夏とおじいさん 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 夏とおじいさん  ある街に、気むずかしいおじいさんが住んでいました。まったく、独りぽっちでおりましたけれど、欲深なものですから、金をためることばかり考えていて、さびしいということなど知りませんでした。 「おじいさんは、おひとりで、おさびしくありませんか?」と、独り者のおじいさんの身の上を思って、なぐさめるものがあると、 「仕事にいそがしいから、そんなことは考えませんよ。」と、おじいさんは、さびしいとか、さびしくないとかいうのは、閑人のいうことだとばかりに返事をしました。 「それは、お元気で、なによりけっこうなことです。」と、たずねた人は、金がもうかれば、さびしくないものとみえる、さすがに、金持ちはちがったものだと思いました。  おじいさんは、雇い人を手足のごとく使いました。雇い人たちは、おじいさんの気むずかしやを知っていますから、せっせといいつけどおり働いたのです。そして、自分の思ったように物事がうまくゆけば、にこにことして、おじいさんは、きげんがよかったけれど、うまくゆかないときには、 「おまえは、気がつかん、ばかだから。」といって、がみがみしかったのであります。  雇い人は、たまりかねて、 「あんなわからずやには、罰があたればいい。」と、思っていました。ところが、おじいさんはリューマチの気味で、夏のはじめごろから、手足がよくきかなくなりました。 「とうとう、神さまが、罰をおあてなされたのだ。これからは、私どもにもやさしくしてくださるだろう。」と、雇い人たちは、いったのであります。  ところが、その反対で、体こそよく自由はきかなかったが、ますます口やかましくなって、それに自分が不自由で、思うようにならぬところから、かんしゃくを起こして、使っているものに、小言をいったのです。  それでも、みんなは、「病人だから、だまっておれ。」と、我慢をしていました。  日にまし、あつくなると、はえや蚊が、だんだん多く出てきました。はえは遠慮なく、おじいさんのはげた頭の上にとまりました。 「この畜生め。」といって、おじいさんは、うちわを頭の上にやって、はえをたたこうとしました。はえは、すばしこく逃げて、また、おじいさんがじっとしていると、頭の上にきてとまりました。 「ふといやつだ、おれをからかっているな。」と、おじいさんは、顔を赤くして怒りました。しかし、はえのことですから、怒ってみるだけで、どうすることもできません。  また、晩になると、蚊がやってきて、おじいさんを、ちくちくと刺しました。 「おれが、手足がきかないと思って、蚊までがばかにする。」と、おじいさんは、怒ったのであります。  はえや、蚊に対する腹だたしさが、つい雇い人のほうへまわってきましたから、たまりません。せめて、この夏の間なり、涼しい山の温泉にでもまいられたらといって、おじいさんにすすめました。  おじいさんは、いい考えだといって、喜ぶと思いのほか、 「仕事のいそがしい体で、そんなところへゆけるものか? 私は、あのビルディングの五階の事務所で、夏を過ごすつもりだ。」と、答えました。 「なるほど、それは、いいお考えでございます。」と、温泉行きをすすめた雇い人は、頭をかいて下がりました。  おじいさんは、いよいよビルディングへ移って、高い五階の室で住むようになってから、はたして、はえも、蚊もこなければ、涼しい風がはいって、それはけっこうでありました。 「なぜ、早くここへこなかったろう。」と、おじいさんは、大喜びでしたが、雇い人は、ますます手足のごとく使われて、上がったり、下りたりするので、ほんとうにやりきれなくなりました。ちょうど、そのおりのことです。ビルディングのエレベーターに故障ができて、止まってしまった。その修繕には、五、六日間かかるそうです。雇い人たちは、頭を集めて、 「こんなときにでも、おじいさんを困らして、平常、手足のように働いている、みんなのありがたみを知らしてやれ。」と、相談しました。  それで、みんなが、仕事を休んでしまうと、体の自由がきかないおじいさんですから、まったく困ってしまいました。 「不埒のやつどもだ。よくも、私をひどいめにあわしたな。」と、おじいさんは、怒りましたけれど、よく考えれば、自分が無理だったので、いつでも、みんなが、自分のどんな命令でもきくものと思ったからです。 「そうだ。おれは、もっと謙遜にならなければならない。そして、人を信じなければならない。この世の中は、おたがいに助け合わなければならぬところだ。」と、悟りました。  おじいさんは腹がへると、かごの中へ、紙片に字を書いて、それといっしょに銭をいれて、細ひもで、するすると五階の窓から、下の通りへおろしました。その紙片には、 「もし、このお金で、パンを買って、この中へいれてくださればしあわせです。そして、あなたの手間賃もお引きください。」と、書いてありました。  おじいさんは、しばらくして、かごを引き上げると、その中には、できたてのやわらかなパンがはいっていました。そして釣り銭も、ちゃんとはいっていたのです。  赤々とした、夏の太陽は、高いビルディングと、人の歩む白い路をいきいきと彩り、照らしていました。おじいさんは、正しい道を悟ったばかりに、それからは、雇い人にも尊敬され、ひとりぽっちでさびしくなく、体がきかなくても、何不自由なく、暮らすことができたのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 8」講談社    1977(昭和52)年6月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第6刷発行 底本の親本:「青空の下の原っぱ」六文館    1932(昭和7)年3月 初出:「國民新聞」    1931(昭和6)年7月12日 ※表題は底本では、「夏とおじいさん」となっています。 ※初出時の表題は「夏とおぢいさん」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:津村田悟 2018年7月27日作成 2018年9月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。