奥さまと女乞食 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 奥さまと女乞食  やさしい奥さまがありました。あわれな人たちには、なぐさめてやり、また、貧しい人たちには、めぐんでやりましたから、みんなから、尊敬されていました。  冬になると雪が降りました。そして、いままで、外で働いていたものは、仕事をすることができなくなりました。家にいてさえ、寒い日がつづいたのであります。 「ああこんなような日には、食べるものもなく、また、たく薪もなく、困っているものがあるにちがいない。それを思うと、私たちはしあわせだといわなければなりません。」  奥さまは、外を見ながら、こんなことを考えていられました。すると、窓の下を旅人がわらじをはいて、歩いてゆきます。また、重い荷をそりにつけて、男が、うなりながら引いてゆきます。つぎには、あわれな女乞食が、子供をおぶって、あちらからやってきましたが、日ごろから、やさしい奥さまが、窓をのぞいていられたので、頭を低く下げて、恥ずかしそうに、 「どうぞ、奥さま、なにかめぐんでやってください。」と、願いました。  女の身一人でも、この季節に食べてゆくことは困難であろうのに、こうして、子供があっては、なおさら、困るにちがいないと、奥さまは深く同情せられました。女のおぶっている子供は、脊中で、泣いていました。 「どうして、そんなに、その子は泣くの?」と、奥さまは、聞かれました。  すると、女乞食は、訴えるように、奥さまの顔を見上げて、 「この寒さに、かぜをひいたのでございます。」と答えた。  これを聞くと、奥さまは、自分の体に、悪寒を感じたような気がしました。かぜをひいているのに寒い風にあたってはよくないだろう。そして、こんなにうす着では、ますます冷えるばかりだろう。しかし、この女には、どうすることもできない。 「まあ、それはかわいそうに……。」と、奥さまは、同情されました。なんといって、なぐさめたらいいか、奥さまには、わからなかったのでした。  奥さまは、内へはいって、もちや、お菓子や、また、紙に包んだ銭を持ってこられて、 「帰ったら、この子にやってください。」といって、女乞食に渡されました。  乞食は、目に涙をためて、幾たびも幾たびも頭を下げて、窓の下を去りました。  後で、独り、奥さまは、ぼんやりと、思われたのです。もし、これが、うちの子であったら、どうだろう、あのかわいい坊やが、かぜでもひいたのだったら、どうだろう? 私は、こうしていられはしない。私は、いてもたってもいられはしない。私は、気が狂うばかりに、大騒ぎをするにちがいない。そして、あんなに泣くのを、じっとして聞いていられないだろう……。 「こうも、人間は、境遇によって、心の持ち方がちがうものかしらん。」と、考えていられました。  このとき、隣の年とった女房が、粉雪のちらちら風に舞う中を、前垂れを頭からかぶって小走りにやってきました。そして、窓の下のすぐ奥さまの目の下に立って、小さな声で、 「奥さま、まことに、お気の毒ですけれど、晩に食べる米がないのです。どうか、一升ばかり、お貸しくださいませんか。」と、つばをのみのみ頼みました。  奥さまは、この一家は、子供がたくさんで、平常から困っているのをよく知っていました。これまでも、こんなことをいってきたのは、たびたびです。そして、借りていった米をついに返しにきたことはなかった。奥さまは、また、貸してやったものは、与えるつもりでいましたから、催促は、もとより、持ってこなくとも、べつに気にも、とめていませんでした。しかし、女房が、こういってくるときは、前に借りていったことは、すっかり、忘れてでもいるようなようすでありました。 「いま、ここへ持ってきますから、お持ちなさい。」と答えて、奥さまは、ふたたび奥へはいって、自分で米をますに山盛り持ってこられました。 「まあ、こんなに、ありがとうぞんじます。」と、女房はいって、かぶっていた前垂れをとって、その中へ米をいれてもらいました。風は、女房の灰色がかった髪の毛を吹いています。 「なかなか、寒うございますが、お坊ちゃまは、どうもなさいませんですか。」と、女房は、たずねました。 「ねえやに、おんぶして、いま、眠っています。」と、奥さまは、笑っていいました。 「いい赤い帽子を買って、おあげなすって、たいへんに、おかわいらしゅうございますこと。昨日ねえやさんに、おんぶして、前をお通りになりましたとき、にこにこしていらっしゃいました。ほんとうに、ご不自由がなくて、おしあわせでございます。」と、女房は、お世辞を残して帰っていきました。  それから、二、三日後のことであります。坊ちゃんは、赤い帽子をかぶって、女中におぶわれて、雪晴れのした、日当たりに出て、雨滴のぴかぴか光り、落ちるのをおもしろがって、きゃっきゃっと笑いながら見ていました。そのうちに、まるまるとした、かわいらしい手を出して、自分のかぶっている帽子をとって、下のぬかるみの中に投げてしまいました。  なにか、ほかのことに気をとられて、うっかりしていた女中は、はっとして気づくと、奥さまの買ってきてくだされた、坊ちゃんの新しい帽子が、ぬかるみの中に落ちて、だいなしになっているので、 「まあまあ、お坊ちゃま、たいへんじゃございませんか……。」といって、あわてて拾い上げたけれど、どろがびったり、帽子についていました。  女中は、さっそく、帰って、このことを奥さまに告げ、そして、水で、帽子を洗って、窓の外の日当たりに出して、乾かしておいたのであります。  冬の天気は、また、陰って、雪となりました。奥さまは、障子の閉まった、へやの中で、熱心に仕事をしていられました。そのとき、窓の外で、人のけはいがして、 「あか、あか、坊ちゃんのきれいな、あかいお帽子だこと……。」 「いいお帽子だこと。あたたかそうなお帽子だこと……。」  こういって、脊中の子供に、いっているのは、まさしく、こないだの女乞食でありました。奥さまは、乾かしてある帽子を見て、なにかいっているのだろうと思われました。しかし、そのときは、いそがしかったので、奥さまは、だまって、外の声を聞きながら、仕事をしていられました。  そのうちに、乞食は、いってしまったようです。しばらくしてから、奥さまは、帽子が乾いたろうかと窓の障子を開けられました。  しかし、赤い帽子が、ありませんでした。 「どこへいったろう……。」と、奥さまは、あたりをおさがしになったけれども、影も形も見えなく、ただ、雪の上に、人の足跡が、新しい雪に消されて、うすく残っているばかりです。 「あの女乞食が、よもや、持っていきはしまい。」と、つい、あまりの不思議さに、乞食を疑うような心が起こりました。  しかし、奥さまは、そのことをだれにも告げずにだまっていられました。そして、坊ちゃんに、新しい、ちがった帽子を買ってくださいました。  おしゃべりの隣の女房は、ちがった帽子を坊ちゃんがかぶっているのを見て、 「こんないいのを、また、買っておもらいなさったんですか。赤い帽子は、どうなさいました!」と、たまげたような顔つきをして、聞きました。 「どろの中へ落としたから、あっちの人へやってしまったのね。」と、奥さまは、軽く笑って答えられたのです。 「ああ、そういえば、昨日でしたか、よくこの前を通ります女乞食が、小さい子に、赤い帽子をかぶせていました。」と、女房は、さも、うなずくようにいいました。  奥さまは、これを聞くと、やはり、自分が疑ったのは、ほんとうであったか? それにしては、よくない女だ。こちらが、あれほど、気の毒に、思ったのに、その恩を讐で返すとは、あきれた人間だと、心の中で、憤られたのでした。  また、幾日か過ぎて、空も、だんだんと明るくなって、冬も終わりに近づいた時分でした。奥さまは、窓から外を見ていますと、いつかの女乞食が、見るもやつれたふうをして、前へきて、頭を下げました。そのようすを見ると、奥さまは、なにもかも忘れて、感動されたのです。女乞食は、その日は、ただ一人でありました。水にぬれた、両足の指は、まっかに見えます。 「子供は、見えないが、どうしました?」と、奥さまは、たずねられました。  女乞食は、たちまち、両方の目いっぱいに、涙をためて、 「あの子は、なくなりました。いろいろ奥さまから、お情けをかけてくださいましたけれど、かぜがもとで、死んでしまいました。」と、言葉はふるえたのであります。  奥さまは、母親の脊中に、ひいひいとうすい破れた着物をきて、泣いていたあわれな、子供を目に浮かべました。なんで、帽子のことを、この気の毒な人に対して、とがめえようと思いました。  ああ、何人が、つぎのような事実を知ろう。──脊中の、病気の子供が、赤い帽子をほしがったので、あわれな母親は、もらい集めた金で、町にいって粗末な赤い帽子を買って、それを子供の頭にかぶせてやりました。おしゃべりの女房が、見たというのは、それだったのです──  雪の上を明るく照らす、太陽は、すべてを知っていました。そして、その子が死んで、うずめられたときに、その赤い帽子をかぶってゆきました。  日ましにあたたかになりました。雪は、降らなくなって、地に積もったのも、ぐんぐんと消えてゆきました。小鳥は、山から、里の方へと飛んできました。そして、うす紅色にふくらみかけたこずえにとまって、いい声で、さえずりはじめました。  いっさいを平等に、公平に、太陽は、そのあたたかな光で輝かしたのです。このとき、こずえの下の雪の中から、坊ちゃんの赤い帽子が、いくらか色がさめて出ました。 「おや!」といって、奥さまも、女中も、驚きました。それは、乾かしている時分に、ねこか、なにかが落として、その上へ雪がかかったのでした。  すべてがわかって、奥さまは、かりそめにも、ひとをうたがった、自分の心を恥ずかしく、すまなく感じました。そして、あわれな母親の、やさしい心に対して、少なからず尊敬されたのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社    1977(昭和52)年4月10日第1刷発行 底本の親本:「未明童話集4」丸善    1930(昭和5)年7月 初出:「教育研究」    1930(昭和5)年1月 ※表題は底本では、「奥さまと女乞食」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:七草 2015年12月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。