私本太平記 風花帖 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 私本太平記 風花帖 野分のあと 東景色 義貞・駁す 網引き地蔵 門 風花 内裏炎上 小公子 第五列 魚見堂 筑紫びらき 勾当の内侍 路頭の子 豆と豆がら 野分のあと  敗者の当然ながら、直義の三河落ちはみじめであった。  淵辺伊賀守の斬り死になどもかえりみてはいられず──敵に追われどおしで、とくに手越河原では残りすくない将士をさらにたくさん失い、今川、名児耶・細川、斯波など一族子弟の討死も幾人かしれなかった。  ついに、ここでは直義も進退きわまったとみてか、 「腹掻き切って、左兵衛ノ督(兄尊氏)どのへお詫びせん」  といったのを、 「何の、ここはお討死のつぼにあらず。いかなる恥をしのんでも、生きてこそ」  と、今川範国のいさめに思いとまって、苦闘に苦闘をつづけ、やっと川を渡りえたとつたえられている。だがこの段はさて、どんなものだろうか。  直義の性格として、めったに斬り死にだの自害だのとは言いだしはしまい。もし事実なら、おそらくまわりの将士にさいごの決意を奮わすための指揮者の血相をみせたまでのものではなかったか。  なぜなれば、彼には、彼の身ひとつ以上な重任が考えられていたはずである。──鎌倉から救出して連れていた成良親王・みだい所の登子・またとくに若御料(尊氏の一子・千寿王)らの足弱をおいて──そうした短気はおこしえないところであった。  また、べつに淵辺をやッて、このどさくさ紛れに、大塔ノ宮を暗殺せしめたなどの、直義がとった処置をみても、惨敗の中でこそあれ、彼はなかなか狼狽などはしていない。次の段階──将来というものにたいして、兄の尊氏以上にも、 「ここは」  と、はや今日の鎌倉放抛を、大望第二期への峠として、独断、思いきった手段に出ていたこととわかる。  そして要するに、彼の胸にあったのは、長いあいだのもどかしさを、宮弑逆の一事にかなぐり捨て、つねに政治的に、またつねにじれったい、兄の態度をして、いやおうなしに明確な反朝廷へとここで引きずりこんでしまおうとする彼一流の強引な腹だったにちがいない。  とまれ、手越河原の難はからくも脱しえたが、矢矧までまだ四十里ほどはあった。──が幸いにも、ところの地頭、入江ノ左衛門春倫の一隊が味方にはせ加わり、どうやら月の末、三河国の矢矧についた。  ここは郷党の地だ。即、足利方の勢力範囲といっていい。直義は、みだい所の登子の身をひとまず一色村へあずけ、また成良親王は、そのまま兵をそえて都へお送りし奉った。そしてひたすら兄尊氏の下向を待ちつつ、また一面、奪回された鎌倉を、さらに再度奪回するの策やら準備におこたりなかった。  一方、都の空では。  つとに敗軍の報がひっきりなしに朝廷へも六波羅へもはいっていた。  まだ、直義の鎌倉放抛とまでは聞えないうちからである。尊氏は、 「あぶないもの」  と、はやくも形勢を察し、みずから赴って、直義を扶けたい旨を、再三、朝廷へ奏請していた。しかるに朝廷では、これにたいして、断じておゆるしを降さなかった。  もっとも、尊氏が朝廷へ願い出ていたのは、ただたんに、 「こと火急。鎌倉は無勢。みずから馳せくだって弟直義をたすけねば」  というだけのものではなかった。  同時に、このさい、  征夷大将軍総追捕使  の印綬を自分にたまわりたいと、あわせて、請うていたのである。だが、 「もってのほかな!」  とする廷臣の強硬な反論のあろうことぐらい、彼が想見していないはずもない。知りつつ持ちだした奏請なのだ。尊氏も引くいろではなかった。  つまるところ、窮極は天皇の御採否一つにかかる。おそらく叡慮をなやまされたことであろう。  征夷大将軍  は武家最上の任である。それを尊氏にゆるすのは、かつての鎌倉将軍家の格式を彼に与え、幕府再建をみとめることにほかならない。  一日一日、日はすぎた。  朝廷はゆるさず、六波羅はうごかず、ただ東の、敗報ばかりが、矢つぎ早であった。  するうちに、鎌倉の放抛、直義の敗走、つづいて大塔ノ宮がその幽所で何者かに殺されたなどの取沙汰も聞えて、都じゅうは容易ならぬ風騒の中におかれだした。  そうした八月一日。  朝廷は発表した。  鎌倉をのがれ出た成良親王をして〝征夷大将軍トスル〟という補任の令である。──これで尊氏もあきらめよう。そしてまた、尊氏の野望をも、これをもって塞ごうという窮余の封じ手だったのはいうまでもない。 「殿は」  高ノ師直はいま、どこからか、馬で六波羅へ飛んで帰って来たばかりである。  例の廂ノ間で、一ト汗拭いて、やがてのこと、薔薇園の書院のうちに、ぬかずいていた。 「いや、その儀は、いましがた、ほかの筋から耳に入っておるよ。かさねて、そちから聞くにもおよばん」  尊氏は言った。いつもの尊氏とかわりもない。  いささか拍子抜けのかたちである。師直は、また出る顔の汗を懐紙でそっと叩きながら、それとは離れて、とっさに言った。 「いよいよ、お腹の決めどきでございまするな。朝廷がわのご態度はさだまりまいたで」 「いまさら何を」  尊氏はうすら笑って。 「そちには、用が多いぞ。いつでも廂ノ間へひかえておるようにいたせ。かかる折、執事のそちがどこへ行っておった」 「てまえならではなるまいかと存じ、佐女牛まで一ト鞭あてて行てまいりました」 「道誉の許か」 「さようで」 「よく気がついた。気がかりはあの男のうごきにある。いたか」 「おりませぬ」 「参内か」 「でもございませぬ。はや佐女牛は無人同様で、昨夜、国元の伊吹へひきあげたと、留守の者が言いおりまいた」 「奴。さすがだな」 「そして、この一書を、足利殿へと、あとの家臣に託して行ったよしにござりまする」  文面を一読、尊氏は苦笑をみせ、それなりで黙っていた。 「殿」  と、師直は膝をすすめ、 「道誉が何を書き残しておりますので」 「見るがよい。──このさい二心なし、と道誉がわざわざこれに証判しておる。そして、わしの東国出勢を、途中の伊吹にてお待ちせんとも書いておるのだ」 「はアて?」  師直はうめいた。誇張したあきれ顔をその下に作って。 「まだ、ご当家の出勢は布令てもいず、朝廷もまた例の、殿がお願いの件を、おきき入れはなく。……いやその奏請は蹴られて、征夷大将軍の任命は、成良親王へご決定と、公布がみられたばかりなのに」 「道誉は早耳だ。すでにその内定を、きのうのうち、知ったのだろう」 「それにしても、殿のご意中もようたださず、伊吹へ帰って、ご軍勢の通過を待つなどという先廻りは」 「よくいえば、機を見るに敏なやつ。悪くいえば抜け目ない横着者だ。が、よかれあしかれ、彼が二心なしといってきたのは、大きな幸せ。……さもなければ、尊氏はここで這奴にのど首をしめられねばならなかった。たとえどう膝を屈しても、道誉の機嫌をとって味方に迎えねば、うごきのつかぬところであったよ」 「ではやはり?」 「師直。きょう中にあらゆる準備をぬかりなくすましておけ」 「ご発足は」 「明朝、あかつき」 「そして、朝廷へは」 「そのままでよい。お届けにはおよばん。再三、お願い出ではしてあるのだ。……のんべんくらりと、御命の降下を待っていたら、東国の様相はそのあいだに一変してしまうだろう。さもあらば、とり返しはつかぬ」  事実、尊氏はいま刻々にそれが案じられていた。  天下の武士あらましは、公家政治に失望して王政ならぬべつな〝何か〟の形態を統一のうえに欲している。──北条残党ののろしが、東国の野でたちまち巨大な火勢となったのも、現状に不平な枯れ草が土壌いたる所にあるからだ。  これは、尊氏として、坐視できない。武士の不平は、彼にすれば、彼のいだく大望の理想楼閣をきずく良材なのだ。味方なのだ。その素地を、北条再建軍にうばわれては、彼の立脚する所はなくなる。  かつは、朝廷としても、ここまできた北条討滅の意義は霧消してしまう。──だからたとえ朝命をまたず無断東征に赴いても、それは天下の御為ともいえるのではなかろうか。  尊氏は、しいて自分の行為に、そう理由づける。  直義とちがい、彼には暴を暴と知ってはできない思慮があった。朝廷度外などの不逞は敢てなしえないのだ。あくまで彼のなかには朝廷への崇敬があり、上への越権は気にかかるらしい。  にもかかわらず、彼は師直へ、無断離京の準備を命じた。  ひとつには、望んでいた征夷大将軍の補任が外れた業腹もあったが、なによりは弟直義を見殺しにはできないとする情があった。分別顔に似ず、情には奔るほうなのである。  明けて、八月二日は、空もようまでが、ただならなかった。颱風期である。どこか遠国で大荒れをしているのだろう。近畿いったいは強風だった。都の朝も雲脚の迅い明滅をしきりにして、加茂川の戦ぎがそのまま大内裏の木々をも轟々とゆすっていた。 「あれ、御簾が」 「蔀が」  と、殿上でも、舎人や蔵人たちが風にもてあそばれ、てんてこ舞いな姿だった。雨のないのがまだ見つけもので、木の葉まじり、大屋根の檜皮までが空に黒いチリのつむじを描きぬいている。  こんなところへの頻々な取沙汰だった。 「朝まだき、暗いうちに、足利の宰相(参議)をはじめ、六波羅じゅうの勢は、東へ立った」 「はや六波羅には、武者らしきものはひとりもいぬと申す」 「総勢千七、八百騎とか」 「いやいや、それが大津越えにかかる頃は、尊氏を慕うてあとより追っかけ加わる勢もおびただしく、いつか三千余騎にもなっていたという」 「いずれにせよ、尊氏は、八座の宰相の身にありながら、君恩もわすれ、朝命も待たいで、無断、東下をあえてしたことは確かとみゆる」 「不忠不逞な臣」 「断乎たる御処分な降されねばあいなるまい」  公卿口の姦しさ。殿上いずこの間でも廊でも紛々たる騒めきである。  公卿ばかりでない。新田、名和、結城などの武臣も、ひっきりなしの参内だった。──わけて千種忠顕は早々に出仕して、上卿の面々とともに中殿の御座へまかり出ていた。 「皇威にかかわります。勅使を立て、尊氏の意をただすべきでございましょう。もちろん、尊氏は理くつをならべ、朝命に畏みますまい。そのさいは、ぜひもございません」  忠顕は言った。  ──義貞をさし向けて討ち取るべきだという意見である。  すでに直義は東国でやぶれた敗残の将、尊氏は六波羅をすてて途中にある無拠地の旅軍、これを追ッて討つのは容易だともいうのだった。 「だがの」  ここは待たれよ、とする上卿たちの声もつよい。彼の無断東下が、さまで不逞不忠な罪といえるだろうか。朝命を待たず戦争におよんだ例は、古来、たびたびある。──後三年ノ役の源義家、前九年のさいの頼義、みなそうだった。──いつ降るかわからない朝命を待っていたら、戦機、とり返しがつかぬ大事にたちいたるからである。  尊氏のこんどのばあい。  尊氏からいわせれば、そうも主張できようか。武士の間には、「軍中将軍ノ令ヲ聞クモ、天子ノ詔ハ聞カズ」ということばすら信ぜられているものを──と、上卿の老公卿は危ぶみ、また、名分の稀薄を指摘するのだった。  こんな論議のうち、いつか午すぎてもいたのに、 「在京の武門、あまたな武士ども、足利宰相のあとを慕い、なおぞくぞくと都を離れ出て行きます」  と、刻々その動揺ぶりは宮廷内へも聞えてくる。  すでにその頃、尊氏は瀬田大橋もこえ、彼の東下の軍勢は、野分の爪あとのひどい稲田を途中に見つつ近江路を急いでいた。 「えらい風」  と、尊氏はつぶやいた。  従う三千余騎もみな風の中である。歩兵はヨレヨレに縒れてあるいた。 「吉良。追い風だな」 「は。西風で」 「舟にも似て、風を負って行くゆえ、駒も軽い」 「得手に帆とやら、お門出は上々吉です。が、野分のあとを見てくると、東へ行くほど、荒れがひどいようですが」 「途中、崖なだれや出水のさまたげに会うかもしれん。……しかし従う面々がこの意気なら何ほどのことでもない」  尊氏が「意気」と言ったには、ふくみが聞える。  吉良貞義は、ふと他の面々を見まわした。  高ノ師直、桃井直常、一色右馬介、引田妙源らはべつとし──自分をはじめ、仁木、畠山、斯波、石堂、荒川などの一族輩はみな例外なしに、尊氏が弟直義を案じる思いと変わらぬものを胸に持っていた。  なぜならば、その誰もが、兄や弟や、我が子らを、東国の空においていたからで、  生きているやら?  はや死者のかずか  と、口にこそ出さないが、急へ赴く悲壮ないろが、しぜん、たれの眉にもあったのだ。  行く行く兵は増すばかりで、翌々日、近江番場へかかったとき、引田妙源は尊氏へ 「お供の軍勢はもう四千をかぞえまする」  と、告げていた。  在京の武門のほぼ三分の一は尊氏を慕って従いて来たし、土地土地の無主無名のやからも、腹当一つに柄もほつれた腰刀や、古長巻など引っかかえて、十人二十人の徒党で「──足利の宰相が御東下の端に」と、陣へ投じて来るのであった。もとより深い頼みにはならぬ烏合だが、ばかにならない数にはなる。  やがて、不破ノ関は近い。柏原ノ宿場だ。ここには約束の佐々木道誉が、約をたがえず、自軍を立て並べて待っていた。  尊氏の姿を見ると、道誉は、宿場の一陣屋から立ち出て来た。そしていつもの倨傲な彼とは別人のように、腰ひくく、 「御着。お待ち申しあげておりました」  と、臣礼をとって、 「軍旅のお疲れもやと、あれにご休息の用意をさせおきまいてござりまする。……いかがでしょう。しばしお憩いあっては」  と、誘いかけた。 「いや」  と尊氏は、鞍上のまま。 「知っての通りだ。直義の安否も気づかわれる矢さき、このまま行こう。御辺もすぐつづいてまいられい」 「もとより伊吹の手兵一千、挙げて参陣の心ぐみで、これにひかえておりましたなれど、寸時、彼方の陣屋の内で、このさい会うてお上げなされてはいかがなものと愚考しますが」 「会うてやれと? 誰に」 「ご一子、不知哉丸さまに」 「…………」 「また、藤夜叉どのとも。……いやその藤どのは、名をかえて、いまでは越前ノ前と申しあげ、以後ずっとお変りなく、伊吹の城に、今日を待っておられました。ひと目会うておあげなされませぬか」  尊氏はふと胸をさいなまれた。  なろうなら目をふさいで過ぎてしまいたかったものを──その罪業の形見みたいな者たちへ──苦い想いを余儀なくされていたからだった。  道誉の言によれば。  藤夜叉は、越前ノ前と名をかえて不知哉丸とともにつつがなく伊吹の城にいるという。あれいらい三年になる。不知哉丸もはや十三か。  その母子をわすれているどころか尊氏は自己のおかした罪業のつぐないをいつかは果たさねばならぬものとして日頃にも悩んでいた。けれど実の子や妻とも一つにいられぬほどな時局だった。大望の達成までは、家庭や身辺の犠牲はやむをえないとあえて顧慮から忘れようとしていたのである。彼はわざと非情を顔に作って道誉へ言った。 「いや、御辺の親切気はかたじけないが、この日において、申さば、つまらぬもてなしというものよ。さし措いてもらいたい」 「では、ご対面は」 「いたすまい」 「ふたりは、がっかりするでしょう。ここを御通過ときいて、ひそかにお会いがかなうかと、愉しんでいたふうですから」 「いまはそんな時ではない。いかに先をいそぐ身かは、御辺がよくわかっているはず」と、言い捨てた。そして「──妙源いるか。引田妙源」  と、ほかを見て呼び、軍の編成について早口にいいつけた。 「ここから加わる佐々木の伊吹兵一千は、二の備えに組み入れろ。──道誉。すぐ行くぞ。二の陣について来い」  軍命として言った彼のことばは、個人を超えたひびきで、もうそれに、私事をさしはさむ余地などなかった。従来の佐々木道誉も、麾下の一部将としてしか扱っていず、またそれ以上には眼の中においてもいない尊氏なのだった。 「はっ」  と、道誉は唯々として去って、中軍から次の隊伍に加わった。それの編入にやや手間どったが行軍はすぐつづけられ、前隊はもう不破ノ関を通過していた。  その間。おそらくは不知哉丸と越前ノ前は、柏原の陣屋のほとりか、寺院の門の蔭にでもいて、よそながら尊氏の通過を見ていたかもしれなかった。しかし尊氏の眸にははいらなかった。またその眸は、それをさがしていたような風でもない。  美濃路──  尾張平野  道をひがしするほど、過ぐる日の颱風が、東国寄りの地方であったことがわかる。  行軍は、出水のあとや、まだ水カサのひかない川の渡河になやんだ。が、ようやくのこと、京都発足いらい七日目の八月八日、三河国に着いた。 「お見えか」  待ちかねていた直義は、矢矧の陣所から八橋まで出て、兄尊氏の全軍を迎えた。  相互、無量な感であったろう。「梅松論」がいう──当夜、矢矧ニ御着アツテ、京都鎌倉ノ両大将御対面、久々ナル御物語リ、尽クトモ見エズ──とある一条の短夜は、こうして、あわただしいまにすぐ白む。  そして翌九日。尊氏、直義の兄弟軍は、もうそこを発して、ただちに鎌倉へさしていた。  鎌倉を奪りかえした北条遺臣の寄合軍は、統一上、  御先代の軍  と、みずからを称えていた。  その先代軍は、 「必定、敗北した直義の次に来るものは尊氏!」  と見、うらみかさなる尊氏、目にものみせんと、遠江からひがしの要所要所に陣地を構築して、備えには、おさおさ怠りなかったのである。  だが、先代軍の大将、名越式部大輔がまず、橋本(浜名湖附近)の序戦にやぶれた。つづいてまた敗れ、その総なだれを初めとして、  佐夜の中山合戦  駿河の高橋縄手(興津附近)  箱根越の山いくさ  相模川渡河戦  片瀬、七里ヶ浜  鎌倉口  と、敗走に敗走をかさねた。足利方は、要害七ヵ所七度のたたかいも、ついぞ負け色をみせず、行くところで勝ち、十九日、尊氏の馬は、もう鎌倉の内へ突き入っていたのである。  連戦わずか十日だった。この迅さ強さにみても、このときの足利勢が、いかに気鋭新鮮な、いわゆる風雲児の下に引率された軍であったかが察しられる。  道誉でさえも。  といってしまうと、彼は弱い凡将のようだが、彼の天分は別な面にあって実戦場ではむしろ狡将と呼ぶべき方の者だろう。その道誉でさえも、このときばかりは必死な目にあって働いた。いや働かされたといってよい。  それは、相模川の合戦の日であった。  敵は、遠江から退いた名越式部の死にもの狂いな兵を中心に、伊豆の伊東祐持や、三浦、諏訪などの新手を加え、頑強にふせぎ戦って一歩もひかない。  このとき、尊氏が、 「ここはよい。ここはよいから上野(太郎頼勝)の隊と、仁木(三郎太義照)の隊は、川の上を乗り渡せ。また、佐々木(道誉)の隊は下流を渡って、無二無三、対岸の敵の腹背に出ろ」  と、軍令した。  これはきつい令である。決死隊にほかならない。  道誉は心で、ほかに足利譜代の将も多いものをと、 「ちッ」  と、思ったがぜひもなかった。馬筏を組んで、敢然たる渡河戦の先陣を切った。もとより河中では矢ぶすまを浴び、対岸へ斬りこんでからも、たくさんな犠牲を出したのはいうまでもない。  従軍はしても、彼は自分が子飼いの伊吹兵は、これを極力大事にして、武功と取り換える消耗はつねに巧く逃げている。 「……尊氏め、それを知って、おれを今日の難場に使ったな」とは思ったが、しかし彼の上には勝鬨が沸いていた。悪感情もたちまちそれに吹き消されていた。  こうして彼は、今川頼国と並んで、海道下りの二大将となり、鎌倉口まで先陣をつづけたが、しかしその道誉には、上野と仁木の二部隊が付いていた。軍監として、彼を督戦していたのである。  とまれ、鎌倉はまた、足利方の下に回った。  先代軍の脆さは案外というしかない。北条時行以下、各地へ四散し、ふたたび元の残党境界の陽かげにひそんだ。この先代軍が鎌倉を占領していたのはわずか二十日間に過ぎなかったので、世上これを「二十日先代ノ乱」といった。 東景色  これで、鎌倉の地は、高時いらい、わずかな年月に、四たび主をかえたことになる。  義貞  直義  先代軍の北条時行  そして、今からはまた、尊氏が事実上の「鎌倉殿」たる座にすわった。  さきに直義がいた二階堂御所は手ぜまなので、さっそく、若宮小路に新邸が造営された。といっても全体の落成ではない。とりあえず一部を普請し、あとは昼夜兼行の鑿や手斧の音だった。  人々はそこを、いつか、  大御所  と呼んだり、将軍御所といったりした。そして直義の二階堂の営はたんに〝下御所〟といいならわした。「鎌倉大日記」に──尊氏ノ鎌倉ニ入ルヤ、自ラ征夷大将軍ト称ス──などとあるのは事実でないし、世間から観た彼でもない。  世上ではこんどのいきさつを知っている。  なるほど尊氏は将軍宣下を求めていたが、朝廷はそれを拒否して、他の宮へ征夷大将軍を与えてしまった。のみならず、朝議はその後、おかしな叙任を尊氏へ贈っていた。  尊氏が、無断、都を発したあと朝議紛々の結果ではあろうが、追っかけに、彼が矢矧についた日の頃、  征東将軍ニ補ス  との沙汰をとどけていたのである。征夷大将軍でないべつな官称だ。これなら尊氏が幕府を再建するものとはならない。しかも似ている。という姑息な慰撫であったのだ。尊氏は笑っておうけしたが、直義はあとで、なぜ御返上しなかったかと、ひどく腹を立てたことだった。  だから、似て非なる征東将軍でも、将軍御所にはちがいない。また大御所と呼ぶのも不当ではなかった。けれど尊氏はそんな実のない敬称によろこんでもいず、また無頓着なほうでもあった。そしてこのさいは、諸将の功にむくいる行賞などの方にむしろ興味があったらしい。彼は、尻尾を振ってよろこぶ者を見るのが第一の好きらしく、余りに気前がよすぎるほどだった。それが過ぎて、すでに朝廷で没収していた旧北条遺領や、新田義貞が受領した土地までを、麾下の将につい頒けてやってしまったほどである。直義をよく叱るが、やり過ぎは、彼にもある。  それと彼は、降伏者には寛大だった。──直義はきびしい。峻烈に斬る者は斬る。──だが尊氏の耳にはいると、いつも彼がなだめる方にまわっていた。たいがいな旧怨も忘れ顔で助けてしまう。先代軍の余類からも少なからぬ降人があったなどは、しぜんそんな風評が武士間にあったからにちがいなかった。  こうしたうちに。十月。  都からは、ゆゆしい勅使の下向と聞えてきた。やがて、詔を奉じてきた御使は、中院ノ源中将具光で、こういう朝命の降しであった。 「東国の逆乱もすみやかな静謐を見、相共によろこばしい。さっそく将士の軍功の施与は、綸旨の下に、朝廷で宛て行うであろう。されば尊氏には、一日も早く帰洛し、六波羅にもどって、逐一の報告を親しく上聞に達しおわられよ」  時局も時局である。しかも、勅の旨は、  尊氏みずから、すみやかに、上洛あるべし  という厳命だ。  勅使中院ノ具光は、おごそかに尊氏へ伝達してから、個人的なくつろぎに返って、 「いやなに宰相。即答はごむりであろ。何かと周囲むずかしい御多端も拝察に難くない」  と、言い足した。そしてまたいうには、一族間の御協議などもおありであろうゆえ、両三日のことなら逗留してお待ち申すもよい。とにかく、明確なご返辞をえて帰洛したい、と釘を打つのだった。 「こころえてござりまする」  尊氏は、旨を拝した。  それなり沈黙におちている。──熟慮のうえでともいわず、即答したことでもない。  中院ノ具光がじっと観るところ、なにさま、尊氏の心中は困惑そのもののようにうかがわれる。くるしげな彼の立場と腹の中が鏡にかけてみるようにわかる気がするのであった。  ややあって、尊氏は、こころもち胸をただした。  さしうつ向いていたうちに、その苦渋を顔から除っていたのか、はしなく具光の眼と見あった眸は、細ッそりと笑みを描き、頬の薄らあばたまでがこの人特有な茫とした愛嬌をたたえて、何の屈託顔でもなかった。 「いや両三日が間は、旅のおつかれを休め、まためったには東国への御下向もありますまいから、鎌倉あたりの御見物もなされませい。……それにせよ、尊氏が返答如何にと、重き御使を胸につかえておられたのでは、心から東景色もお楽しみのお眼には入るまい。その儀はどうぞ御安堵あって」 「では」  と、具光は意外そうに。 「お召には、否やなく、ご承諾と仰せられるか」 「勅。なんで否やがありましょう。さきごろ、みゆるしも待たず、急遽、六波羅を出てまいりましたのも、もしその果断を取らなかったら、今日の勝利もなく、尊氏は弟直義を失い、都は北条遺臣軍の包囲を見、天下の再乱、君のおん大事は必至と、憂えられた以外、何の私心でもございません」 「ごもっともじゃ。さればその儀については、君もさらさら、お咎めではおわしまさぬ。そればかりか、其許の功を嘉せられ、征東将軍の称を贈って、宰相の心をなだめようとさえしておいであそばす」 「もったいないことでした。不肖尊氏にたいする君の御優遇には、いつも心のそこからありがたいとおもっております。乱麻の時代、権謀の多い君臣の内外。時には、叡慮にもそむき、また時には、お気にくわぬ自恣もあえて振舞う尊氏にはござりますが、正直申せば、僭上ながら自分は当今のみかどを、比類なき英君なりとあがめておる。そして主上もこの尊氏をかくべつお目かけて下されいるものと、鴻恩、忘れたことはありませぬ」 「ううむ、おことばのまま、ようおつたえ申しあげよう。いかばかりおよろこびか」 「されば、御使なくとも、夙にわれから上洛すべきでしたが、戦後なお鎌倉は乱離の状です。なにとぞ、ここ数日のご猶予をばお願い申しあげまする」  勅使の中院ノ具光は、 「これで安心いたした」  と、ひとまず宛てがわれた饗応屋敷へ引きとった。そして尊氏からは、  いつ上洛するか  の日取りを、数日中に答えることになったのだった。そのあいだの饗応役は、高ノ師直。これは適任であったろう。  がしかし。勅使下向のその日から、どことはなく全足利党は殺気立っていた。朝廷から何をいって来たのか。その難題とは何か。そこの饗応屋敷をめぐって険悪な臆測をさまざまにし、あたかも敵国の軍使でも迎えたかのような反抗気分さえあるのだった。 「万一でもあっては」  と、尊氏は上杉憲房をして、勅使の宿所から一町四方を警固させた。それほどな動揺の中にであった。 「あとはたのむぞ」  と、尊氏は今、大御所の広間に居ながれた一同へ向って、 「ぜひなく自分は、勅を畏んで早々に上洛いたす。君もお待ちかねとの勅使のおことば。何はおいても、罷らねば相なるまい」  と、言っていた。どうしようと諮る評議ではない。決意を告げ渡していたのである。 「…………」  弟の直義。  以下、細川和氏、仁木、今川、一色、畠山、斯波などの重臣から、そして佐々木道誉までが、たれひとり尊氏の言をそのまま胸にうけ容れたらしい顔つきでない。沼のような沈黙がつづくだけだった。こうなると直義以外には一族の気もちを率直に口に出せる者はなかった。 「宰相」  と、彼も兄弟としての馴れなどはどこにも示さず、重々しく、その頭を下げて。 「仰せではありますが、このさいの御上洛などは、もってのほかと存じられます。何とでも辞を構えて、ここはお断り申し上げておかれますように。……一同もひとしく同じ憂いに相違ございませぬ。いや、問わずもがな。揃って、お見合せのほどを、こうお願いつかまつッておりまする」  すると尊氏は、 「いや」  と、刎ね返すように、きっぱり言った。 「そうはまいらん。ほかならぬ勅のお召、またも違勅をかさねては畏れ多い」 「ですが」 「ならんのだ、そこが」 「そこがと仰せられますが、しかし、時にもよれ、勅にもよること」 「直義」 「は」 「一同へも、かさねていう。すでに拝諾の旨は、勅使へお答え申しあげてしまったのだ。──時も時なる危うさは、尊氏とて、知らぬはずがあるものか。上洛なせば、堂上こぞって尊氏を指弾し、身の申し開き如何を問わず、万々の御譴責はあるだろう。……が、わしは天皇の御寵恩にそむき奉ることはできぬ。このまごころをもって咫尺にお訴え申しあげてみるつもりなのだ。おそらくは君もおわかりくださることと思う。……な、直義。また一同もそれの結果をおとなしく待て。かまえて妄動しては相ならんぞ」 「では、どうありましても」 「む。上洛は変更し難い」 「いや私どもは、何としても、お止めせいではいられません。断じてお止めいたしまする!」 「いうな、直義」  尊氏は叱った。  だが。直義が黙ると、仁木、今川、細川、みな口を揃えて、 「何とかお考え直しを」  と、上洛の危険を説き、尊氏の決意を諫めてやまなかった。  佐々木道誉も、おなじ見解で、 「このさい、もしご上洛あらば、必ず義貞の要撃をうけて、天皇への御拝顔をとげる以前に、千種忠顕らの罠におちいるものと、お覚悟あらねばなりますまい。なぜなれば」  と、ここで彼は知るかぎりな公卿間の内情をかたった。在京中には、千種や新田とも、つきあいよくつきあっていた道誉である。そのことばには、耳をかしていいものがある。  すでに、尊氏要撃の企ては、大塔ノ宮いらいの根深い計であり、今とて変更されているはずはない。むしろ、宮の遺臣やその勢力は、義貞の下に編入され、打倒尊氏の計画は、義貞を中心に一ばい強大になっているだろう、と道誉はいう。  そのほか、幾多の悪条件をかぞえて、極力、道誉も諫止した。けれど、尊氏はいぜん、うなずく風もなかった。──ただ一ト言、考えてみる、といっただけである。そしてかえって、留守中のさしずなどして一同を退がらせた。 「なにとぞ、ご賢慮を」  ぜひなく、一同は退出まぎわの一言に一縷をつないで退きさがったが、しかしこれで安らげるはずもない。その夜、またあくる日と、この面々は直義の下御所に寄合って、どうしたら朝廷の難題をのがれうるか、また、尊氏を思い止まらすことができるか、直義を中心に、鳩首、談合の様子だった。  その果てとみえる。  直義はただひとりで、一夜、下御所から兄の大御所をおそくに訪ねた。 「はやおやすみの時刻、あすにゆずろうかと思いましたが」 「いやまだ寝るにはちと早いから頼春(細川)を相手に碁でも打とうかといっていたところだ。そちが来たのなら酒でも酌もうか」 「いえ、ちとおはなしもございますから」 「なんだの」 「そのご、何かよいお考え直しがおつきでございましょうか。直義もそれのみが苦慮され、一同もひたすらお案じ申しあげている次第ですが」 「上洛の件か」 「はい」 「あれなりだ」 「あれなりとは」 「鎌倉の留守の方がむしろ心配でな。ご勅使への返答も迫っておるが、出発の日取りだけがつい決めかねておる」 「兄上」 「なんだ」 「ではまだお迷い中なので」 「迷ってはいない。一同の案じるところもよくわかっているが、勅命、畏んで行くしかない。上洛ときめているだけだ」 「ばかな!」  直義はついに張りつめている胸のものを破って、兄の、まともに瞠った眸へ向って、挑みかかった。 「勅が何ですっ、勅が。勅とあれば兄者には、そんなにもありがたいのか。そむけないものなのか。兄者は近頃、どうかしてしまッている!」  尊氏は、屹と、きつい厳しい顔をしてみせた。 「…………」  ものはいわず、それはただ兄の顔になりきっている。  これにぶつかると、直義は幼少からの習性に抑止されている平常の屈従感から、別な〝弟の反抗〟が抑えようなくむかっとクビをもたげてくる。  直義にはつねに、公の兄なる人と、私の兄とが意識無意識にくべつされていた。──今夜この室にはたれもいない。──直義の感情は丸裸なものになれと内からささやかれている呼吸づかいなのである。兄弟にして一人にひとしい骨肉感が濃厚に彼の血のうちで何をいおうと恐れはないような勇を想起させていた。  がしかし、一瞬だけの反逆だった。いつまで、ものもいわぬ兄の眼に、直義はつい気を崩した。そして位負けみたいな卑屈にすぐ妥協しかかる自分を腹だたしく厭いながらも、 「兄者。……思い出してください。直義は鑁阿寺の置文を今とて夢にも忘れてはおりません。兄者には、いつかあれを、お忘れではないのですか」  と、ことばを直した。自分の激血と兄の反射とをなだめ合うつもりで強いて低く静かに言ったのだった。 「おたがい、いつか年をとりました。都の風にも吹かれ、一門三十二党それぞれに家運を伸ばし、わけて兄者は、正三位左兵衛ノ督に叙され、八座の宰相(参議)の御一人にも挙げられ、殿上人の列にも列せられてみると、置文のお誓いなど、自然お心からうすらいでしまうのは、人情自然かともぞんじますが、しかしそれでは一体なんのために」 「直義、直義……」 「いやもすこしいわせてください。そんな小さい望みのために。そ、そんな小成に安んじるくらいなら何も」 「過ぎるぞ、口が」 「いいや、先祖家時公の置文などを御一門に誓わせたり、またこれまで、あらゆる恥に耐え、多くの者を奮い死なせ、その秘事のため、私はいまにいたるも妻を持たず、兄者は妻子はあるも妻子と一つに居ることもないなどの苦労は何もすることはなかったはずです」 「だまらんかっ、ばか」  ついに、苦しいものは、彼よりは尊氏を耐え難くして来た。尊氏もとうとう公には吐かない語気で弟を呶鳴った。 「直義。きさまこそ少しどうかしておるぞ。それしきのこと、きさまから聞くまでのことはない。ちと、あたまを冷やせ」 「どちらが」 「なにっ」 「われらの大望はまだ中途でしょうが。だのに、はや公卿なみの優遇ぐらいで骨抜きにされ、勅とあれば理非なくありがたがる兄者なのでは情けない。直義は一同に代り、その晏如を醒まさいではなりません」 「だまれ。青臭い広言をば」 「お叱りは何とうけてもいい。かくなる上はだ。──兄者っ」 「なんだ、その眼ざしは」 「僭上ですが、今日、勅使の方へは、尊氏事上洛つかまつらずと、兄者に代って、いや足利三十二党を代表して、直義からお断り申しておきました。勅使は明早々に、帰洛のはずです。もう御断念のほかはございますまい」 「な、なに」  尊氏はせきこんだ。あきれ返った態でもある。穴のあくほど直義の顔をみて。 「き、きさまは、この兄をさしおいて、直々、勅使へさような無礼をお答えなどして、わしを窮地へおとす所存なのか」 「なんで。ばかな!」  直義は言い放した。もう腹をすえた眉なのだ。  位置を変えて、弟が逆に兄へ食ッてかかるときの盲目的な顔を見ては、その暴言の底のものに、尊氏もはっと怯まずにいられなかった。その常軌のワクにしばられている兄へ、弟はなおさら果敢だった。 「そこがあなたの頭がどうかしている所だ。兄者を待つ窮地とは京都のことでしかない。そんな危地へわれらの棟梁をやってはならん。断じて、上洛は阻止すべきだと、一族どもは寄り寄り憂えているのですぞ。その憂いを負って、私は勅使にきっぱりとお断りを呈したまでだ。それが何で兄者を陥すことか!」 「ああ、きさまもまだ依然むかしのままな青侍だったか。浅慮者めがッ。これでまず九仭の功も一簣に欠いてしもうたわ。思えば、きさまの如き無謀小才なやつを大望の片腕とたのんだなどがすでに尊氏のあやまりだった。返す返すも残念な」  尊氏は一歩自分を内省に退いている。ここで弟と争ったら全足利党は真二つに割れる。必死にことばを抑えている風なのだ。が、直義にはそれも弟への揶揄に聞えた。 「これやおかしい。すべてを直義の小才や無謀のせいになさるが、兄者はどうだ! その兄者はもう公卿風の毒に魅せられて、苦難の大業よりは、いまの栄位に小さく安んじていたいのだろう。大望に魁て死んだやからこそ不愍なものだ。幾多の将士の白骨は浮かばれもしまい」 「ちと、おちつけ、直義」 「この私が」 「よく聞け。そもそも、われらの望みとは、そんな易々たる道ではあるまい。第一この国では、逆賊朝敵とよばれたら大事を成すなど全く望めぬ不利となる。またあくまで朝廷は朝廷としてあがめおくのが尊氏の本心でもあるのだ。そこがきさまらには分っておらぬ」 「分りません! てんで分りませぬ! どうして朝廷をそう恐がるのか」 「ちがう。尊氏の意はちがう。どうなろうと、天皇はやはり至上の上にあがめおきたい。この国の美だ、また要だ。もしそれをなくしたら、さなきだに俺が俺がの天下は、のべつ乱麻乱世のくりかえしだろ。それを恐れる」 「それなればだ、なぜ大望などいだいたのか。初めから矛盾でしょうが」 「いや矛盾でない。頼朝公はそれを成しとげた。いやもっとよい武家統治も不可能ではない」 「ちッ、それで兄者の夢は夢とわかった。幕府を廃し、武家を政治から無力にし、すべてを天皇の下に帰すというのが後醍醐の一貫した御方針。いや王政としてじっさいにもう布かれている。それをその朝廷も崇め、また武家統治の再興も見ようなどとは、元々出来ない相談だ。矛盾も矛盾、いやはや、ばかげきっている!」 「直義。いかにとはいえ、下種の喧嘩ではなかろうぞ。雑言はやめい!」 「やめます! いう気力もありはせぬ。痴人の夢には、もう、がっかりだ」 「そちは大望を矛盾といったが、朝廷を上に崇めることと、武家政治をもつこととは、矛盾しない」 「もうお説諭はたくさんだ。頼朝公の時代とは時がちがう。あのころは後醍醐の御代でもなし、朝廷でも、王政一新などを世に布いてはいなかった」 「だからこそ、尊氏はひたすら機を待つに如くなしとしていた。自然、御心が、人心の望まぬ王政の非をさとられる日を、気長に待つの腹でおった。しかるに、きさまと来ては、短慮だけの者でしかなく、事々に先ばしッて大望の道を邪げ、それのみか、この兄を叛逆者の名に追いこみ、大事の達成を、われから進んで打ち壊している」 「はて。いつ私が足利党のめざす希望をさまたげたろう。また、ぶち壊したと仰っしゃるのか。いくら兄者でも聞き捨てならん。これまで戦場の犠牲としてきた多くの白骨に対してもだ。兄者ッ、自分の卑劣を弟の私にかぶせて、それでお気がすむのか」 「ではいうが。直義。きさまはまだこの兄にさらと打明けぬな」 「何をです」 「大塔ノ宮弑逆の不逞をあえて犯したことだ」 「いやお耳には入れてある」 「それは一片の報告にすぎまい。部下の淵辺とかをやって、このたびのどさくさ紛れに、殺せといいつけたのは、ほかならぬきさまではないか。下手人は汝直義なのだ。それをば今日まで、あからさまに、そうとは告げず、ただ鎌倉放抛のさい、何者とも知れぬ者の兇行であったかのごとくぼかしておる」 「おお、ご存知ならいってしまおう。いかにも私が命じてやらせた。直義こそは下手人と世上から指さされても私はいい!」 「たわけめ。何でさような暴をむざとしたか。非情、無思慮、それで一軍の将といえるか。言語道断、いつかは、きさまを罰しずにはおかぬぞ」 「これは異なお叱りだ。私心私怨のように仰っしゃる。だが直義の心は、未来恐るべきあの宮はかかるさいにこそ除いてしまえ。きっと兄者も腹の中ではよろこぶに違いない。そう考えていたしたものを」 「だまれ。かりそめにも至尊の御子。しかも陪臣ずれの無慈悲な刃で殺し奉る法があろうか」 「では、女奏の讒を用いて、宮を初雪見参の夜に、陥れたのは誰ですか。兄者、あなたの計ではないか」 「…………」 「それだ。そのように、あなたのすること、いうことは、すべて矛盾だらけなのだ。尻尾と頭とが一つでない。道誉を鵺というが、兄者こそ上手をこす大鵺だわ!」 「こやつ、止めぬな、悪口を」 「いうまいとしても、こよいばかりは直義も」  と、直義は眼のうちのものを煮えたぎらせた。ふと幼少の頃そっくりな顔にみえる。せつな、尊氏はいきなりその弟の頬をピシッと烈しく一つ撲りつけていた。 「いえッ。いくらでも申してみよ」 「打ちましたな、兄者!」  尊氏にもままかっとなる性情がなくはない。  そこもまた、直義からいわせれば、〝矛盾の人〟であるのだろう。けれどそれを外に出したせつなに彼は後悔する。いまもそうであった。弟を打つには打ッたが、とたんに胸は凝縮の痛みをしていた。そしてもう半分は理性の自己にもどりながらも、 「オオ打った。まだいうなら、いくらでも打つぞ」  と、怒った眼だけはそらさなかった。 「…………」  直義は蒼白な顔に鬢の毛を垂れていた。とっさに、あらい感情を吐きそこねて、かえって、打たれた自分を憐れむようにしゅんと色を沈めている。そして、静かに、曲がった烏帽子の緒をむすび直すあいだに、薄い自嘲と度胸をすえた太々しさとを、どこやらにたたえていた。 「兄上──」兄者とはいわなかった。「ついまたあまえて、言いたい放題を吐きすぎました。ご折檻は身にこたえる。お気のすむまで打ってください」  救われたように尊氏もすぐ顔を解した。 「いやおれも大人気ないわ。そちと二人だけでいると、とかくわがまま同士になりやすい。そのくせ兄のおれの中には亡父のおもかげや先祖の遺言などが常住無意識に住んでいる。それを直義にまで水臭くされるとこれまた淋しい。そこらが尊氏の矛盾だろうよ。だがどう争ッたところで、しょせん二人は兄弟なのだ。かんべんしろ、弟」  こういわれると直義は口ほどもなかった。ほろッと涙をこぼした。  尊氏はそのとき、その眸をじろっと斜め後ろへやった。近侍の細川頼春だろう。主君同士ふたりの争いを心配して、廊のそとにかがまっていたらしいが、すうと退がって行った気配である。尊氏はすぐ言った。 「な、直義。とかく口論してみても始まらぬ。大塔ノ宮弑逆の一事も、勅答の一条も、はや、やってしまった後のまつりだ。いまさらどうなるものではない。またそちの悪意でもなく、みなこの尊氏を思ってしてくれたことではある。このうえはあとの思案だ。が、その思案には」  と、尊氏は襟もとに顔を埋めて、 「……いささか、わしも途方にくれる。さてどうしたものか」  と、つぶやいた。 「いやその儀なら」と、直義は初めからの覚悟のていで「──すべての悪名は私が着ます。いかなる難関にも身を以てあたる所存ではおりまする。がただ一つ、兄上の胸底には、いまなお、鑁阿寺の置文が、お忘れなくあるのかないのか、それだけが」 「気がかりか」 「気がかりです」 「はははは」尊氏は、初めて笑い出して。「見損うな。殿上の衣冠などは雛人形でも着る。また、すでに白骨となった者、生ける一門の族党、ましてそちまでを、裏切っていいものか。尊氏はそちたちが観ているよりは、ずんと欲望の深い悪党なのだ。わしが仕尽くす業はこんなことでは終るまい。頼朝公ですら、さしも死際はよくなかった。この尊氏もそれには似るかもしれん。……それでの、そろそろ後生を心がけたい。ここでしばらく仏門に入りたいのだ」 「えっ、仏門に?」  本気かと、直義は疑った。  だが、あいまい模糊な尊氏の顔はまた笑っていた。 「いや謹慎のためにだよ。近日中にわしはここの将軍邸を捨てて、寺へ移る。身はそのままな俗尊氏だがの」 「どうして急にさような思い立ちを」 「なんといたせ、大塔ノ宮を殺めまいらせたことは申しわけない。下手人淵辺には科もない。当然そちの犯した逆罪だが、この尊氏も同罪たるはまぬがれ難い。かたがた、上洛も拒否し、違勅をかさねたうえは、寺へでも籠って心からな詫びを、朝廷及び世上へ、かたちで示すしかみちはなかろう」 「では、しばし仮の?」 「そうではない。また兄の矛盾よと笑うだろうが、本心、宮の御菩提も弔う気だ。むごたらしいご最期をお遂げさせた。尊氏の強敵たるには違いないが、もはや無力なお人なりしを、さまでにはせんでもよかった。いや、直義、またそちを責めるわけではないぞ。いわば後生の怖れか。ふと夢枕に宮のすさまじいお顔を見た夜もあった。ともあれ、わしは寺へ移る」 「あとは」 「そちがやれ」 「軍も諸政も」 「一切ここはそちに委す」 「かまいませぬか」 「ただしわしが今夜言ってきかせたことだけは以後踏みはずすな。八幡、尊氏がこよいの言に偽りは持たぬ。何事もその辺を考えてやってくれい」 「ですが、朝廷の御目標と、わが足利家の大望とは、まったく相容れぬ逆です。出来るでしょうか、その両立が」 「できる」 「むずかしい」 「もとよりやさしくはない。百難もあろう」 「ですが、朝敵となるのをひたすら怖れてばかりいた日には、大事を成すなど思いもよらぬ難事ではありませぬか。いくら委すと仰せ下されても」 「時運はたえまなく動いているのだ。そうこだわるな。眼前の事態にのみ固着した頭脳では手も足も出せはせぬ。──やがて勅使も帰洛のうえには、何かの変も生じて来よう。打つ手も自然出てくるものだ。尊氏もここしばらくは静観しよう」  やがて、両三日後に、はやこのことは実現された。  尊氏は、細川頼春、一色右馬介らの近習小姓わずか七、八名を身につれただけで、突然、  蟄居する  の旨を内外に触れ、浄光明寺のうち深くに籠ってしまったのだった。  いきさつは直義とおもなる者しか知るところでない。一門の族党は大きな驚愕に打たれた。しごく単純な武者ばらでもある。彼らは主君の謹慎のすがたをそのまま信じた。理由なく傷んだり何かへ憤慨したりした。そして一時的ではあるが、鎌倉は冴えない景色のうちにあった。  勅使、中院ノ具光は、すでに帰洛の途にあったが、これらのことも海道では早耳に入れていたにちがいない。  彼の見た〝東景色〟はそのまま朝廷へ復命された。──尊氏勅ヲ奉ゼズ──は、なかば予期されていたものの、いよいよ事実化されると、あらためて衝動は大きかった。朝敵尊氏ということばは、宮中公然な声になった。 義貞・駁す  連日の公卿僉議である。そのふんい気といい宮廷内の緊張は、かつてのどんな時局にも例をみないほどだった。 「もはや僉議の要はない!」  この声は最もつよい。また多い。  彼ら若公卿はいう。 「尊氏の反逆は、すでに歴然といえる。それなのに再度の勅を奉じさせて、法勝寺の慧鎮上人をさし下してみたらなどという儀は、あまりにも手ぬるすぎて、彼を増長せしめるばかりか、賊に軍備をかためさせる余日を与えるだけでしかない」 「かつは御威光にかかわろう。朝廷に人なく軍威なきにも似る」 「それはすぐ在京武者に弱味をおもわせ、いたずらに去就を迷わせる悪結果をよぶ」 「すでに、足利の叛旗とみるや、諸家の武門を脱走して、ぞくぞく、鎌倉さして行く兵も少なくないとか」 「いや、それは憂えるほどなことでもない。事態の急に、京から鎌倉へと、身の処置をきめて行くのもある代りに、また都に祗候の主筋や縁故を持つ輩は、これまたぞくぞく、東国から京へと急ぎ、海道はそのため、西ゆく者、東する者、櫛の歯を挽くが如しじゃと、いわれておる」 「いずれにせよ、もはや右顧左眄しているときではない。朝敵尊氏を討つに、なんのおためらいなのか」 「新田義貞に、逆賊討伐の朝命をさずけ、あるかぎりな王軍を催して、いまのうちに、禍根を断ちおかねば、百年の後、悔いてもおよばぬ」 「それこそは、さきの大塔ノ宮護良親王の御遺志でもあった。いまにして宮の御先見がおもいあたる」  僉議の席では、しばしば宮の御名が人々の口に出た。  しかし、宮の御受難とは、ひろく知られていても、その死期のありさまなどは、まだとんと確かなことはわかっていない。──もっともひそかには、先代軍か足利勢の兇刃のもとに? という臆測もおこなわれていなくはなかったが、見た者はなし、確証もないことだった。──ただいえることは「これも尊氏が女奏の讒に始まったことだ」という恨みだけなのである。  この恨みは当然、大塔ノ宮遺臣のあいだに強かった。かねがね屈強な侍や多くの兵を内に蓄えていた宮家でもある。──この者どもは扶持にも離れかけたが、しかし浮浪にまではならずにそのほとんどが新田義貞の麾下にかかえられた。近ごろとみに義貞の二条烏丸屋敷の周辺が喧騒にみち、尊氏罵倒の気概りんりんたるものがあるのも、ひとつはこれによるといってよい。  異様な充血はしかしここだけの現象ではなかった。  千種忠顕の邸なども近来は、半公卿半武将ともいえる陣装を構えており、つねに義貞をはじめ、目ぼしい武門との連絡を、緊密にもっていた。──無二の味方とばかりおもっていた佐々木道誉が、尊氏へ奔ってしまったなどのことが──彼をしてこのさいの警戒心をいちばい強めさせていたにはちがいない。  その忠顕は、外では義貞とむすび、公卿僉議では、たれよりつよい主戦論をとっていた。そして後醍醐へもしばしば直奏の下に迫るなどの熱中のしかたであった。  この日ごろのお悩みは龍顔のうえにもうすぐろい隈となって、さしもお身の細りすらうかがわれる後醍醐だった。  いつの公卿僉議にも、 「……まずは」  とのみで入御。また、 「考えておく」  とばかりで御裁可はない。  いわんや、千種忠顕が直々の奏上などに、ご意志を左右されるはずもなく、 「ま、さは逸るな。息りたつな。坊門ノ清忠ら一部の意見にも耳をかせ」  と、抑えてしまう。  要するに、僉議の決まらぬ原因は、ほかならぬ帝のお心にあったのだ。──そして暗に清忠の説を支持しておられるやのふしがあるのも、あるいは帝のおむねを彼にいわせているものなのかもしれなかった。  その左大臣坊門ノ宰相清忠ひとりは、ほかの激越な即戦主義者とは大いにちがって、 「尊氏にも功はある」  と、言い、 「その功もたちまち措いて、ただ罪のみをあらだてるのは如何かとおもう。──たとえば元弘の六波羅探題攻めのさい、彼の反り忠がなかったら、あのせつ天皇御帰還は仰げぬことであったかもしれぬ。──また高時の滅亡をはやめたのも、ひとえに義貞の善戦によるとはいえ、もし足利千寿王が一軍の参陣なくんば、これまたどうであったろうか。──そのほか戦後の混乱時に、よく闕下の治安を維持したなども、尊氏の功は少なしとせぬ。……さればこそ。おん諱名の『尊』の一字をさえ賜うたほどなご嘉賞ではなかったか。さるを……手のひら返すごとく、逆賊とよび、王軍をくだして討たんなどとは、それこそ朝廷の不見識、朝令暮改のたのみなさを、われから世へあかす愚でなくてなんであろう。よろしくここは人心をなだめ、いくたびなりと尊氏の存意をただして、事を政治による解決へ見いだしてゆく工夫こそ、われら朝臣の務めと申すべきではなかろうか」  というのであった。  これが衆論にうけつけられなかったのは、前述のとおりである。けれど後醍醐の顧慮のうちには、ほぼこれと同じなものが、たゆたっていた。  元来、この君としては、尊氏なる人間を、根からお嫌いではないのである。いや人間的には彼の一種魅力めいたものに引かれてさえおいでになる。君臣というかきさえなければ一壺酒を中において膝ぐみで議論してみたい男ですらあるくらいな思召しなのだ。かつは彼には実力がある。その実力にも御意はつねに、あの薄らあばたの一壮者を、御無視できない。  断  のお迷いはかくてつづくばかりだった。このさいにおける英断には、玄以に学んだ儒学も、大燈、夢窓の両禅師からうけた禅の丹心も、その活機を見つけるところもない幾十日の昼の御座、夜ノ御殿のおん悩みらしかった。──そして来るべきものはひたひたと月日がついに帝をも浸してきた。突如、即戦派には有力な材料が、諸国から帝のおん目の前につきつけられた。  それは何かといえば。鎌倉から発した檄──すなわち足利家による──諸国への軍勢催促状なのだった。 「かかる物が国元へまいりました由。朝へ二心なきおちかいに、内覧に入れたてまつりまする」  と、在京武門の国々から届け出てきたその数は、何十通にもおよんでいた。  尊氏の逆心を証拠だてるにはこれ究竟なものである。ひと束にして僉議の席へもちだされた。  帝も御覧あるに。 新田右衛門佐義貞 誅伐セズンバ有ル可カラズ 一族相催シ 急ギ馳セ参ジラレヨ  と、すべて同文で、また、はなはだ簡である。そして日付けもみな一様に、  十一月二日  の発になっている。  だが、署名は尊氏ではなく、左馬頭とあり、すなわち弟直義の花押だった。  内覧ののち、僉議の公卿一統へ廻覧された。色めきたつ小声小声の下にすべての者がやがて見終る。 「みられたか」  洞院ノ実世が言った。  千種忠顕、二条為冬など、声をそろえて。 「この檄に見るも、王軍のお手まわしはもうおそいほどだ。名を、義貞誅伐にかり、賊はすでに、全国から起たんとしておる」 「檄の名分を、君側ノ奸ヲ除ク、というところへ持ってゆくのは、いつのばあいでも、むほん人が世のていをつくろう口実ときまっている。はや一日とて、猶予あるべきではない」 「しかも、尊氏の狡さよ」  という者もあった。 「檄の上に、わが名はあらわさず、弟直義の名を唱うなども、這奴の隠れ蓑! 見すかさるるわ」  このとき、坊門ノ清忠はなお、いつもの騒がない語調で、 「いやいや悪しゅうとれば物事はいかようにも悪しゅうとれる。つたえ聞くに、尊氏は先の月、違勅の畏れをいって諸政を弟の直義に託し、身は謹慎を表するため、浄光明寺に入ったままふかくつつしんでいると申す。──そして以後は、元弘における戦死者の霊をなぐさめんがため、高時の旧館のあとに、円頓宝戒寺の建立をするなど、ひたすら恭順の意を表しているとあるが」 「それよ、そこが尊氏の食えぬところとお気がつかぬか。──つたえ聞くところなら、這奴は一族の斯波家長なるものを、私に、奥州管領となし、ひそかに奥州へ下向せしめたと聞いておる。──これなども、事をあぐる日、奥州東北の地を、同時にわが麾下に取り込まんとする謀意でなくてなんであろうぞ」  清忠は一言もなかった。  そのうえにも、また、ちょうどこのころ。大塔ノ宮の侍女南ノ御方が、宮のおかたみなどをたずさえて、病後のやつれもまだ癒えぬ身でやっと都へたどりついてきた。──果然、これによって、宮の死は、足利家の一武士の兇刃によってなされたことが明白になった。──後醍醐もこれのみは、よもやとしておられただけに、南ノ方からつぶさな当夜の惨状をおききとりあるや、さすが御父子である。逆鱗すさまじい御けしきだた。朝敵、それ以上にも増す尊氏兄弟へのお憎しみが、どっとお胸の堰を切った。  朝廷が尊氏討伐を決定してこれを公卿僉議に宣したのは、十一月に入ってからのことにはちがいないが、その幾日頃であったろうか。 「公卿補任」をみるに、 在、陸奥ノ府 陸奥守北畠顕家 十一月十二日 鎮守府将軍ト為ル  とあるに徴しても、この日すでに東征の用意があったのはあきらかだ。  これはいうまでもなく東海東山両道から兵をすすめるのみでなく、北の奥羽からも官軍を攻めのぼらせて鎌倉を挟撃させようとの兵略にほかならなかった。しかし鎮守府将軍の官位はさきに尊氏へさずけられていたのだから、いまそれを褫奪して、顕家へ与えられたことにもなる。  ところが、「神皇正統記」にもみえる通り、ここに、 十一月十日あまりにや 謀叛のよし聞えける尊氏 かへつて 義貞追討の請ひを 闕下に奏し奉る  と、ある一ト波瀾が起き、これが問題の、尊氏が細川和氏を使者として、朝廷へさし出した〝義貞弾劾状〟であったのだろう。さらに「元弘日記裏書」によれば、 尊氏ノ奏状到来 十一月十八日  との明記もあり。──いずれにせよ、すでに官軍発向の準備や任命などに、朝廷の内外ともに沸くばかりな空気のところへ、この奏状がとどいたことはたしかであった。  ところで、その上書なる物だが。そのなかで尊氏はこう訴えているのである。  義貞と自分との、年来にわたる確執を述べ、つまるところ、このようなはめになったのも、ひとえに佞臣の讒口によるもので、その張本は義貞であるとし、 「──願わくば、乱将義貞誅伐の勅許をたまわりたい。つくすべき忠も、荼毒の輩が君の側らにはびこっていたのでは捧げようもない。君側の奸を一掃してのうえでなら、微臣たりとも海内静謐のためどんな御奉公も決していとう者ではない。どうかご推量を仰ぎたい。恐惶謹言」  と、結んでいるのだ。  内覧のあと。  上卿のおもなる者もこれを見た日のことである。千種忠顕は参内の帰途、新田義貞の烏丸屋敷をたずねていた。そして云々と、わけを語り、弾劾文の写しを彼にみせたのだった。 「…………」  義貞は読んでゆくなかばのうちに、もうありありと感情に燃やされた色で耳のあたりまで紅くしていた。 「心外な」  と、一ト言いって。 「……千種どの。これに黙っていては、佞臣乱賊の汚名を義貞が自認しているものになる。義貞も一文を駁して内覧に供えたい。そのような前例はどうであろうか」 「なんの、前例の顧慮などいるものか。すでに御辺は、王軍の大将として、ご内定もみておるのだ。──尊氏の奏状など、その一行の文も、おとりあげにはなっておらんが、それにせよ、ご潔白を立てる要はある」  その夜、義貞は灯をかきたてて、痛烈な反駁の一文を草し、あくる日ただちに上覧にいれた。  義貞の上奏文は、じつに激越な文辞であった。自分に対する尊氏の弾劾状を、完膚なきまでにたたいて「尊氏兄弟こそは、大逆無道な人非人である」ときめつけ、箇条書きに、尊氏の〝八逆の罪〟なるものをそれにあげている。 一つ 臣義貞が上野の旗上ゲは五月八日であり、尊氏が宮方へ返り忠して六波羅攻めに出たのは同月七日だった。相距ること八百余里。何で一日のまに連絡がとれよう。それを尊氏は、あたかも自分の令で新田を起たせたかのように誣奏している。これ罪の一つ。 一つ 尊氏みずからはじっさいには元弘の鎌倉攻略に参加しておらず、幼弱な千寿王に少数の兵をつけて、新田の陣借をしていただけのものにすぎない。しかるにそれも足利の功として誇っている。これ世上を欺瞞し上を偽る。罪の二。 一つ 尊氏の六波羅にあるや、みだりにみずから奉行を称え、上のみゆるしもなき御教書を発し、親王の卒をとらえて、これを斬刑するなど、身、司直にもあらざるに法を執り行う。これ罪の三。 一つ 東国にあっては、ひそかに禁府を開き、公の物をもって、私の恩を売り、征夷大将軍の位名を偽称す。その罪の四。 一つ 軍功の施与は朝廷直々の令に待つべきを、北条時行を追って府に入るや、僭上にも身勝手に諸所公領の地を割いて、これを餓狼の将士に分つ。罪の五たり。 一つ さきには讒構をもうけて、巧みに、兵部卿ノ親王(大塔ノ宮)を流離に陥す。その罪の六。 一つ 親王の御罰は、ひとえに宮の驕りをこらす聖衷に存するを、私怨をふくんで、これを囹圄に幽す。罪の七。 一つ 混乱に乗じて、部下の兇兵を使嗾し、宮に害刃を加えたてまつる。天人ともに憎むところ。その罪の八。  以上のあとに、 伏して請ふ 乾臨明照のもと 尊氏直義以下 逆党の誅命あらん事を 畏みて 奏し仰ぐ 義貞 誠惶誠恐謹言  とした長文だった。  尊氏の言いぶん。  義貞の言いぶん。  いずれが是か非などは、もはや問題の時期ではない。またたれがみても、尊氏のそれは、義貞との確執を口実に、鉾をかえて挑発している詭弁のもののようだし、義貞がかぞえあげた尊氏の八逆のほうが、はるかにその論拠にも力があった。しいて歪曲している点もなくはないが、不倶戴天の仇敵をやッつけた筆誅の余勢である。多少の誇張はしかたがあるまい。  しかも、彼の昨今は、 「待ちに待ったる日が来た!」  と心を奮ッている風だった。得意さだった。  その義貞への朝命は、十八日に降り、十九日には、はや京中出陣ぶれの勢揃いがおこなわれていた。──早朝に、彼は曠れの大よろいを着かざって、いそいそと参内に向った。朝敵征伐の節度(出征の祝い)を賜わるためにである。義貞はかがやく栄光の中に自分をみていた。  朝敵追討大将軍の首途  それには当然、朝廷でもなみならぬ期待のもとに、ずいぶん、古式に則ってその鼓舞をさかんならしめたものらしい。  王軍をうごかす。  それじたいが、朝廷の浮沈もここに賭けたことになる。やぶれれば朝廷たりとも、争覇の敵の驕りに屈する覚悟のもとでなければならない。  その大任を負って、新田右衛門佐義貞はいま、身のしまるおもいで、南殿の下にぬかずいた。──すこしさがって、弟の脇屋義助、式部義治、堀口美濃などの身内が、これまた、ひとかたまりに平伏している。  御庭の階下には、内弁、外弁、八座、八省の公卿百官がしゅくと整列しており、その視線はすべて、義貞ひとつに自然そそがれたままだった。──日ごろにも見てはいるが──わけて今日はその人物にたのみをかけて、  この人に栄えあれ  と祈りをこめた衆目だった。  義貞はそれを感じる。武門最上な本懐と感じる。彼はすでにかつての旗上げの日、郷土の産土神に願文をささげて、 ──古ヨリ源平両家、朝ニ仕ヘテ、平氏世ヲ乱ストキハ、源氏コレヲ鎮メ、源氏世ヲ侵ス日ハ、平家コレヲ治ム  と、告白していた。彼にもこの下心はあったのだ。いまや平氏の北条はない。足利が取って代ろうとしている。しかし自分も源氏の嫡流だ。有資格者である。八逆の賊尊氏を逐って、自分が覇武の権を取ッて代るに、世上の誰もふしぎとはしまい。  しかも優渥なるみことのりと大将軍の印綬を賜わってそれに向うのだ。義貞はすでに尊氏を呑んでいた。やがて下された祝酒の一ト口にさえ、それは色になって彼のおもてをほの紅くした。  朝廷では、万一このたびの東征にやぶれでもしたら、建武新政の緒も根本からくつがえるものと、さまざま古例の吉凶なども案じて、治承四年、頼朝追罰のさいに、三位惟盛をつかわされたさいの仕きたりは不吉であった、よろしくこんどは天慶承平の例に倣うべきであるというところから、特に、義貞へは節刀を賜わり、やがて、三たびの万歳の唱えのうちに、華々と、彼のすがたは大内を退出してきた。  そして衛府の門を出ると、なに思ったか、 「高倉へ」  と、軍兵をうながして、彼の馬はとうとうと先をきって二条高倉ノ辻へ馳せむかっていた。そこで馬を止め、 「やよ船田ノ入道、朝敵退治の都立ちには古例がある。知っているか。古式いたせ」  と、一つの門を指さして、命令した。  そこは今は人もなき、旧足利直義の空館なのである。──船田ノ入道は、その前に兵をそろえて、三たび鬨の声をあげさせ、また、三すじの鏑矢を邸内へ射込んだのち、中門の柱を切っておとした。  するとここの鬨の声にあわせて、三条河原の空でも、わああっと、武者の諸声がわきあがっていた。  上将軍の陣であった。  大将軍義貞のほかに、後醍醐の一ノ宮、中務尊良親王が、上将に任ぜられ、この日ともに都を立つこととはなっていた。  まもなく、義貞の軍は、尊良親王の騎馬一群をまん中に迎え入れて、その長蛇のながれは、順次、三条口からえんえんと東していた。  このさい、親王の中書軍がささげていた日月の錦の旗が、とつぜん突風に狂い、竿頭から地に落ちたので、人々みな、 「あな忌まわし」  と、不吉感に吹かれたなどと古典太平記にはあるが、作為であろう。ほんととは思われない。  また兵力なども、 その数六万七千余騎 前陣すでに 尾張の熱田に着きけるに 後陣はまだ大津相坂の関 四ノ宮河原にささへたり  などとあるのも大ゲサに過ぎたものだ。もちろん、物見、伝駅などの小隊は、先へ先へと、先行してはいたろうが、それにしてもの感がある。  じっさいの兵数は、中書軍をあわせても、二万がらみではなかったか。  親王の軍を、中書軍とよんだのは、親王が〝中務卿〟であったからで、ナカツカサの御子を唐名では「中書王」という。それからの敬称である。  しかし軍の中堅は、ほとんどが宗徒の新田一族で──脇屋義助、義治をはじめ、堀口、綿打、里見、烏山、細屋、大井田、大島、籠守沢、額田、世良田、羽川、一の井などの諸将いずれも越後から坂東上野の出生者だった。  これになお、他家の大小名がある。勅にこたえて、一議なく官軍側に拠った在京中の諸国の武門で、それには、  千葉ノ介貞胤  宇都宮公綱  菊池肥後守武重  大友左近将監  塩冶の判官高貞  熱田ノ大宮司、薩摩守義遠などの百数十家、所領の分布からみても全国にわたっていた。まさに王師とよぶにふさわしい。  なおこのほかに。  同日から三日おくれの都立ちで、尾張黒田から東山道をとって下って行った別手の搦め手軍もあった。  それの大将には大智院ノ宮、弾正ノ尹宮、洞院ノ実世、二条ノ中将為冬など、公卿色がつよく、侍大将では、島津、江田、筑前の前司ら、二十余家の旗がみえる。兵力はざッと五、六千騎で、行く行く信濃の反軍を揉みつぶし、甲州を掃いて、鎌倉武蔵口へせまる作戦。  時をあわせ、奥州からは北畠顕家が一路南下の予定である。──この両翼を心にえがきながら、義貞は東海の征途にあった。──濃尾のあいだでは一矢も錦旗に抗ってくるものはなく、十一月の寒烈はかぶとの眉びさしに霰を打ち、弓手も凍るばかりだったが、彼の頬にはたえず自負の信念か微笑かがあった。 「尊氏は以前から戦にかけてはから下手よ。また直義は、たんなる血気の逸り者」──と。  このあいだにも、都の使いは、たびたび、義貞をはげましに下っていた。──朝廷では諸大寺の座主から天皇ご自身までも、連日にわたって戦勝祈願の大威徳法の修法をこらし、また再度の綸旨を諸国に発して、逆賊尊氏の必滅を天地にちかっておられるとのこと。まさに天下分け目の様相だった。 網引き地蔵  鎌倉泉ヶ谷の浄光明寺は、ほんの一堂に庫裡があるだけの、草寺だった。  むかし北条長時が何かの忌縁に建てたものだという。いかにも侘びた禅室ですぐ裏の泉谷山には朝夕鴉ばかり啼いていた。それに時は十一月。枯木寒鴉図そのままな冬木立の中でもあった。 「もどりまいてござりまする」  馬は山門の外に。  駒のあるじは今、旅ぼこりの身もそのまま、すぐ、ここにさきごろから引き籠っていた尊氏のまえにあって、平伏していた。 「和氏か」  待ちかねたぞというばかりな顔である。が、大いに労をねぎらって。 「早かったな和氏。──海道の往復を、こんな日数でもどるには、さだめし道中夜もかけて帰って来たか。大儀大儀。して、上奏文の響きはなんとあったぞ」 「すでに朝議一決のあとにござりましたが」 「うむ」 「上書は、洞院ノ実世卿からただちに叡覧に入れ、僉議の席でもご披露あったやにうけたまわります。が、ついにお返し沙汰は何もございませぬ」 「それでいい。だが、義貞の反応についてはどうだ。聞きおよぶところはなかったか」 「いや、それは大いにございました」 「大いにあったと? ふ、ふ」  予期していたものの手ごたえに、思わず彼の相好が笑み破れた。  使者の細川和氏も、これを土産として帰るには、よほどな苦心を要したらしく、やおら革苞を解いて、 「まず、ご一読を」  と、尊氏の前においた。  それは彼が和氏を使いとしてわざと朝廷へ提出した〝義貞弾劾状〟にたいして、当の義貞が、ただちに「尊氏こそ八逆の賊である」と反駁上奏したと聞く全文の写しなのだった。  和氏は殿上の誰かにそっと手を廻して、それの写しを入手してもどって来たものにちがいない。……尊氏は手にとるや、眼をそばめてその全文を黙読していた。 一つ、何 一つ、何  と箇条書きにしてある自分への痛烈な八罪なるものに目を通していながら、尊氏の面にはしかしなんの波紋も起って来ず、むしろ容認しているふうですらあった。いやもっと何か目的を別にした「──思うつぼ」とこれを読んで、ほぼ満足のうちに巻き収めていたといえないことでもなかった。 「和氏。老躯に鞭打たせて、ご苦労だったが、使いの功は上々であったぞ。これでまず、義貞もじっとはしておられまい」 「されば即日、朝廷からは義貞へ、尊氏追討の総大将を任ぜられ、中書の宮尊良を上に、約三万騎、東海東山の両道から、ぞくぞく東へ下りつつありまする」  和氏はべつな覚書をふところから取り出して、その密牒なども、尊氏の前にならべかけた。しかし、尊氏は手にもとらずこういった。 「待て待て。わしは世に告げてあるとおり籠居の身だ。軍事は聞いても、せんかたない。諸政一切も直義にまかせてあること、戦のことなら直義の許へ報告せい。この尊氏はあずかり知らん」  晩の勤行、朝のおつとめ。ここでの禅院生活を、尊氏は出家の身とも変りのない規律と日課の中においていた。  大塔ノ宮の霊  元弘の戦歿者敵味方の霊  高時の霊  いくたの有縁無縁の霊  に心からな回向をささげている姿にみえる。また心から朝廷へも恭順の意を表している彼かに見える。  もちろん、酒も魚肉も断ち、法衣こそつけていないが、道服すがたで、昼は机によって読書三昧、閑居まだ日は浅いが、倦む色もみえないのだった。  したがって、近習の細川頼春と一色右馬介も、庫裡の裏で、ぜひなく薪割りや水汲みまでをやっていた。彼らだけが日々ただ武者張って無為にもいられないのであろう。──今も、裏山から担ぎ出して来た粗朶のタバに腰をおろしていた二人はいささか味気ない顔の疲れを見あわせていた。 「右馬どの」 「む?」 「貴公には分っておるだろ」 「何が」 「大殿の御本心だ。本心、このまま世捨て人となるおつもりだろうか」 「さあ、どうかな」 「幼少からのお傅役。その右馬どのなら」 「いや、ご舎弟(直義)さまでさえ分らぬ兄といっておられる。どうして拙者などにわかるものか。……だが、ああしていらっしゃる今日は今日だけの御本心だとはいえるだろう」 「では、あしたは」 「あしたのことは、おそらく御自身でも……。いやもっと遠い先は観ておられるに相違ないが」 「つかみどころのないことを」 「そう、つかみどころがない──それがあのお方そのものだな。まだ又太郎さまだった十代のお若い頃からだ。……しかしそれは、ぼんやりしているのとは違う。何か、人とは異なる時点と観点に立っておられるせいであろう。だから、人には矛盾とみえることも平気でなされる風もあるのだ。またそんな一面が年ごとおつよくなってきた風でもあるな」 「…………」  頼春は、目くばせした。寺の庫裡にもよく里の販ぎ女たちが物売りに廻って来る。いまもふと山着姿の小娘が、方丈の庭口をとりちがえて、戻って来たらしく、うろうろしていたが、ここの二人へ気づくと急に、 「山の芋買うておくんなされ。お侍さん、山の芋はいらんかね」  と、馴れ馴れしく、そばへ来て、強いるのだった。要らぬというと、 「では、麦の粉はどうですえ。菓子にしたらええがの」 「いらんと申すに」 「お茶は」 「茶もある」 「でも、ことし摘んだよいお茶なのに、見ても貰わんでは」 「解くな。荷を解いても、買いはせぬぞ」  追い払っていたときである。ちょうど庫裡の縁を通りかけた尊氏がこれを見て。 「頼春。買ってやれ、何ぞ」 「お。これはいつのまに」 「愛くるしい娘だ。その芋の苞、持っているだけ求めてやるがよい」と、言った。 「運のよいやつだ。殿さまへようお礼を申せ」  頼春は、値をきいて、販ぎ女の手に銭をわたし、早々に追い立てたが、女はぬかずいたまま、縁の上の尊氏の姿へ、 「ありがとうございまする」  なんども、それをくり返し、またお願いいたしますると、やっと立って去りかけた。  その背へ、浴びせるように、 「これこれ。これに狎れて、またうるさく来てはならんぞ」  右馬介が言った。けれど女は返辞もしなかった。そのくせ遠くから縁の尊氏の姿を二度も振り向いて行った。  尊氏はあとで二人へ訊ねた。 「あのむすめは、よくここへ見えるのか」 「いえ、里の物売りは、よくまいりますが、いまのような小娘は」 「初めてか」 「は。きょう初めて見たようにおもいまする」 「気をつけたがよい」 「それはまたどういうわけで」 「ただの山家女や浦人のむすめとは思えぬ。何かいわくのある者だろう……」と、そのまま縁を下りて、あり合う草履に足をつッかけながら。 「右馬介」 「はっ」 「この裏山の洞に、地蔵が祀ってあるといったな。ゆうべの炉辺で、そんな話を二人でしておったが」 「は。いやしかし、つまらぬ地蔵でございますので」 「何でもよい。地蔵は母の信仰でもあり、わしの守護仏ともいわれておる。行ってみよう」  尊氏はもう歩いていた。  鎌倉の海もここの山も、冬を忘れたような小春日だった。右馬介たちが柴採りに来てふと見つけたという横穴を覗いてみると、二尺ばかりな石の地蔵が、ちょこんと石の台座に乗せてあった。 「これか」 「はい」 「地蔵だろうか?」 「弥陀とも見えませぬ」 「やはり地蔵尊かの。しかしお顔も衣紋も、ひどく磨滅して貝殻なども附着しておる。察するに、地蔵は地蔵でも、海上がりの御仏だろ」 「お目がねの通りです」と、頼春が答え──「これはいつの頃か、近くの漁師が海から拾い上げた物のよしで、里人のあいだでは、網引き地蔵と呼んでおるやに聞きました」 「ほ。網引き地蔵と」  尊氏は急にその前へうずくまった。そしてつらつら地蔵を見て、また、うやうやしく掌を合せた。そのあとで笑いながら二人の近習へ言ったのだった。 「どうだ、地蔵のお顔は、この尊氏と、どこかよう似ているであろうが」 「お戯れを」 「いや戯れではない。網引き地蔵とは、おん名からして気に入った。粗略にするな」  このときは、ただこれだけで帰って来たので、二人には、尊氏が何でそのような冗談をいったのか、またひどく機嫌のいい一瞬を顔に見せたのか、主君の心は酌めなかった。  が、その意味がわかってきたのは数日の後だった。いやその晩、下御所の直義がここの禅院を訪ねて来た時からだといってもよい。 「こよいは、お別れにまいりました」  直義は、冷静だった。  尊氏もそうと察していたらしく、かくべつ、怪しみもしなかった。 「出陣は明朝かの」 「は。すでに高ノ師泰以下三千騎ほどを、とりあえず一陣として先に急がせ、吉良、細川、佐々木道誉らも、つづいて戦場へむかわせました」 「そうか」 「敵は、東海東山の両道を数万の大軍で急下してまいるよし。このたびこそは、天下分け目の一戦と期しているもののようにござりまする」 「むむ」 「おそらくはなかなかの苦戦。直義も生きてふたたびお目にかかれるや否やわかりませぬ」 「ぜひもない儀だ」 「一族の諸将は、このさい、まげても、大御所(尊氏)の御出馬を仰がずにはと、軍議紛々ではございましたなれど」 「…………」 「否々、一たん寺門に入って、世へ屏居と触れたからには、たとえ剃髪はなさらぬまでも、めったにお心をひるがえす兄上ではない……と一族どもを押しなだめて、一切はこの直義が独断にて指揮いたしまいてござりまする。その僭上は、おゆるしのほどを」 「なんの、軍事も諸政もすべてを捨てた恭順の身。あとは、あとの者の一存に委すしかない。……だが」  と、間をおいて。 「直義」 「は」 「このたびの戦の相手は一体誰だ?」 「異なおたずね。おたずねまでもございますまいに」 「いや心得ておかねばならん。敵は新田義貞であることを。皇室ではない、義貞であるのだ」 「が。その義貞は、朝命をこうむって、朝敵討伐の節刀を拝した者にすぎませぬ」 「かたちは、さもあれ、名分の上においてはだ。あくまで、わが足利家は新田を誅伐するものと世上へ唱えろ。──和氏からも、その義貞弾劾の件は、聞いたであろうが」 「はい」 「尊氏のあの上奏は、朝廷を相手どッたものではない。いや朝廷との対決を、わざと、足利新田両家の確執に外らして、義貞を陣頭におびき出すためにした挑戦状にほかならぬのだ」 「ではあれも、そうした深いご用意であったので?」 「もちろん、実戦でもその域を越えてはならん。──はや高ノ師泰を先鋒にやったそうだが、その師泰の軍勢にも、三河の矢矧から西へは進み出るなと固くいましめておけ。……三河までは足利家の分国(領分)だが、そこから先を侵せばしぜん反逆の軍になる。あくまで我は、受けて立つ、そこが足利家の名分であるぞよ」 「心得ておきましょう」  ぜひなく、直義はそう言ってまもなく退がって行ったが、決して釈然とした色ではなかった。いや奮然と死を期して別れ去ったものと見られなくもない。  すると、当夜の夜半だった。  何か、尊氏の寝所の方で、異様な物音がしたので、近習の二人は、押っ取り刀でそこへ駈けこんで行った。 「殿っ」 「おうっ、介と頼春か」 「なんでございますな、いまの物音は」 「盗人が入ったのだ」 「え、盗人が」 「あかりをつけろ」 「は。ただ今」  室はまっ暗だったのである。右馬介は宿直の方へ灯を呼んだ。  すると尊氏は、 「ほかの侍どもは入れるな」  と、頼春に命じて、廊の仕切り戸を閉めさせた。  寝所の内には、枕が飛んでいた。また研ぎすました短い刀が落ちている。尊氏に投げつけられたものであろう。隅には小さくなって、うずくまっている人影があった。 「お。そやつでございますな、曲者は」  二人はそばへ寄って行った。山着の筒袖に膝行袴を穿き、布頭巾で顔をくるんでいたその者は、左右の腕を、いきなり介と頼春の二人につよく捻じとられたので、いやおうなく伏せていた胸を反らし、覆面のうちを短檠の灯に曝した。その顔は、思いがけなく、花みたいに白かった。 「やっ?」  二人は思わず手を離した。きのう庫裡へ物売りに来たあの販ぎ女なのである。またとっさに、あのとき尊氏が言ったことばも思い出されていた。 「介──」と、あきれ顔でいる彼へ、尊氏は一方の座から声をかけて。「ま。やさしく訊いてやれよ。なんでこの尊氏の命を狙うなどの不敵を抱いてここへ忍んできたものか。ましてまだ年もゆかぬ小娘の身でよ。よほどな仔細がなくてはなるまい」 「では、これに落ちている刃は」 「その小娘の物だ。それをもって、わしの寝首を掻こうと神かけていたものだろう。可恐いな。尊氏、大軍は何の怖れともせぬが、こういう目に見えぬところの刃には心も恟む。何でわしにさまでな恨みがあるのか、介よ、やさしく訊いてみい。おそらくは娘も逆上していようほどに、あとでもよい、よくいたわって、訊いておけ」 「かしこまりました」  介が、そう答えると、すぐその尾について、小娘が言ったのだった。 「仰せられますな尊氏さま。いたわってなど、いただきたくはありません」 「ほ。いうたな」 「逆上もしておりませぬ。さむらいの娘です。仕損じた上の覚悟もしておりまする。あなたはよくよく悪運のつよいお方。わたくしは不運なお人たちの味方。それだけのこと。すぐご処分をしてくださいませ」 「よし」  尊氏は、うなずいた。 「望みのようにしてやる。だが、一応の理由を問わねば処分をくだし難い。まず訊こう。名は」 「棗といいまする」 「棗か。して生国は」 「信濃の諏訪です」 「諏訪の祝の一族だの」 「はい。兄の三郎盛高は、鎌倉の亡ぶ日まで、御先代(高時)の近侍の内の一人でした。そしてわたくしは」 「あ。思い出したわ」 「ご存知でしたか」 「二位殿(高時の妾)の御所に仕えていた者であろ。……かねて和氏から聞いていた」  いつであったか。細川和氏の夜話に聞いたことがある。  高時滅亡の直後。  そして鎌倉の焦土に〝犬神憑き〟という奇病が流行っていた頃のこととか。和氏と弟の師氏は、浜の漁師小屋で、一夜、ふしぎな小娘を見かけたという。  戦後のちまたには、亡家の女たちが、みな身を売ったり浅ましい生業のもとに生き喘いでいたが、その小娘は、亡主の二位殿と高時との仲に生した亀寿丸の行方を独りさがしあるいていた。──と聞いて、和氏はそのけなげさに感じ、舟を与えて落してやった。──という巷話を尊氏はいまふと思いだしたのだった。 「そのときの棗とやらだな。棗か、そちは」 「和氏さまのあのときのお情けは、いまも忘れてはおりませぬ」 「ではその折から、兄や父のいる諏訪へ帰って、亡君のわすれがたみ、亀寿さまのおそばに、再び仕えていたわけだの」 「はい。兄の三郎盛高は、あの日、亀寿さまを背に負うて、信濃へ落ちておりました」 「むむ。さすが北条遺臣の中には良い武士はあったのだな。さきごろ、信濃北越に大兵をおこし、わずか二十日の間でしかなかったが、一時にせよこの鎌倉の府を奪回した先代軍の大将は──その亀寿さまが名をかえた──北条時行どのであった」 「そうです。……足利直義どの以下を追い落し、ふたたび、亀寿さまをいただいて、この鎌倉へ入ったときの、一族方のよろこびは、ことばにも言いつくせません。けれどそれもわずか二十日、たちまち、京からあなた御自身が加勢に来て、あわれ私たちの夢は、二十日先代と、世の人が笑うほど、つかの間に、みじんとなってしまいました」 「ぜひもない。なべて、弱いものは、亡ぶしかない世の中だ」 「いいえ」  と、棗はするどく首を振った。解け落ちた頭巾の下も無造作なつかね髪にすぎず、紅白粉も知らない顔はただ一途で異様な若さだけに研がれていた。 「おことばですが、ほんとの人らしい人は、弱い群れの中にこそ大勢います。弱いながら人の美しさを持って必死に生きているものを、そんな者は亡んでしまえとは、あなたらしい言い草です。だから、わ、わたくしは」  ふと、嗚咽になりかけた。唇をむすぶ。キラと目だけで尊氏を射、そして、涙をこらえてから、なお次をいおうと体じゅうの敵意を少しも解いていない。  尊氏は、じっと、見すえた。男にもこれほどの者は少ない。女である。しかも小娘だ。時代の風雲が作った荒磯の奇形な姫小松の一つともいうべきだろうか。  尊氏は、ふと、からかい気味に、 「だから、どうなのだ?」  と、反問すると、棗は、血ぶくろを切られたようにばッと答えた。 「あなたを殺してやりたいと思ったのです!」 「なんで」 「あなたは強い」 「それだけか」 「それだけではありません。あなたは悪人だ。先には、ご恩顧ある北条家を裏切り、今また、朝臣の身で朝敵に立っている」 「はははは」  尊氏は笑った。だが、どこか空虚をおおいえない笑いでもあった。  ふと。朝早い寒雀のさえずりが耳につく。  尊氏は三名をそこへおいたまま黙って廊へ出て行った。まもなくまた、ここへ戻ってきた彼は、衣服もかえ、洗顔や髪の手入れもすましていた。そして、 「介。……袈裟を」  と求め、その袈裟を掛け、手に数珠を持ってから、介と頼春へ、こういいつけた。 「棗の処置は、そちたち二人へ預けておこう。あわれな者だ。酷くはするな」 「はっ」  しかし、二人は当惑顔を見あわせた。小娘とはいえ尋常な不敵さではない。もし逃げでもしたらどうしようかという惧れである。で、そのへんのお指図を仰ぎたいと重ねていうと、尊氏は事もなげに笑い捨てた。 「たまたま、わしの室へ舞い込んだ小鳥のようなものだ。逃げたいなら元の野へ放してやれ。居たいなら幾日でもここへおいてやれ。ま、遊ばせておけばよい」  ゆるい、しかし大きな跫音は、もう本堂のほうへ通う暗い廊を踏んで遠退いていた。例の勤行の時間なのである。まだ夜のような冬の晨だが、彼はここに屏居いらい、朝々のそれを欠かしたことはない。  みずから壇の燈明をとぼし、香を拈じ、経文一巻をよみあげる。そのあとも、氷のような床の冷えもわすれきって禅那の黙想をつづけるのだった。この修行は彼としてはすでに久しいもので、いま始まったことでもない。師の疎石夢窓国師の許へは、在京中にも折あるごとに参じていたし、その師を都へ迎えたのも彼であった。また、後醍醐との禅縁をむすぶにいたらしめた蔭にも彼のすすめがあった。  ただにそればかりでなく、後醍醐と尊氏とのあいだには、疏通微妙な間に、禅の眼があった。どっちも、禅の人である。その観見をとおして互いの人間を量りあっているところがなくもない。禅は何らの扮飾も見ない。直指人心だ。赤裸と赤裸だ。いやその赤裸すら禅にはないのだ。しかも機応自由の中に世を見つくす、世を生きぬく。そうして今という大地を舞台にこの両者は禅と禅とのたたかいを無意識に意中でしていたともいえないことはない。 「……。殿」  誰か、後ろでよんでいた。  われにかえると、尊氏の耳にも遠い所の貝の音が聞えていた。  直義の軍勢が、今朝、由比ヶ浜から西へ立つはずである。それだな、とすぐ覚る。 「介か。……何事だ」 「はっ。ただいま山門まで、仁木殿が、出陣のごあいさつまでに、と申しまいて」 「見えたのか」 「はい」 「あいさつだけを受けておけ。屏居の身だ。会釈におよばん」 「かしこまりました」  退がる。  まもなく、また来て。  石堂父子がお別れに参りましたと告げ。つづいては、畠山左京、今川修理亮、小山の判官、武田甲斐、そのほか幾十将が、出陣のいとま乞いにと訪れたが、尊氏はそのたれへも会わなかった。  そして昼はまた、机によって、独り読書に耽っていたが、なに思い出したか、急に右馬介を呼びたてていた。 「介か。もそっと、ずっと前へすすめ。急にそちならではの用事ができた」 「は、何事で」 「極秘のこと、書状にしては万一が惧れられる。しかしそちならば年来の馴染みだ。先の道誉も疑うまい」 「お使いでございますな」 「そうだ。直義の軍勢は今朝立ったが、佐々木道誉らの先鋒は、すでに鎌倉を立っておる。──その佐々木の陣へ、秘命をつたえに行って欲しいのだが」 「おやすいこと、さっそくにも」 「いや、やさしくない。味方のたれ一人にも知られてはまずいのだ。行く行く味方の陣地を通らねばならんが、そちの顔は余りにも味方には知れすぎておる」 「お案じなされますな。それほどの御秘命なら、頭を剃りこぼち、寺の備えにある笠、法衣を着てまいります」 「俄か坊主か。それやよかろう。道誉に会うて、云々、尊氏の意中をかく申せ」──と、その云々の内容を小声で彼にささやいたが、また一考して、 「いやあの疑いぶかい道誉ではあるな。そちの使いでも、言葉だけではなお、これほどな大事、なかなか信じぬかもしれぬ」  と、机の上の禅書に、目をおとしていたが、やがて朱筆をとって、その禅書の文字の諸所に、朱点を打ったり、棒を引いたり、また欄外に書き入れするなど、苦吟、長いことかかって、 「これでよい」  と、やっと筆をおいた。朱をたどれば、いわゆる「暗文」をなすのであった。 「介。これならば僧侶が持ってもふしぎはない。また他人が見ても解読はできぬ。併せて、これを道誉へ渡せ」 「こころえました。ではおあずかりしてまいりまする」 「ときに」  と、尊氏はことばをかえて。 「昨夜の小娘──棗と申したな──あの小むすめはどうしておるな」 「一室にふさぎこんでおりまする」 「朝餉は」 「与えました」 「逃げもせぬのか」 「は。朝餉を喰べたあとも、釜屋部屋の片すみに坐ったまま、じっと考えこんでいるのみで、べつに泣いてもおりませぬ。何か、ご処置のことでも」 「いやべつに」 「では、身の支度もございますので、このままおいとまを」 「待て待て」 「は」 「尊氏はつつしみの身、かかることを命じた者は、尊氏ではないぞ。裏山の網引き地蔵が命じるのだ。たとえ途中で直義の陣に行き会い、直義と出会うても申すなよ、道誉の件は」 「申すことではございませぬ」  右馬介は退がって、こっそり一と間のうちで頭をまろめ、法衣、頭陀袋の雲水姿になりすました。  同僚の頼春は、それを見て驚いた。しかしその頼春にさえ、介は、仔細を打ちあけなかった。そしてただ、 「どうだこの姿、お地蔵そっくりだろう。じつは裏山の網引き地蔵尊のお使いで急に西の旅へ立つ。頼春どの留守をたのむぞ。わけてあの小娘に油断するな」  とばかり、冗談に言いまぎらわし、たそがれの山門から飄として飛び出て行った。 門  官軍は、十一月の二十五日、三河の矢矧まで来て、はじめて足利勢の抵抗をうけた。  海道の合戦は、この日に始まり、交戦三日後には早やそこの矢矧川も官軍二万の後方におかれていた。そして序戦にやぶれ去った足利方の先鋒高ノ師泰は、鷺坂(遠州見附の北)までなだれ退いて、 「残念だが、味方の来援を待つしかない」  とし、初めからおおうべからざる敗勢だった。  師泰らが、無念がったのも、むりではない。彼らは、すでに当初、 「矢矧川から西へは一歩も進んではならぬ」  という軍命令の下におかれていたのである。当然、こんな制約下では士気もあがらず、積極的な作戦もとれなかったにちがいない。──そのため、まもなく仁木、細川、今川、吉良などの味方を加えるには加えたが、鷺坂のふせぎもならず、またぞろ、駿州の手越河原まで敗退するの余儀ない破目になってしまった。  官軍は強かった。  わけて新田義貞の采配振りも、かつての鎌倉入りの日以上な冴えで、その用兵ぶりなど、さすがと思われるものがある。  加うるに、  王軍  の威光もあった。なんといっても錦の旗には人心がひかれる。多くの犠牲を捨てながらも、兵数は逆にふくれあがっていた。土地土地の土豪の参加、降参兵の投入。勝敗の帰趨はもう、それだけでも官軍強し、と誰の目にも卜しうるものがあったのだ。  一方。  鎌倉をややおくれて出た足利直義の本軍は、手越で味方の退却とひとつになった。ほとんど全兵力の足利勢がここに結集したわけである。直義はすぐ布陣を立て直し、士気をはげまし、 「もしここでもやぶれたら、われらの途は死しかないぞ。万事は休む」  と、みずから指揮の陣頭に立った。──宿敵義貞と一騎打ちの覚悟であった。  激戦幾昼夜。  しかしここでも一戦ごとに、足利勢は敗色を否みようなくしていた。その上にもである。突如、 「佐々木道誉の一軍が、義貞へ降参をちかって寝返った」  という驚くべき声が陣中を騒がせはじめた。 「よもや?」  直義はなお信じかね、また、とくに、道誉とは昵懇な高ノ師直なども、 「そんなばかな。おそらく、それは敵方の流言だろう」  と、頑強に否定していた。けれど彼の信念も半刻とは持たなかった。道誉が守備していた上流から押し渡った官軍の強力な大部隊が、夜のうち早くも味方の後方にまわって、直義の退路を断ちにかかっているとすぐ分った。 「すわ!」  と、ここに暁の総なだれをおこし、その日から翌日へかけ、海道は敗走の足利兵がひきもきらず、直義はやがて、箱根の水飲(三島口の山中)に拠って、味方をまとめていると聞えた。  このとき。もし官軍が急追さらに急追撃を加えていたら、直義は危なかったかもしれず、鎌倉も一挙に義貞の馬蹄の下であったかもしれない。だが官軍も連日の戦いで疲れていた。それに心も驕っていたか、義貞はつい国府の三島に馬を駐めて数日は凱歌の快に酔ってしまった。  どんどん、どん……  さっきから山門の外を烈しく叩いている者がある。朝だが、まだ星があって、浄光明寺の内はまっ暗だった。  だが、尊氏はすでに起床していた。いつものとおり勤行の座にすわるためにである。かじかむ手、白い息、みずから灯す燈明の虹の中に彼はふと耳をすまして、頼春頼春、と二た声ばかり呼んだ。  すぐ庫裡のほうから跫音がとんで来る。近習の頼春であった。釜屋働きの襷を解いて。 「殿。何ぞお召で」 「お」  と言って、尊氏はまた、遠い所の音を待つように面を澄ました。 「頼春。外は風だな。聞えなかったか?」 「はて。何かお耳に」 「しきりに山門を打叩く者があった。風の音とも思われぬ」 「それはどうも。……竈に火をたきつけておりましたので、つい、うかとしておりました。ことによったら、お待ちかねの右馬介が立帰ってまいったのかもしれませんな」 「いやいや、一両人でない、馬のいななきもしたようだった。うかと門を開けず、まず何者かをたしかめて来い」  頼春はかしこまって、すぐ外へ駈けだして行った。  そのとき、山門の外の者は、あきらめたのか、鳴りをひそめていた。が、なるほど少なからぬ人馬が騒めいている様子だった。  頼春は、太刀の鯉口をかたくつかんだ。武者の習性といっていい。すぐ不測な敵の襲来が胸をつきぬけていたのである。そこで彼はいわれたとおり、門扉のかんぬきもそのままに、まず何者か? また何の用か? を大音声でたずねていた。  そしてまもなく。  彼は、門外の者の答えを持って、もとの本堂へもどって来た。  が、尊氏は、はや勤行の座について、読経をあげていた。──その三昧一念な背を見ると彼はぜひなく遠くにそっと坐ってしまった。そして機をうかがっていたが、近づいていえる機はなかなかなかった。──誦経がすむと尊氏は半跏趺坐(片あぐら)のかたちをとり、丹田(下腹)に印をむすび、呼吸をひそめて、いつもの坐禅に入ったまま、またしばらくは他もなく自己もない〝面心面仏〟の人そのものになりきっている姿だったからである。 「…………」  いつか堂の欄間に朝の陽の刎ね返りが映していた。尊氏はやっと、趺坐をかえて、頼春をふりむいた。 「どうした? 門外のことは」 「お味方の勢にござりました」 「味方」 「は。……戦場より抜けてこれへ急使としておいでなされた下御所(直義)さまのお旗本、上杉伊豆守重房、須賀左衛門、そのほか十騎ばかりの」 「ならば門をあけてやれ」 「お目通りへ請じてもよろしゅうございましょうか」 「む。二人だけを」 「では、すぐこれへ」  頼春は、飛んで戻った。そして山門をひらくと、破れ鎧、あるいは乱髪、または負傷の足をひきずるなど、惨たんたる敗戦の泥土をそのまま身に持った武士大勢が、ぞろぞろ霜を踏んで境内へ入って来た。  尊氏は道服に袈裟すがた。  通されて平伏した二人は血泥もそのままな戦場の身なりである。尊氏は後ろの頼春へむかって、 「御壇の御明しを消せ」  と、命じ、さらに、 「堂の四面の扉を閉めろ」  と、先にいいつけた。  それから使者二人の話を聞き、また直義からの書状も見て、さて言った。 「むむ。いくさは負けか。直義以下そんなにもさんざんにやぶれたのか」 「まことに面目もござりませぬ。矢矧川の一戦を仕損じてからは、海道の要害でも、いたる所でお味方は討ちなされ、あまつさえ、手越河原では佐々木道誉の裏切りなどもあって、残念至極ながらいかんともなしがたく」 「そうだろう。──兵数においても味方は敵の四分の一。──初めから負けは分っていたといえなくもない」 「いやしかし、もし矢矧川より先へは出るなとの制約さえなければ、濃尾の地侍、半島のお味方も、呼応して来ましたろうし、また作戦も自由に、よい勝負ができたろうにと、それだけを、みな無念にぞんじておりまする」 「だまれ」 「はっ」 「元々、尊氏は朝廷を敵とする意志でない。さればこそ、恭順の意を表し、戦は、義貞との対決として、直義以下のそちたちにまかせたのだ。敗れてからの泣き言などは聞きぐるしいぞ」 「ゆめ、泣き言など申しはしません!」と、上杉伊豆守(重房)は大声で言い返した。これは憲房の長子である。したがって、尊氏とも他人ではない。 「……まずはお聞きくださいまし。直義さまはいわずもがな、足利方の諸士、みな名に恥じぬ戦はしたとおもいます。けれど、敵は官軍の名に誇り、いまや三万におよぶ大兵を擁すにいたり、お味方はといえば、からくも箱根山中の一塁二塁にしがみついて、孤軍、必死のふせぎにあたっておりまする」 「わかった。いま、直義の書状に見るも、その辛さのほどはようわかる。……だが、それゆえ、わしに起てとすすめに来ても、それは無理だろ」 「なぜ、ご無理ですか」 「尊氏は公約しておる。本心、朝敵たるは好まぬところと」 「でも、過ぐる日、朝廷では、尊氏ノ官位ヲ褫奪ス、と世に公布しておりまする」 「仔細ない、仔細ない」 「のみならず、軍状その他、すべて官軍の合言葉は、逆臣尊氏でしかありませぬ」 「それもよし」 「いや殿はそうでも、朝廷方では、殿の恭順など一切みとめてなどおりません。──ひとたび、官軍がここへ迫らば、たとえ染衣剃髪のお身とおなりであろうとも、何で、仮借などするものですか」 「…………」 「申しては憚りながら、大塔ノ宮の仇とばかり、八ツ裂きにもいたしかねますまい。さらには、ご舎弟直義さまをも、お見殺しになさるお腹でございましょうか。いまや箱根の孤塁には、譜代の御一族の全生命が、ただ一つのお救いのみを、ひたすら、お待ちしておりますものを」  重房が言い疲れると、代ってまた、須賀左衛門が言って、尊氏へ迫った。  じっと、恐い目をしたまま、黙りこくっている尊氏へ。 「何としても、おきき入れかなわぬ上はこれまでのものです。御一門の魁に、まずわれら両名ここの御堂を拝借して、腹掻ッ切って相果てまする」 「…………」 「また直義さまも、孤軍の味方も、箱根の一塁を枕に、立ち腹切るか、斬り死にか、いずれともみな最期の途をえらぶでしょう」 「…………」 「ですが、これがわが殿のご誓約であったでしょうか。──そもそも元弘の初め、はじめてわが足利勢が上洛の途中、矢矧の柳堂において、一族宿老すべての者へ、ご大望を打ちあけられ、一同、源氏重代のみ旗と祖霊のまえで血判をいたしました。よもあれをお忘れではございますまい。いらい拙者どもは、それのみを、ただただ、弓矢の大願とちかい、子を捨て、親の死をも見てきました」 「…………」 「しかるに今日、殿には、恭順を称えて寺を出で給わず、それもそのお心が、天聴にとどいているならまだしものこと、そうでもないのに、ひとり何を守ろうとなさるのか。われら将卒には、得心がゆきません。……孤軍の御舎弟を見殺しにし、お味方すべてをも失ッた後に、いったい何があるのでしょう。……あわれ、三河におわす千寿王さま、みだい所さま、いや足利一類と見なさるる者、ひとりも世には残りますまい」  ことばは、切々、ていねいであっても、身はそのまま戦場人の二人だった。このとき、上杉重房も言った。 「左衛門ッ。これまでだ。殿はつんぼとみえる。もう申すもせんない。やめろっ、腹切ッてお目にかけるばかりだわ」 「おうっ、御覧ぜよ殿」  二人は坐り直した。革胴の紐を解いて短刀を左に持った。──が、尊氏はそれも見ている気か、なお黙っていた。  しかし、尊氏の蔭に控えていた頼春が、ばっと進み出て二人を止めた。たかぶる声と声の下に三名のからだは一つものに見え、相擁しながら、主君を後ろに、その主君を罵倒し、 「見損った! ああ、見損ったおれたち家来も馬鹿だッた」  と、無念泣きに泣き入ってしまったのであった。すると尊氏は初めて、 「頼春」  と、重い口をひらき、身に掛けていた袈裟を外して、 「袈裟筥へおさめておけ。そしてまず朝飯を食おう。それからすぐ身仕度だ、具足櫃を取出して来い」  と、いいつけた。何か凛とした語気だった。そして命じ終るやいな本堂を立って方丈の方へ行ってしまった。 「や、や?」  頼春は躄るように、主君の姿を、廊の外へ追いふためいて。 「殿々、よろい櫃とは、お身仕度とは、ご出馬のご用意にござりまするか」 「おおよ!」  遠くの房の内で、尊氏の返辞が、大きく聞えた。  本堂前には大焚火が焚かれた。浄光明寺のうちも外もたちまち活気と人ざわめきの坩堝と変り、尊氏は、あらためて方丈へ呼びよせた上杉重房と須賀左衛門のふたりへ、 「すぐ行け」  と、何事かを命じていた。  ふたりはすぐ馬にとび乗って山門を出て行った。おそらくは鎌倉じゅうを駈けまわり、なお各所の木戸や屋敷には多少残っている留守の将士へ、尊氏の出馬を告げ、 「すぐ御馬前へ集まれ」  と、布令に廻ったものに相違なかろう。  尊氏はそのあとで芋粥を三杯も喰べた。出陣には武門しきたりの古式もあるのだが、家族はおらず、時もこんな場合である。頼春の給仕のみで、すぐ粥腹に鎧を着込む。  かつての元弘の年。  はじめて、彼が高時の命で上方へ出陣したときは、父貞氏の喪に会していた。よくよく、出陣祝いにはめぐまれない巡り合せがつきまとっている。  しかし彼は、こんな形式事を気に病むものではないらしい。粥腹に温もった五体をよろいにつつむと、かえって、彼本来の面目とおちつきを持ち、そして、頼春や寺中の家士がそれぞれの腹拵えや身仕度をすますあいだ、独りあぐらをくんでゆったりと庭の朝霜に対していた。  もちろん心はもう戦場へとんでいよう。自分が駈けつけてゆくまで弟の直義がよく敵の大軍をささえて生きているかどうか。あれこれ、限りのない惑念も湧いたであろう。  しかも、この敗退の因は、彼にある。尊氏が初めから起たなかった出ばなの士気の不振にあったと言っていい。──その大事な機会を──なぜ彼はわれから恭順をとなえて寺へなど籠っていたのか。  後世の史家は、これを尊氏が打った〝賊名のがれの芝居〟であったと結論する。  なるほど多分に意識的な計算のあとはある。だが、これが彼の名分だけの擬態であったとするなら、何もこうまで、あぶない橋は渡るまい。足利一門の致命ともなりかねないような最悪の最後まで、じっと、蟄居をまもっている愚はしまいし、その必要もなかったのだ。  おもうに。──彼が後醍醐の恩寵をふかくわすれず、また朝廷は朝廷としてあがめておきたいと声明していたのも、それは彼の本心で決して偽りではなかったものと考えられる。けれど、足利一門の滅亡もそのためには捨てて惜しまぬというほどまでには徹底した恭順でもなかったのである。──そして彼は、朝廷へは抗したくないが、対義貞との戦いならば──と、義貞のおびき出しには、むしろ主戦的な構えですらあったのだった。  矛盾の兄、と直義がいったのも道理であって、今朝の尊氏はまた、自己のそうした行為のあとを、いささかも矛盾だったとはしていないふうだった。──天も照覧あれ、自分の本心はこうである。にもかかわらず、あくまで朝権をかさにきた王軍はわがのどくびを締めてくる。坐して待てば死あるのみ。足利一門は地上から消滅する。これは我慢ならない。たとえ朝廷の軍であろうと今は忍べるときではない。 「行くぞ、頼春」  尊氏は、方丈から起つやいな、大きくどなった。 「それっ、お出ましだぞ」  寺中の将士は、尊氏につづき、一せいに山門の外へ流れ出た。といってもすべてで四、五十人をこえてはいない。このわずかなものがじつに尊氏の、天下の分け目をみかどと争う門出の兵力であったのだ。  つい今朝はまだ、身に袈裟をかけていた恭順の人が、具足馬上の人だった。かぶとは背に負い、烏帽子だったので、まだうらうらと冬靄の高きにはあがっていない太陽が彼の顔をまともから染めていた。そのきらやかなる〝矛盾像〟を、しかしその人自身は決して眩しげになしていなかった。しかと腹では割りきッている眉だった。 「頼春、頼春」 「はっ」 「わしの馬の尻について、よく駈けてくる童はだれだ、どこの童武者だ」 「ごぞんじの棗でございます」 「女か」 「はいっ。先夜の」 「なんであんな者を連れてまいる。追っ返せ」 「ききません。何といってもきかないのです。けれどあくまで殿のおん供をして行くのだと」 「修羅また修羅だぞ、行く先は」 「合点なのです、充分に」 「どういう料簡だ」 「わかりません、まったくわからぬ女です。……が、察しまするに、これまで自分が考えていた足利の大殿というものと、目に見た殿とは、まったくちがっていたと、いたく悔悟の念に打たれたものと思われまする」 「ふうむ」 「そのうえ、ここ幾日を共にいて、殿のご起居から一切を知るにおよび、いよいよ初めの恨みも畏敬にかわり、いつまでもおそばにいたいと願うたのではありますまいか」 「まるで、やんちゃ娘だな、ただならぬ生死のちまたを、なんとも恐れていぬなどは」 「ここを追われても、行く所はないとも言っておりました」 「それはそうだ。先代軍などは、はや一ト村雨の露とどこかへ消えてしまった。女の兄の諏訪三郎なども生きてはおるまい。不愍といえば、不愍な女」 「この明け方も、いちどは、おん供などは相ならんと、追っ払ったのでございましたが、どこか近くの農家にでも預け置いてあったものか、たちまち、小姓具足を身に着け直し、殿が御出門となるやいな、ああしておあとについて来たものにござりまする。お目ざわりなれば、もいちど叱ッて、追い返しましょうか」 「いや待て」  尊氏は、振返って。 「ほッとけ、放ッとけ」  彼の駒足、彼の前後につづく駒足、自然に駒と駒とは勇みを競ッて、加速度に流れは早くなっていた。  また、辻々へかかるたび、その参加者も激増していた。──すでに伊豆守重房と須賀左衛門とが、ふれ廻っていたことなので、鎌倉じゅうの留守屋敷は、この朝、その老幼までをあげて身の物具もあわただしく、すべて辻の木戸や浜べ口にむらがり出て、尊氏の駒を迎え、「──先は知らず、ただ大殿が行く所へ」と、いのちを託していたのだった。  かくて由比ヶ浜を西へこの一勢が急いだときは、老兵童卒を加えおよそ六、七百の兵数にはなっていた。 風花  時は、真冬だった。諸書に 建武二年 十二月八日 鎌倉をお立出で……  と一致しているから、尊氏の発向は、この日とみてまちがいないが、以後の合戦中には、 「タビタビノ氷雨」  とか、 「終夜ノ風」  とかの記録がまま出て来るから、終始、天候はよくなかったようである。  ところで作者はよくものしり顔に古書の端々を引きあいにもちだすが、これは決して物語の辻褄をあわせるための手段ではない。必要な脚色や小説模様はわたくしもわたくしなりの仕立て方で染め上げてはいるが、素材の史糸はどこまで史家の糸で織って行きたいと思うし、またすこしでも往時の実際を紙背に読む読者の試案にもなろうかと、折にふれお目にかけているにすぎない次第である。  大体、古典の戦記物なる物では、たたかいの奇略、一騎打のさま、筆を惜しまず、つぶさな描写はこころみられているが、これを絵画的でなく、理念でたどると、しょせん現代人にはウ呑みにできかねる。  たとえば、このさいの、  箱根、竹の下合戦  の一条もまたしかりで──両軍の配置、地理、兵数、機動の経路──そして尊氏が断行した兵略の根底など、すべて大切なことはなに一つそれからは知ることができないといっても決して言い過ぎでない。  というようなわけで、ここでもまた、阿蘇家、相馬家の軍忠状とか、古文書の断片とか、古典太平記よりはややましな梅松論などの傍証を綜合して書いてゆくしかないことになる。  と、まず前提して──そしてその推定から尊氏軍の進路を図ってゆくと、彼が酒匂川附近へさしかかった頃には、おそらく、箱根山中にとりかこまれていた弟直義の孤軍からも、 「ありがたし。これこそ天助の御到着」  と、直義の口上を持って、さっそく出迎えの将士がこれへ来合せたことと思われる。  それもあり、また伊豆や海道筋からも味方の相当数が「尊氏出馬」の声から声をつたえ聞いて集まり、須臾にして麾下は、数千にのぼっていたろう。軍記調の古典ではすぐこれを十八万騎の二十万騎のと称するが、せいぜいのところ、じっさいは三、四千騎か。  しかも彼は、このさい、 「直義から迎えによこした武者どもは、ただちにまた、直義の陣所へ返って、そこのみをかたく守れ」  と、その数百人も、自軍には加えなかった。  この意外な指令に驚いたのは、細川頼春、上杉重房、須賀左衛門らの左右だけではない。あたりの将士はみな、耳を疑った顔つきで、 「──では、いったい、孤軍の味方も援けに向わず、この軍はどこへ行くのか?」  と、一せいな怪しみを尊氏へそそぎあった。  尊氏はしかし何のためらいもなく、それらの一隊は元の箱根路へ返し、自身は自軍だけで、さらに酒匂の岸を上流へ急ぎ出した。  つい言いのこしていることがある。  それはさきに、尊氏の密命をうけて、浄光明寺の門から、旅の一雲水に化けて、どこへともなく立去っていた侍臣一色右馬介についてであるが。  その右馬介は、尊氏の軍が酒匂の駅に着いた日、 「途中、ご出馬と噂をきき、ここにお待ち申しておりました」  と、どこからともなく姿を現わし、彼の前へ来て初めてその破れ笠のひもを解いた。 「介か」  待ちかねていた尊氏は人を避けてすぐ彼とふたりだけで駅の伝馬役所の内に入り、しばし密談をかわしていた。  要は、介の報告であったにちがいない。──報告の内容に尊氏は満足した容子であった。彼がこれから臨まんとするいちかばちの戦場の賭けは、このときにおいて一そう腹がすわったものといっていい。 「介。……すでにそちが去ってからまもなく、佐々木道誉の寝がえりと聞えて来た。それ聞いて、ひそかにやったわと思うていたぞ。そしてまた今、そちのことばでまた一ばいたしかめえた。このうえは、大儀だが、もういちど、あとへ戻って使いしてくれい」 「いずこかは存じませぬが、いとやすいことにござりまする。して次はどこへ」 「直義の陣場へだ」 「こころえまいてござりまする」 「直義一勢はいま、箱根路の三島口、水飲という部落の前に壕を切って、一族死に物狂いでふせぎ戦っていると申す。……我慢はここわずかなまだ。死ぬなと申せ」 「きっとおつたえ申しまする。いやおん兄君の御出馬とお聞きあれば、それだけでも勇気は百倍。およろこび目にみえまする。そのほか何ぞおつたえは」 「書面はいらん。そちの口だけで充分だろう。序戦、そちが遠くへ策に出ていたなどは、直義もまた、何も知っていないのだ。そこを打明けて、よう話せ」 「ご遠謀には、さぞお驚きなされましょうず。では」 「待て待て。いま、そちから敵状の仔細あらまし聞きとったが、もいちど、念のため、覚えをしておきたい」と、尊氏はよろいの袖から小さい綴物と矢立の筆をとり出した。そしてそれへ地形の図を描き、また介の調べによる官軍方の陣所人員その他の符号をざっと誌けて行った。 「ま、こんなことでいい。いくら確かとそちが見ておいたことでも、軍は生き物だ、いくらでも動く。その動きを見こして把握せねばならぬ」 「しかし、三島あたりの町沙汰でも、義貞はじめ、官軍の公卿大将輩、みな勝ちに酔って、はや凱旋凱歌の有頂天とあるのは事実にござりまする」 「そこがありがたい。……ありがたい無形な味方と申さずばなるまい。──では右馬介」 「は。おいとまを」 「裏から出て行けよ」 「そのつもりで笠、杖なども離しておりません。さらば御武運を」  介は、一礼して、伝馬役所の裏から誰にもその面を知られず立去ってしまった。じつにこの一布石があったればこそ、尊氏も自信をもって、直義が迎えの一隊も返し、自軍のみで目ざす山波深くへ進んで行ったものであったろう。  いったい、どこへ。  歩いている将士すら軍の方向は知らなかった。が、翌日の彼らはもう酒匂の上流を折れて足柄山にかかっているのを知っていた。──やがて地蔵堂を経、金時山の北を峠越えに出ると、南へのぞむすぐ目のさきに、  竹の下  さらに三島まで一路降り坂で、その彼方には駿河湾の冬の海が黒いといっていいほど深い碧をしている。  しかし、そこまでを見とどけたのは、先駆の物見隊だけで、尊氏の本隊は、なお地蔵堂のあたりにとどまり、吹きすさぶ風花まじりの山颪の下にその晩は夜営していた。  地名、竹の下とは〝岳の下〟の意味か。──物見の言によれば、そのへんから足柄明神へかけて、およそ七、八千とみられる敵が諸所に団々たる大焚火をあげて温もっているという。──いまは疑いの余地もない。大将尊氏の胸にあるものは、その搦め手の敵軍を、不意に、真上から撃ち下ろすにあったにちがいない。 「旗は」  と、尊氏は物見の者に、彼らが眼で知りえたかぎりの旗じるしなど聞きとっていた。  それによって、敵の主陣は、義貞の弟、脇屋義助、義治とわかった。  また中書ノ宮尊良親王以下、八人の公卿大将がそのうえにいることもわかった。 「よしよし、ほかの大名旗本勢など、いちいち知る要もない。まずは腰糧を食うてよく寝ておけ」  と、これは物見隊へだけでなく、全軍の将士へも同様な令でつたえられた。  けれど腰兵糧は氷を噛むようなものだし、火の気はもちろんゆるされず、その寒烈は骨を刺す。が、それでもいつか横たわると三千の兵は死んだように眠っていた。眠っているまが人間の本望を充たしている最良の時でもあるかのように。  尊氏も一とき眠った。  そのほかは地蔵堂の縁をめぐって思い思いな寝相をえがいていたが、折々には、むくと誰かが首をもたげて耳をたてた。そしてまた眠りにおちた。  こうして寅の刻(午前四時)をやや過ぎたかの頃になると、初めて、地蔵堂附近は騒然となり、人も馬もふるい起きて、やがて一せいに峠の上へ出て行った。──そこに立つと、竹の下はすぐ眼の下にあり、敵の所在は燃え残りの火の気で知れる。尊氏は歯の根のふるえを禁じえなかった。心のなかでさし上げた大石を一気に落すような思いで言った。 「あの真ん中へ突っ込め」  そしてまた、 「坂下へ廻るな。いつも敵の上に足場をとっていためつけろ」  と、追っかけに注意した。  まだ夜は明けていず、足もとすらもまっ暗なのだ。──敵の驚きはいうまでもない。寝耳に水の奇襲だった。脇屋義助の本陣のあたりが、須臾のまにぱっと赤い火光に染まってみえる。すでに火が放けられたものであろう。  また。近くの足柄明神もすぐ黒煙にくるまれていた。中書ノ宮をはじめ長袖の公卿大将ばらは、うろたえに右往左往し、打物すら持ち忘れてただ逃げ惑った。そして手もなく討たれてゆく将も二、三にはとどまらなかった。  何か、地異天変のような錯覚にもとらわれる。  七千人の旗営が一瞬にどうかしてしまったとしか見えない。──どろどろと熔岩のような黒いものが、山の中腹から逃げまろび重なりあって、はるか麓まで押し流れて行く。すべてそれは、人間と馬と、また新田勢や中書軍の旗差物などだった。 「まずかった」  脇屋義助。兄の義貞にまさるこの勇将は、どこかで地だんだ踏んだことだろう。 「これというのも、足手まといな中書ノ宮や、公卿大将の大勢を、上に奉じていたためだ」  と、くやしがったにもちがいない。  およそ兵略として、夜の陣を、山腹の急坂において眠るなどは、法外な無知である。──と知りつつも、つい竹の下にとどまったのは、足柄明神や民家の屋根もあるので、宮以下の陣座の便宜につい惹かれての処置だった。 「もう追いつかぬ!」  彼の号令も、今は一兵の足さえ踏みとどまらせる力にはならなかった。──敵は、金時山を負って、逆落しに、猛火は山風を孕んで、これも味方のあたまからおおいかぶさってくる。そしてひとたび浮き足立った自失のなだれは加速度を加えるばかりで、その群影は──御殿場──御坂──佐野ヶ原──黄瀬川べりと、止まるところを知らなかった。  しかも雑兵輩は、こんな潰滅状態のなかにありながらも、 「気をつけろ、新手の敵は足利の宰相らしいぞ」  と、はや尊氏の出現を知って、尊氏の名を口から口へつたえていた。そしてこれも予想になかった震撼をよびおこし全官軍の大驚愕となった。  時に、当の本軍たる新田義貞はどこに陣していたかといえば、この日の前日も箱根山中の一要害──足利直義の孤軍を──まだ攻めあぐねていたのであり、この明け方の、  尊氏来たる  の声には、ここでもまた、竹の下と同様な寝耳に水の驚きと共に、総退却を余儀なくしていた。  なぜならば、竹の下や足柄明神から崩れ立った兵は、みな渓流三島口へ落ちかたまり、その三島口は、義貞の本軍からもただ一路の後方陣地だったからで、 「なに、尊氏の軍が」  と、ここでは、その恐慌状態を背後からうけたかたちだったのである。  義貞もあわてた。  足柄峠を突破して、尊氏自身が、背後へ深く廻ってくるなどは、よくよく捨て身の戦法に出て来たものにちがいない。──おそらくは精兵をすぐり、決死の兵でもあるだろう。恐るべし、決死の軍には当るべからず、として彼は急に、 「全軍、退け」  と令して、その大軍を、徐々に、駿豆ざかいの藍沢方面へ移しだしたものだった。  すぐ。前面にあった足利直義らの孤軍は一せいに攻撃に出てきた。また新田方のうちからも突如、寝返り軍が行動を起すなど、みるまに義貞の本軍はズタズタに乱れ、その陣地変えさえおぼつかなく見えてきた。  果てなく戦場の地域はひろがっていた。函南の裾野から足柄、愛鷹のふもとへかけ十里は人馬のとどろきといってよい。  ひょうひょうとこの日は風があって白い風花が旗や剣槍を吹きかすめた。義貞はひとまず三島ノ国府に兵をまとめて陣容をたて直すつもりで藍沢ヶ原を駈けていたが、幾度となく、 「裏切りとは何者の裏切りだ。一体、誰のどこの軍が、寝返ったのか」  と、前後の騎影に訊いていた。しかし皆目それの真相はわかって来ない。そしてただ味方のどの方面を見わたしても、西へ南へ、なだれうごいているか、支離滅裂な雄たけびのうちに、しかもまた、あらぬ地点に敵が見えたりもするのであった。 「船田、船田。あれなる小高い岡へ旗を立て、義貞ここにありと味方へ知らせろ」  そこは三島に近く、西に黄瀬川をのぞんだ土狩の岡だった。  船田ノ入道はまっさきに登って行って一引両の幟を立て、また螺手に命じて貝を吹かせた。つづいては堀口、世良田、里見などの一族。さらに義貞のそばを杉原下総、高田義遠、篠塚伊賀守、川波新左など──新田十六騎──の旗本がとりまいていた。  けれど、味方をよび集めるための旗陣と貝の音は、かえって敵を求めてしまった。  黄瀬川の向うには、足柄峠から脇屋義助と中書軍とを追いくだしてきた尊氏の麾下がまっ黒にみえ、またうしろからは、直義の兵馬が追ッかけて来、岡は孤立に陥りかけた。  もちろん、空しく待ってはいない。河原の低地、背面の平野ではすでに激戦を展じている。  烈風なので、矢は用をなさず、どこでも騎馬歩兵の接戦だった。そのうち国府(三島)方面から黒煙がのぼりはじめた。官軍にとっての重要な本営地である。義貞は愕然とした。 「や、や。退路を断った敵があるぞ!」  もはや三島の内からも寝返り軍の出たことは疑ってみる余地がなかった。いや今暁来の裏切り者が、誰と誰であったかも今はほぼわかって来た。  四十人、五十人と、組々で敵へ降参してゆく小族などは物の数でもなかったが、千、二千という兵をつれて敵へ寝返ッた大物もある。そのうちの優なる者は、  筑紫の大友左近将監  出雲の塩冶判官高貞  近江の佐々木道誉  などであると聞えた。 「えっ、道誉が?」  と、それには義貞も唖然とした。──その道誉は、つい先ごろには足利方として矢矧の陣にいたのであるが、手越河原の対陣のさい彼から款を通じて来たので、渡りに舟と味方に用い、以来、後ろ備えにしておいたものだった。 「さては」  と、今にして思い当らぬわけにゆかない。  出雲の塩冶は元々佐々木一族だし、筑紫の大友は、初めから信じ難いふしがあるので後陣においた者である。ここで彼はハッとした。あるいは、道誉の降参は初めから尊氏との黙契で行われた二度のとんぼ返りではなかったのか、と。 「しまった!」  何処かで、あの薄らあばたが──そのあばたをみな笑クボにしているような尊氏の顔が──義貞の瞼に、ふと見えた。  風花はひる頃からほんとの雪に変り出していた。  その雪雲の下に、炎々と焼けつつある国府(三島)の町屋根が望まれる。  新田軍は三島を捨てた。ぜひなく、愛鷹山の根に沿った西への道を、幾段にもなって、落ちて行った。敵に追われ、雪風に捲かれながら、逃げなだれてゆく人馬の影が日没まで絶えなかった。 「中書の宮はどうなされたか。宮以下の公卿軍は」  こう訊きながら義貞はひと息ついた。鈴川の近くであった。  旗本十六騎のうち、そばにいたのは葦堀七郎、篠塚伊賀守、川波新左などの四、五名にすぎず、兵もせいぜい二、三百しかみえなかった。 「いや、もう先です」と、旗本の中の一人がいう。 「──宮の軍は、はや富士川まで落ちて行ったと聞きまする。しかし二条の中将為冬卿はお討死とか」 「二条殿は死んだか」 「ほか二、三の公卿大将も討たれ、その手にあった諸家の兵など、どうなったのか、ほとんど確かにはわかりません」 「義助(脇屋)はまだ後だな」 「ご舎弟様の一軍は、黄瀬川の上を取って、烈しく敵をくいとめ、船田ノ入道なども、必死な殿軍をつとめておりますが……」  まもなく烏山修理亮、大井田式部があとを慕って追ッついて来る。また一ノ井兵部、厚東駿河守、堀口美濃守貞満も、満身、朱の姿で、 「おお殿」  と、残念そうに、みな義貞の駒のまわりに寄って来た。  が、なお義助が見えないので、 「いかにせし」  と、義貞は気が気でない。けれどその義助もやがて見え、わが子、義治を連れていた。  この式部大輔義治は、まだ十四の年少武者だった。父義助は、この子を乱軍中から救い出すためにずいぶん苦労をしたらしい。父子のすがたにその難戦苦戦を通って来た状がそのまま出ていた。しかし脇屋義助は、ここへ来るとすぐ兄へ忠告した。 「馬もうごかず、お疲れでもありましょうが、ここで夜は過ごせませぬ。どうでも夜のうちに富士川を越え渡らねば危険です」 「大敗だなあ」  と、義貞は浩嘆して。 「きのうまでのあの大勝が、こんな一敗地に終ろうとは」 「無念です。まったく尊氏めにしてやられました。──大友、塩冶、佐々木などの寝返りさえなくば」 「それはやはり尊氏の計だったのか」 「──としか考えられません。思うに、這奴が蟄居の入寺などと事々しく世にふれていたのからして、こちらに油断を噛ませる策であったのでしょう。……そして道誉という化け物を巧みにつかい、その道誉をして、官軍中の諸将へ密々後日の恩賞を約束させ、今暁、一ときの返り忠に出たものと思われまする」 「むむ。……」  義貞のせつなの眉を、このとき、誰も正視にたえなかった。 「よしっ、忘れまいぞ。いつかは尊氏にこの逆の目を見せずにおこうや。が、ぜひもない。今は無念をのんで退いておこう」  全軍、富士川を雪の夜半にやっと渡った。  一方。  足利勢は三島を中心に夜っぴての凱歌だった。降りやまぬ雪の下にはまだ炎々と民家が焼けているのだが消し手はなく、ただ戦勝の驕りに燃えた顔の狂奔と、降参兵の大群が、諸所に茫然と給与の粥を待ってたたずんでいるほか、折々、前線からの騎馬が泥土を飛ばしてその夜の本陣の森へ入って行くのが見られるだけで、いつか十四日の朝は来ていた。  尊氏と直義とは、きのうここの国府の館で落ち合い、 「いまは何もいえぬ」  と、いう尊氏に、 「私もただ胸がいっぱいで」  と、直義も眼をうるませ、二人はあとの陣務に追われていた。  その降将のうちでも、とくべつに尊氏が床几を与えて、やあと、親しげに迎えたのは、かの佐々木道誉であった。 「道誉。健在でまずめでたいの」 「おかげで。ははは」 「いやこのたびの勝ち軍は御辺の功を第一と思う。ご苦労だった」 「お賞めにあずかって身の面目でおざる。したが、およそ道誉のいたしたことは、武門の名誉とはうらはらなもの。おかげで道誉は海内随一の寝返り上手という名を博したことになり申そうか。いや、自嘲にたえん」 「人には人の才能がある。それも器量の一つ。道誉にあらずんばなしえない」 「お賞めやら? お貶しやら? とにかく道誉を知る者はあなたでしかない。同時に、あなたを知る者もそれがしだと自負しておる。そのためにや、分の悪い役割とは思いながらも唯々として、御計略の道具になった」 「珍重珍重」  と、尊氏も戯れて、 「この後も使うぞ」  と、顔じゅうのあばたを笑クボにして言った。  入れ代りに、陣幕を揚げて、直義が顔を見せた。明け方のつかの間だったろうが、よく眠った朝の顔だった。 「兄者」  と、つい出たことばを、言いあらためて。 「兄上。──一夜考えておく──との昨夜の御意でしたが」 「む。この後の方針か」 「されば。いちど鎌倉へひきあげて地固めするか。または、このまま義貞を追ッて都へ迫るかの、二途ですが」 「きめたよ、直義」 「どう?」 「このまま行こう」 「即日?」 「今日にも」 「こころえました」 「鎌倉などは欲しいものにくれてやれ。直義、中原とは真ん中のことだ」 「そこまでのお腹をうかがえばわれら死んでも本望です」 「ばかを申せ。死ぬに苦労はいらん。これからこそ実のある苦労を尊氏はする気なのだ」 「朝敵とよばれても」 「照覧あれ、人はいおうと、天は知るだろう。尊氏はただ正しいと信じる道を行くだけだ。……いやこんなはなしは後日後日。直義、すぐ前進の貝を吹かせろ」 「お待ち下さい。さっき師直が、降参の将の簿を作って、お目にかけるといっておりましたから」  直義はあわてて出て行った。まもなく発向の貝が鳴った。この朝の足利勢は、一夜に万を超える兵力となっていた。  ほとんど抵抗らしい抵抗もみず、以後の足利勢は、行く先々でいよいよその兵力を強大にするばかりであった。  当日、加島に夜営  翌朝、富士川渡河  次の日、興津  やがて手越、大井川と一路東海の道は足利色に風靡されて行った。  しかしその間、大雨の一昼夜もあったので、尊氏は新田の敗残勢力を叩くよりも、これ以上、自軍を疲れさせまいと心していた。わけて海道一の大河、天龍川を越えるには、しょせん一ト難儀はとしていたのである。  ところが、ほどなく遠州に入りその天龍川を前に眺めわたすと、濁流満々ながら対岸にいたるまで堅固な舟橋がえんえんとなお無事に架かっていたので、 「これはどうだ!」  と、軍勢は笑いどよめいた。 「新田勢のあわてぶりよ。逃げるに急であとの舟橋を断り落して行く大事な退軍の常法すらも忘れている──」と。  が、尊氏は、 「はて? うかと渡るな」  と、全軍を待たせた。  そして附近の川小屋から土地の者数名を狩り出し、何で舟橋が無事にあったかを直々に質した。  すると彼らは。──これはつい四、五日前のこと。新田勢がさんざんな敗け軍のていでこの地へかかり、俄に村々へ合力を命じ、そのせつ架けおかれたもの、と前提して。 「まる二日二た晩は、馬やら兵が西へ西へ越え行かれましたが、てまえどもはまたこれへ呼びつけられ、やい聞け、われらの勢が渡りきったら、すぐさま舟橋を断り放ち、一そうの舟も附近に置いてはならんぞとの、ご厳命でございまする」 「む、新田がの」 「いえ、仰っしゃったのは、ご幕下のお方で……。すると、おん大将の新田殿は、それを聞いて橋の途中からお戻りになり、たいそうご機嫌のわるいお声で、お侍たちを叱ッておいでられました」 「叱ッた?」 「はい。おことばには、敗軍のわれらさえ架けえた橋を、断り落したとて何になろう。およそ、大敵に向う戦の始めなら、舟橋などは焼いて、背水の陣を布くという兵略もあるが、敗戦して落ちてゆく今、敵にもやすやす架け得られるものを毀して行っても益はない。むしろ義貞の小心を見すかされよう。狼狽したといわれても末代までの恥だ。そっくり残しておけ、との御意。わたくしどもへも、しかとお命じで、そのままお立ち去りあったような次第にござりまする」 「そうか。……川守どもに褒美をやれ」  そして、尊氏はそれから言った。感に打たれている麾下の将士を見て。 「さすがは義貞よ。逃げつつも見事な一矢のあいさつを残して行った。武士はこうありたいもの。彼にかかる鎌倉武士の余香があろうとは思わなかった。尊氏もここでは見事彼に負けたぞ。好敵手、好敵手。いちばい心をひきしめようわい」  途中、さらに軍の強化に努めながら、やがて足利軍は、近江へ達した。近江柏原に軍営を張り、年の終りをここにみた。──すでに十二月二十九日であった。 内裏炎上  何を感じるのだろう、痩せ犬すらも目を光らしてどこかに異常なふうである。ちまたの人間はいうまでもない、都じゅうが日ごろの姿一切を喪失し──春を待つ──そんな年暮景色など見たくとも見られなかった。  敗軍の新田勢が洛内にぞろぞろたどりついて来たのが二十五、六日のこと。それからは一日たりと兵馬の東奔西走を見ぬ日はない。足利軍が近江まで迫ったことはたれもみな知っている。けれど洛民の恐怖はそれだけのものでなかった。べつに兵庫、摂津方面からも西国の反官軍が尊氏に呼応し、淀、山崎の口へ攻めのぼって来るとさかんな風説だったのでもある。 「西も、東もか」 「都はどうなる?」 「どうなるものか、都はふくろの中の何とやらじゃ」 「いや、わしらはよ」 「こうなったら、どうしようもあろうか。命一つをかかえて、戦のやむまで、どこぞへじっとかがんでいるほか思案もないわ」 さるほどに──  と、古典はいとかんたんに書いている。 新玉の年立ち帰れども 内裏には朝拝もなし 節会もおこなはれず 京、白河には 家をこぼちて堀に入れ 財を積んでは持ち運ぶ……  庶民は「すわ」とまたもや山野へ逃げ込む騒ぎだったのだ。しかも暮正月を跨いでである。なんの因果でと、嘆きの声は枯れ野や冬山に充ち充ちても、血まなこな武者ばらには、何と無用な生き物の多さよと、かえりみられもしないのか。荷を負ったり手に手をつないで行く老幼が馬蹄にかけられて転けまろんでいるなどは、めずらしくない巷であった。  明けた年は、建武三年。──だがそれは後世には、北朝側の年号とされ、後には同じ年を、延元元年とも併称された。  だからその意味で、南北二朝に別れた最初の年だ。  その年の始め。  一月元旦というのに瀬田ノ大橋では戦争の支度だった。いやその防禦工事中も、しばしば敵陣からの奇襲におびえ、どこかではもう不吉な年の前ぶれに似て、魔の声みたいな矢うなりが虚空の冬を引き裂いていた。その配備は、  瀬田方面、三千騎 総大将 千種ノ中将忠顕、名和伯耆守長年、結城の判官親光  宇治方面、五千騎     楠木左衛門尉正成  淀方面、一万騎      新田右衛門佐義貞  山崎方面、七千騎     脇屋駿河守義助  遊軍、山徒の僧兵千余人  延暦寺ノ僧、道場坊宥覚  ほかに若干の舟軍がある。──舟軍は琵琶湖上を遊弋していた。  この兵力と配置でもよくわかるのは、義貞の敗報いたるや、いかに今はと朝廷もあわてたかということである。在京の地方軍はもちろんのこと、公卿指揮者、滝口の兵、叡山の僧兵までをあげて都門の東西にそそぎこみ、 「万が一にも、ここにやぶれなば」  と、廟議としては、じつに稀有な即決と、また一大覚悟のもとに、これの布陣となった経過がありありわかる。何しろ元日、これはただならぬ元日だった。  由来、洛内攻めには、いつも近江路と大津の中間、瀬田川の瀬田ノ大橋、また宇治川が、攻守決戦の境になる。  壬申ノ乱の大海人の皇子軍。木曾義仲の寿永の都入り。承久ノ乱の北条勢と朝廷方。  そしてまいど、守備のほうが、そのたび破られていることも例外がない。  という前例もあるので、このたびはと、千種忠顕、結城判官親光らは、その防禦構築にはあらん限りな力をそそいだ。  瀬田から石山の下へかけ、川へ向って諸所に櫓を組み──櫓には出櫓、高櫓の二種があって──楯のうちに弓隊の弓の上手を選抜して揃えた。  もちろん、大橋の橋板はすべて撤去し、橋づめの口には、厳重な鹿垣。ここには弓隊だけでなく、その後方に長槍隊と歩兵部隊が厚く見える。  そしてなお、川の中には、乱杭を打込み、大綱を張りまわし、膳所ヶ瀬、供御ノ瀬のあたりまでは水も見えぬほどな流木だった。すべて敵の渡河にたいする防禦であるのはいうまでもない。 「天野経顕の軍忠状」に見ても、 正月元日より十一日迄 連日の合戦 警固毎日 高矢櫓にありて 軍忠に抽んづ  とあり、いかに肉薄戦がむずかしく、遠矢合戦に暮れていたかがわかる。  が、これは正面大手だけのことだった。  ──宇治方面では楠木正成の五千騎が、宇治橋を断り、槙ノ島、平等院のあたりに黒煙をあげ、ここの守備は一ばいものものしく、 魔風、大厦に吹きかけ 宇治平等院の宝蔵仏閣 たちまちに焼けうせしこそ 浅ましけれ  と、古典の筆者も古来の文化財が芥のよう焼亡されてゆくさまを嘆いている。  いやそのような暴状はここだけでなく、石山寺の宝蔵もこのときに破壊され、淀、八幡、山崎へかけても同様だった。とまれ都門の東西南北、今やぐるりと剣槍の長城だったわけである。  また、ここで視野を大きく、全国的なうごきへも目を注いでみる要がある。  さきに足利方が、直義の名で、諸国へ飛ばしておいた檄の応えが、いまやものをいって来たかたちで、 五畿、七道、四国九州、全土の朝敵 一時に蜂起すと聞えしかば 朝野肝を消さずといふ事なし  とあるような情勢にもあったので、都はまさに海嘯の中の一楼に似ていたのである。──現に、刻々と兵庫、摂津方面からせまって来る四国の細川定禅(足利一族)、山陽、山陰の武族など、みなそれの呼応で起ったものだった。  だから尊氏には、確信があった。心に期して、あせらなかったようである。  彼は大晦日も元日も行軍中にあった。そして途上、江州の伊岐ノ宮の小城を一昼夜で攻めつぶし、前線に着いてからでも、入念に巡察をおこなっていた。しかる後、いよいよ瀬田の攻撃を弟直義と師泰の手にあずけ、自身は中軍の精兵一万余をひきいて宇治へ向った。  足利方の兵力は、官軍より数倍多かったようである。  勝てばどっと降兵を加えて強大となり、負くれば一夜にその旗営も痩せ細ってしまうのが、今の合戦の特徴だった。低い士分、雑兵のあらかたが「命」を一つの投機にして、戦場をただ食う職場とも考えていた風潮がひろい底辺にはあったのだろう。  とまれ、尊氏は敵に数倍する兵を計算に入れて、ひとつの人海戦術に出た。  それは上手な戦法では決してない。坐しての政略には富むが、馬上実戦の奇手などはない彼である。しかし、策はあった。  その日、七日から八日へかけて。  かねがね、しめしあわせを持っていた足利軍は、瀬田、宇治、大渡、山崎、丹波口、のこらずの前線から一せいに攻撃をおこした。──主力はもちろん尊氏の麾下で、その中軍は、八日、大渡をつき破り、同夜、八幡方面まで進出した。  そして、翌九日、 「山崎の口も、細川定禅、赤松円心らの手勢が、かち取ってござりまする」  との伝令をうけたとき、尊氏は口にこそ出さないが、 「もう、しめたもの」  と、思ったような態だった。  はじめ、彼は宇治を突破口と考えたが、その手の守りには菊水の旗が見えた。すると、彼は、 「楠木勢だな」  と、すぐ転じて、大渡へ移ってしまった。なぜか正成を避けたのである。  もし尊氏がそこの守りを突いたら、楠木勢も一敗地にまみれていたかもしれなかった。なぜなら、瀬田、供御ノ瀬方面の味方あやうしと聞えたので、正成は麾下の矢尾ノ別当、志賀右衛門らに八百騎をつけて、加勢に割いてやったところであり、義貞は淀口、脇屋義助は遠い山崎だったから、とても尊氏の兵力はささえきれなかったにちがいない。  けれどまた、もし楠木へぶつかって行ったら、尊氏軍の死傷もおそらくかず知れなかったことだろう。──尊氏はよくそれを予察していた。──いや正成を知悉していたのである。彼はまだ心のどこかで正成に惹かれている。 「縁あらば」  と、他日一つの酒を酌み合い、同床異夢にあらぬ同夢をみることがないでもないと思っていたのだ。  十日の昼合戦は、伏見、鳥羽、桂川の沿岸など、長い戦線で展開された。──しかし細川定禅、赤松円心らの四国、中国勢は、すでに洛内の一角に入っていた。──義貞の一万余騎は、いくつもに分裂し、日没前、諸所に乱れ立つのが見えた。 「宇治もやぶれた……」  とは、その時刻の声だった。  尊氏の軍は、伏見へ出、このさいまたも、馬淵義綱、田上正氏などの降将とその兵九百人を加えていた。  そして味方の細川定禅、赤松円心則村の二将と、鳥羽殿の門外で落ちあった。つまり東西両軍の連絡を遂げたのだった。 「本望を遂げまいた」  と、円心は言った。この円心も、いぜんは宮方であったが、例の建武恩賞のさい、余りにもひどい冷遇に怒って、いらい国元の播州にひき籠っていた者であった。  瀬田はひがしの関門だが、都の西の八幡、山崎はもっと重要である。畿内、西国街道へののどくびなのだ。  尊氏はいつも目先の障害にとらわれない。先のたたかいをたたかって行く。万難を排して、今やこの方面の赤松円心や細川定禅らの西国勢と手をむすび、そして鳥羽伏見から羅生門にわたる都門の動脈を扼してしまったものである。 「洛内の占領も、はや、今夜のうち!」  当然、波濤の軍勢は、逸っていた。が、尊氏は、 「あしたにする」  と、急に、この日の合戦を、ひとまず都の郊外にとどめ、そして、 「もう急ぐことはない。むしろ宇治、大渡、丹波口などに、なお、うごめく敵へそなえて、味方をかためろ」  と、いう令を出した。  停頓は意外だった。麾下の将士には理解できないことである。このへんを彼の戦下手という者はいうのだろう。古典「太平記」「保暦間記」「梅松論」の諸書はその理由を、 この日、十日は厭み日(悪日)なればとて、洛中攻めは翌日にのばす──  として、あえて尊氏の気もちには入っていない。しかしそんな御幣をかつぐ尊氏でなかったことは、これまたいうまでもないことである。  血に狂う豼貅数万の大将として、尊氏が慎重でないわけはない。おそらくは、いまや動顛狼狽の極にあろう内裏の大宮人たちが──わけても後醍醐のご進退が──彼の胸にも想像されて、 「まず、こよい一夜は、ご猶予を差上げておくべきか」  と、したのがその胸底であったと思う。  この期にしろ、彼には本心、後醍醐を憎みたてまつる気などは毛頭ないのである。ただしかし尊氏にとっては当面、まことに困るお人なのだ。退いてもらえばよいのだった。──すでに叡慮としてもお勝目はありますまい。聖断いかがなされますや。尊氏、これにて一夜だけはお待ち申し上げましょう──。という無言の表示がその停戦であったと観る。  まさに、その通りで。  洛中は早や死の街に似、どこか戦線の綻びから潜入した西国兵が、町屋の裏にひそんで火をつけ出したのが消し手もなく燃えひろがり、煙は二条内裏へも忍び入って、いつにない早い黄昏れが御所一円をおおい出していたのであった。 「いかにせん?」  との、御評議もまたたくまだった。──主上には叡山へ御落去あるぞ! ──と声大きく触れ出された瞬間からの光景といってはもう一ト方な騒ぎではない。  賢所の神器を、玉体にお添えし、鳳輦へと、お急き立てはしたものの、それをかつぐ駕輿丁の者はいず、ぜひなく、衛府の士が前後を担いまいらせる。また、供奉の公卿も、若きはあらかた甲冑弓箭をおびて前線へ出払っていたし──吉田大納言定房が牛車をとばして参じたほか、老殿上十数人、滝口、蔵人の輩など、寒々しいばかりである。──そしてただ多かったのは、准后の廉子以下、あまたな女御やそれに侍く小女房たちの女人だった。  十日の宵には、瀬田はまだ陥ちていない。  前線の義貞からは、夕方、 「お気づかいあるな」  と、宮門まで強気な伝令もあったりしている。にもかかわらず、洛内の危機感は、刻々、不気味さを濃くしていた。玉座をまもる侍臣のあわてふためきも度を過ぎてはいたが、このさいの、  主上、山門へ御動座  の措置は、よくよくなことだった。窮余の急、やむをえなかったともいえようか。  こんな例は、平家都落ちのむかし、木曾義仲の侵入にあたって、一時、後白河法皇が叡山へ難をお避けになったあれ以来のことである。しかも後白河のばあいは、源平両勢力の上になお中立的な余地を残しておられたが、こんどはそうでない。──後醍醐はその経過やら綸旨の上からも、御自身、軍の御指揮者たるのかたちで、公卿すらも弓箭を取って陣頭に出ていたのだった。  だからおなじ蒙塵(天子の御避難)でも、今日の恐怖は、往時の比ではない。──賢所の渡御(三種ノ神器の移動)を忘れなかったのがやっとであった。──日ごろ、紫宸、清涼、弘徽殿などになぞらえられていた所の一切の御物──また昼の御座の〝日の簡〟、おん仏間の五大尊の御像、后町のきらびやかな御簾ごとの調度なども──すべてそのままお立退きのほかなかった。  それから、まもなく。  これらの巨大な洞窟の宝財はチラチラと煙のなかに静かなそして妖しいばかり美しい火を持ち出していた。飛び火か。兵の放火か。バチバチとしばらくは火ハゼの音であったが、やがて天に冲す炎の柱になり出した。──その中天には、寒烈一月十日の、月があった。 ここわづか天下一統して 朝恩にほこりし月卿雲客 さしたる事もなきに 武具もたしなみ 弓馬を好みて 朝儀、道に違ひ 礼法、則に背きしなど いつかは かかる不思議の 出来るべき前表なりけん  とは、古典にみえる浩嘆であるが──この炎をうしろに、叡山東坂本へと落ち行った鳳輦の供奉の人々にしても、それぞれの感や反省の傷みに、足も心もそぞろであったに違いあるまい。  が、かくと知って、途中からは、追い追いと、お供の人影なども増していた。  阿蘇ノ大宮司惟時、出雲の宇佐兵衛ノ尉助景の手の者が、まっさきに来て、ご警固に付き、新田の諸侍、千葉、宇都宮、そのほか戦線から脱落していた軍兵なども、北白川から志賀越えへかけては、ぞくぞく、おあとを慕って来る。  すると、このうちにあった結城太田ノ大夫判官親光は、なに思ったか、 「いや君のお供をして叡山へ行くよりは」  と、急に独り言して、鳳輦のおそばへ走ってゆき、あたりの公卿へこう告げた。 「少々、思い立ったことがござりますゆえ、それがし一人は、ここにておいとま申しあげます。主上へは、よそながら後日にでもよろしく御奏聞おきを」  と、理由もいわずに、元の道へ蹌々ともどってしまった。──親光ほどな侍さえ臆病風か? と口惜しがらぬ者はなかった。  瀬田口は依然としている。諸所の守りで官軍は破れたが、ここのみは頑強だった。 「師泰」  と、直義はいま呼んだ。猛攻まる二昼夜の号令に喉もつぶれた声である。  副将の高ノ師泰も疲れきッた姿だった。すぐそれへ来たが、直義が黙然とただ戦線をにらんでいるので、彼も腕ぐみを共にしばらく側に突っ立っていた。  戦線は瀬田川の川床だった。上流は石山寺辺りから湖水口へかけてまで、折々にわあッと喊声をあげている。  だがまだ、一騎も対岸へ駈け渡ってはいない。  無数な人馬の屍は、河中の張り縄や乱杭にひッかかったまま水に洗われており、橋板のない大橋の上にも矢に仆れた味方の死者が、あえなく橋ゲタに伏したり、ブラ下がって、水面に落ちかかッている。──それさえ収容できぬほど、対岸の高矢櫓や出矢櫓の弓陣は、進み出る人影さえ見れば、どっと、矢の乱射を集中してくるのだった。 「師泰。どうかならんか。何かよい策はないか、何か……」 「さあ。死傷もかぞえきれません。さまざま、手を変えてみるものの」 「くりかえしだな」 「ただ累々の犠牲を河に埋めるばかりで」 「だが怯んでなどいられるか。すでに兄者の軍は大渡を破り、きのうは八幡、山崎まで進んだとある。直義何をしているのだとのお叱りが聞えるようだ」 「師泰とて笑われ者、歯ガミを禁じえませぬが、これ以上の死者を出すのもどうかと考えられまする。ま、明朝ともなれば」 「明朝、何が?」 「道誉の船手が、湖上、遅くもこれへ着きましょう」 「その佐々木は、疾くにこの瀬田攻めに参加しておるはずの者。またも日和見かもしれん。元々、風上にはおけぬやつだ。あてにはするな」  先に道誉が味方を救った二度寝返りの芸などは、いかに大きな軍功であろうと、直義には内心、軽蔑の感しか残されていない。尊氏はとかく珍重しているが、もとから彼には性の合わない男なのだ。苦戦、このさいにおいてはなおさらだった。  ところがである。十二日の未明だった。  まだほの暗い湖上を、数十の船影が、瀬田の岸へ寄って来た。佐々木勢であったのだ。道誉は、直義に会うとすぐ言った、 「ご苦戦もさぞと、心はせいていましたが、船手の準備に日がかかり、途中敵の舟陣の目をかすめるなども容易でなく、思わぬ日時を費やしました」と。 「いや、むりもない」  直義は怒りもわすれた。正直、百倍の力を得たよろこびだった。がしかし、そのすぐ次に、道誉は容易ならぬ情報を彼に告げた。──それには、船手の加勢をえた直義の強味も、差引き、大きな狼狽を余さずにいられなかった。  何事かといえば。  かねがね、予測はされていたことだが、奥州の北畠顕家が、北の精兵七千騎をひきつれ、長途、王軍をたすけるべく疾風迅雷のように西下して、はや不破を越え、今日にも、近江愛知川には着くであろうとのことだった。 「なに。──北畠顕家の奥州軍が、今日にも愛知川へ着くというのか」  足の裏から地ひびきでも聞いたように、直義は恐れ慌てた。予期はしていたが、こう迅く! とは想像外であったらしい。 「もしその大敵を背後にうけ、ここもまだ陥ちぬとあったら一大事ぞ」  と、道誉と共に作戦をねッた。そして遮二無二、今日中にはと、水陸から瀬田の敵をおめきつつんだ。  この湖上奇襲はみごと功をそうし、直義と道誉の兵が、やがて粟津の岸を占領してからは、官軍も腹背の脅威にあきらかな苦悶をみせはじめ──またまもなく、正面の高ノ師泰も、瀬田の一角を突破していた。  柵、櫓、幕、陣小屋。たちまちそこは火の海となり、官軍はぞくぞく大津、坂本方面へと退却し出した。しかしこのむりな突破に払った足利方の損害は寡少でない。直義が行くところ、その戦場はいつも余りに烈しく余りにも血なまぐさい。  時に、この十一日。  一方の尊氏軍は都の西から入洛して、洞院ノ公賢の空館を、仮の本営とさだめていた。  同日、こんな事件があった。  尊氏もまだそこへ床几をさだめたばかりの混雑最中に、 「申し上げまする。──結城太田ノ判官親光が降参の由を申して、そのおとりなしを、かねて親しい大友左近将監貞載まで願い出ておりますが、いかがいたしたものかと、大友よりの問い合せにござりますが」  と、営門の将から伺いを立てて来た。  折ふし──降参ノ輩、注スルニ暇アラズ──の状だったが、親光といえば、東北の大族結城宗広の子である。またとない者だ。尊氏はすぐ大友に伴れてまいるようにと、いいつけた。  その伝命で、大友左近将監は、すぐ親光をつれて陣所を出た。そして樋口東ノ洞院の小川べりづたいに来て土橋を越え渡ると、大友が言った。 「はや、そこが御門前。法なればお腰の刀をお預かり申したい」 「こころえた」  と、親光は太刀を外し、鞘の鯉口を左に持って差出しながら、 「年来、そこもととは、武士のおつきあいをして来たが、よも、こんな降参のお扱いを願おうとは思わなかったな」 「まったくじゃ。したが名よりも実だ、今の世は」 「げに、そこもとは気転がよいな。伊豆三島の合戦に官軍が破れたのは、まったく御辺と佐々木が寝返りのためであったと聞く。──おおッ、人非人! よくも戦友を売り、君恩を裏切ッたなッ」 「あッ!」  と、大友は額から左の目へ抜き打ちに浴びせられた半身を朱にし、本営内へ逃げこんで行く。──親光は、阿修羅となり──逆賊尊氏にも見参せん! 尊氏にも一ト太刀! ──とつづいて門へ駈け入ったが、たちまち大勢の白刃に囲まれ無残な死をとげてしまった。  大友もまた、翌る日、息がたえた。この騒動は日常血ぐさい戦陣での出来事ながら、余りに無節操な降将やら時の人心をいたく衝撃したようだった。──また前夜、後醍醐に供奉していた叡山落ちの人々も、親光が列を脱けたその折の思いちがいを、あとではいたく慚愧したとやら、これも当時の評判であったという。 小公子  四明ヶ岳の樹氷、湖水を研ぐ北風。叡山東坂本の行宮は、寒烈、そんな一語ではつくせない。言語に絶する寒さだった。また敗報に次ぐ敗報のうえに、 主上はすでに 大宮の彼岸所に御座あれど 未だ参ずる大衆一人もなし さては 衆徒も心を変じぬるや……  と、あるのを見ても、この日まだ、山門の意向さえも、はっきりしていなかった形勢であったとみえる。  おそらくは、山門の僉議も、  お味方か、中立か  の二論にわかれていたのだろう。尊氏軍の洛中占領も、直義の瀬田陥落も、山上にはわかっていたはずである。いやそこから手をかざせば、洛中洛外の兵火は、一望に見えもする。 「もし叡山が、足利がたへ傾いたら?」  これを思うと、供奉の公卿たちは、食べる物も今朝はのどに通らなかった。  主上以下、皇室の大御家族は、日吉山王二十一社の〝彼岸所〟とよぶ空院に、それぞれ一夜をやっと凌がれたが、玉座のおかれた一院でさえ、氷の床、氷柱の御簾、吹き騒ぐ枯葉のほかは参ずる人もなかったらしい。  まさに、後醍醐御一生のうちでも、この日はもっとも険しい、そして、あやうい御浮沈の刻々だった。  が、ひる頃。  はじめて、藤本坊の英憲やまた円宗院の法印定宗らが、五百余人の堂衆を後えにつれて、大床の下に来て伏し、 「まずは三千の衆徒、臨幸を厭んじたてまつるなどの者は、一人もあるまじきにて候う。一山同心、ふた心はあらじと、ご叡慮を安んぜられて、しかるびょう存じあげまする」  と、奏した。  さらに、南岸坊の僧都、道場坊の宥覚なども、千余の僧兵をひきいて行宮をかためにかかった。また、みかどに随身して来た将士のためには、坂本、比叡辻の坊々や民家の家々に札を打って宿所にそなえ、軍需として、延暦寺からは銭貨六万貫、米穀七千石を提供した。  山上、十禅寺の大鐘は、はやたえまなく鳴りつづけ、ついにここも戦場と化して来た。  およそ戦雲のつばさはどんな法の山だろうが避けてはいない。──つい嶺の南、大津の三井寺は、由来、叡山とは何事につけても反目していた。幾世にわたって対峙してきた宗門と宗門だった。そこへ、尊氏の麾下、細川定禅の軍が、瀬田の直義に代って、今朝から入った。──法城を軍城として、坂本へ襲せる気勢をみせているという。叡山もまた、当然に、城塞化した。  けれど、よく幾日を、ここにささえられるだろうか。  千種、楠木、新田、名和、それらの味方とここの行宮とはほとんど連絡もとれていない。寸断され、包囲され、随所で苦戦におちていた。──しかるに尊氏軍は刻々と叡山一点にその重包囲を圧縮しつつある状だった。東坂本の下からも、西坂本の方面からも。 「……ああ、潮の中よ」  行宮の憂いは濃い。ただ望みは、奥州軍北畠顕家の援軍が、まに合うか、まに合わぬか、それただ一つでしかなかった。  奥州軍──  ここでそれの動きを見るには、どうしてもまず北畠顕家の人とその立場とに一章を割いておかねばなるまい。  こんどの、尊氏討伐の大命が発せられたさい──あの去年十一月二十日のころ──朝廷ではそれと同時に、遠い地の陸奥守顕家へたいしても、  直チニ発向セヨ  の檄を飛ばし、  郷軍、鎮台兵ノ全力ヲ挙ゲテ、北方ヨリ衝イテ上レ  と逐次、朝命を急達していた。  しかし、当時としては何しろたいへんな遠隔だった。  鎮守府の柵、多賀城のあった地は、いまの宮城県宮城郡多賀城町市川、岩切駅の東一里で、仙台から松島へ行く塩釜街道の途中にあたる小山である。  延喜年間の碑というそこの多賀城碑によれば、  京ヲ去ル、一千五百里  と見え──もちろんこれは古里の六町を一里とかぞえる大ざっぱな里程ではあるが──歩いての旅でも、片道二十五、六日といわれていた。 「すわ、御国の大事」  顕家は、勅を拝すなりその遠さにまず胸がつかえた。  鎌倉までとしても半月の余はかかる。彼は父の親房にはかって、地方政所ノ執事、評定所所員、侍所の面々、寺社、安堵奉行までを加えて、国司の議場で大評議をひらいた。そしてその場ですぐ宣言した。 「案じられる! このたびの大乱こそ、御国のありかたを決するものだ! 一日のまも猶予はならぬ。わしは今日にも多賀城を立つ。──家の子郎党の糾合などに手間取るものは、急いであとより追ッかけて来い。──柵の留守には、南部師行、冷泉家行らを残す。──あとはすべてわしにつづけ。時を逸して、馳せおくれたら一代の不覚だろうぞ」  顕家は時に十八歳だった。  おととし十六の秋に、奥州鎮定の大任を負い、幼い義良親王を上に、父の親房や結城宗広を後見として、この地へくだって来ていたのである。  陸羽の奥はまだ蝦夷地のままといってよい。乱妨、反乱、同族の闘いなど、絶えまもない。──顕家は二年の在任ですっかり戦陣の起居に馴れた。根は根からの大宮人、任は国司という文官なのだが、いつか純粋花のようなこの童貞の人は、自身を馬上の将軍にきたえていた。  後見の父親房は、あの「神皇正統記」の著者でもあった。それでもわかるように身を持すことみずからきびしく、神国、皇室、万世一系を緯とする主義のほかには生きがいもないかのような人である。顕家はこの人の鋳型に鋳られた理想の子として親の目にも映っていた。  そのむかし、この顕家もまだ十四歳の左中将の若者であったころ、北山殿の行幸に、花の御宴に陪して、陵王の舞を舞ったことがある。  よほどその紅顔可憐な姿がお目にのこったものとみえ、みかどはそのごもよく「あの、花陵王はどうしているの?」と父の親房へままおたずねがあったりした。──その紅顔の子顕家が、今日の国難に赴く奥州軍の総帥だった。思わぬ任地へ来て二年、北国の朔風に研がれた馬上の子は、その生涯の方向を、いまは誰かに決定づけられていた。  ともあれ、どう急いでも顕家がその鎮守地──陸前多賀城ノ柵──を発したのは十二月半ば頃であったろう。  みちのくの山はすべてまッ白だった。行軍は明け暮れ吹雪になやまされた。  柵の留守も要る。初め兵は千にも足りぬ編成だったので、その長途をあやぶまれたが、顕家は、 「行く行く、途中で参陣の約ある者三、四千はかぞえられる。いまは兵力よりも一日でも早く立つほうが、はるか大事ぞ」  と、言って出た。いかに彼の純真な意気が行くてを急いでいたかわかる。  軍中には、父親房も交じっている。その親房は、ことし八歳の義良親王を綿帽子にくるんで馬の鞍ツボに抱いていた。──しょせん、輿では道もはかどらず、駕輿丁の者も、雪の歩行にたえられぬからだった。  旗は、錦の旗の一旒をかざし、ほかは弓まで袋にしていた。弓弦なども張ッたままでおくとピンと凍ッてまま切れてしまう。また不意な雪中合戦が起るとしても、こんな大雪では矢バネも用をなすまいかと思われた。  が、顕家の南下を、  ──やらじ  と、さまたげたのは、途上の風雪だけではない。久慈郡の佐竹ノ楯。亘理郡の相馬一族。またさきに尊氏から、奥州管領の名で東北に派遣されていた斯波家長の党などが、 「親王を奪い、顕家、親房を討って取れ」  と、あらゆる妨害と、またしばしばの奇襲に出た。  しかしまた、顕家の軍も、遠からず参会の将を加えて、威風堂々をなしてきた。そのおもなる隊には、伊達、南部、結城などの大族があり、やがて白河を越え、雪もうすらぐと、上野地方から新田与党の参陣もみえて、兵は五千余騎に達していた。  だが、予想以上な日かずを費やされたのはぜひもない。  何しろ斯波家長らの追躡(尾行してくる攻撃)も執拗なので、鎌倉を横に見捨て、ひたむき、東海道を急いだが、ついにあの──箱根竹ノ下合戦には──間に合わなかった。  もし、それに間に合っていたなら、足柄山上から黄瀬川谷へかけ、尊氏の軍はそのとき限り時代の墳墓に埋没され去ッていたことであったろう。──時運の機微、寸秒の作用のふしぎ、それらをあとでかえりみれば、人意人力のほかに、また一つの、天意みたいなものがあるのを何としても否みきれない。  こうして、顕家の奥州軍は、年の瀬も正月もなく急いでいたが、都へ近づくほど、官軍方の聞えは悲風ばかりで、足利方の優勢は断然たるものがあり、一夜の宿陣も気が気ではなく、  みかどは如何なされし?  都の姿もどうなったか  と、奥州出発いらい、およそ二十八、九日めに、やっと近江愛知川の湖畔に着いた。いや着くやいな、戦旅の疲れも、鎧虱や泥土を払う暇もなく、 「船はないか。叡山はここから見えるが、瀬田、大津は敵の陣地だ。一刻も早く、これを彼方の行宮へ知らせたいが」  と、またはたとその連絡には当惑していた。  船集めは容易でない。  まして敵地だ。数千の兵馬が着いた日すぐ湖上を渡ったなどは考えられぬことである。おそらくは、顕家が着くいぜんに、先発隊が来てすでに幾日も前から愛知川口に手配をしていたものだろう。  いやそれにしても、湖東や湖南に住む水上生活者の協力がなければできないことだった。古来、堅田や焼津には、叡山勢力下の船持ちがたくさんに部落していて〝堅田湖族〟などと世によばれていたし、同様な水辺部族は、湖南の野洲川や能登川口にもあまたいたものにちがいない。──おもうに顕家は、後日の報賞を約して、彼らのかくしている〝隠し船〟を集めさせるに成功したものではないか。  とまれ、奥州軍七千は、湖東と堅田の間を幾往復もくりかえして、十三日から十四、十五の三日間にわたり全軍琵琶湖を船で渡った。  このさい、陸路では、瀬田ノ大橋が落ちているし、また足利方の占領区域ではあり、どうしても、奥州軍は一兵のこらず水路によったものと見るしかない。 「おお、援軍が見えたぞ! 援軍が着いた!」 「奥州の猛卒猛将」 「しかも七千が」 「万歳」 「万歳っ」  東坂本はまるで狂気のあらしだった。山門の大鐘も全山の衆徒へ、ごんごんと告げ鳴らしている。──これはすでに前日から分っていたことだが、日吉彼岸所における行宮のあたりの色めきは一ぺんに春が来たような騒ぎに見える。公卿侍臣たちは、抱きあって泣いた。或る者は、展望のきく所へ駈けのぼって、堅田ノ浜から整然と進んで来る黒い長途からの軍列へ手を振っていた。わけて、俄に明るさの流れていたのは、准后の一院やら、女御小女房などの密まっていた避難所だった。  そうしたうちに、麓からは、 「顕家、参内」  の由が行宮へ聞えて来た。  お待ちかねだった。生やさしいお待ちようではない。後醍醐はここ十数日の憂色も初めて、何処かにほころばせて、 「来たか。──あの花陵王がやって来たか」  と、お口をついて仰っしゃったほどだった。  花陵王とは、かつて、顕家が十四のとき、花の御宴に陵王を舞ってお目にとまったときからの、帝が彼をよぶ愛称だった。──その顕家は十八となり、花の将軍となって、お目の前にぬかずいていた。後醍醐は彼の援軍をえて、再生のお気もちでもあったが、あの小陵王が、こんなけなげな者になったかというご感慨なども入りまじり、あらゆるおことばで、顕家の労をねぎらわれた。 「…………」  顕家は感泣していた。かぞえ年の十八はまだ年少な香をもっている。感情の琴線は純で一途だった。情に極まると子供みたいな咽びを洩らす。  父親房は、やがて親王にお添いして、准后の院へ伺候して行った。──が、顕家はなお御前にのこって、宵のころまで御酒を賜わり、その夜は行宮の廊ノ床に、鎧も解かず、宿直寝していた。ここのおよろこびもただならない。しかし、当夜も麓は合戦の火の手やら地獄を思わす人間のおめきであった。  まだらな残雪に見える。十四日の月のこぼれだ。  顕家は綿のごとく疲れていたのにさてなかなか眠れなかった。──山風はつよく、麓では遠い兵馬の喧騒が海鳴りに似、夜じゅう、何か事ありげだった。トロとしかけては本能的にすぐ筋肉が目をさます。  それに吹きさらしな行宮の外廊は、氷に坐しているようだった。だが、これは彼が求めてしていた宿直だった。──宵に、親しく御酒をいただいたとき、たまたま後醍醐のおくちから、 「顕家、覚えておるか」  と、元弘元年の北山御遊のおはなしが出たのである。その平和な一日の楽しさ、尊さ。顕家にも忘れられない。  それで彼は北山殿でも花の終夜、君に宿直したことなども思い出して、あす知れぬ戦陣の身、これがお名残りになろうもしれずと、独り今夜をここに懐かしんでいたのであった。……するうちに、いつか彼は、長途千里の疲れやらここに着いた安心も出て、眠るともなく過去層の幻影の中にふと居眠っていた……  ──あれは春の三月で、  花を見ばや  の北山行幸だった。  中宮を初め、女院の鏡子や瑛子の君なども御一しょであった。みかどは寝殿の階ノ間にお茵をおかれ、階の東に、二条ノ道平、堀河ノ大納言、春宮ノ大夫公宗、侍従ノ中納言公明、御子左ノ為定などたくさんな衣冠が居ながれていた。  御遊は終日におよび。  やがて、楽所の御興には、右大臣兼季の琵琶、権ノ大夫冬信の笛、源中納言具行の笙、治部ノ卿のひちりき、琴は宰相ノ公春など秘曲をこらした。  なお、それにもまさる聞き物は、女蔵人ノ高砂、播磨の内侍たち、あまたな女人の合奏だった。そのころ中務の宮も、おん直衣に太刀姿で見えられ、御随身どもと一つに、舞謡の手拍子などに興じ入られたと、この日のさまは「増鏡」の〝むら時雨の巻〟にも眼のあたり目に見るように描かれている── 暮れかかるほどに 花の木間、夕日花やかに移ろひて、陵王(扮装せる当年十四歳の顕家)のかがやき出でたるは、えもいはず、おもしろし。 そのほど うへ(後醍醐)にも、御引直衣にて、椅子につかせ給ひて、御笛を吹かせ給ふ。──宰相ノ中将顕家、陵王の入綾を、いみじう尽して罷づるを、召返して、前ノ関白殿、御衣とりてかづけ給ふ。 紅梅の上は着、二あゐの衣なり。左の肩にかけて、いささか一曲舞ひて罷かン出ぬ。右の大臣、太鼓打ち給ふ…… 「ああ、夢よ」  顕家は目醒めた。  しかし、太鼓は夢でない。何が起ったのか。とうとうと麓で陣太鼓が鳴っている。  あの君、この公卿。夢の中の人にしてなお今日も生きている人が何人あるだろうか。顕家の瞼には、一瞬、儚い花びらが、水の上の花屑のように流れ去ッた。 「やっ? 敵の襲来か」  あたりは急に騒然とし、坂本、唐崎の遠くにまで、潮のようなどよめきや飛ぶ火が見えた。  夜すがらな山下のあらしは、明けてみれば、それも味方の吉事とわかった。  洛内のすみに追いこまれていた新田義貞の手が、敵中突破に成功して、やっと東坂本へたどり着いて来たものだった。  また。宇治の手の楠木も、千種、脇屋、名和などもそれいぜんにみな行宮の守りに返っており──これに奥州軍の来援もみたこの朝の官軍は、まったく生色を新たに、 「いまは時措くべきでない。われから攻勢に転じ、まず三井寺の賊軍を殲滅して後、尊氏、直義を洛中に囲み、このたびこそは、その首級をあげねばならん」  と、義貞は衆に豪語していた。その日の評定においてである。  顕家も加わっていた。 「……ですが」と、彼は年少なので、いと控え目に、 「われら、千五百里の道(古里の数)を昼夜なく馳せのぼって来たみちのくの兵馬は何ぶんにも疲れはてておりまする。せめて一日は休息させてやりたいと思いますが」 「オオ花の将軍北畠殿よな」と、義貞の総大将ぶりも、その人へは眸を和めて「ごもっともだ。途中風雪の御難儀だけでもずいぶんえらかったことでおわそう。……したが、長途を来た兵馬というものは、生じ一両日休ませると、かえって骨がゆるんで物の役にはたたぬものだ。いッそ息を抜かせぬにかぎる。──北畠どの、それが用兵のこつというものです。おわかりかの」  と、訓えるような口調だった。  顕家は赤面して、 「よくわかりました」  といったきりで黙った。次いで諸将の発言もあったが、多くは義貞の意向ですすめられ、みかどのご裁可をみるや、ただちに大規模な作戦活動に移っていた。  園城寺、すなわち三井寺の炎上を見たのはこの日のことである。この正月十六日合戦は、大津合戦とも当時呼ばれた激戦だった。 「しまった」  と、尊氏方の細川定禅は、すぐ洛中の尊氏、直義の許へ、火急に! と援軍を求めていたに相違ない。  さきごろから尊氏の命で、定禅の軍は、ここを足場に、行宮のおかれてある叡山攻めをしきりに策していたのである。反叡山の三井寺大衆一千余も、もちろんそれを援けていた。  が、叡山は嶮だし、伝教以来のゆゆしい御山でもあるとして、尊氏がそれの攻略には大事をとらせていたことが、かえって、今日の遅れであった。義貞の猛攻撃がツケ入る好機となっている。  義貞は懲りていた。  さきの箱根、足柄の苦杯を彼は忘れ難い。あのときの戦略的な〝読ミ〟の不足は大将として恥ずべきだった。だから今はその逆に出た急襲といえなくもない。  はや三井寺には黒煙があがっている。──一番、千葉ノ介高胤、二番、北畠顕家、三番、結城宗広。四番、伊達と信夫の連合勢。──ほか楠木や名和の隊も突進してゆき、攻守入りみだれて、炎の下のたたかい半日余、たそがれにはもうそこは無残な火塵の広場だった。そして山科から京方面へ黒々と足利兵の逃げなだれが続くばかりで、ついに尊氏からの援軍は見なかった。 第五列  洛内はさっそく兵糧に欠乏していた。  首都占領の優位も、大軍勢も、その点では、無条件に楽観してはいられなかった。 「円心。播磨船はまだか。糧米輸送の見込みはどうだの?」  尊氏は、赤松円心を見るたびにこう訊かぬ日はない。  昨今、山陽道は杜絶していた。楠木の別動隊が淀の水路や河内、摂津口をさまたげているためだという。──先に細川定禅の軍を三井寺へやっておいたのも、近江口の糧道抑えが一つの目的だったのだが、瀬田ノ大橋は破壊され、湖上の輸送はなおままならない。そしていまやこの焦土の洛中なのだ。日々数万の兵が糞するほどな食糧が残されているはずもなく、 「はて、負ければさんざん、勝ってもこの餓鬼のすがた。とかく、戦とは、難しいことがいろいろ起るものだ」  と、尊氏はつらつら痛感していた。──それでも数万の兵が何とか食っているからだった。そのかわりあらゆる軍の悪に目をつぶっていなければならないのである。彼にはそれが自分の悪行みたいにつらく見えた。  そして彼のあたまは、朝夕、本陣の床几の前に据えられる敵将の首を見るなどよりも、どうしてもほかへ熱意をひかれていた。わけていま、彼が求めていたのは、性急な戦果ではなかった。その戦果を確実なものにする戦争名分であった。 「わからんか。お行方は?」  今日も尊氏は、つい司令部の貴重な一刻を、それの詮議に、過ごしてしまった形だった。  彼が求めるものの捜査の主任は、例により一色右馬介が命ぜられていた。右馬介はあの雲水姿を便衣として、手下も使い、ここ数日それに奔命していたが、 「なんとしても、お一ト方すら分りませぬ。これ以上は叡山にでも登ってみぬことには」  と、毎度のむなしい復命をまたくりかえしていた。 「ではやはり……」と、尊氏も今は半ばあきらめ顔に。 「持明院統の後伏見、花園の二法皇から新院(先帝、光厳)の君まで、すべて過日の内裏落去のさい、共に叡山の上へ、いやおうなしにお座所変えを強いられて行ったものと考えるしかないか」 「必定は」  介も、さじ投げ気味で。 「それに相違ございますまい。およそ御避難ありそうな先は、くまなくお捜し申しあげまいたこと。……が、なお、望みはないでもございません」 「さはいえ、叡山では、近づきまいらせる手もあるまい」 「いえ。持明院統の臣で、去年の騒動、西園寺公宗(北山殿)の一件にからみ、以来、剃髪して寺にかくれている公卿がありますそうな」 「たれか」 「日野資名卿です」 「日野?」 「はい。むかし、佐渡ヶ島の配所で、あえなく亡くなられた資朝卿の弟御。てまえとも、まんざら縁なきお方ではありません」 「それは絶好なお取次だ。資名どのを捜し出せ。資名を介して、持明院統の院宣を請おう。──軍はここまで勝ってきたが、院宣を持たねば、遂にさいごの実は結ぶまい。その者ならば、居所は分っているのか」 「いえ、まだ……」と、介は首を振って。「これから捜すわけですが、しかし、手がかりもないではございませぬ」 「はやくいたせ。──もはや今日の戦いは、足利と新田のいくさとは見せようがない。この尊氏は朝敵とみられておる。我に名分がないのは、軍に旗がないのにひとしい。──大きな弱みだ。一日も早く、持明院統の院宣を請い奉って逆軍でない証を示さぬことには」 「は。きっと、急ぎまする」 「して。その日野資名の居どころを、どこに捜すの?」 「戦前ですが、仁和寺の尼長屋に、佐渡で亡くなられた資朝卿の後家の君が隠れ住んでおりました」 「む。資名には、嫂にあたるお人だな」 「そうです。その後家君の許に、ご存知の、小右京の君も一つに身をよせていましたゆえ」 「おおあの、小右京か」 「おそらくはこの戦乱で、尼長屋の人々もどこぞへ散り去ったかもわかりません。……けれど仁和寺のあたりへ行けば、知れぬことはございますまい。また資朝卿の後家ぎみに会いさえすれば、しぜん資名どのの居る所も分ろうかとも存じられます」  はしなく、小右京の名を聞いて、尊氏は、この大きな世の波濤に会ってその姿も見せなくしている無数な弱き者──磯べの貝殻のような力なきもの──盲の覚一やら草心尼などの安否もふっと思い出されていた。  が、そのとき、陣外は急に騒然としていた。 「黒煙が望まれる!」 「園城寺だ、三井寺の方ではないか」  尊氏は、さすがすぐ床几を立って、さっと陣幕を出て行ったが、また戻って来て。 「介」 「はっ」 「いくさの勝敗はまだいずれともわからん。しかしそちに命じておいたことは目前の一勝一敗にかかわらぬ大事中の大事だ。はやくそちはそちの使命に向って吉報を持って来い」 「では、後刻また」  追われるように右馬介は笠をかぶって巷へ出て行った。  その巷は、狂奔する兵馬以外には、ただの生業のかけらもなかった。──三井寺の味方危うし──の声が高い。山科、四の宮あたりには、高ノ師泰や石堂、仁木などの味方が陣していると聞いていた洛中兵は、 「なあに、大丈夫さ」  と、尊氏の本陣とにらみ合せてたかをくくっていたが、たそがれ近くから模様は妙に険しく変り出していた。  尊氏の陣営内へ入って行った直義や今川範国は、いつまでもその幕舎から姿をみせず、やがて、外に現われた直義は、何か、兄とまた激論でも交わしたらしく憤然と唇をかんでいた。そして俄に鞍馬口にあった自陣を三条河原へすすめたが、すでに三井寺から敗れ落ちて来た衆徒やら細川兵は、さんざんな態で、粟田口のへんに吹き溜められていた。 「後手だ。ざまはない!」  直義はくやしがった。 「またしても、兄者の念入りが、敵に虚を突かせたわ。せっかく勝っていた戦をよ。三井寺はもう奪り返せまい!」  後手を取った。  と、直義が切歯扼腕したのもむりでない。  たしかにわずかな時間差だった。洛中の足利方は、みるみるうちに、その優位を逆転されて、苦しい守勢を余儀なくされた。  だが、立場をかえていえば、新田勢を中心とする官軍方のこの迅速な巻きかえしは、まったく義貞の捨て身な勇が人の予想をこえていたもので──彼は箱根、足柄で舐めた不覚な教訓をここに生かし──敵の橋頭堡ともいえる三井寺を攻めつぶすやいな、まだその炎もさかんなうちに、 「この勢いで、洛中へ突きすすめ!」  と、はやくも次の段階へ指揮を振るッていたものだった。  そして味方一同の勝ち誇りにも、 「まだ、早い」  と、勝鬨も揚げさせていなかったほどなのである。  が、諸軍はとにかく、北畠顕家の奥州勢は、ここの行宮に着いてからさえ、休息なしに参加していた長途の兵なので、 「余りにも……」  と、その疲労を思いやる声もあった。けれど義貞は、 「いや、ここで弛むより、洛中の一ヵ所を占領して後、ゆるりと草枕に休むがいい。逢坂越えはあと一気ぞ」  と、耳もかすことではなかった。またすでに暮色の頃なので、兵に腰兵糧を摂らせようとする諸将もあったが、 「すべて次のさしずを待て。もし飯を食ってなどいる間に、洛中の尊氏、直義が大挙してこれへ来たら、三井寺の一勝も、またたちどころに水の泡となる。この勝ちを、勝ちとさだめるまで、少々我慢させい」  と、これをすら無視して、全軍すぐ前進に移っていた。だからその迅さには、山科にいた高ノ師泰の一陣さえ、ひとたまりなく一掃されてしまい、三井寺の崩れの中へ、さらに敗走兵を大きく加えて、ごった返しに、三条口までの坂道を、黒い流れが、逃げおめいて行った。 「保ッ、瓜生保っ」  と、義貞はそれの追撃に躍り逸ッている馬上から後ろを見て── 「瓜生の勢はちょっと待て。そちの隊は何人いる?」 「百五十人がやや欠けました。およそ百二、三十人、あとに駈けつづいておりまする」 「よしっ。その者どもの笠印をみな脱って捨てさせろ。そして、敗走する敵の中へまぎれ入り、偽わッて、敵陣の中へ敵兵となって潜り込め」 「あっ。心得ました」  瓜生隊の中には忍者組織があったのである。同様な第五列に馴れている者は、越後新田党の羽川一族や烏山一族にもある。  義貞は、それらの乱波隊にも、むねをふくめて、ぞくぞく、敵の潰乱状態のうちへ味方の第五列を送りこんだ。  宵はすでに暗かったし、三井寺衆徒のうちには、正規の僧兵のみでなく、服色一様でない土民兵もたくさん交じっていたことでもある。──そのうえ細川、高、仁木、西条など、けじめもつかぬ泥ンこな兵どもが、われがちに三条河原を逃げ渡って、対岸の足利陣地内へ混み入ったことなので、尊氏、直義の帷幕では、まったくこの手には気づかずにいた。  三井寺の失墜などは、いわば一橋頭堡の争奪にすぎず、それへ主力をうごかすまでのことはないと、たかをくくっていた尊氏も、 「なに」  と、耳を疑い、 「着いたばかりの奥州勢も加え、敵は義貞以下、総勢をあげて、三条口へ出て来たのか」  と一驚を喫したようだった。──が、それはまだ宵のくちのことで、──あわてて彼もその本陣を三条北の河原から悲田院址へかけて押しすすめていた。  そして偵察を放つと。  義貞は、自己の陣地を、粟田口から十禅寺ノ辻の辺に占め、楠木勢は、祇園林へ下がって潜み、最勝寺の森には千種、名和。──また吉田山周辺には、北畠顕家らの奥州勢──結城、伊達、南部、幾多の陣が、加茂川の一水を前に、たとえば碁石をつらねたように望まれるとある。 「さすがは」  尊氏はその手際を聞き、 「義貞は戦上手よ」  と、淡々としてつぶやいた。そして、 「義貞は元来、平場(平地)の駈けを好み、またそれが得意の騎馬隊が中心なのに、前に川を当て、後ろに山を負った布陣は、どういう腹か」  と、すこし無気味な感を抱いたふうでもあった。  おもえば、百余年来、郷国を隣にし合い、代々確執をつづけ、和解また不和をつづけて来た新田と足利とは、ここにその総決算をつけるべき宿命を、長い月日にかけて作ってきたものかもしれない。と、ひしひし、闘志に胸を打たれながらも、 「すべてはわが大望の素地だった。そして義貞もまた、この尊氏の土持ちしてくれた一人とすれば憎くもない」  尊氏は苦笑をたたえた。  だがこの夜、彼の不敵さ以上にも敵を呑んでいた者は、義貞であったろう。義貞にはすでに必勝の算があった。悠々、その夜は休んで朝を待った。  十七日、夜は矢さけびに明けた──。両岸の矢いくさに始まり、やがて加茂川河原の上下にわたっての接戦となった。くわしい一騎打ち合戦はここでは省く。──が、ただ乱軍中突として、新田方の第五列が尊氏の中軍に大混乱を呼び起したことだけはのぞきえない。──このため、足利軍は総敗北におち、一時、北野から七条、九条へ遠く退いた。  しかし官軍側も、追撃また追撃にまかせすぎて、あまりにその力を分散させ過ぎた嫌いがある。これが司令者の一失であったことは、その晩のうちに証拠だてられた。  いちど総退却した足利勢は、夜半からふたたび活動をおこし、全市の路地にくたくたとなって駐屯していた官軍へ逆襲せをかけてきたのである。  まったくの暗闇合戦で、この市街戦では、新田の重臣、船田ノ入道義昌が戦死し、千葉ノ介高胤、由良新左衛門なども、巷に仆れた。  総じて官軍は、わけて義貞の旗は、派手な敗れ方をして、きのうの戦果も、いちどに画餅としてしまったのだった。  ぜひなく、官軍は川の東へ、総ひきあげを呼び交わし、加茂の上流、糺のへんへかたまった。そして徐々に、叡山山麓の西がわ──西坂本、雲母坂──へかけて厚い布陣をみせ、なお次の新手を翌日には加えていた。  このさい。俄な新手が補強され出したというわけは、先に、洞院ノ実世を大将として、信濃へ入り、やがて義貞の本軍と会合すべき計画だった東山道軍の七千が、 「主戦場は都へと変った」 「いまは引っ返せ」  と、遅れ走せながら、前夜、行宮の下に帰り着き、そしてすぐ前線の配備へと廻されていたためだった。  これに、三千の僧兵も、向きを変えて、叡山の布陣は、すべてここに、  山の東側から西側へ  と、まったく移った。──そして以後の十日間──正月二十七日までは、両軍共に、次の大決戦にのぞむべく、その陣立てや整備に過ごし、物見同士の小ゼリ合いのほかは、たいして見るべき戦もなかった。  状況は、いわゆる四ツの相撲になったのである。  もしこの期間に、尊氏が期するところの、  持明院統の三皇  に接近するの機会をつかみえていたなら、なんらかのかたちで、彼の軍旗の上に、それが闡明されていたであろうが、ついにその様子はみられなかった。──一色右馬介そのほか、尊氏の秘命をうけて戦陣もよそに八方奔命していた者どもも、いまだになお、目的への暗中摸索をつづけているに過ぎないものか。──とにかく尊氏にすれば心ならずも賊軍の名の立場のままで、ついに二十七日合戦の大戦争へ突入するしかないものとなっていた。  しかも彼はこの日の戦いで大敗した。  賊軍、逆賊、不逞な反軍と、口にまかせて敵が罵る声々をあびて彼の部下は総くずれに崩れ立った。──錦の旗の前に脆かっただけでない。──洛中の食糧不足に足利勢の兵色がとみに痩せ飢えていたことがその敗因であったと言いうる。  すでに、洛中占領の当初から食糧政策には欠けていた。いや皆無であった。都へ入れば食糧はあるものときめ、兵たち個々の心理までおなじだった。  ところが、官の廩倉も公卿の私物もほとんど他へ移されており、疎開民家ときてはなおさらで一ト釜の粟すら残してはいなかった。したがって足利勢数万は、入洛以来、勝手な食い漁りによって生きていたのである。軍律がよく行われるはずはない。また〝軍の悪〟を伴わずにそれのできるわけもない。 「悪兵は用をなさず、か」  大敗した尊氏はすぐそのことばに思い当っていた。  それにしても、この日の惨敗はみじめ極まるもので、主戦場となった下り松から糺河原のあいだでは、彼が若年以来のまたなき相談相手だった叔父の上杉憲房を敵の囲中に亡くしてしまい、また、味方の大名、二階堂道行、三浦貞連、曾我ノ入道などをも、随所の激闘で、あえなく討死させてしまった。 「だめだ! もはやここでは」  気がもろい。というよりも彼にはすぐ先の見通しがついてしまう。しかし、勝負は時の運、最後の最後までは──としているのは、いつもながら強気な弟直義の血相だった。  彼はどこまで梟将直義の風を失わない。二十七日合戦の挫折にも怯まず、 「戦下手の兄者はとかく指揮をあやまる」  と、尊氏を後陣に庇い、自分が中軍の総指揮をとった。  直義の督戦となると、麾下の将士はみな死神の鞭を聞くように、武者肌をそそけ立てた。かならず、死人の山を越えさせるからであった。 「退くやつは斬るぞ」  その叱咜を、振り向けもしないのだ。兵は発狂状態をやがておこす。──二十八日合戦は、こうして加茂の一角で勝った。  これに満足する直義ではない。天まだ暗い翌暁からさらに攻勢を烈しくして、 「師泰、下り松を占れ」  と、号令していた。  高ノ師泰、首藤通経らが先陣していた。午ごろ、そこの敵も一蹴し去った。  すると、どこからとなく、 「──敵は大原から龍華越えして、北国街道へと、徐々に逃げ退いている」  と、聞えた。  義貞も、また行宮も、叡山をすてて、一時北陸へ避ける用意らしいという風聞なのである。 「それみろ。味方が苦しいときは敵もまた苦しいのだ。兵力の底はつき、叡山の兵糧も乏しくなったに相違ない」  と、直義は誇った。  が、その見解を、甘い見方として、 「いや、敵の偽計だ。おそらくは乱波の流布?」  と、いさめる声も多かった。石堂、荒川、仁木、畠山などの部将らだった。  こんな乱軍中の浮説が、いかに危なッかしいものであるかの実例には、つい十日前の闇夜合戦のあとでも、 「敵将の楠木正成と脇屋義助が昨夜討死した」  と、その首まで拾って来て立ち騒いだことなどある。もとよりそれは偽首だった。が、偽首と分ったあとの空々しい敗北感はいつまで後味わるく尾をひくものであった。  果たして。──官軍方の北国落ちなども、その日の夕には、第五列の流言とわかった。しかし、そのときもう直義の軍は深入りをしすぎていた。敵は、山に拠り、夜を待っていたものらしい。  雲母坂にいた山法師の一軍、赤山明神下の洞院ノ実世の七千人。これが一時にうごき出すと、鼓を合せて、白川越えの上や鹿ヶ谷のふところでも山を裂くような武者声がわきあがった。新田義貞、義助の一万余騎だ。  そして、山科から粟田口へかけても、北畠顕家の奥州勢が、とつぜん、直義のうしろを通って、いきなり二条の尊氏の本陣へ、突進していた。  形からみても、足利軍は、四分五裂のほかなかった。  そのうえ、楠木、名和、千種などの、昼から陣旗をひそめていた部隊が、五条、七条を渡河して、 「逆賊、のがさじ」  と、尊氏の退路とみられる所へ、所かまわず火を放けた。  尊氏の旗本は奮戦した。明け方まで市街の辻でふせぎ戦った。──が、驚くべきことが起った。二引両の足利旗の真ン中に墨を塗って、急に、新田旗の一引両の旗に拵え直して持ち廻っている隊がたくさんある。──早くも寝返りが続出していたのであった。 魚見堂  尊氏の行方、直義の生死、それすらも諸説紛々で、かいもく、一時はわからなかった。  が、あれほどな足利勢も午頃には洛中のくまぐまにさえ一兵も影をみせず、遠く丹波境の山波の彼方へ没し去っていたことだけはたしかであり、さらには、まだ諸所の屍もかたづいていないこの生々しい戦塵の中へ、はやくも後醍醐の還幸さえ見られたのだった。  その日は正月の三十日で、尊氏の洛中没落も、園太暦、元弘日記裏書、建武三年記、どれもみな同日の事としているのをみれば、天皇には、「──尊氏、退く」と聞き給うやすぐ、叡山の行宮をひきはらって、 「都にあらでは」  と、即日、御座を洛中へ還されたものとみえる。  まる一ト月の余であった。宮廷すべての大御家族を連れての御動座でもあったから、一日もはやく元の御所へと願う女性たちのせがみも容れての還幸ではあったろう。しかし、敗退したといえ、なお丹波境には、足利勢の蠢動も充分ありうるのを見こしながら、その日すぐ御座を洛中へ還すなどは、よほどなご確信のないかぎり、よくなしうることではあるまい。  しかもである。 「内裏は一時どこへおく?」  と、御随身以外の者はそのおちつく所もまだ知らなかった。──なぜなれば去年お立退きのさい、二条富小路の内裏はすでに焼けうせている。──そして元々の大内山は大内裏造営工事の工もいまだ半ばのままで、しょせんお入りあるにはたえない。で、一時、鳳輦は、  成就護国院  へ入らせられたが、ここも手ぜまやら御不便となって、あくる日すぐまた、  花山院亭  へお移りになった。  いかに難に屈しない御性格のみかどであったことか。翌二月二日には、はやくも仮の政庁にたって諸政や軍務にたずさわっておられたのだった。過般来の合戦にぬきんでた功のあった人々への御感の軍忠状には、ままこの二月二日付けのものが多い。わけて北畠顕家、結城宗広、その一族、田村の荘司らへの感状には、 遠路をしのぎて たちまちに参洛し おん大事に会ふの条 御感ななめならず……  という特別な叡慮も辞句にはいっていた。またそれに徴してもこれ以外のあまたな将士にもそれぞれ何かのかたちで嘉賞の沙汰が一せいにおこなわれたのはいうまでもないだろう。  洛中はこうしてさかんな凱歌にわいた。この声につられて山野の疎開者もたちまち元のわが家へ帰っていたろう。すなわち、一日のまもおかなかった還幸の急は、洛民へのそのねらいが第一であったものとおもわれる。  一方。──一時は戦死説までつたえられていた尊氏、直義のふたりは、途々、みじめな残軍をかきあつめては、これをひきつれて、丹波の篠村へ落ちのびていた。──ここの篠村八幡は、彼が弱冠のときの曾遊の地。また、彼が反北条の旗上げをした地。──思い出多い三度めの宿命地だった。  九死に一生をえてたどりついた篠村八幡の森は、尊氏に再生の思いだけでない何かをさらに誓わせていたにちがいない。  ここには、かつて自分が旗上げの日に籠めた願文がおさめられてある。──一には世のために、二には朝家のため、三にはわが源家再興のため──と素志を天にちかった願文だった。そしてついにそのどれもまだ達していないのみか、かえってこんな蹉跌からみじめな惨敗をみてしまった。 「直義」 「は」 「いたか」 「途中、何度かお姿を見失いかけましたが」 「つかれたなあ、さすが」 「茫として、つかれた感じすら今はわかりませぬ」 「そんなことではならぬ。まずおちつけ。ここの御堂は尊氏にとって、何かといえば峠の茶屋のような憩いの場となっている」  拝殿へむかって礼拝はしていたが、ことばどおり彼はここを峠の一床几としているのだろう。階の一端に腰をおろして、さて? とここまでの帰結やこれからの方向にしばらく思案顔だった。そして旗上げ当初は何もかもが順調であったが、さいごへ来ては事すべて、自分の布置や考えとくいちがってむりな戦をあえてしてきた手際のまずさに思いいたらずにいられなかった。 「直義、妙源はいるか、引田妙源は」 「ついに見えませぬ」 「師直は」 「師直、師泰の兄弟も」 「いないか」 「ほかの道へ落ちたものとみえまする」 「道誉はどうした?」 「神楽ヶ岡の合戦までは見えましたが、さて、這奴のこと、いかがあろうかわかりません」 「では、近江路かの」 「おそらくは、道誉もまた、味方の敗北と共に、二引両の間を墨で塗りつぶした旗をかつぎ廻った組の一人ではありますまいか」  そこへ宮司が見えた。尊氏は宮司のあいさつをうけたのち、さっそく兵たちに食わせる炊出しの手当を依頼したので、ここまで共に落ちてきた人員を点呼させてみると将士あわせてわずか二百余人にすぎなかった。  ほどなく土地の内藤三郎兵衛道勝も来て大釜で粥を煮、兵の飢えはしのがれたが、尊氏はなお、腰糧三百人分を道勝の手に託して、 「こよいは休み、ここは、明朝立つ」  と、ふれさせた。  あくる朝、ここを立つさい、彼は篠村八幡宮へ佐伯ノ荘の一部を寄進して、所願成就の祈りをこめた。そのとき今川範国が、 「ご先祖義家公にも、奥州征伐のみぎりには、ただ七騎とならせ給うた例があります。はじめの負けは御当家の佳例かと覚えまする」  と、なぐさめた。  尊氏は、大きにさようだと、うなずいて、 「負けもよし。ふかく思えば、きのうまで勝ってばかりいたことのほうが、むしろ不吉だった」  と、左右へ言った。  その朝(二月三日)の情報によれば、官軍は西山峰ノ堂から大江山ぐちまでは追ってきたが、以後は見えないとのことだった。さらば行けと、尊氏は裏丹波を西へさして行った。  尊氏の行くての先は兵庫であった。山陽道と四国をむすぶ兵庫を無視して勝目はないとしていたからだ。  その兵庫への道を、彼の落ちてゆく残軍は、裏丹波の三草へとった。この道は寿永のむかし、源義経がひよどり越えを突いて出たときの間道である。おそらくは尊氏、直義、敗残の将士、たれの胸にも、なにかの感慨がなくていられなかったろう。 いま向ふ方は明石の 浦ながら まだ晴れやらぬ わがおもひかな  尊氏の歌である。  彼が三草越えの途で詠んだ歌として歌集「等持院殿(等持院は尊氏の院号)百首」のうちに載っている一つである。おもうに三草の山間のまだ残雪もまだらな道を疲れた馬にゆられつつ行く途中でふと矢立の筆をとってたれかに示したものではないか。  だが、この歌の意味は、どうにもとれる。  大望の道、まだまだ遠し、とする心にも。  または、やるかたない敗軍の将の断腸の思いとも。  あるいは、家郷をも失わせて、ちりぢりにさまよわせている子や妻や愛する者たちへのつぶやきかとも解いて解かれないことはない。  もしたれかが、 「さようなお歌の意にございましょうな」  というとしたら、尊氏は「うん」とうなずいて、わが意をえたりとしたろうか。おそらくはそのどれへも笑ってうなずいたかもしれぬ。けれどもわが意を解いたものとはしないだろう。──彼のむねに、まだ晴れやらぬ、思いをなさしめていたものは、逆賊尊氏の汚名を着たままやぶれ去って行くことだったにちがいない。  篠村八幡へこめた願文にも、彼は国内平安と朝家の御為をうたっている。家の名をはずかしめずともいっている。また彼の思想からも元々、逆賊叛臣が本懐ではない。やぶれは時の運と観じ去っても、それだけはなにか拭いきれぬような──晴れやらぬおもい──となり、口でいえぬ歌となっていたかにおもわれる。 「介は、どうしたか」  彼が、切望に切望していた持明院統のお一ト方による院宣はついにこの日までまだ手にすることができなかった。  右馬介をして、序戦のうちからそれの宣下をいただくべく、八方、奔走させていたことではあったが、ついにまだなんの音沙汰も今日までない。  日野資名と行き会えないのか。小右京の行方もさがし出せずにいるのか。あるいは、後醍醐の大覚寺統の警戒の目がきびしく、後伏見、花園、光厳のどなたにも近づきまいらすことができずにいるのか。 「……さても」  と、彼にはそれが成るか成らぬかの便りだけでも待ちびさしかった。万が一、事が絶望とでもなればいかにせんと、行くての明石の浦すらも暗い未来におもわれてくるのだった。  道は播磨へ入った。  山路を降り、明石の大蔵谷へ行きつくと、この方面、垂水、須磨、兵庫へかけては、たくさんな味方が落ち合っているのがわかった。高ノ師直、師泰。赤松円心。細川定禅。──吉良、仁木、石堂らの一族。そして佐々木道誉もまたそれらの敗退軍のうちにまじっていた。 「おお御無事だった」  桃井直常、引田妙源らが、まっさきに来てよろこびあい、 「どれほどおさがし申したことかしれませぬ。すぐ味方じゅうへ」  と、これを兵庫から播磨境までの諸所へわたって触れわたした。  明石の陣は、一夜にすぎず、尊氏は次の日さっそくその陣所を兵庫(現・神戸市)へすすめた。──港にちかい逆瀬川の川ぐち、魚見堂を本営地として、ここに敗軍の再編成と再挙反撃の床几をさだめたものだった。  兵庫は建武の初年いらい楠木正成の勢力範囲にはいっている。が、正成の代官もここに見えなかったのはいうまでもない。生田、和田ノみさき、会下山、湊川、見えるところの山野は、期せずして先おととい頃からこの地方へ逃げ集まって来た足利方の兵馬だった。 「兄上」  直義はすっかり意気をもち直していた。 「なおこれほどなお味方はのこっています。そのうえに今朝、鞆ノ津からの早馬もありました。それによれば、かねて御教書を発しおかれた周防の守護、大内長弘、長門の守護、厚東一族らが兵船五百そうの帆を揃えて、もうつい播磨沖まで、ご加勢に近づきつつあるよしにございまする」 「おう」  と、尊氏も眉をひらいた。これも待ちに待っていたものである。 「大内や厚東の船手がみえて来たとあるか」 「ご安心なされませ。つづいては九州の大友、相良、島津らの後陣も馳せさんずるにちがいなく──それにこの地にあれば兵糧の憂いもないこと。兵馬にはここ幾日かを休養させ、ふたたびの御指揮あらば、義貞の勢をけちらして、洛中をとりかえすことも、なんの造作ではございません」  だが、直義のいうようなものでもない。その事実はまだ軍の装備や編成も完からぬうちに、ここへはひんぴんと入ッて来た破竹な敵の大軍の情報によっても分っていた。  いわく。  八幡、山崎の線を死守していた武田信武は、ついに官軍の大兵にもみつぶされて、多くは官軍へ降参し、大将信武は、いまのところ生死も不明──と。  また、二次の報では。  楠木正成は、神崎川から難波の浜をひだりに御影街道へ急進をしめしており、脇屋、宇都宮の二軍も伊丹野から西へうごき出で、さらにそのうしろには、北畠顕家の万余の兵、新田本軍の義貞朝臣が旗じるしなど、霞むばかりな厚さをなし、その兵数もちょっとつかめぬほどだという。  尊氏の床几をめぐる性急な軍議では、 「この不揃いな装備のまま打って出るのは如何なもの?」  と、ひとまずは、受けて守るが利とする説が多かった。 「すぐうしろには摩耶山の険がある。摩耶とこことはわずか五十町。よろしく御大将と御舎弟とは、摩耶をとりでとして、そこへご籠城がよろしからん」  という意見なのだ。  すると、佐々木道誉が、笑って言った。 「それはまずかろう。いちど大負けに負けているうえ、両大将が山城へ入りこんで、および腰な御指揮とあっては、士気が立ち直れるはずもない。また遠方にあるお味方への聞えも悪い。始終の利こそ大切と思わるる」  道誉というと、たれもが蔑む。しかし尊氏はうなずいた。そしてすぐ断をくだした。 「よくいった。道誉の言はただしい。攻勢に出るとしよう」  ちらと、直義に不満がみえた。自分がいいたかった主張を、道誉に先を越された不快さかもしれなかった。が、尊氏は、気づいていたかどうか。 「直義、異議あるまいな」 「ありませぬ」 「ではすぐ布令しろ」 「は」 「先陣には、細川、赤松」 「いや私も」 「よし、直義もまいれ。次いで尊氏も馬をすすめよう。道誉はわしの中軍に付け」  そのほか、指令をうけた各将は、すぐ軍議の場から散って行った。そしてこの日もう六甲のふもとや御影附近では物見隊の衝突があった。  いかに官軍側の急追が怒濤の急であったかわかる。またすでに、敗残の賊軍などただ一掃のみとしていたかもわかる。  その官軍の先鋒は、西の宮に陣していた楠木正成の手勢だった。──いまはこの人も河内、和泉の守護職である。──その勢力もかつての南河内の一土豪にすぎなかった頃の比ではない。そして千早金剛で鳴らした往年の勇名だけはなお生き生きと全土の武者の記憶にふかくのこっている。──だからそれに直面した敵は、菊水の旗と見れば、 「ぬかるな」 「計られるな」 「めったに出るな」  と、かたくなって、つねに手固い対陣になりやすかった。  御影の前哨戦から二日後、両軍ははやくもこの膠着陣形におちてしまった。いや、「菊水の旗も、鬼神の魔符ではあるまい。正成、何ほどのことやある」と、あえて吶喊をこころみた細川阿波守の弟頼春が、序戦をし損じ、自分もまた重傷を負って仆れてからの膠着だった。  ところが、どうしたのか。  菊水の旗は、一夜のうちに、どこへか見えなくなっていた。前線から後陣へまわされたふうなのである。──或る説では、河内へひきあげてしまったなどの噂すらあった。  しかしそれは事実でない。足利方の乱波の探りでは、三日にわたる膠着戦が因となって、正成と尊氏とのあいだには微妙な黙契があるらしい、とうたがわれ、両者は款を通じているものだ、との声が官軍内にぱっとさかんになったことが、その第一の原因らしいと、尊氏の床几へも、さっそくな秘報がきていた。 「そうか」  尊氏は、誰へも言っていない。じつは自分がやったことをである。  彼は正成をきらったのだ。正成とは戦いたくない。むしろ味方に求めたい。他日を待っても彼とは共に天下済世のはかりもじっくりはなしてみたい。  だから避けたのだった。尊氏は、正成宛ての懇ろな書簡を書いて、それを兵の肌に持たせ、わざと捕まるように、昆陽野方面の敵中へ放したのだ。伊丹には義貞の弟義助が陣している。義貞は疑いぶかい、勇将だが、惑いに弱い質である。かならずや、正成を観る目に変化をおこすにちがいない。──そう考えてほどこした計だった。そのため、おそらくは義貞と正成とのあいだに、一紛争がおこったものと想像されうる。 「だが、正成には気の毒」  と、ほくそ笑みにも、ふと惻隠を抱く尊氏だった。  ひろい六甲の山野から打出ヶ浜の長汀へかけて急なうごきがみえだしていた。  正成の菊水旗が後陣へ消え、代って、脇屋義助の軍が、武庫川のかみから急下してきた朝からの緊迫した鳴動だった。 「賊軍の息のねをとめろ」  となす総攻撃の開始か。  新田義貞の本軍と、それの左翼をなす北畠顕家の万余の兵も、すべて、昆陽野から芦屋へと、前進をみせている。  いや、足利方にとって、もっと脅威的なものは、有馬越えから六甲の中腹を通って住吉川へ出て来ようとする一軍の敵もみえていたことである。──これが越後新田党の精鋭だとわかったときは、さすがの直義も、 「しゃッ、一大事だ」  身の毛をよだてずにいられなかった。──もしその猛兵に破綻をゆるせば、御影から西の宮までの味方は──敵のふくろの中の物になってしまう。 「師泰、師泰。山の手へ向え。おおっ、細川定禅も、住吉、岡本の辺を踏んまえて、有馬ぐちの敵をふせげ」  彼は声をからした。  そして直義自身は、赤松円心の手勢とがっちりくんで、浜寄りのなぎさと、昆陽方面とから西進してくる敵へむかって、その陣を扇なりに展いた。──あらゆる形勢、また条件からも、勝敗は、今日じゅうのものとみえてきた。  この急迫を見ては、はるかうしろな尊氏の陣といえ、戦ぎ立たずにいられない。  尊氏のまわりには。  高ノ武蔵守師直、吉良左兵衛ノ尉、桃井修理亮、大高伊予守、上杉伊豆、岩松の禅師頼有、土岐弾正、おなじく道謙、佐竹義敦、ほか三浦、石堂、仁木、畠山などから老臣今川範国までがかたずをのんで前線との伝令をとっていた。また佐々木佐渡の判官入道道誉もこの中の一人だった。  刻々の戦況をききながら、尊氏はこのうちの将を引き抜いては、 「繁氏(細川)。山の手の助けに行け。三河ノ三郎(吉良)。なぎさづたいに御影の後ろ詰に駈けろ」  と、しばしば、応援をおくり出していた。  ──するうちに、この日、明石の沖あいに、大小数百そうの兵船群が列をなして見えてきた。これがわかると陸では兵庫から生田、御影へかけて狂喜の歓呼がうねりのようにつたえられ、 「長門、周防の兵船五百がここへ着くぞ。大内、厚東がお味方なるぞ」  と、歓呼しあった。  けれど次にはやがて大きな失望と戸惑いが諸陣の兵の顔を吹いた。──兵庫島へ着いた兵船も多かったが、うち二百余そうの船影は、足利方の陣を横にみながら官軍方の旌旗をさがして西の宮の南へ着け、ただちに兵をあげて、義貞の指揮のもとに就いたのだった。  あとでは分った。  四国の宮方、得能一族や土居の軍勢だったのである。それが海路の途中ではしなく足利方へ加勢におもむく船団とぶつかってしまったため、海戦には出なかったが、相互、微妙な牽制をしあい、また、日時もよけい費やして、同時にここへ着いたのである。そしてすぐ敵味方の岸へ別れたものだった。  官軍方へも海上の新手が参加し、足利方の兵庫島にも周防、長門の大船団が加わったので、たたかいはいやがうえにも大きくなった。そしてまた、その日は勝敗もつかずに暮れてしまった。  あすこそは──  と前線の直義からは、尊氏のいた摩耶山麓へ、意気さかんな伝令があり、  ──きっと勝運をひらいてみせます。大内、厚東の新手の勢も参着したよし。ねがわくばなおぞくぞく、新鋭の隊を、前線へおくり出し給わりたい。  と、いって来た。  よし  と、尊氏は答えに附して、なお、かんたんに、  さあれ、義貞は戦上手、わけて平場は彼の得意だ、勢いにつられて深入りすな。特に兵力を分散するな。  と、注意をさずけて、伝令を返していた。  尊氏は夜すがら寝もやれぬふうだった。彼の待ちかねていたこと(持明院統の院宣)はもう絶望にちかい。直義をはじめ奮戦の中にある諸将はすべて強気だが、いくさを意気だけで勝てるとする単純にまではなりきれぬ尊氏でもある。あすの勝敗にかかわらず、彼のあたまは大局から万一のときの副線へも思いをいたさずにいられなかった。  やがてのこと。──道誉がそっとそこへ呼ばれていた。尊氏のあたまの気泡が何かその一つをかたづけておこうと、急に思いついたものらしく、 「ほかでもないが」  と、声をひそめた。あたりは夜営寂として、陣幕を透す外の篝り火が、かすかな明りを二人の間に見せているだけだった。 「道誉。事にわかだが、御辺はここを脱けて、近江へ帰ってくれまいか。摩耶の裏を越えて、丹波へ出れば、敵にも出会うまい」 「ほ。……?」と、一驚のいろの下に「またこの道誉へ、寝返れとでも仰せあるか」 「いや、同じ手は二度効くまい。しかし、たたかいも七分は勝目なしとおもわれる。朝敵の名を負った不利いかんともなし難い。よし一時は勝っても、官軍の義貞には、いくらでも後詰がつづこう」 「さては早やお見通しか」 「尊氏は身一ツのみのいくさはしておられん。多くの者の運命をにのうておる」 「近江へもどれとの御意はそれか。伊吹には越前の前(藤夜叉)と御一子不知哉丸とが残してある。お気がかりよの」 「されば、尊氏がここに敗れて、しばらく京師も踏めぬからには、御辺の保護の下に、二人を頼みおくしかない」 「こころえ申した。したが千寿王どのや御台所は」 「三河においてあればこれはさして後顧の要もない。万が一にも、危うしとなれば、舟で落ちゆく島もあろうというもの」  それからも、両者のあいだには、たれ知らぬ密談が交わされていた。そして道誉はこの深夜ひそかに一族一隊をつれて、摩耶の裏越えから戦線を脱落し去った。  すると、すぐそのあとのことである。──夜の戦野から拾ッて来たと称して、物見組の一将校が、二人のかよわい者を連れ、おそるおそる尊氏の陣幕へそれを告げに来ていた。  尊氏はおどろいた。その物見組の一将校が語るのを聞けば── 「されば、有馬街道から西の野末でございました。ひるの合戦に、そこらは馬のかばねやら兵のむくろが算をみだしておりまする。しかるに、歩みも遅々と、夜風の中をさまようている不審な人影が見えますゆえ、馬をとばして行き、何者かと呼びかけまするに、逃げもせず、新田殿の者か、足利どのの内かとたずね返しまする。──おおよ、おれどもは足利方だと言って聞かせますと、ならば御陣所へ連れて行って給われと、母子して訴えるではございませぬか」 「で、伴うて来たわけよな」 「はっ」 「草心尼とはいわなかったか。ひとりは、覚一法師とも」 「やはりお心あたりのある者で?」 「む、ちと有縁の者だ。すぐこれへつれて来い」  有縁どころか、尊氏には叔母にあたるひと、また、いとこにあたる覚一なのだ。それにせよ、どうしてこんな戦場の夜をさまようていたものか。  まもなく丘の下から兵にともなわれて来るたどたどしい二人があった。尊氏は陣幕の内に入れて敷物を与え、そこらの将士をしりぞけてから、自分も楯の上に胡坐した。 「尼前ではないか。どうしてこのようなあぶない所へは」 「オ、尊氏さま」  と、草心尼は、旅のわらじのまま居住居をちょっとかえて。 「おもいがけなくお目にかかり、またお変りもあらせられず、こんなうれしいことはございませぬ」 「いや尼前、六波羅にいた頃とは、大変りだ。其許たちの目から見たら、今の尊氏のすがたなど羅刹のように見えようがな。……生きるか死ぬかだ。はははは」  と、自嘲して。 「が、われらは是非もない。これや宿業だ。したが、何も知らぬ其許たちこそ、世の大波に、さぞや憂き目を見つらんと、ひそかに案じておった。さるを、なぜ洛中を出て、戦場などへ」 「いえ、洛中こそが、居るところもない修羅地獄でございました」 「おおそうよの。洛の北山も東山も、あの大戦では」 「あなたこなた、逃げさまよい、火にも追われ、ぜひなく、明石の知る辺をたよって、淀の西をまいる途中、新田殿の御陣に捕まり、きのうまでは、御陣について、歩き暮れておりました」 「では、義貞のそばに」 「はい、むかしの世良田殿も、いまはいかめしゅう、総大将の陣座にわせられ、尼前よ、心配すな、そばにおれ、いくさはすぐにすむ。必定、尊氏は自滅か斬り死のほかあるまい。さあれ、其許たち母子は、朝敵のとがに連なる者とはせぬ。──安住の地を与えてやろう、これにおれ──と仰せてはくださいましたが、なんぼうにも居耐え難うて」 「では、無断でそこを去って出たのか」 「とは申せ、盲を連れていること。行き暮れておりますうちに……」  言いながら、尼は、うしろの覚一へいたいたしい目をやった。背の琵琶を重たげに、覚一はさっきから、墨絵の中の者みたいに、うつむいたままでいた。  覚一はやつれていた。  あわれなほど、草心尼にもそれは見えるが、若くして若さの影もない覚一の痩せは、ただの憔悴ともみえなかった。心の滅びとたたかっている苦悶に肉を削がれている若者の頬骨だった。  ひと言、ふた言……  尊氏は彼へはなしかけたが、たちまち目をそらしてしまった。  何か、この盲法師が、無言の責めを尊氏へ責めているように思われたらしい。  しかし、覚一は、そんな片言も言ってはいない。人のしている戦を、この地上の業を、むしろ彼は、自分の罪業みたいに身のうちで憂悶しているにすぎないのだ。ただ理解しがたい人の世の相剋ぶりが彼には悲しくて恨めしくて、つい尊氏へも、多くをいわず、うつむきがちな姿になっているものだった。 「して?」  と、尊氏はすぐ、 「明石の、何処へ」  尼へことばを向けかえた。 「明石の浦に、和歌のお師、冷泉為定さまの古いお家がありますので」 「はて、為定どのは、とうに亡きお方だが」 「いえ、幾たりとなく、歌の同門たちが、早くから戦を避けて住もうておりまする。わたくしたちも、覚一がお覚えをうけた東宮の御門や女院さまにおすがりすれば、身の無事はえられましょうが、覚一はそれを好みませぬ。またふと、巷で行き会うた右馬介も、明石へ行くことがよいとすすめますゆえ、ならばと、思い切って都を出て来たわけでございました」 「なに。巷で、介に行き会うたとか」 「はい」 「いつ、どこで」 「つい都を離れる前の日ごろ。嵯峨野の辻で」 「介のおる所を、その折、どこか聞かなんだかの」 「双ヶ岡のさる法師の家にいて、小右京さまと共に、誰やら申す元お公卿の僧を、懸命に毎日さがし歩いているとのことでございましたが」 「ああ、まだ日野資名どのに会えずにおるのか。……いや何」  と、急に語尾を消して、陣幕の上にうすらいで来た空明りへ顔を上げた。 「おう、はやまもなく朝が来よう。朝ともなれば、たちまちここは戦場のちまた。其許たちのいる所でない。……止めおきたいが置かれもせぬ。……妙源おらぬか。妙源」 「はっ。おめしで」  引田妙源の姿を、とばりの裾に見ると、尊氏はそれにいいつけた。 「この二人を馬に乗せ、兵庫の魚見堂まで送らせい。そして、よういたわり取らせたうえ、さらに二人のたずねる明石の冷泉殿の家まで兵を添えてとどけてやれ。心ききたる兵数名をつけて、過ちのないようにな」 「かしこまりました。では」 「おおすぐがよい。尼前、覚一、また会おう。再会はまだ先の日遠いかもしれぬが、きっと会おう。その日まで、つつがなく暮しておれよ」  尊氏は何か、急に、心せわしげであった。そしてこの二人を見送るとすぐ、薬師丸という小姓武者を、陣の内からよびよせていた。  未成年者は一様に童武者とよばれている。  十三、四から六、七歳の年少もかなり軍中にいたことは事実で、うちには寵童もまじっていたといわれるが、尊氏には美童を愛していたようなあとはない。その多くは将座に侍して、総大将の雑用をなすいわゆる〝小姓組〟に配されていた。  薬師丸もまたそのひとりで、可憐な童体だった。髪を稚子輪に結い、朱胴朱おどしの小具足を着、尊氏によばれると、  おん前に──  と、かたのごとく、いつもの恰好でひざまずいた。 「薬師丸か。もそっと寄れ」 「はい」 「そちはたしか、熊野山の別当法橋道有が乙子(末子)であったな」 「はい」 「日野殿のお家と其許の別当家とは、浅からぬ所縁のあいだではなかったか」 「母は日野家から輿入れされたお方にちがいありません」 「そうだったなあ。御一門の一家、日野資朝卿は、正中ノ乱に与し、大覚寺統の今上に忠誠をしめして佐渡ヶ島の配所で死んだ。……が、その御兄弟、資名、資明の二卿は、持明院統につかえられ、例の、西園寺公宗の北山事件に連座して、いまはいずこかに蟄居の身とか聞いておる」 「…………」 「いや、そのようなわけがらはいま申すにも及ばん。要は、そちの所縁がたのみだ。尊氏の旨をおびて、その資名、資明二卿のいずれかに、いそいでお会いできる工夫はないか。わしに代ってだ。どうじゃな、薬師丸」 「できぬことはございません。おいとまさえいただけば」 「もとよりすぐ都へ立たねばなるまい。したが、右馬介以下十人ほどを、京にのこしおき、八方おさがし申すといえども、いまだに梨のつぶてなのだ。薬師丸、そちならばどこを尋ねる?」 「まず醍醐の三宝院へ行ってみます。あそこの僧正も日野家から出たお方です。それでも分らなければ日野ノ荘の萱尾明神や、法界寺や、日野ノ里をくまなく訊けば、わからぬはずはございませぬ。いずれは由縁へお身を潜めているものと思われますから」 「む! たのもしい」  尊氏は俄に一縷の光を見いだしたようだった。自分の待ちかねている──いや絶望さえしかけている──持明院統の皇の院宣をどうしてもその日野殿のお手から奏請して欲しいのだ──ということを、この薬師丸へ、熱意をこめて、いいつけたものだった。 「双ヶ岡の法師といえば、あの兼好にちがいない。右馬介がそこの庵に寝泊りして、八方、院宣の入手に奔走しておるよしを、たったいま耳にした。……薬師丸、そちが介を案内して、日野どのにまみえ、首尾ようまた一日もはやく、院宣をくだし給わるよう、いまより急いでここを立ってくれい」  童体の一小武者に、このような大秘事を託して、二次の追っかけに洛中へやったなどをみても、尊氏がいかにそれを急ぎまた重要視していたかもわかる。一説には、これは赤松則村(円心)のすすめだともいわれている。  大覚寺統の君がただしい皇統なら、持明院統の君もまたまぎれない皇統であることぐらいな常識は当年のどんな武者でも持っている。  だから赤松円心ひとりでなく尊氏帷幕の老将たちも、それの献言はみな尊氏へしていたにちがいなく、それも諸将の心に余裕があった日のことだろう。  ところが。後醍醐のご警戒きびしく、当時、持明院統のおかたも、みな叡山へ移され、近づきまいらせる手がかりなどはまったくなかった。──そしてやがて御帰洛を見たころには、足利方は総敗北──洛外遠くへ没落の日であった。  だから「梅松論」や古典「太平記」も、尊氏が院宣を請うための、薬師丸の派遣を、すべて三草越え以後のこととしているのである。さんざんに敗けいくさとなり、もうほかに手段もない切迫つまッての思いつきから、 このたたかひを 皇と皇との お争ひになさばや  と彼が言って、急遽、薬師丸をみやこへやったという態に作られてしまっている。  しかし、後にはこれが南北両帝分立の正因にもなるのである。ここらは大いに熟考を要しよう。  かりにもそんな大秘事が、敗北のすえの土壇場へきて、俄に思いつかれたなどは、信じられぬはなしである。──尊氏の政治的才能からみても、それはすでに義貞を追って、海道を馳せのぼって来たころから──そして洛中合戦のあいだにも──四六時中彼の心にあった重要政略の一つではなかったか。  ──けれど万事は休した。  その院宣はついに、西の宮、御影の再起戦でも負け、完膚なきまで、官軍にたたかれたさいごの日まで、彼の手には入らなかった。 「いまは」  と、彼はワラをつかむ気もちで、薬師丸まで追ッかけの使いにやったが、しかしまだ元服前の一童子武者である。それへ大きな望みは望んでみてもムリだった。  しかも戦況は、その日頃をさかいに、悪化の一路をたどっていた。今はすこしでも味方を損じまいとして、尊氏はしきりに退却をうながしたが、直義は頑として退かず、細川、赤松らも遠くたたかって伝令はまま切断され、ために退軍の令もほとんど思うようにおこなわれなかった。  これが救出のために、尊氏も馬を出してついには乱軍中の人となった。  後世、伝承された〝尊氏馬上像〟はこのときの彼の奮戦像であるという。──ようやく、負けいくさの手勢を合して、兵庫の魚見堂へ、一族の諸将が落ち合ったのは、乱軍四日めのことであり、魚見堂伝説として、ここでは尊氏および直義が「──腹を切るべきか」「いや生は大事、死を急ぐべきでない」と、諸将共々、論議があったなどともつたえられている。が、もとより尊氏には、自刃の意などは毛頭なかったものと、断言してよい。 筑紫びらき 「これまで」  と、尊氏は見切りをつけて、ついに船へ移った。いや逃げたという方がここではただしい。  ただの陸地における総退却にしても、いわゆる〝負け引き〟には非常な危険がともなうといわれている。ましてこの折の足利勢がまたまた、大混乱におち、おびただしい犠牲を浜のなぎさに捨てたのはぜひもない。  かねて大小の兵船三百そうの用意はあったが、 「すわ、大殿には海上へ移られたぞ」  と、おめきあって、われがちに船へなだれこんだ一ときの騒ぎは言語に絶していた。うしろには早や官軍がせまっていたし、殿軍とても、すでに戦意はくずれていたことだった。  溺れ死ぬもの。あるいは、敵に捕われる者数千。余りに一そうの内へ人や馬が混み乗ったため、満載のまま、くつがえる船さえあった──と古典はその惨状を写すに文字を惜しまずつかっている。  尊氏もいまは、非情に、 「つづく者はつづいて来よう。わが船よりまず帆をあげて西へ急げ」  と、船手の者を、せきたてた。このさい、時をかせば、官軍方にも四国の兵船二百余そうがいたのである。海上で包囲されるおそれも多分にあったのだ。  それゆえ、掩護の船列も布いたろうが、とうてい、秩序のある船出などではない。さきへ行く尊氏の船を目あてに、あとあとから、帆に帆を慕ッて行ったことだった。──ために陸へとりのこされた残軍はまた残軍で、陸路を西へ、離々続々、落ちのびて行くのも見えた。  もしこの機に、官軍方が、陸上の顧慮を一切おいて、 「今こそだ。足利一族を海のもくずに」  と、すぐその戦力を四国船隊の上へ移して、海上、さらに追撃をつづけていたなら、おそらくは尊氏もついに逃げきれなかったかもわからない。──が、なぜか義貞はそれを敢行しなかった。野戦の驍将も海には自信がなく、ふとためらいを抱いたのか、でなければ、 「これほどに打ちたたいたこと、尊氏とて、もはや再起はおぼつかなかろう」  と、敵を見くびッての、驕りであったとしか考えられない。  もっとも、官軍側には、公卿大将も多かった。そして古来、堂上の制としては、 宮闕の下のほか 畿外諸国の動乱は これを追捕の任となし 追捕は武士を以て任ず  というのが朝廷の本則だった。だからいまや海に陸に逃散する離々たる敵影を見た公卿たちは、この習例をよい口実に、 「あとは、義貞まかせ」  とし、義貞もつい、 「まずは兵馬を休めろ」  と令して、みすみすここに長蛇をみのがしてしまったものではなかったか。  なにしても、ここは尊氏の僥倖というしかない。──彼の乗船、およびそのほか大小の兵船は、乱離な影を明石海峡にみだしながら、ひとまず播州室ノ津の港へさして落ちたのだった。  僥倖といえば、海上での風向きも、その日は、尊氏に倖いしていて、「梅松論」には、 お座ふね 辰ノ刻(午前八時)に出さる 俄に、西風吹きけり 是はたつと云つて 追手なりければ 寅ノ刻(翌・午前四時) ばかりに室ノ津へ御著  とあり、また。 もし順風なくば 一期の御浮沈たるべきに ひとへに 神仏の御加護也とて 下御所(直義)には 渡海のあひだに 舎利ノ御剣を 龍神へ向て海底に沈らる  と書いている。これでみても尊氏以下の兵庫脱出の困難さが、いかにあぶないものだったか、想像以上なものだったろう。  それとまた、あの不屈な直義すらが、その僥倖に感謝するの余り、自己の一剣を波間へ投げて、船上から龍神を拝んだという一事などもおもしろい。  新田義貞が鎌倉攻めのさいに稲村ヶ崎で剣を龍神へむかって投じたという、いわゆる〝龍神伝説〟は、その地形条件などからも、つとに否定されているが、これによると、当時の武将間には(いや、民間一般にも)ひとつの龍神信仰といったようなものがあったことだけは是認しなければならなくなる。  また、すでにそうした伝承心理が一般のあいだに根ぶかくあったとすれば、その心理を兵法に利用して、士気を振るわすなどのことは、兵家の常套手段でもあった。義貞もしたろうし、直義もまたこのさいは、意識的にそれを演じて、 「われらの武運はまだつきぬところぞ。心落すな人々」  と、大いにその偶然を奇瑞として唱ったことであったにちがいない。  けれど、これの半面には、脱落者が多かったことも証拠だてられている。──おん船に従ひ奉る船三百余艘なり──とはあるが、べつの箇所では さるほどに おん供仕つるべき大将共 その中の七八人は 京都へ赴くあり 後日、降参とぞ聞えし  などの記事もあるのだ。  このとき一方の旗頭たる大将たちが七、八人も降参洩れしていたなどは、決して少ない兵数の減少ではない。  ──当然、たたかい破れて落ちてゆく船上には、落莫な感、悲痛な顔が、おもたく口をとじ合っていたことだろう。そしてこういう中に在る日こそ、その全体の上にある首将の人間そのものが、微妙に、末端の一兵士にまですぐ敏感なひびきをもって映ってゆくものだが、その点でも、尊氏のすがたにはなんのとげとげしさも沈痛な気色もなかった。さっぱり日頃とも余りかわりのない彼だった。 「やれ、着いたか」  と、彼はまもなく船上を立った。そしてまだほのぐらい室ノ津の静かな朝をながめ廻して、 「浦人をおどろかすな。ここに合戦はないとすぐ布令ておけ。赤松、案内をたのむ」  と、赤松円心の人数を先に、室山の城へその朝入った。  室ノ津は室の遊女でも知られている古い脂粉の港だが、時ならぬ軍勢の上陸に、町じゅうは戦慄を暗くしていた。  が、尊氏の軍令で、ほどなく、日頃以上な生業の活気に返った。室山の城へも湾内の兵船のうちへも、多くの物資や食糧が買上げられ、ここ両三日、小さな軍需景気を見たのであった。 「まずは筑紫(九州)までも、海上、物に困らぬだけのお支度は、ととのい終ってござりまする」  高ノ師直からこう尊氏へ報告があった。  出航の奉行は、彼と、赤松一族の信濃守範資(室山城主)とが協力でしていた。──ここら播州の沿海はあらまし赤松円心の勢力下である。──尊氏が創痍の舟軍をひきつれて、ひとまずここへ寄港したのも一に円心のすすめであった。 「円心。忘れはおかんぞ。赤松一族の助力なくば、尊氏も今度はどうなっていたかわからぬ」 「仰せられな」と、円心入道は猛気な人だが、尊氏の前ではつねに低目であった。「お味方であるからには、あたりまえなこと。あくまで大御所と喜憂も共にの所存でおざる。一に君の御人徳と申すもので」 「はて、まずい戦ばかりしつづけてきた尊氏に、なお、何の人徳などがあるだろうか」 「いやあの佐々木すらも、さように申しておりまいた」 「道誉が」 「失意のときこそ、総大将の人間のまことがわかる。この敗軍で、つくづく、足利の宰相の御器量が一そう大きく眺められた、と」 「はははは」  笑い消して。 「負けいくさに感心するやつもないものだ。道誉らしいわ」  そこへ直義が迎えに来た。  城中の広間に、はや一同が顔をそろえ、出座をお待ちしているというのである。この日、さいごの評議をすまし、そしてこよい、尊氏はここを出航、筑紫へさして行くというかねてからの計画だった。  もとより敗戦は予定していたものではない。しかし、いついかなる変で、都落ちを見まいものでないとして、尊氏は、とうから腹に副線を持っていたらしいかたちがある。  ゆらい、九州の武族は、強豪な聞えが高い。尊氏はまだ六波羅のころから、筑紫の少弐や大友の族党へはいちばい恩義をかけていた。そのほか、蒔いておいた胚子も多い。で、彼の九州落ちは、あてなき落人の漂泊とは違い、ひそかに期するところもあったのだ。  その期するものとは、いうまでもなく、捲土重来、大挙して、都へのぼる日のことでしかない。──それにそなえるべく、今日最終の室ノ津会議で、万端の手はずもきまッた。  すなわち。  この播州地方には、赤松円心一族を防ぎにのこす。  また、備中には今川頼貞、頼兼の兄弟を。備前には、尾張親衛、松田一族を。  さらに安芸には、桃井、小早川一族を差し置く。周防には大島義政、大内豊前守。長門には守護の厚東一族を。  そして四国は、細川阿波守や細川定禅の軍で固め、山陰にも仁木、上杉の族を配しておくなど、すべて後日のための考慮がなされた。  すべて他日のための布置だということは誰にもわかる。尊氏のさしずにもその遠謀にも寸分、余すところはない。 「……したが?」  と、諸将は不安をのこした。  やがて衆座のうちから、大内豊前守義弘がすすんでその疑点をただした。 「おそれながら、おうかがいつかまつりますが」 「豊前か──」と、尊氏は眼をやって「何事よの?」 「仰せのように、山陽、山陰、四国へまで、ここの御軍勢を分けて留めおかれましては、筑紫へ渡らせられる宰相のおん供には、どれほどな兵力がお付添いできましょうか」 「さ。……どれほどあとに残るかな。直義」  訊かれた直義はまた、かたわらの師直を見て。 「師直。千五、六百人程はひッさげて行かれようか」 「いや、とんでもない」  と、師直は首を振った。 「その半数にも足りますまい。せいぜい、筑紫落ちのおん供は五、六百人に過ぎぬかと存じられまする」 「それでいい!」  と、尊氏はためらいなく二人の横から断をくだして。 「手勢は五百もつれておれば充分。尊氏の兵力は行く先々においてある。──が、師直はいま何と申したか」 「はっ。……?」 「筑紫落ちといったな。たわけめ。尊氏の下向は、敗れたりとはいえ、落人の身隠しなどとはわけがちがう。いうならば、筑紫びらきと申せ」 「これは、師直の失言でござりました。平におゆるしを」 「余人ならともかく、執事のそちが知ってないはずはない。かねがね筑紫の武者どもへは、他日のため、何くれとなく手を打っておいたことぞ。尊氏はその刈入れに下るのだわ」  こう師直を叱っておいて、尊氏はそのおもてを全体の武将たちへむけ直した。そして筑紫入りにいたずらな大兵は要すまいという見解に次いで、 「むしろ、瀬戸内の海路こそ、あとの大事。もし沿岸の国々が敵手に落ちたら、わが再上洛もむずかしくなるだろう。尊氏の先途を案じるよりは、各〻はそれぞれの国元にいて、尊氏が二度の上京を鶴首して待て。その日は決して遠いさきのことではない」  と、説明もし、またことばづよく励ました。  大勢のうえに、どよめきと明るさがただよった。敗戦のただよい以来、やっと、よみがえッてきたいささかな活気であった。──筑紫びらき、ということばが諸将の口からしばしば談笑になって流れたりした。  軍議の席はそのまま酒宴の夕となった。晩には、赤松一族をこの地にのこす以外、みな船へ移ってそれぞれの国へさして別れ去る──。その別宴でもあり、またこれは、筑紫びらきの門祝いであるぞ、とも誰かが言った。そして、かたちばかりの茶碗酒に他日をちかいあったのだった。  しかもまた。この宵、久しく、尊氏へも消息を絶っていた一色右馬介が、折も折、早馬でここ室ノ津へいま着いたと、城門からの知らせが入った。 「何。介がいま着いたと」  待ちに待っていた者だ。しかし尊氏はなぜか諸将のいる座をついとはずして、べつな一室へ移って行った。そして、これへと侍に命じ、そこで介を待ったのだった。  おそらくは、ひそかに、事の不成就を、胸にえがいていたのではなかったか。  もしこのさい、ここへもたらしてくる介の報告が、かねがねの切望を裏切って──持明院統の皇による院宣降下の不成功を告げるものであったら──どうなるか。それは、はなはだまずいものになる。  時も時だ。大きなうつろを味方にまねき、ひいては、他日の結束にも亀裂を生じまいものではない。「と、なっては一大事」として、尊氏もそこで介を待つ間は、吉か凶かに、肋骨もいたむような胸騒いをいだいていたにちがいなかった。 「…………」  やがて侍の声がし、介だけが、そっとそこへ入って来て、平伏した。  例の雲水姿である。だが髪もひげも伸びに伸びて、乞食僧のように疲れはてた影は、尊氏の目もいたむほどだった。 「おう、介か」 「申しわけもございませぬ」 「なに、申しわけがない?」 「余りにも日時をついやし、それに今日まで、何らのお便りもつかまつらず……」 「あの乱軍つづき。しかもそちは都の中だ。いちいち仔細の連絡がとれぬなどは仕方もない。それよりは、結句、どういう情勢か。……持明院統の方々へ、ちかづきまいらする手づるは得たのか。また駄目か」 「およろこびなされませ。首尾ようお志は院へ聞え上げられました」 「えっ。かなえられたと?」 「はいっ」 「では院宣の御降しはあるのだな」 「しかと」 「……が、その御使は」 「すぐてまえのあとよりこの室ノ津へお着きあるはずでございまする」 「そうか」  尊氏は初めてその胸をのばして大きく呼吸した。そして介の労をいたわると、介は、 「いえいえ。てまえのはたらきなどは微々たるもので」  と、恥じて言った。 「こうさっそくに、事のはこびがついてきましたのは、まったくお差向けの薬師丸が双ヶ岡へ見えたからでございまする」 「お、薬師丸が、そちの許へたずねて行ったか」 「されば、その薬師丸のみちびきで、資名どのの弟御、三宝院の僧、日野賢俊御坊にお会いできたのでございました」 「ではその賢俊より院へ」 「はい。その間、朝廷方のきびしい御監視をくぐるため、ことばにも現わせぬ苦心は数々でござりましたが」 「ム、さもあろう」 「が、賢俊御坊には、これぞ持明院統の時節到来と、必死な御助力でございました。そこでついに光厳上皇の御院宣を拝受いたし、それを肌身に秘めるやいな、てまえが京を立つ日と同時に、賢俊御坊と薬師丸のふたりも、讃岐へもどる干魚船の船底へ身をかくし、淀の口より海へのがれ出たはずにござりまする」  宿望の院宣はもうお手に入るばかりなのだ。  尊氏がどんなに狂喜するだろうかを、介は、期待していたが、案外その人にはなんの表情もうごいてこず、かえって、介のことばのはしに、ふとおもてを曇らせて。 「相違ないのか。介」 「逐一申しあげたことに、何の相違がございましょうや」 「しかし、院宣の御使が、はたしてこれへ御着あるやいなや、そちのはなしでは、ちと心もとなく案じられる。──讃岐がよいの干魚船に潜んで海へ出られたということだが」 「や。申しおくれました。まったくは佐々木道誉の計らいによることでございました」 「道誉の?」 「病のため、兵庫から御陣を離れて、近江へ帰るのだと申す道誉が、途中、双ヶ岡の法師へ使いをよこしましたので、さっそく彼の屯へまいって行き会いましたような次第で」 「む」 「聞けば、病とは表向き、云々で帰国するとのうちあけばなし。で、じつはこなたも、極秘の院宣を、いかにせば無事におとどけなしうるか、御使の賢俊御坊も、おなやみの最中と、事を割ってはなしますと、思案のすえ、ならば供のうちに、備前飽浦の佐々木党の一人、加治源太左衛門安綱がおる、これは海上の案内にくわしい侍、その者の才覚におまかせあれとのことだったのでございまする」 「では、源太左衛門安綱が、御使の賢俊と薬師丸を、送って来るのか」 「さらに道誉の家臣、田子大弥太も干魚船の水夫となって、淀をまぎれ出で、海上これへまいる手はずとなっています」 「そちはなぜ、べつに?」 「万一のさいには、誰がわが殿へこれをお知らせいたしましょうか。それも思い、また一刻もはやくと、てまえは陸路をムチ打って先にまいったわけでござりまする。八幡、天の御加護もありましょう。今明中には、御使の一舟が、沖へ見えるに相違ございません」  ここまで聞くと、尊氏は初めて高い感激に体じゅうを耐えられない程なものにした。幼年からの愛臣介のことなので多くは口に出さないが「よくぞ。よくやった!」と見ている眼が、介へも映ってかっと彼の心を熱くさせた。無言のままで二人はつい涙ぐんでしまっていたものだった。  が、すぐ尊氏はたちあがって、 「幸い、こよいここを別れ去る諸国の大将どもへ、さっそくこの吉報を披露しておこう。またそちはただちに港の船をひきつれて、御使の迎えに行け。播磨灘の沖あいまで」  と、言いのこして去った。  やがてしばらくすると、彼方の広間なる大酒盛りの席が、一瞬しいんとひそまった。それからである。尊氏のことばによって、持明院統の院宣ここにわれらへ降る──と、満座へ発表されたものであろう。室山の城もゆるぐばかりな歓声が突然わっとそこで揚がった。 「それっ、船を出せ」 「御使に万一あっては」  と、その席からも、ただちに、数人の将がどやどや駈け出し、介もまた、人々と共に、港のほうへ駈けていた。  つづいて、尊氏以下、諸軍もみな城を出払って、室の港からそれぞれの船へ乗りわかれた。  こうしたうちに、 「おう、見えた」 「御使の迎えに行った船がもどって来るわ」  と、港いっぱいに蕩揺している無数の船影のうえに、どよめきがわいた。  まさしくそれであろう。この夜は二月十六日であったから雲間にはまろい月があり、鱗のような波光のうちを、その一舟とまた一群の船列とが、近づくほどにあざらかとなって来る。  院の御使の船は、まもなく、尊氏の乗船の横へ着いた。すぐ右馬介の介添えで、自船から大船の上へと移った日野賢俊と薬師丸の影は、一とき湾内の者の視線を粛とあつめていた。  はやくも大船の胴ノ間では、むしろを清めて、尊氏が座をただして御使を待ち、直義とほかの諸将も艫へかけて身を一様な敷波にして平伏していた。 「あなたが足利の宰相尊氏どのでおわされるか」  賢俊のことばであった。  個人的な応答と察して、尊氏がしかる由をこたえると、賢俊もまた、 「拙僧は三宝院ノ僧正賢俊と申すものですが、つい先つ頃までは、院のお側近う仕えたてまつっていた中納言日野の資明におざりまする」  と、その身分を一応あきらかにしたうえで。 「このままでは世はどう成りゆくことでしょう。永劫、乱に乱を見ねば相なりますまい。かねがね、後伏見、花園、光厳の三院におかれましても、深くおむねを傷められていたところです。そこへ、はしなくあなたからのお働きかけでした。身を僧門に隠してはおりましたものの、この賢俊とても、同憂でない者ではございません。──御密使の介と薬師丸から委細を聞くやいな、よろこんで、いや身命を賭して、このお仲立ちに当った次第でございまする」 「…………」 「足利どの」 「はっ」 「同慶のいたりです。ここに不肖賢俊を以て、すなわち、光厳上皇の御院宣を、足利家へお降しあらせられました。つつしんでお受け申されい」  陣中、三方の用意もない。  賢俊はそれの奉書と、それに添えられた錦の旗の一巻とを、両の手に持ち添えて、すこし前へ身をすすめる。尊氏は無言のまま拝受してあとへさがった。そして、もいちど奉書を押しいただいた上で畏る畏るひらいてみた。  月のひかりに紙の白さがなお白かった。光厳(先の帝)の綸旨には、 義貞と与党一類を誅伐して 天下平穏の来らん日を 一日も早かれと 汝の忠誠に待つ  という意味のものだった。  これによれば、相手は大覚寺統でもなし後醍醐でもない。義貞こそが当の敵だ。そしてこの綸旨に敵対する義貞は、やはり朝敵逆賊の名をまぬがれえないことになる。  尊氏も、ここに錦の旗を持った。すでに名分においては同等な立場となった。ただ錦の旗と錦の旗。天下の人心が、そのいずれを選ぶかだけにある。 「直義」  尊氏は、そばへ呼んで。 「賜わった院宣は、そちも拝読しておくがよい。そしてすぐ全軍の船へつたえろ。終ったらすぐ纜解いて、筑紫へくだるぞ」  直義は、かしこまって、親船のみよしから大音声で味方へ告げた。 「聞けよ人々。新院光厳の御使より、ただいまわが足利党へ、天下平定の綸旨がここで降ったぞ。──義貞一類の徒を誅伐して、世のため、忠誠をぬきんでよとの院宣だ。──そのしるしをここにかかげる。仰ぎ見ろ味方の衆」  と、一人の郎党に命じて、長い竿を持たせ、そのさきに、錦の旗を解いて、月の空へ高々と振らせた。  声は船から船へ、一ときのまに、つたえられてはいた。夜目ながら錦の旗も月影に見たことだろう。やがて港じゅうが沸騰したようにわああッという武者声を捲きおこした。そしてすぐそれは勇ましい櫓ひびきや水谺と変じて、 「さらば後日」 「さらば、またの再会に」  と、呼びあいながら、かねての諜し合せどおり、船列の端から、続々、沖へさして別れ出て行った。  尊氏の船も、この夜、室ノ津を離れて西へ去った。  多くは、それぞれの自国へさして一たん帰帆して行ったが、あらかじめ覚悟のとおり、尊氏の船列には五、六百の兵しか扈従していなかった。  その中に、日野賢俊もついて行った。  彼はそのまま陣中僧として、尊氏のために犬馬の労をとり、後、室町幕府成立の日にいたッては、その枢機にまで参加した。  元々、日野家は貴族中の名門でもあり、これが機縁で後には足利家とも通婚した。そしてかの東山殿(足利義政)の妻として、利殖に長け、政治内争をみだし、ついに応仁ノ大乱の一因にもなったといわれる日野富子という室町型の一女性なども、この日野家から出たひとだった。しかしそれは、はるか後代になってのはなし。  ここでは、尊氏にせよ賢俊にしろ、明日の運命すら何でよく知りえようか、である。──わけて尊氏はまだ茫洋な感だったろう。行くての九州に、なお何が待つかも、予知はできない。  味方の一将、石橋和義を、途中の備前で下ろし、備後鞆ノ津に半日ほどいて、またすぐ西下をつづけた。  そして、長門にとどまった。  すると月の二十五日。  筑紫の少弐貞経の子、頼尚兄弟が大宰府から一族五百余人をひきつれて、 「筑紫びらきの御案内に」  と、迎えに来た。  これへの迎えも、来る方は容易ではなかったのだ。九州諸党の多くは朝廷の召しに応じて京都へ出ていた。──大友貞載、上島惟頼、阿蘇惟時、菊池武重──みな宮方として早くから義貞の麾下に付いている。  そのうちの大友だけは、海道箱根ノ合戦で、道誉や塩冶高貞らと共に、足利方へ寝返っていたが、なお他の九州宮方は健在なのだ。──月のすえ二十九日、尊氏は頼尚の案内で、海路、赤間ヶ関から筑前芦屋ノ浦へ渡ったが、それは薄氷を踏み行くような敵地上陸にことならなかった。 勾当の内侍  ちょうど、尊氏の流亡軍が、筑前芦屋ノ浦へつき、ここに初めて九州の地をふんでいたころ──  その二月二十九日。  都では、改元の令があった。爾今、年号を、  延元  と改められ、前ノ大納言花山院亭の仮内裏では、発布の神事がおこなわれていた。また同日を期して、このたびの大戦大勝の賀をのべる貴顕の馬やら車やらが混み合って、三条洞院の四ツ辻に、仕丁たちの間で〝くるま喧嘩〟が起るほどな騒ぎだった。  やれ、車をぶつけたとか。  車のあるじが礼を欠いたとか。  車副の侍から、牛飼の童まで、みな気が立っているのである。そしてみな戦勝の驕りに酔っているのでもある。  なにしろ、尊氏の筑紫隠れは、大きな反映をこの洛中へ投じていた。それを「尊氏退散」とさえいって、ふたたび、花の都が地に降りたような景観を俄にしていたのだった。  しかし、ほんとの姿にはまだまだ遠く、いたるところは焼け跡だらけな洛内なのだ。──その中へ過日来の兵庫からの凱旋軍が、何万となく入りこんで、各〻勝手屯に、空地や空館を占めてごッたがえしているし、日が暮れると婦女子は一人で歩けぬような戦勝の都である。──だが内裏へ参内するほどな人々は、公卿といわず、武将といわず、相見るたびにこう祝福しあっていた。 「やあ、おめでとう」 「いや同慶、同慶」  ここにたれよりも百戦の功を燦と身にあつめていたものは新田義貞で、きのう今日の彼は稀世の名将みたいにあつかわれていた。──ソノ日義貞朝臣ニハ、天下ノ士卒ノ将トシテ、降人数万ヲ後ニ召シ具シ、花ノ都ニ帰リ給フ──と彼の凱旋をたたえた古記はそのまま義貞の風采と見てもよかろう。年は三十のなかば、元々の美男でもある。  そのうえこのほど官位も、  左近衛ノ中将  に昇され、弟の脇屋義助は、右衛門ノ佐となった。  彼の得意時代が今や来たかのようである。今日も親しくみかどに召されて「以後、山陰山陽十六ヵ国の事を管領せよ」との朝命を拝して御座のあたりをさがって来たところだった。  近く、義貞はまた、尊氏追討の軍をもよおして、再び西下しなければならぬ。山陰山陽十六ヵ国にわたる軍令権のみゆるしは、その挙にあたっていちいち都へ使いを往返していてはまにあわないのですべてをゆだねられたものではあった。けれどこれもまた左中将義貞の名をいよいよ三軍のうえに重からしめるものであることは言をまたない。 「ここ七日以内に」  と、義貞はその発向の日どりまでを今日はおちかいして来たのである。一族将兵たちの休養もだが、自身もまた去年いらいの血臭い生活をこの日に少し憩いたかった。……で、君からいただいた賜酒に染まって、頬にはほのかな色が出ていた。憩いの色といってよかった。 「お。……左中将どの」  すると、一簾の蔭からさし招くものがあった。たれかとみれば、これも近ごろ勲功の臣として、内裏でも、また外でも、かくれない羽振りの人、千種の頭ノ中将忠顕だった。 「左中将どの。一度折入って、おはなし申したい儀もあるが」 「うけたまわりましょう。ここでよろしければ」 「いや、ここではちと」  千種忠顕は間を措いて。 「尊氏追捕のために再度の御発向もおひかえあること。お忙しさは察しるが、貴邸へ伺うてはいかがであろうか」 「お待ちする」 「今宵にでも」 「けっこうです。ただ近来家中も急増して手ぜまのため、旧居は弟の義助にゆずり、それがしは高倉ノ辻にいますが」 「御新亭の方か」 「いや新居などではありません。もと足利直義のいた旧館をそのままつかっているわけで」 「ならば人目も遠くてなおよい都合だ。じつは自分のほかに、もひとりお連れしてまいるお方もあるしの……」 「あなたのほかに」 「む。それは、女性のお方とだけを、ここでは、おうちあけ申しておこう。くわしくいってしもうては色も香も浅くなる。ま……いずれ晩に」  忠顕も忙しげだった。右弁官の局から迎えにきた蔵人と袖をつらねてすぐ立ち去り、義貞はそのまま退出して、高倉ノ辻へ帰った。  私邸に帰れば彼を待つ客や軍務はここにも山とつかえていた。〝時の人義貞〟にまたたく春の半日は暮れてしまう。「所用あれば、あとの時務は一さい明日聞く」と表方へいいわたして、湯殿の湯けむりに浸ったのがもう約束の宵だった。そろそろ千種忠顕が見える頃である。 「折入ってとは?」  千種とは、刎頸の仲だ、悪いこととはおもわれない。  それよりも、その千種が連れてくるといった女性とは誰なのか。そのことのほうが彼には昼から気がかりだった。思い当りがないでもなく、あるいはと、心が浮いてくるからでもある。  左近衛ノ中将に叙す  との恩命に接したのは、さきごろ兵庫合戦でまだ在陣中のことだったが、凱旋の日、さっそくそれのお礼とご報告とをかねて参内し、たいそう面目をほどこしたのみならず、宮中の慣例にもないほどな、おもてなしを賜わったことがある。  後醍醐は御酒がおつよい。諸卿はみな知っているが、義貞は正直におあいてしていたので、ついに酔いつぶれてしまったらしく、やがてふと気づいたときは誰もみえない朧夜の一殿だった。のみならず、目をさますとすぐ楚々と薬湯をささげて来てやさしく気分を問うてくれた一女性がある。  更衣とか典侍とかよばれる深宮の女性にちがいない。いよいよ恐縮して、義貞は半ば夢心地で薬湯をおしいただいたが、あたりの花明りに、ふと、そのひとの顔を見たせつな、  あ、草心尼?  と、叫びかけて、おもわずはしたない驚きの目をしばらく彼女の花顔から離しえなかったものだった。それほど彼女の眉目は若き日のかの草心尼に似て美しく眩くもあった。  忘れかねて。  そのご、このことを忠顕にもらすと、忠顕がまたそれを、みかどのお耳へ達したらしく、みかどのおことばとして「──左中将がそれほど忘れかねる女なら、左中将へつかわしてもよいの」と、仰せられたということだった。──それもまた煩悩の身には、忘れかねるみことばではあった。  まさか。  よしんば、帝がほんとにそう仰っしゃったにしろ、女を賜うなどとは、かりそめのお戯れにちがいない──  それとは義貞も心で打消してはいたが、やはり多少はそぞろめいて、その折、千種忠顕から女の名やら素姓などは訊きさぐってみたのであった。──で、知りえたところによると、彼女は一条行房の妹で、宮中での御所名は、  勾当ノ内侍  と呼ばれているという。  内侍とあるからにはもちろん御寝に侍る御息所や更衣にならぶ女性のひとりにちがいない。高嶺の花だ、訊かぬがましであったよと、義貞はなおさら失望したものだった。  けれど、栄達と名声と、彼の昨今には、彼を満すものが充分だった。さらには、尊氏追討のもう一段階もひかえている。彼の失意も空洞とまではならずに忘れかけていた。そうして、せっかく忘れかけていたものをである。またも思い出させるなどはあの忠顕も罪がふかい。──彼が言ったこよいの同伴者とは誰なのか。──それに代るべき女でも連れて来る気か。でなければ、まったく何かべつな用か。 「…………」  湯ぶねのうちで、義貞はうっとり思い耽っていた。外はおぼろ夜らしく、湯殿の窓にも花の影がサヤサヤあった。  ふるさとの花、世良田ノ館の桜もふとおもい出されてくる。恋が成っても破れても、男には忘れえぬ女が生涯に一人はかならずあるというが、それが自分には草心尼であったかと、義貞はいま知った。  その人と、勾当ノ内侍とは、瞼のうちで、けじめもつかぬほどよく似ている。まだ髪をおろさぬ若後家ごろの草心尼と──。  いや草心尼といえば。つい先頃も彼には妙なことがあった。  摂津の戦場で、兵に捕われて来た旅の母子があり、見ると、それが彼女と覚一だったのだ。  しょせん尊氏は亡びる。尊氏を頼って行っても行くすえ頼む人にはなるまい。自分の陣にいたがよい、と──それはもうむかしの美しさは褪せた尼なので色恋などでなくいたわってやったものだが、無断でいつか見えなくなってしまっていた。おそらくは、以後の戦場にまき込まれたか、路頭に迷っていることだろう。 「……殿。……殿」  湯殿の外の声だった。 「新兵衛か」 「は。新兵衛にございますが」 「いま出る。いますぐ」 「お耳へまでちょっと」 「千種どのが見えたのであろう」 「さようで」 「いいつけておいたように離亭のほうへお通し申しあげておいたろうな」 「はい」 「おひとりか」 「いえ、女性の御方と」 「老女か。お若い方か」 「み車を降りさせ給うたとき、よそながら拝しただけでございますが、花うるしのきらやかな女御車、おん姿といえば、夜目にさえ﨟やかなお方のようにぞんじられました」 「ふ……ム」  義貞は内で体を拭いていた。壮者のゆたかな肉塊は、拭くそばからまたすぐ汗になってくる。  用意されていたことなので、主客はすぐ酒になっていたが、義貞はまだ、忠顕の来意がとんとわかっていない。客は忠顕だけで、連れていると聞いた女性は、この場には見えないのである。 「いや、おひきあわせはあとにいたそう。その前にちとすましておかねばならぬおはなしもありますから」  と、問わぬ先に忠顕のほうから言った。そのひとは、どこか別室にでもおいて、まず用談を先にとしているらしいのである。 「仰せください」義貞はさいそくした。「──ここは離亭です。呼ぶまではたれも来るなと、家臣どもも遠ざけてござりますれば」 「じつはの……」と、語気を凝らして「佐々木道誉の降参についてじゃが」 「ほ。そのことなら義貞も聞いていました。さきごろ大江山より道誉が使いを出して、あなたの御門へ、降参のおとりなしを、すがって来たとか」 「いやこの忠顕だけに来たわけではない。准后(廉子)のおん許へも懇願の使いを出して、るる、恭順のこころを陳べ、前非を悔いておる態なのだ」 「はははは。およしなさい、およしなさい」  義貞は手を振った。 「あの道誉が、いまさら前非を悔いたなどとは、笑止千万。なんで真顔に耳が仮せましょうか」 「なるほど。左中将どのには、あくまで御反対と聞いていたが」 「されば宮中にても御内議ありとうかがったせつ、義貞は強う不本意でござると、申したことはたしかです」 「お嫌いかの。あの人物は」 「さような感情からではありませぬ。去年、海道諸所の合戦では、二度まで這奴は寝返りをやっておる。およそ廉恥を知らぬ男でしょうが」 「しかし彼のみではない。いまの武将は」 「いやいかに道義が廃った今でも彼のごときは全く稀れです。稀れな鵺です。箱根合戦の後陣から裏切って、この義貞を死地におとしたのも彼の才覚。またぞろ尊氏の非運をみるや、尊氏をすてて兵庫から脱陣したものの、京を通らねば近江へも行くことならず、途中の大江山で立ち往生をしているのでしょう。……そしてくるしまぎれに、准后へすがり、またお気のいいあなたをだまそうとしているのだ」 「さ。それで困る。元々、佐々木道誉なる者は、元弘の年、みかどが六波羅の獄から隠岐へ流され給うた日の出雲路まで、その御警固にあたっていた人物だ。──さるがゆえに、みかども准后の御方も、彼は情けある武士よと今もって信じておられる。また深くそのせつの道誉の忠義をお憶えあらせられて、ここは助けとらせよとの叡慮でもあるらしい」 「…………」 「ところが、左中将には御不服との聞えがある。いま御辺につむじをまげられたら、これまた朝廷のみならず宇内の大事といわねばならん。そこで忠顕がたれのおさしずというでもなけれど、ま、篤とお胸をうかがってみたいと存じてまいったわけだが」 「ご苦労でした」  義貞は冷たい杯を手に挙げて白く笑った。 「申しおくが」  義貞は、あらたまって。 「准后のおぼしめしは情としてわかりますが、義貞の不服は一切私心ではおざらん。ただ軍のためを思うのみです。せっかく、戦勝の瑞気にわいている今日、道誉のごとき二タ股者、いや三ツ股者の降参をゆるすなどの過誤を冒してはと」 「が、人には功罪いずれもある」 「道誉に何の功がかぞえられましょうか」 「まだ北条の勢威もさかんだった正中の頃から、彼のみは、幕臣でありながら公卿方に交わり、探題の弾圧がくだる日も、蔭で宮方をたすけておった」 「日和見者の打算、それなど、功というには当りますまい」 「いちがいに打算とのみは言いきれん。笠置落城後、あまたな公卿は斬られ、みかどは六波羅ノ獄に囚われ給うなどの日においてさえ、彼は北条の目をぬすんでまで、みかどにお尽し申しあげた」 「それはある」 「また、隠岐護送のおん供の途次においても」 「すでに最前うかがった」 「さらに、みかど還幸の日となっても、建武の御新政始めには、御内帑のくるしさ、ひと方ならず、楮幣(紙幣)を発兌して、おしのぎあったほどだが、そのおりもまた道誉は、私財をかたむけて、宮廷の御費用をおたすけしておる。……いやこれを知る者は、准后の御方だけだが……いまとなっては申してもさしつかえあるまい。准后のお暮らしなども、ずいぶん彼によって、当時は息をおつきになっていたものだそうな」 「千種どの」 「ム?」 「あなたもまた、彼にみつがれていたお一人だったのか」 「受けんとはいわぬ。彼のみつぎをうけぬ大官はまずないからの。なんとなれば、道誉の佐々木支族は、南海から出雲地方にまでおよんでおる。それらを通じて、彼は海外との交易をやらせ、およそ都に見られる唐物のすべては佐女牛の門から密々市へ捌かれていた物といってよい。そして朝廷の大官は日本政府の名による印可符(許可証)を彼の交易船に貸していたというわけでもある」 「お待ちください。それは商人のすること。商人の功かは存ぜぬが、軍功ではありますまい」 「軍功ではない。しかし軍功にもつながるものだ」 「義貞は武人、軍は論じますが、商論はぞんじません」 「元々、道誉は純な武将とはいいかねる。半商半武人とも申すべきか。そうした人物も経世の面ではまた要なしとせぬ。まずは彼の旧領を助けおいて、後日、その能才を得意な方に働かせるぐらいな寛度もあってよかろう」 「はははは。ご熱心よな。仔細の商論は伺った。お取引はご随意に」 「それではこまる」 「と申されても」 「はて。このままでは二人の仲もついに論争の物別れになりかねん。左中将どの。もう止そう。こよいは酒なと酌み給え」 「酒はすでに酌んでいる」 「いやお連れしてまいった御方を加え、なごやかにと申すのだ。お待ちあれ……」  何思ったか、忠顕は離亭を出て、ふと何処かへ立ってしまった。  義貞は独り酌いでは飲んでいた。忠顕が去ったあとのうつろは、いやおうなしに彼に自分を考えさせてくる。  道誉の無節操を罵ッたが、義貞といえ、北条遺臣の中先代軍からいわせれば、主家に弓をひいた離反者のほかではなく、天下の武門あらましも寝返りの前科者であらぬはない。 「つまらぬ強情を」  と、義貞はかえりみて、忠顕との論争もやや後悔されだしてきた。それは即、准后の廉子へたてをつくことにもなるからだ。  おそらく忠顕のおとずれは、廉子の命で来たものだろう。──とすれば、彼が連れて来た女性というのも、あるいは、准后腹心の局のひとりかも知れぬ。 「目をつぶろう……」  義貞は自我をなだめた。准后と事を構えて争うなどはおろかである。また争って勝てッこはない。現朝廷の妲己である。いつかは女奏の難に会おう。そのとき、腹をたてて弓をひけば、自分もまた道誉の無節操と似た者となるしかない。  すくなくも自分の忠誠は現帝の御理想へささげているのだ。道誉のごとき男、尊氏のごとき者と、同列であってはならない。産土の神も照覧あれ願文の誓いはきっとつらぬいてみせよう。──ここにただ尊氏をさえ滅ぼしてしまえばだ。道誉一人の存否などは問題でない。どうにでもなる。そのどうでもいいことに、准后のごきげんを損じ、忠顕と気まずくなるなどは、愚であった。おろかしさよと、ようやく、彼の酒気が身のうちでほのぼのと色を醸しかけていた。すると、そのときである、 「……お召しあそばしましたか」  と、どこやらで声が匂う。  きれいなせせらぎの階音にも似た声音には気のせいか覚えがあった。 「たれだ?」 「わたくしです」 「わたくしとは」 「…………」  答えにつまって、そして羞恥らってでもいるような気配が朧な勾欄のあたりでしていた。その間には、細殿の簾が垂れている。義貞はもどかしくなり、われから立って、簾を押しはらった。簾の目にたかっていた花の幾ヒラが舞って、その下に手をつかえていたひとの黒髪にもハラとこぼれた。 「や、そなたは」 「勾当ノ内侍でございまする」 「……これは」  義貞はあきれた。茫然と口もきけなかった。  声で、もしやと思わぬでもなかったが、あまりに欲していたものが余りにたやすく目の前におかれた驚きの反作用が奇異な戦慄にもなるのであった。 「はて、人の悪い」  義貞は、胸の戸まどいを、ふとそんな呟きにして。 「では、千種どのが、こよいお連れあった女性というは」 「私でございました」  内侍は、どこかに怯えの翳を持ちながらかすかに答えた。 「お召ゆえ、この離亭へ罷れと仰せなので、まいりましたが」 「いや、義貞は呼んだ覚えはない。ないどころか、連れがそなたとも知らなかった。して千種どのはどこに」 「はやお帰りになりました」 「えっ。帰った?」  ふしぎな行為をするものだ。なんでこんな謎めいたまねを彼はするのか。  義貞には、忠顕の腹が、彼の腹芸みたいな行為が、 「妙な?」  としか考えられない。何かウラが? とさえ疑われてくる。  しかし残された勾当ノ内侍が、ひとり残っていることをすこしも疑っていないのは一体どういうわけだろう。義貞がそのことをただすと、彼女は消えも入りたげな姿をみせてやっと答えた。 「どうぞおそばにお置き給わりませ。内裏のおいとまも今日を限りに、いまよりはお館にいるようにとの、仰せつけを畏んでまいりました。ふつつかな者ではございますが」 「仰せつけ? ……。はて、たれの?」 「もとよりお上の」 「みかどのおことばだと仰っしゃるのか」 「くわしいことは千種さまから、はやお耳かとぞんじますが」 「いやなにも聞いていない」 「まだ、なにも」 「まったくなにも」 「…………」  彼女は初めてうろたえの色をあらわした。しずかでいた眸よりは、心噪がしい眸のほうが一ばい美しさを増していた。とつぜん意中の者同士がなんらの前提もなく密会の機にめぐまれたようなときめきをすら義貞はとたんに覚えた。  ともあれと、彼はべつな小部屋へ彼女を誘い入れた。 「内侍。そなたのいうに従えば、そなたもこのままいることを、承知のうえで今宵これへ参ったように聞えるが」 「はい。もしお厭いなくば」 「それがわからぬ」 「どうしてですか」 「みかどのお心も」 「でもお上には左中将との一約、ぜひもなければと私へお言いふくめでございました」 「約束と仰せられて」 「はい」 「……約束とな」  あとの呟きはほとんど口のうちだった。義貞は心のちぢむ思いがした。忠顕から洩れ聞いていた叡慮とはやはり一時のお戯れではなかったのか、と。  どうしよう。急に彼は惑った。むかしには源三位頼政が菖蒲ノ前を主上から賜わったというはなしはある。が、自分の上にそんな僥倖がめぐんで欲しいなどとは思いもしていなかった。──忘れかねるという想いを率直に忠顕へ洩らしただけのことである。もしこの勾当の内侍がみかどにとって寵幸もただならぬ愛妃であったとしたら、それをねだッた自分はいとも罪深い者になろう。恐懼といっても言い足りはしない。ただただ申しわけないかぎりである。  彼のそうした容子がふと内侍を不安にさせてきたのかもしれなかった。急に、つきつめたその眸に涙さえ差しぐんで。 「左中将さま。居てもよろしいのでございましょうか」 「居てもとは」 「おそばに」 「そなたさえ居る心なら」 「わたくしはもう……」  と、彼女は思いきったようにあふるる涙と共に言った。 「ここへ来て、真実ほっといたしました。内裏という火宅をのがれ出てきたような思いがして」  義貞は内侍のことばをあやしんだ。内裏も火宅同様とは。  煩悩の炎、その中での業苦遁れ難い人間の三界住居。──それが仏典でいう「火宅」と彼は承知している。  内裏の後宮もまたそんな所だろうか。勾当ノ内侍は、問われて袂を濡らすばかりだったが、やがて、とぎれとぎれに語りだした。いまは義貞にゆだねるしかない女の一生と、どこかで観念のみえるのもあわれであった。  彼女の生家は公卿中での名門である。とくに兄の一条頭ノ大夫行房は、隠岐配所にまでお供をして、始終、帝とあの一ト頃の艱苦を共にした侍者の一人でもあったから、還幸の後は、みかども、いちばい行房にはお目をかけられ、末の妹の勾当ノ内侍も後宮に入って、あまたな妃嬪のうちでさえかがやく寵幸を身一つにほこっていた。  これだけならば、彼女になんの不足があろう。後宮を茨の園と恐れにおののくわけもない。  が、やがて彼女は、みかどの寵幸が厚うなればなるほど、准后の廉子の監視がたえず身にそそがれているのに気づいた。廉子ときけば、后町の局々、あまたな寵姫も、みなお姑のようにおそれ憚っているのである。それに内侍はいつか帝のおたねをやどしていた。  身をいとしんで、珠の御子を産めと、彼女は実家へさげられた。すると或る日、兄の行房が来て、ひそかに妹へ「おろしたがよい」とすすめた。「……兄がこの目で見た小宰相ノ君のような例もあるからのう」と、恐ろしいことを咡いて聞かせた。  かつて、みかどが隠岐脱出のさいには、なおまだ三人の妃がおそばに仕えていた。廉子、大納言ノ局、小宰相の三名である。ところがそのうちで身ごもっていた小宰相ノ君だけが、伯耆ノ地に上陸後には、いつのまにか見えなくなっていた。  ……ふびんや、過ッて船着きの折、海へ落ちて。  と、廉子は後日、傷ましげに奏していたが、じつは追手にせまられた混乱中、その廉子が船上から波間へ突きおとしたものであった一瞬を、運悪く行房だけがふと見ていたのだった。──いらい行房はどうかしてこの悪夢を記憶から打消そう打消したい──と念じて今日にいたって来たが、妹のそちがおなじ立場になってみては黙っておれぬ。──語るのは、いま初めてだが、ゆめ、准后のおねたみを受けてはならぬという兄の注意なのだった。  世にそんな恐ろしいことがと、疑われもし悲しまれて、内侍はそれをしおに病といって後宮へはもどらずにいた。しかし、みかどからは「……いかにせし?」と、そのごも再三なお召である。で、ついにまた入内をやむなくしたが、前にもまして廉子が恐く、また廉子の目もなんとなくほかの寵妃を見るのとちがい、自分へのみはすさまじく思われて仕方がない。そして、ひとの秘密を知ったことの恐ろしさがついにはわが身の患いとまでなっていた。  これにはまた、みかども常々お悩みらしくあって、近ごろはとみに自分への寵幸も衰えぎみとなっていた折……はしなくも「義貞へ嫁け」との御諚であったという。──内侍はそう語り終って、しんそこ、ほっと息をした。  世間は暗かった。洛中、一種の鬼気が深夜になるとただよってくる。  義貞には体でわかる。  豼貅(戦いを好む猛獣)数万の者が、このところ刀鎗の血をぬぐって、いささか休息のため人間社会の中へ返っている。そして戦いなき夜を眠っていた。いやなかなか眠りもしていまい。乾き切った意欲が女を漁り酒を追って、百鬼夜行図さながらに、罪の香を嗅ぎあるいているに相違なかろう。  なにしろ兵は野性だ。将も人間である。本能やりばなき、血のなかのものを、義貞もいま、三条高倉邸の離亭の一灯に照らして、みずからの身に見ていた。  おれも豼貅の一匹  と覚らざるをえまい。──目のまえの勾当の内侍は、ともすればただうつむきがちだった。あれから義貞はそこへ酒をはこばせてしきりに酔いをいそぎ、そして内侍へも、 「飲まぬか」  と、すすめていたが、ふたりの仲はたやすく美酒のごとく醸されては来なかった。──天皇から賜うた女と、賜わった男とである。いわばまたその初夜だった。──人はやはり品ではない。溶けきれないもどかしさを徒らにふたりはいつまで心の外側にむかい合っていたままだった。 「……そなた、武者の家の生活はまだ知るまいがの」  義貞はふと、こんな緒をみつけて言った。ひとつの話がとぎれると、あとの話題も彼がもちだすほかないのであった。 「ええ……」と、内侍もやや頬の解れをみせて「武者のお家はおろか、世間のことも、何一つようぞんじてはおりませぬ」 「さいぜん、内裏は火宅じゃとの嘆きだったが、武者には武者の業がある。ここもまた火宅とあとで悔いねばよいが……」 「いいえ、人誰もの苦患はわきまえておりまする。ましていまのような世の中。それを憂い辛いとは申しませぬ。……ただせめて、人の真情がほしいのです」 「真情とは、男の」 「もとより女でございますから」 「内裏にはそれすらないか」 「みかどはおひとりでいらせられます。かしずく後宮の私たちは、廉子さまはじめ二十人もの妃嬪で御寵を競っていました。どうして真実が生れ出ましょう」 「真実になれば燃えように」 「そのような炎と炎は、おたがいを喘ぐ火宅とするほかのものではありません。それがあの怖ろしい後宮という所です」 「ここならば」 「でも、殿のお心はまだわかりませぬ。この私というものは、恩賞の品代りに、みかどから殿へ下されたもの。私は人形です。自分の気もちを余り言ってはいけないのでした」 「いやそなたは奴隷ではない。誇れ、義貞の想われ人だ。義貞がおせがみしていただいたそなたなのだ。人形のたましいはわしが入れてやる」  義貞は杯を横へ抛った。──投げると見えたほど朱の杯は輪を描いてころがり、そしてとっさに一匹の豼貅は、その盲目的な勢いとたくましい体の下に勾当の内侍をねじふせていた。裳のみだれ、黒髪のふるえ、彼女に与えられるたましいとは彼女を窒息させるほどなものだった。  今朝。  春眠、暁ヲ覚エズ──の春の朝でもあるが、義貞はすかっとした上機嫌で、近侍にたいする語調まで快活だった。 「なに。義助(脇屋)や貞満(堀口)らが、はや表の間に詰めて待っているというのか。待たせておけ、待たせておけ」  いちど、書院に姿をおいたが、こう言ってまた対ノ屋の奥へ遠くかくれてしまった。きのうまではなかった部屋の色彩や物の香が、美しいあるじを持って、春の日影までを新たにしていた。 「内侍、さびしかろ」 「どうしてですか」 「こわらしき男ばかりだ。内裏のさまとは、おそらく余りな違い方」 「それがかえって、そぞろにうれしゅうございます。人の中に立ちまじって、自分も世間のひとりになったことかと」 「いまに街も見せてやる。輿にかくれて、仁和寺へも行ってみい。清水の春もよい」 「いえ、ただもうこうしているだけでも」  そのあかるい黛が、ふと義貞に、ゆうべのある一ときに顰めた黛を思い出させた。たましいは人形にうちこまれ、彼女は人間に返っている。彼女もまた今朝のひとりの男を自分の生涯のそとにおいては眺められなかった。 「内侍、したくは」 「お待ちしておりました」 「妻と朝餉をひとつにするなどは、義貞、ほとんど忘れていたことだったな」  中ノ坪を前にした一室へ移り、給仕人もしりぞけて、ふたりだけで膳についた。内侍にしても、このような朝餉のためしは宮中ではなかったであろう。ひそと女の幸福感を箸に持った彼女の姿には、もう何らのくらい翳もなく、館のあるじの想われ人になりきっていた。 「それにしても……」と、内侍はさっそく今朝の噂にしていった。「……おかしな千種さま。どうして昨夜は黙って、帰ってしまわれたのでございましょうか」 「いや、忠顕どのの腹、准后のお胸、いぶかりはみな解けた。そなたは何も知らぬままがよい。義貞もまた、彼に会うても一切知らぬ顔で通すつもりだ……。そして、道誉降参の一件なども」 「道誉と仰せられますのは」 「佐々木道誉だ。いや、わずらわしい。そなたがきいてもせんないこと」  次の部屋へ近侍が来ていた。  ふたりの声がとぎれると。 「殿。……江田行義、篠塚伊賀守などが、明日先発のうちあわせとかで、さいぜんよりお表の間でお待ち申しあげておりますが」 「いま参る。しばし休息しておれといえ」  義貞はつい起つのが惜しまれてはそう言っていた。久しい戦陣の飢渇が花野の露にでも逢ったようで飽かない心地なのである。するとまた、青侍の足音がして、思わぬ客の来訪を告げた。 「……誰だ。客とは」 「河内守正成どのでございまする」 「楠木が。……?」  いちど、黙考してから。 「また来てもらおう。今日は播磨へ発向の先発をえらび、かたがた、軍議に一日を要する。御用あらば、また明日にでも来給え、と申してやれ」 路頭の子  たそがれ、正成は、京での居宅、六条油小路の門で、駒を降りた。  ひる、義貞を三条高倉の邸におとずれたが、会えなかったので、玄恵法印をたずね、また、二、三の知人を訪うてもどったのだが、彼の行く先はみな時流の外にある僧や学究の家だった。好んで今を時めく権門を避けているような彼にもおもわれる。 「お帰りなされませ」  帰れば、いつもまっ先にとび出してくるのは、赭顔白髪の老臣恩智左近で、 「やれやれ、さぞやお疲れで」  と、正成の手から駒のたづなを取るとすぐ、正成の顔を読んで、その出先から胸のうちまでを、ちゃんと見てしまうのも、この左近であった。  油小路の邸は、正成が和泉河内の守護をかねて、摂津昆陽野の代官を管理する身となってから賜わったいわゆる「在京公務所」だった。だからどこにも私邸らしさはない。  ただ恩智をはじめとし、妹聟の服部治郎左衛門元成、一族の松尾、南江、和田のともがらや、郷土の若殿ばらが、黒い板じきにずらと並んで、 「お帰り」  と一様な姿をみせ、それにたいして正成が、 「何事もなかったか」  と、一顧をみせて通るのが、せめてここにある彼の家族的なくつろぎといえばいえる。  総じて、彼の位置は、官職にしても大きく昇進したはずだが、暮らし方はいぜんむかしの河内の一豪族とさして変った風もなかった。あたかもこれを家憲としているかのようにである。  そこで公卿たちのあいだには、  河内のつくね芋殿  などという蔭口がまま聞かれた。どろくさいという意味だろう。正成自身もそのことは知らなくはない。  しょせん自分は地中の鈍根  と、みずから自己の性をどうしようもないとして、世事の毀誉褒貶などは一こう気にもとめないふうだった。  しかし昨今、上下とも、戦勝気分にわきかえっている洛中にあって、ここ一門だけが、何とも列外におかれた感で、正成はともかく、老臣若党ばらは、忿懣やるかたないものを鬱々と抑えているにはちがいない。  過ぐる兵庫合戦の日においてである。──打出ヶ浜から御影へかけての大事な一戦の日に──理由なく後陣へさげられ、そのまま不面目な帰洛を余儀なくされていたのだった。  もちろん、総大将義貞にすれば、理由はあったことであろう。それは尊氏の筆になる正成宛ての密書だといわれている。  しかし、嫌疑はすでにはれているはずだった。それが尊氏の偽計であったことは、降参の将の談話で、そのご証拠だてられており、検断所の公卿裁きでも、  ほかからも同文の書があらわれたゆえ、あれはおかしい──  といわれているのだ。にもかかわらず、義貞だけは、それの訂正も声明していず、さらには、二次の発向にも、ここへは何らの沙汰さえまだ来ていない。  次の尊氏追討は、当然、山陽九州への出兵なので、すべて命は武門の大将一司令下にゆだねられる。楠木といえ義貞の命によらねばうごけないことなのだ。 「左中将どのへ、今日は親しくお会いなされましてございまするか」  やがて室に灯を見ると、左近は案じ顔の下から、正成へそっとたずねた。 「いや、会えなんだ」  と、正成は、これは正成のもちまえだが、口おもたげにぽつんと答えたのみだった。  ──これはまずい、と爺の左近はすぐ覚ると正成の気色を見てたちまち話の穂をかえ。 「──そうそう。ひる、おるす中に、常陸からのお飛脚がまいっておりまするが」 「久慈の正家からか」 「は。御状をたずさえて」 「見ようか」 「お夜食は」 「あとにする」  東国の常陸久慈郡へは、一族のひとり楠木正家が彼の代官として年暮から下向していた。そこからの一便らしい。  長い書面だった。  見終ると。 「飛脚の武士を呼んでくれい」 「お会いなされますか」 「ム、東国の事情を訊こう」 「あちらの形勢など深い事情は余りわきまえぬかのような走り下部にすぎませぬが」 「それでもよい」  これの話がまた長かった。訥々、素朴きわまる飛脚武士なのである。正成はそれをつかまえて、物の値段をきいたり、去年の作物の刈入れをたずね、また東国のことしの正月はどんな? ──などとそれからそれへ雑談を求めて倦むこともない。  しかし彼にすれば、正家の書状の内容とあわせ観て、何かうるところがあるのだろう。やがておそく寝所へ入った。  枕は彼の憩いでなく、枕は近来彼の憂いをさらに研ぐ一座の思念石となっている。枕につくと、彼には日本じゅうの物音がその石から聞えてくるのだ。坐ながらでなく寝ながらにして世の人心まで映ってくる。 「せんない憂いを」  と、彼は思う。  一個の力などではどうにもならない限界と、滔々たる世の趨勢が彼には観えた。  それは誰も見ていよう。そして人の目で見得る範囲と深度だけを人と同じように見ているほど気の安いものはない。けれど正成の患いは、人以上に世が愛しまれ世の行方や人心が観えるところにあった。智恵学問から持っていたものでなく、天性の彼の感受性といってよい。──たとえばである。  世間の目一般は、天皇軍対尊氏だけにとらわれ、はや北条遺臣軍の、信濃、越後、裏日本へわたる蠢動などは、消えたものと思っている。  ところがそうでない。  奥州も、てんやわんやだ。北畠顕家が留守となった東北の乱脈さなどわけて想像に難くない。さらに思いが筑紫に飛べばなおゾッとした。──彼のさぐり知るところでは、尊氏は、持明院統の皇の院宣をにぎっている。  さもあらば。  みかどとみかどの争いだ。  二つの日輪がせめぎ闘うて全土の上に燃え狂うときは地上も寸土をあまさぬ血に染まるだろう。  ……正成は寝返りを打った。老人のように、その肩は温もっていず、その背はまろい。 「……そうさせては」  ならじ! と彼は寝つつも寝られず体を硬くするのだった。さきには大塔ノ宮のあえなき死を、人皆も見ているのに、と痛憤に似たものが涙をすらふとついてくる。 「が、正成ひとりでは」  と、無力の感がげっそりと彼の疲労を誘ってきてやがては自然眠りにおちた。その間だけ彼は救われた寝顔を持った。 「なんだ?」  祐筆の安間了現。  朝の役宅へ入って行ったばかりだが、また門へひっ返してきて、六条油小路の往来へ首を出していた。  門外では八尾ノ新介、富田正光らの若侍から組頭たちまでたちまじって、しきりに「道誉が」とか「佐々木が」とか言い騒めいているのだった。  訊けば。近くの佐女牛の一邸へ、佐々木道誉の手勢二、三百人が今暁から帰って来て、久しく空けていたやかたが俄に賑わい立っているというのである。 「それやいぶかしいな」  了現は、さらにたずねた。 「這奴は、足利方の一将、この都へ、帰って来られるはずの者ではなかろう」 「それが帰って来たのです」と富田五郎正光は、ゆゆしい椿事と、ふんがいして。「おそらくは、尊氏の敗戦で脱陣したものでございましょう。さきごろ来、大江山に立ち往生して、進みもせず、もどりもせぬ一陣の兵がいるとは聞いていました。ところがその佐々木道誉、ぬけぬけと、山を降りて、佐女牛へおちつき込んだではございませぬか」 「たしかなのか」 「見てきたのです」 「ふうん? ……」 「わけがわからん、なんとも、このごろの世態や武門は」 「この了現も、なんの沙汰も聞いておらぬ。みかどへ降を乞うたものなら、すぐ左金吾(義貞)の沙汰なり窪所(武者所)の門触れが廻るはずだが」 「道誉の、またぞろな降参など、それこそ沙汰のかぎりでしょう。よもやいかに、しっ腰のない左金吾殿でも、また、みかどのおうちにしろ」 「ばかげたことだ」  たれかが呟いたしおに。 「やめろ、やめろ、こんな往来評議もこけのひまつぶしでしかないわ。はははは」  正成がこれを耳にしたのは、やかたの奥で爺の左近のかしずきを受けながら、外出の身支度をしていたときだった。 「……道誉がの」  と、彼は笑った。そして、 「いまさら不審がるにも当るまい。彼は彼の道をあるいているのだ。もそっと、べつな所には表に見えぬ醜事や奇怪事が数しれずひそんでいよう。世はいぶかしいことだらけよ。……爺、爺はさように思わぬか」  ともいった。  この日も彼は左中将新田義貞の高倉の亭をおとずれに出たのである。が、きのうの約もむなしく会えなかった。「──弟、義助でよくば」との伝言だったが「また」と彼は辞して去った。  事実、門前には播磨へ先発する軍兵が屯していて、正成が求めた二人だけの懇談などに応じられなかったのもムリはない。とは思われたもののまた、 「私の訴え事と取られたのか」  と、それが少しばかりは残念だった。彼にはいま、これ以外に世を救うみちはない、と思いつめている一信念があったのだ。ついてはまずたれよりも義貞とじっくりはなしあってみたい。そう考えて二日通ったのだが、時めく左中将の威風を門に見ての帰りにはそれも絶望のほかなきものとあきらめたようだった。  この思い。  これしかないと正成が思いきわめている考えは、義貞に会い、とくと義貞の大度量と理解とを求めるしかない問題だった。  秘れてすれば陰謀になる。  およそ陰謀などは彼にない才覚だし、よしまた義貞に会いえても、得意の絶頂にある今の左中将の耳には、正成が抱いている考えなどは、とうてい、善意にうけられそうもない。 「はて……」  帰路の馬は路頭に迷った。  義貞がだめならば──  千種忠顕に会って逐一胸のうちをはなそうか。  いやいや、千種は義貞と親しい仲、すぐ義貞へ通じるだろう。直接でなく人を介した意見となれば、いよいよ義貞が素直に容れる可能性はすくなくなる。 「ならば……」  正成は心のうちで他をさがす。  洞院ノ実世卿はどうか。  力がなさすぎる。やっと一方の公卿大将たるのが関のやまの人で、大局の動向を察したり勇断をもつ人ではない。  在京の鎮守府将軍北畠顕家の名もかれの胸にうかんでいた。  すがすがしいほど純で忠誠一筋な人とはおもう。けれど多くの日をみちのくに送り当今の複雑怪奇な時局を知れといってもムリである。かたがた年も若く、それに父北畠親房卿ときては、地位、学問、階級などに左右される意識が濃く、気位がたかい。またついぞ、河内守正成などいう者が朝臣の端にいることすらお目のすみにもある風ではなく、禁中などでも目礼一つ返されたことはなかった。 「……語る相手はたれもない」  ひるの京洛は人間で息れていた。  辻々は黒山な庶民。隊伍をなして西へ行くのは、播磨の赤松攻めへさす諸家の兵であろう。ひがしの方へ行く軍隊もみえる。それは尊氏一族の本国三河を席巻して、尊氏が秘している妻子や母を召捕る戦略だとか聞いている。また宮門へむかって牛にムチ打つ車、もどる輿、じつに人は多い。しかも正成が心をかたるたれひとりこの都にはいなかった。  彼の心は路頭をさまよう子に似ていた。  こんなとき、むかしからの賢人なる者は、山林へ去って行く。世をすてて隠遁する。  だがそれのできる正成でもなかった。名利に恋々たるのではないが、彼も一族の族長だ。乱世の権化みたいな熱血そのものの輩も多くかかえている。弟正季がしかりである。いやいや彼の自由をもっと狭い立場に追いつめていたのは彼にはどうしても軽く持てない自責だった。長としての責任感だった。  もしこの重い業をのがれたいのであったら、そもそもは、元弘の初め、笠置からの天皇のお招きをお断りすればよかったのである。しかるにすすんで勅を畏んだ。そのときすでに平和の民、南河内の一族有縁の女子供にいたるまでの運命はこの正成が業の輪廻に巻きこんでいたものだった。長としてのその原罪を、彼はみずからの性格のためにごまかしきれない。  しかし、拒んだら、のがれえたか。平和の民があのまま平和でいられたろうか。  むずかしい。考えられない。  でも正成の責任はそれで消えぬ、この正成の……と笠置の過去をかえりみたとき、彼ははっと、いまの衷心を訴えうるただひとりの御一人を胸のうちに見つけていた。  正成はその日、六条へもどるとすぐ、祐筆の安間了現に願書をもたせて、宮廷の大納言ノつかさ(職局)へ使いにやった。 「──何とぞ不時ノ賜謁の儀をおはからい願いたく」と朝へ手続きをとらせたのだった。 「戻りまいた。──折よく閑院ノ権大納言さまにお目通りを得、仰せには、はかろうてやる、お沙汰を待てとのこと。まずは御聴許あるものとぞんぜられます」  了現の返事であった。  大納言のつかさは「天下喉舌ノ官」ともいわれる局である。聖旨を下達し、下の善言も納れる機関とあるのでそんな称もあったとみえる。 「そうか」  正成は安堵のていで、 「閑院の侍従がお扱いくださるるとあれば──」  と、やがての沙汰を待った。  この日いらい、どこやらに腹のきまったとも見える姿が彼の一両日を長閑けくしていた。──河内守左衛門ノ少尉という一朝臣の身は五位ノ官位にすぎず、単独で主上へ拝謁をねがい出るなどは、おこがましく、おそれ多いとも万々わかっていたが、やむにやまれぬ果てであったらしい。が、そこまでのつきつめた憂いも、帰結を心に観てしまうと、低雲一過、あとは迷うことなく暢々としているのも彼にきわだっている性情の一面だった。  ちょうど正成もそのいささかなおちつきにあった間のことである。──一族の楠木弥四郎や和田弥五郎など十騎ほどの従者にまもられて、正成の一子正行が、郷土南河内から、 「母ぎみのお使いで」  と、これへ父を訪ねてきた。  元服を去年すまして、幼名多聞丸を正行とあらため、ことし十四をかぞえる正行だった。もとより重大な使いならこの正行をよこすはずもない。去年いらい、正月も帰郷していない正成であったので、ここわずか戦陣も休止の都と窺って、おそらくは母から「……そっと父上にお会いして、御容子を見ておじゃれ。そしてお国元の幼い者から皆も無事息災におりますと、そなたからよう申し上げてもどるがよい」といわれたか、あるいは、父の顔見たさに、正行自身「何でも行きたい」と、せがんで来たかの、どちらかにちがいなかった。  ──とは、正成も察している。そして正行が、 「これは、母ぎみからです」  と、父の前にかしこまってすぐさし出したのを披いて見ても、まずは何事もない妻の久子の手紙だった。その文中には、 ……去年の冬から初春へかけて、都の御陣は、やごとなきあたりからあなたさまやら郎党たちまで、矢たけびのなかに明け暮れのおすごしとあるのに、河内の奥は何事ものう、正月は正月の真似びもしたり、この頃の麦踏み唄にも、近年にない百姓衆の長閑かな励みが見られるなど、みなお蔭によるものと、もったいのう存じて、ただ朝夕の蔭膳へのみ、一日も早くと、御世のしずもりを祈っているのが、私たちのせめてもな力でしかございませぬ──  などと見え、そのあたりの文字には正成もふと瞼を熱く持ったことだった。しかし彼の後顧の安心と家族への張合いもそれ以外なものではなかった。  正行は母に似て小づくりだった。おもざしも父の自分よりは母御似だとよく他人はいう。 「……十四となったか」  正成はこの正月もついに家郷を見ずにしまったので、いま、妻の手紙を巻きおさめながら、その妻の手塩の愛を──可憐な小冠者姿に隈なく持って──ちょこんと目の前に畏まった正行にどこか急に大人びて来たものすら覚えて、 「……正行、大きくなったな。しかしよう母がそちを手放してよこしたの」  と、男親の幅のひろい目でゆったり眺めた。  正行はかたくなっていた。  だが、恐いからではなく、ふくら雀のように、満足感にみちた姿であったのだ。──それほど、この長い乱世下におかれた武門の家では、子と親とが、或る日を無事で一つにいることも稀れだったからではあった。 「はい。お願いしても、初めなかなか母上のおゆるしが出ませんでした」 「そうだろう」と苦笑して──「めったに、ゆるすはずはない。世上は殺伐、子を遠くへは出すなと、この父がかたく申しつけておいたのだから」 「ですが父上。河内の奥にばかりいると、無性に正行は遠くが知りたくなって来ます。居ても立ってもいられなくなって来て」 「どうしてだ」 「日本じゅうが戦争なのに、河内の奥で自分だけがこんなにしていていいのかしらと思うのです」 「悪いことを、母がさせておくはずはない。あいかわらず観心寺の御坊の許へ通って、勉強はしているのであろうが」 「はい」 「それでいいのだ。そちも世を案じるなら、学問に精出して、今の世情などにはわき目をふるな。すぐそちたちが、いまの大人に代って、その乱脈な世をになう時が来る」 「でも、叔父君は、そんな世間見ずではいけない。正行もはや十四、初陣もすべき年ごろなのに……と再三、母上へお手紙を下さいました」 「正季がか?」 「はい。四天王寺の御陣所からです。……それでじつは、叔父君を四天王寺にお訪ねして、京へ廻って来たのです」 「ははは……。さては母がゆるさぬので、正季を頼んで出て来たわけだの。して正季はそちに、何を教え、何を見せたか」 「四天王寺を中心に、難波、住吉を二日ほど見て歩くうち、こう仰せられておりました。……和泉、摂津の浜は、なべて楠木勢の持ち場だが、欲しい船がたくさんにはない。やがて足利尊氏との会戦には、どうしても、海上の力が要る。ところがお味方には用意がないのだ。──お父上にお会いしたら、ぜひこのことを、左中将どのへ御献策あるように──正季が申しおりましたと」 「正季の言伝てか」 「ええ。それから……正行も来るべき次の戦には、ぜひ初陣したがよい。叔父からもお父上へようお願いしてやると仰っしゃっても下さいました」 「ふム……」  と、正成はあいまいな顔してまた笑った。 「いけません? 父上」 「従軍の望みか」 「叔父上のおことばでは、たとえ一時は筑紫へ逃げた尊氏でも、いまにきっと大軍で攻めのぼって来るぞ、と仰っしゃっておいででした」 「それは必定だ、かくごしておかねばならん」 「ですから」 「ははは、単純だの。正季もその程度か。しかしな正行、覚悟はいるが、日はわからぬ。いつの日尊氏がそう出て来るか──」 「でも、それを待たず、左中将どの以下、みな播磨から西国へまで、攻めてくだるのでございましょう。そのいくさへ、正行もお供させてくださいませ」 「まあ待て」  と、正成は子の一途を、いささか持てあまして。 「男の子の初陣とは、元服以上大事な日だ。初めて烈しい世へ出て、世の大敵と渡りあうこと。──悔いのない相手と正義の戦場をえらばねばならん」 「今のいくさは正義ではないのですか」 「さてさて、そちもなかなか口賢しゅうなって来たな。人はたれも正しからんとし、正しいと号しているのだ。みずから邪悪の軍と思っている者はいない。……だがそれがまま邪軍となり魔行をほしいままにし出してくる。大本は忘れやすく、人は大昔の獣に返りやすい。いくさとはそんなものなのだ」 「…………」 「いや、こんな話、まだそちには、ちと難しかろ。とまれこの父はの、元来が今様の武人でないのじゃ。それゆえ、ただ功名我慾の首狩りのような戦に、わが子のそちを初陣させる気にはならぬ。……連れてゆくときがあれば、そのときは連れてゆく。……かまえて、それまではただ学問に精出しておれ」 「はい」  正行はききわけた。これ以上は、叱られることを知っている。また叱言となればきびしいことも知りすぎていた。  正行がここにいたのは、わずか三日ほどだった。──滞京中には、服部治郎左衛門に連れられて、洛中を見てあるき、東西の市ノ棚では、弟たちへの土産に、独楽を買った。また、母やら卯木への土産も買って、やがていそいそ、従者十騎と共に河内へ帰って行った。  折ふしまた、正成へは、同日、大納言のつかさから、 予テノ願ヒニ依 特ニ謁ヲ賜ハセラル 明、未刻(午後二時) 参内アルベキ也  との通達があった。  待ちぬかれていたことである。そのため、正行の訪れも、国の便りも、じつは心の外だったような容子がなくもなかった。事実、彼はこの参内と、そして、めったにはめぐまれえない天子直々の拝謁を機に、或る一期の覚悟をしていたらしい。  早朝から正成は身浄めして自室にこもっていたが、やがて五位ノ尉の衣冠をただし、供にも南江正忠、矢尾ノ常正など、いつにない列伍をただして出て行った。定刻、花山院の仮皇居へつくようにである。──それを爺の左近は、さすが何か、ただ事ならじと察したらしく、六条の門から不安そうな眼ざしでいつまでも見送っていた。 豆と豆がら  やがて定刻が来ていた。  母屋の玉座には御簾がたれ、お胸のあたりが仰がれる程度にそのすそは巻かれてある。  一だん低く。  正成は〝廂の床〟にひれ伏していた。  もとよりここは花山院の今内裏(仮の皇居)だが、天皇のおわすところ、どこでもそこを清涼殿と呼ぶのが慣わしなのである。で、左右の公卿列座もすべて清涼のかたちどおりであるが、ただどこか狭くはあった。そして玉座と謁者との距離も、まったく間近であったから、正成の姿も、咫尺の畏れを、いちばいその背に平たくしていた。 「廷尉」 「はっ」 「直々、奏聞におよびたいとは、いかなる儀か、それにて申しのべたがよろしかろう」  一公卿の声だった。  侍座には坊門ノ清忠、洞院の公賢、近衛、三条など、上卿たちの顔も見える。そして、正成がそも、何を訴え出たのかと、彼ひとりへ視線をそそぎあっていた。 「時局、容易ならぬときにいたりましてござりまする。……そのうえに、叡慮をわずらわし奉るは、まことに、恐懼にたえぬとはぞんじますなれど」 「む……」  と、後醍醐のおうなずきが洩れた。  後醍醐も、この功臣を、おわすれでは決してないが、なにぶん、群臣あまたな中である。とかく家柄の低い一廷尉正成をとくに日頃お召というわけにもゆかない。……折ふし正成からの願いだった。……何かは知らぬが、きいてやろうという優渥なお気もちは、充分、御簾のうちからもうかがわれた。 「正成」 「はっ」 「遠慮なく申せ、なんぞ軍についての意見でもあるか」 「さようにござりまする。もし今をおいて、このまま推移いたしましては、悔いを百年におよぼし、また、せっかく建武の御新政を見て、ここ三年の聖業も、ついには、いかがなろうかと、昼夜、案じられます余りに……」 「要は?」 「正成の存念を、直言つかまつるなれば、なにとぞ、いまを以て、御軍をやめ、公武一体のすがたをお取りあらせられ、ひとまず、すべてを御政事に帰せられたしと希う次第にございまする」 「公武一体とな」 「は」 「解せんことを申す。尊氏をおいてか」 「いえ。勅を賜うて、足利尊氏をなだめ、親しくお召あらせられなば」 「では、尊氏へ、和を請うようなものになる」 「なんで天下の目に、さようなことに映りましょうか。御軍は兵庫に大捷を博しており、尊氏は遠く筑紫へ落ちのびている敗軍の人。……さればこそまた、いまが絶好なときでもございまする。一たんの勝利をば、ここでゆるがぬ御勝利といたさねばなりませぬ」 「しっ」  と、そのとき、公卿列座の中の一つの顔が、正成の注意を衝いて、こう言った。 「廷尉。不吉な言はつつしまれい!」 「…………」正成は、そのためちょっと絶句したが、しかし姿勢は御簾を仰いだままで、それへ眸をそらしたわけでもない。根をふかく土にかくしている巌みたいに、今日の彼は、いつもの正成ともみえず何かうごかぬものをその姿にもっていた。 「勝ちは負けの始めとか。まことに不吉な兆は、勝者の陣にすぐあらわれるものにござります。勝つことだけを知って、勝ちを収めることを思わねば」 「待て……」  後醍醐が仰せられた。 「そちが憂いとは、つまり後日となれば、軍はわが方の負けになる。それゆえ、いまのうちに尊氏と和して、公武合体とやらの工夫をしたがよい、というに尽きるな」 「御諚、さようにござりまする。しかもその時機は今をおいてはありませぬ。……もし時移せば、筑紫の尊氏は、須臾のまに、西国の諸豪を手なずけ、四国、山陽山陰の与類をあわせ、おそくも年内には、大挙、ふたたび闕下へせまってくることは、火を見るよりも明らかとおもわれまする」 「正成。……それはそちの案じすぎぞ。筑紫にも誠忠の士は多い。四国、中国とても同様。そのうえに、義貞もくだってゆく。何条、尊氏の意のままになろうや」 「……あいや、申すも畏れ多くはありますが、建武の制として、新たにお示しあらせられた御政事の主旨は、かならずしも、武士どもの心から迎えているものでございません」 「尊氏一類の徒にとってはさもあろう。さればこそ、撃たではおけまい」 「しかるに、尊氏には同調しても、聖慮を畏まざる武士の方が、全土にはいかに多いか知れませぬ。……かつは左中将どのの不人望と、尊氏の衆望とは、これまた、くらべものになりません」 「義貞はそれほど諸武士に気うけが悪いか」 「人の蔭口に似て、申すも憚りなれど、ここには公卿方も御列座あること。あえて明言つかまつります。……もし左中将どのに、よく人心収攬のご器量があるものなれば、さきに鎌倉を陥し、また勅宣の御軍をひきいて治平の帥にあたりながら、今日まで天下の諸族を、いまだにこんな支離滅裂にはしておきますまい。──ひるがえって尊氏をみれば、賊名をうけながらも、またいくたび窮地に立ち、いくたび破れながらも、なお彼の筑紫落ちには、あまたな武士が、付き従うなど──尊氏が赴くところ、何せい、衆和と士気の高さがうかがわれまする」  御簾のうちには、なんのお声もなくなった。  おそらくは、おん眉をひそめておわすに相違ない。わけて公卿座に居ならんでいる顔、顔、顔……のすべては、みな、にがりきって正成を見すえていた。  直言にも程がある。  時の人、左中将義貞をさして、こんなにまで無遠慮に評価し切った者がほかにあるだろうか。公卿たちは、正成の正気をさえ疑って、ただあきれるのみだった。  しかし後醍醐はさすが、帝王の寛い御分別ともいうべきか。正成を観るにも、彼らの冷蔑や気色ばみとは、はるかにお心の在り方がちがっている。──これは容易ならぬ正成の決意──と、みそなわせられたらしく、御簾をとおして、彼の姿へいちばいな凝視を垂れ、 「正成」  と、呼ばれていた。 「はっ」 「そちは、尊氏が何者なるかを、わきまえておるのか。あきらかに、彼は幕府を立て、おのれその幕府の上に臨まんとする者だぞ」 「御諚。そのとおりとぞんじられます」 「しかるに、そちは言ったな。君臣一和、公武合体の制をとれとか」 「はい」 「ならば、王政一新の実はどこにおくか。幕府を廃め、政を古に回すなどは空名になる」 「さは相なるまいかと思いまする」 「どうして」 「上おんみずから、親しく諸政をみそなわす儀は、うごかざる政の大本として、その下における武門の統御のみを、尊氏におゆだねあらせられるぶんには」 「それ自体、幕府をみとめることではないか」 「いや、頼朝いらい、幕府の害、また思いあがりは、朝政にくちばしをいれ、皇統のお世嗣ぎをさえ、意のままにうごかし奉るなどの僭上沙汰にありました。その牙をだに与えなければ。……そして武門は武門の分を守らすに止めおけば」 「さような制を、武家が守れるはずはない。わけて尊氏めは、おのれ第二の頼朝にならんと、望んでおるものを」 「まこと、御宸念のほど、ご無理はございませぬ、が、もし正成にみゆるしを給わるなら、正成自身、即刻、筑紫へ下向いたし、尊氏に会うて、きっと古今の弊を論じ、また、おろかなる戦乱の果なさを説き、かならず恭順を誓わせ、無用な戈は、これを収めさせまする」 「して、義貞はどういたすか。義貞の同意なくして」 「されば、左中将どのの許へも、自身二度もお訪ね申してはおりました。──しかし左中将どのが、やすやす、御同意あろうとはおもわれません。ぜひなくば、新田はこれを討つ、とするもまたやむをえぬかと考えられます」 「新田を討つ?」 「まこと、よんどころなくば」 「そうしてまでも、尊氏とは、たたかいを避けろというのか」 「皇統の長き御未来のため。大きくは、民ぐさのためにも。……聖慮におん曇りなきよう、正成、伏して、かようにおねがいつかまつりまする」 「ばかな」  ついに、逆鱗のみけしきが、御簾をゆすった。 「ならん! ……。さような進言なれば聞くにも足らん。正成、そちはどうかしたか」 「……ただただ憂いのみにござりまする。いまや尊氏の許には、持明院統の皇の院宣も密かに降下されておること。──君と君との血みどろを、臣として、何で心なく見ておられましょうか」  低すぎるくらいな声で、声の表に感情は出ていない。彼の悪い方の片目のまぶたとひとしく静かに抑えられている。それでいて正成のことばは、公卿列座のすべての者の肺腑をドキッとさせたようだった。  ──申すことにも事を欠いて。  ──聖慮もはばからず。  と、みな色を失い、彼ら衣冠のつつしみぶかい眸も、せつな、こぞって御簾のうちの御気色へ、思わずうごいたほどである。  しかし、そこも龍淵のごとく溟としていた。しばしは何の御諚もなかった。そしてただあの大きなおん目を凝らして、じっと正成を見ていらっしゃるのみである。──まだかつて、これほどなことを直言したやつはない──、ふしぎな男かなと、後醍醐は、むしろ逆な御寛度に返って、もっと正成にいわせてみようとしておられるのかもしれなかった。  ややあって。 「正成……」  と、御諚、おもたげに、 「いかにもそちの申すがごとく、持明院統の院宣が、尊氏の手に渡ったとは、ちかごろ四国中国の武士どもが、しきりと揚言するところとは聞いておる……。が、それはまことではない。風説にすぎん。朝廷での調べでは」 「あいや、おそれながら、正成が知るかぎりにおきましては、かなしいかな、虚伝ともおもわれませぬ」 「なにをいう。たとえ尊氏が光厳(持明院統の先帝)をそそのかして、そのような物を手に持とうと、すでに廃帝たる院の院宣などは反古にひとしい。天に二つの日輪があろうや」 「げによき御言葉にこそ。──天に二日あらせてはなりませぬ。さるがゆえに正成、微臣に過ぎぬ身にござりますが、ここ昼夜、肝嚢を病むばかり世のすえ案じられてまいりまする……。ひとえに、皇統の破滅のみならず、その下における、あわれ民ぐさ、千万の精霊も、みな戦土に喘ぎ哭かねばなりません」  このとき、ついにたまりかねたように、公卿座のうちから、参議坊門ノ清忠が、 「廷尉! 廷尉」  と、制止して、 「なにさま、其許の奏上を伺っておると、其許は時局を思い病む余り、ちと気鬱の症にかかっておられるようだ……。いたずらに、病者の進言などは、畏れ多い。むしろお耳わずらわしかろうぞ」  と、言った。いや叱った。 「は。……重々」  と、正成は、ほんのこころもち、その膝を、公卿たちのほうへ向けかえて。 「──不遜のつみ軽からずと恐懼してはおりまする。なれど、ことは国事です。上つ方のみならず下億衆の地獄か楽土かのわかれ、その今を坐視してはいられませぬ」 「では、あくまで其許は、朝廷と尊氏と和せというのか。そして、その御使には、自分が尊氏を説きに筑紫へ行ってもよいとまで望むのか」 「一定、それしか、世を救うみちはなしと信じまする」 「さてこそ、先頃じゅうの噂も噂ではなかったわい。……かねてより尊氏と正成とは、よほどよほど、ねんごろな仲であったとみえる。……もはや、何をかいわんや。はははは」  侮辱だ。聞き捨てはなるまい。と公卿たちにさえ、清忠の言は、 「ちと、言い過ぎ」  と、おもわれた。  意見の相違はともかく。正成の誠意はたれにもわかっている。その必死な諫奏を「──尊氏と親しいからであろう」などとは、嘲弄もまた、はなはだしい。さすが正成も、カッと逆上するのではないかと、みな、目をこらして、正成を見まもっていた。  けれど、正成は、清忠の嘲笑を浴びると、じぶんも共に、その面に、うっすらと苦笑を持って、 「おからかいを……」  と、かろく危険な一瞬を交わしていた。  そして、自分は尊氏を、世の敵としては憎むが、私の敵とは憎んでいない。むしろ当今武門のうちでは、第一の人物とおもっている、と率直に言った。  世の敵と、憎む理由は、これまでは尊氏が、朝家に弓をひき、逆賊の名を負っても、なおその野望をかえるふうもなかったからであるが、その彼が、朝家のおん一ト方の院宣を持って、  われも廷臣  足利も皇軍  と名のるからには、手のくだしようもないではないか。  また、世上沙汰さるる如く、 「このいくさを、君と君とのお争いにせばや」  と彼が謀っているものなら、なおさらのこと、彼の術中に陥ちるなどは、現朝廷の極力避くべきところではあるまいか。  正成は怯みもなく言った。──そしてなお、坊門ノ清忠の姿を中心に、公卿ばらの方へ、その膝をきっと向け直しながら、 「およそ何が浅ましい、何が忌わしいといって、おなじ血の同胞が、憎しみあい、墜し合い、また殺し合うなどの惨を見るほど、世に情けないものはありません。畜生道です。いや禽獣にすら見られないこと。なぜか人間だけにかかっている人間業です。これを、凡下が演じるならまだ知らず。──朝廷おんみずからやってどうなりましょうか」  と、一人一人の胸に訴え。 「持明院統もただしい皇統。また現朝廷の大覚寺統もひとつ皇統。いずれが帝血に非ずというものでありません。──としたら同じ帝血のお争いです。そして、ひとたび骨肉相剋のたたかいとなれば、うらみも憎しみも、他人以上、解けがたいものとか。必然、百年はこの地上に修羅地獄の血を見なければ止みますまい」  と、痛嘆した。  さらに、その弁も訥々ではあったが、倦まず、熱意をこめて、 「正成ごときが申しあげるまでもなく、ここには博識な方々のみ。つとに御存知と拝察しますが、このさい御一考として、かの異朝の詩人、魏の曹植が作ったと称される〝七歩の詩〟を思いあわせていただければ倖せです。それは正成の百言よりも、はるか勝るかとぞんじまする」  と、御簾へむかってするとおりに、公卿へも、平身低頭して言った。 「なに。七歩の詩?」  人々のあいだに、小さい咡きが流れ、そしてしばしは、その詩句と詩意とに、各〻思いをひそめ合うらしい容子だった。  七歩ノ詩とは。  ──みな沈黙におちたが、訊きかえす公卿はない。  正成も説明はしなかった。なまじな説明はかえって反感をかうだろう。異国の文藻や学問なら人後に落ちぬとする誇りは公卿の誰もが持っている。  魏の文帝の時代だ。  文帝はかの三国志中の梟将、曹操の子であり、父曹操の帝位を受けたひとであるが、弟の曹植は、素質性行、兄とはまるでちがっていた。  つまり風流子というものか。諸般の芸事には通じ、詩藻ゆたかで、文学の才華はなみならぬものだが「──戦はごめんだ」と、つねに言って、軍事は嫌い、政治にはそっぽを向き、兄の文帝とも事々うまく折合わず、その人生観でも兄弟はまったく両極の人だった。  だが、世は戦雲の下。呉は蜀と同盟して、魏の洛陽を衝かんとし、曹操の建業も一朝の間かとあやぶまれていたような秋である。いかに自分の弟だからといえ、詩ばかり作って超然と逸人の境を独りたのしんでいる曹植を、諸臣のてまえ、文帝もついにはこれを黙視してはいられなくなった。  或るとき。一閣の内に弟を呼びつけて。 「植。きさまは父帝の遺業をわすれたか。今をどんな時だと思う。今日かぎり詩作はやめろ、筆を捨てて剣をとれ」  と、いいわたした。 「やめられません!」と、曹植はひざまずいて、涙の目で兄を見あげた。「──私。ほかに能もなく、ただ文学だけが生きがいなのです。詩を作るなと仰っしゃられても、自然と詩が心にうかんでくるのでどうしようもありません」 「ああ、きさまというやつは……。しかし群臣の目、軍紀のてまえ、そんな気ままはゆるしておけん。どうしても、詩を止めんなら、今日はきさまの首を斬って、父帝の霊に詫び、三軍にも示して、たとえ骨肉たりと、戦を厭う者はこうだぞという実証とするつもりだ。それでもやめんか」 「やめられません」 「よしっ。斬れッ」  と、文帝は後ろの兵へ手を上げた。がまた「いや待て」と、何かを思い返したらしく、 「植。まず立て!」 「はい」 「わしがここで、一イ二ウ三イ……と七ツまでかぞえるから、声に従って、七歩あるけ。そして七歩のあいだに一詩を作ってみせろ。出来なかったら途端に首を落すぞ。もし佳い詩を作したらぜひもない。よくよくな生れ損いとあきらめて、ゆるしてくれる」  と、厳命した。  力者は大剣のつかをつかんで傍らに立ち、文帝は指をあげて、一……二……三……とかぞえて行った。──歩むこと、まさに七歩目、曹植は哀しげに一詩をさけんだ。 豆ヲ煮ルニ 豆ノ萁ヲ燃ク 豆ハ釜中ニ在リ泣ク 本コレ同根ヨリ生ズルモノヲ 相ヒ煎ルコトノ 何ンゾ太ダシク急ナル  詩は、五言四絶、わずか二十字にすぎないが、同胞相剋の悲泣とうらみを訴えて人の胸を打たずにおかない。  文帝も詩の真理にうごかされ、以後は弟の天性とその好む所にまかせたとのことである。  龍顔はくもって、はたと、ご苦悶のいろかのように仰がれた。  七歩ノ詩は聖慮にとり決してご愉快な詩であろうはずがない。万民は赤子とか。  たとえ、どういう御理想によろうが、たたかいは帝王の最大な罪と御自身責められているはずである。戦とは──豆ヲ煮ルニ豆ノ豆ガラヲ燃ク──ようなもの。また──本コレ根ハ同ツカラ生ジタモノ──。どんなたたかいにせよ、赤子の殺し合いは、それだけでも最大な御悲嘆でなければならない。  まさに、今の世を観れば、万民は釜の中で煮られている豆のようなものだった。そして釜の下を焚きやまぬ焔も、ひとつ根の親とも兄弟ともいえる豆の豆ガラなのである。  豆は、何を怨めばいいのか。──沸々たる熱湯の中の悲泣は、たれが聞いてくれるのか。  正成は、豆に代って、豆の怨みを御簾へ暗に訴えていたのだった。──たしかにそれはここの人々をして、暗鬱な反省の一瞬には立たせていた。──が、その一瞬がたつとすぐ、 「だまれ、無用な雑談」  と、公卿のひとりが、こう自己を晦ます逆作用にまかせて烈しく発言していた。 「知らぬか、廷尉。──大義親ヲ滅ス、とあるのを。異朝でもそれが新しい朱子の学として奉じられておる。遠い魏朝にあった故事などは早やカビ臭いわ。……いや、坊門どの」  と、その公卿は、おなじ列にある清忠のほうを見て。 「さだめしお上におかれても苦々しゅうおわせられましょう。微賤な一廷尉の分際が、かくも長々と、愚言を奏したてまつろうなどとは、たれしも夢思わぬことではあったが、賜謁をお取次いたした奏者のつみも軽くない。……ま、ともあれ、早や御立座をねごうてはいかがでしょうか」 「ウむ」  と、清忠が、玉座へむかって、笏を正しかけたときである。後醍醐のおひざも、すっと同時にお立ちになった様子が、簾の下からうかがわれた。  正成は、おもわず、 「……あ」  と、両手を下へつかえ直した。なろうものなら、その手は、帝のおん衣のすそにすがりついて、なお一ト言の御諚をと、おせがみしたかったに違いあるまい。指のさきも、ひれ伏した鬢の毛も、ふるえていた。潸然と、涙してないだけだった。 「廷尉。退がんなさい」 「……は」 「疾う。退がらっしゃい」 「はい」 「なにを猶予」 「未練にはございますが、いまを措いては、まったく時を逸します。あわれ、まいちど、御集議にかけ給わって」 「それどころでない。逆鱗あらせられた御気色ですらある。──きっと、今日のことは、やがて重いおとがめでもあろうぞ」 「正成の身、たとえいかような罪に問われましょうとも、その儀はいといません。ただ何とぞ以て、いま一度の御評議でも」 「何と、物の見えぬ鈍い男よ。ばかな!」  と、公卿たちは一せいに立った。  そして声のない笑いを正成の背へ向けながらみな去った。 底本:「私本太平記(六)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年4月11日第1刷発行    2010(平成22)年1月5日第26刷発行    「私本太平記(七)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1990(平成2)年4月11日第1刷発行    2009(平成21)年12月1日第25刷発行 ※副題は底本では、「風花帖」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2012年11月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。