性に眼覚める頃 室生犀星 Guide 扉 本文 目 次 性に眼覚める頃 大正八年十月 私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。 大正八年十月  私は七十に近い父と一しょに、寂しい寺領の奥の院で自由に暮した。そのとき、もう私は十七になっていた。  父は茶が好きであった。奥庭を覆うている欅の新しい若葉の影が、湿った苔の上に揺れるのを眺めながら、私はよく父と小さい茶の炉を囲んだものであった。夏の暑い日中でも私は茶の炉に父と一緒に坐っていると、茶釜の澄んだ奥深い謹しみ深い鳴りようを、かえって涼しく爽やかに感じるのであった。  父はなれた手つきで茶筅を執ると、南蛮渡りだという重いうつわものの中を、静かにしかも細緻な顫いをもって、かなり力強く、巧みに掻き立てるのであった。みるみるうちに濃い緑の液体は、真砂子のような最微な純白な泡沫となって、しかも軽いところのない適度の重さを湛えて、芳醇な高い気品をこめた香気を私どものあたまに沁み込ませるのであった。  私はそのころ、習慣になったせいもあったが、その濃い重い液体を静かに愛服するというまでではなかったが、妙ににがみに甘さの交わったこの飲料が好きであった。じっと舌のうえに置くようにして味うと、父がいつも言うように、何となく落ちついたものが精神に加わってゆくようになって、心がいつも鎮まるのであった。 「お前はなかなかお茶の飲みかたが上手くなったが、いつの間に覚えたのか……」などと、父は言ったりした。 「いつの間にか覚えてしまったんです。いつもあなたが服んでいるのを見ると、ひとりでに解ってくるじゃありませんか。」 「それもそうじゃ。何んでも覚えて置く方がいい。」  そういうとき、父はいろいろな古い茶碗を取り出して見せてくれた。初代近い釜らしいという古九谷の青や、まるで腐蝕されたような黒漆な石器や、黄と緑との強い支那のものなど、みな幾十年来の数繁き茶席の清い垢と光沢とによって磨かれたのが多かった。そういうものは私にはわからなかったが、父の愛陶の心持がいつの間にか私をして、やはり解らぬままに陶器を好くようにさせていたことは実際であった。  父は、そのなかから薄い卵黄色の女もちにふさわしい一つの古い茶碗をとり出して、 「これはお前ののにするといい。」と、私の手にわたした。  私はそれを茶棚の隅に置いて、自分のもちものにすることが嬉しかった。  父は童顔仙躯とでもいうように、眉まで白く長かった。いつも静かな看経のひまひまには、茶を立てたり、手習いをしたり、暦を繰ったり仏具を磨いたりして、まめまめしい日を送っていた。若いころに妻をうしなってから、一人の下男と音のない寂しい日をくらしていた。茶を立てる日になると、井戸水はきめが荒くていけないというので、朝など、 「お前御苦労だがゴミのないのを一杯汲んで来ておくれ。」  私がうるさく思いはせぬかと気をかねるようにして、いつも裏の犀川の水を汲みにやらせた。東京では隅田川ほどあるこの犀川は、瀬に砥がれたきめのこまかな柔らかい質に富んでいて、茶の日には必要欠くことのできないものであった。私はそんなとき、手桶をもって、すぐ磧へ出てゆくのであった。庭から瀬へ出られる石段があって、そこから川へ出られた。  この犀川の上流は、大日山という白山の峯つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった。上流の山山の峯うしろに、どっしりと聳えている飛騨の連峯を靄の中に眺めながら、新しい手桶の水を幾度となく汲み換えたりした。汲んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れているのを見ると、いま汲んだ分よりも最っと鮮かな綺麗な水が流れているように思って、私は神経質にいくたびも汲みかえたりした。  この朝ごとの時刻には向河岸では、酒屋の小者の水汲みが初まっていた。小者はみな裸体になってあふれるほど汲んだ二つの手桶を天びんにかついで、街の方へ行った。静かな朝など、桶からはみ出た水が光って、まるで白刃のように新しい朝日に輝いていた。私の故郷にはこの川の水から造られた「菊水」という美しい味をたたえた上品なうまい酒がとれた。  この磧からは私の住む寺院がよく見えた。二本の高い栂の樹をその左右にして、本堂を覆うた欅や楓の大樹のひろがった、枝は川の方へ殆んど水面とすれすれに深く茂り込んでいた。そこは、用水から余った瀬尻が深く水底を穿ってどんよりと蒼蒼しい淵をつくっていた。鮎や石斑魚などを釣る人が、そこの蛇籠に跼んで、黙って終日釣り暮すのを見受けることがあった。  父は私の汲んで来た一番水を毎時もよく洗われた真鍮の壺に納めて、本堂へ供えた。それを日の入りには川へ流すのが例になっていた。あとの水は、茶の釜にうつした。午前九時ごろになると、釜は、父の居間で静かに鳴りはじまって、ことに冬など、襖越しにそれが遠い松風のように、文字通り時雨の過ぎ去ってゆくような音を立てた。  そういうとき、父は一つの置物のように端然と坐って、湯加減を考えるように小首をかたげていた。夏は純白な麻の着物をまとうて、鶴のように痩せた手を膝の上にしている姿は、寂しさ過ぎて厳めしく見えた。時時、仲間の坊さん連のやってくる外は、たいがい茶室で黙ってくらすことが多かった。  私は私で学校をやめてから、いつも奥の院で自分のすきな書物を対手にくらしていた。学校は落第ばかり続いていたので、やさしい父は家にいて勉強したって同じだと言ってくれたのを幸いにして、まるで若隠居のように、終日室にこもっていた。  そのころ私は詩の雑誌である「新声」をとっていて、はじめて詩を投書すると、すぐに採られた。K・K氏の選であった。私はよく発行の遅れるこの雑誌を毎日片町の本屋へ見に行った。この「新声」の詩壇に詩が載ることは、ことに私のように地方にいるものにとっては困難なことであったし、実力以外では殆んど不可能なことであった。そのかわりそこに掲載されれば、疑いもなく一個の詩人としての存在が、わけても地方にあっては確実に獲得できるのであった。私は、本屋までの途中、載るか載らないかという疑惑に胸さわぎして、ひとりで、蒼くなったり赤くなったりした。 「『新声』ですか。まだ来ていませんよ。来たらおとどけいたします。」  などと、本屋の小僧は、まるで私の詩が没書にでもなったような冷たい顔をして言った。私はそのたびに、 「あ。そう。」と、きまり悪くそそくさと帰った。  そんな日は私は陰気に失望させられていたが、その夜が明けると、もう朝のうちに本屋へ行って「新声」が来ているかどうかということを確めないと、落ちついて室にもいることができなかった。私は本屋の店さきに立って、新刊雑誌を一と通りずっと見渡して、まだ着いてないことが判っても、もしも荷がついてまだ解かないのではなかろうか(そんなこともあったのだ。)などと思って、一度問い訊して見なければ気がすまなかった。 「君。『新声』はまだ来ないかね。」と言って私は赤くなった。 「今お宅へとどけようと思っていたところです。お持ちになりますか。」 「あ。持って行く──。」  私は、雑誌をうけとると、すぐ胸がどきどきしだした。本屋から旅館の角をまがって、裏町へ出ると、私はいきなり目次をひろげて見た。いろいろな有名な詩人小説家の名前が一度にあたまへひびいてきて、たださえ慌てている私であるのに、殆んど没書という運命を予期していた私の詩が、それらの有名な詩人連に挟まれて、規律正しい真面目な四角な活字が、しっかりと自分の名前を刷り込んであるのを見たとき、私はかっとなった。血がみな頭へ上ったように、耳がやたらに熱くなるのであった。  私はペエジを繰る手先が震えて、何度も同じペエジばかり繰っていた。肝心の自分の詩のペエジを繰ることのできないほど慌てていた。やっと自分の詩のペエジに行きつくと、私はそこにこれまで見なかった立派な世界に、いまここにいる私よりも別人のような偉さを見せて、しかも徹頭徹尾まるで鎧でも着て坐っているように、私は私の姿を見た。東京の雑誌でなければ見られない四六二倍の大判の、しかもその中に自分の詩が出ているという事実は、まるで夢のように奇蹟的であった。私は七月の太陽が白い街上に照りかえしているのに眼を射られながら、どこからどう歩いてどの町へ出たか、誰に会ったか覚えていなかった。私はまるで夢のように歩いて、いつの間にか寺の門の前に来ていた。  私は室へ這入ると雑誌を机の上に置いて、あまりの嬉しさにしばらく茫然としていた。何を見るともない眼で、微笑をうかべたまま障子のそとの磧を見ていた。磧から大橋が見えた。通行人がたえず歩いて行った。私はそのとき初めて大橋をいま渡って来たことを、たしかに下駄の踏み工合で地面とは異っていたことを思い出した。けれどもやはりどの道を歩いたか覚えなかった。  私は雑誌を机の上に置いたり読んだりしているうちに、これは是非父に言っておかなければならないと思いながらも、何だか非常に恥かしくも感じたが、しかし言いたくてしかたがなかった。私は父の室へ雑誌をもって這入って行った。 「東京の雑誌に私の書いたものが載ったんです。この雑誌です。」  と私は「新声」をとり出した。 「そうか。それはいい塩梅だった。一生懸命にやれば何んだってやれるよ。お見せなさい。」  父は私の詩をよんでみたが、解りそうもないらしい顔をした。いくたびも読みかえして、 「むかしの漢詩みたいなものだ。それとは違うかな。」 「まあ同じいものです。」  私は苦笑した。  私は自分の室へかえると、自分の詩が自分の尊敬する雑誌に載ったという事実を今ははっきりと意識することができた。そして、あの雑誌を読む人人はみな私のものに注意しているに違いないと思った。この故郷の人も近隣の若い娘らまできっと私の詩をよむに違いない。私は全世界の眩しい注目と讃美の的になっているような、晴晴しい押え難い昂奮のために、庭へ出て大声をあげたいようにさえ思った。私の詩のよしあしを正しく批判するに値する人は、決してこの故郷にはいないように思われた。私は私の故郷に於いて最も勝れた詩人であることを初めて信じていいと思った。  私はその翌日から非常に愉快に生活することができた。私は毎日詩作をした。机にかじりつきながら、どうかして偉くならなければならないという要求のために、毎日、胸さわぎと故もない震えようを心に感じながら、庭の一点をみつめたままで暮すようなことがあった。それから選者のK・K氏に長い手紙をかいて、自分は決して今の小ささでいたくないことや、これからも殆んど自分の全生涯をあげても詩をかきたいことなどを伝えた。K・K氏は強烈な日夜の飲酒のために、その若い時代をソシアリストとして、しかも社会主義詩集まで出した人であった。返事が来た。 「君のような詩人は稀れだ。私は君に期待するから詩作を怠るな。」とあった。それから、ハガキで朴訥な、にじりつけたような墨筆で「北国の荒い海浜にそだった詩人に熱情あれ。」というような、何処か酒場にでもいて書いたもののようなハガキも来た。  私はその選者の熱情に深い尊敬をもっていた。そのころ詩壇では新しい口語詩の運動が起りかけていたが、流行を趁うことなき生一本なK・K氏の熱情にたいしては、その芸術よりも私は深く敬愛していたのである。 いろ青き魚はなにを悲しみ ひねもすそらを仰ぐや。 そらは水の上にかがやき亘りて 魚ののぞみとどかず。 あはれ、そらとみづとは遠くへだたり 魚はかたみに空をうかがふ。 (明治三十七年七月処女作)  そのころ私と同じく詩をかいている表悼影という友人がいた。この友は、街のまん中の西町という処に住んでいた。私に交際したいという手紙をよこしてから三日目に、この見ず知らずの友は、私の寺をたずねにやって来た。  表は大柄なのに似合わない可愛い円い頬をして、あまり饒舌らない黙った人であった。かれは私と同じ十七であった。私たちはすぐに仲よしになった。  私もすぐにこの新しい友を訪ねた。姉さんと母親との三人ぐらしで、友の室は二階の柿の若葉した瑞瑞しい窓際に机が据えられてあった。「新声」や「文庫」という雑誌が机の上に重ねてあった。 「君の『新声』の詩を読んで感心しました。たいへんうまいと思いましたよ。」  と言って、自分の短歌を見せた。「麦の穂は衣へだてておん肌を刺すまで伸びぬいざや別れむ」「日は紅しひとにはひとの悲しみの厳かなるに泪は落つれ」の二首は私を驚かしたものであった。このような立派な美しく巧みな歌をよむ友が、私以外にもこの故郷にいたことを喜んだ。それと同時に「おん肌を刺すまで伸びぬ」はたいへんうまいと思った。表の作品はすべて情操のしっとりとした重み温かみを内にひそませているものが多かった。ことに「君」という相対的な名詞が私の注意を惹いたのみならず、きっと「君」というからには、ラバアがあるにちがいないと思った。  表はたえず手紙をかいて女のところに出していた。そして幾人の女からも手紙をもらった。それをよく私に見せた。 「どうして君はそんなに女の人と近づく機会があるんだ。」  私は寂しい思いをさせられながら訊ねると、 「女なんかすぐに友達になれるよ。君にも紹介してやるよ。」と、わけもなく言った。 「僕にも一人こさえてくれたまえ。」  などと私は思わず言うと、かれは「もうしばらく待ちたまえ。」などと言った。  ある日、表と私とは劇場へ行った。私どもは二階にいた。表はそわそわと階下へ降りたり上ったりしていたが、 「あの女はちょいときれいだろう。今手紙を送ったんだ。あす返事が来るよ。」  などと、頤で掬って、桝を指した。そこには女学校に通うているらしい十七、八の桃割の、白い襟首と肥えた白い頬とが側面から見えた。すぐよこにお母さんらしい人が坐っていて、前の方には、この城下町の昔から慣例のようになっている物見遊山に用いられる重詰の御馳走がひらかれてあった。 「どうして手紙を渡せるんだ。あそこへ君は持って行ったんじゃなかろうが。」 「なあに君、たいがいの女は手紙をうけ取ってくれるもんだよ。」 「だってあの女の人が、お母さんに言いつけたら君はどうするんだ。」 「言うもんかね。大丈夫言いはしないよ。そんな頓馬なことを言ったらあべこべにお母さんに叱られるばかりだよ。ほらこっちを向いたろう。手紙を読みたくてしようがないんだよ。」  実際、色白な娘が、そしらぬふりをしながら、此方をときどき盗み見た。私ははっとしたが、表は落ちついていた。どちらかといえば不思議なような、それでいて馴れやすい目をもった女は、私よりもやはり絶えず表に注意をしながら二階の方を素知らぬふりで幾度も見た。 「このつぎの幕間に僕はあの女を呼んで見せるよ。僕の近所の女なんだよ。向うだって知っているに決っている。」 「だって呼ぶってどうするんだ。向うにお母さんがついているじゃないか。」 「まあ見ていたまえ。」  表は落ちついて、次の幕のハネるのを待つように言ったので、私はその娘の桃割と派手なつくりのお太鼓とを見つめていた。そのおとなしそうで内気な女が、いま私の傍にいる友の手紙をうけ取ったということさえ殆んど奇蹟的であるのに、表が彼女を呼んで見せるということが、これまた信じることの出来ない不審なことであった。表は女性にたいしては無雑作であるようでいつも深い計画の底まで見貫く力をもっていることは実際であった。かれは決してきむすめ以外には手出しをしなかったし、生娘なればたいがい大丈夫だとも言っていた。 「駄目な時には初めっから駄目なんだ。向うが少しでもいやな顔をしたり、手を握らせなかったりしたら、どんなに焦っても駄目さ。そんな奴はやめてしまうさ。それになるべく美人の方がやりいいね。」 「なおむつかしいじゃないか。」  私は問い返した。 「きれいな女は二、三度引っかかっていなけりゃ、子供の時分から人に可愛がられているから馴れていてやりよいのさ。」  表は真面目な顔をした。 「そんなもんかなあ──僕はその反対だと思っていたんだ。」  私は表の言葉の中に、本当のところがあるような気がした。 「だから美人はたいがい堕落する──僕の経験から言っても、わるい女はきっと刎ねつけるようだね。」  私だちがひそひそ話しているうちに、幕が引かれた。表は騒がしい埃の立った桝の方をじっと凝視していたが、急に立って廊下の方へ行った。そして女の桝からやや隔れた桟敷の囲いのそとに永く立っていた。私は胸に鼓動をかんじながら見ていると、女はお母さんと何か話をしいしい表の方へ目をやっていた。表は右の手を自分の膝のところで、妙に物を掬うような恰好をして、一種の秘密な手招きをやっていた。女は私の目にも判るほどおろおろした、落ちつかない様子で、ぼんやり引幕をながめたり、また急に表の方を気にしたりしていた。それらの態度の狼狽えた内気な、それでいて怖れに充ちているのが、私には限りなく優しいものに見えた。表は表で、他の見物にそれと分りかねるような、狐憑きのような手招きを執拗につづけていた。そのうち女はもうどうにもならない様な中腰になってまで、しばらく躊躇うていたが、ふと立って廊下の方へ出て行った。なりの高い頸の細い女であった。そのとき表もすぐ娘の出て行った廊下へうろたえて行った。  私は娘が立った瞬間から、頭にかっと血が上ったように、呼吸さえ窒るような昂奮を感じた。そして、すぐ表のそばへ行って見たいような気がした。何だかあの娘が可愛相な気がしたりして、もう坐っていることができなかった。私は立って階下へゆこうとしたが行ってはいけないようにも思われるし、行かなければならないようにも思われ、自分でないほどふらふらと目まいまでが仕出した。  そこへ表がかえって来た。れいの優しい目つきで、しかも何処か昂奮したらしい少し震いを帯びた声で、 「もう仲善しになってしまったんだ。見ていたのかい。」 「うん。すこしばかり──話しをしたの。」 「明日ね。さっきの返事をよこすって言っていた。」  私は黙り込んでいた。表も私を前に置いてああまでしなければよかったというような顔をして、気まずく黙っていた。そして、 「君にも紹介するよ。」と、気休めらしく言ったが、私はわざと黙って、席についた桃割をじっと見ていた。女がいますこし前に表と話したりしたという事実が、ああも手早く簡単に行われたということが、殆んど有り得べからざるもののように思えた。烈しい嫉妬をかんじながらも、あまりの不審さと余りに奇蹟的なのに私は呆れ返っていた。  女はつぎの幕間には、ときどき表の方を向いてはそれとなく微笑して見せたりした。表はそんなとき思いきった大胆な微笑を送った。それがいかにも開け放しで、つき込んだ微笑であった。私は心の中で益益ひどい寂しさをかんじた。私より表は柔らかい輪郭と優しい目とをもっていることなども、いつも思うことながら私の気を益益鬱ぎ込ませた。  私達は芝居を見るとすぐに別れた。  表の眼だけを見ていると、そのいつも近眼鏡の下に温和しく瞬いていて子供のように円円してそこに狡猾さも毒毒しさもなかった。わけて縁日や劇場でああまで大胆に女に接近するさまは、不審すぎるほど不審で、いつも一歩も仮借しなかった。  あるとき、劇場などで、わざわざ娘らしい女の坐った足に躓いて見せて、 「どうも失礼しました。」と、白白しく、しかも丁寧に詫びると、かえって対手が赤くなって、 「いいえ。」と、はにかむと、彼はいつもその隣席へ割り込むのであった。  幾時間も一しょに坐っているうちに、彼は実にたくみに話しかけては対手の心をだんだんに柔らげると、いつの間にか手を握るところまで、図図しく衝き込んでゆくのが癖であった。傍によその人が注視していても、それにはまるで気に懸けないで、殆んど無智なほど大胆で巧妙であった。  彼は、いつも眼鏡のそとから、じろりと秋波めいたものを送るとき(彼は私と対談しているときも厭な横目をした。)何かしら厭らしい淫猥な、陰険な気持を含んでいた。しかも彼が私と同じい年頃であるに拘わらず、その長い髪を真中から分けているところや、気のきいた帽子をかむっていた点は、私の学生じみた恰好よりも、ずっとませ込んでいた。  私は表の「君」という相対語の意味がだんだん解りかけていた。それに一方嫉妬をかんじながらも、私は何かしら彼が懐しかった。別に彼が「女を紹介する」と言っても、紹介しもしなかったが、そのもの柔らかな言葉や、詩の話などが出るごとに、あの悪魔的な大胆な男が、よくもこうまで優しい情熱をもっているかと思うほど、初初しいところがあった。それに詩作では全く天才肌で、何でもぐんぐん書いて行った。(数年後私は上京したときK・K氏が表は全く驚異すべき天才をもっていたということを聞いた。)  彼は子供のときから印刷工場に勤めていたといわれていたが、私と知るようになってから、もう何処へも勤めに出てはいなかった。彼は私と同じように毎日机にむかって、姉に保護されていた。  寺のことはたいがい父がしていた。本堂に八基の金燈籠、観音の四燈、そのほか客間、茶室、記帳場──総て十二室の各座敷の仏画や仏像の前には、みな燈明がともされていた。それらは、よちよちと油壺と燈心草とをのせた三宝を持った父が、朝と夕との二度に、しずかな足袋ずれを畳の上に立てながら点して歩くのであった。寺へ来る人人は、よく父の道楽が、御燈明を上げることだなどと言っていた。それほど父は高価な菜種油を惜まなかった。父自身も、 「お燈明は仏の御馳走だ。」と言っていた。  しかし境内の二基の瓦斯燈は、ときとすると下男のいないときは、いつも私が点さなければならなかった。  私が読書などしていて午後五時ごろになると、もう父のお燈明配りが始まっていた。幾十年来点しつけているその手つきは枯れたものであった。新しい燈心草を土器に挿すと、油壺は静かに寛くその土器にそそがれ、そしていつも点火された。それは実に静かで、いかにも清浄な仕事で私は見ていていつも感心していた。  襖襖がすーと音がして開いたり閉ったりすると、足袋ずれが次の室から次の室へと遠のいて行って、そのたびに、一つ一つの室に新しい燈明がぱっちりとあかるく点されてゆくのであった。それを見ていると、まだそとが明るいけれど、もう晩になったような気がしてくるのであった。  私はよく夕方境内を歩くことがあった。幾抱えもある大きな栂が立っていて、どんなに雨が降ってもその根元を湿すことがなかった。その下に迷い子の墓碑があって、子供が道に迷ったりすると、この墓碑に祈願すれば、ひとりでに子供の迷うている町が判るといわれている苔蒸したこの墓碑は、いつも私が佇んだり凭れたりするに都合がよかった。  廓に近い界隈だけに、夕方など、白い襟首をした舞妓や芸者がおまいりに来たりした。桜紙を十字にむすんだ縁結びを、金毘羅さんの格子に括ったりして行った。その縁結びは、いつも鼠啼きをして、ちょいと口で濡してする習慣になっているらしく、私はその桜紙に口紅の烈しい匂いをよく嗅ぎ分けることができた。そのうすあまい匂いは私のどうすることもできない、樹木にでも縋みつきたい若い情熱をそそり立て、悩ましい空想を駆り立ててくるのであった。  私の幼年のころ川から拾い上げた地蔵尊は、境内の堂宇に納っていた。私はそこへゆくといつも姉を思い出した。姉は間もなく隣国の越中へ行って、永く会わなかった。あの小さい姉とこの地蔵尊のお祭りしたことも、いつも、そのころ建てた流れ旗や三宝や仏器が今もこの堂宇に納っているのを見ると、私が寺院に貰われて来たことにも、みな深い因縁があるように思われた。行方不明になった母は、死んだという人もあり、まだ生きているという人もあったが、死んだ方がたしかに事実らしかった。父が法名を書いてくれて仏壇に納めてあった。父が法名を書いてくれた日を命日として、私は心まで精進していた。  いろいろな噂をとりあつめると、私の母は派手なところがあって、虚無僧が塗り下駄をはいてお城下さきを尺八をながしてあるくのを見ると、若い母は、その翌日は虚無僧と同じい黒塗りの下駄をひっかけた。そういう小さな例からも、私はあの落ちついた母にそういう軽はずみな若いときがあったかと、かえって嬉しそうにしている姿を目に見るようで不快ではなかった。私が養家さきから、ひっそりと会いに行って、つい寝込んでしまった母の膝のふれ心地のよかったことも、ずっと頭の奥の方に、いまも温かにふうわりと残っているような気がするのであった。  私は地蔵尊のそばへゆくと、それらの果しない寂しい心になって、いつも鬱ぎ込むのであった。私は人の見ないとき、そっと川から拾い上げた地蔵尊の前に立って手を合せた。母を祈る心と自分の永い生涯を祈る心とをとりまぜて祈ることは、何故かしら川から拾った地蔵さんに通じるような変な迷信を私はもっていたのである。自分が拾いあげたという一つのことが、地蔵さんと親しみを分け合えるように、幼年の時代から考えた癖が今もなお根を張っているのであった。  参詣人のなかにはもう見知り顔もできていた。あるじが長い航海に出ているのを平穏無事にと祈願しにくる中年の婦人は、いつも静かな、温かい母親の示すような挨拶をいつも私にした。そのひとは、いつも手を合せて、永い間、懐中から手帛につつんだ写真をとり出して、それを膝の上にのせては低い声で何か祈りながら、板敷の上に坐っていた。毎日、毎日、まるで印刷にしたように午後になるとやってきて、二時間あまりも坐ってお詣りしてゆくのであった。時には、父におみくじを引いてもらって、海上生活が安穏であるかどうかということを見てもらっていた。もう三十をよほど越した人であったが、内気なような皮膚の美しい人であった。  それから中婆さんの手癖のよくないのもいた。その中婆さんはいつも他の参詣人のいない、たとえばお昼飯のころとか、午後の四時近いときかに、たくみに参詣人の途絶えたとき、賽銭箱の錠を開けることが非常に上手であった。それは、一本の釘を錠穴から挿し込んで、逆にねじあけると、いつも容易に開くのであった。  その中婆さんは、すぐ裏町に娘と二人で住んでいて、いつもやって来ては、あり金を掻き集めて持ってゆくことが、私にはよく判っていた。あるときは私は、わざと錠に釘をつき込んだとき、本堂の内部からガタガタ音させてそれとなく注意したが、ひょいと本堂の内部を窺うだけで、やはり錠を開けはじめるのであった。二、三度顔も見知っていたので、年寄を責める気にもならず、といって、記帳場(寺の事務所)へ告げる気にもならなかった。一つには中婆さんに娘もあったせいもあった。娘はせいの高い堅肥りのかなりな器量をもっていた。東京へ逃げて行ったこともあり品行も悪いという評判であったが、それとは反対に瑞瑞しい若さ美しさに富んでいた。  毎月十八日のお観音の祭日には、きっと親子揃ってお詣りにやってくるのであった。そして二人とも揃いも揃った一種の盗癖をもっていたのである。中婆さんはいつも手近に落ちている銅貨をたくみに膝頭に敷き込んでは、ふくら脛のあたりへ手をやっては、袂へ捩じ込んでいた。それは、たとえ隣によその人がいても、ちょっとの隙に礼拝するように板敷の上へ額をこすりつけている間に行われるので、たいがいの人には判明らなかった。  私は記帳場の重い戸板の節穴から、すべての参詣人が何をしているかということが、よく眺められるのを幸いにして、よく彼の娘を見ることができた。彼女は中婆さんのすることを横目でちょいちょい見ていたが、すぐ自分の左の膝から二、三寸前の方に落ちている銅貨に、たえず気を奪られているらしく、いくども横目でじろじろ見ていたが、急に膝の下に敷き込むということもなかったし、まさか、この美しい娘がわずかなものを掠めとるということも考えられなかった。彼女はもう十九か二十歳に見えたほど大柄で、色の白い脂肪質な皮膚には、一種の光沢をもっていた。その澄んだ大きな目は、ときどき、不安の瞬きをしていた。  私はそのとき彼女の左の手が、まるく盛り上った膝がしらへかけて弓なりになった豊かな肉線の上を、しずかに、おずおずと次第に膝がしらに向って辷ってゆくのを見た。指はみな肥り切って、関節ごとに糸で括ったような美しさを見せていて、ことに、そのなまなましい色の白さが、まるで幾疋かの蚕が這うてゆくように気味悪いまで、内陣の明りをうけて、だんだん膝がしらへ向って行った。彼女の手がその膝がしらと畳との二、三寸の宙を這うようにしておろしかかったとき、彼女は鋭い極度に不安な、掏摸のように烈しくあたりの参詣人の目をさぐって、自分に注意しているものがいないということを見極めると、五本の白い蛇のように宙に這うていた指は、その銅貨の上にそっと弱弱しく寧ろだらりと置かれた。と同時にその手はいきなり引かれて、観音の内陣の明るい燭火に向って合掌された。  私はそれを見ていて息が窒るような気がした。心持からか、彼女はすこし蒼ざめたような頬をして、その合せた左の手が不自然な、柔らかい恰好をして握られると、いきなり袂の中へ飛び込んだ。なぜ、ああいう美しい顔をしているのに、小さな醜い根性が巣くっているのかと、私はじっと見ていた。──彼女はそういう手段で幾度も幾度もやったが、だんだん機敏に、いきなり目的に向って、さきのような不必要な細心さや周到な注意を払うことがなかった。また、誰もこの美しい娘が小さな盗みのために坐っているとは思えなかった。私はこのことは記帳場へは話をしなかった。記帳場ではよくありがちなことであるから大概は意見をするだけで、見て見ぬふりをするのが多かったからである。  それから二、三日後、私は記帳場から何気なく境内の門のそとの道路を見ていると、一人の若い女が門のうちへ入ってくるのが見えた。そして私ははっとした。それは十八日の晩の女であったから私は驚いたのである。私はすぐにある不吉の場面を想像した。そしてすぐに例の秘密な節穴から彼女を監視することにした。  彼女はさっぱりした姿で、紅い模様のある華美な帯をしめていた。彼女はいきなり板敷の上に坐ると、あたりを見廻した。格子の内部は暗い内陣になっていたので、そこを透して誰かいるかと見ていたが、こんどは境内を見渡した。夏のことで暑いさかりの参詣人も途絶えて、湧くような蝉時雨が起っているばかりであった。彼女は一本の釘をとり出した。そして母親のする通りに錠穴から挿し込んで、逆にねじあげると、錠はかっちんと鳴って、賽銭箱から離れた。彼女は自分でその音に驚いたように非常に蒼白い顔をして、あたりを丁寧に見廻した。誰か不意に参詣人が来はしないかという懸念や、本堂の内部から見ていはしないかという心配に、何者かのけはいに聞耳を立てていたが、その白い手は夥しく震えているのが私の方からも見えた。その指はすんなりと長くて肥って、一本一本の関節がうす紅くぼかしたようになって小さい可愛い靨さえ浮いていた。  私はそのとき、どうしたはずみであったか、戸板に額をふれさせたので、重い戸板がことんと音を立てた。そのとき、彼女は吃驚していきなり戸板の方を凝視した。ちょうど私の覗いている節穴の正面に、しかも一生懸命になっている烈しい恐怖におそわれた、ありとあらゆる不安をあつめた彼女の大きな眼は、むしろ凄艶な光をたたえてじっと私の額に熱い視線を射りつけたのであった。私はすぐ節穴から離れようとしたが、そうすれば節穴が明るい記帳場のひかりを透すであろうと思って、わざと不動としていた。それに節穴が非常に小さかったのと、あたりがやや暗い堂内であったために、すぐ彼女はそのしつこい視線を解いた。私は膝頭が震えて、からだが、すくみ上るような堅苦しい息窒りをかんじた。彼女は誰も見ていないと知ると、こんどは、賽銭箱から一銭二銭の銅貨や五銭の白銅、または紙にくるんだのなどをすっかり小さな女持の、紅い美しいガマ口におさめてしまった。ガマ口に容れきれないのは、別に紙につつんで帯の間にはさみ込んだ。そして、また、がっちりと錠を卸して、あとをも見ずに寺を出て行った。そのせいの高いすらりとした後ろ姿は、その紅い帯とともに私の目にいつもありありと描き出された。  私はそうした彼女の行為を見たあとは、いつも性慾的な昂奮と発作とが頭に重りかかって、たとえば、美少年などを酷くいじめたときに起るような、快い惨虐な場面を見せられるような気がするのであった。それと一しょに、彼女がああした仕事に夢中になっている最中に飛び出して行って、彼女をじりじりと脅かしながら、そのさくら色をした歯痒いほど美しい頬の蒼ざめるのを傲然と眺めたり、または静かに今彼女のしている事はこの世間では決して許されない事であり、してはならないことであることを忠告して、彼女がこころから贖罪の涙を流して泣き悲しむのを見詰めたりしたら、どんなに快い、痛痒い気持になることであろう。そしてまた彼女が悔い改めて自分を慕って、しまいには自分を愛してくれるようになったら、自分はきっと寂しくないにちがいない。そうでなくとも、彼女の弱点につけ込んで、自分はどんな冒涜的なことでもできるのだなどと、私は果しもない悩ましい妄念にあやつられるのであった。表なれば、きっとこんな時彼女を強迫してしまうにちがいない。そして直ぐに自由にしてしまうにちがいない。  私は板戸をはなれて記帳場へくると、執事の年寄が彼女が盗みをしたかどうかということを訊ねた。四、五日前に来たときにも、どうも素振りがあやしいし、あの女のきた日は賽銭がすくないなんて言った。私はそのたびごとに「何もしなかったようですよ。この間はきっと出来心ですよ。あんな女のひとが盗みをするなんてことはありません。」と言って、決して真実を言わなかった。 「そうですか。ともかくもいい塩梅です。わるいことをされると此方で黙っているわけにゆきませんからね。」と年寄たちは言っていた。  しかし彼女は益益はげしく、殆んど毎日のようにやって来た。しまいには記帳場でも厳しい監視をしていたが、やはり彼女に疑いはかかっていても、彼女であるということが判らなかった。そういう話のでるたびに、 「きょうも怪しい男が本堂のところに休んでいましたよ。どうもおかしい奴だった。」  私は見もせぬ作りごとを言っておいた。 「そうですか。気をつけなければいけませんな。」と年寄は不安そうに言っていた。  しまいに父までが、 「このごろは少しもお詣りがないのか、あがりがないようだね。」  記帳場の帳面を見ながら言っているのをきいて、私ははっとした。年寄たちもふしぎがっていた。だんだん何んだか私が盗んでいるような、やましい気がしてならなかった。ことに記帳場の手前もあったので、私が盗んだように思われるのが厭だったので、彼女があり金をそっくり持って行ったあとに、私はそれほどの金高をあとから小遣のなかから割いて、こっそりと賽銭箱に入れて置いたりした。その何より一番困ることは、賽銭の性質上、すべて銅貨でくずして入れておかなければならないことであった。そのために、よく向いの花売りの店でこわしてもらっては、そっと入れておいた。その効果はすぐに現われた。記帳場の年寄は、 「このごろ来なくなったようですよ。本当にいい工合だ。」  そう言うのを聞いて、私はひとりで苦笑した。しかし、ここに困ったことは三日や四日はゴマ化したものの、毎日そう小遣が私に無かったために、父に毎日のようにこの間から貰っているので、言いにくかった。と言って賽銭箱の方を打っちゃって置くわけにもゆかなかった。ある日、父の金箪笥の中から少額ではあったが、銀貨や銅貨をとり出した。箪笥の中は紙幣やら銀貨やらで、だらしなくなっていたので判りそうもなかった。味をおぼえて次の日もこんどは紙幣の束からそっと幾枚かを抜き出した。そしてくずしては例の箱の中へ入れておいた。私は重い金箪笥に手をかけるときその金具ががちゃがちゃ鳴るのを気にしながら、いつも人の善い父の微笑を思い出した。ことに、少年として過分な小遣を貰っているのに、いつも小言一つ云わないでくれる父を、私は私の盗みをするときにのみ「済まないな」と切にかんじた。しかし私にはそうするより外に方法がなかった。それは彼女の盗みの埋め合せばかりでは無くなって、だんだん自分の用途にも使うようになっていた。ノートや青いインキ壺などが、次第に私の机の上を新しく賑やかにして行った。  そとでは毎日彼女はやって来た。  いつも午後三時ごろの、日ざかり過ぎの静かな埃っぽい時、彼女のやや明るい紅い帯が、そのすっきりした高い姿とともに寺領の長い廊下の中に現われた。私はそんなとき、すぐに「困ったな、また来たな。」と心でつぶやいた。その一面には何んだか永い間待っていた人が来たような気もした。しかし私は彼女の盗みを記帳場へは絶対に知らすまいと思っていた。一つは可愛想でもあるし、また、そういうことが知れたら決して彼女は寺へ来られなくなるだろう。来なくなるということは、私にとってはいまはかなりに寂しいことであった。そうかと言って彼女の仕事の最中に飛び出して叱責する勇気はなかった。また一方にはそうそう父の金箪笥に手をかければ、しまいに発見するにちがいない。私はどうしていいか分らなかった。内と外とで示し合せたような盗みが行われているのが、私には実に堪らない苦しさであった。彼女さえ盗みをしなければ、私は勿論ああいう盗みをしなくていいのだ、とさえ思うようになった。何んだか、ときには女の人にとり縋って姉にたいするような甘えた心持で、それを訴えて見たいような、まるで子供らしい考えに耽ることもあった。  私はある日、彼女のやってくる時刻に、一通のてがみを書いて、それを賽銭箱の中へ入れて置いた。そうすれば、金と一しょに辷り出てゆくにちがいないし、出れば読むに決っていると思った。それは、「あなたは此処へ来てはいけません。あなたの毎日せられたことはお寺にみんな知れているから、この手紙を見たらもう来てはいけません。」と書いたのだ。私はそれを箱の中へ入れてからも、これを見たら彼女が来なくなるだろうという寂しい心持になった。そして入れなければよかったと思い、とり出してしまおうかと、落ちつかない心持になった。  しかし時間はもう彼女のやってくる時に迫っていた。私はれいの戸板のところで、くらやみから這い出てくる蚊をはらいながら待っていると、彼女はやってきた。そして、もうすっかり馴れた手つきで素早く釘をつっ込むと、錠はあいた。そして箱をしずかにななめに傾けると、一方の錠のあいた方から、銅貨や銀貨がぞろぞろと辷って出た。そのとき、私の入れた手紙が出た。「田中様に」とかいておいたので、彼女は一と目見るなり、さっと顔を赤めた。私はれいの節穴から一心に見詰めていた。恐ろしい好奇心に瞳を燃しながら、彼女の一挙一動を見逃すまいとして──かの女は顔を赤めた瞬間、すぐに稲妻のような迅速な驚愕を目にあらわしながら四辺を見廻した。見るうちに彼女の手や膝頭や、それらの一切の肢体が激しく震えた。彼女はおそるおそる手紙をとると、その瞬間、一種の狡猾な表情と落着きとを現わして、表と裏とを見くらべたりして封を切った。読んだ。その刹那彼女の眼は実に大きく一時にびっくりしたような色をおびた。そして読み終るとすぐさま手紙を懐中へねじ込んで、まるで蹴飛ばされたように急いで雪駄をつっかけると突然駈け出した。寺の門のところでちょっと振りかえって見た。これは本当に二分間もかからなかった間のことである。  私はそのうしろ姿を見ていて、非常に寂しい気がした。私はああするより外仕方がなかったのだ。彼女は驚きと極度の恐怖との中に駈け出したのだ。あれで彼女が正しくなれば私の書いたことはよかったのだ。彼女は怨んでいるにちがいなかろう。これより永く彼女が寺へくることになれば、私も同じ苦しみ盗みの道に踏み迷わなければならないのだ。  私は「なぜああいう美しい顔をして、ああいう汚いことをしなければならないか。」ということを考えたり、また、ああいう手紙をかいたものが私であるということを知っているだろうかなどと考え込んだ。しかし私は自分の持ち物をそっくり棄ててしまったような術ない寂しさに閉されはじめた。しかし私はその日から父の金箪笥に手をふれることをしなくなった。幸い私のやったことは判らなかったので、私はいつかは父に謝まる時があるだろうと、それきり、あの重い箪笥のそばへも寄らなかった。  私は間もなく、毎時、彼女のやってくる午後三時ごろになると、境内をあちこち歩いたりして、もうあれきり来なくなったのを非常に寂しく感じた。小さくお太鼓に結んだ紅い帯地の模様を、時時、あたまの中で静かに考え出しては、ぼんやり栂の老木の根元にしゃがんで、二時間も三時間も高い頂に登ったり下りたりしている蟻の行列を眺めたりしていた。私はなぜ、彼女にああいう手紙をやって注意したのか、なぜ、あのまま彼女を毎日寺の方へ来させて置かなかったのか。しかし段段考えると、うちのものに見附けられるより私が発見したのはよかったのだ。私はどうにもならないやきもきした感情で永い間、来もしない彼女の姿を門内の長廊下や、堂前の板敷の上に描き出して、白いえくぼのある顔や、盛りあがった坐り工合を想像した。そういうとき、私は一言も話したことのない彼女との間に、ふしぎに心で許し合ったようなもの、お互の弱点をつき交ぜたものが彼女との隔離を非常に親しく考えさせた。  私はどうかしてもう一度彼女を見たいと思った。ああいう手紙をやったものが私であるという卑しい報告によって、明らかに彼女の胸に私が救い主であることを了解させたいと思った。その一面には、彼女が自分の悪事を看破られた理由から、あるいは、私をかえって憎憎しく考えるにちがいないという不安もあったが、ともかく、私はもう一度彼女を見たいという欲求に燃えた。  彼女は私だちの町のすぐ裏になっている、お留守組町に住んでいることを私は知っていた。加賀藩の零落れた士族の多く住んだ町で、ちょうど彼女の家は前庭のある平屋で、それも古い朽ちはてた屋根石のあいまあいまには、まだ去年の落葉を葺き換えない貧しい家であった。小さい柴折戸のような門構えのなかは、すももと柘榴とが二、三本立っていて、小さい柘榴が実りはじめていた。  家のなかはしんとしていて、台所口の水の音がちゃぶちゃぶしていた。私はそのとき、すぐ胸がおどおどして直覚的に彼女が台所にいるような気がした。水を何かにかける音がざあーとすると、こんどはタワシでごしごし桶のようなものを洗っている音がした。私はすぐさま、あの白い餅のように柔らかい靨のたくさん彫られた手を思い出して、あたまのそこまでしんとしてその美しい形や円みを描いた。  彼女がうちにいるという事実をたしかめるに有力な証拠としては、紅い鼻緒の立った籐表の女下駄が、日ぐれどきの玄関のうす明りに、ほんのりと口紅のように浮んでいるのを見たとき、たしかに家にいるということが感じられた。それは、あの紅い鼻緒の下駄をいつも彼女がはいては寺へ参詣にやって来たからであった。堂前のだんだんにいつも脱いであるのを殆んど私は毎日のように眺めもしていたし、あざやかに私は頭にきざみ込まれていたからである。  台所口に格子の小窓がついていて、そこに黒い濃い束髪が動いているのを見たとき、疑いもなく彼女であることを知った。私は胸がわくわくするのと、音を立てないで通りに立っているのとで、膝がしらがぶるぶる震えるのを、おさえるようにしていたが、砂利に下駄が食い込んでがりがりと音を立ててしまったので、はっと汗をかいた。そのとき、彼女はふいと小窓から通りを見て、私の立っているのを見ると何だか顔色をかえたように思われた。それがいかにも賽銭箱をこじ開けたときの彼女とは、全く別な美しい顔であって、その大きな目さえ、厳格に正面から私を凝視めたのである。  私はその大きな、艶透な目の光を感じると同時に、いくらか肉肥りした姿のよい鼻と脣と、多血質な美しい皮膚とを射るように視線のなかに感じた。それらの喜ばしい艶やかな雑作は一瞬の間に、彼女が卑しい盗みをやったことを思わせたが、やはり、そのときは別な、美しい女性としての威光をもって、ぶしつけに垣のそとに立っている私を譴責するもののように思われた。私は一目見たいという望みが充たされたばかりでなく、彼女のこころよい皮膚の桜色した色合いがしっとりと今心にそそぎ込まれたような満足を感じた。「あの人の盗みをしたことと、あの人の美貌とは決して係っていない。あの人はいつまでも美しい。そして盗みは醜い。別別なものだ。」と私は考え込んだりした。そしてまた「あの人は美しいから盗みをしても不快ではないのだ。美しい手で錠をこじあけたから私は惹きつけられたのだ。」──私はそういうことを考えながら、そっと柴折戸を離れた。私はそのとき要垣の朱い葉を二つ三つ千切った。その深い茜に近い朱色な葉ッ葉のなかにも、彼女の皮膚の一部を想像することができたからである。  私は裏町から通りへ出て、犀川のへりの方を歩いた。磧の草叢は高く茂り上って、橋の腹にまでとどいて、水は涸れ込んでいた。鉄橋の方は殆んど岸もわからないほどの一面の草原になって、涼みかたわら歩く人も多かった。私はそれらの景情にひたりながらも、さきから引き続いた女の幻影を、こんどは、かえり途にもう一度見たいという執念強い要求のもとに縛りつけられて、私はまたあの裏町へ歩いて行った。  間もなく彼女の家近くまで来ると、胸さわぎと同時に急に早足で歩かなければならないような、足は足で、別に命令されたもののような歩き方をしてゆくのであった。そこの柴折戸の前までくると、いきなり玄関の格子戸が開いて、彼女は何処かへ外出するらしい他処着をして出かかるのと、私の眼とぴったりと突き当った。私は思わず赤くなって目を伏せると、彼女はにっと微笑したように思われた。気のせいであったのか、それとも一種の幻惑の種類であったのか、ともかく、彼女の厚い脣もとから鼻すじへかけて、深い微笑の皺が綟れこんだ事は実際であった。それと同時にいきなり柴折戸のところへやってくるので、私はいそいで、今来た道へ引き返すような様子をした。彼女は隼のように柴折戸をあけると、私と反対な道へ行った。ふりかえると、もう一町もさきへ行って、向うからも振りかえった。  私はあんな手紙などやらなければよかったような気がし出した。そして彼女の弱点につけ込んでゆくような卑しい恥かしさが度を増して、彼女が町角をまがって見えなくなってしまったあとで、ひとりで顔が赤くなった。  寺の記帳場では、 「近頃ちっとも彼の女が来ないようですね。あの人が来なくなってから、間違いがなくなったが、やはりあの女は怪しい──。」と記帳の年寄が言った。 「だって僕が幾度も隙見をしていたけれど、怪しいことがなかったんだもの。」  しかし心の内では、年寄連が私のああした仕事を知っているらしくも思われたりして、いつも、いい加減に座をはずすのであった。  私は机に向っているときでも、よくあの女の皮膚の一部や、粗雑なだけ親密になれるような物腰、それとははっきり判らなかったが、印象の深い微笑などがあの日から目にうかんで来て、我知らず、お留守組町まで用もないのに歩くことがあった。たとえば、玄関先の雪駄の紅い鼻緒にしろ、要の若葉の朱いのにしろ、その前庭の土の工合までが、一つ一つ懐しいもののように目に触れてくるのであった。ことにああいう盗みなどをするという大胆さの底には、きっと優しい、私の心を容れてくれるものが湛えられているように思われた。  私はその日もふらふらと釣られるように彼女の家の前までくると、家の内部は寂然として、気のせいか女の声らしい話しごえがしているようであった。前の庭はきれいに掃いてあって、柘榴の蔭にはおいらん草が裏町の庭らしく乏しい花をつけているのが、わけても今日はなつかしく眺められた。しずかな家の内部はいかにも彼女の温かい呼吸や、血色のよい桜色した皮膚に彩色せられたように、そこに何ともいわれぬ温かい空気が漂うているように思われた。  いつまで立っていても、人のけはいがしないので、私はすごすご立去ろうとするとき、庭の石のところに、糸屑を丸めたのが打棄てられてあるのが、その紅や白の色彩とともに、ふいと目にとまった。それがどういう原因もなしに、ふいとほしくなり出した。しかし其処まで這入るときはどうしても柴折戸を開かねばならなかったので、私はしばらく考えていたが、急に柴折戸をそっとあけた。柴折戸はべつに音も立てなかったので、私は十歩ほど忍び足になって、糸屑を拾うことができた。  糸屑はいろいろな用にたたないのを丸めてあったので、彼女を忍ぶよすがもなかったが、そのふわふわした筋ばった小さい玉を、握りしめて見ると、何かしら一種の女性に通じている心持が、たとえば無理に彼女の手なり足なりの感覚の一部をそこに感じられるように思われるのであった。その糸屑を拾うときに殆んど突然に玄関先に脱ぎすててある紅い緒の立った雪駄をほしいような気がしたのは、自分ながら意外であった。何ということなしに、その雪駄の上にそっと自分の足をのせて見たら面白いだろうという心持と、そこに足をのせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられるように思われたからである。私は子供のときから姉の雪駄をはいてはよく叱られたものであるが、それよりも、もっと強い烈しい秘密な擽ぐったいような快さが、きっと私が雪駄に足をふれさせた瞬間から、私の全身を伝ってくるにちがいない。ちょうど、踵からだんだん膝や胸をのぼってきて、これまで覚えたこともない美しいうっとりした心になるにちがいないと、私は雪駄をじっと怨めしく眺めたのであった。それは誰でも男は女の下駄を思わず引っかけて見たい一種の好奇心があるように、私の場合では、籐表のところで思うさま手を擦って見たいような、も一つはその雪駄を緒は緒、表は表、裏は裏という順序にばらばらに壊して見たいような惨忍に近い気持が、また、ふいに顔を出して来たりした。  も一つ心の奥からの悪戯の萌しかけたのは、ともかく私がこの庭まで忍び込んだという証拠として、また、その事実を彼女に何かしら知らしめたいということから、彼女の雪駄を片足だけ(私はこの場合両方が決して欲しくなかった。)盗んでみたらとさえ思うようになったのである。それは一つには私があの雪駄を盗んでも、それはきっと彼女に発見されても、許して貰える理由をつかんでもいたし、また彼女としてそれを叱責しないような気もするのであった。玄関には格子戸が閉っているので、それを開ければきっと音がするに定っているし、音がすれば誰か出てくるにちがいないという不安があった。私はどうして格子戸を開けたらいいかということを考えた。それに人通りのすくない裏町であるとはいえ、やはり途切れながらも通る人があった。そういうときは、やはり散歩する人のようにゆっくりと歩いて見せて、人が通って行ってしまうと、いそいで私は玄関の内部を窺うた。そこには紅い緒の雪駄が、もはや雪駄以上な別な値のあるもののように、べつな美しい彼女の肢体の一部分を切離して、そこに据えつけてあるような、深い悩ましい魅力をもって私を釘づけにしたように立たせるのであった。  私はそのとき、何者かがいて急に私に非常な力を注ぎこんだような戦慄を感じながら、あたりの人通りに注意した。ちょうど途絶えたその隙に私は何者かから背後から押し込まれたように柴折戸を辷り込んで、そっと玄関の格子戸に手を触れると、私はまるで雷に打たれたような震えが全身に荒い脈搏をつたえたのを知りながら、少しずつ格子を開けはじめた。格子戸は思ったよりも静かに、特に軋むということなく二寸三寸と開かれて行った。もう私の小さな体躯をよこにして這入れるようにまで開けると、私は素足になって玄関の中へ這入りこんだ。そととは異ったひいやりした湿り気のある涼しい空気と、庭のたたきの冷たさが踵裏から全身につたわってきて私はなお烈しい慄えを感じた。私は見た。其処にあった紅い緒の雪駄を──いきなりそっと掴むと殆んど夢か幻の間に格子をするりとぬけて庭から、柴折戸を渉って外へ出た。そのとき柴折戸に着物が引っかかったので無理に引いたので、柴折戸はやや高い軋るような音を立てた。私はそのとき殆んど眼まいを感じながら一散にかけ出した。  寺へかえると、私は懐中から女雪駄をとり出した。まだ新しい籐表のつやつやしたのであった。私はそれを凝乎と見詰めていると不思議にこの雪駄を盗み出したことが、非常に恐ろしい罪悪のように暫くでも持っていてはならないような、追っ立てられるような不安と焦躁とを感じ始めた。まるでそれは一つの肉体のような重さと、あやしい女の踵の膏じみた匂いとを漂わした。私はそれを懐しげに眺めるというよりも、自分がなぜこういうものを盗む気になったかということを考えた。私は机の下に入れて置いたが、ふいと父にでも見つけられてはと思い、こんどは縁の下の暗いところへ蜘蛛の巣と一しょに押し込んで置いたが、その暗いところにありありと隠されてあるのが目にうかんで落ちつけなかった。私はしまいにはどうしてもこの雪駄を持っているうちはじっと落ちついて坐っていることさえ出来なかった。  私の心はだんだん後悔しはじめた。どんなに彼女が捜していることだろう。そしてもし私のしたことだと判明すれば私は彼女と同じい罪を犯したも一般だ。私は恐ろしくなりはじめた。私は縁の下からまた取り出して土を払って、そっと懐中へ入れて、また寺を出て行った。彼女の家の前へ来たのは、殆んど前に忍び込んだときとは一時間ほどの後であったので、家の中はやはり寂然としていた。私はそっと柴折戸から入って、玄関へ雪駄をそっと挿し込むように入れて置いて、すぐに通りへ出た。さきの位置に雪駄を置くときは、格子を一尺近くあけなければならなかったので、私は犬でもいたずらしたように見せるために、すぐ閾のよこに置いたのであった。奥のたたきの上には、つれに離れた片方の雪駄が寂しそうにひとりで、やがて来るつれを待っているように取り残されていた。  私はそののち暫く外出をしないで、室にばかり籠っていた。殆んど自分でも予期しない、ああした発作的な悪戯をしてからというものは、たえず外出をすれば何者かに咎められるような気がして仕様がなかった。だんだん日が経つにしたがって、私のああした悪戯が真実に行われたかどうかということさえ疑わしく思われた。  もちろん彼女はもう寺の前をも通らなかった。私は父を本堂へ上るときに手を引いたり、茶の湯の水汲みをやったりしていた。寺にはあやしい御符という加持祈祷をした砂があってよく信者がもらいにやって来た。わずか五粒か六粒ほどずつ紙につつんで、清い水で嚥むと、ふしぎに憑きものや、硬ばった死人が自由に柔らかくなるという薬餌であった。私はそれを見るごとに不思議な気がした。  もう一つは「おくじ」をひきに来る女が多かった。この市街でもかなり名のある日本画家の中年の母親は、いつも娘の縁談があるごとに、父に会いに来て、そして「おくじ」を引いて判断してもらっていた。その娘は有名な美しい娘であった。いつも母親と一しょにお観音にお詣りに来た。奇体なことには、この古いお城下町は古くから仏教信者が多かった。それは年寄ばかりではなく、若い娘をもつ母親は、もう娘の六つか七つの時にお寺詣りにつれてあるいて、娘らのこころに信仰を築きあげることや、宗教が女の生活に最も必要なことを教えたり、あるいはお寺詣りに拠ってそれらを暗示したりしていた。その画家の娘は実に凄いほど色の白い、どこか肺病のような弱弱しい悩ましさを頬にもっていた。  母親はいつも父に、 「こんどの嫁入口はたいがい良い方なんでございますが、念のため『おくじ』を引いて下さいませんか。」と言って父に「おくじ」を引かせた。  父は本堂から下りて来て、 「おくじにあらわれたところは、あまり思わしくないんですけれど、あなたさえよければお嫁入りさせたらいいでしょう。」と言った。  それは画家の妻がもう三年越しに娘の幸福な嫁入口をさがして歩いて、いつもおくじを引くと凶が出るので、父も気の毒に思ってそう言ったのであった。 「まあ、おくじが悪いんですか。」  彼女はいつも失望したばかりではなく、折角の縁談も中止するのが常であった。私はいつもあの「おくじ」一本によって人間の運命が決定される馬鹿馬鹿しさと、それを信ぜずにいられない母親のかたよった心を気の毒に思っていた。 「あの人はおくじを引きにくるけれど、おくじを信じることができない人だ。」と父が言っていた。  私は先月父にこんなことをおくじに引いてもらった。あたるかあたらないかを私自身ではっきり見たいためもあった。 「東京へ送った書き物がのるかのらないかを見て下さい。」と。  父は本堂から降りて来て、 「出る。たしかに出る。」と言った。何んだか父が私が失望しはせぬかという懸念のためにいい加減に言われたような気がした。 「本当ですか。どんな『くじ』なんです。」 「旭の登るが如しと言うのじゃ。」  父は、竹の札(くじ箱にはそれが百本入っていて、一本ずつ振ると出て来る。その偶然が人人にとっての運命になっている。)を見せた。それには文字通りの「上吉」が出ていた。  そして私の詩が印刷された。私はそれからは信じきれないうちにも、時時信じるようになっていた。神秘に近いものが毎時おくじに現われているようにさえ思うのであった。米の相場師などがよく朝早くやって来た。「吉」が出ると、 「買っていいんですな。本当にいいんですな。」と血眼になる人もあった。 「おくじ」の出たとおりにやって儲かった人は、よく大きな金燈籠や真鍮の燭台や提灯などを運んでお礼まいりに来たりした。  若い芸者などはよく縁の有無を判断してもらいに来た。父は、どんな人にも口数をきかなかった。要領だけ言っていつも奥へ這入ることが多かった。  そのころから十年前に寺の庫裏から失火して、屋根へ火がぬけたことがあった。まだ宵のくちであったから、火はすぐに揉み消すことが出来た。けれどもあとで気がつくと父の姿が見えなかった。捜すと父は本堂の護摩壇で槃若経を誦んでいた。目撃した人は、「あの小さいお上人さんがまるで鐘のような声でお経をよんでいたのは本当に凄かった。」とあとで言っていた。 「お前お茶をあがらんか。」  父は私の読書している室へ呼びに来ることがあった。寂しいほど静かな午後になると、そういう父も寂しそうにしていた。 「え。ごちそうになります。」  父の室へはいると相変らず釜鳴りがしていた。父はだまって茶をいれて服ませた。それに羊羹などが添えられてあった。父は草花がすきで茶棚には季節の花がいつも挿されてあった。 「お前も早く成人しなければいかん。」  などと時折に言った。  私は父の顔を凝視するごとに、この父もきっと世を去るときがあるにちがいない。それも近いうちにあるにちがいないという観念をもった。そしてなおつくづくと父の顔を眺め悲しんだ。  父の立てた茶は温和にしっとりした味いと湯加減の適度とをもって、いつも美しい緑のかぐわしさを湛えていた。それは父の優しい性格がそのまま味い沁みて匂うているようなものであった。  父はいつも朱銅の瓶かけを炉の外にも用意してあった。大きさから重さから言っても実に立派なものであった。父はいつも、 「わしが死んだらお前にこの瓶かけを上げよう。」と言っていた。  そして時おり絹雑巾で朱銅の胴を磨いていた。私もほしいと思っていた。(父の死後、私はこの瓶掛を貰った。いまはこの郊外の家の私の机のそばにある。)  表の評判は悪かった。表が劇場や縁日を夜歩きすると、町の娘らは道を譲るように彼を避けるほどになっていて、みな、うしろから指をさしながら、この優しい不良少年を恐がった。女学校などでもたいがい表の名前が知れていたらしかった。  そのころ、表は公園のお玉さんという、掛茶屋の娘と仲よくしていた。藤棚のある小綺麗な、噴水の池が窓から眺められる茶店で、私もよく表につれられて行った。お玉さんはメリンスの前垂れをしめていて、表とはいつのまにか深い交際をしていた。  よく表と二人で散歩のときによると、 「きょうはお母さんが留守なんですから、ゆっくりしていらっしゃいましな。」  などと言った。表はそういうとき、 「そう、では露助にもらった更紗をM君に見せてあげなさい。M君はあんな布類が大変すきなんだから。」 「そうですか。ではお見せしますわ。」  いろいろな布類のはいった交ぜ張りの、いかにも娘のもつらしい箱をもって来たりした。ちょうど露西亜の捕虜がいるころで、みんなこの茶店へ三時の散歩にはやって来たもので、なかにひどく惚れこんでいるのもいた。 「これなんぞ随分きれいでしょう。」  それは真正のロシア更紗で、一面の真紅な地に白の水玉が染め抜かれてあった。なかにはこまかな刺繍を施した布面に高まりを見せた高価なハンカチなどがあった。それから古い銀の十字架細工のピンなど、実に立派なものが多かった。  表はそんなとき、 「戦争にゆくのによくこんなハンカチなぞ持っていたものだね。やっぱり露西亜人はのんびりしているね。」と言った。私は、 「そして捕虜がいつも来るんですか。」とたずねると、 「え、散歩の時間になりますといらっしゃいますの。」  表に気をかねてお玉さんは黙った。表はそんなとき不機嫌にしていた。そして午後三時ごろになると表はやけな調子で、 「もう三時だ。散歩の時間だ。かえろう君。」  表は嫉け気味な皮肉を言って出てゆくのであった。まだ十七になったばかりのお玉さんは、何か言いたいような可憐な寂しい目をして送っていた。表が此処でビールをのんでもいつもお玉さんが家の前をとりつくろうてくれて払わせなかった。  私はお玉さんが非常に表を愛していると思った。あのおどおどした目つきが、いつもの表の一挙一動ごとにはらはらしているさまが見えたからである。そしてああいう可憐な娘にはいつも非常に愛される質を彼はもっていた。やり放しのようで、それでいて、いつも深い計画のもとに働くのは表の巧みな、女にとり入る術であった。  ある日のこと、表の不在中、警察から高等刑事が来て、表の平常の生活を調べて行ったりした。そして巡査がやって来て、夜あまり外出させてはいけないと母親に言って行ったと、あとで表は笑いながら言っていた。けれども表はやはり縁日や公園へ行ってはお玉さんを誘い出したりして、永く夜露に打たれたり、更けて帰ったりしていた。  ある日、表をたずねると、彼はすこし蒼いむくんだような顔をしていた。 「君、僕はやられたらしい。」と私に言った。 「肺かね。しかし君はからだが丈夫だから何んでもないよ。気のせいだ。」 「そうかなあ──。」  そして私どもはよくお玉さんのところへ出かけた。もう私はビールの味を知っていた。私どもにお玉さんを加えて、時時黙って永い間坐っていることがあった。そんなときは、きっと表がお玉さんと二人きりで話したいという心になっていることが、私にももう判るようになっていた。  そんなとき、私だけはさきにかえった。お玉さんは坂の上まで送って来たりした。 「またいらしてくださいましなね。」 「ありがとう。表はからだをわるくしているようだから、ビールをあまりすすめない方がいいね。」 「ええ。私もすこし変に思っていますの。時時厭な咳をなさいますもの。」 「だいじにしてお上げ。さよなら。」 「さよなら。」  そういう日は、表は黙って拝むような目を私にしていた。私はなぜだか表の弱弱しい一面が好きであった。あの大胆な女たらしのような男に、何ともいえない柔らかい微妙な優しさがあるのを私は恋に近い感情をもって接していた。私は晩など、お玉さんによく握られたらしい彼の手を強く握ったものであった。柔らかいしかし大きい手であった。  私は彼の病気は真正の肺であることを疑わなかった。頬がだんだんに赤みを帯びて来るのが不自然であり、その徴候でもあるらしく思った。  彼は「文庫」で短篇を発表していた。 「晩などよく呼びに来るんだよ。口笛を吹いてね。」  表はお玉さんが呼出しにくるのを嬉しそうに言っていた。あの西町の静かな裏町の夕方などに、表の家の前を往ったり来たりして口笛を吹くお玉さんの下町娘らしい姿を私はよく浮彫りにするように、心で描いて見た。それに表はお玉さんができてから、よその女にはあまり目をかけなくなっていた。こういう二人の間のやさしい愛情を私は詩のように美しい心になって考えていた。決して妬ましいという心など微塵も起らなかった。ああいう可憐な女性によって、あの友の顔までが心と一しょに美しくなるようにさえ思われるのであった。  ある日、私は久しぶりで表をたずねた。彼は奥の間に床をとって臥っていた。 「とうとう床についてしまった。」  彼は青い顔をしていた。わずかの間に彼は非常に瘠せ衰えていた。 「今朝ね。もう柿の葉が散り出したのを見て、非常に寂しくなってしまった。」  庭には鳳仙花がもう咲いていた。 「君が臥ようとは思わなかった。当分外へ出ないんだね。」 「しばらく養生するつもりだ。今死んではたまらない。もっと色色なものを書きたくて耐らない。」  脣ばかりが熱で乾いて赤く冴えていた。 「お玉さんは知っているのかい。君の臥たことをね。」 「いや知らないらしい。でね。夕方などよく呼びにくるんだよ。口笛が合図になっているんで、床にいてもはらはらするの。出たいけれど出られないしね。母の前もあるしね。」 「お母さんは知らないのか。」 「感づいていないらしい。すまないけれど君が会って僕のことを話してくれないか。」 「じゃ今日帰りによってあげよう。」  私は凝然と狭い庭をながめていた。そして心の中で柿の葉が散ったのを見て寂しくなったという友のことを考えた。  私どもはしばらく黙っていた。 「僕はどうしても死なないような気がするんだ。死ぬなんてことがありそうもないようにね。」  表は私の顔をじっと見た。弱い精のつきたような眼の底に何かしらぎらぎらと感情的な光を見せていた。私はそれには答えないで黙っていると、 「君はどう思うかね。死の予期というものがあるだろうか。」 「さあ。僕はいまどうと言って言えないが、死の瞬間にはあるだろうね。」 「死の瞬間──死の間際だね。」  彼はまた考え沈んだ。彼はまた永い間経って言った。 「僕はお玉さんのことを母に言おう言おうとして言えないよ。僕はあのことを言わないで置きたいのだ。母にも姉にも心配をかけ通しだからね。」  私も時時表のお母さんにいっそ言った方がよかないかと考えたが、やはり言い出せなかった。表の顔を見ると決して言えないような気がした。いろいろな自由な生活をした放埒さがどうしてもお母さんに今更表に女があると言えなかった。 「そうね。言わない方がいいね。知れる時には知れるからね。」 「知れる時には知れる──」  表は口ごもって神経的に目をおどおどさせた。私は表が殆んどこの前に会ったときよりも、非常に神経過敏になったことや、少しずつあの大胆なやり放しな性格が弱ってゆくのがだんだん分って来た。  私は間もなく暇を告げて立ちかけると、 「明日来てくれるかね。」 「明日はどうだか分らない。来られたら来るよ。」 「来てくれたまえ。臥ていると淋しくてね。待っているからね。」  私の顔をいつもにもなく静かではあったが、強く見詰めた。私はややうすくなった友の髪を見ると、急に明日も来なければならないと思った。 「きっと来るよ。それに『邪宗門』が著いたから持ってくるよ。」 「あ。『邪宗門』が来たのか。見たいなあ。今夜来てくれたまえ。」  表は急に昂奮して熱を含んで言った。 「明日来るから待っていたまえ。じゃさよなら。」 「きっとね。」  私は街路へ出ると深い呼吸をした。  公園の坂をあがりかけると、もう蝉の声もまばらになって、木立が透いて見えた。私はお玉さんの茶店へよった。  折よくお玉さんが出て来た。私は何かしら顔が赤くなったような気がした。いつも会っていたけれど一人のときはすくなかったからである。 「いらっしゃいまし、よくこそ。」  お玉さんは、なめらかな言葉で言った。しばらく見ない間に余計に美しく冴えた顔をしていた。 「表はとうとう床につきました。きょう寄ってきたんですが──そう言っておいてくれとのことでした。しかし大したことはないんです。」と私は言った。 「まあ。わたしもそんな気がしておりましたの。そしてひどいことはないんでしょうかしら。」 「え。しかしだいぶ痩せました。」  私どもは暫く黙っていた。突然お玉さんが言った。 「やっぱりあの病気でしょうか。あの病気はなかなかなおらないそうですってね。」 「十に九までは駄目だと言いますね。しかし表君はまだそれほど心配するほどでもありませんよ。」  お玉さんの目ははや湿っていた。生一本な娘らしい涙をためた美しい目は、私の感じ易い心を惹いた。そして女は涙をためたりする時に、へいぜいより濃い美しさをもつものだという事を感じた。 「こんど何時いらっしゃいますの。」 「明日もゆきます。お言伝があったら言って下さい。」  お玉さんはややためらっていたが、 「どうぞね。おだいじになすって下さいと言って下さいまし。わたしもお癒りになることをお祈りしておりますから。」  私は表とお玉さんの交情が、あたかも美しい物語りめいたもののような気がして、私の表に対する懐しい友愛は、とりもなおさずお玉さんを愛する情愛になるような気がするのであった。二人をならべて見るとき、私のかたよった情熱はいつもこの二人をとり揃えて眺めることに、より劇しい滑らかな愛を感じるのであった。 「あなたは本当に表を愛しているのでしょうね。」  私は思わず言った。そしてお玉さんが顔を赤めたとき、言わなくともよいことを言ったと思った。 「ええ。」  お玉さんは低い声ではあったが、心持のよい声で言った。そして、 「うちのものがうすうす知っていて、ずいぶんなことを言いますけれど……。」  私は力をこめて、 「表はいい人です。永くつきあってあげて下さい。」 「ありがとうございます。」と涙ぐんだ。  私は間もなく別れを告げた。藤棚の下の坂道を下りかけると、見送っていたお玉さんがいそいで走って来て、そしてもじもじしながら、 「あの──わたしお願いがございますの。」と低い声で言った。  あたりはもう暮れかけて涼しさが少し寒さを感じさせるほどになっていた。お玉さんはぴったり私により添って、 「いちど逢わして下さいまし。」  思い詰めたように言った。彼女の顔から発散する温かみが遠い炭火にあたるように、私の頬につたわった。それに烈しい髪の匂いがした。 「それは私も考えているんですけれど、表はそとへ出られないし、あなたは公然と訪ねて行けませんしね。」 「ほんとに私わがままを言いましたわね。ごめんなさいましね。」  彼女はじっと地べたを眺めて言った。その細いきゃしゃな頸首がくっきりした白さで、しずかに呼吸につれてうごいた。 「わたし、わるうございました。失礼します。」  彼女は坂を上って行った。重い足どりが坂を下りて行く私にきこえなくなった。私は何気なく振りかえると、お玉さんは停って私の方を見送っていた。その愁わしげな姿は私をして胸をおもくした。  私は翌朝、父に表の病気の一日も早く全快するように誦経してくれるよう頼んだ。父は、法衣を肩にまきつけながら、 「あのお人かい。そりゃお気の毒だ。お経をあげましょう。」と言って本堂へ上って行かれた。  私もじっと父の誦経が降るようにきこえる下の壇で、一心に静かに祈っていた。どうにもならない病気とは知りながらも、何故かよそから力が加わることを信ぜずにはいられなかった。父の枯れ込んだ腹の底からな声は、古い本堂の鐸鈴にひびいたりした。厳そかな一時間がすぎた。  父は本堂を降りて来られた。その顔は憂わしげな、なにか不吉なものの予言に苦しめられているようであった。  父は言った。 「おいくつかね。」 「十七なんです。」 「実はね。お経中にお燈明が消えてしまったのじゃ。その方はむずかしいようだね。時時そういうお燈明の消えたことがあるが、そんなときはむずかしいね。」  父は私の顔をみつめた。 「ほんとうでしょうか。」 「疑いなさんな。」  言葉少い父は次の茶室へ這入って行った。私は信じていいか悪いか決める事ができなかった。  午後、私はしきりに表のことが考えられて仕方がなかった。病み衰えた蒼白い顔が目にうかんだ。それが静かに室の隅の方で私の名を呼んだ。「室生君」という声がきこえた。私はすぐに友を訪ねるために外へ出て行くのであった。  私は果物をすこし買った。  友の家の前で私は永い間、聴耳を立てて何事か起ってはいはしないかと窺うていたが、家の中は寂しく静かであった。ときどき力のない咳の音がした。私はその音をきくと、とんと胸を小衝かれたような恐怖を感じた。やはり悪いのだなと思いながら入った。  表は私の顔を見ると嬉しそうに、飛びかかるように言った。 「よく来てくれたね。今朝から表の方で下駄の音がすると、君が来てくれたのかと幾度も幾度も立ちかけたんだ。──君はいま表でじっと内の様子をきいていたろう。下駄の音が突然やんだので分ったよ。」  私はぎくりとした。けれども嘘は言えなかった。 「ずいぶん過敏になっているね。」  私は表のお母さんが座をはずした隙に、 「昨日お玉さんに会って話しておいたよ。」 「そう。ありがとう。」  表は私から報告される言葉を期待しているように、目をかがやかした。 「あの人は君を愛しているね。君がねていると言ったら、だいじにしてくれるように言っていたよ。」  表は黙っていた。 「でね。いちど逢いたいって──僕は何だか気の毒だった。ほんとに優しい人だね。君は仕合せだ。」 「でも女はわからないよ。心の底はどうしても分らないよ。」 「でも君の人は君を心から愛しているよ。感謝したまえ。」  表はいつかしたような疑い深そうに、自分の手を見つめていたが、 「僕だって愛されていると思うが、何故か信じられなくってね。僕はいろいろなことを考えると生きたいね。早く癒ってしまいたいね。」 「きっとよくなるよ。林檎をやらんか。」 「ありがとう。少しやろう。」  私は林檎の皮をむき出した。林檎はまっかな皮をだんだんにするするとむかれて行った。表はそれを眺めていたが、 「こんど手紙をもって行ってくれたまえ。たのむから。」と、やや明るい言葉でいった。 「いいとも。かきたまえ持って行くから。」 「その林檎はいい色をしているね。」 「あ。」  私達はこの柔らかい果物をたべていた。突然また表が言った。 「逢いたい気がするね。」 「よくなってからさ。」  この西町の午後は静かで、そとの明るい日光が小さい庭にも射し入っていた。私はそれを見ていたが、約束の『邪宗門』を出して見せた。 「もう出たんだね。」  表は手にとって嬉しそうに見た。草刷のような羽二重をまぜ張った燃ゆるようなこの詩集は彼を慰めた。感覚と異国情調と新しい官能との盛りあがったこの書物の一ペエジごとに起る高い鼓動は、友の頬を紅く上気せしめたのみならず、友に強い生きるちからを与えさえした。  友はこの書物をよこに置いて、 「この間短いのを書いたから見てくれ。」とノートを出して見せた。  ノートも薬が沁み込んで、頁をめくるとパッと匂いがした。私はしばらく見なかった作品を味うようにして読んだ。 この寂しさは何処よりおとづれて来るや。 たましひの奥の奥よりか 空とほく過ぎゆくごとく わが胸にありてささやくごとく とらへんとすれど形なし。 ああ、われ、ひねもす坐して わが寂しさに触れんとはせり。 されどかたちなきものの影をおとして。 わが胸を日に日に衰へゆかしむ。  私はこの詩の精神にゆき亘った霊の孤独になやまされてゆく友を見た。しかも彼は一日ずつ何者かに力を掠められてゆくもののように、自分の生命の微妙な衰えを凝視しているさまが、私をしてこの友が死を否定していながら次第に肯定してゆくさまが、読み分けられて行くのであった。 「病気になってから書いたんだね。」 「四、五日前に書いたのだ。やはりその気持から離れられないのだ。」  私たちはまた暫く黙っていた。表はその間に二、三度咳をした。ちからのない声は、私をして面をそむけさせた。私はときどきは伝染はしないだろうかという不安を感じたが、しかしすぐに消えて行った。  私は間もなく別れてかえった。かえるときにひどく発熱していた。  もう夏は残る暑さのみ感じられるだけで、地上の一切のものは凡て秋のよそおいに急ぎつつあった。寺の庭の菊がつぼみをもったり、柿が重そうに梢にさがり出した。けれども土は乾き切って白かった。なぜかそれらを見ていると、夏の終りから秋の初めに移る季節のいみじい感情が、しっとりと私のこころに重りかかってくるのであった。  秋のお講連中が三十三ヶ所の札所廻りに、よく私の寺の方へもやって来た。寂しい白の脚絆をはいた女連れのなかに、若い娘だちも雑っていた。それらの連中が観音さんのお堂の前で御詠歌を誦んで去ると、賑やかで寂しい一と頻りの騒ぎが済んだあとゆえ、ことに秋らしい淋しさを感じるのであった。  私は毎日詩作していた。友が病んだ後は私一人きりな孤独のうちに、まるで自分の心と一しょに生活をするように、川近い書斎にこもっていた。  その日も表をたずねた。この友は四、五日見ない間に非常に瘠せ込んで、もう臥たきりで起き上らなかった。 「どうかね。きっと快くなると信じていれば快くなるもんだよ。」  かれは白いような、淋しい微笑を浮べた。それが自分の病気を嘲っているようにも、また私が彼の病気にかかわっていないことを冷笑しているようにも受けとれるのであった。深刻な、いやな微笑であった。 「どうも駄目らしく思うよ。こんなに瘠せてしまっては……」  友は手を布団から出して擦って見せた。蒼白い弛んだつやのない皮膚は、つまんだら剥げそうに力なく見えた。 「ずいぶん瘠せたね。」  私は痛痛しく眺めた。 「それからね。お玉さんと君と友達になってくれたまえな。僕のかわりにね。この間から考えたんだ。」  かれは真摯な顔をした。私はすぐ赤くなったような気がしたが、 「そんなことはどうでもいいよ。快くなれば皆してまた遊べるじゃないか。何も考えない方がいいよ。」 「そうかね。」と力なく言って咳入った。  彼は突然発熱したように上気して、起き直ろうとして言った。 「僕がいけなくなったら君だけは有名になってくれ。僕の分をも二人前活動してくれたまえ。」  私はかれの目をじっと見た。眼は病熱に輝いていた。 「ばかを言え。そのうち快くなったら二人で仕事をしようじゃないか。」  私ははげましたが、友はもう自分を知っていたらしかった。あのような衰えようはこの頑固な友の強い意志をだんだんに挫いた。  しかし彼はまた言った。 「僕が君に力をかしてやるからね。二人分やってくれ。」 「僕は一生懸命にやるよ。君の分もね。十年はやり通しに勉強する。」  私はつい昂奮して叫んだ。  二人は日暮れまでこんな話をしていた。間もなく私はこの友に暇を告げてそとへ出た。そとへ出て私は胸が迫って涙を感じた。秋も半ばすぎにこの友は死んだ。  表の葬いの日は彼岸に近い寂しく白白と晴れた午後で、いよいよ棺が家を出るとき、お玉さんが近所の人込みの間に小さく挟まれたようにひっそりとただ一人で見送っているのが、いじらしいその涙ぐんだ眼とともに私の目にすぐに映った。参詣人といってもわずか四、五人の貧しい葬いは、長長とつづいた町から町を練って野へ出て行った。野にはもう北国の荒い野分が吹きはじまって、黍の道つづきや、里芋の畑の間を人足どもの慌しい歩調がつづいた。  表の短い十七年の生涯は、それなりでも、かなりな充実した生涯であった。私は彼がいろいろな悪辣な手段をもって少女を釣ったり、大胆な誘惑を、しかも何ら外部から拘束せられることなく、また少しも顧慮しないで衝き進んだこともだんだん私の心の持ちようにも染みてゆくところがあった。しかしまた一面には何ともいわれない優しい友愛をもっていたことも忘られないことであった。  葬いが済んでから、私は家へかえって寂しい日を送って行った。ある日、公園のお玉さんのところへ行ってみるような気になった。いちど行こうと思いながらも、死んだ友人の愛した女を訪ねてゆくということが、しきりに気が咎めてしかたがなかった。一つには、もう表もいなくなったら、かえってゆっくりお玉さんと話ができるという邪魔者のない明るい心持と、表もいろいろな悪いことをやったのだから、私があの人と交際したって構うものかという心と、も一つは、死んだ魂の前に対する深い恥かしさとが、私をしてつい彼女を訪ねさせなかった。  もう公園の芝草のさきが焦げはじめて、すすきや萩の叢生したあたりに野生の鈴虫のなきさかるころで、高い松の群生したあたりをあるくと、自分の下駄の音が、一種のひびきをもつほど空気が透った午後であった。  茶店へよると、お玉さんが出て来た。そのしおらしい赤い襷もよく冴えて、はっきりと目にうつった。 「よくいらしって下さいましたわね。」と言って、彼女はいちはやく私を見ると、すぐ表を思い出して涙ぐんだ。私も二人きりで会ったことがよけいないだけ、すぐに彼女の眼の湿うたのに誘われながら、やや胸が迫るような気がした。  私だちはいろいろなことを話した。死んだ表がたえず私だちの間に、しょんぼり坐っているようにも思われたりした。そして、いつか「お玉さんと交際してくれたまえ。君となら安心できるから。」と表が言ったことを思い出した。よそのひとなら僕は死にきれないが君となら安心できると言った表は、自分でそう言いながら寂しい顔をした。 「これから時時いらしって下さいまし、わたし本当にお友だちがないんですから。」と、彼女は言った。  人間一人の死は、私と彼女との間にはさまって、ことに娘らしい弱い彼女をだんだんに安心させて私に近づかせて来るようであった。私は私で、表の死んだのを餌にしているような心苦しさを気にしながら、なれやすい優しい女の性からくる親しみをすこしずつ感じた。 「あの方のことはもうおっしゃらないで下さいまし。わたしいろいろなことを思い出して悲しくなりますから。」と言った。  私はそれを聞くと、彼女ができるなら少しでも表のことを忘れるようにつとめているのを感じた。私はそれが物足りない気がした。また一方には死んだものをいつまでも慕うていることも、しおらしい彼女にとってはしかたがないことであったが、なんだかこれまで経験したことのない妬ましさをも感じた。 「表さんの病気はうつるって言いますが本当でしょうか。」とお玉さんは言った。  それと同時に私も表と一しょによく肉鍋をつついたり、酒をのんだりしたことを思い出して、自分にも伝染してはいないかと、一種の寒さを感じた。 「食べものからよく伝染ることがありますね。からだの弱い人はやはりすぐにうつりやすいようです。」  いつか表が咳入っていたとき、蚊のような肺病の虫が、私の坐ったところまでぱっと拡がったような気のしたことを思い出した。そのときは、なに伝染るものかという気がしたし、友に安心させるためにわざと近近と顔をよせて話したことも、いま思い出されて、急に怖気がついて来て、とりかえしのつかないような気がした。 「わたしこのごろ変な咳をしますの。顔だって随分蒼いでしょう。」  はじめて会ったころよりか、いくらか水気をふくんだような青みを帯びているように思われた。そして私はすぐに表と彼女との関係が目まぐるしいほどの迅さで、二つの脣の結ぼれているさまを目にうかべた。あの美しい詩のような心でながめた二人を、これまでいちども感じなかった或る汚なさを交えて考えるようになって、妬みまでが烈しくずきずきと加わって行った。いま此処にこうした真面目な顔をして話をしていながら、いろいろな形を亡き友に開いて見せたかと思うと、あの執拗な病気がすっかり彼女の胸にくい入っていることも当然のように思えるし、また何かしら可憐な気をも起させてくるのであった。また一面には小気味よくも感じ、それをたねに脅かしてみたいような、いらいらした気分をも感じてくるのであった。そうかと思うと、彼女と表との関係があったために、このごろ毎日家で責められていたり、すこしも寛ろいだ気のするときのないことや、よく表に融通したかねのことなどで絶えず泣かされることを聞くと、私は「表もずいぶん酷いやつだ。」と考えるようにもなった。 「みんな私がわるかったんですから、わたしあの方のことなんかすこしも怨みません。」と言って私を見た。 「表ももうすこし生きていれば、何とかあなたのことも具体的にできたのでしょうけれど。」  私は言いながらも、いつも表の感情が決して的確な地盤の上で組み立てられていないことを、ことにお玉さんの身の上にもかんじた。表はただ享楽すればよかった。表は未来や過去を考えるよりも、目の前の女性をたのしみたかったのだ。私は表のしていたことが、表の死後、なおその犠牲者の魂をいじめ苦しめていることを考えると、人は死によってもなおそそぎつくせない贖罪のあるものだということを感じた。本人はそれでいいだろう。しかし後に残ったものの苦しみはどうなるのだろうと、私は表の生涯の短いだけ、それほど長い生涯の人の生活だけを短い間に仕尽して行ったような運命の狡さを感じた。 「このごろ死ぬような気がしてしようがないんですの。」 「あんまりいろいろなことを考えないようにした方がいいね。」 「でもわたし、ほんとにそんな気がしますの。」  女のひとにありがちな、やさしい死のことを彼女も考えているらしかった。私はまたの日を約して別れた。  十一月になって、ある日、どっと寒さが日暮れ近くにしたかと思うと、急に大つぶなカッキリした寒さを含んだ霰になって屋根の上の落葉をたたいた。その烈しい急霰の落ちようは人の話し声も聞えないほどさかんであった。私が書院の障子をあけて見ると、川の上におちるのや、庭のおち葉をたたきながら刎ねかえる霰は、まるで純白の玉を飛ばしたようであった。私は毎年この季節になると、ことにこの霰を見ると幽遠な気がした。冬の一時のしらせが重重しく叫ばれるような、慌しく非常に寂しい気をおこさせるのであった。父は茶室にこもりはじめた。しずかな釜鳴りが襖越しに私の室までつたわって来た。「お父さんはまたお茶だな。」と思いながら私は障子をしめた。梅が香の匂いがどの室で焚かれているのか、ゆるく、遠く漂うて来た。  私は夕方からひっそりと寺をぬけ出て、ひとりで或る神社の裏手から、廓町の方へ出て行った。廓町の道路には霰がつもって、上品な絹行燈のともしびがあちこちにならんで、べに塗の格子の家がつづいた。私はそこを小さく、人に見られないようにして行って、ある一軒の大きな家へはいった。 「先日は失礼しました。どうぞお上りなすって下さいまし。」  二階へ案内された。私はさきの晩、なりの高い女を招んだ。私はただ、すきなだけ女を見ておればだんだん平常の餓えがちなものを埋めるような気がした。 「金毘羅さんの坊ちゃんでしたわね。いつかお目にかかったことのある方だと思っていたんですよ。」  彼女は小さい妹芸者を振りかえって笑った。私はいつも彼女を寺の境内で、そのすらりとした姿をみたときに逢って話したいと思っていて、こうしてやって来て、いつも簡単に会えるのがうれしかった。 「雨のふるのによくいらしったわね。」  彼女は火鉢の火を掻いた。この廓のしきたりとして、どういう家にもみな香を焚いてあった。それに赤襟といわれている美しい人形のような舞妓がいて、姉さんと一しょに座敷へやって来るのが例になっていた。 「お酒を召しあがりになりますの。」  彼女はちょいと驚いた。 「すこしやれるんだから、とって下さい。」  このごろ少しくやれる酒を言い附けた。 「あなたはいつも黙っているのね。」  女は手持無沙汰らしく言った。私はべつに話すこともなかったし、妙に言葉が目まいしたように言えなかった。それにこの廓町へはいると、いつもからだが震えてしかたがなかった。ことに女と話していると、その濃厚な大きい顔の輪廓や、自分に近くどっしりと坐っているのを見ると、一種の押されるような美しくもあやしい圧迫を感じた。それがだんだん震えになって、指さきなどがぶるぶるして来るのであった。お玉さんなどと会っていても身に感じなかったものが、いつも此処では感じられて来るのであった。 「じっとしていらっしゃい。きっと震えないから。」  と女は言ったが、じっと力をこめていてもやはり手さきが震えた。こらえれば、こらえるほど烈しい震えようがした。そこでは、いつも時間が非常に永いような気がした。たとえば女と私とが僅か三尺ばかりしか離れていないために、女のからだの悩ましい重みが、すこしずつ、その美しい円いぽたぽたした坐り工合からも、全体からな曲線からも、ことにその花花しい快活な小鳥のくちのように開かれたりするところからも、一種の圧力をもって、たえず私の上にのしかかるようで、弱い少年の私の肉体はそれに打ちまかされて、話をするにも、どこかおずおずしたところがあるのに気がついた。 「妾ね。昨日もおまいりに行ったとき、あなたがもしも境内にでも出ていらっしゃらないかと思って、しばらく廊下にいましたの。」 「僕は奥にいるからめったに外へ出たことがない──。」と、女がなんだか、ありそうもないことを言ったようで変な気がした。それにしきりに先刻から寺のことが考えられて仕方がなかった。父のことや、父を欺して貰って来た金のことなどが、たえず頭のなかで繰り返されて来て、落ちつかなかった。たとえば私のこんな遊びをしている間に、ひょっとしたことから火事でも出来たら大変だという懸念や、何か特別な天災が起って来そうに思われて仕方がなかった。ことに此麽派手な座敷のいろいろな飾り立や、女のもって来た三味線や、業業しく並べ立てられた果物の皿などが、寺の静かな部屋とくらべて考えると、ここに坐っているだけでも非常な悪いことのような気がした。しまいには、ひとりで顔が蒼くなるほど煩く種種なことを考え出して胸が酸っぱくなって一時も早く帰らなければならないような気がした。 「僕は今夜はすこし急ぐから。」と言って立ち上った。 「もっとゆっくりしたっていいじゃありませんか。あまり晩くなるとお家へいけないでしょうが、でもまだ九時よ。」  引止められても、私はどうしても帰らなければならない気がして、外へ出た。  寺へ帰ると、父の顔が正視できないような、今までいたところをすっかり父が知っているような気がした。 「だいぶ遅いようだが若いうちは夜あまり外出しない方がいいね。」  父はやさしく言う。 「つい友達のところで話し込んでしまったものですから。」  私は、逃げるように自分の室へはいるのであった。  自分の室はすぐ縁から犀川の瀬の音がするところにあった。今夜はなぜかその瀬の音までが、いつものようにすやすやと自分をねむらせなかった。私はながい間目をさましながら、もっと女のところにいればよかったとも考えた。 「あなたのようなお若い方はおことわりしているのですが、おうちをよく存じ上げているものですから……」  そういうおかみまでが、しみじみした、これまでにない或る種類の人情をかんじた。しかし私は座敷へ呼んで見た女が、どうしても寺へお詣りに来て、いつもちゃんと坐って熱心な祈願に燃えている有様と、まるで別人のような気がしてならなかった。その合掌して、目を閉じて頻りにすすり泣くような声をあげて祈っているのが、記帳場にいてもそれと聴き分けられるほど、鋭い艶艶しい性慾的であるのに、会っていると、あれほどの刺戟性もなければ美しさもなかった。それに彼女の銀杏返しが本堂内で見るとき、天井から吊しさげられた奉納とか献燈とか書いた紅提灯との調和が非常によく釣り合っているのにくらべて、目の前で見ていると、ただの女のようで味気なかった。私の求めて行ったものがいつも失われるような気がした。  その結果、私はもう行くまいと考えたり、自分がああいうところに行くようになったことを非常に悪いことに考えられて仕方がなかった。  私はひとり机に向っているときでも、いろいろな恋の詩をかいたり、または、いつまでも一つところを見て、何をするということもなくぼんやりしていることが多かった。妙にからだ中がむずがゆいような、頭の中がいらいらしくなって、たえず女性のことばかり考えられてくるのであった。たとえば自分の蒼白い腕の腹をじっと見つめたり、伸ばしたり曲げたりしながら、それが或る美しい曲線をかたちづくると、そこに強烈な性慾的な快感を味ったり、自分で自分の堅い白い肉体を吸って見たりしながら、飽きることのない悩ましい密室の妄念にふけっているばかりではなく、ときとすると、新聞の広告に挿入されたいまわしい半裸体の女などを見ると、自分の内部にある空想によって描かれたものの形までが手伝って、永い間、それを生きているもののような取扱いに心は悩み、快感の小さい叫びをあげながら、その美しい形を盛りあげたり、くずしてみたりするのであった。  朝朝の目ざめはいつもぼおっとした熱のようなものが、瞼の上に重く蜘蛛の巣のように架っていて、払おうとしてもとりのけられない霞のようなものが、そこら中に張りつめられているようで、懶い毎日がつづいた。  私はふらふらとそとへ出た。  霰が二、三度降ってきてから、国境の山山の姿は日に深く、削り立てたような、厚い積雪の重みに輝いていた。磧の草はすっかり穂を翳しながら、いまは、蕭蕭とした荒い景色のなかに顫えて、もう立つことのない季節のきびしい風に砥がれていた。誰しも北国に生れたものの感じることであるが、冬のやってくる前の息苦しい景色の単調と静止とは、ひとびとの心にまで乗りうつって、なにをするにも鈍な、かじかんだところが出て来るのであった。  向河岸の屋根は曇った日のなかに、そらと同じい色にぼかされ、窓窓の障子戸ばかりがさむざむと水面に投影しているのが眺められた。私はそれから坂をあがって、公園の方へ出た。  冬のはじまりは公園の道路に吹きしかれた落葉にも、掛茶屋のぴったり閉めきった障子戸にも、刈り込められた萩の坊主株が曲水のあちこちに寂しくとり残されたあたりにも感じられた。葉をふるいおとした明るい雑林に交って咲いたさざんかの冷やかに零れた土の湿り気は、凍るような荒さを夜ごとの降霜や、霰にいためられながら、処処にむくれ上っていた。  私はその疎林を透して、やや下地になった噴水の方を見た。たたた……たたた……と水面をたたいて落ちる飛沫は、小さい其処にあるつつじの葉ッ葉を濡らして、たえまなく、閑寂な、冷やかな単調な音をつづっていた。私はしゃがんで、表がよくここらでお玉さんとあいびきしたことを考えた。すぐ噴水のそばに彼女の家があったが、ひっそりと静まりかえった障子戸のうちは、深い山里の家のような寂しさを私に思わせた。ことにこの頃になると散歩する人もなくなっていたから、いたずらに掃く園丁の忠実な仕事ぶりも、ただ、そこらの道路をひとしお寂しく白白と眺めさせるのみであった。  私はお玉さんの家の前へ行った。そして「ごめんなさい。」と言うと、なかからひそひそ声がした。それは誰の声とも分らなかったが、なぜかしら不安な気をおこさせた。そのひそひそ声が止むと、お玉さんのお母さんが出てきた。二、三度会っていて知っていた。 「いらっしゃいまし。」と言ったが、私はその母なるひとの顔を見ると、何か取り込んだ落ちつかぬ色を見た。「お玉さんは。」と言うと母親は私のそばへ寄るようにして、 「実は先日からすこし加減をわるくして寝んでいますので……」  私はぎっくりした。すぐ、この前に会ったときの蒼い水気をふくんだ顔をすぐ思い出した。「うつったな。」と言う心のなかの叫びは、すぐに、「やられたな。」とつぶやいた。 「よほどお悪いんですか。」 「え。よかったり悪かったりして、お医者では永びくだろうと言ってらっしゃいましたが、やはり表さんと同じ病気だと思うんでございますよ。」  いくらか皮肉なところもあったので、私は、 「御大切になさい。どうかよろしく言って下さい。」と、すぐ表へ出た。  私は途途、あの恐ろしい病気がもうかの女に現われはじめたことを感じた。私自身のなかにも、あの病気がありはしないだろうかという不安な神経をやみながら、あの小さい少女らしい可憐な肉体が、しずかに家に横臥えられていることを考えると、やはり表のように、とても永くないような気がした。私はじっと噴水のたえまなく上るのを見ながら沈んだ心になって、公園の坂を下りて行った。 「わたしこのごろ死ぬような気がしますの。」  この間云っていたその言葉が、真実にいま彼女の上に働きかけていることを感じた。 底本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年1月25日第1刷発行    2003(平成15)年11月14日改版第1刷発行    2005(平成17)年12月15日第3刷発行 底本の親本:「或る少女の死まで 他二篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年1月刊 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:辻朔実 校正:門田裕志、小林繁雄 2012年12月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。