随筆 新平家 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 随筆 新平家 はしがき 新平家落穂集─筆間茶話─ 時、保延三年。藤原専制の末期─西紀一一三七年。 木曾義仲と巴の抄 彼と運命の岩茸 蛮婦か母性か 芭蕉は義仲をどう見たか 宇治川拾遺 義経と一ノ谷 私事片々 新平家雑感 清盛という人間 古い鏡と今日の顔 出家の話 机のちり 折々ぐさ 客窓雑記 草の実抄 晴稿雨筆 歳寒雑記 牛歩漫筆 ある一日半夜記 窓辺雑草 新・平家今昔紀行 伊勢から熊野路の巻 湯ノ峰から那智の巻 淀川から神戸界隈の巻 四国白峯の巻 屋島寺から壇ノ浦の巻 瀬戸内と別府の巻 門司・小倉あるきの巻 宮島の巻 鬼怒川から山王越えの記 会津磐梯山の巻 新潟〝白浪抄〟 名古屋から車窓の近江路 京の雷と有馬の河鹿 木のない生田ノ森 会下山展望 鵯越えに立ちて 須磨寺寝詣での記 はしがき  どうも、序文というよりは、これは〝おことわりがき〟になりそうです。  なにしろ、この中に収められた随想や紀行文の一切は、後になって、こんな単行本として纏められるつもりなどはちっともなく、ただ、その時々の必要やら感興やら、また長年にわたる読者のおたずね等に応えるために書いたりしたものが、あらましですから、いま一書として編録されたのを見ますと、まことに布置や祖述の首尾も体を成しておりません。  いってみれば「新・平家物語」を書きつつあった七年間の副産物にすぎないのです。ですから、完結直後にすぐ別巻として出すような企画もあったのですが、つい私として気のりせず、のびのびにしていたのでした。ところがその後もしきりに、問いあわせて来られる要望も絶えませんし、かたがた、二十四巻という著には、一冊の補遺をかねた著者随感の添加されるぐらいなことは、あった方がむしろ自然で、また主巻を読まれた人々の興を扶けもしようなどといわれて、ではと、ついに出版していただくことになったのです。  収載中の「筆間茶話」は、週刊朝日のうえで、毎月一回ずつの梗概を〝──前回までの梗概に代えて〟として書いていたもので、これは従来の型どおりな小説のあらすじといったものでなく、著者と読者とが茶の間に寄ったようなつもりで、おりおりの質疑応答やら私の身辺雑事なども勝手にかきちらしたので、ずいぶん長年の間読者諸兄姉にも、この欄には親しみをおぼえてくれたようでした。  それと、今となってみて、一そうなつかしいものは、執筆中の寸暇をみては、よく諸所方々へ史蹟歩きに出かけたそのおりおりの紀行です。  数篇の「新・平家紀行」はそれの所産でありますが、私は青年時代からよく先人の紀行が好きでそれを愛誦したおぼえがあるので、自分も新・平家紀行では、さぐりえた史実の報告やあつかいなどよりも、もっぱら杉本画伯や社の同行者たちをも加えた一種の紀行随筆たることを多少意図して書いておりました。──それも終戦後の日もまだ浅いうちの地方見聞でしたから、今日から振り返ってみると、かえってその頃の世相図を偶然書きおいたようなことにもなって、自分にはよい生涯の思い出ではありますし、読者にもまたべつな興趣がそこに見出されるやもしれません。(中略)  このほかにも、紀行として書けば、武蔵野周辺やら房総地方、近畿あたりなどの小旅行もしばしばあったのですが、年たつに従って、大部分忘れています。なにしろ私はそんなおりもメモとか写真とか、また日記をつける習慣さえないので、ほとんど忘れ去るにまかすといった懶惰なんです。それがこんなに纏められたのは、まったく「新・平家」起稿以来、それの完成に協力していてくだすった蔭の社中諸兄の御丹精だったと申すほかありません。(中略)  惜しいのは、これに読者寄稿による「平家村史料」を載せることが出来なかったことです。その平家村史料は、週刊朝日誌上で募集をこころみた結果、全国の平家村分布地方から約二百七、八十通にのぼる口碑、伝説、図絵、歌謡、風俗、変遷などの御報告があったものなのですが、いかんせん、これの整理にはたいへんな日時とまた重複、錯誤などもただして、さらに筆を加えなければなりませんので、研究目的は果たされたわけですが、まだこれを上梓するまでには整っておりません。いつかこれもまとめることができたら好箇な後代文献にはなるだろうと思われます。  終りに。  書中にも随所にのべてありますが、「新・平家物語」の完成には、じつに表面に見えない各方面の方々の御尽力があり、いまさらのような感銘を新たにしております。わけてこの「随筆 新平家」の一書も、御多忙のなかを嘉治隆一氏がたんねんに編纂その他の労をとってくだすったもので、私としては多少の校訂を見ただけで何も労せず刊行をみたものでした。同時にまた、書幀そのほかに、あいかわらずな熱意をもっておすすめくだすった朝日出版局の諸兄にもあつくお礼を申しあげます。──と、こう書いて来て思うのですが、どうも作家というものは、作品を生むまでには、朝な夕なの胎愛や陣痛をもいとしむものですが、生んでしまって、それが社会に送られてしまうと、鳥の親みたいに、もう素知らぬ振りになるものとみえます。それは他人の子よりは可愛いものにちがいないんですが、すぐまた次の想卵を抱いてしまっているせいでしょうか。どうぞ、おゆるしをねがいます。     昭和三十三年五月一日 英治 新平家落穂集──筆間茶話──  時、保延三年。藤原専制の末期──西紀一一三七年。  崇徳帝の朝廷と、鳥羽上皇の院政と、二つの政府の下に、まだ中流層といったような層はなく、貴族層と低い雑民層だけの二相社会があった。べつに、大兵力をもつ僧団勢力がある。これには朝廷も藤原氏も手を焼きぬく。ために、地方出の武人が番犬的に登用され、朝廷にも、院にも、常備軍がおかれた──それが武者所。  平ノ忠盛の長男平太清盛(二十歳、後の太政入道)。遠藤盛遠(二十一歳、後の文覚上人)。源ノ渡(二十五歳、袈裟御前の良人)。佐藤則清(二十二歳、後の西行法師)──などみな鳥羽院北面の武者。そして、世の末期的症状への懐疑、鬱屈、脱皮など、ひとしく若い吐け口にもがく一連の時代の青年たち。中でも、清盛が、この作の主題。  清盛の母、祇園女御は、白河帝の寵姫で、帝より忠盛の妻に賜わり、後、清盛を産んだもの。疑説、ここに生じて、彼を天皇の子となす説、女御が通じていた悪僧の子とする説など、はしなくも、二十年後の貧乏平氏の家庭に、紛々をかもし、スガ目の忠盛にあきたらぬこと年久しく──しかもなお虚栄に富んで女の晩春に恋々たる彼の母は、四人の子をのこして他家へ去る。  秘事を、清盛にささやいたのは、遠藤盛遠であり、盛遠もまた、酒溺放逸、何か、自暴と悶々の影が濃い。また、袈裟の良人、渡は、人の忌む凶相の名馬を飼って、仁和寺の行幸競馬に一瞬の功を夢み、ひとり則清は、沈吟黙想、交わりつつ、心、交わりきれぬ孤友だった──。(二五・五・七)        * 「新・平家物語」は、古典平家物語には拠っていない。が、だいたい、伊勢平氏忠盛と、子の清盛の逆境時代に、起筆しました。蔑められていた地下人階級の擡頭が、始まりです。  後の大きな人間悲劇をかもした二院政治(朝廷と上皇との)も、保元の乱も、素因は、じつに、天皇御自体のうちにある。また、まわりの妃嬪や、貴族たちにあります。が、従来は、触れ得ない所でした。今日では、ここもふつうに書けます。〝新しい平家〟が書かれてもよいと思ってやり出した所以です。  古典平家には、一貫したストオリはありません。各章の史的挿話が、人間の無常、栄枯の泡沫、愛憎の果てなさなど、組みかさね、組みかさね、十二世紀日本を構造して見せ、抒情し去ってゆくのであります。私の「新・平家」もそれには似るかもしれません。ただ古典の貴族中心を、私は同時代の庶民の相からも書きたい。殊に、宮枢の秘に触れ、天皇、上皇、妃嬪たちをも、一列の登場人物とみなして、淡々と、えがいてみたい希いを伴っています。  いままでのところ、この物語は、ほんの序曲で、院の北面革新を思って生まれた院の法皇御自体が、すでに、甘美な制度から遁れ得ていない。鳥羽の寵姫、美福門院は、すでに、幼帝近衛の御母であり、ここにまた、女院政治すら行われそうです。  美しさ、限りもなく、醜さ、あやうさも、際限のない、人間の落花期を、また、大地からは、べつな人草が萌えんとしています。まだ、地下人と卑しめられていた武者所の若人たちで──安芸守平ノ清盛など、その一人でした。  彼の当年の同僚には、武者をすてた西行法師があり、悲恋に、転機して、難行道の沙門となった文覚もいる。  さらに、源氏の地下人にも、六条には、源ノ判官為義があり、その子義朝、為朝などの面だましいや、その余の一族など、そろそろ、未来の鬱蒼をなさんとしているものでしょう。(二五・八・六)        * 「勧学院ノ雀、蒙求ヲ囀ル」という諺がありました。今でいえば「大学の雀マルクスを囀る」といったようなものです。  多くはその勧学院出身で、武者所に勤めていた王朝末期の青年たちのうちに平ノ清盛、遠藤盛遠(後の僧文覚)、歌人西行など、それぞれ個性のある輩が、世を望んでいたものです。  これら〝同窓の雀〟が、時代のあらしに、翼を分かって、思い思いな二十歳台の巣立ちをしてゆく保延年間(約八百年前)の世態を前奏とし、物語はいま、保元の乱、直前まで、書いてきました。  かえりみるに、平和は、故なく外から侵されるものではない。おおむね、内に理由をもち、自壊に乗ぜられ、強力な野性に取って代られること、古今、歴史の証すところです。これを、保元、平治の大乱にみても、例外ではありません。むしろ、その病巣の深さ、複雑さ、奇怪さに、当年の史記も疑われるばかりであります。  けれど、鳥羽法皇の院政や、後宮美福門院をめぐって、藤原貴族政治の末期にあがいた人々の演じた人間宿業劇は、余りにも、生々しいものでした。内裏や仙洞御所は、その活舞台です。崇徳天皇も、近衛幼帝も、みなこれ、畏き傀儡たるにすぎません。神にもあらず、人間にもあらず、ただ奇しき陽かげの御生命であったに過ぎない。  こうまでして、権力や栄花に妄執した貴族心理は、われら庶民の理解には、遠すぎて、縁なきもののようですが、次に、地下から擡頭した新興勢力の平家一門も、また源氏の野人も、次々に、同じ軌を泥上にえがいて、宿業の車輪は、興亡、流転、愛憎、相剋、猜疑、また戦争など、くり返しくり返し止まるところがなかったのです。今日といえ、この人間苦、人間愚の無限軌道は、果てなき思いがしないでもありますまい。  ──古典平家物語は、いわばそのころの、日本百年の弔鐘でした。迂作、この一篇も、悔悟の古塔を巡礼しながら、古典に曳く鐘の余韻に、今日は末世か創世か、もいちど、無常の真理を聴こうと思うものであります。(二五・九・三)        * 〔御白河天皇〕鳥羽法皇の第六皇子、前年、近衛帝崩御の後、御即位。御年三十。 〔美福門院〕故法皇の院政(朝廷のほかの上皇政治機関)のかげにあって、寵、権、ふたつを専らにした女性。生むところの近衛帝を立てるために、崇徳天皇の退位を余儀なくさせ、後また、近衛の立后問題では、左大臣頼長と摂政忠通との、深刻な争いを助成し、ついに、保元の乱の陰因をなした。 〔少納言信西入道〕美福門院の上﨟紀伊ノ局の良人。才学兼備で、表面には余り出ないが、野望測り知れぬ人物。頼長の師ではあるが、頼長とは以前から合わない。 〔下野守義朝〕源ノ為義の嫡男。父の為義は、新院(崇徳上皇)や左府頼長の謀叛には避けて中立を考えていたが、義朝が、率先して内裏方(天皇と、美福)へ参加したため、苦境にたち、ついに義朝をのぞく六人の息子たちをつれ、合戦前日の夜、新院方へ赴く。 〔安芸守平ノ清盛〕叔父の右馬助忠正は、新院方へ味方。清盛は、二男基盛をさし出して、まず宣旨にこたえ、義母の池ノ禅尼の意見、四囲の実状、一族の和など、見さだめて後、義朝よりおくれて、内裏方へ参陣。──このころ、まだ、源平対立の兆は見えても、戦いはなく、むしろ、地下階級の武者全体が、貴族政治の崩壊によるこんどの戦乱を、自己たちの地位向上の絶好な機会となし、赤旗も白旗も同陣営に拠っていた。新院方もまた同様な、源平混成軍である。──清盛、三十九歳。義朝三十七、八。 〔崇徳上皇〕新院とよばれているお方。鳥羽の第一皇子。近衛天皇の異母兄。御白河天皇の実兄。──御母は藤原璋子。美福門院とは、まま母まま子の御仲。帝位を退かれてから十四年、世栄の外におかれ、この年七月二日、法皇の御臨終にも、側近の阻むところとなって、父皇と、一生のお別れすら遂げられなかった。その悲恨悲憤に、左府頼長などのいだく、不平、野望などが、火に油となり、ついに〝新院御謀叛〟の征矢のまえに立たれてしまわれた。御年三十七。(二五・一〇・一)        *  詩と見るならば、哀切な長詩。絵と見るならば、宗達筆の扇面画に見られるような美術でもあります。けれど「保元の乱」の実態は、決して、名誉な歴史ではありません。そのころの社会悪と人間性の陥りやすい権勢欲やら迷妄やらが、余りに地獄化されたものでした。あの匂い優雅な藤原文化も、あえなき血と炎の革命に瀕しています。  皇室と皇室が戦い、父と子が戦い、叔父と甥が戦い、文字どおり骨肉相食むの惨を演じた悪夢の一戦も、新院方(崇徳上皇)の敗北に帰して、内裏方(御白河天皇)では乱後、戦犯の元凶を、追捕するのに急でした。  すでに、新院は、仁和寺にかくれて、剃髪され、左大臣頼長は流れ矢に斃れ、日々数十人の公卿や武将が処刑されましたが、なお新院方の将帥、六条為義父子や、右馬助忠正などは捕われていない。  忠正は、甥の清盛が、内裏方なので、暮夜ひそかに、六波羅を訪い、情にすがって、命乞いを頼んでいます。この叔父たるや、生来、清盛とは仲のわるい利己主義な人物でしたが、清盛は、窮鳥を殺すに忍びず、一夜、少納言信西入道の私邸を訪う。  公卿にして博学宏才な信西入道ですが、彼は徹底した官僚頭脳と陰険な性情の持ち主でした。戦後、久しい蟄伏期を脱し、俄然、その鋭角を政治面に現わして来たものです。  信西の肚には、鳥羽法皇崩御の前から、一定した計画があり、この戦乱を機に、除くべき者は、すべて公然と、血の粛清に屠り去ろうという考えがうかがわれる。六条源氏の為義父子も、その子義朝をして、詮議中です。清盛が、叔父の助命を彼にすがっても、情や涙で、自己の野望の設計を変えるような信西でもなかったのであります。(二五・一一・五)        *  とにかく、この地上に、約四世紀も、戦乱を起こさずに、人間が暮らしてきたという歴史は、世界史にも、他に例のないことです。それだけは、わが王朝期の功というもさしつかえありますまい。  それと、平安朝文化のけんらんたる人為の至芸と自然との飽和の中に、あの〝源氏〟や〝枕草子〟のような恋愛もし、優美な日常を楽しんで暮らしたということも、すばらしい人間記録にはちがいありません。共に、藤原氏全盛期を通じての特色ではありました。  けれど、過度な文化の爛熟と一部の繁栄には、必ずその下層に、それだけの奴隷力が、喘いでいるにきまっています。いわんや、極端な門閥と、世襲官職を、絶対視して、貴族の専横政治が、何百年とつづいて来た下には、地下の意力が、動き出さずにおりません。初めは、貴族の門の番犬として飼われた地方武者が、やがて力を得、自覚をもち、それに、拍車をかけたのが、保元の乱です。  上皇院政の積弊や、皇室をめぐる貴族対貴族の、立后の競争や、女院のかげに秘謀を思う官僚など、保元の因は、一様ではありませんが、中にも、乱後、讃岐へ流されて、配所で憤死された新院崇徳上皇などは、凡下乞食のちまたにも見られない悲惨な御末路と申すしかありません。  天皇幽閉、上皇遠流などという悪例も、この時にひらかれました。兵火は、一時やんでも、戦後戦は、なお冷たく戦われている。論功行賞の不平やら、少納言信西入道の独裁振りやら、またなお、わが世の春を夢みる藤原貴族の公達ばらの不平などによって、三年後には、もう次の平治の乱が、目前に、いぶっている。(二五・一二・三)        *  保元の乱三年後──平治元年の第二次乱が、ここに始まろうとしている時。  二条天皇の朝、後白河上皇の院、二つの政廟の下に、藤原信西入道が、保元以後、頭角をあらわして、ようやく、独裁者らしい強権を振舞っていました。  この信西は、平氏の清盛とよく、源氏の義朝とは、和していません。──その義朝の孤立を誘って、彼の武力と、一部の不平とが結合を見たとき、藤原信頼や惟方等の、反信西派の一群が、清盛の熊野参詣の留守に乗じ、その陰謀を表面化しました。歳末十二月四日の夜からです。  首謀者の藤原信頼とは何者でしょう。名門にはちがいないが、二十八の白面の若公卿です。惟方は検非違使ノ別当です。そのほか一味の貴紳はみな若年で、縁類か、不平か、野望の友です。信西入道にたいし、ふかき私怨をもち、公憤と私的感情が一つになって「いつかは」と、時をうかがっていたものでした。偶〻、清盛が子の重盛以下五十余人をつれ、紀州へ旅立ったことが、彼らに、大事決行を誘発させ、院御所の夜襲、皇居の占領、天皇上皇の幽閉という、前古にない日本の暗夜と、殺戮を照らす劫火の巷とを、現出しました。  清盛は、早馬をうけて、紀伊半島の遠い旅先で、それを知る。  はからずも、この騒乱の帰着は、結果的に、義朝対清盛の武力に賭けられるしかありません。信頼、惟方などの考え通りにもゆかず、彼らが敵としていた信西入道にも運命は何も幸いしない。天意の皮肉、歴史のおもしろさ、じつにそれは、人為を超えた自然の大作用が人為のほかにあることを証しています。そして、この時を境として、源平紅白の二世界に地上は染め分けられました。紅地帯に住む者、白地帯に生きぬく者、いわゆる源平時代はここに始まり、平安朝貴族の夢は今、終焉の炎にくるまれています。(二六・一・七)        *  挿画の杉本健吉氏も、清盛像の大写しには、はなはだ要意慎重で、なかなか筆を下ろして来ません。これは小生の文章がなお清盛の性格を充分に描破し得ていない不備にもよるでしょうが、一般に、清盛といえば、専横暴慢な脂ぎった浄海入道という牢固としてぬき難い先入観の障壁に囲まれているせいも大いにあるでしょう。現に、杉本氏の一娘なども、たまたま、父健吉画伯がデッサンしかけた清盛の顔をそばから見て、「清盛って、そんな優しそうな人じゃないわ」と抗議され、せっかく揮いかけた杉本氏の新人的気魄をすらあえなく萎えさせてしまったという事実さえあるほどですから。  古来、清盛の肖像には摂津築島寺の清盛甲冑姿の像、山城六波羅蜜寺の法体像、京都曼殊院の束帯像など幾種となくありますが、いずれも端正な美丈夫で、積悪の酬いのため、赤鬼青鬼の迎えをうけ、炎の車で地獄へ持って行かれたとする入道相国の既成概念とは、およそ別人であることが分かります。  その清盛の幻影を追って、先ごろ、杉本氏やほか数氏と、平家史蹟巡りの旅行の途中、厳島神社で例の平家納経を見、また清盛、頼盛両筆の無量寿経に、彼の筆のあとを、眼に見ました。優雅です。頼盛よりもむしろ気心は優しいほどな、静かで肉ぼそな覇気のない文字です。私は遠くから、清盛という人に会った気がして、その夕べ、社殿のうしろの清盛塚にのぼり、つくづく考えこみました。やはり歴史は「勝者が敗者を書いた制裁の記録である」と。そしてそれを書き正すのが文芸の一つの仕事であろうなどと今更らしく思うのでした。(二六・二・四)        *  自然の摂理でしょうか。保元の乱、またすぐ三年後の、平治の大乱などは。  史料をよせて深省してみますと、じつに、そうなる摂理の原因は、一朝一夕のものでなく、たれのため、彼の所為とも、一概にはいいきれません。複雑怪奇という言葉が、昨日の日本にもありましたが、八百年前の人間社会にも、そのまま当てはまるということは、何を意味するものでしょうか。  うみは出、荒療治は、一応、すんだかに見えます。それが平治元年十二月二十六日の激戦から数日の間に帰着してきた兆しです。これで長い藤原貴族政治も終熄し、藤原氏自身の発言権すら稀薄になったかたちです。──が、見のがし得ない必然なものの擡頭をまだ民衆もたれも見抜いていません。  武門の勃興です。前の貴族政策に代って、この新興勢力が、どういうものになるか──です。  おなじ武門といっても、清和、桓武の二系列このかた、大略、源平二氏の武族があり、旗幟も紅白にわかれて、あまねく、ひとつ地上を、ふた色に住んでいます。しかも今、源氏の棟梁源ノ義朝は、中央の争覇にやぶれて、子の悪源太義平や頼朝や数騎の幕僚のみをつれて、やっと血路をひらき、二十六日の夜から朝にかけ、比叡越えから堅田ノ浦を経、東国へさして落ちのびて行きます。  都にのこるもの。武門としては、清盛以下、平家のほかにはありません。──やがて六波羅の入道平相国となり彼の咲き誇らせた地上わずか十余年の間こそ──〝古典平家物語〟が、沙羅双樹の花のいろ、諸行無常の響きあり、というところのものです。人間諸行の曼陀羅です。興亡の絵巻です。私の「新・平家」もこの辺を序曲として、まあ本筋にはいるとでもいうところでありましょう。(二六・三・四)        *  二次の戦争が終わりました。保元の乱、平治の乱。  そして、戦後の春です。藤原時代なるものは色褪せました。ようやく、平家栄花の勃興期に入りましょう。  と同時に、この回からも、読者は読まれることと思いますが、もう次々代の源氏の胚子がこぼれ始めていたのです。ですから、これを平家史中心に観れば、平家全盛期の序であり、源氏史からいえば、源氏の発芽期を、すでに地上に見ているという時代でありました。  春秋の流相を、こんなふうに、併せ観られるところに、歴史の興味が今日にも読みとれるかも知れません。そんな宇宙夢をえがいて書き始めたのが迂作「新・平家」でしたが、週刊誌上の連載も、この回でいつか満一年という長篇になりつつあります。  清盛二十歳の保延三年に起筆して、清盛四十三歳の、平治二年(永暦ト改元サル)の春まで書いたわけです。要するに、ここまでは「古典平家」にはない話が多く、いわゆる平家物語の平家的諧調と色彩にとむ人間哀詩の絵巻はこれからくり展げられるものとおふくみください。(二六・四・一)        * 〔時代〕平治二年(永暦ト改元)の春、今より約七百九十年前。 〔時勢〕保元、平治の二次の大乱直後。源ノ義朝一族は敗れ、清盛の六波羅平氏が、ひとり都に武門として、隆昌の兆しを示している。 〔政情〕天皇二条のほか、なお後白河上皇の院政があり、新興武門の発言権も、急激に大きくなっている。 〔一般時風〕数百年の貴族政治には民心も飽いていたし、平安貴族文化と、低い層の生活とは、明暗、余りに別世界のものであった。従来、地下人階級といやしまれていた武人の擡頭は、その意味で清新の気を与えている。同時に、六波羅を中心とする戦後景気やら、新しい時粧風俗も興って、清盛という時代の新人物に、ともかく今のところ、庶民は好感と興味をもって観ている。 〔主な登場人物〕  常磐(二十三歳)義朝の愛人、今若、乙若、牛若の三児をかかえ、捕われて、その子たちの助命を清盛に乞う。ちまたには、清盛とのうわさがいろいろ取沙汰され、今は壬生の小館にかこわれている。  清盛(四十三歳)戦後、権中納言参議、妻の時子の眼もあって、常磐を壬生へ移したが、内外諸政、宮中のこと、彼の一身は、今、多忙を極め、常磐をかえりみている暇もない。  蓬子(常磐の忠実な召使い)牛若や乙若の子守をしていたが、今も壬生の小館に仕え、文覚とは、保元の焦土で知りあった仲。  阿部麻鳥(もと朝廷の伶人)崇徳天皇に愛され、天皇退位の後も、御所の柳ノ水の水守を勤め、讃岐の配所までお慕いして、今は都の陋屋に住んでいる若人。朝廷貴族の裏面を見、人間の真実と生きがいを、むしろ貧しい庶民の中に求めようとしている。  僧・文覚(もと院の武者所の出身)若年、人妻に恋し、あやまって恋人の袈裟を斬り、青年期の関門につまずいたが、沙門に入って、那智の滝でいくたびとなく自虐的な修業をとげ、われから難行道の達成にあるいている無籍僧。清盛、西行などとは、共に勧学院の同窓であった。(二六・五・六)        *  戦乱中の人間も異様ですが、その直後、平和の中の人間模様も、世さまざま人さまざま、種々、めずらしい風聞を撒くこと、古今のちがいもないようです。  保元、平治の大乱も終熄して、永暦元年と変った春から秋への世相の表裏にも、じつにそれが顕著で、あるいは、てんやわんやの一時代であったというもよろしいでしょう。  まず、源氏と名のつく人間は、ことごとく、誅滅、追放、あるいは自ら遠く山野広原の地方に潜伏し、武門はひとり六波羅平家一色になりつつあります。  かかる都にも、なお、予譲の義をまねて、清盛を狙う悪源太があり、常磐の貞操にこらしめの刃を加えんものと、刃を研ぐ、金王丸のごとき血気未熟の若者もある。  頼朝は、伊豆に。牛若は鞍馬に。──今は平家勃興時代にみえて、また、宇宙観的な永い眼で見れば、地下源氏の萌芽時代ということもできましょう。いずれは、なお、五風も十雨もなくてはほんとに固まらない地上であったのです。  僧文覚は、ひたぶるに、那智の修業や、諸山を経て、時に都を歩き、彼一流の発願をいだきながらも、昔の同僚、清盛の大きな擡頭に、一べつの白眼と批判をつねに抱いているし、歌法師の西行は、白雲のまま、流水のまま、弟子西住と別れて、みちのくの旅から、この秋、都へ出ていました。  そして、旧主徳大寺公能の侍所に、別れた弟子を訪うた日、常ならぬ貴紳三人の客の牛車を、内門の車宿に見ました。──この朝臣の三車が道を別れて帰るところから、二条天皇と後白河上皇との、父子の御不和と──そしてかつて前例にもない天皇の恋が、やがてその年の都の秋を驚かせたのでありました。(二六・六・三)        *  平安朝の末期、約八百年前、清盛が二十歳の保延三年を、第一回とし、この篇までに大体、以後二十四年間の世の変遷と、人の生き方、変り方を、書いてきました。  ざっと、前半を概観して見ますと、何世紀もつづいた藤原氏の貴族政治も、保元、平治の二乱に支配力を失って、代りに、地下人武士の擡頭が、世の著しい変化でした。  従来、都には、武門といっても、源系と平系との二氏がその職部門に同棲していたのですが、源ノ為義、義朝父子など、みな去就を過って、平治合戦以後は、洛中、平家一色となってしまったのです。  といっても〝驕る平家〟とか〝一門栄花〟とかいわれた春が、一ぺんに六波羅へ来たわけではありません。この回の現在、清盛は四十四歳、職位は権中納言参議、かの常磐との艶聞があったりして、男盛りではありますが、まだまだ太政入道の世盛りには間があります。  むしろ、清盛の頭上には、清盛以上にも、政略奇謀を好み給う後白河上皇がおいでになるのを、時人もみのがしておりません。いわゆる院政の権をかたく持され、朝廷をすら、意に介し給わぬ御存在です。  清盛の妻時子の妹滋子は、去年、女御として院の御一子を生みました。憲仁親王(後、高倉天皇)がそれです。  今上二条と、この院との、御父子のおん仲が悪いことは、要するに、院政の制そのものの弊害で、清盛はこの間にいます。いわば二廟の臣です。そして上皇は清盛の持つもの(兵馬の威力)を御手中に籠絡してしまおうというお心に見えるし、清盛もさる者で、即かず離れず、上皇をあやなし奉り、自門の伸長に心している様子です。もし清盛を野望家というならば、御白河は世にも策士型の御方といえましょう。両々こう二者のかけひきは、ここしばらくの見ものであります。(二六・七・一)        *  平家物語は、だいたい、平家栄花時代と、義仲や義経の活躍時代と、そして平家衰亡時代との三部に分けて見ることができましょう。  この「新・平家物語」では今、清盛が四十八歳から五十歳への、彼の人間ざかりと、一門繁昌の緒にあるところを書いております。〝日本秋津島ハ、ワヅカニ六十六ヶ国、平家知行ノ国三十余ヶ国、スデニ半国ヲ超エタリ──〟と古典のいうほどでもありませんが、とまれ藤原氏など、昔日の面影もなく、ただ上皇後白河の威と才略を恃んで、ひそかに他日をうかがう蠢動をちらちら見せているだけに過ぎない。  後白河の御機略には、清盛もやや神経過敏でしたが、他は意にも介しない彼でした。すでに福原の開地は着工させ、大輪田ノ泊の築港を計画し、日宋貿易を将来に考え、また厳島を、海の平家の氏神として、納経を立願したり、そこの造立や改築を心がけたりなど──すべては彼が五十歳前後に剋ちえた時運と権力と健康をそそいで、短い一生のまに、その成果をみようとしたものです。それをもっても分かることは、ただ一門の驕児慢臣を作るがための栄花が彼の本志であったわけではありません。  けれど凡人清盛の凡情の証は、公事交友の中にさえ、まま露呈するところなのです。まして女情においては、さきには常磐の例があり、この年ごろには、妓王と仏御前との一情話が、今もある祇王寺の遺蹟と共に、名高いものに聞えております。けれど、古典のそれは、耳に聞く詩、眼に見る絵巻ではあっても、余りに伝統的で、現代人にはうなずき難い一節です。もちろん史実とてはない。そこであからさまにいいますが、多分に、自分のこの一章も創作です。次回の仏御前につづく件まで、劇中の劇、長篇中の一短篇と見ていただければ、前後にさわりもないかと思われます。(二六・八・五)        *  この夏の猛暑のため、弱腸のぼく、ほとんど消化力を欠き、余りな節食を通したせいか、少々、原稿紙がかすんで見えたりし出したので、急に客を避けて、もう少し山国の方へ半月ほど逃げこむことにした。  従来は旅行先でもよく原稿は書いたものであるが、「新・平家物語」起稿以来、家を出て仕事をするのは初めてである。なにしろ参考書類だけ持つのに、小さな引っ越しほどの荷物になった。  遅稿のため、杉本画伯の手もとに、原稿の滞留期間、わずか一日半しかないというのを聞き、同君の芸術的良心にたいしても、なんともすまない気持である。机の引っ越しがすみ次第、岩角から腰を上げて、杉本氏自身にも楽しんで描いてもらいたいと念じている。  物語は〝平家繁昌〟のさかりと、入道清盛のいわゆる極悪横暴にはいるのであるが、それは古典の筋と、旧来の先入観で、自分の「新・平家」では大いに見解がちがっている。前々回の車争いの事件でも、古典では「平家の悪行これより始まる」となっているのであるが、ほんとは書いた通りである。清盛という人物の全貌も、かつての歴史に決定づけられた清盛よりも、自分の書いている清盛その人の方が、たしかに真実に近いのである。それだけは絶対な自信をもって書いている。(二六・九・二)        *  清盛の夢はようやく、経ヶ島の築港、厳島の造営、日宋貿易の誘致など、夢ならぬ現実を見て──承安三年、入道相国の五十六歳には──月ノ御所、西八条など、平家一門が軒をならべる所──花らんまん、まさに史にいうところの平家全盛時代は今と見えました。  平家にこころよからぬ後白河法皇も、当分、施す策もありません。法皇対清盛の相互のかけひき、牽制や利用や迎合のしくらべが、ついに何を孕むかは、まだ宿題です。  それに依然として、院の近衆たちの間、また反平家的な公卿たちの間には、ややもすれば〝打倒平家〟のうごきもある。しかし、院を背景とする薄暗い底流窟に、いったいどんな怪魚が寄って、何を囁き合っているか、これもまだ表面のものではない。  かくて地表の万象は、すべて平家のために咲いている華かの如く平和です。けれど大きな流転の輪が巡っていないわけではありません。つぶさに観ると、次の萌芽は刻々と、東方の野に兆し初めている。たとえば伊豆にある頼朝の成人です。また同じ伊豆へことし配流された僧文覚です。──さらにここにまた鞍馬の遮那王(牛若)が、じっとしていられない年ごろにもなって来ました。  だが、保元平治の戦いを身に知って来た悲母の常磐は、わが子が、興亡常なき武門にあこがれて、ふたたび父義朝の轍をふんではと、都の片隅で、ひとり心を傷めているのです。するとまたここに、かの女の祈りとは正反対な大望をいだき、平家への報復と、主家の再興に燃える一群の天狗どもがあり、その天狗たちは、鞍馬の一稚子を擁して、ここ毎夜毎夜、僧正ヶ谷の闇へ誘い出しているのでした。(二六・一〇・七)        *  この稿までの約九回分は、浅間山麓の地方で書いた。仕事の寸暇には、浅間高原だの碓氷へも登ったりした。時々こういう所に立って呼吸するのも大へん仕事の役に立つ。既成の小説概念や歴史観念の殻をぬけて、想像の自由を養うためにである。  ここ数回は、清盛の出家と、一門繁昌の頂上期で、ひとまず筆を転じ、牛若丸をめぐる〝陰の人びと〟とその母常磐の以後の境遇を摸索して書いてきた。摸索と正直にいってしまう理由は、「正安四年三月三日、義経鞍馬山ヲ出テ陸奥ニ奔ル」と年表にあるぐらいで、この事件では他に正史といえるような史料は何もないからである。  常磐も再嫁以後のことは、全く分かっていない。再縁先の一条大蔵卿成長(参議忠能の子)という男も、そのこと以外には、ほとんど史書に名を見ない。  また奥州の金商人吉次(一書ニハ五条橘次末春)という人間の素姓も不明である。秀衡との関係などは、皆目、証するものがない。その他、牛若脱走の身辺には、深栖三郎光重とか、その子陵助頼重などの源氏党がいたように、諸本には見えるが、これも史実というには足らない。弁慶に至ってはなおさらで、五条橋は六波羅聚落の鼻っ先であるから、いくら小説でも、現代の読者の前には、出しようがない。(二六・一一・四)        *  じじつをいうと、私自身、すこし紙上放浪がしたくなって来たらしい。古典・平家物語では福原落去から壇ノ浦の終わりあたりにならなければ、都以外に余り話が出てゆかない。いわば平家時代の洛中洛外記である。ところが、さきに読者諸氏から寄せられた平家村史料でもわかるように、平家の棲息は、全日本にわたっていたのである。「新・平家」を書くばあい、古典・平家の都中心に拠る理由はすこしもない。  古典・平家ばかりでなく、盛衰記やその他の諸本にしても、わりあいに、当時の関東は書かれていない。いまの東京都などは、まだほとんど、海浜か、沼沢地か、原始林か、無軌道な河川といったような未開土の相をもっていたので、昔の筆者の社会観には入らなかったものだろうが、藤原氏の衰退にしても、平家、源氏の興亡にしても、ほんとは、この未開土が震源地である。  ふつう、平家の爛熟、凋落を機として、伊豆の頼朝が起ってからの源平時代となるのが、古典の定型となっているが、それを「新・平家」では、まったく、視野を変えてゆきたい。  奥州の藤原秀衡にしても、理由なく、牛若の成人まで留めておいたという点には、不審がある。考えてみたい問題だし、読史のおもしろさだが、そんな深入りすると、ついにこの「新・平家」も、北は青森県から南は福岡県、宮崎県の端にまでわたってしまおう。  金売り吉次の手を離れた牛若の九郎冠者は、しばらく東国をさまようであろうが、自分のいまいる西多摩地方を始め、東京近県の地は、名にしおう武蔵七党の発祥地であり、どこを歩いても、平氏、源氏の徒が、歩いていた所でない地はない。(二六・一二・二)        *  義経を書くと、彼とは宿命的な異母兄の頼朝が、自然、課題になってくる。二者の性情も、すこぶる対蹠的である。平家を描くには、源氏をよく書かないことには平家が出ない。そんなわけで、ここ当分、「新・平家物語」は、源家物語のかたちであるが、都の清盛や、以後の平家動静を、措き忘れているわけではない。  平泉の秀衡へ身を寄せてから後、義経は、熊野船で紀州の那智へ行っている。これは私の史観による小説である。  専門史学家の間でも、義経が平泉から再上京して、洛内附近に潜み、今でいうゲリラ的な行動に出ていたという説は、従来から史家の史測としていわれていることであるが、いかんせん確証がない。  ただ九条兼実の日記「玉葉」に出てくる近江の山下兵衛尉義経と称する者が、あるいは、それではないかという臆説も前からある。川崎庸之氏の人物日本史などもそれをいっているが、この疑問へ、もっと具体的な推理を与えてみることは、作家でなければなしえない仕事だと思う。そんな構想の下に、あれこれ、史料漁りなどもやってみている。  牢固としてうごかし難しい庶民の持った庶民史談というものもある。そういう楽しき庶民の所産に、私もあえて歯科医の整形手術みたいな自説を強要するつもりはない。けれど、可能な限り、史料による正確にちかい推理を通った上でないと、私には書けないし、また「新・平家物語」全体の構築に大きな変質をきたすことになるので、目下、山下兵衛尉義経という史上の疑問人物と共に研究中である。そして、そのうえで、私としての弁慶がそのうちに、読者にまみえる日もあるであろう。(二七・二・三)        *  時を、さかのぼって、物語は、もういちど、治承元年の正月へ、もどってゆく。  以後。──日時は、これまでと同じであるが、同じ月日の下に、都では、どんな時潮の兆しと、人間たちの動きがあったか、伊豆から中央へ、視野を移すわけである。  頼朝をめぐる伊豆の一年は、ここに配流となって以来の彼が、十八年の青春を、ほとんど、仏者のように行い澄まして来た門に、ようやく、源氏党の往来やら、文覚との面接の機縁をもたらし、その春風の訪れに始まって、彼と政子との恋愛──そして政子の起こした花嫁失踪事件に、その年は暮れていた。  一方、平家を中心とする同じ〝治承元年〟というころの都の世態は、どんなであったか。  それを、併せて観なければ、時の全貌を、大地に俯瞰したといえない。  眼を転じるならば。  鞍馬から奥州まで、一抹の航跡を曳いて、また忽然と、熊野船で、紀州方面へ掻き消えた牛若の義経が、時代の惑星であるし、房総半島から、武蔵野あたりに出没する草の実党の若い仲間も、まだ地表の物ではないが、これを無視するわけにはゆかない。  しかし、それらの萌芽にとっては、季節はまだ、春は浅いという時であろう。文覚といい、頼朝といい、配所をめぐる幾多の人々といい、これを大きな時の流れと見るならば、まだまだ、源氏党の相は、草間がくれのささ流れか、谷川水の支流にすぎない。  時代の主流は、なお、都にあった。特に、後白河法皇のおわす院と、平相国清盛が一門平氏の上にあった。けれど、やがて崩壊をきたす危殆の素因も、また、華やかなる栄花的謳歌の門と、到底、両立し難い院と平家の間にあった。(二七・三・二)        *  この第百四回で、掲載満二年になった。まる二年の歳月は、個々に、機構に、世潮に、国際的に、大きな変化を超えている。ジャーナリストのデスクでは特にその感が深いにちがいない。ぼくの山村の孤机ですら、ふとわれに返ると、指に同じペンを持ち、同じスタンドをすえ、そして、二年前と同じ原稿紙に、同じ小説を書きつづけているなど、なんだか、奇蹟なことに思われてならない。もしや、今夜のこの燈も机も、ピラミッドの中の石部屋にあるものではないかと錯覚したりするのである。歴史小説を書いていると、そんな錯夢を時々抱く。自分の頭脳をちょうど超高速のロケット機みたいにつかって、タイムの宇宙を、何世紀もむかしに翔けたり、いっぺんに現代に返ったりするのだった。おかしな仕事だと、時には思うし、またもう自分も老境なのに、その毎日が、一週間ごとが、なんとも短くてしかたがない。  ある民間放送の〝読者から作家へ〟の手紙質問に、「新・平家」への質問が十数通あったというので、そのうちの一通へお答えしておいた。この小説は、日本の再軍備を伴奏するのではないかといったふうな、質疑というよりはやや詰問である。以前、左派の一部の人の文字にも、そんなのを見たが、ずいぶん気をまわすものだと苦笑にたえない。週刊との執筆契約は、終戦直後のことだし、「新・平家」の落想とて、つい近ごろの機会主義な外国の都合だの、日本政府の日和見から出たケチくさい応急策などよりは、ずっと以前に熟慮もして書き始めたつもりである。ついでにいうが、自分は宣伝文学はきらいだ。また、書いていない。ぼくの書くものが右に見えるか左に見えるか、ぼくは知らない。多分、読者の素心による思い思いに読まれるのであろうとおもう。  過去には、決算がついている。古人の業とか、人心の演舞の歴史には、すべてラストの答えがそこに出ている。ありのままを読まれて、現代と明日との、思索と反省の資としてもらえば希いは足りる。右、左、いずれに偏するのも、作家の道ではない。読みようはおのおのの心まかせである。ぼくは机を横にしてまで、そのどっちへも向くつもりはない。  源平紅白の二陣の対立を書き、あの世代の合戦を書き、また修羅、陰謀、武門の宿命などを描く。それだからと、子どもみたいにいわれては困る。食、性、闘、の三つは、人間本能の最大なるものだ。きょうまでの地球上の人間歴史は、闘争本能の動力がころがして来たといってよい。性愛本能をきょうのごとく掘りさげて描くならば、闘争本能も、直視して、書くべきだとおもう。しかもこれの結論はむずかしくない。いかに、それの繰返しの儚いことか、愚かなことか、古典平家の全篇はその悲曲である。西行を初め幾多の人間が、いのちをかけ、身を示して、いうのである。〝あはれ〟ということばや、無常という詩韻をもって、この国、この地上においての生き方を、胸いたむまで、考えさせているとおもう。  自己の才能の不足をぼくは感じているらしい。古典平家をひきあいに出してそれをいうのは卑屈かもしれない。なお、ぼくの精進の足らない証拠でもあろう。が、もういちどいう。「新・平家物語」に盛るぼくの史観とか筋とか全篇の構成などは、ぼくはぼくの、これしかもたない才能と良心のほしいままに委せる。が、古典平家の心はこれを決して歪めたりはしないということを。(二七・四・六)        *  古典平家でも、ぼくの「新・平家」の中でも「都」という字がよく出てくる。あれは、京都と書くと、感じが出ない。意識的に、「都」をつかっている。  京都へは、何べん来たことかわからない。そのくせ「都」を書くたびに、地理に迷う。〝鹿ヶ谷〟を書いたときも、その地理的条件には、かなり苦しんだものである。ところが、さる人の招待で、鶴家へ行くと、この家のすぐ上が、その鹿ヶ谷の跡だという。なんだここかと、あらためて、そこらの山容や白河の流れなどを見まわすような愚をやっている。  どうも、ぼくらは事物に対して、いつもよく見ているような過信をいだいているが、じつは、何も深くは観ていなかったということの方が、ほんとらしい。  こんどの滞在中には、能うかぎり、平家関係の遺蹟も歩き、また「都」の概念をよく観ておこうと心がけている。  手初めに、同行数名と、叡山へ登り、将門と純友みたいに、洛中の屋根や山川を俯瞰してみた。山をまわって、東の一角に立つと、瀬田川の口や唐橋が見える。──ここから瀬田が見えるなどは、来てみないと、想像では書けない。牛若のいた鞍馬が近く見えたのも想像外であった。ここに、法燈と武力を擁して、洛中の屋根も、法皇も平家も、眼下にへいげいしていた大衆三千の生態を考える。由来、坊さんなるものは、頭は文化的なはずだが、生活は野性に根をおいている。野性が武力を持ったら、どんなものになるか、叡山の山法師は、好見本である。  大原の寂光院をたずねてゆく。ぼくの住む吉野村ではもう散り終えた梅が、大原では、なお白々と咲いていた。西行の歌の友、大原の寂然もいた所。よくもまあ、あの時代に、冬も籠っていたものと思う。  世を避けた歌法師はともかく、清盛のむすめ平ノ徳子(建礼門院、高倉帝ノ中宮、幼帝安徳天皇ノ母)が壇ノ浦の後、ここの寂光院に、三十の若さを送ったのは、あわれである。与謝野晶子女史の歌に──ほとゝぎす治承寿永の御国母三十にして経読ます寺──というのが手向けられてある。いかにも晶子調であり、そしてここの尼院に冷え冷えと坐っていると、歌のひびきは、一としお肌身に迫ってくる。  清げな尼さんが、大原御幸絵巻やら、種々な寺宝を出して見せてくれる。薄茶をいただく。そして、この尼僧が、聞きとれないほど低い静かな声で、ぼくの如き者へ両手をつかえ「どうぞ、建礼門院様や、阿波ノお局などの、おかわいそうな方たちのことをお書きになるときは、あわれに、お美しゅう、お書きになって下さいませ。……あわれにお美しゅう」と、わがことのように、くり返していうのであった。聞けば、三十年余の月日を、ここにこうしているのだそうである。まだ五十がらみの清げな尼さんである。国宝の御堂の屋根も、雨が漏るらしいが、文化財保護方面の国費もなかなかここまではまわって来ないらしい。  四月八日は雨、そしてちょうど、灌仏会の日でもあった。雨をついて、車で奈良へ走る。  東大寺の大仏殿の前に、花御堂が作られてある。少年の日から何十年ぶりで、その竹の柄杓を取り、誕生仏の頭から甘茶を注ぎまいらせる。ぼくら凡俗には、道心の方は、とても見込みなし、ねがわくば、せめて童心なりとも守らせたまえと、掌を合わせる。  北嵯峨にはなお、そっくり、「都」の匂いが残っている。平家風物も随所にある。けれど、平安の皇居大極殿の址は、市中の細い横丁裏にあって、人民酒場と書いた飲み屋の赤い軒燈や、子どものおむつを干し並べた家々の背に囲まれ、またそれは何よりも雄弁に、千年の歴史を午後の陽に描いていた。(二七・五・四) 春行くやまごつく旅の五六日        *  治承元年あたりは、平家の世盛りといえましょう。同時に、衰亡の兆しも見えはじめておりました。歴史の公式どおりです。  法勝寺の僧俊寛の山荘で、法皇の近臣たちが、平家てんぷくを策した世にいう〝鹿ヶ谷会議〟なるものが行われ、密告者のため、死罪、遠流、追放などの犠牲者をちまたに見たのもこの年でした。  とかくその背後には、後白河法皇の院政確立と、清盛へのお憎しみによる御使嗾があるのは争いがたいことで、法皇と清盛とは、陰に陽に、龍攘虎搏の虚実をつねに蔵しています。  けれど、清盛の一女、平ノ徳子は、高倉天皇(後白河の御子)のおきさきです。治承二年には、皇子言仁(後の安徳帝)の降誕もあって、清盛は一躍、皇室の外祖父という地位にたち、法皇にも、鹿ヶ谷事件のクロ星からは、彼との協調を表面とし、ここしばらくは、雲を呼び風を起こすのお動きもありません。  けれど、時代の推進を複雑にしているものには、院、武門、旧勢力の公卿などのほかに、叡山や奈良に割拠する武装僧団という厄介なものがある。──この中に住む大衆のうちには、凶悪な前科者も、無頼な命知らずも、堂衆といって、たくさんに交じっていたそうです。  もとよりすべてがではなく、たとえば、源空(後の法然上人)のような真摯なる求道者もい、弁慶のような変り者もおるにはおりましたが。  この弁慶は、山門騒動のとき、大衆の罪を負って、院へ自首して出、東獄の牢につながれ、鹿ヶ谷事件で洛中混乱のとき、破牢したまま、今は所在もわかりません。  ここにまた、一年余りを、みちのく平泉の藤原秀衡の庇護の下にいて、自然児ぶりを振舞っていた源九郎義経は、熊野の新宮に叔父がいるのを知って、牡鹿の港から熊野通いの船にひそみ、紀州へ来て、那智の滝本堂にかくれていました。──しかし、どこへ行っても、紅白二つの地でない所は尺地もない。熊野も平家勢力と地下源氏の相剋の外にある仙境などではあり得ませんでした。(二七・六・一)        *  史上有名な〝以仁王と頼政の挙兵〟がこの物語の上で近づきかけている。  それの口火を切る王の〝令旨〟を持った新宮十郎行家が、諸国の源氏を説きに駈けまわるだんになると、爆発的な源平争覇の戦乱期に入るのであるが、治承三年中は、まだ革命前夜の様相をもちつづけ、その前に書かねばならないことが多い。  古典平家や盛衰記などでは、その革命段階が、まことにかんたんで、奢る平家と、諸国源氏の旗上げという概念だけを、戦場勝負で片づけてゆくのであるが、現代の歴史を見ている現代の読者には、そんな程度で得心の出来るはずもない。叙事詩としてなら問題はないが、今日の小説としては、どうしても、その前夜の方が重大である。  が、古典の諸本は、合戦描写に重点をおき、前夜の複雑な事情となると、まったく、不明に附されている。源三位頼政の挙兵の真因さえも、従来、なんの確証もあがっていない。  頼政という人は、まったく歴史的な〝謎〟である。有名な鵺退治の俗話があるが、ぼくの考えでは、頼政自身がその〝鵺〟だと思っている。それと、──いづれ菖蒲と引きぞわづらふ、という即興を詠じて、あやめの前という美女を君からいただいて妻としたという話なども、彼の実際的な経歴から見て、取上げがたい伝説である。ただ、「源頼政集」という歌集もあり、彼が歌人であったことは疑えない。  歌人でもあり七十七歳にもなりながら、彼が諸国の源氏や若い者の先端を切って、平家の足もとから起ったということには、よほどな考えと、四囲の必然性がなければならない。古典では、仲綱と平ノ宗盛との、馬の喧嘩を原因にあげているが、理由の稀薄というよりは、ばからしすぎるし、第一それでは、頼朝、義仲などの旗上げは、ナンセンスになってしまう。(二七・八・三)        *  横着な達観だが、「どんな災難でも、死をのぞいては、まる損という災難はない」といった和尚がある。それとは違うが、作品の非点を指摘されたときでも、それに伴う多数の読者の意見が聞けることは、思わぬ収穫である。  清盛の死は、古典平家や盛衰記の筆者も、おそらく、燭を剪り、鬼魂をこめて、描破に精を傾けたろうと思われる、全巻中での歴史的な場面である。 「新・平家」での清盛最後の日は、まだちょっと間がある。けれど由来、清盛の死も、史家の間には異説ふんぷんで定説がない。曰く、大熱を伴う流感か。否、当時の悪疫の一種なるべし。否々、宋の南方物資の輸入につれて保菌者の持ち来れるマラリヤの感染ならんか。──などという奇説まである。  重盛にこりて、こんどはぼくも、誤診や不用意のないよう、今から諸家の高説や史料の分析に何かと心がけておこう。  作家にとって、痛い苦情もある。その一つ。 「あなたの書く物には、悪人がないではないか。少納言信西でも、朱鼻の伴卜でも、悪左府でも、以後の悪党らしいやつも、末路へ来ると皆いつのまにか、憎めない人間みたいになってしまう。第一、入道清盛がそうである。現実のわれわれの社会は、悪にみちているのに、これはどういうわけか。絵そら事とひとしいものを、あなたの小説と思えばよいか」  この答えは、かんたんにできない。社会観とか人間観とか、また歴史を通して、今日から過去への人間万様な生き方をながめて──とか、とにかく、ぼくの思いのありったけを吐露しなければ「そうか、貴様はそういう考えか」と、得心して貰えそうもない。  事実、ぼくは現実の中でも、人間というものを、どんな人でも憎めない。いやなやつだと思いはしても、死ねばよいとは考えられもしない。まして歴史は白骨のるい積である。白骨どもがやった権力の争奪、名誉欲、恋愛かっとう、父子母子の悲涙の行、友情、離反、あらゆる愛憎や謀略の陥れ合い、そして一ときの栄花というシーンに上ったり蹴落されたりの宿業流転をかえりみるとき、その中のどの白骨が「悪人である」と極印が打たれようか。ぼくには、それが見出せないのである。いや、才無く力弱く、書けないのかもしれないが。  けれど、さいごのさいごには、たった一つの「悪」はとらえてみせる。それは書かねばならない。しかし、何のなにがしと名のる人間と思われては困る。そんな小さい人間の敵ではない。  東洋の四大奇書といわれる大著作などからくらべれば、この一作などは、まだスケールの小さなものである。燈下ようやく書に親しむの秋は、作家にとっても、一年じゅうで、いちばんいい季節である。読者にも、多幸なる読む夜が、訪れていると思う。(二七・九・七)        *  旅先の仮の机では、不便なことも多い。こんどの回では、後白河法皇の肖像画を見たかったが、肖像画全集も、所載誌の美術研究も手もとにないので、古い記憶の映像に、史料解釈を重ねて、その風貌や性格の片鱗を書いて行った。  後白河が、後白河らしい全貌を示すのは、むしろ清盛没後といってよい。このお方には多分に創作的興味がもたれる。おもしろい人間像の一個である。  皇室のことも、今日はどうにでも書けるという意味で、特に後白河をこきおろす意図はない。元来、史上宿題の人である。玉葉の筆者や後の史家でも、皆よくいっていなかった。政略好きで、気が変りやすく、また臣下でないから節義を知らない。九条兼実さえ「まことに困った大天狗だ」というようなことをいっている。平家物語考証の著者は──清盛トテ忠志ナキニ非ズ、サレド法皇、サキニ信頼ヲ寵シテ平治ニ乱アリ、マタ成親等ヲシテ鹿ヶ谷ニ会セシメ、今マタコノ事ヲ見ル、禍乱止マルベカラズ、清盛ノ跋扈モヤムヲ得ザルナリ──と清盛の法皇幽閉の挙を、やむをえない処置と論じている。  高山樗牛の平清盛論や辻博士の論評など、以前から清盛の弁護者は少なくなかった。けれど、「新・平家」の上では、なお法皇の歩が悪くなるであろう。事、法皇とか院政に関しては、従来、樗牛でもたれのでも、やはり遠慮と憚りを持って書かれていたため、平等な史観におかれると、そうなるのは仕方がない。  肖像画は、記録ではないが、一つの史料である。清盛、重盛、義経、頼朝、文覚その他、当年の物の覆本は少なくない。これと睨めっこしていると、何かを、こっちも感じてくる。こんどの回を書くばあいも、一応、後白河法皇と睨めっこしたかったわけである。  桔梗も萩も、高原の秋草は、花の色が、まったく濃くて深い。九月の声とともに、この地方は、都会人がいちどに都会へ帰り、町は昔ながらの中仙道の一宿場みたいに寂れてしまう。  勉強にはこれからがいい。去年もだったが、ことしも晩秋へかけて居残っているのは、梅原龍三郎画伯とぼくだけになってしまった。去年はぼくが帰った後も、梅原氏はまだ浅間の雪と紅葉を見つつ居残っていたらしい。ことしは、どっちが、しんがりになるやら。(二七・一〇・五) 秋闌けてのこる浅間と画家一人        *  治承四年という年は、平家史としては、花の絶頂であり、源平史でいえば、大きな時代の分水嶺でありました。盛衰転換期ともいえましょう。  けれど時代の交代にも、何年かを要しますから、しばらくは、紅白の源平二勢力が、地上を染めあう混乱混色期がつづきます。必然、頼朝が起つとか、義経の再登場とか、木曾義仲の挙兵とか、舞台はひろまり、波瀾はこれまでとは比較にならないほど大きくなって来るでしょう。  以上は、これからのことですが、この回は、ちょうど、それの口火を切った以仁王(後白河法皇の御一子)と、源三位頼政の謀反が、いよいよその行動に出たところに始まります。ですから、源平盛衰記的に見るならば、ここらを第一ページと読んで行かれても、いっこうさしつかえはありません。  老頼政が、宮を擁して立った気もちとか、四囲の事情などは、歴史でもなかなかやっかいな〝謎〟の局面ですが、自分だけの文学的解釈をくだして、ある程度は、この回からでも、頼政の人となりとか風貌は読者にもわかってもらえるのではないかと思っています。しかし、正しい歴史上の記事を、そのために、勝手に歪めてはおりません。むしろ、「古典平家」その他に伝えられている宇治川の橋合戦とか、宮と頼政の最後の状などは、古事のまちがいを、訂正してゆきたいと思います。  何にしても、この先は、筋として、応接にいとまのないほど、次々の事件と波瀾をもっているので、その点、書きよくもあり、書きがいのある気もするのですが、なにしろ広汎な人と時のうごきを、微力なペンに再現しようとするには、ともすれば、鈍才の嘆と、研究のおろそかなど、正直、まぬがれえません。(二七・一一・二)        *  以仁王と頼政の宇治川の敗れ。また、清盛の福原遷都の決行などで、ひとまず平家や都の方は筆を休め、伊豆に移って、頼朝の旗挙げが、ここ数回のテーマになる。  伊豆の挙兵は、もちろん頼朝が主題人物だが、政子という女性や、舅の北条時政など、彼のワキ役には、興味のふかい人間がいて、そのため、頼朝像は、よけいに引き立っているわけである。  頼朝が起つと、各地の源氏が、こぞり起ってくる。中での大物は、信濃の木曾義仲だが、短命に終っているため、義仲史料は極めて乏しい。しかし幸いに、寸閑を得、十月下旬、大略、義仲史蹟を歩いて来て、収穫も少なくなかった。  木曾義仲については、確実な史料といっては、ごく少ないが、口碑伝説のたぐいは、各地行く先々で蒐集された。  こんど歩いたコースは、中央線辰野駅をふり出しに天龍川流域、飯田から山越えで、木曾谷へ出、馬籠附近、福島、駒ヶ嶽山麓、あのあたりの往古木曾道中をやって、松本へ戻ったのである。  松本からは、島々を経て、安房峠を越え、飛騨高山を通って、例の大家族部落と、合掌づくりの屋根で名だかい白川村へ行った。白川の一夜など、忘れがたいものがある。  白川村から富山県へ抜ける五箇山のコースは、旅行者はまだほとんど通らないコースである。ちょうど、椿原渓谷のダムも起工されており、行路の難は、容易でないと聞いたが、そこを越えて、金沢へはいった。──金沢へ着く夜の夕方は、おりふし夕月の倶利伽羅谷を過ぎたので、車を下りて、月下に、義仲と京軍の古戦場を一望した。しかし、くたびれ顔で、詩もなし、句もなく、ただ地勢を見、時の流れを感じたのみだった。  北会津でも、北越でも、熊野、その他の渓谷でも、平家村といわれるところ、近来、すべてといってよい程、電源開発の大工事に揺り返されている。 〝ダムと平家村〟  これだけでも、詩である。  祇園精舎の鐘の声は、次々と完成してゆく電源地から新しい光波となって、また都会栄花のステージへ降りそそいで来よう。無常の作用はまた無死の作用といえる。  金沢から北陸沿海を一走、山越えで琵琶湖の湖北へ出て帰京した。汽車に乗ったのは、ごく一区域で、乗物には自動車、オート三輪、バス、なんでも利用してあるいた。乗らなかったのは駕籠と馬だけであった。  史料袋や耳袋に入れた素材は、かくてだいぶ蓄ったが、本文のほうはなかなか意のごとくにすすまない。(二七・一二・七)        *  今ならば、革命分子の蹶起とか、地方の騒擾事件とか、いわれるであろう。  伊豆の頼朝が、二十年の配所生活を破って、東国の野に、源氏の旗を挙げる。史上有名なことだから、たれも知っている。詳しくは説かない。  ただここから読む人の手引にいうならば、この回「石橋山」は、治承四年八月十七日から七日目のことである。頼朝と北条父子の合同でも、初めは百騎たらずの兵力であったが、奥湯河原の土肥に数日兵馬を休めている間に三百余騎にふえ、更に、三浦半島の味方と会するため、吉浜、真鶴、早川口と、あの道すじを小田原方面へ出動してきた。  その途中で、約十倍もの平家軍にさえぎられる。いわゆる石橋山合戦へ移行してゆく。歴史のひとこまが作られる。この回はその発端といってよい。  大きく観るならば、ちょうどこの辺が、源平時代の夜明け前である。藤原末期の平安朝色は、平家という異った形のものに受けつがれ、その平家も約二十年の繁栄をとげて、ようやく、次代の人々から、交代期を迫られている。  その代表者が源ノ頼朝なのである。 〝時の流れ〟というものの上に出て、もひとつ、大きく観てみよう。次代の担当者として起った黎明の人頼朝の陰にさえ、じつはこの時、もう次々代の宿命が源氏の旗に招かれていたのである。  頼朝が、この革命を用意するため、北条家のむすめの政子と通じたことも、後には禍いのタネだったし、舅の北条時政とて、自分のむすめが、頼朝のあと継ぎを生むだけの女性であることを、共によろこんでいるような世間なみの凡夫ではない。──すぐ次々代には、長い北条氏時代というものを歴史に遺産したほど厄介なる人物である。  これが、石橋山の頼朝のそばにいた。世の中という摩訶不思議な実態を、歴史として観、小説として人が読むおもしろさは、こんなところにあるのじゃないかと思っている。(二八・一・四)        *  この回から次回。〝富士川合戦〟にはいってゆく。  平家の大軍七万余騎が、水鳥の羽音を敵襲と間違え、仰天して、都へ逃げ帰ってしまう。ということで、吾妻鏡を初め、盛衰記や平家物語でも、およそ人口に膾炙されているところだ。  へんなもので、古典で読むと、それがそう、おかしくない。わけて平家琵琶などで原文のまま〝──あな夥しの源氏の陣の遠火の多さよ、げにも野も、山も、海も、河も、みな武者にてありけり。如何がはせむとぞ呆れける。その夜半ばかり、富士の沼に、幾らもありける水鳥どもが、何にかは驚きけむ、一度にばつと立ちける羽音の、雷、大風のやうに聞えければ、平家の兵ども、あはや源氏の大勢の向ひたるは──〟と名手の声曲で聞かせられると、真に迫ること一倍である。おかしくもなく、語り継がれて来た所以であろう。  だが、今日の読者には、そのまま、呑みこめないにきまっている。古典を古典のまま国文学的に味わうぶんには別だが、キャンプ群の中学生でも、鳥の群を人間と間違えて腰を抜かしはしまい。いくら平家武者が柔弱にしろ、何万という甲冑の集団が、水鳥に驚いて、よろい兜や弓矢を打ち捨て、都まで逃げ走ったなどという作為は、余りに幼稚すぎよう。これは、どう書いても、現代下では、滑稽文学にもならない。  へんなもので──とまたくり返すが、きのうまでの史学の大家たちも(悪いから書名や名はあげない)こういう所はあっさり〝水鳥の羽音〟のせいにして通過している。しかし、近年の若い学究間の史眼がこんな虚構を認めていないのはいうまでもない。雑誌「自然」でも、荒川秀俊氏が〝戦争と飢饉・疫癘〟の一文中にそれを指摘され、「平家を走らせたものは、水鳥でなく治承四年から養和へかけての飢饉である」と科学的な気象統計を玉葉から引いて傍証としている。  古典、あながち史書ではない。竹取物語はあれであの説話によって生きている。ただぼくの「新・平家」の上ではまさか〝水鳥の羽音〟でお茶は濁せないと思っただけのことである。それでこの富士川合戦のやま──ではなくかわは──書くにも越えやすくない課題と前々から頭痛にしていた。新しい一章を平家や盛衰記に書き足すのとおなじである。自己の創作によるしかない。  富士川ばかりでなく、何か創意を立てるばあい、とにかく困るのは、庶民史の乏しさだ。絶無といってもいいだろう。日本歴史に欠けたものは何かと訊かれれば、女性史と庶民史と答える。  最近でも、太平洋戦争に関する記録物とか現代史的な出版は、ずいぶんあったが、陸海空の戦史、外交史、政界史などのいわゆる舞台正面だけが歴史の全部のごとく思惟された著述ばかりで、まだ、おたがい無数の小生命が飢えおののいて来た〝めし茶碗の中の戦史〟というものは一書も出ていない。  史観に立つと、そして、動乱を過ぎると、動乱の中の庶民生態史なんてものはくだらなく思えるのかしら。ぼく自身が「新・平家」を書くにあたって不便と痛惜を感じるのでいうわけではないが、戦時戦後のあの生々しい庶民生態は、重要なきのうの歴史ではないかと思う。現に、ぼくらを初め一般もそろそろ、あのころの体験を忘れかけ始めているにつけても痛切にそう思う。  終戦に近い断末魔のころ、疎開先の山村に配属されて来た彰義隊式の兵隊が、幽鬼の歌みたいに歌っていたのが思い出される。〝──かねの茶わんに、竹の箸、一ぜん飯とは情けない──〟その一ぜん飯さえ食えなかった庶民史の方こそ、じつは歴史の主流なのだ。ところが、いつの時代の史料にも、日本ではそこが脱落している。平家物語にも、それがない。富士川合戦前後にも欠けているわけである。だから平家の大軍を走らせた水鳥というのも、飢えた人間の群れだったろう、つまり〝飢えた千鳥〟だったのだと、ぼくらも文学化した自己の思考に拠って書くしかない。そして吾妻鏡や平家、盛衰記などよりも、この方を史実であると信じるのである。(二八・三・一)        * 「都」というのは、今の京都のこと。  平安朝の長い貴族政治の下に、源氏物語的な特異な逸楽を幾世紀となくつづけ、平安の都と、殿上人には謳歌されて来た地上。  その末期──ようやく饐え飽かれて来たころの物語──時は現代から約八百余年前。「地下人」という階級がある。殿上に昇れぬ武者どもをさす。武者の故郷は、地方である。平氏は西国、伊勢地方。源氏の多くは東国だった。  武者は宮門や権勢家の番犬的な存在としか認められていない。しかし、堂上公卿の生活にふれ、宮廷人の腐敗内紛などを日常に見ていた。しかも、彼らは例外なく貧乏で、また久しく〝地下人〟として賤しまれてきた。うつぼつたる不満と、時勢への眼ざめがやがて起こる。殊に、若き清盛、若き文覚、若き西行など、時を同じゅうして勧学院を出た同窓の間には、いずれも相似た苦悶があった。  末期の世相と、未来の修羅道におののいて、若き西行は、歌の道と山林に隠れ、文覚は人妻の袈裟に恋して、その青春を自己の情熱に自爆させる。──ひとり、スガ眼の忠盛とよばれた貧乏平氏の一子平太清盛だけは、幼い弟妹と継母の家庭にあって、みじめな生活苦と人間欲のまん中を真っ正直に体験した。けれど彼には、よき父親と忠僕の家貞があり、ちまたに歪められがちな青春も、幾度となく、自暴自棄の淵からは救われつつ行く。  好色の法皇白河が残した一因は、清盛の悲心に憤涙を刻み、ひいては、宮中の天皇、以後の上皇にも、幾多の葛藤を因果した。饐えたる九重の府には、なお政権をうかがい、栄花に汲々たる公卿顕官の策動が絶えない。  関白忠通と、悪左府頼長の争いは、その典型的なものであり、朝廷方、院方と分れて、しかも骨肉相戦う、保元の乱を、招来する。  崇徳上皇は、戦いに敗れて、讃岐へ流され給い、一庶民、阿部麻鳥の吹く笛に、初めて人間の真実を悟られたが、あくまで冷酷な人の世を呪うて、ついに配所の鬼と化された。  しかも、ひとたび、地上を煉獄とした堂上人は、懲りずに、またも、政権欲と女院の内争などに絡み、まもなく再び平治の合戦を起し、ここに源平の対立を発端する。そして紀州熊野路から変を聞いて引返した安芸守清盛に、時勢は、絶好なる登龍の機運を与えてしまう。  平治に敗れた源ノ義朝は、都に愛人の常磐を残し、義平、朝長、頼朝などの子弟一族をつれて都を落ち、雪の近江路をさまよう間に、ひとり十三歳の頼朝は、馬眠りして、父や一族に迷ぐれ去る。  骨肉相戦うの酸鼻を演じた保元、平治の二度の合戦が得たものは何?  以後、世は源平の二世界に引裂かれ、武族に非ずんば人にあらずの世間ができた。  頼朝は平家に捕われて、伊豆の配所に二十年の歳月を、行い澄まし、北条時政の娘、政子に眼をつけて、恋の巣に大望の卵を孵す長計を立てている。また、常磐の子牛若は、鞍馬に長じて、年十六の春、金売り吉次に誘われて、山を脱走し、ついに奥州へ奔ってゆく。  平家二十年の栄花もつかのま、重盛は逝き、相国清盛もようやく老い、福原開港の業成って、日宋交流の途が開かれたよろこびも、一面、不遇の源氏党や、飢餓疫病の年々に苦しむ衆民のよろこびとはならず、治承四年、以仁王を盟主とする源三位頼政らの宇治川合戦を口火として、平家を討たんの声は、澎湃として、諸国三道の合言葉となった。  伊豆に頼朝が起ち、木曾に義仲の挙兵を見、富士川対陣の序戦においては、早くも平家の総敗退となった。鎌倉の新府には、手斧初めの声高く、黄瀬川の夕べ、奥州平泉から駈けつけた源九郎義経と、頼朝とが初めて兄弟の名のり合いをするなど、今や、東国の野は一陽来復の春を芽ざし、西の空、旧き都は荒涼として、飢民の土小屋に煙さえ立たず、福原の雪ノ御所なる入道相国の夢も、夜々、安からぬ風浪の上であった。(二八・四・五)        *  数回にわたって、木曾義仲の生立ちと、信濃地方の情熱を書いた。義仲のなした治承、寿永年間の役わりとしては、ほんの序章にすぎない。前回の〝木曾殿稼ぎ〟で端的にいったように、挙兵初期の彼の信濃における活動は、資力稼ぎの期間といえよう。まだ義仲の面目も輪郭も、書けたものとはしていない。  一応、義仲を措いて、この回からは、治承五年の正月、高倉上皇がお亡くなりになった直後の都へ、筆をかえしてゆく。斜陽平家が、刻々、その晩影を濃くしてゆく西八条にあって、老入道清盛の苦悶苦闘のすがたが主題になってくる。  まもなく清盛は死ぬのである。  この長い小説の上で、第一回から主要人物として書いてきた人間の当然な死を、ぼくも当然、書かなければならない。彼は、ぼくのあたまの中で、二十歳から六十四歳までを送ってきた。里子を二、三年預かっても、しまいには実の親に返すのが嫌になるそうだ。しかし、治承五年閏二月四日、清盛は死ぬ。ぼくは、他人の眼と、宇宙のこころをかりて、ていねいに、ひややかに、彼の死を観てゆこうとおもう。  清盛の死ぬ直前、そして南都焼討以後の、平家事情は、内外じつに複雑だ。複雑怪奇そのものだ。東国をはじめ、木曾、美濃、紀州、四国、九州など、まるで清盛の死期を予知していたかのようである。彼の死ぬ直前、八方から蜂起している。  それらの土豪や離反者の内情や心理にたちいれば、ここにも現代の生存競争とか政界にも似かよう人間縮図が見られよう。けれど読者の焦点をあまりに散漫にしすぎてしまう。また、そういう描破は凡筆の企図しうるところでもない。そんなわけからこの一回には説明が多い。 「玉葉」の筆者九条兼実をちょっと書いて出したが、彼をこの小説の中で大きく用いる意図からではない。「玉葉」の日記記事は、たびたび、「新・平家」でも引証につかったから、その筆者の肖像を示しておくのもむだではあるまいとしたまでのことである。  通俗的な親鸞上人伝によれば、修行僧時代の若い親鸞の恋人玉日ノ前は、この月輪兼実のむすめということになっている。もともと、平家ぎらいだが、院の後白河からも、あまり重用はされず、治承、寿永の乱世に、灸をすえたり、克明に日記をつけたりなどして、とにかく、あの風雲を泳ぎぬけたこの一人物なども、書けば、ひとつの主題になる。  しかし、傍系や点景的な人物は、なるべく要約して、いつも焦点を〝時代の流れ〟におくことをおろそかにしまいと思う。鎌倉の頼朝、義経、そして木曾義仲と書いて、一転、また都にかえって来たのも、焦点を離れては焦点にかえっているわけである。といっても、長い道のべの、あの草、この花にも、つい心はひかれるが、それは時々、茶話的に、この欄ですますことにしよう。(二八・六・七)        *  義仲に関する読者諸氏の反響は思いのほかであった。考えてみると、義仲という人は、従来、ほとんど文芸の上にとりあげられていない。  小説化されたものでは、ずっと以前、細川楓谷氏が、〝旭将軍義仲〟を出しているが、これは、まったく型のごとき楓谷張りの一戯作である。それが、近来、檀一雄氏や中山義秀氏などに書かれ、地方の読者も、義仲にたいして、新たな興味をもち出してきたためかとも思われる。  義仲の愛人、巴御前と、葵ノ前などの事蹟や遺聞などについても、各地からいろいろと史料を寄与され、おかげで、新たな視野と知識を加えている。  巴も、葵も、あの時代の女性としては、いわゆる平安朝型の深窓の麗人でもなく、有閑婦人でもない。まったく、野から生えた新しいタイプの女たちである。しかし、信じうる記録には乏しいので、数回にわたって、書きすすめながらも、史料には苦しんでいたが、義仲に関する物と共に、読者から寄せられた遺蹟や伝説の多いには、驚いている。日本の地方とは、まったく、歴史の残影断片の無尽蔵といってよい。 むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉の句だが、平家と義仲とが戦った北陸古戦場の草むらに、今も、句碑として立っている。  先年、義仲遺蹟巡りの旅行の途次、杉本氏はこの句碑をスケッチした。斎藤実盛の首洗い池の中にある一柱の石は、葭や芦にうずもれ、辺りを、名知らぬ小鳥の影がひらめいていた。おなじ芭蕉の句──夏草やつはもの共が夢の跡──と共につよく心に沁む句である。現代世界人の戦争にたいする呪いとおののきは、芭蕉の、この手向けの句と、まさに傷みを一つにしている。それはまた、平家物語をつらぬいている無常観や、平和への祈りや、あわれを歌う、人間業の懺悔とも通じているものである。芭蕉もまた、古典平家はいくたびとなく読んでいた人であろうことは、まちがいない。(二八・七・五)        *  前回、墨股合戦のくだりは、古典にもある場面ですが、新宮十郎行家が、蒲形(現今の東海道、蒲郡)を根拠地としていたということは、古典にはなく、小生の詮索によるものでありますが、あながち空想やでたらめではありません。  さっそく、土地の方から、疑義のお問合せがありましたが、蒲冠者範頼のいた浜松市近郊の遠江の蒲村とはちがいます。よく混同されますが、三河の蒲形(蒲郡)は、熊野神領だったので、土地の史料には欠けているかもしれませんが、熊野史の方に見られるのであります。行家が熊野出身の人物ですから、郷土史のその項に、三河蒲郡の居城をもったことが証明されているわけであります。  源氏グループと、平家群像とは、人間的に見くらべても、対蹠的で興深いものがあります。中でも新宮十郎行家ほど、終始、妙な役割をしたものはありません。源氏総蹶起の初めから、義経の悲劇的な末路まで、クソ骨折って働いていますが、ついに浮かばれず仕舞いです。戦はカラ下手なくせに戦好き、才略好きで、自分の才に、のべつ、もてあそばれるといったような人物。──これの小型なのが、近世の政界や社会部門の中にもなんだかいたような気がします。やはり日本人の中にある一つの型でもありましょうか。  その行家は、墨股敗戦の尻ぬぐいを、こんどは、義仲の陣へもちこんで〝木曾殿の居候〟をきめこみます。  もともと、源氏の旗挙げは、初めから統一を持ったものではありません。俺が、俺がの、てんやわんやが実状でした。おまけに、諸国へ令書をまわした統一役の行家が、もうこの状態ですから、たちまち、木曾と鎌倉の仲には、もう分裂が兆し始めている。やがて頼朝が、同列の盟友や骨肉たりとも、仮借なく、これを血の粛清に屠り去ってゆく悲劇の下地も、すでに地表に見え出していましょう。  とまれ、清盛亡きあとの、平家も哀史一路をたどるのではありますが、興る源氏も、これを大観すれば、決して祝福されてはおりません。権力と権力とに分かれた紅白の二世界がこれだとすれば、人間いずこをもって、住む所としたらよいのでしょうか。(二八・八・二)        *  寿永二年は、平家物語での、革命の年である。その先駆が、木曾義仲の入洛であり、この回は、その序幕といってよい。  源氏の旗挙げの経過や地勢、その他の条件から見ても、洛中突入の挙は、頼朝の鎌倉勢が、先鞭をつけそうなものに思われるのだが、その頼朝は、この一、二年間、ほとんど、都にたいして、なんら積極的なうごきを示していない。信州、北陸における義仲の活躍にゆずって、自身はひたすら鎌倉創府の経営と、東国の内治に専心しているように見える。  頼朝と義仲とは、性格のちがいもいちじるしいが、両者の用兵といい抱負といい、発足の当初から、これほどな相違を示していた一証といってさしつかえあるまい。  義経のことをよく〝破壊の英雄〟というが、ほんとの〝破壊の先駆者〟たる役割を演じたのは義仲であったとおもう。  木曾と平家との北陸戦は、有名な〝倶利伽羅の合戦〟を境として急角度に革命の達成を告げ、平家都落ちの悲劇を、平家の地上に現出して来る。昔も今も、無常迅速の感は深い。  敦賀、倶利伽羅、安宅ノ関あたり、それらの北陸平家史蹟は、一昨年の秋、ひと巡り見てあるいた地方である。しかし自分には、それらの地方戦記よりも、むしろ義仲の入洛後における軍政振りとか、彼の私生活の急変などに、より多くの興味を覚える。今昔の相違はあるが、多分にきのうの旧軍部と似通う作用や、また共通の性格が、そのころの入洛軍にも、演じられているからである。(二八・九・六)        *  寿永二年は、平家最悪の年といってよい。戦うごとにやぶれ、戦うごとに、衰亡を深めてゆく。一朝のばあいに会しては、疑わしいほど脆い平家的性格が、随所に表面化されてくる。  東海の富士川でも、北陸の倶利伽羅でも、なぜか平軍はおなじ形の負け方を繰返した。状勢の誤認と油断と狼狽の三つが、平家大敗の原因とされている。「盛衰記」「平語」など諸書一致しているが、このへんには複雑な敗因がべつにあることはいうまでもない。前年からの凶作による近畿西国の飢饉がそれである。天候は平家に味方していなかったといえる。  むかしから、義経は、美貌可憐な御曹司となっているが、その反対説もある。ところが、義仲が美男だったということには、反説がない。  義経と静のような恋愛は、義仲には見られない。義仲を繞る女には、巴、葵、山吹があり、京都では関白基房の女を入れて正妻ともしている。また若菜御前(上州沼田藤原広澄の女)というのもあって、なにしろ彼は好色家としても艶聞家で相当なものであったらしい。しかし恋愛するにも、火花的な短命短気な風があって、若い生命を欲情の赴くままに焼きただらしたようである。  巴と葵の塚は、礪波山にあるが、木曾、伊那、そのほかの地方にもある由である。葵は、礪波山で戦歿したとか、安宅附近で戦残したなどの説もあるが、口碑の程度で、確証は何もない。義仲が粟津で、戦死した後は、みな運命まちまちである。虹の如く出現し、虹のごとく消えた義仲とかれを繞る花々は、おそらく以後の戦乱社会では、想像外な運命をたどったものと思われる。  義仲が戦場に愛人をつれていたのは、かの項羽が陣中に虞美人を擁していたことと、どこか似ている。  そんな行為も、義仲の放縦な一面を特色づけているようだが、女性の従軍は、何も義仲だけの示しではない。中古前期の奥夷の遠征などには、妻も従軍していたことが日本の国史にもあきらかにされている。それを非武将的にいったのは、やはり鎌倉期以後であろう。儒学が武門とむすびついてからのものである。  じっさいには、木曾の娘子軍というものは、粮食の運搬、炊事、死傷の看護、縫工などの面で、ずいぶん軍務を扶けていたのではないかと思われる。 「木曾家伝」には、栗田別当範覚の女、年十六が、粮米の任を支配して陣中にあったと記載してある。また、長門本平家物語だと、義仲が子の義高を鎌倉へ質子にやるとき、諸将士の妻女を召してわけを語ると、衆婦みな泣いて義仲に謝したなどということも見えるから、木曾勢には、その一軍団ごとに、部将の妻や娘もいたことと考えられる。  だから陣の幕舎に、脂粉の香をもっていたのは、ひとり義仲だけではない。他の部将も、連れていたろうし、これはまた、当時の武門の風として、なんの異例でもなかったのである。平家の陣もしかり、鎌倉の頼朝の陣にも、同例があったのではなかろうか。  義仲が今、攻め上りつつある道すじは、やがて後日、義経、弁慶などの主従が、都からみちのくへ落ちてゆく道となるのである。  倶利伽羅の第二次戦は、その安宅ノ関附近が戦場になるが、現今とは、河沼の数や地勢が、はなはだしくちがっている。たとえば、当時の安宅ノ関は、いまでは二里も沖の海中になっているという考察さえある程である。  この九月中旬、源平合戦七百七十年の倶利伽羅法要が、同地の手向神社不動寺で催されたよしを、石川県倶伽羅村の浅井孝雄氏から報らせてくれた。金沢市や富山市あたりから日帰りのハイクコースにもいいので、当日は近郷中の雑踏をみせ、青年団の余興や寿永の昔をそのままな時代扮装行列などもあって、平和な山こだまに賑わい沸いたそうである。  前号の倶利伽羅谷の凄惨な大量戦歿の場面と、この通信とを見くらべれば、いかに、罪は山河になく、人の人為にあるかが分かるであろう。地上はつねにありのままな地上にすぎない。これを地獄とするも浄土とするも人間の業である。 義仲の目覚めの山か月かなし  そこの句碑の句は、芭蕉の句だ。芭蕉などは、殊に、胆を寒うして越えたであろうと思われる。  すべてこの地方の平家遺蹟は、一昨年、飛騨から五箇山をこえて来た曾遊の地だが、先ごろ五箇山の平家村の読者から、同地方につたわるコキリコ歌というのを知らせてよこした。歌詞は〝おもひを篠舟にのせれば、思ひは沈む恋は浮く〟というのや〝波の八島をのがれ来て、たき木刈るてふ深山べに、ゑぼし狩衣ぬぎすてて、いまは越路の杣やかた〟などという類のものであるが、いうまでもなく、後人の作であり、〝波の八島〟の歌は、ほかの地方にも、伝わっているように聞いている。  斎藤実盛の首洗い池のことは、芭蕉の奥の細道にも見える。彼の〝むざんやな甲の下のきりぎりす〟の句は、空想の所産ではない。じっさいに、この地方の平家史蹟を歩いた果ての嘆息であったろう。芭蕉ならずとも、倶利伽羅に立ち、安宅からこの辺を訪えば、たれもが、おなじ思いを抱くにちがいない。(二八・一〇・四)        * 〝一門都落ち〟は平家史中での大きなやまである。その全盛期よりも、亡びかたや末路のすがたに、より意味の多い平家らしさがあるとすれば、平家人の一人一人が、おのおのさいごの生命を燃焼しきる人間らしさも、むしろ、これからのことになる。──盛者必衰ノ理、とそれを歌った古人の世界観が現代にもあてはまるかどうかしらないが、個人にものがれえない死があるから、平家滅亡の史詩にもやはり今の私たちにつながっている何かはあろう。  方丈記を読み直してみた。そして養和、寿永の飢饉の状を書いたあの一章を噛みしめてみると、平家を仆したのは、数年にわたる悪天候と全国の飢饉であったといえなくもない。筆者の鴨長明は、その時代を生きて通った人間の一人であるから、まちがいのないことであろう。仁和寺の一僧が、洛内を歩いて数えた餓死者だけでも、四万二千三百余に及んだというのは、現代人には、想像もできない率である。  そういう洛内を足もとにおいて、外部からの侵略者といやでも戦わねばならなかったところに、平家の宿命と脆さもあり〝一門都落ち〟のあわただしさも余儀なくされたものと思われる。  凶作の天地も、もともと、野性にとむ木曾勢の生態にとっては、さして困難ではなかったろう。彼らには仏教の垢も貴族臭い贅も身に知ってはいないから、粗食に驚かなかったろうし、牛でも馬でも、食える物はなんでも食べたにちがいない。兵といえど、都人には、それができなかったろうと思われる。  義仲の洛中突入を見ながら、鎌倉の頼朝が、二年余も、うごかずにいたのは、賢明である。それ一つでも、頼朝は天性の政治家であったといえよう。彼がうごかなかった理由は、凶作の年に兵馬を用いて、飢民のうらみを買う愚をさけたのでもあろうが、役割の悪い破壊の先駆は、義仲にさせておけ、という大きな肚でもあったにちがいない。(二八・一一・一)        *  一門都落ちは、有史以来の出来事であった。ぼくら現代人は、より以上な国家変革さえ眼に見て来たが、平家時代ころの人々には、一夜のうちに首都がきのうの首都でなく、権力者の府がそっくり他と入れ替るというような現象を見たのは初めてだったにちがいない。そして昭和の民衆と同様に、当時の庶民も、その迅速さには、ただもう、あっ気にとられたことだろうと思われる。 〝槿花一朝の夢〟といえば、わずか六字でもことはすむが、如実に再現しようとか分かろうとしてゆくと、きのうの経験さえも容易でない。まして歴史限界のなかでは、片鱗でも描き出せれば凡筆の僥倖だと思っている。平家西走の二十四日から二十五日朝までの、わずか一夜だけでも、一個一個の人間が舐めた思いを想像すると、余りにもその様相は大きすぎて、実相の把握も困難であり、身にすぎた素材と取っ組んで、型のごとき都落ちを型のごとき物語に書いてしまった気がするのである。こんな嘆息を読者に訴えるのもへんだが、正直、自分でも書きえたと思っていない。さだめし読者も不満を覚えたことであったろうとおもう。  なるべく史実と、そして、肯定された範囲の古典に拠って、単なる空想小説に終わらないことを、最初から「新・平家」の基調の一つにもって来たので、つい自分の想像力も資料に制約されがちである。玉葉をはじめ、吉記、愚管抄、吾妻鏡、そのほかどうよせ集めてみても、寿永二年七月の平家西走前後の記事など、ほとんど大同小異で、四、五十行の小記事があるにすぎないし、新しい発見などはなしえない。もっともそれがあるくらいなら専門史家が一大論文を書くであろうし、とにかく、ひとくちにいえば、簡単極まる記事しかないのである。一社会事件程度にしか記録されてないのだ。むしろ他の宮廷行事や社寺参詣などの方がはるかに詳記されている。  ──ついに来るものが来た、ぐらいな公卿の一般心理だったかもわからない。が、概して没落史は歴史上いつも至極かんたんに総決算されすぎている。大坂落城の次はすぐ徳川時代初期に入るといった形にである。平家のばあいのように、没落当夜を境として、流亡数年の末路までをテーマとしたものは、歴史としても文芸としても他に例がないといえよう。  文芸に制約などは何もないし、歴史必ずしもすべて真実ではない。たれかがまた構成の骨格と、基調もちがったゆきかたで、寿永二年七月二十四日の「平家二十四時」なり、一門の一人なりを主題に捉えて書いたらおもしろい作品になるのではあるまいか。たとえば渦中の池ノ頼盛など、到底、この中では書き尽せない複雑さをもっていたし、当夜、夜逃げされた後白河法皇なども、優に独立したべつの一長篇小説で主人公として書かれるのになんら不足のない御性格の持ち主だったことをこの時の行動がよく立証していると思う。こういう際どい離れ業もできてしかも政治才能に富んでいた皇室人は歴代のなかでもじつにめずらしい。(二八・一二・六)        *  歳末を市中に暮らし、原稿も暮れの騒音のなかで書き続けた。疎開帰りの、九年ぶりのこんな生活である。元の古巣へ帰った懐かしみは多いが、雑忙、訪客もすべて旧に復し、またむかしの不摂生にもどりかけている。自分の旧作に、「汝れもまた夜明かし癖か冬の蠅」とか「木枯らしや夜半の中なるわが机」とか、夜半の句が幾つもあるが、それをまたこの年暮には幾晩も味わった。けれど、近年はガス暖炉も自由に使えるので、かつての戦争中のような「炭とりの底掻きさぐる寒さかな」といったような侘しさや不安もないのはありがたい。  山村を離れるとき、附近に住む川合玉堂翁が、いつもの諧謔に富む即興を示された。「新・平家物語」の上でも義仲の都入りを見つつあるから、それで吉川さんも都へ上るのか、といったような意味の狂歌を墨絵に題したものである。ところがどうして、そんな意気込みはとてもない。多少、原稿の余裕ができたら、机をかついで、またまた都落ちのつもりである。  都落ちといえば、平家落去のさい一門自体の手で行われた古巣焼きは、どれほどな範囲の焦土を作ったものか古記もよく誌してないが、しかし、首都の土というものは、じつに何度も何度もよく焼かれているものだとつくづく思う。「方丈記」の筆者が嘆じているのもまったく無理ではない。しかもその鴨長明が一生に見聞した事などは、長い歴史のほんの一コマでしかないのだ。怖ろしい繰返しである。宿業だなんていっていられない、人間愚だ、人間のばかさである。  古典第一巻の〝祇園精舎ノ鐘ノ声──〟は人間のばかさへの警鐘といってよい。年々歳々の除夜の鐘には、七世紀後の今日もまだ、おなじ余韻がどこかに聞こえるのではあるまいか。 いくさやみぬ藪鶯も啼き出でよ  戦後の山村でこんな句を呟いた年の春から書き出して、「新・平家」も足かけ五年めの春になった。その年生まれた二女の香屋子は「新・平家」とおない年である。時々、香屋子の成長には驚きの眼をみはるが、自分の仕事には不満ばかりが顧みられる。香屋子の健康ぶりを見るように自分の作品にも満足ができたらと思うが、一回一回活字になったのを後から見、いつも何か、これでいいと満足したためしがない。作家とは、人間の子の母以上、生みの子の育ちへ貪欲を持つものだ、そして盲愛にはなれない母である。  西国落ちの平家中で、いちばん可憐な存在は、建礼門院と安徳天皇、母子だと思う。  平家の人々は、あらまし、妻子や局たちも連れていたから、可憐な母子は、帝だけではないが、帝と御母とは、それらの多くの母子像中のシンボルとして、ひとしお可憐なのである。  その安徳天皇も、都落ちの時がお六ツであり壇ノ浦の入水はお八ツであった。「劇」だの「語り物」だの「古典」の文章だと、その子役的なおいとけなさは、従来の観念にあるようなあどけなさと、建礼門院に抱かれているあの稚児像ですまされるが、現代文のリアルな描写になると、自然、ただの人間の子供がそこに浮き出して来ないわけにゆかなくなる。たとえば、前々回の総平家が福原へさして退京の途中、天皇が御母に手をひかれて秋草の中へ尿をなさる場面など、ある知人の読者はぼくに、「なにも、天皇にオシッコをさせないでもいいでしょう」と、作為が過ぎていることをなじったが、決して徒な作為を弄したつもりではない。読者の持っている旧観念の偶像を、その事で、打ち壊すために試みた一描写に過ぎないのである。  わが家の香屋子を見ていても、四ツといえばもうなかなか手にも騙しにも乗るものではない。男の子のお六ツでは天皇たりとも、ずいぶん西海落ちの途々には、手を焼かせていたことだろうし、壇ノ浦ではすでに八歳にもおなりだったから、「海の底には龍宮というよい所がありますから」などといっても、おとなしく入水されたとは思われない。古典だと、それはそれなりに文章として読めもするけれど、現代の小説では、智恵に阻まれるからそうはゆかない。近代智というものであろう。子供もマセて来たが大人もマセて来たからである。  古典の筆者はまた、義仲を、非同情というよりもやや揶揄的に書いている。都人が遠隔の野性人を見るときに持つ嘲侮を平家の筆者も持っていた。それはそれ以前の、奥州の安倍貞任を捕虜として殿上人が庭へすえたとき、梅の花を示して「これはなんという花か知っているか」とたずね、かえって貞任から「わが国の梅の花とは思えども──」と、あべこべに大宮人が揶揄されたという、あの挿話などに見られる観念が、木曾入洛のばあいにも、公卿眼の先入主になっていたようである。  だが「牛車の乗り間違え」みたいな話は、事実、ずいぶんあったことらしい。古今著聞集か何かにも、木曾方の一将が、いちど牛車に乗ってみたいと考え、都大路を打渡して得意になっていたが、牛が物に驚いて暴れ出し、止めどもなく駈け出したので、さすが武骨もころげ回り、往来人にはよい笑い草になってコリコリしたというような随筆も見える。  いずれにせよ木曾の野性が、上洛してやったことは、日本の旧軍部がかつて上海や南京でやったことと、似たものではあるまいか。いや義仲のばあいは、あれ程ではない、もっと稚気があり天真爛漫だったというなら、それは時代だけの違いである。戦時中よく新喜楽やとんぼの床の間に大きく構えたカーキ色の将軍が文化人を召し集めて高説を垂れていたことなどあったが、その姿に〝上洛の木曾義仲〟を自分はいつも連想していた。時の勢いを借りた武権による欲望のあらわれ方などは、古今、余り違わないもののようだ。時経て、過去の夢となり、人間業のうたかたとなった後、それを振返ると、義仲的な驕慢にも一抹の稚気のあわれさは覚えさせられる。 「新・平家」の上で、まもなく、木曾殿に代って、洛中諸民の注視と公卿眼の中に立つ新人義経は、ぼくの宿題でもあるが、むずかしいのは、頼朝の方だと思う。義経はまだしも描けば描ける。頼朝は、単なる描写では浮彫りにできない。大きくて常に後方に在るからである。  たとえば義仲が北陸を定め、都から平家を追い出し、やたらに院中や民衆の間に武威を張るなど、それらの前駆的な振舞いは、じつは皆、頼朝のためにやっている下仕事に過ぎず、頼朝はなお鎌倉にいて「やらせておけ」と見ているだけの男であった。  こういう異母兄を持ち、この兄にとって、最大な長所を備えて生まれた義経は、宿命といえば宿命、彼も頼朝のために、一ノ谷、屋島、壇ノ浦までも、先駆を勤めなければならなくなる。けれど、義経のばあいは、義仲とはその性格も正反対で、先駆者振りもべつなものだし、彼は彼の人生を創ってもいた。恋一つでも、義仲と義経とはまるで女性観が違っている。  平家物語には、筆者がある。しかし、歴史そのものに作者はない。しかも寿永二年、三年という破局的な政変と戦乱の時潮にあたって、義仲といい義経といい、後白河といい頼朝といい、まるである天才的な作家が頭でこしらえたような人物が、自らその時代的役割のなかに配されているのは、なんといっても、じつにおもしろいことである。天の配剤、妙なりとは、こういう宇宙と人間界との、作為なき作為のことではなかろうか。  それにしても私は、義仲でさえ哀れでならない。彼が今後、さまざまな悪をやっても、彼のせいのみには考えられない。また、彼に配する女性に、葵を描き、巴、山吹をからませ、まったくの痴女痴男をも描いているが、こういう世代の野性の将の閨房は、かくもあったろうかと思う幻想をたくましくしているのみで、古典が筆の裏に持っている憎みでもないし、また、江戸時代の勧善懲悪作家のまねをしているのでもない。  亡命軍の平ノ宗盛でも、一門の勇将や柔弱な公達や、また裏切って都に居残った池ノ頼盛でも、それぞれ、一個の生き方と、望みには、おのおのの人間としての志があることだ。何か大きな不可抗力の中に漂う彼らの生命を個々に追いながら、今年もそれを書いてゆきたい。そしてそうした個々の意志の大きな動き方が作り上げたものは何だったかが分かれば、やがて一つの答えにはなろう。よく指摘されるように、「君の小説にはほとんど悪人がないね、憎むべき人間がいないなんていう社会があるかしら」ということも、おりおり訊かれるが、意識してのことではない、いうならば、自分の性分である、自分の人間観が、そこに根ざしているのだから仕方がない。「新・平家物語」の、これほど多数な登場人物の中にも、ついに悪党らしい悪党はなかなか見当らない。それを自分では怪しんでもいないのである。  窓の外へふと眼をやったら、師走の空に、子供たちの揚げている凧が見えた。東京では郊外でさえ近ごろめったに見ないが、ぼくらの少年時代にはさかんに揚げたものである。いちばん愉快だったのは、やはり〝喧嘩凧〟だった。悪童、凡童、入り交じって競ったものである。やっこ凧、武者凧、とんび凧、お多福凧、字凧、二枚半、三枚半の大凧など、ああいう春景色も、過去になった、歴史の永遠な空のあれも一コマである。(二九・一・三) 凧々々良い子悪い子なかりけり        *  時間的に観ると、首都の兵革も、さいごは一旬のまに過ぎない。平家都落ちと木曾の入れ代りなど、一夜のうちだった。  が、第三勢力の伏在とか、中間勢力や人間のうごきにわたって小説構成を企ててみると、その一日でもが、じつに容易なものではない。  一個人の一日だけでも、一篇を成すほどな「物語」をみなその「時代」と結んでいる。終戦後の日本人がみな一人一人、小説になりうる体験をもっていたのとおなじわけだ。  野放図もなく長いこの「新・平家」でも、なおかつ、ここ十数回を費やした源平の革命様相は、とても書き切れていない気がする。  まもなく、頼朝の代官として義経の中央進出、義仲の最期、一ノ谷、屋島と展開が待っているので、ここだけに精写を尽しきれないのである。つい総括的になり、俯瞰的になり、散描になる。つまり、まとまりが悪いことだ。物語小説のむずかしさを、痛感する。  義仲の入洛が七月末、この回は、同年(寿永二年)の閏十月下旬頃。その間、まだ百日も経っていない。  わずかなまに、平家一門は、九州太宰府を落ち、四国へ移り、鎌倉の頼朝も、第三勢力の鋭鋒をあらわし、院の後白河は、義仲、行家の両者をあやつりながら、後鳥羽天皇の践祚を断行されるなど、眼まぐるしいほど複雑である。  大観すると、時の氏神は、どうしても、後白河法皇である。義仲といえ、頼朝、義経といえ、いわばワキ役でしかない。けれど平家物語は政治小説ではないから、物語構成上の主要人物は、かつては清盛、頼朝、そして義仲となり、次いで義経と、時の推移と共に立役も代ってゆく。「この小説には小説的約束の主人公はない。しいていうならば主人公は〝時の流れ〟である」と、起稿のさい書いた作者のことばを、もいちど思い出していただきたい。  公卿日記のどれにも、この年の秋ごろからボツボツ「頼朝ノ舎弟九郎ナル者」という記事が見え出しているが、「──ソノ何者ナルヤヲ知ラズ」とみないっている。源九郎義経の存在も、中央ではまだ、まったく無名だったらしい。  反対に、義仲の名は、かれらの間を震駭し、玉葉の日々の記事なども、ここ二た月程は、義仲日誌みたいである。彼の一挙一動が、公卿個人の日記にまで反映しているのだ。だが、ほとんど同情的ではない。いつの時代でも、武力への批判はきびしいものだった。義仲の武力と、義経の武力との相違は、やがて歴史が答えてくる。  日本はせまく、家と家、血と血のつながりもじつに濃い。それで、しばしば、御抗議もうける。中には、系図書や古文書類を、家におくより役立ててほしいと、送ってくださる方もあるが、これは正直にいってありがた迷惑である。系図書などは、作家にとって無価値だし、つい机辺においても失くし易い。あとから返却を迫られて、当惑したこともある。自分は旅行がちだし、責任をもちかねる。御好意は謝すが、以後、やめて欲しい。編集部宛は、なおさらである。(二九・二・七)        * 〝真実〟というものは掴みにくい。目撃者の言にしてもじつに区々違うのである。  当時の公卿日記の筆者たちは、みな渦中の遭難者であり目撃者だから、おなじであるはずだが、細部ではずいぶん相違がある。たとえば法住寺殿合戦の当日の記事でも、九条兼実の玉葉には「──十一月十九日、己酉、天陰ル、時々小雨」とあるが、藤原経房の吉記だと「十一月十九日、己酉、天霽レル」とあり、その日の天候さえ、人によって表現がちがう。  人間の主観をとおすと、お天気さえも、同一でなくなるのだから、歴史の真実とか、史料の正否など、なおさら、そう、かんたんにいいきれるものではない。  まして微量でも、政治意図が交じったりすると、ほんとうのことなど行方も知れなくなるわけである。鎌倉期に書かれた平家物語に、清盛が極力悪く書かれたのも道理だし、その筆法で木曾義仲なども、ただ無知な乱賊にされすぎている。法住寺殿合戦の起こりも、ひとり被告義仲の悪逆に帰せられて、後白河や側近の公卿側は、絶対者の位置にあるため、ただ被害者というだけのことになっていた。  九条兼実というのは、人物だったらしく思われる。平家全盛の間も、平家に媚びていないし、院の側近とは、ほとんど同調していない。木曾が入洛しても、知らぬ顔だし、後白河にたいしても、その政略に過ぎたやりくちを嫌って、余り出仕もしていなかったようである。  その兼実が合戦直前にした後白河への諫奏は、後白河にもずいぶん痛いことばで直言しているが、被告義仲にとって、ただ一人の弁護人の雄弁であったともいえよう。──この回ではまだ法住寺殿焼打のところまで進んでいないが、開闢以来の宮中合戦が行われたあとでも、兼実は日記のうちに、こう書いている。  ──義仲ハ是レ、天ノ不徳ノ君ヲ誡ムル使ナリ。  其ノ身ノ滅亡モ又、忽チ然ランカ。生キテカクノ如キ事ヲ見ル、悲シムベシ、悲シムベシ。  至上の権威にたいしては、何もいえなかった当時において、これほどな直言はほかの物には見当らない。何か、当時の真実が、このことばの響きから聞き取れる気がするのである。  現代の歴史というものも、新聞、写真、あらゆるジャーナリズム機関の記録に事は欠かないが、案外、真を後に伝えるということはやはりむずかしいのではあるまいか。同時に人間世界の累積のおもしろさもあるともいえようか。五世紀、十世紀後には、現代もまた、昭和平家物語を演じているようなものではないか。そしてぼくらのような空想と真実のかねあいの中間に愉しむ者が出て、それを歴史小説などと称して書いたりすることでもあろうか。(二九・三・七)        *  丹羽氏の「蛇と鳩」の受賞の会で、尾崎一雄氏から尾崎士郎氏が旅館の不注意でガス中毒に禍いされたよしを聞き、心配していたところ、きょう熱海にて書信を受ける。  氏の便りによると、昨年、関ヶ原地方を史蹟歩きしたとき、たまたま、伊吹山麓で常磐御前の墓を見出したので、ぜひ君に知らせておきたい、場所はいにしえの不破ノ関附近、芭蕉の句碑に隣りし、由緒ありげに見た、とある。ガス中毒禍の病後まだ癒えきれぬらしく、文字もくずれて見えるのは、わざわざの好意であった。  世に、静御前の墓、乃至、死所と称する地はじつに多い。京都以西、東北地方にまでわたっている。ところが、常磐御前には、再婚以後の消息もほとんど不明だし、死所などもよく分かっていない。  この「新・平家」の上でも、まもなく宇治川合戦を経て、義経の入洛が近づいているわけだが、義経の関心は、この小説では、〝生母との再会〟が戦果の一つでなければならない。おりから尾崎氏の一報は、好箇の手がかりともいうべきで、ありがたかった。  岩田専太郎氏が菊池賞をうけたことは、ぼくらにしてもうれしかった。挿絵界としても全体のよろこびであったらしい。ぼくらはつねに、それも何十年、挿画壇の人々にめいわくをかけ吾儘をゆるしてもらって来たわけである。当夜もいろいろな話題が出たが、挿絵は挿絵の意義と自主性にもっと誇りをもつべきだと思った。女権さえ、そうなんである。挿絵の仕事と社会的位置にも、もっと自己を押し出す余地はあるとおもう。現に日本画壇というものにしても、ある一部の人々をのぞいては、どこに見るべきほどな画業が今日あるだろう。わけて民衆とのつながりでは、かつて苦節をなめて来た清新な洋画家たちと、ほとんど、その席を替えてしまっているのである。岩田氏のあの会を機会に、挿絵界は、新たな活気を呼ぶものと信じたい。この小説の挿絵を担当してもらっている杉本氏などにもおなじ意味でぼくはしきりに無遠慮をいってみる。しかし杉本さんも岩田氏に負けない温厚でいわゆる外柔の方なのだ。余りおとなしい連れあいというものにはつい亭主役も甘くなってかえって弱るものである。稀れには女権をふるって取っ組んで来た方が張合いも出、仕事にもお互いの熱を持続し合えるのではないかと考える。ただし、わが家のことを申しているのではありません。(二九・四・四)        *  義仲関係の女性たちの中では、巴御前だけが古来有名である。ほかの女性は耳馴れないせいか、読者に会うとよく質疑をうける。  葵ノ前や山吹の事蹟は、もとより正史といえないものだが、木曾史料とか郷土の口碑伝説などにはかなり詳しい。北陸から信州地方へかけて塚や墓も数箇所にある。  また古典のうえでは〝──木曾は信濃を出でしより、巴、款冬とて二人の美女を具せられたり〟とみえ、山吹の名にはむずかしい字が当ててある。それも「木曾最期」の一章にしか出ていない。  義仲が、前関白基房の姫を取って、聟に押し成ったという、盛衰記や平語の記事には、否定説がつよい。あるいは、基房の女子は四人あり、うち三人は嫁ぎ、一名は当時八条女院の女房だったから、その一女子が、義仲に姦せられたものであろう、とする異説などまちまちである。  以上だけでも、義仲を繞る女性は四人もかぞえられる。ほかに上野国で獲た若菜という女性を誌す地方史もあるが、どうであろうか。  ただ想像に難くないのは、侵略的な野性の武人が、そこの都で飽欲するものは、洋の東西と古今を問わず、おおむね同じ行為の型を出ていないということである。冬姫と義仲なども、その一象徴にすぎないものだ。事実は、もっと数多い女性が、彼をとりまき、麾下の占領軍将士の間にも、似たような事実はいくらもあったのではないかとおもう。いちばん分からないのは義仲の生母だ、といえるのは皮肉である。  巴は、後に捕虜となって、鎌倉へ曳かれ、和田義盛へ再婚する。これは吾妻鏡にもあるので、史実として重視されよう。なぜ義仲の死を追わなかったか、再婚する気になったか。小説化するにもこの辺は拠りどころある構想に立つことができる。それ以外の女性たちと義仲との悲曲は、おおむね著者の創意によるものとあからさまにいっておく。  創意といえば、古典がすでに創意と史料との継色紙である。宇治川先陣争いも、ずっと後の承久年間、北条泰時が宇治攻めのときにあった話で、義経の上洛のさいの事ではないと、学説をなす人もある。  だが一方ではまたこうもいう。それはしいて仮説を立てるものである。佐々木・梶原の先例を、承久の乱の戦士が後に真似たのであって、やはり従来の先陣争いの方が正しいのだ、と。  およそ、こういう論になると、きりがない。また専門家は、仮説は仮説ですみ、余白は余白のまま放置しておける。そこが文学とちがう。  熱海にいても、つい近くの伊豆山神社には一度も行っていない。頼朝と政子を書いたころには、九州や裏日本の平家村などよく歩きまわっていて、つい来そびれてしまったのである。  桜も終りころ、土地の人に誘われて、いわゆる伊豆御山、走り湯権現へのぼってみた。不便は唯一の保護法である。熊野新宮や本宮などより、はるかに山は荒れていない。  熊野をひきあいに出したのは、梛の大木を見たからである。新宮のは巨きくないが、ここのは喬木であり、四、五幹もそそり立っている。古典にも見えるが元来、南方系の樹木ではないかとおもう。  山上でいま、湯を掘っていた。湯が出ないうちにもう佐佐木信綱博士から〝梛の湯〟と名づけられたと宮司がいう。宝物類なども展示されたが、ここも古く火災にあっているので多くは伝写である。中に、政子が髪の毛で綴ったという梵字曼陀羅などあったが、これも足利期らしく思われた。  しかし、政子がここに数ヵ月を潜み、愛人頼朝の旗挙げ以後の消息を、朝夕、海ばら越しに案じていた様など想いあわせると、なかなか詩情に富む所である。政子という女性は、歴史面や女性問題の上からも、もっと書かれていい題材ではなかろうか。平安朝以後から鎌倉期にかけての、新しい型の女性は、政子像によって、初めて個性的につよく打ち出されたといってよい。 伊豆御山六百階を散りざくら 夜ざくらや政子曼陀羅昼に見て  およそ行楽地といえば、この日本名物が散らかっていない山川はない。古人は、人界を超えた高地を形容して〝塵表〟などといったが、ビキニの灰でそんな観念の救いさえ完全にふきとんでしまった。それにくらべると、人間の足や車で行ける程度の所を紙クズだらけにしているなどの方が、まだまだ、罪の浅い神の子の遊びなのかもしれない。(二九・五・二)        *   木曾義仲と巴の抄  月々初週号の常例としてきた、前回までの梗概に代えて──の「筆間茶話」を、今月はその制限を破ってこの一回分をそれに費やすことにした。小説の上で書きのこした〝木曾余聞〟とか前後の著者雑感を一応総浚いしておこうと思う。貴重な枚数を少々勿体ない気もするのだが、「思いきってこんどはそれに」という編集の希望でもあった。あらかじめ御宥恕を仰いでおく。  やっと、木曾義仲を終わった。〝義仲最期〟の寿永三年一月二十日じゅうの顛末と巴御前の捕われまでを前号で終わって一と山越えた感じである。正直、筆者自身もほっとした恰好だし、読者諸氏も、たぶん、ここでは一ぷくの感を抱くころではないか。編集者というものは、そんな呼吸も見ているものらしく、「この辺ですこし紙面で遊んでください」というのである。  その息ぬきに、子供づれでヘップバーン主演の「ローマの休日」を見て、愉しかったし感心した。王女の桎梏を脱け出して、たった一日、庶民生活の中を遊びまわる姫君を仮りて「王侯生活も羨ましいものではない」ということを、お説教でなくあの映画は、ユーモラスなうちに颯爽と子供らにさえわからせる。──ところが、そんな単純な道理さえ中世から現代までも、社会史的には世界中ちっとも分かっていないらしい。王位、権力、容儀、贅美といったものへの憧憬と争奪が、血の歴史を繰返してきた。  義仲の短い生涯なども、名分は〝源氏再興〟の挙であっても、やはり男性の引っかかり易い冒険への一例であったといってさしつかえない。  ただ、再興一念だけだったら、頼朝とも喧嘩するわけはないし、上洛後の起居にも、もすこし慎みがあるはずである。あんなにまで性急に〝都の持つ物〟へ飽欲するはずもない。  野人義仲と、中央の公卿グループとは、ちょうど、中華大陸史における北夷と漢人の関係によく似ている。野性の侵略にたいする亡都の抵抗には、外来者を糜爛化させるふしぎな魅惑をもっている。今さら、ひきあいに出すのは心ないわざだが、かつての中南支や南方諸島に進駐した日本軍の旧将軍などにはよくうなずかれることかと思う。  だが、義仲は若く、一面、赤裸自然な人間性が豊かだった。その点、この自然児とはひどく対蹠的な中央の〝公卿眼〟には、底知れない意地悪さがあった。また陰険な罠がたえず彼に仕掛けられていた。  そうした義仲の末路には、たれもが一抹の哀憐と同情をひかれ、それが多少、読者の反響をよんだかと思われる。   彼と運命の岩茸  誌面で、義仲の最期が週ごとに近づくと、読者の手紙にもいろんな意見が見えた。「余り悲惨に死なせてくれるな」というのもあった。しかし、彼の粟津ヶ原の戦死の状は、余りにも諸書に明瞭である。ぼくの作為の余地はない。  その原稿を持って東京へ出る車中で、菊村の女将さんにぶつかった。この人、お婆さんのくせに陽気でまたひどく大声である。「わたしゃあ、法皇っていうのが、憎くって憎くって」と、いかにも実感をこめていうので、車中の乗客は、何かこの老婦人がローマ法王と喧嘩でもしたことがあるのかといった風に奇異な眼をぼくらの方へあつめていた。  また一夕、人に招かれて銀座のハゲ天の奥に坐ると、白い割烹着で座敷天ぷらの長箸を使いながらハゲ天氏がしみじみと「義仲って者も、なんて可哀そうなんでしょうなア」と、油鍋の中の音と一しょにつぶやいた。現代の市井に生きて優勝劣敗の烈しさを軒並みに朝夕見ている人々にも、何か思いのつながるものがあるのであろうか。  彫刻家の朝倉文夫氏からも、氏の義仲感想を、家弟のことづてに伺った。総じて、義仲を考え直したといわれる方が多い。著者として望外な収穫である。  けれど日本の郷土自慢というものは格別である。今日でも、木曾地方へゆくと、余りにも義仲を英雄視しすぎている風がないでもない。  一昨年の木曾旅行中、同地の識者たちから、〝筑摩史料〟とか〝旭将軍関係史料〟などの写しを拝借して来て、随所に役立っていたが、義仲を書きつつある途中から再三「返してくれ」との御催促で、ぜひなくお礼をいって返してしまった。おそらく郷土の義仲びいきには、気に入らなかった節があったのかもしれない。  筑摩史料というのは、明治何年かに出た同地方の郡史で、有名な「筑摩鍋」だの、山村良景の「木曾考」だのも合載されており、義仲の駒王時代の遺蹟とか、民土風俗などを知るには、良い書であった。しかしこういう稀覯本になると、ほかで探しえられないので、後では困った。小説中の小ミダシにつかった、 〝運と岩茸は危ない所にある──〟  という木曾地方の俚諺なども、同書のうちから採ったのである。  いつか浦松佐美太郎氏に会ったとき、氏がいうには、これと同じ意味の諺がヨーロッパにも古くからあるとのことであった。してみると、あちらにも、義仲と同型な人間がざらにいて、しばしば、危ない岩茸を採り損なっていたものと見える。   蛮婦か母性か  巴女のことに就いても、松本市の熊沢利吉氏やその他数氏から寄書をいただいた。熊沢氏のは特に長文であった。巴御前の一説として読者の参考にもなろうから、内容の一端を紹介して、御好意にこたえておく。  氏の来信によると、巴の東下説(盛衰記などにある美濃路へ落ちて鎌倉へ行ったという説)は信じられない。義仲と大津で別れ、北陸へ落ちたと見る方が正しいようだといわれるのである。  巴が落ちのびた地は富山であり、後、糸魚川に移り、木曾へ帰る機をうかがっていたが、やがて直江津の国府に庵を結び、晩年は高田市の出丸に住んで長寿をたもった。その草庵のあった所は、後世まで菩提ヶ原と呼ばれ、尼となった巴は、義仲の供養に生涯をささげ、年々の命日には近江の義仲寺にお詣りした。明治の半ば頃までは、高田の旧山砲隊裏の田圃中に、その巴の墓というのがあった。  この事蹟は、元高田市長で歌人でもあった故川合直次氏の研究に詳しい。しかし、新潟郷土博物館長の斎藤秀平氏は否定説の方であった。けれど、巴の結庵地としての土地のいい伝えは根づよいものがあり、そこには現在も三丁字稲荷がまつられている。三丁字とは、つまり丁の字を三ツ組み合せた巴の隠語で鎌倉を憚ったものであろうと考えられる、と。  ──以上である。つまりこれは、巴の再婚説にたいする独身終焉説といってよい。  参考源平盛衰記や古典平家や物語本はみな巴を古今無双な女武者の大剛として派手派手と扱っているが、あいにく、公卿日記などには、とんとその存在も消息も見あたらない。  また物語本の記載もはなはだ区々である。さいごまで義仲と共にいたが、義仲から「女なれば」といわれ、一時、上ノ山へ隠れたとか、自ら東国へ下ったとか、また、前掲のように一人で北陸へ落ちたというのや、鎌倉へ曳かれたというのやら、幾種類にも異っている。  けれど、それらの異説も、終りは妙に一致している。後日、鎌倉の森五郎に預けられ、頼朝は死を宣したが、和田義盛が彼女の勇を惜しんで「よい子を産ませたい」と思い、彼女を、妻に請いうけたというのである。そして、やがて義盛と巴の間に生まれた男子が、有名な力者、朝比奈三郎義秀であったとする説だ。これが、再婚説である。もっとも、再婚はしたが、建暦二年の和田合戦のとき後の良人にも子にも別れ、彼女は信濃の故山に帰って、九十幾歳まで生き長らえたということになっている。  幾つもの異説を比較して、その取捨に迷うなどは、ぼくにはさして重要なことではない。ぼくはぼくの脳裡にあるままの巴を書いた。ただ度外できない条件として、あの時代の女性の位置と、義仲の子を産んでいる母性という事実だけが、厳としてあった。  そこで、自分から観ると、多くの古典も郷土史も、すべてみな同様な欠陥を持っている。人もまた怪しみもせず肯定していた。それは何かというと、巴が稀代な勇婦であったことだけを過大に嘆称して、彼女が子の母であったことにはちっとも触れていないことだ。その点、父の義仲も、みじんの父性もない人間に書かれてきた。夫婦共に、鎌倉へ人質として取られている一子の志水冠者義高(十二歳)のことなど、思い出している条もない。戦略のため、わが子を頼朝へ渡しておきながら、生みっ放し、人手に渡しっ放しの、無情な両親になっているのである。  いかに郷土史が義仲を偉大に書いても、古典の筆が巴を美しい勇婦に描写しても、これでは人間の親ではない。ぼくには受けとれない偶像だった。そのため、自分のこの「新・平家」では、年表にも見える「寿永二年三月、義仲、ソノ子志水冠者義高ヲ源頼朝ニ送リテ和ヲ請フ」という信濃千曲川の対陣のころから、伏線的に、巴の母性も、義仲の若い父性もおりおりに点描しておいた。そして、さいごの粟津ヶ原の日まで、特に巴の母性的な子への思いを積み重ねてきたわけである。  その結果、「新・平家」では、巴の行く道は、自然ああ書くしかなくなってしまったのである。そういう空想をぼくは徒らな作者の行為と思っていない。へたな史実よりも確信がもてるからである。その方がぼくには、心がそそぎこまれるのだった。乱軍の中を駈けまわって、敵の首を捻じ切るという怖ろしい女武者というだけでは、巴はただの蛮婦にすぎない、まるで化け物である。どうも化け物はぼくには書けなかった。従って、巴の武勇の面も古典的な余りな誇張は避けて、むしろ平凡なほどに書いた。あの程度の勇ならば、今の女房たちでも、いざとなれば奮い出すのではないか。もちろん、腕力の沙汰ではない。女権のことである。世間の亭主どもの恐妻ぶりや陰口によればそう考えられる。  余談のまた余談にわたるが。  古語の〝女房〟という語意は、女の住む室という総称である。この語には多分に一夫多妻制のにおいがありはしまいか。たとえば、義仲の女房といっても巴だけのことではない。院の女房、公卿の女房、みな広い意味のもので、女官とか側女までをふくんでいる。またその女房に対して、〝男房〟という言葉もあったが、これはいつのまにか廃れてしまい、女房の称だけが、妻の代名詞からやがてその純名詞にまでなってしまった。世の男房どもがよく「わが家の女房は」なんていうと、どこの細君たちも甘くなってよろこんでいらっしゃるが、女権の歴史からいうと、余り名誉のある語源ではない。   芭蕉は義仲をどう見たか  晩年の巴が、義仲の命日には、年ごとに近江の義仲寺へ詣でたという地方伝説は、無邪気な牽強付会というものである。  粟津の義仲寺は、すぐその隣に、俳人芭蕉が幻住庵を結んだことやら、また、 木曾殿と背なか合せの寒さかな  という句などで有名である。この句は又玄の句を誤り伝えたものという。  けれど、足利中期までは、弔う人もない所であったらしい。堂が建てられたのは天文年間で、近江の国司佐々木高頼が寄進したのが始めだという。義仲寺とよばれたのはもっと後世にちがいない。しかし、附近の田圃中には、巴の兄今井兼平の戦死した跡もある。だから、鎌倉期にはまだ義仲寺はなかったとしても、老いたる巴が、ここの辺りを弔い彷徨うたとすれば、ありえぬこととはいえないし、そして古くからある謡曲「巴」などよりは、はるかに余韻嫋々たる新作の謡曲「巴」になるであろう。舞踊に脚色してもおもしろいと思う。たれか書いてみる気はないか。  幻住庵の記にも「木曾殿と塚をならべて」と芭蕉みずからいっている。また〝まづたのむ椎の木もあり夏木立〟と詠み、余生をここに息づいたのみか、大坂で病んで死んだが、遺言によって、遺骸も、終焉記にあるとおり「──川舟にかきのせ、伏見より義仲寺に移して、かたの如く、木曾塚の右にならべて土掻き納めたり」と、門人らの手でここに埋葬されている。  奥の細道の旅では、彼は、倶利伽羅谷の古戦場にも一句を弔い、斎藤実盛の討死した跡にも、きりぎりすの句を残し、そして余生の庵も、墓までも、木曾殿に有縁の地を自分からいい遺していた。ちと、臆測しすぎるかもしれないが、芭蕉の胸にも、義仲の生涯をあわれむ彼独自の義仲観があったのではあるまいか。  もし義仲という人物を、芭蕉が好まなかったとしたら、芭蕉は決して「木曾殿と塚をならべて」などとはいわなかったであろう。いずれにせよ、義仲も、その自然児的性格から、史実非史実を交ぜて、ずいぶん世の毀誉褒貶にもてあそばれた方だが、ただ一つ、俳聖芭蕉と、あの世の隣組になれたことは、今日そこを訪う遊子にとっても、何か、気もちの救われるような感じを持たれるにちがいない。そして、義仲もまた知己ありと瞑すべきではあるまいか。  義仲以下、木曾の党類の首が、東国将士の列から検非違使の手へ渡され、そして、獄門の前の樹に梟けられるが、その戦後行事みたいな儀式を、当時のことばで〝首渡し〟といっている。  この首渡しの日の記事は、玉葉、吾妻鏡、百錬抄、醍醐雑事記、歴代皇紀、そのほか当時の書で記録していないものはない。  そしてどれにも、「観ル者、堵ノ如シ」という雑鬧の状を描いているから京中たいへんな人出と騒ぎであったらしい。  いまから思えば一つの蛮風にはちがいないが、しかし進駐軍の示威でもあるから、それは華麗を極めた武者行列でもあったろう。坂東武者とはどんな人種か、九郎義経とはどんな男か、といったような好奇心もあって、見物人が押し出たものと思われる。  そこで、首渡しとは、どんな風習かというと、鉾や太刀のさきに刺し貫いた敵将の首を、高々と掲げて諸人に誇示して歩くのである。首の髻には、赤い絹が結い付けてあり、「賊将源義仲」とか「賊党今井四郎兼平」とかおのおのの姓名が書きつけてある。  いつの時代も、人間には弥次馬性がつきものだから、これに市をなすばかりな見物人が出たところで、そのことにはなんのふしぎもない。けれど、盛衰記や醍醐雑事記によると、同日、後白河法皇もわざわざ御車を六条西洞院の辻に立ててこれを御覧になったとある。これはなんとも、吾人には、あと味のよくない記録である。いかにお憎しみであろうと、少なくも昨日までは院庭に見ておられた義仲である。昇殿もゆるされ、将軍号まで与えられた臣下なのだ。臣下の罪はまた法皇にも一半の御責任はあるはずである。どういうお気もちで御見物になったろうか。帝系のお人には稀れに見る心臓のお強い法皇であらせられたというほかはない。  また、参考源平盛衰記には、義仲の首には、左右の眉の上に疵があって、その疵かくしに、米の粉が塗ってあったと、描写してある。余りに観察が細かすぎるから真偽はわからないが、何か、眼前に髣髴としてくるようだ。首の重さと、武者の歩みで、太刀の切っ先の物はグラグラ動いて見えたことであろう。どうも、雲上の特性というのか、後白河法皇のお気もちのみは、ぼくらの文学的神経や庶民感覚では、分かりにくいふしがしばしばある。こういうことを、凡慮の及ぶところにあらず、というのだろうか。  義仲が亡んだあと、京中には、さまざまな落首があらわれたと、これも盛衰記の筆者は書いている。盛衰記は、史書でも日記でもないから、真偽はべつだが、盛衰記の筆者が、義仲をどう扱ったか、書物の性格もそれによって分かる気がするのである。たとえば、その落首というのは、 信濃なる木曾の御料に汁 かけて ただ一と口に九郎判官  とか、 宇治川を水漬けにして掻き渡る 木曾の御料を九郎判官  といった類のすこぶる下手な地ぐち調の狂歌にすぎない。おそらく後世もよほど後になっての偽作であろう。総じて、古典にも、この類の落首や和歌には、その人の作とも思えぬあやしげな歌がよく載っている。しかし、市民の姿は歴史の表面に出て来ないので、市民の声を現わす代弁法として、こういう作為も生まれたものにちがいない。   宇治川拾遺  宇治川の名馬〝生唼〟について、島根県邑智郡の一読者の方から、「いけずきは、当地の阿須那村から出た名馬とのいい伝えがあります」と知らせてくれた。  阿須那は古くから伯耆の大山市や豊後の浜の市と並び称された牛馬の市で、そこの賀茂神社には、いけずきを繋いだカヤの木もあり、旧長州藩主の、いけずきを歌った和歌が遺っているという。馬にまで遺蹟があるかと驚いたことだった。まったく日本は伝説の国といってよい。  いけずきが、どうして水馬に長けていたかという、おもしろい炉辺話も書いてよこされたが、それは略しておく。古書に〝生唼〟とも書き〝池月〟とも書いてあるが、どっちがほんとか分からない。自分としては、どうも生唼がほんとではないかという気がする。異相のある悍馬で、生餌などを好んだので、そんな名を附したのではあるまいか。  宇治川の合戦も、義仲の粟津ヶ原の戦死も、一月二十日の朝から夕方までのたった一日の出来事だったが、この大捷報が、即刻、京から鎌倉へ早打ちされたことはいうまでもない。  吾妻鏡によると、この飛脚が、鎌倉へ着いたのは、一月二十七日の未ノ刻(午後二時)とあって、第一報が安田義定、次に、蒲冠者範頼、源九郎義経、一条忠頼といった順に、ほとんど同日に参着している。  こんな天下の大事も、その道中には、ざっと一週間の日時がかかっているわけだ。もって、当時の新聞のひろがり方や政事軍事のうごきのテンポも察しておく必要がある。  頼朝は首を長くして待っていたことであろう。未ノ刻、すぐその四人の早馬の使者は、北面の石ノ壺(石庭か)へ通され、頼朝からじきじきに、合戦のもよう、洛中の実状など、質問があった。  するとそこへまた、梶原景時からの飛脚が着いた。  景時の使いはやや遅れたわけだが、しかし齎した書状には、義仲以下、戦死した敵将の姓名から、死者捕虜の員数まで、詳細に書きならべてあった。ほかの使者が携えて来た倉卒の書状にはどれにもその点が記してなかった。  遠地にある頼朝としては、何よりもその確証を知りたかったところであるから、景時の報告を見てすこぶる安心もしたしまた、「よく気の行き届いた男だ」と感心もしたらしい。吾妻鏡の記載にも〝──景時ノ思慮、神妙ノ至リ、御感再三ニ及ブ〟とある。   義経と一ノ谷  元来、景時は平家系の人間だが、石橋山で頼朝が惨敗し、大木の洞に隠れていたのを、彼が知りながら見遁してやったため、後に、鎌倉へ召されて重用された人物である。  だから一子景季が、名馬磨墨を賜わって、宇治川へ臨んだのも、親の景時にたいする頼朝の信寵の現われであったといってよい。  けれどこの〝気に入られ者〟が、軍監として上洛軍に付いていたことは、やがて致命的な不幸を義経に運命づけたものだった。  景時の人物がまともだったら、相互の倖せだったろうが、武あり智あり弁舌ありという傑物で、大日本史の語をかりていえば、狡獪にして陰険、しかも和歌を嗜むという複雑な才人である。これが、頼朝に気に入られれば入られるほど、忠義立てを見せたがり、義経らには、寵をたのんで自己を事ごとに主張して退かない。──当然、義経との不和が生じ、また、讒言が鎌倉へ飛ぶということにもなる。  それはすぐ次の、一ノ谷において、もう表面化されるのである。頼朝はもとより偉人物だが、こういう人間を、看破できなかったということは、なんとしても、彼の偉くない方の一欠点であったのだろう。  世には判官贔屓という言葉があるといって、よく、義経の悲劇的美化や同情に反駁する者もあるが、しかし、頼朝もずいぶん依怙贔屓の強い方の人である。彼の梶原びいきなども、その度が過ぎていた一例といえなくもない。  なぜならば、鎌倉同僚間の彼の不人望がそれを証しているし、頼朝が死んだ後の彼の行いも芳しいものではなかった。──とにかく、義仲を仆して、都入りした鎌倉の勢力にも、もうその日から、後の非業や亡兆が約束されていたのである。こうして、過去の歴史と人間の生涯を眺めやるとき、ぼくらは、人間の愚を嗤うよりも、まず人間の盲目さを惧れずにいられなくなる。現実現実といって暮らしているが、いったい何がよろこぶべきことか悲しむべきことかさえなかなか分かり難い。  義仲の都における旭将軍らしい得意な日は、たった百日ぐらいなものであった。──義経の人生として得意な日も、また、幾日かということになろう。  共に、短い生涯、短い花しか見せていない。  けれど、人となりの違い、性格の違い、やや急転して来る時代の違いなどから、その短い人生記録は、義仲とはまた、まったく違う義経でもある。  一月二十日に入京して、二月四日には、もう京を発して一ノ谷へ向かうことになる。その間の滞京期間はわずか半月足らずでしかなかった。  だから古典平家も盛衰記も、「義仲最期」からすぐ一ノ谷へ飛んで、その間のことは、挿話もなんの記録もない。軍記物語としてはそうあってさしつかえないが、「新・平家」は、軍記が主ではないから、やがて一ノ谷、屋島、壇ノ浦と書きすすむにしても、ただちに次回から一ノ谷を書くようなことはない。一ノ谷は、すこし用意もして、合戦そのものよりは、微妙な人間それぞれの意志と、意志のようにはならない動きを書きたいとおもう。また院の内政やら後白河というめずらしい人格のお人を、臆測しながら、微小な史料をたよりに、もうすこし彫り上げてみたいとおもう。   私事片々  幸い、この五月三十一日には、大阪の朝日会館で恒例の愛読者大会がある。自分もそこで何か話すことになっているので、それをすました後、一ノ谷附近の史蹟をもう一ぺん歩いてみたいと思っている。  神戸市内の史蹟は、三年ほど前、清盛の福原創業を書く前に、一巡したことがあるが、こんどは、京都から義経が進路とした亀山、篠山、小野原、三草などのいわゆる丹波路の裏を歩いてみたい考えである。その進路だの、鵯越えの攻略などについては、もう読者の二、三氏から投書もあって、これにも古来の研究や新説が入り交じっているらしい。自分はもとより専門史家ではないから、その解明などは任でもないが、史蹟の土を踏んでみるということは、なんといっても、書くときの力になるし、幻想を自分ひとりで真実そうに想い込むには都合がいい。  三年前、清盛の雪ノ御所跡を探すために、寒い冬小雨の中を、神戸の町の灯ともるころまで、歩きまわったこともある。探し当てたと思ったら、そこは湊川小学校の校庭であったりした。校門の中に一基の石があっただけである。が、それにしても、そこの十分間ほどな感銘が、後に、作品の上でどれほど自分の想像力の基調を助けていたかわからない。また、そこの湊川小学校では、おりふし居合わせた職員の方々から御好意をうけ、校内図書室の神戸市史中の一巻をお借りして帰ったりした。それも三年後のつい先ごろ、編集の手から御返却したばかりである。思えばこの「新・平家」もずいぶん諸方のお世話になってきた。  月末、大阪へ行く途中、名古屋にも寄る約束になっている。やはり朝日主催の同地における茶道文化方面のお集まりと聞いてだけいて、何を話すのかもまだ考えもしていない。  自分の講演嫌いが、だんだん分かってくれたのか、このごろは強引な依頼者も少なくなって、ありがたく思っている。いつかある席上で佐佐木茂索氏から「文藝春秋新社になってから、君だけは一ぺんも講演に出てくれない」といわれて、大いに恐縮したことだった。それなのに、本誌の読者大会だけには去年も出、今年も行くのは間が悪いが、まる四年にわたる迂作の連載中に、いろいろな形で諸氏の御好意をうけつつ、それに平常お答えもしていない自分のすまない気もちを、幾ぶんでも果たしたいという量見にほかならない。かたがた、一ノ谷へもまわろうという狡い考えもたしかにある。おまけに、この一回も雑録随想ですましてしまったりしたが、長期の執筆にはこういう前例もないわけではない。昔の作家はままやったことだった。わざと挿話的随想へ筆をそらして、にわかに気がついたように、別行から──  閑話休題  と、本文に入ってゆくという一つの小説作法なのである。(二九・六・六)        *  鵯越え、一ノ谷の戦いは、これまでの古典や物語のすべてが、みな一方的な記述の形式で伝えられていることに気がついた。久しい間、たれもその不合理を不台理とも思わずに来たらしい。  要するに、源氏側の陣容とか戦果とか、源氏側から見たことしか書かれていないのである。  平家側は、それらの源氏の勇敢さや作戦の巧さを、華々しく引立てさせる道具立ての役割にしか使われていないのだ。古典・平家物語においてすらそうである。  もっとも、吾妻鏡や公卿日記にしても、源氏方の報告は聞かれたが、平家側の事情は分からなかったという点もあったろう。しかし平家の立場は、やはり敗者の悲哀というほかはない。〝敗者に口なし〟である、源氏側の好きなように記録され、伝承されたものかと思う。  前々回の「大江山待ち」の項で、範頼、義経たちの源氏方は、すでに生田と鵯越えの直前まで迫っている。──で定石だと、次回はすぐ鵯越え、一の谷の合戦描写になるわけである。  おそらく前回では戸惑いされたかもしれない読者も、この回では、ははアともう作者の意図は読み抜かれたことかと思う。ぼくは従来の定石を破って、逆に、屋島の平家側から、一ノ谷、鵯越えを書いてみたいと思っている。つまりこれまでのものとは、まったく視角を変え、そして、どうして平家方が、あんなおろかともみえる大敗を余儀なくしたかを、敗者の中から書いてみたい。  構想もテーマの運びも、先にいってしまうことになるが、敦盛を特に拾い上げて書いたのも、前述の理由によるのである。  従来の古典や戯曲だと、須磨ノ浦で熊谷直実と組んで討たれたあの一章にしか敦盛の名は出て来ない。けれど、彼の肉親たちには、「新・平家」にもすでに書いた重要な人々がいるし、また、熊谷に呼び戻されて引っ返したというはなしも、あれだけでは、現代人の共感をよぶわけにはゆかないであろう。──でもとより多分にぼくの創意は加えたものだが、敦盛の係累、周囲の事情、屋島平家の背景などと併せて、つとめて史実的にはその人を書いてみるつもりである。やがての一ノ谷合戦における従来の〝熊谷と敦盛〟という古びた一史話にいくらかの新味と肉づけが出来れば倖せだとおもっている。  須磨の敦盛像は、じつは〝あつめ塚〟──無名戦士の墓であるということから、敦盛の実在を否定する説も以前あった。  けれど義経の凱旋後、都へ送った平家の大将首九人のうちには、敦盛の首も、記入されている。後日、熊谷直実が出家した時の心のどこかにも、敦盛の死が影をさしていなかったとはいいきれない。  淡路の福良にいた父経盛の許へ、敦盛の首が届けられたという地方史の伝えは、おそらく遺物か何かであったのであるまいか。(二九・八・一)        *  やっと浅間高原にも、蝉の声が高い。今年は蝉も歌い出しが遅かったが、これでまあ夏のスタートも出揃ったかたち。稲、果樹、野菜、みな活況と今朝の地方紙は書いていた。  地方へ来ると、自然、地方新聞に親しむ。東京では気づかれない興味深い記事が時々ある。ぼくは、地方新聞の愛読者だ。  上高地の高山植物は、年々稀少になってゆく。これはもう周知のことだが、信毎(信濃毎日新聞)の記事によると、代って下界の低地植物が、続々、高山へはいのぼり、住めば都と、上高地にも繁殖し始めたそうである。登山者の靴のウラだのリュックに附着した下界植物の種子が人間と一しょに登って根を下ろしたものらしいと、植物学者はこのところ分布図を手に小首を傾げているという。  これが社会面記事だからおもしろいではないか。どこも狭苦しくなり、生き難くなっている人類仲間の、特に日本人の社会縮図と見られないこともない。  近ごろでの朗報は(朝日、長野県版)北アルプスの水晶岳にある大東鉱山の労務者に、その経営者が、航空会社と特約して、食糧空輸の新方法をとったという記事であった。  従来の例だと、標高二千五百余メートルの山道を、人間の背で二日も三日もかかって牛馬のごとく運んだのが、空輸だと運賃も安くすみ、しかも鉱夫たちには、下界の新鮮な生魚でも食べさすことができようというのである。ただし、低運賃となる差額だけでも、鉱夫の栄養や保健費へまわせるとまでは、書いてなかった。  けれど、こういう地方ニュースなどは、何かひとごとならずうれしい気がする。  新し物ずきの日本人は、ぼくらの青年時分から、飛行機飛行機と熱を上げて、献金までさせられて来たが、日本人中の何パーセントが、その実生活の上に、飛行科学の恩恵をうけたか。一万人に一人もあるかないかである。  そのくせ、航空兵器の惨害は、ひとり残らずうけたのだ。十二歳の頭が大人の科学を持った結果だろうが、これからの航空学は、水晶岳のような使い方にして貰いたい。人道主義の大国から譲渡されるというジェット機などは、さだめし、そういう使途をあちらでも望んでいるものと考えたい。  十二歳といえば、妻が町で毛糸の腹巻を買ってきてくれた。ところがダブダブで足もとへ抜けてしまう。やっと十一、二歳用のと取換えて来て、ぼくのお腹にちょうどよく収まった。  一週に二度ぐらいは、軽井沢の新コースをクラブをかついでまわっているが、病後の体は、特に腰から下は、いっこう肉が付いて来ない。失脚などという語のある通り、脚を度外しては健康はないぞとシナの古人は戒めている。しかし、ここの高原の二ヵ月ほどを、ぼくは毎年、「新・平家」を書く一年中の蓄電期としているので、ことしも無為には送らないつもりである。せいぜい、皮膚を焦き、ヘタな球を飛ばして、文壇ゴルファーどもを、へいげいしてやろうと思っている。  去年の夏、ここの机で書いたのは、木曾旗挙げから、義仲上洛、一門都落ちのあたりであった。ことしは、鵯越えから一ノ谷。──そして、どの辺まで、この秋までにすすむだろうか、正直なはなし、自分にもはっきり見当がついていない。  明日の生き方は、自分でも本当には分かっていないように、小説のテーマも構想も、次は次になってみないと分からないのである。もっとも、これはぼくだけの癖かもしれない。  前々回の「鼻と金売り」のくだりを、読者はひどく興味をもったらしい。前後が戦陣だの窮屈なお座船といった描写だったので、浴衣がけの二人が親しまれたものであろう。そこでまたぞろ、「あんな人物がじっさいいたのか」と、よく史実を訊かれるが、金売り吉次は、牛若伝説の人物で、読者も知っている通りである。そして、朱鼻の伴卜の方は、日本商人史の中の一人物を借りて来たものと、正直に答えている。  いったい平安期や源平時代の商業機構などは、多少の研究もあるにはあるが、極めて概念程度で、まだ深い考究はなされていない。それに、経済組織となると、複雑で、時代事情の相違がはなはだしく、正面の歴史よりはるかに呑みこみ難い。  ついでに断っておくが、たれかが「鼻の伴卜は、大野伴睦がモデルか」といった人がある。これはとんでもないことだと思った。しかしなるほど、そういわれると伴睦氏も鼻が赤い。それにいつか府中競馬場で、同君の顔をスケッチした漫画家氏が、一枚描くところを二枚描いて、居合わせたぼくに「何か讃をしてくれ」というので、筆を借りて即興的に「伴睦相中紅一点」と書いてやったことはある。──かといって、なにも「新・平家」の中に無断拝借するような失礼はしない。語音と鼻との、たまたまな暗合である。同氏の名誉のためあきらかにしておく。(二九・九・五)        *  詳しい数字は知らないが、出版界に〝週刊誌時代〟の新語をつくった本誌は、その発行部数も今たいへんな上昇率をしめしているらしい。この小説の第一回が載った五年前にくらべると、読者数は十倍にもふえており、当然、途中から読みついた人や、この辺からの読者も多いのではないかと想像される。  で、そうした新しい読者のために、時にはぜひ〝前回までの梗概〟というのがあってよいのだが、既刊単行本だけでも十六巻となって来たので〝あらすじ〟といっても容易ではない。かんたんには分かりきれまいという気が読者にもするであろうし、ぼく自身にもするのである。  けれど連載を初めた初期に、ぼくは「この小説はどこから読まれてもさしつかえない」といったことがあるし、また「ある章からある章までを抜き読みしてもよいものに」と筆間茶話で書いたこともある。そのままなことばを新しい読者へも繰返して告げたいとおもう。  小説を書く側ばかりでなく、小説の読者側にも日本では何か一定した小さな〝小説様式〟の型がきまっているように思う。主人公があって、その主人公と傍系人物とが起伏する発端から終尾までのテーマがすなわち小説であるというような先入主である。これがいちばん小説らしいには違いないが、もともと、小説にそんな固着した方程式などはない。ないから私小説も生じ、〝創作〟ともよばれるのであろう。殊に古典の大作は天衣無縫でなんらの規矩に囚われているふうがない。中華の雄大な古典など特にそうだとおもう。かりに現代の作家群を市井の散歩者と見るならば、古典の作家たちは、限りない地上の旅人だったともいえようか。そのどっちにも特徴はあり、優劣を問うのではない。ただ小公園的な人生探究ばかりでなく、古典のもったような眼をかりて大きな人生の曠野や時の流れを観ること──また読者に観せることも──小説という仕事の上にあってよいし、また求められるところの一課題であろうとぼくは信じるのである。  だから、といっては、三段論法じみてくるが、「新・平家物語には、きまった主人公はない。しいていえば、主人公は〝時の流れ〟である」と、作者のことばの中にも書いたことだった。  しかし、二百三十余回までの構造のあとを振返ってみると、やはり時の流れの中には、自然なる主人公的人物が、時代時代に屹立しており、その人間を中心に歴史を見、裏を見、周囲の変転を書くという従来の小説手法もいっこう脱け出していなかったことはわれながら否まれない。その意味でこの小説はちっとも新様式でもないし、読むにむずかしいものではない。むしろ、どうしたら解りやすく、平安朝末期から、平家へ移り、また源氏色の時勢へと、世間が物音立てて、押し流れて行ったか、また、その約半世紀の人々の浮き沈みが、八百年後の今日の読者に、親しく読み酌まれるであろうかに、ぼくはだいぶ気をつかって来た。歴史小説を書くばあい、何よりは〝おおかたの人にも分かる易しい歴史小説〟であることは、なかなか、むずかしいことだと思った。  この回までの骨ぐみを、時代的に大別してみると。  保元、平治の乱。──平家以下地下人武者の勃興。──青年清盛の得意時代から一門の盛期。  べつにまた、地方的には。  未開地の東国武者と頼朝の蟄伏時代。──鞍馬脱出の牛若の放浪期。──諸国の反平家機運による騒乱の頻発と京師物騒の暗黒前夜期。  となり、その結果の。  伊豆、木曾の同時旗挙げ。──後白河法皇と清盛との政治的争覇。木曾入洛。──一門都落ち。──範頼、義経らの宇治川戦を経ての入洛。──鵯越え一ノ谷に屋島平家の大敗すること。  という順序に人も世間も変りに変ってゆくのである。  その時代時代を、主人公的に分けてながめると。  清盛。  頼朝。  木曾義仲。  後白河法皇。  義経。  といったような人々といえようか。  このうちで、ぼくがもっとも多くの筆を費やしたのは、いうまでもなく清盛であった。が、清盛の生涯は一門都落ちの前にもう終わっている。義仲も終わってしまった。いま書きつつある所は、主人公的にいえば、義経が主流となっている。以後しばらくは当然、義経が〝時の主役〟となってゆく。  しかしこの小説の本当の主人公たる〝時の流れ〟から観るならば、義経もまた、ただ一つぶの時流の泡沫にすぎないのである。長くはその主役をゆるされない。そして次に、たれが主役につくかは、この小説の未来に属することである。それまでいうにはあたるまい。  けれど、平家物語である以上、平家のすがたは、末路の末路まで追ってゆくつもりである。平家繁昌の時代よりも、一門西走からの、漂う平家となってからが、真に、古典も力をいれているものだし、また、人の心をとらえる哀調の詩とも古来いわれている所だ。常識的によくいわれる壇ノ浦が、この「新・平家」の終りでないことだけはいっておいてもよい。  清盛の五男、本三位中将重衡は、一ノ谷の合戦で源氏に生捕られたのであるが、公達として、生きて都に送られ、鎌倉の頼朝の面前にまで曳かれた人は、平家方の大将ではこの重衡一人である。古典平家も「重衡生捕」「海道くだり」「千手」など、重衡の末路には、三つの巻題を与えている。  なぜ、彼が死ななかったか。それを前回からこの回などにぼくは書いてみたのである。彼に関する記録は吾妻鏡などには旅程、日時のことまでかなり明白であり、書きがいのある人物だとおもっている。「池ノ大納言頼盛」とか、この重衡などは、その人だけを主題としても、ゆうに一篇の小説にはなるとおもう。  彼の滞京中、法然を配したのも、史上の事実にもとづいたもので、空想の場面ではない。もちろん、古典の内容と、ぼくの考え方とは、まったく見解がちがっている。その辺を読んでいただければたいへんありがたいし、またこの「新・平家」を通じてのぼくの仕事の意図もいささか酌んでもらえるかとおもう。(二九・一一・七)        *  謹賀新年。これ以上は、なんだかきまり文句になる。年々歳々、ことばは同じ、年々歳々、意味同じからず。ひとしお、読者諸兄姉の御健康だけを心から祈る。  迂作もこの三月で満五年になる。年暮に迫って出版局、編集部の諸兄十数氏が会してくれて、「新・平家」起稿当時の思い出やら蔭の苦労ばなしなどしあった。その夜の速記を新年号の〝筆間茶話〟にどうかといわれたが、ちと小生への宥りだの楽屋落ちも過ぎるし、何よりは自画自讃のクサ味に落ちるのをおそれて、ここへ持ち出すのはやめた。長途の仕事はくるしいにきまっている。当夜の諸兄の交〻な鞭撻と愛情のおことばはまことにうれしかったが、ぼく自身はこれの終わるまで風雪の道を黙ってテクテク歩いていたい。焚火も恋しいし、道くさもやるが、大方の叱正ときびしい批判の中に吹きさらされて行く方が仕事としては気がしまる。  前号での、平ノ重衡が般若寺で斬られるまでの所は、二回分ぐらいな構想でいたものを一回に書いた。原稿も三十七枚になり、広告面を外して貰ったり挿絵もむりに組んだりしていただいた程である。でないと、この正月号早々、余りに悲劇的な重衡の死と、全篇的にも、物語のひとふしの終りが、暮と新年号とにまたがって、どっちも中途半端になるからだった。一ノ谷敗戦後の平家余話は、あれでほぼ尽したとおもっている。 「新・平家」の著者は作家のぼくだが、これの集成と社会的生産の意味では、ほとんど衆の人々の合作といってよい。  だからいつの日か、これが衆の手に渡って、一個の著者のものでもなく、衆のものになりきれば、それがその作品の成功といえるのであろう。衆を対象とする文学とはどうもそんなものらしい。  読者からの手紙の中では、近ごろとみに、安徳天皇に関する事蹟についてのお知らせが多くなっている。これはきっと「もう壇ノ浦も近いのじゃないか」という読者の推読から来た現象であろうとおもう。  だが、安徳帝御事蹟なるものは、これもじつに全国何十箇所にもあって、多くは伝説を超えた神格的遺蹟となり、かつての宮内省や文部省も手をやいたことでもあった。  ぼくは研究家でなく作家である。やがて壇ノ浦を書いても、そんな神秘な世界までは書かない。御神体めいた遺物の写真やら古文書など輸送してくる向きもあるが、それだけはその人にとって勿体ないだろうからやめてもらいたい。よく「御一覧の後は返送してくれ」とも書き添えてあるが、ぼくは物を失くすのがいたって上手なたちだから、どんなありがたそうな物でも御返送の保証はできない。  この新年号第一回は、一ノ谷合戦から、次の屋島合戦へかかる半年の中間期を、義経の周囲から書き出してゆく〝序の曲〟となっている。  ただよう平家は、これからが、いわゆる平家物語の哀々たる人間詩を高く奏でながら末路の一すじをとってゆくのであるが、勝者の源氏方にも、義経の行動や頼朝の家庭を中心として、もう盛者必衰の芽が育ちかけていた。古典の筆者はじつに苛酷なほど現世現実なるものを冷視する。といって、ただのむなしい虚無ではない。東洋的な身の処置と生き方は切々と古典の筆者もその行動に希求してやまない風がある。余りに現実に固着して身うごきも心の窓も放たれない現代の読者には、古典がもつ人間苦解脱の悲願と、今日の平和の希いとを考えあわせて、時に夜空の星と語るような思いもされるのではあるまいか。  なにしろ、壇ノ浦までは、まだまだ、だいぶぼくの風雪の道もかかるとおもう。ゆっくり読んでいただきたい。(三〇・一・二)        *  正月中、快晴な日が実によくつづいた。東京では近年おぼえがない。  これと、こんどの政変とが、人心の上に、心理的作用をもって鳩山さんを有利にしたといっては、非科学的だろうか。歴史ではありうるのである。  平家の都落ちまでは、じつに天候が悪かった。治承の飢饉が平家を弱めたことはひと通りでない。  それが、源氏の進出以後は大体、天候もよく、五穀も出まわっていたらしい。源氏に希望をかける前に、一般の庶民は、天候に気をよくしていたのである。天も怒るとか、天も味方すとか、よく古典にはみえるが、それの現代的な解釈と把握とは、むかしのように単純なわけにはゆくまい。  月末、京都へちょっと行くが、京都の底冷えはよくいわれる。この回に、寿永三年の年暮の雪を書いたが、建物といい暖房の設けといい、皆無といってよい源平時代の都の寒さなど、想像のほかである。それは、江戸時代の夜の暗さが、今日の作家では、どんなに暗いか、書けないのとおなじで、従って、歴史上の人間の官能描写なども、どこまで可能のことかと正直おもう。  たとえば、義経の正室と、愛人の立場にある静との関係なども、むずかしい一例である。妻妾一つに住んでいた中世シナの形式をそのままな家居の状態から、一夫多妻がゆるされていた社会習慣まで説かなければ、現代人には、のみ込み難いフシが多いであろう。けれど、説明では、小説ではなくなってしまう。(三〇・二・六)        *  ちょっとした用事で、木村十四世名人が早朝に訪ねてくれた。名人と三十分ほど話して、すぐ机に返ってまたペンを執ったのだが、客と会ったことの影響が、無意識にも、その日書いたぼくの仕事のどこかに影響がなかったかといえば、これは全然なかったともいえない気がする。なぜなら客が木村氏だけに将棋の機動性とあの象形がなんとなく後でも頭のすみにあったからである。  この小説は今、ちょうど複雑な局面にきており、途中からの読者には、おそらく、分かりにくいふしも多いかと思う。こういうときの場面の打開は、筆者にとってもじつは一つの難所なのである。で、その構想を将棋に擬してみたりする意識下の意識が、ふと作用しないとは限らない。こんな長篇仕事の途上では、そうした私生活の一片も、時によると小説の上に、思わぬ曲折や展開をもったりするものなのだ。べつに木村氏の来訪に限ってそうだったわけではない。つまりどんな過去を書こうとする小説でも、本質的には、現代から抜け出られないということをぼくはいってみたかったのだ。  将棋はヘタくそなぼくが、将棋を例に取ってもぴんとこないことは承知しているが、たとえば、ここ数回の──寿永四年二月前後──の源平のありかたを棋面と見ていってみるならば、ちょうど一ノ谷の中盤戦から、終盤の序のサシ口へかかった形ではあるまいか。といえば、読者にも分かりやすいことと思う。  屋島は、要するに平家の「玉」囲イといっていい。玉将はいうまでもなく安徳帝である。一ノ谷で前線を破られた形だが、屋島の玉囲イは入念を極めた。宗盛以下の金銀桂香までがかためており、べつに、角将の平ノ知盛は、遠く関門海峡の彦島に拠っていた。そしてここでは、源氏の三河守範頼(蒲冠者)の深入りを捉えて、去年以来、平家方が圧勝していた。サシこめばサシこむほど、遠征の源氏勢は、自律を失い、コマを取られ、総敗北のほかなかった。  源氏側の〝王さま〟は、もちろん鎌倉の頼朝である。この〝王さま〟は序盤からちっともその位置がうごいていない。つまり、居どころ囲イのかたちだった。  だからこちらの飛車角は、序盤からよく前線に飛び出してその全能力の発揮を強いられていた。飛車は、範頼といえる。義経は、一ノ谷以後約一年ぢかく、京都守護の予備にとどめられ、角将といった役割に措かれている。  頼朝は、飛車だけでも、充分、敵を掻きまわしうると思い、九州山陽の遠征軍に全力をそそぎ、おりおり、四国の河野一族などに呼びかける奇手を試みたりしていたのである。──が、深入りした飛車は、あぶなくなった。  もし源氏側が、頼朝がといってもいい、死地の飛車にばかり気をとられていたら、寿永四年の将棋は、はっきり源氏方の負けだったであろう。──が、頼朝のサシ口は、ここで一転機をみせ、義経という角将を、前へ出してきたのである。そしてこの角は、直後、敵の玉囲イへ迫らんとして、あの手この手、どう、その屋島を、突きくずさんかに、苦心しているところなのだ。  その年の正月二日に院宣をうけ、同月の中旬頃には、義経はもう摂津の渡辺(大阪)まで、行動を起こしているはずだが、それから約一ヵ月余は、いっこう動いてもいない。では、この一ヵ月間はどうしていたのか。──そのことをこの小説が前回から次回へわたって書いてゆくことになろう。  源氏には、水軍力がまったく乏しい。断然、水軍では平家がすぐれている。屋島へ懸るにもカカリ手がない立場に義経はあった。当然、彼は自分の進む〝角ミチ〟をまず計らねばならない。また有力な船隊をも、持駒に持つ見越しを読んでおかなければならない。  弁慶と鎌田正近に、銀桂の性能を持たせて、紀州へ使いさせたのは、そのための用意であった。しかし屋島平家も、同様に、桂馬や香車の性能をつかって、たやすく角スジを譲るような不覚はしない。そこで「謀」と「謀」とのサシ競べがまず起こった。──それの集約的な冷戦の遺蹟が、今の紀州田辺の闘鶏神社なのである。  じっさいの屋島合戦はわずか三日の火華にすぎない。将棋ばかりでなく、敗れるものが、敗れ出すと、じつにその敗亡はいつも無常迅速である。けれど、せつなの前には、長い用意の前提がある。将棋でいう〝読み〟だの、隠し手がさされていることはいうまでもない。歴史の面でいえば、そこの伏線的な空間こそ、おもしろいし、複雑でもあり、従って、読みづらい所でもあるのだろう。なにしろ、そうした意味からも、熊野水軍と田辺の湛増の向背は、源平両勢力の均衡のカギを握っていたものといってよい。  屋島合戦前夜の、田辺の位置や重要性は、前回にも書いたが、ぼく自身は、あの辺を何度か通過しながら、じつは田辺には下車してみなかった。多くは「熊野史」「新宮市誌」「田辺町誌」などに拠って書いたのである。現在の闘鶏神社の附近には、弁慶の遺蹟や遺物などもあり、土地には「弁慶は田辺の生まれ」という伝えもあるが、これは「新・平家」の内でいつか書いたことがあるから、ここでは述べない。(三〇・三・六)        *  一ノ谷から、二次の屋島合戦まで、その間、約一年は、戦争もなかったのである。で、古典平家には、その期間の記述は何もない。  けれど、じっさいの合戦は、一ノ谷でも屋島でも、また壇ノ浦でも、事実、二日か三日の短い戦闘に過ぎないのだった。だから本当は、二日か三日に過ぎない修羅の時間よりは、一年にわたる空白期間の方に、より多くの事件や問題も起こっていたにちがいない。  近代から現代もおなじように、競争のない無事な日の中に、かえって、その素因やら陰性な活動があったものとぼくは観たい。──ここ数回を割いて、自分はそれを書いてきたが、次回からは、いよいよ、義経の屋島攻めという本題に入ることになろう。  まだ、そこまで行っていないが、古典平家だと〝那須余一〟や〝弓流し〟の条の初めに〝逆櫓〟の一章がある。──渡辺の岸から屋島へ出陣しようというさいに、義経と梶原とが逆櫓のことで、議論となり、味方喧嘩をひき起こしたという話になっているが、これはかなり人口にも膾炙しているので、次回のことだが、あらかじめここで断っておきたい。  吾妻鏡でも明らかなように、梶原はついに渡辺には来ていなかった。〝逆櫓〟の話は、まちがいである。のみならず話としても、稚気にみちたもので、現代人には、のみ込める筋ではない。だから、ぼくは〝逆櫓〟の項は省くつもりだ。なぜだろう? と、読者は怪しまないでいて欲しい。  逆櫓ばかりでなく、義経の屋島急襲には、古典をそのまま、うのみにできないことが多いので考えさせられている。たとえば、大風浪の中を、今の大阪から阿波の小松島市附近まで、わずか四時間で着いたことになっているが、いくら追風でも潮流に乗ったにしても、いささか誇張でないかと疑われる。また、船五艘に百五十騎が乗り込み、上陸直後、戦闘に移って、そのまま徹宵で今の高松市の近傍まで駈けつけ、またすぐ戦闘に移ったという点なども、肉体的、時間的に、どうかとおもう。たとえば、当時の船の積載量から見ても、馬匹の輸送などは、そう簡単なわけにはゆかない。殊に、馬の能力などを考えると、少々、お伽ばなしめいてくる。そんな詮索などはしないで、原話のままの方が、勇ましいことは勇ましいにちがいないが、この小説は、平語のように、琵琶へのせて語るものではないから、現代の読者には、なんとも古典のままではお目にかけられない。  従って、ぼくはぼくなりの史見と想像をほしいままにするつもりである。充分、これも小説であることを御承知の上、読んでいただきたいとおもう。(三〇・四・三)        *  先月某日、小田原で一日すごした。文春に書いた〝忘れ残りの記〟から小田原文化人グループの人たちが、市内の正恩寺に吉川氏の先祖の墓がある、といったのが新聞を賑わしたりしたため、いやおうなく先祖の墓掃に行ったのであるが、あわれションボリと小さい墓石が幾つか傾き埋もれており、墓銘の主は、代々吉川銀右衛門と称した藩の足軽程度の下士にすぎず、鞠川住職の言によると、ぼくは足軽の七代目とかにあたるそうである。ただ奇縁に感じたのは、住職の御子息が、町でパンを買ったオツリでふと週刊朝日を求めたことから、急にぼくの祖先を思い合わせて過去帳を調べる気になり、それが端緒で寺内の墓を発見したという鞠川氏のお話だった。要するに、これも、「新・平家」に拠る法縁かと、帰京後、寺の御子息へ、迂著十八巻をお贈りしておいた。  その小田原にての、雑詠二つ。 無縁ぼとけあはれ起すな幾世かも雨露の眠りの安けらしきを 小田原やここ父祖の地と聞くからにどこやら父に似し人の行く  そろそろ梅雨じめり。去年の今ごろは、大阪朝日会館の愛読者大会へ出席がてら、鵯越え一ノ谷の史蹟歩きの果て、大腸カタルを病んで、お盆近くまで病臥してしまった。今年は過日の歌舞伎座における大会にもまずつつがなく読者諸兄姉にお会いできて愉しかった。しかし、ぼくの話は相変らずで聴衆には興もなかったことであろう。その時も話したことだが、那須余一の扇の的とか、屋島前後のいろんな史話は、すべて人口に膾炙しているので、めったに除くわけにもゆかないが、平軍の敗走理由や、余りに分かりきった矛盾のある所は、思いきって、ぼくは古典の弊を書き改めた。  なぜ、といえば、一ノ谷でも屋島でも、平家はいつも源氏の引っ立て役に出て、敗ける道具にしか使われていないからである。たとえば、屋島合戦の直前、三日三晩にわたる戦前の大暴風雨が、義経の上にはあったとしてその勇気や決断を讃えてやまないが、屋島にも同じ台風があったという同情はちっとも書かれていない。  また、余一の扇の的でも、玉虫の話でも、さらに伊予引揚げの平軍三千騎が、なんの理由もなく、源氏に降伏したなどという伝承も、あの通りとは考えられないことである。そのため、屋島前後は、ほとんど、ぼくの創意をもって創作として書いた。しかし、古典よりは、ぼくの小説の方が、ずっと真実に近いものだと自分では信じている。  おととし一遊した大原の寂光院の小松智光尼から便りをいただいた。建礼門院のゆかりもあるせいか、ひどく身にひきつけて読まれているらしい。今年は安徳天皇の入水七百七十年祭にあたり、先ごろ下関の赤間宮で大祭があったとか。平家が長門の壇ノ浦で亡んだ後、女官たちが民間に落ちてさまざまな生き方をした風俗祭りといったような行事が今も続いているそうである。 「新・平家」もこの回で屋島が終わり、やがて壇ノ浦に移ってゆくが、しかし屋島以後の約一ヵ月間に、何があったか、歴史も古典も、その間は空白になっている。ぼくは自分の文芸的見地からその空白を埋める仕事に人知れぬ愉しみをいま抱いている。  白状すると(これも過日の大会でいったことだが)最初、この「新・平家」の構想は、壇ノ浦の平家敗戦直後を序編として書き出すつもりだったのである。それが当時の編集デスクと協議のうちに、いっそ書くなら清盛の青年時代から──ということになって、ついつい、保元ノ乱以前からここまで書いてしまったのである。われながら小説の出生とはへんな運命のものだと思う。自分が生んだのか、自分だけでもない。編集者が生んだのか、編集者でもない。世間大衆が生んだのか、そうともいえる。(三〇・七・三)        *  下旬、机辺をかたづけて、例年の浅間山麓へやってきた。ここもことしはなかなか暑い。などといっては、たわごとみたいで、都会の人へすまなく思うが、京都の三日もこたえてやや暑さあたりの気味である。しかしようやく、この稿に気を取り直している。  屋島落ちの平家が、壇ノ浦に亡ぶ前、その途中、厳島へ立ち寄ったにちがいないということは、初めぼくの想像だけで書いていたのだが、ふと〝玉海〟の中にその確かな史料を見出して近ごろ密かにうれしかった。壇ノ浦に近づくが、ひとり平家にかぎらず、人の末路を描くのは、胸傷むことである。高原はもう虫の音が秋を思わせ、芒も穂を出しかけている。(三〇・八・一四)        * 〝海に興って海に亡び去った平家〟というたれかの表現があった。この回以後、その壇ノ浦へ入るが、古来伝承のような「詩」として描くか、リアルな構成によるか、「新・平家」は両者のあいだに史証の真実性をもできるだけつとめてきた。史材と詩と文学想念のバランスが自分の壇ノ浦描写となるであろう。こんな不必要をあえてしゃべるのは、壇ノ浦の場面などは、将来、十人の作家がおのおのの角度から十種の作品を書いてもきっと面白いだろうと思われるからだ。それほど壇ノ浦は、つまり小説的歴史である。人間劇場の舞台に、時の最高な俳優をそろえて、時の神が演出した興亡座のすばらしい人間劇であったとおもう。  筋を先にいってしまうことになるが、平大納言時忠の一女は、壇ノ浦の戦後、義経の室(妾)へ入っている。これは史実である。時忠が捕われた後も、格別な待遇をうけたり、助命されて能登に生涯を終わっている点など見ても、彼が壇ノ浦で、内侍所(三種の神器)の奉還に内応したといううわさが当時あったというのは、おそらく事実に近いであろう。末路に立ち迷った一門の男女の死の取り方や、生き抜き方や、運命の渦潮も、決して一様なものとはいい難い。書きたい人物は多過ぎるし、舞台も大き過ぎるのである。ヘタをするとぼくの小説自体も渦潮へ溺れ去るあぶなさがないとはいえない。  山屋の裏に今年は板の間の書斎を建て増した。夏休み中の子供もみんな大きくなってしまい、その子供らの友人も大きくなり、どうかすると、机の置き場所もなくなってしまうのだった。そこでぼくは夏中はたいがい朝は五時半か六時に机に坐る。裏の雑木林いちめんに小鳥が啼きぬく。高原オーケストラの中で原稿に向かう。ほんとにぜいたくなことですまないと思われたりする。  三笠宮さまも毎年借家のようではあったが、ことしは三笠山の中腹に三、四十坪の学究の書屋らしい建物を作られた。そこへ一日、パーティーのお招きをうけた。大学の先生方と夫人たちがあらましのお客であった。宮さまには、粒ぞろいお小さい五人の和子がおありである。お妃は台所やらパーティー客の接待にお忙しい。その間を、いたずら盛りの和子たちが喜々と飛び跳ねていらっしゃる。高原の明るさの中にある簡素な学究の一家庭と見ていれば、この附近にも珍しくないが、しかしこれを長い歴史の末の皇室の一図片と眺め直すと、いいしれない感慨がわいてくる。こういう今日を、ぼくは、ぼくの作品の中の阿部麻鳥に見せたいと思った。また当時の高倉帝やそのほかの宮方だの女院が見たらなんと羨むことであろうかと思ったりした。もし客の一人に、西行法師でもまじっていたらきっとほほ笑ましい一首を詠じて去ったろうにと思われたことであった。  海外の読者のことには、つい一度もふれなかったが、思いがけない遠隔からもおりおり感想をもらっている。最近ロスアンゼルスの外川明氏から、羅府新報の切抜きを送ってよこされた。同紙の無孔笛という一欄には、「新・平家」の読後感が幾度も載ったそうである。切抜きの一文を、また切抜いて、掲げさせて貰うと▼「新・平家」を読むことを、同僚のKさんに感づかれてしまい、空便で週刊朝日が入荷すると、御自分が見ない先に、まず私に貸与される。K氏がその時ほどありがたい人になることはない。▼それで「新・平家物語」は、多分アメリカの読者中で、私が一番早く読んでるものとうぬぼれている。べつにたれへもおすすめはしないが、「新・平家」の記事は、本欄でも幾度も書いた。本屋で訊いてみると、同好の士が急速にふえている。──とあって、作家が恐縮にたえない程な熱心さである。海外にあって読まれると、また自らべつな郷愁を詩として感じられるのであろうか。それに、週刊誌のゆきわたり方も、空便のせいで、急速に国際的になってきたことがよく分かる。(三〇・九・四)        *  平家の名は壇ノ浦で終わっているが、ほんとは亡び果ててはいない。一門ちりぢりながら、どこそこの山間に隠れた。あるいは、海を越えて、はるかな島で余生を送った。  また幼い安徳天皇も、海のもくずとなられたのではない。戦後、山野にお隠れになって、天寿を全うされ、その家柄は、累代つづいてきた。神社もある。御遺蹟の数々もある。随臣たちの家々もいまもって残っている。──だのに、なぜ古来から、安徳帝は壇ノ浦で死んだものとして書かれているのか。貴下の「新・平家物語」もまたそうであるのか。ぜひこの疑問はあきらかにして欲しい。(以上は近ごろしきりに多い諸地方からの読者の声)        *  いつかも、この欄で、書いたことだが、安徳帝の終焉地とか、遺蹟伝説を持つ地方は、日本中にどれほどあるか分からない。つぶさに数えたら何十個所か知れないほどだ。もって、平家の末路へ寄せた世人の通念はわかるが、どこまでが真実か空説か、真偽は問題の外である。ただ、あれには裏面もあることで、どこかで生き長らえた平家人も多く、安徳帝もまたそうであったのだと、信じていたい国民性が、日本の隅々にまで、今も消えずにあることだけはどうも確かなようである。投書を見ても、その根づよさには、驚かされる。  ぼくらがついきのう体験してきた近代戦にしてさえ、今もって未帰還者があり、南方の孤島に十年を過ごした兵士やら、土人の中に溶けこんで妻をもち子を生ましている旧日本兵の父親も現実にあるのである。壇ノ浦の平家人が、一門海のもくずになったなどと考えるのは、それ自体が、史実ではない。当然彼らも、あくまで、生き抜こう、生き長らえようとしたであろう。ぼくの平家観としてもそう思う。  といって、諸地方にある伝説通り、安徳帝の事蹟をそのままうのみにも出来ないのである。なぜなら、その随臣の姓名など、どの地方でも、みな同一人に限られている。古典平家や盛衰記の中にみえる人名しか伝わっていない。これはすでにその伝説が、あらかた、古典に拠って生じた古典後期のものという立証になるからである。  奥里将建氏の近著「院政貴族語と文化の進展」という一書は、壇ノ浦以後の平家を考える上に、さまざま文化史的な諸問題を提示しており、近ごろ興味ふかく読んだ。奥里氏の学問的な追究によれば、いよいよ、平家絶えずの感を深くされ、人間平家史、文化平家史の永遠性が信じたくなる。  が、小説の困難さは、学問的な解明でも鳧はつかない。ぼくはぼくの小説「新・平家」を書くほかはなく、秋燈の下に、今、壇ノ浦の前夜を描くにあたって、自分の中にも燈火の四辺にも、何か鬼影の哭くようなものにおりおり襲われてくるのである。──ふと、筆を措いて、夜を想うと、浅間山麓のこの高原には、夏じゅうあんなにまで見えた避暑人の燈も全く消え、ただ雨のような虫声の闇と、落葉の音があるだけだった。軽井沢の町も、夏過ぎると、たちまち、旧中山道の一宿場みたいな淋しさに返っている。(三〇・一〇・九)        *  ここへきて、平家系図をいちど載せてほしいと希望される読者が多い。従来、本文でもおりにはたれの子、たれの兄弟という風に註をしてきたが、壇ノ浦では一門すべて寄り合うので、読者もその識別に煩われるものとみえる。  平氏系図も、厳密には、諸書まちまちといえよう。尊卑分脈はじめ、定本というのはない。それに遠祖外戚までに及ぶのはなお煩を加えるだけだから、壇ノ浦合戦に見える人々だけにとどめ、かんたんな註を附して次に掲げてみる。ほんとは、系図図式によると、一目で分かりやすいが、そうなると遠祖分流だの、この物語に不必要な人名も羅列することになり、ぼくにははなはだやっかいである。かつ部分的には異説もあることなので、小説にたいする便覧程度でゆるしていただきたい。 〔二位ノ尼〕故清盛の未亡人。名は時子。──国母建礼門院の生母で、安徳帝には祖母にあたる。また、平大納言時忠の姉でもある(一書には妹とも)。年齢六十三、四。 〔宗盛〕清盛の次男(一書には三男とも)。前内大臣、内大臣の殿と呼ばれている。一門の総大将。盛衰記によると、清盛の実子でなく、当時の風習にまま行われた他人の子の〝取換え子〟であったともいう。年齢三十九。 〔時忠〕清盛の義弟。建礼門院の叔父。検非違使ノ別当だったので大理卿とも、ただ平大納言ともいわれている。年五十七、八。 〔経盛〕清盛の次弟。参議、修理大夫。一ノ谷で長男経正、次の経俊、末の敦盛などの三人の男子をみな戦死させて、まったくの孤父。年六十二。 〔教盛〕清盛から三番目の弟。──門脇殿というのが通り名。職は中納言。長男通盛は、鵯越えで戦死。次子能登守教経がある。年五十七。 〔知盛〕清盛の三男、宗盛の次弟。権中納言(あるいは新中納言)黄門どのとも呼ぶ。──一子知章は生田附近の合戦で父に代って戦死。なお知忠という幼童と一女が妻と共に同陣している。 〔教経〕清盛の甥。教盛の次男。能登守。年二十六。 〔資盛〕清盛の孫、小松重盛の次男。新三位中将。兄の維盛は、屋島を脱出して、高野をさすらい、熊野の海で投身した。歌よみの才媛、右京大夫ノ局(以前、建礼門院の侍女)の恋人。弟の有盛、忠房も同陣。 〔盛国〕外戚の族。主馬判官といわれ最年長の老人。一子越中前司盛俊は、鵯越えで戦死。盛国自身は壇ノ浦で虜となり、鎌倉に曳かれ、後、絶食して死す。 〔時実〕時忠の長子。讃岐中将とよぶ。妹(夕花)は都に残されてい、後に九郎義経の妾となる。 〔有盛〕小松資盛の弟、丹波の少将とよばる。 〔行盛〕清盛の養子、基盛の子という説しか分かっていない。左馬頭。年二十歳がらみ。  あらまし以上だが、なお一門格の飛騨景経、内蔵頭信基、左中将清経、また幼少年には、宗盛の子清宗(十五)、同じく副将丸(八ツ)。小松資盛の末弟宗実(七ツ)。知盛の子六代(十二)、知忠(九ツ)。経正の子(名不明、六歳)など名を拾えば限りもないほど可憐な小児もいたのである。  乳母子(乳兄弟)やら養子、姻戚のつながりは、筑紫党やすべての地方出の大将にもつながってい、その係累までをたどるのは容易でない。また、従軍僧のうちの二位ノ僧都専親は二位ノ尼の養子、律師仲快は教盛の子、阿闍梨祐円は経盛の弟──といったふうに、これもみな血縁の人々だった。  およそ二百人余はいたろうと思われる一門の妻妾、その姫、女官、侍女たちの姿や生活は想像もできるが、名や素姓は分かっていない。わずかに判明できる主なる女房たちだけは、二八二回「女房の柵」の章に掲げておいたからそれを参照されたい。  こう並べて来て、再び痛感されることは、平家軍とはいうが、これは全く軍隊といえるような軍隊ではない。大きな家庭と家庭の集合にすぎない。それがどうしてこんな大悲劇を余儀なくされてしまったものか。世界史にもない悲戦である。  註にも及ぶまいかと、前掲の人物表には、安徳天皇と御母建礼門院徳子のふたりは除いておいた。悲戦の中でも一そう悲劇的な象徴はこの余りにもきれいな母子の像である。よく人は義経を悲劇の主人公というが、義経はなおその惨風悲雨のみじかい生涯にも、描きたい虹を自己の夕空に描いて行った。むしろ悲劇の人は平家方に多い。孤父経盛などは目立たない人だけに、なおさら深刻なその一人だったといえよう。わけて八ツの幼帝と、二十九の御母にいたっては、われわれとおなじ感情の人間であったとは考えたくないほど悲惨であり可憐である。今日の中から想像を馳せるだけでも余りにつらい人間の仕業と社会の組織であった。(三〇・一一・六)        *  壇ノ浦の顛末はこの回でやっと終わった。じつは新春早々悲愁な場面もどうかなどと思い、歳末号までにこの辺を書き終わる意図であったのが、つい筆が伸びてしまったのである。が、正月のこたつで、数世紀前の寿永四年春と、昭和三十一年の正月とを、生きくらべる気持で読んでもらえるなら、この方がまた、べつな意味ではよかったかとも思っている。次号からは、まったく別天地となった寿永終戦の翌日からのことを書く。終戦体験はついきのう、ぼくらも身に舐めて思い知らされたことである。自然、それらの体験も書く上に滲み出すかと思う。  歴史小説についての意見がしきりに近ごろいわれるにつれて、史実と小説とのけじめ、扱い方なども、注意をひいているようである。ところが事実と史実の境すら厳密には明確なものではない。史実かならずしも事実ではないのである。  いまそれについて縷述する気もちはないが、壇ノ浦前後のことも、吾妻鏡、玉葉などの、わずか数行の当時のニュース、報告の類が、史実といえば史実といえる程度のもで、古典平家も時を経た伝聞であり、また、筆者の感情や創意も加わったものである。ただ一つ確かなのは、前月十五日の夜が月蝕であったので、その暦数から、合戦当日の潮流の干満時刻が、科学的に算出できることだけである。義経、知盛の両将のかけひきなども、つまりそれを基標として立てたぼくの創意にほかならない。そのほか、安徳帝の入水非入水説、一門の生死についても、諸説ふんぷんだが、ぼくはぼくの「新・平家物語」を書くものであり、また後世にはたれかがたれかの新々平家物語を書き、より以上な観方もすることであろうと思う。(三一・一・一)        *  先ごろの「新・平家展」は日延べまでしたが、いまだに見損ったことを悔んでいる人も多い。延べ三十万人の参観者はあったろうといわれている。ちょうど、この前回の平ノ宗盛父子が近江篠原で処刑される辺を書いていたころなので、会場に出ていたあの筆太な宗盛の書簡の前に、私は長いこと佇立した。いかにも宗盛らしい人柄が文字に出ていた。けわしい世潮にはとても抗しえない凡庸な大将だった反面、彼の人の好さや風貌までがうかがわれるものだった。ああいう人の死を描くのは小説の上でも、いかにも生々しくて辛い気がする。  偶然な配列だったろうが、宗盛の書簡のすぐ側に、高野金剛峯寺蔵の義経の筆蹟が陳列されてあった。相対して、彼とこれとの差が、じつによく分かる。二人の違い方はまた、時代とその使命の相違でもあろうか。義経の書は痩肉な草体で、どこかに気負いがあり、若々しい颯爽な気が躍っている。──これを書いたある日の義経は、彼もまた、得意ではあったのだろうと、ほほ笑まれた。  前々回の腰越状の一節は、呉文炳氏「腰越考」に拠るところが多かった。記して感謝しておく。また、腰越状その物の文章も、現代人に読み易くするため、全文を半分くらいにちぢめ、原文の悲調な漢文体のリズムも損わないように私が勝手な筆を加味してある。後の誤りとならないようあえてこのことも誌しておく。  片瀬、腰越といえば夏のカーニバルや海水浴で今は聞こえているが、義経には宿命深い土地だった。凱旋後の彼はここで頼朝から足止めをくい、数年後、奥州で最期をとげると、死してはまた、その首を美酒に漬けられて腰越へ送られて来、梶原らの首実検に供されるのである。一個の人の生涯を、その生涯を閉じたあとで振返ると、古い考え方だが、何か約束事みたいなものが感じられる。 〝判官贔屓〟という語がある。いま始まったことではない。鎌倉末期、足利時代からすでにそれはあったようだ。いや義経の風采や言動を眼のまえにしていた当時の九条兼実とか仁和寺の守覚法親王といったような時人までが、義経にはみな同情をよせていた。理由はいろいろある。私もそれを書いてゆくだろうが、どうやら私も自然判官びいきの一人になりそうである。従って陳腐な踏襲になり易い惧れはある。だからといって、しいて新しがるにも及ぶまい。  義経と並べられると、頼朝は損である。頼朝を主として弁護すれば、彼も意義ある使命をとげた一偉人にちがいないが、陪審裁判ではとても勝目がない。従来、ずいぶん頼朝のために、弁護に立った史論家も多いがついに陪審席の衆判には勝てないようだ。  大体、史論家の頼朝弁護は、義経の思い上がりを欠点に挙げているが、それ以前に、頼朝夫婦が、河越重頼の娘を、隠密同様に、義経の妻室へ押しつけているあの行為が一ばん嫌だ。義経の青春は、そのときにもう頼朝に圧殺されていたのである。そういう政略結婚は、頼朝以外の人物もやっていたといっても弁護にはならない。彼の偉大は時代改革にあった。その改革者が自己の都合では、どんな古い悪習もしていたというのでは、史家はみとめても、陪審席の民衆はゆるさない。  義経には、正室の河越殿のほか、静がある。そしてまた後に平大納言の娘も室に入れている。つまり三人妻があった。こういう一夫多妻の例は、彼らの父義朝にも、また義仲や清盛やその他の男性にも見られた。時代の風習だったわけで、べつに奇異でも例外でもない。けれど、現代人には奇風に見える。よほどその点を参酌しないと読みづらかろうと思われる。また、書く方も、そこらの女性心理に及ぶと、そのころの女性になってみることの困難さを痛感せずにいられない。正直私のいちばん悩むところである。こんなことなら、私もいちどは三号四号を持って、そうした心理のからみ合いを眺めておくんだったのにと、今にして少々悔いを覚えもするが、あわれ、今からでは間にあわない。(三一・三・四)        *  ▼はからずも病気をした。病気はたれでも、はからずにきまっているが、こんな時にやって来ようとは思わなかった。▼兆候の自覚が三月二十五、六日前後。知りつつ第三百十二回の原稿だけはまず書いた。倒れたのが四月二日。▼昼夜なき激痛と高熱がつづき、以来二十日間ほど呻吟した。仰臥も左側臥もできず、おなじ恰好のまま、身じろぎもできない。果ては蒲団を巻いて抱きすがり、唸りつつ、うつつを慰めた。好きな煙草も、ふた口と吸えず、返事も二た言といえないのである。  ▼昨夜、病後第一回の原稿を編集へ渡した。うれしかった。ふとひとり眼を熱くした。▼六年前、「新・平家」第一回の原稿を生んだ日の感慨を思い出したのだ。六年余の歳月は知らず知らず自分に当初の初心をマヒさせていたかもしれない。これがこんどの病後の収穫だった。最初の執筆当時の初心と熱意に立ちかえって、筆を新たに持とう。それをもって、読者諸彦へのお詫びともさせていただきたい。▼だがまだ、離床入浴までにはゆかず、机の前に寝床を敷き放しにして、寝つ起きつこれを書いた。訪う者訪う者、ぼくのヒゲを褒めていう。川口松太郎は「まるで俊寛だね」といい、杉本健吉は「文覚さんだ」という。そして多くが「記念に剃らずにおいた方がいい」というが、こんな記念はまッ平である。四、五日のうちに剃るつもりだ。そして初夏の風の中で、人間の幸福とはこれだったかなどと、平凡な感慨に今更らしく耽ることであろう。(三一・五・二七)        *  この初旬、病後の初旅を吉野山へこころみた。ちょうど小説の執筆も近く義経と静の吉野隠れに入るので、史蹟歩きもすぐ役立つし、八年前、花は見ていたが、青葉の吉野山は初めてでもある。それと六月二日の大阪朝日会館における読者大会への出席をかね、奈良附近、吉野山、京都というスケジュールで六日間の旅だった。  同行は例のごとく健吉さん、社の方二、三氏、またこんどは自分が病後のため、特に女房を伴った。女房を連れると香屋子というのが手離せない。結局、女房子づれの史蹟歩きとなったが、もし霊あらば、静も義経も、子連れの私たちを、どんなに羨ましく見たろうか。私もまた、奥千本に近い子守ノ宮への嶮しい峰道を踏みつつ、想いを当年の美将九郎義経と薄命な麗人のうえに馳せずにいられなかった。 「あの人とここで別れぬあの人とここで逢ひたる夏木立かな」たれかの、そんな歌も思い出される。  大物ノ浦の遭難後、追捕の兵に追われて、吉野の奥にかくれ、そしてまた、別れるまでの約七日間、二人は完全に二人だけで、世外の山院へ身を潜めていたのである。──後、静は捕われて鎌倉へ曳かれ、鶴ヶ岡神前の舞で気を吐くが、そのときすでに妊娠っており、十ヵ月目に初産する。頼朝は命じて、その子を、由比ヶ浜に投げ捨てさせる。──という史実はあきらかなのだ。ところで、吾妻鏡による出産日から、逆算して、彼女の受胎日のころを考察してみると、二人が吉野山に隠れていた七日間以外には、その契りのあった機会は考えられないのである。──ということなど思いやると、道ばたの葛の花までが、悲調な恋愛詩の栞かのように可憐である。山道を苦にもせぬ香屋子はそれを手に摘んでは先を歩き、八十五歳の土地の古老、辰巳長楽老も、じつに元気で、終始、私たちの先達となって、史蹟の解説にあたってくれた。  芝居の義経千本桜では、いちめんの花の舞台で幕があくが、史実上の二人の吉野籠りは、冬だった。おそらく全山四岳、雪だったろう。車で下市へ下り、谷崎氏の〝吉野葛〟にも見える弥助鮨の楼上に休んで鮎ずしを食う。奈良では、薬師寺の塔を見に詣る。前日、寺のあるじの橋本凝胤師を夢声老が訪ねて、二度目の問答有用が行われたと聞いて、戯れに、 薬師寺や今日は問答無用也  などと駄句りつつ塔前に立つ。和尚は知らず、塔はいつ見ても、見とれるばかりいい塔なり。  句は、雑俳にもなっていない駄句ですゾと、辺りの群ら雀と一しょになって嘲る社のH君に、これなら君の鉄道唱歌調よりましだろうと、もう一句ムリにひねって示す。 ここに巣を持つ天平の雀の裔  大仏殿では、久しぶり観音院の上司さんにお目にかかる。大仏の肌に汗の見える日は雨の知らせと仰っしゃるのを聞き、何か、昨今の時事世相、それだけでもない気がして、ひそかにここでも一句をひそむ。 濁世にやおん汗ばみの廬遮那仏  たそがれ近く、京都へ入った足で、桂離宮を拝観する。茶家遠州の細心も、二度三度と見かさねると、ややうるさい感も生じ、蹴鞠もしたという月見台わきの広庭などが、かえってよくなる。それと健吉さんとも話したことだが、どうも襖絵のうちには、江戸期の低調とはいいながら、さしてとも観られぬ絵がこんどはなぜか眼についた。こちらの凡眼のせいかもしれない。(三一・七・一)        *  静を書きつつ、時々、常磐を思いくらべてみる。  静と常磐とは、時代の双艶といってよい。戦乱の犠牲になって、流離の艱難をなめ尽した運命までが、よく似ている。  けれど、そう二つの女性の型は、全くちがう。いわば一と時代の相違でもあろうか。常磐には多分にまだ王朝末期の観念があり匂いがある。三人の子の助命のためではあったが、清盛に身をゆるした。その後また、他家へ縁付いたりした。母性の分別が勝っている半面、王朝女性の貞操観がここに見える。  貞操の点では、静は清冽だ。白拍子といえば、浮いた社会の出だが、義経以外の男性は知らない。鎌倉に監禁されている間、一夕酒の座に侍らせられ、梶原のドラ息子に、口説かれたりしたこともあるが、手強く撥ねつけたばかりでなく、これを讒者の片割れと見て、面罵している。いうならば後世の、辰巳芸者の歯切れのいい啖呵と意気地に生きた趣がある。  人も知る鶴ヶ岡では、頼朝夫妻から鎌倉大小名のまえで、義経を恋いに恋う想いを、怯みもなく舞って歌うなど、常磐以前の女性にはない気だてだった。きっと、長い世代、戦と男どもに、虐げられ、抑えられ続けてきた女の鬱憤が、女の唯一な〝貞操の誇り〟を象どった、静の姿に、昇華したものであったろう。  偶然だが、義経という人は、周囲に持った女性までが、数奇な運命や、華やかさを、みな共にしている。常磐は生みの母だし、静は妾といえ、妻以上な者だった。だのに、その静が、鎌倉に囚われているのに、救い出すことも出来なかったのだから、男としては断腸、どれほどだったろうか。  どうも、壇ノ浦以後の義経は、意気地がなさすぎる。なぜおめおめ都を立ち退いたのか。泣きっ面に蜂、そんな退嬰的だから、難船の憂き目にも会ったりする。──あげくに、きのうの部下だった木っ葉武者に、追捕を懸けられ、なんで山野を逃げ隠れしてばかり歩いているのか。「……まったく、焦れッたいねえ。あたしが義経なら、頼朝なんか、やっつけてやるよ。一ノ谷、屋島で勝った源九郎義経でしょうが。やる気なら、頼朝なんぞ、なんでもあれやアしないやね。なんとか、そう書けないもンかしら、吉川さん」とは、人間国宝の篠原治さんの弁である。これ程でなくとも、これに近い慨嘆を聞かされるも近来一再ではない。だが、いくら人間国宝が歯ぎしりしてくれても、歴史はそう流れてしまったのだから、どうにもならない。  二の句にはすぐ歴史だが、じつのところは、その史実性にも、ずいぶん、あいまいがなくはない。義経亡命中の二ヵ年など、全然暗中摸索である。──かれの神出鬼没ぶりばかりでなく、院宣なる物や、法皇の本心や、奈良叡山のうごきや、何喰わぬ顔しつつ常に何かを策する公卿輩まで、すべて複雑怪奇を孕んでいた。ただ一人、義経だけが、初志をかえずにいただけだと、私は思う。  その初志とは、壇ノ浦の使命終わって後、もう、二度とは、戦を避けたいと、ひそかに、誓うところがあったものと、私は、解釈する。なぜといえば、義経の衆望と力は、充分、鎌倉と戦いうるだけの地歩は占めていたし、また、機会もなくはなかったのである。たとえば、叔父新宮行家が、あれ程すすめたり、頼朝追討の院宣を手にしてさえも、彼は、開戦へは、うごかなかった。  ──その点、意気地なしの義経には、弁護の余地がない。「戦おうか、戦うまいか」それを迷いに迷ったろうが、それだけに、愛人の捕われもよそに見過ごし、草木のそよぎにも、身をちぢめて潜伏していた彼の姿は傷ましい。あわれというよりは、篠原治さんの語をかりれば、焦れったい極みである。だが、過去遠い歴史となったが、彼が忍んだために、少なくも、兄弟弓を引きあう血みどろな乱は、見ないですんだのだ。義経は、どう意気地なしに書かれても、地下では、ある一時代の平和を剋ちえた誇りだけで、莞爾と、どこかで霊の満足をえていることであろうと思う。  この二た月ほどは、また軽井沢で仕事をしている。ここでの起居は半裸生活みたいなものだ。バンガローの床に机をすえ、皮膚だけは一人前に黒くなった。そのせいで、来訪者はみな、やあたいへん御健康そうで、といってくれる。  六時起床、洗顔、朝の茶、食事、新聞、これはみんな不精をきめて机の上ですましてしまう。午後三時ごろまで仕事。あるいは二時まで。それから約束のある相手とコースで落ち合う。七時ころまで夕明りはたっぷりなので、ゆっくりワンラウンドは出来ようというものだ。  そこで、話をかえるが、じつはそのコース帰りの出来心だった。  奥の南軽井沢高原に、先ごろから、日本ジャンボリーの大キャンプ群が展開されていた。迎えに来た香屋子の印象にもと、もう日暮れだったが、車をとばして行ってみた。山波に囲まれた高原の段丘に、世界十四ヵ国のボーイスカウトの色とりどりな団旗、ことに日本の吹き流しの幟なども、夕空の大浅間を正面に、色彩映画の中世騎士陣でも見るようにきれいだった。  夏中の地方新聞を見ていると「北アでも愚連隊」とか「太陽族、山小屋を襲う」とか、とにかく暴力という活字と二つの流行語は、毎日の紙面に見えない日はない。  だが、どうして、ジャーナリズムとは、少数なものを、そう大多数の如く錯覚させるのだろう。稀少価値というものなのか。戸塚文子氏が、何かの紙上で「ついに、太陽の子といういいことばも、私たちには、汚れを感じさせてしまった」と嘆いていたが、同感である。  だが、ほんとうの太陽の子は、やはり健康な若さを、ジャンボリーの無数な天幕に、野の花のように咲かせていた。一少年に、道をたずねる。じつに親切で、かつ明晰で、愛らしい。天幕の中で、彼らは塒の支度やら晩餐の用意に愉しげだった。  米、中国、フィリピン、ドイツ、ポルトガル、ベルギー、スイスの遠くから来ている少年たちのうちに、どこの国か、ただ一人で一国を代表して来た少年もあるという。新聞記者が、そのひとりぼっちな少年にむかって「淋しくない? お友達は出来た?」と訊ねたら、その少年は、高原の無数な天幕を指して、「──ちっとも、淋しくない。友だちは、こんなにいるから」と、答えたそうだ。  これは、地方紙記者のインタビューとして、翌朝の紙面に見えた小記事である。その朝、なんとなく、朝飯まで美味かった。(三一・九・二)        *  前々回あたりで一応、静御前は書きおわったが、鶴ヶ岡の前後のことは、かなり私の創意やら脚色が入っている。読者諸子のうちからまた「史実と大いに相違するが?」という抗議の来ないまえに、自分から小説解剖をして作家の構成というものの裏を打ち明けておく。  静の宿所へ、梶原景茂たちの若殿輩が押しかけて、酒興のあげく、景茂が静へ、猥らなまねに及び、かえって、静に面罵された事実は、吾妻鏡では、鶴ヶ岡の盛事があってから後日のことになっている。その月日も明白なのだ。が、私の小説ではわざとそれを鶴ヶ岡の舞以前におきかえたのである。  なぜといえば、鶴ヶ岡の舞殿に立った日、静はすでに妊娠六月の身重だった。だから吾妻鏡に従うと、景茂たちの猥らは、静が七月のときになる。七月にもなる妊婦では、どう考えても、事がおかしい。君命の下に預かり中の女人でもある。静にしても、そんな体で、若人の酒の座へ相手に出たのなら、自分から好き好んでいたようなものになろう。──おそらく、この風聞は、吾妻鏡の筆者が、およそな日の項に、後で書き入れたものにちがいない。しかし、月日などはともかく、この事実は、当時の鎌倉にも、景茂みたいな戦後派が、もう簇生していたことがよく分かっておもしろい。(「新・平家」では景家)  も一つ。  静が産んだ義経の子は、吾妻鏡だと〝──台命ニ依ツテ由比ヶ浜ニ棄テシム〟となっている。が私は、静の身柄一切を預けられた安達清経が、これを沖の闇から世間の闇へ、密かに助け落したということにし、あえて伝奇小説的な解釈をとった。正直にいえば、私には、いくら頼朝がしたことでも、どうにもこのことがいやなのである。「君命で棄てさせた」とはあるが「殺した」とは記録にもない。そこに作家の空想を容れうる余地は充分ある。ぼくの空想が否定される確証は何もない。ここからあの辺の小説は編まれているものである。  妊婦の本能、妊娠中の生理などは、どうも男性には実感がもてない。そこでよく、女房に訊いたものである。書く上のことで、女房に教えを仰いだのは初めてだった。  久しく出さなかった西行法師を、ここで書こうという意図は前々からの設定だった。年表にも──僧西行、鎌倉ニテ頼朝ニ会フ──と見えるその事蹟は、じつに静御前始末の直後であった。しかも八月十五夜という日なので、そのまま小説的な宿縁をも、もっている。  西行を追って、なお書いて行くと、余りに横道へ逸れるので、またひとまず、紙面で別れたが、西行の旅は、あれから武蔵国葛飾郡の、今の幸手の辺にかかってゆく。そこで冬のころまで病に臥す。──捨てはてゝ身はなきものと思へども雪のふる日は寒くこそあれ──の歌は、そのおりの作といわれている。山家集の歌を私は余り好きでないが、この歌は私の愛誦歌のひとつである。  この回の「大原御幸」は、古典平家物語では、もう一章の「六道」とあわせ、いわゆる有終の美の、完結編となっている。  だが、大原御幸のことは、吾妻鏡とか玉葉とかいう類の史書には、何も根拠がない。ただ、承久四年に書かれた僧慶政の随筆、「閑居友」に──建礼門院おん庵にお忍び御幸の事、という短文がある。それを取材にして、平家物語の著者が、あのような大尾の大文章を物したものだという。とすると、古典平家の著者も、よほど小説的構成と空想力に富んでいた人かと思われる。  しかし、承久以前に、大原の女院の生活を、もっと身近な女性が、当時において、すでに書いていたものがあった。それは平ノ資盛(重盛の次男)の恋人だった右京大夫ノ局である。彼女の歌集「建礼門院右京大夫集」には、これも短い憾みはあるが、一日、人目を忍んで大原の閑居に女院を見舞った歌やら感慨がしるされている。  あれこれ考えると、大原の女院の許へも、前述の女性や後白河のみでなく、密かにはずいぶん人も訪ねていたろうと思われる。西海に離散滅亡した一門の生き残りからも、何かの便りがその後とて手だてを尽して行われたにちがいない。幼帝の生死もまだ確認されていなかったし、事実、大原御幸の翌年九月には、天野遠景や藤原信房を大将とした鎌倉勢が、九州から鬼界ヶ島へ残党討伐に派遣されたりしているのである。平家は亡んだが平家はまだ生きていたものと観なければならない。  古典平家の「大原御幸」のくだりは、全文が荘重な仏教音楽であると思う。──祇園精舎ノ鐘ノ声、沙羅双樹ノ花ノ色──に始まった書き出しからの物語をここで結ぶ一大文章供養の文といってよい。  だからストオリーはなにもない。女院と法皇の関係も、侍者とのあいだも、仏者的口吻の聖教そのまま、つまり原作者の該博な仏典の演繹と、長恨歌や左伝春秋などに影響された文体そのもので終わっている。いやそれなるがゆえに、当時の読者をして魅了し随喜させ、その音楽的幻想のうちに、一般の仏教至上思想をも昂揚しながら、見事に、巻を閉じさせてしまうのである。  大手腕だと思う。古典の真味だと思う。凡手の及ばぬところと思う。けれど余りにも現代に通じるものが少ない。そのままを現代語にしたら、現代の眼は、反撥すらするであろう。そして古典のよさは、霧散される。そのよさを味わうには、註釈を頼っても、古典そのものに就くしかないのである。で私は、大原御幸の事実のみをとって、私なりの見方と小説構想とを恣にした。といっても、この回ではまだ、読者の批判に供えるまでにいたっていないが、麻鳥や、義経の影や、伏線的テーマと共に、次回ではもっと大胆にそれを書いてみるつもりである。  きょう辺り出版局の人が、単行二十二巻の見本を持って、東京から来るかもしれない。一巻を重ねるごとにわれながら意外に長くなったものと思う。あれは何年の正月だったか、高田保氏の病窓を大磯に見舞ったとき、保ちゃんが病床から「新・平家は、何年ぐらいの予定?」と訊くので、およそに答えたら、突如、病人がその頬を紅くして「それっぱし書いたって君、あれがまとまるもンか。どうしたって六、七年は書かなければだめだよ君。……ねえ、少なくとも五、六年は腰をすえなけれやア」と、そばにいた人にまで同意を求めてぼくを鞭撻した。彼はその春逝ってしまった。一巻を加えるたび、彼のそのおりの言を思い出さずにいられない。「どうだ、ぼくの予見はあたったろう」と、今ごろは地下で誇っているような気がするのである。  ゆうべの仲秋名月は、雲だった。信州では今、一茶の百三十年祭が行われている。有名な「信濃では月と仏とおらが蕎麦」という句は、あれは後人の偽作だそうだ。一茶遺集のどれにも見当らず、おかしいと、一茶研究家から疑われている。だが、偽作にしては、すこぶる上等な方であろう。  もう軽井沢も、夏場のそれではない。町の商店もみな閉まってしまい、撤退した植民地の切れっぱしのようだ。いや原住民の灯と落葉は、中山道軽井沢の宿である。原住民のほかに、喪家の犬もいる、わが家の灯一つを見て、近所の犬が、朝晩台所へクンクン飢えた鼻をならして来る。いつか池島信平氏が、日本の位置と、軽井沢の犬とをむすびつけて、名文を書いたが、毎年の寒さをまえに、この喪家の犬たちと別れるのがなんともつらい。  人がいなくなってから、高原はほんとうに高原のよさを見せてくる。窓のつい先に、栗鼠が姿を見せ「もう、原稿はお出来?」と時々覗きに来たりする。花すすきの間から、雉子の親が、たくさん雛をつれて、餌をあさりに、朝夕漫歩しに出てくるが、香屋子の声ぐらいでは、逃げもしない。  けれどそろそろ冬じたくが要る。炬燵までは用意していない。台所の者は、もう都恋しいのだろう。片づけ物の荷拵えというと皆、元気がいい。百日足らずの山住居でさえ今の都会人はこれだから、建礼門院たちのわびしさなどは、いかにあのころでも、言語に絶するものがあったに違いない。 運送屋来てこほろぎに家明け渡す  自分のわびしさといえば、句にしてもこんな程度である。だが、これも一茶さんには及ばない。いや偽作の方にさえ遠く及ばないようだ。(三一・一〇・一四)        *  新春の感は、おめでとうが先に立つ。たれがどういってみたところで平凡になる。だが、年越しとか正月とかは、今更ながらの平凡を改めて感慨してみるところに、むしろ必要と新鮮があるともいえよう。▼年暮は忙しく、正月はくだらなく腹をこわすだけだ。そんな取澄ましをいってもおかしくない年齢へ私もいつか来ている。ところが暦の行事や、世間の色めきを、妙に私は愉しく感じる。そして年々、平凡な感慨に遊ぶ。たとえば、後悔の数々。見ぬ夢のあれこれ。昭和三十二年はどんな年になるだろう? などと。▼今年は明治元年から、ちょうど九十年目になるという。こんな平凡なことに私は驚く。「たった、それしか経っていなかったのか?」と怪しむ。長命な一個の人の一生にすぎないではないか。▼桑畑のそばで生まれたお婆さんなら、まだ桑畑の見える縁側で糸をつむいでいるだろう。だが、歴史の日本は、と考える。愕然とせざるをえない。▼西遊記の孫悟空ほど、人をがっかりさせるやつはない。一気に十万里を駈けたと誇る。ところが、オイ頭を冷やせよといわれて気がつくと、一菩薩の手のひらの上を駈けていたに過ぎなかったという、あの話だ。どうもいけない、悟空というやつは、人間に似過ぎている。▼もひとつ、いけないのは、人間はことごとくみな、この私に似過ぎている。私も悟空の一人だ。糸をつむぐお婆さんの一生は、ひとごとではない。何か働いて来たような自負を持ってはみるが、じつは手のひらの上か、依然、桑畑の見える縁側にいたのではないか。  清盛、頼朝、義仲、義経と、源平半世紀の象徴の中では、義経がいちばん書くに捉え難い。壇ノ浦までの彼と、後半の彼とでは、意気進退、別人の観がある。▼静も見すててまでの、あの亡命潜行一点張りは、何が目的だったのか、本心なのか。▼これまでの史家の義経論も、そこを、こうだ、とまでは明らかに究理されていない。第一に史証が少ない。ただし、私の場合はむしろ空想の広場ではあるが。▼フィクションと推理に立つ史観とは自らちがう。義経を利用しようとした動きが院や失脚公卿にあったことは事実で、彼が権門の利用から遁れようとしたというのは私の想像である。▼先ごろ、これは私の空想だと「筆間茶話」でも断って書いたことに、読者の方から、イヤ空想ではない根拠がある事実だといって来た逆な例もあった。第三三一回の「非情有情」の章である。▼静が鎌倉で産んだ子は、男子であったため、頼朝が、これを殺させたことは吾妻鏡にも〝──台命ニ依ツテ由比ヶ浜ニ棄テシム〟とあるので、ちょっと、うごかし難い史実と取れる。けれど、私は私なりの解釈の下に、安達清経が、じつは、人手に渡して助けたとして書いた。▼すると、宮古市の佐々木勝三氏(郷土史家、特に義経亡命の研究家)から長文の史拠とともに「義経と静の仲の一子は、殺されていない。東北の一隅に長らえていた。だからあなたが自分の空想だと断っているのは間違いで、その空想は史実と一致したものです」と、わざわざいってよこされた。  義経の蝦夷亡命説や、義経ジンギスカン説などは、以前、その是々非々で、史学界を賑わしたものである。だが、静の子の生存説は耳新しい。その要点だけを記せば。▼──義経の一子は、密かに、佐々木四郎高綱の許で育てられ、左兵衛義高となって、後に、岩手県閉伊郡田鎖の領主となった。そして文永四年の八十二歳まで生き、歿年から逆算すると、生まれ年は、ちょうど、文治二年静が鎌倉へ召された年に当り、その点、全く符合する。▼さらに、当地方の郷土史から豪族系譜を拾ってみると──「田鎖殿ト申スハ、九郎義経公ノ御捨テ子、佐佐木四郎高綱、密カニ養育シテアリシヲ、後、高綱、世ヲ恨ミ申ス事アツテ、実朝公ノ御代ニ高野ニ隠レ居給フ、コノ時、内裏ヘ彼ノ若君ヲ伴ヒテ参内、仔細ヲ申上ゲ、奥州閉伊郡ヲ下シ賜ハル也、閉伊郡ハ内裏御領ノ内」と見える。▼また「多久佐里系図」にも、以上のことは立証されており、傍証としてなら、なお、九州の臼杵党や尾形党の分族が、当地方に移住しておることなどもあり、種々研究に足る史料は少なくない。いずれにせよ「静の子は死なず」といってよいと思う。▼あらまし、右のようなお知らせだった。真偽はともかく、新春の一茶話には、値しようか。まだ御返書もしてなかったので、ここに同氏の好意も併せて謝しておく。  この回の「御室左右記」は、もちろん私の創作だが、仁和寺宮と義経との関係が、かく浅からぬものであったことは本当で、そのことは空想ではない。▼じつは、宮の歌集「北院御室御集」の内から、義経に与えた別離のお歌としておかしくない一詠を拾い、描写の扶けとする構想でいたら、手許にあると思っていた歌書がない。考えてみると、群書類従で見たのである。ところがその群書類従は、正続二百冊という厄介物なので、東京へ引っ越しのさい、吉野村の家の書庫に置き残して来たのだった。▼それで思い出されたのは、亡友三上於菟吉である。これも正月のことだが、赤坂の料亭で、史話猥談チャンポンの果て、「君イ。勉強はお互いにしようよ。ひとつ年頭の約に、群書類従の第一巻から順に、どこまでつづくか、君と読み競しようじゃないか。そして、時々会って、飲みながら論じるのさ」と、まるで試合を挑むような眼をしていう。▼もちろん、よしと私も約束した。何十冊まで読んだろう。三上に会うと、「君、読んでるか」「読んでるさ」彼も後悔はしていなかった。しかし彼の記憶力はじつによい。私はそらんじる脳力が零に近い。「やめたらしいよ、あいつ。参ったんだぜ、吉川は。ククク」と、たれかに誇り笑いしたそうである。▼私とて、飛ばし読みにでも、読業は続けていたのだが、彼と出会えば、酒は徹宵ときまっていた。私にはその方が続かない。一度など三上から揶揄の再挑戦状まで舞い込んで来たが、参ったことにして、その後、つい約束は御破算にしてしまった。▼「北院御室御集」のうろ覚えが今なおどこかに残っていたのは、その時、三上に挑まれたお蔭だった。なつかしい友の一人ではある。  ちと旧事だが、十一月半ば、菊池寛の郷里の四国へ行った。高松市民協賛の下に氏の銅像が建ち、その除幕式に出たのである。▼胸像ならいいが、文士の銅像はちとどうか。それに、あの風貌だったしと、幕を払われるまでは、不気味だった。ところが現われ出た故人は案外スマートなので、ほっとした。▼「君イ、ぼくが知ったことじゃないよ」と、空うそぶいている姿だ。花火があがる。これからはまた、毎日、観光客にも取巻かれることだろう。銅像は自分でイヤな顔もできないし、苦笑も出来まい。やれやれ災難だなアと、当人の気が察しられた。▼人は知らず、いったい私は、碑とか銅像とか、すべてああいうものは好きでない。理由は、腐らないからだ、風滅しないからである。腐化する生命の方が私には好ましい。すべて消えてなくなるものが美しいし、いとしい。花だってそうだ。平家だってそうだった。  ▼名古屋では、杉本氏のアトリエの新築が成ったので、それかたがたお伺いしたのである。そして「新・平家」初期からの内助の内助をしてくだすった奥さんと母堂にお礼のいえたことが、私にもうれしかった。▼杉本氏の新平家画帖の下巻がそろそろ準備されている。また、第七巻までを英訳された「新・平家物語」もクノップ社から歳末出版された。出たばかりなので海外における外人読者の感想はまだ聞いていない。▼私事と恐縮しながらも、つい書いてしまうが、「新・平家」を書き出す前にはいなかったわが家の末子の香屋子が、今春はもう慶応幼稚舎の一年生に入る。もし誌上の第一回から今日まで、ずっと続いて読んでいてくだすった読者があれば、御自身の周囲にも、かえりみて、定めし多くの感慨がおありであろう。▼ぼく自身はと問われれば、年頭、こんな句がたった一つ頭に泛んだのみである。(三二・一・六) 梅が香や四十初惑と思ひしに 新平家雑感 清盛という人間  源氏物語といえば、ただちに筆者の紫式部が連想され、平家物語といえば、作中人物の清盛がすぐ連想にのぼってくる。二つの古典の性格の相違は、二た色の連想のとおりな違い方にあるとおもう。  今日のような文学分類から、古典源氏を純文学というならば、平家は原典からして、よほど大衆文学的である。庶民感にも親しみうる「人間群物語」といってよい。  清盛は、源氏物語的な平安朝の鎖国主義を開放した国際主義であった、といったら、へんに思う人もあるかもしれないが、事実なのである。古典平家には、彼自身が入れた宋大陸の文化や考え方が、もう多分に影響していた。  宇宙の不変、人間宿業の極まりなさ、その中の歓楽と悲哀などを描いて、主人公もなく、ただ「時の流れ」を主題としているなど、この作品のスケールの雄大さと、構成の仕方は、よほど大陸文学じみている。日本人のあたまから出た古典として、平家ほど、大陸的風貌をもった作品は、ほかにない。  古典平家も、私の「新・平家」も、主人公を清盛ときめてはいないが、読者は自ら「人間清盛」を主題にもつ。  ところが、史上、清盛ほど、今日まで損をしてきた人はない。彼ほど、間違われっ放しで、極悪無道の太政入道と思いこまれたまま、不審ともされない人物もまた稀である。これは、古典平家を初め、保元記、平治物語、吾妻鏡など、すべての筆者が、みな鎌倉期に書いたものであるという一事だけで、理由の説明は、充分につく。  要するに、清盛もまた、勝者が敗者を書いた歴史によって、後の概念を作られていた。長い間の民衆も、自ら持った歴史に拠らず、持たせられた歴史を先入観としていたのである。  かつては、教科書も、そう教えていた。今でもなおたれもが、清盛を、一代の悪業のため死のまぎわまで、大熱にもがいて、地獄の迎えをうけたという「浄海入道」や「太政入道」をすぐ連想するのも無理ではない。  神戸市に一笑話が残っている。神戸港は平安朝時代に〝大輪田ノ泊〟といった荒磯である。  清盛は、港をきずき、宋貿易を開き、また世に福原遷都といわれる都市計画を実現した。  だから清盛は、神戸開港の恩人であるとして、昭和八年かの神戸市主催の「みなと祭」の仮装行列には、第一に、仮装の清盛を先頭に立てることにした。  ところが、清盛と聞くと、たれも逃げて、なりてがない。ようやく、青年団を前に、郷土史家のO氏が、人間清盛の史的誤謬と、一般の先入観のまちがいをるる説明して、やっと清盛の扮装者を得たなどということがあったとか。  現存の諸寺にある清盛の肖像画に見ても、清盛は豊頬なる美男子であったらしい。長門本平家物語には「姿も優に人すぐれて、心ばえも賢かりけり」とある。  白河天皇のかくし御子であったといわれ、生母はその寵姫である。彼の子弟には、貴公子風の文化人が多い。九人の子女はみな傾国の美や佳人の園生であったという。  ただ、藤原氏だの、後の源氏に憎まれたことは一通りでない。つまりきのうの敗者からしっぺ返しをうけたのである。  従来、清盛を書いた小説としては、私の寡聞では、明治四十三年千代田書房発兌の山田美妙氏の平清盛があるだけではないかと思う。  これには、忠盛の病死前後は、貧乏で医師にも来て貰えなかったとする彼の伝説的な挿話が主題になっている。史実的には拠るところのない美妙氏の創作である。しかし清盛の一面観には、古い概念を破って、一般の矇を破っているところがある。  ──話がちと飛躍するが、この山田美妙著の平清盛を、私の亡父が、愛読していた記憶がある。  長年の病床にいた私の父は、美妙斎の平清盛を読んで、「……清盛にもそんな時代があったのかなあ。そんな人間だったのかしら」と、しきりに読後感をもらしていたそうだが、それから七日ほど後、突然、病勢が変って亡くなったのである。  その数日前も、亡くなる前の夜までも、私は悪友と悪所を遊び歩いたりしていた。だから後では慚愧にたえなかった。おまけに、母の話によると、父は亡くなる数日前に、「いったい、英次というやつは、あんなふうで、今にどうして食べて行けるだろう」──沁々それだけが心がかりらしく、母にいっていたというのである。  つい、つまらないことを書いてしまったが、こんな往年の慚愧も、私が、「新・平家物語」の起稿を胸にもった目に見えない契機の一つにはなっていたかも知れない。「この書を亡父に捧ぐ」というような白々しいことはいえないが、ぽっちりそんな凡情が今、わかないでもない。そして私は、いつか亡父の歿年をも過ぎた年ごろになっている。 父の袷いつしかをかしからず我れ  思えばよく社会から食べさせて貰って来、またなおこんな著業にかかったものと自嘲される。平家的な宇宙観からいえば、この書もまたうたかたの書に過ぎないかもしれない。しかし、平家源氏のあとを見ても、結局、人間宿業の子は宿業の限りを尽してみるしかあるまい。雀百までの愚を思わないではないが、「新・平家物語」の完成に、あえて、また老骨を机に屈めこんでいる気もちは正直それに尽きている。(昭和二十六年六月) 古い鏡と今日の顔  この二巻「九重の巻」では、作中人物の清盛も、だいぶ大人になってゆく。  清盛という人間──への清盛観は、前号の栞にも書いたし、週刊の〝新・平家今昔紀行〟でも書いたが、そういう作家的な考えと、歴史の見方にもとづいて、彼を性格づけたり、風貌を彫りこんでくると、もうこの清盛は、ぼくが書いていながら、ぼくの自由にならない一個の見えない生命になってくる。  彼には、彼自身でなければ左右できない意志があり、理想があり、運命の選択がある。──小説構成の都合などで、強いてそれを歪めれば、ぼくの仕事は、自分で造った彫像を自分の鎚で砕いてしまうのと同じ結果になってしまう。  ひとり清盛ばかりでなく、文覚でも西行でも、悪左府でも忠通でも、また義朝や新院の君でも、みな同じことがいえる。  その人々には、その人々自身が書いた日記があったり、従来の歴史家が精査した史録というおのおのの履歴書もついているわけである。ぼくはそれを無視していない。すべてを鉄則ともしていないが、軽視もしないですすめている。そこでむずかしさは二重三重になってゆく。じつに先が長ければ長いほど、長篇小説の構成には、初期に考えられなかった複雑なむずかしさが生じてくる。  校訂のゲラ刷も、毎巻、さいごの〆切まで、つい机に溜めて、朱筆の迷いに苦吟してしまう。限りもなく書入れや書直しがやりたくなるのだ。けれどこういう長途な創作の構想は、工事中にある建築と同じで、うっかり部分的な柱とか棟木だけの差し代えはできない。窓一つでも後からではどうにもなりかねる。毎週毎週、一稿ずつを週刊朝日の編集部へ送っては積んでゆく累層なので、そのたび良心はつくしているつもりでも、こう単行本となる前のゲラ刷を再校訂しながら、自分を離れて自分の仕事を客観してみると、やはり悔いがのこらないわけにはゆかない。なんとも才能の不足を嘆じてしまう。せめてもっと健康と時間が欲しくなる。林芙美子さんじゃないが、業だなあと思ってしまう。  作家の仕事を業だといった人は、横光利一氏があるし佐々木味津三氏もまいどいっていた。生きている友人もまま自嘲的にいうことである。だが、どこかに〝業の魅力〟があることにはちがいない。ぼくのばあいも、こんな大きな仕事は確かにくるしいが、けれど、くるしい以上に、おもしろくもある。眼がさめるから起きるまで、「新・平家物語」があたまの中でタイムを刻み脈搏をうってゆく。古書や雑書の中に埋もれているときも、ラジオのニュースに耳をかしているときも、応接間の客と雑談しているあいだも、何かの繊維が、あたまの中の交織機に織りこまれ、それが一週間ごとに、一幅の布地になって机から離れてゆくことは、大げさにいえば、つい寝食も忘れてしまう楽しさである。  運動不足からつねに健康を害しているが、その愉悦をつつがなく続けてゆきたい欲望にもえるので、近ごろは、食味にたいしても、理性のままに、禁欲ができるようになった。ほかのいろんなことにも、この仕事を完成するためにはと思うと、禁欲が平気でできるようになったが、ただ一つ、禁煙だけは、どうにもできない。反対に、忘我の時間が多いせいか、徹夜などすると、夜明けになって、以前よりひどい机の灰とあたりの吸殻を発見する。  つい自分のことばかりいってしまった。ぼくのほんとの希いは、こんなことにあるのではない。ぼくは自分が高い文学者でありたいなどと思ったことはない。ぼくの机は庶民の中にあるものだ。庶民なみの一市民であればたくさんである。そして希うところは、この仕事が、この書の一冊ずつが、読者の何かになって欲しいことだ。読者にとって、せめて、読んでむだでなかったという書物ではありたいと思う。  Y社の文化欄に、ぼくの「歴史小説観」を求められたが、問題が大きいので、わずか四枚では書けもしない、と終わりに書いた。じっさい、その中の一項目でも、みな一課題として、考えられることばかりだ。  たとえば。──なぜ進歩的な科学社会に、このごろのように古典が求められたりするか。  また、現代人はここ十数年の烈しい歴史の中を生き通って来たために、歴史の表裏を、眼にも見、身ぢかにも体験してきた。その結果よく「本当の歴史はわからない」という懐疑に陥ちている。では、かつての歴史はどうなのか?  それから、幾世代にもわたる史界の権威が、決定づけてきた研究の結晶と、学界の累積とは、そのままで、歴史としての、これからの使命を、国民の中に、よく生かされてゆくだろうか。文芸家の視野からそれを観たばあいの問題などもある。  そのほか、現代人の生活と歴史小説とのつながり。歴史の空白を埋めるものは文学のほかにありえないということ。小説と史実との扱い方。なお、歴史観に伴ってくる当然な宇宙観が現代人のもつ思想へどういう影響をもつかなど──分解してゆくときりもないほど〝歴史小説〟という仕事には、種々な宿題がふくまれている。  もっと、端的な問題としてみよう。  読者にとって、はっきりしていることは何か。  おもしろいこと。そして、事実を知りたいこと。そう二つであろうと思う。  読書の仕方は、百人が百人、同一ではない。また、人それぞれでいいものだ。読み方の註文などをつけられてはうるさいだろうが、ぼくの希いを、一つだけ加えてみる。それはこういうことなのである。 〝──自分の新しい顔を、もう一ぺん、古い鏡に映してみる〟  ぼくの歴史小説観も、書く意図も、苦しさも、また、おもしろさも、一語にいえば、じつはそれに尽きている。(昭和二十六年七月) 出家の話      清盛の剃髪と尼のさまざま  清盛は晩年に出家して入道となっている。一般の先入主では、平太清盛だの、大弐清盛だの、参議清盛などと時代別に呼ばれるよりも浄海入道のほうが通りがいい。太政入道といえば、いかにも彼らしい。  週刊朝日誌上の杉本氏の挿絵には、まだ入道浄海が現われないが、おそらく入道頭を幾つも描いてみては、苦吟しているに違いないと思っている。従来のかたき役たる悪入道を描くのなら易しいが、「新・平家物語」では、彼はさような入道でないことになっている。既成仏教の迷信を嫌い、気がよくて、情にもろく、しかも国際的な雄図も抱いているという坊さん頭である。画家も描きにくいことだろうと思う。  いったい、あのころの「出家」というのは何なのか。  平安朝歴史の群像は、出家の展列といってもいい。主要人物はみな出家してしまう。男女のべつもなくである。可惜な美人も、ややもすれば髪を下ろす。そして女院となり、禅尼となり、あんなに恋も自由な世に住みながら、色香を惜しみなく捨て去ること、余りにも、いさぎよい。  出家、遁世、入道、授戒、ことばは違うがみな同じことである。違うのは、人間各自の内容である。ひと口に入道といい、出家といっても、その思想や生活は、ひどく違っていた。  ほんとの求道や、山林幽谷に余生を托した修行者といったような沙門はごく少数であった。そういう人生と道への精進が至難であり、凡人のよくなし得ないことは、その時代の人々といえども、現代人の解釈と同じ程度にわかっていた。  多くは、俗生活を宗教色に染めて、後世安穏を願い、現世の艱苦を、仏いじりで忘れようとしたに過ぎない。もっと重大なのは、寺院は、現世生活から離脱した人々の入る所ではなくて、むしろ、そこへ隠れ、そこの関門の内から、現実社会へ働きかけようとした人たちに利用されていたことである。  だから、叡山といい南都といい、教団の中の生活も、じつはそうした人々が持ちこんだ現実社会の一部で、なんの別世界ではなかったのだ。それを〝法の御山〟といい〝名僧智識の家〟と見るので、複雑が増し、奇怪な山法師の行動にも見えてくる。  政界に失脚したり戦いに敗れた者などが、出家の形をとって寺院に慎むが、もちろん方便もあるから、すべてが心から名利を断った者と見るわけにはゆかない。  失意、失恋は、よく動機となっている。「蜻蛉日記」「更級日記」「堤中納言物語」などに扱われている女性。また源氏や古典平家のうちの出家を見れば、すべての女性に女性の落ち行く先が共通している。  そうした女性や公卿たちの庵を訪ねあるいた西行法師の「山家集」から拾ってみても── 「世をのがれて、山寺に住み侍りける親しき人々」といい。 「ある人の、様変へて、仁和寺の奥なる所にあるを」「ある所の女房、世をのがれて西山に住むとき……」「ある宮に仕へ侍りける女房、世にそむきて、都遠くあるを」などと、いかに夥しい女性が、ひとつ形をとって暮らしていたかがわかる。  権門の梢に一生を托して咲いた花々は、当然、その幹が、権勢の闘いに仆れると、梢からふるい落とされた。興亡が散らした〝落花の女〟を、西行はあわれと訪ねていたのである。  西行のような出家こそ、出家の真実を意味するものだろうが、あれまでの真実に徹しようとした者は、暁天の星といってよい。 「出家する者の第一の苦しみは、愛する者の涙に打ち剋つことだった」  と、藤原全盛期の歌人四条公任はいっている。周囲の恩愛に悩んだ公任の出家は、歌人だけに西行と一脈どこか通じているものがあった。  歓楽のあとに哀寂多しで、「栄花物語」的な絢爛な世代の反面に、そうした現実とは両極端な無常観や世を儚む考えがびまんしていたのは自然である。恋愛にしても、余りに自由な愛欲は、悲哀を伴い、色即是空の思いを誘う。  さまざまな恋の形と、その恋ざめや破れから出家する男女を、当時の物語は書いているが、ただ情死だけは見あたらない。心中は仏教思想の所産ではない。  仏教芸術は、貴族生活の殿堂と、ほとんど一つもののように融和した。堂塔を建築して、寺院をそのまま家として住むがゆえに出家したような出家は、貴族社会の慣いでさえあった。法性寺関白、河原左大臣、宇治の平等院など例は枚挙にいとまもない。  剃髪はしないが、平ノ重盛などがそれである。自邸の内に、東西南北各十二間の堂宇があり、四方四十八間に十二光仏をおいて、一像ごとに長明燈籠を懸け、これに美女四十八人を選んで、その一人ずつに昼夜、油を添えさせては、夕になると鉦を打ち今様を歌わせて重盛はその中央に坐してそれを聞いたという。  死後の幸福を祈る、いわゆる欣求浄土の思想で、貴族宗教の代表的なものといってよい。  総じて、それらの思考、風俗、習慣などが、そのまま平家時代にも流れていた。平家物語のうちに出てくる男女の出家は、みな前時代の遺習を継いだものといえよう。──西行、文覚、池ノ尼、待賢門院、信西、為義、妓王妓女と仏御前──なお先々には小督の局、康頼の出家、滝口と横笛の出家、維盛の出家、建礼門院の出家など、かず限りもない人々を見る。  中で、文覚の出家は、異色である。文覚の行き方は「今昔物語」などが語っている〝持経者〟──つまり大峰や那智や高野などの深山幽谷を、修行の道場とした一群の仏者と性質が似かよっている。  こう見てくると、上は法皇、親王、女院から下は家なき流浪者の中にまで、出家は行われた。その頃の狭斜の街たる妓院(遊女、白拍子のおき屋)の主にさえ、禅尼と呼ばれる者がいた。義経の愛人、白拍子の静の母は磯ノ禅尼であった。  こういう社会なので、清盛も出家した。彼が浄海と法名をつけたのは、あくまで〝海の平氏〟たるを誇りとし、海に志があったからにちがいなく、剃髪の動機は、五十一歳の春の病気からで、ほかに何を悟ったわけではない。ただ風俗に従ったまでである。  彼の非凡さは、上下唯仏の中で、平然と、仏毒の害や迷信の矇を知って、仏教一色の思想から超越していたところにある。清涼殿や各寺院などで、よく旱魃のために雨乞いをしたりするのを、彼は大いに笑っていた。  晩年、彼が南都の東大寺を焼き払ったことなども、後世、信長が叡山焼打ちをやったのと同一筆法で、乱暴といえば乱暴だが、そこにはもう真の〝仏法〟はないことを見抜いていた。それゆえ平然とできたのだ。自身、出家の姿をとりながら、衆生の中の無数な出家と、寺院社会の徒にむかって、迷信打破の鐘を打ち鳴らした者といえば、浄海入道ただ一人であったのである。(昭和二十六年九月) 机のちり  第四巻「六波羅行幸」の最後の校訂をいまやっと終わった。  週刊朝日に連載された上、やがて単行本となるまでの経路に、私の手許でやる校訂だけでも三回にのぼり、社の校閲部の手にかかることも幾度かわからない。おそらく前後七、八回から十回ぐらいの校正は経ているものと思う。その都度のゲラ直しには、誤字、誤義ばかりでなく、史実上の註考もされたりしているのである。おかげで、定本に近い完璧なものを書架にお送りすることができているかと思う。  ──にもかかわらず、後から私自身の誤りに気づいた点も幾つかある。  たとえば、こんな例もある。西行法師の若年の俗称は、佐藤兵衛尉義清であるが、史料まちまちで、別書には、則清とも見える。義清か則清か、正確な判定に困ったが、私は調べあぐねて、義清を取り、それで通して書いて来た。  ところが、先ごろ、私が入手した西行の古筆の横幅には、西行自筆の一首の和歌に「のりきよ」と明らかな署名がある。ふつうあの時代の物には署名のある例はほとんど稀れだが、これは平家古写経の研究家田中親美氏なども観ておられて確かな西行の筆蹟だそうであるが、それに「のりきよ」とある以上、義清でないことはもう異論の余地がない。  これなど、分明した時には、もう第一巻が刊行された後だった。他日には改めたいと思っている。  ついでに、西行のその筆蹟の用紙だが、春宮大夫範光という人から来た手紙の反古裏に書いたものである。紙を極度に大切にしたあのころには、人から来た手紙の裏に、すぐその人宛ての返辞を書いて送り返している例がままある。今ならずいぶん失礼な行為といわれるにちがいない。  秋のデパートの古書籍展で、平家関係の古書籍を漁っているうちに、古い水彩画家の中沢弘光氏が描いた「平家物語帖」と題したものに、与謝野鉄幹氏が序文し、晶子女史が小色紙二十余枚に、平家を歌った合作帖を見出した。これは史料にはならないが、晶子女史には、生前、辱知の御縁もあるので、偲び草にもと、求めておいた。  鉄幹氏の序文も、晶子女史の平家の歌も、会場では、よく読みもせず持って帰ったが、後で一覧すると、なかなか興趣がふかく、特に、私が小説として「新・平家物語」を書く気になった意図と、鉄幹氏の序文の平家観とに、一つの共通点もあって、うれしかった。  氏の序文のままを、ここに借録しておく。  祇園精舎の鐘の声と打出したる平家物語を一貫せるは、悲劇の調べなり。世は移れども、人間栄華の執着に伴ふ憎悪怨念の陰影は、千載のもと、ます〳〵深刻を加ふ。大正の詩人と画家とが、この一巻を作れるもまた、之によりて、自家心中の平家物語を描くものにあらずや。   人の世のこのことわりのかなしさよ   憎まずしては愛し難かり  恨むらくは、驕るもの必ずしも亡びず、正しきもの必ずしも栄えず、この道理の顛倒をいかにかせん。之を思ふとき、吾等の悲哀は長しといふべし。   新しき心をもちて悲しくも   平家の人のごとくたゞよふ   世に住めど大原山のこゝちして   淋しき花をひとり摘むかな 大正八年暮秋 与謝野寛  とある。どこか、終戦後の世相人心にも響いて来るものがあるではないか。大正八年ごろといえば、日本も最全盛期であったといわれているが、やはり詩人は早くから今日の日本をもう憂えていたのである。  この栞に、大谷竹次郎氏も書いておられたように、「新・平家物語」の劇化は、大谷氏から早くに御相談をうけたが、私に註文もあり歌舞伎側の都合もあって、演舞場の秋の〝東をどり〟の方が先に上演を見てしまった。まり千代の清盛と、小くにの常磐が異色あるものとして、秋の舞踊界ではヒットしているようである。また、映画化のことも、よく報道されたりするが、私としてまだ肚はきめていない。大映からちょっと下話はあったが、考慮しようというだけで、確約はしていない。  どうして、劇化や上映の企画に、自分がそう二の足をふむかといえば、この長篇を完成する途上において、一筋に書く以外の雑事や伴奏に余り煩わされたくないからである。なにしろ私には、「新・平家物語」の最後までを、思うように書き上げるということは、一生仕事であり、千里の旅の思いがする。  陽明文庫の秘庫にあって、多年公刊も私見もゆるされなかった近衛関白日記の全部がやがて何らかの方法で世に出されるだろうということが新聞に報道されている。  あのうちには、藤原道長以来の、そしてこの「新・平家物語」の三、四巻のうちにも自分が書いている保元、平治にわたっての未公開な史料も多分にあるはずと思われる。これを書いているうちにその刊行に接しられないのを残念に思った。  この晩秋、杉本画伯は、平泉の中尊寺へ画材を探りに出かけた。自分は平泉地方は十年ほど前にてくてくひとり歩いたことがあるので今度は行を共にしなかった。来年は飛騨白川から裏日本の平家部落や、また有名な九州五箇ノ庄だの椎葉などへも行ってみるつもりである。生々しい新史料を発掘するなどということは望み得ないが、そういう地形と平家流亡のあとをたどって歩く間ほど、いろいろな空想や創作欲を呼び起こされることはない。 「新・平家物語」のさいごの場面は、やはり壇ノ浦ですかとは、よく人に訊かれることであるが、自分の今の考えでは、壇ノ浦以後、椎葉山中のような平家村の生態までを、そしてある一時代に、平家文化を咲かせた人間の集団と大自然との融合までを、心ゆくまで、書いてみたいと思っている。そういう際涯のない考えなども、各地の平家部落など訪ね歩いているうちに、自然、自分の胸中に落想されてくるもので、われながら、時には、自分の欲望と構想の果てなさを、余り丈夫でない肉体と一しょに、持て余してしまう思いがする。(昭和二十六年十一月) 折々ぐさ  第五巻「常磐木の巻」は、平治合戦直後から二、三年間の洛内の出来事が主題である。清盛が四十三、四歳という年齢期にあたっている。  常磐と清盛の関係。西行のさすらい。二条天皇の恋。悪源太と金王丸。文覚と麻鳥。蓬子と明日香──など、そういった上流下層の人々をもふくめて、著者は、洛中洛外にわたる戦後の社会図を描いてみたつもりだ。けれど、読者の心々に、これを人間清盛伝の一部と看られるもよし、一連の障壁画を眺めるがように読むのも一つの読み方であろう。また、他の個々の人物なり事件をとおして、過去と未来につながる〝時の流れ〟のふしぎさを、その微妙さを、一篇のテーマと見てゆかれてもさしつかえない。  第一巻「ちげぐさの巻」の書出しからこの巻まで、平安朝末期の約四半世紀を書きすすめて来たわけである。以後六巻からは、平家全盛期と、源氏の雌伏期へはいってゆくことになる。私の著業の旅はまだ遼遠だ。新年の正月は越えたが、著業のやまは越えた気もしていない。  この新春、読者からの年賀や手紙のうちには「新・平家物語の完成のためにも健康に注意するように」という御好意がよく書いてあった。中には、富山の一読者として、「貴君の生命だがまた、貴君だけの生命でもない」という手きびしいのもあった。いたわられたのか、叱られたのか分からない。  よくよく考えてみると、週刊朝日新年号に、ぼくと編集子との〝新・平家対談〟が掲載され、あの中でぼくがすこし健康上に心細いことをいっていたので、その結果の御鞭撻とわかって、大いに恐縮した。けれど、じっさいは、起稿当初の一昨年辺りよりも、現在のほうが健康なのである。いつも苦吟して、難路をよじ登っている状態の方がどうもぼくの健康にはよいようである。その代りこの「新・平家物語」が完了したら、一夜に白髪になりそうな気がしている。  依然、諸子からの史料の寄与や郷土報告や、書中の寸誤についてまで、熱心な御注意が絶えない。再版のさい訂正のできる点は訂正したり、また機会をみて、それらの寄書を一括に発表させていただくのも面白くはないかと考えているが、なにぶん、週刊誌上へ一週ごとに原稿を書き送っている間は、それらの物も整理しているいとまがない。今は、おりおり、ここでお礼をいうにとどめておく。  史料のせんさくとか、考証の抽出などは、専門家の助手でもそばにおけばよいだろうに、といってくれる人もある。ところが、それを自分でしているうちに、雑書や史片の間から思いがけない発見と、想像の合理性なども見出すのである。ぼくの書斎生活は、そのほかにも非ビジネス的なものに満ちているとは知っているが、どうにも訂正ができないし、また訂正する気もちもない。  死んだ林芙美子氏が、あるおり「ねえ吉川さん、作家の道って、やればやるほど、孤高の道ね」と、その孤高という一語へ、感傷をこめてつぶやいたことがあったが、孤高ならずとも、ぼくらの仕事は、孤行と精進とのほかには、道のないことはたしかである。  健康も、余りに健康すぎては、かえって、机の仕事にはいけない、というような変則はぼくばかりでなく、作家たちはよく笑いばなしにいうことである。どこ一つ体に悪い所がなく、快適極まるといったような好条件な時は、自然、机の苦業百尺の下へ、われから心身を沈めてはゆけないらしい。体は悪い程でもないが、どこかバランスがとれていないといった程度の一病はあった方が、どうも机の主をして机に没頭させる鞭撻にはなるように思われる。  青年期の清盛、四十台の清盛、晩年の清盛と、およそ三期にわけて考えてみると、彼もまた、生理的年齢の段階にしたがって、その言行から人間までが、だいぶ違って行ったのではあるまいか。  清盛ばかりでなく、伝記上の一個人の間を通観するばあい、外形や周囲の情熱だけでなく、その者自体の成長から初老をこえてゆく内面の生理的変化も観てゆかないと、わからないことが多い。たとえば、明智光秀のような武門中の文化人でもあり悧巧者でもあった人間が、なぜ三日天下のようなばかをあえてやったかというようなことも、四囲の史的条件だけでは判断がつかない問題である。光秀の健康診断が始めて謎を解くものだとおもう。  入道相国となって後の清盛にも、ずいぶん解き難い事件や言動が多い。そうしたあいまいな問題は従来すべて〝天魔のごとき悪入道殿〟の所業ということに帰して、たれもふしぎがらずに来たのである。だが、今度は彼の悪業といわれる黒白もその性格の本質も、充分に書き究めてみたいと自分へ期している。  今度はといった意味は、以前には書き得なかった後白河法皇を中心とする院政や宮秘のことも、今日ではなんの拘束もなく自由に書いてゆけるからである。これまでの歴史家的判決は、清盛ひとりを被告に立たせて、法皇には、一切触れることもしなかった。それでは、あの源平時代の実相は、まったく分かるはずはない。  この第五巻の「天皇恋し給う」の一章にしても、以前ならば、書けない問題だし、もし活字にでもしたら、とたんに筆者や出版社の筆禍は当然だったにちがいない。  系図上の常磐の名は、わずかに、尊卑分脈のうちに、ちょっと出ているだけで、その他は、保元平治、盛衰記、義経記などの物語本に拠るしか、なんの史料もない。  しかし、私は能うかぎりな、誠意と興味をかの女に寄せて、書いた。殊に、あの時代の女性の社会的運命と、母性の常磐に、重きをおいたつもりである。その点、私の創意も多少加わっているが、諒とせられたい。  西行法師のことは、西行自身が書いた「撰集抄」とか「山家集」などの紀行や歌文があるので、ほとんど、それの史実を践み、無用な脚色はしていない。また、阿部麻鳥は「讃岐志」に載っている僧の蓮誉の事蹟をとって、蓮誉の前身をモデルとしたものである。しかし、傍系の蓬子の方は私の創作人物である。そのほか主要事件や主題の人物には、一切架空な人物は加えていない。  文覚も、袈裟事件をひき起こした若年のことは、ほぼ分かっているが、那智修行から、そのほか遊歴中の事蹟は、不明である。しかしやがて、神護寺再興の発願のことから院庭で乱暴を働き、伊豆へ流されてから以後は、また忽然と、史上にその事蹟をはっきりさせてくる。それに彼の自筆になる神護寺縁起は、彼の自叙伝とも見られるものだし、「吾妻鏡」などにも、再々彼の記事は出てくるので、史料の上では、書くのにらくな方である。  ちょうど、今春から、週刊誌上では、伊豆の頼朝と並んでその文覚を書きつつあるし、この陽春には、朝日新聞大阪本社の主催で、〝新・平家物語展〟をやる意向があるとも聞いているので、もし実現されるようだったら、自分の家蔵としている横物の文覚の手紙なども出品して、読者諸子の一覧を得ようかなどと思っている。  その文覚の手紙は、彼が導師となった灌頂の御式の後、さる女院へ送った書面で、文覚らしい無遠慮ないい方が随所にみえ、当時の彼を知るにまたなくおもしろいものだと芸術大学の脇本氏なども見ていっていた。  もとより私の小説史料にはならないが、墨気とことばを通して、こういう生ける文覚に対してみるのも、無益ではない。何がな作家の幻想をしきりに駆りたてられ、私の雑然たる書斎にも、そこはかとなく、当時の社会的な匂いや、人間像の群影が、机辺を往来する。そして仕事疲れのうたた寝の瞼にも、何かが見えてくるのであった。  山村の書斎は、四月ごろまで、文字どおりな冬籠りである。  陶器の手焙りのことを、古い人は〝びん懸け〟とよんだり、ただ〝夜学〟といったりした。夜学の友は、これにまさる物はない。  けれど、机の端にのせている右手だけは、そう、この友の肌にばかり暖められているわけにはゆかない。気がついてペンを離すと、指が、凍ったように、よく曲がらないことがある。山村では、夜半になると、急に、電気の燭光が宵の何倍にも明るくなる。そのせいもあろうか、夜半の一輪挿しの寒椿の紅さといったらない。 寒机一輪花  そんな句をおもい出しながら、煙草を吸う。この喫煙癖がまた、近来、度が増すばかりで、どうにもやめられない。(昭和二十六年十二月) 客窓雑記      春徂くやまごつく旅の五六日  装幀とか、トビラの色とか、活字の組み様とか、書物の型には、どこかに、著者のもの好みは潜んでいるものだ。 「新・平家物語」のばあい、第一巻が出るときに、それらはもう苦労ずみになっているが、見返しの絵だけは、毎巻、内容と共に変ってゆく新しい装幀約束を持っている。  そのため、杉本氏には、せっかく出来てきた原画を、描き直してもらったり、補筆を希ったり、ずいぶん世話をやかせているが、もう一つ、巻を追ってゆくにつれ、一冊ごとの〝巻〟の名にも、何か、もの好みな気もちが手伝って、いつも自分には、一つの苦吟になっている。  こんどの「石船の巻」も、説明しては、おもしろくなくなるが、神戸開港の先駆をなした清盛の経ヶ島港のくだりを、巻の名としたものである。  あの時代に、築港という至難な事業をあえて興して、日宋文化への大きな交流の門をひらいた清盛の国際的意欲は、それだけでも、偉なりといっていい功績かと思う。  ところが、古典平家やその他の諸本にも、彼のそうした半面は、ほとんど、没却されている。福原の雪ノ御所は、彼の単なる逸楽と、政治的な逃避場所にしか書かれていない。 「石船の巻」の巻名は、多少、彼の心事をシンボルしているかと思う──それの再校訂をすましたり、週刊の原稿を一、二回書きためたりして、ぼくは、京都へ出かけた。雑多な私用だの、史蹟歩きの目的を持って、十日余りを、近畿附近の旅に今、過ごしている。  ちょうど、滞在中の四月十三日には、神戸市で清盛祭が行われる。神戸の開港記念何十年祭かに当るらしい。  主催の市と神港新聞社から、ぜひ、ぼくにも参会するようにという、すすめもあった。行かなくては、清盛氏にたいしても、ぎりのわるい気がしたが、十三日には、やむをえない予定があって、いまのところ見当がつかない。寸時間でも、駈けつける気もちではいる。行けばきっと、郷土史家や市史編纂に参与した古老たちから、有益なことも聞けそうに思われるからでもある。  三月にあった宮島の清盛祭にも、行けなかった。どうも、清盛祭とぼくとは、今のところ、あちこちで、かけちがって、うまくお目にかかれない。  しかし、一昨日は、叡山にゆき、三千院をたずね、大原の寂光院までたどって、清盛のむすめであり、また、安徳天皇の御母であった建礼門院の跡に佇んで、寿永のむかしを暫し偲んで帰った。  与謝野晶子女史が、ここを訪うたときの歌がある。 ほととぎす治承寿永のおん国母 三十にして経読ます寺  花曇りの今にも降り出しそうな昼。ほの暗い国宝の御堂の床に立って、建礼門院平ノ徳子の座像をさし覗いていると、案内してくれた院主の尼君が、そばから蝋燭の灯をかかげて、七百七十年前の薄命なる一佳人の白い顔を、眼ばたきし給うかとばかり、近々と、灯ゆらぎのうちに見せてくれた。  単に、机の上で描いてみる作家の幻想以上に、何か、身近なものが、肌に迫ってくる。似ているか、否かなどは、問題ではない。あの時代のままな四囲の山と水と、そしてこの建築との中にいれば、治承、寿永の世の一と隅を感じとるには充分である。  清盛を父とし、後白河法皇をお舅にもち、高倉天皇との間に生した幼帝安徳天皇を抱いて、争乱の世を、壇ノ浦まで追われたという女の生涯を、蒼古としてなお仄白い顔容の上に想いえがいていると、蝋涙の音も、ふと、その人のものかと怪しまれてくる。──いつの時代でも、戦乱には、いちばんむごい目に遭って、世の風浪のかぎり漂い果てる女──きのうの女、これからの女性はなどと、想いはつきない。  東大寺へ行った日は、しとどな、雨の日だった。  けれど、その日はちょうど、四月八日の灌仏会であったし、桜も夜来の雨で、一ぺんに開き、奈良も人出がなくて、あちこち、静かに見られたのは倖せだった。  なんといっても、治承四年に、平氏と南都の興福寺とが、ここで戦ったのは、双方共に、いい歴史をのこしたものとはいえない。  大仏殿は、聖武の世から、二度焼けている。治承四年の兵火と、松永久秀の戦国初期の兵火と、じつに、どっちも、人間の狂気時代に、焼けている。  あの天平盛期の平和を思いながら、大仏殿に佇んで、大仏の偉大な美と荘厳に打たれていると、時には、これへ火を放ける心理にもなった人間の前科に、人間の凶暴性や愚に、ふと、慄然たるものを覚えずにはいられない。  終戦後、金閣寺を焼いた一青年に、世間は、ぞっとしたが、その愚は、まだ小さいといってよい。もっと、多くの大人が、もっと大きな愚を、もっと大胆にやったことのある実例を、歴史はすでに語っていた。これからは、そういう愚を、われらの地上に見ることのないようにと、蓮華蔵界(平和の世界)を体顕し給うものという大仏に、掌をあわせて、拝むほかはない心地がした。  なんといっても、東大寺焼打ちの箇条は、清盛の大罪科の一つに数え上げられている。けれど、南都の僧団が、武力をかかえ、自ら兵火を求めたことも、決して、罪なきものとはいえない。公平な史観からいえば、平家の罪は、もう過去にも裁かれているが、僧団の非僧侶的な歴史は、裁かれもせずに来た。  人間愚を、人間がやるときは、僧侶もたれも変りはない。人間はまだまだ原始の尾骨痕跡を持つ生き物にすぎないようだという反省を、「新・平家物語」の上では書こう。──などと、そんな空想を抱いたりした。そして若草山のまろい線が望まれる宗務所の一室で、薄茶を一碗いただいた後、東大寺の花の雨に濡れながら山門を出た。(昭和二十七年四月九日 都ホテルにて誌す) 草の実抄  第七巻「みちのくの巻」が出来たのをひもどきながら、偶然おもい出したのは、もう十七、八年も前に歩いた自分の〝みちのく旅行〟だった。  ふつうの東北方面への旅行を除いて、いわゆる〝みちのく〟らしい旅を味わったのは、前後二回であった。一度は菊池寛、久米正雄、横光利一、片岡鉄兵などの諸氏と、文芸講演をかねて、のん気に(今のようなスピード旅行でなく)二十日余りを巡遊したおりと、もういちどは唯一人ぼっちで、四十余日間、にぎり飯を腰に、原稿紙入れの小さい旅行ケースを竹杖に挿して肩にかつぎ、毎日怪しげな芭蕉気どりで、てくてく歩いたことだった。  そのころから胃腸が弱く、(今もだが)目的は、治病の方にあったので、一人で出かけたわけである。仙台までは列車でゆき、仙台を振り出しに、あとは大部分(本線の長い距離はもちろん乗ったが)細い脛で、気まかせに歩いた。  塩釜、松島を経、石巻から小汽船で金華山に渡り、帰路は山鳥の渡しをこえて牡鹿半島を縦断し、本線へ出て、一ノ関から平泉地方をめぐり、古間木までは汽車で来て、蔦、おいらせ、十和田、そして小舟で十和田の湖北へ渡った。このコースは人の通わないところである。滝ノ沢峠をこえ、温川の一軒家に、十一日間ほどいて原稿を書き、黒石街道を歩いて、弘前まで出たのであった。  この間、毎朝、宿屋を出るときに、ゴマ塩をまぶした大きな握り飯を一つ握ってもらい、ハンケチに包んで、腰にくくり、それを食べるのを楽しみに、自分で自分の空き腹を釣っては、足まかせに歩くのである。その当時、完全に胃腸は治った気がした。  ところが、都会生活の机に返ると、たちどころに、その効もなくなってしまった。慢性は慢性のまま今日につづいている。しかし、今でも身に残っているものがある。それはそういう特殊な旅をした体験である。  こんどの第七巻には、鞍馬の牛若が、京を離れて、みちのくの平泉へ行きつくまでの経路が主題をしめているが、今、装幀された一巻を手にして、十数年も前の、そんな旅の体験が、ずいぶん役に立っていたことが思い返されるのであった。週刊朝日の誌上では、そうも思わず書いていたが、一冊となってから、あらためて思い出されるのである。  また、下総の多々羅や印旛沼附近は、自分の母の郷里の近くだし、武蔵野界隈は、いま自分のいる吉野村から車で東京へ出たり、ゴルフ場へ行くときなど、のべつ縦横に通る所である。村山だの金子村だの扇町屋だの、比企や川越附近は、ぼくの村からみな遠くない。  まだ時をえない源氏党が蟄伏していたそれらの山村の武蔵野の果ての部落を行くと、何か、強すぎるほどな野性が今でも匂う。この間も、霞ヶ関ゴルフ場から、帰りにわざと、高麗川をのぼって飯能から金子十郎の金子村を通り、山越えして来たが、この辺はもう武蔵野のつき当りといってもいいほど秩父、多摩山岳へ寄っているので、中央沿線や都心の文化とは、まったく無縁のように見える。そして今でも草の実党が住んでいそうに思われたりした。  後に、義経の臣となって、さいごまで義経に殉じた佐藤継信と忠信兄弟の郷地、いまの福島県の飯坂温泉も、前にかなり歩いている。あの摺上川のそばの温泉宿へ行っては、十日半月とよく仕事をしていたからである。名物の桜ンぼが実るころ、福島競馬も始まり、友達はみな自動車で行くのだが、ぼくは人力車を雇って、夜明けに宿を出たものだった。そして藍坂の医王寺跡に立ったり、佐藤兄弟の碑の前で俥を降りたり、そんなことも、今になってみると、この第七巻を書くのに何かと役に立ち、自分の予備知識になっていた。  参考書も、必要に迫って、すぐ作品に役だたせようとすると、どうしても未消化なナマが目につくものである。旅行も読書も、身についてからのものでないと、役に立たない。  数日前の読売紙の文化欄に、正宗白鳥氏が現代作家論の中で「新・平家物語」の六巻妓王のあたりを評し、水の割ってある感じ、といったのは、たぶんそういう点が氏の目についたのではないかと思った。ナマな史料をナマのままならべると、随筆めいて、小説体から離れやすく、ついあんな形になる。  ぼくはまた、数字(たとえば年月)とか、人名地名、計数関係などのことは、どうにも頭へ記憶を持つのにホネである。よくそれらのことをまちがえては、校閲部から注意をくう。書きながらただもうぼくにとって楽しいのは内容そのものだけである。が、歴史小説にはじつにいろんな条件が附随する。わけてこう長くなるとなおさらだ。読者の頭も同じだろうと思う。が読者はきびしい。そして克明である。腑に落ちないとなると寸毫のあやまりも仮借されない。依然、読者からの手紙にたえず鞭打たれている。  十五、六歳の牛若を書いていた間はなんだか楽しかった。牛若にかぎらず、ぼくは子どもを書くのは好きである。書きながら自分の少年期や老躯の中の童心がよび起こされるからだと思う。  その牛若も育ってゆくにつれてむずかしい。作家の仕事には変な結果が宿命してくる。自分の筆から生ませ、筆で成長させたものが、ついにはその作家の筆でも、どうにも勝手に動かせないような存在になって来るのである。なぜなら、作家が血肉をそそぐ真実の強いほど、その作家の前には、もう立派に性格や思想を持った一個の人格として対象して来るからだ。考えれば気味のわるいことである。  私事をいってすまないが、おととしの六月生まれた香屋子というぼくの末の子が、ちかごろ、机の邪魔に来て、ぼくの膝にのったり、参考書などを掻きちらして閉口している。  去年、「新・平家」の第一巻が、初めて刊行になり、その初刷りの一巻が、出版局の人々の手で届けられた日が、偶然、香屋子の初めての誕生日だった。それから二年目の誕生日に六巻が出て、いま七巻になっている。  考えてみると、週刊朝日に「新・平家物語」の第一回を載せ始めたおととしの春には、まだこの子は生まれていなかった。それが今では、机の上の物を取って、ちょこちょこ逃げ出すようにまで成長している。時々、思うのである。ぼくのやっているこの長い仕事と、この子の伸びてゆく背丈と、どっちが確実な成長をとげているのだろうと。すると、どうもかなわない気がしてならない。けれど、いい目標ではあると思って、香屋子の育ちに負けないように、おりおり、自分を励ましては、稿を耕すということばのもつ勤勉をふるい起こす対象としている。  週刊朝日で既報された大阪朝日会館の読者大会の帰途、丹羽文雄氏や出版局のKさんと一しょに、奈良の中宮寺と法華寺へまわった。  京都からそこへ行く途中を利用して、やがてこれから書く以仁王の謀反、その以仁王と源三位頼政が敗れて、三井寺から宇治川へ落ちてゆく足跡を見ておくため、わざと三井寺から大まわりをして、俗に今でも〝頼政越え〟といっている山間だの部落ばかりを通って自動車で奈良へ行くことにした。  その頼政越えは、劇作家で宇治にいる林悌三氏が先に調べて、当年の史料を辿り、絵図面まで作っておいてくれたのである。非常に楽しい日であったし、ぼくにとっては、以仁王の謀反と頼政の平等院の討死のときを書くばあいに、大きな下準備となったのはいうまでもない。  けれど、あとの車で同行された丹羽氏にとっては、今、週刊に連載中の〝蛇と鳩〟の材料にもならないので、迷惑だったにちがいない。まっすぐに、新国道を行けば超スピードで短時間に行けるところを、舟のように揺られながら埃を浴びてついて行く。こいつはたまらぬと思われたのであろう、途中山吹が多いので昔は名所といわれた──井手ノ玉川から丹羽氏の車は引っ返して、先に奈良へ急いで行った。  源三位頼政の謀反とその死は、近く週刊に書く時に来ているが、書きがいのある課題として、前から興味をもっていた。彼の謀反や生涯は、歴史的な史料だけでは、解決されないものである。それは作家の仕事によらねば解かれえない心理だし、頼政もまた、史上の謎の一人物といってよい。  先ごろ、友人の服部之総氏のきもいりで、東大、京大などの若い史学家ばかり十余名の人と一しょになった。「新・平家」を中心に、一夕大いに語ろうといってくれたのである。三笠宮崇仁氏も同席され、余り意見はいわれなかったが、始終、にやにや聞いておられた。歴史学徒のまえにもいま画期的な時代が来ている。その気運を迎えているこの晩会った少壮史学家たちには、ちょっと文壇人の若いグループには見られないような何か瑞々しい気概が感じられた。ぼくにとっても、愉快なまた意義のある一夕だった。おりにふれて、また自分の吉野村の山家へもやって来ようといっている。ぼくもよろこんで迎え、そしてこういう人々の叡智な若さにも心から耳を傾けたいと希っている。  この巻の見返しの色刷り、京からみちのくまでの図は、杉本画伯に、二度も描き直してもらった。読者の代弁のつもりだからそんな吾儘もいえる。そのかわり、初めの絵より、よくなったのは確かであった。描き終わると、健吉さんは、日光の華厳を見に行った。この夏は、油で那智と華厳を描きたいといっている。志は小でない。若い人のそうした野心をながめるのが人ごとならずぼくは好きだ。意欲にみちた力作を生み出されたい。杉本氏のためにそう祈っている。(昭和二十七年七月) 晴稿雨筆  去年もだったが、ことしも夏から晩秋へかけて、浅間山麓の高原で仕事をした。第八巻の再校もここで見、第九巻の初校もすませ、十月中旬には帰れるかしらと思っている。  週刊朝日への毎回の送稿も、ここで続けて来た。去年今年と、二度もこの地方の晩秋を見たので、何か軽井沢の書屋と「新・平家」とは宿縁のふかい気がしてきた。作家にとって、その机をすえた居所と、そのとき書いた作品とは、いつまでも思い出になるものである。  居所と作品の宿縁を考えてみると、短篇は措いて、自分のこれまでの長いものでは、宮本武蔵、太閤記などは、赤坂表町に住んでいたころに書き、親鸞は芝公園で、三国志はその両方で、そしてどれも、旅先の仮の机で書いた部分がだいぶある。ことに武蔵は「新・平家」ほどではないが、遺蹟歩きや地勢などを見る必要もあったので、ずいぶん思い出の旅先が多い。中には、ほんの一、二度の例にすぎないが、旅客機の座席で膝を机に書いたりしたときもあった。  空の上は例外だが、いったい、ぼくの習癖としては、そのいる所を、低い湿地だの、暗い壁の隅だのに置くことは嫌いである。ひとみたいに押入れの中などではとても書けない。高燥が好きである。いまいる高原などは性に合っているのかもしれない。特に、「新・平家物語」のような〝大きな時の流れ〟を主題に、浮沈喜憂する人間諸業のすがたを観ようとするばあい、人間離れをしない程度に、こういう居場所は何か心の視界に都合がいい。  秋というと、近所隣も、みな空家ばかりだが、夏の軽井沢は、人間離れどころではない。ジャーナリズム網も張られているので、雑魚のぼくらまで御難にかかる。放送、座談会、対談、口述、写真、訪問記など、いやおうなく、現地徴用にひっかかる。  また友人たちにもしきりに会った。池島信平氏、獅子文六氏、立野信之氏、舟橋聖一氏、服部之総氏、松本新八郎氏、野村胡堂氏、石坂洋次郎氏、佐佐木茂索氏、川口松太郎氏、村山知義氏。かぞえきれない。とくに珍客は、嘉治隆一氏が、おりふし夏季講座に来ていたハアヴアド大学で文学専攻のミラア教授夫妻を案内されたことだった。短期間だったが、ミラア教授とのはなしは非常におもしろかった。嘉治氏がそのときの印象を十一月号の小説公園に書いている。  笠信太郎氏、浦松佐美太郎氏などがみえたときは、土地の正宗白鳥氏だの、梅原龍三郎画伯、横山美智子氏、川口氏、野村氏、石坂夫人、ぼく夫婦などを、一夕招宴してくれた。室生犀星氏は微症で見えなかったが、当夜の会も愉快だった。去年は、やはりこういう顔ぶれに志賀直哉氏を加えて、改造社の山本実彦氏がきもいりの会をしてくれたが、その山本氏は今年はもう他界の人だった。そういえば、その山本実彦氏の未亡人と御子息が、ことし山荘を訪ねてくだすった日は、軽井沢特有な霧小雨の日で、実彦氏の生前ばなしが出るたびに、未亡人の瞼があからむのに胸の傷むおもいを共にした。 雨しとゞどの窓見ても萩すゝき  校訂が終わり、この原稿が活字になるころ、杉本健吉氏も訪ねて来られると便りがあった。第九回の見返しの画稿を携帯されるのではないかと思う。巻ごとに構図をかえてゆき、そして油と日本画と、フレッシュな感覚と古画の匂いとを、開巻ごとにただよわせてくれる見返しの表裏一連の図は、装幀としても新しい試みだったし、また杉本氏の画を味わう上でも、ぼくには楽しみの一つであり、読者のあいだにも期待の声が大きい。  晩秋か初冬には、また、新・平家紀行のつづきとして、杉本氏たち同行幾人かと、こんどは北陸、木曾、飛騨方面へかけて、史蹟旅行にあるく予定である。それらのぼくの随筆や杉本氏の画などを合著として、「随筆新・平家」をまとめようじゃないか、という相談なども二人してしたことがあるが、閑余のないお互いなので、なかなか具体的に運ばない。  出版局の予定によると、来春二月ごろに、十巻完了になるそうである。そしていま週刊誌上に書いているあたりが、十巻の末章あたりだと聞かされた。  当初、自分の構想と意図では、もっと進んでいるはずだった。すくなくも、木曾義仲入洛ぐらいはと思っていた。まだこれしか書けなかったかと、月日の短さよりも、遅々たる筆に、長の旅路を脚に感じる。  武蔵のばあいでも、太閤記のばあいでも、長篇では、その期間の途中、半年ぐらい休ませてもらい、時をあらためて、また書き続けたものだった。しかしこんどは、いったん筆を措いたら、もう書けない気がするのである。体力の問題ではなく、いまの自分の体じゅうに持っている細胞が、「新・平家」の構想や史料やそれのすべての細胞と密着しきっているからである。休養期を入れて、ある期間、これをいちど断ち切ってしまうと、ふたたび細胞と細胞とが完全にむすびつくという自信が持てないのだ。それとまた生活もである。何から何まで、このように、一つの創作に賭けてしまったことは、自分の貧しい作家生活三十年のあいだにもないことだった。こんどの「新・平家」の完成へのみ、自分はあえて自分の運命をそうしてしまった。(昭和二十七年 晩秋 軽井沢にて) 歳寒雑記  この第九巻「御産の巻」は、ごさんの巻と読んでいただきたい。現代読みでは当然、おさんの巻と読むであろうが、古典平家の原語をそのまま巻題としたので、「ごさん」でないと、やはりなんとなく余情余韻がない。  古典の訓みには、たしかに古雅な匂いや色や情調の響きがあって、よく時代感を醸し出す特長はあるのであるが、現代読みに馴れている読者には、いちいち眼に厄介だし、またなにしろ煩わしい。 「新・平家物語」は、もちろん、現代語を基調としているから、それらの訓みは、みな今日の読み方にあらためている。武者は(むさ)侍は(さぶらい)牛車は(ぎっしゃ)不孝は(ふきょう)禿は(かぶろ)敬白は(けいびゃく)──といった類がそれである。  だから今度の巻の名を「ごさん」と読んでいただくのは例外である。こういう例外も従来、「新・平家」の本文中に用いていないこともない。叡山南都の大衆──などというばあいは、わざとフリ仮名をつけて「だいじゅ」と古典どおりな訓みをつかって書いている。  なぜというに、現代語の大衆という語意と、当時の大衆(だいじゅ)と意味には、相似テ相似ズ、といったような微妙な相違がある。読者の幻想にそれが混同される惧れを抱いたのである。「ごさん」と「おさん」のちがいも、女性が子を産むという根本の事実はまったく同じだが、その様式、四囲の心理、目的、結果など、いかにぼくらの観念と違うものであるかを、この巻の読者には充分理解されることと思う。  問題の弁慶は、この巻にも出るが、自分として能うかぎりな要意をもって書いたつもりである。また彼と義経との関係、義経と名のる二人の同名異人があったことなど、史料せんさくもまたおもしろい仕事であった。東大の史料編纂所の人とか源平史を専攻している歴史家などが、この「新・平家」に好意のある会合までして、素材や忠言を惜しみなく示してくれたことなどありがたく思っている。また旅行先では、いつも未知な郷土史家の人々から、さまざまな便宜や材料の提供にあずかっている。考えてみると第九巻というこれまでの累積には、ぼくならぬ人々の支持や愛情にも囲まれていた。感謝のほかはないし、かえりみてまた、謙虚にならざるをえない。  旅行といえば、週刊朝日でもちょっと書いたように、この初冬には、木曾、飛騨、富山、金沢地方へかけて、長途の史蹟旅行をやり、途上で得た史話、口碑、随所の見聞など、この〝しおり〟に紀行を載せるつもりだったが、もう余白がないし、この小ページでは書き尽せないので、来春号の別冊週刊朝日にでも掲載させてもらうことにする。  たれでも年暮というと多忙と多感に迫られるが、机上の仕事にも、歳寒の思いと、雑忙がやってくる。何より辛いのは、この一作を完成するまではという誓いから、諸雑誌や新聞の初春原稿も一切執筆を断っていることで、ときには山妻と顔見合せて「今月は一月中、人にあやまり通しでしたね」と晩の食事時に、ほっとつぶやきあうことがある。  前巻第八巻の見返しは、せっかくの杉本氏の絵も栄えないで、例にない不出来と思われた読者もあったろうと思う。原画は決して悪くなかったのだが、印刷所の手ちがいでとか聞いている。出版局では後刷分を刷り直すといっていた。ずいぶん良心的に印刷所を初め編集部でも注意に注意を払っていてくれるのだが、千慮の一失というものであったらしい。しかし、きのう既に、第十巻の杉本氏の原画を見たが、墨と朱だけを基調にし、それに初めて金を用いたおもしろい諧調の画であった。鑑賞的にも、諸氏の御満足をうることであろうと思う。  ラジオ東京の連続放送〝新・平家物語〟も回を趁っている。まだ本では読んでいないという人たちもよく分かるといっているのは宇野信夫氏の脚色にもよるのである。宇野氏は「新・平家」をどれほど読み返したか知れないといっていた。誠意と愛情をもった仕事は直にそれが通じるのであろう。猿之助氏の清盛も好評である。  十二月の歌舞伎座では、その清盛を寿海が演る。こんどは「ちげぐさの巻」の序編であるが、順次、村山知義氏が脚色して、〝歌舞伎新・平家〟が具体化してゆくはずである。そのうちに、歌右衛門氏の常磐などは、今から期待されている。成功すれば、新しい歌舞伎十八番物になるかもしれない。(昭和二十七年十二月) 牛歩漫筆      ──第一期十巻を機に  早春の新装を施されて、第十巻が上梓された。  これで「新・平家物語」刊行の一期分は、諸氏の御支援によって、ともかく一期の完了を見たわけでなんとも感謝の念にたえない。  週刊朝日誌上での連載といい、この刊行企画といい、異例な長期間にわたるものとなったが、ぼくのこんな牛歩鈍々たる気の長い著業にたいして、考えてみるとよくも読者諸氏が依然たる支持と鞭撻を惜しみなく続けてくださるものと時には正直おそろしい気もするのである。いま書架に並んだ十冊の背文字をながめ、ひとしおの自省とそして回顧の念に打たれずにいられない。  このさい第一巻以来の読者諸氏と共に、起稿当時からの思い出を記録しておくのも、あながち無駄ではないかもしれない。  当初、週刊編集部から「何か書くように」とすすめられたのは、たしか終戦直後の昭和二十二年ころであり、そのころぼくは、終戦後三年間ぐらいは著作を休みたいと思い、また実際に書かずにいたので「いつか書かせていただきます」と約束だけにとどめていた。  その間は、山妻の戦後疲れの大病やらたれも通って来たあの疎開生活の中にぼくらも暮らし喘いできたのは当然で、やがて昭和二十三年になって雑誌「東京」に〝色は匂へど〟を四月ほど書き、読売に「高山右近」を書いて旧約を果たしたが、そのころから医者に胃癌の病状があると診断され、ぼくもまた一つの戦後病といったような健康障害に苦しみとおしていた。  前出版局長のK氏とO氏などがお揃いで「もう、ぼつぼつどうですか」と執筆をうながしに見えられたのは、それが終わったころだった。二年も前からの旧約をお待ちくだすった寛恕の手前にも、ぼくは自分の健康ばかり言い訳にいっていられない気持になり、次の新年号からはという確約のもとに「何を書くか?」という当然な課題にさまよい初めたのである。  ところが、健康は日ごとによくない。癌の方は、まず懸念なしと解消したが、盲腸がひどいという。そこで、思いきって入院した。この入院はしかしぼくの「新・平家物語」に取りかかる準備のつもりではあった。書き出してから仆れたりしては醜態だし誌面へも迷惑をかけるからである。  けれどこのため、編集部へは再び違約の手違いをかけ、翌昭和二十五年の四月号から初めて第一回が掲載された。最初の原稿が誌面に載るまえに、前後三年間も、なんだのかんだのと、編集部には、手数を煩わしたことになっている。ジャーナリストは気の短いものだが、思えばよく待ってくれたもので、じつに自分の得手勝手が後では申し訳なく思われた。  作家はつねに卵を抱いている牝鶏みたいなもので「何を書くか?」「何が書きたい」という課題を日ごろに温めていない人はあるまい。  平家物語もそのときの着想ではない。いつからということもなく漠然と日ごろの想念にあったものである。ただ、じっさいに着手するとなると、原典の大きな構成や自分の幻想からも、かんたんに、何回と目標を持ったり、また中途半端なものとして終わりたくもない。ふつう週刊誌の連載小説は二、三十回が慣例である。そこで編集部に相談すると、「回数も枚数も、存分にやってごらんなさい」といわれ、初めてぼくも肚をきめた。そして、古典平家が、御承知の通り、平家の全盛期と没落の過程を主題としているのにたいして、ぼくは平家族の初期から──つまり平安朝末期を加えた社会小説風に──従来の小説にはない保元の乱、そして平治の乱を追いつつ書き出した。  だから古典平家の序章にはいるまでに「新・平家物語」では「ちげぐさの巻」「九重の巻」「ほげんの巻」「六波羅行幸の巻」「常磐木の巻」と古典にない部類が加えられ「石船の巻」や「みちのくの巻」以外に、まったく原典に拠らないところがたくさんにはいってしまった。これが古典以上、厖大な「新・平家」となった所以である。  そして第一期十巻で、ちょうど自分の構想はやっと半ばを達した感じである。近ごろではジャーナリストに会っても知人に会っても、「いったい、いつごろまでお書きになるのですか」といい合わせたようによく訊かれるのである。いつまでと、自分はそれにはっきりした答えをしたことがない。事実、この仕事はちょうど嶮しい大岳へむかって向う見ずな山登りにかかったようなもので、余りに無謀、盲目、身の程知らずといわれもしそうなぼくの幻想から出発してしまっている。自分の健康も世の推移も度外視しているかたちである。現状のジャーナリズム常識のケタさえ外れた仕事なのだ。しかし、編集部は寛恕され、依然、べんたつしてはくれる。ただ、いかに作家自体が貪欲な構成の完結を夢みていても、それを容れるか否かは、読者の支持にあるので、作家のひとりよがりだけでは完成されないのである。といって、この長い仕事、作家の特質は、読者の鼻息ばかりうかがって興味本位だけでは書いてもゆかれないしまた、意味もない冗長になってしまおう。ここにぼくの果てない一歩一歩の畏れがある。  この春で、連載も足かけ四年になった。かえりみると、社会状態さえ変っている。被占領国はともあれ独立し、そしてなお、ぼくらの土壌には真の平和が約されたというのでもない。  出版局のデスクの人たちも、窓外往来の知人の間にも、数えきれない変化や推移が振返られる。さだめし読者諸子の身近もまたおなじであろうし、この十巻を手におなじ感慨をおもちになることであろうと思う。  なお、小なる一著者が牛歩千里して行くこの仕事のために、大方の御叱正と支援を祈ってやまない。併せて今日までの望外な御愛読にたいして心からのお礼とそして読者諸兄姉の多幸をお祈りする。  回想、回顧、尽きない思い出は多くありながら、寸ページの上では、何も書けないで、凡々たるただのあいさつみたいになってしまった。いつか随筆的に書きまとめるつもりである。御諒恕をねがいたい。(昭和二十八年二月) ある一日半夜記  平安朝でも平家の世代でも、仏教文化を措いては、それを理解することも描写することもできない。美術にしても、文学にしても、そうである。  よく私はそのためにまちがわれる。ああいう風に、仏教に就いて語る人だから、信仰家であろうと思われるのである。  同様に、以前もよく、宮本武蔵などに、剣の道なるものを呶々したので、吉川はさだめし、剣道もやるのだろうと思われたりした。  私は、作家である。剣道などは、習ったこともない。また家は真宗だが、私自身、べつに何宗と信仰はもっていない。むしろ、申しわけのないほど不信心な方である。  不信心は不信心だが、お寺や祭壇を否定する気は毛頭ない。ただ無精者なのである。亡い父母にたいしても、朝夕、思い出しはする。けれど朝夕に拝むようなことはおっくうでやっていない。胸ではひとりぎめに、こう思っているのだった。 「子のぼくの気もちは、お母さんは分かっている、父も分かっていてくれるはずだ」と。  そしていつか菩提寺の住持であり学友である人に、こんな歌を言い訳に見せたことがある。── 〝父母の忌もおこたりてはたらけど、やすらぎ給へ良き子とはならむ〟  ぼくは六歳で私立の小学校へ通った。幼稚園がなかった時代である。そのときの校長先生、山内茂三郎先生は、ことし八十八歳になられた。  開港地横浜の千歳町にあった私立山内尋常高等小学校というのがそれである。奥様も先生と共に教鞭をとられ、常に紋付に紫の袴をはき、ぼくら少年の眼にもお美しく見えた。そしてぼくら少年は、その校長夫人を〝御新造先生〟とよんで親しみ甘えたものである。  御新造先生は、お若くして逝かれたが、山内先生は教育界に努められること六十八年、いまも横浜の山手に、横浜女学園と小学校を営んでおられる。──残り少ない学窓の友が、その先生の米寿を祝おうというので、この三月十五日、まだ復興も遅く、敗戦国の傷痕まだらな山ノ手の一校舎で、春の一日を、記念会というまどいに送った。  偶然、三月十五日は、ぼくの亡父の命日でもあった。お寺の現住持も山内小学校の同窓である。そこで午前中は、父の墓掃に詣でた。うたた御不沙汰の感にたえない。  四半坪のせまい地下には、父、母、弟妹、いくたりかが安らいでいる。「新・平家物語」に没頭してから、初めての訪れである。そのさい、ほかの御用もあったので、出版局の春海局次長や顧問の嘉治隆一氏なども偶〻御一しょであった。偶然とはいえ公私にわたるこの御縁に大きなよろこびと恐縮を私は抱いた。──〝忌も怠りて働けど──〟とそこでも私はお念仏の代りにつぶやいたことであった。  夜は、同窓数名と、山内老先生の御夫妻など共に、街の一亭に行って、この世の果報に甘えた。席は、神奈川新聞社の好意で設けられたもので、横浜のアメリカン・カラーとはおよそ対蹠的な関内の美妓が座をあっせんしてくれた。老先生は、六十余年横浜の教育界にあって育英につくされて来たが、関内芸妓をあげて遊ぶのは初めてだと仰っしゃった。昼の記念会でも、同窓生を見るたびに、深い頬の皺に、涙の垂れるのをつかえさせて、眼ばかりうるましておられたが、この夜も、余りには飲まれぬ盃を少しずつなめながら、おりおり、多感な老涙をしばだたいておられた。そのうちに、たれかがいい出した。「ひとつ、むかし校庭で歌ったのを歌おうではないか」というのだ。そこで老先生を打ち囲み〝汽笛一声新橋を──〟を合唱しだした。それを静岡辺まで覚えていたのは、ぼくら生徒でなくて、なんと、座にいた四十がらみの中老妓だった。次には〝箱根の山は天下の嶮〟──これも半分しか覚えていない。けれど、老先生もいつのまにか、ぼくらと一しょに手拍子を打って歌っておいでになる。老夫人も歌う、芸者も歌う、神奈川新聞のS氏、K氏、H氏も歌う。なんともたのしいことであった。考えてみると、先生八十八歳、生徒みな六十一、二歳。ほんとにありがたい春の一日半夜だった。  こうも暮らせるこの地上を、源平両陣にわけて同胞が戦い、一つ地上を、紅白二つに分けて住んだ治承、寿永の世代をこれから書いてゆくのは、辛い気がする。労を厭うのではない、筆の心が、辛いのである。  平家物語は、詩として書かれた。詩として奏でるよりほかに、あの人間業を歌いようもないからであろう。  だが「新・平家物語」では、そうもならない。現代人への訴えには、詩ばかりでは、日本の現実を、慰めようもなく、解決の道も見出しうべくもない。読む方にも悩み、書く者にも悩み、私は今、第十一巻という二期の新しい発足に当って、またその傷みを新にしないわけにはゆかない。  個々小さくてもよい、仕方がない、この時代である。読者諸氏の燈下に、また家々の小範囲にも、静かで、おつつがない毎日が送られるように。──それが著者の祈りである。また「新・平家物語」を書く祈りでもある。(昭和二十八年三月) 窓辺雑草  鎌倉を中心とする頼朝その他の源氏がわの遺蹟は、京、近畿、西国の平家遺蹟とくらべて、決して乏しい数ではない。  自分は、今春以来、伊豆の熱海で、仕事をしているが、たとえば、この附近の伊東、真鶴、石橋山、また箱根一つ向うの三島、北条といった附近にも、随所、行くところに、源氏にゆかりの田野や叢林はあるが、なぜか、例外なく、訪う人も稀れである。平家の史蹟にみるような永劫の余韻と、人の慕う風趣が見られない。  そこで、考えてみると、これは平家びいきとか、源氏びいきといったような単純なものではなく、文化の差であろう。文化においては、平家文化は鎌倉のそれよりも、たしかに、ずば抜けた遺産を歴史の土壌へこぼして行った。その意味では、平家は、源氏にやぶれたが、文化の上では、ついに勝っていたともいえると思う。また源氏の末路よりも、平家滅亡の相のほうが、より以上、詩であったということにも、民衆の心をひく何かが潜んでいるのではなかろうか。  歌舞伎座の読者大会では、昼夜にわたって、たくさんな読者にまみえ、平家について一夕話をこころみたが、心にある何分の一も話せなかった気がしてならない。にもかかわらず、以後、多くの人から御感想やお便りなどいただいて、なお恐縮している。  このごろ、「平家についての一夕談でも」という講演の依頼をよくうける。しかし、如上のごとく、不得手なのと、時間もないので、一切お断りのほかはない。せめてなしうることは、この栞の欄と、週刊朝日で月一回の「筆間茶話」を読者に送るぐらいなところである。それさえ、じつは意に充ちてしたこともないが、諒とせられたい。  この第十二巻「かまくら殿の巻」は、巻の名を按じるとき〝浮巣の巻〟としようか〝おん国母の巻〟としようか、などと思い惑ったほど、内容は、東国の頼朝中心のうごきと、京、福原における平家晩鐘の中の話とが、ちょうど、半々になっている。  いったい、頼朝については、遠い以前に、ぼくはいちど朝日新聞に「源頼朝」として書いたことがある。人によると「いちどお書きになったものは、書き易いでしょう」というが、じつは、前に手をかけたことのある人物や同場面というものは、なにかしらひどく書き難いものである。それと、こんどの「新・平家」では、頼朝と政子、頼朝と義経、頼朝と鎌倉創府の事情なども、前のものよりは、精密にわたっているし、何よりは、平家との交渉に、全重点をおいて書いたので、いささか新味を加えたつもりでもある。どこまでも「新・平家物語」は、平家が焦点ではあるが、そんな意味からも、一巻には、源氏を象徴する巻があってもよいかと思い「かまくら殿の巻」に決めた。杉本さんの見返しの絵も、そうしたことを話しあって描いてもらった構想である。──鎌倉創府図と、大仏殿炎上と、二つの画の、即不離を、見ていただきたい。 〝水鳥記〟〝黄瀬川の対面〟のあたりは、自分も忘我の愛情をそそいで書いた。読者の反響も大きかった。頼朝と義経とが、初めて、兄弟の名のりをする、そして、一つ父の子と子が、手をとりあって泣いた──あのくだりは、単なる歴史記述で読まれてさえ、そのままが美しい詩であるばかりでなく、ぼくら日本に生きる者の肉親感の琴線をかなでるものらしい。そして、「この兄弟が後には骨肉の争いに血をみる」ことを予想するさえ、読者には忍び難いほど辛いらしい投書もあった。たしかに、もし頼朝と義経とが、黄瀬川の夜の涙を、温かに、もち続けえたら、源氏の運命は、まったく違っていたはずである。しかし、歴史は非情なほど後人へものを語るに冷厳である。ただ、今日に思い合わせて、また、人間性にかえりみて、非情なる歴史をおたがいの中にくり返さぬようにするしかない。  この栞のためには、知己や先輩にも、つい御迷惑をかけている。今月の客欄には、中村孝也博士に感想をおねがいしたよしを、編集子から伺った。孝也先生の名著「源九郎義経」などは、ぼくはもう何十年も前に、愛誦措かなかったものである。そのころはまだ自分が作家になり、かかる小説に筆をそめることさえ夢想していなかったのにと、何か、感慨にたえない。そして、青年時代のそうした愛誦書なども、無意識のうちに、自分の著業には、なんらかの眼にもみえない影響をもっていたろうことも思われて、読書の恩を深く感じる。菜根譚のうちに、 読書随所浄土  ということばがあるが、単に、書を開く手には浄土が降りてくる──ばかりでなく、自分の一生にまで影響する大きな機縁も知らぬまに生じていよう。考えてみると、ぼくなど無数の読書の恩をうけてきた一人である。(昭和二十八年七月) 新・平家今昔紀行 伊勢から熊野路の巻  中山競馬場の会員席でのこと。隣のボックスにいた舟橋聖一氏が望遠鏡を手にふといった。 「新・平家物語、まだつづくの」「つづく」「ああいった史料、どう」「どうって」「何から索くの」「保元や平治は、まとまったものもあるけれど、ま、公卿日記だね」「公卿日記」「兼実の玉葉とか、左記、右記、百錬抄、山槐記といったようなもの。それと平安朝随筆の著聞集、今昔、愚管抄なんか。あるね、あることは。けれど日記がいちばんさ。大事な日の天候まで分かっているし」  ──そんな遠くの過去を話しながら、ぼくたちはレンズを通して馬場の二千メートル標識のスタートに就きかけている紅、白、紫、黄とりどりな騎手の影に眼をこらしていた。そしてぼくらは一瞬のギャンブルに賭けた馬券をみなポケットに入れて固唾をのんでいる。  しかし、このレース時間一分何秒ノ一の一瞬間にさえ、過去、現在、未来がある。喜憂こもごもが一埃りのうちに舞い去り舞い来り、現実の夢はみな枯葉片々たる紙クズになって飛んでゆく。──これをそのまま七、八百年前の過去へと、想像のヒルムを逆回転させると、平安朝ごろにも盛んだった加茂競馬や神泉苑の競べ馬を、今に観ることはむずかしくはない。  人間は人間、馬は馬、太陽は太陽。今昔同一である。騎手や観衆の服装だのルールが違うだけのことだ。  白河法皇や鳥羽帝や女院などがいそうな席に、進駐軍の将校やカールやルージュの女性群がきゃあきゃあいっているだけの相違でしかない。「新・平家物語」について、舟橋氏から訊かれたような質問をほかの人からもままうけるが、大体ぼくの歴史観はそんなところが基準で、史料や典拠は蒐集の可能な限界でやっている。もっともその方の渉猟には、週刊朝日編集部であらゆる助手的便宜をはかってくれてもいるし、その上いつか出版局長の嘉治隆一氏から「いちど時間を作って、平家史蹟を一巡してみませんか」ともすすめられた。これはありがたい。平家史蹟は、各地に無数だが、それらの現地に立てば、建築、美術、口碑、文書、一くれの土、ものいわぬ山河までが、昔を今に語りかけ、今を昔に考えさせてくれる。競馬場幻想などにまさること百倍である。宮本武蔵執筆のころから後は、史蹟順礼といったような旅らしい旅は一度もしていない。今ごろ西へ行けば河豚も食えるし──と〝楽しみある所に徹夜あり〟を机に克服して、やっと十二月中旬、腰をあげたわけである。  スケジュール万端、嘉治さんまかせ。ほかに同行は編集のK氏、O氏。東京駅を発、その日の午後に、名古屋の朝日新聞名古屋支社で挿画の杉本健吉画伯が「ふわァっ、は、は、は」と特徴のある笑い声と共に参加する。支社の人々、新東海のT氏や海潮音氏なども集まって、例のごとく名古屋文化是々非々談、二時間ばかり。この名古屋には今、平家琵琶の古曲を語る日本でただ二人のうちの一人という撿校がいると聞いて慕わしかったが、名物の酒まんじゅうを二つ食べ、まもなく近畿電に乗り、松阪へ行く。  途中、中川駅まで同車して、大阪行に乗り換えた海潮音氏は、降りる間際まで「しょうべん、忘れては、あきまへんぞ、しょうべんを」といいつつ降りた。そばの健吉画伯にもたれにもこの意味は分かりっこない。ぼくの旧句に、 せうべんの先を曲げるよ春の風  というのがある、これを旅先から色紙にでも書いて送ってよこせという御註文なのだ。まことにこの一行と前途の旅情にはそんな風趣が予想されよう。ひきうけて別れたが、その後、つい旅先からも送らず、帰京した今日までも、まだ約束を果たしていない。「あいつ、ほんまに、しょうべんをしよった」と名古屋の海潮音氏が、紙面の海潮音の欄で毒筆をふるわないうち、先にこっちで書いておく。  第一夜。松阪泊り。  三井八郎右衛門の松阪木綿の発祥の地。宿の戸田屋は、その旧本家のあとと聞くが、いとも簡素なもの。この侘びた庭垣や質素な風呂場が、近世日本資本主義に咲き栄えた一財団の故郷かとおもうと、なかなか感慨がわいてくる。三井は亡んでも資本主義なお亡びず、階級戦の旗も四方にへんぽんたり。そして、ここの松落葉や山茶花のこぼれている霜の庭を、朝起きてガラス障子越しに炬燵から見ていると、あわれここにも「今様平家」の無常がある。  着ふくれたどてらの背をみなまるくして、合宿連中、寒雀みたいに一つ炬燵へ起き揃う。健吉画伯ひとり、室生寺へスケッチに行くため、早朝にもう出かけたとある。ここの支局長から、伊勢と平家史蹟の関係など訊かれる。特に、行って見るほどな史蹟は伊勢に求められないが、清盛の父忠盛は、伊勢の国産品村の出生といわれているし、祖父正盛も、その先の維衡も、代々、伊勢守であった。いわゆる〝伊勢平氏〟なる発祥がそれである。  保元や平治の乱に、都へかけつけた伊藤武者景綱だの伊藤五忠清などというのは、みな伊勢の古市の人々で、いまの宇治山田市の附近は、当時、平家色の濃かった地方と見てまちがいはない。その伊藤五忠清は、後、富士川の合戦で、源氏の軍に大敗しているが、前の三井本家と共に、江戸から近世へかけて、伊勢商人ののれんを全国的に売った伊藤松坂屋などの祖も、よくは知らないが、古市の平家武者の末かと思われる。  鈴鹿山、関附近の山地から、伊賀へかけても、平家の一族は、多かったらしい。平家重代の刀、抜丸烏丸の名刀は、忠盛が、鈴鹿の山賊を討って、賊から獲たものだと伝説じみているが、史書にも載っている。また、忠盛が一日、河芸郡の別保(いまの上野)の浦へ遊び、漁師たちが、人魚を網に上げたものを見たという話が「古今著聞集」にみえる。  そのほか、小松重盛の子資盛が、都の内で、摂政基房の供人と「車あらそい」の大喧嘩をして、都から勘当され、しばらく、謹慎を命ぜられていた田舎も伊勢であったし、関の近くの三日ノ城址も、平家一族がいた所で、伊勢と平氏の関係は、優に一課題になるほどである。けれど、ぼくらの旅行予定では、ここはほんの振出しにすぎない。炬燵の上で、Oさんからスケジュールの説明をきくと、南伊勢をざっと一巡、紀州へ出て、史蹟行脚のやまは熊野三山から那智にあるらしい。そして京阪間を駈け巡り、屋島、壇ノ浦、別府、下ノ関、厳島とあるき、終りは、音戸の瀬戸の清盛塚という長旅行であるそうな。  ひとの事みたいにいうようだが、実際、ぼくは鳥羽から先の半島は初旅だし、スケジュールは嘉治さんが組んだもので、こっちは、あなた任せのかっこうなのだ。ただ、それにしては、平家史蹟巡りの第一日が、平家発祥の地としてあるなど、嘉治さんにいわせれば偶然でないかもしれないが、偶然みたいで、なんとなくうれしい。  ぞろぞろ、歩いて、宿を出かける。  町中にある鈴の舎大人(本居宣長)の遺蹟をのぞき、城址へのぼって、宣長文庫を見て降りる。冬の旅は、寒い寒い。腹もすきごろ、和田金のこんろを囲む。ここの松阪牛については辰野隆氏が何かに書いていたと思う。美味を追求する人間の貪欲にこたえて遠来のわれら凡夫を堪能させてくれるこの家のおばあさんの食牛育成における仏心即商魂は、なるほど辰野さんの随筆になりそうだ。鎌倉の久米先生、今先生、小島先生などみな来たって文字どおり酒池肉林の煩悩を医せられた由を、牛鍋に青葱を入れながらここの仲居さんたちがおうわさする。ただし鎌倉の悪源太や老武者たちも、この平家発祥の地においては、やはり余りに荒びにけん、印象はよくなかったように伺う。  数時間後は、むかしの参宮街道を、車で走っている。黄塵ばくばくの中に、豊原、斎宮などという町の家並が過ぎてゆく。伊勢らしい在所風景、どの家も、商家らしいのに、戸は昼もおろして、しんと眠っているような田舎町ばかり。名古屋、東京の音響や時潮を頭にえがいて見て行く。こういう旅をしてみると日本も広いと思う。宮川の堤へ出る。堤に添って、丸太足場みたいな物がえんえんと組んであり、それに何万本とも知れない大根が干してあった。伊勢平野の夕日に染んでそれは壮観でさえある。〝大根干し〟の季題をおもい出したが、句にならないまに、山田市をすぎて、外宮につく。  内宮へ詣ったときはもう暮色。参拝中に、とっぷり夜になる。禰宜、神職おふたり提灯をもって案内して下さる。神宮の闇夜はちょっと世間にも山の中にもない澄みとおったべつな暗さという感じである。提灯の灯が橙色にこんな美しく見えたこともない。その眼で杉のこずえの星を見る。星はむらさき色だという子供の視覚は正しい。社家で薄茶をいただく。みんな喉が渇いていたような飲みっ振り。その間にと、筆墨や画帖をさし向けられる。これはこの先とも行く道々で覚悟しなければならない通行税かと気がついた。夜もおそい。押しつけっこしていてもと、今様めいた思いつきを書く。 ここは心のふるさとか ひさの思ひに詣づれば 世にさかしらの恥かしく うたゝ童にかへるかな  木炭車、神橋のそばに待ちながら、ブウブウ風圧をかけている。しばらく動かず。外套の襟に首をすくめながら夜空の朝熊山を見て佇む。十余年前、武蔵を書いていたころ、登ったことのある山だ。平家との関係では、佐藤義清の西行法師が、しばらく山の西行谷や二見近くに住んでいたことがあるらしい。彼の和歌〝何事のおはしますかは知らねども──〟を芭蕉もこの辺を歩いたとき思い出したものであろう。〝西行谷ノ麓ニ流レアリ、女ドモ芋洗フヲ見テ〟として、 芋洗ふ女西行ならば歌よまん  という句を遺している。  鳥羽の海べの旅館に泊る。健吉画伯、室生寺辺は、かなりな雪だったという話。嘉治さんも東京以来かぜひき、健吉さんもその雪でしきりにゴホンゴホン。ぼくも少し怪しくなる。Oさんに注射を乞う。咳一つしないのはKさんだけである。そのかわり一行中ただ一人の佐藤垢石型(あんなにお爺さんではないが端然自若のところが)で、かぜぐすりは夜ごと独占。もっとも支局長その他、土地土地の猛者が挑みかかってこれと応対よろしくあるので、旅愁友なきをかこつ憂いはさらさらない。  翌、早朝に自動車二台で賢島へ向かって走る。冬日和の志摩半島を南へ南へ約二時間ゆく。  波切の漁村あたりは洋画家がよく取材に歩くところと健吉画伯がいう。御座湾の小埠頭で車を降りる。ちょっと、連絡ちがいが生じて、待っているはずの小汽艇が見えない。支局長が気をもんで島へ電話したり船長を探しにゆく。  その間を、一行埠頭の茶店にはいって蜜柑など剥く。居合わせた六、七十歳の老漁夫と老海女から、志摩名物の海女の生活をいろいろ聞く。終戦後一しきりの海女の稼ぎはまったく海底の珠採り姫そのままな漁村インフレの花形であったらしい。だが海女も三十歳までが花だと、今は老いたる海女のかこち顔であった。  すると、この老海女の娘だろうか、カールをして、男ズボンに下駄ばきという顔の丸っこい戦後派娘が「わて、海女なんて、大っ嫌いさ」とたれもききもしないのに、抗議をつぶやく。そしてレコード仕込みのブギウギやら与太を飛ばしたりしてお客のぼくたちに、お愛想のつもりか、しきりに皆を煙に捲く。  するとまた、破れ障子をあけて、日の丸鉢巻ではないが、それに似たものを蓬髪に巻き、頬のとがった青年が、底光りのする眼をもって、 「あなたは、作家だってね、そんなら聞いてもらいたいことがあるんだ」  といってぼくらの前に飛び出して来た。そしてケースのチャックを引っ張るとガリ版のパンフレットだの原稿綴じみたいな物を展開して、穏田の飯野吉三郎先生とかの衣鉢をうけたような話から喋々と説き初め「ひとつ、読んでください」と、世直し運動宣言のガリ版刷りをくれた。漁村製の戦後派娘は、あっ気にとられているぼくらを見て、「これよ、これよ」と、自分の頭を人さし指で突っつきながら横目で笑っている。ハハアとこっちもうなずかれた。けれど伊勢の宮柱のある志摩の国だけにこういう人を見るのはなんだか皮肉である。あるいはかつての神風が地元だけに他地方よりは一倍強烈だった惨害によるものだろうか。なにしろ不愍な気もちと、おかしさを禁じえなかったが、その間に島から汽艇が来た。海上わずか十五分で賢島へ着く。真珠翁の御木本おじいさんが鎮座まします島である。  どうも、埠頭で接した小劇場の一場面的な印象があって、その頭でおじいさんに会ったのはいけなかった。真珠工場はさまでな施設とも見えなかったが、おじいさんの住居は思ったより高い丘の中腹にあり、登ってゆくのに息がきれる。  ガラス張りの貴賓館らしい下に、翁の一邸があり、そこの縁先をあけ、古色蒼然たる例の山高帽に、黒マント、顔半分、襟巻きに埋めて、松葉杖をつきながら、西洋アヤツリ人形みたいに、本年九十二歳のおじいさん出座。  一同は、庭先に並べられた補助椅子に、一だん低く腰かける装置となっていて、主客あべこべだから、この御木本島では、おじいさんはたしかに国王様である。「よう、来たナ」といった調子。鬼面人を脅す悪戯っぽい趣味がおありらしい。「まだ生きるよ、死んだらこんどは、神様になって弗のおサイ銭を取ってやる」と、死後の欲は神様志願らしい。「わしは九十八まで生きる。君も長生きするさ」と励ましてくれて「お通さんを書いたような男は、どんなかと思ったら、案外、まずい男だな」と、ぼくの手を握っていう。そこで、ぼく。「おじいさんも、そのノリ刷毛みたいな眉毛を取ると、余りいい男じゃありませんな」と戯れると、ウフフフと大笑して、やにわにマントの袖を刎ね上げ、お孫嬢から〝御木本幸吉伝〟二、三冊を取って、腰なる矢立の筆を抜き、それにサインした。そして、「君に、やる。そっちの画描きにも一冊。新聞屋にはやらん」と、のたまう。言行おおむねかくの如しである。  翁の事業的功績は大きいが、翁の人生は翁自身の語るものを、すべて素直に伺っても、まことに他愛がないものだ。真珠はあんなに産みもし磨かせもしているのに、翁自身の人間は、いまだに帆立貝のままである。この親帆立貝は、割らない方がいいように思われた。教養的な真珠層は巻いていそうもない。その点、かつてこの九十二翁の生涯を映画化しようという企画をもって、島へわざわざ訪ねたと聞く松竹の大谷竹次郎氏の方が、苦労も権化的な事業欲も似ているが、どこか光のちがいがある。住むところの海と土壌の相違かと思う。  その日の晩、ぼくらは紀勢線の夜汽車に長いことウトウトしていた。佐奈駅から乗って尾鷲まで行くのだ。午、賢島にいたことを考えると、驚くべき長コースで、志摩、伊勢をA字形に自動車と汽車で縦横走して、今夜中に、紀伊半島の尖端に近い漁港まで行こうというわけである。  長島駅で眼をさまし、引本の漁港の灯に、熊野灘を窓外に感じる。やがて尾鷲。駅前から海気にそよぐ狭い灯の町を車で一走、磯の断崖の上にある五丈という変った名の旅館におちつく。  Oさんのスケジュール説明に「あしたは、朝寝できます」に、やれやれながら、どてら心地、ゆったり、食事につく。Kさんの孤杯、例によって端然自若たるところへ、にわかに、町長、宿の主人、支局の人々などが来て、大いに賑わう。町長さんの古曲〝尾鷲ぶし〟を聞く。さらにぼくの方へも「土地の婦人会の方たちがお目にかかりたいといって来ていますが」  と、主人を通じて、申し込みがある。女性がたゆえ、大いに歓迎申したく思うが、町長寄贈の町の女流音曲家もすでに来ている所へお通しして、後に、淑女がたの父君や父兄からそれと同一視したなどという抗議もあってはと、謹んで御辞退すると、婦人会の方では「それなら今夜のお台所の方を皆して手伝わしてもらいます」とのことに、いよいよ恐縮した。そこで後刻、膝を正して、皆さんとちょっとお目にかかる。  この地方には八鬼山だの九鬼だのと、鬼という字のつく地名が多い。  いにしえ、この辺りの津々浦々が熊野海賊の根拠地であったためなのか。伊勢平氏との海運関係のあった文献もみえるし、瀬戸内の平家海軍を封じた熊野海賊の外洋活動は、源平裏面史に重大なクサビを持つものである。ひいては、ここの外海熊野と、宋大陸や南方諸島との交流なども考えられないことはない。波濤千年の人文的感化は、今も、漁港インフレの余波に見られるし、妓たちのことばまで、荒磯の風に耐える荒さと気のつよさをもっている。  それにしては婦人会の人たちのつつまし過ぎるばかりなのが意外であった。殊に、旅館の台所を手伝ってくださったにはお礼の辞がない。そこで、翌朝は、健吉画伯と二人して、せっせと、お礼のために色紙短冊を書いた。健吉さんはもっぱら一筆描きの飛天女、観音、菩薩像など描いてゆく。ぼくが讃をする。讃の手があくと、間に、句を書く。 熊野路や小春の海を見ぬ日なく 海明り障子のうちの水仙花 世にすまぬ心地師走の旅うらゝ  など。旅は、書きすて御免。  正午近く宿を立つ。しかしこれから紀州の木本から新宮までの汽車は通じていない。嶮峻矢ノ川峠をこえてゆくのだ。Kさん、Oさんなどバスで先発。ぼく、嘉治さん、健吉画伯、五丈館主の四人は、トヨペットで走破ときめる。このトヨペットは営林署の新免氏が、宮本武蔵とは先祖の旧交ありという好意から、運転手付きで貸してくれたもの。顔も見ないし、その他になんの知ることもない人。思わぬ世間の恩というべきである。  矢ノ川越えは、紀勢岬の景勝といえよう。日本画的風景ではない、どうしても南欧のコバルトを要する。などと三十五度角度に這い登ってゆく自動車の中でいい気になっていたが、運転手氏にいわせると、海抜八百メートル、大念仏だの小念仏などといって、バスも恐れる難所があるとのこと。思わず道をのぞくと、岩磐に、剣のような氷柱が下がっていた。  峠の上で、降りて一休みする。岩蔭に、杉皮と戸板で囲んだホッ建て小屋がある。みかん、キャラメルなど、少しならべて、赤子を負った三十歳がらみの痩せた女性が、土間の焚火のトロトロ火へ、薬鑵をかけて、湯をわかしている。  ぼくらの姿を見、茶をついでくれる。その手の痩せていること、この山中の冬木の肌にもない。お負いばんてんの背をのぞくと、女の子らしい、何も知らずに眠っている。「こんな山の中で、商売になりますか」と嘉治さんが訊く「ええ、一日六回ほど、バスが通るものですから」「ほかに人は通らないでしょ」「めったに」「危険じゃありませんかね、お若いのに」と、嘉治さんはほんとに心配顔をする。なお訊くと、戦時中、横浜で戦災にあい、良人に死なれ、子をだいて、郷里の尾鷲へ帰家したものの、そこにも、祖母とカリエスにかかっている妹があって、どうしても、自分が働かなければならないし、狭い土地では、子を抱いて働ける仕事もないからというのであった。  足柄山の山姥よりこれは生やさしい山中生活ではない。都会なら未亡人問題も叫べようし、この子にミルクを与えよということもできるが、この人は、母であること以外何も思っていないらしい。無智ではなく、多少の教養もあり、都会生活も知っていてである。別れ際に、嘉治さんが、そっと茶代以上の志をあげたらしく、ぼくらが、トヨペットに乗りかけると、追いかけて来て、どうしても、それを取らない。「こんなに、いただいては」とウインドへすがっていう。慰めるに言葉も知らなかった。  回顧して去る、といっても、こういうとき自分の仏心を自分でくらまして早く他の視界へ紛れ込もうと希うさもしい自我をごまかしきれない。国破れて山河有り。これは詩人の表現と知った。その山河の中にさえ、こんな母子がいたのである。(二六・二・一一) 茶売女の乳も涸れがてよ冬の山 湯ノ峰から那智の巻  歩いても、バス、ハイヤーの場合でも「峠」越えはロマンチックだ。一変する視界には何かいいことばかりが待っているように楽しい。ここで、ぼくらの車は、伊勢から紀伊へ跨いだわけだ。南へ向かって急速度に降りてゆく。お互いは急に陽気になった。  ゲジョ山だの飛鳥だのという千山万水の数十キロを、またたくまに走破して、麓近くで「小坂村郵便局」とあるのを、ちらと見たと思うと、 「犬を見ましょうや。紀州犬ですぞ。すばらしいのが、そこの家には生まれているはずだ」  急に、トヨペットをとめて、五丈館氏も運転手氏も、降りてしまう。そして道ばたの農家の横へはいってしまった。  なるほど、何匹も飼ってある。クサリで繋いである純白、オリの中に入れてある狸みたいな茶褐。ぼくらが降りて近づくと、さかんにワンワン吠えたてる。 「これは、ええぞ。どっちかな、ええのは。ヤ、もう一匹いる」と、この運転手氏がまた犬好きらしい。ちょろと、寄って来たもう一匹の白の尻ッ尾を握って、目の高さほど持ちあげた。  飼主とみえ、人のよさそうなその家のお婆さんが出て来た。そして五丈館氏や運転手氏などの、土地者同士が顔をよせあい、いやもう、話すまいことか。まるで犬の市でも立ったように、夢中である。 「どこの犬ッ仔は、まだ持っているか」「いやあれは、大阪へ四万円で売れたがな」「ほう。うちのは共進会で賞牌をとったぞ。この犬は、猪を取るか」「まだ、わからぬ」「肉をくれてみれば分かるさ。肉を食う犬は猪を取る。猪を取れんような犬は、紀州犬じゃない」といったような会話。  杉本画伯はスケッチに他念がない。嘉治さんとぼくは、その人たちの専門家的知識に傾聴する。まず、純紀州犬は和歌山県にも近来何匹もいなくなったという話。鑑識法としては、脚の爪に、もう一つ、雑種にはない水掻きみたいな爪があるのが良く、顔は両眼の眉間せまく、狼の精気と、狸のような顎をもち、尾は高く巻いて、桃いろの肛門が太陽へ仰向いているようなのを良種とするなど、この道の大家ばかりが揃ってしまったので、話はつきない。  そこへ、お婆さんの娘が、また一匹、白い仔犬を、自転車に乗っけて分家から持ってきた。マニアたちは陽が暮れるのも忘れて、またその品評審査に熱中しだした。いったい新宮には、いつ着くのかと、気をもんでいると、 「じゃあ、婆さん、また帰りによるからな」  やっと、自動車は、走り出してくれた。やれやれである。まもなく、木本。  町を半巡する。かくべつ眼につく物もない。七里御浜をびゅんびゅん快走しつづける。紀南第一のドライヴウェーといっては違うだろうか。熊野灘つづく限りの長汀曲浦と、ここの松々々の磯松原は、湘南にも、裏日本にも、ちょっと比肩しうる地を思い出せない。枯れ芒の白い穂の波、ハゼ紅葉の真紅、黄いろい灌木などもまた、この群松帯を引きたてているのである。それに遠く大紀山脈を染めている夕日の余映も、ここの木蔭にまで落ちて来て、七里の道も、恍惚たる一ときのまに通ってしまった。途中で、ちょっと見た天然記念物とかの獅子岩などはなくもがな。  熊野川を渡る。長橋を堺として、都会の屋根。新宮市は、もう、宵の灯、賑わし。  橋畔の交番所前に、朝日の社旗を振って待つ人影がある。M通信局長だった。同車して、熊野速玉神社へゆく。  平家関係の古文書類、宝物など、観せていただく約束だったが、夜になったので、明日のこととして、旅館へ落ちつく。Kさん、Oさんも着く。販売店のH老、その他、大勢で食事。  例によって、ここでも、色紙短冊など、はや持ち出される。健吉画伯、嘆ずらく。「まるで、源泉課税みたいですな。ふわっ、は、は、は」  尾鷲から送ってくれた五丈館氏と運転手氏は、ここで尾鷲へ帰った。あとで聞けば、矢ノ川峠でトヨペットが故障、帰りは夜が明けてしまった由。なんとも、多謝多謝。  こっちも、翌朝は六時に起床。  市中の秦ノ徐福の墓、浮島など、見学する。  紀南の都市は、例の大震火災で、ここも戦災復興の最中かとまちがわれる。バラック群落、道のわるさ。──ここを蓬莱の国として、不老長生の薬を探しに来たという徐福は、よほどあわて者だったにちがいない。  八時半ごろ。きのうの熊野川の橋畔から、プロペラ船にのって、瀞峡へ向かう。土地の人は「とろ」といわない「どろ峡」という。  ここから先は、土地の人も交えず、本来の一行五人だけになった。嘉治さん、健吉さん、Kさん、Oさん、ぼく。プロペラ船のお客もまばらで、蓙の上に、おのおの、足腰をのばしたせいか、内輪同士のくつろぎに、旅も、きょうあたりから、なんとなく、旅情の子らしい侘しさにとらわれてくる。家郷千里ほどでもないが、熊野川数十キロの水は、どこか、中華の江南にも似て、Kさん、Oさんのジャーナリスト神経も、ここでは居眠るほかはない。  第一、まるで話が聞こえないのだ。初期の郵便飛行機に乗っているくらいなプロペラ音と震動である。そして船は、所々の砂利洲に着き、四、五の人が降り、四、五の人が乗る。人の降りる所、江岸の山添いに、わずかな屋根が見える。また、遡行してゆく。水悠々。人悠々。  ふいに、ぼくら旅客の眠りをさまして、案内嬢がいじらしい嬌声を張りあげる。瀞八丁から奥瀞までの探勝の美文は彼女のそらんじるまま口をついて出で、船体の震音とともに、一つの音楽にさえなっている。水悠々。人悠々。  宮井から、水路がわかれ、北へ溯行すると、川幅も狭ばみ、流れも急になってくる。奇岩乱峭といった瀞の絶景が、これでもかこれでもかといわぬばかり、大自然の奇工が、両岸から圧してくる。  見上げるような釣り橋の下。そこの河原でプロペラ船を下りる。断崖の上に見える旅館へ、昼食を求めに登ってゆく。Kさんの労り心、ぼくに、杖を渡してくれる。この杖、石楠花の木なり。「道中の花はこれにおしなさいよ」の意か。なるほど、登るのに、たいへん助かる。この年の暮で、小生の五十九もおしまいになる。来年は六十。記念すべき杖、東京まで持って帰ろうなどと考え考えやっとのことで登りきる。  えらい所へ旅館を建てたものと思う。が、説明をきくと、ここで峡の絶壁は三断していて、奈良県、三重県、和歌山県の三県が、一水をへだてて対い合っているのだとある。だから旅館も、母屋は奈良県、奥の別館は、和歌山県だ。ぼくらは、奈良県の間で弁当をつかう。  あつらえたとろろ汁、まにあわず、下のプロペラ船が、「出るようっ」と、呼んでいる。あわててまた駈け下りる。上瀞巡り往復三十分。絶景に飽く。  あたまの中に、へんな印象が一つ残った。どこかの岸に無尽会社の広告が立っていたことだ。また乗客のはなしでは、ここ数里にわたる北山峡一帯をダムとする県議案も進捗しているとか。そうなると、いまの旅館あたりが湖畔となり、未開の風景がまた天上から降りてくることになる。自然も所詮は、その生態を科学と合致させなければならない時代に来ているらしい。  宮井でのりかえ、べつなプロペラ船で、本宮村へ溯る。着いたのが、もう夕方に近い。「ここが本宮か?」と、寒さにふるえながら村道の辻に立つ。あらためて思うほど、四顧、むかしを偲ぶ何ものもない。まったくの山村である。ただ、バスの待合所の前で、ぼくらを、もの珍らに見ている村の子どもたちの中に、ぼくはこの地にかつて平安朝の無数の都人やら、白河、鳥羽の諸帝がいくたびも行幸された世代の〝昔の顔〟を一つ見つけ出した。それは赤ンぼを負ぶっている十二、三の童女である。嘉治さんを振向いてぼくはいった。「どうです、この娘の顔は」「おうほんとにいい顔ですな」「平安朝の落し胤ですよ、きっとそうです」ぼくの空想ではなくそういうものはこの土地に遺っていていい理由がある。  鳥羽上皇の熊野御幸は、生涯二十三度に及ばれたとある。白河、後白河、堀河、高倉帝以後も、歴代、行幸は度々であった。随行の公卿百官から従者まで、数百名にのぼる行旅がえんえんと京都からこの山岳地まで二十日がかりで来たわけだ。  途中の風雨や、山坂の嶮路など、どう越されたのか想像もできない。殊に、それだけの人員やら熊野三山の大衆がこの地方にあふれた時、どんな景観が、この狭い山間に現出したことだろうか。  夕方の冬風の中を、村道の凍てついた小石を踏みながら、ぼつりぼつりと歩いていると、幻想はとめどがない。おそらく八百年前後このあたりは、熊野本宮の社殿を中心に、仏舎堂塔も、平安朝建築の精粋を極め、仮御所や社家僧房から随身の旅館、雑色たちの泊る聚落までを加えて、さながら山中の小京都ともいえる社会がここに営まれていたのではあるまいか。  信仰もだが、信仰に伴う行楽の意味も充分にあったのだろう。女院たちも、また源平の武将なども、単独でみな来ている。熊野詣では、ある一時代、貴族や武家の流行でさえあったようだ。そして平ノ忠盛は、熊野別当の息女に通って忠度を生ませ、源ノ為義にも、同じような艶話がある。公卿や郎党のあいだにも、とりどり男女の情事もなかったとは限らない。厳島の〝厳島の内侍〟といったような熊野巫女もたくさんにいたのである。煙村の少女、温泉の湯女、物売りの女など、かえって、都人のすきごころを疼かせたことでもあろう。──などと空想はまたさっきバスの待合所前で見た村の童女の顔に返って来て、「ああいう顔はこの土地に遺っているはずの種族なのだ」という自分の発見をなお独語して理由づけていた。  村長、助役さんが、途に迎えて下さる。村端れの社殿に詣りにゆく。ただしここは明治何年かに遷された地域。歴史的な大洪水や山つなみなどで、八世紀前の小京都は、今では完全に熊野川の河底になっているという。  バスで湯ノ峰へゆく。約二十分。暮色の深い山ふところに、宿屋の灯と、湯けむりが、待っている。あずまやの四階に坐りこむ。きょうもよく歩いたもの。東京を出てまだ五日目。都会神経を絶縁されると、こうもポカンとするものかと嘆ずるように、Kさん、湯上がりタオルをぶらさげて、郷愁の顔を窓に出す。「降って来ましたぞ。この山で、雨でさあ」と、火鉢に帰る。  かぜ気味の健吉画伯。Oさんの注射、トン服もこたえがないので、湯は我慢しますという。ところが、拙稿「新・平家」の挿画は、今夜、描いておいていただかないと、東京便に間に合わないとそのOさんが催促する。昼は医薬を与え、夜は徹夜をさせる。なんのことはないOさんも国税庁にいたことがあるんじゃないかと皆して笑う。  食膳は、山味たっぷり。干鮎の煮びたし、とろろ汁、わらび、しいたけ。二の膳、いなりずし、さんまのすし。  断るまでもなく、海抜何百メートル。どうやっていても、寒いこと寒いこと。寒くなさそうなのは、独酌居士のKさんだけに見える。  寝るにしかずと、別室で夜具にもぐり込む。  四階の雨戸を打って、夜雨蕭々と更ける。隣の部屋では、時々、紙の音、ゴホンゴホン、気のどくに、健吉さん、夜もすがら、カンづめ。  このフレッシュな洋画家には、名古屋の家に、まだ健吉画伯を健坊としている老母がいて、こんど、息子がぼくらと同行すると聞き「熊野詣りに、船が沈んで死んだ知り人があるからね。断れるなら、やめてください」と、本気になって心配したということである。「シンパイナシ、リクチヲユク」と、家の母へ、途中から電報したとも聞いている。あわれ、留守のお母さんのためにも、この子のカゼを重らすな、と風雨にうごく十燭の電燈の笠を見まもりながら、こっちはいつのまにかグッスリ寝こむ。  旅館の主人、早朝に「いいあんばいに、猪がまだありました」と、報告してくる。ゆうべ猪がとれた話が出て、まだ肉が残っていたら馳走してもらいたいと頼んでおいたものだった。朝めしを抜き、早おひるに、その猪鍋を突っつき合い、田辺から山越えでくるバスを待ち合わせる。  鍋は底になったが、バスは来ない。番傘を借りて、小栗判官と照手姫の遺蹟など見て歩く。平家のころは、ここは「湯垢離の場」といっていたから、熊野行幸の随身たちが、わんさと、泊ったことだろうと思う。「プロペラ船に、間に合いませんなあ」「間にあわないと、どうなります」「あとは、新宮行がありませんから」「もう一晩ということになるんですか。それはたいへんだ」旅館の前で、KさんやOさんと、旅館の主が、首をかしげている。「歩きましょう」ということになった。トランク、ふろしき包み、その他を、旅館の爺やと女中さん二人が、振分けにして担いで行く。こっちは、追いかけるかたちである。思うに、同様な例は、きょうが初めてではないらしい。  プロペラ船の本宮村まで、新道なら四十町、旧道だと三十町ほどだという。十町稼ぎに、旧道の山坂をえらぶ。熊野杉の密林がバシャバシャとわれらの番傘に雫をそそぐ。歩けば歩けるもので、ぼくとてそう一同におくれはとらない。石楠花の杖がここでも役にたったことひと通りではない。「おうういっ」と、旅館の爺や。また先へゆく女中さん二人も「オオーイ」と、谷をへだてた新道へ向かって声をはりあげる。新道の方にも、たれか、旅館の男が急いでいるらしい。もしあとからバスが通ったら、さっそく、つかまえるつもりかもしれない。 「もう、いけない。一ぷくしましょう」まっさきに、ぼく弱音をはく。「もう少し、もう少し」と、旅館の爺やは、片手で、ぼくの腰を押し上げながらベンタツする。たれかほかに参った顔はいないかと前後を見まわす。こんなときいるのかいないのか分からないのが嘉治さんである。「健脚ですなあ、どうも」と訊くと、この辺から龍神ノ湯、大台ヶ原、高野あたりまでを、中学一、二年のころに歩いたことがあるという。爾来、歩く旅では人後に落ちない無数の体験をもっているらしいのだ。どうも、このさい語るに足らない道づれだった。しかし、Kさん、Oさんあたりは、そろそろぼくに近い呼吸ひっぱくを洩らし始める。「えらいですな」「いや、驚きですな、じっさい」「どうなるんでしょう」これは女性的なOさんの声である。ぼくもまねして「どうなるんでしょう」Kさん言下に、「どうもなりませんよ、歩くんですな」するとたれかが「これですね、猪を食ったむくいというのは」──みんな笑った、ぼくも笑う。肌着の毛のシャツに、汗が流れているのを覚える。そのくせ、氷点下の山の気温と、この雨。おかしいとは、苦しいことである。  プロペラ船、二十分も、ぼくらを待っていてくれた由。ほかにお客は少なかったからまあよかったようなもの。  宮井からは、その日、船便なし。降りてバスに乗りかえる。熊野川西岸を、数十キロ、このバス、よく事故がないような車体も車体、道も道。毎日、このはこの中を職場としている運転手君と車掌嬢の生活を思いやらずにはいられない。が、それは旅客の感傷にすぎないか。町につく、村をすぎる、部落でも乗り降りする。朝鮮婦人の大きな買物籠を客の頭ごしに渡してやったり、子供を抱き上げたり、車掌嬢も親切、運転手君もじつに明るい。悪路も、人のハンドルによっては、平和に行けることを、二人の労務者が、身をもって描いてゆく。  新宮市は、灯ともしころ。雨の中を約束の速玉神社へ駆けつける。社家の若い方ふたり、古文書、幾種類かを揃えて待っていてくださる。平家繁昌のころの寄進状などに興味のある氏名や文字を見出す。何かと、要項をメモして辞去する。ここには国宝が百点以上もあるので著名だが、やはり鎌倉期以降のものが多いとのこと。  一昨夜泊った旅館のすぐ近所が、今暁、火災で何軒か焼けたという話を車の中でM通信局長から聞く。一晩ちがい。一昨夜だったら椿事百態だったに相違ない。  駅から汽車、勝浦で降りる。越の湯まで歩く。ここも災後の町、宵の雨とぬかるみをたどって、海のにおいを闇に嗅ぐ。ちょっと一渡り、小汽艇に乗り、旅館にはいる。ここは熱海、別府なみ。急に、都会人の遊楽地気分の中にまごまごする。  市長大会といったような大広間空気と廊下の人々を見かける。一市長さんが刺を通じてここへも現われる。源泉課税の色紙短冊を健吉画伯とすませ、早めに眠る。例の健吉氏の一筆仏画に。 熊野巫女申さく旅はたのしめよ  朝。この日、晴れ。  熊野三山のひとつ、那智へ向かう。烏帽子、妙法の山ふところ。タクシーの走る村道や山道に、笈ずるを負った文覚上人の姿をえがいてみる。山村の軒傾いた家々の文化が、八百年を、どれほど変っているだろうか。おそらくは、何ほども変っていまい。  三十分ほどで那智。  杉木立の石だんを降りる。夜来の雨に、ものみなまだ濡れている感じ。朝の陽、杉をとおして、右側の社家の、お札売り場を、明るくしている。水色の袴、白衣の若い神職ひとり、ぼくらと知ってか、待ち顔に、迎えてくれた。そして、ぼくらを導いて、那智の滝を真向かいとする奔流の前に立たせ、「ここでは、滝そのものを、御神体としているわけです。自然の美、そのものを、神と観じようとした古人のこころはわかる気がします。原始宗教的だといえばそれまでですが」と、若い神職の説明にはどこかインテリなにおいがある。健吉画伯は「いい。これはいい」と、つよく滝へうなずいている。左歩して見、右歩して見る。「こちらへ」と、また神職にみちびかれて、岩々たる巌根を踏み、那智の滝の、真下に立つ。  腹に力がはいる。ふわとしていると、持ってゆかれそうな瀑風が気流のように渦まいている。ぼくらの立ったその日の条件もよかったのである。雨後の空から太陽が滝の薄衣を透して、うしろの巨大な岩壁へ、照明を局射しているように、水沫の光焔を描いているのだった。いや、さらに二条三条の小さい虹が、滝を斜めに、まつわっている。那智百三十メートルの全姿を、美の女神と見るなら、虹は腰衣から垂れている五彩の紐が風に吹かれているようである。「描きたい」と、杉本氏、うめく。 「いまに描く。取っ組まなければ。とても……とても」彼のごとき若い芸術家をして、こういう意欲を燃え立たしめる何かを、那智はたしかにもっている。「生命をかけて来い」那智はいっているようでもあった。と、ぼくが傍らで空想したのは、この下に、「新・平家」のうちに描いた文覚の姿を置いていたからでもある。文覚石というのがある。滝の真下から離れて、また一段、奔流の落下をなしている所なのだ。よく絵にある文覚荒行の図などは、空想すぎるもので、何ものもこの大瀑布の直下には身をおけたものではない。  帰りがけ嘉治さんと、若い神職が、何やら親しげに話し出した。紹介されて、その神職は、藤本プロのニュー・フェースの角梨枝子の兄さんであると知った。いまの日本の文化人分布のなんというおもしろい対比だろう。ついこの人の神職生活の感想など聞きたく思ったが、先に時間がないらしい。石段をのぼりのぼり数語を交わす。虚子氏の句碑のそばからハイヤーに乗り、なお山上の那智神社と青巌渡寺へ走る。  石段また石段。もうおしまいかと思うとまた石段だ。杖、いよいよ必需品となる。社殿で、奏楽を見る。可憐な緋の袴の舞童女二人に、楽人三名。かすかに古韻がしのばれる。  隣がすぐ青巌渡寺。あまり廂が接しているために、神社と寺とのあいだに、古来から争いがたえないと、たれかが途中で話していた。那智の滝は、神社のだ、いや寺のだ、ということらしい。家元争いに似たようなものか。ぼくはそこで滝に代って、何かいい残したくなった。けれど、神官も僧も、そんな隣づきあいの悪い顔もしていなかったので、黙って別れた。だからぼくの胸の中にわいたことばは、帰りのタクシーの窓から風の中へ捨てて帰った。 われは、天楽を好む自然の一童子 社瀑にあらず、寺瀑にもあらず わが名は、那智の滝なり  よけいなおせっかい。はなはだつまらない。しかし、那智の印象は、この国がもっとも平和で最も美しかった時代の処女に会ったように、忘れがたい。いろいろな意味で来てよかったと思う。その朝の幸を感謝された。杉本画伯も恋々と那智の美について車中語りつづける。  那智駅で大阪行き急行を待つ。この海辺の駅の清潔なのと、またホームの構造に頭がつかってあるのに感心する。磯松の大樹がよく建築の中に生かしてあるなど、気のきいている駅である。  車中、窓外に蜜柑山をしばしば見、またよく蜜柑を食べ、五時何分かに、大阪の天王寺駅に降りる。社のY氏、H氏などと、ラッシュアワーの中で、やっと出会う。朝日会館の「あさか」で友人の河合卯之助氏だの富田砕花氏、また京阪間の平家史蹟にあかるい先輩たちが待っていてくださる由、すぐ迎えの車にとびこむ。  大阪の市街は、東京よりも、なぜか暗い気がした。通った街のせいかとも思う。(二六・二・一八) 淀川から神戸界隈の巻  街の騒音にも性格がある。大阪の音と、東京の音とでは、何かちがう。朝、旅館の壁の中で、眼をさましても、大阪の音が、すぐ、耳へ混み入ってくる。  市電、自動車、遠いブザー。階下の女中さんの声や瀬戸物の音や、隣室のお客の会話だのスリッパの音性までが、交響楽的に、東京ではなく、大阪の朝の音である。  だが階下の広間に起き揃ったらしい連れのアクセントだけが、四隣にそぐわないものに聞こえてくる。本社の人、訪客も来ているらしい。大急ぎで身じたく、洗顔に、裏梯子から降りてゆく。かつての上方女形、雀右衛門の住居であったと聞くこの宿。お勝手や細廊下に働く人影も、小庭に古りた竹のすがたも、みな道頓堀の名女形といわれた主のかたみかと、なんとなく朝寒のいじらしい。  朝食。そこへもう富田砕花氏、元気よくやってくる。ゆうべの朝日会館の「あさか」の席では、河合卯之助氏や京阪間の史蹟研究家の数氏から教えられるところが多かったが、その上にも、砕花氏は、きょうの案内役を買って出てくださったわけ。──労や多謝しなければならないが、どういうものか朝日の出版局内では、氏を愛称するに「風」というニック・ネームをもって送迎している。この人の案内に従うことは、従って「風」について歩くということになりはしまいか。  自動車来る。風老、運転台に心得顔、詩人に年なし、ハンチングをかぶって、赤ら顔のこのオプティミスト(楽天家)、すぐ後ろへ肱を乗っけて、さっそくコース説明、天候予測、談笑風発。  Oさんは、午前中留守番。Kさん、大阪での会議すまして即日、東京へ帰る。そこで車内のうしろ側は、杉本画伯、嘉治さん、ぼく。  天気悪く、寒く、何か降りそう。自動車、凍てきった舗装の街路を縫う。ゆうべからにわかに都会がめずらしい旅行者には歳末色がよけい眼につく。交叉点では時々ストップ。そのたび、真剣な生活の列のまえに自動車がおかれる。きょうばかりではないが、何か、すまないような気がする。  陸橋をこえている。たぶん豊崎とか十三とかを通ったのだろう。市外の北郊へ向かっているのは確実だ。大阪特有な煙突とスス色の庶民街が、みぞれ曇りの下に見わたされる。朝火事か、消防自動車の超スピードと、すれちがう。  ポツ、ポツと、ウインドウに雨の点。粒が粒を打ち、棒になり、一枚の濡れガラスになるころ。「はてな?」と風の砕花老、そろそろ小首を傾げはじめ「××化学工業の中っていうんだが、中だけに、始末がわるいな。いちいち、訊いて歩くのもへんだし」と、左顧右眄、忙しげである。「だいじょうぶ、富田さん」と、後ろの、われわれ。「分かってんですよ、けれど、なにしろ……殖えたなあ、この辺も、工場が」「何です、工場の中にあるというのは」「遊女塚ですよ。ほら、ゆうべも、あさかの席で、話に出たでしょ。そいつをね、どうせ、江口へ行く途中ですから、ご案内してあげようと思いましてね」  後ろで、笑ったりしては、いけない、御好意、なかなかである。  交番で訊く。ぐるぐるまわる。わからない。そのうちに、風老。「あ、神崎橋、この下が、十三橋なんだろ。この辺、この辺」と、運転をコーチして呼ぶ。川の西岸をむやみに行く。旅の子の心細さいわんかたなし。さっきの交番所でも、「それは今、××会社工場と、会社名が変っているんじゃありませんか」といわれたもの。もっとも、その注意によってようやく所在のヒントは得たらしい。  じつのところ、ぼくも悪かった。ゆうべの会では、旧友諸氏に会った楽しさと、食べる方にも気をとられ、きょうの遺蹟順礼は、大阪近郊ではまず「江口の君の跡」一ヵ所にとどめ、午後は日いっぱい神戸附近をと、ひとりぎめしていたのである。そのため、砕花氏ののみこんでいる「遊女塚」の方は、昨夜、聞きのがしていた。  だが、こう、風のまにまについて歩いた以上、欲も出てくる。探せるものなら探しあてたい。  それは、法然上人と遊女との話で、著名な遺蹟である。たしか法然上人行状絵巻の一図にもなっていたかと思う。  鳥羽院の承久元年、法然が、土佐の国へ流される途中、この神崎に、一夜、過ごした。  別当大納言やら大勢が別れに来たので、船中、かそけき燈をかこみ、法然は一場の法話をした。  聴衆の中に、この界隈の遊女もあまた来ていた。そのうちの「みやぎ」「かるも」「をぐら」「あづま」「大にん」の五人は、ひどく上人の話に感じ、その場で黒髪を切り、懺悔して、発心を誓って去った。  やがて数年を経、法然が、赦免になって、都へ帰るおり、この神崎で、さきの五人の遊女の消息をたずねると、彼女たちは、黒髪を切った後、相抱いて神崎川に身を投げたと聞かされ、法然が釈迦堂で二夜の遊女追善を勤修したというのである。  話はそうなっているが、どうもそれでは救いがない。橋杭にかかった五人の遊女を葬って「上﨟塚」とよんだり「傾城塚」と称して、往時は香花が絶えなかったというのはロマンではあるが、法然伝の史実ではあるまい。布教のため作られた話だろうと思う。  法然伝には、遊女の挿話が他にもある。播州の室ノ津でも、遊女たちを教化している。当時の遊女たちにも、今昔のない共通の女の悩みや反省があったことにはちがいない。たまたま、時代の仏教思想に触れて、彼女たちが、薄命、無常、苦界といったような現世感から身を儚んだであろうことも分かるが、それを死なしてしまっては、法然が法然でなくなってしまう。法然や親鸞は、そうした庶民を生かすために起ったのに、なぜか、浄土礼讃の伝説というと、すぐ髪を切ったり、自殺させてしまったりしている。おそらく、正味の事実は、今のパンパン嬢の甦生と同じような社会挿話だったのではあるまいか。  自動車を降りて、セルロイド会社や鋼管工場などの横へ入って行った砕花氏「見当がつかない」と、首を振り振り戻って来る。「ありませんか」「この辺は、この辺らしいんだが」「やめましょう、江口もあるのだし」「やめますか」と砕花氏、肩の荷をおろしたよう。「やめやめ。バック、バック」と待っている自動車へ、手を振りながら、運転台へ帰る。  いいあんばいに雨は小やみ。だが、それからも、郊外地図が、幾度も拡げられた。尼崎水道の蘆外だの、淀川堤の下だの、しまいには、隘い田舎道へはいり込んでしまう。「通れる。先へ」「さあ?」「どこか、道がないかなあ。いい道が」こんなに道に払底した日もない。車が小型で僥倖だった。大阪市東淀川区江口町と、地図では一目瞭然だが、京阪間にもまだこんなローラーの懸け残しみたいな田舎があったのかと、まごつくのである。もちろん田園風景といえるようなものではなく、工場と田ン圃と、農家と石炭殻の山と、住宅地と鮒もいなくなった水溜りと──といったような生活図の変化に富む中を、やたらに出会う子供たちの群れに怪しまれながら、それでも、とにかくやっと探しあてたのが、目的の普賢院寂光寺。俗に、江口の君堂といっている遊女古蹟であった。  せまい道路を、曲がりくねって、淀川堤の横へ、やっと、車が這いあがる。  堤の上に立つ。すると、吹田の駅が、まっすぐ北の方に望まれた。国道も立派に通っているし、なんのことはない、わざわざ迷って来たようなもの。  けれど、迷い、まごつくことは、旅情を深めるには必須な条件かもしれない。その点、砕花風人の労を多として、淀川堤から脚下を見ると、ほんとに、いい物が眺められた。蕭々と冬空の下にそよいでいる枯れ蘆の浮き洲であった。そして大阪市街も瓦斯タンクも煙突も少しも気にならないほど灰色の視界に遠く隔てている満々たる川幅であった。その水面と蘆の洲にはまた眼を刺す一物もなく、河心あたりに魚か水鳥がチラと白いものをかすめたきりであった。  あんな田舎が大阪の中に残っていたのも意外だが、こんな静かな、足利水墨画の中に立ったような残景がここにあるのも意外であった。もし数艘の小舟に、唐風の飾り傘をささせて、それに江口の君たちを乗せ、そこの蘆むらから漕ぎ出させても、不自然に見えない程だ。  煙草を指に、川にむかって、何べんもライターをする。ぼくの幻想は楽しい。平安朝史の上では、宮廷の秘めごとは源氏物語の陰翳のうちにささやかれ、庶民の中の花柳紅燈は、江口の里が、代表している。  その江口は、ここか。鳥飼はもすこし先、蟹島(今の加島)は、あそこ、神崎はいま通って来た横の川。  鳥飼の院には、宇多天皇と遊女白女との佳話があるし、神崎には、藤原道長の子頼通と遊女中君との情話がある。小野宮の大臣と二条関白とが、ひとりの遊女香爐を挟んでの恋争いやら何やらを、史書に漁ると限りがない。「栄花物語」「更級日記」「大和物語」「東鑑(吾妻鏡)」等々々。大江匡房には「遊女記」の著述さえある。  いったい、日本の歴史には、じつに、庶民史料がないし、また、女性が隠れている。江口や神崎の君たちに、史筆があれほどまでに及んでいたということは、異例な女性待遇といってよい。 「何か、書き物や寺宝もあるといっていますよ。見せてもらおうじゃありませんか」と砕花氏、寺の玄関から戻って来ていう。寺は堤下の低地、ぼくらは門内の〝西行の歌碑〟と、遊女の妙の碑を見ていたが、「いますか、坊さんかたれか」と、あとに従いてゆく。  敷石道に、ふた筋、長い布が、木から木へ干し渡してある。洗い張り屋さんのように、本式にハリシンが張ってあった。くぐったり跨いだり、三人通る。本堂は雨戸を閉めたきりらしい。犬にほえられながら、せまい入口で靴をぬぎ、障子をあける。あいにくのおりと、立ちたじろぐ。瀬戸火鉢のそばで、中年の尼さんが二人、おそらく、朝のであろう。食事をしていたところだった。  あわてて、お盆や鍋など片づけ、「どうぞ」と、小ざぶとんを、すすめてくださる。ぼくらがすわると、その部屋は、ちょうどいっぱい。尼さんがたは、隅につつましく、ごもっともな、いぶかり顔をしている。来意は、嘉治さんが説明、砕花氏が、また、先方を、気楽にさせる。  上方ことばの尼さんは、五十がらみ、もひとりは、三十ちょっとか。瀬戸火鉢の粉炭、色の出ないお茶、障子のツギ貼りの冬風、なんとも侘しい。  夜は恐くはないのかしら。訪う人も詣る檀家もなさそうだが、終戦後の寺院経営を、どうして暮らしているのだろう。老いればとにかく、年下の尼さんなど、堤へ出れば、大阪も見えるのに──などと客たちの心もヒビアカギレに沁みてくる。 「はい、はい。どうぞまあ。ただ今、奥へ持ち出しますから」と、一人は本堂の雨戸四、五枚開けに立つ。年下の尼さん、また、茶をついでくれる。そのとき、ふと、この尼さんの一分刈りほどな頭を見ると、台所の棚のカドにでも打つけたのか、ちょっと、血がにじんでいた。この屋根の下で、眼にはいった赤いものはそれだけである。  庫裡ともいえない小部屋で、寺宝を見せてもらう。数通の記録も、みな、よほど後世の伝写。どれを繰っても、史料というほどの物はない。さいごに、こことしては御本尊といってよい〝遊女妙の君〟の画像を観る。初期浮世絵にままある立ち姿の遊女像。平安朝末期の妙の君が、慶長風俗では、どうも。  阪急電車で、神戸へ。 「何時?」「三時ですよもう」「やあ、江口で時間をとりすぎた」「神戸の史蹟、まわれますかなあ」われらの会話を、杞憂一片にすぎないものとして砕花老「まわれますとも、神戸はまとまっていますよ。ね、神戸はしかも私の散歩地域だ」  また小雨。支局の車で、清盛塚、琵琶塚へまず走る。市街の南端れ。戦災のあと、なお荒涼の路傍に、高い十三重塔の石を仰ぐ。  転じて、山の手へ向かう。高台に立って展望したいのが、ぼくの希望。なにしろ、清盛と神戸の関係、また遺蹟などといったら、余りに膨大で、旅すがらの、片手間にはゆかない。地理的な概念をつかめれば望外というもの。  神戸らしい山の手住宅街。坂の下から歩く。だいぶ登って、右側をのぞくと、深い断層の切れ目みたいな渓流になっている。ふとみると、××温泉という文字が、崖際の家屋の横にみえる。「湯家ですね、平家時代の」「何です、湯家って」「清盛の別荘の上にあったという湯泉です」「今も湯泉じゃないか、あれは」「さあ、沸かし湯でしょう」山上に料亭があるらしい。そこの専用らしい橋に立って、たそがれを忘れて佇む。六甲、摩耶などの山つづきである。麓に、祇園神社があるわけもうなずかれる。視野を、清盛が経営した大輪田ノ泊の築港にまで馳せて、そのころの「福原京」の屋並や交通路などを、いまの神戸市の上においてみる。  史家にいわせると、清盛は神戸の恩人といってよいという。清盛が手がけた経ヶ島から旧兵庫が生まれ、彼の別荘であり政庁であった雪見ノ御所から、山地や田園が都会化したのである。それは清盛の太政大臣任官の平家全盛期十余年間に顕著だった事蹟であるが、もっと若いころから、清盛と神戸とは、非常な親しみがあったといえよう。それは、彼の父忠盛の所領も、また、みな播磨だの安芸だの備後だの、ほとんど、西国の海道にあったからだ。当然、清盛はこの辺を旅行者としてよく歩いたことだろう。  その清盛が、海外貿易に熱心で、宋船との交渉地を、早くからこの神戸においたのもおもしろい。  雪見ノ御所を中心とし、宗盛、頼盛、教盛、重衡など、彼の一門一族はみなここの傾斜地に門をならべた。福原の都市設計は、その規模では、京都より小さかったが、そのころの風光は、京都の比ではなかったろう。もちろん、清盛の構想は、花鳥風月にあるのではない。対源氏勢力、また多分に、政治的意味があった。  興味ふかいのは、そのころの貨殖家で、平家の御用商人だった五条ノ邦綱のやしき跡も、古図に分かっていることだ。ぼくにとってなぜそんなに興味深いのかといえば、「新・平家物語」のうちに、この人物を、偶然ぼくが「朱鼻の伴卜」として登場させているからである。小説のたね明かしになってしまうが、あの朱鼻どのは、邦綱をモデルにしたのである。五条邦綱名では、どうも文字の上で、公卿や武将にまぎれ易く、あの作品の将来にもつかう関係上、はなはだ、まずいからである。  ときに、女性は歴史から隠れているといったが、たとえば男でも、商人のような階級の者は、よほどでないと、歴史面に出ていない。奥州の藤原秀衡の許へ、鞍馬の牛若を連れ去ったという金売り吉次などの名は、史上稀有な存在である。けれど、吉次なる者の素姓とか人間とかは、まるで分かっていない。  ぼくが、朱鼻殿にした五条ノ邦綱は、その点、素姓も明瞭だし、また、彼が身分の低い一雑色から、大成金となり、やがて時の政商にまでのし上がった経路の史料もかなりある。今までに「新・平家」の上で書いた彼の輪廓は、だいたいそれによるものである。そして彼の将来は、淀の河尻にも、この福原の地にも、別邸を構え、ずいぶん外交的手腕もふるったらしい。おそらく、想像ではあるが、清盛の対外貿易だの、築港構想だの、大小にわたる財務財政の顧問は、この男だったのではあるまいか。  山を降り、雪ノ御所町をぐるぐる。雪見ノ御所の址を探す。  もう灯ともしごろ「ここ、ここ」と皆してつきとめたのが、町中の、しかも大通り、市立湊山小学校の門内のすぐ右側だった。大きな石一つ。あたりは校舎校庭。ただ石を視る。余りぼくらが野放図にしゃべり合っていたからにちがいない。土曜日の夕方なのに、先生が出て来た。大いに失礼を詫びる。I校長先生も見え、「まあ、お茶を」と職員室へみちびかれる。P・T・Aの会のあとらしく、婦人客もまだ残っておられて恐縮する。職員中の市史に明るい先生なども加わり、はからずも、話がはずむ。みかん、お茶をいただく、たれが入れたのか、煎茶茶碗に、ひかえ目に注がれて来た緑茶のうまかったこと。お茶では、旅中第一味。  図書室の神戸市史など拝借して、町へ出る。どこへ行くすべもなし。「いや、ありますともさ」と、砕花風人は、運転手君に風を切らせ「さ、降りるんですよ、ここ、ここ」と大倉山下の宵の人を避けて立つ。サントスのドアを押す。煙草のけむりもうもう。かんばしいコーヒーの香り。お客八、九人いて満員の家。がぜん、砕花氏の桃源郷はこことみえる。マダムへ話しかけることしきりだが、無口でどこか聖母像的な美しいマダム、片頬でうけながら、狭い、それこそ、身を入れているだけの所で、瓦斯コンロ、コーヒー缶、カップ匙の音、くるくるひとり働いている。「どうです、ここのコーヒー」ぼくらばかりでなく、一卓の諸氏に同感を求める。一日たっぷり、筋肉で働き、筋肉で味わっているお客たちである。労働の憩いの中に、ぼくらもしばし雰囲気を味わわせてもらう。  車を返し、町を歩く。元町のモダーン寺の近所と聞く。ぼく、神戸は終戦後、初めての夜歩き。ガード下といわれても、なんと聞いても、かいもく分からない。こんどは、嘉治さんの案内、ハナワグリルにはいる。小さいバンガロー風。なにしろ、ぼく、足が冷えるので、煉炭火鉢へ靴をのせ、行儀わるく、ロシヤ・スープ、料理一品を食べる。ここの主は、ハルピンからの引揚者とか。この夜のボルシチ(ロシヤ風の野菜を主とした肉入りスープ)の味、東京にも、こんな一軒が、どこかにあったらいいなあと思うほど、今でも忘れがたい。  出る。タンペイに寄る。砕花老のたずねるマダム不在。みなアルコール気のないカクテルという註文に、ミス神戸たちから愍笑を買う。西銀座、土橋界隈とくらべて、やはり神戸を感じる。けれど、何がというほど、こういう文化を語るセンスがぼくの方にない。かえって、けさ行った江口の尼さん二人をこんな所で思い出す。あの、一分刈りほどの尼さんの頭の毛にちょびと乾きついていた血が眼にうかぶ。淀川のひろい闇と、半開的な工場地との谷間で、小さい火鉢にかけられた瀬戸ひき鍋は、二人の尼さんの夜のために今ごろ、何をくつくつ煮ているだろうか。──八世紀前には、天皇、皇子、大臣公卿にいたるまでのみやび男をひきつけた魅力の土壌が、あれであった。儚いというようなことばではいいきれない変化である。そのいやな変化は人間のいる所につきまとって、寸秒の無変化もゆるしてはおかない。  こんなことを考えられていては、ミス神戸たちこそ、災難である。程なく出て、栄町をあるく。  さきに行く砕花氏と嘉治さん、またどこかへ寄るつもりらしい。ガード下の露店街を見て、急に海岸通りの方へ曲がる。むかしの上海租界にでもあったような門のベルを押す。西村貫一氏の家だという。旅館時代に泊った縁を思いおこす。ガーデンをこえ、叡智で建てたバラックだと主の自慢する洋館にはいりこむ。貫一氏カンカンと放談放笑。神戸の名物インテリといわれる所以を五分間で客にうなずかせてしまう。  奥さんから、薄茶をいただく。御亭主は、書斎の方へ来給えと急ぐ。小泉八雲の手紙など見せられる。西欧美術や図書の蒐集家として一見識を説く。ぼくにはよく分からない物ばかりだが、マルクスの書翰まで示されたのには、驚目された。書架のもの、そこここの彫刻、絵画、御亭主は、神戸の一奇珍にちがいない。  もう、おそい阪急線の車中、がらんとして、寒々しいが、居眠るにもよし、空想も気まま。健吉画伯は、寝るのが上手だ、Oさんは、また手帖の旅程表に首をひねる。「あしたは、高松行きですが、朝、早いですよまた。起きられますか」と、左右へつぶやく。だが、左右のくたびれたような顔、どれもこれも、車体と共にゆらゆら、ひとりも、答えはない。 〔付記〕この稿、四国、九州、厳島などの全旅行のあとを書くつもりのところ、旅情童心、とかく、道くさ紀行に終わり、ここでひとまず筆をおきます。文中、各位への蕪言とあわせ、おゆるしを。余稿、筆をあらためて、他日、また。(二六・二・二五) 四国白峯の巻 〝お断り〟から先に書く。  これは旧冬、伊勢、志摩、南紀、熊野、那智、大阪、神戸界隈までを誌上にすませた先の史蹟紀行の後半を成すものである。  歩いたのは十二月の中旬で、神戸から先は四国、九州地方だが、それでも雪を見たり凩に吹かれたりの、冬旅だったことに変りはない。  今ごろ、これが載るのは、随所に、季節ちがいの感をまぬがれまいと思うが、夏のサロンに花氷を置くし、夏座敷の床の間にわざと雪景山水を懸ける流儀もあるやに聞く。  といっても、編集者の洒落ではなく、小生の怠慢が、つい今日になってしまったもの。読者が夏の風邪ギミみたいな錯覚に襲われない要心に、まず、御諒恕を乞うというわけ。  また、同行五人のうち、Kさんは大阪で抜け、あとは一行四名となる。すなわち杉本画伯、嘉治さん、Oさん、ぼく。みな品行よろし過ぎる良識家なること、前篇で御承知のごとし。中でいささか、杯間、垢石型の酒風もあり邪気もあったKさんが抜けた後は、一行の中、やや酒を解し、脂粉も愛す者、ぼく一人となってしまった。──風流平家の没落の跡を弔うだに、冬の海、冬の山は、なかなかあわれが深い。せめて、旅館の夜の微酔愚談の程度は、読者も看過し給え。  けさは晴れ。車中。  大阪発、宇野行き列車が、ゆうべ雨の中を遊び歩いた神戸駅のホームを今ゆるやかに辷り出た。その車窓から、さっそく、源平古戦場群を一望にしてゆく。  義経の奇襲部隊が、一ノ谷へと潜行した丹波境には、雪の山ヒダが遠望される。きのう、清盛の雪ノ御所をたずねて、麓まで行った会下山は眼のまえだ。摩耶、鉄拐、鉢伏など、神戸から須磨明石へかけて、市街の背光をなしている低山群も、山姿すべて鮮らかである。雨後の朝陽が、市街の山の手から、一ノ谷、内裏跡、戦の浜などまで、手にとるように見せてくれる。  史蹟歩きと称しながら、これは横着な見物の仕方にちがいない。「なぜおまえは神戸まで来ながら、一ノ谷へ行かないか。鉢伏や鉄拐ヶ嶺にも登って、源平盛衰記に、蟻ノ戸渡りとある場所だの、御所址、陣門址だの、また熊谷直実が敦盛をさし招いた扇松なども、見ておかないか」──と帰京後、この地方の読者から、数通に及ぶ投書のお叱りもあった。  そこで、いいわけするが、福原旧都といい、大輪田ノ泊といい、一ノ谷古戦場群といい、この附近には、余りに史蹟が多すぎる。匆忙半月のコースには組みきれない。それにまた他日、出て来るのも簡単だしというわけで、きょうは、車窓に見て過ぎたわけだった。  平家潰走の序幕となった寿永合戦を思うとき、ぼくはいつも後白河法皇の御存在がまず連想にのぼってくる。臣列の中にも稀れな策士型のあの御性格は、皇統のお方としてはまことに珍しい。  王朝時代ばかりでなく、概して、皇室そだちのお方は、自然、超人間的なお人のよさがどこやらにあった。讃岐へ流されたまま、ついに白峯の土となられた崇徳上皇なども、歯がゆいほど、お人がよい。人を疑うということを知らないような御性格だったと思う。ところが、後白河は、それとは正反対な御器量を備えておられる。  清盛はたしかに後白河を利用したが、後白河もまた、清盛を利用したのである。なかなか清盛などの手におえるお方ではなかったらしい。むしろ清盛の方が、存外、無邪気で甘い点があった。たとえば、徳大寺実定の厳島詣りを真にうけたことなど、よく彼の一面を現わしている。  平家の次男宗盛が、右大将に昇進した時なのである。順からいえば、実定がなるはずだった。それが宗盛に越されたわけなので、実定はすっかり腐ってしまい「出家する」などといい出した。  すると、入れ智恵する者があって、実定は急に、平家の氏神とする厳島参詣に出かけた。加茂もあれば男山もある。それをはるばる厳島まで行って参籠し、厳島の内侍たちを巧くつかって、自分の失意悲嘆が、遠まわしに清盛の耳へ入るように仕向けた。すると、こんな見えすいた手くだにさえ、清盛はころりと、だまされている。彼はわざわざ息子の重盛に左大将を退かせ、右大将宗盛の上に、実定を新任の左大将として据えたのであった。  ずいぶん同情をしてしまったものである。余りに情にもろい彼の単純さに、わけ知りの公卿輩はあきれたということだ。この清盛と、後白河とでは、まるで性格の基調がちがう。  すでに清盛も逝き、平家一門も西海へ奔る日となって、都には、木曾義仲がはいり、義仲は法皇に謁を賜わって、平家追討の院宣をうけた。ところが、たれか知らん、しかも同日、法皇は鎌倉にある頼朝にも優詔を与えて、これをお召しになっておられたのである。  後に、源氏が源氏と戦い、骨肉同士の血みどろを繰返したのも、これなど端緒の一つといってよい。  また。──義経、範頼たちが、一ノ谷へ急襲するため、京都を立つさい、法皇は、源氏が総攻撃にかかる前日、わざと修理大夫親信から書面を平ノ宗盛へ送らせ、「必ず、院宣使の下向により、両軍の和平を議せしめるであろう」といわせている。そして実際には、院中の反平氏派を左右において義経の源氏軍を、さかんに鼓舞しておられたのである。  一ノ谷の平家敗戦は、じつに脆い。義経の用兵の妙や坂東武者の新鮮な闘志は、いうまでもなく、時代の先駆というにふさわしいものであったが、それにしても、あんな敗け方はあり得ないはずだ。宗盛以下、平家が油断しぬいていたのは、まったく、後白河の施された奇計にまんまと懸ったためである。歴代、いろいろなお方もあってふしぎはないが、策謀好きな、めずらしい御性格であったものと思う。そのお方と清盛との駆引きは、歴史のあやとして観ても、人間対照の角度から見ても、興味津々たるものがある。  午後の空に雪が舞う。雪の白のために、雲間からさす太陽が光線の美を極める。  灰色の雲と、白い飛雪と、七彩の海を前に、列車は宇野駅に入る。ホームから連絡船へと、旅客の長い列が、靴音、下駄音、騒然と駆けつづく、ぼくらも、つり込まれて駆ける。旅行中には妙に、駆けるばあいが多いようだ。今のばあいは、駆けた方が寒くない。駆ける理由があって駆けている。  連絡船が程よい波濤とエンジンの震音をたててゆくころ、雪はやみ、サロンの船窓に、すぐ対岸の高松が見えてくる。明日行く予定の白峯や、屋島寺などを、眼にもとめる。四国という一陸体の全姿の上半身に、いちめん、雪雲が懸っている。今し方のチラチラは、ほんとの降雪ではなく、その雪あしが吹きこぼした〝雪花〟だとたれかがいう。  ぼんやり、船中の雑音にくるまれて、そこらの人々を見ていると、これまで歩いて来た志摩、伊勢、紀州のどこの地方よりも、服装もよく、生活弾力ももっている。内海の富は、平家の富源であった時代も今も、他地方にはない有利な条件をもっている確証といってよい。けれど定住者には、一般同様な不平はあっても、べつにここが日本の特別待遇地だなどとは、たれも思っていないだろう。  瀬戸内を、世界の公園にするとか、モナコをどの島にするとか、一しきりの観光熱も、いっこう庶民の話題には、のぼっていない。代りに、売店はよく売れている。ぼくもなんだか買食いがしたくなる。しかし嘉治さんは紳士だし、杉本画伯は賤しからざる風貌だし、Oさんは優等生タイプときているので、中に挟まって、落花生も食べにくい。むなしくカラ茶をのんで船窓に倚っている。  高松産の知人二人が思い出された。菊池寛氏と三木武吉氏である。郷党性というものか、どこか共通点がある。「新・平家」を書き出すと、その武吉さんから馬史の古写本など送ってくれた。神楽坂の松ヶ枝女史と共に、近ごろの消息はとんと聞かない。聞くときは、いつも何か人の意表に出るような事業をきっとやっている。菊池氏とは一度、一しょに来たことがある。郷里は余り好きな所ではなかったらしい。  船を降り、埠頭を出る。嘉治さんの友人で、四国民政部のマックラウド氏が、迎えに来ておられる。支局長その他の人々の顔々々。あいさつは、万遍なくしたが、たれが何なのか、人ごみの中でよく分からない。旅館川六へ落ち着く。  あすの史蹟巡礼には、マックラウド氏が案内するという。マ氏は、スコットランド系のボストン人だが、今は四国人でもあると自称する。それほど四国が好きですという。どうやら、ぼくらの方がよほど旅人らしい。そこでOさんからあすのコースを聞く。──早朝に、市外西方五、六里の白峯へ行き、またひっ返して、高松から今度は反対な方向へ一走、屋島、壇ノ浦その他を歩き、夜の十一時に、別府行き〝こがね丸〟へ乗るという予定なる由、すこし、おどろく。  いちど帰ったマ氏、出直して、再び迎えに来てくれる。  おりふし、その夕、民政部にいた某夫妻の帰米を送る友人たちの会があり、その席へ、嘉治さんや、杉本画伯、ぼくらをあわせて、歓迎したいというのである。Oさんは土地の旧友の訪問をうけ、相携えて、街の灯へさまよいに行く。  マ氏、ぼくらをジープに乗せ、裏町を郊外へと走る。道も悪いが、ジープとは、こんなに古くなって、こんなに乱暴に運転しても、こんなに頑丈な物なり、という立証みたいにガチャンガチャンと揺れ轟く。  こんなとき、ぼくはいい。体が小さいからである。嘉治さんも、健吉さんも、何度も頭を天井にぶつける。ひとり、マ氏は喜々としゃべりつづけて行く。このジープと、この国際的な青年の姿とは、まるで一つ性能のものみたいだ。感傷らしい、あるいは、屈託らしい低徊はどこにもない。あるのは、走ることだけだ。大勢の賑やかな友人が待っている。晩餐の御馳走が待っている。またそれからのあす、あすからの希望と仕事とが待っている。そしてジープも若い。筋肉も若い。  運転台のマ氏の背を見ていると、日本の今の青年にないものが思われてくる。日本の今の青年には、ぬかるみでも凸ぼこな道でも走破してゆく風の快味がわからない。勤勉の汗を知らない肌には当然それもわかっていない。ゆくての希望が掴めないからだともいえよう。道を与えられていないジープが日本製の青年だ。日本製だって立派なエンジンは持っているが、ほんとの社会苦との闘いも人生踏破も経ないうちに、人生懐疑とか、ニヒル(虚無)な分裂症などを起こして、あたら、生命をサビ朽ちさせているのが多い。  これは、たれがいけないのでもなく、大きな国運というものであろう。青年の無生気は、国家の無生気を個体に示しているものだ。マ氏の姿に、何か、夢多き若さと、快活な生活のステップが見えるのも、マ氏の国家が現状にもっているものである。マ氏の背を見つつ、米国民の開拓的精神が今なお若い層にも萎んでいないのを羨ましく思う。  ジープが着く。平凡な日本風の接収家屋。十畳、八畳、六畳ぐらいな三間の唐紙を外して、こよいの会のため、クリスマスの夜みたいに、デザインが凝らしてある。その一、二例。たとえば電燈の笠代りに、小さい絵日傘を逆さにかぶせてある。床の間の壁は、簾でふさぎ、簾に版画か何か懸けたりしている。ソファ、椅子、思い思い。ぼくらは、畳に脚を投げ出したり、ストウブを囲んだりだが、それで妙に、おかしくない。感心したのは、男女三十名ほどの来賓が、めいめいホークで料理を好むほど盛り取った皿である。音がしないがと、よく見ると、日本製のつまらない木の丸盆なのだ。生活というものに、すぐウイットがこう働く。ぼくらの習慣は余りに固着が多過ぎるようだ。いちど、これらの人々に、日本の家屋、食糧、什器、衣服、一切を説明なく渡して、どう使うか、その生かし方を見せてもらったら、きっと、婦人雑誌の資料が幾つも生まれると思う。  談話にしてもそうである。もちろん婦人が半数に近く、年齢もまちまちだが、それほど大勢の客が、白け渡るいとまもない。あっちに一組、こっちに一組、自由に椅子を移したり、歩きまわって語り合う。日本酒の宴会繁雑はほとんどない。ぼくらは一足先に、また、マ氏のジープに送られて帰ったが、もし日本の家庭へ招かれての帰りだったら、さしずめ「あの後かたづけがまた、大へんだろう」という心配をしただろう。しかしその晩の様式だったら、ほとんど、簡単だろうと思われた。  宿へ帰って、ひと風呂。二、三の訪客に会う。Oさん、なかなか帰らない。後で聞くと、旧友氏に誘われ、ミス高松などと、珈琲か何かで、さざめいて来たらしい。この優等生、翌日、ぼくらに詰問されると、むきになって弁解これ努める。こんどの旅行中、唯一のロマンスは、これくらいなところ。  晴れ。朝九時。川六出発。川六の主人も案内にと、ハイヤーの運転台に乗る。マ氏のジープを先に、白峯へ行く。  マ氏、得意の暴走に、こちらのハイヤー、のべつ息をきって追いかけ気味。ジープの尻を見ると、ナンバーの鉄片が取れかかって、振り子みたいにぶらんぶらんしている。昨夕、杉本画伯が注意していたようだが、きょうもまだ直していない。もっとも、修理するとなったら、ドアから車体全体、直さなければなるまい。それでも、なりふり構わず、健康と快足を誇っているところ、愉快である。ジープは世界の愛嬌者だ。あの素朴にはアメリカ科学の童心がある。  途中のせまい村道で、こっちを先にしてもらう。  鬼無、国府あたりから、ようやく、山近く狭ばみ合ってくる。綾川の南の丘を指さして「鼓ヶ岡が見えます」と、川六の主人がいう。碑らしいものが冬木立の中腹に望まれる。そこへ行っても、丸木ノ御所の址は、今では何もないという。  丸木ノ御所とは、讃岐に流されて、この地で崩ぜられた崇徳上皇が、八年間の配所の跡である。  崇徳の御生涯四十六年の歴史ほど、傷ましいものはない。この君の末路のさまは、日本皇室史に一抹の陰影を長く曳いている。前後のいきさつは、べつに「新・平家物語」の中で、書いたから、ここに重筆は避けるが、ひとり皇室だけでなく、われらにとっても、決して名誉ある歴史の跡ではない。人間の貪欲、人間の愚、人間の迷妄、そして権力や栄花の毒が、いかに人間をして人間を虐ましめたかという生々しい記録をなす保元の乱の主役であり、犠牲者であったお人が、すなわち、崇徳上皇なのである。「新・平家物語」のうちに、それを書くにも、従来は封ぜられていた皇室秘史にわたることでもあり、今とても、決して、どう空想を加えて書いてもいいというわけのものではないから、史料の渉猟や対比には、自分なりに慎重な用意をもってしたつもりである。ただあの中に出てくる阿部麻鳥──崇徳がここに御幽居中の一夜、横笛をたずさえて来て、その幽愁をお慰めしたという一人物は──土地の口碑や史伝では、僧の蓮誉ということになっている。ぼくの作品では、麻鳥に蓮誉の行為が仮託してあるわけなのだ。これだけは意識して史実とちがえてある。  西行法師が、ありし日の崇徳の君を慕って、この辺をさまよい、「白峯紀行」一文と手向けの和歌を詠じたことは、それが彼自身の筆になるものだけに、史実として、もっとも生き生きしているものだ。彼が、白峯へ登ったのも、やはり仁安三年の初冬だったから、ちょうど今、ぼくらが自動車を降りた場所のように、山蔭の中腹は、寒々として、満山の松風が、梢を鳴らしていたにちがいない。 「工事をしてますよ、この先の山道でね。ひとつこの辺から、お歩きねがわなければ……」  川六の主人がいう。ジープの方でも、みな降りている。峯は下で仰いだ想像よりも高くて急坂である。そこを、螺旋形に中腹まで、巡り登って来たのだった。  長い石段が胸へ迫っている。登りきると、次の石段が前にある。更に、行きゆくと、なお先に石段があらわれる。人生修養の金言などを思い出す。そしてヤレヤレ上に出たと思うと、また石段、依然として石段、また、石段だ。  しまいには、石段に、腰かけてしまう。寒いどころか、体から湯気が立つ。  いいおくれたが、白峯のいただきは、鼓ヶ岡の丸木ノ御所で崩ぜられた新院の御遺骸を、時の国司がダビに附した所であり、かつて西行が来て見たころは、「──松の一むら茂れるほとりに、杭まはしたり、これなん、御墓にや……」とある程度の土まんじゅうがあったのを、後に御陵とされ、今では陵墓管守二、三名も詰めていて、チリ一つなく清掃されている。  マ氏は、ここが配所の跡と思い違いしているらしく、四山の松風に吹かれながら「こんな景色のいい所に、佐ノ局と一しょに住んでいるなら、私だったら何年いてもいいです」などといって皆を笑わせる。そしてあちこちをカメラに収める。  ここに立つと、崇徳の暗澹たる御一生の思い出も、何か、からりと、清算されているものを見たような心地になる。長い歳月の松風に、人間の恩愛怨恨すべては無に帰し、すべては浄化されつくすといった感じだ。マ氏ではないが、喜々と笑って生きている一日のみが尊まれる。そして、崇徳の御生涯もふくめて、一切の歴史は後代へのより良き社会道標としてのみ朽ちない価値をもつものと思う。  風颯々。汗の毛孔は氷ってくる。歴史への感傷など、ふだんは、現実感に来ないが、峯高く、松さやぐ、塵界遠いここに立てば、やはり遊子の情みたいなものを、禁じえない。 「時」のふしぎよ、おもしろさよ。七百年の昔、たれか思おう。西行が白峯紀行にも書いた「──清涼、紫宸の間、百官にかしづかれ給ひ後宮後坊の台には、三千の美翠の釵、あざらかにて、おん眦に懸らんとのみ倖せし給ひし……」若き聖天子でありながら、人間的には、獄の囚人、野の乞食よりも、悲惨な末路をとげ給うた崇徳の君のおくつきに、今は、西行法師ならぬマックラウド氏が腰かけている。ニコニコとひとりカメラのヒルムの入れ換えをやっている。レンズの裏から抜かれたヒルムは、たちまち、もう歴史のケースへ入った物象である。  ぼくらが参詣している間に、竹箒を持った二、三名の陵墓管守が、そこらの落葉をかき集めて、番茶をわかしてくれる。この山中の陵守小屋に起居して、この人たちは、この色もない香も淡い渋茶をのみながら何を生きがいとしているのだろうか。「淋しくありませんか」と問えば、「べつに……」とただ笑っている。笑いの消えたあとも決して空虚にはなっていない。阿部麻鳥みたいな感傷があるわけでもないらしい。生きていることそれ自体を楽しんでいる生命に見える。彼らにもし西行の知性があったら、かえって都会人のぼくらを愍れんでいたかもしれない。しかし、どう嗤われても、なにしろ一時間とは長居も出来ない冬風の峯であった。(二六・七・一) 屋島寺から壇ノ浦の巻  白峯紀行の西行法師のほかに、時代は江戸に下るが、「雨月物語」の筆者の上田秋成も、こんぴら詣りか、四国巡りの旅すがら、この白峯へ登ったことがあるように思われる。  秋成の「雨月物語」は、ぼくの少年時の愛読書の一つだが、あの中でも「蛇性の婬」「菊花の約」「白峯」の三篇がわけてすぐれている。  こんどの旅行後、もう一度あの「白峯」を読んでみると、実地に白峯を踏んでいなければ書けない描写が随所にある。おそらく秋成は西行と同じように、白峯へのぼり、崇徳院の御陵をとむろうて、保元、平治のむかしを松風に偲び、そしてあの好短篇を落想したのではあるまいか。  馬琴の弓張月にも、露伴の二日物語にも、白峯は書かれている。けれど雨月物語の「白峯」には及ぶべくもない。秋成はあの作品で、自分が作中人物の西行になりすましている。魔界の崇徳院を雲中に描き出し、その怨霊と問答をやるのである。──西行の出家の動機を「世の佞仏流行に乗じて、自己保身を目的とした一つの利欲だ」と崇徳院に罵らせ、また、崇徳院の保元の乱を「わたくしの戦で、人道でない」と、西行にやりこめさせている。  歴史小説のテクニックを用いて、秋成はいいたいことをあの中でいっているようだ。幽界と現世との大論戦に、虚空は鳴りはためき満山の木々は慄い、岩峭も揺れおののく──といったような幽玄哀切を描きながら、一面にまた彼の皇室観、宗教観、人生観なども余していない。あんな小篇ではあるが初めからしまいまで、一大音楽を聞くような思いに人をひき入れてゆく。ひどく東洋色の濃い経典小説といったような趣がある。西鶴はよく繰返し読まれているが、秋成の「白峯」なども、永遠に消えない古典の星の一つであろう。そしてそのヒントと構成の裏づけが、西行の白峯紀行から出たものであることもまた、いうまでもない。 「もう、十一時ですがネ」と、Oさん、ワイシャツの手くびをめくって、こと重大そうに一同を見まわす。そろそろ午後のコースが心配だといったような眼ばたき。  さなきだに、おどろしき御山の冬。一同、すでに帰心の色あり。御陵の前を離れて、「下山下山──」とばかり石段を下りかける。すると、御陵管守が「白峯寺は、上の道ですが」と注意してくれる。御陵の横をまた少し這い登ってゆく。  冬陽もささない寂光の古刹。  弘仁期の開基と聞くからに、白緑の石苔の上や、あやうげな勅額門の下に佇む連れの者まで、何か、遠い世代の人影みたいに見えてくる。  崇徳院の丸木ノ御所の建物をここに移した廟がある。紫宸殿になぞらえて、左近の桜、右近の橘もあったと聞かされたが、眼に沁みたのは満目の落葉と、昼も解けないでいる御手洗の薄氷。  東の崖道を降りてゆく。宝物館。ここで松山村の村長、青年団の方たち、館長など、ぼくらを待っていてくださる。館内に入る。絵画古文書をくるめても、藤原はおろか、鎌倉期にさかのぼる物はほとんどない。かつては、ありもしたろうが、吉野朝、応仁前後、戦国時代などの、いにしえのアプレゲールたちが持ち出してしまったのかも知れない。  こう見て来たうち、御陵管守の小屋の裏崖に沈んでいた一基の燈籠だけがとても古態であった。おそらくあれだけが平家時代に近い物であろう。石だといっても、近ごろの石造美術マニヤときては、大同、雲崗あたりの石仏の首すら運んでくる。大事にしてくださいと、よけいなおせっかいを告げて、山の人々と別れた。  登りにはウンウンいったが、降りとなれば、ぼくだって、負けはしない。──というつもりでいたが、例の石段また石段へかかって、靴をすべらせ、だいぶ勢いよく、二、三段、ころんでしまった。  マックラウド氏に、抱き起こされ、腰をなでまわす。マ氏「痛い?」日本語で訊く。もちろん非常に痛い。しかし国民性的ヤセ我慢がこのさいも出て「すこし痛い」と、答えてしまう。「ウーム痛い」という咄嗟の表情ができないで「すこし」なんていうくらいなら、やはり「全然痛くない」といってしまった方がよかったと後で思う。麓まで、腰も痛いし、あと味もわるい。  麓へ出ると、急に暖国を感じる。この辺の道ばたで見かけた蜜柑は、みな盃の糸底ほど小粒である。蜜柑というよりは、平安朝貴族の珍重した〝非時香果〟とか〝橘〟と呼ぶ名の方がふさわしい。  一路、自動車は、高松市へ引っ返す。ジープが道づれなので、こっちも快速が出る。所要およそ一時間半。栗林公園へまわる。  杉本画伯は、ここの常設美術館の建築を参考に見てゆくという。名古屋市でもいまその懸案があるための由。ぼくらはお先に出て公園を逍遥する。ここだけは、戦災のあとなし。京都の桂離宮と、どこか造庭の手ぐちが似ている。桂離宮もほんとは小堀遠州の造庭ではないから、桂式とでもいうのだろうか。  旅館川六へ、ひとまず帰る。みな、お腹がへっているのと、これから屋島、檀ノ浦をひかえている時間の忙しさに、一つ寄せ鍋を囲みながら、宿のマダムを大勢して「御飯」「御飯」「御飯」とお給仕の総攻めにする。  寄せ鍋、煮えている間がない。  支局のH氏、高松NHKの人、郷土新聞の記者たちなど、この間に、出つ入りつ。電話口では嘉治さん忙しそうな声。何もかもおよそに打切る。そして以前のごとく自動車へ分かれて乗る。  屋島のケーブル駅に着く。いま出たばかりの後であった。次までの三十分間を、陽あしを仰ぎながら惜しむ。駅長さんの好意で、臨時が出てくれた。地表、駅の屋根、たちまち眼界を沈んでゆく。  山上の廻遊道路は、ぼくらにさえ、歩くによい。林間に、もう夕雲を見初める。四国連山や西海岸の線は赤々と冬靄のうちだった。みな黙りっ子になる。大股くらべに、とっとと歩く。マ氏と嘉治さんには、たれもかなわない。  屋島寺を訪う。  住職は早くから待っていてくれたらしい。方丈へと通される。だが、室内はもうほの暗いし、寒さといったら、歯の根がワクワクいう。みな外套のままうずくまる。そして住職が「お火を、お茶を」としきりに話しこむ腰を折って、ともかく先に宝物殿の御案内をと、お願いする。  こんにゃく色の障子、冷たい畳の大伽藍を、一間一間、導かれてゆく。光起の屋島合戦屏風も、切箔のくすんだ光と、紺泥の海と、那須余一の顔の胡粉などが、ほのかに見えるだけである。  その代りに、重盛の燈籠とか、景清の観音像とか、太刀とか、檜扇とか、緋おどし、卯の花のよろいとか、それらの物が、一堂の夕闇をモザイクして、妖しいまで古色にみちた息吹きを漂わせている。紙の障子が、すき洩る現代の空気も音響も一切遮断しているのだ。  もし花おぼろな春の夜でも、ここの黒い柱によりかかって、屋島の浦曲の波音を耳に、うとりうとり居眠りでもしていたら、夢に、平家の人々が語りかけて来るかもしれない。源氏の矢響きの下に、建礼門院やあまたの女房たちのすすり泣きを聞くかもしれない。  だが、なにしろ今夕は寒い。ぼくの足は、とうに感覚がない。雪の庭という、まっ白な、凝灰岩の庭を見て、板縁づたいに、そのまま辞して外へ立ち出る。  四天門を出てから、歩くにしかずと気を持ち直した。歩いていればやや暖い。  見晴し台に出る。そこの茶店から望まれる遠い高松市はもう街の灯だった。小松原の坦道を足にまかせてテクテク歩く。南嶺の東北端だという断崖の上へ出た。小肥りな茶店の主人公がさっそく立ち現われて、ぼくらにいう。 「ここは、談古嶺と申しまして……」と、冒頭におき、おりふし、夕月の下に、すべてを藍で染めたような海と山と浦曲を指さし、「この下が、安徳天皇の行宮阯です。あれが、那須余一の祈り岩。彼方が、源平両軍の激戦地、相引川というのでして……」と頃は寿永二年の平家都落ちから始まって元暦二年の屋島、壇ノ浦までの戦史を、読むように、しかも、歴史に誤謬はあろうと、山容水態はまちがいない実景をいちいち指さして談古嶺の長講一席の後、 「さ、どうぞ、お茶でも」と見事に結ぶ。そして、女たちに、床几を崖ぷちまで、運び出させた。  小さい土器を売っている。  土器投げだ。伊香保かどこかで、やったことがある。たしか、落語にもあった。なんという落語だったか忘れたが、文楽がうまい。  茶店の主人公、それを持ち出して来て、まず、お手本を示す。文楽が高座でやるほどな妙はないが、じつによく飛ぶ。われもわれもと始め出す。ぼくもやる。マ氏は大いに気に入ったらしい。第一なかなか衆愚に交じって来ない嘉治さんが夢中になった。  夕月の色ふかい谷間の古戦場へ、土器の散蓮華がヒラヒラ舞い落ちてゆく様は、これはぼくらが無心にやっている童戯といえ、一つの供養といえるかもしれない。無自覚に菩薩行をやっているのだと思ったらなお愉快だった。いや、そう思ったりしてはもう供養でもなんでもなくなるが、何か、長い世紀にわたる人間の生態が、おもしろいものだという諦観へは否みなく誘われてゆく。  なべて人間世界の諸業を〝遊戯〟と観じる思想にも否定し難い何かがある。  芭蕉のいう──兵どもの夢のあとは、それに近い。もののあわれもそうだ。こういう考え方はおそらく東洋人の共通的な感傷で、人類の最難問題の解決には、なんの寄与するところはないかもしれない。こんな美しい自然を用いて、日本はじつに数多の古戦場を作って来たから。──けれど、地球の全面、北極南極をのぞくほか、古戦場を曝していない地上はない。そして今ですら一日の休みもなく、どこかに新戦場が生まれ、どこかは古戦場と化し去ってゆく。  もし、人間の生命が、一枚の土器みたいに、たれかの手で曲投げされるような物だったらたまるまい。そんな童戯をやらせてはおかれないだろう。土器に生命はないが、人間はちがう。  談古嶺に立って、無数の白骨を思うとき、幾人が死を必然なものと受け取って死んだろうか。そんなことも考えられる。なるほど、史上の源平の合戦は、戦をさえ芸術化したかと思われるほど華やかでその中には、犠牲の美しさや、時代の道義に殉じた壮烈な魂や、人間性としても、かえって平和な社会には見出し得ない美しさや生命の火花は見られる。けれど、なおかつ、それにしてさえ、平家の人々が、歴史に示されているように、屋島や壇ノ浦や、また赤間ヶ関あたりの海底へ、一門ことごとく、死に果てたものとは、ぼくには思われない。  古今、生命の本体は変らないが、生命観は、根ざす社会によって、必然にちがう。それを充分考慮に入れても、平家の人々とて、人間である以上、一門西海のもくずになったというような、粗雑な歴史観は、ぼくには想像できないのだ。生きうるかぎり、あくまで生きぬこうとしたに違いないと思う。元暦二年三月二十四日の長門壇ノ浦までを、平家時代とし、すぐ翌日から源氏の鎌倉時代とページを更えるような史学的整頓はおかしなものである。そう総決算をつけてしまえば、一応、次の時代を説くのに、都合はよいが、歴史を、社会構成の表皮だけから見ずに、人間の生命を基底としての社会を観るなら、屋島、壇ノ浦は、決して平家の消滅ではないのである。ただ、その生態を、社会の表面から変えたというだけに過ぎない。  平家一門は、死に絶えていない。多くは、生きつらぬいて、どこかで生きつづけた。これは、ぼくの日ごろに抱いている考えであったが、屋島の一角に佇んで、一そうその考え方をつよめた。  夕月はいつか五剣山の上に高い。船隠しの崎も、檀ノ浦の浦曲も、夜の底に無風帯の青ぐろさを抱いたまま暮れ沈んでいる。もし、かりに今夜を平家最後の夜として、ここを落ちるとしたら? ──と考えてみよう。それはじつに易々たるものだ。ぼくの足だって落ちのびて行ける。東は、牟礼、志度路、すこし行けば、山岳地へ入り込めよう。西は、坂田、鷺出方面へ。もしまた南へ深く、阿讃山脈へでも入ろうものなら、当座の源軍勢力では、そのあとかたも捕捉し得まい。  同様なことは、長門壇ノ浦附近の地形についてもいえるのである。もし平氏の面々が、好んで水死を求めたのなら知らないこと、生きようとしたら、あのさいの多数は、どういう落ち方をしても、生きられる山野をうしろに持っていた、ということだけは、確実にいいきれる。  そこでぼくの新たな興味を唆ってくるのは、日本全土にわたる、いわゆる〝平家村〟や〝平家部落〟というものである。そのすべてが、山間僻地に分布されていることは例外がない。  南は、九州の山岳地帯、北は東北、北陸にまで、ままその末裔一族という小社会があるのを聞く。ぼくはまだその正確な統計も、概括的な史料すらもっていないが、もしつぶさに調べたら、驚くほどな数にのぼるのではないかと思う。たとえば、安徳天皇の行宮の阯といったような土地でも、全国に三十数ヵ所もある。いちいち、それを史実と見ているわけではない。すべてを伝説視する前に、もっと従来のような粗雑な史観と、総勘定的な整理の仕方を、わきへ措いてはどうか。そして人間性の本然と、生命の自然な流れを基底にして、再検討してみる余地がありはしないか。そういう懐疑から出たぼくの宿題なのである。  北陸、東北、近畿あたりの平家部落は、もちろん壇ノ浦の落武者ではあるまい。政権の一変と、以後の支配者の圧迫による地方の平家与党の遁亡であろう。彼らの中には、そのころの人間の潔癖とか、廉恥とか、あるいは自尊的な考えからも、きのうまでの平家与党たる誇りをもって、追放のない天地へ、そして権力や闘争に左右されない自然の土壌へ、進んで移住して行った者も、多かったのではあるまいか。  新支配力の下から弾き出された者も、自衛的に移住し去った者も、いい合わせたように、かれらが、甦生の土壌で選んだ子孫までの生活の姿は、戦争放棄であった。  鎌倉期以降の治乱興亡の中の人々は、権力への執着がつよく、生き代り死に代り、敗者となり、勝者となり、容易に武力をすてていないが、平家部落からは、ふたたび源氏を仆そうという旗は挙がっていない。  なんとなく、ここに平家人らしい、諦観が共通していたように考えられる。世に栄えていたときの平家文化の特色もそこにあったのではあるまいか。だからこそ、一門が都の落去も、福原の焼亡も、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の末路も、あわれとも、優しいとも、人間宿業のかなしさとも、何かいい知れない悲曲の響きを、今でも人の胸へ打ってくるのではあるまいか。  弱くも強くも、猛くも優しくも、平家の人たちは、みなそれぞれに高い薫陶をうけていた。自然、人がらの良さがあったと思う。  源氏の人々には、それが乏しい。野性的な生命力を、宗教や文化の苗床に芽ばえさせた功はあるが、大きく見くらべて、人がらは見劣る。殊に、末路が悪い。ぼくのいう悪いというのは、詩にならないことである。  空想は楽しい。自分の生存期間を出て、過去へも、未来へも、自由に翔けてゆける。もし、人間に空想が欠けていたら、地球は地球だけの面積でしかない。  外套の襟を立て、ポケットに両手を突っこみ、談古嶺に佇んでいると、半夜でもこうしてじっとしていられる気がする。  茶店の主人公に、何か声をかけられる。われに返って振りむくと、これはこれはであった。床几の上に硯箱が出ていた。杉本さんが、色紙に絵を描かされている。これはまるで、闇討ちだ。月があるし、色紙は白いから、まあ筆の穂は見えるようなものの、夜の野外で、硯箱が出てくるとは、茶店の談古翁もちと酷い。  ぼくにも何か書けとあるままに、 談古翁しばし黙せよ千鳥啼く  とかなんとか、即興の駄句二、三を書いて逃げ出す。暗やみで書いたせいか、後になってから、句もよく思い出せない。  ケーブルの駅の灯が見えて来るまで、山上の東南側の廻遊路を、うねうねと半駆け足で急ぎに急ぐ。  夜空から白いものがちらついてくる。雪花らしい。雪花は四国の名物なのかしら。途中でアベックの二組三組に会う。こっちに、余裕がないのか、ちっとも羨ましくない。  ケーブル、すぐ出る。窓外をセリ上がって行く屋島の崖の松木立を透かして、遠くの地表から迫ってくる高松市の灯の海のきれいさといったらない。なるほど、恋人と語るによいケーブルと、おそまきに感心する。いや、ほんとに感心したのは、このケーブル駅の清潔さと、駅員の親切なことだった。  宿へ帰り着く。七時近い。  NHKの人たち、録音マイクを引っ張りこんで待ちかまえている。昼間、断ったはずだが、どうしても何かしゃべれという。  旅行寸感と、文芸近況をまぜて、十分か十五分ばかりマイクにしゃべる。  隣室に、食事の支度ができていた。マックラウド氏を加え、支局長その他も混み合って、卓をかこむ。マ氏は酒好きである。日本酒を解する。日本人にして解さないのが、嘉治さん、健吉さん、Oさんなど。  マ氏、ぼく、H氏などは、それら卓の対岸に、ただ食べてばかりいる一連の賢兄たちを、あわれむかのように、盞を上げて、見よがしに、享楽する。そのうちにマ氏、盃をふくんで、嘉治さんや健吉さんの顔を指していう。 「だめ。みんな、クリスチャン!」と。  嘉治さんが、すかさず、「じゃあ君は」というと、マ氏は言下に「わたし、すこしクリスチャン」と、肯定する。  みな爆笑。おのおのが、自分自分へ向かって、讃美歌の一節みたいに呟いていた。 「すこしクリスチャン。──なるほど、少しね」  食事のあと、ここでも、たくさんな色紙を書く。健吉画伯は、断れない性分というよりは、描くことそれ自体が天性好きらしい。画筆を持って、大きな背を丸くし出すと、その姿がもう画中の人だ。筆の墨を吸う、代赭を舐める。もし絵具皿の代りに、お酢の小皿を置いても、きっと舐めてしまうだろう。だから、宿の女中氏などが「お願いネ、三枚だけ」といっても、描けたそばから後ろへやって、また一枚ずつのせておけば、何枚でも描いている。背ぼねが痛くならないうちは、「これやあ、三枚じゃあるまい」と、大きな眼を剥いていうことはまずない。  ぼくなどは、老獪である。もっぱら煙草をくわえ、苦吟の態にしておく。その晩の苦吟の態なるものの一つ。 風花にちら〳〵帰る屋島寺  夜はたちまち十時過ぎる。  夜の十一時に、別府行きの〝こがね丸〟へ乗船の予定である。「うっかりすると、時間いっぱいですよ」と、Oさんは冷静に人をおどかす。  みんな騒めき立って、おのおののトランクへ何やかや詰め始める。どてらを脱ぐ、オーバアを着こむ。ぬれタオルが後から見つかる。およそ男同士の旅館の立ち際ほど殺風景なものはない。たれか、富士川の平家を笑い、屋島の宗盛をあなずる者ぞ。  なんのこと、桟橋へ駆けつければ、こがね丸、二十分遅着とスピイカーが叫んでいる。おかげで、見送りの人々とは、深夜の埠頭に、惜別を尽すことができた。潯陽江頭の詩は嘘ではない。つい瀬戸内の向う岸へ、汽船のベッドで寝ながら行くのでさえ、埠頭の別れはへんにわびしい。  まもなく、こがね丸、桟橋へ着く。マ氏と握手する。マ氏、もう酔いざめか、しきりにハンケチで水洟を拭く。訊いてみると、じつはおとといあたりから風邪をひいていたのだと答える。待てよ、すると、ぼくが白峯の石段でころんだとき、「すこし痛い」と答えた「すこし」は、国際的に通用しないゼスチュアでもないかも知れない。マ氏の水洟さえ、親友嘉治さんへの友情とエチケットになっている程だから。  船、桟橋を離れる。  川六のマダム、テープを投げてよこす。夜だし、早く離せばいいのに、船について、桟橋の端まで、駆け出したので、ロープか何かにつまずいて、ころんだ様子だった。白峯の石段でなくて、まあよかった。  いや、ザブン……などと、夜の海が飛沫を上げなくて、ぼくらも救われた。所は壇ノ浦の近く、とんだ建礼門院様に、アプアプお見送りをされたかもしれない。(二六・七・八) 瀬戸内と別府の巻  ──眼がさめる。こがね丸の船室のベッド。海のホテルの方が、かえって冬を知らないあたたかさ。鼻の穴はかさかさ、肌はベトつき気味。これで風邪も抜けたかもしれないと思う。  同室の健吉画伯はとうかがうと、もう、もぬけの殻。そこでひとり甲板へ出てみると、やはり冬は冬、海は海、どうして伊予灘の寒風は侮り難しである。ものの五分間と立っていられない。  船室でぬくもり直す。珈琲をもらい、新聞にも倦むころ、やっとOさんが食堂へ誘いに来る。嘉治さん健吉さんも、卓に揃う。  食堂は、閑散だった。年の暮の別府行きらしい。船長と雑談。部屋へもどると、あとからボーイさんが型のごとく、画帖、色紙、硯箱を持参に及ぶ。  これは戦前の緑丸、紅丸の時代から瀬戸内航路の関所手形と決まっていたもの。政界、財界、芸能、学界、文化の面などで、およそ世に虚名を売った人間は、当然、いんぎんなる徴墨吏の下に、虚名税を収める義務があるみたいな習慣になっている。  もっともこの瀬戸内は、つい三、四百年前まで、因ノ島、塩飽などの島々に、村上海賊将軍以来の、海の顔役がにらんでいて、〝帆銭〟とか〝潮道券〟とかいう私税を徴発し、ただは通れない所だった。それを思えばいと易きこと哉である。  中世日本の瀬戸内は、ほとんど、魔海視されていた。聖武、光仁帝の大昔から、「南海ノ賊大イニ乱ル」という公紀が見えない時代はない。それも頻々、幾世紀にもわたってである。源氏代々の将も、平家代々の者も、たとえば正盛や忠盛や、清盛の若いころまで、「──南海ノ賊乱ヲ平定ニ征ク」の朝命をうけていない者はない。  その南海なるものが、ゆうべ寝て通った燧灘や、けさの船窓に眺められる平和な島々なのだから、今昔の感というよりも、何かおかしな気がしてくる。思うに、都の藤原貴族からは、海賊と見えたのだろうが、この島々から都を見れば、幾世紀、朝廷を擁して、栄花物語的な世襲を固守していた中央の貴族圏などこそ、太い料簡の輩であり、こっちが海賊なら、やつらは陸賊だと、罵っていたかもしれない。  船窓をよぎる無数の大島小島で、ふと思い出したのだが、島の漁村の人には、田井、佐波、分利、勝尾、岩志などという姓がずいぶんあるそうだ。島の小学校を参観した時、笑いたくなって困ったという人の話である。そんなところに、王朝期以来の海族の名ごりが、まだほんのりと島々に遺っているらしい。  話はとぶが、日本人の名が、勿体ぶってきだしたのは、仁明帝(西暦八三三年)以後で、それ以前には、なかなか愉快な名が多い。  蘇我ノ蝦夷、平群ノ鮪、蘇我ノ赤魚、押返ノ毛屎、阿曇ノ蛍虫──などはまだよいが、巨勢ノ屎子という女性がある。佐伯ノ伊太知とか、大伴ノ鯨、凡ノ黒鯛などは史上にも見える人物だし、丹念にさがせば、そんな類の名は、まだいくらでもあるだろう。  後世の熊さん虎さんなども、その命名法の名ごりと思われるし、瀬戸内の島人のサバ、コノシロ、ヒラメなども王朝人種の余風といえないことはない。  源平時代の武家の子弟はというと、たいがい一から十まで、番号名になっている。朝廷貴族や後宮の女性たちは、呼び名にも雅味を尊んだが、武者階級は単純だ。生まれた順に、太郎、次郎、三郎、四郎、五郎である。──十郎から先は、余一とつけた。だから那須余一は、十一番目の息子だということがすぐわかる。  那須余一は坂東者だ。東北の人間が、ここの近海で、扇の的のエピソードを謳われたりしたのは、おもしろいし、内海の暗黒が、あの時代には一度、非常に明朗化されていたようにも思われる。  内海航路を、明るい平穏なものにしたのは、なんといっても、清盛の努力である。大輪田ノ泊の開港、厳島の造営、また宋船を導いたり、自分も後には、宮島へ月詣りの船を通わせたり──つい二世紀前の瀬戸内を考えたら、隔世の感にたえないような開化を、清盛は、この海上に実現させた。 「いま、どの辺かしら?」  と、ぼくは丸い船窓へ顔をよせてみた。甲板へ出たら、あるいは、見えもしたろうか。  天慶年間(将門ノ乱の年)この辺で猛威をふるった藤原純友の根拠地は、伊予沖の日振島であったという。──「南海ノ賊首、藤原純友、船千余艘ヲモツテ、朝貢ノ官船ヲ剽掠シ、海路一切通ゼズ」などという古記がみえる。どんな船か知らないが、千余艘をもって、官物を船ぐるみ呑んでしまうなどというやり口は、ケチな泥棒ではなかったとみえる。  そういう伝統的な魔海も、清盛の海上政策が具現してからは、なんと文化的な楽園の海に変ったことだろう。厳島の構想は、いまでも世界的なものだが、じつは百鬼跳梁の海に建てられたものだと考えると、なおさらその〝美〟の性質に、一種のかがやきが加えられて来よう。──が結局、平家一門は、自分たちが開花し楽園とした瀬戸内を舞台として、華麗な扮装をつけ、限りない人間哀詩を奏でながら、末路の大悲劇を、演じ去った──。  桟橋が近づく。別府だ。  甲板は旅客で埋まる。「来ている、来ている」と嘉治さんの送る微笑。桟橋の上も人で埋まっている。  午後一時。土を踏む。  西部出版支部長のHさん、編集課長のIさん、別府、大分支局長など、たいへん大勢のお出迎え。同勢ゾロゾロ白雲荘の別館へとゆく。 「おや?」と玄関のスリッパに足をのせながら考える。ここの家にはむかし──といっても宮本武蔵を朝日に連載中のころだが──友人の画家野口駿尾氏とふたりで幾日かいたことがある。そのころは、旅館ではなく、空家のような邸内に爺やか婆やがいたに過ぎない。駿尾君の兄の野口遵氏──あの北朝鮮の世界的ダムを完成させた人の別荘か何かだったらしい。  その時の旅行目的は、熊本を中心に、武蔵に関する史料蒐集にあったのだが、もっぱら郊外の一日亭に沈酔して、二人で〝木挽ぶし〟ばかりを稽古していた。音痴のぼくは落第、別府へ戻って、原稿に追われ出したのが、この家だった。いま奥に坐ってみると、その時のペルシャ絨毯が、まだそのまま敷いてある。ちょっと、撫でてみたい気もちになった。 「むりでしょう、田染行きは」「むりをしてまで、行くほどの価値があるかないか」「田染へ行ったら、由布院へは、行かれませんが」  Hさん、Iさん、支局の人々などの間で、さっそくスケジュールが検討され出す。これは、予定外だったらしい。杉本画伯が、出発前に、この別府出身の佐藤敬画伯から、「ぜひ田染の石仏を見給え」とすすめられていたのだとある。ところが、例の精密スケジュールと来ているので、抜き差しならない。結局、石仏見参は、おあずけ。陽のあるうちにと、ハイヤー二台で、由布院へ向かう。  わずか十五分か二十分。もう、せせこましい湯の町は別府湾の海岸線を探さなければ見つからないほど、遠くの眼の下にかすんでいる。  山の手道路もいい。峠へかかってもなかなかいい。鶴見嶽のスロープや、捏山の谷あいをネジ登り始めたが、行けども行けども道がいい。──こう怪しむのは、ぼくら日本人の常識であるが、訊いてみるとやはり「進駐軍が来ましてね」である。ここばかりではないが、こう聞くたびに、毎度、名誉なき感じがする。  別府をせせこましいといったが、それは、こっちのせいで、別府のせいでないことが、いまわかった。何度も来ている所だが、汽船から眺めても、町に泊っても、背後の山岳地帯が、こう奥深い廻廊へ通じているとは、知らなかった。観念的に、うしろは山と決めてしまっている旅客は、ぼくだけではあるまい。事実、伽藍嶽とか、硫黄嶽や、由布嶽にしても、決してやさしくない山容ではある。  だが、峠の城島台へ出ると、もっと意外な視野に出会う。そこに高原ホテルを見たり、薄雪をもった由布嶽の頂を、眉近くに見出したこともだが、踵を回らすと、九州中部山脈の屋根が一眸にはいってくる。 「阿蘇外輪の九重高原ですよ、あの辺が」と、その九重踏破の忘れがたい思い出を、Iさんは話しぬく。健吉画伯は、うしろ向きに、由布嶽と対して「いい山だ。描きたいなあ。じつにいい」と、いつまでも見飽かず、立ち飽かない。  この山を一名、豊後富士というそうだが、そんな俗称よりも、やはり由布嶽がよい。木綿山のことであろう。──道はやや高原をゆき、やがて由布院盆地へ降りてゆく。その降りへかかりながら、捏山、太郎嶽などの内ぶところを車から振向いて、 「あそこに、平家部落があるんです。平ノ宗清の一族とかが入った山だというんですがね」  と、たれかが説明してくれるものの、ちょっと降りて、敬意を表しにゆくわけにもゆかない。  由布院盆地の聚落は、また温泉聚落といってもよい。田にも川にも沢にも湯がにじみ出ているという。由布川のそばの山水館で休む。  もし別府湾に上がった敗軍平家の一群があったら、山を越えて、この由布院へも入って来たろう。そして九重を経、五箇ノ庄や椎葉方面などへ、分布して行ったにちがいない。あるいは、北九州へ逃げ上がった友軍や肉親のたれかれを探して、果てなくさまよい歩いたかもしれない。  自然に任せてある疎林の庭さきは、倒映湖の冬枯れた渚に垣もなくつづいている。いま越えて来た由布嶽の影が、くっきり水面に落ちていて、そこにも雪があるのかと怪しまれた。縁先に、足を投げ出して、甘酒を飲む。その甘酒がまた、余りに濃いので、薬缶の湯を取って、半分にうすめる。「これで、なお美味くなった」と、ぼく。「どれどれ」と健吉画伯が真似る、Oさんも真似る。「ほんとだ。ちょうどいい」──もって、由布院盆地の人情、経済、この旅館の居ごこちなど、およそ卜すに足りるといったら、甘酒から「その方が私より甘いですぞ」と笑われるだろうか。  嘉治さんいつのまにか、烏の行水をすましてくる。甘酒の上にまた、干し柿が出た。たれも食べてがないかと思うと、みなよく食べる。人がそう食べるのにと、ぼくも食べる。胃袋でなくつい手が食べるみたいなものだ。宿の若主人かと思う人も見え、小杉放庵氏や虚子氏の来たことなど雑談に出る。いること三十分で宿を立つ。  帰りの由布嶽越えは、夕方ちかい。  来る時にも見かけたが、この山深い所の未完成道路に、山村の娘や中年の女が、男と一しょに土工をしていた。こんどの旅行中、どこでも眼についたのは、こういう土工の荒仕事に、地方の若い女性たちが、一しょに働いていることである。戦後現象の一つかと思う。高松などの市街地でも、じつに多くの女たちが、もっこや、こん棒や、つるはしを握っていた。男たちの若い労働力が不足だというではないし、余り過重な労働はなんとか女たちにはさせたくない。それに代る地方女性の仕事を何か各地で考えてやれないものかしら。  帰る。風呂にはいる。  それから、食事の順だが、じつは大勢の客が別室に来ておられた。支局のきもいりで、かつまた、ぼくの旅行目的の一助にと、今夜の座談会に遠路から来てくだすった方たちである。  さっそく、その会に出る。  大分大学の松本、半田、安河の諸教授、別府女子大の佐藤校長、図書館長の兼子氏、公民館の安部氏、郷土研究家の立川、福田の両氏。そのほかみんなで十六、七名もおられたろうか。 「新・平家物語」について各家の各評を伺う。由布院の自慢ばなしもさっそく出る。瀬戸内海と平家との関係に話題は傾く。中でも、有益に聞いたのは、清盛が宋大陸との貿易に、この沿岸の山から採掘した硫黄を輸出していたということである。  従来、日本側からは、日本の砂金、漆、絹、太刀、工芸品などを輸出し、宋国からは薬品、香料、陶磁、金襴、図書その他、広汎な文化財が輸入されていたことは、概目、文献にも記載がある。けれど両国の文化水準から見ても、当然、入超数字になったであろうことは明らかだし、その為替決済のバランスを、どう取ったろうかという問題は、ぼくにはまったく疑問だった。  しかし、宋国側で、日本の硫黄を需要していたとなると、その問題は、ほぼ得心がつく。──残る問題は宋船が日本の硫黄を当時、何に使用したかということだけになる。火薬史によれば、西欧での火薬の発明はほぼ一三四〇年ごろとされているから、火薬の製法が宋にはいっていたとするには少し早い。けれど硝石を知ったのは、東洋の方が先だったという説もあるにはある。当夜のおはなしでは、宋朝建築の基礎工事に硫黄の用途があるという解説を聞いたのである。あいにく自分にその方の予備知識が欠けているため、なお研究の課題としている。  諸兄、散会。もう宵過ぎ。  部屋に帰って、ぼんやりときょう中のことを、頭に振り返る。旅行中、五日ほどは、雑記帳へメモも取っていたが、すぐ怠ってしまった。──どうにもハガキ一枚書けない。 「みなさんがお待ちです」別室に卓をつないで、桟橋からのお顔大勢、食事を待っていてくれたらしい様子に恐縮する。この夜初めて、いやこの冬初めて、燈下に、九州名物の河豚を見る。東京を立つときから「九州へ行ったら」という約束のフグだけに、たとえば逢曳の彼女の常ならぬ薄化粧をまず見入る男の眼のごとく、いやしい味覚がそそられる。一は青磁の大皿、一は呉須赤絵の皿、それに白牡丹の一弁ずつを削いで並べたような透明の肉片のさざ波は、ちょっと箸で崩すのも惜しまれる。──と感想などを楽しんでいるうちはよかったが、その晩、崩れたのはフグだけではない。  自然生態か、別府の夜はやはり別府の夜になってしまう。温泉地熱帯生理現象がやがてぼつぼつ酒間にわいてくる。西部出版支部長のHさんなど、この地帯の常住魚族としても恥じない風貌がある。鼻下の微髯をヒレ酒の露にぬらして、拈華微笑的なふくみ笑クボを大幅な顔にたたえるところ、たれかが「無尽会社の社長さん」と敬称したのをぼくも初めはほんとにしていた程である。また編集課長Iさんは、ほととぎす派の俳人ということだ。カメラ風土記の取材では、足跡九州四国にあまねしという脚歴をもっている。「西部圏内なら、掌をさすように知っていますよ、孫悟空みたいにね。だからあすからの東道役はこの人です」と、嘉治さんがいう。悟空子、顔を赤くして、はにかむ。  嘉治さん健吉さんOさん組にも、こよいは多少変調が見られる。酒はのまなくてもフグのせいか。もっともこの夜健吉さんビールをよく飲む。少妓、中妓、老妓、三人ほど、いつのまにか座間に咲いている。  つい、尊名を逸したので、かりに彼女たちを、いろ子、はに子、ほへ子としておく。ほへ子申すに「はに子さんは稗搗節の名手ですよ」とある。「ヒエツキ節?」と、それからの話題が、ややしばらく、平家部落の五箇ノ庄や椎葉村のことに飛ぶ。  椎葉村とそこの稗搗節については、さきに春の別冊週刊朝日の誌上で、長谷川如是閑氏との対談に、このとき聞き得ただけのことを話してしまった。その後、それを読んではるばる椎葉まで行ったという読者もある。ここでは別冊との重複を避けて、省略しておく。  ただ、その一読者の手紙でおもしろいと思ったのは、あんな山岳中の山岳に、厳島神社が村社として祭られているということである。平家の氏ノ社であり、海の神社として知られている厳島の神が、熊本県から宮崎県にわたる九州脊梁の人煙も稀れな山間に村社としてあるというだけでも、流亡平家の末裔たちの実存を想像するのに充分な気がする。  その稗搗節をやがて、はに子が唄う。嫋々哀々、杯をおいて聴くに足る。ぼくら旅情をいだく客は、心をすまして傾聴したものだが、無尽会社社長のHさんは「脂粉の気があって、いけません」という。正論たることは疑いない。「ほんとに、あの山ん中へ行って、椎葉村の年よりや娘たちが、月夜に唄うのを聞かなければ、とてもとても」と、自負のほどをほのめかす。はに子、くやしがって、大いに飲む。由来、飲むこともこの土地では芸能の一つに加えられているらしい。Hさんにからんで、しからば唄っておみせなさいと迫る。社長さん大いに弱るも、日ごろ、家元を自称しているてまえ、とうとうやることになる。一同敬聴。さすがに、脂粉の気はない。だが、拍手と共に、健吉さんがニヤニヤいった。「なるほど、ヒゲツキ節ですなあ」  はに子、よろこびの余りに、トラになり、社長さんとまちがえて、やたらにぼくへ杯をもってくる。ヒゲでない稗搗節を教えてあげると巻舌でいう。ぼく、畏まって数回御教授をうける。この図、杉本画伯のスケッチが挿絵となって編集部へ送られた由なるも、ぼく、週刊にふさわしからずと異議を申したてて、ようやく没にすることを得た。それは、帰京後のこと。  翌朝。  小倉行きの汽車時間まで、大急ぎで、旅館の縁で散髪をしてもらう。東京以来、耳にかぶさっていた頭髪が鋏に落ちるのを見ると長サ三寸。(二六・七・一五) 門司・小倉あるきの巻  この日からさき二、三日の間は、朝日西部本社のHさんとIさんが、縄張りウチとあって一行に加わり、一行の世話係をひきうけて大いに務めてくださる。Hさんは、昨夜御紹介いたしたヒゲツキ節の宗家で、別名、無尽会社の社長さん。Iさんは俳人なれどカメラ風土記では、孫悟空的な脚歴のある人。──なにしろ御自身たちの領内をば、こう二人の社長さんと悟空子との案内と承ったので、一行、気づよいこといわんかたなし、である。  別府を十一時十分の列車、門司駅着、午後二時半ごろ。  関門海峡は、この日も北九州名物といってよい冬風の波騒だった。これあるがために、名物の河豚も一だん名声を高めたのかもしれない。事、フグに関してこんなことをいうと火野葦平氏などからお談義を聞かされそうな気もするが、なにしろ、小倉の駅もだだっ広くて、思わずオーバァの襟を立てるようにできている。その上今にも降り出しそうなミゾレ曇り。どうしても「晩にはフグでも」とつい思う。  どうしたのか改札口を出たとたんに、社長さんも悟空子もたちまち行方がわからない。健吉さんも大きな体を寒々と立ちすくませている。Oさんがやってくる。「どうしたんです」とぼくら。「おかしいですなあ、車が来ていないんですよ。本社に連絡がとってあるというんですがね」──なるほど、悟空子が駅の電話口に立ったり、社長さんが小首をかしげて駅前を行ったり来たりしている。パイロットたちの心配ぶり、気のどくな程だが、なかなか連絡もとれないようだし、車も来ない。  旅客の群も、ほとんど掻き消える。駅は、風とぼくらの影ばかり。「うどんでも食べましょうか」と、健吉さんを眼の前の売店に誘う。小さい卓一つ。煉炭の七厘をかこんで、きつねうどんを三杯註文する。うどんの汁、いかにも、御飯代りといったような素人の家の味である。うす暗い片隅で、黙々と、葱をキザンだり洗い物をしている売店の夫婦を見て、この街の戦災が烈しかったことを思い合わせる。  嘉治さんが来て、にやにやいった。「駅ちがいしたんですよ、社の運転手が。べつな駅へ行って、待っていたが、向うでも私たちが降りないから、いま社へ帰って来たらしいです」  そう聞いて、ぼくらも気がつく。門司の旧駅と海峡トンネルの小倉駅と、一市みたいな街つづきに駅が二つになったのだ。悟空子と社長さんも、ほっとした顔を見せて大いに笑う。まもなく自動車二台、キャメラマン、社会部の人などを加え、この時間を取返すように、ひどく急ぐ。門司市外の和布刈神社から、速鞆ノ瀬戸や壇ノ浦附近を、日の暮れないうちに見ようというわけである。  市外の北端らしい。一方は海峡の磯、一方は岬の崖。「もう、車は行けません」と、降ろされる。  道のわるさ。ぬかるみではない。石ころやら、崖土のなだれである。こんな所まで、戦火は余さなかったものか、焼けトタンやら、まばらなバラックが目に沁みる。  小高い境内を見て、横から登ってゆく。社前の土や石崩れが、すぐ下の磯辺を埋め、以前には風致をなしていたであろう松や杉も、あとかたはない。根株の痕さえ少なく、からくも七、八本ばかり、ひょうひょうとなお潮風に耐えている痩セ木の姿を見ると、「やあ、君たちもよく生き残ったなあ」と、声をかけてやりたくなる。なにも、思いを平家敗戦の遠くにまで持ってゆくには及ばない。ついきのうのぼくらの身ぢかでたくさんだ。そうじゃないか、生き残りの痩セ木君。  和布刈神社のメカリというのは、わかめの意味ですと教えられる。和銅年間から、ここの速鞆の神主が、大晦日の晩には衣冠をつけ、鎌と松明を持って、わかめを刈り、神前と国主に供えたのが始まりで、それが謡曲の〝和布刈〟であります──と、悟空子の説明はなにかと詳しい。  社は、形だけのトタン葺き。万葉集の〝はやと迫戸と岩穂〟も仲哀帝の渡航も、文字ノ関守の時代も、現実は冷酷に、歴史的回顧の一切を一笑に附し去っている。ただそれは海峡の潮音と虚空の風に聴くしかない。  長門の壇ノ浦は、すぐ対岸だ。そこの岬とここの岬とで、海峡中、いちばん狭い所らしい。源平盛衰記や平家物語にいう〝海潮早キコト矢ノ如シ〟の状は、今とて、少しも変っていないだろう。じっと、佇立に耐えているうちに、耳は潮鳴りで塞がれてしまう。青ぐろい渦潮の下から、ふと、流されて行く死馬につかまっている武者の背や、夥しい矢や楯や、また緋の袴の黒髪などが眼に見えてくる心持もする。  源氏の義経が平家の海軍を破ったのは、よくここの海流の時速と、潮の干満を戦機に利した点にあったという。しかし平家にも、九州勢の味方はいたし、峡門の地勢と潮の特殊条件を無視して、海戦に臨むわけはない。ぼくなども、義経は好きだが、そして義経の生涯や性格に多分な詩と劇的な興味は覚えるが、義経讃美も度が過ぎて、いわゆる判官びいきの引き仆しが多く、その一例がここにも見られる。  他日のための、職業意識が急に眼を忙しくする。地図を読むようにあちこち睨む。どこへ行っても、ぼくは写真やメモをとる習慣がない。カメラに収めたと安心すると、脳膜の映像はケロリと忘れてしまうからである。「──あれが満珠島です。この対岸から、あの辺までを一帯に壇ノ浦といったのでしょうな。田ノ浦ですか。田ノ浦は、長門側にも、こっちの岸にもあるんですが、古記には混同しているようですね。平家の船団が拠った引島(彦島)は、さっきの駅に近い方です。ええ巌流島に近い……。もっと上へ登ってみましょうか」と、悟空子のいうがままに、和布刈神社の裏をまわって、岬の山へ登ってゆく。  何やら先の山蔭に、工場の屋根らしい物が見えてくる。思わずそこの門と守衛小屋を見て立ちすくむ。悟空子や社長さんはどんどん行くが、「君、君。そんな方へ行ってもいいのかい」と、ぼくらは、恐れをなしてしまう。かつての要塞地帯時代にビクビクさせられた神経が、ひどいもので、まだどこかに残っていたものとみえる。悟空子、夕闇の向うで、白い歯を見せ、手招きして笑いぬく。  山腹の岩角に立つ。枯れ尾花に、風がつよい。  ここは「鎮西要略」にある門司の古城址だろうか。とすれば平ノ知盛が拠って、九州での再起を案じた所である。どうして平家が九州経略を主目的とせずに、壇ノ浦の殲滅をみすみす求めてしまったか。疑問の余地がないでもない。松浦党は平家方であった。肥後の菊池隆直、筑前の原田種直、長門の紀光季など、有力な味方はある。殊に、清盛と太宰府との縁は一朝一夕のものではない。壮年期には、大宰大弐という官職にもついていたし、晩年には日宋貿易の上からも、彼と九州とは、唇歯の関係もただならぬものであったのに。  原田種直という当時の九州平氏の名を挙げたついでに、ここで、も少しいってみたい。じつは、この原稿を書く数日前、小倉市の一読者から、ぼくへ手紙が寄せられた。内容は、「北九州の平氏原田氏について」である。そしてその読者もまた原田某氏である。  従来、ぼくの寡見では、原田種直の名は大森博士の「源平両氏の分布と相互の向背」や二、三の史籍に、その名を見るくらいで、多くを語るなんの典拠も持っていなかったが、読者の原田氏のおてがみによると原田系図の原本には「平氏」また「漢氏」とあって、その祖は、後漢の霊帝劉家のわかれで、大和朝廷のころ、大勢をつれて、日本に帰化した人々であるという。  かつて大隈重信侯が、龍造寺、鍋島、大隈一党の祖先研究をたれかにやらせたところ、その遠祖がみな原田系に結びついてゆく結果を見た。読者の原田氏は、それが研究の動機でしたと、おてがみに書かれている。  平家と原田種直との関係は、種直が北九州の豪族であり、また代々、大宰府の吏であったことを思えば、当然、親しい交渉をもったであろう。種直の夫人は、小松重盛の一女であったというのも、一概に否定はできない。なぜなら、清盛が宋大陸との貿易をすすめる上には、漢民族から帰化した原田家は重要な渉外局の役割をもったに違いないからである。事実、京都と宋国との交渉には、この九州の地に、何かのそうした機関と人材がないことには、到底、なしうることではない。ぼくにとっては、それだけでも、これは、従来不明に附されていた課題を解く一つの興味ふかいカギになる。  平家の終りには、種直はその水軍を派して、屋島に参戦し、さいごの長門壇ノ浦に敗れ、後、捕まって鎌倉へ送られたが、十二年後に、頼朝から赦されて郷里へ帰ったものだとある。後の、江戸時代から明治にわたる龍造寺、鍋島の水軍も、起源は遠くそこにあるという。  以上、読者原田氏の手紙の文意はなお尽し切っていないが、とにかく、一課題である。おもしろい。充分、研究してみる価値がある。  ひとりこの原田氏ばかりでなく「新・平家物語」には、他の読者からも同様な好意を常に寄せられている。ちょうど紀行が北九州にかかったので、この一例は内容のまま拝借したが、他の幾多の御寄書もむなしくはしていない。へんな所で気がひけるが、日ごろ思いながら機会もないので、あわせてここでお礼をのべておく。  市中へ引っ返す。途中、大里の柳ノ御所址で、車を降りる。安徳天皇の行宮の御遺蹟とか。  裏町の家と家とのあいだに、樹木もない鳥居とトタン屋根だけの裸のお宮がそれであった。裏町の子供たちにはよい遊び場になっている。ずいぶん散らかし放題だが、幼い安徳天皇のお庭なのだ。敗戦国の子供らが、ここに遊び群れているのを見給え、いかにもふさわしい一幅の歴史画ではないか。また、一篇の詩ではあるまいか。朱の玉垣に白基の燈籠が社前にあるよりは、詩として、画として見ていると、暮れるも忘れて佇まれる。  子供たちが自動車へたかって来る。ふと車のうしろを見ると、柳ノ浦のむかしを偲べとか、たった一本、ひょろ柳が植えられてあった。ぼくらと感を同じゅうする人が、この裏町にもいるのであろうか。  西部本社へ立寄る。局次長のY氏、論説副主幹のS氏などと話しこむ。そこへ今年の別冊週刊で当選作となった「西郷札」の筆者松本清張氏が見えて、紹介をうける。西郷札は素材の要意も克明な手がたい作品であったと記憶する。実直で作風どおりな人であると話しながら思う。ずいぶん忙しい中で書いたらしい。羨むべき境遇と健康と年歯である。マックラウド氏のジープを思い出す。どうしているだろう、あのジープの主人公は。  夜。ふぐ料理の豊作で招待に甘える。  十人あまり膝づめに詰め合う。こう狭いのも睦まじい。河豚は別府の比でないこともちろん。ヒゲツキ節は、本社が近すぎるせいか、今夕はお休み。  もっぱら雑談。──屋島の檀ノ浦と、ここの壇ノ浦と、ダンの字の相違如何、などという中学試験問題みたいな話もわく。  じつは、ぼくもそれを知っていない。篤学なる悟空子の説や、ヒレ酒のあいまに、うんちくを傾け合う諸家の高説を、耳袋へ集めていたわけである。  そこで結論を報告すると、屋島のダンは、木ヘンの檀。こっちのダンは、土ヘンの壇。こういうことに、使い分けられているという。いや──いる人もあるにはある。  だが、じつは、どっちもあて字で、どっちも嘘。そう難しく穿鑿するなら、ダンは団で、団ノ浦でなければ、正確ではない。  ここの関門海峡も、屋島の浦あたりも、大昔、軍団が置かれていた地であるというのである。いわれてみれば、古記に〝豊浦ノ団〟などという文字もある。「玉葉」の著者九条兼実は、清盛嫌いで、反平家派の巨頭だが、さすがにこの人は、団ノ浦と書いて、檀とは書いていない。  人間が地形に宿命を託すところは、千余年も前から決まっていたものとみえ、関門海峡は中古以前の早くから、要するに、要塞地帯であったわけだ。ここは外夷に、屋島は内海の乱に、常時、防人の団がおかれていたものであろう。だから壇ノ浦のそばには火山(のろし山)の名もある。  こう伺ってみると、ダンは木ヘン土ヘン、いずれでもいいわけだ。大阪のサカは、今ではコザトヘンと決まったようになっているが、江戸中期前は、土ヘンの坂だった。大坂城が余り落雷の厄に遭うので、宝暦ごろかに「これは坂の字がいけない。土に反るがよろしくない」と悪左府頼長みたいな学者がいて、以後、コザトヘンの阪に革めたものである。だが壇ノ浦は、木にも土にも反りようはない。屋島は木、ここは土としておこう。一つにしてももちろん異存はないが、木ヘン土ヘンだけで一目その地方別が分かるなどは、簡明だし、おもしろい。実生活の邪魔にもならないし、まあここらの文字は遊ばしておけである。  新小倉ホテルへ帰る。  外は降っていた。車の窓を洗い流す雨。タイヤの音が、妙に悲調な笛を吹く。  宿へ着くなりすぐ蒲団をかぶって寝こむ。海峡の船の汽笛、瀟湘夜雨のわびしさに似る。ちょっと寝つかれないで腹這いのまま煙草を抜く。豊作から貰って来たマッチの絵などつれづれに見入る。清水崑氏だなと思う。方二寸形の中に女の顔がいっぱいに描いてある。その女、妙に雨の夜を語りたげに小首を傾げている。顔の白さも妙に白い。眼をふさいでもしばらく白い。  翌朝もまだ、そぼ降り気味。十時、駅へ行く。汽車の窓で晴れてくる。  車中で、宿の弁当を食う。少年の日の味を噛みしめる。  宮島口で降りる予定なので、そろそろ皆の手が網棚へのび始める。窓外に、雨後の湖のような内海の色が望まれ出す。そのとき車内なんとなく騒めくので、ふと、人々の見る方を求めると、厳島へかけて、あざらかな虹が空にかかっていた。虹に見入る大人の顔は子供に近くなっている。平家納経の扉絵か、扇面古写経の中の人々のように、一とき現代の顔もみななごやかで美しい。(二六・七・二二) 宮島の巻  書斎人には、寝足が多い。ネコ足ともいうそうだ。あたまは輪転機のように、足はいつも達磨さんである。だが、この半月の旅行で、ぼくはだいぶ健脚になったらしい。──たとえば今、宮島口駅の改札を出たとたんに、かなたの桟橋には、連絡汽艇が出かけている。 「それっ」というので「おウいっ、待てようっ」と呼ばわる無尽会社社長のHさんに駆けつづいて行く。悟空子、Oさん、健吉さん、嘉治さんなど、みな駆け出す。それに伍して、ぼくも決して負けないのである。前を行くお婆さん、おっさん、おかみさんなどにも負けはしない。  飛びこむとたんに、汽艇は桟橋を離れる。旅行中、こんなふうに、時々、駆け足をさせられるのは、愉快な日課である。老いらくの旅路も、うたた童心の汗にぬれ、修学旅行を思い出す。  宮島へあがる。さっき、列車の窓で見た虹は消えていた。午後二時半ごろの陽あし。迎えてくれた販売店主任のIさんやその他の人々を交え、岩惣までぞろぞろ歩く。  行くうちに気づいたことは、往来の土の踏み心地である。宮島特有なといってもよい。都市のアスファルトは固すぎるし、京阪の郊外は粗すぎるし、武蔵野の土は露じめりの日はよいが乾くとホコリ立ち、降ると名物のぬかるみができる。宮島の砂交じりの土は、程よく靴の裏の触感が楽しまれる。──それと、土産物屋でも食べもの屋の軒さきでも、よくまめに掃除をしている人々を見かけるには感心する。「清潔」と「不浄をきらう」伝統は、厳島の祭祀精神が住民の生活にまでしみこんだものと聞くが、こういう習慣なら日本中にあってもいい。宮島の歴史と、現実の観光価値をよく生かしているものは、ここの居住者の〝きれい好き〟にもあるといってよい。  宿に、荷物をおいて、お茶をひと口、すぐにまた厳島神社へと歩く。明朝の時間がないからとのこと。権宮司の田島仲康氏が待ちうけていてくださる。東廻廊の夕風寒いあの長い廊を、一同、おあとに従う。  厳島建築の特色は、海潮に脚を浸して幾曲がりしている東西の長い廻廊と、百八間のあいだ一定間隔に立っている朱の柱にある。おなじみの海中の大鳥居は、その廻廊のどこから振向いても姿態がよい。距離、大きさ、こことのバランス、そして平安朝末期としては、思いきった着想の新しさ。ぼくらのくせで、余りに見馴れた風致や絵画的な工芸美には、すぐ「古い」と片づけやすい観念が妨げて来るが、これほどな建築や自然の風致を、〝陳腐な感激〟としていられるぼくらは、思えば贅沢な庭園を持つ人種ではある。  厳島構成のスケールは全建築を、海と山に跨がせているところに、おもしろさと大きさがある。  客神社も、朝座屋も、一路廻廊に添って、独立した屋根屋根をもち、西廻廊の建物と、中央の本社と、その拝殿に向かいあって海中に突出している舞殿、楽房などを綜合して、ひとつの締めくくりがついている。その全体を、裏山からのぞき下ろされても、破綻を見せない用意もあったにちがいない。  権宮司さんの説明は学究的である。こう厳島研究に身を入れながら、島に住んでいるのもなかなか楽しいことであろうと思われる。聞けば、前に鎌倉にいて、鎌倉文化人のたれかれには、旧知の人も多いという。うっかり話題がそっちへ飛ぶと、せっかくの説明が聞けなくなるので、努めて平家のころへ話題を誘う。  とはいえ、建築史、所伝の史料、遺習遺蹟など、厳島文化史は、優に大冊の一地誌にもなろう。それを黄昏せまれる今ごろから、ざっとでも御案内してもらおうというのだからこっちもずいぶん虫がいい。  清盛の一挿話がここにもある。社務所の横の浜辺でちらと見た〝康頼卒都婆石〟のいいつたえである。──例の後白河上皇をめぐる側近たちの平家顛覆の謀議に一味した平判官康頼に、ひとりの老母があったという。康頼は、鹿ヶ谷事件の露顕した後、俊寛僧都と一しょに、薩摩の孤島へ流されたが、都の老母をわすれかねて、千本の卒都婆を削り、それに母恋しの和歌を書いては、日課のように、潮へ流していた。その一本が、厳島へ流れつき、康頼を知る者の手から、清盛の許へ、届けられた。──で、清盛は、彼の母を恋う思いにうごかされ、中宮の御安産祈願を口実にして、大赦の令を布き、康頼を老母の膝へ呼び返してやった、というのである。伝説かもしれない。  けれど、平家の世ごろ、ここの社殿にいた内侍たち(他社でいう神子の乙女のこと)だの徳大寺実定の口ウラにさえ、ころりとだまされて、わが子の栄職を譲らせてまで、実定に左大将の地位を与えている清盛である。彼には、どこか人のいい抜け目と、情にもろい一面があった。高松市で会った酒好きのマックラウド氏が、杯を手に自身のことを「少しクリスチャン……」といった、あの少し──と同質なものが、清盛にもあったのである。そういう史証は、ほかの場合にも見ることができる。  康頼石の話は、全部がほんとでないまでも、根からの根なし草とも思われない。悪いことは、作り事と知れきっているウソまで世に信ぜられ、よい半面はとかく語られもしないのである。もっとも、清盛に似た〝損な男〟は白骨の世界ばかりでなく、お互い生きている同士の世間にも、ずいぶん同型の存在は少なくない。  ここの厳島の内侍を、清盛は福原の別業へまで連れて行っている。眉目美きひとりは、彼の寵姫でもあった。なにしろここには、緋の袴に白袖の神の仕え女が「──かもめの群れ居たるによく似たり」と旧記にもあるほどたくさんにいたらしい。  処女であること、終身結婚しないことなど、清童女たることをたてまえとしていたものの、高倉院厳島御幸記などにさえ、さあらぬ艶めきがほのめかされている。──都遠く、潮路の不自由をしのび、侘しさに耐えて、夢の島に着いた公卿たちが、どうしておとなしくなどしているものか。 〝……上達部、殿上人の、とのゐ所、心をつくしてまうけたり。内侍ども、屋形をしつらひてぞ、おのおの過ごしける。月の頃ならましかば、いかばかりおもしろからまし〟  と、あったり、また、 〝内侍、八人ぞある。みな、唐の装ひぞしたる。花かづらの色より始めて──天人の降り遊ぶらむもかくやとぞおぼゆる〟  などと見えるあたり、厳島参詣の一つの魅力は、この内侍にあったにちがいない。  だから鎌倉時代の掟書きには、子づれの内侍を禁じたり、懐妊七ヵ月以上の内侍の出役止めの制などもあったという。しかし、後にはもっと紊れていたろう。信長から秀吉時代にわたる安土桃山文化期の一ころには、ザビエルだのヴィレラだのフロイスなど、日本西教史中の宣教師たちも、みな一度は立ち寄っているらしく、フロイスの日本通信には「──自分たち一行が、社殿の長い歩廊を行くと、巫子という神に仕える女悪魔に出会った。彼女は子をつれて歩いていたが、子供はわれらを見るなり、天竺人、天竺人、と大声で叫んだ。悪魔がいわしめたものであろう」と書いている。  高倉院厳島御幸記の筆者が見た内侍たちと、フロイスの眼に映じた内侍とは、時代もちがうが、こんなにも違っていた。つまらない空想を逞しくするようだが、かりにこのフロイスやヴィレラなどを、源氏物語の世界へ連れて行って、女三の宮の寝みだれている寝室とか、光る君や藤壺の生活をのぞかせてみたら、なんというだろう。やはり紫式部の眼とは、まったくべつなものを見たことにちがいない。  ぼくはそのどっちも、まちがった見方とは考えない。どっちが見たものもほんとだと思う。  なにしろ、心ぼそい時間のなさだ。寸陰も惜しまれてくる。暮れ迫るままに深まる物のあいろは、陰翳の美を見るにはよく、現実を見るには都合がわるい。 「宝物館がもう閉まる時間なんですよ。待たせてはおきましたがね」と、権宮司さんがいうのにも、気がせかれる。後ろについて、西廻廊の出口から、履き物をはきかえ、御手洗川の石橋を渡ってゆく。入母屋式の、平安朝風、鉄筋コンクリート。歌舞伎座を小さくしたみたいな耐火建築だ。おやおやいけない。少ない窓さえ半分以上、もう閉めかけられている。絵画、彫刻、武具、漆工芸、古文書類など、ケースの硝子ごしにのぞいてゆく。ああこんな不用意に、行きずりの眼でたどってさえ、藤原文化のそこはかとない匂い、平家文化に彩られた落日の荘厳にも似るあれこれの物が、たちまち、七百年の空間を超えて、ぼくらに時を忘れさせてしまう。 「あ、これですね。前田青邨氏が賞めておられた卯ノ花縅しは」と、嘉治さんは杉本画伯と共に鎧の前にたたずむこと久しい。それは伝平ノ重盛の紺糸縅しと隣り合っていた。ぼくは背中合せに、同じ人、小松重盛が納めた物という青貝の松喰い鳥をちりばめた細太刀の姿に見惚れてしまう。どうして一筋の刀の鞘や柄に、こうまで行き届いた良心と優雅な表現を打ち込めえたものかと感心する。重盛よりは、作者の工匠に、尊敬を禁じえない。あの時代の工芸家、美術家たちが、物ゆたかに、特権的な生活をしていた者でないことは、国宝「絵師草子」絵巻の絵師の生活を見てもわかる。おそらく、食生活の貧しさ、家居のみじめさ、資料の乏しさなど、現代のどんな売れない無名画家や工芸家より以下であった。何か、仕事に楽しみきれた時代の雰囲気が世間にあったにちがいない。思うに、無数の同時作家の手で作られたこれらの美術や工芸も、何百年の時を経て見れば、人その者が作者ではなく、作家は平安末期というその時代であったといういい方もできると思う。  こことして有名な例の〝平家納経〟の数巻も陳列されていた。開かれている部分の数行の写経文字は、清盛、頼盛の筆であると説明が加えてある。  はしなくも、清盛その人に会ったような気がする。頼盛の筆蹟と見くらべて、興味が尽きない。そして、ふしぎなことだ。何がといえば、これが清盛の筆だとすれば、ぼくらが小学校の歴史知識から観念づけられて来た清盛とは、およそ人ちがいをしそうな優雅な書風である。経巻なので、もちろん、慎んでは書いたのだろうが、文字ごとの筆切れに、左流れのクセがあったりして、らくな気持もうかがわれながら、覇気らしい点が少しもない。むしろ、頼盛の筆の方こそ、美しさにも富むが、才気が目につく。  巻の表紙や軸の金具もだが、見返しのトビラの絵画は、またなくすばらしい。従来、美術批評家たちが、讃美の辞を尽して来たものだ。これあるがために、平家納経の名も高からしめているものでもある。ところが、この納経三十余巻の絵や装飾には、一門の結縁経というので、清盛の息女たちも手伝っていたろうとこの道の研究家はいっている。もちろん専門の絵師、工芸家の指導のもとにではあろうけれど──もしそうだとしたら驚くべき家庭的アトリエが、想像されてくるではないか。  平家物語や盛衰記などの諸本によると、清盛には、多くの息子たちのほか、女八人の子があった。高倉天皇の皇后となった徳子、摂政基実の妻となった盛子などのほか、家系的に、美人の多い家庭だったらしい。花山院の兼雅へ嫁いだ一女なども〝──コノ御台所ハ御眉目モ美シウ情モ深クオハシケル上ニ、類ヒナキ絵書キニテゾ、オ在シケル──〟と見えるし、また六番目の女は、七条信隆の室で〝──歌詠ミ、絵ヲ書キ、アクマデ御心ニ情、オ在シマス人ナリ〟とある。  いちばん末の八女も、婦芸の道、ひと通りに達していて、あるおり、百詠の歌の意を、絵障子に描き、後白河法皇から「稀代の女房よ」と、驚嘆されていたりしている。とにかく、父の清盛は、まるで外道魔王のようにいわれながら、そのむすめたちについては、どの書も、筆をそろえて、褒めすぎるほど褒めちぎっているのである。おかしなわけだ。みな情に富み、教養の高い、才媛ぞろいの家庭の父が、極悪無慈悲な入道殿であったとは、うけとり難い。  女性は武門の勝敗にかかわりがない。女性は戦犯者にはいらない。また、女は、他の家系へ嫁いでいる。──そこで、勝者の下に書かれた鎌倉期の物語や史書の執筆者も、清盛なみに、彼女たちまでを、筆誅する理由を見出し得なかったのであろう。むしろ清盛を意識的にやっつけた罪ほろぼしの気持の幾分を、むすめたちの方へ頒けて、すこし過賞に傾いた気味がないでもない。  けれど、とにかく、画技なども、女性の教養の一つであったとすれば、家の氏神への納経に、彼女たちも、思い思いに、絵具を溶き、金泥をこころみ、切箔や砂子撒きなどにも手を出して、草花の描き入れや、土坡の染めなどに、筆をとったと見ても、そう間違いはないだろう。父の清盛ものぞきに来たろうし、母の時子も、立ち交じっていたにちがいない。そういう家庭の様を想像してみると、なんとそれは、平家納経のトビラ絵そのままな美しい団欒の家垣ではあるまいか。そしてこういう〝美に徹した家庭〟が、中世期の興亡欧羅巴にも中国の王侯たちにもあったろうか。いや、日本の覇者のうちでも、どうも清盛の家庭以外にはなかったように思う。公卿にはあったろうが、武門の家庭では、源氏の頼朝、その他の一族を見ても、わずかに、実朝が、万葉調の歌人であったというぐらいなところしか見当らない。  懐中電燈が、あっちでピカリ、こっちでピカリ、揺れたり交叉してゆく。ほとんど、まっ暗になってしまったので、権宮司の田島氏や館員の方たちが、ぼくらの眼に伴って、なお惜しみなく案内をつづけていてくれるのである。いや、考えてみると、恐縮にたえない。しかしまた、去るにも惜しいとするジレンマにも陥ちる。なお珍かな彫刻、染織、仏像、舞楽面、蒔絵もの、熊野懐紙やら消息やらが……応接にいとまもない。それらの物の前に佇めば、今昔の壁を越えて、向うからも、ぼくへ語りかけてくる。  もう諦めよう。石造建築の中の寒さも生やさしくはない。館員方の迷惑はなおさらであろう。国宝、重美百三十点、総品目三千何種というのだから、半月や一月いても、精細に見尽しきれるものではない。ここへ来て、すぐ思い出されたのだが、熊野新宮の什物は、どうしてああヤツレたり荒びているのか。いや時代的には、古びは当然である。ただどうして特に、厳島文化財のすべてが、こんなに保存が完全なのか。「信仰の島」という特殊条件の地の理や、代々の神職の努力は、門外漢にも、すぐ考えられる。けれど田島氏の話では、それでもなお、平家納経の十六巻が、鎌倉時代に一度、熊野三郎という盗賊に盗まれて、行方不明になったこともあり、厳島合戦もあったり、維新の廃仏毀釈騒ぎもあったり、島の条件は決して、世間の例外でもなかったという。  だが、維新の廃仏騒ぎには、宮司の機転で、宝物の全部を、紅葉谷の校倉に深く隠蔽して、あの全国的な災害から、危うくのがれたものだとある。  また戦国時代初期の──厳島合戦のさいにも、ひとつの僥倖があった。両軍のあいだに、厳島神社の周辺を、平和地区と規定する条約が交換されたのである。社殿、多宝塔、附近の民家には、一切火を放たないこと、軍勢を入れないことなどの申し合せであった。  両軍というのは、主すじの大内義隆を殺した陶晴賢の反乱軍と、一方は、「主のとむらい合戦」をとなえて起った毛利元就の軍である。  弘治元年の九月。陶軍は、兵二万余、船五百余艘で、島へわたり、塔ヶ岡を本陣とし、元就の一家臣が守っていた有ノ浦の小城(今の連絡汽艇のつく桟橋附近の山)を取ろうとしたものである。  が、これは元就が、第五列を用いて、わざと敵をおびき寄せた計にかかったもので、元就は機をつかむと、山口から風浪を冒して、鼓ヶ浦につき、山づたいに、数千の兵を、陶軍のうしろに迂回させ、捕捉殲滅の作戦に出た。  ここを他日、もっとよく調べてみたい。今、厳島合戦記について、精査しているいとまがないのを遺憾とする。──が、厳島に住み、厳島研究に造詣のふかい田島権宮司から聞き得たところである。  ──両軍にとっては、まさに、全運命を賭した一戦であった。  にもかかわらず、前述のような〝不戦地域協約〟が両軍のあいだに、尊重されていたということに、現代人のぼくは驚いたのである。──聞きもらしたが、もし神社の社記でも残っていれば、もっと驚きを大きくしたろう。──田島氏の話では、激戦また激戦のうちに、兵火が過って、神社附近へ飛び火したり、延焼してくると、一時、両軍は合戦をやめて、その消火に努め合ったということである。  あり得ない例ではない。  泉州堺ノ合戦にも、同じようなことはあった。  一五二六年(大永六年)のクリスマスには、堺市の内外で長年、対戦中の三好党と松永党の両軍が、まる二日間、休戦を約した。──そして両軍の中の切支丹武士は、一堂に集まって、敵味方もなく、杯をあげて、談笑したり、夜もすがら仲よく遊んで、次の日には、また戦った。  この厳島見物にも来ている宣教師フロイスは、そのときの目撃を「……両軍ニ属スル武士約七十名ハ、忠誠、愛情、平和、一致ノ美徳ヲ示シテ、敵味方サナガラ一堂ノ家臣ノゴトキ友愛ト礼儀ヲ以テ語リ会ツタ」と、本国への書簡〝日本通信〟に記載している。  このクリスマス休戦は、もちろん堺の宣教師が、両軍中の切支丹武士に呼びかけて、あっせんの労をとったものであろうが、厳島合戦のばあいは、純然たる武門同士の協約であった。合戦の様相は、猛烈を極め、陸戦海戦の果て、陶晴賢は敗れて、数日の後に自刃している。  日ごろに、厳島の美と価値とが、彼ら武人にも、正しく映じていたことがわかる。一瞬の興亡儚いものの価値と、永遠なものの価値との、優劣をよく知っていた。ただ、敬神というだけのものではない。この地上への大きな愛情でもある。  朝鮮の三十八度線は、まだ酸鼻をきわめて戦われていたころだったし、ぼくは今、国宝館を出て、御手洗川の渓流に沿って、裏の山道へと、みんなと一しょに、夕闇を喘ぎ登って行きながら──いつまでも、古今の戦争様相のちがいが、頭から消え去らない。  どうしても、戦争を持たなければならない地球であり人類ならば、世界中の航空基地以上の数の厳島地域が欲しいものだが──などと心でつぶやいてみる。  が、厳島ほどな〝美〟をぼくらの世間で創造できるだろうか。それは出来もしない。  美も創れない、戦争の心配も止められない。それをリシエの人間論も、恐いことだといいぬくのだ。「──理性をもっていて、非理性的であることは、推理の能力を欠くことより、もっと重大である」と。それから、原爆とか、科学兵器とはいわないが「科学の発展とは、迷信の連続にほかならない。科学的な誤謬は、宗教にくらべてさえ劣らない程にある」と、近代なるものを、罵りぬいて、〝人間、愚なる者〟──と結論づけ、自嘲もしている彼の書である。そんなきれぎれな言葉が、思い出されているうちに、ぼくらの影は、ひとつの山の上に出た。 「あれが、清盛塚です。──清盛塚は、音戸ノ瀬戸にもありますがね」  と、権宮司さんは指さしていう。ぼくらは、ほっと、一息つく。おお対岸の地御前の灯、五日市あたりの灯、かすかに、広島の方にも灯が見える。  広島の灯は、またたいている。あの無数な光のまたたきは、何を哭くのか。でなければ、希望しているのか。もう、ふたたびは、暗くしてはならないとしているあの地上。生命の確証。美しい、しかし、何かまだ怯えをとりきれていない夜空の眩さにも見える。ぼくの旅人的な感傷のせいだろうか。  左を、ふり向く。  音戸ノ瀬戸の船路の近道が切り開かれなかった前は、月詣りの清盛も、幾多の都人も、厳島の大外を迂回して来たので、船はみなそこの湾へ着けたという多々羅の浜の白い汀が、松をすかして、夜目のかなたに、見下ろされる。  健吉さんは、清盛塚の小さな石の塔を、めぐり歩いては、頭のうちにスケッチする。  小さな松、中くらいな松、大きな松、すべて潮風を友として、こういう山に這いかがんだり、仰向いたり、舞うかのように立っている木は、どれ一つといえ、ここの自然に、なくてならない木の姿になっている。その遠方此方を、嘉治さん、Oさん、社長さん、悟空子、権宮司さんなど、影ちりぢりに、佇んだり、腰かけたり、うそぶいたり、しばらくはただ海潮音と松風の暗い中に、黙りあっているだけのこと。  恨みは長し──とは、よくいう史家の嘆声だが、今となっては、平家の亡びかたには、恨みなどは何もない。むしろ清々しい詩だけを感じる。海に育って海のうたかたと消え去った一波の波がしらが平家である。九重の梢にらんまんな文化の花を見せた後は、もとの地下人の中へ散り去ってしまった。──儒学と禅と封建初期の機運などに結ばれた以後の武門社会と、平家の武風とは、まったく、ころりと違った性格のものである。清盛が大熱を病んで、命すでに終わるとき、「わが葬いには、頼朝の首を供えよ。頼朝の首を見ないで死ぬのはざんねんだ」といったとあるが、ウソである。ぼくは、断定していえる。ただし証拠判定ではない。作家なのでいえる放言と正直に断っておく。  ──平治の乱の後、彼は彼の意志で、一族の反対にもかかわらず、牛若たち三人の幼子は助けている。つづいて頼朝の助命は、一に池ノ禅尼の命乞いによると、従来の歴史ではきめられている。だが、ほんとうに、助ける情のない彼であったら、何も、一門の大事を、父の後家の主張によらなければすまないという理由はない。一族、もとより皆、反対なのでもあったから。  いちばん重要な問題は、もし彼が、禅尼の乞いのため、いやいや意志を曲げたものなら、なにも、頼朝の身を、殊更に、源氏の族党の多い──そして源氏の地盤ともいえる関東地方などへ流してやる必要はないということだ。この厳島へでも持って来ておけば、とても、頼朝にあの機運はつかみ得まい。頼朝の資質は、もちろん凡庸でないから、自然、長じては、策動もしたではあろう。しかし、たとえ彼が旗挙げをやったとしても、時期はずっと、後になり、何よりは、関東勢の結束が、あのようには、彼を中心に、運ばなかったにちがいない。  こんな空想は、笑うべきものかもしれない。たれよりは、清盛塚の石が、ぼくの痴愚を笑うだろう。が、歴史家でない作家が歴史を観るばあいは、そうもいえようではないか。  もしまた、推理は措いて、上田秋成的な幻想を心に呼び、平家蟹のような恨みが、今もなおこの瀬戸内を去らぬとするなら、それも詩である。ぼくにも、こうしていると、そんな想いがそくそくと奏でて来ないわけでもない。  波の音、雲のひびき、松かぜの声は、あだかも、厳島内侍をのせた管絃の船が、今夜も、平家のなにがしやら公達などと共に、この岩山のすぐ下あたりを、ゆるやかに、漕ぎ寄って来るような心地もする。もし一夜を、西行法師にまねて、ここに腰かけていたら、船戦の矢たけびも聞こえ、一門の紅旗や楯や弓のむらがりが、暁の雲間に現じて来るかもしれない。  見せてもらえるなら、一夜を辛抱してみたいが、科学というものを知った頭ではだめである。──ただ問う、石の清盛氏よ、広島の灯を見て君はどう思うか。君の今の感を聞かれないのが、恨みといえば恨みである。  山づたいに、上卿やしきの上を、平松公園から紅葉谷の方へ、まわってゆく。  みんなの靴音、いかにもトボトボといった感じ。空腹を思い、くたびれを思う。  田島氏、なお、道を送ってくださる。道々も、棚守やしきのこと、多宝塔の建築に唐朝風のあること。覚えきれないほど、話してくれる。いつまでも忘れないことの一つは、この厳島には、全島、どこを探しても、笹というものは一葉もない、ササなし島だということだった。また、弥山のぼりの展望の大きいことだの、管絃祭やら、百八燈籠の行事だの、耳には聞きながら、ぼくの眼は、疑うわけでもないが、ほんとに笹はないのかしら、と道ばたばかり見まわしていた。なるほど笹も竹の影もないが、よく眼につくのは、馬酔木である。大きな馬酔木がじつに多い。  紅葉谷の岩惣の離れに帰り着く。権宮司さんと門辺で別れる。着がえる。風呂へゆく。食卓につく。いつもの、談笑歓語、いつものごとく沸く。  Iさんもここには見える。地方販売網の実務上のことらしく、嘉治さんと熱心な話がつづく。ぼくらには、皆目わからないことだが、行く先々の地方には、かならずこういう人々がいる。そしてそのねばり強い仕事への熱意や苦心に、つい聞き耳をとられては「いや、たいへんなものだなあ」と、あきれたのである。一社という巨木に似た経営の根には、ぼくらの知らない地表下の細根がどれほどかくれているものやらわからない。よく植木屋がいっていた。こう見上げられる大木の幹だけでなく、根の分量は、木丈以上の物が土中に張っているもんですよということを。──すると、またこちら側では、今週の週刊を開いて、Oさん、悟空子、健吉さんなどで、「新・平家」のカットや組み方について、あれこれ、異論と主張まちまちに見うけられる。あっちでは、根に就いて、こっちでは、梢の花に就いて。──そのうちに、酒、おのずから、御飯となる。  お給仕をしている女中頭のお徳さん。ぼくが十三、四年まえ、まだ幼稚だったいまの妻をつれて、この紅葉谷に一週間ほど泊っていたことを、よくもまあ今日まで覚えていたらしい。御飯を盛りながら、ちらちら、口の端に出る。これは、ぼくには、旧悪では絶対にないが、たいへん、まのわるい紅葉谷なのである。同行は、長途の旅の友で、そして同列に皆〝すこしクリスチャン組〟と心底も分かっている仲だから、ついにあらまし自白してしまったが、じつは、この離れに滞留一週間ほどの間に、長男のHの生まれる素因が生じたわけだった。だから命名は、厳島にちなんで、伊都岐とつけようなどと思ってもいたのだが、ちょうど上海へ旅行中の留守に産まれたため、帰路の汽船の中で、同行の菊池寛氏が、ぼくが名づけるよと、Hにしてしまったのである。いま「新・平家物語」を書くことになって、十四年ぶりに、この地へ来たのは、正直、へんな宿縁みたいな気がしてならない。  さて。こんな私事を末記として、ここに終わるのは申しわけないが、なにしろ、冗漫な今昔紀行になってしまった。これ以上、貴重な誌面をふさぐ罪をおそれて、擱筆させていただく。  なお、旅行予定のさいごは、あとの一日で終わった。翌日、広島の孤児たちが、保育されている童心寺を訪ねて、五人の雛僧たちと語り、ついもらい泣きしてしまったことは、みっともなかったが、忘れがたい。午後、原爆の街をあるき、呉工廠のクズ鉄のジャングルを見、音戸ノ瀬戸へもまわった。清盛が厳島への近航路として開鑿した遺業の地で、ここにも清盛塚がある。こんどの旅行中、いろいろお世話をかけた各地の方々に、心からお礼を申しあげる。(二六・七・二九) 鬼怒川から山王越えの記  はしがき──週刊本誌の方で、さきに、「新・平家物語」の史蹟歩き数回を掲載したことがあります。幸いに、続稿を待つなどといわれ、ぼくにはもとより有益な旅だし、有益以上、仕事の息ヌキにもなるところから、紀州、四国、九州、上方地方にひきつづき、その後また、会津北越巡り、伊豆半島散策、それから伊那、木曾谷、飛騨、富山など、おりあるごとに清遊濁遊をかね歩いておりましたが、紀行文の方は、帰京後いつも約束をたがえ、頬かむりを続けてしまいました。  ここを品よくいえば〝いつか筐底の古反古になん成りけるを──〟というわけなんです。けれど、別冊編集子はなかなか諦めない。時期は遅れたが、それでも書かないでいるよりは、ましですぞ、としきりにいう。  そういわれると、そんな気もして、六菖十菊のうらみは覚えながら、とにかく書きました。しかしはなはだ陽気のズレた「御不沙汰原稿」たることは、どうしようもありません。怠慢の罪をお詫びしておく次第です。  浅草駅発、鬼怒川温泉行。秋びより。  朝の紙クズは、浅草名物といってもいい。やたらに紙クズが舞う街頭から松屋デパートのホームへ、時間かっきりに駆け上る。「やあ」「やあ」ともう先に来ている杉本画伯、嘉治さん、杉山局長、春海局次長、高山編集子たち。  電車、八時何十分かに、すぐ出る。  日本の庶民風景というと、競馬、競輪場以外でも、紙クズがつきもの。車中また然り、さいきんの中共では北京も上海もこれが見られなくなったと聞く。どっちが、庶民内容がよく、庶民の肌にあった社会なのやら──と、これは後日感。 「きのうから東京へ出て、お待ちしておりましたんで」と、見知らぬ夫妻にあいさつされる。名刺を見ると、徳泉閣主人、今夜、やっかいになる旅館のあるじであった。  沿道説明はさすが、詳しい。十数年も前には、この電車の窓外には、麻畑が随所に見られ、夏の宵の日光、鬼怒川行などには、麻の香が窓をかすめたものですと、徳泉閣主人、旧事を述懐する。  江東地区の小工場員らしい若い一組が、到着地を待ちきれず、早くも一升ビンを開けていた。二、三は必ずキャメラを持ち、ネクタイは原色好み。粗野はたまらないが、若さにたいする羨望を感じる。  ──念のため、註しておく。時は昭和二十六年のこと。出発は十月十日。  この日より向かう七日間の予定で、鬼怒川上流を経、北会津から新潟、北越から北信濃へ、というコースで旅立ったわけ。  子供っぽい感想だが、電車というのは、いくら早くても長く乗っても、旅行に出た感興になって来ない。飛行機なども、その感がある。国内程度では、地面が変った気がするだけで、大阪へ来た、九州へ着いた、という気もしない。巴里まで行ったら、さあ、どうだか。  どうも、ぼくら明治の子は、やはり汽笛一声新橋式に、精煉の悪い煤煙にいぶされて、車窓初めて旅情を感じる習性がいまだに残っているものとみえる。こういうぼくの如き人間の素質を封建的だといわれるのは、むりもない。煤煙を恋しがるような習性とは、いいかげんに袂別しなければと、自省する。  なにしろ、あっけない。鬼怒川駅下車、十一時三十八分、もう旅館の昼食。  箸をおいたり、また、立ったりは、高山君。これからすぐ栗山渓谷へ行く自動車の手配らしい。「どうしても一台しかできません」と思案中、治山事務所長の太田重良君がひょっこり現われ、「トラックをまわしましょう」といってくれる。「トラック、ありがたいですな」と実感のこもった返辞は春海さんだった。この人、ナッシュやクライスラーなどに乗ると、借りられた猫みたいに打ち解けない顔するが、トラックに乗せると、所を得たかの如く、大きく腕ぐみして、颯爽と満面を快風に吹かせてゆく。あるいは、とろんこに寝てしまう。よほど性に合うらしい。  ぼくらは町のハイヤーで先発。春海さんそのほかは、太田君のトラックを待つ。  ところで、その太田君には、ぼく戦時中に、木炭二、三俵の借りがあった。そのころ、太田君一家も、奥多摩に疎開しており、窮余の策、山林関係の同君から、炭をまわして貰ったが、まもなく相模原の竹ヤリ部隊に否応なく徴召されてしまった。それきりで、それからきょうの奇遇である。もっともその前後、夫妻の初めてのお子に、ぼくは名ヅケ親になっている。ま、名ヅケ代としておくかと、八年前の借りの帳消しなど、車中、考えながら行く。  疾走、一時間余。  山せばみ、道は悪くなり、日蔭の冷えが肌にせまる。 「もう、これから先は行けません」と、運転手君。ぜひなく、ぼくらも降りる。赤坂橋というのが、工事中なのである。  あと、歩いてゆく。  鬼怒川温泉境がひらけ、また配給制からも、近年は変ったろうが、「日光山志」などには〝栗山郷南北七里、曲物の器など造り、一年の貯穀なければ、橡ノ実、栗などを補食とし、岩茸を採り、鳥獣を猟る──〟などと書かれてある。  今でも、ひどいことはひどい。都心に幾つもの大ビルディングが聳えるあいだに、この辺の部落に一燭光が増しているとも思えない。  この峡谷から奥日光へかけて、平家の落人が住んだという伝えがあり、それで来たわけだが、この目的は徒労だった。部落で唯一の青柳荘という、しもたやみたいな旅舎に休み、口碑伝説はいろいろ聞いたが、野史にむすびつく程度の根拠もない。  それより、ここの御亭主のT氏が上海からの引揚者で、高島菊次郎翁の子息とも、嘉治さんの知人などともよく知っているところから、話はべつな方に咲いてしまった。戦時ジャーナリストらしい海外話題が尽きないのである。だが、ふと妙な気がしないわけにはゆかなかった。どんな無恥な政治家でも、ここでは文化の文の字もいえた義理ではない山の中だし、日光山志や平家伝説なども頭にあるせいかもしれない。はからずも一軒家のあるじから、シャンハイ、ソヴィエト、ハノイなんて語を聞くと、何かあたりが見まわされる。思えば、ここの御亭主も、亜細亜の壇ノ浦から山へ隠れこんだ一人にはちがいない。今様な落人殿に会ったとすれば、この半日も、むだでもなかったかと強いて思う。  二日目。快晴。  早暁の一番電車で、杉山局長だけ早帰京出社とのこと。あたま数、一人減る。  朝食の膳を並べながら、きのう聞いた〝栗山噺し〟が話題にわく。平家の名ごりにや、栗山にはなお原始恋愛的な遺風を存すとのことである。朝飯からの性愛討議などは、旅なればこそ、旅なればこそ。  七時十分、宿を出る。乗物は三十何年型のフォード。運転手君は五十ぢかい人、おなじく三十何年型の制服。姓名は、山下亀三君。 「もう二十年ほど勤めていますが、山王越えして、会津街道をゆくのは、今日で、三度目ぐらいです」と、この人がいう。もって、これから出かける鬼怒川上流から会津越えの嶮と不便さは想像に難くない。  はやくも車中不安の色濃く「危険はない?」「何時間」「何キロ」などと質疑応答しきりである。けれど、山下君の姿勢をうしろから見て、ぼくは山下君とおなじ安泰感をもった。教養よろしき運転手君というものは、自然〝信頼できる背なか〟というものを備えている。山下君の背なかには、ささやかだが、女房子供もいる楽しい家庭図がちゃんと描いてある。  藤原村を行く。  この辺、幕末維新には日光、今市の官軍と、会津勢との間に、ゲリラ戦が行われた所。今は村にも部落にも、パチンコとパーマネントの看板の見えない所はない。  また、中古の奥州街道は、この高原越えだという説もあって、「義経記」にいう〝──なめかたヶ原うち通り、狐川うち過ぎて、さげ橋の宿について馬を休め、衣川を渡り、宇都宮大明神をふし拝む〟などの一節も思い出される。  川治温泉が近いという。そのころから断崖百尺の下に、鬼怒川渓谷の水色深く、みなおとなしくなって黙りこむ。もう十数年前だが、この危ない崖ぷちに、山藤の花が垂れ下がって酔うばかり匂っていた某年陽春の一日、ぼく、浜本浩、永井龍男、三角寛、それに南島研究家の安藤君、今は亡き田中貢太郎などと、ぶらり、ぶらり、戯れ歩いたことがある。  前夜泊った川治の旅館を立つとき、貢太郎老は、宿から一升ビンを乞いうけ、また、一本の沢庵漬を新聞紙にくるんで懐中していた。そしてここまで来ると、老は「ええ藤の花ぞい、チクと、この辺で一杯やらにゃいかん」と、坐りこんだものである。  酔うほどに、話は閨秀作家月旦になり、その容色品評に及び、貢太郎老は、はしなくも「いや、美人では、時雨女史がなんといってもチクとええ。こないだの会で、椅子を隣り合せたとき、かの女の襟あしを上から覗いたが、充分、まだチクといけるわい。わしは時雨女史にする」と、ただの酔い方ではなく、春昼の藤の匂いも手伝って、妙に酒がまわったらしく、さあ、それから、藤原村辺りでも、あろうことかあるまいことか、むくつけき、いか物を露出して、村嬢田婦を追いまわすなど、山村の純風良俗を紊し、それをまた、ぼくらで追っかけ追ン廻して、なだめるなど、手を焼かせられたことがある。そうした往時などが、ひとり思い出されてきた。  今どき、旅行先で、どこが変った、かしこが変ったと、変り方に驚いているほど時代おくれな嘆声はないだろう。田中貢太郎老に手をやいたころ、川治に旅館はまだ一軒しかなかった。なんとそれがである。いや、みっともない。やめておく。  五十里のダム工事も、この山中を、たちまち町と化した原動力であろう。機械力と自然が噛みあい咆哮しあう絶壁の下を車はうねうね喘いでゆく。山下運転手君は、平地を見るのとおなじである。ただし車体は上下動を烈しくし、ことによれば、自解分裂を起こさないとも限らないような軋みをのべつギイギイ噛み鳴らして走る。 「はい、だいぶ登りました。もう六、七百米は」と同君がいう。  朽ち落ちんばかりな橋にかかる。「あ、止めて」と、杉本画伯身を起こす。美しい滝を右がわの深淵の奥にみつけたのだ。不動ノ滝というのだそうな。水の明暗と、浅もみじ、濃もみじ、木洩れ陽の映光など、ことばに絶える。健さんは手早くスケッチを始め、ほかの者も、車の外へこぼれ出す。ちょうど、この辺でみな降りて一ぷくしたかったところ。  あちこち、逍遥したり、また小用したり……。  その小用をやりながら、いわゆる帝釈山脈の峰頭をながめ渡す。その中に、男体山が見えるかどうか知らないが、ぼくはふと万葉か何かにあった好きな古歌をおもい出していた。──ぬば玉の黒髪山の山菅に小雨降り敷く、しくしくおもへば。──旅人の真菅の笠や朽ちぬらん、くろ髪山のさみだれの頃。 「おうい、出発ですぞう」と、高山君の声が下の方でする。あわてて、さみだれ放心を収め、車の方へ駆けもどる。  山深み、山深み、果てがない。なるほど、鬼怒川に二十年もいた山下運転手君が、きょうで三度目といったのも、そのはずと思う。  時々、山中の小部落を過ぎる。製材所が、その中心。そしてかかる二十戸三十戸の部落にも、一戸のパチンコ屋と美容師とは、べつに必ずわれらの文化を代表している。  揺られ通しのせいか、もう、おなかがペコペコになってきた。県境であり、山道中第一の高地、山王峠で、二十分間休憩。  山王峠の紅葉には、瞠目した。特筆に値するものだが、さて紅葉なんてものは、どうにも賞めようがない。わが国の先輩たちは自然への讃辞を過剰にいい尽してしまっている。だが、ここの紅葉は、色紙や短冊などに乗る程度のものではなく、何か天地間の物である。豪放、磊々、雄大、何をもって来たって追っつかない。万山みな燃ゆるといったようなその赤と朱とを主体とした天地間の七彩のかたまりは、太陽さえ小っぽけな物に思わせる。  紅葉とは、片々たる葉っぱのことではなく、こういう物という風に、これからの若人の自然観も審美眼も違って来よう。日本画壇が、近ごろ、とみに衰退を呈し、洋画壇の新人のタッチと、洋画的な感覚とが、時をえてくる所以である。  自動車、これからは降り一方になる。会津境へ入ったわけ。窓外は凡景となり、つい、うとうとしている間に、南会津の村々は過ぎてゆく。  わびたる田舎町、荒海の路傍で、車をとめる。庄屋造りの旧家を横手に見、ふと、物好きを起こして、素朴な人々を驚かせ、あちこち、屋造りの様式を見学させてもらったのである。当主は、星勘治さん、親切に、案内してくださる。  たれより執心なのは、杉本画伯で、数枚のスケッチをとりながら、なお名ごり惜しげにいちばんあとから車へ帰ってくる。車が出てからその健さんが声をひそめ、「いや、あの屋造りも、いいですがね、暗い中二階に、美人がいましたよ、悪いから、上へはあがらずに、のぞいただけですがね。もしかしたら、病人かも知れない。けれど、たいした美人でしたな、じつに印象的な」としきりに、二百年の旧家の湿度や空気と、そこの屋根裏二階にひとりいたという目撃の美人像とを、ことばで描いてみせる。 「じゃあまるで、鏡花の小説みたいじゃないですか」と、春海さん大いに笑う。しかし健さんは、生まじめである。「そうなんです、鏡花ですよ、まったく、その鏡花なんで」と、ひとりなにやら惜嘆してやまない。あえて、家庭にお留守番している杉本夫人のために断っておくが、健吉さんが、こう女を語ったことは、前後、稀れなんである。いやこの時しかないといっておこう。しかしぼくら一行は、この杉本健吉談を、どうも、何かを錯覚した白昼夢ではないかと、今もって、じつは、疑っているのである。(二八・三・二〇) 会津磐梯山の巻  十一時過ぎ、会津田島の駅前に着く。  やれやれである。車を降りて腰を伸ばす。  山下運転手君の労をねぎらい、ここで別れる。唯々黙々として、三十何年型が、ふたたび同じ山岳中へ帰ってゆく。何か、単なる労働と報酬だけの関係ではない気がする、すまない気がする。  若松行列車、まだ改札していない。駅前をうろつき、りんご一袋、山栗一袋、買いこむ。  汽車の窓でこの山栗を剥いてポツポツ齧る。連れの諸子にも、仲よく分け合う。星野通信局長、若松からわざわざ迎えにお見えの由、恐縮する。土地っ子の星野君には栗を上げない。車中、知り人も多いだろうし、不行儀は、遊子のなすところで、土地の紳士にすすめられない。  若松着。東山の向滝で昼食。  会津高校教授の平山武美氏、東北農村研究所の山口弥一郎氏、連れだって来訪、案内してくださるという。  附近の平家史料やら、有名な恵日寺関係の物など、なにかと齎された。高山君はスケジュールを見、その恵日寺見学も、猪苗代湖一巡も、これから夜までに果たさなければ、時間なしと、宣告する。  箸をおく。すぐまた出発。こんどは、車二台となる。  行く行く、丘陵の傾斜に、柿林の柿のたわわに色づいているのを見る。まもなく、車を降り、丘へ上れば、ここが、白虎隊の旧蹟と聞かされる。  途中の山蔭に、青銅のムッソリニ碑が、しょんぼり見えた。維新史、白虎隊史蹟とはべつに、うたた今昔の感。  さらに、山頂、飯盛山から市街一帯を望むところ、休み茶屋、お土産物屋があり、おもちゃの竹刀を売っていた。ああ、おもちゃの竹刀、昨日の日本、ムッソリニ碑。──名所とはおおむね世紀の皮肉であり、そして、その皮肉を反省するに適する地である。  山上をやや降りかけた所に、家がある。白虎隊の遺族にゆかりのあるというお婆さんが住んでいる。香華をひさぎ、また、かたわら遊覧客を具して、飯盛山の一端に立ち、旧若松城から、スリ鉢底の会津平野を指さして一場の白虎隊史を説明するのであった。  お婆さんは、生っ粋の会津弁である。だから、半分はよく解らない。ぺしゃんこな板草履をはき、前垂れともモンペとも知れぬ手織縞を裾みじかに着、事、白虎隊の説明になると、声涙ともにくだるばかりな情熱をおびてくる。咄々、吃々として、紅顔十五から十七歳までの少年十数名が、祖城の亡ぶ炎をかなたに刺しちがえて死んだ──あの維新惨劇の一場面を語ってゆく。  白虎隊は、お婆さんの話でも、つまり〝幕末維新のひめゆりの塔〟である。気の小さいぼくなどは、お婆さんの指さす、秋日の下の視野を、とても観光客気分で、うららかそうに楽しんでもいられなくなる。  ──で、つい眼を伏せながら聞いていると、お婆さんはぼくの肩を小突いて、「よく見さい、あこンとこで、白虎隊の有賀織之助どのサ、ふかでを負いながらも、やいばサ杖に、まだ十六の鈴木源吾どのサ肩にかけて──」と、いちだん声を上げて説明しつづける。  まことに、会津的なと思える素朴さと共に、会津人かたぎの一徹みたいなものが根づよく潜んでいる。「人国記」の筆者にいわせれば、この山川風土と長い封建のせいにするかもしれない。とにかく、愛すべき飯盛山のお婆さんではあった。若松市の名物婆さんとして市は可愛がってあげるがいい。  去年の年末炭鉱ストによる長期な電力マヒは、記憶も新しいから、たれも忘れていまいが、この旅行前後の、二十六年十月中の渇水停電も、ひどかったものである。  出発前から、旅行中も、全然、雨なしだった。  飯盛山から猪苗代湖へ急ぐぼくら二台の車も、ばくばくと、ほこりをかぶりあって行く。運転手君のはなしによると、猪苗代湖発電のお膝下にある若松市でさえ、ロウソクの値上がりやら、このごろでは、明治時代のランプを探し出して、それが、さかんに売り買いされているという。  こんな話が出たのは、金堀村、強清水村と、うねり登ってゆく途中で、縄でからげたランプを両手に下げてゆく工員風な人を見かけたことからであった。  やがて、戸ノ口に着き、湖畔に立つと、みな「なるほど、これはひどい」と、異口同音にいったものである。  湖景の清明と雄大には、いっこう、さしつかえないが、水位はゲッソリ減って、標示計によると、大正何年以来という減水度である。常には見せない、長汀幾キロが、干潟を陽の目にあらわし、こうお腹が減ったんでは、見すべからざる神秘の肌だって、人目に曝さねばなりません、とちまたに抗議している西独や日本の夜の女なみに、この大自然嬢も、おなじ生態を語っているようである。  飢餓電力に悩む東京では、おてんとう様では、恨み相手にできないので「政治サボだろう」と、もっぱらな怨嗟であったが、この実証を見ては安心、いやなお、ガッカリである。 「さっきのランプと、この干潟を、さっそく写真にとらせて」と嘉治さん春海さんなどは、支局長あいてに、ぼくらとは、センスの違う打合せをしながら貯水扉をあとに歩いてゆく。  それから、約二、三十分後。  翁島の野口英世記念館に着く。  ちょうど熊谷高校、その他の中学男女生の修学旅行とぶつかり、押しもまれながら、遺品館を一巡、すぐ隣の、英世博士の生家に入って、五分間ほど佇立、何がな、ものを思わせられる。  いま、翁島へ曲がって来たすぐかなたの湖畔の勝地に、旧有栖川宮の別邸が見えた。別邸の夜に、明治大正時代のシャンデリヤが栄え燿いたころ、この一農家では、英世少年が志す勉学の資もままにならなかった。ところが、戦後の東京では、元宮邸という料理屋もめずらしくはない。ここの湖畔の宮邸は、いま何に使用されているかしらないが、毎日、このような無数の少国民に訪われる一物もないことはたしかであろう。それなのに、英世少年の母が夜業に使ったという貧しい紡ぎ車だの、焼けコゲのある炉べりの板の間だの、コオロギの啼きそうな荒壁は、教師と少年少女たちのまえに、何かを、無言に語っている。──説明の必要もなく、強いる必要もなく、文化の不朽と、すぐれた人間の生き方とを、黙ってみんなに示している。  学生たちの間を分けて、車へ帰ろうとすると、たれかがぼくの名をささやき始め、ひとりがサイン帳を持って来た。労をいとうつもりはないが、虚名の持主が、虚名と自ら知りながら、人中でサインするのは、どうもテレる。まして英世博士の生家を見たばかりの感慨も消えていない。そこで冗談半分に「あの人、小杉勇君だよ、小杉君に頼めよ」と車へひっこむ。春海さんは、どこへ行っても、由来、小杉勇とまちがえられ、ばあいによると、結構、それで通ることがあるからである。  けれど、旅館の女中さんなどとちがい、学生はよく知っている、そんな手にはのらない。みな、ウサン臭そうに春海さんの鈍々と歩く図ウ体をながめあい、何かコソコソ耳語するのみで、さっぱりサイン帳の襲撃とは出て来なかった。  いったい鬼怒川温泉を出たのは何日だったかしらと疑う。それがけさの七時だ。まだ車を乗りつづけている。滅茶なスケジュールである。──翁島からまた山野を飛ばして、磐梯山の東麓、大寺という山村にたどりついたころ、もう、どっぷり、日いっぱい。  村役場の前で、山口氏、車をとび降り、役場の滝口孝氏をせきたてて来る。石ころ坂に、車を残し、薄暗い北方の山ふところへ入って行く。恵日寺の跡である。  東北の文化財地蹟となると、とかく奈良京都のようなわけにゆかない。ここも近年一部の研究家には、重視され始め、石田茂作氏などが主になって、県の調査もすすんでいるそうだが、いわばまだ世上に関心はもたれていない。現に、ぼくなども、その組である。ここへ来て、初めて、磐梯山のすそにも、平安朝初期にこんな大規模な堂塔経営があったのかと、中古東北文化を見直したくらいである。よく騒がれている平泉の中尊寺をめぐる藤原文化だって、ここにさえ、これ程な物があったとすれば、なにも驚くにはあたらない。  嵯峨、淳和、白河などの勅願もあり、堂塔三千八百坊、東北の高野といわれたという規模や沿革を、ここでは述べきれないし、ぼくの専門ではない。  ただ寺史のうちから平家関係の事柄だけを拾えば、源平盛衰記、平家物語にも出てくる乗円房(両書には勝湛房)は、ここの住僧であったという素姓がはっきり分かる。  この恵日寺にも、南都や比叡とおなじように、当時、数千の僧兵がいたものらしい。寿永元年、越後平家の城ノ四郎長茂が、都からの命で、木曾義仲を出撃に出たさい、恵日寺の乗円房も、ここの僧兵をひきいて、長茂を助け、義仲の軍と、横田河原で戦った。そして乗円房は、戦死しているのである。その首を埋めたという苔むした石塔が、金堂跡という所から一町も奥の蔭に立っていた。  ここはまた、頼朝との関係もあり、鎌倉期に入っては、三浦一族の佐原十郎義連が、会津の地頭職になって、この地方にいたらしいが、語るほどな事蹟はべつに残っていない。  おもしろいのは、もっと古い時代のことになるが、平将門のむすめ、如蔵尼がここで世を終わったということになっている。如蔵尼のことは、たしか今昔物語の中にもあったと思う。江戸時代の読物作家は、これに滝夜叉姫という名を与えて、伝奇小説の主人公に仕立てたりしている。寺宝目録の中に、〝滝夜叉姫の櫛〟なんてものが見えたが、これは、ちといけない。他の──平安朝期の鍍金仏器、永正古図、薬師後背仏、永享七年銘の鉄鉢、磐梯明神田植絵巻などという奈良京都の列へ持ち出しても遜色のない歴乎とした寺宝のこけんにかかわるというものである。引っ込めた方がいい。  恵日寺文化は、ちょっと、黄昏の道すがらでは、手におえない。ゆうに一日二日の巡遊の価値はあろう。磐梯修験の巡回路をあるけば、附近、なお史蹟仏跡は多そうである。四道将軍時代の古墳群だの、先住民族のエゾ穴だの、さかのぼると、考古学地層まで入ってしまう。  なにしろ、われわれの足もとは、もう真っ暗なのだった。平安期らしいすがたと線のよい碑があったが、それさえ、夕月の光をたよりに、撫でまわして見る始末。スケッチ帖を手に、夜を忘れている健吉さんをうながし、村役場の人たちに礼をのべ、大寺村のわびしい灯影に別れて帰る。  振返ると、磐梯山と猫間ヶ嶽の山稜に、ほんのぽっちり、夕陽の色が、暮れ残っていた。当分、雨気はない。空は凄いように吹き研がれ、夕月が、車を追っかけてくる。  そのうちに、前の車が急に停まった。星野記者が、フィルムを入れ代えたとき、碑壇か何処かへ、それを置き忘れて来たという。──そこで後へ引っ返したその一台を、途中で待とうと、こちらはスピードを落として先へ走っていた。ところが、引っ返し組は、それきりで、なかなか追いついて来そうもない。時々停車してみたり、また、あるいは故障でもと案じたり、もしやと山の裾野芒に、身ぶるいしたり、仕方なしに、月を観賞したりしていたが、やって来ない。 「これやあ、何か、事故が起こったんですな、引っ返してみましょう」衆説は、そこにきまり、約三マイル以上も、あと戻りを余儀なくされた。  ところが、大寺から若松市へ帰る途中には、八田という部落で、道が二つに分かれている。いろいろ訊き合せてみると、その八田から、あと組は、ぼくらとべつなコースへ曲がってしまったものらしい。 「……としたら、こっちは、狐につままれたようなばかな目をみたわけだ」と、にわかに思い直して、昼、昼食した東山の向滝に帰ってみると、面々とうに御先着、温泉にひたって、至極のんびりしたものである。  おまけに、電源地若松だが、夜はまっ暗だ。かぼそい蓄電池燈とロウソク明り。さてその明りを頼りに、お膳が並んだところで、あと組を皆してやっつける。けれど、先様は先様で、ひとかどの理由を並べ「こっちこそ、追っかけても見えないので、先の組が、へんな方向へ突っ走ったのじゃないかと、心配した程だ」と強硬である。結局、渇水停電とおなじで、おてんとう様のせいであり、双方、文句のつけどころがなく、不起訴と落ちつく。  電気はつかず、湯の音、渓流の音だけを友に、ぼくらの部屋も、談笑ようやくわいて来たが、ほかの部屋では、絃歌が聞える。それが伴わなくては、東山温泉でないようなものらしい。その遠い唄声を「何節?」と女中氏に訊くと「げんにょ節」と答えた。──源如見たさに朝水汲めば、姿かくしの霧が降る──というのだそうである。源如というのは、きっと、道成寺の釣鐘の中へ逃げこんだような、きれいな若僧だったのだろうと思う。  うけ持ちの年増の女中氏、まめやかに、よく行き届く。嘉治さんの知人長岡の駒形氏をよく知っていた。この先の旅程でいずれお世話になるお人、奇縁というわけで、頼まれた宿の色紙短冊など、杉本画伯はじめ、こころよくひきうける。  ぼくは、「星野君のために」と題して、 忘れ物して恵日寺の月見たり  の句を同君に呈す。その他、駄句いくつか書いて、酔いと疲れに、くたんくたんになって寝こむ。  第三日目。お天気、誌すまでもなし。  朝飯に、一景物があった。  菌と豆腐の味噌汁を、鍋ごと火鉢にかけて、食べさせてくれたことである。以前にはよくあった旅館の親切気だが、忘れていたほど、このごろではめずらしく思う。それに、菌も美味い。  鬼怒川でも、シメジのお代りをしたが、これから先の北越でも、おそらく、行くところ、菌には、のべつ出会いそうである。  午前中、新潟行の汽車時間までの間を、市中近郊一巡ときめ、まず若松城の城跡へ行く。  あきれたことになっている。  公園の中央、元の本丸跡が、なんと競輪場になってしまった。  これが焼け工場の跡とか、近郊の新開地とかいうなら、地方自治のお勝手というものだろうが、ぼくらだけではない、修学旅行の学生団体やら、一般の旅行者も一応はやって来よう。また来るように、若松市観光案内も書いている。  来てみれば、これだ。  蒲生氏郷から上杉景勝、松平容保までの城址として、残り少ない日本中の古城址のうちでも、かなり形式の鮮明な方である。ばかりでなく、樹姿、風致もよい。四季、市民の憩い場所としても、郷土の象徴としても、旅行者から見れば、羨ましい地域を持つ市なのにと惜しまれる。  それになお、いけなかったのは、前日、飯盛山の名物婆さんにお目にかかっていたことだった。お婆さんが声涙ともにくだる調子で、維新史中の会津籠城の惨を語りながら、指さしていた、そのお城址がこれなんである。──その史蹟公園では、今日、今日だから、まあいいとしても、なにもケイリン場を展開しなくっても、なんとか、ほかに細々でも市の暮し方はないものか。  白虎隊のあわれは、なんだか、きょうも胸に尽きない。維新の白ゆりの塔、昭和のひめゆりの塔、もう、第三のゆりの塔を、日本のどこの地上にも作らないことだ。歴史の訓える帰結は、かくの如しである。それを訓えるための大皮肉を世に示すためだとすれば、ケイリンをここへ持って来た市当局者のあたまも決してばかにはできない。  塩蔵、天守台の跡へ登ってゆく。けたたましい耳もとのサイレンにびっくりしていると、眼の下で、競輪選手の宣誓式(八百長はしませんということをであろう)みたいな行事が行われ出している。そこらでは、予想屋さんの声、そして、第一レース売出しのベル。いったい、身は何処にありや、わけが分からなくなる。  歩を早めて、公園を出る。大手の両側の石垣を這う蔦紅葉だけは美しかった。あとで聞けば、外濠附近に、西郷頼母のやしき跡など、原型に近く残っていたそうであるが、つい気づかずに過ぎてしまった。  近郊の神指村へ、車を向ける。  村の福昌寺に、例の、都から義経を奥州へ連れて行って、藤原秀衡にひきあわせたという──盛衰記や義経記でも特筆されている金売り吉次の墓があると、連れの平山教授や山口所長から伺ったからである。  そうは聞いたが「さて、どうかな?」とぼくは思っている。もちろん両氏も、その根拠については、保証していない。  途中、市中の繁華街でちょっと降ろされる。  若松市一の漆器メーカーの店内から階上で、歴史ある会津漆器の製品を一覧する。多くは海外向けである。漆工芸の低調と不振は、この地方だけではないが、もう会津漆器はむかしの本質も新しい工夫も何もない。多少の感想はあるが、また酷評に聞えてはすまないから、ただ拝見にとどめておく。  村道を一時間ばかりで、福昌寺に着く。  からりと、静かな村。お寺へ曲がる田舎道の両側の家から、道のまん中へ、美味そうな柿が垂れ下がっている。「お食べ」といわないばかり、顔の先にあったが、まず慎む。  寺というより、お堂である。それも、洪水に流されて建て直したのか真新しい。ここの土や、あたりの草木を見ると、すぐ年々の出水が感じられる。むかしは、水郷であったのだろう。  住職は不在。だが間もなく、それに代る木野田清太郎老という七十余歳と、ねんねこで孫を負んぶした佐藤八三さんという二人の古老が現われ、じゅんじゅんと、金売り吉次の由来因縁を説明してくれ出した。  飯盛山のお婆さんの話も半分は分からなかったが、この二古老の訛りはもっと純粋朴訥で分かりにくい。例えば遠すぎるが、揚子江の奥地を驢馬に乗って中華大陸の田舎に行くと、いぶせき道教の御堂と居酒屋などがあって、そこから南画によく描かれる田老田夫といったような半俗半仙的な老爺が出て来たりするが、いま現われた二古老がまさにそれで、おまけに、なんと、清太郎老の方は日露戦役の出征記念か何かであろう。特に、持ち出して来たらしい白檀骨の上海扇子を、胸のあたりへ、斜に持っている。  それが、いかにも、愛嬌があっていい。  暑くもないのに、時々、扇子をひらき、おもむろに、いにしえの郷土を語り、当時、ここは黒川と鶴沼川とが交錯して、奥州街道第一の船渡し場の難所だったということなどをいうらしいが、時々、平安朝末期と、戦国時代の上杉景勝などが、こんがらがって来る。  要するに、ある一年、金売り吉次が、この鶴沼川の渡しで、濁水に溺れ、あえなく死んだのを、弟の吉内、吉六が、ここに供養仏を建立して、冥福を祈ったということらしい。  上海扇子は、そこで、庭の片すみをさしながら「そのお仏像サ祠ったのが、ほれ、そこサある仏さんだちゅうことを、わしら子どものころからよくじじ様には聞かされていたもんでな」という意味をつけ加え、あとはおなじ話がくり返されるだけだった。  小さな祠堂の中に、木彫仏三体がおかれている。雨露のため、古くは見えるが、江戸初期を出ないものである。吉次が通ったということだけは、嘘ともいえない。ここの渡しを通ったことがないとすれば、吉次などという人物は実在しなかったともいえばいえる。  話はちがうが、江戸初期のころ、家康が江戸へ入城したという風説が聞こえたときも、この地方では「家康が江戸までサ来なされても、会津退治に、ここサ来なされたら、そのまま、おっころされなさるべい」と、女童まで自信をもって、びくとも騒ぎまわらなかったという俚話が伝わっている。どうも、飯盛山のお婆さんといい、ここの二古老といい、今もって、何かそういった風な確信がつよい。  帰りがけ、また、路上の柿の枝が、顔へさわる。一軒の門口から、女の眸が、ぼくらの連れを、見まもっていた。「これ一つくれませんか」といえば「どうぞ」と、先様の方が御ていねいなお辞儀をする。さっそく、一つモギ取って齧りながら歩く。都会のサロンでは味わえない。  小川のふちに、可憐な淡黄色の花をおりおり見る。〝かえるのおとがい〟というそうだ。みな知っている。ぼくだけが、名知らぬ花。  市中の支局に立寄り、十一時四十五分発、新潟行へ乗る。星野、平山、山口氏などに、礼をのべ、駅頭でお別れした。(二八・三・二〇) 新潟〝白浪抄〟  車窓から裏磐梯をふりかえる。弁当をひらいて、ひとしきり、ゆうべの迷子ばなしで談笑。しゃべり疲れて、やがて居眠る。  羽越国境を出るまでがなかなか長い。蕪村の「春の海ひねもすのたりのたり哉」をもじって、「秋の汽車日ねもすゴトンゴトン哉」は、どうだとたれかがいう。  阿賀野川に夕陽赤く、窓外はようやく新潟平野らしい。たしか新津駅だったと思う。にわかに、車中は混み合い、魚臭くなる。  ほとんどが、魚の買出し屋さんである。男か女かわからない。ただ、女はオッパイ小僧も瞠若たる肌を露出する時に、初めてそれと分かる。体にも、ゴム長にも、財布からつかみ出す紙幣にまで、魚のウロコがぴかぴかくっついている。手から手へ、金を渡し、ツリを取り、女弁男弁、いずれ劣らぬカン高い喧騒である。時は、二十六年の秋、そのころの食糧事情と、生き合う血相と、ヤミ経済なるものを前提としないでは、この車中風景は、理解できない。  とはいえ、こういうすさまじい生活力に触れることは、ぼくらにはよい刺激である。何よりは素肌に庶民そのものを見せてくれる。まともに顔を向けていられないほど強烈な野性だが、この野性にも結びつく根をもった文化でなければほんとではない。案外、国力なんていうものの培養土はこういう土壌にあってぼくらの過信している辺にはムダ花ばかりで社会栄養となるものは稀少なのではないか。そんなことを思わせられながら、まじりまじりと、ただこの一団の、いや数十団のどよめく生き方を見まもっていた。  新潟駅には、もう灯がチラついている。ホームに、迎えてくれる幾つかの人影を見る。たれがたれやら分からぬうちに、車へ移り、予定の旅館へ行き着く。  静かな町、旅館も静けき屋造り。小甚別館という。階下の袖部屋つき中広間は、書院窓、竹窓などから、秋草や野菜畑の景ものぞかれ、一方の廊下側の外は、高い煉瓦塀であった。旅嚢も疲れもほうり出して、やれやれと、まずは、くつろぐように出来ている。  ところが、その晩の椿事出来は、この風趣に起因するところが多い。  いや椿事は、真夜中のことで、宵の灯の下には、山後支局長やら長岡からわざわざ出て来られた反町栄一氏などが、あすのコース準備や、地方雑談や、またぼくのために、あれこれ配慮しておいてくだすった史蹟史料面の打合せなどに賑わっていた。  山後氏帰社、反町氏も帰る。春海さんも、飄と消え、健吉さんは、土地の会津八一氏を、訪問。  ぼくは、あんまさんを頼んで、階上の一部屋に寝てしまった。だから、あとのことは、何もしらない。  ただ、いつのまにか、健吉さんのみ、隣の部屋に帰って、丸く寝こんでいる。  あんま氏は、オールバックの美青年。ぼくを揉みながら、しきりに、東京へ遊学したいとかの希望をしゃべりぬく。うつら、うつら、ぼくは東京の戦後情態などをはなして、まあ、まあと、あんま氏の壮年客気をなだめたりしていたかと思う。  そのうちに、階下の嘉治さんかたれかを一と揉みすましたらしい女性あんま氏が、同業のかれ氏を迎えに、二階へ上がって来た。そして、さかんに、ぼくらを措いて、喋々喃々と、しゃべっていたが、やがて仲よく二人づれで帰って行った。  朝である。──タオルを下げ、階下の洗面所へゆくと、高山君が、歯をみがいている。ほかの階下組は、見えない。「まだ寝てるの」「いいえ、もう」と高山君はウガイ水を吐く。「高山君、高山君」と嘉治さんかたれかが中広間でよんでいる。そのうちに、その高山君を初め、春海さんらしい声も交じって、ヘンテコな会話が聞こえはじめた。旅館の老女将や女中さんなど、呼ばれたり、走って行ったり、どうも妙である。  健吉さん、のっそり降りてきて、「どうしたの」と、中広間をのぞく。ぼくも入ってゆく。  みな返辞をしない。春海さん、憮然と、廊下にたたずみ、嘉治さん、腕グミして、卓の向うに坐っている。高山君は、どてらの裾を引きずりながら、「はてな。おかしいですな。アイロンをかけに持って行ったかしら。それにしては?」などと、部屋の隅を宝探しみたいな恰好で、何やらしきりに、屈み歩いている。掻きまわしている。  結局。──泥棒が入ったと気がついたのは約十五分間ぐらい後である。なにもそんなに、考えなくても、分かるはずだが、分からないものである。よもや、とどうしても、思ってしまう。 「ははあ、やられましたなあ」春海さんの如きは、もっとも、カンが遅い。そのくせ、廊下に点々と残っていた泥棒の土足のあとを、自分で踏んづけているのである。 「踏み消してはいけませんよ。高山君、そこらも、余りいじって何か動かさない方がいいですよ」と、嘉治さん注意する。旅館の電話で、たちどころに、警察の人々が、前後して、やって来る。  部長、警部補、鑑識課、刑事諸君など、驚くべき人数が、たちまち部屋いっぱいになってしまった。物々しい現場検察と、被害者訊問が始まる。「これは、えらいことになった」とぼくも思い出した。  けれど、どういうものか、ぼくにはちっとも、切実感がわいて来ない。もっとも、ぼくと健吉さんだけは階上に寝たため、持物洋服なども、そっくり二階に残っていた。してやられたのは、階下の三人全部である。「トランク。トランクもありません」「洋服もですな」「あ。紙入れも」「ぼくのボストンバッグも」「これは手際がいい。ほとんど、全部です」責任感のつよい高山君は、刑事、鑑識課の諸君も措いて、今なお、眼を皿に、宝探しをつづけている。悪いけれど、笑うまいと思うけれど、おかしくて仕方がない。ひとごとというものは、ひどいものだ。こうも冷淡になれるものかと、ぼくは自分のクツクツ笑いを憎んでみるが、なんともこれは一場の喜劇であった。  泥棒は、裏口から入ったらしい。窓の竹格子が、見事に切られているという。裏庭に、脱糞があったとも報ぜられた。また、ボストンバッグの中の林檎を取り出し、ゆうゆうと、食って行ったらしく、りんごの皮が捨ててあった。ヤスリ、小さい釘抜き、ネジまわしなど、三ツ道具入りのサックも置き忘れてあり、それから洋服類は、全部風呂敷包みとなし、ただ一点、春海さん所有のもっともヤツれたるズボン一着だけは、値が踏めないためか、泥棒も敬遠して、雪隠口へ捨てて行った。 「これは、どなたので」と鑑識課の手から公示され、「は。小生ので……」と春海さん答えたものの、泥棒にも敬遠された物では、手に取る気にもなれないとみえ、「なぜ、これ一つ、残して行ったんだろう」と、いかにも心外そうである。  一時は、当惑、大狼狽であったが、さて落着いてみると、ヘタに眼がさめて怪我人騒ぎになどならなくって、まアよかったのさ、と皆、こんどは幸福感の方へ考え方を移してゆく。当然、警察当局諸氏にとっては、日常茶飯、いや朝飯前のことに過ぎまい。「ちょうど、いい機会ですから、ひとつ、皆さんと一しょに、記念撮影をねがいたいもんですな」と、鑑識課の若い人がいい出して、キャメラを持ち出す。まるでおめでたい祝宴か何かみたいに、一同、床の間をうしろにかたまり合う。「うしろの方、もう少し顔を上げてください」「も一つ」「もう一枚」「こんどは、笑ってください」などとパチパチ。ようやく庭に朝陽がさし初め、雀がチュウチュウ啼き始める。  警察の人々十四、五人ぞろぞろ帰ってゆく。反町さん駆けつけ、山後支局長は、三人分の洋服を掻き集めるため、忙しそうにどこかへ出かけて行く。  ようやく、朝飯となる。旅館の老女将や女中さんたち、詫び入って、ただうろうろするのみ。なんとも気のどくなのは、高山君だった。どう慰めても、どこやら顔が浮かない。  やがて山後君が、にわか算段の洋服類をかかえこんでくる。それぞれの体に寸法が合うか合わぬかなどはこのさいいっていられない。まさか、裸で道中もできないために、とにかく体に着けてみるといった按配。高山君の袖口は長過ぎて手に余るし、春海さんの上着は小さすぎてつんつるてんなど、珍な事は、申すまでもなし。  芭蕉の奥の細道に「新潟といへるあたりに宿かりて」とあって、その一章の句に──一つ家に遊女も寝たり萩の月──というのはあるが、こう不風流な男どもが、白浪に寝すかされて、借着して出るなどは、余りいい恰好の図ではない。  せめて、ゆうべ晩く、ぼくの部屋から連れ立って帰ったオールバックの若いあんま氏と、同業の若い女性とが、この白浪に関係があったら、奥の細道ほどではなくても、多少、ロマンチックな椿事ではあるがと、ぼくはひとり空想をほしいままにしていたが、それから二年後、ことし新潟警察署で挙げられた犯人は、みじん浪漫気のない商売人であったそうだ。  ともあれ、まだ、旅はこれから。  時間とコース予定は仮借もない。ぞろぞろと、その恰好で、旅館の門を出、反町さんを東道に、次の越後路巡りを、まず長岡へ向う。 白浪の足あと凄し朝の月 ぬす人もいづこに秋を深むらん 借着して旅籠立ちけり秋の風  車中、なんだかまだ、おかしさにたえず、時々、思いついては、こんな駄句をひねって、隣の春海さんに示す。「ふウむ……」と大きく鼻の穴でのぞくのみ、春海大人の風懐も、いっこう感興に乗って来ない。(二八・三・二〇) 名古屋から車窓の近江路  旅行に持ち物は大嫌いな性分である。東京駅を立つときから、レインコートを持って行こうか行くまいかで迷っていると、 「こんどの御旅行は降られますよきっと。どうも、長期予報がそんなふうですからね」  と、見送ってくれた社のOさんがレインコートは持つべしだといった。  けれど、翌日の五月三十日の名古屋は予想外な好天気にめぐまれ、朝日主催の中京各流の茶道大会は、鶴舞公園の公会堂がきれいな人々で溢れるほどな盛況だった。  名古屋には平家琵琶の井野川検校が古典を伝えている。この日も古式の服装で〝宇治川先陣〟の一曲を弾奏した。あの宇治川のくだりには、武者名のりがたくさん出るので、さすがの検校もいちいちその長い武者名は覚えきれないものとみえ、時々、バチを休めては、後ろを振向いた。あらかじめ、本を持ったお弟子が検校の背水にかがみ込んでいたわけである。それへ向かって、「え? ……。何? 何?」と小声で訊いてはまた、語りつづけ、弾きつづけるのであった。  こういうことは、ふつうの芸人であったら、いわゆるトチるとでもいわれはしまいかと、大いにてれたり、うろたえるところであろうに、検校はいっこう動じる容子もなく「え? ……何? ……」と振向いてはまた、悠然と弾き語りをつづけていた。まことに、古風な落着きであり、それが少しもトチることにならずにむしろ立派でさえあった。茶席の点前などのばあいにも、往々、失念や過失はありがちであるから、検校のあの物腰は、二千余人の各流のお茶のお弟子さんたちにも、何か示唆を与えたのではないかとおもう。そのせいか、会場にはダレる空気も失笑の流れたような様子もなかった。  そのあとで自分も一時間ほど話したが、自分は茶について語るほどな資格はないので、「非茶人茶話」と演題も逃げて放談したに過ぎなかった。そして昼の弁当をつかう暇もなく、すぐ十四時〇五分の特急つばめに乗るため、名古屋支社、図書館の方、各流の茶匠たちと別れて駅へかけつけた。 梅雨雲や名古屋は五分間停車  健吉さん、春海氏、K編集部員とぼく。車窓に落着いて、やれやれと一息つく。  考えてみると、きのうからの一夜半日、のべつ人と会い通しであり、こう内輪の水入らずになったのは、初めてである。  特急が名古屋駅を離れると、ぼくらおのおの、膝の上で折弁当を開き始めた。まるで修学旅行の高校生といったかたちだ。食べながらのおしゃべりも、従って、その程度の知識を超えたものではない。  名古屋は健吉さんの郷里なので、市の図書館の壁画から駅長室の壁間といい、行く所に氏の画を見ない所はないほどだが、同時に健吉さんの愛郷心にもなみなみならないものがうかがわれる。  幾年か前に志賀直哉氏が名古屋へ来たとき「名古屋って、ひどく暑いところだね」といったのを、いまだに気に病んでいて「あの日は、名古屋だけがなにも暑かったわけじゃなかったのに」と、弁解に努めるほどな健吉さんだった。  今朝も、市のかもめ旅館から立ち際に、ぼくのぼんやりから、些細な過失があったことを、まるで自分の落度みたいに、つばめに乗ってからも、そればかり陳謝しているのである。その健吉さんをつかまえて、車窓談は一としきり、本誌の〝日本拝見〟でもうすんでいる名古屋雑感になっていた。 「ひと口にいうと、名古屋は途方もなく平べったい都市だな。その平べったい名古屋に、例のお城が失くなったのは、へんに淋しくない?」と、ぼくがいえば、健吉さんは言下に、 「そうです。名古屋のヘソが失くなったようなもんです。名古屋のヘソは、あの象徴でしたからね」  と、いかにも残念そうである。  例の新設中のテレビ塔では、中京人のこの寂寥感は、到底、癒やしきれるものではないらしい。  しかし春海氏にいわせると「名古屋は焼け効いがあった」そうである。「東京は戦後の道路政策に無能だったが、名古屋を見給え、百メートル道路など、道路だけは東洋に冠たるものにしたではないですか」とある。  それもだが、ぼくが感心したのは、鶴舞公園の図書館だった。いったいに、図書館というと、どこも陰鬱で閑休地域みたいだが、百パーセント閲覧者を容れ、尺地もないほど活用されているのを見た。殊に児童閲覧室の風景がじつによかった。というと、健吉さんは、わが家のことのように眼をかがやかして、 「管理者が熱心なんです。徳川美術館とならんであれだけは自慢できると思いますよ。よく名古屋の知性度を低いと人はいいますがね」  と、パチンコ産業のみが名古屋にあらざるの弁を一しょになって振ってやまない。  大都市ほど矛盾も大きい。百メートル道路やテレビ塔の陰翳に茶道が盛んであるなども、何か現代名古屋図の矛盾のようでいて、そのくせ、おかしくないのである。昨夜、かもめ旅館で各流の茶匠たちと会したときにも「名古屋人がお茶を飲むことはたいへんなものです。一昨年の茶業組合の統計でしたが、なんでも、抹茶の使用量は、名古屋だけで、一日五十貫ということでしたが」と、松尾宗匠の話であった。  ところで、その松尾宗匠は、酒は一滴も飲まないというので、席上、茶酒一味論が交わされたりしたが、それをわが春海宗匠が、今朝、朝飯時に句として、 宗匠に酒の道説く浴衣かな  と、やった。  これの好評に気をよくしたものか、名古屋からの車中でも、春海宗匠はしきりに駄句を案じては、ぼくらの同好に示し、「ひとつ、この車中は、吟行ということにしようではないですか」と、食べ終わった弁当殻を座席の下へ、押し込んだ。辺りに乗客がいないでもないのに、まことに怖るべき大言といわねばならない。 梅雨照りや煤いと古き駅の汽車  そんな小駅が幾つも窓外を過ぎ去ってゆく。  健吉さんが突としていう。 「この間、義仲寺をスケッチに行ったとき、ぼくも一句作ったけれど、あれどうですか」 「どれどれ、どんな句」 「義仲寺にて、と註釈を付けたいですがね。──青葉光みめよき孕み猫悠然──ていうんです」 「青葉光はおかしい。みめよき孕み猫は捨てるに惜しいが」  などとその一句を講評まわしにまわして、とうとう、皆で次のような句に合作してしまう。ただし、句の著作権は原作者のものとする。 苔の花敷きてみめよき孕み猫 「まあ、この程度なら、句といえましょうかな」  と春海宗匠は重々しくうなずいた。  伊吹山らしい山影がうっすら遠くに見え始める。関ヶ原附近である。この辺の史蹟群は、いつ通過しても、何か暗鬱な気流が感じられる。関ヶ原の役を始め、平治の乱や今昔物語に出て来る話など、どれも一様な暗さを土壌に残しており、明るい話というのが少ないせいでもあろうか。  垂井駅あたりから窓外を見まわして、ぼくの頭にも幾つかのそれらの史話が思い出されていた。平治の乱の後、少年頼朝が父のみよりを尋ねて行ったという〝青墓ノ宿〟というのが、山畑の片隅に、白いペンキ塗の杭に書かれてあった。  車窓からは見えもしないが、絵巻「山中常磐」に描かれた常磐御前の終焉の地という美濃山中もこの辺の山間にちがいない。  晩年の常磐が、東国へさして行く途中、あえなく盗賊どもに殺されたという口碑と墓のある土地は、不破郡関ヶ原村山中の峠口の北にあたる路傍らしい。その墓は、先に尾崎士郎氏が旅行中に実見して来たことをぼくに知らせてくれた後から、同地の読者からまた、絵図を添えて詳しく知らせてくれた。  それによると、路傍の民家の裏に、苔むした三基の墓があり、その一つが常磐の塚、ほかの一基は芭蕉の句碑で、(よく芭蕉が引きあいに出るようだが、芭蕉の句碑もじつに多く、また事実、芭蕉その人も詠史に興味を持っていたものかとおもわれる)その碑面には、 義朝の心に似たり秋の風  という句が刻んであるという。  尾崎氏がここを訪うたころは、おりから森のそばの百姓家に桃の花がまっさかりで、それが、いかにも印象的であったといい、常磐御前の墓に黙祷して去ったと、その紀行「関ヶ原夜話」の中にも書いている。  その常磐の末路を描いた絵巻「山中常磐」は、たしかに重美か国宝になっているはずである。所有者は第一書房の長谷川巳之吉氏だったとおもう。画作年代は鎌倉期に近い物ではあるまいか。とするとこの話のいい伝えも、真偽は知らず、とにかく古くからのことにはちがいない。  健吉さんとその山中常磐絵巻についてしばし時間を忘れて話しているうち、列車はもう湖畔へ出ていた。近江へ出ると急に視野は夜が明けた感じである。 苗代の青や近江は真つ平ら  瀬田川を越える。健吉さんは窓外を指して「あれですよ、義仲寺は」と、しきりに示す。というのは、その義仲寺のスケッチではいろいろと車中話題がわいていたからである。  いつかの〝筆間茶話〟に義仲と巴の抄を書いたとき、その原稿を手にすると、健吉さんはわざわざ大津市膳所町の義仲寺までスケッチに出かけ、そこからぼくの所へも絵手紙を便りして来た。  ところが、編集へ送られた挿絵そのものよりも、ぼくへよこした私信の絵手紙の方が、いろんな意味ではるかに面白いことが、ゲラ刷りの出た後に気がついた。頼朝、景時、義経の三人の半身像を並べたあの挿絵、あれを止めて、ぼくの手許へ来た絵手紙と、なんとか差し代えがつかないものかと、御本人には無断で、編集に頼んでみた。  しかし、惜しいことに、もう下版後で、ぼくのその勝手な案は間に合わなかった。正直、あのときの武者三人像の方は、読者にも不評判のようであった。そんな話を今、笑いながら打ち明けて来たのだった。 「そうしてもらえばよかった」と、健吉さんも今にして惜しがった。わざわざ写生に出かけた程なので、描いたことは何枚も描いたのである。即興的なものがいつの場合でもいちばんいいのらしいんですがネ、ともいい足した。  そして、窓外へ伸び上がり「あそこです、今井兼平の塚のあるのは。そして、あの森の向うを少し行った所が、義仲寺ですよ」と、未練そうに、何度もぼくらに指さすのだった。といっているまに、列車は大津の駅に入っていた。 兼平の墓義仲の寺みな青葉  おもわず駄句が口をついて出る。そして大津駅のそばが、きのうあたりの火災らしく、五十坪ほど焼けていたのを見てまた、 初蝉やあつたばかりの火事の跡  義仲寺の〝筆間茶話〟では、読者からぼく宛てにも、誤謬を正した御注意がたくさん来た。 「木曾殿と背中あはせの寒さかな」は芭蕉の句ではなく伊勢の又玄という俳人の句なること、幻住庵は同寺内ではないことなど、ぼくの杜撰もここに訂正しておく。  同時に、あのとき使えなかったぼく宛ての健吉さんの絵手紙の一葉を(文面の部分は略して)この回の挿絵に入れた。門内には八百年前の武人と元禄の俳人の碑とが並んでおり、門外には現代の自転車やら往来が描かれていて、長い宇宙の時間が一図の中に縮写されている景がぼくには面白く思われる。  膳所は湖畔の長い町なので、フンドシ町という汚い俗称があったそうであるが、琵琶湖から瀬田川へかけて今でもポンポン蒸気の遊覧船が上下しているなど、まさに芭蕉の句も夢、義仲や兼平の生涯も夢、ただ瀬田川の水のみが悠久に似るという──平凡な感慨に旅情を遊ばせるにふさわしい。健吉さんのスケッチには、それが即興的によく出ているとぼくは思うが、どうであろうか。(二九・七・四) 京の雷と有馬の河鹿  大阪朝日会館の読者大会はあすだが、今夜の泊りは京都とのこと。駅からまっすぐに旅館の大文字家へ行く。  ここは画家文壇人などの文化人のお陣屋みたいな定宿である。東京を出る前日、今日出海氏から「小林秀雄が大熱を起こして大文字家で寝こんでいる」と聞いたので、さっそく見舞おうと思って訊ねると、つい先日のアサヒグラフの表紙になったここのいとはんが「いいえ、いやはりまへん」というので、なにやら拍子抜けしたが、しかしほんとでなくって、まあよかったとも思う。  ところが、小林氏の熱病よりも、ここでは、ぼくが不覚な病因を自ら作っていた。というのは、湯上がり後に出されたシャーベットを、つい、意地きたなく、話し話し、ペロリと食べてしまったのである。  旅行前は、いつも、原稿のストックを作るため、体に無理をして出るし、名古屋の疲れも加わっていた。また、胃腸は年来の弱点なので、夏中も冷たい物は一切口にしない習慣なのだが、どうしたわけか、そのときのシャーベットは無意識に食べてしまった。つまりそれほど美味しかったわけなのだろう。  それからすぐ、夜の会合で、大市へ行き、すっぽんを食べた。シャーベットとすっぽんとは、いずれ仲のいいはずはない。以後の下痢は、それかららしい。  けれど、当夜はまだ覚らず、帰りは途中から歩いて、三条、京極とあの辺を、子供のお土産にと約束した京の絵日傘を探して歩いた。パラソルならどんな小さいのでもあるが、京の特色のあるあの絵日傘はもう近ごろの京都では売っている店もない。  それを健吉さんとKさんが、根気よく探し歩いてくれるのをいい気になって、ぼくは先へ帰って寝てしまった。とつこうつ、明け方までに、厠へ通うこと数度、およそ旅先の旅館で、深夜、厠へ通うほど、ほかの部屋へ気がひけるものはない。他人の旅心地と快い眠りを妨げまいと思い、あたかも枕さがしのごとく、そうと起きては、そうと元の寝床へもぐり込む。  だが、朝はさりげない顔をして、他の四人と共に食膳につく。前夜から扇谷編集長も一しょだった。そして、賑やかな朝飯になり始めると、真っ黒に空が曇って来た。いったい、京都盆地の夕立雲には、一種特有な凄さがある。どう街が近代化されても、依然、四方は山岳だからであろう。絵巻物的な稲妻や雷鳴が連想される暗さなのだ。やがて、窓外の柿若葉に雨ツブの音も荒らかに馳けて来て、どこかへ落ちたような雷が鳴りはためいた。  こうなると、ゆうべからぼくの腹中に鳴っていた雷鳴などは、物のかずではない。ぼくの手にしていた薄手な白磁の茶わんの中に、何かがピカッと光った気がした。箸の先に稲光りが触れたかと思ったほどである。 稲妻や白き茶わんに白き飯 「この句は、どう」咄嗟にぼくがいう。たれも「ふーむ」というだけで感心しない。と、また怖ろしく近いところで、ピカッ、ゴロッと、かみなりの匂いがした。  すると、柿若葉ののぞき下ろせる宿の隣の庭先で、少女の悲鳴が「キャアーッ」と聞こえた。  そのキャアーッという声の余韻が、ひどくぼくらの耳に残った。東京の声でもなく、東北の声でもない。どうしても、京都の少女の口からでなければ出ないキャアーッという、まろい、きれいな余韻を曳いた悲鳴であった。  そのとき春海宗匠の口から、たちどころに一句が出た。 かみなりも泣く子の声も京訛り  というのである。 「これは、おめずらしい句だ」と扇谷編集長は口がわるい。「すると、かみなり様も京訛りで鳴るのかね」「もちろん」と宗匠は答えた。「それが分からんような者とは共に詩を語れないさ」と。  おそらく、雷公は詩を解したものかもしれない。まもなく、その句の通り、鳴り方もだんだんおとなしくなってゆき、いざ出かけようというころには、やんでしまった。  身支度はすんだが、まだ車が来ていないらしい。それまでのわずかな立ち際に、思いがけない一仕事が持ち込まれた。  宿のいとはんや女中さんが、鳥ノ子張りの利休屏風を抱えて入って来たのである。見ると、いつのまに描いたのか、健吉さんがそれへ、白藤の花を背にした、如意輪観音と、一匹の鹿とを彩描していた。 「つい、ゆうべ二時ごろまでかかって、描いちまったんです」と、健吉さんは、こともなげに笑っている。  拝見だけかと思って感心していると、ぼくにもそれへ何か賛を書いて欲しいというのである。考えてみると、ぼくの寝た日本間にも、半双の屏風が立ててあり、それには、石川達三、中野好夫、久保田万太郎、丹羽文雄、亀井勝一郎、横山泰三、かつての文春座文士劇のおりにでも書いたのだろうか、ちょっと判断もつかないような顔ぶれが十数名も入り交じって寄せ書きしていた。  そういう場合でもあれば手が出しやすい。それにまた、晩はいいが、朝はいけない。だいいち健吉さんの図柄からして、いかにも健吉さんらしく真面目なのである。大いに困ったが、ままよとばかり旧作の歌を思い出したので、 奈良に来ても伊勢路に来ても見れば 見とれぬ 母ある人のはゝ伴ふを  と書いてしまった。歌になっているかいないかは知らないが、どうやら絵には合っているような気がして、やれやれと、筆をおくやいな、玄関へ出て、街の角まで、いとはんに傘さしかけてもらって立った。  雨量も多く、淀川の西岸は、濃霧か雨かわからない程である。車のウインドウは洗い流され、時速七十キロぐらいで走りつづけてゆく。  その間も、おのおの、駄句り合いは交わされたが、いずれも一笑にだに値せずであった。そして大阪へ近づくにつれ、たれもそろそろ、会場の方が気がかりになり始めた様子に見える。ぼくなどは殊さらに、講演の話題がしきりに気に病まれ出し、吟行どころの沙汰ではない。  ──と気がついたのは、もう遅い感じであった。何をしゃべろうかと、講演を案じてみても、妙につまらない俳句ばかりが泡ツブみたいに頭に泛んでしまうのである。よく洒落癖がつくということはいわれるが、俗俳家が駄句を吐きつけると頭に十七字癖がつくということもあるものらしい。これはその日の発見だった。  発見はいいが、話題は一向まとまらない。そのまにもう大阪へ着いてしまいそうである。会場へ臨んでからではもういけないのだ。夢声氏や花森安治氏が羨ましい。どうしてあの十分の一の話術でも持てないものかと、凡慮を凡慮しぬいたりする。 「けさの屏風ね。あれへ書かれた歌ですね、文春の信平さんに見せたいな。きのうきょうの彼氏の姿があれですよ」  扇谷氏がいい出した。初めは、なんのことかわからなかったが、訊いてみると、こうなんである。  どういう発心やら池島信平氏がこの二、三日、老母を連れて京大阪を見物させ、あすは高野山へおふくろさんのお供をして行くという話なのである。  きのうは、花森氏、扇谷氏などと、仕事のことで、神戸で一しょになり、信平息子は、前夜の疲れで宿屋で昼寝してしまったが、おふくろさんひとりぼっちでぼんやりしているのを見、花森氏が「どこかへ御見物に行きませんか」と誘ってあげたところ、「神戸の桟橋へ行ってみたい」というので、花森氏がひとの母親をつれて、そこへでかけて行ったそうである。  そして後で「なんで埠頭へなど行きたがったのだろう」と、信平息子にそれを質したところ、戦後、信平氏の弟の遺骨を迎えたのが神戸埠頭だったので、老母はもいちどそこに立って、いまは世にないもう一人の息子を偲び、その非業な死を弔ったのだろうといったということであった。  そんなうわさをして、扇谷氏は、「ぼくも帰京するとすぐにまた、東北読者大会へ行くので、こんどは信平にならって、一時間でも故郷の年よりに顔を見せてやりたい」といったりした。  辛辣なジャーナリストたちは、その辛辣に輪をかけたような雑誌目次を週に月々に競作している。現に、文春の五月号かには、「親孝行無用論」なども掲げられていた。だがジャーナリストにしても、やはり一個の親と子の関係では、それぞれな暮し方と自己の楽しみ方をしているものとみえる。人間の子とは元来陳腐平凡なもので、その本質はジャーナリズムの理論に乗るような新課題にはならないものかもしれない。そう思ったことだった。  そして、これはぼくの「新・平家」の中にも出てくる常磐の母性愛とか、巴と志水冠者義高との問題などにも結びつくから、ちょうど講演のいとぐちにはなる。そうだと、考えついたら、急に気がらくになっていた。  昼の講演は、なんとか責めを果たしたが、夜の会には、疲労を覚え、話も端折って、ほとんど自分でも何をしゃべったか分からなかった。  弁当に出た雀ずしを、夢声さんが、讃美して食べているのを見、「少しぐらいなら」と、ぼくもつい箸をつけたが、それもまた、いけなかった。  腹の中のかみなりは、午後も晩も鳴りやまず、それを忘れていたのは、演壇に立っていた間だけだった。  それほど熱演したわけではなく、自分を忘失していたのである。年に一度の読者へのあいさつだったのに、なんとも不覚なわけだし、後になってまでも、申しわけない気がする。  会が終わるやいな、控え室で声をかけられたおはんさんの顔さえろくに見もせず、車に乗って、有馬へ急いだ。有馬では明朝、鵯越えから一ノ谷の史蹟案内をしてくださるために、神戸市史編纂の川辺賢武氏が来合わせる約束になっている。  雨後の山坂を、ゆられゆられ、有馬の御所坊へ着いたのは、もう十一時近くであり、それでも、湯に入ってから、まずあとはあすの史蹟歩きだけになったと、急に気分もかろくなった。そして「このぶんなら腹のかみなりも治まろう」と浅慮にもまた茶など飲んではしゃぎ始めたものである。春海宗匠とても同様、まず大阪の一任をすましたというゆとりも出たせいか、 障子越し硝子越しに有馬の河鹿哉  と物理学的名吟を示され、ぼくも駄句ること三句、 啼いてゐますよとそこ開くる河鹿かな 夜もおそく着きて河鹿にまた更けぬ 水音は二階に高き河鹿かな  やがて部屋を別れ別れに、戸外の河鹿を措いて、こちらは蒲団の襟をかぶった。(二九・七・四) 木のない生田ノ森  夜明けが待ち遠しかった。シクシク大腸が渋ってやまない。いよいよ本ものかナと、旅行中の耐病法など、心細くも考える。  ここでも厠通いに明け、朝とともに、内湯の温泉ツボへ行って沈みこむ。有馬特有なあの鉄泥色の湯にひたっている間は、うすら眠くなり、気分も大いに落着く。  有馬とぼくの下痢症とは、奇縁がある。二十年以上も前だが、白石凡氏が大阪朝日の学芸部長ころ、連載中の貝殻一平を書きつつ高野山の高室院にいたことがある。ある日、寺僧が庭のぼたん杏を採って鉢に盛り、それを「おなぐさみに」と机の端に置いてくれた。  夕方ふと「しまった」と気づいた時は、鉢に山盛りのぼたん杏が、半分に減っていた。原稿に気をとられ、夢中で食べていたものとみえる。果たせるかな、その夜半から大下痢を起こし、翌一日も止まないので、高野から有馬へ来、真夜中、有馬の湯の脱衣場の大鏡に自分のゲッソリした蒼白な面を映して「これが死ぬ前の顔か」とひとり眺めたほどな記憶がある。  どうも、よくよくぼくは性懲りのない男とみえる。従来、こういうばかさを何度やってるかわからない。そして、おおむね旅行先でのしくじりなのだ。旅へ出て、日ごろのきずなから解放される愉しさを、自ら「旅情童心」などといって放逸したがる心理がさせるものらしい。こんどはコリたし、年も年だから、これからは「旅情童慎」ということにしようとおもう。 下痢幾日青葉若葉も眩く  一同朝食。さりげなく、ぼくも箸はとる。  しかし、内心おどおど、多くを口に入れず、そのうちに、神戸の市史編纂にたずさわる川辺賢武氏が早くも来訪される。 「きょうはどういう御予定で」と、川辺氏はさっそく二万五千分ノ一地図を卓いっぱいに拡げた。そして京都から義経軍の潜行したいわゆる、鵯越え間道〟の径路を、その豊かな郷土史の見地から何くれとなく説明された。  これは後での笑い話だが、川辺氏はもちろんぼくら一行が、有馬を起点とし、丹波境から椅鹿、淡河、藍那などの山岳地を踏破して、義経の進んだ径路どおり鵯越えに出るものと予定していた。そのため、ハイキング支度で来られたそうだし、ぼくも東京を出るときは、そのつもりで、ズックのゴルフ靴など携えては来たのであった。だが今はとてもそれほどな元気もない。「ともかく神戸まで出ようじゃありませんか、その上で」と、ただなんとなく腰を上げた。  宿の御所坊を立ち出るとすぐ川辺氏が「ここから二町ほど上の温泉寺。清涼院といいますがね。そこに、清盛の石塔というのがあります。ちょっと、見てゆきますか」という。  川辺氏について温泉町のだらだら坂を登ってゆく。石造美術に造詣のふかい氏の話には道を忘れるものがある。温泉寺のそれは足利初期の物であり、由来も定かでない由、しかしそこでは、思わぬ拾い物をした。  うす暗い本堂の内陣脇で、一人の中年僧が、お勤めをしていたのだが、ふつうの勤行と違い、その僧は木魚、鉦、磬、太鼓、鐘の五ツぐらいな楽器を身のまわりにおき、ひとりでそれを巧みにオーケストラしているのであった。  ゆるやかな音律の段落ごとに、太鼓がはいり、鐘が鳴って、また元のリズムへ返ってゆく。繰返し繰返し、僧の容子もその手もオーケストラ三昧に入っていて、いかにも愉しそうなのである。  室町期かそれ以前の念仏踊りの遺風音楽でもあるのだろうか。輪をなして踊る庶民が眼に泛んでくるようだった。仏教と庶民生活とが、娯楽の中にも溶け合っていた時代の風俗が音に描き出されている。それは到底、現代仏教の死灰からは呼び起こしえないものだと思った。  ──と、聞き惚れていたら、突然、そのオーケストラはふつうの称名の調子に変ってしまった。外に佇んでいたぼくらに気づき、僧はその法楽三昧の遊戯を止めてしまったらしい。惜しいことである。現代仏教は元の素朴に返って、もっと庶民と一しょに働きもし、庶民と一しょに遊べばよいのに。  有馬道から神戸に入る。山手を東へ、生田区を一巡、生田神社で車を下りる。  古来著名な生田ノ森もあとかたはない。少々ばかり青いのはみな終戦後の植樹である。焼け色の石燈籠もまだ乱離の状態だ。境内の地上は一歩一歩に、それ以前の巨木の焦げた根コブを残していて、なお戦災の日をまざまざと偲ばせるものがある。 「この辺が爆撃でやられたとき、ぼくは兵隊として附近にいたので、眼で見ましたよ、無数の死体もね」と、春海局次長は感慨をこめて、肥った神主さんと立ち話を交わしていた。  社家だけは立派に復興している。神殿を先に建ててしまうと、後では、社家はなかなか出来ないものだそうである。  かつての一ノ谷合戦では、生田川一帯は、蒲冠者範頼の攻め口だったが、今は目抜きの市街地だ。「福原びんかがみ」や「摂津名所図絵」にみえる河原太郎兄弟の塚とか二本松なども、見当はつかない。  日本書紀に〝生田村ニ杏ガ実ル〟と誌されたのが、杏の記録の始めだとか、また古来、ここの神社は松を嫌い、松の木は一本もなく、正月のシメ飾りも、能楽堂の杉戸の絵も、松の代りに杉を描いたなど、話はおもしろいが、縁遠すぎる。  むしろ、大同年間から生田の氏子、つまり神戸(カムベ)の民は、ここで酒を醸造しており、来舶の新羅の外客が入朝の日には、その酒を飲ませる風習があったという方が、ぼくらには耳よりな話であった。  おそらく、その遺風は、清盛がここに雪ノ御所をおき、築港を築き、宋船の入朝を奨励したころもつづいていたのではあるまいか。  また、義経、範頼たちの源軍が、生田川や鵯越えから、なだれ入った当時も、なおカムベの民は住んでいたろうし、社の酒庫にもいくらかの酒瓶は残されていたのではあるまいか。  生田ノ森の梅花を箙にさして奮戦したという梶原源太景季のような武者たちが、戦いも終わった夕べ、カムベの民の献酒をどんな風に飲んだであろうか。酒徒ならぬぼくにも、連想の興味は尽きない。  車へもどって、すぐそこから市の北陵にある会下山へ急ぐ。 「会下山に立ってみるのが、いちばん要領を得られるでしょう。生田方面も鵯越えも、そして輪田岬から一ノ谷、須磨辺まで、一望ですから」と、これはもうぼくの意気地のない足つきを見て察しられた川辺氏の懇切なおすすめだった。(二九・七・一一) 会下山展望  いつも山陽線の列車では見つけているが、車窓から望むと、会下山も再度山も鉢伏も鷹取山もみんな一連の神戸市背後の屏風としか見えない。  けれど、会下山に立ってみると、独立した市街中の一丘陵であることが分かる。西北から東北のふところには、長田や夢野の町屋根がなお奥深く見渡され、鵯越えは、この丘の真正面に、指すことができるのだった。 「なるほど、特色のある丘ですね」と、ぼくはつぶやいた。特色といったのは、たとえば、眼隠しをされて、空からいきなりこの山上に降ろされても、「ここは神戸だ」とすぐ答えられるであろう程、四方の視野が神戸をそっくり展望させているからだ。  梅雨空で、淡路島は見えないが、一ノ谷方面まで、模糊として見渡される。いま通ってきた生田方面から埠頭の景観なども、神戸以外なものではない。  もっと、異彩なのは、「あの辺が、鵯越えへ行く道」と川辺氏の指さす方角に、夢野の外人墓地が、白い墓標を並べていたことだった。 「こう考えるのです。私は」と、川辺氏はそこでいう。 「あの鵯越え口から、その山麓の長田方面にまで守備を布いていた平ノ盛俊、能登守教経などの平家軍は、この会下山の天然な地形を決して利用せずにはいなかったろうということです。なぜならばですね」と、かなたこなたへ、歩を移しつつ、ここの戦略的な重要さをなお力説された。 「第一にここほど視野の利く所はありません。海陸、どこも見通しでしょう。鵯越えの抑えとして、絶好な一高地です。──もっとも、その鵯越えにも、従来、幾つもの異説があって、あれから夢野、刈藻川へ南下して来る道と、また、山上の小道を西方へ反れて、鉄拐ヶ峰を迂回し、遠く一ノ谷の断崖の上に出たという説など区々ですがね。私には、平家が主力をおいたのは、この会下山で、そしてまた、義経が降りて来たのも、この会下山の西の低地、刈藻川すじから遠くないものと考えられるのです」  川辺氏がいうところは、おおむねずっと以前に喜田貞吉博士が歴史地理学会の誌上に書いた所説と近いようであった。  けれどその喜田博士説にしても、川辺氏のように、この会下山を重要視してはいない。一ノ谷逆落しというようないい伝えは、まったく誤りであり、鵯越えとは、そんな断崖絶壁を駆け落したのではなく、現今の夢野の坂道を長田町の方へ攻め下って来たに過ぎない、と断定しているだけである。 「その鵯越えの道とか、一ノ谷合戦の真相はどうかという点などを解く鍵はですね、つまり、会下山ですよ。ここへ来てみなければ分からんですよ。まあ、ゆっくり腰を下ろしてください。多言は要しませんから」  と、川辺氏はかさねていった。ほんとに、こういう時にこそ、史蹟歩きの値うちはあるものだった。ぼくは幾たびもうなずいた。余りに課題は大きすぎるが、湿っぽい梅雨じめりの気流の中で、しきりに渋る腹鳴りを片手で抑えながら、とある石に腰をかけた。  上って来る途中で「神戸市緑地化運動地帯」と書いた杭を何度も見かけたが、会下山には、何の木も生えていない。ほとんど、青いものなしである。  まっ白な禿げ山だ。  この地方特有な土質であろうか。磨き砂みたいな土である。  会下山という名は、徳川期以後で、古くは、雲梯ヶ岡といったらしい。法隆寺財産目録(天平期)には宇奈五ヶ丘とも見えるという。  だから、盛衰記や平家物語には、会下山という称もなく、うなでヶ岡とも書いてない。山手と総称されたり、ひと口に、ここも夢野と呼ばれていたのである。  そのため、ここの地形も無名のままつい見落されて来たわけだろうが、その重要さは、ずっと後の延元元年、足利尊氏が九州に再起して東上のさい、楠正成が湊川を後ろに、この会下山から頓田山に陣したことでも考えられる。そのさい、足利勢の一部は、やはり鵯越えから長田へ出て来て、楠勢を、腹背から攻めたてているのである。  それと、もっと重要なことは、天井のような山丘地から来るものと知れている敵勢を、わざわざ、谷底のくぼや、視野のきかない麓に屈み込んで、待つばかはない。当然、それへ対するには、遠望も利き、応変も自由な、そしてまた、どこへでも兵力を急派できる高地に司令部を持たねばならない。  とすると、会下山は絶好な地点である。  いまは木もない禿げ山だが、当時はどうであったろうか。  市史を見ると、明治初年ころの記載に「松林、東西二四〇間、南北一二三間」とあり、前からこんな不きりょうな山ではなかったことがわかる。松、桜、つつじの名所であったという。  また、古くは近傍に寺院もあり、民家の集落もあったとみえ、軍の主力を隠すには恰好であったろう。教経や盛俊の平軍の将が、この天然な地を見遁しているはずはない。源氏の人々以上、彼らはここの地理に精通してもいるのである。  会下山を中心とする平軍と義経軍とが衝突した戦闘地域が分かれば、自然、義経の向かって来た通路も明らかになるわけである。  平軍の教経は敗れて海上へ逃げたが、同陣の盛俊だの通盛などは、名倉池や東尻池の附近でみな戦死している。刈藻川の上流で、まさに会下山と鵯越えの中間といってよい。教経の弟業盛が戦死した所も、会下山から遠くではない。  つまり義経勢が南下して来た道は、現在の鵯越え遊園墓地から、明泉寺、長田を駆け下り、妙法寺川に沿って、戦い戦い、輪田岬の西方の海浜、すなわち駒ヶ林附近へ出てきたものであったろう。──なぜならば、平家方の主将の戦死跡がその線を描いているし、もっと重要なことは、駒ヶ林の浜に平家の軍船が集まっていたことである。安徳天皇もそこの船中におられ、また一ノ谷や生田方面から落ちて来た平家の将士は、すべて、船上へ逃げ移ろうと、そこの一点へ争い集まって来たものと思われるからだ。  だが、義経の来た道が、妙法寺川の線だったとすると、従来の「平軍の本拠は一ノ谷城であった」とする説も、「義経たちの七十騎は、一ノ谷の後ろ山から屏風のような絶壁を逆落しに下った」という勇壮な話も、みんな方角違いとなり、宙に浮いてしまうことになる。  その伝説には、ちと気のどくな結果になるが、事実はどうも、一ノ谷城や逆落し談には、歩がないようである。  何よりいけないのは〝城〟という概念であった。源平時代にはまだ後世いうところの城郭などは、なかったのである。一ノ谷には、馬糧や兵糧の貯備倉ぐらいはあったかもしれない。それを江戸時代に刊行された源平盛衰記などには、江戸時代の城郭が描いてある。須磨寺附近に、敦盛蕎麦や熊谷茶屋ができたのも、みな江戸時代の繁昌が生んだ名物だし、とにかく、一ノ谷城などという考え方の間違いから、いろんな誤解が生まれ、それへ名所名物のお負けがついて、なお分からなくなって来たものと思われる。  たとえば、逆落しは、坂落しでいいのである。それを〝逆落し〟と誇張したから、ふつうの〝坂〟では物足らなくなってしまう。  第一、あんな狭隘な谷ふところへ、平家が本拠をおくはずがない。  平家方の前年からの行動や提言でも明白なように、彼らは、この地を守るべく屋島から行動して出たのではなかった。あわよくば、都へ進撃し、洛中の奪回をさえ意図していたのである。  敗けたからこそ、いかにも、退嬰的であったかのようだが、意志は源氏以上にも、積極的であったのだ。とにかく、世称、一ノ谷合戦で通って来たため、一ノ谷が義経にも平家方にも、主戦地と思われて来たが、ほんとは、一ノ谷、須磨海岸から、駒ヶ林、生田川、そして山手の刈藻川流域一帯を、当日の戦場と見なすべきである。  だから、以後の誤解を避けるためには、その日の合戦を、次の三区域に分けて考えるのが、いちばんいいかとおもわれる。 (東方)生田川を中心とする源平両陣の衝突。 (北方)鵯越えと会下山との間の長田方面の衝突。 (西)明石方面からの磯づたいに一ノ谷の西木戸を突いた源氏と平家勢との戦い。 「その日、義経がいちばん気を揉んだのは、時間だったと思いますね。戦端をひらく時間の一致じゃなかったですか」「そうです、それですよ」と、ぼくの質問に川辺氏もうなずいた。 「前日から範頼が待機していた生田川口と、義経と別れて播州路から一ノ谷の海辺へ迂回した土肥実平の手勢と、そして鵯越えにかかった彼自身と、そう三方の攻勢が、時間的に不一致だったら、まったく、大失敗に終わりますからね」 「とすれば、鉄拐ヶ峰へ登って、一ノ谷の上へ出るなんて迂遠なことは、不可能でしょうな」 「馬などでそう易々と行ける山道ではありません。いくら捨て身でも」 「それでおよそ義経の径路はつかめた気がしましたよ。しかし、一ノ谷の奥には、安徳天皇の行宮の址があったり、逆落しやら何やらの名所旧蹟もあるので、そっちじゃない、こっちだと書いたら恨まれましょうな」 「鵯越えは、これまでにも、議論になっていますからいいでしょうが、たとえば、熊谷直実と敦盛の史話などを抹殺したら、それは大変なことですよ。神戸市の名所旧蹟が幾つ減るかわかりませんからな。はははは」 「いや、史実は史実として追っても、庶民の持つ物語的な夢は尊重しましょうよ。須磨海岸には、須磨寺も風致の一つですし、そこの浪音には、熊谷と敦盛の連想もあった方が自然を見る伴奏にもなりますからな。あなたと違って、ぼくは歴史家ではないのだし」  やがて会下山を降りながらも、ぼくらは尽きない話に興じていた。健吉さんは始終、矢立の筆を舐めつつ四望を写生しぬいていた。  待っている車に乗り「これから鵯越えまで行こうじゃありませんか」とぼくがいい出すと、いささか意外そうに「行きますか」と春海さんが危ぶむ。「え。行きますが、どこか途中で、お茶でも飲みませんか」「あ。分かりました」と、春海さんうなずく。  車は市街の中心へ出て、さっそく手ごろな喫茶店を探しあるく。いい出しはぼくだが、つまりは諸兄に喫茶の憩いをすすめたのではなく、ぼく自身が腹鳴りの始末をするため、適当な寄港地へ碇泊を緊急に求めているのだった。それもこの道中、一回や二回ではなかったので、なんともそのたび道づれの諸兄には気がひけてならなかった。  長田茶苑というのへ飛びこむ。諸兄は一隅で是非なき顔つきのお茶。ぼくはさっそく用達し。尾籠なはなしだが、そこのトイレットとは窓一重のすぐ隣がよく繁昌しているパチンコ屋であった。あの旺んなザラザラ、ガチャンの金属音と、客呼びのメガホーンや電蓄の喚きなど、神戸中の騒音をカン詰にして爆発しつづけているような音響である。  たった今、丘に立って、八百年前を回顧していたぼくの幻想は、一足跳びに、現実の世界に舞い戻され、義経も範頼も、能登守教経も、敦盛も熊谷も、みなパチンコ機械の中をグルグル巡りまわる一個一個の玉みたいに、もんどりを打ち、転げまわり、そして何かひとりでおかしくなって来てたまらなかった。人間がパチンコ機械を遊んでいるのか、機械が人間をからかっているのか、それとも、玉の乱舞が両者の生存を支配しているのか、ちょっと、判定がつきかねた。(二九・七・一一) 鵯越えに立ちて  車は狭い町幅を市街の北方の山へ向かってゆく。長田神社の横を、宮川に添い、明泉寺からは登るばかりで、やがて黄昏近くに、やっと鵯越え遊園墓地の下までたどりついた。  車を捨て、遊園墓地を、さらに上へ登りつめてゆく。見晴し台といったような、さいごの高所には、観音さまの巨大なコンクリート像が聳え、その横に、香華を売る小屋があった。小屋のすぐ前の山道が、すなわち古来有名な鵯越えの本道だった。  ここまででも、登りはずいぶん長い間の登りである。そして小屋の婆さんに訊くと、これから先の高尾山から藍那、淡河といった山中までも、まだまだ登り続きだそうである。  けれど、馬の通れぬような嶮峻ではない。  附近の峰や谷崖を見ても、植物はすべてといっていいほど灌木帯の密生である。騎馬の行進を阻めるような大樹林はこの通路には昔からなかったのだろう。もし原生林のような地帯があったら、義経のあの行動は、しょせん、不可能だといいきれる。  義経は用意周到な人だったという。おそらく行動に出る以前に、あらゆる点にわたって、物見も放ち、踏査もさしておいたにちがいない。また、何よりは、この辺の土質は、小石もない山砂で、岩磐の尖りや石ころもなく、騎馬の場合、馬のひづめを傷める惧れがないということも考え合わせられる。  昔の戦記物を読むと、馬は不死身のようである。現代のジープかなんぞのように、自由自在に駆けさせている。しかし、じっさいには、馬の脛ほど傷みやすいものはない。ひづめは殊に岩石に脆く、また山坂の降りは馬のニガ手である。この程度の山坂を駆けくだすだけでも、よほどな難行軍であったかと思われる。なぜならば、そう更え馬は曳いて行かれないし、行き着くだけが目的でなく、敵に会してからの騎馬戦が決勝なのだ。ヘトヘトになった馬では、勝目はない。しかも、馬にだって体力には限界があるし、人間のように、馬に精神力を求めるわけにはゆかないのである。  この点でも、ここからさらに西方一里以上の山地を迂回して、わざわざ鉄拐ヶ峰をこえ、あの嶮しい一ノ谷の真上へ出たなどという旧来の説は、机上の空論というしかない。  義経の鵯越えは、旧暦の二月七日だった。今の三月初めごろと考えていい。  けれど彼が京都を立つ数日前は、都では降雪があった。丹波路は残んの雪があったろう。この辺の山坂はどうだったろうか。  生田川口、明石口、そしてこことの三軍が、同時攻勢に出た時刻は、午前六時ごろであったという。途中はまだ暗かったにちがいない。友軍との諜し合わせは、約束だけで足りたろうか。峰々に人を伏せ、火合図なども用いたのではあるまいか。  一歩誤れば、平軍の中へ、わざわざ、身を捨てに入るようなものである。この坂道を、そぞろ馳せ下る思いはどうだったろう。その朝の彼の眉は。彼の姿は。そして暁の下に、敵を見たせつなは。  暮れかかる梅雨雲の下に、ぼくは果てない空想を追っていた。附近の谷にも峰にも、一羽の鳥影さえ、よぎりもしない。  すると、ぼくらの頭の上で、ふと少女たちの笑う声がした。振仰ぐと、山家の少女と、お寺の娘さんたちでもあろうか、高い観音さまの台座からその巨大な膝を巡りまわって、三、四人が腰かけてみたり、歌いたそうな眸をしたり、ちょうど、菩薩を繞る飛天女のように、戯れていたのだった。  町中なら平凡なワンピースやスラックスの色が、何か、天平風俗の裳や袖のように見えた。彼女たちは、ぼくらの眼を感じると、あわてて台座を駆け下り、そして、ぼくらより先に、鵯越えの小道をどんどん降りて行った。下に待たせておいたぼくらの自動車の社旗を見て、何事かと、登って来たものらしい。  日暮れを惜しんで、そこから一気に、駒ヶ林の海岸まで走らせた。ここでは川辺氏が潮流と兵船碇泊の関係を説明され、またこの地方特有のやまぜ(東南風)のことなど話される。  淡路島は、つい目のさきにある。屋島の平家が、場合により、そこを足掛りとしたろうことは、想像に難くない。  たとえば、熊谷直実が、敦盛のかたみを、淡路の福良にある父経盛の許へ届けてやったという話なども、ありそうなことに考えられる。そのほか、島に幾つとない平家史話がこぼれているのも、地理的に見て不自然ではない。ない方がむしろ不自然であろう。(二九・七・一一) 須磨寺寝詣での記  夜は、舞子ホテル。  着くやいな、諸兄に失礼して、ぼくは先に寝込んでしまった。夜食は、りんごの汁一杯。  だが、その晩は、春海さんの酒盃解禁という妙な私的記念日にあたり、東京からの約束だったので、諸兄が膳についた時だけ寝床を出て、うやうやしく、春海氏に一献お酌をしてあげた。  事の次第は、健吉画伯の写生帖に、名文が書かれてあったから、少々楽屋落ちなれど、それを借用して読者の御不審を解いておくことにする。  六月一日、舞子ホテルにて、雨。  春海さん禁酒満一年、今日解禁の日とありて、吉川先生の色紙贈呈(舌洗の二字なり)の後、祝杯をあげる。その満悦ぶり、鯉の吹流しみたいですな、と川辺さん云ふ。一杯一杯。側で見ていても、実に愉快さうなり。貴重な水が身体の各部分へ公平に配分されつゝあるが如く、また赤くなるにつれ例の愉快なる口吻が洩れ出る順序は、街に号外の行きわたる趣きにも似たり。(健吉、文)  街に号外云々は、健吉さんの文才、絶妙というべきである。もって状景は想像に難くあるまい。  雨は翌日も降りやまず、ぼくの腹ぐあいも、依然、五月雨紀行にふさわしいままである。晴天なら一ノ谷、須磨寺巡りの予定だったが、その勇気もない。午後、春海氏、健吉さん、Kさん、川辺氏など晴間を見て、須磨寺へ出かける。ぼくは懐炉をヘソに当ててむなしく寝て待つ。  惜しいのは、一ノ谷に来ていながら、一ノ谷を踏まないことだが、須磨寺はまず見ずともよしと思う。そして会下山と鵯越えときのうの展望を瞼に、うつらうつら、半眠りの中に、ひとりで幻想をほしいままにしていた。 「小説は小説としてお書きになることもとよりでしょうが、余りに間違いの多い旧来の一ノ谷合戦だけは、どうか忠実に近い裏づけをもってお書きください。『新・平家物語』にそれを期待しているのは小生のみではありません」  これと同様な意味の読者の声を、ぼくは幾通も手にしていた。神戸市史談会の木村省三氏など、わけて熱心な書を寄せられた一人である。  須磨寺へは行かないでもすむように、小説を書くのになにもいちいち実地を見て歩く必要はないともいえる。けれど、どんな史書を読むにも増して、そこの土壌を踏んでみることの方が、ぼくには創作の力づけになる。また発見があり、自己の構想と落筆に信念を加えることも出来るのだった。  ところが、自分の不摂生のため、せっかく案内の任に当って下すった川辺氏にも、杉本画伯や春海局次長にも、なんとも張合いのないお心を煩わせたし、特に読者諸氏には、二回にわたるこんな五月雨紀行で責めをふさぐなどの無責任をお見せしたが、次回からは、多少この旅行でえたところの収穫を生かして、本題の小説を書きつづける。  しかし、お断りしておくが、おそらくそれはなお史実といえるものではあるまい。といって、ぼくは決して単なる虚構を書こうとするものではない。  厳密にいえば、真実などというものは、朝見たことも、晩には違う話に伝わり易いものである。Aの見方と、Bの観察もまた違う。まして、はるかな歴史のかなたのこととなっては、縹渺として、分からないというのが本当なところである。それを追求して、真を解かずにおかないとするのが、史家の科学であり、それを再現して、真に迫るかの如く語ろうとするのが、文芸の徒の妄執である。史家は、物的証拠をもってし、ぼくらは自分の人間性をとおして過去の人間性との官能につなぎを求め、その言動までを描いてゆく。二者、方法はまったく違うが、時には、文学が史学の透視しえない真をものぞきうることもありえないことではない。  べつな部屋で、健吉さんの大声がし始めた。川辺氏、春海氏、Kさん、みんな帰って来たらしい。須磨寺の案内僧は、川辺氏の姿を見、「川辺さんがおいでなら、案内はそちらにおまかせいたしますよ。小説家は歓迎しますが、歴史家はニガ手でございますからなあ」と、笑っていったそうである。  夜雨蕭条──  程なくぼくらの自動車は、神戸駅発の夜行へ急いだ。須磨、舞子は墨のような松風だった。ぼくは時々、氷砂糖のかけらを口に入れ、明朝はきっと東京駅へ迎えに来ているにちがいない香屋子の頬っぺたの笑クボなどを、もう思いうかべていた。(二九・七・一一) 底本:「随筆 新平家」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年10月11日第1刷発行    2009(平成21)年4月30日第8刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年5月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。