海のかなた 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 海のかなた  海に近く、昔の城跡がありました。  波の音は、無心に、終日岸の岩角にぶつかって、砕けて、しぶきをあげていました。  昔は、このあたりは、繁華な町があって、いろいろの店や、りっぱな建物がありましたのですけれど、いまは、荒れて、さびしい漁村になっていました。  春になると、城跡にある、桜の木に花が咲きました。けれど、この咲いた花をながめて、歌をよんだり、詩を作ったりするような人もありませんでした。ただ、小鳥がきて、のどかに花の咲いている枝から枝に伝ってさえずるばかりでありました。  夏がきても、また同じでありました。静かな自然には、変わりがないのです。日暮れ方になると、真っ赤に海のかなたが夕焼けして、その日もついに暮るるのでした。  いつ、どこからともなく、一人のおじいさんが、この城跡のある村にはいってきました。手に一つのバイオリンを持ち、脊中に箱を負っていました。  おじいさんは、上手にバイオリンを鳴らしました。そして、毎日このあたりの村々を歩いて、脊に負っている箱の中の薬を、村の人たちに売ったのであります。  こうして、おじいさんは日の照る日中は村から、村へ歩きましたけれど、晩方にはいつも、この城跡にやってきて、そこにあった、昔の門の大きな礎石に、腰をかけました。そして、暮れてゆく海の景色をながめるのでありました。 「ああ、なんといういい景色だ。」と、おじいさんは海の方を見ながら、ため息をもらしました。おじいさんは、この海の暮れ方の景色を見ることが好きでした。  つばめはしきりに、空を飛んで鳴いています。船の影は、黒く、ちょうど木の葉を浮かべたように、濃く青い波間に見えたり、隠れたりします。そして、真っ赤に、入り日の名残の地平線を染めていますのが、しだいしだいに、波に洗われるように、うすれていったのでありました。  おじいさんは、ほとんど、毎日のようにここにきて、同じ石の上に腰を下ろしました。そして、沖の暮れ方の景色に見とれていましたが、そのうちに、バイオリンを鳴らすのでした。  おじいさんの弾くバイオリンの音は、泣くように悲しい音をたてるかと思うと、また笑うようにいきいきとした気持ちにさせるのでした。その音色は、さびしい城跡に立っている木々の長い眠りをばさましました。また、古い木に巣を造っている小鳥をばびっくりさせました。そして、しまいには、うす青い、黄昏の空にはかなく消えて、また低く岸を打つ波の音にさらわれて、暗い奈落へと沈んでゆくのでした。おじいさんは、自分の鳴らす、バイオリンの音に、自分からうっとりとして、時のたつのを忘れることもありました。  夏の日の晩方には、村の子供らがおおぜい、この城跡に集まってきて石を投げたり鬼ごっこをしたり、また繩をまわしたりして遊んでいました。子供らは、はじめのうちは、おじいさんの弾くバイオリンの音を珍しいものに思って、みんなそのまわりに集まって聞いていました。 「いい音がするね。」 「学校のオルガンよりか、この音のほうがいいね。」  子供らは、たがいに、こんなことをいいあっていました。  おじいさんは、あるときは、子供らを相手にいろいろな話もしました。しかしみんなは、おじいさんの弾くバイオリンの音に慣れ、またおじいさんの話にも聞き飽きると、いままでのように、おじいさんのまわりには寄ってきませんでした。 「薬売りのおじいさんが、また、あすこで鳴らしているよ。」と、一人の子供がいうと、 「稽古をしているのだよ。」と、他の一人の子供がいいました。 「稽古でない、海の景色がいいから、見てうたっているのだよ。」 「そうでない、ねえ、稽古だねえ。」  子供らはいろんなことをいって、議論をしましたが、また、そんなことは忘れてしまって、みんなは遊びに夢中になりました。  ひとり、松蔵という少年が、この中におりました。この少年の家は、貧乏でありました。彼は、他の子供らが騒いだり、駆けたりして遊んでいましたのに、ひとり、おじいさんのそばへきて、熱心にバイオリンの音を聞いて、感心していました。  いつしか、おじいさんと、この少年とは仲よくなりました。 「どうして、こんないい音が出るのでしょうね。」と、松蔵は、不思議そうにおじいさんに向かってたずねました。 「坊は、音楽が好きとみえるな。」と、人のよいおじいさんは、少年の顔を見ながら、笑っていいました。 「聞いていると、ひとりでに涙が出てくるの……。」 「ははは、坊も、私のお弟子になってバイオリンが弾きたいかな。」と、おじいさんはいいました。 「おじいさん、どうか僕に、バイオリンを教えてください。」と、少年は、熱心に、目を輝かして頼みました。  それからは、おじいさんは、自分のバイオリンを少年に貸して、弾く方法を教えてやりました。  松蔵は、おじいさんから、バイオリンを教わることをどんなにうれしく思ったでしょう。そして、毎日、日暮れ方になると、城跡にいって、いつもおじいさんの腰かける石のそばに立って、おじいさんのくるのを待っていました。 「なかなかよく弾けるようになった。」といって、おじいさんは、松蔵の頭をなでてくれることもありました。  夏も、もはや逝くころでありました。おじいさんは、ある日のこと、松蔵に向かって、 「坊や、おじいさんは、もう帰らなければならない。こんど、いつまた坊にあわれるかわからない。坊は、きっと上手なバイオリンの弾き手になるだろう。私のかたみに、このバイオリンを坊に置いてゆく。坊は、このバイオリンで私がいなくなってもよく、稽古をしたがいい。」といって、バイオリンを松蔵にくれました。  少年は、どんなに喜んだでありましょう。また、おじいさんに別れなければならぬのを、どんなに悲しく思ったでありましょう。  おじいさんは、船に乗って、遠く、遠くいってしまいました。少年は、おじいさんの故郷を知らなかったのです。ただ、このとき、海の上を望んで悲しんでいました。おじいさんを乗せた船は、夕焼けのする、紅い海のかなたに消えてゆきました。少年は、果てしない、その方を見やって、ただ悲しみのために泣いていました。  毎日、入り日は、紅く海の上を彩りました。そして、城跡から、海をながめるその景色に変わりはなかったけれど、おじいさんの姿は、もはや、どこにも見ることができませんでした。  少年は、おじいさんが、腰かけた石のところにやってきました。ありありとおじいさんが、いつものように、小さな箱を脊中に負って、バイオリンを持って、石に腰をかけている姿が見えたのです。 「おじいさん!」  少年は、こう呼びました。しかし、応えはありませんでした。  彼は、自分の手に、いまおじいさんの持っていたバイオリンのあるのに、はじめて気づきました。そして、おじいさんは、海のかなたへいってしまったのだと知って、かぎりなく悲しかったのです。  彼は、その石に腰をかけました。また小さな姿で、その石の上に立ちました。そうして沖の方を向いて、おじいさんから教えてもらったバイオリンを弾くのでした。  少年は、おじいさんのことを思うと、胸がいっぱいになりました。いつしか自分の弾いているバイオリンの音は、悲しい響きをたてていたのでした。  海鳥は、しきりに鳴いています。頭の上の松の木を渡る風の音まで、バイオリンの音に心をとめて、しのび足して過ぐるように思われました。  いつしか、村の子供らまで、松蔵の弾くバイオリンの音を、感心して聞くようになりました。  松蔵は、おじいさんがいなくなっても毎日のように、城跡の石のところにきて、おじいさんがしたように、沖の方をながめながら、熱心にバイオリンの稽古をしたのであります。  けれど、ここに思いがけない不幸なことがもちあがりました。  松蔵の家が、貧乏のために、いっさいの道具を競売に付せられたことであります。もとよりなにひとつめぼしいものがなかったうちに、バイオリンが目立ちましたのですから、この松蔵にとってはなによりも大事な楽器を奪い去られてしまいました。そして、バイオリンは他のがらくたといっしょに車につけて、どこへか運び去られました。  車が、でこぼこの道をゆきますと轍がおどって、そのたびにバイオリンは車の上から悲しいうなり音をたてたのであります。  松蔵は、目に、いっぱいの涙をためて車の行方を見送っていました。しかしそれをどうすることもできなかったのです。  こののちは、自分が、できるだけ働いて、自分の力でそれを取り返すよりは、ほかに途がないことを感じました。  松蔵は、あの忘れがたいおじいさんのかたみである、そして、自分の大事なバイオリンを取り返すためには、どんな苦労をもいとわないと決心しました。それから、松蔵は、小さな体で堪えるだけの仕事はなんでもしました。工場にいっても働けば、家にいても働き、また、他人の家へ雇われていっても働きました。寒い冬の夜も、また、暑い夏の日盛りもいとわずに働きました。そして、自分の家のために尽くしました。また、もう一度、失ったバイオリンを自分の手に買いもどして、それを弾きたいという望みばかりでありました。  けれど、あのバイオリンが、はたして、自分の手にもどってくるか、どうかということは、まったくわかりませんでした。もしかだれか、知らぬ人の手に渡ってしまって、ふたたび自分の手に返るようなことはないと考えましたときは、彼は、どんなに悲しみ、もだえたでありましょう。  けれど、あのバイオリンは、きっと、いつか自分の手にもどってくるにちがいないと信じますと、また、彼の瞳は、希望の光に輝いたのであります。  三年の後、彼はとうとうバイオリンを、買いもどすだけの金を持つことができました。 「これから、自分は、バイオリンを探して旅立ちしよう。」  松蔵は、城跡の石のところにきました。そして、海の方をながめて、祈りました。 「どうか、あのなつかしいバイオリンが、私の手にもどってきますように。」と、祈りました。  空を鳴きながら飛んでいるつばめは、彼のいうことを聞きました。そして、この憐れな少年に同情するごとく、くびを傾けてながめていました。  少年は、両親や、姉妹に別れを告げました。 「私は、旅をして、りっぱな音楽家になって帰ります。」  そういって、彼は、故郷を立ち出たのです。  それから、彼は、あちらの町、こちらの町とさまよって、バイオリンを探して歩きました。  また、バイオリンを弾く家の前に立っては、じっとその音に耳を傾けました。弾いている人にどれほどの技倆があろう。弾いているバイオリンは、なつかしい自分のものであったバイオリンではなかろうか? と、かたときも自分の志と、バイオリンのことを忘れませんでした。  少年は、おじいさんのしたように、薬売りになったり、筆や、墨を売る行商人になったりして、旅をつづけました。  ただ一つ、そのおじいさんの持っていたバイオリンにめぐりあうのに、頼みとするのは、小さな星のような真珠が、握り手のところにはいっていたことです。少年は、ふるさとに近い町の道具屋は一軒のこらずにきいて歩きました。 「真珠の小さな珠が、握り手にはいっているバイオリンは出ませんでしたか?」  どこかこの近くの古道具屋に、そのバイオリンは売られたと思ったからです。そして、まだ、その店のすみに残っていやしないかというかすかな望みがあったからでありました。  すると、一軒の道具屋は、いいました。 「なんでも、そんなバイオリンを三年ばかし前に買ったことがあります。店にかけておくとある日、旅の人が前を通りかかって、そのバイオリンを見て、ほめて買ってゆきました。どこの人ともわかりませんが、なまりで西の方の国の生まれだということはわかりました。もう、そのバイオリンはどこへいったかわかるものでありません。」  松蔵は、そう聞くと、がっかりしました。 「その人は、どちらへいったでしょうか。」といって、ため息をつきました。  道具屋の主人は、笑いました。 「なんで、そんなことがわかるものですか。しかし、いまごろは、あの買った人も、またどこかの古道具屋へ売ってしまったかもしれません。あなたが、そんなにほしいものなら、幾年もかかって探してみなさるのですね。しかし、そんなことはむだなことかもしれません。」と、主人はいいました。 「私には、あのバイオリンでなければ、けっして出ない音があります。命をかけても探さなければなりません。もしあのバイオリンが見つからなかったら私は、もう生きているかいもないのです。」と、少年はいいました。  これを聞くと、主人は、目を円くしてびっくりしました。 「あなたが、そんなに熱心なら、きっと見つかるときがあるでしょう。」といいました。  少年は、その言葉に勇気づけられました。そして、あてなき旅をつづけたのであります。  その後、幾十たび、幾百たび、いろいろな古い道具を売る店にはいって、バイオリンを聞いたでしょう。また、あるときは、風の絶え間にどこからか聞こえてくるバイオリンの音色に耳を傾けて、もしや、だれか自分の持っていたバイオリンを弾いているのではないかと思ったりしました。  そのバイオリンの音は、じつにいい音色でした。そして、それを弾いている人は、けっして下手ではありませんでした。けれど、彼は、自分のおじいさんからもらった、バイオリンには、けっして、他のバイオリンにはない、音色の出ることを感じていました。 「あのバイオリンじゃない。」  彼は、がっかりしました。  明くる日も、また明くる日も、少年は、旅をつづけたのであります。  春の日の雨催しのする暖かな晩方でありました。少年は、疲れた足を引きずりながら、ある古びた町の中にはいってきました。  その町には、昔からの染物屋があり、また呉服屋や、金物屋などがありました。日は、西に入りかかっていました。少年は、あちらの空のうす黄色く、ほんのりと色づいたのが悲しかったのです。  雨になるせいか、つばめが、町の屋根を低く飛んでいました。このとき、少年は、疲れた足を引きずりながら、まだ家の内には、燈火もついていない、むさくるしい傍の軒の低い家の前にさしかかりますと、つばめが三羽、家の内から、外の往来に飛び出しました。それと同時に、ブーンといって、バイオリンの糸の鳴り音がきこえたのであります。  少年は、はっと心に思いました。なぜならその音色は、きき覚えのあるなつかしい音色でありましたからです。  もうすこしのことに、気づかずに通り過ぎようとしましたのを、彼は立ち寄って、その古道具屋をのぞいてみました。それは、つばめが、止まっていて、飛び立つときに、その糸を鳴らしたとみえます。そこには、バイオリンが一ちょうすすけた天じょうからつるされていました。彼は、よく見ると、それに小さな光る星のような、真珠がはいっていたのでした。 「あ!」と、声をたてて、少年は、喜びに、狂わんばかりでありました。そしてさっそく、このバイオリンを買って、自分の腕に奪うように抱きました。まさしく、三年前に失くしたおじいさんのくれたバイオリンでありました。  黄昏方の空に、つばめはないています。そのつばめの鳴く声は故郷の海岸の岩鼻でなくつばめの声を思わせました。 「ああ、つばめが、私に、教えてくれたのだ。」と、うす明かりの下で、バイオリンを抱いて少年は、つばめの飛んでゆく北の空をながめていました。  松蔵は、唄うたいとなりました。かつて、おじいさんがそうであったように、脊中に、小さな薬箱を負って、バイオリンを弾きながら、知らぬ他国を旅して歩いたのです。  入り日は、赤く、海のかなたに沈みました。彼は、その入り日を見るにつけて、おじいさんのことを思わずにいられませんでした。旅するうちに、幾たびか月日はたちました。松蔵は、青年となったのです。けれど、彼は、どうかして一度、海を渡って、あちらにある国にいってみたいという希望を捨てませんでした。  ある年の初夏のころ、彼は、ついに海を渡って、あちらにあった大島に上陸しました。  そこには、いまいろいろの花が、盛りと咲いていました。  彼はその島の町や、村でやはり薬の箱を負って、バイオリンを鳴らして、毎日のように歩いたのです。こんど、彼は、おじいさんを探ねなければなりませんでした。  彼が、バイオリンを鳴らしながら道を歩くと、村の子供たちが、男となく、女となく、みんな彼の身のまわりに集まってきました。 「ああ、この人だ。この人だ。」 「私に、どうかバイオリンを教えてください。」 「わたしにも……。」  子供らが、こういって、口々に頼みましたばかりでなく、親たちまで家の外に出て、松蔵をながめていました。 「どうしたことか?」と、彼は、不思議に思いました。すると、一人の子供が、 「私たちのおじいさんが、死になさる前に、もし真珠の星のはいったバイオリンを弾いてきた人があったら、第二の私だと思って、その人から、バイオリンを教えてもらえといわれたのです。」といいました。  彼は、このことを聞くとがっかりしました。なつかしいおじいさんに、もう永久にあうことができなかったからです。それから彼は、花の咲き、ちょうの飛ぶ中で、みんなに音楽を教えてやりました。 底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社    1977(昭和52)年2月10日第1刷発行    1977(昭和52)年C第2刷発行 初出:「週刊朝日」    1924(大正13)年1月 ※表題は底本では、「海のかなた」となっています。 ※初出時の表題は「海の彼方」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:富田倫生 2012年1月21日作成 2012年9月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。