峠に関する二、三の考察 柳田国男 Guide 扉 本文 目 次 峠に関する二、三の考察 一 山の彼方 二 たわ・たを・たをり 三 昔の峠と今の峠 四 峠の衰亡 五 峠の裏と表 六 峠の趣味 一 山の彼方  ビョルンソンのアルネの歌は哀調であるけれども、我々日本人にはよくその情合がわからない。日本も諾威に劣らぬ山国で、一々の盆地に一々の村、国も郡も村も多くは山脈を以て境しているが、その山たるや大抵春は躑躅山桜の咲く山で、決してアルネの故郷の如く越え難き雪の高嶺ではない。山の彼方の平野と海とは、登れば常に見える。他郷ながら相応の親しみがある。中世の生活を最も鮮かに写している狂言記、あれを読んで見てもよくわかるが、山一つ彼方に伯母さんがあって酒を造っていたり、有徳人が住んで聟を捜していたりする。自分も子供の頃は「瓜や茄子の花ざかり」とか、「おまんかわいや布さらす」とかいう歌の趣をよく知っていた。その頃は小学校の新築の流行する時代であった。どの山へ登って見てもペンキ塗の偉大なる建築物が、必ず一つずつは見えた。そして振返って見ると自分の里も美しかったのである。 二 たわ・たを・たをり  境の山には必ず山路がある。その最初の山路は、石を切り草を払うだけの労力も掛けない、ただの足跡であったのであろうが、獣すら一筋の径をもつのである。ましてや人は山に住んでも寂寞を厭い、行く人に追付き、来る人に出逢おうと力めるから、自然に羊腸が統一するのである。それのみならずどうしてこの山を越えようかと思う人の、考がまた一つである。左右の麓を回れば暇がかかる、正面を越えるなら谷川の川上、山の土の最も多く消磨した部分、当世の語で鞍部を通るのが一番に楽である。純日本語ではこれを「たわ」といい(古事記)また「たをり」ともいっている(万葉集)。「たわ」「たをり」は地名と為って諸国に存するのみならず、普通名詞としても生きている。鎌倉の武士大多和三郎は三浦の一族で、今の相州三浦郡武山村大字太田和はその名字の地である。伊賀の八田から大和へ越える大多和越、その他この地名は東国にも多く、西へ行くほどなお多い。「たをり」という方では大隅の福山から日向の都城へ越える小山、今は馬車の走る国道であるが、その頂上の民居を通山という。伊予喜多郡喜多灘村大字今坊字トオリノ山、備前邑久郡裳樹村大字五助谷字通り山、美濃恵那郡静波村大字野志字通り沢、越後南蒲原郡大崎村大字下保田字通坂、常陸那珂郡勝田村大字三反田字道理山等も皆これである。中国では峠を「たわ」または「たを」といい、その大部分は乢の字を当てている。乢はいわゆる鞍部の象形文字で、峠の字と同じく和製の新字である。内海を渡って四国に入れば、「たを」とは言わずに「とう」と呼ぶけれども、「とう」はまた「たを」の再転に相違ない。土佐の国中から穴内川の渓へ越える繁藤に、肥後の人吉から日向へ越える加久藤は、共に有名な峠であるがこの藤もまた「たを」であろう。「たうげ」は「たむけ」より来た語だというのは、通説ではあるが疑を容るる余地がある。行路の神に手向をするのは必ずしも山頂とは限らぬ。逢坂山は山城の京の境、奈良坂は大和の京の境であるから、道饗の祭をしただけで、そこが峠の頂上であったためではなかろう。「たうげ」もまた「たわ」から来た語であるかも知れぬのである。 三 昔の峠と今の峠 「たわ」及「たをり」は今日の撓むという語と、語源を同じくしていることは明かであるが、その「たわ」は山頂の線が一所たわんで低くなっていることをいうのか、または山の裾が幾重も重って屈曲して入込んでいるのをいうのか、何れとも決しかねる。『新撰字鏡』を見ると「嶼、山の豊かなる貌、山のみね、ゐたをり云々」とあり。また「堓、曲岸也、くま又たをり又ゐたをり」ともある。実際昔の人が山を越えるのには、頂上の低い所を求めると同時に、水の流に依って奥深くまで、迷わず入り立つことの出来る所を求むべき道理である。谷川に沿って上れば、自然に低い所を越えることになる。従って「たわ」は頂線の「たわ」か、山側の「たわ」か容易に決しにくいのである。とにかく昔の山越は深く入って急に越え、今の峠は浅い外山から緩く越えることは事実である。大小何れの峠を見ても旧道と新道との相違は即ちこれである。峠路に限って里程の遠くなるのを改修といっている。それというのが七寸以下の勾配でなければ荷を負うた馬が通らず、三寸の勾配でなければ荷車が通わぬとすれば、馬も車も通らぬ位の峠には一軒の休み茶屋もなく、誰しも山中に野宿はいやだから、急な坂で苦しくとも一日で越える算段をするのである。そのためには谷奥の山村は誠に重要であった。関所のある峠は勿論のこと、関はなくても難所と聞いては、西行も宗祇も此処へ来て一宿したからである。然るに新道が開けるとその村は不用になる。車屋あの村は何と言うなどと聞くと、それが昔の宿場であったこともしばしばである。人の智慧は切通しとなり隧道となり、散々山の容を庭木扱いにした揚句、汽車の如きに至っては山道を平地にしてしまった。 四 峠の衰亡  碓氷その他の坂本の宿、越後葡萄峠の如きは麓の村も衰えたが、その後に起った山道の衰微の方がなお烈しい。一夏草を芟払わずにおけば大道も小径になる。山水が路上を流れてある所はすぐ河原になる。会津の殿様の参覲道路は、赤松の並木で一部分には敷石が残っているのに、他の一部分はすでに谷川になっている。汽車は誠に縮地の術で、迂路とは思いながら時間ははるかに少く費用は少しの余計で行く路があって見れば、山路に骨を折る人の少なくなるのは仕方がない。信濃佐久郡から上州武州へ越える道は沢山あった。碓氷のすぐ南の香坂越、中島孤島君の郷里。その南に志賀越、内山峠、与地峠、武田耕雲斎の越えた道、その南に大日向等である。岩村田以南の人が江戸に出で三峰へ参詣するのには、決して軽井沢へ廻らなかったのみならず、山脈の西と東と丸々種類のちがった産物、例えば信州の米と酒、上州の麻に煙草、江戸から来る雑貨類を互に交易するためには、少しも中山道を利用しなかったものが、鉄道は乃ち国境の山脈をただの屏風にし終り、甘楽の奥の処々の米蔵、佐久の馬の脊につけた三升入の酒樽を悉く閑却したのである。なるほど今でもちゃんとした路はある。しかし以前は馬主の総数に賦課した道路の修繕を今は双方の山口の一村が引受けるのである。ゆくゆくは鶯の巣から四十雀の巣に変形して行くのは必然である。近江は四境悉く山であるが、隣国へ越える峠路は先ず山城へ十八、伊賀へ八、伊勢へ九、美濃へ七に越前へ六、若狭への四を合せて五十二、この中四筋は昔からの官道で、今の汽車もほぼこれに併行して走っている。他の四十八の峠はとても鉄道と競争するほどの捷路ではないから、身が軽く日を急ぐ者は、山元の山民でも出て来て汽車に乗る。恐らくは後来樵夫と物ずきとの外は通らぬ路になり、峠の茶屋は茶屋跡とでもいう地名になってしまうことであろう。言うまでもないが峠の閉塞のために、山村地方の受くべき経済上の影響は非常に大である。山が深ければ農業一方の生活は営まれぬから、人をへらすか仕事を作るか、とにかく陣立を立直さねばならぬ。昔から山村に存外交易の産物が多かったのは、正に道路の恩恵であった。袋の底のようになってから、更に里の人と利を争うのはさぞ苦しいことであろう。 五 峠の裏と表  旅人は誰でも心づくべきことである。頂上に来て立ち止ると必ず今まで吹かなかった風が吹く。テムペラメントがからりと変る。単に日の色や陰陽の違うのみならず、山路の光景が丸で違っている。見下す村里はかえって右左よく似ておっても、一方の平地が他の一方より高いとか一方の山側は急傾斜で他の一方は緩であるとかいうことが著しく眼につく。これは火山国だから殊にそうなのであろう。それのみならず人の仕業の裏表というものが、大抵の峠にはある。麓から頂上までの路は色々と曲折しておっても、結局これを甲乙の二種に分類することが出来る。一言にしていえば、甲種は水の音の近い山道、乙種は水の音の遠い山路である。前者は頂上に近くなって急に険しくなる路、後者は麓に近い部分が独り険しい路である。一は低く道をつけて力めて川筋を離れまいとする故に、何度も谷水を渡らねばならぬ。他の一はこの煩いはないがその代り見下せば千仞の云々と形容すべき、桟道または岨路を行かねばならぬ。峠に由っては甲種と甲種、または乙種と乙種とを結び付けたのもある。殊に新道に至っては前にもいう通り、乙種のものが多いけれども、古くからの峠ならば一方は甲種他方は乙種である。これを自分は峠の裏表というのである。表口というのは登りに開いた路で、裏口というのは降りに開いた乙種の路である。初めて山越えを企てる者は、眼界の展開すべき相応の高さに達するまでは、川筋に離れては路に迷うが故に、出来るだけその岸を行くわけであるが、いざこれから下りとなれば、麓の平地に目標を付けておいて、それを見ながら下りる方が便である。それは第一に足が沾したくない上に、山の皺というものは裾になるほど多いから、上で一回廻るべき角は、中腹以下で数回廻らねばならぬためである。故に折角分水線の最低部に到達しておきながら、更に尾根づたいに高みへ上った上で始めて降路を求めるものもある。即ち鞍部では十分に見通しのつかぬ処から、わざわざ骨を折って乾いた小路を捜すのである。右の如く解すれば同じ峠路の彼方此方でも、先ず往来を開きかけたアクチーフの側と、これを受けこれを利用したるパッシーフの側とは分明であって、少なくとも初期の経済事情を知ることが出来るのである。実例を挙げても今の路が古道でないとすればむだになるが、相模の佐野川村から武蔵の元八王寺村へ越える案外峠は、案外にも武蔵が表で相模が裏、越中の国境荘川の上流に横わっている尾瀬峠は、平野地方が裏で五箇山の山村が表であるのはさもありなん。羽後由利郡の本荘西方から、雄物川平原の浅舞横手へ越える峠は、海岸部の方が表口、肥後山鹿の奥岳間村から筑後の矢部へ越える冬野の山道は、複雑していたが肥後の方が表だったと記憶する。日本国の峠の数は大小一万ばかりもあるであろう。誰か統計を取って表を作って見る篤志家はあるまいか。 六 峠の趣味  自分の空想は一つ峠会というものを組織し、山岳会の向うを張り、夏季休暇には徽章か何かをつけて珍しい峠を越え、その報告をしゃれた文章で発表させることである。何峠の表七分の六の左側に雪が電車の屋根ほど残っていたなどいうと、そりゃ愉快だったろうなどと仲間で喝采するのである。さぞかし人望のない入会希望者の少ない会になるであろう。冗談は抜きにして峠越えのない旅行は、正に餡のない饅頭である。昇りは苦しいといっても、曲り角から先の路の附け方を、想像するだけでも楽しみがある。峠の茶屋は両方の平野の文明が、半は争い半は調和している所である。殊に気分の移り方が面白い。更に下りとなれば何のことはない、成長して行く快い夢である。頂上は風が強く笹がちで鳥屋の跡などがある。少し下れば枯木沢山の原始林、それから植えた林、桑畑と麦畠、辻堂と二、三の人家、鶏と子供、木の橋、小さな田、水車、商人の荷車、寺藪、小学校のある村と耕地と町。こんなのが先ず普通である。だから峠の一方の側が急なら急な方から上り、表と裏とあれば裏の方から昇って、緩々と水に沿うて下って来るように路順をこしらえることを力めねばならぬ。筑波神社の宝物に唐人の絵巻がある。開けば巻頭には、奥山の岩本清水、青蘿白雲猿の声も聞ゆるような風景である。この水が段々と集って淵を為し、松と岩との間を行くと、樵夫が徒渉し、隠者が腰をかけている。次には渓の処に樵夫の来た径があり、人家があって牛が行き、更に漁舟を浮べている者があり、橋が架って車が渡り、橋の下までは帆をかけた舟がのぼり、堤が低くなって水田が広く見え、城壁の下を流れて都府に入れば、岸には子供が集って軽業師の芸を見ている。狗が尾を振っている。柳があって青楼が列り、その先は即ち河口の港で、遠洋から帰った軍艦商船が碇を卸しているという趣向である。絵巻物のない国の人には解し得られない興味である。しかし絵なれば高々二十尺、二十五尺の、絹の上の変化であるが、天然は更に豊かである。同じ一つの峠路でも、時代及び人の生活、季節晴雨のかわるごとに、日ごとに色々の絵巻を我々に示して尽きないのである。 底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店    2003(平成15)年9月17日第1刷発行    2004(平成16)年2月14日第3刷発行 底本の親本:「太陽」    1910(明治43)年3月 初出:「太陽」    1910(明治43)年3月 ※地名の「字」と「大字」は、底本では行右書きに組んであります。 入力:川山隆 校正:酒井裕二 2014年8月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。