と言つて何か考へ較べるやうな目をした。そんなときは、いつも私と一しよに通つて來る職人風の男の日燒けした廣い額がすぐ思ひ出された。くりくりした金壼眼の底が二重になつたやうな猛惡な毒毒しい光をもつた男のことが、すぐ其處の襖のすきから此方をさし覗いてゐるやうな不安をかんじた。それはおすゑと二三年も世帶をもつたことがあつたのだ。 「思ひ出したのかい。」  私は低い聲で靜かにいふと、 「あんな奴のことなんか誰が考へるもんですか。」  と答へながら何處か氣にかかるやうな落ちつかない眼色をしてゐた。どんなに怒つても顏が赤らむだけで、眼はいつも夢でも見てゐるやうにぼんやりしてゐた。ただ瞼のふちがやや痙攣するだけであつた。 「彼奴のために此麼商賣までさせられてさ。その上文句をつけられてたまるもんかね。本當にずうずうしい奴さ。」  と瞼をすこしく赤くした。私は默つてその眼をながめた。口さきで罵りながらも、心に浮んでくるものを追ひ退けることもできずに、その壓しつけるやうなものが、まるで上から乘りかかつてでも居るやうに、ぢつと重さうに耐へながら俯向いてゐた。彼女のちからでどうすることも出來ない重重しいものであるらしかつた。 「まだ手が、切れないのかい。」と言ふと、 「手は切つたんだけれど、ときどき、やつて來るんで困つてゐるのよ。腐れ縁さ。」  おすゑは陰氣に考へ込んだ。  表の路次は夜更けにしたがつて、醉つぱらひが數を殖やして、あちこちに素見客の惡口をつき合ふ小競合や、聲ばかり尖り出した喧嘩などが初まつてゐた。その下駄の音、叫び聲、それからヷイオリン彈きが流行唄をうたひながら流してゆくのや、「ええ果物屋でござい。──」などと呼び歩く聲などが、すぐ階下を騷騷しい煮え返るやうな調子で、いつまでも繰り返されてゐた。それらの荒々しい物音がしきりにつづいてゐるに拘はらず、障子一重の二階はまるで野ツ原からでも移して來たやうな靜かさで、ときをり、障子の破れ紙がはたはたするだけで、おすゑも私も默り合つてゐた。 「お前はいくつなんだ。」  と私は突然話の種を繼ぐためにいふと、おすゑは、その突然に話しかけられたので、ちよつとの間びつくりしたやうにしたが、 「もうおばあさんさ。六よ。」  正直に言つて寂しさうに微笑した。額のところに小皺のよれたのや、どこか使ひ古した節割れの深い指など、印象深く目にうつつた。  いつだつたか五六度も會つたあとで、だんだん親しくなつた彼女は、ある晩のこと、こんな話をした。それはおすゑのまだ十二になつたばかりのころで、深川の或る小學校に通つてゐた。まだ何も知らない少女のおすゑは、級のなかでもかなりな綺緉だつたので先生に可愛がられてゐた。先生はまだ若い目金などかけた人で、今から考へると特別におすゑを可愛がつてゐた。けれども貧しい木場の稼ぎ人足の家に生れたおすゑは、派手な下町づくりの他の生徒にくらべては、鉛筆一本にさへ貧しいキリ詰めたところがあつたばかりでなく、着物なども眼立つて粗末な、汚れ目のするものばかりであつた。  ある日のこと、先生が私だけにちよいと用事があるからとお席に殘した。そして「お前は唱歌がよくうたへないから、けふはよく教へてあげやう。」と言つて唱歌室へつれて行つた。「そんな事はよくあることなんだから私は何とも思はなかつたのさ。」とおすゑは言ひそへてまた話し出した。なんでも「汽笛一聲新橋をはや我が汽車ははなれたり。」などといふ唱歌のはやるころで、そのときの歌は忘れたが、先生は私をオルガン臺のそばへ立たせて、自分でオルガンを彈きながら、幾度もわるい疳高い節や調子をなほした。いつも同級の大勢と一しよに唱ひつけてゐたのに、一人廣い教室で教つてゐると、室の廣いのと、あまりに烈しい靜かさとが、唱ふ聲をすぐ呑み込んでしまふやうで、はじめは氣臆れがしてうたへなかつた。けれども先生は一々ていねいに教へてはオルガンに引きづられるやうにして習つてゐた。──と、氣がつくと先生は私をそつと抱くやうにして、オルガンのキイのそばに立たせて私の手をとつて、キイを押して見させたりした。いつもこれほど親切にしてもらはなかつたので、も嬉しさに羽が生えたやうにわくわくして、一つ一つ音いろの異つたふしぎなキイをこはごは押して見たりした。何處にこんな美しい音色がひそんでゐるのかと思はれるほど、容易にいろいろな音響が指さきからでも捻り出されるやうに、湧き出るやうに鳴るのであつた。そのうち先生はすつかり私を抱くやうにして、──「今から考へると本當にひどい先生だと思ふのよ。でも私は何んにも知らなかつたんだもの。」とおすゑは言ひ足した。  その日から先生はいつも私をあとに殘しては唱歌室へつれて行つた。日が經つにしたがつて私は決して口外すまいと誓つたので、そのまま先生に愛せられるといふ一つの事實だけを喜んでゐて、いつもするままにしてゐた。そのうち私は──「家へかへると母親にかくれて洗濯なぞすることを覺えたのさ……」そしてとうとう母親があるとき「お前どうしてそんなに蒼い顏をしてゐるんだらう。」などと言ひ出して、すぐ私はからだを調べられた。と、母親は私を責めつけるので、私はしかたなしに言つて了つた。頑固な父親はすぐ學校に暴れ込んでとうとうその先生も辭めさせられてしまつた。「そのころからもう私は駄目な人間になつてしまつたの。しかも今から考へるとその先生は唯男のやうな眞似をしてゐただけなのさ。だから私はやはり處女だつたの。」と、おすゑは微笑しながら持ち前の人の善ささうに「いまでもその先生のことを考へると憎らしい氣もするが、なんだか逢つてみたいやうな氣もするの。妙にこんな商賣をしてゐると其人がたづねて來るやうで、いつか會へさうにも思はれるの。まるで夢みたいな話だわね。……」とおすゑらしく、遣り放しな、ぞんざいな言葉で言つた。  私はその重苦しい彼女の運命が、もう少女時代から切り苛なまれてゐることを考へると、どうしても此都會の底の底まで下りて來なければならなかつた彼女を寧ろ當然の運命のやうに思へた。自分のからだを見る見るうちに粉にカチ碎くやうな生活をしてゐても、その生活を呪ふとか、そこから脱けて出たいといふ望みをも持たずに、小さな目の前の興味や、いろいろな人種に食ひ物にされてゐても、いつも「仕方のない」ことのやうに打棄つてゐる彼女を哀れに感じた。生れて持つてきた「決して人に惡く思はれたくない」彼女の資質、すぐ信じて何も彼も打開ける烈しい自由な善良、そのために、いつも優しい暗がりの道をゆく馬のやうなしとやかさを持つてゐる女を私はしげしげ眺めた。面長な顏をしてゐる女が得て垂れるやうなおつとりした迫らない情味があるやうに、おすゑの圓いあごの下ぶくれしたところまで、だらりとながれた輪廓が、頬のあたりがやや弛んで窪んでゐるのも、今日はことに目にとまつた。 「泊つていらつしつたらどう──。」 「いや、今夜はかへる。」  と私は立ちあがつて階下へおりて行つた。ギシギシ鳴る階段の音が、玄關さきへ出たあとまで餘響してゐるのをききながら、そとへ出ようとすると、おすゑが、 「お前さん、風邪をひかないやうにね。ずゐぶん薄着だからね。」  とあとを低く言つて、うすくらがりの中で、あだ白い微笑をほんのりとうかべた。私は薄着を氣にしたが、 「なれてゐるから大丈夫だ。」  と格子から一歩そとへ踏み出すと、いきなり日燒けのした脊長の高い男が、殆ど私と同時に格子をあけようと外から手をかけてゐるところであつた。私はすぐ「きやつだな」と心でさう感じた。そして直ぐ表へ飛び出すやうにして不意にふりかへると、男は暗い格子に手をかけたまま凝然と私の方を見詰めてゐた。半分あいた格子のすき間から、ほの白いおすゑの顏がもうすつかり微笑を失させて私の方を見送つてゐた。これらの二つの顏が蒼白く石のやうに固まつて、いつまでも私のうしろに現はれてゐるやうに、くねり曲つた路次を早足で行く私にときどき顧みられるのであつた。ことに男の暗みをもつた顏が、ペンキで描いたやうに眉の太い、眼のぎらぎら光つてゐるところなど何處かの芝居の繪看板で見たやうな、ヘシ曲がつたやうな顏立ちであつた。私は火のやうに駈足になつて、わいわい騷ぐ群衆のなかを掻き濳るやうにして、やつと明るいぱつとした馬道通りへ出ると、ややほつとした。しかしやはり背後に繪看板に描かれたやうな角刈のざらざらしたやうな顏が、いつまでも目にちらついて來てしかたがなかつた。  午後三時すぎになると、うすい冬の日ざしが鼠いろによごれた私の室の障子に、ほんのしばらくの間さし込んで來るのを何時も待ちくたびれるやうな心で、その少しばかりの日光をからだに浴びるのが癖のやうになつてゐた。學生連はみな冬休みに歸國してゐて、廣い下宿屋の二階は、鼠のやうにちよろちよろと出入する夜學校の生徒と、十四五の娘と一しよに宿をとつてゐる田舍の町家の妻君らしいのと、それに私を加へただけで、あとは階下もガラ空きになつて、どの室も寒さうに縮み上つて、晩などメシメシと建物の節割れの音などがしてゐた。  みんなが樂しさうに歸國して行つたあと、まるで私だけが投げ出された乾びた鮭のやうに、中庭の日あたりの不良い檜葉の埃じみた立木や、冷たさうな八ツ手などを眺め暮してゐた。そして何を爲るといふこともなく、だんだん日が障子の一と棧づつ上の方へ移つてゆくのを眺めたりしてゐると、寒さが反對に壁の上から這ひ出してくるやうで、ただでさへいぢけた私は、怨めしさうに最うあと一と棧で日光が障子にあたらなくなるのを、わざわざ伸び上つて貧血したやうな蒼白い手の甲を其處まで持つて行つて暖めるのであつた。わざとさうする心ではなく、ただもう、さういふことをするほど所在なく寂しく、誰とも話し對手もなかつたのだ。いろいろな境遇の人人が幾十人となく住み古して行つた此のせまい室の柱、壁、押入、二尺の床の間などに、特に落書といふほどのものもなかつたが、ところどころの節割れ、爪のあと、荷作の角で衝いた痕、また雜巾のほつれ絲などの引かかつた釘あとなどが、いつも私の目にときどき理由もなく見詰められた。それがどうといふこともなく不意に柱のそばに永く私を寒さうに佇ませたりするのであつた。  そのとき女中が、そつと障子を細めに開けて、閾のところに小さな一個の小包みを置いて行つた。手にとると、反物の板紙で無器用につつんだ女文字で、やつと所書きをかいたらしいおすゑからの小包であつた。私はすぐ内容がわかつたので、非常に高價な贈り物をうけたときのやうに、その赤白のしでひもを解くと、なかから白のネルの胴長な、見るからに温かさうな手ざはりのなめらかな一枚の襦袢が、きちんと袖たたみにされて入つてゐた。袖ぎれは紺地に白ぬきの蜘蛛の巣散らしの、下町あたりの商家の人の着さうなもので、深川に生れたおすゑの好みらしいいなせなものだつたのが、何よりも寂しく私を微笑させた。「よく忘れないで寄越したものだな。」と思はず鳥渡の間明るい氣になつて、そこらに誰かが居ればこのことを話したいやうな氣もしてきたが、それとは反對にすぐこれを肌につけることが、なにかしら、馬鹿馬鹿しく厭なやうな氣もちにもなつた。生れてはじめての女からの送り物であつたし、對手がああいふ泥濘の町裏に住んで汚れた商賣をしてゐることなども、いつになく思ひ出された。──私はいろいろなことを考へながら、はつきりと白く冴えたネルと紺の袖ぐちを、そのまま手にもつたまま、しばらく宙ぶらりんに吊した恰好で、ぢつとしてゐた。非常に愕いたりするとき良く手にものをもつたまま、その物を忘れて頭のなかで別なことを考へることが能くあるやうに、右の手で抓みあげたまま私はぼんやりしてゐた。べつに昂奮することとてもない常のおすゑは、私にたいするときなど、ただ親しみがだんだんに深くなるといふだけで、強い感情的なところもなかつた。私にしても逢はないで居れば、どこか安心をして話せることや、妙に他の女にむかふときのやうな氣苦しさやみえもいらなかつた。それなりで淡いといへば通りがかりな情愛ではあつたが、しかし淡いだけ廣く沁みわたるやうなものを感じてゐた。決して急にあひたくて耐らなくなるといふ強烈さはなかつたが、ひとりでにからだの温まるやうなところが、苦勞したらしい彼女から、ぬるま湯に長くつかつて心からあつためられるといふ感じがするのであつた。  私はその縫目などを見るともなく査べるやうにすると、器用に仕上つてはゐたものの、ところどころ粗い針足がともすれば線をはづれたりしてゐるのも、ぢつと俯向いて二階の彼のせまい室で縫物してゐる姿とともに目にうかんで、何處か妻君じみたところのある平常の物腰などもかんがへられた。そして私はすぐに肌につけたいと思つたが、いちど拂つたあとでなければと思つて、窓のところで、襟のところを持つて振るやうにすると、こまかいほこりがネル類によく立つやうに、ぱつと灰のやうに立つのであつた。どこについてゐたのか絲屑が三ツ四ツも暗いじめじめした中庭の方へ落ちて行つた。この東京の黴毒患者がみな公園裏の巣窟から傳染してくるのだといふ何日かの新聞に出てゐた統計表のことが、このぱつと立つ埃のなかに素早く感じられたが、その不安な心もちはおすゑのひとの善い笑顏をおもひ出した瞬間から、すぐに消えてしまつた。──私は間もなくこの惠まれたやうな襦袢をきると温かい毛皮につつまれたやうな氣で、折柄くれかけた街路へ出て行つた。  上野の山から淺草への踏切の陸橋の上から、公園一帶の電燈の海のやうなのが、いつものやうに暫らく私を佇ませたが、それよりも群れをはなれた千住あたりに、ぽつねんと一つきり明るく點された電燈が別けても寂しさうに眺められた。みすぼらしい自分の姿のやうに何時でもいち早く目に入つてきて、それが自分の心と何かしら象徴的な關聯でもあるやうに思はれてしかたがなかつた。十二月もあと三四日になつた町は、歳暮賣の景氣につれて明るい新しい品物をならべた町が、ずつと公園の入口までつづいてゐた。ことにシヤツ屋、下駄屋、太物商など、なかには樂隊入りで騷騷しくわめき立てたりしてゐるさまが、足袋の穴へはみ出た小芋のやうな親指を時時氣にしながら、うす着な、どこか鐵道學校の生徒あがりのやうな自分の姿を、あからさまに浮ばせたりするのが心苦しかつた。  けれども例の穴裏のうすくらがりに紛れ込むと、もう自分の姿がごちやごちやと入り亂れた群衆のなかに揉み消されて、自分ながらも安心するほど其處をうろつく人人が、薄暗く溝闇ににじんで見えるのであつた。おすゑの家の前に立つと、いつも出てゐる筈のおすゑがゐなくて、もう一人の抱へ女が一人きり安火を抱いてゐた。 「おすゑは……。」  と問ふと、その女はすぐ奧の方へ、 「谷中の方がいらつしやいましたよ。おかみさん。」  と呼ぶと、待ちかねたやうに、太つたおかみが轉がるやうに飛び出して來て、いきなり私の手をつかんだ。 「まあ、よくこそ、ちよつとお話しがあるからお上りなすつて──。」  無理に引き摺り上げるやうにした。私はおかみがいつになく出て來たので、何か變つたことがあるのだと直覺的に或る不安な氣をおこした。 「どうしたんですか。おすゑは──。」  私は長火鉢のよこに坐ると、すぐおかみと對ひ合つて、きりつとした澁味のある顏をした三業組合の男が坐つてゐた。その組合の男は一目見ると、まなじりの切れあがつた奈何にもこの界隈の女を買ひ賣りしさうな、てきぱきした顏をしていた。──おかみはお茶をくんで出すと、すぐ、 「けふおすゑがお宿へあがつたさうですが。」  素早く言つて私の眼を讀み込むやうにさし覗いた。と、その男もいきなり犬のやうに私の眼もとへ矢のやうに眼を射りつけた。私はすぐおすゑが逃げ出したんだな。「そしておれがぐるになつてゐると思つてゐるな。」と心に思つた。一寸の間私はおどろいたが、顏いろが變らなかつた。 「いえ、來はしませんよ、ぢやおすゑは居ないんですね。」  わざと曖昧に白らばくれて私はたばこに火をつけた。 「昨日ね。あなたのとこへ行くんだと言つて風呂敷包みを持つて出かけたきりなんですよ。さうならさうと言つて下さいましなね。金がかかつてゐるんだから。」  と、語尾を自棄に舌のさきで卷いて太々しく言つた、よこの男は腕ぐみしながら靜かにさびた聲で、 「よくありがちなことですからね。旦那なんぞお若いんだからわかりがよささうなものですね。」  と言つて、じろりと私を見た。「あまり白ばくれなさんな。」とでも囁くやうに、眼尻でまた小衝くやうにした。  私は心にもないことだつたので落ちつき拂つて、 「だつて來ないものをどう言ひやうもないぢやありませんか、隱さうと思つたつて下宿屋ぢやすぐに知れますからね。それに僕のとこをだしにして餘所へ行つたんでせうよ。」  と正直さうに言ふのを空空しく聞いてゐた男は、腕組みをといて、こんどは紙卷きに火をつけながら、 「旦那の方でさう野暮に知らない一點張りなら、こちらにだつてつもりがありまさ。」  私に言つて置いて、おかみに、 「組合の方は私の方から言つておきますから、旦那にちよいと足止めをしていただくんだね。」  と、眉のところにたて皺をよせながら、うすぐらくにたりと微笑をした。 「さう。──ぢや旦那にしばらく組合のものがいらつしやるまでお待ちしてもらひませう。」と言つて私の方をむいて、「ともかく組合の方とよく話しておもらひ申しませう。」と言つた。  私は思はずそのとき襟をかき合せるやうにして、襦袢のそでをなるべく外部から見えないやうにした。一種の慴えとも、恐怖ともつかない底氣味のわるい寒さが手傳つて、この襦袢が、おすゑを匿まつた一つの證據とされるやうな氣がしてならなかつた。それに「旦那に足止め」をさせるといふことが、男の眦の赤く引き裂けた慘たらしいのを見るにつけ、何か特別な拷問といふまででなくとも、組合の種々な無頼漢に取り捲かれて、小衝かれたり無理に何か白状させられるのでないかと、場合が場合だけに膝がしらが少しづつ震へてくるやうな氣がした。けれども自分で匿まつてゐないのだから割合に落ちつくことも出來るのであつた。 「君達の方で考へちがひをしながら居るのはいいが、足止めなんてことはお斷りしますよ。」  男はすぐ吠えつくやうに突然にどなり立てた。 「白ばくれなさんな。さつきから默つてゐりや圖圖しく構へやがつて──手前なんぞに女を匿まはれて此方の商賣が出來るものか。」  と、いきなり私の顏から、うす汚ない着物のはじまで、草の穗でもこき下ろすやうに見くだした。私は襟が氣になつたのでちよいと直すと、 「何とでも言ひたまへ。あとで分ることなんだから。」と澄ますと、 「本當にてめえのやうな圖圖しい書生に會つたことはねえ。女をかくしやがつて、その樣子をさぐりに來やがるなんて──。」  男は憎惡に燃えるやうに言ひ放つと、おかみに向つて、 「ぢや組合まで行つて來よう。一とすぢ繩ぢやいけない奴なんだ。」  荒々しく格子を開けて出て行つた。おかみは「ぢや、よろしく、ね。」と腭で何か合圖をするやうにした。あとで私に、 「まあ、お茶でもおあがんなさい。なあにしばらくの間ですよ。」  と白白しく言つて茶をいれたりした。 「何んにも知らないのに一體何を僕から調べようてんです。」と私はおかみに言ふと、 「でもお前さんが強情だからさ。おすゑの居所さへ判りや苦情はないんですよ。匿まつたのなら、さう言つて下さいよ。」  眞面目に出られると、しまひに私は自分の室におすゑが今ごろ私を待ちかねて坐つてでも居るやうに思はれてきて仕方がなかつた。おすゑが室にゐたらどうなることだらうと不安な氣もした。が、そんな筈はないのだ。何んだか匿まつたとでも言つて脅かしてやりたい氣もし出したりして、私は、突然、大聲で笑ひ出してしまつたのであつた。それは自分でも不自然なほど高い底のないガラガラな笑ひ聲であつたのでおかみは眉をしがめた。それがいかにも狡るさうな煮ても燒いても喰へない種類の性格をもつてゐる人間のやうに思はれたのであつた。 「へん。たんとお笑ひ──いまに笑へなくなるのさ。」  と言つて、いきなり立つて二階へ上つて行つた。そして客と何か話してゐるらしい聲をきき澄してゐたが、そのとき、私は立ちあがると長火鉢のよこにあつた帽子をとつて、歸へりかかつたが、すぐ横にあつた煙管をガリガリと踏んだ。赤い羅宇が割れたのを見すまして、すぐ格子のところから出やうと下駄をさがしても、かうした巣窟にありがちな下駄はみな段梯子のあたりに隱しておくのが習慣なので、私のらしいのが見當らなかつたから、いきなり、そこにあつた下駄をつつかけると表へ飛び出した。と、窓硝子のところにゐて客を呼んでゐた女が、それと見つけると、 「おかみさん──先刻の方がどこかへいらつしやいますよう──。」  と金切聲をあげながら、 「ちよいとお待ちなさいよ。おかみさんが、まだ用事があるつて言つてゐたんですから。」  と肩のところをつかんだ。 「馬鹿。──」  私はそのぽつたりした手を肩さきから、柿の實でももぐやうに引ツぺかすと、力をこめて背後へ衝き飛ばした。女はよろよろと瓶か何かのやうにうしろへ打倒れるのを格子のそとで聞き流して駈け出した。 「氣をつけやがれ。」  衝き當つた職人風な男に逆に衝きもどされて、とあるゴミ箱の上に尻餠をつきながらも、あわてて路次の群衆のなかに紛れ込んだ。氣の荒い師走の素見客どもは、あちこちに火のやうに騷ぎ立つて、乞食なども、どの路次の暗がりにも居ないところはなかつた。私はうしろから追ひ駈けられるやうな慌しい氣と、あまりに人込みが濃密だつたので、ただでさへ曲りくねつて紛れやすい路次から明るい通りへ出る道が、顛倒した氣もち通りに、あちこちと迷つたすゑに、やつと明るい菓物屋のならんだ通りへ出ることができると、ほつとする間もなく公園の暗い植込みのなかを歩いて行つた。そこは小高い丘のやうになつた處で、すつかり葉をふるひ落した欅の枯木の、どういふ小さい枝枝にも皆な活動館の裝飾電燈の餘映が明らんで、暗い星空にすつきりと浮きあがつてゐた。すぐ前の池のおもてにも金粉をなすりつけたやうな電燈のうつつたのが、もつと鋭い青みのある星のかげとともに、騷騷しいガラクタ音樂や、館前をこね返すやうな群衆の下駄の音とは全で反對な靜かさで映つてゐた。あるひは霜まじりかとも思はれる寒寒とした夜風が、ぢつとベンチの上に腰かけてゐる私の背中から、いくたびとなくぞくぞく襲ふた。  私とは二三間づつ隔てたところに、あちこちにマントも着ないで凍えあがつたやうな人人が、ぢつと活動館のあかりを眺めたり、うさんくささうに同じいベンチに腰かけてゐる隣人を、すつとナイフででも切るやうな鋭い目つきで瞬間的にじろりと見たりしてゐた。それらの陰嶮な目と目とが、うすくらがりの中から、あちこちで射られ合ひながら、すこしでも他の生活を隙見しようとするらしかつた。私は私でどうにもならない心持ちが、たとへば一日づつ帳消しにどういふ無意味につひやされても、どうといふ氣もおこさずに、ずるずると水の中にでも落ちこむやうにした生活を、もうどうすることもできなかつた。けふはこれで澤山だ。これ以上どうにもならないといふ墮ち下つた心の腐りかかつた繼續が毎日のやうにつづいた。  そのとき耳を立てると、この酷い寒さのなかで弱り切つた蟲のこゑのするのに氣がついた。しかも淺草のまんなかで今頃蟲のこゑでもあるまいと思ひながら、幾度となく聞きちがひではないかと耳を澄ますと、やはり、そこにあるつつじの植込みの骨立つた底の方から、おほかた石の下にでもゐるのであらう、殆んどききとれないほどの低い低い、たよりない聲で啼いてゐるのがきこえた。  そのとき私は、ふと頬のあたりに冷冷した夜風のあたつてゐるのが、急に何かで覆うたやうに少しばかり温まつたやうな氣がして、ふいとふりかへると二尺と隔つてゐないところに、一人のほつそりした女が立つてゐるのを見た。あまり不意だつたので愕いたが、女は私がふりむいたとき、にやりと蒼白い微笑をした。わざとらしい固い壁のやうな微笑の皺が、鼻翼から脣へかけて濃い線をひいて、しだれかかるやうに私にそそがれた。すぐさま、私は彼女が何者であるかといふこと、そして何を求めてゐるかといふことが、その刹那から解つたやうな氣がしたので、私もわざとらしい不良性な、どこか拙い泥土細工の人形のやうな微笑をそらぞらしく漏らすと、女の方では更らにその鼻翼の線を深めるほど、好意ある笑顏をしめした。さうして、すこしづつ私の方に近づいてきた。女は黒い毛絲の襟卷でふかふかと腭をうづめ、俯向きかげんにそつとベンチのうしろに立つのであつた。さういふ女を見ることに慣れてゐた私は、さういふ女と話すことが大ざつぱに、むしろ荒々しからぬ程度の高びしやな調子で、すらすらと切り出すことができた、それほど、づうづうしいものが何時も心の中で生きて呼吸をしてゐた。 「さむいね。もう何時だらうね。」  私はすこし顏をうしろへ傾けるやうにしていふと、女は、 「十時すぎでせうね。」  と優しい靜かな聲で囁いた。氣のせゐなのか、うしろに立つた女の體温が私の背中をすこし温め、そのため、冷えきつた板のやうな背中が、その温まつてくる方へ少しづつ伸びてゆくやうに、過敏な神經がそこへみんな集まり出した。そのうへ、背中が眼のある別な生きもののやうに、その女の胴體や足すぢなどを考へ込んでゐるやうだつた。  けれども私はふりかへらなかつた。唯、池のおもてを見つめてゐて、背中から報告されてくるやうな、肢體の一々を想像しながら、いまは女が殆んど私の羽織の上から、どつしりした異常な重みをもつて乘りかかつてゐるやうにおもはれて、ぢつと呼吸をつめてゐた。さうした惱ましげな何方からも切り出せないやうな重い二分ばかりの時間がつづいたあとに、殆んど音もけはひもなく、また少しの重みもない或る瞬間、そうつと女の手らしいものが私の痩せた肩におかれたかと思ふと、かへつてその手が冷えきつてゐたのか、肩の骨のところに沁みるやうなつめたさを感じ出したので、私はぶるぶる震へた。と、そのときからその手がやつと少しばかりの重みで、しかも三つの關節の指のさきまでが、しつかりと蟹のやうに肩さきの凸起したところに、まるで蓋でもしたやうにをさまるのであつた。ところが反對の方の手が(勿論私の手が)そうつと私自身の胸からむづむづと這ひ出して、いきなりつめたい魚をにぎるやうに彼女の手の上に乘りかかつた。 「一しよにいらつしやらない──。」  と、むづがゆく耳のところで、温かい唇がふれたかと思ふと、耳のなかを擽るやうに女はひそひそと囁いた。 「さあ──行つてもいいね。」  といひながら私はふところに入れた左の手で、財布をガリガリと掴んで見た。「これだけあれば足りるかもしれない。」と心でつぶやいた。いまから宿へかへるのも大變だ。それにこの寒さではたまらないと思つた。 「すこし先きになつてどんどん歩いてくれ。あとへ尾いてゆくから、しかし餘り遠くないだらうな。」  私はさういふことに非常な慣れた厚かましい調子で、むしろ厭味な特別な太い聲でおしつけるやうに言つた。さうしないと、かういふ路上から誘はれた場合、飛んでもない目にあふことがあるからである。 「え。ぢや、ついていらつしやい。」  と彼女はさきにあるき出した。さきから、二三間さきの方のベンチにゐた土方風の男がわざとらしい暗い咳をした。そこのない寒さうな彌次り咳が寂しさうに、かわき切つたあたりの空氣にひびいた。  女は馬道へはひると、巣窟とは反對な待合の軒をならべた小路へまがつて、その裏の炭俵を鋪いたどろどろになつたぬかるみを飛び飛びにあるきながら、とある十軒ばかりならんだ長屋の前に立つた。軒燈もついてゐないばかりか、兩隣りも寢靜まつてしいんとしてゐた。 「ちよいと待つてくださいな。わたし鍵をどうしたのかしら。」  とあちこちさがすと、小さなガマ口のなかから取り出して、錠をあけた。ガラリと雨戸をあけると、女が外出するとき脱ぎすてたらしい紅絹うらの着物がくしやくしやに散らばつてゐたのが見えると同時に一種の埃くさい匂ひがしてきた。 「さあお上りなさいな。ずゐぶん取りちらしてゐますけれど。」  と言つて、自分でさきへ上つて、襟卷をとると長火鉢の座布團をうら返しに直して「どうぞおしき下さい。」と言つて、火を掻きおこした。──六疊のとなりが四疊半らしく、廣いこの室には長火鉢の外に茶棚が一つあるきりで、壁などもところどころすれきずがあつて、寒い落ちつかない白白しいやうな室であつた。 「よく來て下さいましたのね。」  女は、そとで見た時より、ずつと痩せこけた手を火の上にかざした。明るい電燈はまざまざと彼女の額によれこんだ皺や、しなび上つた馬鈴薯のやうにたるんだ頬や、その上、くろずんだやうな目のふちの輪が、目金でもかけたやうに、非常に蒼い、すこしの血色をも想像することのできない皮膚に、かつきりと彫られたやうに架つてゐるのが、ことに背中を寒くしたのであつた。「きつと病氣をもつてゐるな。」とすぐに思ひこんだ。「うつかり係はるととりかへしがつかない」やうにも思はれた。 「ずゐぶん厚面ましい女だとおぼしめしたでせう。じつは病人がありましたり、それに私もからだがよくないもんですから……ついおすがりしたのですの。」  しみじみ話し出した。私はその病人といふのが氣になつて、 「誰が病氣なんですか。」  改まつたやうにいふと、すぐ四疊半を指して「祖母なんです。永い間なんですの。」と言つた。私は、 「こんな商賣はいつころから初めたの。」といふと、 「四五日前から公園へ出てゐますけれど、歳暮だものですから、誰も來てくれないんですの。それにやはり慣れないものですから。」  と言ふのをきいてゐると、本當の自分の心からしみじみと話してゐるやうで、この種類の女らにありがちな、自分のことを問はれると能く茶化したがるものであるが、さういふ擦れつからしなところがなかつた。さう思へば、ベンチのところで私の肩に置いた手が、殆んどもぢもぢと永い間かかつたことや、わざと耳のところで囁いたこと、また、ベンチの私のよこが空いてゐたに拘はらず、わざと背後に立つてゐたことも初心らしいまづい遣り方のやうに、今ふと考へられてきた。 「果物を買つてまゐりますから、おまち下さいまし。」  女は財布をふところへ入れると出て行つた。私はそのとき、隣室の四疊半に病人がゐるかどうかを確かめたいやうな氣がして、立つて障子の破れからそつと覗いて見た。そこに薄い布團にくるまつた小さなからだが、くつしやりと潰れたやうに睡つてでもゐるらしかつた。障子とは反對の方に南瓜のやうな冷たい老人らしい顏が、よこ向きにねぢむけられてゐた。その枕もとに藥瓶や七輪や使便などが、小ぎれいにならべられてゐて、この室にも箪笥らしいものも見えなかつた。私は座にかへると、かうした生活がやはり有り得ることを確かに見て取つたやうに、味氣ない寂しさをかんじた。それは何か安い芝居などに仕組れるやうな筋であることが、なほ私をしていつまでも不合理な生活をしみじみ考へさせ打沈ませた。 「おまたせして濟みません。」  と言つて、蜜柑や林檎をならべた。その茶のいれかたや、林檎のむき方が一度家庭にゐたものの手なれた丁寧さで、しんみりと眺められるのであつた。それにくらべて私の方が一段すれつからしであることも氣がついた。 「みんな剥かないで下さい。あんまり果物はすきぢやないんだから。」といふと、 「さうですか。」  從順に手をはなして、ぢつと何か別なことを考へてゐるやうに火に手をかざした。その樣子のなかには、なぜか、私が今にでも立ち上つて何か汚らはしいことをしないかといふ懸念と、さうされても、いつまでも眤としてゐなければならない諦らめとを有してゐるらしく、むしろ、私からさうした事を挑むのを不安がちに期待してゐるやうにも思はれた。ただ、手を火にあたためながら恁うしてさへ居ればいいといふやうな何處か乏しい先例にでも習つてゐる點もあつた。  何より私はその束髮がきは立つて埃つぽくゴミゴミしてゐるのを、そそけ立つた油氣のないのを心佗しくかんじた。今夜は歸つて終はう。その上、その痩せ絡まつた秋の蔓草のやうなほそぼそしい肉體のなかに、私の求める何者があらうぞとも考へられた。どこか馬鹿のやうな氣のするおすゑにくらべて、やはり同じ年頃ではあるとはいへ、この女の陰氣さや滅入り込んだところなど、一方は精神をつかつてゐないし、この女は心から苦しめられてゐる。しかも堅肉なおすゑはむしろ冷たいほどがつしりした肉體をもつてゐるにくらべて、吹きよせられた秋の蚊のやうな病的な、何といふ蒼褪めた氣の毒な女であらう。今夜はかへらう。そして、いくらかやりたいとも思つた。 「いま、幾時だらう──。」  と默んまりを破つて言ふ、女は、 「通りへ行つて見てまゐりませうか。おはづかしいやうですけれど、うちには時計がないんですの。」  と私の顏を不安さうな目つきで見た。明らかに時間を問うたことが、彼女の上に起りかかるものを想像させたらしかつた。 「通りまでは大變だから……すこし用事を忘れてゐたんですから──。」  私はいくらか澁りながら言つた。 「でも……もう暫らくいらしつて下さいましな。」  と女はとり縋るやうな上眼をして言つた。 「また今度來ませう。もう家もわかつてゐるんだから。」  と私は財布のなかから、ちやうど彼女等の要求するほどの金を長火鉢の猫板の上にそつと置いた。がりがりと寒い音をたてた大きな銀貨が靜かに彼女の眼にうつつた。彼女はそれを見ると慴えたやうな色をたたへながら帽子をとりかかつて私のそばへ來て、 「あんなに戴くわけはありません。決してあんなに戴くわけはありません。どうか、御をさめになつて下さいまし。」  と言つて、金を私に握らせようとした。 「そんなに堅いことを言はないで、また今度來ますからね。まあ取つて置いて下さい。」 「でも餘りお氣の毒ですもの。」 「僕が持つてゐても無くなるんです。何か食べて今夜はもう寢んで下さい。」私は格子をあけた。 「ぢやお言葉に甘えまして──。」  といふのを背後にききながら、通りの明るいところへ出た。終電車に間にあふやうに觀音堂から寢靜つた仲店へ出ようとすると、夥しい境内の鳩がみんな高い銀杏の枝に上つてあちこちで啼いてゐた。あるものは、塔のひさしのところで、あるものは欅の枝に泊り啼きをつづけてゐた。  明治四十五年十二月二十九日の午前、ちやうど物憂い寢ざめからさめると、私は一枚の名刺をうけとつた。それを見ると、すぐおすゑのことが考へられた。名刺はれいの三業組合の巣窟の顏役であつた。私は洗面するとすぐにその顏役を室へ通した。寒さの烈しい朝ではあつたが、拂ひの惡い私のところへは、炭火をもつて來るものもゐなければ、また湯も來なかつた。 「初めまして──實は──すぐ用件にとりかかりますが、おすゑの件について參つた始末です。」  と、きちんと坐り込んだ顏役は、あさ黒いにがみ走つた唇の色のわるい男であつた。その銘仙の縞ものをきりつと襟もとを合したところや、鋭い目つきなど、卑しいところを無理によそはうたところがあつた。 「で、私が匿まつたとでも仰しやるのですか、御覽の通りです。僕はそんなことに係はりたくないんです。」  私は寒さにぶるぶる震へた。男は、すぐ目をやはらげて、 「いや、實はこちらへ上るまでは、一しよにゐるやうな氣がしましたし、それを衝き止めたいとも思つてゐたのです。かうしておうかがひすれば何も彼も分りました。がです。萬一、おすゑが訪ねてくるやうだつたら、お知らせ下さらなければなりません。どつちも判然することですから。」 「それは承知しました。私をだしにして何處かよその人のところへ行つたのでせう。」といふと、  男は冷笑するやうに、 「いや、あの女には亭主みたいなものがゐるのです。そちらも今日調べに行つてゐるのですから遲かれ早かれ判るでせう。どつちかといへば、よすぎるほどお人善しな女ですからね。」  さう云つて、じろりと室を見まはした。そこには机一つと幾册かの書物があるだけで、何も目ぼしいものがなかつた。「此男はまだ疑つてゐるらしい。」と私は考へた。男はまた口を繼いで、 「どんなに隱れたつて、こちらは警察とも協力することができますし、搜索を專門にやつてゐる男も雇つてありますからね。それにもうあと二日で書入れの正月になるのですから、おそくとも晩方までには判明するだらうと思ひます。」  そのとき、私は思はずつい口をすべらした。 「おすゑが居たら、また遊びに行きますよ。」  何氣なく言ふと顏役の色がさつと變つた。そのとき、私は持前の無邪氣さうに言つたことが、この男を茶化すやうに思はれたのをすぐ見てとつた。男はわざと平氣に、 「居所がわかりさへすれば、どうか又遊びに行つてやつて下さい。しかし、こんどのやうなことのないやうにお頼みしますよ。」  と言つて、へへへとあざ笑つた。それが恰も私が誘拐でもしたやうな口調であつた。 「おすゑには大ぶ金がかかつてゐるのですか。」私はたづねると、いろいろな話にまぎらして少しでも長居してをれば、ひよつとすると、湯にでも行つたらしく思はれる女が歸つてくるやうに思はれるので、顏役は、ゆつくり落ちついて、 「え。かなり費つてゐるんですが、しかし大したことはありませんよ。さう玉がよくござんせんからね。」  と言つて、ぷうと煙草を吹いた。  朝のおそい私だつたので、默つて差し向ひになつてゐる耳もとで午砲があわただしく鳴つた。多分もう歸へるだらうと思つてゐると、顏役は、 「ハア、もうおひるですね。おそばでも一つ取つていただけませんか。近くにそば屋がありませんか。」  私の眼を窺ふやうな低い平つたいやうな聲で言つた。もう歸るだらうと思つてゐたのに、これから腹が出來ると何時間坐り込まれるか判らないと、不愉快ないやらしい氣になつたので、 「僕はそばが大嫌ひなんです。」  棒を突き出すやうに言つた。 「どうしてなんです。」と言ふので、 「長つたらしくて、まるで蛔蟲のやうな氣がするんだ。」  私は怺へかねて窓の方をむいた。が、すぐまた、 「君がお食がりなさるなら、下宿を出ると二三軒先にありますよ。行つてさう言つたらいいでせう。」  冷やかに言つた。すると、よほど腹が空いてゐたと見えて、「ぢや鳥渡行つてきます。」と、室を出て行つた。「おれがやはり匿まつてゐると疑つてゐるんだな。この樣子だと彼奴は晩までゐるかも知れない。」と私は考へた。しばらくすると、男はかへつて來た。 「なるほど下町とちがつて便利ですね。下町ぢや、ちよいとそば屋なぞ見つからないことがあるんですよ。」  さう言つてまた煙草をのみはじめた。  そこへそばが來ると、私の方へ一つ差し出すやうにして、 「どうです。お一つぐらゐいいでせう。」  と言つたが、「さつき言つた通り大嫌ひなんです。」と私は外方を向いた。 「では失禮します。」  男は臆面もなくぞろぞろはじめた。その溝鼠のばちやばちや藻掻くやうな音は、息をもつがずに暫くつづいた。私は立つて窓からすぐ汚ない通りを見てゐたが、もう狹苦しい長屋つづきの裏町にも、釘打にされた松飾りが初初しい新しい年を迎へるために、そこここに青青としてゐた。女の子らが羽子をついたりしてゐるのも、何か賑やかなものの前觸れのやうに眺められた。そのとき、そつと耳をたてると男はまだ蟇のやうに坐つて、白く曝されたやうな長いぬらぬらしたものを掻き込んでゐた。 「こんな不愉快な思ひを何故忍ばなければならないんだ。しかも蛇にでも卷きつかれたやうに、唯の五分間でも耐らないのに、日の暮れるまで坐り込まれたら一體おれはどうなるんだらう。」  私は心で呟いて、ぢつと蟇を見下ろした。そのとき、何とも云はれない激しい憤怒がさかさまに足の方から逆上してくることをかんじた。此奴を一ト思ひに遣つつけたら、頭をがんと一つ撲りつけたらと憎々しく角刈の頭をながめた。さうかと思ふと、こんどは手がひとりでに角刈を一つ撲りつける眞似をした。そのとき、 「どうも失禮しました。お茶を一ついただけませんでせうか。」  そばの道具を片ツ方によせながら言つたが、私はいきなり、 「そんな贅澤なものはありませんよ。」  食ひつくやうに言ひ放つた。さすがに男も、 「いや我儘を申しまして──。」  と言つて口を拭いてゐた。  私は默つて机の上で雜誌をひろひ讀みながら、もう口をきくまいと考へた。どんなことがあつてもと心で誓ひながらゐると、今朝から何も食はない寢込みを押へられたので、ひどく腹が空き出したことを午後になつてから急に加はつた寒氣とともに烈しく感じ出した。ひどく體躯にちからが拔け落ちたやうに、ぞつくりとだるい氣がし出した。  私は向う側の屋根瓦を見つめた。曇り日のつめたい沈んだ空明りに、それらの一枚一枚が同じい姿勢でつみ重ねられてゐた。きつとそのうちに不自然な一枚があるにちがひないと、さぐるやうに見てゐたが、どれもこれも同じい幅と姿勢とを正しく保つてゐるのが見えた。その屋根越しに大通りの電柱が見え、そこからまた隔つたところに、小さい屋根があつて小さい電柱が見えてゐた。その小さい電柱がいかにも幽遠なところにあるやうな氣がするのと、ふしぎに、生きてゐて何か私と言葉を通じるやうな情け深い、あたたかいものに、くつきりと空に透いて見えた。それは恰度少年のとき、どこかで見た電柱とおなじだ。その尖つた頂きに何かしら故郷の空氣が引つかかつてゐるやうな氣がするのだ。しかも春は杏やすももの蒼白い花の匂をこめて蒸れかへつた空氣だ。私はふしぎなこの一瞬の幻影にとりすがるやうに伸びあがつたときに、蟇は聲をかけた。 「では旦那、おいとまします。たいさう、お邪魔しました。」と言つて挨拶した。 「はあ、さうですか。」  急に何か思ひ出したらしく歸つてゆく男を見ると、私はすつかり安心してぺつたりと坐り込んだ。と、急に惡感におそはれたやうに腹がすき出して來た。と、こんどは腹のなかに懷しい電柱が見えはじめた。 「ほんとにおれは東京へ來なければよかつたのだ。出て來て何もできないのだ。唯かうして苦しむだけだ。國に居れば不自由もしなかつたのだ。おれは支那人のやうに怠惰で物憂く、しかも毎日をまるで無意味に塗りつぶしてゐるのだ。」  私は苦しい呼吸のしたから考へた。いま來た奴もおれのためには苦しみだ。私はふらふらと立つて、さツきの窓さきに行つて電柱をながめた。それは、たつた一本きり、黒ずみ疲れはてたやうに、おそらく其處へ行つて指さきで小突いて見たならば、ぽつきりと力なくへしをれてしまひさうに思はれるのであつた。どこか國境あたりに打たれた寂しいのを見たことのある私は、その屋根のあたりに蕭蕭とした芒やかやの戰いでゐるのが、いまはその電柱をとりまいてゐるやうに思はれてしかたがなかつた。  私はその電柱から視線を解いて、だんだん階下の通りに目をおとしたとき、すぐ通りの曲り角に、さつきの蟇のやうな男が、あちこちに目を配りながらぢつと下宿の門口を見守つてゐるのに氣がついた。厚い黒いラシヤの筒袖を着て、いちいち往來通りにはしこい目をなげながらゐるのを見ると、何といふ執念深く疑ぐり強い奴だらうと、私はあわてて首を窓からすつこめた。見られるのもいやだし、またもう二度と見ることも耐らなかつたからである。  私は間もなく床のなかで、うとうととすると、みじかい冬の日はくれてしまつた。あわてて食事を外ですましてから、下宿のまはりを丁寧に見てあるいた。長屋の小路や、下宿のうら道、それから通りへ出るところなど、一々こまかに調べたけれども、晝間の男の姿が見えなかつた。もう、すつかり安心をして歸つて行つたのだ。  電燈が點いてから私は机にむかひながら、乏しい炭火にあたつてゐると、廊下の方の障子にさらさらと衣擦れの音がした。もしやと思ふ間もなく、おすゑが訊ねて來たのである。私はびつくりして聲を擧げた。 「やあ、たうとう遣つて來たね。いままで何處へ行つてゐたんだ。今日も組合からお前を搜しに來たんだぜ。本當にどこへ行つてゐたのさ。」  おすゑを見ると、二三日ばかりも外出してかへらなかつた猫が衰へてかへるやうに、おすゑはほつそりと少し痩せ込んでゐた。が、にこにこしてゐた。 「よそへ泊つてゐたのさ。それからお前さん、ちやんと着てゐるわね。」  と襟のところを指さした。私はれいの襦袢を着込んでゐたのだ。 「あ、さうさう、どうもありがたう。おかげで大變温かくて喜んでゐる──。」  と私の言ふのを聞き終へないで、 「ぢや皆なわいわい言つて探してゐるの。そして此處までさぐりに來たんですか。」 「僕がね。かうお前を唆かして匿まつてゐるやうに思はれてゐるんだ。今朝寢込を押へられて午後の三時ごろまで坐り込まれたのさ。行つたあとでも、外で見張りしてゐるんだもの。僕をだしにするのもいいけれど、いい加減にしてくれないと困るぜ。」といふと、おすゑは笑つて、 「濟まなかつたわね。うちを出るとき、何處へつて言つて聞いたから、思はず谷中へ行つてくると言つて置いたんで、きつと此方だと思つたんでせう。」  それほど皆なが搜したのかしらと云ふ顏をした。私は、 「日暮里へ行つたんだらう。」  切つても切れない先の亭主のことを仄めかすと、 「まあそんなものさ。」  言葉すくなく言つて、にこりとした。 「一度關係があると、あんなに危險を犯しても會ひたいものかね。」といふと、おすゑは、 「つまり何んでも言ひなり放題だし、おたがひ我儘が言ひ合へるからいいんですよ。そりやわたしだつて嫌ひは嫌ひさ。こんどだつて彼奴が世帶を持つツて言ふんで、逃げ出して後で淺草の方を始末をしようと思つて行つたんだけれど、やはり駄目よ。毎日、お酒ばかり飮んでゐて、てんでおかみさんへの後始末をしてくれさうもないんですよ。だから、自棄腹で喧嘩しちまつて飛び出して、こちらへちよいと寄つたの。」 「ぢや、これから淺草へかへるのかい。」 「かへるより仕方がないわ。下手にやるとあとで危ないから……なあに、こちらで歸つてゆけば六つかしいことにやならないんですよ。」と言つて「お前さんの宿も寒さうね。机きや持つてゐないの。」と、一つしかない机と、あとはガランとした室ぢうを見廻した。 「あとには何んにも無いのさ。」  と私自らさへ、うそ寒げな凍るやうな室を見かへつたりした。 「さう、隨分貧乏してゐるわね。」と言つて、 「いつたい遊んで歩く人たちは、みんな貧乏してゐるのが多いやうだわね。」 「さうも言へないだらうが、小金のある奴はそんな馬鹿な眞似はしないだらうね。それにやはり彼麼ところをほツつき廻る奴は半分駄目になつた奴が多いからな。」  と言ふと、おすゑはひとのよささうに、少し揶揄ふやうに、 「ぢやお前さんも駄目な方の人間なの。いつたい何になるつもりなの。」  くすくす笑ひながら言つた。 「さあ、何んにも出來ないだらうよ。かうしてのらくら犬のやうに生きてゐるだけかもしれないね。」  私自身でさへ、どうにもならないやうな毎日のことを考へた。仕事と言つても何時も心で苛苛と煮え立つてゐながら、毎日の隋勢でずるずると泥沼に陷り込むやうで、這ひ上ることさへできないやうな氣がするのであつた。 「やつぱし何かかう手堅い仕事を見つけなくちや駄目よ。ほんとに何かにおなりよ。」 「うん、なにかに成るつもりなんだ。その的がないんだ。」 「何かかう手に職を持つやうな仕事がいいわね。寫眞屋さんのやうな、活版屋さんでもいいわ。何處へ行つても廢れない商賣がいいと思ふの。」  眞面目にかういはれると、私も何んだか手に職のあるやうな、永い間手堅い職業がほしいものだと思つたが、その半面には、かうしたずるずるな生活もわるくはないやうな氣もするのであつた。いつまでも、こんな生活がつづくものでもあるまいし、そのうち、だんだん自分の仕事に芽が出てくるやうにも思へた。 「寫眞屋にはなれないが、何かになれるやうな氣がするよ。」 「それならいいわ。何かにならなければいけないわ。──ぢや、わたし今からすぐ淺草へかへつて皆なに安心さしてやるわ。でないとお前さんもお困りだらう。」 「困るとも。濡衣だからな。」と笑つていふと、 「明日の晩でもまた遊びにおいでよ。いらつしやるでせう。」 「行けたら行かう。」 「ぢや歸へるわ。」  と、おすゑは階段を下りて行つた。  私は手土産のせんべいをがりがりと噛りながら坐り込んで、何んでも彼でも平氣でやつて、それを苦にもしないでゐるおすゑのことを考へた。私自身にしてもただ隋勢で、ずるずるにはまり込んでゐながら特別な愛もかんじてゐないのに、やはり何かに繋がれてゐるやうにも離れることのできないのを口惜しいやうな氣がした。おすゑにしても、どの人にたいしてもいい加減にあしらつてゐたし、また、しみじみした氣もちでゐるらしかつた。 「お前さんはすれつからしなやうで、それで何處か子供みたいなところがあるの。だから大へん人の善いところと惡いところとが見えるわ。はじめは、そのどつちだか、ちよいと判らないわ。」  といつかおすゑの言つたことを思ひ出した。それが妙に當つてゐるやうなところがあるやうな氣がしてならなかつた。「自分でさへ人がいいのか惡いのか分らないのだ。」と、答へながら寂しく苦笑したことがあつた。 「さうさ、お前さんは何處かかう親切なところがあるわ。それでゐて手頼りにもならないやうな、いつも別なことを考へてゐるやうにも思へるわ。併しどつちかといへば心の中がしつかりとしてゐるやうにも思ふの。」  と言つてゐたことも思ひ出した。  大晦日の晩の巣窟は殆んど人込みで歩けないほど、揉み合ひへし合つてゐた。笹ツ葉をざわざわさせた正月らしい飾りが、寒い星空にむかつて高高と軒ごとに樹てられてゐた。私はすこしばかりの金を手に入れたので、すこしばかり醉つてそこらをふらふら歩いた。妙にかう英語をつかふ女などもゐた。  おすゑは例の硝子窓により添つて、ひやかしの客をよんでゐるのが、いろいろな女の叫び聲のなかからも聞き分けられた。私はそこへ佇んだ。 「まあ、よくね。おはひりよ。」  かりつとした深川訛で言つて、すぐ私を迎へた。二階へあがるときおかみがちらと私を見て眉をしかめたが、急にわざとらしいお世辭聲で、 「先日はほんとに失禮しました。飛んでもなく御難題をかけちまひまして──。」  と詫びるやうに言つた。私は、 「事情がわかりさへすればいいんですよ。」と言つて二階へあがつた。  もう鏡臺にまで小さい輪飾りがしてあつた。どこか、いつもとは異つた温かい氣もちがながれてゐた。 「あれから歸つてから別に苦情も出なかつたのかい。」  おすゑはぺたんこに坐つて、 「默つて出ては困るつて言つてゐただけさ。歸つてしまへば何も言ひはしないのが習ひなんですよ。すぐ店へ出てしまつたの。それから別にあのことを今日まで、どつちからも口へ出さなくなつたの。」  と言つて「あしたから年が、かはるのね。」とも言つた。それから、 「お前さんは下宿だからお餠なんぞ搗きはしないでせうね。」 「別にそんなことはしないよ。」 「だらうと思つてね。ちやんとお前さんの分を搗いて取つて置いたのさ。たくさんになくともいいでせう。ほら、かうして別にしておいたの。」  と言つて押入から、盆にのせた白い象牙のやうな切餠をとり出して見せた。私はすこし呆然としたが、やはりおすゑらしい世帶じみたことが好きだなと思ひながら、 「どうも、ありがたう。」といふと、 「ひまな時ときどき燒いたつていいわね。あまり好きぢやないの?──」 「うん。好きな方ぢやない。」 「ぢや、これだけあれば間にあふでせうね。」  それを紙包みにして手でさげるやうに結んだ。そのとき、小箪笥の抽斗に幾枚の寫眞がしまはれてあるのもちらりと見た。 「それはお前のかい。」 「え。小さい時分からなの。見せたつていいわ。まあ、こんな小ちやかつたんですもの。」  すこし疳高く言つて、そのうちの一枚を拔き出した。それはまだ十二ばかりのお下げに結つて、さつぱりとした筒袖姿のおすゑであつた。 「れいの學校へ行つてゐたころだね。小ちやい時の方が可愛くていいぢやないか。」といふとおすゑは打つやうな眞似をして、「ばかにしてゐるよ──。」と言つて「でもあの時分はいいわね。」  としんみり言つて寫眞をながめた。 「そのころは此麼商賣をしようとは思はなかつただらうな。」 「當り前だとも、子供がそんなことを考へるもんかね。でも藝者はずゐぶん好きだつたの。」  と話してゐると、となりの室から低い聲で女の唏りなくらしい聲がした。妙に性慾的な、胸をつき刺すやうな凄い甘みをもつた艷めいた聲が、しづかに、自分でも聲を忍ばしながらも制し切れないやうな唏りなきがして來た。私は聲をひそめて、 「オイ、誰かとなりの間にゐるのか。唏いてゐるやうぢやないか。」と言ふと 「二三日前に來た子なんだが、どうしても商賣がいやだつて言つて、店のほうへ出ないでああやつて泣いてゐるの。無理もないの。まだ十八位なんだもの。」 「やつぱり買はれて來た子なんだね。」 「え。まるで子供なんだから本當に可愛さうよ。それにおかみさんが毎日のやうにやいやい責めつけるんでせう。よそ目にもはらはらするわ。でも仕樣がないわ。もう此處へ入つてきては何を言つたつて駄目よ。どうしたつて稼がなければならなくなるわ。」  と、おすゑは慘酷なものを見せつけられたやうに言つて眉をしがめた。 「ぢやまだ處女なんだね。」 「さうとも。」  とおすゑは言つた。私は島田に結つたやうな女が目を赤くしながら、まるまると座つてゐるのを目で考へながら、その唏り泣きともつかない鼻をすいこむ音をいたいたしく聞いた。じつと俯向きながら自分の美しい處女期がもう粉微塵になるのを期待するやうな、慘たらしい氣持を考へると、私はあたりから理由もない怒りが私を煽り立てるやうな氣がした。 「その女はきれいかい。」 「ちよいときれいね。なにしろこれから女になりかかる年頃なんだからね。でも、はじめは皆なああなんだよ。けれども、もう一度客をとつたら後は大丈夫なの。誰だつて初めはいやだわ。」  と言つて「も一ト月もたつて來てごらん。もう手におへない子になつてしまふんだから。」と苦もなく言つて、それが當り前なやうな顏をした。 「さうかな。そんなもんかな。」  と私は暗い濕つた氣になつた。おすゑは 「そりやね。最初はできるだけ機會を外すもんだよ。外すさへすりや、もう汚らはしいことを□なくなると思ふの。ところが、ほら此麼ところにゐると毎日いろいろなことを見るでせう。だから心でいやだつて言つてゐても目がいつの間にか見てゐるわ。見てゐたら最う忘れないわ。そのうちにおかみさんが毎日いびりつけるでせう。だからもう仕樣がなくなるの。いちど承知したら二度目はいやだつて言つたつて駄目よ。おかみさんがきかないわ。それなりで、ずるずるになるわ。いろんなものが慾しくなるし若ければ皆がちやほや言ふし、つい墮落するわ。」  と、おすゑはすらすらと饒舌り立てた。私はその言葉のなかに動かない人間の急所を衝いたもののあることを感じた。ほんとだ。心で拒避して目が見てゐるのだ。恐ろしいことだ。 「なかに最後までいやで通した女が、これまで居たことがあるかい。」  と問ふと、おすゑは笑つて、 「長いので三日間よ。みぢかいのは一日いぢめられるとすぐだわ。終までいやで通した女なんて一人もないわ。世界中さがしたつて一人もゐないわ。偉そうな自働車に乘つてゐる女だつて、みんな女よ。男にはわからないけれど、女同士にはみなちやんとわかるわ。みんなこんな商賣をしてゐるやうなものだ。一人にするか世界中に向つてするかの違ひだわ。みんな、みんな莫迦々々しいこつたわ。」  と言つて、人のよささうに、いつの間にか目をあかくして怒をふくんだやうな目を私に投げつけた。私は 「おすゑ、ぢやお前はいつまでこんな商賣をするんだ。」  と言ふと、すぐ聲を落して 「いつまでだか分るもんですか。自分でもわからないの。かうしてゐるのが私の運かもしれないわ。運が向かなければどうしたつて駄目だわね。」  と言つて、こんどは酷く默り込んだ。そして 「お前さんも然うしてぶらぶらしてゐるのでせう。お前さんにも運がこないのとおなじよ。運がくれば私だつてもうこんな商賣をしなくともいいのよ。」  と言つて、火鉢に顏をあぶるやうにした。そのとき階段がしづかにめしめしと軋んで、隣室の襖の開く音がした。私はおすゑと目を合した。しばらくすると、おかみが隣室の女に何か言ふらしい聲が、だんだんに刺々しい荒さをふくんで來た。 「これからいぢめるのよ。いやだわね。」  と、おすゑはささやいて、きうに曇つた顏をした。  じつとしてゐると、洞穴にでもゐて話すやうな曇つた聲がつづいてゐるなかに、ときどき娘のいふらしい生優しいうぶな透つた聲が交つて、それがいかにも、壓しつけられてゐるものの出す苦しい聲に似てゐた。また、ときには疳癪にさわるらしいおかみの尖がつた聲で、喉のところでごつつりと折れて出たやうなのも、いらいらしげに雜ると、そのあとに「はい。」とか「いいえ。」とかいふ娘らしい聲がつづいた。  私は何んだか落ちついてゐられない氣がしだした。見てゐるうちに、美しいものが汚されてゐるやうな心持ちと、も一つは、非常に優しいものをいぢめるやうな慘たらしい寧ろ性慾的な苛立たしさとを感じるのであつた。さうした五分、または十分と時間が經つてゆくにしたがつて、娘の返辭が一種の唏り泣きに變化してしまつた。それは、殆んどひいひいと濕つぽくやさしく、または誰の心をも毮るやうな、きいてゐるとひとりでに顏が蒼くなるほど胸に震ひが傳はるほど、するどい女性特有の激しい刺戟と優美とをもつて、私にぞくぞくと迫るのであつた。と思ふと、こんどは怺へ兼ねたやうなおかみの聲が、鋭く切れあがつて、飛びつくやうにきこえると 「ごめん下さいまし。ごめんなさいまし。」  と、なにかを謝る娘のこゑがした。その聲のしたで、肥つたおかみが顫えてゐる小娘を手でかう抓るやうな氣もするし、また、痛々しく小衝くやうにも思はれ、さうかと思ふと、膝の下にでも組みしいてどやしつけてゐるやうにも思はれてしかたがなかつた。そこでは曾つて見たこともないこの巣窟にありがちな慘忍な形式で、すべての女を墮落させるための拷問のやうな折檻が、いま、ありありと隣の室に行はれてゐるやうに思はれて、私は膝がしらがひとりでに震へるのを感じ出した。おすゑはおすゑで、言ひやうのない激動のためにじつと呼吸をつめて眞蒼になつて、灰をやたらに火箸で掻き廻した。私はそれを見つめてゐたが、その灰を掻き廻してゐるのを何故か早く止めてほしいやうに思はれた。けれどもおすゑは、しつこく然うした仕草をつづけてゐるのが頻りに氣になつて仕樣がなかつた。それがどういふ心持ちの上で邪魔になるわけではなかつたが、いつおすゑが火箸をぐるぐるさせるのを止めるのだらうと、ぼんやり其事ばかりを考へ込みながら、中心のない目つきでじつと火箸を見つめた。柔らかい灰を巧みにかき廻すうちに、かつちりと音がして一本の錆びた釘が現はれた。おすゑは默つてそれを疊のうへにつまみ出した。それは一寸五分くらゐな、まだ尖端に光を失はない釘であつた。そのとき、また 「ごめんなさいまし。」  といふ、すこし鋭どい娘のこゑがした。私はおすゑと顏を見合した。おすゑは蒼褪めきつて下唇がぶるぶると震えてゐた。その目は赤らんで何かしら鱗のやうな怒りが全面を覆ふてゐるのを見た。 「あんまり酷いわ。酷いわ。」  と低い聲で言つておすゑは私の膝の上に手を噛りつけるやうに置いた。 「何といふ奴だらう。こんな事が、此處では毎日のやうにあるのだ。あゝ、あの聲は。──」と私は藻掻くやうな聲で言つた。  そとは別けても騷々しく暗い叫び聲や、ざれ唄や、杖で地べたを叩く音などが、靴や下駄の音とともにごつた煮のやうに、噎せ返つてゐるやうだつた。私は立つて窓をあけると、活動館のあかりのなかに、ゆつくりと背のびしたやうな十二階の塔が、六角に削り上げた尖端を深い暗い空につきぬけて聳立してゐるのを見た。どの窓もみな閉められて唖のやうになつて見えた。なほよく見ると、その煉瓦の一つ一つの組み立てがほんのりと見えるやうな氣がした。ここからは決して煉瓦の綾目が見えないのに今夜はどうしたのだ。と私はふしぎにそれを見つめた。夜は更け沈んでゐた。その塔の頂は殆んど水のやうな深い空氣と星ぞらに限られてゐた。目をおとすと、そこらには暗い大きな屋根と、ちひさな屋根、ともれた二階と、くらい窓とがこびりついてゐた。その建物のあいだに群衆は一杯になつて歩いてゐた。どれもこれも喚めき立てたり、叫んだり歌つたりしながら、あらゆる地上を蟻のやうにとり卷いてゐた。此處では全てが許されてゐた。淫蕩、忍辱、絶叫、抱擁、さうしたものが全ての犧牲の上に、しかも温かく豐かに盛りあがつてゐた。あらゆるものは此處ではみな醉つて犧牲の美しいものを撰んだ。より清純なもの、初心なるもの、ぽちやぽちやしたるものを求めた。  私は一つの屋根の斷面を見つめた。そこは暗かつた。私は何といふことなく、その闇のなかを見つめた。その斷面にももう霜まじりの露が下りたのであらう、その上に星のいくつかが煌めくのを見つめた。 「ごめんなさいまし。」  といふ聲がうしろからした。ふりかへると娘のひいひい泣くのがきこえた。おすゑは箱火鉢のところで、ぐつたりと睡り込んでゐた。 「ああいふ慘酷な叫び聲をきいても此の女は眠れるのだ。眠れるやうに慣らされたのだ。」  私はおすゑのよこに再び座つて、じつとその疲れ込んだ顏をしげしげと眺めた。それは硫黄のやうな匂ひをふくんだもののやうに、火のあかりを受けて、しかも平和に亂れない深い嗜眠のなかにあつた。この生れながらにして持つてゐる資質は善良で、しかも絶えざる疲勞のなかにあつたのだ。  おかみは暫らくすると、何か脅かすやうな聲で怒鳴るとめしめし階段を下りて行つた。私はそれを聞きすますと、ふと、さつきの釘に目を落した。私はそれを手にとると襖の隅の方を唾で濡しながら、内部が覗けるやうな小さな穴をあけはじめた。紙襖だつたので穴はすぐに開いた。そこから次の室が殆んど全てに亙つて視界におさめることができた。  明るい電燈を前にして座つてゐる女は、やはり十八位の目の大きな、血色のよい子であつた。その泣きつかれた目はじつと電燈を見つめてゐたので、弱々しくまだ發育しきらない喉すぢの青みがかつた生白いのまで、はつきりと覗かれた。埼玉の在から來たといはれるこの女は、どこか田舍ものの温かさと正直さうな肉つきで、その肩上げのところが圓々とふくれあがつてゐた。ことに涙をもつて洗はれたやうな瞳は、その白いところの眞中に澄みわたつて、あれほど苦しめられてゐながらも、あくまで處女らしい子供らしさを夢のやうにぽうつと現はしてゐた。けれども、すぐその電燈を見つめた目は、しづかに疊の上におち、さうして再た思ひ出したやうに、すうひい、すうひいとしやくり泣きをはじめた。一つ一つおかみの言つて行つた言葉を考へ出しては、それに新しい涙をさそはれるといふ風であつた。私はそれを見てゐるうち、彼女がたしかに處女であることを感じた。何者も處女であるうちは美しくあるなしに拘はらず、それ自身が劇しい匂ひある清純な氣をもつて、何かしら近づきがたい威嚴をもつてゐるやうに、彼女の泣きくずれた姿のなかにも、りんとした、まだ濁らないものの小氣味よい彈力をもつてゐることを感じた。おすゑのいふやうに、この少女が間もなくこの巣窟の荒々しい情慾のやさしい鬼にならうとは、かうして眺めてゐるうちには、とても想像することさへ出來ないのであつた。「しかし此女にも女がもつ共通の野卑と淫逸とが濳んでゐるかもしれない。それがまだ外から誘はれてゐないのだ。この女にやくざな賣婦の斑點がすぐ食ツ附いてゆくのだ。」とも思へた。さう思つて見てゐると、何かしら、彼女の一點のよごれのない皮膚にだんだんに暗い斑點がそこらから這ひ出してゆくやうに思はれた。  おすゑはその時ぽつかりと目をさました。しばしばした目つきで 「まあ、わたし居睡りしちやつたのね。」  と言つて「おかみさんが階下へ行つたの。」と、目と指で隣室をさした。 「階下へ行つたよ。可愛さうにあの子は先刻からしよつちう泣いてゐた。まだ、肩上げもとれない子ぢやないね。」  と私がいふと 「どうして見たの。」  といふから、私は「其處から見たのさ。」と襖の穴と投げ出された一本の釘とを指さした。 「まあ、あんなところから見たの。」  と、自分でも覗いて「よく見えるわね。」と言つた。 「その果物でも持つて行つてやつたらどうか。」 「そうね。」と言つて、彼女は果物をもつて隣室へ這入つた。娘らしい聲で挨拶をしてゐるのがきこえた。おすゑは 「おかみさんに見つからないやうにおあがり。でないとわたしまで小言をいわれるからね。」  と言つた。すると娘は寂しく微笑つて「ええ。」と言つた。それが此方からも見えた。そしてちらと私を偸み見た。それが素早く、しかも疑ぐり深いやうで、いくらか娘らしい大膽さを見せたところもあつた。私はあの女がおすゑのいふやうに、落ちるところまで墮ちてゆくのが今やつとわかつたやうな氣がした。あの偸み見た目付がだんだんに馴らされてゆくのだ。とも思へた。  おすゑの家を出て、いつかの女の長屋をたづねると、格子のところを少し細目にあけたまま、内側から雨戸が閉められてあつた。 「ごめんなさい。」  といふと、すぐ女が出て來て「まあ──。」と愕いて「どうかお上りくださいまし。」と、奧へ案内をした。低く吊した電燈のしたで、今まで針仕事をしてゐたらしく、新しい銘仙の裁ち切れが累ねられてあつた。 「先日は失禮いたしました。よくこそ、いらして下さいました。」  この女らしい上品な言葉でいつたので、私もつい、 「私こそ却つて失敬しました。けふ、こちらへ來ましたものですから、ちよいとおよりしたのです。」  彼女はお茶をいれながら、 「本當にこの間は御無理を願ひまして──。」  と言つて少しく赧くなつた。あの晩から見ると、どこともなくゆつたりとした、落ちついた温かさがこんもりと顏にあらはれてゐた。 「あれから、ずつとお宅でしたか。」と思はず言ふと、また赤くなつて、 「え。ずつと──あの──實はあれからお針の方を初めましたんですの。病人もよくありませんので、手を離せませんものですから。」  私は突然一種の小さな喜びをかんじた。ただ、あの晩からずつと家にゐたことや、かういふ地道な仕事をしてゐたことなどが、この女の本當のところらしい氣がしたからであつた。 「さうですか。ほんとにいいお仕事に目がつきましたね。この方があなたとして什麼にふさはしいか知れません。」  私もいくらか急き込んで嬉しさうにした。女は一種の賞讚されたときのやうな羞恥を色にうかべて、 「ほんとうに妾はどうしてあんな恐ろしいことを平氣でしに出たか自分でも考へるとぞつとしますの。でも、あのときは、もうおはづかしいお話でしたけれど、お米だつて一粒もありませんでしたの。」  皆な正直さうに言つて「あなたには恥を申しても恥にならないんですもの。」と言つて微笑した。 「いや、あなたより僕の方がのらくら者でずつとすれツからしでしたよ。あの晩は──。」  と言つて、陰氣な曇りのない、どこか精神の安らかさや、明るさを見せた彼女をしづかになだめた。やはり蒼褪めて病身さうに見えたけれど、それがすぐ掻き消されて一種の美しさを今は私にかんじしめた。ことにあの晩のやうなおどおどした冷たさや、恐怖をまじへた寒さをその顏に今日はもつてゐなかつた。その地味な黒繻子の襟もとから覗いてゐる喉口や、よれよれな帶の工合なども、かへつて貧しくあつたが温かつた。 「お祖母さんはどうですか。」 「まだ良くありませんの。永くはもたないやうに思ひますの。」  と小さく言つた。しばらく默つてゐたが私は、 「あなたは永く家庭にゐらしつたんですか。」と訊ねると、 「いいえ。三年ほど一しよにゐた人がゐたんですけれど、わけがあつて別れました。いい人でしたけれど酒癖がありましてね。それから二年ばかり一人でゐますの。ええ。生れは東京なんでございますの。かうなつては一生懸命になつて稼がなくてはならないと思ひますの。」 「きつと其内よくなりますよ。たいがい一日やつてゐるんですか。」とたづねると、彼女は私をぢつと見て、 「晩は二時ごろまでやつてゐますの。それでもやりきれないほどお仕事がたまつてしやうがないんですの。」 「さう。ぢや初めなさい。仕事をしたつて話ができますからね。」 「ぢや、さう願ひますわ。何か買つてまゐりますわ。ゆつくり話していらしつていいのでせう。」  晴々しく言つて子供のやうに外へ出て行つた。それは全で私といふ人間を非常に永い間友達にもつてゐたやうに、隱し立てをしない開け放したものを見せてゐた。それとは反對にいつでものらくら犬のやうに、あちこちほつつき廻つてゐるのが、この女にくらべて恥かしかつた。あのいそいそとした鮮やかな、心から友にあつたやうな喜んだ姿は、非常に清純な魂をもつたもののやうに私には映り出した。  彼女は菓子の袋を猫板の上におきながら、あついお茶をいれて、 「毎日、かうして默つてお針をしてゐると寂しうございますの。もう、これ一枚をしあげればお正月ですわ。」 「さうね。あと三時間もたつたら年がかはりますね。」  私もしみじみ言つた。 「ときどきいらしつて下さいましな。わたし本當に身寄りもございませんものですからね。」  針でぐいぐいと縫ひ上げたりしながら、しづかに話すのをきいてゐると、私は何處かで此樣なしみじみした心をもつた女にあつたことがあるやうに思はれた。何處で會つたかおぼえないが、このしんみりした調子は私の心にいまも殘つてゐる──。 「え。來ますとも。僕にしても遠くから此方にきてゐるものですから。」  話してゐるうちに、私は荒れすたれたやうな心の底から、別な初初しい優しい感情が湧き出ることをかんじた。それは、私の内部にあつていつも燃えようとしながらも、たえまもない外からの荒い感情によつて揉み消されようとしてゐたものが、いま突然にあたたかいものに觸れて芽ぐみ出したやうなものであつた。  私はうつとりと、そのよごれた髮や、そまつな羽織、その縫ひ方のつつましさなどを凝然と見つめた。愼ましいこの世界のかぎりをあつめたもののやうに、しつとりと心にもたれかかつてくるやうな美しさであつた。 「さうして仕事をしてゐるのは本當のあなたの姿だ。あなたにはそれが能くうつる。ほんとによい仕事を見つけましたね。」  と私は縫針の指さきを見つめながら言つた。 「じつはあの晩、ほんとにあなたを恐いと思ひましたの、ごめん下さいまし。あれから出ないで此しごとを初めましたの。」 「いまも恐いんですか。」  あの晩のいやに擦れからしな自分の姿を目にしながら、かう訊ねると、 「いえ。いまはそんなことを考へませんわ。」  と言つて微笑した。  そのうちもう除夜の鐘が鳴り出した。深く重い鐘聲はこの地上のあらゆる生活の上を、大きな輪をゑがいて響き出した。 「年がかはりましたね。」と私は言つた。 「ええ。」  女はこたへて、ぢつと針をとめた。何かしら人間の運命とかかはりのある古びた金屬の音響は、私だちの心にまで重重しくつたはつて來た。私だちはしばらく首垂れるやうにしてゐた。  一月の半ばすぎ私はおすゑのところへ行くと、いつかの娘が店へ出てゐた。 「ねえさんはゐなくなつたの。でもいいぢやありませんか。」  と二階でしくしく泣いてゐた娘がこの女かと思はれる位、はぎれ好く言つた。その顏つきも、どこか脂肪じみて處女らしい垢ぬけしないあの晩にくらべると、一枚ばかり皮膚をヒン剥いたやうな美しさを有つてゐた。 「おすゑはどうしたの。」といふ尻から「また飛び出したな。」とも思へた。 「まあお上んなさいよ。此處ぢやお話もできないわ。」  と言つて私の手を執つた。いかにも輕率でがらがらした調子だつたので、私はその手を拂つて、ともかく二階へ上つた。 「ねえさんは二三日前からゐなくなつたんです。さきの御亭主と一しよになつたんでせうよ。」と、わけもなく言つて、 「おすゑさんのかはりに妾だつていいでせう。でも、おすゑさんにはちやんと旦那があるんだもの。やきもきしたつて、そりや駄目なことですわ。」  とずきずき言つた。わづか一ト月足らずで、あの初々しかつた女が恁うもかはるものかと、私はその指さきに光る縁日ものらしいのを見たりした。 「ぢや君のゐる間に二三度來たことがあるのかい。」 「その旦那つて人ですか。え。かう職人風な人でしたよ。おすゑさんはいやだつたらしかつたけれど、手が切れないのよ。」 「此家へわたしをつけたんだらうね。」 「さうらしいのよ。だいぶ面倒だつたらしかつたんだけれど──こんな話は止めにしませうよ。それよりか今夜ゆつくりしなすつてもいいでせう。」  義理がたい此界隈のいはゆる「ねえさんのお客」を取ることなど、この女は何とも思つてゐないらしかつた。ただ、處女からかういふ放縱な生活に入つたものの、よくやる働く一方の女らしかつた。健康をむだ費ひにすること、初めて解りかけた異性の面白味や淫蕩に引摺られてゐるだけで、まだ、ほんとの一人前の商賣人として反省も自愛もないらしかつた。私は、 「此前來たときに隣室でお前がしくしく泣いてゐたぢやないか。それがもう偉い見幕になつたものだね。」と言つて、素早く動く目を見ると、女はくすりと笑つて、 「はじめは誰だつて泣きますわ。そりや人間ですもの。けれどもすぐ諦らめなければならなくなるのよ。いつも泣いてばかりゐたつてし樣がないんですもの。──さうさう、あの晩、ねえさんからお菓子をもらひましたわね。」  と言つてゐるうち、言葉が靜まつてきたやうなところがあつた。すくなくとも、尻上りな人を食つたやうなところがなくなつて來た。 「あのとき、おすゑがね。お前もしまひにはだんだん泣かなくなつて、もうすぐ、おきやんな女になるつてさう言つてゐたよ。でも隨分可哀さうだと言つて、お前がおかみさんから苛められるごとに目を赤くしてゐたよ。」その姉さんのお客をとらうとしてゐるのはいけないとも言ふと、女はがつくりしたやうに沈み込んだ。 「店へ出てから幾日になるのかね。」 「ええと、二十日ほどなの。わたしも本當に知らない間にこんなになつたのですね。」  まだ娘らしい白い頸首を白白と電燈にさらしながら、うつむいて火鉢のへりを撫でてゐた。「私がかへつてしまへば、また元のやうに空空しい女になるのだ。」と思ひながら、 「やつと其くらゐな日數で、こんなに變化るもんかね。ぢや、あれからすぐに稼ぐやうになつたんだね。」  と言ふと、私の問うてゐることとは、まるで別なことを考へてゐるらしい目附で、 「お正月の二日からなんですの。そりや本統に無理遣りで……毎日泣いてゐましたの。けれども毎日泣いたつてし樣がないと思ふやうになりましたの。誰一人だつて慰さめてくれる方がないし……」  と、だんだん低い聲で言つた。明らかに其心の内にもう彼の處女時代の氣もちや、すなほさがそつと浮んできたやうな澄んだ、おつとりした目つきに還つてゐた。……そして「彼女は自然、毎晩のやうに來る見知らない男のなかに、自分の苦しい心もちを話しやうとしながら、さういふ心もちは段々釣られて行つたのだ。」とも私には考へられた。それはやがて彼女の言はうとしてゐるところでもあつた。 「今ぢや、すつかり諦らめて稼いでゐるんだね。それより仕方ないとしてね。」  私もしみじみ言ふと彼女は、 「え。もうこんな體躯になり下つたものですから、とりかへしがつきませんからね。」  と言つて、その目を濕ほすやうになりかかつたので、わざとらしい微笑にまぎらせながら、ぢつと又坐り直した。  私は靜かに立ちあがると、 「まあ、切角稼ぐんだね。」と言つて、歸りかけた。  女は何んだか濟まないやうな顏つきで、 「けふは本統に失禮しましたわね。」  と言つて私の羽織の襟をなほしながら「おすゑさんは下日暮里の線路に添うた家なんですつて──」と言つて番地ををしへてくれた。 「また、いらしつて下さいまし。」  と女は言つて格子のそとまで送つて出た。沈んだ鼻にかかつた聲だつた。私は小路へ出ると、泥鰌のやうに揉み合つた群衆の中を行つた。相渝らず口口に罵り合つた人人は、溝ぎはに一と群れ、軒下に一と群れといふやうにわいわい騷いでゐた。私の心は沈み切つてゐた。おすゑがああした罠から脱けられないやうに、おすゑはあの男と一しよに行かなければならないのだとも考へたが、ふしぎにかうした界隈だけに嫉ましい氣が起らなかつたが、あの小さい女のことが新しく私を陰氣にさせた。  私の目の上には大きな塔が、上から壓倒するやうにすつくりと浮きあがつてゐるのが見えた。私はそれを見あげた。一つの灯もないこの寂しい塔の下にある巣窟を私はもう一度ふりかへつて見た。  私が例の待合裏の女をたづねたのは、二月のある寒い晩で、下駄のあとや、こね返したやうな泥濘がカチカチに凍え上つた、見るからに寒さを感じるやうな裏町を、からからと鳴る下駄の音をしのびながら行くと、女は、明るい電燈の下で、派手な模樣の銘仙ものを裁ち板にあてがつてゐたところであつた。すぐ横に十七位ゐの若い娘がきちんと坐つて縫ひものをしてゐた。それが表から格子戸をあけたときに、何かの雜誌の口繪のやうな靜かな場面をすぐ私の目にいれた。同時にあんなに良く落ちついてゐる。そして明るささへ加はつてゐるのだといふ、快よい潔い感じがいちはやく私の胸をすがすがさせたが、次の瞬間には最う私のやうな身すぼらしいものが、侵入して行つてはならない別な世界なやうな氣もし出した。私が何かさもしい機つかけから、今夜も訪ねて來たことが厚面しいやうな氣がして、こんなに仕合せよく仕事をしてゐるのに來なければよかつたとも思へた。  しかし女は私を見ると、「まあ」と言つて玄關へ飛び出すやうにして來て、 「お寒いのによくお出かけくださいましたわね。この間から、ほんとにお待ちしてゐましたの。どうぞ、おあがりになつて下さいまし。」  彼女はいつもより、ずつと明るい聲で言つた。私は、 「おしごとのお邪魔になりませんか。でしたら又今度來たつていいんです。」と言ふと、 「いえ。もうすつかり閑になりましたの。いそぎの分もありませんの。おしきなすつて。」  と彼女をちらと見たとき、頬のあたりが肉づいて目のふちの暗い輪のやうなものが、すつかり肉づいたために消えてゐて、全體として厭味のない、すらすらした滑らかさを持つてゐるのをすぐ目にいれた。ことに今まで俯向いてゐて仕事をしてゐたためか、上氣して潮しこんだ喜ばしい紅らみが殊に私をあかるくした。けれども、よく見ると蒼白い皮膚の、先の夜のやうな病的なものが、妙に額の生え際や、こめかみのあたりに漂うてゐるやうな氣もした。 「あれから、やはり、ずつとお仕事していらつしつたんですか。」  と、私は紙卷きの火をつけようとすると、自分で火を點けてくれて、 「一月はすこしも暇がございませんでしたの、ことに藝者衆のものが多いんで、毎日いたしましたわ。」と言つて、嬉しさうな顏をして、 「お祖母さんも急なことがありませんの。滋養も攝つてゐますし、それに、すこしづつお粥なんかも戴きますの。だんだん暖かくなれば癒りますわね。」 「ほんとにいい鹽梅でしたね。」と言ふと、女は 「この子はおしごとを習ひにきてゐるんですの。(と言つて彼女は包みきれない嬉しさうな昂奮の色を見せた。そして娘に向つて)ちよいと來て下さいな。」  と言つて室の隅で何か囁くと、娘は、すぐ私のところへ來て、きちんと膝を折つて、兩手を揃へて、 「ごゆつくりなさいまし。」  と挨拶をして出て行つた。その疊の上におかれた手がなまなましい新しさと、ふつくりと内から盛りあがつた温かみを私にかんじさせた。  娘がかへると、 「わたし、おてがみを出さうと思つてゐて、おところをお伺ひしないでゐたものでしたから失禮いたしましたわ。けれども隨分おまちしましたの。」  と言つて、私のところを聞いたが、何故か曖昧にしておいた。何故か住所を教へて置くことが、自分のはしたない生活を見られるやうな氣がしたのであつた。 「こつちへいらつしやいまし。」  と言つて、長火鉢の向うに坐らせた。どつしりと置かれた粗雜なものであつたが、よくならされた灰や、掃除のゆきとどいた黒柿のへりや猫板などに、ほこり一つもなかつた。 「あ、時計を買ひましたね。」  私はすぐ茶棚の上の目覺し時計に目をとめた。新しいニツケルの光りや、どこか昆蟲のやうに動く二本のさはり角のやうな針、それに白い新しい肌、それらがみんな此處では別な値ひと喜びとをもつて眺めることができた。──彼女は微笑つてよく見てくれたとまで言ひさうに、 「先月終りに求めましたの。時計を買つてから家の中が明るくなりましたの。何んだか生きものが殖えたやうな氣になりますのよ。それに氣のせゐかお祖母さんまで、快くなりさうですの。」 「時計はいいものですね。」  私もいつか國から出てきたとき、一つの古い銀時計を机の上に置いてゐたことを思ひ出した。晩は枕もとに置いた。それもすぐ何時の間にか賣られてしまつた。あれは古いだけにいい時計だつたと、惜しい氣もちになつて思ひ出した。 「いつもね。一人きりでせう。ですから最う何時でも時計がお友達ちのやうな氣がしてなりませんの。(と言つて彼女は茶棚から時計をもつて來て)寂しくなりますと、すぐ猫板の上に置きますの。カチカチ言ふでせう。なんだか、しよつ中、お話してゐるやうな氣がしますの。」  と言つて、子供のやうに耳のところへ當てたり、ニツケルの冷たい胴を拭いたりしてゐるのを見ると、どれほど深く彼女がこの時計に就てどれだけ幸福を喜んだかが解るのであつた。 「まるで、あなたは子供みたいなところがありますね。時計を頬にあてたりなんかして。」  と、私はすこし茶目がかつた瞳の奧に、私の顏が大きく映つてゐるのを凝乎と見すゑるやうにして言つた。 「ええ。わたし、ほんとに嬉しうございますわ。おしごとはどんどん出來ますし、みんな親切な方ばつかしだし……ほんとに、わたし、あなたに會はなかつたら、どんな人間になつてゐたか判りませんわ。(と言つて堪りかねたやうに、その瞳に一杯涙をためながら)本統に人間つてものは、明日どうなるか、その運がわかりませんわ。」  女は私を見つめた。私は決して感謝される理由はない。あの晩もいつものやうに、のら犬のやうに喘いでゐたのだ。肉體を求めてゐたのだ。あの晩、彼女にいろいろな擦れからしなことを言つたのも、いまは、辛く不快に感じ出した。しかし私のああした漁色と狡猾とが今の彼女をここまで引上げたのではない。この女に先天的にこんな明るい運があつたのだ。 「あの晩のことは言はないことにしませうよ。なんだか僕は一番づうづうしいところをあなたに見られたやうな氣がしてならないんだ。それが今おもひ出されると苦しくなるんだ。ほんとに、もう言はないことにしませう。」 「わたしだつて、女の身でづうづうしいと思ひ出すごとにぞつとしますわ。」  と言つて彼女は顏を掩ふやうにした。そして唏いてゐるのを隱すやうにした。 「僕はまるで野良犬なんです。何も彼も知つてゐて、それでゐてのらくらしてゐるんです。あなたの方がずつと立派な生活をしてゐるんだ。」と言ふと、 「いえ、あなたに會つたからですわ。あなただつて必然と今にいかがはしいとこなんぞへ入らつしやらなくなるわ。きつとお仕事をなさいますわ。きつとよ。だつて何時でもぢつと考へ込んでいらつしやいますわ。きつとなさるわ。」  と女は、ぐいぐいと私の底に眠つてゐるやうな、生きたものをゆり起すやうに言つた。私はその目の内に彼女が明らかに私の巣窟をあさつて歩くのを警しめるやうな、しかもそれを信じなければ置かない固い決心を仄めかしてゐるのを見た。が、私はまだ何もできない、そして機運のない毎日を考へた。こんな時期が誰にでもあるのだ。この時期をやはりこのままに送るのだ。それより仕方がないのだ。 「いや僕は何もできないんだ。まだ、のら犬です。僕のやうなものは何を言つたつて駄目な人間なんだ。それよりもあなたがかうして靜かな暮しをしていらつしやるのを見てゐると、無性にいい氣もちがするんです。自分で出來ないだけ然う思ふんです。」  と言つて、私は心のそこで、どうにかしなければとも叫んで見たが、やはり私にはまだ何をする力もない。力が足りない。 「だつて私のだんだん都合のよくなるのを喜んで下さるのは、あなただけなんですもの。あなただつて御自分でいまのわたしのやうな喜びをおよろこびなさるときがありますわ。」 「さあ、そんな時もありませうね。きつとあるにはある氣がするが、まだ、あてにならないんだ。」  と私は笑ひ出した。このひねくれた笑ひ聲は彼女をなほ寂しくさせた。 「お約束をしてくださいまし。きつと、おしごとの出來るときを──そして、そのときわたしが居なくとも──。」  女は私をみつめた。かつとした、大きな鏡のやうな女の目を見つめた。 「しますよ。運さへくれば、らくにさへなれば。」  と私は微笑した。そして女がだんだん時間が經つごとに美しい素地のままなちからで、すこしづつ私に迫ることをかんじた。どちらかといへば私は彼女の顏の蒼白いのを恐れた。何かしら病氣のやうなものを含んでゐるのを恐れた。それが、見つめれば見詰めるほど、ふしぎな筋ばかりの美しさがかんじ出された。 「ほんとに然うして下さいましな。」  と彼女も目をすゑた。私はその目のなかにあらはな感情がたぎつてゐるのを見た。男と女とが精神の上で次第に話づかれてゆくときに起る或る不思議な無聊さが、目と目とから又は肉體の上からひりひりつたはつてゆく快い喉の渇くやうな氣もちになることが多いやうに、私は曾つてない蒼白いもののうちから、ねつとりと沁みでたやうな美しさを彼女から感じ出した。  彼女は彼女でせかせかと茶を淹れたり炭をついだり火箸をうごかしたりしながら、ときどき私をぢつと見詰めた。妙にちらちらするやうな興奮した目の奧に一種の身悶えをあらはしながら、居苦しさうに坐りながらもぢもぢとして火にかざしてゐる手が、硬ばつたやうに一心に力が籠められてゐるやうであつた。私は私で息苦しいものを次第に彼女のさうした緊張された氣分から移されて、背中の筋がひき釣るやうな固苦しさを感じ出して來た。 「幾時なんだらう。」  と言つて目を茶棚に向けると、 「まだ、お早うございますわ。」  と眼尻を赤く冴えさせながら、だんだん蒼褪めながら、ぢつと見詰めてはいきなり目を逃れさせたりした。──私は思ひ切つて立ち上ると、彼女は、かつと蒼くなつて、 「もうお歸りなんですの。」  怨むやうな、また祈るやうな掠れた聲で言つた。 「また今度來ますよ。あんまり永く居たから歸ります。」  私は帽子をとつて、もう一度、彼女が長火鉢のわきに茫然と、もの忘れしたやうに立つてゐるのを顧みると、彼女は目をぎらぎらと光らせながら、息も絶えるやうな蒼白い惱みにがたがた震ひ上つてゐたが、一瞬間がすぎると、いきなり私に飛び付いた。搾木にでも架けられたやうな柔らかい痛さを、私は私の手にかんじた。彼女は益々固く手につかまりながらさめざめと笛のやうな噎び唏きをはじめた。緊張してゐた氣の弛みが一度におし寄せたやうに瘠せた肩さきをしやくるやうに顫はせて私の胸のところに顏をよせつけた。私はいきなり目を揉まれたやうな茫とした氣で、彼女の目を見つめた。その目は私にすがりつき然して藻掻いてゐるやうな、おどおどした臆病な色をあらはしてゐた。 「許してくださいまし……」  とおろおろに言つて、何が何やら分らぬらしく手ばかり固くにぎり締めた。 「何も許してあげることもありませんよ。ほんとにあなたに子供のやうな一本氣なところがあるんだ。(と言つて、その一本氣がいつかの晩のやうなあせり方をして身を□たうとしたのだと考へた。)それが僕には何ともいへない氣もち快く思へるんだ。」  と言ふと、彼女は益々深く細く泣き出した。その泣きごゑは、私の胸をしつとりと濕ほすやうに靜かに内部まで沁み込んでゆくことを感じた。 「いつまでも此頃のやうな暮しをしなさい。それがあなたには一番相應しいし、そしてよく似合んだから……。」  と私は言つて、そつと抱くやうにすると、しばらく泣きやんで 「ええ……。」  と言つた。私はその涙をもつて洗ひ清まつたやうな顏を見た。一枚の木の葉のやうに濡れた顏だ。うそのない本統の美しさに輝いた顏だ。私はそのとき、喉のところに灸でもすえられたやうな熱さと渇きとを同時にかんじ出した。そして叫ぶやうに 「いつそのこと、もつと此方へいらつしやい。」  と言ふと、彼女はすぐに目をあげた。水のなかから上つて來たやうな濡れた目で、しかも底あたたかい感謝と悶えとに充ちた、あらゆる眞實な飛びつくやうな光をもつて、心からしつとりと今浮きあがつたやうな微笑をしづかに浮べた。うつとりしたやうな、すこし疲れたやうな深い優しさ柔らかさに充ちてゐる微笑であつた。 「わたし、どんなにお禮を言つていいか分りませんの。」  と囁くやうに言つた。 「何のおれいです。」  と私は微笑つて、その肩先をつかんだ。そのとき彼女のほそい手が繩のやうに私の肩さきから背中にしばりつけられた。その指の一つづつが喰ひ入るやうな力を込められた。私は私でいきなり錨のやうにその肌のところを引ツかけて、かつちりと引よせた。  寒い冬もあとかたもなく消えて行つた暖かい日がつづいた。枯れたものの根もとからさし覗く青いものがだんだんに著しく目に入つて來た。私は日暮里元金杉が、やや三河島の田地と隣り合つた田端の線路わきの、あたたかい日向をあるいてゐた。そして、ふとおすゑのことを考へ出した。あれからどうしただらうと、別に訪ねる氣もなく番地を問ひ合せると、おすゑの家はすぐ十軒ばかりさきの二階に借りてゐることがわかつたので、私は汚ない土間ぐちをちよいと覗くと、おすゑのらしい年恰好の下駄が脱いであつたので、訪ねて見ようかと思ひ惑うたが、いちど亭主と一緒になつたものを跡を追つてあるいてゐるやうな厭な思ひをさせられたので、私はたづねまいと思つて、ぶらぶら其處らを歩いてゐた。  田端の高臺の崖がゆるやかな、やや芽ざした傾斜面をつくつてゐるのを見ながら、私は私の心の奧そこにあたたかいおすゑの體温を感じはじめてゐた。それは實にふしぎなほど遠い夢のやうな觸りで、彼女の肢體の一つづつが、ゆつくりと暖かい日光のしみるやうに、ほの明るく私の感覺をさそひ初めたのであつた。それらの感覺がいくたびも繰り返へされてゐるうち、私は彼女の二階の前を行つたり來たりしながら、時をり猛烈に馳驅する汽車のすさまじい音響に驚いては、やはり二階を見上げたりしてゐた。  私はそのとき、どうしてもおすゑを一と目見たいといふ考へを棄てることができずに、寧ろ茫然と彼女の格子戸をあけた。幾度も呼んでも誰も出て來ないばかりか、玄關の上り口が犬小屋のやうに泥まみれになつて、幾日も掃かないらしい室の内部は、子供の着物や紙屑が散らかつてゐて、日の移つた障子の破れ目が映つた疊の上に、あらはに煙草のヤニのやうな蠅が幾疋も群れてゐた。 「ごめん下さい。こちらにおすゑさんといふ方が……。」  とまで言ひかけて、執念深いやうな亭主のある女のところまで訪ねてきた自分を、厚面しく、いくらか赤い顏をするやうな氣もちになつて、語尾を切らすやうに言つた。が、やはり家の中がしづかで、外へ通る人がうさんくささうに此方を眺めては通つて行つた。 「ごめん下さい。」  我にもなく大きな聲で、なかばなほ巣窟へでも訪ねて行つたやうな氣になつて呼ぶと、こんどは二階で「はい。」とでも答へたらしいおすゑの聲がしたとき、何故だか此處を飛び出したいやうな氣にもなつた。そのうち段梯子を下りる音がすると、二タ月ほど見ないおすゑの顏があらはれた。今まで温かに眠つてゐたらしい澁いやうなちらちらする目をまたたかせながら一二秒ばかり私を見詰めるやうにして、いきなり微笑つて、 「まあ、お前さんなの。よく處がわかつたわね。彼處の家で聞いていらしつたの。」  と、快活に、むしろ私がたづねて行つたのを面白さうに言つた。 「いつかの女ね。あれに聞いたんだ。前を通りかかつたので、ちよいと訪ねて見たのさ。」と言ふと、 「道理でね。誰かが呼んでゐるやうな氣がしてしやうがなかつたの。──いま、ひるねをしてゐたのよ。」  と言つて、「まあ、おあがりよ……でも、何時かしら。」と、階下の室の時計を覗いて見て、 「二時だから……かうつと……いいわ。しばらく遊んでいらつしやい。」  すこし眉をしかめるやうにしたが、すぐ持前の明るい氣質にかへつていつた。しかし私は、もし亭主でも歸つて來たりすると、却つて變に思はれたりもする不安があつたので、 「誰もゐないのか。でも、一人ぢやないんだらう。」と言ふと、わけもなく、 「五時にならなければ歸らないんだからいいわ。だからお茶でも喫んで行つたらどう。」  と言つてくれたので、私はおすゑのあとについて段梯子をあがつた。室は六疊一間きりで、安物の長火鉢が一つあるきりで不斷着らしい男の着物がそこらに脱ぎすててあつたりした。 「ずゐぶん汚なくしてゐるでせう。これよりどうにも仕樣がないの。」と言つて茶道具をがちやがちやさせた。 「でも自分で世帶を持つた氣もちは又別だらうね。」  私はすぐ窓のところにある粗末な、しかし新しい鏡臺を見つめた。 「そりや、もう氣樂なものさ。かうして居れば、みんな自分の手にかけたものばかりなんですからね。それに今日はお前さんの運がわるいんだわ。いつもだつたら、きちんと室も片づいてゐるんだし、お茶菓子もあるんだけれど。」  濃い茶をいれて私の前においた。あたたかな白い芳ぐはしい匂ひをつつんだ湯氣が、茶碗を手にとるとき、ぽうと顏をあたためた。障子にも一杯の日があたつてゐた。いくらか痩せ込んだおすゑの長い顏がほつそりして、どこか煤ばんだやうなところがあつた。それが却つてあの巣窟にゐて厚いおしろいをした時よりも、ずつと世帶じみた親しさをもつてゐた。 「さうかね。ごちそうしてもらつても宜いんだつたね。」  私は答へながら、かうして洗ひ晒したやうなおすゑの顏を見てゐると、額のところに皺がうすく綟れ込んでゐるのまで見えた。それが何時になく私をしみじみさせた。私は、 「主人はどこへ勤めてゐるの。いつかの人かい。」と微笑ひながら言ふと、 「王子の製紙會社へ行つてゐるのさ。やつぱり元の縁で一しよになつたんだが、このごろはよく稼いでくれますよ。」 「そりや、いいな。一度生活をともにすると離れられないんだね。」  私は言ひながら、いつか巣窟の入口で、ちらと一度見たことがある日に燒けた、どこか荒々しい容貌を目にうかべた。それが今日は荒荒しいなかにも思ひ遣りのあるやうな顏になつて考へられた。よく頑固な勞働者のすさんだ表情のなかに寂然とした優しさが澄んでゐるのを見たときのやうに、私もおすゑの亭主がそんなものを有つてゐるやうに思はれた。 「でね。わたしはもう之れで精精稼いで子供でもほしいと思ふんだよ。いつまでも喧嘩ばかりしてゐたつてし樣がないから、折れるときは此方でも折れてやつてさ。そして圓く暮したいと思ふのよ。それにずゐぶん苦勞もした人だからね。」  と言つて、あのころより落ち着いて、かう心からしみ出るやうに言つた。それが殆んどひとりでに辷り出た美しい言葉のやうであつた。 「ほんとに其の方がいいな。おすゑさんもずゐぶん年をとつたものだね。しかし僕の方はどうなるだらう。」と言つて私は微笑つた。 「さう、お前さんにも困つたものだね。いいかげんに彼麼ところへ遊びに行くのは止した方がいいわ。しまひには碌なことがないからさ。いつかの寫眞屋をはじめたらどう。」  と眞面目に言つて「お前さんぢやなかつたけね。寫眞屋さんを習ふんだと言つてゐらしつたのは──。」と、いつか私にもすすめたことを思ひ出して言つた。 「さあ。そのうちに何か仕事をしなくつてはならないんだ。お前はさうしてもうお内儀さんで澄してゐるしな。もう僕の方がどうにか片をつけなくてはね。」 「さうさ。いつまでもお前さんのやうにのらくらしたつてし樣がないわ。せつかく、何んでも好きなことを初めたがいいわ。そのうち、きつといいことがあるわ。あるやうになるわ。」  とおすゑは言つて、また茶をついで「何か買つて來ようか。」とも言つたが、私はそれを斷つて、 「さあ歸らう。これでまあ一生會へないかも知れないな。もう來ないよ。僕は……」  私はたちあがりながら言つた。 「そんなことは言つこなしよ。けれども最う會へないかも知れないわね。」  とおすゑも何氣なく言つて、ふいと、私の目を見た。私も見た。おすゑは 「東京はひろくて狹いんだから、また會へるときには會へるよ。」  と段梯子を下りながら言つた。 「さうかも知れんな。ともかくも仲よく暮らすんだね。」  と私はくしやくしやなおすゑの髮を見下ろしながら、こころよい感じをもつて言ふと、 「お前さんも本當にしつかりしなさいよ。そしてお嫁さんをもらつた方がいいわ。」  とすこし微笑をふくんだ聲で言つた。段梯子を下りて、私はすぐに下駄をひつかけてゐて、 「ぢや、さよなら。」  と言ふと、 「何處へも寄り道しないで歸つたはうがいいわ。」  と、格子戸につかまりながら言つた。 「あ。さよなら。」  と出かけようとすると「ちよいとお待ち。着物の裾が合つてゐないわ。」と言つて、手捌きよく裾をきちんと合して、心もち輕く叩いて、 「これでいいわ。さよなら。」  と、おすゑは、すぐ格子のそとまで出てきて言つた。  私は線路道をつたひながら、春になりかかつた温かい日光をあびて歩き出した。すこし行つて振りかへつて見ると、やはり格子戸の前に身すぼらしく何處か埃つぽい姿でおすゑが立つて、此方を眺めてゐた。いつ見ても親切で味のある女だが、どこか底が拔けてゐるやうに妙に忘れつぽいとこのある女だと思ひながら、こちらからも見える蒼白い細ながい顏を見かへつた。 「さよなら。」  と向うでも小聲で口のなかででも言つてゐるらしいのが聞えるやうな氣がしたので、私もそれを繰り返すやうにして微笑した。その微笑がすぐおすゑにもつたはつて現はれた。沁み出るやうな落ちついた微笑であつた。 底本:「蒼白き巣窟」冬樹社    1977(昭和52)年5月15日発行 底本の親本:「室生犀星全集第二巻」新潮社    1965(昭和40)年4月15日 初出:「雄辯 第十一巻第三号」講談社    1920(大正9)年3月号 ※初出誌目次には、「本文刷了後、其筋の注意により此の一篇を削除す」とあります。 入力:磯貝まこと 校正:Juki 2013年6月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。