小ねこはなにを知ったか 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 小ねこはなにを知ったか  親たちは、生き物を飼うのは、責任があるから、なるだけ、犬やねこを飼うのは、避けたいと思っていました。けれど、子供たちは、日ごろから、犬でも、ねこでも、なにかひとつ飼ってくださいといっていました。  ちょうど、そのころ、近所でかわいらしいねこの子が産まれたので、それを見てきた男の子は、これを姉さんや、小さい兄さんに話したので、三人は熱心に、お母さんのところへいって、ねこの子をもらってきてもいいでしょうと頼んだのであります。  お母さんは、下を向いて、仕事をしながら、どう答えていいものかと、しばらく考えていられましたが、 「お父さんがいいとおっしゃったら、飼ってもいいが、おまえさんたちに、その世話ができますか。なかなか手のかかるものですよ。」と答えられました。  これを聞くと、子供たちは、もしや、お母さんに、頭から、いけないといわれればそれまでだと思っていたのが、こうやさしくいわれると、半分は、もはや、自分たちの願いがかなったように思われて、三人の顔は、にこにことして輝きました。 「ねこの世話なんか、できますとも。だって、あんなにかわいらしいんだもの。」と、いちばん末の男の子は、叫びました。 「お父さんに、お願いして、いいといったら、飼ってくださいね。」と、兄のほうが、いいました。 「おお、うれしい。」と、姉も、いっしょになって、喜びました。  三人の姉弟は、お父さんの帰りを待っていました。そして、どうしても頼んで、それを許してもらわなければならないときめていました。 「三人で、その世話ができるなら、飼ってもいいが、おまえたちにできるかね。」と、お父さんは、笑っていわれました。 「できます。」と、姉弟は、答えて、とうとうかわいらしいねこの子を、近所からもらってきました。  小ねこは、同じ母親の腹から、いっしょに生まれた兄弟と別れて、この家にきて、こうして、長く養われることとなったのでありました。しかし、小ねこにとっては、それが、兄弟と永久の別れであったことはわかりませんでした。三人の姉弟は珍しがって、小ねこを下に置きません。小ねこもまた、みんなから別れてきたという悲しみを忘れて、はね上がったり、飛びついたりして、お嬢さんや、坊ちゃんたちと遊んだのであります。  三人は、自分たちが食べる前に、小ねこにご飯を造ってやりました。こんなふうに、小ねこがこの家へきてから、にわかに、家内じゅうが陽気になって、はや幾日か過ぎたのであります。そのうちに、小ねこは、いつまでも子供でなかった。そして、もはや、いままでのように、はねたり、飛び上がったりして遊ばなくなりました。  ちょうど、この時分から、三人は、ねこのめんどうを見てやることが、だんだんうるさくなったのでした。 「姉さん、ねこにご飯をおやりよ。」と、弟がいいますと、 「あら、ずるいわ。こんどは、私の番ではないわ。おまえの番じゃないの?」と、姉さんはいいました。  ねこは、また、ねこで、だんだん横着になってきました。鰹節をたくさんかけなければ、ただ香いを嗅いだばかりで食べようともいたしません。そうでなければ、鰹節のところばかり拾って、白いご飯のところは、残してしまいます。 「お母さん、うちのねこは、ご飯を食べませんよ。」と、子供たちはいいました。  すると、お母さんは、仕事をしながら、 「しんせつにしてやらないからですよ。鰹節をたくさんかけてやれば、お腹がすいているのなら、食べないことはありません。」といわれました。  みんなは、そうかと思いました。それで、こんどは、鰹節をたくさん削って、かけてやりました。ねこは、鰹節のかかっているところだけ食べて、やはり、みんなは食べませんでした。 「お母さん、ねこは、鰹節をたくさんかけてやっても、ご飯を食べませんよ。」と、子供たちはいいました。すると、お母さんは、 「ご飯のいれ物が汚いからでしょう。よく洗ってやらなければ、ねこだって食べませんよ。」といわれました。  三人は、そうかと思いました。それで、こんどは、よくいれ物を洗って、ご飯をおいしく造ってやりました。けれど、ねこは、やはり、ご飯を食べませんでした。  そのうちに、ねこは、生魚より食べないことが、みんなにわかったのでした。三人の子供たちは、自分たちが、父母にねこの世話をすることを誓って、ねこを飼ったことを覚えているから、できるだけの世話をしたのでした。そして、ねこがご飯を食べないのは、まったく自分たちのせいでなく、ねこがぜいたくだからだということがわかりますと、三人の子供たちは、ねこを憎らしく思ったことに、無理もなかったのでした。 「わたしは、もう、あんなねこに、ご飯なんかやらないわ。」と、姉さんがいいました。 「僕だって、いやだ。」と、弟がいいました。  すると、末の弟が、二人の言葉に憤慨をして、 「だれもご飯をやらなければ、死んじまうじゃないか? そんなら、僕がやるよ。」といいました。  こうして、ねこは、みんなから、きらわれるようになったのでした。  そればかりでありません。ねこは、いくらしかられても、ふすまで爪を磨いだり、障子を破ったりすることをやめなかったのでした。そして、ときどきは、血だらけになったねずみをくわえて家へ上がってきたのです。三人の子供たちは、いまようやく、お母さんや、お父さんが、生き物を飼うことは、骨のおれるものだといわれたことがわかったのです。 「ねこをどこかへやってしまおう。」 「だれか、もらってくれないだろうかね。」 「こんなに大きくなって、もらうものがあるものか」 「捨てればいいや。」  三人の子供たちは、こんな話をしていました。小ねこが、この家へもらわれてきた日のことを考えると、三人の話はたいへんな相違だったのであります。  こんな冗談が、とうとうほんとうになって、ねこは、ある日、酒屋の小僧の自転車に乗せられて、家からだいぶ離れた、さびしい寺の境内へ捨てられました。  いままで、生魚でなければ食べなかった、ぜいたくなねこは、ふいに、人家もない寂しい場所へ、ただ独り置かれたので、驚いてしまいました。しばらく、あたりを見まわしていましたが、そこはどこであるか、かつて見たことのないところで、見当がつきませんでした。ねこは、急に、悲しくなったのです。そしてなにとは知らず、体がぶるぶると震えてきました。  夜の空を渡る風が、林に当たって、怖ろしい音をたてていました。人間の姿も見えなければ、なつかしい家の燈火ももれてきませんでした。ねこは、心細くなって、悲しい声をあげて泣きながら歩きました。  どこへいっても、暗い林がとり巻いている。そして、自分の泣く声は、空しく、しんとした夜の世界へ吸い取られてしまいました。いつしか、その声もかれてしまった。だんだん腹は空いてきた。ねこは、かつて、こんな悲しいめ、苦しいめに出あったことはなかった。いままでは、空腹ということを知らず、お嬢さんや、坊ちゃんたちにかわいがられていたことを考えると、それは、どんなに幸福なことであったろうか。  ようやくのことで、ねこは、狭い道の上へ出ました。その道は、どこから、どこへつづいているのかわからなかった。ねこは、しばらくそばの垣根の下にすくんで、なにか、聞きなれた物音でも耳にはいらないかと考え込んでいました。  ちょうど、このとき、目の前を白い犬が、うつむきながら通りかかった。ねこは、それを見ると、はっとして驚いた。しかし、瞬間に、その犬は、よく自分の家の勝手もとへきて、自分におどかされて逃げていった犬だということを知りましたから、ねこは、つい声をかけてみる気になったのでした。 「もし、もし。私ですよ。どういったら、家へ帰れるか教えてくださいませんか。」と、ねこはいいました。  白い犬は、振り向いて、近寄ってきました。 「あなたでしたか……。どうして、こんなところへきたのです……。」 「私は、捨てられたのです。」と、ねこは、正直に答えました。  すると、犬は、軽いため息をつきました。 「やはり、あなたにも、そういう運命がめぐってきたんですか。あなたは、いばっていましたね。私が、お腹が減って、なにか、あなたの食べ残しにでもありつこうと思って、勝手もとへ顔を出すと、あなたは、飛びつきそうな、怖ろしい剣幕をして、威されたことを忘れはなさらないでしょうね。」と、犬は、ねこに向かって、いいました。  ねこは、こういわれると、さすがに気恥ずかしかった。 「ほんとうに、私が、悪かったのです。いま自分が、こうした境遇になって、空腹を感じていますと、よく、あのときのあなたに同情ができるのです。もし、もう一度、私が、家へ帰ることができたなら、この後、あなたに対して、あのような冷酷なことは、けっしていたしません……。」といった。  白い犬は、黙っていました。 「あなたは、いつから、家がないのですか?」と、ねこは、たずねました。 「私は、家を失してから、もう三年になります。私の主人たちは、私を捨ててどこへか移ってゆきました。私は、その当座どんなにか、泣きましたか。いまは、こうした宿無しの生活に慣れてしまったが……。しかし、あなたは、捨てられたのですから、たとえ帰っても、家へは、いれてくれますまい。」と、犬は答えました。  ねこは、頼りなさと、悲しさと、空腹の苦痛に、ふたたび体を震わしたのです。 「いれられなくてもいいから、どうか、もう一度、私を、家の方へつれていってください。そして万に一つ、私が、家に飼われたら、きっと、そのときは、あなたに、ご恩を返しますから……。」と、頼んだのでした。  ちょうど、このとき、三人の子供たちは、家で話をしていました。 「ねこは、いまごろどうしたろうね。」 「きっと家へ帰れなくて、うろうろしているだろう。かわいそうだな。」 「そんなら、捨てなければいいに……。」と、最後に、姉さんはいいました。 「僕が捨てるといったのでない。姉さんが、あんなねこ、捨ててしまえといったのでないか?」と、上の弟は、怒りました。  こんなことで、三人の子供たちがいい争っていると、そばで、これを聞いていた、お母さんは、 「もし、今晩にでも、ねこが帰ってきたら、三人は、かわいそうだから、よくめんどうをみてやるんですよ。」といわれました。 「こんど帰ってきたら、お母さん、僕一人でみてやる。」と、末の弟が、答えました。 「それは、もう捨てられはしないわ。」 「ほんとうに、かわいがってやろうね。」  三人は、そういって、昨日とは変わって、どうかして、ねこが帰ってきてくれればいいと心に願ったのでした。  その夜は、ついに、ねこは帰ってきませんでした。そして、二日めの晩に、勝手もとで、ねこの泣く声がしたのであります。 「あっ! ねこが帰ってきた!」といって、三人は、飛び出しました。  子供たちは、争うようにして、ねこを抱き上げたのでした。 「よく、おまえは帰ってきたな。」 「感心だわね」  末の弟はねこの体にほおずりしました。 「腹が空いているだろう……。」  ねこは、しきりに、泣いて、空腹を訴えていましたから、上の弟は、鰹節を削ってご飯をやりました。ねこは、飛びつくように、喜んで咽喉を鳴らして食べました。 「お母さん、ねこは、鰹節のご飯を喜んで食べますよ。」と、子供たちは、告げました。  すると、お母さんは、 「これから、生魚をあまりやらないようにして、なんでも食べる癖をつけなければいけません。あまりわがままにすると、ねこだって、いけなくなってしまいます。」と、いわれたのです。  それから、四、五日すると、白い犬が、勝手もとへ顔を出しました。以前だったら、ねこは、背を丸くして怒りますのですが、そのときは、やさしい声で泣いていました。白い犬は、最初、遠慮するように見えましたが、ねこの茶わんへ進み寄って、余りのご飯をきれいに食べてしまいました。そして、いってしまったのです。  この後、幾たびとなく、白い犬はやってきました。そして、ねこのご飯を食べていくのを例としました。  一度捨てられて、苦しみを経験したねこは、そのときの怖ろしさと、頼りなさと、空腹のつらさと、悲しさとをいつまでも忘れることができなかった。そして、それを思うたびに、白い犬と約束したことを果たそうとしたのでした。  一日、白い犬がきて、ねこのご飯を食べていました。それを子供たちは見つけました。白い犬は、すぐに物蔭に隠れてしまったが、子供たちは、ねこを捕らえて、 「おまえはばかだね。自分のご飯を食べられて、じっと見ている奴があるかい。」 といって、ねこの頭をポン、ポン、と打ちました。  これを知った、白い犬は、ねこを気の毒に思いました。  それから、白い犬は、この家の勝手もとへ影を見せなかったのであります。 ──一九二七・一〇作── 底本:「定本小川未明童話全集 5」講談社    1977(昭和52)年3月10日第1刷 初出:「少女倶楽部」    1928(昭和3)年1月 ※表題は底本では、「小ねこはなにを知ったか」となっています。 ※初出時の表題は「小猫は何を知つたか」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:江村秀之 2014年2月14日作成 2014年5月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。