茶漬三略 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 茶漬三略 柾木孫平治覚え書 くらやみの太陽 一 二 三 四 大日越え 一 二 三 四 五 開く桔梗 一 二 三 備中行 一 二 三 四 さみだれ陣 一 二 三 四 湖心の扇 一 二 三 惟任退治譜 一 二 三 柾木孫平治覚え書  人々は時の天下様である太閤の氏素姓を知りたがった。羽柴筑前守秀吉あたりから後のことは、誰でも知っていたが、その以前の彼を知りたがった。  わけて、小猿とか、日吉とか呼ばれて、姓さえろくになかった時代の生い立ちを知りたがった。  けれど太閤は、自分の素姓については、生涯、人に語った例がどうもなかったようである。  強いて、訊く者があれば、 「大空に素姓はない」  といいたそうな顔していた。  またその威光を冒してまで、不しつけに訊く者もなかった。うすうすのことは誰でも察していたのである。  だから彼の祐筆や、松永貞徳なども、やむなく彼の素姓に筆のふれる時には、 秀吉公、曰く、 われ尾州の民間より出たれば、草刈るすべは知りたれど、筆とる事は得知らず、ただわが母、内裏のみづし所の下女たりしが、ある夜のゆめに幾千万の御祓箱、伊勢より播磨へさしてすき間もなく、天上を飛びゆくとみて我を懐胎しぬ──  などと書いておいた。  そんな事から、秀吉の母までが、持萩中納言の息女であったとか、彼は藪中納言保広の落胤であるとか、織田被官の足軽から帰農した百姓弥右衛門の子というのが真であるとか、噂や蔭口もまちまちであったが、それについても太閤はどちらが本当で、どっちが間違っているともいった例がない。  が──ここにただ一つ、これだけは確実に、彼の口から出て、彼が眼の前で、祐筆に書かせ、公然、四海に闡明したことばがある。  それは天正十八年に、彼が、朝鮮国王に与えた書翰で、 予、托胎ノ時ニ当リ 慈母、日輪懐中ニ入ヲ夢ム。 相士ノ曰 日光ノ及ブ所 照臨セザルハ無シト。 壮年必ズ八表ニ仁風ヲ熾ニシ 四海ニ威名ヲ蒙ル者 ソレ何ゾ疑ハン乎。  と、自己紹介をしながら、抱負をのべているのである。  結局、太閤となってからは、彼自身、 「自分は太陽の子である」  と信じて疑わなくなっていたのであろう。  けれど、大空の太陽にも、真暗な泥海時代があったように、地上の太陽の子にも、暗黒時代があったに違いない。  そのころの彼が、どんな身なりをし、どんな生活をして、世の暗黒を彷徨っていたかは、始終彼の祐筆を勤めている大村由己だの松永貞徳の口や筆などからは、到底知るよしもないことである。  なぜならば、松永貞徳だの、大村由己だのという者自身が、上層階級の武家にばかり拠って生活を立てて来たもので、この世にそんなどん底があることすら知らない人たちだからである。  ところが、広い世の中には、誰か真を知っている者がどこかにあるもので、ここに、阿波徳島の蜂須賀彦右衛門家政のお抱え鎧師に、柾木宗一という者があったが、この宗一の母の口から、ふと、 「そなたの父は、太閤様とは、奇しき御縁があったお人ぞ」  と、洩らされたことがあって、それから宗一は、父の素姓を知ると共に時の太閤様の前身にあった、いわゆる奇しき関係までつい知ってしまったのであった。  彼の父は、柾木孫平治といい、その前身は野武士で、血なまぐさい悪業の数々をし尽し、戦乱の世の暗闇に生きて暗闇へ死んでゆく、多くの無頼の徒と同じような運命を辿っていたが、ある年、猿めいた面貌をした貧しい旅の一青年に会い、豁然と、多年の悪夢や迷妄から醒まされて──後に年経て、その時の猿顔の男が、羽柴秀吉と名乗っていることがわかり、随身して一すじの槍を受け、恩に感じて、後に、彼の馬前で戦死した人であった。  良人の死後、孫平治の後家は、幼い宗一をつれて、叔父を頼って行った。その叔父は蜂須賀彦右衛門の陣について、のべつ戦士の具足修繕をしていた鎧師であったから、次第に主家と共に、彼女も阿波へ移って落着く身となったわけであるが、老年まで良人の前身や太閤様のことについては、子にもはなしたことはなかった。  ところが、人間は病んで、死期を思って来ると、いかなる秘密も誰かひとりには告げておきたくなるもので、ある時、枕元の宗一にすべてを告げて、彼女がいうには、 「わしの料紙筥の底をさがしてごらん。そなたの父のお書きなされた綴ものが二帖ある。風を通したこともないから、もう虫が蝕っているかもしれません。こんど雨の夜にでも、そっとここへ持って来て読んでごらん。わたしも眼をつぶって聞いていましょう。……そなたの父御は、乱国の野武士で、文字もろくに書けなかったお人だから、元より文章も読みづらく、おかしな節々もあるけれど、人に示そう為でなく御自分の懺悔を、真実こめて、書けない筆でいつか書いておかれた物。……中には私の知っているところもある、足らないところはわたしが話しましょう。わたしの枕元で読んでごらんなさい」  それから宗一は、母の料紙筥を取出し、母の前で開けてみたところ、果たして黴くさい二帖の綴文があらわれた。  その夜、彼は、父と太閤との、奇しき前身や縁故をつぶさに知ったけれど、世は治まり、大坂城は時めくそのころ、かようなことは、人に語るも畏れありと、焼き捨てようと考えたが、屋敷ではつい人目があって果せず、父の忌日に、寺へ持って行って、密かに処置を託したところ、寺では正しく護摩壇で焔にしてはくれたが、物好みな僧がいつのまにか、それを写して別本を秘しておいたらしいのである。  その僧は、柾木家から、寺へ、焼いてくれと持って来た由来書を序文に書きたして、単なる綴ものを一層書物らしくしてしまった。文章の余りに稚拙なところや、誤字なども、少しばかり学問のあるまま、つい所々筆を入れたらしく、「開運日輪抄」と表題まで自分で附けた。──だがその表題の題簽も、年経て文字もかすかに手摺れてしまい、江戸時代になってから、何代目かの所蔵者が、またその横に、題簽を貼り加えた。そしてついでに書物の表題も、「柾木孫平治覚え書」と、ありのままに書き直している。  偶然、古書展のたくさんな虫蝕本のうちから、私の手にこの書が移ったのも何かの機縁というものであろうが、三百年前に焼かるべき物が、私のような者の眼にふれたことは、野武士柾木孫平治氏にとっては、恐らく大なる不幸を地下で嘆じていることだろうと思われる。かえって、一方の太閤にたいしてはわたくしは、これを種本として扱うにも、そう冒涜の罪は感じないのである。なぜならば、彼ほどな人が後世のために、余りに無名時代の自分の経歴を不明にまかせておいた事が、抑〻、史家の臆測を煩わして諸説紛々今もはっきりしない結果になった唯一の原因だからである。  また彼が海外の王へ書翰していったように彼自身が、 ──われは太陽の子たり  と、かたく信じていたものならば、なおさらのこと、その無限大の微笑光をもって、かかる文業も世の草々の一穂と眺めやるに過ぎまい。  つい「はしがき」が長くなったが。  以下、開運日輪抄の中のはなしを、柾木孫平治氏の口述体を取って、しかし文章はわたくしのものに直し、意訳的にぼつぼつ書いて行ってみる。描写その他に、私の想像の繊維も横糸にはいっていることはいわずもがなである。賢明な読者は、疾く諒として下されているものと思う。 くらやみの太陽 一  美濃の稲葉山の牢に、わしの悪業の終りは来ていた。  天文二十二年のこと。  柾木孫平治という名も、もう何日、この世から拭き消されるかと、観念の日を送りながら、 「柾木孫平治よ。柾木孫平治よ」  わしは自分の名を、日に何十遍も、心のうちで、念仏がわりに称んでいた。  だが、未練といっては、それくらいなもので、もう図太く観念はしていた。やりたいことはやり尽したし、親もないし、妻子もないし。  その日はちょうど、わしがこの牢獄へ坐ってから、四百八十七日目だった。  牢獄の中では、一と月とか半年とかいういい方はしない。いずれ打首と覚悟している者は、陽時計の陰をみつめているような気持で。──また再び出られる見込のある軽罪の者は、その反対に一日一日を待って。──すべて自分らがここへ入って来た日から起算して、春なく秋なく日数で覚えているきりだった。  この牢の中では、一千六百四十幾日というのが古参だったが、当然、格からいっても、一段高い牢頭の坐るところには、わしが坐っていた。  その古参の男は、饅頭を圧しつぶしたような目鼻に、もじゃもじゃと髯が生えて、蜘蛛みたいな顔をしているところから、六兵衛と呼ばずに、蜘蛛六とよばれていた。 「やい、小僧小僧。こちらが牢頭様だ。先に御挨拶をしろい」  その蜘蛛六が、わしの前へ、たった今、役人に突き飛ばされて入って来た新入りの、なりの小さな男を引っ張って来た。 「おや、子どもか」  と思ったくらい、この中では、チビな男だったが、顔を見ると老けているし、挨拶もいやに小ましゃくれていた。 「商売は、何だ」  型のとおり、牢頭のわしから先ず訊くと、 「針売りの旅商人でございます」  と、いう。 「生国は」 「尾張の中村でございます」 「年は幾つ?」 「十八になりました」 「名は」 「ございません」 「名のないやつはあるまい」 「あったそうですが、忘れました。親どもを初め、わたしの顔が猿に似ているので、猿々とばかり呼ばれて来ましたんで」  猿は、洒然として自分でそういうのである。 「なーるほど」 「似てけツかるわい」 「こいつあ猿だ」 「猿が人間の牢へまぎれ込んで来やがった」 「わはは」 「あははは」  大勢の囚人が、小男の顔をのぞいて、いちどに笑ったので、牢獄の闇は何十日ぶりで──いや何百日目といってもよいだろう、陽気などよめきに沸いた。  こんな笑い声を、牢で聞いたのは、わしも初めてだった。 二 「いったい何をして捕まって来たのだ。火放けか、窃盗か、空巣ねらいか」  次に、わしがまた訊くと、 「この岐阜の御城下を歩いていたら、淡紅梅の被衣をして、供の男に塗笠を預け、買物がてら歩いていた奥様がありました。どこの奥さんだろうか、余りきれいなので、何もかも打忘れて、私は後から従いて行きました。──するといつの間にか、道を反れた供の者が、役人を連れて来て私を指さしたかと思うと、有無をいわさず、引っ縛られてしまいましたので」  猿が真顔で答えると、周りの囚人たちもまた、指さし合って、 「──この顔で」 「女の後を、だと」 「う、ふふふ」  と、前のどよめきが消えないうちに、腹をかかえてまた笑った。  けれどその笑いも、井戸へ石を落した水音のように、やがて、はたと沈んじまい、前にも増して、陰気に返ってしまうのだった。  猿もそうだった。  牢の隅に、ちょこなんと胡坐を組んで坐ったまま、毎日毎日、それからは余り口をきかない。  わしを始め、この中には、強盗強姦、追剥ぎ火放け、ありとあらゆる罪を犯した兇悪な人間もいるが、その中へ間違って紛れ込んで来た猿は、まだ掻ッ払い一つろくに知らない初心な奴だった。  だから定めし、まだ馴れない牢獄が怖ろしいのだろう。──そう察して、ある時わしが、 「猿、猿。てめえはきっと、すぐ御放免になるだろうぜ。だから余り心配するな」  慰めてやると、猿はふり向いて、にやりと、 「はい。そうべつに、心配はしておりません」  と、いう。 「じゃあなぜ、身動きもせず、毎日眼をふさいだきり、黙っているんだ」 「でも、眼をあいていても、この牢獄では何も見えませんもの。──反対に、じっと眼をふさいで、心を澄ましていれば、身はここに置いても、世間の何でも見えて来ます」 「世間が見えるって?」 「え。この岐阜の御城下でも、生れ故郷でも、広い天下の何処へでも、行きたい所へ行ってみる事ができます。会いたいと思うおっ母さんでも、話しする事ができるんで」 「嘘をいえ」 「ほんとですよ」  猿はまた、眼をふさいで、乞食坊主が坐禅でもするような恰好して、大真面目になっていた。 三 「こいつ少し気が変だな?」  わしは頷いた。ここへ入って来た当座、気が変になるのは、猿ばかりではない。誰でも一応は、泣いたり喚いたり、黙りこんだり、狂態をやる。  ところが、この狂態を、今度はわしがやりそうになって来た。──というのは、猿めが、母親の事をいい出したからである。永い間かかって、やっと忘れていたものを、猿のことばで、ふいとまた、思い出し始めたからである。  わしが死んでも、誰ひとりこの世の中で泣く者はあるまいが、おふくろだけは、どんなに……などと、考えても追いつかない事を悩み出すと、 (ああ、もう一遍!)  おふくろの顔が見たい。世の中の光を浴びたい。──生命が惜しい。たまらなく物狂わしくなって来る。 (戦争でもおっ始まれっ。稲葉山の城も、岐阜の城も、火の海になってしまえっ)  そうしたらどうにか今の境遇に変りが起りはしないかなどと、妄想にばかり苦しめられて、夜眠っていても、 (おっ母っ。おっ母っ)  大きな自分の声に、眼をさました事などもあった。  ──だが、こいつは牢の中では禁物だった。強悪無類の牢頭たるわしが、そんな弱音を顔いろに現わしたら、たちまちまわりの狼どもに舐められてしまう。 「やい、どいつか、おれの肩をすこし揉んでくれ。蜘蛛六、汝でもいい。うんと力を入れて……そうだその辺を」  蜘蛛六に肩を揉ませながら、猿のほうを見ると、猿は、朝の稗飯を食べてしまうと、例の如く独りだけ隅ッこにいて、達磨のまねをしている。いるのだか、いないのだか分らない。  他の者は──といえば、ちょうど何日もの時刻で、一つ所に泥鰌のようにかたまり合っていた。  牢は三間と二間半の頑丈な壁で出来ていて、明り窓は、たった一つ、壁の高い所に四角く切ってあるだけだった。勿論、その明り口にも、頑固な桟が打ってあるので、大きさほどな光は映さない。  しかし、晴れた日には、太陽がこの牢獄の上を越える一刻か半刻ほどの間ちょうどその切窓の桟から、幅一寸ぐらいな日光が、短い光線の棒をならべたように、牢の板の間に映すのだった。  すると囚人たちは、われがちに、その僅かな太陽の光を取囲んで、爪の伸びた足の先だの、蝋みたいな青い手だのを差し伸べ、 「アア、お太陽さまだ」 「陽の光だ……」  眩しげに、見入っているだけでも、無限に楽しめるように、そこの陽なたの翳るまでは、誰ひとり動こうともしなかった。  ある者は、その光で虱をつぶし、ある者は悪党のくせに、合掌している奴もある。  娑婆が曇っている日のほかは、毎日の事だった。もし誰かが、一枚の板を切窓の外から打ちつけて、獄人どもからこの一つの愉快を奪ったら、それだけでも、中の人間はみな自然萎み死んでしまうだろう。  だが、猿だけは、一度もまだその仲間に交じらないので、ある時、蜘蛛六が、 「おい猿、おめえにも少し、天道さまをお裾わけしてやるから、こっちへ来ねえ」  と、声をかけると、 「いえ、たくさんです。私にはいつも陽が当っていますから」  と、猿がいった。 「嘘をいやがれ。どこに陽が当っている。唐変木め」 「でも、私には、腹ん中に、天道様があるんで、腹ん中の天道様は、晴も曇も、暗闇もありませんからね」 「法螺も、そこまでふけば、罪はねえ」  蜘蛛六は、手洟をひッかけるような顔して嘲ったが、何ぞ知らん、それから五十日、百日と日が経つうち、いつか猿はこの獄内で、ほんとに闇を照らす太陽になってしまったのである。  ──それは後の事だが、その時、蜘蛛六が、法螺をふくなと嘲うと、猿はぬっくと立って、 「法螺だもンか。お前らだって同じことだ。人間はみんなお天道様の子だ。心のなかに、太陽を持っている。気がつかないだけの事だ。暗いというのは眼だけの事だ。心にある太陽に気がつけば、暗いことなんかちっともない。明るい明るいとても明るい! わけてこの牢屋の中には、悪人なんか一人もいやしない! こんな明るい所にいて、暗いとは一体どうしたものだい。あはははは」  何が愉快なのか。猿は手をたたいて笑った。  皆、呆ッ気にとられて、猿の顔を見まもったが、その日から何だか少しずつ、ここの闇が明るくなり出した。 四  黙っていれば十日でも黙っているが、喋舌り出すと、猿は、いくらでも喋舌ってやまなかった。  また、何でも知っていた。  仏法の話をすれば、下手な説教坊主ぐらいはやるし、諸国のうわさをすれば、越後はどう、甲府はどう、小田原はどう、この岐阜の稲葉山はこうと、人情風俗、物価の高低から、百姓の生活向きまで──わけて自分が百姓生れなので、最も詳しい。  また。  駿河の今川家は、財政は豊かだが、大将の今川義元始め、士がみな、京の公卿風をまねして遊惰だとか。三河の松平家は、今では駿河の属国になっているが、三河武士がみなよく貧苦に耐え、胆を嘗め薪に臥して、時勢の変るのを待っているから、十年先には、どう変るか知れないとか。  諸国の武将のはなし、兵法のことでも、訊かれれば、知らないという事はない。 「ふくぞ。こいつが」  と、初めは皆、小馬鹿にしながら聞いているうち、何かしら、猿の持っている信念というようなものが、皆の身に沁みて来て、時には感心し、時には笑い、時には怒って、 「猿。おめえは、何でもねえ罪だから、打首になるはずはねえが、成るべく長くここにいてくれ」  冗談にも、猿が出て行ってしまったら、どんなに淋しくなるだろうと、その日を惧れるくらいになった。  そして何かといえば、 「猿。猿」  と、彼を取巻いて、話を求めた。──毎日、高い切窓から射す僅かな陽なたの切れ端と同じように、彼を囲み、彼のことばに随喜した。  それとまた、何よりここの変って来た事は、陰気な牢内が、いつのまにか陽気になって来た事だった。猿はよほど陽気な性とみえ、どんなに皆が陰気になろうとしても、猿の声がしだすと、そこに笑い声が起った。いや黙って坐っているだけでも、猿の姿を見ると、陽気が漂って、自ら皆の顔まで明るくなった。  自然に、猿は、尊敬と愛慕の的になった。反対に、牢頭のわしの威光は、僻みか知らぬが、以前のようでなくなった。わしは事々に猿へ辛く当りちらした。些細な落度を、威猛高に罵って、猿を撲らせたり、蒲団縛りにして飯を食わせなかったりした。だが、そうすればする程、牢内の人気は猿へ傾いて行く気がした。 「牢頭、二、三日経つと、私たちは一遍、牢を出されて、世間の風にふかれる事ができますね」  ある時。  猿に腰を揉ませていると、猿がそういった。  嘘にでも、そんな話は、わし達の胸をどきっと打って、 「えっ。どうして?」 「何だか、そういう気がするんで。──というのは、ゆうべも一昨日の晩も、御城下で戦争があったと私は思いますから」 「ふム……。どうしてそんなことが分るか」 「夜中に、あの切窓の隙間から見える空が、毎晩、赤く見えました。それから、獄人へ配って来る飯の時刻が、遅かったり早かったり、狂って来ました。また、じっと眼をつぶって、外の気配に気を澄ましていると、どうしても戦争か何か起っているふうです。──稲葉山の斎藤義龍と、鷺山城の斎藤道三秀龍とは、表面は父子ですが、実は義龍は、道三が殺した旧主の子だという事ですから、また内乱を起しているにちがいありません」  こいつがまた、いい加減な小才を振廻して、他の者らに、気を持たせていやがる──と、わしはいつもの僻みで、 「馬鹿あいえ。ここにいて、世間がそんなに見えて堪るものか。ムダ口を叩かずと、もっと力を入れて腰を揉め」  と、叱りとばした。  ところがその翌々日。役人衆が五人見えて、 「牢頭。今日より獄人どもに四日間ほど、労役申しつけるゆえ、左様心得ろ」  犬潜りの口から、わし達は外へ出された。一イ二ウ三イ四ウ……と頭数を数えられて、 「十九名だな」 「へい」 「逃亡などたくむ者は、即座に突き伏せるから心得ておけ」  役人衆は、素槍の先を、獄人たちの鼻の先へひけらかしていった。  驚いた事には、猿のことばが、あたっていた事であった。役人衆は勿論のこと、牢番までが具足を着ていた。世間には、戦争が起っていたのだ。  わし達は皆、何百日目で広い空を仰いだ。金華山の上のお城を見た。稲葉山の城である。  城は依然としていたが、奉行所の外門は、焼けていた。近所の侍屋敷から河向うの町家も、所々、焼け跡になっていた。  獄人は、わしらばかりではない。他の牢からも労役に出たので、二百人近くもいた。仕事は、焼け跡の灰片づけであった。味方の死骸や、敵の死骸が、灰の下から幾つ出て来たか数知れなかった。  すると三日目の午ごろ。戦後の焼け跡を、騎馬で視察に来た斎藤家の侍頭が、 「や。猿じゃないか。どうしたのだ貴様あ」  と、驚いた顔して、働いている獄人たちの中から、猿を呼び出して、しばらく馬上から何か訊ねていた。  後で聞けば、その士大将は、尾張海東郷の野武士あがりの者で、猿が同じ土地の蜂須賀村の野武士、小六という者のやしきにいたころに知っている人だった。  ──だが、その時は、わしはじめ、皆目をみはって、 (どうして猿が、あんなお士と知っているのか)  と、吃驚したものだった。 大日越え 一  四日間の労役は楽しかったが、それが終ると、わし達はまた、以前の常闇の沼みたいな牢へ帰って、盲の魚のようにうようよしていた。  牢へ帰った翌日、猿は皆へ向って、 「わたしも近いうちに、いよいよ、皆さんとお別れする事になった。何日までもお前方と一緒に暮していたいが、そうもいかないからなあ」  と、いった。  猿が侍大将と親しそうに口をきいた事を、わし始め見たので、誰も、疑わなかった。 「いよいよ、お別れか。ああ……」 「名残惜しいなあ」 「羨ましいなあ。だが、おめえのためには、欣ばなければならないが」  ある者は、涙をながし、ある者は、猿の手を撫でたり、改めて顔を見たりした。  翌朝。役人が、猿を呼び出しに来た。すると牢内は総立ちになって、猿に名残を惜しみ、猿の手を容易に離さなかった。 「まだ早いよ。わたしはもう一遍、牢内へ帰って来るよ。わしばかり幸福になっちゃ済まないからなあ。兄弟同様に暮したお前方にも、欣びを頒けてやるよ」  そういって出ていったが、おそらく猿はもう帰るまい──と、猿を失ったそれからの半日ばかりは、墓場のように滅入って、誰ひとり口をきく者もなかった。  だが、猿はまた、帰って来た。そして蜘蛛六にいった。 「お前さんは明日放免されるよ。お前さんは善人だ。二度とここへ来るじゃないぞ」  蜘蛛六は、嘘をいわれたような顔して、本気で聞かなかった。けれど半分は本当かなと思ったのだろう、一晩中、身をうごかして、眠れなかった様子だった。  猿のことばは、嘘でなかった。蜘蛛六は翌日、放免になった。狂気した蜘蛛六は、皆へ挨拶するのも忘れて、飛び出して行ったきりになった。  それから、二、三人の者に、放免を予言した。皆、猿の予言どおりの日に出て行った。  羨望と驚きで、牢内は動揺した。もう牢頭のわしなどは見向きする者もなく、 「猿。おれは、何日出られるんだろう」 「猿。おれは追剥をして捕まったんだが、免されるだろうか」 「おれも、打首にならずに、助かるだろうか」  地蔵の来迎へ縋る餓鬼のように取巻いて訊ねた。 「出るよ。出るよ。おまえ達の心さえ正しくなれば、自然、助かるよ。だがわしも明日は七日目になるからな、明日こそは本当のお別れになるぜ」  牢頭という沽券の手前、わしもその日までは、猿に対して、白眼視していたが、猿がほんとに、明日限りこの牢から姿を消すかと思うと、堪らない淋しさと絶望に虐まれた。  真夜中だった。  わしは、皆が眠り落ちたころを見すまして、そっと、猿を揺り起した。 「おい。おい。ちょっと起きてくれないか……」  猿は起って、真暗な中に坐り直した。わしも畏まって、その時ばかりは真実の涙を流していった。 「猿……。俺はな、誰にもいった事はないが、故郷元に不孝を重ねたままの母親を一人残してある。わしはもう一遍、その母親の顔を見られるだろうか?」 二  猿はしばらく考えていたが、わしの思いつめた眼をじっと見て──他の者が眼をさまさないようにと憚るらしい小声で、 「──見られるよ、牢頭」 「えっ。……ほ、ほんとか」 「ただし、今までのような悪心を持っていては難しいが」 「ああ。そういわれれば、俺はこの獄人の中では愚かな事、どんな悪党のなかへ顔を出しても、負けを取らない強悪な男だからな。落人の追剥、あちゆる戦場稼ぎ、火放け殺人誘拐し──やらない悪事はないくらいだからなあ」 「十悪の兇賊でも、心を改めれば、即座に仏になれると、何とかいう坊さんが説いているよ」 「心を直すには、どうしたらいいのだい」 「悪い事を、悪いと知ればいいのさ」 「それはもう毎日毎日思っているんだが……」 「それならば、きっと助かるに違いない。……そうだな、わしが出てから十八日目にお前さんもきっと、この牢を出るだろうよ」 「十……十八日目?」 「ウむ」 「猿。……気休めをいうのだろう。どうして俺が」 「信じているがいい。だから、それまでの十八日間、牢頭は毎日、天地を拝んで、自分のしてきた罪業を懺悔しなさいよ」 「もいちど、この生命が助かるものなら……ああ俺は、もいちど生き直って、今度は善い事ばかりしたい。……猿、もしかほんとに、世の中へ出られたら、何処かでおめえに、会う事ができるだろうか」 「さあ、それは分らない」 「おめえの故郷へ訪ねて行ったらどうだろう」 「故郷の家でも、わしが何処にいて何をしているか知らないよ。どうにか、人並に家を持ち、御飯がたべられるようになるまでは、母にも知らせないつもりだ」 「じゃあ、おめえが、一人前になれば、自然分るわけだな」 「それは分らずにはいないだろう」 「もし、生命があったら、訪ねてゆくよ。それにしても、猿とだけでは心細い。何とか名があったら、訊かしてくれ」 「尾張中村の木下弥右衛門の伜といえば、わしだけしかない。名は、日吉というのさ」 「弥右衛門の子の日吉か。きっと覚えておく。……それから俺の名も覚えておいてくれ」 「あ。聞いておこう」 「俺は、柾木孫平治といって、親父の代から都を落ちて、二代つづきの美濃の野武士。しばらく戦が絶えたため、衣食に困って、この稲葉山のさる武家屋敷の厩へ、馬盗みに入って逃げ出したところ、そこの食客の十兵衛という男に馬で追いかけられて捕まってしまい、その場ですぐ奉行へ突き出されてしまったのだ。……馬泥棒だけなら助かる望みもあるが、何しろ前科を洗われれば、首が十あっても足りねえ体だからなあ」 三  さだめし見っともないざまに見えたろうが、まったく、夢かとわしは驚いたのだ。しかも、猿が出てからちょうど十八日目である。 「柾木孫平治に、放免申しつける。ただし御城下十里外へ、御追放の事」  役人からいい渡された時、わしはどんな声を発したか、どんな顔をしたか覚えがなかった。  手の舞い足の踏むところを知らず──という言葉どおり、奉行所の門から世間へ素ッ飛んで行った。いつか先に蜘蛛六が放免になった時、 (あれほど牢内では目をかけてくれたのに、出るとなると、挨拶も忘れて行きやがった)  と、憤ったが、自分がその身になってみると、やはり蜘蛛六と同じ事をしていた。  わしは長良川の上流を、十里余も溯って、たった独りの老母がいる関の宿の在、下有知という草ぶかい田舎へ一本槍に帰って来た。  わしの姿を見た時の、その時の老母の欣びよう。それは生涯、眼から消えなかった。  獄舎の中で、熊みたいに生えた髯を、まず剃り落したが、その髯の毛を紙につつんで神棚へ上げておいた。  そして毎日、 「忘れませんように」  と、自分の髯を拝んでいた。  月日が経って、ようやくわが身に返るにつれ、わしにも猿殿に対する敬慕が強くわいて来た。  考えてみれば、今の身があるのも、猿殿のお庇だ。ぜひ一度は巡り会って、真人間になった自分を見せて上げなければ済まない。  それにしても、猿殿はいったい、どうして、あんな予言をしたものか。初めは、猿殿に何か神秘な霊力でもあるのではないかという風に考えていたが、それも猿殿の慈悲のほか何ものでもない事が後に知れた。  一年余り過ぎてからの事。岐阜の里まで用事があって出向いたところ、すぐ木戸の役人に見咎められて、 「そちは御城下十里四方お構いの孫平治ではないか。いくら改心してもお免しの出ないうちは、御城下に立入る事ならん」  と、叱られた。  その折、入牢中、顔を見知っていた役人衆がいて、 「孫平治、貴さまはよくよく幸運な奴だぞ。あの折は、猿によう似た男が御家中の杉坂内匠様をよう知っておって、内匠様のおことばで、猿はすぐ御放免となったが、彼の猿めが自分の身は、どうなと宜しゅうございますから、誰と誰とは、心が善だし、親もある者ゆえ、免して下されと、泣かんばかりの嘆願だった。──そして貴さまの事は、最後に牢を出る時、再び杉坂様に縋って、死を賭してお願いしたらしいのだ。杉坂様も、その熱情にうごかされて、お奉行や重臣たちへお骨を折り、運よく、そちは御助命となったものだが、猿めは、そう極ると、ただ御追放してはいけません。てまえが出牢した日から十八日目に出してやって下さい。その間に十分善心に立返るようにしてありますから──との事で、その通りに御放免になったわけだが」  それで猿殿の予言したわけは解けたが、そう聞いてから、わしは一層、猿殿に敬慕を増した。神秘の霊力を備えている非凡人よりも、猿殿の人情に打たれてしまった。赦免と聞くなり、後に残る獄人たちへ、挨拶もわすれ、手の舞い足の踏むところも知らずに、山へ行く人間とは──わしなどとは、格段のちがいのある人物だという事が、後になるほど分って来た。  で── 「何日かは一度」  と、再会の日を心に誓い、忘れたこともなかったが、遠国へ行く事は、老母の為に思い立てず、つい月日を過していた。  その老母はまた、わしが家へ帰ってから程なく床につき、わしは猟師や百姓仕事をして食っていた。どんなに飢えても、ふしぎな程、以前の悪心はもう起らなかった。以前の自分を思うと、自分でないような心地がした。  すると丁度その年。──その年は弘治二年で、もう毎年の雨期に近い五月の初めだった。  真っ暗な雨雲の空が、宵の口から真っ赤になり出して、長良川の下流の方は、夕焼を見るようだった。 「戦じゃぞ。こんどのは、大きい戦らしい。この辺の者も、今のうち、家財を纏めて逃げぬと、逃げはぐれようぞ」  夜半に、村の者は、お互いの戸を叩き合って迫った。  わしは、病人の老母をかかえているし、戦の火など見ると、かえって性根が据わる質なので、 「なあに、大した事あないよ。おっ母さん、俺がついている限り、案じなさんなよ」  枕元へ坐って、母へはそういったが、腰には、野太刀をさし込み、側には古びた手槍一筋寄せて、廂ごしの赤い空を見つめながら、夜明けまで坐っていた。 四  夜明け頃から午頃にかけて、手負いの血まみれ武者や、鎧に焼け焦げのある士だの、担がれたり、槍杖をついたり──何しろ七、八百の兵が、村を通過した。  蝗が通った後みたいに、その日だけで、村の食物は失くなってしまった。もっとも老人や子供や百姓のあらかたは、もう山越えして、何処かへ逃げてしまってはいたが。 「罰あたりめ」 「いかに、御不和な仲とはいえ」 「親と名のついた山城守様を、子の義龍が討って殺すとは」 「極悪人の大将である」 「人倫の賊。天も憎み給うであろう。ああ、浅ましい」 「山城守入道どのの、悪い報いか。わが子と名のついた義龍に討たるるとは」 「怖ろしい輪廻か、宿業か」  落ちてゆく武者たちは、口々に、憤怒の声を放っていた。  かねてから饐えていた国主の内輪揉めが、遂に、大乱となって、稲葉山の斎藤義龍は、父と名のつく鷺山城の山城守道三を、ゆうべ一挙に攻めて道三の首を挙げたものと──わしもその日の夕方にはやっと知った。 「何たることだ!」  わしのような者でさえ、それを聞いた時は、憤りに耐えなかった。人間の敵に対するほど、人間の怒りを覚える事はない。  これを思えば、四年前にいた牢の中には何たる善人ばかりが集っていたことか。──あの中でいちばん強悪無類だといわれていたわしでさえ、道三父子には、どっちもどっちだなと、堪らない憎悪を感じた。  戦は、その日や次の日ぐらいでは、熄まなかった。  何しろ美濃は大国である。駿河の今川家に次いでの兵力財力があった。醜い骨肉の戦乱のために、その財力も、その兵力も、燃やし尽してしまわないうちに、天も火を鎮め給わぬかのように、毎晩、赤銅のような空をしていた。  それはいいが、遂に、戦争は近くの関の宿から、この下有知まで飛火して来た。長良川を溯って攻めて来た稲葉山の兵は、下有知の民家へ火を放けやがった。意地にも坐っていられなくなり、わしは老母を背中へ背負って、火の粉や銃音の中を、駈け出した。 「もう駄目だ」  森も焼けている。麦も蹴ちらされている。わしは末期の村を見た。火を噴いていない家はない。 「ちぇっ、こんな国主の下に、いてやるものか。そうだ、山越えして、越前へ出よう」  両軍の陣は、ちょうど、火になっている下有知を挟んで戦っているらしく、どっちへ行っても陣があった。無数の死骸が捨てられてあった。  やっと、安曾根の渓谷まで逃げて来た。そこはもうかなり高いので、両軍の形勢が一目で分った。そして、山城守道三が、全面的に、もう敗北しているのが分った。  遠い山から、炭焼小屋でもあるように、煙がのぼっていた。それは皆、道三方の与党の城が焼けているのだった。 「どっちが勝っても、こんな事じゃあ、どっち途、長持ちする国じゃあねえ。焼けろ焼けろ、もっと焼けろ」  何の未練もない気がした。だが、背中の老母にしてみたらどうだろうか?  ふと、自分の背を、肩ごしに覗いて、 「なあ、おふくろ。俺あこれから、越前へ行こうと思うが、おふくろはどう思う。越前は朝倉家の領分だから、あそこなら穏やかで、新しい魚は食えるし……。嫌かね、どうだね。……ええ、おふくろ。……おやっ?」  わしは仰天した。  肩を揺すぶると、母の首は、わしの肩から力なくぶら下がった。眼をふさいで──唇から血の糸を引いて。  老母は流れ弾にあたって、いつの間にか死んでいたのだった。 五  わしは幾日も冷たい空骸を背負って歩いた。夜は抱いて山に寝た。  いくら肌寒い山中でも、三日も経つと死臭を放ちはじめたが、それでも母の死骸を捨てきれなかった。  大日岳へかかった。  屍体の肌は、もう葡萄色になっていた。わしは、わしの愛執のために、老母のそうした醜い顔をいつまでもこの世に曝しておくのを罪深く思った。  清浄な檜林を見つけた。わしは老母の空骸を千年苔の下に埋めた。鍬は近くの小挽小屋から借りて来たものだった。手から鍬を捨てるとわしは両手をつかえ、親というものへ、生れて初めて真心と形との一つになって、ほんとの頭を下げ切った。 「…………」  鳥の音が澄んで透る。とめどなく涙があふれ出て止まらない。三ツ子のようにわしは嗚咽していた。  ──すると誰か後ろで咎めた者があった。わしはあわてて泣き顔のやり場を失い、鍬を拾って檜林へ逃げ込もうとした。 「土民っ、逃げるには及ばぬ。恐ろしい者ではない。越前へ越える道を問いたいのじゃ。待て、待てっ」  呼び返されて、わしは振向いた。二人の落武者が手を上げている。  落人と見れば、以前はすぐ、稼ぎの鴨を見つけたように、兇悪な胸算用を立てながら猫をかぶっていたものだ。  そのわしを見かけて、恐ろしい者ではないと武者がいうのを見れば、わしも今ではよくよく善良な土民と人目にも見えて来たのであろう。 「あ。……お侍様。何ぞ御用でも」 「されば、道に迷うて、ここまで来たが、越前へ下るには、どう参ったらよいか。越前路の大日越えは、どの方角にあたろうか」 「ここがもう、大日道でございます」 「では、いつの間にか、大日越えへかかっていたのか。──光春、武運はまだ尽きたとは見えぬぞ」  ニコと笑って、一人は連れの武者を顧みた。 「ここまで参ればもう大丈夫……」と、ふたりは苔の上にどかと坐り、手足の傷口を縛り直したり、具足を脱いで、腹巻を締め直したりしていた。  ふたりとも、非常に疲れている容子だし、空腹でもあろうとわしは察して、鍬を返しに行ったついでに、木挽小屋から食物や湯など貰って来てやると、二人は欣んだが、食物には手をつけず、 「そちは此処の土へ、一体何を埋めたのか」  と、土色の変っている所を指して訊ねた。  わしは包まず仔細をはなした。すると初めて、疑いを解いたらしく、 「左様であったか」 「不愍な事をしたのう」  と、食物もたべ、湯も口にして、なおいろいろな事を訊ねた上、わしの人間を見届けて安心したものか、 「実は、われら両名は、斎藤山城守様に随身の者だったが、義龍との一戦に敗れ、これより越前の穴馬まで、知る辺を頼って落ちてゆくところ。──そちも同じ途中と申すし、寄る辺もない身の上とあれば、幸い、ここよりわしらの供をして参らぬか。落着いた上は、若党として召使って遣わそうが」  わしは、結構なはなしだと思って、即座にお願いした。そこで二人の御主人は、花やかな鎧具足を着けて歩いていては、人目につくからと、二領の鎧を脱ぎ重ね、それを旗で巻いた上、さらに蓆ぐるみにして、わしの背へ担わせた。  旗には、桔梗の紋がついていた。  年上の主人は、二十九歳だとかで、眉目秀麗で、智慮ぶかい眸をしていた。  名は、後で知ったのだが、明智十兵衛光秀といい、山間の小城ではあるが、きのうまでは、美濃明智ノ庄の明智城の主だったお方である。  もう一人は。  十兵衛様の従兄弟にあたり、四ツほどの年下で、斎藤山城守の老臣、明智光安の子で、左馬之介光春とおっしゃった。  世の中というものは、つくづく怖い。その時はまだ、どっちも気がつかずにいたが、やがて越前の穴馬まで、辛苦を共にして落ちて行くうち、ある夜山家の炉辺ばなしのうちに、端なくもこの十兵衛光秀とわしとは、初対面でなかったことが明らかになった。  四年前に──あの岐阜の牢へ捕われた動機というのは、わしが馬泥棒に入った時、そこの邸の食客殿に騎馬で追いかけられ、そのまま奉行所へ突き出されたためだったが──何と、その時の若い食客殿こそ、十兵衛光秀様だったのである。  わしは、十兵衛様の、何事をも見通すような深い眼を仰ぐと、到底かくしていられなかった。  で、ある時。 「実は……」  と、その事から、前身の罪業まで、残らず有態に自白してしまうと、 「そうか。そんな前身もあったのか。ならば修行ひとつで、戦場でも一かどに働ける男になれよう。僻まずに、なおなお、自分を磨き直す事を心がけたがいい」  と、光秀様のおことばだった。わしは身に過ぎた主人に御縁を持った事を、天地に感謝した。平時なら側へも寄りつかれぬ人の郎党となったのである。しかもその主人は、人なみ優れた器量と学識をもち落人の境遇でこそあったが、わしらのような卑しさなく、何処へ出しても一方の大将として恥かしくない人品と骨がらをも備えておられた。 開く桔梗 一  越前の穴馬には、六年間ほど、郷士として蟄伏しておられた。その間に光秀様はわしを連れ、諸国を武者修行に歩いては、また、穴馬へ帰っていた。  従兄弟の光春様は、他家を頼って、もうその土地にはお在でがなかった。六年の牢人暮らしは、随分、貧乏に苦しめられた。しかし、光秀様は、いつも書を読み、大志を養い、少しも貧乏くさくはなかった。 「さすが、氏素姓のちがいは争えぬ」  わしは、いつも思った。知らぬ間に、主人自慢になって、 「おれの御主人は、いつまでも、こんな草深い田舎に埋もれているお方じゃないぞ」  と、大言した。  人もまた、わしの大言を、 「何をいうか」  とは嗤わなかった。むしろわしの自慢以上に、称め讃えてくれた。世辞でなく、穴馬の町民や土民は皆、光秀様に心服していた。  越前一乗谷の太守は、人も知る朝倉義景公だった。度々、その一乗谷から、乗物を持って光秀様を迎えに来た。  鳥甲斐外記だの、岩佐壱岐だのという重臣たちも、度々、浪宅へ遊びにみえた。元より遊びは表面で、雑談の末には必ず、 「義景公に仕えるお心はないか。禄はどのようにも、われらから、お望みのほどを、口添え申すが」  などといわれた。  最初は、断っておられたが、懇請もだし難く、光秀様も遂に廬を出で、朝倉家に随身なさる事になった。  御主人の出世につれて、わしも一乗谷の御城下へ移ってからは、侍らしい侍になった。労苦を共にした効いあって、 「孫平治。多年貧乏苦労をさせたが、これからは、そちにも一かどの供や馬ぐらいは持たせてやるぞ。──だが、人いちばい無学の其方、よほど修養を心がけぬと、主人のわしが立身してゆく後に従いて参れぬぞ。追いついて来い。懸命に勉強して」  と、よくおっしゃった。  だが、わしにはとても、御主人の真似はできなかった。  朝倉家へ随身されてからでも、御主人の勉強ぶりといったら生やさしいものではなかった。一、二年のうちに、書物はお部屋を埋め、新しい武器──わけて鉄砲に関して、その製造法から撃ち方、火薬についてまで、どんな学者も兵法家も及ばないほど研究なされた。 「孫平治、寝てもよい。もう寝め」  と、仰っしゃった後でも──夜半にふと窺ってみると、御主人の部屋だけには灯がついていた。  いったい、あんなに書物を読まなければ、人間というものは、一人前になれないものか。偉い武将にはなれないのか。さてさて、修養というものも、大へんなものではある。──と、魯鈍に生れたわしなどは、御主人の余りな精進に、むしろ胆がちぢまってしまう。  しかし──  余りに光秀様の聡明な眼や学識のある弁才は、朝倉家の家中では、かえって冷たく見られたらしい。なぜなら、その頃、太守の義景公を始め朝倉家の家中というものは、非常に紊れていた。国主の閨門が、権勢を持っていた。家中の士は、華美でおべっかで、本願寺の門徒衆とは、たえず小戦争をやったり、妥協したり、陰謀が曝露されたり──どうも始末が悪かった。 「長くは留まる国でない」  光秀様は、時折、嘆息した。今さら悔いておられるらしく、楽しまない日が多かった。  折ふしここに、御主人の憂愁を開く人があらわれた。  室町将軍家の管領の家すじ、細川兵部大輔藤孝というお方だった。 二  三好一族の叛乱に趁われて、将軍義昭公は、諸国を亡命して、逃げあるいていた。  若狭の武田義統を頼って、亡命将軍の一行は、 「いかに京都を奪回すか」  と、諸国の武将の頼み効いある者を、物色していた時なのである。 「朝倉家こそは」  と、お味方と見込んで、細川殿は将軍家の旨を帯び、その交渉に幾度となく、一乗谷の金ヶ崎城へ見えられた。そしてわしの御主人とも、御懇意になった。  義景公は、亡命の将軍家へ、欣んで加勢を承諾されたが、朝倉家の内情は、前にもいったとおりなので、その後将軍家が身を寄せられても、賢明な細川藤孝殿は、すぐ、 「これは頼りにならぬ」  と、察してしまい、とかく去就に迷っている月日がかなり長かった。  その結果、細川殿は、朝倉家の家中のうちから、ただ一人、明智光秀という人物を見出され、頼みがいある者と思われたか、人目忍んで、度々、わしの御主人を邸へ訪ねて来られた。  それがまた、朝倉家譜代の者の眼には、何か意味ありげに映って、よけい猜疑な眼で視られた。 「小人という者ほど始末の悪い者はない」  金ヶ崎城からお退がりになる度、御主人の血色には、我慢が抑えられていた。わしは多年、奉公したので、御気質もわかっているが、日頃は女性のようにお優しく、そして事理明白な頭脳を持っておられるが、非常な癇癖が内につつまれていた。学問と修心とで、その天性を、悪いと自覚して抑えているだけに、そうした時のお顔色は、酒に弱い者が悪酔した時のように青かった。  だが、わしが、 「藤孝様がお越しになられました」  と、取次ぐと、そんな折でも、 「おう。渡らせられたか」  と、いちどに愁いも払われて、御自身、ずかずかと、式台まで出て、 「ようこそ」  と、別人のように晴々と、お迎えになるのが常だった。  お二人は実に話がよく合うとみえて、時の移るのも忘れている。その話がまた、実に多方面で該博なのに驚かされる。藤孝殿はいつも口癖に、 「どうしてこんな文化の低い地方に、貴方のような都にも稀なる知識人がいるのか」  と、よくいわれた。  わけて国学についての話題がよく出た。細川殿は和歌の道に造詣が深かった。美術、文学、天文、兵学、そして時事を談じ、一転して、食味のはなしや、笛、蹴鞠の事、流行の連歌の評やら──殆ど尽くるを知らなかった。 「時に、……今日は」  と、その日に限って、細川殿はあまり弾まず、声を密めて、何か折入っての相談があるらしかったが、侍坐しているわしを憚られて、ちょっと、口を閉じた。  すると御主人は、わしへちらと目をくれた。 「仔細ない腹心の者でござりますゆえ、お案じなく」  といった。  では──と安心したように、細川殿は口をひらいて、 「当国の朝倉殿も、あのような態では、天下の覇業などという大事の相手には心許ない。──というて、何処を見まわしても、乱麻の時相、小国は小国なりに、大国は大国なりに、足もとの闘争のみに追われている時代。……抑、今の武将のうちに、一体、誰を力に、将軍家を頼み参らすべきか。藤孝もとんと困じ果ててござる。隔意のない御意見もあらば、聞かせて戴きたいものであるが」  いうと、光秀様は、膝を正して、 「真実、そのお志ならば、不肖光秀が、再び牢人いたして、密かにお使いいたしてもようござるが」 「して御意中の人とは」 「小国なれど、尾張の織田上総介信長公。あのお方を除いては、今、大事を語る武将はござりませぬ」  いつの間に、観ていたのだろう。信長公の偉材である事や、尾張の国の地勢と将来性が、やがて大を成すに違いないという事を、光秀様は、あらゆる角度から観て力説なされた。 「ううむ。……成程」  細川殿も、うめきながら、炯々と眸をかがやかして、終始、熱心に耳を傾けていた。 三  それからの事は、審らかに話せば、余りに長い事になりすぎる。  御主人の開運は、まさしく、信長公にお目にかかった時からだった。  いうまでもなく、義昭将軍の旨を含み、細川殿の使いとなって、岐阜城へ臨んだのが、御縁であった。父、道三を討って、威をほしいままにした斎藤義龍の稲葉山の城も、すでに亡んで岐阜城と名も革まり、そこにはもう信長公が君臨していたのである。  光秀様は、時に、三十九歳であった。  以来、信長公に仕えて、わしの御主人も、 「今度こそ、働く処を得た」  と、欣ばれ、信長公にも、 「よいやつを見出した」  と、お覚えも殊のほか良いとか、いつも洩れ聞いていた。  一躍、織田家の士隊長を仰せ付かったのを見ても、いかに重用されたかが分ろう。  それからの、光秀様の戦歴もまた、輝かしいものであった。  永禄十年二月には、滝川一益の軍に従いて、北国を討伐し、上木、持福、木股などの城を降し。──十一年には、池田勝政の池田城を陥しいれ、十二年には、丹波へ討入っている。  元亀元年となっては。  若狭へ転戦し、続いて、天正元年には、柴田勝家と合体して、滋賀の石山、堅田など、一向宗の僧軍と戦うなど──殆ど、年ごとの正月にも、甲冑を解いて、屠蘇酒を祝った例はないといっても、過言ではない程だった。 「働く処を得た」  と、おっしゃっていた通り、わしの御主人も、実によく職に尽されたが、信長公も実によく光秀様の才能を、薬籠中のものとして、お使いなされたものと思う。  誰にも疲れは来る──。  また、立身なされば、自然、立身した心にもなる。  ふと、その疲れを、亀山のお城に休めて、今と越し方を顧みれば、茫々十七年、髭にはもう白いものの交じる五十五歳の御自身を見出して、夢のようにも思われたであろう。  が、今は。  夢ではない。丹波一国を領して、身は亀山の城に君臨し、位階は従五位下、族を惟任と改め、日向守に任官なされて、天下の府、安土奉行衆の一席をも占めておられる。──まったく、何度も繰返すようだが、昔を思えば、夢のような御出世である。 おまえ見たかや お城のにわに 今が桔梗の さかり頃──  御城下の田や山で、この頃よくきく歌は、光秀様の善政を謳歌し、明智家の開運を祝ぐ声だった。実際、領内の御政治は、非難のしようもないほど、行届いて、平和に盈ちていた。  けれど、光秀様の顔いろには、お疲れが濃くなった。淋しい山陰の一本桔梗のように、いつも愁いに鬱いでいた。  ──何事があったのだろう?  家臣は誰も思った。  しかし、誰も深くは察しなかった。  越前穴馬在の御牢人時代から、お側を離れた事のないわしに至るまでが、不覚にも御主人のお胸のうちを、最後の最後に来るまで知らなかった。──いや時には、不審と思われない事もないではなかったが、決して感情を素で現わさない御気質ではあり、家臣どもには、お胸に炎をつつんでも、そういう時ほど、優しくなされる方なので、まったく、窺い知る術もなかったのである。 備中行 一  忘れもしない。それは天正十年の五月の末だった。たしか二十七日の晩かと覚えている。  御主人には、愛宕山の西坊へ登られ、その夜、威徳院で連歌の会を催された。  光秀様の歌道は、細川藤孝(幽斎)殿と、御姻戚の間がらとなってからは、なおさら、研鑽の深いものがあり、かつて、滋賀の唐崎に松を植えられて、その折、 われならで誰かは植えん ひとつ松 心してふけ 滋賀の浦かぜ  と詠じた歌などは、公卿たちの間にも秀歌と伝えられて、「やさしき武士」といい囃されたものだった。  御主人は、「やさしき武士」であったろうか。わしは後になって考えても、光秀様の心ほど、今以て解らないものはない。  一見澄みきった深い淵のような気質と思う。いや深いか浅いかすら覗かせない所があった。蒼黒い深淵のなかには、どんなぬしが棲んでいるか、凡慮には測り知ることができなかった。  愛宕山の連歌の会では、紹巴の次韻をうけて、 時は今天が下知る五月哉  と、詠まれたそうで、後では皆が、すでにその時の会には、光秀様の胸の深淵に、恐ろしいぬしが叛逆の口を怒らせていたのじゃと、是々非々、噂し合ったが、それもこれも、及ばぬ後の事でしかない。  それから、亀山城へお帰りになった六月朔日の晩、御主人には、遽にお従兄弟の左馬之介光春様を、お召になった。  お会いになる前に、御主人には、いつになく硬ばった顔いろで、 「孫平治。──寄れ、近う」  と、わしを側へ引かれ、 「光春とはなしがある。その間、何人も寄せてはならぬぞ。よう見張っておれ」  わしは意外に思った。  例のない事だ。日常、礼儀作法のやかましいお方が、いかにお従兄弟の仲とはいえ、蚊帳の中にはいって、しきりと、密談遊ばしているのだった。  そのくせ。  二、三度、激越なるお声がもれた。光春様のお声も、感情にふるえておいでになった。わしは、辺りへ近づく人間を見張るより、御帳の裡のおはなしに全神経を奪られてしまった。わしの足は、がたがた顫え、唇の色もなかったろうと思われる。 「出陣。出陣っ」 「先鋒。──荷駄隊、用意」  星の白い真夜半だった。  組々の士隊長は、お城の土坡に立って、法螺のような声で怒鳴った。  が──それには、誰も驚きあわてるはずもない。既に夜の出陣は、知れ渡っている事である。  昨年来、信長公の命をうけて、御幕下の将校、羽柴筑前守秀吉は、中国に攻め入って、この春以来、備中高松城の清水宗治の頑強な抵抗にくいとめられ、遠征の軍馬は、攻めあぐねている態であった。  その秀吉から信長へ、願わくば君公の本営を進めて、御威光の督選あらんことを、要請していた。  わしの御主人は、その先鋒として、中国へ出陣を申しつかっていたので既に、行軍の準備は一切手落ちなくできていた。  城門が開かれると、真夜半の亀山の町々の上へ、出陣の貝が、長い息をひいて鳴って行った。  辻々には、赤々と、篝火が燃えて、国主の出陣を見送る領民が、眠りもせず土下座していた。  蜿蜒と、軍馬は、東へ向って流れて行った。 「……?」  お留守居組のわしは、その長い列の行く手を、お城の土坡から見送っていた。とめどなく流れる涙も拭わず見送っていた。 「ああ、厭な空だ……。怖ろしい雲の形相だ。明日のこの世はどうなる事やら?」  思わず、空を仰いで、わしは嘆息した。あしたの天変地異を今夜の今知っている者は、あの出陣列に従って行った御家来衆も数多ながら、わしひとりしかなかったのである。  ──怖ろしくて、胸が動悸して、わしは、どうしても、寝つかれなかった。 二  なぜお止めしなかったか。死を賭してまでも、なぜ諫言しなかったか。  臆病者、不忠者。  わしは、わしを責めて、怖ろしさと苦しみと、二重の悩みに、輾転と悶えた。  寝床についてから、わずか半刻ばかりが、十年の苦悶にも思われて長かった。 「そうだ。今からでも」  わしは、がばと、寝具を蹴って、厩から馬を曳き出した。  城門の番士には、 「殿様が御持薬の咳薬を、お忘れになったから、追いかけて、お渡ししてくる」  と、作り事をいい、駒に鞭をあてて、出陣の列を追って行った。  その晩のわしは、まったく捨身だった。田も畑も街道も見えなかった。ただ真っ暗な五月闇の雲の断れ目に、ぴかぴかと大きく光る星だけが、何かの凶兆のように眼に映った。  桂川の流れを越えると、京はもう間近にそこらの山上から指さされる。幸いにも、わしはそこで御主人に追いついた。  軍馬は、山の頂で、一息ついていたのである。しかし、その馬の嘶きも将士の顔も、士気も、亀山の城を出た時とはちがって、一度に騒々殺気立っていた。 「お忘れ物を届けに参りました。お目通りを願いたいです」  いつもなら、わしの顔だけで、取次を待たずとも許されるのが、味方のわしまでを、将士の血ばしった眼は、疑わしげにぎらぎら見つめて、 「成らぬ」とか、 「しばらく待て──」とか、さんさん立騒いだ挙句、やっと、御主人の床几の前まで通るのを許された。  光秀様のまわりには、同族の左馬之介光春様を始め、溝尾茂朝、御牧兼顕、斎藤内蔵助、村越三十郎、天野源右衛門、そのほか老臣旗本たちが、甲冑に身をかため、爛々と恐い眼をそろえて、楯を並べたように、そこを囲んでいた。 「孫平治か。何で参った。──忘れ物とてないはずだが」  わしは、御主人の前へは出たが、しばらく、口がきけなかった。  息も切れていたが、口に出すのも、恐ろしい事だったのである。 「たわけめが。何を顫えておる。はやく申せっ。もはや、夜明けが間近い」  びーんと、耳を刺すような声に、焦々した癇癪がこもっていた。わしはかえって、御主人のその烈しいものに引出されて、 「お、おそれながら、……暫時、暫時、お人ばらいの程を」  いうと、御主人は、くわっと、眦を裂くようなお顔で、 「何、人払いと。そちは、忘れ物を届けに来たのではないな!」 「は……はい」 「おのれ。……人払いなどして、何をこの光秀に申そうというのか。いえ。ぬかしおれ。人払いには及ばん」 「死、死を賭して、参ってござりまする。……孫平治が、生涯のお願いを」 「生涯の願いだと。ふふム……さてはおのれ、宵に、光春との密談を、ぬすみ聞きしおったの」  御主人はいって、体じゅうに、かつて、人に見せた事もない昂ぶりを顫わせながら、京の方を指さしていわれた。 「わが兵馬は、備中へは向わぬのだ。わが敵は、本能寺にある。──そう光秀は今、ここで全軍へ宣言したところだ。人ばらいなど無用。申したい儀があらば大声でいえっ」 三  たとえ、御主君に対してであろうと、わしは正しい事をいうのだ。お諫めするのだ。天に代って声を放つのだ。  そういう気持が、途端に、わしの声を胸から衝き出した。夢中で申し上げた。 「あなた様には、天魔が魅入ったのでござりますか。信長公へ対していかような御憤怒、御不満、また忍び難いものがござりましょうとも、虚を衝いて御主君を討ち奉るなどとは、天人共にゆるさぬ大逆──」  いいかけると、御主人には、はったとわしを睨みつけて、 「孫平治。ぬかすなッ」 「いや申しまする。申さいでは……」 「黙れっ。黙れっ」  わしは、物狂いとも見えよう様な血相して、 「聞かれませい! 孫平治の口をかりて、天があなた様へ申すのでござりますぞっ。あなたは、お若い時から、万巻の書を読んだ! じゃが、あの書のたった一行にでも、主君を弑逆してもよいと申す文字がござりましたか。またあなた様は、生来の御聡明じゃ。その理智の見分けに細やかで鋭いお眼は、他人の些細な非行たりとも、決して見逃しはなく、眉をひそめられる方じゃ。時勢を眺めてもその通り、常に御批判の正しいお方じゃ。──それが、それが、御自身……」  声つまらせると、 「黙らぬか、下郎っ」  無法な声を出されて、御主君には、床几を立ち、やにわにわしを足蹴にしかけたゆえ、わしはお手討と、はや観念の眼を閉じながら、具足の脚元へお縋り申して、 「黙りませぬ。主君を害し、人道に反いた武士が、古今を通じて、一人たりとも身を無事に終っておりましょうか。近くは、あなた様も、その眼にまざまざと見ておいでなされましょう。斎藤山城守殿の末期はどうでございましたか。稲葉山の義龍殿は、何たる浅ましい滅亡を曝した事でござりましょうぞ。──現にあなた様御自身も、その業火に取巻かれ、その地獄から遁れて、正道の御修養をなされたればこそ、今日の御身分も築き得たのではございませぬか。──人間を観る眼、時勢を観る眼を、人すぐれてお持ちのあなた様が、いかに逆上されているとは申せ、御自身を観る眼を、そこまで、盲目におなりなされてしもうたとは、この孫平治には信じられませぬ、万巻の書も、かくては、あなたに取って、何のお役にも立たぬものでした。いえ、かえって、智恵ぶかい大悪人を作ったようなものです。孫平治如きは、今なお、一冊の聖賢の書もよう読みませぬが、それでも、この御国の上においては、忠孝二つを踏み外しては、天道も人道もない事ぐらいは、よう弁えておりまする」 「うるさい。うるさいっ。下司めが、まだ吠えおるか。……ええ、時遅れては大事を逸す。源右衛門、こやつを、引離せ」  お旗本の天野源右衛門は、わしの襟がみを掴んで叩きつけ、 「大事を知った奴、血祭りに」  と、槍を持直した。  が──御主人は、 「ア。待て」  と叫ばれたようだった。けれど源右衛門の槍は、気早く、わしの体を突き刺していた。わしはひっといいながら蹴っ立った。その弾みと、源右衛門の槍の力に撥ねられて、わしの体は、後ろの崖へ勢いよく辷り込んだ。 四  わしはすぐ気がついた。──と思っていたが、事実は、一刻以上も、崖の途中に、仮死の姿でぶら下がっていたものであろう。  槍は、深股の辺を、突き貫いていた。ひどく出血はしたが、生命は取りとめた。痛みなどは、少しも覚えなかった。  お床几のあった以前の頂まで、わしは懸命に這い上がって来た。──だがそこには暗い木々が山巒に嘯いているだけだった。 「……う、わっ?」  わしは四山の眠りを驚かすような大声を突然揚げて、無意識に両手を宙へ振廻した。  どんなに驚いても、哭いても、及びつかないものを見た。まさに、京都の空である。ぼうと一面に真ッ赤なのだ。  赤い夜霧の中に、さらに一際赤く、ちらちらと、屋根の波から火を吐いている箇所がある── 「本能寺だ!」  わしは、恐ろしさに、髪の毛が逆立った。  人間の世の地獄変!  わしの老母も、あの火に焼かれたのだ。わしの前身も、あの黒煙から道を踏み迷ったのだ。  非を悔いてから既に二十余年。わしが再びそんな魔道に落ちぬのも、養うて下さる御主人のお庇と常に思うていたら──その才謀学識の人いちばい優れている御主人が、地獄の火放けをなされようとは。いうも恐ろしい反逆の狂兵を駆り立てなさろうとは。  ぞっと、身慄いを覚えた時、わしは一瞬に世の中が厭になった。所詮、この世というものは、学識ある者も、教養のない者も、食える者も、食えない者も、一様に皆つづまるところ餓鬼の寄合いか。外道悪鬼の遊び場か。ふと、そんな気がして、死のうと思った。  わしは坐りこんで、脇差の柄に、手までかけた。  ……すると。その時ふと。  わしの心が、死に向って、しいんと冷たく澄みきったせいか、ふしぎな憶い出が頭にのぼって来た。  二十余年前の──稲葉山の牢内に蠢いていた自分の姿だった。蜘蛛六だの何だのの影だった。またその中に交じっていた猿めいた顔をした針売りの小男だった。  あの時も、死を考えた。  あの牢も、今のこの山の頂のように、真っ暗だった。  そんな暗合が、ふと、遠い記憶をわしに呼び起させたのであろうか。わしは、 「ああ、その時の猿殿にも、ついあれ以来会う折もなく過ぎて来てしまった……」  と、呟いた。猿殿は、いつも陽気で明るかった。猿殿の体からは、常に陽気が発しているように見えた。太陽とか、天道とか、よくいった。知らず知らず暗闇の人間にも希望を抱かせた。 「そ! ……そうだ……」  わしは、猿殿にお目にかかる日が、その天道のお導きで、今こそ、到来したのだ──と、刹那に考えた。  そう感じると、わしの前に、あの牢獄の切窓から、闇の床へ、一尺ほど映した太陽のように──救いの光がくわっと胸へ甦って来た。  わしは、血のとまらない深股の槍傷の穴へ、土を詰めこんだ。そしてぎりぎり布で縛りつけ、そこらの生木を切って杖とした。  よろめきながら、わしは歩き出した。光秀様は、丹波境のこの峠を東に向って、本能寺に殺到したが、わしは西へ降って備中路へ指して行ったのである。  空はまもなく薄浅黄に明けて来たが、団々たる雲のちぎれ間を、赤い煙が這い、太陽は鉛のように黒かった。  道を急ぐわしの後には、洛中洛外の騒動が、目に見えるようなここちがした。地獄の物音が耳についてならなかった。 さみだれ陣 一  二十余年のあいだ、わしは闇の中で別れた猿殿の事を、一日たりと、忘れた事はない。  だが、主人持ちの身には、私の暇は一日もなかった。御主人が貧困時代は貧困に追われて。御主人が出世なされば、わしの勤めも共に重くなって。  が、心ひそかに、猿殿との再会は心がけていたので、その後、猿殿が何人であるか、どう暮しているかは、会わなくとも、よく知っていた。  ──あの成り上がり者が。根は、中村の土百姓、足軽の果て木下弥右衛門の子ではないか。  ──それが今では、羽柴筑前守の、秀吉のと。長浜の城主から、また、姫路城へおさまって。とか。  ──運の強い猿ではある。いかに才長けた、戦上手の男とはいえ。とか。  ──ちと、君寵も過ぎよう。というと、あいつに逆らった者、なぜか、みな亡びておる。何しても、うるさい猿面。とか。  こうした類の噂は、近ごろ、いや数年も前から、年ごとによく聞くことで、光秀様におかれても何かにつけて、 (猿めが)  と、いう事は、よく口に出されたのを、わしも側で聞いていた。  だが最初のほどは、よもや近ごろ隠れもない織田家の御幕下の猿面殿が遠い以前、稲葉山の牢で、わしの見知っているあの猿殿と一つ人間であろうなどとは──どうしても考えられなかった。  しかしその疑いは、過去の彼と、現在の彼との、形や身分を較べるからで、素の人間だけとして考えてみれば、光秀様にしても、穴馬在の貧困時代に誰が今日あることを想像もしよう。  猿殿の御素姓や、幼名なども、あの折、おぼろに聞き覚えていたわしは、近ごろ、惑星視されている羽柴筑前守殿こそ、わしの知っているお方に紛れない──とやがて知って、懐かしや、一度は会うて沁々と、昔語りをなどと思ってみたが、先の地位も地位、こちらとの関係も関係、それと常に、戦陣から戦陣へ、席の温まる間もないお方──主人持ちのわしの身にも暇はないし──つい思いつつ幾年かを過ぎて来たわけだった。  けれど、今こそ、そんな小さな私事でなく、天下の大事を齎して、猿殿にお会いできる日に行き着いた。  いや、お会いする事を楽しんでは、それも私事になる。わしは悲壮な考えと、大乗的な決意とを固めて、丹波境から東した御主人とは反対に、西へさして、道を急いでいるのである。  微塵、この間に、私心をうごかしてはいない。神仏御照覧あれ。わしは御主人を裏切るのでもない、身一つの落着きを見つけに行くのでもない。ただ、平凡な人道を真っ直ぐに歩んで行こうとするだけだ。この国の闇が二年、三年と続くものを、一日もはやく、修羅から救い、同時に御主人の悪逆無道の狂乱をも、苦患の底からお助けしたい──と念じるしか考えていないのである。 二  さて。  わしは六月朔日の未明から歩き続け、夜の目も眠らず、六月三日の夕刻には猿殿の御陣所──備中高松城の寄手の戦場間近くたどり着いていた。 「うさんな奴。どこへ行く」 「城方の使いであろうが」  わしは、八幡山の木戸で、寄手の歩哨にすぐ捕えられた。元より、本望の事と、驚きもせず、わしの両腕を捻じ上げた兵たちへ、声高に訴えた。 「うさんな者でございませぬ。大事をお告げ申すために、丹波表より夜の目も眠らずに来た者でござる。逐一は、筑前様へ直々でなければ申されませぬ。他では寸言も吐きませぬ。何とぞ、大将のおん前へ、引っ立てて戴きとうござる。縄付でなりと、お恨みは仕りませぬ」  わしはそういって、自分の両手を後ろへ廻し、神妙の態をまず見せた。  この辺りは、浮田秀家様の陣地だった。急に伝令が駈けた様子。間もなくわしの身柄は、七名の槍囲いに監視され、羽柴秀長殿の陣所を通って、石井山の御本陣まで連れて行かれた。 三  風のたよりに、高松陣の難攻は、丹波表でも聞いていたが、わしは途々ここの攻略の仰山な備え立てに吃驚した。  蛙ヶ鼻から石井山の中腹の御本陣へと登ってゆくと、いやでも、大規模な戦場の全地域が目の下に展かれてくる。  それが皆、いちめんの泥湖ではあるまいか。  わしも旅の間、降り通されて来たが、ここも梅雨の長雨で足守川、長野川などの河川は氾濫するばかりであった。それを、この石井山の南端から、大きな円形を描いたように、長さ二十八町二十間という堤を築いて囲み、川水を落して、大きな泥湖を作りあげているのである。その湖の真ん中に、ぽちと、沈みかけている楼船のような城が浮いていた。敵の高松城はそれなのである。毛利家の被官、清水長左衛門宗治が、わずか五千の士卒や農兵と共に、餓死してもと、死守している敵城なのであった。  猿殿の総軍は、約三万とか。  その大軍が、四月中旬ごろから、田圃のなかの小城一つへ、攻めかかって、二回の総攻撃も功を奏せず、殆ど、手を焼いてしまったため──最後の一策として、水攻めを計画したものなのである。  が、落ちないのだ。  城にはもう、一つぶの米、飲む水すらも、ないと知れきっている。  それでも、泥湖の中の浮城は、寄手が近づけば、わっと反撥する。死にもの狂いになって戦う。物を食っている兵よりも強いのだ。  わしも、後で聞いた事だが──  思慮の深い寄手の大将猿殿には、力ずくでこの小城を落そうとすれば、敵に何倍する死傷を、寄手も出すに違いないと見たとの事で、その為こういう策を用いたものらしい。  毛利家には、元就の家訓があった。城を築く時、土台石に、その家訓を刻ませた。 百万一心。  の四文字だと聞いている。  猿殿は、それを知っていたのだろう。水攻めと、糧道を断つ、この二つで攻めた。けれど城兵の、五千一心、は六月にはいっても、陥落しなかった。  表面、包囲形を作って、三万の大軍は、ひしひしと詰めていたが、寄手にも、隠しきれない焦躁があった。──それは、毛利方の吉川元春、小早川隆景の四万の兵が、援軍として、すぐ対岸の山岳までもう来て対陣しているからである。  しかし、その援軍も、この広汎な泥水をながめては、手も出せなかった。──そして刻々と、実に刻々のうちに、城兵五千の餓死は迫っていたのだった。  はなしが前後したが、わしが石井山御本陣へ曳かれた黄昏は、そういう際どい戦局の危機であった。心なしか、暮れかけている泥湖の水の光も、孤城の影も、何となく寂として、雨の霽れ間を身に迫る湿っぽい風が蕭々と吹き渡っていた。  持宝院というお寺に着いた。  御陣所のすぐ下だ。 「坐れっ」  という声を浴びて、わしは本堂の階段の真ん前の大地へ坐っていた。  濡れた陣幕が、本堂の蔀を繞っていた。夕風の来るたび、大きな桐の紋がゆらゆらと動いて、そこらの桜若葉から、青光りする毛虫だの雫が、廻廊へも、わしの背へも、降りかかった。  程なく──。  手燭の光が映した。その光も、風にまたたいて、ひどく揺れうごく。七名ほどのお旗本が、廻廊の杉戸からずかずか来て、わしの頭からじっと見た。黙って、両側に控える。その中央に、黒塗の床几が置かれた。 四  ……ああ。やっぱりこの人だ!  わしは、正面の床几に腰かけた四十四、五歳かと思われる大将の顔を仰いで、途端に、胸のうちで叫んだ。  猿殿は、細い目から、キラとわしを見て、 「丹波表の者か」  と、いった。 「はっ」  喉にからんで、声もよく出なかった。  猿殿は、つづいて、 「何用?」  と、訊ねた。  わしが、お人払いをというと、無造作に顎を左右へうごかした。具足や太刀の響きが、たちまち、消えて行った。 「誰もいない。用をいえ」 「急……急の大変を……お知らせに駈けつけました」 「そちは、誰の家来だ」 「明智殿の側近う仕えて来た者でござります」 「名は……?」 「柾木孫平治と申しまする」 「……?」  わしも、うかといったが、まさか猿殿におかれても、二十余年前にたった一度聞いた獄人の名などを、記憶しておられるはずはなかろうと思っていた。  と──猿殿は、手の軍扇を、少しあげて、わしの顔をさしまねき、 「上がれ」 「は……?」 「階段を上がって来い。ゆるす。もそっと側へ来い」  わしが、恟々と、お脚元間近まで、はい上がってゆくと、びしゃりと、猿殿はわしの背中を鉄扇で一つ叩いていわれた。 「……牢頭」 「えっ」 「なぜもっと早く訪ねて来なかったのだ」 「……あッ。で、では手前の事をまだ、お覚えで……」 「あんな事は、生涯にも何度とはない。覚えておる。そしてその折、一度はきっと会うといったそちが──生れ変って出たか、死んだか──気にかけておった」 「か、かたじけのうござりまするっ」  わしは、廻廊へ額いて、咽び泣いてしまった。 「その後、明智殿へ随身して来たか」 「はい……」 「人間になってよかったな」 「御恩……一日も忘れた事はござりませぬが」 「それだけで満足」 「遂に、今日という機が参りました」 「いつかは、会うものだな。宿縁というものじゃろ。めでたい」 「──が、今日は、私事で駈けつけたのではございませぬ。御主人の明智殿事、いかなる天魔に魅入られましたか、先ごろ、信長公より中国へ御出陣の仰せをうけ、六月朔日の夜半、丹波境まで勢揃いして御発向なされましたところ、途中、遽に号令を変えられて、勿体なくも、本能寺に御宿泊中の……」 「ア。これ」  軍扇の骨が、冷やりと、わしの頬を抑えた。 「孫平治」 「……は、はいっ」  必死の訴えを、途中で折られたので、わしの呼吸は肋骨のうちで、出所を失ったように喘ぎ廻った。 「そちは、それをいうな。いってはならん」 「……では、明智殿の叛逆を、もう御存知でござりますか」 「たった今、京の長谷川宗仁の急使をうけ、仔細、聞いたばかりじゃ。……不愍ながら、使いの男は、雪隠で刺し殺した。敵へ洩れてはならぬからだ」 「…………」  わしは、そうあるはずと思いながらも、何か、張りつめて来た一心が崩れて、茫然となった。 「牢頭。──として置こう。よう訪ねてくれた。そちの性骨は、秀吉よく知っておる。雪隠へ連れ込んで殺すにもあたるまい。けれど、ここはもう帰れぬぞ。──京都と中国筋のあいだは、何人も通行さすなと、たった今手配をいいつけたばかりじゃ。……陣中なれど、遊んでゆけ」  返事をする間もない。  猿殿は、廻廊の彼方へ向い、 「おいよ、誰か来い」  と、呼んだ。  お旗本の衆が来てすぐひざまずいた。猿殿はわしの肩を、また、軍扇で気軽に叩いて、こういわれた。 「剽げた男じゃろ。こんなところへ訪ねて来おった。これはわたしと同じ村の生れでな、古馴染の男じゃ。どこぞへ置いて、劬ってやってくれ」 湖心の扇 一  秘密を知っているということは恐い。その秘密が大きいほど恐ろしさも大きい。  戦場は、遮断されている。その中で、敵も味方もまったく知らないことを、わし独りが知っているかと思うと、堪らない恐ろしさに時々襲われた。  わしより一足前に、飛報を持って京都から来たという密使は、それを知っているばかりに、役目を済ますとすぐ、雪隠で刺殺されたというではないか。  が、猿殿は、昔の誼みを思ってか、わしの根性を知ってくれてか、わしを殺さずに遊んでおれという。  それだけに、わしは身の恐ろしさに顫く。  わしは、持宝院の一室に、ぺたっと、坐ったきりでいた。決して勝手に立たなかった。小用へ行くにも、次の間へ断って行った。次の間には、片桐助作という若い侍が、わしの接待としてついていた。  現に、助作殿が、 「お酒など、いかがですか」  と、聞いてくれたが、 「滅相もない」  と、わしは辞退した。  朝になると、 「この寺の庭は、なかなか宜しゅうござる。御自由に御見物なされ」  と、いったが、もちろん、立つ気がなかった。  庭先を、武者が通れば、わしは眼をつぶった。助作殿のほか、誰に何をいわれても、決して口はきくまいとまで、慎んでいた。  めずらしく青空が見えた。  陽が照ると、急に夏を覚える。若葉の隙間から、赤く濁った泥湖が見晴らされた。  城が見える。水に囲まれた悲壮な城は、ここから眺めると実に小さい。五千の人間が立籠っていられるだろうかと疑えるほど、小さなものだった。  凄まじい濁流の渦が、その小城を呑まんず勢いで大きな輪を描いている。きのうきょうの夕方から較べても、水は一尺も減ってはいないらしい。いや刻々増しているのではあるまいか。石垣も見えぬ。外曲輪の塀の腰まで浸っている。あの分では、おそらく城内も池だろうと思いやられる。 「あの中には生きている人間がいる。──五千人もいる?」  ふしぎな気がした。  何で生きていられるのかとふしぎに打たれるのである。  まったく糧道を断たれてからもう三十日以上にもなるという。それだのに、沈みかけている水城の上には、生気が漲っているのだ。そこに少しの危なげな悲鳴もない。  百万一心。  わしは毛利家の家訓を思い出して、その力だと頷いた。湖中の城は、そのことばを思う時、荒海の巌のように見えた。 二 「だが……どうなさるだろう」  わしに取っても、その城が、容易におちそうもないことは、少なからず、不安だった。  なぜならば、この城が陥ちない限り、羽柴秀吉以下の軍勢は、退きも進みもならないからだ。  その間に、都にあっては、叛逆者の一夜将軍、惟任日向守が、地盤をかため、この世に、あるべからざる世の中を創り出してしまうかも知れない。  また、当然考えられることは、光秀方から密使を派して、毛利方と盟約をむすび、秀吉の遠征軍を、東西から挟撃してしまうという戦法もある。  いずれにしろ、長途の戦い出先に、突然、主君の信長公を失った三万の秀吉軍は、あの水中の小城以上、今は危ない岐路にある。──しかも京の大変が、吉川、小早川の陣へ、ちらとでも聞えたが最後、山つなみの押すように、毛利方は勢いを得て、こちらの浮足を衝いて来ることも、目に見えている。 「……どうなさるだろう。猿殿は?」  すべては、猿殿の胸三寸にかかっていることだが、わしもそう案じないではいられなかった。  夜来、石井山の御本陣では、別だんの変りもなかった。遽に、兵が動くでもなく、動揺の気ぶりなど、微塵も窺われない。  しかし早朝にどこかへ、使者らしい騎馬武者が出て行った。  また、安国寺の僧、恵瓊という者が、午まえだけで、二度も御本陣を訪れた。  夕刻にも、また見えた。  その最後の訪問には、何かの都合で、御本陣が使用されず、恵瓊殿には持宝院の客殿に通されて、秀吉殿以下の者と会見されたので、わしは計らずも、壁ごしに薄々様子を知ることができた。  果然。  石井山の御本陣では、その日、たった一日のうちに、恐ろしく迅い、そして強引な、外交的機略を活溌にしていたものであった。  恵瓊は、講和の使者だった。  それより前に、毛利方から和睦の使いに立てられて、 ──中国五ヵ国の譲渡。 ──高松城の包囲解除。 ──城将清水宗治の助命。  を条件として交渉に来ていたものだったが、猿殿には、すでに、信長公へ援軍の申し入れをしてあった折なので、 「和議をいたそう。しかし中国五ヵ国を譲渡すること。城将清水宗治の首差し出すこと。人質を送ること。この三ヵ条は、譲歩するわけにまいらぬ」  と、突っ放しておられたものである。  が、今朝の急使は、それきり見えない恵瓊殿を、石井山から迎えにやったものらしい。その際、恵瓊殿に対して、猿殿がどんな利をくらわせたか、どう別な意味に、彼を抱きこんだかは知れないが、とにかく恵瓊殿は、 「飢餓に迫る城内五千の生命を救えることなら、僧として、身命を賭しても、和議のお仲立ち仕りましょう」  と敵の吉川、小早川の陣と、石井山の御本陣との間を。──また、城方の方へも、数回往復して、折衝に努め、日も暮れごろに迫って、ようやく、和議の調印という運びにまで、漕ぎつけたのであった。  結果は、双方の互譲となって、 一 中国五ヵ国の譲渡。 一 城将、清水長左衛門宗治の自決。  の二箇条で、解決を見たのだった。  調印が済む。  恵瓊を始め、使者たちがぞろぞろ帰る。その気配をわしは壁ごしにほぼ覚って、初めてほっとした。同時に、猿殿が今日あることのふしぎが、苦もなく解けた。  夜が明ける──  翌四日の朝、巳の刻には、もう城将の清水宗治は、舟を湖心へ出して、敵味方の見まもる中で、城兵五千の生命になり代って、見事な自刃を遂げていた。 三  わしはこの眼で、その朝の有様を、持宝院の一室から、目撃していた。  前代未聞な割腹である。  また、明智殿の叛逆で、出牢以来、信じていた現世への考えを、いちどに覆され、暗澹と世を見失って、 (この世は鬼修羅の住み場か)  と、呪い、何人をも信じられなくなった心へ、再び、 (否とよ。牢獄の闇にも、陽は映したではないか。正大な天道の下には、この世ほど潔く気高い所はなく、人間程崇厳善美なものはないのだ)  という信念を、固く持ち直させてくれたことでもあるので、余事ながら、その朝の模様をすこし記しておこう。  元々、清水長左衛門宗治殿という武士は、骨まで香ばしいお人だったに違いない。こんどの講和に際しても、 「主家毛利家の御安泰を。城内五千の部下の生命が、身一つに代えられて助かるものならば」  と、冷ややかに、敵方の条件を受け容れられたものだという。  三十余日の籠城の間に、城主を始め、将士は皆、木の根や葉まで食べていた。──しかしその朝は、城内隈なく、掃除をさせ、自身は静かに天主に上り、衣服を正し、髪をなで、それが終ると、気長に毛抜で髯を抜いていたそうである。  時刻が来ると、兄の月清入道やら軍師の末近左衛門などに送られ、水に浸った城門の際から、小舟へ乗り移る──。その際、家臣ふたりまで、 (御先途を)  と、刺し交えて殉死したとある。  舟は、静かに棹さして、湖心へすすんで来た。──と、赤い小旗を舳に立てた一艘が、秀吉殿の御陣からも漕ぎ出した。  それには、堀尾茂助吉晴どのが、検視として、乗って行かれた。 (秀吉公よりの御贈り物でござる)  と、検視の舟からは、一荷の酒が、移された。  宗治は、慇懃に、 (御芳志。心ゆくまで、戴くでござろう)  と、侍臣とともに、悠々、杯を交わしていたが、やがて、舟中に立ち上がって、 (よい心地になり申してござる。さらば、この世の名残に、一さし舞うて──)  と、自身、朗々と謡いながら、誓願寺の曲を、舞い終った。  石井山の御本陣を始め、敵も味方も、一瞬、小波も立たぬほどひそまり返って、泥水の大湖の中に、閃─閃─と舞いうごく波の扇を見まもっていたのである。  そのお人の姿が、やがて、小舟のうちに坐って、がくと、俯つ伏して見えたかと思うと、 「ああ──」  という嘆息が、敵の山からも、味方の山からも、思わず揚がって、湖の水までが、どうと岸辺にうごいて来た。  わしも、その一瞬ばかりは、後々まで、ひとみに深く焦きつけられて忘れることができなかった。  が──刻々にも、大きく動いている時の相は、わしのような者の詠嘆のために、いつまでも、同じ光景を呈してはおかない。  石井山の御本陣へ、宗治殿のお首が、抱えられて来たと思うと、殆どすぐだった。 「よしっ。堤を断れ」  猿殿のお声は、わしのいた辺りまで聞えて来た。  断乎たる命令の一下。堤は断られて、百八十八町歩に漲り湛えられていた水は、新しい大河を作って、凄まじい勢いを呈しながら氾濫し始めた。  同じ、御本陣を中心に──お味方の羽柴秀長殿の陣、蜂須賀彦右衛門殿の陣、福島正則殿の陣、浮田秀家殿の陣、黒田官兵衛殿の陣──そのほか旗差物のひらめく所、野といわず、山といわず、畑、林といわず、到る所から一斉に、引揚げの貝が鳴りひびいた。御本陣から吹きならす貝の音に応じて、各所の貝の音が答えつつ、全軍三万の兵は、堤を断った水脚のように、踵を回して動き始めたのであった。 惟任退治譜 一 「殿っ。殿っ……」  わしは持宝院の一室から駈け出していた。  猿殿のお姿を見かけたからである。  騎馬に召され、白地金襴の陣羽織に、具足は萌黄の縅、革胴は真っ黒な漆塗に箔を置き、長やかな太刀佩いて──  ひょいと、わしの声に、馬上から振向かれた。 「おっ、お願いでござります」  わしはわれを忘れて、お馬の口輪へしがみついた。旗本方が、 「退されっ」  と、叱ったのは、耳にあったが、わしのその時の捨身を阻み得なかった。 「お……。いたのか孫平治」  猿殿の眼は、何用かとわしへ聞いていた。わしは、きのうから今日までに、ほんとに生涯の腹が極っていた。──が、金色の千成瓢や、甲冑の猿殿を、仰ぐのも眼が痛く、怪しく声は打ちふるえていた。 「おねがいです。てまえに、槍一本お与え下さい。──さなくば、お馬の口取りになと、お召抱えください」 「随身したいか」 「出世を望みませぬ」 「何を望む」 「…………」  いえなかった。  猿殿がこれから馳せ向おうとする戦場は分っている。その敵へ、わしはぶっかかりたいのだ。──だが、その敵は、わしの旧主でもあった。  だから、何を望んで、と問われても、口にいえなかった。いえない苦しさが、涙になりかけた。 「……真の、真の人間に……武士に成り遂げたいのでござります」  やっといった。それだけでいい尽してはいないが、懸命でいった。 「よかろう」  猿殿は、後ろを見て、従者の槍へ片手をのばした。その槍を取って、わしの前へ、石突を向けて渡された。 「つかわす」 「では……」 「手功をせよ。大きな出世を望むがいい。今を措いてまたとないぞ」 「あ、ありがたく存じまする」 「──が、そちには、秀吉が目ざす敵は突けまい。馬の口輪を持て」 「…………」  意気地がない。どうしてこうわしも意気地がなくなったのか、涙があふれて仕方がなかった。  思えばわしももう年だ。二日も無性していれば、顎にまばらな白いものがキラつく年だ。死に場所が大事だと思う。それにはこのお方の馬の口輪から迷れないことだと思い極めたのである。 「気の弱い奴。老いたな」  猿殿には笑われながら、はや馬を進め出していた。  わしはあわてて、お後を慕い、それからはまるで、疾風に巻かれて駆けている心地だった。  全軍は備前に入り、辛川村で各部隊の進路を決めた。  猿殿には、お旗本と手兵のみを率いて、全軍と別れ、矢坂越えから岡山を経、一気に沼の城まで急いだ。  途中の難儀は、いうまでもなかった。わけて福岡の川渡しは、雨後の大水であったが、猿殿には、御自身先に越えて堤に立ち、次々に、繰渡る人数へ、呶鳴っておられた。 「こぼすなよ。取落すなよ。かような時には、人ひとり失うても、平時の五百三百の損にもあたる。荷物一荷は、百荷にも当るぞ。敵にも、あわてたりと、笑わるるものじゃ。心して渡れよ」  わしはもうお側から離れずにいたが、叱咤を聞くにつけ、自分の生命も、可惜、むだな所では取落すまいと思った事だった。  殿の森勘八どのは、ここで御人数に追いついた。そして、 「もう、御安堵なされませ。仰せの如く、十二、三ヵ所も、堤を切って立退きましたれば、毛利方の軍勢も、追い来る術はございませぬ」  と、報告した。  けれど、次の日、また次の日も、夜を日についで、わしたちの行軍は急ぎに急いだ。 二  後で思い合せれば。  敵の追撃がないと分りきった後もなお、急ぎに急いでおられたのは、高松陣から踵を回らすと同時に、猿殿のお胸では、まだ戦わぬうちから、逆臣光秀の軍とすでに戦っておられたのである。  こうして。  わしたちの兵馬は、西片上の浜べから、船へ移って、赤穂に上陸し、七日の午頃、姫路城へ行き着いた。  迅かった。  わしらでさえも、ふしぎに思う。どうしてあんな大軍が、こう風の如く動かせるものかと。  清水宗治の自刃が行われたのは、四日の午まえだった。吉川、小早川の敵方へ、信長の死が伝わったのは、わずかそれから数時間の後──同日の午下がり頃だったと、後で聞いた事だった。  しまった!  と、毛利方では、歯がみをしたにちがいない。  どうとうと渦巻く濁流の後にはもう、敵の一兵も見えなかったのだ。どんなに地だんだを踏んだ事か。しかし、余りに小気味よく計られては、無念というも、かえって愚かと覚ったであろう。  それはそうと。  まる二日二晩、ぶっ通しに行軍しつづけた軍馬は、途中、強雨や出水にも会い、泥のように疲れて、姫路城の内外にあふれた。  姫路城は、猿殿が、故信長公から賜うていたところの、居城であり、家庭であった。 「お帰りなされませ」 「御凱旋。おつつがもなく」 「ご祝着に存じ上げます」  留守居衆が出揃うて、大玄関にお迎えした。御凱旋ということばは、猿殿のお胸にそった事ではない。だが、にこやかに、少し軽々しい程、にこやかに、 「やあ。やあ」  誰彼となく、いちいち頷きを与えられて、泥具足のまま式台に踏み上がられ、そこですぐ聞いておられた。 「母君には、秀吉が留守の間も、お達者でおられたか。御機嫌はよいか」 「おすこやかにいらせられまする」  留守居衆の一人、小出播磨守が答えると、 「女房どもは」 「お変りものう」 「そうか。いやそうか」  猿殿は、それを聞いて、長途の疲れも忘れた面持であった。 「すぐ、湯殿へ通ろうか。この態──この戦い窶れのまま、母君のおん前へ出ては、どこぞ体でも悪いように、母君がお案じなさろうで」  戦場では、さして気づかなかったが、平和な城のお住いへ来てみると、猿殿のお声は、話よりも大きく、どこまでも聞えてくる。  大廊下をずかずかと、曲りかけられたが、急に思い出されたように、 「武蔵守、武蔵守」  お台所御用人、三好武蔵守を呼びたてて、 「食うぞ、食うぞ、きょうは兵どもも。炊事方、やっておるか」 「致しておりまする」 「まだまだ、後より続々と到着するが──」 「薪と大釜のあらん限り炊いでおりますれば、御人数分は」 「たのむぞ」 「畏れ多いことを」 「久しゅう、戦場では、脂物に飢えておる者ばかりじゃ。なお、行くてには、より以上な大難関が待っておる。魚鳥の肉など、ある限り城下より集め、足軽の末にまで、ふんだんに与えてくれい」 「心得ましてござります」  猿殿には、もう湯殿の杉戸を開けている。いちいち人手を待たないので、小姓たちはかえって天手古舞うのであった。具足を脱いで、ずしりと置くと、乾いた泥がこぼれ落ちる。  湯もまた早い。  どこを洗ったでもなく、たちまち真っ赤になって出て来られた。鎧下の肌着だけはお代えになったが、具足は、新しい物がそこへ取揃えてあるにかかわらず、風雨によごれた古い方を着込んで、 「小姓」  と、滴る襟の汗を拭いながら吩咐けた。 「出陣は、明早朝と──表方の者に触れるように、すぐ伝えておけ」  湯殿の次の揚屋に腰打ちかけたまま、さらに、金奉行を呼びにやられた。 「いくらある。城内の蓄えは」  金奉行は、即答して、 「銀子七百五十貫、金子八百余枚ほどござりまする」 「それを皆、蜂須賀彦右衛門に渡せ。──彦右衛門の手より、番頭、弓、鉄砲、槍の者、小荷駄、足軽どもへまで、知行に応じて、残らず分配せいと申せ。──秀吉の手許に、一分一厘も残しおくに及ばぬぞ」  そこへ、奥の侍女が来て、 「御母堂さまが、一刻の間も早う、御無事のお顔見たいと、待ちかねておいでなされまするが」 「おお今参る。……もう暫しと、母君を皆してお宥めしておいてくれい」  金奉行が退がるついでに、附けてやった蔵奉行がもうそこへ来て控えていた。  腰かけたまま、籠手脛当の紐など、左右から小姓に結ばせながら、 「蔵米は何程あるか」 「八万五千石の記帳と相成っておりまする」 「うむ、八万……」  猿殿には、ちょっと胸算には積れないらしく、無造作にこういった。 「今日から大晦日までの分とし──日ごろ、扶持取る者どもに、扶持高、五倍増しにして頒け与えい」 「……と。御陣先の、兵糧はいかがなされますか」 「兵糧は無用。こんどの戦場は、食い物の多い所とほぼ知れている。──それよりは、後に残る弓、鉄砲の足軽小者の妻子どもに、煎じ茶の一ぱいもゆるりと飲ませてくれたが増し……。心得たか」 「はっ」  それで、風呂の中でした考え事は、すべて、附け終ったらしくある。猿殿は、さもさも、爽々したように、奥へ急いで通られた。 三  道をちがえて、続々と引揚げて来た各部隊は、大手、中門のあたり、二の曲輪から、御本丸の広場にまで、満ち満ちていた。  久しぶりに脂の浮いている汁椀と、にぎり飯とを両手に持って、兵たちは、明日の空あいを眺めていた。  夕雲が赤かった。梅雨も霽ろう。どこか風もさばさばと感じられる。ふと、開け放たれているお広間を窺うと、猿殿は、御舎弟の秀長様とお揃いで、御母堂の前に出られ、何か笑い興じながら、兵と同じような粗末なお菜で、湯漬を食っているのだった。 「久しぶりよの」  御母堂も、箸をとっておられた。秀長様も御相伴している。開け放ってあるので、彼方で兵が食べているのも見えるし、兵の方からも見通しなのである。  こういう有様は、わしはどこの大名方の家庭でも見た例がない。思い出すも胸が痛むが、光秀殿などは殊さらに厭う事である。眉をひそめて、下賤というに違いない。  だが、猿殿のお姿からは、下賤などという感じを受ける前に、美しさ自由さを感じる人間の姿のほうが先へ迫ってくる。わしは物蔭から、茫然と見とれていた。 「戦、また戦と、留守がちでござれば、母君にも、間には、お寂しゅうございましょう。お歌は、ちっとは、進みましたかな。舞など、稀〻には御覧なされまするか」 「勿体ないこと、そなたが戦場に臥してあると思えば」 「そんな御遠慮は、わが子に御無用なこと。妻のおすすめが、不束なのでござりましょう」 「あれには、ようして賜もるに、なぜ其方は賞めておやりなさらぬ。よしないことを」 「はははは。母君その辺、お案じはいりませぬな。女房には蔭でいうもの。のう、秀長」 「ははは。そうかも知れませぬ」 「美味い。こうして戴く、湯漬の味はかくべつ。……ここへ戻れば、母君とも二夜三夜は、甘えていとうなるが、楽しみは後のこと。またしばらくはおさびしくも、御機嫌よう留守をたのみまする」 「すぐにまた、御出陣か」 「されば、明け方にも」 「やれのう、御苦労なことではある。わしはよいが、彼妻は名残も惜しかろうに、なぜここへ政所殿は呼んであげなさらぬ」 「会いたい妻は、足軽どもも持っておりまするで、ここは我慢のしどころかと。──あははは、彼女にも、悪う思うなと、母君からよう申しおいて下され」  笑っているそのお口で、先刻、猿殿は御留守居衆の小出播磨守どのや、三好武蔵守どのを集めて、こう正直に告げておられた。 (敵は強兵じゃ。逆賊とはいえ、光秀もわしを邀えたら、その一戦が彼のわかれ目じゃ。光秀の智謀才識、到底秀吉の遠く及ぶところでない。わしはただ順逆を学び、天道を奉じ、亡君の弔合戦ぞという捨身があるばかり。もしこの一戦に、秀吉討死と聞えたなら、母も妻も、そちらの手で、潔う処置してくれい。城は火となし、小屋一棟も焼き残すなよ)  それを、伝え聞いた将も兵も、みな血を沸らせて、瞼を熱くした様子である。その猿殿のお胸のうちを思い、湯漬を共に食りながら、出陣までの半夜を、母に侍して機嫌を取っておられるのを見ると、わしは事もなげなそこの笑い声を、他耳に聞いてはいられなかった。  同時にわしの欣びは裏書された。──このお方のためというては狭いが、このお方が喜びを整理し支配してくれたら、世の中は明るく強く美しく、真の平和になろうと信じられた。その馬前に死ぬことは、無駄でないと心を固めさせられた。  わしのみではあるまい。  恐らく、三万の将兵は、みな等しい気持を誓っていたに違いない。  真夜半を過ぎると──  早くも一番貝が鳴る。二番貝が鳴る。  陣列、馬揃い。そしてほどなく、先鋒の部隊から、徐々に、東へさして進軍しはじめた。  大手口の欄干橋に、床几をすえて、猿殿は、出陣隊伍を閲兵しておられた。  ざく、ざく、ざく……  足なみは、一糸みだれぬ音を刻み、猿殿の前を無限に流れて行く。  死に場所へ。  死に場所へと。  だが、その前には、やがて播磨灘の闇をひらいて、大きくさし昇る太陽の祝福が燦としてあった。  死に場所へ。死に場所へ。  わしも大股に隊伍の中に交じって歩いた。真に生きんがために、大地を踏みしめて歩いた。 底本:「柳生月影抄 名作短編集(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年9月11日第1刷発行    2007(平成19)年4月20日第12刷発行 初出:「週刊朝日 創刊一千号記念特別号」    1939(昭和14)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2013年1月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。