鳴門秘帖 船路の巻 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 鳴門秘帖 船路の巻 心の地震 紐 中二階 流々転住 疾風 芍薬の駕 遠眼鏡 女男女 蜘蛛かがり 呉越同舟 茨の愛嬌 つづらの闇 ふたりの死 狂瀾 心の地震  鬱然とした大樹はあるが、渭山はあまり高くない。山というよりは丘である。  西の丸、本丸、楼台、多門など──徳島城の白い外壁は、その鬱蒼によって、工芸的な荘重と歴史的な錆をのぞませ、東南ひろく紀淡の海をへいげいしていた。  城下をめぐる幾筋もの川は、自然の外濠や内濠のかたちをなし、まず平城としては申し分のない地相、阿波二十五万石の中府としても、決して、他国に遜色のない城廓。  その三層楼のやぐら柱にもたれて、さっきから、四方を俯瞰している人がある。  太守である。阿波守重喜だ。  かれは、そこからかすかにみえる、出来島の一端を見つめた。河にのぞんだ造船場がある。多くの工人、船大工が、しきりに巨船を作っていた。  すぐ、その眼を、徳島城の脚下にうつした。  そこにも、多くの石工が、外廓の石垣を築いていた。搦手の橋梁や、濠を浚う工事にもかかっている。  石垣の修築は、幕府の干渉がやかましいものだが、阿波守は、わずかな河川の修復を口実にして大胆にこの工を起こした。しかもそれは大がかりな城廓の手入れらしい。  のみや槌の響きは、何か新興の力を思わせる。阿波守の胸には、その音が古き幕府に代るものの足音として衝ってくるのだ。──四顧すれば海や空や本土のあなたにも、皇学新興の力、反徳川思想がみちみちて、ひとたび、この渭之津の城からのろしをあげれば、声に応じて西国の諸大名、京の堂上、それに加担するものなどが、ときの声をあげるだろう。  重喜の眸は、そんなことを想像しながら、時の移るのを忘れていた。 「だが? ……」  ふと、自分で自分に反問する。 「大事──未然に洩れては、すべての崩壊だ。この城、この国、一朝にして、資本も子も失くすことになる」  望楼を歩きながら阿波守、しきりに苦念の様子である。ゆるく、的なく、一歩一歩と踏む足には力をこめたが、胸底の憂暗、かれの横顔をおそろしく青くみせた。 「堂上方を中心として、竹内式部、山県大弐、そのほか西国の諸侯数家、連判をなし血誓の秘密をむすび、自分はすでにその盟主となっている。今に及んで、卑怯がましい、なんの、これほどの大事をあぐるに!」こう、動じやすい意志を叱って、唇をかんだ。 「よしや、江戸表で、うすうすぐらいな疑いを持つとも、城壁の改築や、造船の沙汰ほどなら、いくらでも言い解く口実の用意はある」  さらに、強くなれ、強くなれ! とそこで、徳島城を踏みしめた。  で──、やや明快な面をあげ、サッと海風のくるほうを眺めると、今、淡路の潮崎と岡崎の間を出てゆく十五反帆の船が目につく。  帆じるしをみて、重喜にも、それが商船であることが分った。  月に一度ずつ、大阪表へさして、藍、煙草、製紙などを積んでゆく、四国屋の船である。  と思うと、脚を深く入れた、塩積船が出てゆくし、あなたからも岡崎の港へ、飛脚船や納戸方の用船などかなり激しく入ってくる。  その海上往来のさまをみているうちに、阿波守は、またかすかな不安をおぼえだした。 「ム。何ごとも、惧れるものはない。しかし、あぶないのは、領内へまぎれこむ他領者だ──ことに江戸から目的を持って入りこむ奴じゃ。天堂一角の通知があったので、取りあえず、この春の道者船はさし止めたが、あのように、頻繁な船入りのあるうちには、どんな者が、どう巧みに入りこまぬ限りもない……」  今まで懸命に、意志を支えていたものが、グラグラと揺れだして、極度に、重喜の壮図をおびやかしてきた。  でなくとも、かれは、ここ数年の間、内面的に、すくなからぬ細心と辛労を抱いてきたので、近頃は、かなり強い神経衰弱にかかっていた。  渭之津城を脚下にふみ、広大なる大海の襟度に直面しながら、思いのほか、重喜の心が舞躍してこないのも、かれの眉が、ともすると、針で突かれたようになるのも、そのすり減らされてきた神経のせいだろう。  神経衰弱──源内流でいえば、心病、あるいは心労症というに違いない。常に不安を感じ、焦躁にかられ疑心にくらまされ、幻覚をえがく。  あくなき色慾にただれ、美食管絃の遊楽に疲れての大名病にもこの症があるが、重喜のはその類とはなはだ異なる心病だ。イヤ、神経衰弱といおう、そのほうが、かれの今の心持にピッタリと合う。 「殿! 何をしておいでなさいます」  ところへ、竹屋三位卿が上がってきた。  これはまた、いたって、苦労も憂惧もないふうだ。  三層楼のやぐらの上に、重喜とならんで、かれも姿をたたせると、その憂いなき栄養に肥えた紅顔は魚のごとく溌剌とし、海を見れば、おのずから禁じ得ぬもののごとく、自作討幕の詩を、いい気もちで微吟しだした。 「殿もお謡いなさらぬか」  海に向って、討幕の詩を微吟していた有村は、黙然としている重喜へ義務のようにいった。  阿波守は、それを、微笑で聞き流した。しかし、複雑な神経が、さびしい笑みに隠されていることは、もとより三位卿の感じるところでない。 「鳴門舞──しばらく殿の朗々たる謡声も聞きませぬ。詩吟、舞踊なども、たまには浩濶な気を養ってよろしいものと存じます」 「さよう」 「願わくば、わが盟主、もっと元気にみちていて下さい。大事をあぐる秋は、刻々と迫ってきております」 「うム……」 「御当家の城普請や造船や、また火薬兵器の御用意などが、着々とすすむにつれて、筑後柳川の諸藩をはじめ、京都の中心はもとよりのこと、江戸表の大弐などもしきりに、ひそかな兵備をいたしておるとか」 「うむ」 「──無論、そうなる場合、御当家の一陣は、この有村が承るものと心得ておりますが……」と三位卿は躬みずから、二十五万石の城地を賭けて、乾坤一擲天下をとるか否かのやまを張っているような気概でいる。 「何より、士気に関するのは、阿波殿のお体で──よかれ悪しかれ味方の旗色にすぐ響いてまいりますからな」 「う……む」 「海のごとく寛く、空のごとく明るく」 「心を持てとか?」 「その通りです」 「分っている。しかし有村殿、家中の者一統の生殺をあずかる阿波守じゃ。要意に要意をいたさねばならぬ。で、自然に、そこもとなどにはお分りのない心遣いがある」 「そう申せばお顔の色がひどく青い──、海の反映か、樹木のせいかと思っておりましたが」 「あなたはまことに羨ましい」 「皮肉な仰せ──居候はひがみます」 「いや、それではない。すべて公卿殿の立場は気が軽いと申すのじゃ。事未然に発覚しても、およそ堂上の方々は、謹慎ぐらいなところですむ。で、おのずから討幕などということも、蹴鞠を試みる程度の気もちでやれますが、さて、大名の立場となると、そうはまいらぬ」 「いや、有村じゃとて、敗れた後は、決して生きてはおらぬ覚悟」 「そこがまことに羨ましいと思う──この阿波守などは、そうできぬ。なぜかといえば」 「しばらくお待ち下さい」  やや色をなして、三位卿、重喜の前へ健康そうな胸を張った。 「では、阿波殿には、討幕の壮図、やぶれるものとみておられますか」 「勝ちを信じる前に、そこに思いをいたすことは、もとより武門の慣いである」 「なんの! 今の幕府が──指で突いても仆れるほど、腐敗しきっておりますのに」 「いや、それよりは、こっちの足もとを気をつけておらぬと、事を挙げぬうちに逆捻を食うであろう。有村殿にも、その辺のお心配りを第一に願いたい」 「それは、ご安堵下さいまし、先頃から、天堂一角の知らせに応じて、それぞれ船関、山関の手配りなども一段ときびしく固めさせてあります」 「しかし、昨年大阪表で取り逃がした、法月弦之丞という江戸方の者、容易ならぬ決心をもって、この阿波へ入り込もうとしているというが」 「何をしているのか天堂一角、刺客となってかれをつけて行きながら、いまだに刺止めることができぬらしい。──それをみても、弦之丞と申すやつは、一癖あると見えまする」  かつて、安治川の下屋敷で、月山流の薙刀をつけ、したたかに弦之丞のために投げつけられたことは、今も三位卿の記憶に残っている筈だが、それはいわない。  そこへ、侍臣のものが、重喜の意向を伺いにきた。 「森啓之助様が、つるぎ山から帰られて、何か、御拝顔を得たいと申されておりますが」──と。 「う、今頃うせたか」  すぐに、こう応じたのは、重喜でなく、有村の苦笑だった。 「まいろう」  と阿波守はやぐらを降りて、徳島城の西曲輪へ向った。  ひとりで、そこの風に吹かれていてもしかたがないので、三位卿も重喜の腰について行った。  小姓にしてはわがまますぎるし、飯粒にしては大きすぎるこのつきものを、別に気にかけない重喜も大名だが、それの邪魔にならない徳島城もさすがに広い。 「どうであった? 剣山の方は」 「は、昨夜御城下へ戻りましたが、夜中のことゆえ、御復命さしひかえておりました」 「月々の目付役、大儀である」  一室の席についた阿波守は、そこへ森啓之助を引いて、山牢の様子を訊いていた。  そばには竹屋三位卿、恬然として控えている。啓之助の目と有村の目が、重喜をはずして時々妙にからみあった。 「そちも聞き及んでいる通り、江戸方の者がしきりに当国をうかがっている場合じゃ、剣山の麓や山関の役人どもにも一倍用意させておかねばならぬぞ」 「山番の末にいたるまで、近頃はみな緊張しきっておりまする」 「ム。では、別に異常もなく警固しておるな」 「ところが、天満同心の俵一八郎が、とつぜん、死亡いたしました」 「や、遂に、病死いたしたか」 「ならば別段でもござりませぬが、何者かの悪戯──おそらく悪戯と察せられます──で、殺害されたものでござる」 「間者牢の者を殺害した? 誰が? 誰がそんな意志をもって悪戯をいたしたか」 「剣山の御制度をわらい、間者を殺せば祟りがあるという御当家のきびしい掟を、迷信なりといって故意に矢を射て殺したものでござる。しかもその下手人は──」 「あいや!」  と、いきなり声を出して、三位有村、啓之助の言葉を抑え、重喜の方へ向きなおった。 「いさぎよくその下手人の名は下手人の口から自白いたしまする。すなわち、俵一八郎を一矢にて射殺しました者は、かく申す竹屋有村、御当家のおため! こう信じてやりました」  見るまに、重喜の顔色が変った。そして神経質に青ざめたまま、いつまでも平静にかえらず、ジッと病的に光る眸をすえた。 「なんでさようなことをなさる! 当家中興の祖義伝公以来、たとえいかなることがあっても、領土へ入りこんだ隠密は殺さぬ掟──間者を殺せば怪異を生むという徳島城の凶事を、そこもとは好んで招き召されたな」 「イヤ凶事を招く意志ではありませぬ。むしろこれを吉兆の血祭りとして、御当家の古き迷信をやぶり新時代の風雪に陣をくりだすの意気を示しましたつもり。また、そのような旧き思想にとらわれている家中の者の蒙をさますためにもと、あえて、かれを殺しました」 「おだまりなさい!」  こらえていたものが吹ッ切れたように、阿波守の声、やや冷静をかいて癇走った。 「阿波には阿波の歴史があり、この城にはこの城の柱石をなす掟と人心というものがある。間者を殺せば凶妖ありと申すことは、家中一統の胸に深く烙きついて、誰も信じて疑わぬまでになっている。お身の乱暴な矢はその人心におびえを射こみ、動揺を起こし、大事の曙光に一抹の黒き不安を捺すってしまった! もし向後渭山の城に妖異のある場合はいよいよ家中の者に不吉を予感さするであろう。ああ、まったく要らざることを! 烏滸な気働きをさせたものじゃ」  こう、叱っている阿波守が、すでに迷信から生じる一種の不安と疑惧におそわれつつあるような心理が、三位卿には不解であった。 「それみたことか」  といわんばかりに啓之助は、小人らしい溜飲を下げていた。剣山の帰途、お米と自分の姿へ、馬上から諷罵をあびせかけて行った有村の態度には、彼とても、こころよくはなかったから。  しかし、有村は、あの時、啓之助へ投げた言葉も、偽らぬ感情を、疾風の間にいいすてたことだし、また阿波守に咎められたことも、自身では、正しい啓蒙と信じているので、なんらの痛痒もおぼえていない。  で、かれはなおも毅然として、剣山の制度は、家中に無用な迷信心理をつくる禍因だと論じた。  また、蜂須賀家の癌になるだろうともいった。  その上に、ツイ口を辷らして、 「いッそのこと、後に生き残っている甲賀世阿弥も、この際、殺してしまったほうがよかろうと存じます!」  と痛言して、これはちと口が過ぎたと、自分もハッとして絶句し、阿波守や啓之助は、なおさらにびっくりして、その暴言にあきれたような眼をみはった。  ──その時だった、折もあろうに。  突然!  ドドドド──ッと、すさまじい地唸りがして、栗尺角の殿中柱が、ミリッといったかと思うと、三人の坐っている畳までが、下からムクムクと震動してきて、座にたえぬような恐怖を感ぜしめた。 「あ! ……」  といって、啓之助は度を失い、三位卿は、 「地震だ!」  と叫んだ。  阿波守は席を立たなかった。脇息とともに仰むけに身をそらし、もの凄い家鳴りにゆれる天井を、白眼で見つめていた。  地震!  かなり大きな地震──と直覚したことは、三人ともに一致していた。  震動は徐々とやんだが、啓之助は、地震ぎらいとみえて、次にくる揺れ返しを案じながら、喉ぼとけを渇かせて、生ける色もなく棒立ちになっている。  家鳴りのあとは一そう陰森として、宏大な殿中は、それっきりミシリともしなかったが──やがて何事だろう?  西曲輪の廊下から武者走りの方へ、家中のもの誰彼となく、一散になだれだした。その物々しさが、天変のあった直後だけにことさらただごとでなく思われる。 「にわかに物騒がしいが?」  と三位卿も襖をあけ、次の間を出て内廊下の一端へ飛びだした。  続いて、阿波守も席を立ったので、啓之助はそれを幸いに、誰よりも早く、庭手へ下りかけようとすると、そこへ作事奉行の中村兵庫、城普請の棟梁益田藤兵衛、そのほか石垣築の役人などが、落ちつきのない顔色でバラバラと、重喜の面前へきて平伏した。  常なら、近習、または表役人を通じて謁すべきなのに、いきなり、各〻作事支度のわらじばきで、庭先へ平伏したのは、よほど何か狼狽しているとみえる。 「なんじゃ兵庫! おお、益田藤兵衛! そちの面色もただではないぞ」  廊下に立って、重喜が声を励ますと、中村兵庫、おののきながら、急変を知らせた。  というのは、この二人が責任をもつ作事のことで、こんど新たに築きかけている城南の捨曲輪、その水堀から積み上げた大石の堆層が、どうしたのか、今俄然としてくずれたため、上の桝形へ建築しかけている出丸櫓の一端まで、山崩れのごとく濠へのぞんで落ちこんだ──という大失態。築城上例のない変事だ。 「申しわけござりませぬ!」  その後で、一句、こういったまま、作事監督の両役人、大地へ額をすりつけて慴伏する。  阿波守は、その者たちへ何ごともいわずに、ツウと足を早めたかと思うと、以前の三重櫓の上へ駈けのぼった。  竹屋卿と啓之助も、息をきらしてそこへ上がってきた。  でも阿波守は、それへも一言すら、口をきかずに、櫓柱に手をかけて、城南出丸の工事場をジッと見おろしている……。見ると、なんという惨状だ、まったく目もあてられない状態。  さっき、有村がここに立って、討幕の詩を微吟していた時は、屹然としていた捨曲輪の石型や櫓が、みじめに歪みくずれている。そして、助任川からくる水を堰き止めてある空濠の底へ、何千貫の大石がるいるいとして無数に転落しているのであった。  城内から溢れ出た若侍たちは、うろたえている人足どもを叱咜して、その空濠の底から、石に押しつぶされた工人の死骸を引きあげさせている。  わめく者、うめく者が、戦場のごとく入り乱れていて、重喜の驚きを、呆然のままにさせてしまった。 「ああ、これは容易ならぬことだ……」と啓之助は当然なことをつぶやいて──「川底の地固めが足らなかったに違いない、そのために、大石をすえた沼がすべったのだ……作事方の手落ち、申し開きはあるまい」 「最前の地ひびきは、さては、このすさまじい音であった。地震ではなかったのじゃ」  竹屋卿がいうと、啓之助は、天変以上のこの禍いを見ながら、なんとなくホッとした気持で、 「さよう、地震ではなかったとみえます」  と、相槌を打って、殿の顔色をみた。  重喜はなお黙然としていた。  かれの心は、今もまだ、大きな地震の力をもって、渭山の城とともに揺さぶられている。  阿波守に、事多き日であった。  そこへ、船手組取次の早状が一通、近習の手をへてかれの前へ届けられた。  密封した書状の上紙には、木曾街道垂井の宿、御用飛脚屋むかでやの扱い印がベットリとおしてある。 「気分が悪い」  といって、重喜は、今手にとった早状を一読すると、それを三位卿に渡し、自身は近習の者と一緒に、望楼を下りていった。 「ム、一角の早打か。近頃は頻繁に様子を知らせてまいるな」  と、有村がそれへ目を落すと、啓之助もそばから顔をさしだした。  書信の文言は簡単である。しかし、少しも吉報ではなかった。  すなわち天堂一角が、阿州屋敷から助太刀に派遣された、原士の組と協力して、もちの木坂に法月弦之丞を待ちぶせした、その翌々日、垂井の宿で発したもの。  遺憾ながらこのたびも、遂に、弦之丞を討ち洩らしたが、次の機会には、必ずこの遺漏の不名誉をすすぎまする、という申しわけだ。  そして、自身刺客として弦之丞をつけ廻るうちに、関屋孫兵衛、旅川周馬という、ふたりの剣士にもすくなからぬ助力を得ている旨が追記してあり、関屋孫兵衛は、もと、御当家の原士の者ゆえ、弦之丞刺殺の目的が果たされたのちは、何分、原士の旧籍に復格のことを許していただきたい──などという私事のほうは多分にしたためてある。 「駄目だ! これは」  有村は見切りをつけたように、文殻を啓之助へつきやって、 「所詮、天堂などの敵でないとみえる。頼み甲斐のない一角の報らせがまいるたびに、阿波殿の御気分がいらいらとしよう。よし、ひとつこの有村から、わざと罵詈を加えた返書をやって、かれを鞭撻してくれねばならぬ」 「や、三位卿」 「なんじゃ」 「およしなされ、また要らざる僭上沙汰と、後になって殿のお叱りをうけまするぞ」 「よいわ、よいわ。どうせ天下に、主人の気にいる居候はない。叱られついでに、一角が腹を立てて、弦之丞を討つか、舌を噛んで自殺いたすかという気になる程な、手紙を叩きつけてやる」  何かにつけて暇のある竹屋三位、思いつくと童心のようにこらえているということがない。ばらばらとそこを降りて、己れの部屋へ向いかけたが、その途中、先刻立った廻廊のところまでくると、そこに老臣や多くの者が寄り集まって、愁然たるうちに、どこやら物騒がしく駈け廻っていた。  みると、作事方の責任者である、益田藤兵衛と中村兵庫のふたりが、最前、阿波守へ平伏した庭先の場所から、一寸もいどころをかえずに、そのまま、腹を切っていたのである。  ふたりの死骸は、すでに運び去られてあったが、血汐を吸った庭土には、まざまざと濡れている痕があった。 「兵庫は偉い! 藤兵衛もさすがだ」  こう言いながら、竹屋三位、その騒ぎの中をぬけて居間へ入った。実際、かれはそう思った。清涼剤のような心地がした。 「それにつけても、歯がゆいやつは天堂一角、たかのしれた弦之丞ひとりを大勢して、いつまで持ち扱っているのだ」  憤然といったものである。  宿直のものが襖越しに聞いていたら、阿波守がつぶやいているのではないかと間違えるくらいに。  やがて硯をよせて、墨をすりだした。  土佐ずきの巻紙をのべて、活溌な文字を書きだした。世尊寺流とか醍醐風とかいうような、色紙うつりのする水茎の文字ではない。文字もかれの気質どおり、わがままに刎ね、気ままに躍っている。さらにだんだん見ていると、一角に宛てたその文言も激しいが、文字そのものもまた、一字一字怒っている形。  しばらく夢中で書いている。  かかる間に、地震ならぬ地震のあった徳島城の殿中は暮れた。 「これでよし!」  巻折にして、封じ目に糊をしめし、上へ、大阪安治川御屋敷留守居役便託としるし、そのわきへ、天堂一角──とまで太く書いたが、すぐ下へ、殿という字を書きつづけないで、ちょッと小首をかしげていたと思うと、取ってつけたように、先生と書いた。  天堂一角先生──  この書いた宛名を眺めて、みずから悦に入りながら、 「先生は皮肉でいい。ム……だが、皮肉や諷語は、正直にうけとられると、時に大変なまちがいになるものじゃ。しかしよかろう、由来、先生という名称は、その表より裏で通用するものだ」  それに決めて、机から目を離した。  気がついてみると、いつか手元がほの暗い夕ぐれ。 「お……もう六刻過ぎであろうに、きょうの騒動で燭台の支度までおくれたか」  と、書面を託送すべくそこを立って、間数を越えてゆくと、ふいに、陰気な夕明りのただよう奥殿にあたって異様なうめき声が洩れる……。  妙な呻きを聞いたのは、有村ばかりでなかったとみえて、小姓部屋からひとりの近習が走りだし、やはり錠口に立って、耳を澄ましているふうだったが、うす暗い所から、 「安田伊織ではないか」  と、突然、三位卿に声をかけられて、びっくりしたようにふりかえった。 「あ、有村様でございましたか」 「向うでする呻き声、どうやら殿の寝室らしいが、阿波殿にはどうしておられるな!」 「先ほど、お櫓からお下り遊ばすと、すぐに気分がお悪いと仰せられて、典医のさしあげた薬湯も召しあがらずに、お臥りになった筈でござりますが」 「それでは今のは囈言か……一八郎の死をひどく気にされていたところへ、妙にきょうは悪い偶然が重なったので、まだ昼の地震にゆられておいでになるとみえる」 「あ、何やらまた、激しいお声を出されておられます。オ……いつにない鋭いお声で」 「だいぶ神経を起こしておられる。伊織、ちょっと御寝所へ行って揺り起こしてあげい」 「はい」 「お燭台がまだまいっておらぬようじゃ」 「ただ今、手燭をもちましてお移し申してまいります」  手雪洞をかざした近習の安田伊織という若者、なんの気もなくお次部屋へ入って、しきりにうなされている寝所の襖をことさら忍びやかにあけてにじり進むと、 「誰じゃッ」  と、いきなり白絹の蒲団がパッとはねあがった。  その権幕のおそろしさと、まっ白な練絹の寝衣をきた重喜の相貌が、手雪洞のかげに別人のようにすごくみえたので、伊織がヒヤリとして腰をうかしかけると、重喜の目がジイとすわって、彼をそこへ居すくませた。 「と、殿様……」  とおののくのを、なお睨めつけていたと思うと、 「…………」  無言のまま、阿波守の白い手の先が枕元の蛍斬り信国の太刀へスーとのびて行ったので、もう、伊織はジッとしているにたえない。思わず、後退りに立ち上がろうとする。  とたんに、かれの白足袋が、そばに置いた手雪洞を踏みつけ、一道の灯かげが天井へ揺れたかと思うと、 「おのれ! 隠密ッ──」  抜き打ちに斬って、阿波守の手に、信国の太刀が呆然と持たれてあった。 「有村様ッ。あ、有村様──」  伊織は絶叫しながら錠口まで転げてきたが、すぐにバッタリと仆れてしまった。何かと驚いて、来あわせた者二、三人、森啓之助も飛んできて、太守の寝室へかけこんでみた時には、誰よりも早かった竹屋三位が、重喜を抱きとめながら、声に力をこめて何か叫んでいたが、重喜はまだ落ちつかない眸を光らして、 「江戸の奴が……江戸の隠密が……」 「な、なにを仰せ遊ばす!」と三位卿は、夜具の上へ諸仆れになりながら、 「渭山の城中に、なんで、江戸の隠密などがおりましょうぞ。夢をみておいでられたのであろう、おお、方々、早く燭を──いつもより燭台を多く!」  右往左往して騒ぐうちに、間もなくそこは、晃々とした灯の明りに、物の蔭もなくなって、仰むけに寝かされた重喜の顔だけが青白かった。  典医がきて診なおすと、夕刻前よりはいちじるしく熱があがっていた。だが、それっきり悪夢を口走る様子はなかった。むしろ、平常のかれよりいっそう冷徹にその神経が冴えてきたようであった。無論、それも病的にではあるが──。  啓之助は、遂にその夜、城をさがることができないで、公私二つに気が散っていた。  私事のほうの気がかりは、お米のことであった。きょう岡崎の港を出て大阪へ向った四国屋の舟には、お米と仲間の宅助がのって行った。──それはかれが、止むなく許してやったことだが、どうも、あのままこの阿波へお米は帰ってこないような気がする。  しまった。幾ら泣こうが吠えようが、大阪へやることを許すのではなかった。女の涙ほど嘘のあるものはない。ほんとに泣いた涙でも、女は、あとでそれを嘘にして平気なものだ。ましてや、あの女は、無理無態に、海を越させてきた女ではないか。  失策だ、失策だ。とり返しのつかない失策をやってしまったのではないか? ──と、彼は人知れぬ焦躁をもって、殿の枕元に坐っていた。  かれ以外に、夜詰の間にも、常より多くの侍がつめたが、妙に、その晩は徳島城に鬼気があった。陰にみちた人の心が鬼気をよぶのだ。そして、誰も口には出さないで、誰の胸にも俵一八郎の死がこびりついている。  だが、三位卿だけは、おのれの部屋へひきあげた途端に、いとすこやかないびきをかいて寝てしまった。春は蛙の目借時、かかる日も、食客殿は幸福であった。 紐  いまわしい運命の呪縛からのがれたい一心に、さまざまと手をくだいた甲斐があって、川長のお米は、やっと、なつかしい大阪の町を、再び目の前に見ることができた。  土佐堀口の御番所で四国屋の藍船が、積荷しらべをうけている間に、許されて、その親船を離れた一艘の艀は、幾つもの橋の下をくぐって、阿波座堀の町を両岸に仰いでいる。  お米は日傘をさしてそれへ乗っていた。啓之助の手を遁れるとともに、心のうちで、 「もう、どんなことをしたって、阿波へなんぞ戻りはしない」  と、永別を告げてきたお米は、そこに、少しも変りなく賑わっている大阪の町を眺めて、なんとなく後ろめたい気持であった。  怖ろしい体験と、執念ぶかい男のなぐさみに耐えてきた女は当然、心も容も変っている筈。それは、境遇の導くままに任せている間は、気がつかない姿だけれど、久しく接しない故郷の町へ入ってみると情けないように変っていることが、その人自身にもありありとみつめられる。  両河岸をゆく人──橋の上を通る人──、すべての視目も、自分ひとりに注がれているように感じた。そして、その肩身のせまい気おくれが、お米に日傘をかざさせた。  もっとも、親船を下りる前から、お米にはあらかじめ強い世間意識があったとみえて、土地の者に、こんな姿を見られるのはイヤだといって、囲い女好みに、阿波で啓之助がこしらえてくれた衣類をスッカリ派手なものに着かえ、髪も娘らしい形に、自分で結びなおしてしまった。  それでも、まだ緻密な女の心は、気がすまないとみえ、幾夜幾たび、浅ましい男の快楽に濡れた唇へは、濃すぎるほどな口紅をつけて、いまわしい思い出のかげを玉虫色に塗り隠した。 「やっぱり大阪は大阪だな、俺でさえ久しぶりに来てみれば、悪くないんだから無理はない……。ねえ、お米の方」  と、舟の進むのとは逆に向いて、艀の舳に腰かけながら、くわえ煙管で納まっているのは、啓之助の内意をふくんで、お米の監視についてきた仲間の宅助。 「さだめしあなたはお懐かしゅうござんしょう。旦那様からお許しが出たんだから、まあこれから日限までは、ゆっくりと、好きな所をお歩きなせえ。だが、ひとり歩きはいけませんぜ。そいつアくれぐれも、啓之助様から、念を押されてきた宅助。あなたの紐になって、どこまでも一緒にクッついてまいります。ハイ、立慶河岸のお宅へも道頓堀の芝居へも、大津の叔父さん──なんていったっけ、そうそう、大津絵師の半斎か、あそこへ行くとおっしゃっても、宅助やっぱりお供しなけりゃなりませんぜ」  うるさいやつ、毛虫みたいな男──と眉をひそめながら、お米は返辞もしないで、わざと、日傘を横にした。  ふふん……ソロソロご機嫌がお悪いネ。  大阪へ着いた以上は、もうどうにでもなれというような不貞くされをやったって、そうは問屋で卸さねえぞ──というようなのは宅助の面がまえ。 「それじゃせっかくお暇が出ても、のびのびすることができないから、さだめし、この宅助を、ダニのようにうるさく思っていましょうね。だが、こいつも主人持ちの悲しさというやつなんで……、へへへへ、役目の手前と思っておくんなさい。お米の方の目付役も、どうしてなかなか楽じゃねえ」 「分っているよ、おしゃべりだね」  櫓を持っている船頭の手前もあるので、お米がキツイ目をすると、女あしらいに馴れきっている宅助、わざと、恐れ入ったように頭をかいて、 「ホイ、またお叱りでござんすか」 「考えておくれよ、大阪へ来たんだからネ」 「そりゃ分っておりますとも」 「分っているなら、なぜ、ツベコベとよけいな、おしゃべりをするのさ。人中で、お米の方なんてふざけるともう阿波へ帰ってやらないからいい」 「帰ってやらないは手きびしい。思えば、あなたも変りましたネ、そんな啖呵をきる度胸になったんだから……」 「そうさ、お前みたいな狼や貉と、さんざん闘ってきたんだもの」 「こいつアいけねえ、どうも大阪へ入ってから、次第次第に気が強くなってきやがる……イヤ、なっておいでなさいますね」 「今までの仇討ちに、たくさん威張ってあげるのだよ」 「謝った! 宅助お役目が大事でござんす、あなたに大阪でジブクラれると、まことに手数がかかっていけねえ。どうかすなおに陸へ上がって、すなおに遊んで、すなおに阿波へお帰り下さいまし。おっと、冗談はともかくとして、この舟を、いったいどこへ着けさせますか?」 「そうだねエ」 「そうだねエじゃ船頭が可哀そうだ。なんならすぐに川つづきを、このまま立慶河岸へやって、川長のお店の前へつけさせましょうか」 「やめておくれ、ばかなことを」  お米は、腹が立つように、 「家を出たまま、半年以上も姿を隠していながら、不意にボンヤリと帰れるものかどうか、お前だって考えてごらん。神隠しに会った与太郎じゃあるまいし……」  と、口でぞんざいに言い放しながら、胸では、何か密な考えをめぐらしているふう。  もとよりお米の真意は、二度とふたたび、啓之助の所へなど帰るまいとしているので、それにはなんとかして、この宅助という監視の紐を、大阪の町で、迷子にしてしまわなければならないと苦思している。  ところが、紐もまた一癖も二癖もある紐で、目から鼻へ抜けている上に、女あしらいに馴れていて、お米の心の動き方まで、いちいち浄玻璃の鏡にかけて睨んでいるような男──なんとも始末の悪い紐だ。  しかし、森啓之助とすれば、実に、上乗なる紐を付けておいたものといわなければなるまい。  およそ、世に生きとし生ける雑多な人間──迂、愚、鈍、痴、お天気、軽薄、付焼刃、いかなる凡才にせよ、何かの役に立たないという者はなく、何か一面の特性をもたないという者はないけれど、かかる役目の適材というものは、そうめったにあるものではない。  事簡単に申せば、一匹の男が、ひとりの女を束縛する、一本の紐と化り代るわけで、その屈辱的な努力を軽蔑してやる以外に、買ってやる所はみじんもないが、紐自身にいわせると──紐の宅助の述懐にきけば、どうして、お米の方の目付役も、これでなかなかむずかしいそうだ。  第一、紐の資格たるや、どこまでも自分に好色根性があってはやれない。ありはあってもねじ抑えきる辛抱がいる。第二、ホロリとする同情の廻し者にかからぬ冷酷に強く、俗にいう玉なしという失敗を招かぬこと。第三、どこまでも図々しく、かつしつッこく。第四、嫌わるることにひるまず、しかも先を嫌ってはいけない。そしてあくまで綻びずに、二子の糸で縫いつけたように、終始、完全に女の腰に取ッ付いていることを旨とし、紐の使命とする。  こう観じてくると、紐たるや、紐の役目も、仇やおろかな苦労ではなかろう。忍苦忍従の大事業にも等しい。されば、常に蚤糞を肌着につけて、寝酒一升の恩賞にあずかるため、時には命も軽しとする仲間部屋の中からでもなければ、よくこの任にたえる異才は現われまい。  なにしろ、お米にとっては、苦手であり、手強い懸引相手である。  しかしこの場合、非常手段を用いても、宅助をまいてしまわないうちは、決して、自由は解かれていない。藪で捕われた鶯が、籠のまま藪へ帰されても、それが放たれた意味にはならないのと同じに。 「──だからね、宅助や、私はこう思案しているのだけれど、どうだろう?」  下手に出ると、宅助は、その泣き落しに誘われないで、 「たいそう尋常なお話で。嫌いぬいたわっしに、今度はご相談といらっしゃいましたか」 「茶化さないで聞いておくれよ」  乗人が迷っている様子なので、櫓を取っている船頭は、ゆるゆると阿波座堀を漕いで、今、太郎助橋の橋杭を交わしかけていた。 「決して、茶化してなんぞいるものですか。これが宅助の大まじめなところで」 「なにしろ、いくらあつかましくっても、このまま、ハイ只今と、家へいきなり帰るわけには行かないから、当座の間、どこかへ二、三日落ちついて、大津の叔父さんに来て貰おうと思うのさ」 「あの絵師の半斎さんにね。そりゃけっこうでござンしょう」 「そして、叔父さんに、啓之助様のお世話になっていることを話して、家へも程よく話して貰った上、こんどは晴れて阿波へ行くということにしたら……」 「だが、ちょっとお待ちなさい。なんだか、旦那に暇を貰ってくる時には、あなたのお袋様が、危篤とか大病とかで、急に来てくれという訳じゃありませんでしたか」 「そんなことは、元から嘘の作りごとだということを、お前だって、うすうす知っていたじゃないか。私は、ただ、この大阪が見たくって」 「驚き入った腕前です。それで、あんな涙がよく出ましたね」 「おや、いつ私が、泣きなんぞしたえ?」 「したじゃございませんか──ほれ、剣山の麓口の──あのむし暑い納屋倉の中で、納豆みたいになりながら、いつまで、シクシクシクシクと」 「いやな、宅助!」  日傘をすぼめて、その先で、はしたなく向うの膝を突きながら、 「いい加減なことをおいいでない! 船頭さんが笑うじゃないか」 「もっともわっしは、程よく酩酊した時だったんで、残念ながら、それ以上知らないことにしておきましょう。ところでそういうお話なら、とにかく、この辺で艀を上がるとしましょうか。どうせこちとらはあなた任せ──」 「そうだねえ?」  と、お米が陸を見上げた時に、船の先が、ちょうど橋の下をこぎ抜けていた。  すると、その時、太郎助橋の欄干を、向う側からこっちへ移って出てくる艀を見なおそうとしている年増の女があった。 「おやッ。川長のお嬢さん? ──」  こうびっくりした顔をして、女はのめり込むように川を覗いた──ぞんざい結びの止めに挿してある、珊瑚の脚がヒョイと抜けそうになるのを抑えて、 「もし! お米さん──お米さんじゃございませんか」  不意に名を呼ばれたので、オヤ? と思ったらしく、お米も橋の上を見上げたが、にわかに、すぼめていた日傘をパチッと開いて、 「あ──船頭さん、もう少し先までやって下さいな。少し、急いでね」  と、日傘のかげに身を隠したまま、人違いと思わすように、そしらぬ顔で艀を進ませた。 「あれ? ……」  橋の上へ取り残された年増の女は、不思議そうな目を、その日傘の色へ追っていた。それは、目明し万吉の女房──お吉であった。 「人違いだったかしら? ……だが、どうしても、今のは、お米さんのようだったけれど」  こうつぶやいて、気をとられている眸の先を、ツウと、燕が白い腹を見せてかすった。  お吉とお米とは、かつて久しぶりに、九条の渡舟で会ったことがある。その時のお吉は、消息の絶えた万吉の身を案じて、四貫島の妙見へ、無難を祈りに行った帰るさであった。  お互いに、女同士の愚痴をいったり慰めあったりして別れたお米が、フッと大阪から姿を消したのは、それ以来のことである。  万吉と夫婦になる前は、川長の座敷で仲居をしていた縁もあって、お吉はその騒ぎの折も、店の者とひとつになってお米の行方を探したが、どうしても知れなかった。  そのお米が──今何げなく眺めた阿波座堀の艀の中に、その頃より肉づきさえよくなって、仲間態の男と話を交わしていたので、お吉は、驚きのあまり、ジッと、見定めるという余裕もなく、いきなり声をかけたのである。  けれど、先の女は、日傘の下に姿をすぼめて、いかにも素気なく聞き流して行ってしまった。お米様ならあんなことをするいわれがない。やはり、自分の錯覚であったかしらと、お吉は茫然と思いなおした。 「そういえば、仲間らしい男もいたが、川長のお嬢さんが、そんな者を供につれて歩いているのも妙な話……。とすると、何かにつけて、同じ年頃の女をみると、もしや、もしや? と思う私の気のせいだったんだね。アア、気のせいといえば、うちの良人もどうしたのだろう? ……」  そのまま、しばらく欄干に、片肘をもたせて休んでいたお吉は、お米のことを思い消すと一緒に、より強く、良人の万吉の安否がひしと胸にわいてくる。  江戸へ行ったということだけは、たしかに聞いているけれど、以来、手紙一本よこすではなし、一言半句の人伝をしてくることもなく、去年の秋から冬を越して、もうやがて、この春も、また沙汰なしに暮れようとしている。 「薄情というのか、男気というものか。いくら目明しの居所知らずといっても、家や女房まで忘れてしまわなくってもよさそうなものだけれど……。ああ、考えまい、思いつめると今のように、他人の後ろ姿までにハッと動悸を打ってしょうがありゃしない」  気を取りなおして橋を渡った。  そしてまた、今日も、その信心にゆくのらしい。木綿縞にジミな帯もいつに変らず、装いもなく巻いた髪には、一粒の珊瑚珠だけが紅かったけれど、わずかなうちに、削ったような痩がみえる。  お吉の影がそこを去ったと思うと、まもなく、一方の艀が空になって、川筋を戻ってきた。  もうその頃、陸へ上がったお米と宅助とは、長浜の河岸から本願寺の長土塀に添って、ぶらりぶらり肩をならべてゆく。お米は今、太郎助橋で、ワザと顔をそむけたお吉のことを考えて、なんとなくすまない気にふさいでいた。  で──うつむきがちに先へ行くと紐の宅助もしばらくは無言のまま犬のようについて歩く。  午後の陽ざしが足もとへ、細長い二つの影を引いていた。お米は、自分の影のうごくほとりに、ゆらゆらとこびりついてくる影を見て、踏んづけてやりたい気がした。 「アア嫌だいやだ。どうしたらこのうるさい鎖を切り離すことができるだろう? 何かいい智慧はないかしら? この男をまいてしまわないうちは、いらいらして、気が立って……」  お米はジリジリする力を糸切歯にこめて、必死に、急な策をしぼっていた。それにひきかえて紐の方は、自力を労さず他力主義に、お米の足の向くほうへ、ズルズルついて行くだけである。 「さっき、橋の上から声をかけた女──ありゃ一体だれですか」と、宅助、少し退屈をしてきたとみえて、追いつきながら話しかけた。 「あ、太郎助橋でかい?」と、お米は肩を並べさせないで、宅助よりは、またふた足三足先に歩いた。 「あの女は、ずっと前に、家で仲居をしていたことがあるので、私のおさな顔を知っていたのだろうよ。だけれど、今の身の上を聞かれたり聞いたりするのもうるさいから……」 「川長のお宅へはすぐに帰らないというし、知り人に会えば姿を隠す──そんな窮屈な大阪へ、一体なんのためにはるばると帰ってきたんだか、ばかばかしくって、この宅助にゃ、あなたの気心が知れませんぜ」 「ご苦労様でもばかばかしくても、私にとれば、この大阪が、無性に恋しくって恋しくって、夢にみる程なんだから、しかたがないじゃないか」 「へえ、生れた土地というものは、そんなにいいもんでございますかね。わっしは能登の小出ヶ崎で生れて十の時に、越後の三条にある包丁鍛冶へ、ふいご吹きの小僧にやられ、十四でそこを飛びだしてから、碓氷峠の荷物かつぎやら、宿屋の風呂焚き、いかさま博奕の立番までやって、トドのつまりが阿波くんだりまで食いつめて、真鍮鐺に梵天帯が、性に合っているとみえて、今じゃすっかりおとなしくなっているつもりですが、それでもまだ生れた土地へ帰ってみてえなんてことは、夢にも思ったこたあありませんがね」 「そりゃ、お前が情なしか、それとも、お前をつなぐ人情というものが、その土地にないからさ」 「おや、その論法でゆきますと、それほどこの大阪にゃ、あなたを迷わす人情があるという理窟になりますぜ」 「あるだろうじゃないか、お母さんやら、叔父さんやら」 「冗談は置いておくんなさい。皺のよったお袋や叔父さんに、そこまでの情愛があるもんですか。血の気の多い年頃にゃ、それを捨てても男のほうへ突ッ走るじゃござんせんか。ははあ……読めましたぜ、お米の御方」 「勝手に邪推をお廻しよ」 「エエ、すっかり神易を占てました。筮竹はないが宅助の眼易というやつで。──この眼易の眼力で、グイと卦面をにらんでみると、あなたが大阪へ来たがった原因は、死ぬほど会いたいと思っている人間がどこかにいるに違えねえ。え、どうでしょう、この判断は?」 「そりゃ、いないとも限るまいさ」 「ふふん。しゃあしゃあと仰せられましたね。いよいよ不貞くされの捨て鉢の、さらにヤケのやん八というやつで、この宅助を怒らせようとなさいますか。そして、阿波へ帰るのはイヤじゃイヤじゃと駄々をこねようとなさいますか。──どッこい宅助は怒りませんテ。はい、頭を打ちたければ頭、足をなめろとおっしゃれば足もなめます。なあに、わずか少しの辛抱で、無事に、もう一度連れ戻りさえすれば、旦那様から存分な褒美をねだる権利があるんで──一生扶持ばなれをしねえ仕事、それくらいな我慢がなくっちゃ、猫と女の番人はできねえ」  図に乗って、また舌の動き放題に、怖がらせをしゃべっていたが、お米に返辞がないので、こんどは少し音を柔らげて、 「だが旅先だ──」と手をかえた。 「口でいうお惚気ぐらいは、わっしも寛大に扱いましょうよ。が──だ、ただしだ、そんな方へ体ぐるみ、籠抜けにすっぽ抜けようなんてもくろみは、ムダですからおよしなせえ、エエ、悪いこたあ言いません。世の中に骨折損というくれえ、呆痴な苦労はないからなあ」 「野暮に目柱をお立てでない」  心の底を見すかされて、釘を打たれたかと思う口惜しさに、お米は少しふるえて言った。 「口でそうはいうものの、私の恋しい思い人は……」 「ほーれ、やっぱり眼易があたっていやがる」 「真顔になって、何も心配することはないよ。この大阪にはもとよりいず……ああ今頃は、どこを流して流れているかも分らない……」  と、ツイ口の辷ったついでに、お米は、さげすみぬいているこの男へ、胸に秘めている本当の声を、叩きつけてやりたいような気がして、 「──一節切の」  と、喉までその人の名を洩らしかけたが、邪推ぶかい紐の宅助に、これ以上な気を廻させては、いよいよ自縄自縛の因を招くばかりと思いなおして、ホ、ホ、ホ、ホ、と取ってつけたさびしい笑いにまぎらわせた。  とにかく当座の宿をとってからの思案と、お米はその晩、中橋すじの茗荷屋という家を選んだ。  どこということもないが、なんとなく、旅籠にしては目立たぬ家で、裏には当り障りのない座敷もありそうなので。  無論、紐の宅助もついて入った。  けれど、宿がきまると今までのように、お米の腰に寄り付いているわけにはゆかない。仲間は仲間として待遇され、若奥様は若奥様と向うで見なして、丁重に差別をつけ、部屋も別々、お膳も別。女中たちの物言いまでが違ってくる。  お米が何ともいわないから、宿でよけいな気転を利かして、お供の膳に酒をつけるということもない。酒がないのは宅助にとって、はなはだ哀れを感ぜしめる。ひとつの刑罰をうけてるのと同じだ。 「宅助や、お前は疲れたろうから、早く寝むがよい」  改まったお米の言葉も、急に素気なく取り澄ましてきた。  宿の手前はてまえとして、何もそうにわかに閾をおかなくたっていいだろう。下郎を召し連れた若奥様かお嬢様か──というふうな権式だけを取って、こっちへ酒もあてがわないのはひどすぎる。と、宅助の虫は穏やかでなく、 「ばかにしてやがる!」と面をふくらせた。 「お付人のおれに、寝酒ぐらいは飲ませておかねえと何かにつけてためにならねえぞ。囲い者のくせにしやがって、気の利かねえ女もあるものだ。よし、ひとつまたチクリチクリ嫌がらせをいってやらなくっちゃならねえ」  と、隣の部屋からニジリ出して、境の襖を少し開けた。 「お米さんエ」  目玉だけでも脅迫のきくような凄い顔を突き出して、わざとこう伝法口調に、 「今、そこで、何とおっしゃいましたエ」  お米は鏡をよせて、寝白粉をつけていたが、ふりかえりもしないで、 「ゆるすから、お前は先にお寝みというのさ」  ふざけるな! と宅助はムカついて、何か痛い言葉をぶッつけてやろうと、浅黒いうわ唇を舐めあげていると、折悪しく、宿の女中が廻ってきて、夜具の支度をしはじめた。  女中たちの手前、宅助は、喉まで衝きあげた啖呵を飲み殺して、ツイしかたがなく、 「ありがとうございます」  と、お辞儀をしてしまった。そして寝床へ潜りこんでから、 「ちぇッ、いまいましい女だ。ここを出たら、ひとつギュッと手綱を締めなおさなくっちゃいけねえ」と、業を煮やして、寝返りを打つ。  お米の部屋にも、程なく、ふッと行燈を消す息がきこえて、真っ暗になった。一刻ばかりたつと、どこの部屋もあらかた寝静まったらしく、風呂の湯を落す音と、不寝の番のあくびよりほかは聞こえなくなる。  鼻が悪いとみえて、仲間の宅助、おそろしいいびきをかいてきた。それが耳ざわりで寝られないのか、暗い中で、二、三度枕をキシませていたお米が、やがて、床の中から辷りだしたかと思うと、スウと、廊下へ出て行った。  カタンと、さるをはずす音がしたから、厠へ立ったのかと思うと、廊下へ風が流れてくる。  裏庭へ出る雨戸が四、五寸ばかり音なく開いた。  たらりと下がった緋縮緬にからんで白い脛がそこから庭土を踏もうとすると、 「オイ、オイ、オイ。お米さん」  いつのまにか眼をさまして、 「どこへ行くんだ! 少し方角が違うだろう」  と宅助の両手が、お米を元の座敷へ抱き戻してきたらしい。  並の者なら、あわてて明りをつけたり、女の逃げ支度を調べたりするところだが、そこは老巧な紐である。──気がついても、わざと、それまでの事件にはしないで、 「女のくせに、夜半に塀越しの曲芸なんぞをやると、猫の恋と間違えられて、誰かにドヤしつけられますぜ。うふッ……」  といやな笑い方をしながら、自分の寝床へ長々ともぐりこむ。  それなり宅助も黙りこくッてしまうし、お米も寝床にジッと固くなっているらしい。もう両方で、寝息を探りあうことは止めた。そしてただお米の心臓だけが暗い中でドットと鳴ってじれていた。  翌日は、どんな顔を見あわすかと思われたが、宅助もお米も、気まずい話にはふれなかった。  昼を過ぎてから、お米は、叔父の半斎の所へ手紙を書いた。それを飛脚屋へ頼みながら、気晴しに歩いてこようか──と、今日はお米のほうから宅助をうながして外へ出た。 「ソロソロ機嫌を取ってきやがったな」  と肚の中で宅助は、こうあるのが本当だとうなずいた。宿屋を出るとその調子で、じきに言葉もぞんざいに、 「お米さん、大津絵師の半斎へ、なんていう手紙を書いたんで?」と、糺してきた。 「きのう私がいっていた通りさ」 「はてね。忘れてしまったが」 「とにかく、叔父さんに相談があるから、茗荷屋まで、来て貰いたいという意味をね」 「なるほど、そこで叔父貴に事情を話して、川長の店へとりなして貰おうというんですか。だが、その相談の時にゃ、宅助も立会いますぜ」 「いいどころじゃない。どうせ、家の方へ得心して貰ったら、私の手道具や着物まで、スッカリ荷物にして阿波へ送ろうという話なのだから」 「ぜひとも、そうありてえもンです。昨夜みたいなことが、この先チョイチョイとないように」  やんわりと、棘を含んでくる言葉を、聞きそらしたように装って、いつか天満の河岸へ出てきた。お米は、河筋にある舟料理の小ぎれいなのを探しているふうだった。──もう蠣の季節でもないが、奈良茶の舟があったので、宅助を誘うと、だいぶ昨日と先の態度が違うので、かれはその風向きを疑ったが、ゆうべの一事で、お米も諦めをつけてきたのだろうと、考えた。  酒に渇きぬいていた折なので、気を緊めながら、宅助、存外に飲んだ様子である。お米も、昨夜以来、何か思案をかえたとみえて、珍しいほど神妙に、時々、酌までしてやった。 「そら。河のほうへ寄ると、あぶないじゃないか」  ふたりがそこを帰る頃、もう天満河岸はトップリと暮れていた。  宅助は陶然として、おぼつかない足どりを踏みしめていた。しかしあくまで油断はしていないので、酔わぬ時より、しつこくお米に注意を配った。 「あぶねえって、だ、誰が? ……」 「そう、川べりを歩いちゃ、足もとが危ないというのさ。落ちたら私が困るじゃないか」 「ご親切様で……へ、へ、へ。だがネ、お米の御方、き、気の毒だが、宅助、ちッとも酔っちゃいねえ。だ、だめだよ! ……ず、ずらかろうなんて気で、どう神妙な様子をしたって、微塵も油断はありゃあしねえ!」  と、先に立った宅助、どうやら、常には腰について廻る紐が、今夜、お米を引きずってゆく形だ。 「そうかい……」と、お米はまた、それを気任せに歩かせながら、「じゃお前は、どこまでも私を疑っているね」 「この間も、キッパリ止めを刺しておいたじゃねえか。ウ、ウーイ……おれの目玉は浄玻璃の鏡だと」 「まったくお前の眼力は鋭いね」 「所詮だめだよ、諦めがつきやしたかい!」 「ところがなかなかつかないのさ。そういうお前に、もう野暮な隠し立てはしますまい。私はね、もう二度と阿波へは帰らないつもりだよ」 「つもりか──は、は、は、は」と嘲笑っていたかと思うと、急に、胸の気もちでも悪くなったか、宅助は、脇腹を押さえたまま、路面へグウッとかがみこんでしまった。そして、ペッと生唾を吐く音をさせて、そこを立とうともしない様子。 「どうしたの?」  お米は、やや離れた所に足を止め、片手を柳の木にかけて、冷やかに闇をすかしながら、 「──たいそう威張っていたようだけれど、脆いねエ……もう薬が廻ったのかい」 「な……なんだと」  無理に、起き上がろうとした宅助は、かえって、ウームと呻いたまま、苦しそうにのた打った。 「付人のお前が、そんな意気地なしじゃお困りだね。ずいぶんお前も執念強く、私を逃がすまいとしていたようだけれど、今日のお酒はちっとばかり、悪い薬がまじったとは、さすがにその浄玻璃の目玉でも見えなかったとみえる」 「うッ……うぬ、ど、毒を?」 「なあに、そう心配おしでない、持ちあわせの鼠薬、それもホンの小指の先で、お銚子の口へつけたくらいだから、まさか、そのずう体の命を奪るほど廻りはしまい。……だが、思えば私という女も、すごい腕になりました。これもみんな、お前や、啓之助が私に度胸をつけてくれたお仕込みだよ。阿波へ帰ったら、あの男に、くれぐれよろしくいっておくれネ」 「ウーム……ちッ畜生」 「口惜しそうだね、ホ、ホ、ホ。苦しいかエ。私が長持へ押しこめられて、阿波へやられた時も、ちょうどそんな苦しみさ。毒でも飲んで、いっそ死のうとしたことが、幾度だったかしれやあしない。──だけれど、死んで花が咲かないよりは、恋しい、恋しい、あるお方に、会われないのが心残りで、ツイのまずにいた毒薬を、フイと昨夜思いだして、少しばかりお前に試してみたわけさ。──どうだエ、宅助、それでもこのお米様を、阿波まで連れて帰れるかい」 「…………」蝦のようにかがまった宅助の影は、ただ激しい痙攣を起こしていた。 「おや、返辞もできなくなってしまったね。もう少し、話し残りがあったものを。じゃ、いろいろお世話をかけたけれど、宅助や、あばよ──」 中二階  牡丹刷毛をもって、しきりと顔をはいていたいろは茶屋のお品は、塗りあげた肌を入れて鏡台を片よせると、そこの出窓をあけて表も見ずに、手斧削りの細格子の間から鬢盥の水をサッと撒いた。  と一緒に、窓の外にたたずんで、立ち話をしていた二人の侍が、 「あ、ひどい!」  両方に飛び別れて、後ろの櫺子をふりかえった。 「かかりましたか、水が」 「見ろ、これを」 「すみませんでした……」と真っ白に塗った襟をのばして、油よごれの水がちっとばかりはねた侍の藁草履を眼にした。 「……どうも、つい」 「たわけめ、気をつけい!」  と、総髪の若いほうが睨みつけたが、ここは野暮を嫌う色町でもあり、かたがた軒を並べているいろは茶屋の暖簾口には、脂粉の女の目がちらほら見えるので、 「天堂」  と、一方へ顎をしゃくるなり、連れの編笠をうながして、浜納屋囲いの軒並を離れてしまった。  そして、後ろ姿を並べ、向う側へ斜めに歩いて行ったかと思うと、また足を止めて、立慶河岸の埋立辺にたたずみ、まだほかの連れでも待っているようなふうであった。 「いけすかない、ニキビ侍だよ」  首を引っこめるとすぐに、お品は吹きだして、側に寝転んでいる朋輩の女へ、 「なんて怖い眼をするんだろう、水ぐらいかかっても、ハラハラする程なお召物じゃあるまいし」 「だって、お前さんが悪いんじゃないか」 「色町の軒下に立って、不景気な顔をしているほうがよッぽど間抜けさ」 「おや、相手が行ってしまってから、とんでもない鼻ッ張だ」 「なに、まだ向うの川縁に立っているんだよ、土左衛門でも待っているように」 「どれ」  寝転んでいたほうもムクムク起きて、腹匍いのまま櫺子へ顔を乗せたものだ。これだから女の巣を食う町に無用な顔はして立ち止まれない。 「ね、どっちもギスギスした侍だろう」  とお品が今の鬱憤に、朋輩の共鳴を求めると、獄門首のように櫺子へ顎を乗ッけた顔は、見当違いなほうへ眼をすえて、 「あら。品ちゃん」と、袂を引ッ張った。 「ごらんよ、向うから来るのは、お十夜さんじゃない」  昼中にお月様でも見つけたような声を出したので、ひょいとそのほうを見ると、なるほど、去年の春から夏の初め頃は、甲比丹の三次とともに、この界隈によく姿を見せた孫兵衛が、きまじめな顔をして、前を大股に通って行く。 「あら、素通りはないでしょう」  素頓狂な声で、馴染みの男の足をとめておいて、お品は帯を猫じゃらしに振りながら、孫兵衛の側へかけていった。 「や、お品か」 「ずいぶん永いこと姿を見せないで、その上に、涼しい顔で素通りをするつもり?」 「連れが待っているのだ。また会おう」 「いいじゃありませんか、連れがいたって」 「そうは行かねえ。ことに近頃は遊びどころの沙汰じゃなくて、ある人物を探すために、毎日血眼で歩き廻っているのだ。ウム、お前もうすうすは知っている筈だが」 「誰? 探しているのは」 「法月弦之丞という者だが、その名前では覚えがなかろう。そうだ、ちょうど去年の夏ごろ、この立慶河岸をよく流していた、一節切の巧みな虚無僧といえば思いだす筈……」 「あ、川長のお米さんが、たいそう血道をあげたッてね。その虚無僧が、いったいどうしたというんだえ」 「まだほかに二人の奴を、木曾街道で取り逃がしたため、ずいぶん行方をたずねたが、どうしても見つからねえのだ。しかしいろいろな事情から推して、この大阪にまぎれこんだには違いないのだから、ひょっとしてこの辺へでも姿を見せた時には、すぐにこの孫兵衛の所へ知らしてきてくれ。いいか、もし突き止めたら、礼は幾らでもするからな」 「だって私は、お前さんの宿というものを、聞かして貰ったことがないのに」 「俺か。おれは二、三日前から、安治川岸の阿州屋敷に住んでいる」 「阿州屋敷というと?」 「勘の鈍い女だな、阿州屋敷というのは蜂須賀家の下屋敷、そこのお長屋にいるというのよ」  すると、その時、ふたりの側をすりぬけていった往来の女が、蜂須賀と強くひびいた今の言葉に、ハッとしたかのようにふりむいた。  女は、いぼじり巻に、珊瑚の粒をとめている年増だった。しかし足を止めるとすぐに、孫兵衛の鋭い注視がすわったので、そのうろたえた目をお品にそらし、愛嬌よく笑みあって、何気ないさまに行き過ぎる。  お品へ目で挨拶して行った珊瑚の女を、孫兵衛はジッと見送っていたが、やがてその年増の姿は、同じ河岸筋の川長の店へ入っていった。 「誰だ! 今の女は」  こうお品に訊いているところへ、さっきからあなたにいて、待ちくたびれていた旅川周馬と天堂一角が、苦々しげに近づいてきた。そして、 「お十夜、まだ話がすまんのか」  と皮肉れば、一角も尾について、 「売女じゃないか。そんな者と、往来中で、何をしているのだ」と、唾を吐く。 「はい、大きにお世話さま」  孫兵衛を楯にしているので、お品はツンと強くなる。それに、さっきのこともあるので、こういってやった。 「売女だろうと、あなた方に、買って下さいとは申しませんよ。お十夜さんは私の情人、地べたで話をしていようと、屋根へ上がって相談をしようとも、お他人様のご心配はいらないでしょう」  こういうのが、いわゆる悪女の深情けと称するのであろうと、かなり面皮の厚い孫兵衛も、ふたりの手前、処女みたいに赤くなったが、「う……なに、今少々、解せぬ女について、問い糺しているところなんだ」と、テレた顔をまぎらわせる。それを周馬は意地悪く、 「ほ、解せぬ女が、どこへ」  と追求して行った。 「誰といったっけなあ、今、川長へ入って行ったやつは?」 「あれは、元あそこの店に、仲居をしていたお吉さんという女」 「仲居がどうしたと?」  なにを、ばかばかしいというふうに、一角が嘲笑するので、孫兵衛はいよいよ何かあの女を意味づけなければならなくなった。で、今の挙動を箇条にして、なおお品を問いつめてゆくと、偶然、かれの口から、そのお吉が、目明し万吉の女房であるということが洩れた。  と──なると、周馬も一角も、にわかに顔の筋を突ッ張らせて、無智な女と何気なくしゃべることが、今彷徨しつつある、大事を占うものと聞かれずにはおられない。 「間違いじゃあるめえな」  と、孫兵衛は女の肩へ手をかけた。 「あの人とは、もう古い顔馴染み、誰が見そこないなんぞするものかね」 「そうか、じゃ、あれが目明し万吉の女房だったか──」 「おい、お十夜」  と、周馬はソッと袖を引いて、お品の側から、二、三歩離れながら、一角と共に何かヒソヒソ相談を交わした。 「う、なるほど……」と、うなずいて立ち戻ると、こんどは孫兵衛の口から、何か別な言葉が女のほうへささやかれた。そして、三人はすぐに、お品の入ったいろは茶屋の暖簾口から、家の中へ姿を隠してしまった。  奥では酒となっているらしいが、お品は時々門へ出てきて、川長のほうを眺めたり、また、そこらにいる朋輩へ、お吉が戻って行ったかどうかを聞いたりしている。  二刻程もたったろう、花は散っても、まだ春の気分は去らないこのあたりに、宵めく絃歌と共に、ぼつぼつ人が雑鬧して来た。  門から門へ浅黄暖簾の裾を覗いて歩く木刀や、船から上がる客や、流しや、辻占売りや、そして艶かしい灯の数々と、春の星とが、どっぷりと黒く澱んだ堀の水によれあって美しい。  やがて、その夜景の人をかき分けてゆく、孫兵衛たち三人の影がたしかに見えた。  しきりと気を配っていたお品が、ただちにそれと、三人へ告げたのだろう、何かの用をすまして、今、川長から出て行ったお吉の後ろ姿が、かれらの十数間前にある。  お吉が、久しぶりに川長を訪ねたのは、何かお米の身についてのことらしかった。そして、今日もお米の母の涙まじりなくり言を、身につまされるほど聞いてきたので、人浪の中を歩きながら、今もお吉は、そればかりを考えてゆくふうだ。  まもなくお吉は桃谷の自分の家へ帰り着いていた。  誰もいない家なのに、行燈だけはついていた。お吉はそれを不思議にも思わないで、帰るとすぐに、女らしく、襷をかけ、途中からさげてきた買物の風呂敷づつみを解いて、勝手へ運んだ。  薄暗い流し元で、瀬戸物を洗う音や、米をとぐ音がしばらく聞こえている。裏の小溝へ白いとぎ水がひろがった。溝の向うに菜の花がみえ、その先は桃畑だった。  そして、なおその向うには、藪や、同心屋敷の灯や、城ともみえぬ御番城の巨大な影が、山のように空の半ばをふさいでいる。  垣隣りは、城勤めの黒鍬の者か、足軽のような軽輩な者の住居らしい。その境の掘井戸へお吉がなにげなく水桶をさげてゆくと、家の横に三人の侍が、黒い影をたたずませていたので、思わず、胸を騒がせた。 「誰だろう?」  気味の悪さに、手桶をそこへ置いたまま、お吉は流し元へ戻ってきてしまった。男のない家──主人のいない留守の家は、ともすると、こんなおびえに襲われる。  まして、万吉がああいう身の上でいる場合。 「妙な素ぶりの侍が三人まで? ……今、私の帰るのをつけてきたのかしら」こう思い惑って、身を縮ませたが、気をとりなおしてカタカタと香の物を刻み始めた。だが、妙に、動悸がしずまらずにいたので、庖丁の端で小指を切った。  血の出た小指を吸いながら、あわてて座敷へ駈けこんだお吉は、針箱の抽斗をかき廻して、小布を探しているふうだったが、その物音を聞きとめたものらしく、誰か、中二階の腰窓をあけたかと思うと、梯子の上から、 「おばさん」  と呼ぶ声がした。  若々しい女のあたりをはばかる声だった。  指を小布で巻きながら、お吉はそれへ上眼を送ったが、黙って、顔を振ってみせた。  すると、中二階の女は、ソッと腰窓の小さな障子を閉めかけたが、また思い出したように、前よりは低い声をして、 「今帰ってきたのかえ。そして、家の方は? ……」と訊いた。 「しっ……」  と、こんどは手を振って、お吉の眼がきつくそれを抑えた。ピタリ、ピタリという無気味な足音が、さっきから家のまわりを廻っていたが、お吉が針箱を置きに立つと一緒に、 「ご免──」  といいながら、上がり口に、ぞろりと三つの影が立ちふさいだ。 「はい」  おそるおそる手をつくと、 「ここは目明し万吉の家だな」  端にいる編笠の男がいった。 「はい……」 「お前はその万吉の女房だな」 「さようでございます」 「万吉は帰ってきたか、江戸表から」 「いいえ、まだ戻っておりません。けれどあなたがたは?」とお吉が、三人三様の風態をながめて、何者かしらと疑っていると、それには答えないで、 「何か便りがあったろう」 「少しも沙汰なしで、只今どこにいることやら、それすら存じておりませぬ」 「嘘をつけ! 女房であって、亭主の居所を知らぬという筈はなし、また主であって、家へ居所を知らせてこないという筈はない。たしかにその万吉は、四、五日前に、いちど此家へ姿を見せたろう、イヤ、たしかにこの大阪へ帰っている訳だ。有態にいえッ」 「でも、只今申し上げたことには、少しも偽りがございませぬもの。それにもう家の良人は、出たが最後、居所などを知らせてきた試しのない人でございますから」 「こいつめ、あくまで吾々を愚にしているな」  というと畳の上へ、笠をぬいでほうりだして天堂一角、土足のまま跳び上がって、 「泥を吐かねば、こうしてやる。さ、万吉は只今どこに隠れているか、また、法月という虚無僧に旅の女も、一度はここを訪ねたであろう。その居所をいえ、さ、ぬかさぬか」  と、お吉の腕をとって、いきなり後ろへねじ上げたかと思うと、続けざまに、二ツ三ツ撲りつけた。  女ひとりと見くびっているので、一角がお吉をぞんぶんにいじめつけている間に、才気走った周馬の眼が、ジロジロと家の中を睨め廻して、これも屋内へ上がりこんでくる。  そして、それが当然に、自分のする役割でもあるかの如く、方々の戸棚をガラガラと開けたかと思うと、行李のふたをあけ、文庫をぶちまけ、果ては、長火鉢から針箱の抽斗まで引っかき廻して反古らしいものを片っ端からあらためはじめた。  たちまちにして、つつましやかな世帯の中を屑問屋へ大風が見舞ったようにしてしまったが、さて、万吉から来たらしい手紙もなし、またその後の消息をうかがうような反古は何ひとつとして見つからないので、周馬が小才も骨折り損となり終ると同時に、一角も、やや張合いを失って、吾ながら少し大人気ないとも思いなおしたらしい。  お十夜はというと、立慶河岸からお吉をつけてみようと言いだしたのは彼自身なのに、ここへ来ると、横着に腕ぐみをしたまま、二人の狼藉へ、むしろ冷蔑な目をくれている。  なにも、もちの木坂じゃあるまいし、女ひとりを取巻いて、そう大見得を切ることはあるまい。いつも一角ときたひには、田舎剣豪の強がりばかり振り廻すし、周馬はイヤに才智を見せようとする。どっちもきざで鼻持ちがならないのみか、凄味というものが不足だから、これっぱかしのことを糺すにもこの騒ぎだ──と見ている態度だ。 「おい、周馬も、一角も、いい加減にしようじゃねえか。万吉も戻っていず、手がかりもねえとしてみれば、いつまでもここに邪々張っているのも無駄骨だろう。それよりゃ、またちょいちょいとこの辺を見廻ることにするさ」 「ウム、引き揚げよう」 「お吉」  と、一角は、孫兵衛の尾について門を出ながら、捨科白を投げた。 「そちの亭主の万吉なり、また、法月弦之丞なりお綱という女なりが、やがてここへ姿を見せたら、よく申し伝えておけ。たとえどこへ姿をくらましていようとも、きっと、この三人が、命を貰いに出なおして行くぞ──と。いいか!」  荒っぽく格子を閉めて外へ出ると、三人の中でお十夜らしい声が、 「──年増だが、万吉の女房にしちゃ、もったいないような女じゃねえか。一角に撲られて、キッと、溜め涙でこらえていた姿が、なんとも俺にゃ色っぽく目に映った」 「いやな奴だ!」  と、天堂一角の笑い声がする。 「じゃ、お十夜、吾々はひと足先へ安治川屋敷へ帰ってやるから、貴公、これから一人で、お吉を慰めに戻ってやったらいいではないか」  周馬の猥らな声など──ふざけあいながら、だんだん遠くなって行った。  嵐の去った跡のように、シーンとなった万吉の留守宅には、狼藉に取り散らかされたものの中に、お吉が箪笥の鐶によりかかって、ほつれ毛もかき上げずに、いつまでも今の口惜しさにおののいていた──が、気丈な女、泣いてはいない。 「み、みておいで! 今に……」  真ッ青になった頬に、一角の打った手形だけが桃色になっていた。その口惜しさと痛みにおののきながら、こうつぶやいて、お吉が、脚の折れた珊瑚の珠を目の前に見つめていると、 「おばさん……」  静かに呼ぶ者があって、中二階の梯子段に、緋縮緬の燃える裾と、白い女の足もとだけが見えた。  家探しをして行った周馬や一角が、遠く立ち去った気配をみすまして、中二階から、ソッと下へ降りてきたのは、川長のお米であった。  天満の河岸で、やっと、うるさい紐をきって逃げたお米は、あれからすぐに、お吉の所へ頼ってきていた。  太郎助橋で声をかけられた時に素知らぬ顔をして行き過ぎたのも、宅助をまいた後では、お吉の家よりほかに、身を匿まって貰うところはないと思っていたので、わざと、ああした狂言をしたことで、いわば、今日あるための下心であった。 「──じゃお嬢さん、私が口添えいたしますから、とにかくお吉と一緒に、川長の実家へお戻りなさいましな」  その時、事情を聞いたお吉が、当然に、そういって勧めたけれど、お米は、どうしても首を振って、家へ帰ることを肯じない。  阿波へ帰るのはもとより死んでも嫌──川長へ戻るのも嫌──大津の叔父の家へ行くのも嫌──というお米の意志は、いったいどこに本心をすえているのか分らないが、お吉も捨ておく訳にはゆかない。 「ではまあ、物置みたいな所ですけれど、しばらくの間、狭いのはご辛抱して、家の中二階に遊んでいらっしゃいませ。ですけれど、その宅助とかいう仲間がそのまま毒が廻って死んででもいればよいが、息を吹っかえしていたら、また血眼になって、お嬢さんを探しだそうとしているでしょうから、当分は、決して家の外へ出ないほうがようございます」  何かへ、一途になっている若い心に、無理な、逆らい立てをしてもよくあるまいと、世馴れたお吉は程よく足止めをしておいて、今日はそれとなく川長へ行った。そして、かの女の母にその始末を相談してみたのだけれど、お米の母は、大阪へ来ていながら、家へ帰らぬ娘の放埒に腹を立って、とりなしようもない怒りだった。そのくせ、ともすると、涙まじりになりながら──。  そんな者は子とは思わぬ、もう亡いものと諦める。という母親と、家へ帰るのは嫌だ、と駄々をこねている娘との間に立つ、お吉の心遣いは無意義に帰した。で、しかたがないから、当分は空いている中二階へ世話をしておいて、お米の駄々とわがままとに飽きる日を待つよりほかはないと、道々考えながら戻ってきた──今夜。  計らぬ悪侍が三人までも押しかけてきて、存分に家の中を荒して行った。しかもそれらの者は、阿波の浪人か家中らしく、良人の万吉の命や、法月弦之丞という者や、お綱とかいう女をつけ狙っている口ぶり。 「また出なおすぞ」 「きっと命をとりに来るぞ」  こんな、凄文句も、言い捨てて行った。  お吉も、女でこそあれ、目明しの女房、よっぽど、かれらのするままに任せまいとは思ったが、中二階には、やはり阿波の家中に事情をもつお米を匿まっているし、留守を預かる大事な女の本分をも顧みて、ジッとその狼藉にこらえていた。 「おばさん──」  と今の乱暴を見て中二階から降りてきたお米は、お吉を慰めてやろうとする前に、足の踏み場もなく散らかっている小抽斗や反古などを片づけ始めた。 「お嬢さん、ほうっておいて下さいまし。後で私が始末いたしますから」 「いいよ。私も手伝ってあげるから、お前もその釵なんか拾って──気を持ちなおしたがいい。こんな物が散らばっていると、いつまでも腹が立っていてしようがありやしない」 「ああ、男がいないというものは」 「ほんとに、さびしい、辛いものだね。さだめし口惜しかったろうと思って、私も二階で、しみじみと察していたよ。だけど、ひょいと覗いてみると、あの三人の中には、私の知っている天堂一角という者や、お十夜孫兵衛という浪人がいたので、出るには出られず、どうなることかと、息を殺しているばかりだった」 「じゃ、あの侍たちを、お嬢様も知っておいでなさいましたか」 「森啓之助などと一緒に、よく川長へ来たことがあるのでね」 「見つからないで倖せでした」 「けれどお前……いったい万吉さんはどうしているの?」 「ああして阿波の侍が、居所を探し廻っている様子をみれば、どこかに、命だけは無事でいるのでござんしょう」 「けれど、一人じゃないのだろう?」 「え……何が」 「法月弦之丞様と一緒に歩いているような口ぶりだったじゃないか。──おばさん、私も今では弦之丞様の素姓や、お前のご亭主の万吉さんが、何をもくろんでいるのかぐらいは、うすうす知っているのだから、その法月さんの居所を、私だけに、そっと教えておくれでないか──ね、後生だから」  弦之丞の居所を教えてくれという、そのお米の様子が、いつになく真剣なのに、お吉はひそかに妙に思って、 「さあ、それは私にも……」  と、口を濁すと、たたみかけて、 「知っているのだろう、え、お吉」  お米の眼が粘りこく追求してくる。 「存じませぬ。──なんでお嬢さんにまで、そんなことを隠しだてするものですか」 「だって、さっき、家探しをして行った侍たちが、万吉も弦之丞も、たしかに、この大阪へ来ているはずだといったじゃないか」 「それはそう申しましたが、自分の亭主の居所さえ知らない私が」 「いいえ、そんなことはあるものじゃない。この大阪へ帰ったなら、たとえ人目を忍んでも一度はこの家へ来たに違いがない……。いいよ、お前は私までを、阿波の廻し者だと、疑っているのだから」 「そんな訳ではございませぬ。まったく、お吉の知らないことでございますから」 「いいよ、いいよ……」  また、理由のない駄々をこねて、人困らせをするのかと、お吉がよい程に扱っていると、すねて後ろ向きになったお米の目に、涙がいっぱいに溜っている。 「お嬢さん」  肩へ手をかけると振り落して、 「いいよ、もうお前に、私の身のことは、相談もしなければ、頼みもしないから……」 「まあ、何をおっしゃるやら、お吉には、よくわけが分りませぬ」 「分っていても、教えてはくれないじゃないか」 「じゃ、その弦之丞様とやらに、いったいお嬢さんは、どういう用があるんですえ」 「用ということもないけれど、私はどうしても、あのお方に、もう一度お目にかからなければならないんだよ。──それで、その一心で阿波から逃げてきたのじゃあないか」 「じゃ、お嬢さんは、その人に? ……」  今はお吉にも、お米の本心のあるところが、よく分った。  それにつけても、癆咳という病気があるため、わがまま気随にしておいたのが悪かった、と涙まじりに悔いていた、お米の母の言葉が思い起こされて、お吉は、溜息をついて、その人の姿を眺めた。 「──そうですか、そういうお心持であってみれば、なんとかして、お引きあわせして上げたいのは山々でございますが」  というと、お米は腹を立てたように、プイと立って、 「もう、お前に心配をかけないから」  中二階へ上がってしまった。  お吉は、ほうっておくつもりで、また、勝手へ来て、膳ごしらえにかかった。それも、自分は川長で馳走になってきているので、お米ひとりのための支度であった。 「お嬢さん──」  梯子の下から呼んだけれど、答えがない。 「──遅くなってすみませんでした。御飯をお上がりなさいましな。お好きな物がございますよ」 「…………」 「機嫌をなおして、降りていらっしゃい。え、お米さん」 「…………」 「お嫌?」 「ア、私かい、私なら今夜は食べたくないから」  それっきり、何をいっても返辞がなかった。  たださえさびしい女住居な上に、宵には、あんないまわしい乱暴をされ、その後で、慰めてくれる立場のお米がこんどは地位をかえて、妙にすねてしまったので、お吉は立つ瀬のないような寂寥に衝たれた。  気をまぎらわすため、縫物を出して、行燈の下に針を運びはじめたけれど、夜が更けても、上と下との気まずい沈黙がよけいに家の中を陰気にするばかり。そして、滅入りがちな心の奥で、 「先からわがままなお米さんではあったけれど、元は癆咳を苦にしていて、沈みがちな気性だったのが、わずかの間に、どうしてアア捨鉢に変ってしまったのだろう。家へ帰りたくないというのも、自分に、目的があるからには違いないが、あのまま自堕落になって行ったら、女の一生を末はどうするつもりなのだろう」と、考えたりして、他人事ながら胸を痛めていると、また不意に、トントントンとさっきよりは荒い足どりで、お米がそこへ降りてきた。  黙って、勝手へよろけてゆくふうなので、 「そら、やっぱりお腹がすいてきたんでしょう」  とお吉が、つとめて、冗談に話しかけると、お米は手桶の中から水柄杓を取って、 「おばさん、私、気ばらしに、お酒を飲んだの」  ポッと目元を妖艶に赤くして、あられもなく柄杓へ唇を寄せていった。 「えっ、お酒を」  あっけにとられて、お吉は座敷のほうから目をみはっていた。  しどけない姿で、流し元に立って行ったお米は、上気して、襟元まで桜色になっていた。そして手桶から取った柄杓の水を飲んで、 「……ア、おいしい」  水をはねかして柄杓を投げこむと、ひょろひょろと戻ってきて、梯子段へよりかかった。 「おばさん──」  ただ気を呑まれて自分をみつめているお吉を、そこから冷やかに見て、 「どう? 私の顔……」  と笑った。  だが、お吉には、笑えなかった。 「私の顔──ずいぶん赤いだろう……、昼間、そッと買っておいたのさ、自分でね。──だって、お前、お酒でも飲まなければ、私、生きていられやしないものねエ」  梯子段へ肱をのせて、こういう調子なり姿態なりが、毒婦のように妖美であった。  お吉は、それが川長のお米ではないように見えた。  あの、気の弱い、すんなり痩せ細った容で、咳にまじって出る血を、人目に隠しながら、いつも鬱気でいたお米──それと目の前の人とがどう考えても、同じだと思われなかった。 「どうしたの、お吉」 「お嬢さん……」 「よしておくれよ、お嬢さんなんて、私はもう、生娘じゃない、男のために、さんざんになった女だよ。おまけに、癆咳もちで、長生きのできない、女なんだよ。──だから、いっそもう、したいことを、どんどんして行かなけりゃ損だと、考えなおしたのさ。いいやね、お前、毒婦になったって。──薊の花だって、捨てたもんじゃないからね、黙って、泣いて、踏みにじられたまま、終ってしまう野菊より、棘をもっても、口紅をつけてパッと強く生きている薊のほうが」 「まあ、お米さんとしたことが」  お吉が、あきれて、何かいおうとするその口を抑えて、 「いいよ、ほうっといておくれ。私は私で、弦之丞様をたずね当てるんだから」 「そのことじゃありませんが、あなたはまあ、体のお弱いくせに、なんだって、飲めもしないお酒をそんなに上がったのですえ?」 「いいじゃないか、私の体だもの」 「せっかく、ご丈夫になりかけているのに」 「よけいなことをいっておくれでない。私が、頼むことも教えてくれないくせにして」 「だって、知らないことを」 「知っていたら、後で怨むよ。いいかえ、わたしは明日から、きっと、その人を探しにかかるつもりなのだから、ね」  酒のせいではあろうが、お吉を睨むように見流して、スルスルと、二階へ裾を匍わせて行った。  そぼそぼとすすり泣くような小雨の音が、晩春の夜をひとしお心細く降ってきた。翌朝も、細かい雨が煙っていて、竹の樋の裂け目から落ちる雫に、勝手の板の間がびしょ濡れになっていた。  ゆうべ、寝しなに、ここを固く閉めて床についた筈なのが、開け放しになっているので、お吉は、起きるとすぐに、あたりのさまを疑った。みると、この間、歯を洗って隅においてあった、高足駄が見えないし、壁に吊るしてある雨傘のうちで、一番新しい渋蛇の目がそこに見えない。 「おや? ……」  中二階へ上がって、もしやと、そこの襖をあけてみると、牡丹唐草の赤い蒲団は敷きぱなしになってあったが、どこへいったか、お米の姿は見えなかった。  自棄酒をのんで、血の逆ったようなことを口走ってはいたが、まさかと、たかをくくっていたお吉は、びっくりして、夜具のまわりや押入れの中を見たが、お米は、もう帰らぬつもりで、すっかり支度をして出て行ったらしく、帯揚ひとすじ残っていない。 「いくら若いにしろ、捨鉢になっているにしろ、この雨が降っているのに、どこへ……」  お吉は、二階の小窓を開けて外を眺めた。そぼ降る雨の中に、渋蛇の目をさして的もなく出て行ったお米の姿が目の前にちらついた。  そして、何の気もなく窓の根元になった屋根の上をみると、小さな鬢盥が出してあって、その中に、唇を拭いた紙と、緋撫子をしぼったような、鮮麗な色の血が、あふれるほど吐いてあった。 「あ……」  お吉は、袖口を鼻に当て、怖ろしい、そして悲しむべき、お米の遺物に、寝起きの肌を寒くさせた。  けれど、みつめているうちに、その鮮麗な紅は、病をうつすという恐怖も、穢ないという感じをも、お吉の脳裡からとり去って、ただ、ひとりの美女が、血みどろに、目ざす所へ、脱けて行った殻のように見えてきた。 「──今のような場合でなければ、弦之丞様の居所を、ほんとに教えてあげたいのだけれど」  こうつぶやいて、ほろりとした。 流々転住  ここに哀れをとどめたのは、紐の男──仲間の宅助だった。  おのれの使命に、あまり自信をもち過ぎた結果、鼠薬を舐めさせられて、もろくも、お米にまかれてしまったが、どうにか、命だけを取り止めて、ひょろひょろと、場末の木賃宿からよろけだしたのが、お米に離れてちょうど七日目。  持ちあわせの小遣いも尽きて、もう一晩の旅籠銭さえなくなったため、まだヨロつく足をこらえ、時々、渋るように痛む腹をおさえて、青い顔をしながら宿を出た姿は、笑止でもあるが、気の毒でもあった。 「見ていやがれ、阿女め」  腹の渋りだすたびに、口惜しさが新たになってくる。そして、まだ腹の中に残っている鼠薬の余薬に、火でもついてくるように、かれのまずい面が歪んでくる。 「覚えていやがれ、タダおくものか」  こうつぶやいては、宅助、ペッ、ペッ、と生唾を吐き、目ばかり鋭く動かして、よろよろと道を泳いだ。  無論お米を見つけだす気で──。  どこをどう歩いたか、何を的に探したか、自分でも夢中らしい。なにしろそれから二日の間に、かれの姿はいっそうみじめなものとなって、生霊のように、ふらりと現れたのが二軒茶屋──玉造の東口なのである。  大阪から南都へ出る街道口、そこには、伊勢や鳥羽へ立つ旅人の見送りや、生駒の浴湯詣で、奈良の晒布売り、河内の木綿屋、深江の菅笠売りの女などが、茶屋に休んで、猫間川の眺めに渋茶をすすっている。  そこへ来ると、宅助は、空いている床几を目がけて、ドーンと腰をおろしてしまった。  ふウ……と吐息をつくと、何か、訳の分らぬことをつぶやいて、こんにゃくのように体ぐるみ、フラフラと首を振っていた。  晒布売りの女がクスクスと笑った途端に、あたりに腰を掛けている旅の者が、声をこらえて吹きだした。で──宅助は、初めて自分が、衆目の中にいることを知って、思いだしたように、とつぜん、一同へお辞儀をした。 「へい、皆さん、わっしゃ女に逃げられてしまったんです、女にね。おまけに、毒を呑まされたので、少しこのウ……頭の芯がフラフラとしていて、向うの山も、この家も、人様の顔も、動いて見えるくらいですから、少し様子がおかしいでしょう……。ですが、狂人じゃございませんから、笑わないでおくんなさい。可哀そうです、わっしの身になってごらんなせえ、笑いごッちゃありませんぜ」  まじめに釈明したのである。  宅助がきまじめで何かいうほど、初めのうちは、みんないっそうおかしがったが、その眼色、顔色がよく分ってくると、誰も笑わなくなってしまった。 「女といっても、わっしの情婦じゃございません、主人から預かってまいったお部屋様なんで──。どなたか、ご存じでしたら教えておくんなせえ、どうしても、そいつを取っ捕まえなくちゃ、国へも帰れませんし、第一わっしの無念がおさまりません」  と、宅助、茶店の中の者をいちいち白い眼で見廻した。  誰も返辞をする者がない……。  いったいこれは気狂いかしら、それとも本当に、ああまで一念になって、女を尋ねているのかしら? と誰もが心のうちで判断を下しかねている態だ。 「そう、そう。女といったって、ただ女だけじゃ人様にゃ分りますまい。その女というのは、この大阪にれっきとした店を張っている、ある料理屋の娘でして──へい、ですが、そこには帰りません、とにかくこの三郷の土地をうろうろしているに違えねえので、年は二十四、五だろうが、それよりはグッと若く見えて、癆咳病みですから、色はすきとおるほど白く、姿は柳腰というやつ。ヘエ、服装ですか、服装はもちろん襟掛けの袷で、梅に小紋の大柄を着、小柳繻子を千鳥に結んでおりました。そいつを尋ねておりますんで──そいつをネ、どうでしょう、誰かこの中で、そんな女を見かけた方はいますめえか、名前はお米という奴で、お米、お米、知っていたら、どうか教えておくんなさい」  と、言い終ると、こんどは誰ともなく、ワハハハと笑い出して、それをしおに、茶店中の者が、宅助を余興に見て、腹を抱えてしまった。  あまり真剣にすぎる身振は、他人の目に滑稽となって映るのに、まして、宅助の尋ねものが美人というので、誰もが笑わずにいられない。宅助もそれまでは、見得も何も忘れていたが、こう笑われた上に、誰も相手にしてくれない様子を見ると、いささか間が悪くなって、またこそこそと茶店を歩きだした。  すると、その中にも、たった一組、思いがけない知己があって、かれが茶店を離れると一緒についてきた者がある。 「宅助さん。もし、宅助さんたら」  二軒茶屋の床几へ茶代を置いて、こういいながら、あわてて、後を追ってきた手代ふうの男と、そして、三十がらみの商家の御寮人。  それは、四国屋のお久良と、手代の新吉だった。 「おーい、お待ちってば、宅助さん。おーい、森家のお仲間──」  妙に眼ばかりを光らせて、前かがみにあるいていた宅助は、やっとその声に気がついて、 「え? ……ああ」  気のない顔で立ち止まった。 「これは、四国屋のお内儀さまに新吉さんで」 「どうしたんだい、宅助さん」と、新吉が肩を叩くと、宅助はふらりとよろけて、 「どうにもこうにも、まったく弱ったことができましてね」 「その話は、今向うの茶店で聞きましたが、森啓之助様の匿し女、お米という人がいなくなったとか」 「この大阪で、姿を消してしまやがったんで、それを見つけださねえうちは、国元へも帰れません。あ、そして、お店の船は、もう近いうちに阿波へ出ることになりやしょうか」 「荷の都合で少し遅れたから、多分、この月の内には出ないだろうよ」 「とすると──五月の中旬になりますな。じゃ、まだだいぶ間があるから、それまでに、お米の奴を捕まえて、一緒に乗せていただきます。四国屋の船に便乗して帰れというなあ、初めから、旦那様のおいいつけだったので」 「ほかならぬ御家中のお方、船はどうにもご都合をつけますが、そのお米様とやらが、見つからぬうちはお困りですなあ」 「いまいましい畜生でさ。だが、宅助の一念でも、きっとそれまでには、お米の奴を取っ捕まえます。ああ、それと新吉さん……まことに面目ねえ頼みだが、少しばかり、当座の小遣銭を合力しておくんなさいな……、恥を話すようだけれど、路銀はみんなお米のやつが持っていたので、今朝からまだ一粒の御飯も腹に入っていねえありさまなんだ」 「ええ、ようござんすとも」  お久良が気の毒がって、五、六枚の南鐐を、手の上へ乗せてやると、宅助の飢えた心は、銀の色にわくわくとおののいた。 「あ、ありがとうござんす」  幾度となく辞儀をした。  そして、思いがけなくありついた南鐐を懐中にして、お久良と新吉に別れて行こうとすると、猫間川の堤に添って、柔い草を踏んで、何か語らいながらこっちへ来る男女がある。  男は──若い浪人である。  形のよい編笠に、黒奉書の袷を着ている。スラリとした中肉に、袷の肌着きがよく、腰には落し目に差した蝋消の大小、素足に草履、編笠をうつ向き加減に、女の言葉を聞いていた。  その人に寄り添ってくる道づれは、小股の切れ上がった江戸前の女で、赤縞の入った唐桟の襟付きに、チラリと赤い帯揚を覗かせ、やはりはにかましげな目を、草の花にそらしながら歩いていた。  手代の新吉は、それを見ると、あわててお久良の袖を引きながら、 「もし、お内儀さん」  とあごを指した。 「あのお侍の側にいるお女中は、少し風が変っているが、いつぞや、木曾路で私たちを助けてくれた、あの若い旅のお方じゃありませんかね」 「ほんに……」と、お久良も目をみはった。  向うでは何気なく、新吉の側をすれちがって行きそうになるのを、お久良がしかとその人を見届けて、前へ廻って行くなり、ていねいに小腰をかがめた。 「もしや、あの……失礼でございますが」 「はい、私?」 「さようでございます、お見忘れかも存じませぬが」 「ああ、あなたはいつか木曾街道で」 「よい所でお目にかかりました。その節は、私たちが途方に暮れていたところを、ご親切に救っていただきまして、ろくにお礼も申さずお別れ致しましたが、いつもこの新吉と、よそながらお噂ばかりしておりまする」 「なんの、親切だのお礼だのと、そうおっしゃられては困ります。ただほんの旅先での面白半分……」 「いいえ、ぜひ一度はお目にかかって、しみじみと、お礼を申し上げたいと思っておりましたところ──少し船が遅れましたので、今日は、高津のお詣りから黒門の牡丹園へ廻ってまいりました。これも高津のお宮のおひきあわせでございましょう」 「では、まだ、阿波へは?」 「はい、船の都合で、少し帰りが遅れておりまする」 「とおっしゃると、なんぞ次によい便船でもお待ちなさるのでございますか」 「いいえ、手前どもの持ち船で、御城下へゆく積み荷の整い次第に、港を立つ都合になりますので」 「そうですか──」と深くうなずいて、 「では、四国屋という、お店の持ち船でござんすね」  と、それに気を惹かれて、連れの浪人と目を見あわせたまま、ジッと考えている間に、その浪人の編笠のうちを覗いた宅助が、あっ、とびっくりして走りかけた。  ──と思うと、浪人の、黒奉書の片袖が、乙鳥の羽のようにひるがえって、真っ白い腕に電撃の速度がついた。  脾腹へ当身! たった一突き。 「ウウム──」というと、不運な宅助、またここでも、駈けだすはずみを横につけて、向うの草むらへ、逆とんぼを打って気絶した。  宅助が気を失ったのを見すましてから、侍は、おもむろに、突きだしていた拳を納め、その指先を笠べりにかけて、 「──不作法。平に」  と、軽く、またにこやかに、お久良と新吉へ、初めての会釈をする。そして、静かに、笠を払った。  今の、早技にも似ず、鬘をつけたような五分月代に、秀麗な眉目の持ち主。  あっけにとられてする二人の目礼をうけて、どこかに微笑を含んでいる。 「お綱」  と、側にいる唐桟縞の女をみて、 「あれは森啓之助の仲間、拙者の顔を見知っているゆえ、当身をくれておいたのだが、しかし、四国屋のお内儀、さだめし驚いたことであろう。そなたからわけを話して、その後に、例の……船の便乗、頼んでみられてはどうか」 「私も、そう思っておりました」 「是非に、承諾して貰うように」 「はい、ひとつ、話してみることに致しましょう」 「うむ」  と、目くばせ。  法月弦之丞は、猫間川の堤に上って、往来の人影を見廻した。  木曾の刃囲を切り破って、お綱と万吉を助けながら、あの夜、からくも裏街道の嶮路へ脱した弦之丞は、それから数日の間に、夜旅を通して大阪表へまぎれて来ていた。  かれが着馴れた普化宗の三衣を脱いで、ちょうど、花から青葉へ移る衣がえの機に、黒奉書の軽い着流しとなったのも、ひとつは、阿波の詮索をのがれる当座の変装である。  しかし、その仮の着流しが、ひどく弦之丞を色めかして、猫間堤に腰をおろし、四方へ目をやっている様子なども、決して大事を胸に抱いている鋭い武士とは思われない。 「四国屋様──」  お綱は、改まって、小腰をかがめた。 「はい……」  とは答えたが、その時、お久良も新吉も、少し気味の悪そうなたじろぎをみせて、 「なんぞ、改めて御用でも」 「折入ってあなた様に、お願いをしてみたいと向うにいる連れの者が申しまする。なんと、お聞きなされて下さいましょうか」 「それはもう……」と、お久良は愛嬌のある口元から、鉄漿の艶を見せて、 「御恩のあるあなた様のこと──自分たちに出来ますことなら、何なりと……」 「わずかな御縁につけ入って、あつかましいお願いをするやつと、こうお思いなさるかもしれませんが」 「どう致しまして、それどころか、私どもこそ、お住居を尋ねても、いちどはお礼に出たいと存じておりましたくらい。そして、お頼みということは?」 「お宅様の持ち船が、阿波の国へ帰る時に、乗せていただきたいのでございます」 「えっ、阿波へ?」 「連れは三人、ぜひともあちらへ渡りたい用が」 「ま、お待ちなさいまし」  お久良はこうさえぎりながら、少し道傍へ──堤の裾へ寄って行った。  鴫野の花圃か、牡丹園へ行った戻りでもあろうかと見える、派手な町駕が五、六挺、駕の屋根へ、芍薬の花をみやげに乗せて通り過ぎる。  その白い埃が沈むのを待って、 「阿波へお渡りなさろうとは、何ぞよほどな御事情でござりますか。ご存じの通り、御領地堺は、関のお検めがきびしい国で、めったな者は、みんな船から突っ返されます」 「さ、その禁制を知っておりますゆえ、四国屋様のお情けで、積荷の中へでも、隠していただきたい、と思いまして」 「では、お役人の目をぬすんで」 「ごく内密に、渡りたいのでございます」 「さあ? ……」  にわかに暗い顔をして、お久良は、当惑そうに、胸へ手を差し入れたまま、しばらく、立ち思案に暮れてしまう。  後ろにいた手代の新吉は、心配そうに、主人の袖へ合図を与えた。秘密に渡海する者を商船に乗せて、それが発覚したとなれば、いうまでもなく、四国屋の身代は、根こそぎから闕所になる。木曾街道での恩はあるが、そんなあぶない頼みは引きうけないほうがようございます──というふうにかれの手が知らせていた。 「どうでございましょう。四国屋様」 「…………」  お久良は、まだ黙然と、迷っていた。  和らかな微風が、堤の緑を撫でてゆく。 「嫌といわば? ──」  すでに、秘密の一端をもらした以上、不愍ではあるが、お久良と新吉とを、このまま放してやることはなるまい──と、法月弦之丞の眸は、いつのまにか、炯として、一脈の凄味を帯び、お久良の返辞を、待たぬふうに待ちすましている。 「もとより、こういう無理なお願いをする上は、私たちが、秘密な大望をもつ者ということは、もうお察しでございましょう」  お綱は、相手の遅疑する色を見ながら、迫るように、お久良の決意をうながしていった。 「けれど、四国屋様」  つとめて、自分の言葉を、平静に装いながら── 「決して、後に、そちら様のご迷惑になるようなことは致しませぬ。よしや、禁制破りが露われて、領主の蜂須賀家から、お店へ科がかかりましょうとも、その時こそは、幕府の御威光をかざしても、きっとお救いする道が……」  パチンという鍔の音に、お綱は、口を辷りかけた言葉を切って、堤の上の弦之丞と眼の光をからませた。 「あの……お綱さん」  お久良は、何か思い切った様子で、やっと顔を上げながら、 「なにしろ、ここでは、深いお話も伺えませぬ。それに、船の荷都合ものびておりますから、それまでの間に、いちど、私どもの寮へおいで下さいませ。その時には、何かとゆるゆる御相談もいたしましょうから」  巧みに、逃げ口上をいって、はずすのではないかと、弦之丞の懸念も、お綱の眼も、そういう相手の顔色を、天眼鏡の向うに置くように見つめたが、お久良の素振には、少しもやましいものがなかった。 「弦之丞さま──」と、お綱は上をふりかえって、「どうしたものでございましょう」 「四国屋のお内儀」  お綱に代って、こんどは、弦之丞が居場所から声をかけた。 「そちらの寮へ来てくれとの言葉、大きにもっともには思われるが、何せい、人目を忍ばねばならぬ吾らの身の上じゃ。ことに、蜂須賀家には仇も多い……」  こういって、ジイと、堤の上から見おろした。新吉は、何となく身がすくんで、これは、いよいよ容易なことではないと、生唾をのむ。 「よろしいか」  念を押すと、お久良はさすがに、大家の御寮人らしく、うなずいて、 「お身の上も、およそ」  と、片笑くぼでいった。 「それ故、いらざる邪推も廻るというもの」 「ご無理のないお話でござります。けれども、町人ではござりますが、私とて、四国屋のお久良、御恩人の、あなた方をおびき寄せて、蜂須賀様へ密告しようなどと、そんな、卑怯な、恩知らずではござりませぬ」 「うう、きっとな」 「固く、お誓い致します」 「その一言を信じるぞ」 「はい」  と、明晰に答えた。  弦之丞は、お久良の性根を見こんで、 「では、四国屋の寮とやら、どちらでござるか、お所を伺っておこう──」と堤を下りた。 「どうぞ、お出まし下さいませ。場所は、農人橋の東詰、そこは四国屋の出店でござりますが、東堀の浄国寺に添った所が、大阪へ来た時の住居になっておりまする」 「そして、また会う日と時刻は」 「そちら様のご都合のよい時……、したが、昼は人目もありますから、なるべくは夜分のほうが」 「いかにも、では、明後日」 「きっと、お待ち申し上げます」 「ことによると拙者はまいらずに、このお綱と、万吉と申す者が、お邪魔に伺うかもしれぬ」 「あの万吉様なら、木曾路でいろいろな親切にあずかりましたお方、ぜひ、お目にかかりとう存じます。それでは、今日はこれで……」と、新吉をうながして、お久良は、玉造の並木のほうへ帰って行った。  弦之丞とお綱は、ふたりの姿がはるかになるまで、そこを動かなかった。 「法月様──ここでしたか」  と、その時、川の底で呼ぶ声がする。  ふりかえると、猫間川の水が、大きな波紋を描いて、苫をかぶせた小舟が一艘、斜めに辷って、水禽のように寄ってきた。  乗ってきたのは、万吉である。  棹をしごいて、水玉を降らし、舳をザッと芦へ突っ込むと、無言のまま弦之丞が飛び乗った──そしてお綱も。 「あぶない……」  と、手をのばした弦之丞の胸へ、お綱はよろけ込むように抱かさった。  苫をかぶった過書舟は、気永に、猫間川の淵を上って行った。  秋ならば、さだめし、虫聴きの風流子が、訪れそうな所である。上へすすむほど、川幅も狭くなって、岸の両側から青芒や千種の穂が垂れ、万吉の棹にあやつられる舟の影が、薄暮の空を映した滑らかな川面を、水馬のように辷ってゆく。  苫の隙間から、白い煙が、静かに揚がっていた。  小さなこんろや土鍋が見える。  お綱の白い手が、舟べりから水へ伸びて、二つ三つの瀬戸物を洗っていた。  ささやかな舟世帯で、夕餉の支度ができるらしい。  かかる間に、舟は玉造村からズッと奥へ入って、とある土橋の橋杭へ結びつく。  その頃、もうトップリと日が暮れて、猫の眸に似た二日月が、水の深所に澄んでいた。 「じゃ、弦之丞様、今夜はちょっとお暇をいただいて、家の様子を見たり、また、当座の食い物を少し仕入れてまいりますから──」  舟をもやうと万吉は、こういいながら、陸へ上がる支度をしていた。 「お、行くのか──」と苫の中から弦之丞。 「わっしが帰るまで、どうぞ、ここを動かないように」 「今夜はここで舟泊りじゃ。ゆるゆる用をすましてくるがよい」 「へえ。なにしろ大阪へ来てからも、まだろくろく顔を見せていねえ女房、ことによると今夜あたりは、向うへ、泊りたくなるかもしれません」 「うむ、そうしてまいるがよいではないか」 「ありがとうぞんじます」  と万吉、弦之丞のまじめさと、お綱のはにかましげな様子を見くらべて、 「いっそ、今夜ひと晩は、この万吉の帰らねえほうが、そちら様にもご都合がいいかもしれませんね。え、どうですな、お綱さん──」  と、冗談のようにいう。お綱は、顔を赤くして、 「なるべく、早く……、ね」  と、いったが、万吉は、その顔を指さして、 「嘘ばッかり……」  と、笑いながら、ひらりと陸へ上がってしまった。  そしてまた急に、思い出したようにふりかえって、お綱のほうをジッと見ながら、 「ほんとに、今夜は、帰るまでも、少し遅くなりますから……、どうか、そのつもりで、後をよろしく……へへへへへ。よウがすかい、お綱さん、あの約束をネ」  と、目に物をいわせるそぶり。  あの約束? ──と意味ありげに。  それは、駿河台の墨屋敷で、固く、お綱と万吉の間に交わされた、あのことを指したのに違いない。あのこととは、無論お綱の心の奥に、言いだせずに秘められている、恋である。  だが、弦之丞には、すでに、愛人として、お千絵様という者がある。それを知っている万吉の立場では、いかにお綱の心を汲んでも、弦之丞へ向って、今日まで、どうもその二重の恋を取次ぎにくかった。  だから。  今夜は狭い小舟の苫、わたしもいないし、人目もなし、ちょうどいい水明りに、ちょうどいいこの折に。 「あの約束をネ」  と、万吉が、いったのである。  打ち明けてごらんなさい、と粋をきかして、目知らせしたのだ。  そこで万吉は、堤を上がると土橋を渡って、スタスタと、宰相山の木立を目あてに、そこから遠からぬ桃谷の自分の家へ急いで行った。  この大阪表へ来て以来、阿波の原士や例の三人組が、手分けをして自分たちの居所を探しているという風聞なので、その詮索の目をのがれるため、弦之丞、お綱、万吉の三人は、ひそかにこの過書舟の苫をかぶって、浮草のような幾日を過ごしていた。  そして、一方には、阿州屋敷の動静をさぐり、かねては、阿波へ渡るべき、好機会を狙っている。  ある日は、終日舟から上がらぬこともあるので、それに要る手廻りの品は、いつか、万吉が真夜中に自分の家を叩いて、お吉に、そッと運ばせたものである。  で、ささやかな舟世帯は、三郷の川や掘割を縫って出没し、夜は、人目の立たぬ芦の中に、浮寝の鳥と同じ夢を結んでいた。  そうして幾夜を送るうちに、弦之丞も、お綱の生い立ちや、またその性質を、充分に理解してきた。ことに、お綱と世阿弥とが、不可思議な血縁につながれていることを知ってから、彼は、もう阿波へ共に行くことを拒まなかった。  そして、わずかな間に、深い親しみをもつようになった。  けれど、それが、恋の進展とはならない。なぜならば、お綱はまだ、胸に秘めているそれをきょうまでの間に、弦之丞へ対して、言葉の端にも、ふれてみたことがないから──。  といって、お綱の思慕は、人知れずに、募りこそしてきたが、さめてはいない。  こうして、狭い小舟の中に、ひとつに暮らしていればいるほど、悩ましい恋情を理性で伏せることができない。それは、誰としても当然に起こる苦悩であろう。  恋人と共に、苫の中に隠れて、胸の奥に燃えさかっている恋を語りださずにいることは、その人の側にいるという甘いよろこびを越えて、むしろ、切ない忍苦だった。  ある夜は、木枕をならべ、薄い褥を臥しかつぐ五更に、思わず、指と指のふれあって、胸をわかすこともあろう。  やすらかに眠るその人の寝顔が怨めしげにみつめられて、明日の朝、瞼の腫れの恥かしいこともあろう。  その心持を、万吉はよく知っていた。  だが、万吉にも、弦之丞へそれと口を切ることができないので、ただ、お綱の心根を、蔭で、不愍と思いやっているばかり……。 「そりゃ、お千絵様と、誓ったこともあるだろうが、あのお方は、癒るかどうか分らない程な、気狂いという病気になっているのだから……」と、こう、自分で理由をつけて、どうかして、お綱にこの恋を遂げさせてやりたい──とそのたびごとに考えている。 「──決して、それが不倫な恋とはなりゃしまい。お千絵様とお綱さんとは、義理の姉妹には違いないが、妹のほうが乱心になって、弦之丞様との恋が失せてゆくものとすれば、お綱さんがそれに代ったって、ちっとも、悪い話じゃねえ。むしろ、まことにけっこうなことだろうと思うんだが、なにしろ、法月様ときた日にゃ、そこになると、まったく融通が利かねえからなあ」  いつも、この二の足で、弦之丞の顔をみると、彼もお綱も、そんなことは、おくびにも出せないのである。  そこで、万吉。  今夜は、お綱に粋を利かせた意味と、実は、自分も、久しく会わない女房のお吉に、ちょっと優しい言葉でもかけてやろうか、という気持から、舟を上がって行ったものだ。  お綱にとっては、粋な万吉の姿へ、両手を合せて拝みたいほどな機会である。  こんなよい晩なんて、決して、今まで、ありはしない。  けれど、万吉が、そこから抜けてみると、なんとなく取りつく島がなく、せっかくのいい晩が、息ぐるしく、口もきけずに、過ぎてしまいそうだ。  思えば、もう一年前の夏になる。  大津の打出ヶ浜で、あの雷の落ちた晩に、雨宿りをしていた瓦小屋で、ゆくりなくこの人を見て、お綱は初恋を知った。  片恋のまる一年──、今もまだその恋は片思いかもしれないけれど──。  顧みると、涙のにじむ一年であった。  身をもやつし、心も痩せぬいた、月夜の風邪。  その一念が届いて、やっと今夜のような、たった二人でいる機会に恵まれてきたのだ──と思い躍りながら、かれの心は、まだ昔のはにかみを、どうしても脱けないらしい。  小舟の隅に寄って、もじもじと苫の藁を抜き、抜いてはそれを輪に結んで、水の中に流している。  お綱がそうしていれば、弦之丞もいつまでも黙然として、舟べりへ片肘を乗せ、ジイと、水に映る二日の月を見つめている。 「少し、寒くなりはしませんか……」  やがて、お綱がいった。 「だが、もう晩春、苫を垂れこめては、むし暑かろう」 「そうですねえ」  後を次ぐ言葉を考えながら、いつか、つぎ穂を失いかけて、また胸苦しい沈黙がつづきそうになる。 「あ、今のは」 「何かの?」 「時鳥ではありませんでしたか」 「あれは五位鷺」 「まあ」 「えらい違いじゃ。は、は、は、は」  また話の緒口を失って、お綱は顔へ血を上せた。  またしばらく、手持ちぶさたに、もじもじしていると、 「お綱、今のうちに、髪をなおしてくれぬか」  と、弦之丞のほうから渡りに舟の頼みが出る。  普化の宗衣を着ていれば、髪も切下げでなければならぬが、黒紬の素袷を着流して、髪だけがそのままでは、なんとなく気がさすし、そこらをウロついている原士の眼を避ける上にも、容を変えたほうがよかろうと、昨日も話していたことである。 「つい忘れておりました。では、ちょっと梳きなおして差上げましょう」 「どうか、願いたい」 「おやすいことでございます」  と、自分の黄楊の櫛を抜いて、弦之丞の側へ寄ったが、高鳴る血のひびきが、その人の肌へ感じられはしまいかと、左の手で、右の袂と乳の辺を軽く抑えた。 「あいにくと、鬢盥がございませんが」 「なに、これでよかろう」  と、かれは背中を向けたまま、無造作に、舟のアカ汲を取って、手を伸ばし、川の水を掬って、お綱の側へ置いた。 「それに鏡も」 「いや、鏡は要るまい」 「何もかも、ないものだらけでござります。ちょうど、あの……新世帯みたいに」 「流々転住の舟住居。ここしばらくは、思いがけない、気楽な境界になったもの……」と弦之丞も、ほほ笑まれる。  四、五枚の苫をはねてあるので、細い眉形の月と星明りが、お綱の手元をほのかに見せた。  弦之丞が汲んだアカ柄杓の水に黄楊の鬢櫛を濡らして、 「あの……」  まぶしそうに、横顔を覗きこんで、 「月代は、このままにしておきますか」 「浪々して以来の置物、同じ剃るなら、大望を遂げての後、サッパリと落したい」 「では、たぶさだけを」 「何かに結びなおしてくれ」 「はい」  女房のような返辞の為方。  お綱は、自分の声に動悸を打ったが、弦之丞は無関心に、五分月代をかろく梳く櫛の歯ざわりに、こころよげな目をふさぐ。 「元結を切りますから、笄でもお貸し下さいまし」  弦之丞は、無言で、刀の小柄を抜いて渡す。根を切って、それを返し、ふさふさとした黒髪を幾たびも梳いて、女用の松金油は、やや香りが高すぎるが、それを塗って、形よく銀杏に折り曲げ、キリキリッと元結を巻いて、根締めの唾を舐めてつける。そして、 「どうでございますか」と、甘えるように、櫛を拭く。 「よかろう。いや、ご苦労であった」 「お気に召さないかもしれませんが」  櫛にからんでいた男の毛を、指の先に巻きながら── 「けれど、たぶさに結んだ髪も、ほんに、よくお似合いなさいますこと」  流し眼に、ジイと、燃ゆる思慕を。  離れがたなく、居なりのまま、精いッぱい、心の一端でも、洩らしてみようとするのだが、眼元ばかり熱くなって、咽喉はいたずらに渇いてくる。 「ああ……」と、思わず、火のような吐息。  そして、がっくりと片手を落した途端に、お綱のフッサリした黒髪が、投げるように、男の膝へかぶさった。  弦之丞は、はっと驚いた面持をして、その背中へ、手を迷わせた。  と急に、嵐のように。 「法月さん! ……」  こらえぬいていた涙の堰を切ってお綱は、強く身をふるわせた。 「か、かんにんして下さい……、私は、泣きたくなりました。泣かして……泣かして」  きょうまで、無理にいましめていた理性と羞恥を破って、片恋の涙は、いちどに、男の膝を熱く濡らして、今はもう止め途もない。  雨に叩かれた花かとばかり泣きくずれた女の体が、弦之丞には、どうにもならぬような重さだった。お綱は、泣けるだけ泣いた。心ゆくばかり、泣くよりほかにない恋である。  船はゆるい川波に揺れ振られている……。  男の胸に食い入って、しゃくりあげている姿は、やがて、寒気にでも襲われたように、ワナワナとふるえだした。乱れた着物の裾から、お綱の足の拇指がはみだして見える。──弦之丞は、ギュッとこわばってゆくその白い足の指を見つめたまま、黙思していた。 「どうしたのだ……お綱」  と、弦之丞は、衝たれた驚きから、やがてさめて、お綱の体を、起こしかけた。  涙に濡れた女の顔は、重たく粘く、やさしい力では、容易にひしとすがった男の膝を離るべくもない。 「泣いていたのでは、理由がわからぬ。わけを申せ、これ」  と、なだめるように訊かれる言葉が、何とはなしに、またかの女の新しい涙を誘った。  ひとつは、かかる夜舟の泊りに、ひしひしとさびしみの迫る、旅愁というような気持も、この夜、お綱のわれとわが恋を、極度に、いとしませたものかもしれない。  人一倍、苦労もし、世間の浪にももまれているお綱、男を男とも思わぬ筈であるお綱が、不思議と、弦之丞の前にある時は、いつも柔順で無垢な一処女であった。恋というものの力が、こうも、女性の性格まで左右するものかと、万吉は、よくひそかにそれを眺めていた。  けれど、お綱は、自分で自分という女が、あぶない女だということを知っている。ひとつ、駒の手綱が狂ったら、どう走ってゆくか分らない。打出ヶ浜で、この人に恋することがなかったら、今の苦悩がない代りに、もう抜くことのできない悪事の沼に辷りこんで、女掏摸の兇状持を、一生、肩に背負って、十手の先を逃げ歩いていたかもしれない、と思うことはいくたびであった。  しかし、お綱のこうなってきたすべての動機が、恋の力であったから、その炎は、消ゆべくもない力で、燃えている。弦之丞の側にいればいる程、それが熾烈となるのは、当然だった。  もう、お綱は、たえられなくなった。  片恋の炎を、思慕の人へも、燃え移さずには、たえられない。  今、弦之丞が、優しい言葉で聞いてくれたのを幸いに、鬱結していた血の塊りを吐くように、この一年、思いつめていた心のたけを、とぎれとぎれに、打ち明けた。 「さだめし、はしたない女、身の程を知らぬ女と、おさげすみなさいましょう。……ですけれど、あの法月さん、わたしは、どうしてもあなたを思いきることができませぬ。かなわぬ恋と知っていながら──なんという因果な女でござんしょう……」  やっと、膝を離れたが、またガックリとうつむいた襟脚が、夕顔のように、ほの白い。  二日月に隈どられた弦之丞の横顔は、鑿で彫ったように動かなかった。眉の毛も動かさないという態だった。なんという冷たい、無表情な顔だろう。  夕雲流の剣のごとく、また、今見る顔のごとく、この人の心もこんなに冷たいのかしら? ……と思ってみると、その動かない顔の鼻柱のわきを、ポロポロと流れてきた涙の条が、月明りに光ってみえた。 「もし、法月さん……」  自分に、与えられた涙を見ると、かの女は、もうそれだけで、限りないよろこびにふるえた。 「私が、女だてらに怖ろしい渡世をしていたことは、いつか、万吉さんからも話しました。また、私の口からも、幾度となく懺悔話をしてあります。けれど、もうお綱は、きれいに足を洗いました。そして、人並な女になりたいともがいているのでございます。……助けるとおもって、弦之丞様、どうか、お綱を、お綱を……」あとはいえずに、すがりついた。女が、男にすがる力は、ある場合に、命がけ以上である。 「──恥かしいのを抑えて、こうお願いするのでござんす。あなたはお武家、大番組の御子息様、私の前身は、あられもない女掏摸。それだけでも、きっと、お嫌なのは分っております。けれど、お綱は、あなたがなくては、生きておられぬ女なのでございます」 「──その心もちは──」  と、かすかにいって、弦之丞は、眼がしらの露を払った。 「お分りなされて下さいましたか」 「──分ってはいるが……ああ」  いかにも苦痛な一句。無表情にみえる姿、冷徹にみえる眸、その奥には、麻のごとく、かき乱れているものがある。でなければ、なんで弦之丞の睫毛にあの涙がういてこよう。  かれも、お綱の心情を、よく知っていたのではあるまいか。しかし、江戸表には、いちど誓った愛人のお千絵が残っている。弦之丞としては、そのお千絵をまだまったくの廃人とは思っていない。いや、狂気して、ふたたび癒えぬ人であればある程、それを昨日の人にして、お綱の恋を、今すぐにうけいれる気にはなれないであろう。 「では……」と、息の弾むのを隠して、お綱は弦之丞の側へヒタと寄りついた。もう、羞恥というようなものを超えた懸命である。 「──あなたを思い詰めている私の心、それは、わかっていると、おっしゃるのでございますか」  男の手を握りしめて、お綱の美わしい眸が燃え迫っていった。なんという純情な眼だろう、強い魅惑だろう、若い、ことに多感な、弦之丞の血をおののかさずにはいない力だ。  かれの手は、あやうく、何ものも忘れて、お綱のしなやかな体を抱こうとした。一瞬の煩悩が、くらくらとするばかり、黒い炎をあげてかれの情血をかき乱した。 「わかってはいます。──だが」 「だが? ……なんでござんす」お綱の手は汗に粘って、もがれても、離そうとはしなかった。弦之丞は悩ましい肉感に怖れた。彼の武士的な理性も、強い髪の香りと、弱い女の哀訴に、息づまりそうだった。 「──わかってはいるが、私はお嫌いなのでございましょう……弦之丞様、ほんとのことをいって下さい、どうか、ほんとのことを」  女は真剣である。必死である。男は恋を生活の一部とするが、女はそれが全生命であるという──恋を観る人の言葉のとおりに。  だが? ……といい濁した弦之丞の理性も、こう必死に迫ってきたお綱の前には、しどろになって、懊悩の息をついた。 「ほんとのことを! 弦之丞様」 「…………」 「ほんとのことを、聞かせて下さい。お嫌ならば、お嫌と」  もうお綱の目に涙はない。生死の境に立つような、森厳な覚悟をもって、こう問いつめる。五体には、ただ恋の血が高い脈を打っているばかりだ。  弦之丞は答えに窮した。こうまでの真心をささげてくる女性に、一時のがれの嘘をいうことは、気がすまない。いや、かれの心の奥を割ってみれば、かれの心も、決してお綱を忌ってはいないのだ。むしろ、弦之丞もいつかお綱を好もしくさえ思っている。  まして、いじらしい、熱感な涙を流されれば、かれの若い心も知らず知らずに、恋のるつぼに溶かされてくるのが当然だ。けれど、お綱に恋をし、お綱の恋をうけいれていいかどうか、その思判力を失わないだけが、弦之丞の無表情に見える内悶の苦しさであり、お綱には、歯がゆい悶えであった。 「思い違いをしてはならぬ。この弦之丞は、決してそちを忌うてはいない」  かれは、遂に、こういってしまった。 「おお!」ふるえついて──「それは、真実でございますか」 「真実、わしはそなたを、憎めない」 「う、うれしゅうございます……」  ザブリと、船と苫とが揺すぶれた。  真っ青な川面を、まぐれ波が一条白くよれてゆく。そして、後に風の音があった。 「しかし、お綱、わたしの言葉もきいてくれ」 「はい……」  お綱は、やさしく男の手にもたれた。  いつか弦之丞は、そのふところへ恋すまじき女を抱えていることには気づかず、つとめて、たぎる血をしずめようとした。 「──そなたの心を話されてから打け明けるは、つらい事情であるが、わしには遠い以前から、誓いをした仲の女性がある」 「あ……」お綱は不意に、胸へ氷をあてられたように、 「それをおっしゃって下さいますな……そ、その人の名を聞かされれば、私はすぐにも、あなたの側を去らなければなりませぬ」 「では、そなたそれを、知っているか」  お綱は返辞をせずに、激しい痙攣を起こして、またすすり泣きに泣いていた。  弦之丞とお千絵様との仲は、きょうまで、万吉もかれも、決してお綱に話してなかったことだが、怜悧なお綱は、墨屋敷以来の事情を綜合して、明らかに、心のうちで、それと察していたのである。 「弦之丞様、なんで、お綱がそれを知らないでおりましょう。思うお人に向っては、女は、怖ろしいほど細い心を配っております。けれど、義理の妹の恋を奪って、それで、私ひとりが倖せになろうなどとは夢にも思やしませんの。ただ、私の恋はある時期まで……。ある時期までの、その、間だけなんでございます……」  嗚咽しながら、常々心にわだかまっていた悩みを、いっぺんにぶちまけた。 「──時節というのも、ほんのわずか。あなたと一緒に阿波へまいって、首尾よく、目的を遂げるまで──。その道づれの間だけ、どうか、お綱のはかない恋を、あなたも妹もゆるして下さい……。そして、その日が来ましたら、私はすべてを忘れましょう。義理の妹に倖せをゆずって、自分ひとりの身をどうなとします……。仲にはさまった身にとれば、ずいぶん無理なと思うでしょうが、あなたが妹と約束のあるお方とは、夢にも、知、知らなかったお綱ですもの……」  思わずむせばす声が、愁々として腸を掻きむしるように、小舟の内からあたりの闇へ洩れて行った。  するとその時、声を探りながら雑草を払って、ばらばらと水ぎわへ降りてきた六、七人の黒い影。 「それッ、苫をはねろ!」というと、一人の侍、繋綱を取って舟を引寄せ、あとは各〻、嵐のように、狭い舳へ躍り込んだ。  さては、阿波の原士!  天堂一角か、お十夜か。  もちの木坂の手なみにもこりず、またもここへ来てうせたな──と、刹那に弦之丞は直覚して、胴の間の隅に身をかがめ、お綱の体をうしろへかばった。  理不尽にも、土足のまま、小舟の中へおどり込んできた者たちは、たちまち、苫をはねて、川の中へ蹴散らかし、 「お改めだ」 「神妙にしろ!」  飛び寄った一人、弦之丞の片手を取り、ズルズルと前へ引きずりだそうとすると、足をすくわれたか、その影が、猫回りに、舟縁を越えて、時ならぬ水音、ザアーッと、一面の飛沫に、川面を夕立のようにさせた。 「やっ!」  ひるみ立つ影がいっせいに端へよると、船は中心を失って、覆りそうに水を噛んだ。 「手ッ、手むかいいたすか!」  鋭い声を放った者の拳に、キラリと光ったのは、銀みがきの十手──「東奉行所」と印した提灯の明りと共に、ズイと迫って、弦之丞の眼を射た。 「オオ? ……」  唐突の驚きと、常に、それと心を措く思い違いで、ひとりふたりの者を投げたが、さては、阿波の侍ではなかったかと、弦之丞、少し居ずまいをなおしながら、 「これは、東奉行所の御人数でござったか」  というと、先はいっそう力味を入れて、 「きくまでもないこと。これが見えぬか!」 「しかし、それにしては腑に落ちぬ御作法、上役人ともある方々が、なんで、吾らの繋り舟へ、会釈もなく踏みこみ召された」  得て、お上の者という面へ、よい程な扱いをして見せると、ツケ上がりたがるものなので、ひとまずさかねじをくれてゆくと、 「こいつ、ひと筋縄ではゆかない奴だ」  と、舌打ちを鳴らした奉行同心、 「面倒くさい、現場は見届けたのだから、構わずにショッぴいてゆけ」  目配せをして、自分は先に、ヒラリと陸へ身を交わすと、残された配下の者が、いちどにかぶって、弦之丞とお綱の手をねじあげ──、 「とにかく立てッ!」と、ののしった。 「どこへ?」  腹立たしげに反問すると、 「知れたこッた、東奉行所までまいれというのだ」 「不思議なことを申される。なんで拙者が、東奉行所へ行かねばならぬか」 「四の五の申すな、立て立て」 「イヤ、立たぬ」 「なにッ」  険しい目が、いちどに爛として弦之丞の身に集まる。 「すなおにせぬと、貴様の不為になるばかりだぞ。現場を見られた以上は、言いのがれはなるまい。また、いうことがあるなら、奉行所へ来てほざけ」 「いよいよ心得ぬことを。現場とは何を指していうのか、とんとこのほうには思い寄りがない」 「エエ、太々しく白を切る浪人だ。女はあのように怖れ入っているのに、思い寄りがないとは、人をばかにした奴」  何をいっても耳をかさずに、両手を取って手先の者は、お綱と弦之丞をムリ無態に舟から揚げて、東奉行所へ引っ立てて行こうとする。  たかが七人や八人の手先、斬って払うになんの手間暇は欠かぬであろうが、阿波以外の奉行所から、つけ狙われる覚えのない彼であれば、こんないささかの間違いごとに、夕雲流をふりかざすのも無用な殺生であるし、また、はなはだおとなげない。ならばできうる限り、尋常に話しあって、どういう誤解か溶けあってみたい。  こうした場合に、非礼を咎めあったり、いたずらに反抗するのは、愚であると悟ったので、弦之丞は、かれらのなすがままに、土橋の袂まで曳かれてきたが、そこで、 「もう一応お伺いいたすが」  と、手先の中でも、物の分りそうな、同心を顧みて、静かにいった。 「なんじゃ」 「奉行所へまいれとあらば、決して拒みはいたさぬが、われら、夜盗にもあらず、また兇状持ちでもござらぬ。どういう理由でお引き立てなさるか、その儀だけを承知いたしたい」 「売女の狩立てじゃ」 「えっ、売女の?」 「みれば、貴公も武家ではないか。それくらいなことは、自分でも分っているであろう。身分を隠してくれとか、見遁してくれとか、神妙に詫びるならとにかく、手先の者を投げこんだり、吾々の改めに楯つく口ぶり」 「しばらく」あわててそれをさえぎりながら、 「これはいよいよ解せぬお言葉。売女とは、何の意味──イヤ誰をさして仰せられるか」 「いわずと知れている、その女じゃ」  と、したり顔の同心が、お綱の姿を指さしたので、弦之丞はあまり笑止な上役人の勘違いに、笑うまいとしても笑わずにはいられなかった。 「何がおかしい」  とまた、一同が尖り立つのを制して、じっとふたりの姿を見くらべていた同心が、ははア、これは間違いかな? とやや気がついたらしく、 「近頃、岡場所のお取締りがきびしいため、大阪の川筋に苫舟をうかべ、江戸の船饅頭やお千代舟などにならった密売女が、おびただしい殖え方をいたしおる。それゆえに手を分けて、毎夜、川すじの怪しい舟をあらためているのじゃが、只今、この土橋のほとりへまいったところ、下の小舟の苫のうちで、甘やかな、女の密め語が洩れる……」 「あ、なるほど」  苦笑しながらも、うなずかざるを得なかった。 「それで、一途に、舟売女と思われましたか」 「場所がらといい、舟のうち。そう思うのが当然でござる」 「いかにも、当然なお話である。しかし、それはまたお間違いでもあった。素姓は申しかねるが、吾々は江戸表の者、仔細あって大府の御秘命をうけ、某地へ志す途中、さる藩邸の目を避けるために、わざと苫舟に身を潜めております。決して、浮かれ遊びに夜を更かす者でないこと、また、この女が、さような闇の花でないことは、化粧のさま、髪の容、なお、つつまれぬものは人の品位というもの、それをよくよくごらんあれば、くどく申すまでもなく、おのずからお疑いはとけるでござろう」と、明白にいって聞かせると、さすがウトい役人の頭にも、大いにうなずけるところがあったらしいが、こういう時に、分りきっていながらも、すぐにウンということはすこぶる彼らの尊厳が忌み嫌うことであって、 「では、何ぞ、証拠をお持ちか」と、ケチな面目を頑執してくる。 「明らさまにこう申す態度こそ、何よりの証拠でござる」 「それだけでは困る……ウム、して、あの過書舟は、どこで手に入れてまいったな」 「連れの万吉という者が、京橋南詰の鯉屋と申す船宿から借りうけましたもの」 「では、そこへ一緒に行って貰いたい」 「拙者ひとりでよろしかろうな」 「いや、そのお女中も」  お女中といいなおすほどに、誤解であったことが分っているのに、事面倒な言い草と思ったが、奉行所へゆくよりは幾分かましである、と思いなおして、ふたりは、そこから京橋口まで、思いがけないムダな道を歩くことになった。  それも、計らぬ災難であったが、ここに、なお重大な異変に遭遇したのは、ふたりの舟をはずして、久しぶりに、自分の家を覗きに帰った天満の万吉。  待ちわびているであろうお吉の笑くぼが、かれの目先にもうれしくチラついて、墓谷から寺町横の道の暗さも苦にならなかったが、とうとう万吉、その夜、おのれに伏せられてあったわなの壺に、まんまと足をかけてしまった。  禍いはいつも幸福の仮面をかぶって待っている。 疾風  その後、安治川屋敷にとぐろを巻いていた天堂、お十夜、旅川の三名は、何らの急報を得てか、十数名の原士をひきつれ、押ッとり刀で桃谷へ駈け向った。  かねて、弦之丞の居所を知る唯一の手がかりとして、人をもって万吉の留守宅を見張らせておいたところ、その万吉が今宵こッそりと帰ってきて、中二階のかぼそき灯にお吉と声をひそませているという──早耳。  急げばとて安治川尻から、三郷東端れの桃谷村、やや一刻はかかったろう。横堀を越えて寺町の区域をぬけると、もう大阪らしい町家の賑わいは影を滅して、幾万坪ともない闇に、数えるほどな遠い灯り。  細い二日の月は足元の頼りともならず、所々の古沼や水溜りが、ただそれと知られるくらい。このあたりに多い瓦焼きの土採り場や植木屋の花畑など、どこという嫌いなく突っ切って、やがて、目ざす家の裏手から、灯かげの洩れる中二階の気配をうかがいすます。  裏の水口も表の戸も、固くとざしてあって、節穴から覗いてみても、万吉の穿物まで用意ぶかく隠してあった。けれど、耳を澄ませば、きわめてかすかな話し声が中二階でしていることはたしかである。 「いるな」 「いる」 「では……」  目と目が険しくうなずきあう。  シトシトとその人数、遠く離れてしまったきり、あとはあたりにその影を見せない。  ややしばらくたつと、中二階から行燈をさげて、お吉が階下へ降りてきた。  土間へ降りて、細目に戸を開けた。  そッと顔だけ出して、かれがあたりを見廻した時も、どこにも怪しい人影も気配もない。 「──じゃお前さん、またこれぎりで、当分は別れ別れでございますね」  土間へ穿物をそろえる時、お吉の胸に、ひしと、淋しさが迫った。 「ああよ」  万吉は、わざと、銭湯へでも行くように口軽く、 「しばらくは帰らねえ」 「ずいぶん、体だけは、達者にして下さいね」 「心配するなってことよ。それよりゃ、てめえの頭痛もちでも癒すがいい、灸でもすえてな」 「はい」 「じゃ、頼むぜ、留守を」 「あ……あなた」 「忘れ物か」 「…………」 「ばかッ」 「…………」 「泣くねい! 縁起でもねえ」 「わ、悪うございました。ツイ」 「笑ってくれ、頼むからよ。笑っておれを出してくんな。お──、弦之丞様が待っておいでなさるだろう」  戸を開けて出ると、ふりかえりもせずに、万吉は、また猫間川の岸へ急いで行った。  そして、ふたりが待っている筈の所へ来てみると、そこには、船も繋綱ってなければ、お綱と弦之丞の姿も一向見あたらない。 「どこへ行ってしまったんだろう。あれ程、ここを動かずに、待っていてくれといったのに」  土橋の上に立って、腕ぐみをした。  ふと、妙だな? と思って見たのは、葭の間に投げ散らされてある苫の莚──そして、その時初めて気がつくと、綱を解かれた捨小舟が、ゆるい猫間川の水に押されて、はるかの下へ流されてゆく。  だが万吉は、それが主なく漂って行くものとは思えないので、見つけるとすぐに口へ手を当てて、 「弦之丞様ア」  と呼んでみた。 「おうッ」  と、うしろで、返辞があった。あッと驚いてふりかえると、抜刀を持った天堂と旅川が、いきなり目前へ跳びかかってきた。 「野郎ッ」  と叫んで、天満の万吉、土橋の欄干を飛び離れたが、その一方には、眼を爛とかがやかして身を屈している者がある。  かれの姿が躍るやいな、待ちかまえていた柄の手は鞘を離れて、横に走ったそぼろ助広、ザッと、万吉の腰車を斬った。 「ううッ……」と一声。  人間断末の呻きをすごくあげて、爪先立った万吉の体は、キリキリと弦に締められてゆく弓のように空をつかんで後ろへそる──。  そして、したたかに腰へ食い入った助広の手元へ引かれて、ドーンと、土橋の上へ仰向けにぶッ仆れた。 「斬ッたな!」  と、面を衝いてくる血の香に身をかがめながら、こう賞めたのは周馬である。黒々とあなたに潜んでいた原士と一緒に、命脈の名残をピクリ、ピクリ、とふるわせている万吉の影をジッとみつめた。 「……ひと太刀だ……」とお十夜は、胸がすいたように、また、その快味の消逸を惜しむように、斬った刹那の構えをくずさず、白い刃の肌にギラつく脂と、のた打つ影とを等分に眺めながら、ニイ……と唇をゆがめて笑う。  と──もう天堂一角の方は、それには一顧のいとまも与えず、抜刀をあげて川下を指し、 「あれだ!」と叫んで走りだした。 「あの小舟を追え、あの小舟を! あれにはたしかに弦之丞が隠れている」 「ウウ、なるほど」  周馬もつりこまれて、橋上にあたふたした。  そこから見ると、今仆れる刹那の前に万吉が、弦之丞様ア──と呼んだ小舟の影、見るまに遠くうねうねと、流れに乗って下ってゆく。 「おお、弦之丞だ、弦之丞だ。お十夜、早くせい」 「あれが? よしッ」  とどめのかわりに周馬とお十夜がまたひと太刀ずつ万吉へ滅茶うちを浴びせた。どこをかすったか、周馬の刀はピクリとしたかれの満顔を紅にしてすてて行った。 「ばかッ。舟の者を追うのに、みんな片岸へばかり駈け出していってどうするんだ」  とお十夜は、一角の尻尾について、同じ川岸へ向った周馬をののしりながら、自分は、原士の四、五人を拉して反対の向う岸へ廻った。  で──一陣の黒風は、橋上からふたつに別れ、広からぬ猫間川を中にはさんで水の行方に添って疾走する。 「あれだ、あれへゆく船だぞ」 「逃がすなよ」 「見のがすな! 今夜こそは」  向う河岸とこっち河岸。  声をかけあわせながら韋駄天と宙を飛ぶ。  駈けるほどに、行くほどに、たちまち小舟に近づいた。けれど──見れば小舟に棹を取る者はなく、たたみあわせた胴の間の苫も、半ばむしり取られている狼藉さ。  だが最前、万吉が声をあげて呼んだのに早合点して、てっきりこの舟にいるものと思い込んできた面々は、それでもそれが、主なき空船とは受け取れなかった。近づけば近づく程、敵が舟底に身を伏せているものと、疑心はさらに暗鬼を生んで、汀へ寄るとも躍りこむ者はなく、出ろ、自滅しろ、姿を出せ、と両岸から、空声ばかりで影を追う。  血眼な数多の人間どもと、振りかざす白刃を揶揄して、すこぶる皮肉きわまるものは、人なく水に流れてゆくその空舟──。 「ええ、意気地なしめッ」  先に首尾よく万吉を斃したお十夜は、その気勢に乗って、舟が岸近く流れよった所を狙って、向う見ずに単身ポンと身を躍らした。  そして、茫然としたことは、いうまでもない。  心なきものに、からかわれたと知って、腹立ちまぎれに、そこらの物を、手当り次第に河底へほうりこみ、揚句にそれを渡し舟に利用して、両岸の人数が一ツ所へ集まったのは、この夜、なぶり斬りに逢った万吉の悲劇と対比して、お話にならない、一場の笑劇。  自然の冷蔑にどやされて、眼がさめてみると、今さらのように、ものものしい引ッさげ刀も、急に気恥かしくなったか、銘々、ひとまず光り物を鞘におさめて、猫間堤のかげへ寄った。  で──がっかりした拍子抜けが一致して、誰からともなく、夜露をおぼえる土手草の上へ、ごろごろと転がりだし、ムダに疲れた足を東西南北に向けあっていると──、 「もし……助けてやっておくんなさい」  あわれな声をだして、露ッぽい雑草の中からかまきりみたいに、ゴソゴソと匐いだしてくる男がある。 「なんだ、こいつは?」  と思う好奇心が、むくむくと一同の膝を起こして、草むらの間から匐ってくる男を見ていた。  すると、天堂一角が、いきなり、前に足を投げだしているひとりの原士をまたいで、その男の側へすすみ、穢いものでもつまむように、グイと襟がみを引き起こした。 「こりゃ」 「へい」 「貴様は、お国元にいる、森啓之助の仲間ではないか」 「あ。よくご存じで……」 「宅助だな」 「左様でございます、じゃ、あなた様も阿波の……」と、怖る怖る見あげたが、びっくりしたように手をふるわせて、 「やあ、天堂様でございましたか」 「どうした態だ。また悪いことでもしおって、啓之助の屋敷から追ン出されでもしたのか」 「情けないことをおっしゃいます。世の中に宅助ほど、御主人へ忠義な者はないつもりで……。ハイ、まったく私は御奉公のためにこうなりました。忠義というのもやり過ぎるのは善し悪しで──どうか、助けてやっておくんなさい」  いかにも、物乞いじみている調子に、向うで眺めている者も一角も、思わず苦笑いを洩らしたが、宅助は必死だった。 「嘘ではございません、天堂様」 「嘘とは思わんが、どういう事情じゃ」 「ひと口に申しますと、実はその、ただし、これは内緒でございますが」 「かまわん、啓之助のことなら、秘密を守ってやるから、話してみろ」 「昨年、殿様がお帰りの時に、啓之助様がソッと、ある女を、脇船の底へ隠して、お国表へ、持って帰りました。イエ、連れて帰りましたんで」 「ふん……そして?」 「ところが、そのお妾が、旦那の甘いのにツケ上がって、すッかりやんちゃになりやした。今考えると、半分はふてくされていやがったんで、なんでも、一度は大阪へ帰してくれ、とこういってききません」 「ははあ。すると、その女と申すのは、川長の娘ではないか」 「旦那も、ご承知でいらっしゃいますか」 「大阪詰でいた頃には、足繁く、啓之助が通ったものだ」 「それじゃスッカリ申し上げます。お察しの通り、女はそのお米なんで」 「で、大阪へやってきたのか」 「わっしはお妾の鬼目付で、一緒についてまいりました。ところが旦那、太え女もあるもんで、この人のいい宅助に鼠薬を舐めさせやがって、プイと、途中で姿を隠してしまいました」 「それは、無理もない話だ」 「ですが、それじゃ宅助が、旦那へ顔向けがなりません。それに、毒を呑ませやがったのも業腹なんで、実は、お恥かしい話ですが、小遣銭も空ッぽのため、この二日ほどは食わず飲まずで、お米のやつを、探し歩いておりました。──すると、悪い時にゃ悪いことが重なるもんで、今日はやっとこの近くで、四国屋の御寮人様に逢い、いくらか、当座のお小遣いにありついたと思うと、そこへ、ぶらりと来た奴が、……エエト……そうだ、法月弦之丞という、いつか大津の時雨堂に潜っていた虚無僧なんで」 「なに、弦之丞に逢った?」  おうむ返しにいって、向うの土手にゴロついていた者が、いっせいに起き上がって来たから、宅助は尻込みして、あとの言葉を忘れ、ただ目ばかりをしばたたいている。 「どこで逢った?」 「連れはいたか」 「どんな姿で──どう向ってまいった?」  八方から矢のような質問が降るので、これでは当人も答えられまいと、一同の言葉をとめて、お十夜と周馬だけが側へしゃがみながら、 「嘘や人違いではあるまいな」と駄目を押した。 「たしかに、弦之丞でございました」 「して、それから、いかがいたした」 「さあ、その後に、また大変なことがあるんでございますが……アアいけねえ、なにしろ旦那、腹が空きぬいているもんですから、胃袋がクウクウ泣いて、もう、これ以上は、お話ができません」 「意気地のないことをいうな……どうした、それから」 「駄目です、ああ、もう一口ものをいっても目が廻りそうだ」 「しようのない奴じゃ」と、一角も、ぜひなく引っつかんでいた襟がみを離して、周囲の者を見廻しながら、 「誰か、何ぞ、こいつにくれる、食い物をお持ちあわせはないか」  と訊ねると、原士の中のひとりが、 「短銃の火薬は用意してまいったが、あいにくと、食い物の用意はござらん」  と答えた。  みんなは笑ったが、宅助の胃袋は涙をながした。 芍薬の駕 源内の誰に縫わせし袷かな  その晩、真言坂の上の、俳諧師荷亭の宅では運座があった。  高津の宮の森が見える閑素な八畳間に、四、五人の客が、ささやかな集まりをして、めいめいが筆墨を前にし、しずかに句を作っていた。  みんな、口もきかずに、苦吟している。  障子紙を細く裁って、短冊に代えた紙きれへ、誰かが、こんな句を、いたずらに書く。いたずらにふと書いた句だが、ひとりで黙笑しているのも惜しく、黙って隣の者へ示すと、その人も、黙笑して、興がった。  見ると向うに、平賀源内がいる。細い顎へ片手をかって、自分が句に作られているのは知らずに、しきりに短冊を睨んでいた。  まだ独身で、九条村の百姓家に間借りをしている医書生で、夏は唐人扇子をパチつかせ、冬はぼろ隠しの十徳を着て、飄々乎としている源内が、仕立ておろしの初袷をつけて、いつになくこざっぱりしていたのは、季題はずれのように衆目をひいた。けれど、のちには、この一介の医生が、世間の好奇心をしきりにあおって、鴻の池や大名屋敷へ取り入って、花柳界へ源内櫛を流行らせてみせたり、物産会をやり舶載物の売りひろめを試みたりなどして、おそろしい金持になった。  そこで、「源内は俳句よりも金儲けのほうがうまい」と、のちには人がいったものだが、まだ、そうならない時代のかれは、運座へ来ても器用な句を作って、俳諧なんて、造作もないもんだ……というような顔をしていた。  で……さっきのいたずら詠の句屑が、どうかした拍子に、自分のほうへ飛んできたのに気がついて、ふと、その句を読むと、 「やあ、これはひどい」  と、磊落に笑った。  そして、上五だけを書きかけていた短冊を下へ置いて、 「この源内にだって、親切を運ぶ女が、ひとりや半分ぐらい、ないことはありません。今の句は、ちとひど過ぎる」  と、味噌せんべいを一枚とって番茶を注ぎながら食べはじめた。 「そうですとも」  柳絮という新地の芸妓屋の主が、相槌を打った。 「お医者さんですからな、役得というものがありましょうさ。若い美人が診て貰いに来たら、そこで、ほら、あとは源内流に、いわずもがなのことになるんで……」 「は、は、は。なおいけない」  と源内は、みんなと一緒に、しばらく諧謔を交わしていたが、今の言葉の端から、かれはフイとお米の姿を思い浮かべていた。  実は今夜──かれがこの運座へ誘われて、九条村を出てこようとすると、その途中で、久しく姿を見なかった、川長のお米に出逢った。  女中も連れずに、九条の渡船のほとりを、しょんぼりと歩いてきた。  ──先生、血を吐きました。  とお米は細い声でいった。そして、  ──わたし、どうしても、まだ死にたくはありません。それで、またお薬をいただきたいと思って訪ねてきたんですけれど……。  源内は、そこから戻っては、句会へ遅くなるし、急病ではないことと思って、明日なら宅におります、といって別れてしまった。  そのお米の姿を目に描いた。  非常に好い句想をとらえたように、かれは、にわかにまた筆と短冊を取りあげて、それへ、  癆咳の──  と五文字だけを書いてみたが、こう冠せてしまうと、どうも、陰惨な連想ばかりが湧いて、自分でも、俳味に遠い不快をおぼえたらしく、ベタベタと塗り消して、短冊を丸めてしまった。  そして、ただちに次の紙へ、  やがて死ぬ──  と書きなおして、下の句を考えていると、そこへ、筍飯にすまし汁をそえた、遅い夜食が運ばれてくる。癆咳の女の姿と、食慾をそそる筍飯の香りを、頭の中に錯綜させながら、源内はサラサラと後をつけた。 やがて死ぬ病美し衣がえ  これでいいと、ひとりで読みなおして、ひとりで悦に入っていた。  運座の帰りは遅いものときまっているが、その晩も例に洩れないで、源内や四、五人の俳友たちが、真言坂をだらだらと降りてきたのは、かなり夜更けであった。  源内と柳絮とは、荷亭の宅できって貰った芍薬の花をブラさげていた。  その中で、狂風という男は、蔵屋敷へ勤める遊蕩家で、これからまだ明るい街へ行って、たっぷりと夜を更かすつもりでいる。まじめなのは黙蛙堂、猫間川の近くに住んでいる彫刻師だが、遊蕩家の狂風が、今頃からあんなほうへ帰ると辻斬りに逢うぞ、おれと一緒に来たまえ──と誘惑するのをていねいに断って、家内がやかましゅうございますから、とお先にスタスタと失礼して行った。 「あんなのはないね」  と狂風は面白がった。  高津の宮の鳥居を出ると、坂下に、駕鉄という油障子が灯っている。もう自分だけ浮かれ機嫌になっている狂風が、 「三挺! 三挺!」  と叩き起こした。 「駕ですか。駕ですか」  と、わらじばきのまま、うたた寝をしていた駕かきが、土間の葭簀をめくって飛びだしてくると、 「舟はあるまい」  と、またからかった。 「どちらへ」 「三人別々だよ」  源内は貰ってきた芍薬のきり花を駕の屋根へ乗せて、 「わしは、九条村へやって貰う」  糸しんの蝋燭が、駕の棒鼻へブラさがると、三ツの提灯が黄色い明りを浮かして、一、二町ほどひとつ道を流れだしたが、そのうちに、四ツ辻から、三方へ別れ別れになって行く。  夜更けの駕ほど快いものはない。  雑音もなく埃も立たない大通りを、揺られながらウットリともたれて、ズンズン流れてゆく地の上を細目に見ていると、駕屋の足音も一種の諧調をもって気持よく聞こえる。 四ツ手駕月の都をさして駈け  柳樽にこんな句があったことを源内は思い出していた。 「旦那」  走りながら後棒がいった。 「なんだ?」 「時鳥が啼きやしたぜ」 「うむ……」  時鳥は九条村でも珍らしくないから、ツイそっけない返辞をしたが、武骨な駕屋が、せっかく教えてくれた風流心に対して、悪かったような気がする。  それから、ほととぎす、ほととぎす、と考えるともなく句を練っていると──やがてのこと。  後ろのほうから、何者かが声を張りあげて、 「おおーい、おウい、その駕──」  呼んでは駈け、呼んでは駈けてくる者がある。 「なんだい、後棒」 「いけねえ、変なやつが飛んできやがる」  どうせ、時鳥を教えたくらいな駕屋だから、善良で弱いのにはきまっている。少し、足なみが揃わなくなった。 「旦那、どうしましょう」 「ちょっと、駕を降ろしてごらん」 「だって」 「なに、聞き覚えのある声なのだから」  まごまごしている間に、後ろの者は、宙を飛ぶように駈けてきて、源内の姿を見るより、息をぜいぜいいわせながら、言葉は半分、手ばかり振って、こういった。 「先生……先生。は、早く、その駕のまんま、後へ帰って下さい、後──へ。急がないと、とてもだめです。なにしろ、めちゃめちゃにやられているんで、血が、血が……」  誰かと思うと、先に別れていった黙蛙堂。  どんな大変に遭遇したのか、わけも呑みこめないうちに、独り合点をして、またもと来たほうへ駈け戻った。  わけを糺している暇もない急き方なので、源内は、とにかく駕を回して、先へ急いでゆく黙蛙堂について行った。  高津の前を越えても、まだ走り続けるので、いったいどこまで行くのかと思っていると、龍珠院の外をすぎてやがて一面の草原。  野中の観音と、産湯清水の別れ道を東へとって来た様子だが、なおも止まろうとはしない。  この平地へ出てから、低く傾いた二日の月が、ほのかに照らしていることに気がついた。そして、駕の中から野末をすかしてみると、すぐそこに、一条の流れが、銀流のように見える。  源内は驚いたさまで、 「猫間川じゃないか、ここは?」  と訊ねたが、黙蛙堂は耳に入らないで、駕屋が、 「小橋と玉造村の間です」と答えた。 「おい、おい、黙蛙堂さん、いったいどこまで行くのだい?」と、源内が、たまらなくなってこう叫ぶと、黙蛙堂は、やっとその川べりの、土橋の袂に立ち止まって、 「こ、ここでいいんです」  と息をはずませた。  駕を降りてみると、源内すぐにその傍らに仆れている男の影が目についた。 「や、斬られている」  駕屋は、草鞋の底へ粘った血を、気味悪そうにすかしている。 「わしを呼び回しに来る前に、お前さんが血止めをしておいたかね」 「なんしろ、ここまで来ると、この人が仆れていたんで、どうしていいか分りませんでしたが、袖や帯を引っ裂いて、血の出る所だけはギリギリ縛っておきましたので」 「そうか。どれ」  と、源内は、もうよけいな事情などを聞いていなかった。両肌を脱いで帯のうしろへたくし上げ、抱きつくように寄って、血まみれな怪我人の傷を診にかかった。 「あ……オオ」  そのとたんに、胆を潰したような声を出したので、黙蛙堂もハッとしてどもりながら小腰をかがめ、 「ど、どうしました?」  と、覗きこむ。 「これは、わしの知っている者で、天満の万吉という男」 「えッ、ご存じの方ですって」 「先頃、木曾の旅先で、会ったばかりだが……どうしたということだ。ア……やっぱり阿波の」  思わず、ぶるッと、胴ぶるいが出そうになったが、口をつぐんで、懸命に手当てをはじめた。 「まだ、息が、ございますか」 「ない!」 「じゃあ、もう駄目なんで?」 「そうともいえない」 「水を掬ってきて、呑ませましょうか」 「とんでもないこッた」 「腰ですか、斬られているのは」 「一番の深傷はここだ。けれど、この深傷は大したことにはなるまい」  袂落しという懐中袋から、針を出して、返辞をしながらグングンと傷口を縫って行った。  長崎じこみの技だけあって、そのテキパキとした始末と早さには見ている者が感嘆させられる。源内はわき目もふらずに、次に、万吉の顔の血を押し拭った。  満顔朱に見えたところから推して、顔面のどこかを斬られているなと思えたが、そこには太刀傷がなくて肩先の返り血だった。  そこを縫いにかかると、源内が自信のある声で、 「こりゃ、助かる!」  といいきった。  黙蛙堂はホッとして、自分が宙を飛んで源内を呼び戻してきたことが、徒労でなかったのをよろこんだ。  黙蛙堂の家は、川向うの近くなので、すぐに、万吉はそこへ運ばれた。そして、源内の懸命な手当ても、夜ッぴて、離れることがなかった。  明方に近づいた頃、かれは、かすかに意識づいた万吉の容態を見ると、もう大丈夫と見きわめをつけて、夜来の疲れもいとわずに、ゆうべの駕で、九条村へ、薬を取りに帰って行った。  萎んだ芍薬を駕の屋根へのせて、こくり、こくり、と居眠りをしながら、朝の町を担われてきた源内は、野中の観音で、狐にでも化かされてきたかと、往来の者にふりかえられた。  起こされて、びっくりしてみると、いつか、九条村の家へ着いている。 「ホイ、ご苦労だった」  と、渋い目をこすりながら、柴折を開けて中へはいると、そこには、きのう途中で帰した川長のお米が、ひとりで、ぽつねんと待っていた。  待ちくたびれていたらしいが、源内の姿を見ると、お米は、愛嬌のいい顔をして、 「先生、お留守でしたが、どうせ朝のことですから、じきにお帰りであろうと思って」 「はあ」  と、源内は、だるそうに、座敷へ上がって、 「──待っておいでたのか」 「ええ、きのうもムダ足をいたしましたから」 「そうそう、昨日はとんだ失礼を」 「こんな早くから、どちらへおいででございました。先生も、なかなか隅へおけませんのね」 「朝帰りではございません、妙に気を廻されては困る」 「でも、ずいぶん眠そうな顔じゃございませんか。ホ、ホ、ホ、ホ」  おや、この娘は、いつのまにかたいそう男に馴れてきている。すっかり、羞恥というものが取れてしまって、あべこべに男のはにかみを眺めようとしている──と源内はちょっと驚いた。  すると、お米は笑ったあとで、 「まあ……」  と、大袈裟に目をみはりながら後ずさって、 「血がついておりますよ、先生」 「どこに?」  と手をあげると一緒に、かれも、 「やあ、これは」と、にわかに狼狽しながら、自分の袖や裾を撫で廻した。 「どうなすったのでございます」 「なアに。実はゆうべ、運座の帰りに手当てをしてやった男の血だよ、どうして斬られたのか、下手人も分らないが、万吉といって、少し知った男だから、捨ててもおけず、とうとう徹夜でさ、朝帰りという次第。もっとも、血は赤いから、色っぽくないことはないが、どうも、今朝ははなはだ眠い」  と、衣服を着かえて、手洗を使い始めた。  お米はその間に、ひとりで何か考えていたが、 「先生、その万吉というのは、もしやあの天満にいた、目明しじゃありませんか」 「よくご存じだね」 「あ、じゃ、やっぱりその人なんですか──その万吉さんが斬り殺されたんですか」 「なに、命はわしがうけあってきたよ。しかし、かすり傷じゃないから、ちょっとやそっとでは癒らない」  聞いているうちに、お米はソワソワとして、容態を話すことや、薬のことも忘れたように、せかせかして、 「そして、その弦之丞様は、今、どこにいるのでございましょう」 「エ? 弦之丞様って、そりゃ何だい」 「ア、イイエ……あの、万吉さんのことなので」と、ひとりで言い間違えて、ボッと顔を赧める態を見つめながら、源内は、 「いる所を?」 「はい。教えて下さいませ」 「知らない」  ばかにそッけなく首を振ってしまった。  そして、さらに怪訝そうに、なんだってこの娘が、こうソワソワとするのか、急に居所を知りたがるのか、と不思議にたえない気がした。  腑に落ちないうちは、話さぬほうが無事だと思ったので、後はよい程に話をボカしてしまったので、お米も取りつきようがない。  薬ができると、源内は木枕を取って横になり、お米は礼をいって外へ出た。  だが、かの女は萎えかけた自分の体を、その薬で癒やそうとする希望より強く、今の話が胸の底にいろいろな想像の渦を起こしていた。  万吉と弦之丞とが、一緒になって、この大阪へ来ているということは、お吉の口裏や、いつか、天堂一角が万吉の留守宅を探りに来た時の言葉でも分っている。だから、その万吉に逢いさえすれば、もう、弦之丞の居所を知ったも同じわけである。  こう考えながら、いつか、本田堤の辺までくると、とある居酒屋の軒下に、一挺の駕が置いてあった。  駕の屋根に、源内も忘れ、駕屋も忘れてしまった芍薬の花が、露もひからびて乗せてある。それを見るとお米は、さっきの見覚えを思いだして、 「あ、あの駕屋さんに聞けば、分るに違いない」  と、居酒屋の中を覗いてみた。 遠眼鏡  表鳥居の参詣道をまッすぐに上って、岩船山の丘、高津の宮の社頭に立ってみると、浪華の町の甍の上に朝の空気が澄みきって、島の内から安治川辺の帆柱の林の向うに、武庫の山影も、行くところまで見晴らされる。  石段へかかると、女は日傘を畳み、男は菅笠の紐を解いて、清々しい新緑を仰いだ。参詣をすまして戻ってゆく御寮人の手には、名産の花塩がたいがい提げられている。  そのゆるい足音が流れてゆく石畳の道を、目に立つ自来也鞘と、十夜頭巾と、異風な総髪が、大股に、肩で風を切って行った。  お供はひとり、仲間の宅助。  三人の後について、これもせかせかと石段を踏み上った。  なんのことはない、この四人だけは、真っ向に、神殿へ向って楯を突きに来たような歩き方だ。だが、上までのぼりきると、拝殿のほうには一瞥も与えないで、額の汗を押し拭っている。神の存在を認めないのではなく、この人々には、落ちついて、神さびた気韻に浴する余裕がないのだ──とすれ違った老人が、あきれたようにつぶやいた。 「今歩いて来た猫間川の方は、あれに見える流れだろうか」 「いや、もっと東のほうになるだろう」 「ずいぶん、歩いたな。御両所、腹は減らないか」 「うむ。だがこの辺には、何もあるまい」 「あります──」と宅助が口を入れた。 「田楽か」 「いいえ、湯どうふ屋というんで、高津の名物。たいがいなものはそこで休みます」 「葉桜頃になって、湯豆腐は少し感服しないな、何かほかに茶屋はないか」 「看板は湯どうふでも、木の芽料理、焼蛤、ちょっと飲めるようになっております」 「まあよいわ、朝からぜいたく好みでもあるまい。どこだそこは?」 「舞台のそばでございます」  宅助のあとについて、三人は境内の湯どうふ屋へ入って行った。まだ午前だが、掛座敷にも床几にも客がいっぱいだ。そこを縫って、奥の張出し、見晴らしの小座敷に席をとった。 「腸に沁みるようだ」  天堂一角は、朝酒の一杯に舌鼓をうって、飲みほしながら、 「しかし、ゆうべは、痛快であった」  と、それを、お十夜へさした。 「まだまだ、あんなことじゃ気がすまねえ」  孫兵衛はホロ苦く杯を舐めて、 「万吉をぶっ倒したぐらいで、いい気持になっちゃいられない。肝腎なやつは弦之丞とお綱だ。仕事はこれから骨が折れるよ」 「さあ、その弦之丞とお綱を見つけるのが、これからの問題だが……今思うと、昨夜、万吉の死骸を捨て帰ったのは、かえすがえすも吾々のぬかりだった」  と、周馬は、枝豆を口へ弾きこむ。 「なぜ?」 「あの死骸を囮にして、弦之丞を待ち伏せしていれば、必ず引ッかかってきたに違いない。その証拠には、今朝あの土橋へ行ってみれば、もう彼の死骸が片づけられていたではないか」 「下司の智慧は後からで、それならなぜ、人も乗っていない空舟をお手前、あわてて、追い駈けて行ったんだ」 「あれは一角が真っ先に調子づけたのだ。一角が悪いよ」 「あげ足をとるな。たまには犀眼にも見間違えがある」 「まあいい、またこんな所で、泥のなすりあいから仲間割れをしてくれるな。宅助の話によれば、なんでも、猫間堤で四国屋の内儀と弦之丞とお綱とが行き逢った時、非常に親しい様子だったというから、こんどは手をかえて、その四国屋のお久良とかいう者を詮議してみりゃ分るだろう」 「ウム、拙者もそう考えているが……その時に弦之丞が、宅助へ当身をくれたということが、どうもよく呑みこめない」 「それは、お久良と密談をする必要があったからであろう」 「しかし、お久良は阿波の者だし、四国屋もまた蜂須賀家の御用商人──どうして彼らと懇意なのか、それが不審だ」  そこでは三人が、弦之丞の所在をさぐる凝議がてら、しきりと銚子の数を殖やしているが、誰も、宅助の存在を認めて、一杯つかわそうとはいってくれない。  ゆうべ安治川屋敷へ連れてゆかれて、飢えは充分に救われたけれど、仲間の宅助にだって多少の人間味はある、飯に飽満してみれば、自然、その次には酒が呑みたい。 「一杯ぐれいは、おれにだって、廻してよこしたって、冥利は悪くねえだろう。四国屋のお内儀と弦之丞が話をしていたという種を、いったい、誰がおろしてやったと心得ているんだ。恩を知らねえ奴らじゃねえか」  と宅助は、あじけない顔をして座敷の隅に腰かけながら、心の底で不平を鳴らした。  宅助の仲間根性が、喉をグビグビさせて怨んでいるのに、三人は朝酒の酔いを顔に発して、さいつおさえつ話の興に入っている。 「じゃ、四国屋の店は、この大阪にもあるんだな」 「農人橋の東詰じゃ。そこにはたしか、住居もあったように思う」 「すると、お久良という内儀を訪ねようとするには、そこへまいれば会われるな」 「店の船が出るまでは、多分住居に泊っているだろう」 「ふ、そうか。じゃひとつ三人連れで、その四国屋へ出かけてみようじゃねえか。この雁首をそろえて行けば、たいがい泥を吐いてしまうだろう。それに向うは御用商人、こっちは蜂須賀家のお名前をかざして、あくまで脅しの詮議と出る。証人には宅助という者があるから、弦之丞とお綱の居所を、知らないとはいわせない」  そんな話を小耳にはさむにつけて、宅助は癪にさわった。酒一杯飲ませないで、人をダシに使うことばかり考えていやがる。そこへゆくと、俺の旦那の森啓之助様は、侍としちゃろくでもないほうだが、話は分る。こんな奴らのお先に使われているより、早く、お米を捕まえて、国元へ帰った方が、どんなにましだかしれやしねえ──と腹の中で啖呵をきった。  とうとう我慢ができなくなった。  賤しい手つきで、ふところから、かますの莨入れを出して、わざと煙管で粉をハタきながら、 「旦那、すみませんが」  と頭をかいた。 「なんだ、宅助」 「申しかねますが、こいつが空になっちまったんで……、汲んでのむほどの粉煙草もございません」 「煙草銭がほしいのか」 「へ、へい」 「しばらく我慢していろ」  と天堂一角はまた飲みはじめている。 「ちッ……」と、宅助は舌打ちをして、いよいよ心が楽しまない。そして、わざと突っかけている草履の緒を切って手にブラ下げた。 「旦那、旦那」 「うるさい奴じゃな」 「あいにくと、草履も切れてしまっていますから、それも一つ買っていただきませんと、もうお供ができません」 「いろいろなことを申しおる奴、休んでいる間に、緒をすげておいたらよいではないか」 「一角」と横から、さすがに少し聞きかねて、お十夜が、 「まあ幾らか遣るがいいじゃねえか」 「仲間という奴は使い方があるのじゃ、金をやりつけると癖になっていかん」 「人の仲間をこき使っておいて、そんな一酷をいったってしようがねえ。オイ宅助」 「ヘイ、ありがとう存じます」  銭の飛んでこないうちに、先に如才なく礼をいった。そして、お十夜が、投げてくれた南鐐を手に握ると蛙のようにピョコピョコして、草履を買うといって湯どうふ屋の外へ出た。  その剰銭で、どこかで冷酒の盗み飲みをした宅助は、やっと虫が納まって、ふらつくのを、無理に口を結んで帰ってきたが、周馬や一角や孫兵衛は、まだ湯どうふ屋の見晴らしに、悠々と落ちつきこんでいる様子なので、そのまま、境内の近くをぶらぶら歩いていた。 「おれなんざ、あそこにとぐろを巻いている三人侍にくらべりゃ、まったく、可愛らしい人間だぜ……」  ぽっと、どす赤くなってくる顔を撫でながら、宅助、自分で自分をいたわった。そして、 「いい日和だなア……」  とにわかに、あたりの参詣人の空気につつまれて、鳥居のわきの舞台にもたれかかると、すぐその側で、若い娘だの老人だの子供だのが、しきりに、顔を集めて興がっている。 「あら、道頓堀の伯母さんの家が見える」 「どれ、こっちへ、貸してごらんよ」 「もう少し……」 「そんなにいつまで、独りで見ているって法はないよ。さ、お貸し、お貸し」 「いやだ、この人は。今、野中の観音様を探していたのに」 「ほんとだ……まあずいぶん遠くまでよく見えること。梅ヶ辻のほうだの……それから桃谷の大師巡りの人が、ぞろぞろと歩いてゆく」 「どれ、母ちゃん」 「どれ、どれ。わたしによ」  子供につれて大人までが、大変な騒ぎ。何かしらと思って、宅助がトロリと眼をすえて見ると、舞台の手欄にすえつけてある、遠眼鏡という機械。  その遠眼鏡を中心に、参詣の男女が、一家族のように楽しんでいるのを見ると、宅助は、平和な家庭の垣を隙見した継子と同じさみしみを感じて、自分も、仲間入りをしたくなった。  口癖のように──大阪が恋しい、大阪が恋しい、と嘆いていたお米を嘲笑って、 「おれなんざ、故郷も生れた家も、思いだしたことさえねえがなア」  といったことのある宅助だが、こののどかな社頭で、娘を連れた母、孫を伴う老人、幼い者をよろこばしている年上の者などを見ると、やはり、家をもつ人、愛の持ちあえる人たちは、いいなあ、倖せだなあ、と涎が出るほど羨ましくなる。 「みなさん、お揃いでご参詣ですかい。へ、へ、へ、へ、……。いいお天気だ、こんな日は遊べるね」  吾を忘れて、その側へ、いつか宅助はヒョロリと寄って行って── 「なにしろ、べらぼうにお日和がようがす。浪華の町の繁昌や千船百船の港口も、ここからはまるみえだ。ネ、そちらのお嬢ッちゃん」  と、蟇蛙が立ったような中腰でフーッと酒臭い息を吹っかけたもので、遠眼鏡に興じていた人たちの眼が、ちょっとそのほうへひかれたが、誰も相手にはしなかった。  でも宅助は、すっかり仲間になった気で、 「──アア、無理だ無理だ、そのお嬢ッちゃん、遠眼鏡のほうが背丈が高いや。オイ、そこにいるお若いの、お前、抱ッこして見せてやんねえ、な、なによけいなお世話だって? その後におれが見る番だからよ──。ほーれ、嬢ッちゃん、見えただろう。一里が一丁に見えるおらんだ渡りの遠眼鏡というのは、これだ。何が見えた? ……千日前の原ッぱで、比丘尼が踊りを踊ってるだろう? 嘘だ。じゃ、道頓堀の川ッぷちで、蔭間が犬に食いつかれてるだろう。そんなものは見えねえッて。じゃおじさんが見てやろう、貸してごらんよ。ちょッとだ、ちょッと貸しねえ、オヤ、強情な子だなあ……貸せったら貸さねえか」  あたりの者は眼をしばたたいて、変な酔ッぱらいが舞い込んできたわいと眺めている。  で、だんだんと、眼鏡のそばを、人が離れてしまったのをよいことにして、宅助は及び腰で、 「さてな、どこを最初に、見物しようか」  と、小手をかざして、肉眼で見当をつける。  その形がふるッているので、女たちの笑い声がすると、ほろ酔い機嫌の宅助は、おのれのお茶羅化が喝采を得たものと合点して、もっといい気になりながら、 「ウーム、見えるぞ」  と大げさに遠眼鏡へ目を当てた。 「こいつアすてきだ、淡路島が足もとへ来ていやがる、孫悟空様がきんと雲に乗って行っても、こう早くは淡路へ着くめえ。どれ、だんだん東へ歩こうか……見える見える天王寺が。五重の塔のすてッぺんに、鴉があくびをしていやがる、その手前はどこだろう、なんにもねえや、真っ青だ、田圃と桃の木と原ッぱだ。田圃はいっこうおもしろくねえな、何かねえか、見るものは……オヤ駕が通ったよ、麦畑を。いやに近えと思ったら、すぐこの下の梅ヶ辻か、道理で道理で、よく見える筈だ」  と、自分の道化に浮かれて、いよいよ調子づいてきた宅助、ひとりでしゃべりまくしながら、あなたこなた、見ているうちに、どうしたのか、 「あれ!」と、急に眼鏡から顔を離した。  そして、トロンとたるんでいた酔顔の筋までが、にわかに引きしまってきたかと思うと貪るように覗きなおして、こんどは独り言もいわず、笑わせもしない。怖ろしい真剣味が、片目の皺にまで現れてきた。  と──うなるようなつぶやきが洩れて、 「ちッ、畜生……」  と、地だんだを踏んだものである。 「たしかにあいつだ! 違えねい! 阿女め、あんな所を、いけしゃアしゃアと通っていやがる。見ていろよ。今、この宅助が、首ッ根っこを捕まえてくれるから」  裾をはしょって、真鍮こじりの木刀をうしろへ廻した。見ている者には何がなにやらいっこうに分らない。ただ赤かった宅助の顔が青くなって、道化役者が撲られたようにしか見えなかった。 「たわけめ! 何をしているのじゃ」  そこへ、くわえ楊枝の周馬とお十夜について、天堂一角が、姿を探し当ててくるなり、はなはだまずい面構えを見せた。  そこに、相手もいないのに、宅助の血相が妙なので、三人も腑に落ちないながら、 「なんだ、そのざまは。喧嘩でもしようというのか」  宅助は、それどころか、という息まきようで、 「思いがけねえ獲物です。ぐずぐずしちゃおられませんから、わっしゃ、ここでお暇をちょうだいいたします」 「これ、待て待て」  一角は怖い眉をよせて、 「そちにはまだ用事がある。勝手に吾々の側を離れては相ならん」 「相ならんとおっしゃったって、宅助の目の前には、今、一大事が降って湧いているんで──ヘイ、今を遁しちゃ大変です」 「でも、このほうに用事がある。四国屋へそちを証人として連れてゆくまで、けっして暇はつかわさんぞ」 「困りますね、天堂様、宅助には森啓之助様が御主人なんで、あなた様にゃ御奉公いたしておりませんから」 「だまれ。何でもよい」 「やりきれねえなあ。どうか、わっしの立場も、少し察してやっておくんなさい。今、この遠眼鏡からえらい手がかりを得たばかりなんで……まごついていると、取返しがつきあしません」 「遠眼鏡から、何を見たと?」 「わっしに毒をくらわせて、天満河岸からドロンをきめたお米のやつが、日傘をさして、すぐ向うの梅ヶ辻を」 「そんな女はどうでもいい。捨てておけ、捨てておけ。貴様もまたばか正直に、啓之助を嫌って逃げた囲い女を、なんでそう一心に捕まえたがっているのじゃ。吾々が眼色を変えているのとは違って、蜂須賀家になんらのかかわりもない雌鳥などを、血眼で、追い廻しているたわけ者があるものか、行ってはならん!」  こうどなられると宅助もムッとした。お米には毒を呑まされた意趣もあるし、阿波へ連れて帰れば、たんまり啓之助から報酬をねじ取る寸法もあってすることだ、野暮で分らずやのてめえたちが、何を知ったことか、と業腹を立てて、面をふくらませた。 「おい、天堂、そいつは少し因業すぎるだろう。宅助の事情も聞いてみればもっともなところがある」とお十夜が仲をとって、 「おれが引きうけてやるから、行ってこい。その代りに、お米を捕まえたら、安治川屋敷へ帰ってこなくちゃいけねえぞ」 「ありがとうございます。──じゃ」 「おっと、待ちねえ」 「早くしませんと、また姿を見失います」 「どこにいるんだ、そのお米ってえ女は」 「ちょっと、眼鏡へ目を当ててごらんなさい。梅ヶ辻から野中の観音のほうへうねっている一筋道を、桃色の日傘でゆく痩せ形の女がありまさ。娘のような派手な衣裳で、鹿の子の帯揚、帯の色、たしかに、そいつがお米なんで」  宅助の説明を聞きながらお十夜がそれを覗きこんでうなずくと、一角もつり込まれて後から入れ代りに顔をよせた。すると、すえつけの角度を動かしたとみえて、お米の姿は映らずに、坂下の鳥居筋を、ドンドン駈けてゆく男が見える。  おや……と思って見ていると、それが、今そこでしゃべっていた宅助なので、 「きゃつめ……もう行ってしまいおった」  と、いまいましそうに、顔を離した。 「おそらく、宅助はもうあのまま帰るまい──」  そういったのは、旅川周馬。 「なぜ?」と一角が突ッかかるのを冷笑して、 「あまり貴公の人使いが荒すぎるもの」 「帰らなくては、四国屋をただす時に都合が悪い。ええ、押ッ放してやるのではなかったのに」 「では、追いかけて、貴公も一緒に、お米とやらいう女を、捕まえてやるがよかろう。さすれば義理にも宅助が帰って来る」 「ばかなことを言いたまえッ、女情におぼれている啓之助の妾などを、誰が仲間と一緒になって、この昼日中、両刀を差すものが追い廻していられるものか」 「あははははは。面白い、また一角が怒った」  とお十夜は哄笑して、なお気にして遠眼鏡を覗いていたが、 「ふーむ、なかなかいい女だ。一角がそういうなら、おれが様子を見に行ってやるから、しばらく、向うの絵馬堂で待っていねえ」  と、雪踏をすって、石段を下りはじめた。  辻堂があった。  白藤の花がこぼれている。  野中の観音へゆく道のほとり。このあたりに多いのは、池と藪と桃畑、でなければ墓場である。  だが、夏もやがて近い真昼中、朗明であって陰湿がない。どこかで石屋の鑿の音がする、かッたるそうに刻んでいた。  お米はそこで日傘をつぼめた。ちょっと、辻堂を拝借する。辻堂というものは、いかめしい宮の拝殿などより、何かしら親しみ深いものがある。ことに、そのいぶせき縁の端は、疲れた足にすがられ、家なき子に夜をしのがせ、行旅病者の寝床とまでなる。  悪いやつは悪用して、神まします眼の前で、盆莚をしいたり、女をかどわかしてきたり、果ては、絵馬や、御神体まで担ぎだしてしまうけれど、辻堂は依然として存立し、草ぶき屋根の朽ちるまで、道の辺の神としての功力を少しも失わない。  そこで、 「ああ、くたびれた」  と、お米は、軽く膝を叩いた。  もう猫間川はすぐそこだ。その川向うの小橋在に、万吉がいるということを、かの女は、とうとうつきとめてきたらしい。万吉は深く自分の境遇や心もちを知らないから、お吉のように、弦之丞の居所を知っていて隠すようなことはしまいと考えている。 「わたしも、こんどはずいぶん苦労をした……。それで、あの方に会えないくらいなら、死ぬのは嫌だ、自暴になって──アアきっと自暴になって、どんな妖婦にでもなるだろうよ。酒、男、したいほうだいな世を送って、血を吐いて、死ぬだろうよ」  白い花がハラハラと落ちてくる。桜のように、こびりつかない藤の花。 「嘘ばかりついている──まだしおらしい娘か、善人ぶっているからおかしい」とお米は、自分で自分を嘲ってみた。 「もう、わたしという女は、りっぱな妖婦になっているのじゃないか。啓之助をアアして、お吉さんをアアして、宅助をアアして、家へも帰らずに、男を探し廻っている女だもの」  小菊紙を出して、口をふいた。  軽い咳といっしょに、紅梅みたいなものがついた。見たくないものを、見るのが癖になっている。 「もう……どうなとおなり」  昼の月へ向いて、笑った顔が、自分ながらあさましかった。  そうして、うしろへ手をついていると、辻堂の横に、野鼠でもいるような音がするので、ヒョイと、居形のまま顔を向けてみると、そこに、紐の宅助が、皮肉な面がまえをして、お米の気がつくまで睨んでいた。 「あらッ──」  と、さすがにぎょッとしたけれど、もう逃げだしても間に合う筈はない。  度胸をきめて、お米はジッと黙っていた。  ふところに、拳をこしらえながら、宅助も睨んだ眼を向けたまま、黙って、女の姿態を見つめていた。  しかし、言葉は借りなくとも、その間のふたりの心は、剃刀のように研げて争っている。宅助の眉間には、殺してもあきたらないほどな遺恨が燃えているし、お米のくちびるには、殺されるだろう、と胸にこたえているおののきがある。 「おい……」  と、だんだん寄ってきた。 「…………」  殺してみやがれ! わたしだって。  お米はこう覚悟をして、その瞳をそらさなかった。  弥蔵をこしらえていた手をつン出して、紐の宅助は、ニヤリと面相を変えながら、 「エ。お米の御方──」  と、ポンと背中をひとつ叩いた。 「なぜ逃げねえのよ、逃げたらいいじゃあねえか!」  食い物と侍にかかると、カラ意気地のない宅助だが、お米の前に立つとズッと冴えてくるのは奇妙だ。相手の上手にのしかかってゆく図太さや、悪党らしい余裕さえついてくる。  女と思って、先に呑んでかかるせいもあろうが、ひとつはこの宅助、啓之助がお米を知ると一緒に手がけているので、充分、コツというものを心得ている。 「エ、おい」  と、背中を叩いたのが、そのコツらしい。遺恨は遺恨だが、殺してしまえば玉なしだ。女に逃げられた女衒が、たえず女を殺していた日には商売にならない、という道理から宅助らしい我慢なのだ。 「どうしましたえ、お米さん。たいそうすましているじゃねえか。ちょっと、久しぶりだから、きまりが悪くなったとおっしゃいますか。そうよ、天満の河岸きりでお別れでござんしたね。ハイ、そのせつは、どうもいろいろお世話様で……」  言葉の刃は、相手を片輪にさせないから、ここで存分にえぐるつもり。  たたんだ日傘を膝へのせて、お米は辻堂に腰かけたまま、いうことならいわしてやろうという顔つき。明るい昼を乙鳥が横ぎっても、睫毛一本動かさなかった。 「ふーん……さすが口のうめえお米さんも、今日ばかりはグウの音も出ないとみえる。そうだろうよ、森啓之助様をだまくらかして、お付人を迷子にさせて、影のような男の後を探し廻っているんだからな」 「…………」 「あ、もひとつ、お礼を忘れていた。よくもこの宅助に、鼠薬を食らわせたな! なアに、ああいう酒の味も、めッたにご馳走になれねえものだから、あだやおろそかにゃ思いませんよ。だから、このご恩は一生の間に、チビリ、チビリと、阿波へ帰った上でするぜ」 「知らないよ」  ツイと立とうとすると、 「おっと」  肩をつかんで、 「どこへ行こうッてんだ!」 「わたしの勝手だよッ」  さっきから、ひそかに固く握りしめていた日傘で、宅助の横顔を激しく打った。 「エエ、この女め! よい程に、あしらっておけばつけ上がって、ふざけた真似をしやがると、俵括りにして船底へほうりこんでも、阿波へ突ッ返すからそう思え」  ムズと髪の根をつかみにかかるのを、日傘で払うと、その日傘を引ったくられて、力まかせに打ちのめされた。  牡丹崩れにうッ伏したお米の手には、いつか匕首らしい光りもの。 「よくも──、ちイッ……」と死にものぐるい、迂濶にのしかかった宅助の毛脛へ、芒の葉で切ったほどな痕をつけた。  一方。  高津の上の舞台では、 「や……やや……」と旅川周馬が、しきりに遠眼鏡から宅助の居所をのぞいて、 「ウーム、これは面白い。宅助のやつ、あはははは、なんだあのざまは、女ひとりを持てあまして」  ひとりで興に入っている。 「お十夜はどうした?」  つまらぬ暇つぶしにしびれをきらして、天堂一角は苦虫を噛んでいたが、つい周馬の独り言に誘われて、側からこうたずねだした。 「お十夜? ……どうしたのか、かれの姿は見当らない。どうせ、例の癖で、ふところ手のぶらぶら歩きで行ったのだろう。ア、ア、ア……そのうちには、どっちかかたがついてしまいそうだ。女も死にものぐるいになると、あなどれぬ力がある。お千絵様でもそうだった。ましてや宅助、ヘタをやると始末に困るぞ」 「どれ、貸したまえ」 「見たまえ、あれだ」 「ウ、なるほど、お米に違いない、しかし、川長にいた頃は、あんなすごい女ではなかったが」  と覗けば一角もつい気を奪られて、なかなか周馬にゆずる気色もなかったが、そのうちに、 「やッ、彼奴だ!」  と、ただならぬ声をあげ、眼鏡を離れて舞台から伸びあがった。  だが、遠眼鏡で見たものが、肉眼でたしかめられるはずはなく、ふたたび覗いてみると、今、体で位置を狂わしたので、腹立たしいほど、見当ちがいな遠景が映った。 「ああ、いけない、どっちであったかの」 「なんだ、なにを見たんだ」 「イヤ、まだしかと分らなかったのだ。それで覗いてみると、もう以前の所が見えない」 「見えないはずだ、貴公、そんなほうへ向けておるのだもの。貸したまえ、こっちへ」 「早くせぬと、あるいは一大事になるかもしれぬ」 「なんだ、宅助か」 「いや」 「お米か」 「いや。まあ、そっちを早くなおしてくれ」 「そう、側で急いては困るな」  周馬が代って、覗き覗き、前の所へ向け戻そうとしたが、今の一大事といったのが胸を騒がせて、容易に角度が定まらない。 女男女  法月弦之丞の胸もとへ、誰か、いきなりぶつかってくるなり、うしろへ身をちぢこめて、 「──お侍さまッ」  と、かれの体を楯にしながら、すがりついた者がある。  ふいに、帯へ重みをかけられたので、 「あ」  思わず、足をとめて、うしろの者の手くびを握った。  やわらかい、きゃしゃな女の手であった。そして、絹か髪の毛か、ひんやりとしたおののきが腕に触る……。  かれはつばの広い編笠をかぶっていた。一方の手をそれへかけて、自分の背なかへ隠れた女の姿を見ようとしたが、同時に、 「この武士め」  と、何者かの骨ばった拳が、襟をつかんでねじあげてくるなり、 「野郎ッ、な、なんで、その女をかばいだてしやがる」  と、目をいからせている。  弦之丞は呆然とした。  何がなんなのか、わけがわからぬ。  ことにかれは、きょう船宿の鯉屋の二階へ、お綱をのこしておいて、ただ一人、猫間川の岸からこのあたりへ、ゆうべの船と、あのまま帰らなかった万吉の姿をたずねてきたところなので、歩みつつもおのずから、心のうつつなところがあった。  今、なんの気もなく、向うの百姓家で道をきき、森に添ってこの辻堂のわきに出てくると、その途端に、これなのである。  まったく、思いがけない言いがかりだ。 「こやつ、少し血迷っているな」  と思いながら、グイと、対手の押してくるのをこらえきると、男は、馬のような前歯をかみしめて、 「ウ、邪魔をしやがると、承知しねえぞ。さ、女を前へ出せ、女を!」  力み立って、ねじこんでくる。  弦之丞は、迷惑きわまる様子をして、勝手に、襟元をつかませていたが、笠の目堰から、つらつらその男の顔を見ると、これはまたまんざら縁のない者でもない。  いつぞや、猫間堤で、その時の都合から、当て身をくれて捨てて行った、森啓之助の仲間だ。 「ウーム、そちは宅助」  こういわれると、ぎょっとして、 「な、なんだと」と、ふりあおいで── 「あっ、てめえはッ?」  と、泳ぎだしたが、すかさず伸びた弦之丞の右手が、ムズと襟がみをつかんで、 「待て」  ズルズルと引き戻した。  そのもがいてよろめく足もとから白い土埃が舞うのを浴びて、宅助はうなるように、 「ちぇッ、しまった」  と、舌打ちをしながら、すばやく、三尺帯を引っぱずして、対手に着物をつかませたまま、スルリと脱ぎ抜けて、 「うぬ、見ていやがれ!」  グイと睨んで、捨て科白をいったまま、後も見ずに一目散。  倶利迦羅紋々の素ッぱだかが、真昼の太陽に、蛇の皮のように光って、小気味よくも、タッタと向うへ逃げだしてゆく。  すると。  高津筋の辻から、お十夜孫兵衛、チラリ、チラリと雪踏を鳴らして曲ってきた。  周馬と一角をのこして、宅助の様子を見届けに来たのだが、まさか、入墨のすっぱだかで飛んでくる男が、今、眼鏡の中に見えた宅助だとは思わない。  倶利迦羅紋々のいさぎよい逃げぶりを見送って、弦之丞は苦笑いしていた。  その編笠を、しずかにふりかえらせて、 「お女中、どこも、怪我はなかったかの?」  と、後ろを見ると、四、五人の蚊帳売りが荷を担って、目の前をさえぎったので、少し離れて、その通りぬけるのを待っている。  お米は少し後ろへ戻って、その行商人たちの足にふまれて行った、自分のはきものや日傘をさがして、前の辻堂の縁のそばへ、後ろ向きにしゃがんでいた。そして、髪や襟元をつくろいなおしている様子なので、弦之丞は、あえて意にとめるところなく、そのまま森の片日蔭を辿って、ピタピタと先へ歩みはじめた。  かれはもう今のことなどは忘れて、 「万吉はどうしたのか? どうして姿が見えなくなったか?」  と、ただ、そればかりを思っている。  まさか、かれにかぎって、大志を曲げて変心するようなことはあるまい。  人は労苦をともにして、はじめて本心のよく分るもの、まだ彼と知ることの日は浅いが、義にも情にも、そんな軽浮でないことはよく分っている。  ゆうべ、猫間川の土橋から、舟を出てゆく時にも、帰るまで、ここを動かないでいてくれ、とさえ念を押して行ったのに──。  と思うと、なんとなく胸さわがしい。  ふとして、そこらに、生々しい流血の痕はないか。なんぞ、万吉の持ち物でも落ちておりはしまいか。  森の日蔭のとぎれた所から、清冽な流れと小松の土手が、猫間川のほうへうねっている。この小松原は、さっき一度通ったような気もするが、念のために、かれはなお水辺の草むらを覗きながら、水の行くままにあるいてみた。 「もし」  お米は、そこで初めて、呼びかけた。かの女は、辻堂の前からここまでの間、黙って、後についてきた。宅助と争った息の疲れが、容易にしずまらないのと、また、一念に居所をさがしていた人の現れが、あまりに唐突で、あまりに路傍の人のごとくであったのと。  そして、その人に、今の取乱した姿のまま会うことが、やはり女らしく迷われたのであった。  けれど、この折を逃がしてはならない、と思う心のほうが、より強かったのはいうまでもない。 「もし」  少し、小刻みに追いついた。 「おお、今のお女中か……」 「ありがとうぞんじました。もう少しで私は、どんな目に遭わされるか分らないところでござりました」 「まいりあわせてよかったの」 「はい、なんとお礼を申しあげてよいか、もう、こんなうれしいことは」 「無用じゃ。礼などと改まるには及ばぬこと、それよりはまた、やがて黄昏にならぬうちに、早く家へ帰られい」 「法月さま」 「や?」 「お見忘れでございますか」 「どうして、そなた、拙者の名を知っておるか」 「弦之丞様、わたしの名を、思いだして下さいませ」 「ウーム……」と、その時、はじめて彼はしげしげとおもはゆそうに、うつむけている女の顔の線を見入ったが、ハタと膝を打って、 「お、川長のお米であったな。久しく見ぬせいか、見違えるほどな変りよう、うかと、思わぬ失礼をいたした」 「あなた様も、その頃の、宗長流の一節切を吹く虚無僧とは、すっかりお姿がお違い遊ばして……」 「ウム。ちと仔細がありましての──がしかし、そなたの家や叔父の半斎殿には、あの節、唐草銀五郎や多市などが、ひとかたならぬ世話になった。その無沙汰も心苦しく思うておるが、時雨堂の騒ぎの後、半斎殿にもさだめし迷惑がかかったことであろう。あの人は、その後もつつがなくお暮らしであるか。また立慶河岸のお家もご無事でいられるか?」 「はい、おかげ様で、大津の叔父も、大阪の家も、みんな変りなくやっておりますが、ただ、変り果てておりますのは、この私だけでござります」  と、お米は、袖についている草の実を、指の先につまんで捨てた。  変りました──とみずからさびしくいう女の前で、かれは、いつか自分が安治川屋敷へ忍びこんだ際に、お船蔵の闇で救いを叫んだひと声の悲鳴を、今ふと、耳の底に呼び起こしていた。 「その後そなたは、阿波へまいっていたそうだが、して、いつこの大阪へ戻ってこられたか」 「森啓之助という蜂須賀家の御家中に、無理に、かどわかされて行ったのでございますから、戻ってきたというよりは、逃げてきたも同様なのでございます」 「ほう、それであの仲間が、無態にそちを捕えようと致していたのか」 「私はもう阿波へ帰るのは嫌なのでございますけれど、執念ぶかい宅助が、あの通りつけ廻しているので、川長の家へもウッカリ帰れませぬし、もうどうしていいか、路頭に迷っているところなのでございます」  と、顔に血をのぼせながら、そむいたまま、ソッと側へ寄りついて、 「で私は、ほんとに只今困っております。弦之丞様、どこかへ当分の間、私の身を匿っておいては下さいませぬか」 「というても……」と、かれはいたく迷惑そうに、「この弦之丞自身すらが、流々に任す無住の浪人、定まる家もない境遇であれば、そなたをどこへ匿うてあげる術もない」 「家がなければ、あなたの袖の蔭へでも、また定まらぬ旅とおっしゃるなら、浮草のように、その旅先へでもよろしゅうございますから」  ふと、歩むともなく歩みだす人を追って、お米は懸命にいいすがった。 「どうか、連れて行って下さいませ。まだ阿波へ行かぬ頃から、私がどんなにあなたをお探し申していたかは、それはいつか九条村で、あの医者の源内様の帰り途に、使いに持たせてやった手紙の中へも書いた通りでございます」  と、あの時、弦之丞を待ちぼうけていた九条の渡舟場から、啓之助と宅助に捕まって、脇船の底になげこまれた時のこと。また徳島の町端れに暮らしていた月日の間にも、たえず忘れ得ぬ悩みをもっていたことや、剣山の麓まで行って、啓之助をたぶらかして、とうとうこの大阪へ逃げ戻ってきたことなどを、それとなく話しながら、燃ゆるような恋をほのめかした。  そして弦之丞の気色を見たが、かれはその強い恋の言葉よりは、阿波、剣山、などという言葉の端々に、より以上な衝動をうけているらしく、何か黙思しながら、素げないうなずきを与えながら遅歩をすすませている。  きょう偶然に会ったことはうれしかったが、それは、悲恋の幻滅を知る日であったか、とお米は相手の冷やかさに血を熱くして、 「弦之丞様、今申した私の願いは、おききなさって下さるのですか、それともお嫌とおっしゃるのでございますか。これ程までせつない苦労をしても、それがあなたのお心に通じないものなら、いッそもう私は……」 「何をなさる」  ふりかえるとともに、弦之丞はお米の手くびを握って、固く脇の下へ抱えてしまった。  その指からポロリと匕首が落されて、松落葉の土へ刺さったのを、お米はまた拾い取ろうとしてもだえながら、 「死んだがましでございます、私は死ぬよりほかにない女です」  弦之丞は女の激しいふるえを感じながら、黙ってお米の手を抱えていた。その肉感的な痙攣を感じた当惑のきわみに、かれはまだお千絵にもお綱にも持ったことのない悪魔的な考えにフト頭を濁していた。  この女の猥らな恋を利用してやろうか。  かれの切れ長な目が、そう思いながらジッと見ると、お米は温かい男の腕の下に自分の手を預けたまま、なんの反抗力も失ってしまった。気味の悪いほど白く透く肌の下には、きわどい瞬間を楽しもうとする血がよろこび躍っている。  弦之丞は思った。  この女が自分に求めてやまぬものは、ただ強い抱擁ではないか。熱病のような本能の情炎が、またそれをあおる癆咳という美しき病の鬱血が、たまたま自分という対象に燃えているだけなのではないか。  剣山へ行きつくまでの難関を、お米に手びきさせることは、いい策には違いないと思ったが、目的のためとはいえ、果たして、そこまで悪魔的な気持がもち続けられるか、またこの放縦な恋の病人を、それまであやつって行ききれるかどうかという点は、弦之丞の性格にはなはだ自信が乏しかった。  ジーと目をつぶって考えた。  お米の手を抱えたまま──。そして、お米は、その手くびのしびれを忘れて、うっとりと、弦之丞の顔を見まもっていた。  すると。  向うの小松林の間を、明るい帯の色がチラと通りぬけてくる。誰かと思うと、それは見返りお綱であった。  何かにわかな用でも起こったらしく、船宿から弦之丞をさがしに来たお綱は、思いがけない男と女のたたずみを見て、はッとしたように、松の木のかげへ足をすくめた。  うつつなお米の腕を脇の下へ抑えたまま、弦之丞は横あゆみに数歩、人目のうれいなき木蔭まで連れてきた。  女は、体じゅうを心臓にして動悸をうった。  そこのさびしい木蔭が、恐ろしいようなまたうれしいような。 「お米」  と怖いように射る眼ざし、 「いまの言葉に、よも偽りはあるまいな」  と、念を押して締めつける言葉が、かの女をいっそう熱ッぽく必死にさせて、 「何で嘘や偽りにこんなことがいえましょう。まだそれ程にお疑いなら、見ている前で、私は死んで見せます、ええ、今すぐにでも」 「では、真実、それほどまでにこの弦之丞を」 「思いつめておりました!」と、お米の姿態が白肌の蛇のように男の胸へからみついて、 「ですけれど、その懸命は私ばかり、あなたのほうでは、なんとも思ってはいらっしゃらない」  怨みがましく向ける目の針を避けて、 「いや」  面をそむけた。  偽りは自分にある。かれは、お米をあざむき、己れの心をいつわる舌に重い苦渋をおぼえながら、 「何を隠そう、そうした心は拙者とても同じであった。川長の離れ座敷で、銀五郎や多市などとともに、そちに匿われていた頃から」 「ええっ、もし、それはほんとでございますか」 「きょうまで忘れたことがない」  と、強く細い手くびをつかんだが、体はお米の粘りを解いて、抜けるように胸を離れた。 「では、私の恋を、あのお願いを」 「おお、かなえてはやろうが、しかし、そちの本心」 「ええ」じれったそうに身を振って──「まだ疑っているのですか」 「いいや違う。その本心が分ったので、ひとつの大事をそちに打け明けたいと思う」  澄みきった双眸があたりへ動いた。 「でその上に、是非ともきいて貰わねばならぬ頼みがある」 「頼まれるのはうれしいことです。弦之丞様、水臭いご心配はなく、何でも打ち明けてみて下さいまし」 「ウム、では、必ず承知してくれるか」 「はい」お米はゴクリと唾を呑んだ。 「何でございますか? そのお頼みとは」 「ほかではないが、もいちど阿波に帰ってほしい」 「えっ、私に?」 「嫌ではあろうが、森啓之助の所へ帰って、しばらくすなおを装っていて貰いたい。いずれ近々には、拙者も阿波へ渡るつもりだが」 「それではいよいよ徳島城や剣山の奥へ、隠密にいらっしゃるお覚悟ですか」 「これッ」  思わずけわしい目になって、弦之丞はお米の顔色をジッと読んだ。そして、この女はいつのまにか自分の素姓や目的までも感づいているなと思った。  きょうまでのいきさつを綜合し、また永らく森啓之助の側にもいたものであるから、自然それを知ったことは当然だが、思えばその大事を気どっている女の恋慕こそ怖るべきもので、ひとつ狂ってきたら自暴の火は手のつけられない狂炎となるだろう。 「静かに──」と声をおさえた。お米も木立の奥や小川の汀を見廻した。  昼を啼く小禽──木の葉のささやき──そんなものしかなかった。弦之丞は静かに言葉をつづけた。危険性の多いお米の恋をなだめておいて、大望の手びきにあやつろうとする悪魔的な考えは、いつのまにか彼の心に自然な働き方をしていた。 「いかにもその目的のために、真っ先に、剣山の間者牢を訪れようと計っているが、さて阿波へ入り込んだ上には、さまざまな詮議迫害がそれを拒むに違いない。ところでそちが啓之助に囲われておれば、身を隠すには上乗の便宜、また何かのことにも都合がよい。どうじゃお米、いずれその目的を遂げさえすれば自由になれる弦之丞だが、それまで時節を待つと思うて、もいちど啓之助の所へ帰ってくれぬか」  お米もさすがに少し考えていたが、 「ええ……」と、やっとうなずいた。そして、「それがあなたにご都合がよいならば、私は、目をつぶって帰ります。ですけれどその代りに、きっと、あの……」と甘えるように男を見あげる──。  その間に、お綱は、わざと静かに、木立の細道を歩いていた。  もう少し、様子を眺めていようかとためらうふうであったが、お米の白い手が、人目もなく男の肩へ伸びたのを見せつけられると、かーっと熱い血がのぼって、吾にもなく、 「弦之丞様! ……」  と呼んでしまった。  そして、飛び離れて白ける男女を冷やかに見捨てながら、苦しそうに微笑をした。  あれ。そこへ来た女は?  どこかで見たような、とお米はすぐに考えついたが、妙なはめに立たされたまま、気まずい口をつぐんでいると、お綱は、わざとお米の方を見ないようにして、 「あの、弦之丞様」  と、涼しい目に、用事のある意味をふくませて、 「よろしかったら、ちょっと、お顔を貸して下さいな」  そのなれなれしさが、いかにも深い仲のあるように、一方の心へ映るのは是非がない。  弦之丞は未練なく、そのお米を後ろにして、 「お綱ではないか、何ぞにわかなことでも?」  と訊ねながら寄って行った。 「さっきお出かけになるとその後へ、新吉という人が見えました。あの、船宿の鯉屋に、私たちがいるのを知って」 「新吉と申すと? オ、四国屋の手代じゃな」 「急に積荷がまとまって、船の出る日取りがきまったからと、わざわざしらせに来てくれました」 「使いがなくとも明日の夜は、こちらから四国屋の寮へ行く約束になっているのに」 「どういう早耳か、阿州屋敷の者がうすうす感づいているらしいから、その前に来るのは見あわせてくれという話」 「して、船の出る日は?」 「十九日の晩の五ツ刻に、木津の河岸から安治川へ。その夕方に、四国屋の裏まで、身装を変えて来てくれたら、あとはお久良様がよいように手筈をしようとおっしゃいます」 「ウム、そうすると……」と指を繰ってみながら、「あと残る日もわずか四、五日」 「万吉さんはどうしたのでしょう」 「さ、その消息だが……」と声を低めて、話し話し歩いている間に、いつか弦之丞はお綱の歩みに連れていた。  お米はぽつねんと取り残された形。  どんな甘いささやきを交わしてゆくのかと、邪推されて胸は穏やかでない。  ちょうど、夢みている楽しい枕を不意にはずされてしまったような、腹立たしさ、さびしさ、空虚さ。 「ひと、ばかにしている」  睨むように、お綱のうしろ姿を見ていたが、やがて自分もあゆみだして、 「弦之丞様、弦之丞様」  と呼びとめた。  そして、ふたりがふりかえると、呼んだ者は埒外において、お綱の目とお米の目とが剃刀のように澄み合った。 「なにか御用?」  とお綱の声が冷たくいう。 「いいえ、お前さんじゃないんですの」 「おや、たいそうなご挨拶だよ。弦之丞様、いったいこの女はどこのお方?」 「ハイ、私でござんすか」  一方の引き合わせも待たず、お米はむしゃくしゃまぎれに突っかけて、 「川長のお米というあばずれ女、エエ、法月さんとは、ずっと前からのお知り合いでネ」 「あら、お米さんといえば?」 「そのお米がどうかしましたかえ」  と、ツンとした。 「もうずいぶん前のことだが、関の明神の森で、首を縊ろうとしているところを、私が救ってあげたことがある。だけれど、そのお米とかいう娘は、まだ初心らしい優しさがあったから、お前さんたあ人違いかも知れないねエ」 「あ……それじゃ」と、お米も初めて、自分のうろおぼえをはっきりさせた。 「私が叔父の家をぬけだして、関の森で死のうとしていたところを、抱きとめてくれたあの時の人は?」 「たしか、見返りお綱とかいう、おせっかいな江戸の女だったと思いますがね」 「まあ」  といったが、お米の気持がすなおでなかった。 「お蔭様で、生きのびましたと、お礼をいいたいところですけれど」 「どういたしまして。恩着せがましくいったなどと、悪く気を廻されちゃ困っちまう」 「助けられて不足をいうんじゃあないけれど、あの時死んでしまわなかったお蔭に、まだ罪業がつきないで、こんな姿をうろつかせておりますよ」 「といったところで、私のせいじゃないからね」 「誰がお前さんのせいだと言いましたえ。私はただ、自分の輪廻を怨むんですよ」 「それ程この世がお嫌なら、どこかそこらでご思案なさいな、こんどは私が手伝ってあげるから」 「おそろしいご親切、ありがたすぎて身ぶるいが出る。けれど私にも今日からは、弦之丞様というお方があるんですから、そんなお心遣いはご無用に願いましょう」  と、お米も負けずにそういい返すと、弦之丞の右側へ廻って、見えないように、袂の下で手を握った。  おのれの科は覿面にすぐおのれへ帰ってくる。  弦之丞は後悔した。  触れるやいな、火花を散らす女の妬心を眼のあたりに見て、かれの臆病な悪魔的な考えは萎え惧れた。  けれど、秘密を知る狂恋の女。あざむかねば殺すのほかはなく、殺さねば、あざむくのほかはない。大事の万全を期する上に。  しかし、やがてお綱の怜悧が誤解をとくであろうことは信じられるので、とにかく、弦之丞はお米の棘立つのをなだめ、こんがらかった二人の気持をほぐすことに努めながら、京橋口の船宿へ帰ってくる。  大阪表に潜伏している間、そこの鯉屋には何かの世話になっていたが、今も門まで戻ってくると、誰かひとりの客が、留守のうちに弦之丞を訪ねてきて、さっきから二階に待っておりますという亭主の告げであった。 「客が?」  といぶかしみながら、弦之丞、腑に落ちない様子で、 「はて、誰であろうか」  梯子口から見あげていると、その間に、お米は上がり框の日和下駄を見て、少し顔色を変えたが、 「私は、そのうちにまた、あの、船が出るまでの間に出なおしてくることにしますから……」  と、意地でも側を離れそうもなく、ここまでついてきたお米が、ふいと、どこへか帰ってしまったので、弦之丞もお綱も少し案外だったが、そのまま小急ぎに梯子段を上がってみると、櫛巻に結って年増の女が、何か、物思わしげに、しょんぼりとうつむいている。  万吉の女房であった。  お吉は今朝、平賀源内の使いにおどろかされて、初めて、良人の凶変を知った。  で、取るものも取りあえず、小橋村の彫刻師の家に寝かされている万吉の容体を見に行ったのであるが、かすかに意識づいてきた万吉が、しきりと気にかけてやまないので、かれの口から船宿の所をきき、ようよう尋ね当ててきたわけであるという。 「さては」  聞きつつも、弦之丞、無念そうに唇を噛みしめた。 「やはり、案じていたに違わず、お十夜や天堂の詭策に陥ちたのであるか。ウウム……」と、暗涙をのんで愁然とした独りごと──「傷はとにかく、あの男の気性として、ここまで来ながら落伍しては、さだめし、それが無念にたえまい。ああ遺憾至極」  思わず拳が膝にふるえる。  おのれ、今に見よと、あらぬ方に燿くかれの眼に情恨ふたいろの血の筋が走る。  ともあれ一刻も早く慰めてやりたいと、あわただしく湯漬を一椀かっこんで、宿の亭主に小舟を頼み、京橋口から猫間川をのぼって、小橋村黙蛙堂の家へ馳せつけた。  静かな茅葺屋根の家に、万吉は仰むけに寝かされていた。  裏に梨の花が咲いている反映のせいか、かれの皮膚もそれのように蒼白い。 「あまり本人の気を立ててはいけないと、源内様がいっておりました」と黙蛙堂が心配していう。 「…………」  皆、目でうなずくばかりだった。  お綱は涙をうるませていた。一月寺にいた時のことや、旅途中のことなどが、そんな中で、思い出される。  相談の上で、万吉の体は、やがて蒲団ぐるみ、そッと戸板へのせられた。そして、哀寂とした夕暮、その戸板を黙々として守る人々が桃谷のかれの家へ移って行った。  その晩、早速源内も来てくれた。  傷を洗い金創を巻きかえなどされて、幾分気がハッキリしてきたが、万吉は夜になってしきりに昂奮しだした。  だが、深い話はできないらしい。弦之丞もなるべくそれを避けていた。無論、十九日の晩に、いよいよ四国屋の船に乗って、阿波へ立つということなどはおくびにも出さない。  まだ未来にどれ程な艱苦迫害が待ちもうけているかは逆睹しがたいが、その決定だけでも話してやったら、さだめし万吉喜ぶだろう、耳に入れてやりたいのは山々で、聞かせてやれないのは辛いことだ。  それを知ったら、おそらく万吉の気性として、ジッと傷の癒えるのを待ってはいまい。利かない体を無理にでも寝床から這いだすだろう。そして、憤死するかもしれない。  お綱は寝ずに看護をしていた。  弦之丞もその枕元を離れ得なかった。けれど、船出の十九日は、もう明日の夜とまで迫ってきた。  所詮、万吉は残して行かねばなるまい。罪のようだが、ある時期まで、それをいわずに、黙って立つよりほかに道はない。  何かの支度もあるし、留守の間に、また四国屋のほうから手筈の都合を知らせてきてあるかもしれないので、そのほうも気が気ではなく、弦之丞はお綱とお吉にソッと言いふくめて、先にひとり桃谷から帰ってきた。  十八日の晩である。  明日の夜の今頃は、もうこの大阪を離れている。  阿波へ指して行く船のうちに暗い海風を聞いているのだ。  と思うと、かれの胸は躍ってくる。耳には紀淡の潮音がきこえてくるような心地もして。 「だが……」  とまた口惜しまれるのは万吉の落伍。  ふり仰ぐと空いちめんに星がある。  六根清浄、六根清浄、そうして、人生の嶮路を互に手をとり合ってきた道づれが、途中で凍えてしまったようなさびしさを感じた。 蜘蛛かがり  重喜が居城へ帰ってから無人になっている安治川屋敷は、大寺のように寂としていた。白髪のお留守居とお長屋の小者が、蜘蛛の巣ばかり取って歩いている。  で、誰にも遠慮のいらないここの侍部屋は、目下、天堂やお十夜や周馬にとって、またなきねぐらとなっている。  三人よれば文殊の智慧というけれど、この三人、寄るとさわると酒なので、智慧の出るひまもなさそうだ。  ゆうべも酒。けさも酒。  その酒びたりに倦み果てて、やがてけだるくなると、お十夜は手枕をかい、一角は飴のように柱へもたれ、周馬は徳利を枕にして仰むけに寝ころぶ。 「鳴りをひそめているということは、何となく面白いな」  と、周馬がいった。  近ごろ新しくできた一個のニキビを疣のように気にしながら。  すると。  何か目算が立って居中悠々としているもののごとく、天堂一角が朗吟口調で、 「──山雨将にいたらんとして、さ」  と、つぶやくと、お十夜が周馬の口を写して同じようなことをくり返した。 「そうよ、鳴りをしずめているッてやつあ面白れえ」  そこでまた、気だるくみんな黙ってしまう。  あくび、眠気、いやな鳴りをしずめたものだ。  だが三人のうなずいたのは、まさかそんな陶酔気分をいったのではあるまい。すでに、高津の舞台から、法月弦之丞の姿さえ見ているのだから、いかな耽溺家にしても、なにか成算がなければ、こう悠々と構えてはいられないはず。  そのうちに周馬、ニキビへ来る蠅をやりきれないように追って、仰むけから腹ン這いになった。 「もう飲まないのか」 「ああ、目にもたくさんになった」 「飲みちらした残肴というやつは、まったく嫌なものだ。見ていると浅ましくなる、早く片づけてしまおうじゃないか」  と周馬は起き上がったが、孫兵衛は目をふさいで横になったまま、 「もてあそんだ後の女が、邪魔くさくなるのと同じだ」と、いった。 「お綱でもか? あの女を手に入れても」 「さあ、そいつあどうだか分らないが、今まで手にかけた女はみんなそうだった」  一角はまた猥談かというふうに少しさげすんで、 「片づけるなら、宅助を呼んだがいい」 「あいつ、そこらにいるかしら」 「最前、お長屋で門番と将棋をさしていたようだ。その窓から大きな声をして呼んだら聞こえるだろう」  と一角が顎でいった。  周馬はちょッと癪にさわったように唇をゆがめた。こんな時、いつでも一角の倨傲とお十夜の図々しさから、自分が立ち用をさせられるのが不満なのだ。 (よし、おれも一角のように構えて、お十夜のように図太くなっていよう)  かれは常に心のうちで、そういう工合に修養しようと要心しながら、ツイ自分から口をだしては、自分から用を求めてしまった。 (まあいいわ、今にだ、今におれの真価も分るこった。旅川周馬様、それ程のご人物であったかと、あとでこいつら、眼の玉を白くする時節があるんだ)  こう思って、周馬はいつも不満をさすった。で、今もちょっとむッとしたが、 「お、呼んでやろう」  気軽にいって、切窓から邸内を見廻した。  通用門から御用口までの広い間に、きょうは蜘蛛の巣取りのお留守居役も宅助も見えなかった。で、かれは、そこからお長屋のほうへ向って、 「宅助ッ──、宅助はおらんか──」  大きな声をくり返していた。  すると、通用門の袖から、ふたりの立派な侍が、邸内へ入ってきた。  ふたりの侍、門番がいない門小屋をのぞいて、不審な様子をしている。  周馬はそれにかまわず、なお大きな声を送っていた。  やっと、それを聞き止めた宅助と門番は、さしかけていた賭将棋の駒をつかんだまま、びっくりしてお長屋の端から飛びだしてきたが、 「あっ」  と、出会いがしらに、たたずんでいた侍にぶつかッて、握りこぶしの持駒、金、銀、桂馬、バラリとそこへ撒いてしまった。 「や……おや」  と、あきれた顔をして、侍のひとりのほう。 「貴様は宅助ではないか、どうしてこんな所にいるのだ」  と、ジロジロ将棋の駒と宅助の顔を見くらべた。  そこで宅助がしきりに恐縮している様子なので、侍部屋の窓に寄っていた周馬、一角をふりかえって、 「誰か知らぬが、見なれぬ侍がふたり、いやに横柄に邸内へ入ってきたぞ」  と教えた。 「ふウ……どんな奴?」  周馬と顔をならべた一角も、そこから向うを見てびっくりした。 「こりゃいかん。早くそこらの皿小鉢を片づけよう、おいお十夜、掃除だ、掃除だ、その酒の徳利を隠しておけ」 「なんだ、たいそうあわてるじゃねえか」 「殿様の見目嗅鼻がやってきた」 「お目付か」 「なに、居候だ」 「居候?」 「ウム、いつか話したことのある、阿波の国の居候、竹屋三位卿だ」 「ほう……」と孫兵衛も立って、 「もうひとりのほうは?」 「あれが森啓之助、宅助の主人だ。きゃつめ、お米をうまくやっておきながら、いやにきまじめな顔をして宅助を痛めておるわい」 「門番も叱られているな」 「今に、ここへもやってくるかも知れない。居候だが名門なので、殿様へ向って何でもしゃべるから始末が悪いのだ」 「ふたりが揃ってやってきたのは、何か国元に急変でも起こったのじゃないか」 「なに、暇に任せて、ちょっと様子を見に来たのだろう。先日も竹屋卿からの手紙を何げなく見ると、封には天堂一角先生などと書いて、中には、まだ弦之丞が討てぬのかなどと、極端に拙者を辱めてあった」 「皮肉なやつだな。しかし、公卿にしちゃあ話せるほうだ」 「話せないのは森啓之助だ。あいつ何しに来おったのだろう? ははあ、お米のことが気になって、うまく竹屋卿の腰に取っついてきたな、いずれ、何か吾々の仕事にかこつけてまいったのだろう」  ささやいているうちに、竹屋卿は啓之助をつれて、脇玄関のほうへスタスタと入ってしまった。  宅助は押ッ放されたように、こっちへ飛んできて、 「天堂様、ひどい目にあっちまいました」  と、侍部屋へいざりこんだ。 「どうした」 「まさか、やってこようたア思わなかった」 「真ッ先に、お米のことを問い詰められたろう」 「いいえ、そいつア側に竹屋様がおいでになっていたので、口にゃ出しませんでしたが、イヤに言葉の端でこずりながら、グッと睨みつけられました。睨まれるのは怖くはねえが、ほれ、あとのご褒美てやつにかかわってきますからね」 「は、は、は。だがお米の居所も、およそ弦之丞の周囲と見当がついているのだから、もう心配はあるまい」 「けれど、その弦之丞を、早くあなたがたの手で、眠らしてしまって下さらねえうちは、どうにもはなはだ困るんで。エエ、いずれ今に、人のいない所へ呼ばれて、旦那からお米はどうした、お米お米と、お米の化け物みてえに責められるに違いねえ。ああ困ったな。どうしましょう、天堂様」 「啓之助の囲い女などを、拙者たちが知ったことか」 「おっしゃるとおりでございます、他人の楽しむお妾なんぞは、なるだけ逃げてしまったほうが気味がようございますからね。ですが、わっしは追目の賽で、この目がポンと出てくれないと、虻蜂とらずの骨折り損、ない身代をつぶしますよ。ひとつ、宅助を哀れと思って、なんとか助けておくんなさいまし。その代りに働きますぜ、エエどうでも、皆さんの顎次第にクルクル飛んで歩きます。先一昨日だってそうでしょう。高津の宮へかかった時、わっしがお米を見つけたからこそ、だんだん糸に糸を引いて、弦之丞の居所やお綱の様子も分ったというもんで……。いずれ皆さんが、それを知りつつ、手を下さずに、シインと鳴りをしずめているのは、さだめしもう彼奴を、殺してしまう寸法がついたんでしょうが、そのきッかけを見つけた手柄者の宅助は、まだいっこう目鼻がつきません。その手がかりをつけた功に愛でて、ねエ天堂様、ついでにお米も」 「おい、虫のいいことをいうな」  と周馬がからかうように、 「その手柄者は貴様ではない、高津の宮の遠眼鏡だ」 「あ、なるほどネ」  と、頭をかいたが、如才なく、 「お願いしますよ、この通り、旅川様、お十夜様」 「うるさい奴だ」  苦笑しながら、皆ぞろぞろ次の部屋へ立ちながら、 「刷毛ついでがあったらなんとかしてやる。だから、そこをきれいに掃除しておけ」と襖をたてた。 「けっこうです」  と宅助、不精をいわずに働きだした。 「弦之丞とお綱を片づけるその刷毛ついででけっこうです。どうれ、おれも掃除の刷毛ついでに……」  と、二、三本徳利の目量を計ってみて、残っている燗ざましを、鼻の先へ捧げてくる。 「あるな。もったいない」  ごくり、ごくり、と酒の入ってゆく宅助の喉が、百足虫の腹のように太った。 「おい宅べエ、うまくやってるな」  後ろで声がしたので、酒の雫を拭きながらふりかえってみると、さっき賭将棋をやっていた相手の門番、伊平という老爺である。 「どうだ、おめえも」 「燗ざましじゃ、承知ができない」 「冗談いうねい、あの将棋はこわしじゃねえか」 「それじゃないよ。オイ宅さん、お前もなかなか隅へおけないね」 「な、なぜよ」 「ちょっとおいで、いいものを握らせるから」 「いやだぜ、小気味が悪い」 「これでもかい」  と門番の伊平、今、使屋が届けてきた女文字の手紙を、宅助の鼻の先へ見せた。 「おや」  見ればお米の手筆である。  封へにじんだ口紅も憎らしいが、あの女が、宅助さまへ──とはどういう風の吹き廻しだろう。  お米から、あのお米から手紙とは、ちょっと思いがけなかった。  宅助はなんだか、寝返りを打った自分の情婦から来た文でも見るような気がして、封を切った。  だが、読もうとする前に、眉に唾をつけるくらいな戒心で、 「こいつあ、あぶねえ」  と小首をかしげた。 「おれに毒をのませてまで、振りきって逃げた女が、宅助様へ──と猫撫で手紙をよこすというのは少し変だ。ははあ、この間から、弦之丞に会っていやがるんで、それでなんだな、何か計略をかけてきやがったな」  まず、気を締めてから目を通した。  さらさらと文字は軽く書いてあるが、宅助は眉に皺をよせて渋読する。 「ええと、なんだッて。──いまさらかような文を筆にするもまことにおはもじとは思いひるまれ候えども、逢うべき面はなおさらなく。チェッ、何を寝言をいってやがるんで、おはもじ面が聞いてあきれら」  いい加減に間を飛ばして、ぱっぱとしまいのほうを読んで行った。 「──そのため初めて人の無情さをしみじみ身に知り申し候、まったく一途に思いつめて心の知れぬ人の許へ走り候ことはかえすがえすも私の過り、薄情な男に会うて今さら旦那様のお情けやそなたの親切も、はっきり夢のさめたるように分りたる心地──だッて、ふふん、ざまを見やがれ」  と、ここで宅助、溜飲をさげた。 「断られやがったな、弦之丞に、ポンと肘を食やがったんだ。そこでおはもじながらと来やがった。かえすがえすもとおいでなすった。逃げた女の出来合文句よ、あっちへ行って肘をくったから、こっちへコロコロ戻りますなんて、そうは問屋でおろさねえ」  と宅助のひとりごと、いつか森啓之助にのり移って、自分が旦那の腹になっている。 「断られるにゃきまっていら。法月弦之丞は今そんなことをしていられる場合じゃねえ。いや、弦之丞も人間だから、そりゃ、大望の途中にだって、痴話や口説もやるだろうが、お綱という女がついている。ははあ、それでお米も目がさめたんだな。そうだ、そうに違えねえ。うむ、まだ、何か泣き言が並べてあるな。なんだって、……死ぬ、おや、死……」  手紙にしがみついて、終りの二、三行を幾度もくり返した。  旦那様へのお詫びに死ぬ──と書いてあるように読める。墨がかすれていて読みにくい、おまけに最後の折目からサラサラと少しばかりの髪の毛が落ちてきた。 「おや、いけねえ」  宅助は少し寒くなった。 「遺物まで入っていやがる。死なれちゃ玉なしだ」  それをふところにねじこんで、門番の伊平の所へ駈けてきた。この手紙を持ってきた使屋は? と聞くと、返事はいらないといって、すぐに帰ってしまったという。 「どっちへ行ったろう?」 「そいつは気がつかなかったが、いずれ、この屋敷を出て行くからには、春日道か新堀の渡舟へ出るにきまっている」 「なるほど、で、服装は? 年頃は」と仔細を聞いて、あたふたと通用門の潜りから飛びだした。  使屋の服装は目につくので、七、八丁行くと追いついた。その男に、この手紙はどこの家から頼まれたかと聞くと、松島の水茶屋に休んでいる年頃の女で、返事はいらないといったが、まだ駄賃は貰ってないから、私の帰るまでは奥にいるでしょうということだった。  宅助は使屋と一緒に渡舟へ乗った。  渡舟の中でかれはまた、 「待てよ、こいつが何かの策じゃねえかしら」  と、考えなおしてみた。  だがお米の平常を思うと、血の病を起こして泣いたり、わがままをいって飛びだしたり、平気で帰ったりすることは、阿波にいた頃からありがちで、それに、こんな手紙をよこして、こっちを計る必要が考えられない。 「もう逃げているんだからなア──」  ゆるく体を動かされながら顎をおさえた。  自分は外に待っていて、その使いに、言づてをした。  水茶屋へ入って行った使屋の男は、しばらくして、宅助の所へ帰ってきたが、 「あの、お目にかかるのが嫌だって、どうしても出ておいでになりません」 「おれに会うのが嫌だって」 「あ、違いました。その、面目ないというふうにいいましたので」 「そうか。駄賃は貰ったかい」 「エエ、ちょうだいいたしました」 「じゃ、いいよ、ご苦労様」  と、使屋を帰しておいて、宅助は、水茶屋の青すだれから奥を覗いた。  尻無川を裏にした小粋な四畳半に、うしろ向きになっていたのがお米だった。  会わないというのを無理に、宅助はその水茶屋の奥へ通った。 「あら、わたし、どうしよう」  穴でもあったら入りたいような姿態をして、お米は、袂と一緒にうっ伏した。そして、 「宅助や。わたしは、旦那様にもお前にも合せる顔がない。すまなかった……すまなかったよ」  すすり泣きに泣きじゃくる。 「お米さん。じゃお前は、ほんとに眼がさめたというのけえ。まさか、いつもの手管じゃないでしょうね」 「もうそんな、痛い傷にふれておくれでない。わたしは、お前へやった手紙にも懺悔したとおり、すっかり覚悟をしたのだから」 「ふウん……まったく、眼がさめた、悪かったとおっしゃるんで」 「つくづく自分の浅慮さが分ってきたよ、こうしてお前にみじめな泣き顔を見られるのさえ、わたしは死ぬよりなお辛い」 「死のうなんて、悪い覚悟でさ。わっしも一時は赫として、見つけ次第にと恨んでいたが、そう優しくいう者を、なぶり殺しにするようなことはしますめえ。自分が悪いと気がついたなら何よりの話、わっしの役目もすむわけですから、一緒に阿波へお帰んなさいな」 「いくら私があつかましくても、あんなわがままな真似をしておいて、今さらお前に……」 「なに、わっしはかまやしません。別だん、旦那の見ていたことじゃなし、どうにでも、この宅助が内密にしておきますから」 「ア、ありがとう……」と、身を起こしたが、袂は顔へ当てたままで、 「……宅助、ありがとうよ。怒りもせずに、お前が優しくいってくれればくれる程、わたしゃ、あの時のことがキリキリと胸を刺して」 「もうお互いに、そんなことは言いッこなしさね。お米さん、仲なおりに一杯やって、ひとつさばさばしようじゃございませんか」  宅助はまず九分までお米の悔悟を信じた。  手を鳴らして女に酒を頼んだ。心得ている出合茶屋なので、酒を運んでくると、川に向ったほうの簾をおろし、御用があったらお手を、といって仕切襖を閉めきって行く。  廂に赤々とした夕陽が照っている反対に、部屋の中は薄暗く感じられた。 「──気晴らしの妙薬、さ、おひとつおやりなさい」  と、盃洗の水を切って、お米に向けた。 「お酒かい……」  気のすすまない顔をして、 「よそうよ」 「そんなことをおっしゃらずにさ。これにゃ、鼠薬は入っていやしませんぜ」 「お前は、まだそれを遺恨に思っているのだろう」 「こいつは、悪いことをいいました。自分から水に流そうと誓っておきながら……。もう決して申しませぬ、さあ酌ぎますぜ。くよくよは虫のお毒、すなおに阿波へさえ帰ってくれれば、もう何の文句もありません。さ、お持ちなさいよ、盃を」 「じゃ、ほんのポッチリ……」  銚子の口と、盃のへりがカチと触れた。  しばらくすると、宅助、少し居ざんまいを壊してきて、白眼を赤く濁している。  ちびりちびり飲みながら、初めのうちは、微細な注意を払って、お米の懺悔の真偽を観ぬこうとしていたが、そのうちにその眼が、かつて気がつかずにいたこの女の美を発見して、すっかり心をとろかせた。  顔にも襟にも、彫りの深い感じがある。青味の白粉に、玉虫色の口紅、ひどく魅惑的で、そして弱々しい病的な美だ。それは、決して肉感的とはいえないものだが、なぜか、男にひどい力を思い起こさせる。 「──これだな」と、宅助に分った気がした。啓之助が、この女に引きずりひん廻される所以のものは、旺盛な若さを病魔が彫り削った美貌であった。さらにその病魔に手伝おうとする男の残忍性であった。  宅助は、今日まで戒めていた心を自由にあおって、のびのびとお米を眺めた。 「あら……」  お米は部屋の隅へ、ズ、ズ……と押されていた。いきなりだったので、どうしようもなかったが、力の差では争えなかった。 「な、な。……旦那に内証にしておいてやるからよ。俺にだって、いいじゃねえか」  抱きあまるほどな腕の中に締めつけられて、お米は顔を振り動かした。  少し醒めた顔をして、お米と宅助は水茶屋の軒を出てきた。  松島田んぼの宵闇がひろびろと戦いでいた。  まだ蛍は出ないナ、と思うぐらいな風の味が感じられる。ふたりは疲れた歩き方をしていた。 「お近いうちに」  送りだす声を後ろに聞いて、宅助はニヤリとお米の顔を見た。意味のこもった目なのである。だがお米は、たッた今のことを、忘れたように取り澄ましていた。 「ヘン、なにもしないような顔をして!」  肚の中で宅助はつぶやいた。おかしい、くすぐッたいような気もした。  そして、女というものの持つ両面をすっかり観破したように思う。どうして、今あんなことをしながら、もうこういうふうに澄ませるものか、と感心した。  だが、俺にゃもう駄目なんだ──その片面を見せちまったんだから──許してしまったのだから、ふふん。 「ああ、いいあんべいに酔いがさめてきた。じゃお米さん、俺は屋敷へ帰るからね」 「じゃ、私はこれから四国屋へ行って」 「うむ、船のほうの一件を、よく頼んでおおきなせえ。そして、明日の晩こそ、時刻をたがえず、船の出る所へ来ていなくっちゃいけませんぜ。わっしもそこへきっと行くから」 「大丈夫だよ。けれどねえ、お前……」  ふわりとお米が側へ寄ってきた。覚えのある肌の匂いである。で宅助、 「う? ……」と返辞が甘くなった。 「啓之助様が来ているっていうことだけれど、話しちゃ嫌だよ」 「なにをです?」 「あそこでのことさ」 「とんでもねえ、誰がそんなことを、自分からしゃべるやつがあるものか。御主人様の思い女と、ちょッと、変になって、何したなンておくびにも口を辷らせようものなら、それこそ笠の台が飛びまさあ」 「じゃ、阿波へ帰るまで、何にも知らない顔をしてネ」 「万事は、わっしが心得ています。だがねお米さん、向うへ帰ると、もう小ぎたねえ仲間なんかは、ごめんだよッていう顔をするんでしょう」 「宅助、そりゃあ、お前のことじゃないか」 「おっ、いてえ」 「行き過ぎやしないかえ、渡舟の前を」 「そうだ。じゃ明日の晩にまた──」  小戻りをして渡舟の中へ飛び込んだ。  そこで、宅助と別れたお米は、反対のほうへ足を向けて歩きだしたが、ふとふりかえって、 「ちイッ……気色が悪い」と舌打ちをしながら襟前をかき合せた。 「あいつときたら、転んでもタダ起きないのだから嫌になってしまう。人が狂言に涙をこぼせば、その弱音にツケ上がり、いい気になって、とうとう私にあんな真似をしやがってさ……」  と、赤い唇を舐め廻して唾をした。  木津の水を越えて、いつか堀江の町へ入っていた。  その姿が、人混みにまぎれ消えたかと思うと、やがて、急いでゆく町駕の垂れから、お米の裾がはみだして見える。 「……これから四国屋の店へ行って、明日の船へ便乗を頼んでおいてから、すぐに駕を急がせれば、今夜のうちに、弦之丞様に会う時刻があるだろう……。どうしても、阿波へ帰る前に、もういちどしみじみと会って、何かの話をしなければ……。嫌な奴に身をまかせたり、嫌な所へ帰るのも、みんな、あの人のためと思えばこそ」  駕は、こんな考えを乗せて、廻船問屋の多い河岸ぶちを駈けていた。  四国屋の前へ着くと、お米は、阿波での顔見知りである、ここのお久良を思いだして、店の者に取次いで貰った。 「御寮人様なら、寮のほうにおいででございますから、そちらへお廻り下さいまし」  店の前で、荷造りをしていた者が、金鎚を指して、土蔵ならびの向うに見える黒塀を教えた。  宅助は、ふらりと、安治川屋敷へ帰ってきた。  屋敷の奥を覗いて見ると、三位卿を中心に、森啓之助、天堂、お十夜、周馬の五人が、ひどく厳めしい容態で、なにやらひそひそと密議をしている。 「いいあんばいに、お人払いの最中らしい。どれ、この間に少しお疲れを休めなくッちゃ……」  仲間部屋へもぐり込んで、牛のようにゴロリとなった宅助、天井の闇へ鼻の穴を向けながら、お米の頸の白さを描いた。  三位卿に呼びつけられて、その人を中心に、何やら額をあつめていた書院の席では、ようやく密議のけりがついたらしく、各〻して、足のしびれをさすりながら立ち上がった。  有村の若い声は、例の調子で、 「では、明夜の手筈、ぬかりなく心得たであろうな」  と、立った所で、四人の者を見廻した。  あだかも、自己の家来でも頤使するように、 「こんどこそ弦之丞めを刺止めてしまわねば、絶大な恥辱じゃ。近く同志の公卿や、西国からも諸大名の密使が、ある打合せのために、徳島城へ集まろうとしている。この秋にこそは、いよいよ天下多端、風雲急ならんとしている時じゃ」  少し話がそれてきたが、有村の熱と気魄にひき緊められて、なんとなく森厳な気もちにさせられた。 「その大事を目睫にひかえて、先にもいったとおり、殿には無稽な伝説などに囚われて、心神衰耗の御容態、また折も折に、俵一八郎の死と築城中の出丸櫓の崩壊とが暗合したので、いよいよ気を病んでいられる。そんなことから、もし倒幕の鋭気がくじけるようなことにでもなっては、一天のおんために、また悪政の釜中にあえいでいる下々のためにも、悲しむべきことといわねばならぬ」  こういう意味のことは、さっきから密議のうちにもたびたび聞いた。と四人は少しくたびれを感じたが、三位卿の話には、いちいちこの慷慨淋漓が必要であった。 「せめて天堂一角。早く、弦之丞を討ったという快報でももたらしてくれれば、少しは、殿の気色も引き立とうかと、心待ちにしていたが、いつまで何らの沙汰もないので、もしもまかりまちがって、この場合に法月弦之丞が、阿波へ潜入することでもあっては大変と、実は心配のあまり、殿にも無断で、啓之助をつれ、ここへ様子を見にまいった次第──」  と、恐縮している一角を見すえた。 「時刻もそろそろ遅くなりますから、なるべく、御簡単に、ここを切りあげて」  と啓之助が注意をした。 「うむ」と、三位卿はうなずいたが、 「とにかく、まことにいい潮時に出向いてきたというもの、明日の夜、四国屋の商船へその弦之丞めが何も知らずに乗りこむとあれば、魚みずから網へ入ってくるようなものじゃ」 「討つ機会はたびたびであったが、必殺のところを狙って、こんどこそは遁すまいと、わざと鳴りをしずめていた吾々の苦心は、それこそ、門外漢にはうかがい知れぬものでござった」  一角は、三位卿の加勢に対して不快はないが、決してきょうまで無為にいたわけではないという意味をチラと、ここで釈明しておいた。 「大きにその必要もある」と、有村はうけいれて、 「せっかく、魚みずから網に入ってくるものを、騒ぎ立っては沖へ逸してしまうだろう。この上とも、せいぜい明日の船出までは、鳴りをひそめていることじゃ。ところで──手分けの部署は今いったとおり、一角は孫兵衛と周馬をつれて、お船蔵の川番所に、きょうから出てゆく船を油断なく見張っているように」 「承知しました。そのほうはお心おきなく」 「夜半、明け方などは、ことに注意いたしていてくれ。もっとも、わしはこれから啓之助を連れて、一応、四国屋の奥に身をひそめている。都合によっては、そのまま向うに止まって、船の出る明夜まで屋敷のほうへは帰らぬかもしれぬ」 「で、万一お帰りのない時は?」 「わしと啓之助とは、向うから四国屋の船に乗りこんだものと思っておれば間違いない。そして、船が当家の川番所の前へかかった時に、そち達がいっせいに、船検めと称して、中に乗りこんでいる者をはじめ、積荷から船底までくまなくただすことになる。その前に、十分わしも怪しい奴を睨んでおくから、万が一にも取逃がすことはなかろう」  三位卿が兵書の中から理窟をひいて、これなら必ず弦之丞とお綱を刺殺することができるという蜘蛛かがりの妙策はそれであった。  なるほど、策はいい、天魔といえども、これなら断じてのがしッこない手配だ。  けれど天堂はもちろんのこと、周馬やお十夜にしてみれば、骨の折れたのは今日までのことで、何も今になって若いお公卿様の指揮はいらざることと思った。せっかく春夏の耕しに汗水しぼって、秋の収穫を他人にされてしまうようなものだ。  そういう不平はあったが、はるばる徳島から来た助太刀を断ることもならない。また、三位卿の手出しがあったにせよ、いずれ弦之丞を刺殺すれば、その手柄は三人の上に認められるのだ。こう考えて、一角、周馬、孫兵衛の三人は、永らくとぐろを巻いていた侍部屋から、お船蔵の川番所のほうへ移ってゆく。  今夜から明日の晩までは、交代で寝ずの川見張。 「また、酒がいるな」  と、お十夜が言った。 呉越同舟  隙を見て森啓之助は、あたふたと仲間部屋を覗きに来た。そして、真っ暗な中に正体もなく寝そべっている鼾を聞きとめると、 「宅助、宅助」  手荒く揺すぶって、 「起きろ! これ、起きろと申すに」  と、耳たぶを引ッ張った。 「あ、あ、むむ……」と、伸びをしながら身を起こした宅助は、喉の渇きと耳の痛さを一緒に知った。 「やっ、しまった、旦那様でしたか」 「拙者の目から放たれているのをよいことにして、また酒ばかり食らっているの」 「どう致しまして、なかなかそんなところじゃございません。あのお米に、いえお米様にゃ、どれほどてこずったか知れやしません」 「そのために付けてやったそちではないか。だのに、何でこんな所にウロついているのじゃ」 「高津の宮で、天堂様にお目にかかりましたところが、やあ宅助か、ぜひ一日、安治川のほうへも遊びにこいとおっしゃったもんですから」 「たわけめ、あの一角などがそちにろくな智慧をつけおりはしまい。それよりお米はいかがいたした? お米の身は」  ──そウらおいでなすった、と宅助は肚の中でおかしく思いながら、お米は今夜大津の叔父の所へ暇乞いに行って、明日の晩は、自分と四国屋で落ちあう約束になっている──と出まかせにいいくるめて、 「へい、ご心配にゃ及びません。この宅助が、はばかりながら、抜け目なく睨んでおります」  と安心させた。 「そうか、それならよいが、しかし、ここにちょっと困ったことが持ち上がっているのじゃ。宅助、何かうまい才覚はないか」 「お話しなすッてみて下さい、啓之助様のふところ刀、智者の宅助が頭をしぼってみようじゃございませんか」 「ほかではないが明日の晩」 「へい、明日の晩?」 「十九日だな」 「今日は十八日ですから、多分あしたは十九日でござんしょう」 「四国屋の商船に法月弦之丞が乗りこむことを知っておるか。かれのほかにもう一人、お綱とやらいう女も一緒に、それへ便乗しようとしている彼らの企みを、存じてはおるまい」 「冗談いっちゃいけませんや」と、宅助は少し反って、 「それを最初に嗅ぎつけたのは、この宅助でございます。へい、わっしが探って天堂様へ教えてやったことなんで」 「そうか、きゃつめ、いかにも己れの手柄らしく話しておった。でそのことだが、明夜そちやお米もともにあの船へ乗るとなると、三位卿や拙者と同船いたすことになるのだ」 「へえ、それじゃ、旦那や有村様も、あしたの晩阿波へお帰りになりますので?」 「いや、帰るが目的ではないが、弦之丞を取押えるために、今夜から四国屋へ潜んでいて、そういう手段をとるかもしれぬという相談になっておる。で万が一にも、三位卿と一緒になった場合は、なんとかしてお米をそれと知られぬように工夫をつけておかねば困る」 「なるほど、お米様やわっしが、三位卿様に見つかっては、その場合よろしくないとおっしゃいますので、ごもっともです、あのお公卿様からまた殿様へでもしゃべられた日には大事ですからね」 「そうじゃ、そこを抜け目なく心得ておいてくれい」 「そもそもお米様のことについちゃ、ずいぶん初まりから心得通しでございますぜ。お国元へ帰ったら、たッぷり……レコは……旦那のほうでもお心得でございましょうね」  その時、通用門まで出てきた竹屋卿は、待たせておいた啓之助の姿が見当らないので、 「森! 森!」  としきりに向うで探している様子。 「はっ、只今、只今」と啓之助。  外の声に急かれながら、紙入れを取り出して、せかせかと二朱金の粒を撰り、 「それ、これは当座じゃ」  と宅助の手へ握らせたが、出し惜しみをした紙入れのほうから、チリンと、二、三枚小判が辷った。 「ほい」と宅助は腰を浮かして、 「この通りのお気前だから──」  如才なく土間へ下りて、その小判を踏んづけながら、 「命を投げても、御奉公のためならという気になってしまいますよ。おッと旦那、襦袢のお襟が折れております」  追い出すように、仲間部屋の戸を開けてやった。  あなたの闇には、三位卿の影が動いて、 「おい、森ッ、森はどうした」  と、待ちじれた声をしている。 「はっ、只今、只今」  と、それに答えながら、駈けだして行ったかれの月代に髷がおどって見えた。  四国屋のお久良は、手代の新吉が心からの諫言を決して上の空に聞いてはいなかった。  新吉が心配しぬいている通り、こんどのことが悪く発覚すると、店の土台へ亀裂の入るような破滅になるかもしれない。  それはお久良も承知していた。また法月弦之丞やお綱たちが、何のために阿波の関を越えようとするのか、それもうすうすは察していた。 「けれど、あの方たちには、木曾路でうけた御恩があるのだからね」  今も寮の奥で、お久良はその新吉を前にしながら、深い吐息をもらしている。 「そりゃ恩はありますが、お家様のように、そう義理固くお考えなさらずに、店の船へ抜け乗りをさせることだけは、態よくお断りなすってはどうかと存じますが」 「私の気性として、そんな恩知らずのまねはできませぬ」 「じゃ、どうしても、明日の船へ」 「ああ、何とかいい工夫をして、阿波まで乗せて行ってあげておくれ。それだけのことさえして上げれば、後はとにかく、私の心だけはすむのだから」  新吉は口をつぐんでしまった。そしてもう止めるような諫めはしまいと思った。お家様は恩を楯にとって動かないが、お久良が江戸の生れだということに気づいて、恩という以外に江戸贔屓な、一種の加担がその心にまじっているのを覚ったからである。 「よろしゅうございます。それ程までにおっしゃるなら、なんとか思案をいたしまする」 「どうか、いいように、計らっておくれ」 「その代りに、お家様、あなたは大阪に止まって、今度の船でお帰りになるのはお見あわせなすって下さい。さすれば、すべてこの新吉が一存でしたこととして、万一の時にも、お店にはかかわりないように言い抜けまする」 「万事お前に任せておきましょう」 「ありがとう存じます。そうお任せ下されば、私の方寸次第ですから、よほど気軽にやり抜けられる気がいたします」 「ただ案じられるのは、安治川を出るまでの間。えびす島には御番所があるし、蜂須賀様のお船蔵の前でも、いずれ厳しいお検めがあるに違いない」 「さ、私も、それを頭痛にやんでいるのですが……」と、新吉は腕をくんで、顔をふところへ突っ込むように考えこんだ。 「もしも大阪を離れないうちに、露顕するようなことにでもなると、わざわざ恩を仇で返したような形になりますからね」 「荷物と違って人間ですから、よほどうまくやりませんと」 「何か、いい思案がうかばないものかしら」  明日の積荷に目を廻している店の忙しさをよそにして、お家様の部屋は、いつまでも静かに閉めきってあった。  ところへ、お米が寮の小門から、お久良に会いたいといってきた。  お久良は、別な者を会わせて用談をきかせた。なんとかいい思案のつかないうちは、そうしていられない気持であった。  お米の用向きは、自分と仲間との便乗を頼みたいというだけで、阿波の家中から貰ってきた船切手も所持しているとの話に、それなら明日の時刻までに、大川岸の船待小屋まで来あわせて下されば、取計らっておきます、と答えさせた。  それからも、明日の船出について、絶えず細かい用事がお久良の耳へ届いた。まだ一日の間があるのに、もうすぐに迫っているような気忙しなさが、つぎつぎにその部屋へ運ばれてくる。 「あ! お家様」  さっきから黙然と腕をくんでいた新吉は、やがて、不意に膝を打って、 「よい思いつきがございました」  と前へ乗りだしてきた。 「えっ、いい考えがうかんできたかえ」 「これよりほかに策はございませぬ。というのは、その……」とお久良のうしろを指さして、 「京都の梅渓右少将様からお頼まれしてある、その三ツの荷葛籠……」と言いかけて恐ろしさに唾をのんだ。  差された指につれて、お久良の眼もうしろへうごく。  そこには、雪のせ笹の金紋を印した三つの青漆葛籠が山形に積みかさねてある。このつづらは、すなわち京の堂上梅渓家から、徳島城へ送るべく、四国屋に託されたものだった。  暗黙のうちに、ふたりの心がうなずきあった。  新吉は合鍵を探して、そのつづらの一個へ手をかけた。 「お家様! お家様」  その時、あわただしい足音をさせて、小間使が知らせてきた。  その小女は、阿波の家中が見えた時は早く奥へ知らせるように、と前からお久良に言いふくめられていたので、 「あの、今ここへ、竹屋三位卿というお方に、森様という御家中が通っておいでになります」  と、おどおどした声でいった。 「えっ、三位卿様が?」  ふたりは、自分が離した合鍵の音にギョッとした。  白い光の紋流は五の目みだれに美しく沸えあがって、深みのある鉄色の烈しさと、無銘ではあるが刃際の匂いが、幾多の血にも飽くまいかと眺められる。  はばきから鋩子まで、目づもり三尺ばかりな関の業刀。  それが、灯明の前に横たわっている。  藍のような刀身からチカッと一波の光もよじれぬほど、静かに、それを持ちこたえているのは法月弦之丞であって、その切ッ尖と行燈の向うに、息づまったように坐っているのは川長のお米であった。  ここは、京橋口の船宿、鯉屋の二階。  少し風が強くなってきたのか、或いは、さしも夜更けてきたせいか、ドボリ、ドボリ、という川波の音が灯皿の細い焔を揺するかに聞えてくる。  お米は今この二階へ上がってきたばかりであった。四国屋へ行って明日のことを頼んでおいてから、すぐとその駕をここへ廻し、そして裏二階へ上がってみると、弦之丞がただひとりで燈下に刀の手入れをしている。  かれの眼が刀の肌に吸いつけられたまま、自分の姿が迎えられもしないので、お米はやや不平がましく、前に坐ったのであるが、氷のような光を見ると、駕のうちから考えてきた恋の言葉や媚めきも萎えおののいて、ジッと息をのんでしまった。  早く鞘に入れればよいのに──  こう思いながら耐えていた。  けれど弦之丞はいつまでも、刃斑にとどまる過去の血の夢に見入っている。もちの木坂で斬って斬って斬り飽いたあの夜の空模様は、なおまざまざとしてここに影を宿している。  これから先もこの無銘の刀が、幾多の血を吸うべき運命をもつのであろう。法月弦之丞という持主の白骨となる日が来た後も、人手から人手へ転々として、愛慾の血にぬられて行くに違いない。  そんな想像をえがくらしく、かれの眸が、ふと、お米のほうへうごめいた。お米は、なんということもなく後へさがらずにいられなかった。  凄艶な癆咳の女と刀の姿とが、その美を研ぎ合って争うように見られたが、弦之丞は刀をやや手元へよせて、軽く打粉をたたいていた。  その手のひまをながめて、お米は少し気が休まったように話しかける。 「あなたのおいいつけを守って、私もいよいよ明日は阿波へ帰ります」 「…………」  弦之丞はうつむきながら、膝のわきを探っていた。ゆうべ一晩中水に浸しておいて日蔭干しにした奉書紙が、綿のように揉んである。  かれはそれを掌にとって、軽く、刃を噛ませた。  指を切りはしまいかと、お米は女らしく危ぶみながら、 「あなたは?」といった。 「拙者も」  右手の刀をしごき、あざやかに拭き抜いて、 「──明日は大阪を立つつもりじゃ」 「すると、やはり一緒の船でございますね」  それには答えず、鞘をよせて音もなく刃を納れると、階下から梯子のキシム音がして、 「お客様」  と、亭主の顔が暗い中に伸びて。 「この間も見えた四国屋のお使いが、ちょっとお顔を貸して貰いたいといって、裏に待っておりますが」と、いって降りた。  救われたように後について立とうとすると、お米は急いで、 「あの、弦之丞様」と側へすがった。 「船はご一緒でも、私には宅助といううるさい者が付いていますし、阿波へ行っても、また落ちあえるまでは、しばらくお別れでございます」 「それは、ぜひもない辛抱ではないか」 「ですから……あの今夜だけ、ここへ泊めて下さいませ」 「明日の支度もあり、何かと忙しい場合、悠々と話などしている間はない」 「でも、もう遅くなってしまったのですもの」 「いや、そちの乗って来た駕屋の声が、まだ表のほうでしている様子。早くそれで帰ったがよい」  素げなく立ち上がったが、なお念を押して、 「ことにこの家のまわりにも、宵のうちから原士らしい者がウロついている。万一そちの不覚から、これまでの手筈を破るような場合には、もうふたたびこうして会う折はないぞ」  と、少し語気を強く言った。  お米はしかたがなく、帰りそうにした。それを見て弦之丞はトントントンと梯子を降り、裏口から外の闇を覗いて見る。  水口から少し離れた所に、苔のさびた石井戸があり、その向うに暗い笹藪がある。  縞の着物をきたひとりの男が、こっちへ手招きをしてみせた。 「新吉か」  と、弦之丞が闇を透かしてゆくと、 「へい」  両方から影が寄り合った。 「何か明夜のことで? ……」 「さようでございます。いよいよ雲行きがあぶなくなりましたので、それでお家様のご注意から、ちょっとあなた様のお耳へ」 「ではまた何か、明日の都合でも変ったと申すか」 「いえ、そういうわけじゃございませんが」  弦之丞とともに、鯉屋の裏に立った四国屋の新吉は、さらに声を低くして、 「実は今夜突然、竹屋三位様が寮へお越しになりました。で明晩のことについて、お家様も蔭ながらひどくご心配いたしております」 「や、あの若公卿が見えたと?」 「だいぶお疑いをもってるらしいお口ぶりなので」 「さては早くも下検分にまいったの」 「そうとも明らかにおっしゃりませんが、困ったことには、その三位卿と森啓之助様が、やはり店の船へ便乗させて貰いたいとおっしゃるのでございます。これはどうも断るわけにはまいりませんので、胸ではギクリとしながらお引請けしてしまいました。そこで明晩の手筈ですが、なにしろそんな按配で、ただお身装を変えたくらいでは、とても露顕せずにはおりませぬ」 「ううむ……いよいよ難儀が重なってきたな」 「そこで、少々お苦しいかもしれませんが、ふた夜ばかりの御辛抱、こうなすッたらいかがであろうかと思いついた一策を、御相談にまいりました」 「その策とは?」 「京の梅渓家から徳島へ依託されました三ツの葛籠がございます。それも明日の便船へ積みこむことになっておりますので、ひとつ、そいつをからくりして」 「しッ……」  といわれたので新吉が声をのむと、そのとたんに、弦之丞の手裡を離れた小柄が、キラッ──と斜めに闇を縫って行った。  ちょうど小柄が届いたころ、井戸側の蔭で、ウームという人の呻き──忍び頭巾をまとった影がゴロゴロとのた打って転げだした。  それは、かれが宵から察していた、阿州屋敷の廻し者であった。  ザアッ……とそよぐ笹やぶを透いて、その時、駕の提灯が人魂のように向うを過ぎてゆくのを見た。  新吉がうごめく侍に目を白くしている間に、弦之丞はお米があきらめて帰ったことを知った。       *     *     * 「お綱……」  そッと門から呼ぶ者があった。  いよいよ阿波へ立つというその日の黄昏。  薄暮の色がうッすらと沈んでいる桃谷の町端れ、天満の万吉の家の前にたたずむ侍が低く呼ぶ。  紫紺色の宗十郎頭巾を、だらりと髷の上からくるんでいる横顔が空明りのせいかくッきりと白い。  両刀は手ばさんでいるが、どこか華奢な風俗、銀砂子の扇子を半開きにして口へ当て、 「お綱……」  と細目に格子を開けて覗く。  と、やがて内から障子が開かって、 「弦之丞様ですか」  とお綱の半身。 「時刻が迫っている、すぐに」と急いた。 「はい」 「支度は」 「すっかりしておきました」 「では……万吉には告げずに」 「お吉さんへ、ちょっと挨拶をしてまいります」 「これを渡してやってくれ」  内ぶところから厚ぼったく封じた手紙を出して、 「拙者たちが立ったあとで、万吉がそれと知ったら、さだめし恨みに思うであろう。委細の事情、やむなく書き残して阿波へ立つわけ。昨夜こまごまと書いておいた。これをお吉に渡して、後で病人に読み聞かせてくれるように、よく頼んでおいたがよい」  あれからずっと、万吉の家にいて、お吉と一緒に病人の手当てをしていたお綱は、もう朝から弦之丞の来あわせるのを待ちぬいていたところ。  浅黄の手甲脚絆をつけ、新しい銀杏形の藺笠と杖まで、門口に出してある。  もし万が一にも露顕した時には、四国屋で世話をしたことのある旅の能役者、桜間金五郎といつわるから、なるべく身装もそれらしくしてくれという新吉の注意だったので、お綱もあらかじめそんな支度。 「もし……お吉さん」  中二階を仰むいて、お吉へ軽く合図をしたが、なかなかおりてきそうもない。  お吉は、今の良人の容体ではとても起たれないのを覚悟しているので、ふたりが立つのを、病人が気どらないようにと祈っている。で、その合図も心得ている筈だった。  何か手離せないことがあるのだろうと、お綱はしばらく梯子の下にたたずんでいたが、なかなかお吉は降りてきそうもなく、病人のじりじりした調子で、 「むむ、いまいましい……早くどうかしてくれ、おれの体を。おれはまだ剣山まで行かなくッちゃならねえ。……お吉ッ。医者を代えてくれ、医者をよ。こんな気の永え療治なんかを待っていられるものか」  という声がひびいてくる。  中二階の悲痛な声を耳にすると、大事の前の小事と、心を鬼にしてきた弦之丞も、かれを残して去ることは情においてしのびなくなった。  梯子の下にしゃがんだまま、お綱もさすがに後ろ髪をひかれている。 「ううむ……また痛みはじめてきた。お十夜のやつに斬られた傷が……お吉、ほかの医者にみせてくれ、この傷が……この傷さえどうにかなれば、立てねえという筈はねえ。阿波へくらい、行けねえということはない」 「あ、お前さん、そんなに無理に動くと、よけいに後が悩むじゃありませんか」 「だって、じれッてえからな。あ……お吉」 「水ですか……水ですか」 「ううん、水じゃあねえ。……弦之丞様はどうしたろうな」 「ひとりでご苦心していらっしゃいますよ」 「四国屋のほうはダメになったのか」 「そんな話でございますけれど……」少し落ちついた模様を見て、お吉は梯子の上から顔を覗かせた。  そして、去りがてに、ためらっているお綱のほうへ、目まぜで早く立つようにいった。お綱も、目まぜで別れを告げる。  それをしおに、目に涙を溜めながら、編笠を抱えて格子の外へ走りだした。  後では、また万吉が何かわめいているらしかった。弦之丞は暗然として、外から、中二階の窓を仰いでいる。  その窓に、お吉のやつれた顔が見えた。  ご機嫌よう……と目にいわせて。  ふたりは夕明りの中に姿を揃えて、その目へ、その二階へ、心からの哀別を告げて早足に立ち去った。  東堀はドップリと暮れていた。  赤い灯影が映る隙間もないほど、川には艀舟がこみ合っている。四国屋の五ツ戸前の蔵からは、まだドンドンと艀舟へ荷が吐かれている盛りだった。  水脚を入れた艀舟は、入れかわり立ちかわり、大川へ指し下り、天神の築地へ繋っている親船へ胴の間をよせてゆく。  紫紺地の頭巾に面をくるんだ弦之丞と、青い富士形の編笠に紅紐をつけて、眉深くかぶったお綱とは、せわしない往来をよけて、農人橋の手欄から川の中を見下ろしていた。  そうした雑踏の中で見るだけ、よけいに二人の姿は、誰の目にもしがない旅芸人とよりしか見えない。よく世間にある侍くずれの能役者と、それしゃの果ての女とが、生活の旅に疲れたという姿だ。お綱が帯に秘し差にした柳しぼりの一腰さえ、尺八の袋か、笛や舞扇でも入れているかと、人目もひかぬほど調和していた。 「もし、桜間さん」  人混みの中をぬけてきて、なれなれしく呼びかけた者がある。  見れば、手代の新吉。  河岸どおりから姿を見かけて、約束どおり店からここへ駈けてきたのだ。 「お、新吉さんでございます」  言葉を合せると、往来の者へも聞こえよがしに。 「この間、旅先から手紙を寄越しなすったそうだが、なぜもっと早く来ないのかって、お家様も噂をしていたのさ。船が出るのは五ツ刻だから、まだちょっと間がある。とにかく、寮のほうへ廻ってお目にかかって行きなさい。なに、せわしい最中だが、私がちょっと案内をして上げましょう」  と無造作に、さッさと先へ立って、わざと店の前を通り抜けて行った。  その三人とすれ違った覆面の侍があった。ふりかえったが、やり過ごして、また、 「はてな、今の奴? ……」というふうに、農人橋の上に立って、腕ぐみをしていた。  するとたちまち、その覆面の侍へ、同じような目ばかり光らした者がちらちらと四、五人ばかり寄ってきて、 「おい、何を考えている?」  と、肩を叩いた。 「見つけた!」  腕ぐみを解いた侍は、ほかの者を突きのけるように走りだして、一散に、問屋町の裏通りへ隠れて行った。  それが誰からともなく伝わると、そこらの路次の蔭、天水桶の蔭、土蔵の横などから、こうもりのような黒い姿がうごめきだして、しきりに四国屋の裏や寮の辺へかけて、ひそかな跳躍をしはじめた。  りりりん……と潜り門の鈴が揺すれる。  後をがらがらと閉めて、 「さ、桜間さん、どうぞこちらへ」  と、新吉の声が招く。  船板塀の中はシットリと打ち水に濡れていた。  燈籠の灯が、暗きに過ぎず明るきに過ぎないほどに、植込みの色を浮かしている。 「変ったでございましょう」  そんなことを言いはじめた。ひとり呑みこみに新吉が。 「この庭もね、すっかり手入れをいたしましたから。はい、近頃ではお家様も、阿波よりは大阪のほうが住居みたいになってしまってな。さあ、ご遠慮なく、私について──」  ひとつ、ひとつ、前栽の飛び石をさぐりながら、弦之丞とお綱とは黙々としておぼろな影を新吉の後に添わせてゆく。  と。  拭き艶の流れている檜縁に、 「新吉かい?」  とお久良の影。  案じていたらしく立っていた。 「はい、お連れ申してまいりました」 「来たのかえ? 金五郎さんが」 「あまりご無沙汰しすぎているので、どうもしきいが高いとおっしゃってばかりいるので」 「そんなことがあるもんじゃない……。あの……」何か言いよどんでいたが、 「まあ、とにかく、奥へね」 「そちらのお方も」  とお綱を見た。  さすがに少し動悸をうちながら、お綱は編笠の紐を解く。 「では……」  と言葉すくなく、弦之丞は頭巾のまま、お久良について、中廊下から奥まった寮の一間へ。  裾を下ろして、やや急かれ気味に、お綱の入ったのと一緒に、その編笠を持ってやりながら、手代の新吉も同じ奥へ姿をかき消す……。  ──で、あとは人影もない。ただ前栽の木々に、蛍のひそむような静寂が残っていた。 「眠いのか! 啓之助」  西側の数寄屋である。  やはり同じ前栽の風致を前にした小座敷。  そこでこういう声がした。  竹屋有村が言ったのである。イヤ、叱ったのである、森啓之助を。  なぜ叱られたかといえば、啓之助、三位卿の前で、コクリとひとつ居眠りを見せた。  時刻の来るまで、ふたりはここで四国屋のもてなしにあずかっていた。それも昨夜からの話である。船待にしては長過ぎるし、多少寝たには違いないが、絶えず気を張っているので、頭も鈍重になっているところへ、船出祝いに出された酒も少しは飲んでいたので、思わず、居眠りも出たというわけ。  だが、三位卿はピンとしていた。さすがにお公卿様の育ちである、折目正しく神経を冴えさせていた。  で、仮借なく、 「眠いのか!」ときめつけた。 「いや、決して」  啓之助はあわてて顔を撫で廻したが、自分でも、赤かろうと分るほど目が渋かったので、てれ隠しに箸をとり、わさびを溶いて魚の洗いをひと切れはさむ。 「決して、眠いなどと、そんな場合ではござりませぬ」 「お手前はちと物を食りすぎる、食べるから眠くもなる」 「はい、つい無聊のままに」 「無聊を感じられるほどお楽にいては困る。昨夜からとくと見るに、お久良の気ぶりにも多少腑に落ちぬ所もあり、かたがた油断はならない」 「拙者もそう感じましたが、証拠のないことにはと控えています」 「うむ」 「ことに、お久良のもてなしぶりが、あまりよすぎるのも疑わしゅうござる」 「なかなかご敏感じゃの」 「嫌な顔もみせず、この通りな善美な膳」 「それでツイ、箸がすぎ盃がすぎて、居眠りをし召されたか」 「そんなわけでもござりませぬが」と啓之助も少し眼がさめてきた。皮肉で居眠りをさまされた。  三位卿は膝もくずさず、時々、うしろの自鳴鐘をふりかえっていた。眼のさえた啓之助の頭には、船出のことと一緒に、お米の姿が描かれてくる……。  どうしたろうか、彼女の体の工合は?  大阪へ戻ってきては、また癆咳のほうがよくないのではないかな?  最初にこういう考えが頭へのぼる。  捨鉢になって人をてこずらす時には、実に憎い始末の悪い女と思うが、しばらく離れてみると、やはり自分にはなくてならないお米だった。  ほんの十四、五日というつもりで暇をやったのに、もう大分になる。もっとも船の都合ものびたのだが。  今夜は宅助と一緒に、ここの持船で阿波へ帰るといったが、どこかで、久しぶりに、あいたいものだ。いずれ船が出る間際には顔を見合す機会はあろうが、この竹屋卿という眼ざといのがいては、うっかり話も交わされまい。  啓之助の想像は楽しかった。  その時であった。  植込みを隔てた向うの潜り門に、空気のうごめきを感じて、有村が神経を研がしたのは。 「今……」  三位卿の様子が剃刀のように澄んだので、啓之助、 「何でございますか」  描いていた空想を散らして、その人の眼を見た。 「……鈴が鳴ったようだが」 「庭の客門には銅鈴がついておりました」 「誰かそこから前栽の内へ入ってきたのではなかろうか」 「探ってみましょう」 「ウム」  啓之助はすぐに立った。  数寄屋の虫籠窓へ顔を寄せ、しばらく外を探っていたが、庭木に妨げられるので、縁へ立って行くと、 「しずかに」  と有村が注意を送った。 「は」  白足袋に辷りそうな廊下、酔いでもさますふうを粧いながら母屋のほうをうかがってゆくと、その目の前へ、廉のような灯明りの縞がゆらゆらとうごいて。 「あ──もし」  と、簾戸を立てた部屋の内から、 「森様じゃございませんか」  とお久良の影が透いて見える。  啓之助はちょっと戸まどいをして、 「お内儀か、船の時刻は、まだなのであろうか」 「刻限がまいりましたら、お座敷へお迎えにまいりますはずなので」 「さようであったな」  廊下をぶらぶらしてみたが、しかたがなく、 「では」  と戻ろうとすると、 「森様、森様……」と呼び止めて、お久良はその部屋へ行燈をすえて、 「お伺いしたいことがございますが」 「拙者に」 「はい」  簾戸を開けて迎え入れると、お久良は啓之助を見ながら、意味ありげに笑くぼを作って、 「今夜の船で、あなた様のご懇意なお方も、阿波までお送りいたすことになっております」 「ああ、そうであったな」  お米のことであろうと、啓之助、少し間が悪そうに思い当たって、 「つい、礼を申すのも忘れていたが」 「いえ、滅相もござりませぬ」 「船に馴れぬ女のこと、何分、途中気をつけてやってくれい」 「たいそうお美しくっていらっしゃいます」 「いや、なに」  と顔を撫でるのを、お久良はニヤニヤ眺めていたが、 「なぜご一緒になって、途中見てあげないのでございますか。殿方の薄情を、さだめしお米様もお恨みでございましょうに」 「そう申されると困るが……」 「でも、せっかく、ひとつの船でお帰りなのではございませぬか」 「実はの」  と顎で数寄屋を指しながら、 「竹屋卿には話されぬ女なのだ」 「ホ、ホ、ホ。それは悪いご都合でございますこと」 「で何分、内密に計らっておいてくれるように」 「よろしゅうございます。そういう訳とは存じませんので、只今、船のお席もご一緒にしたほうがよくはないかと、あちらへお伺いに出るところでございました」 「いや、とんでもないこと!」  何をしに廊下へ出たのか分らない結果になって、啓之助はぼんやり数寄屋へ帰ってきた。  有村は彼を見るなりすぐに、 「どうであった?」  と声を低めた。 「別に、仰せられたような模様も見えませぬが……」と啓之助はあいまいに席へついて、 「お耳のせいでございましょう」といった。  すると、その言葉も終らないうちに、ふたりの坐している床の下から、ことん、ことん、と二ツばかり突き上げるような音がした。  自分の坐っている床下から、トンと、妙な音が突きあげてきたので、森啓之助、思わず体を浮かしかけていると、 「お」  といって、三位卿も片膝を立てた。  そして、啓之助に向って、 「しばらくの間、庭先とその入口を、よく見張っていてくれぬか」という。 「は」  とは答えたが、啓之助には解せない。  何で? と訊こうとすると、よけいなことは訊くなといわないばかりに、 「早く」とまた言葉を重ねる。 「承りました」  と啓之助、やっと縁口へ立った。  そして、ともかくも、油断のない目を配りながら、有村の挙動へも、時々注視を分けている。  三位卿は、静かに、あたりの器具を片寄せて四角に切ってある炉畳をブスッと持ちあげた。 「や? ──」と、啓之助が驚いて見ていると、有村は、半ばまで上げた畳のへりを片手でささえながら、暗い穴を覗きこんで、 「ふム、不審な姿をした者が……新吉とともにこの寮の潜り門へ、ほウ、桜間……桜間金五郎と申すと能役者らしい名前……なに、たッた今奥へ入ったというか、おお……そしてどこの部屋へ? ……」  などとしきりに床下と話しはじめた。  下には覆面をまとったひとりの原士──さっき農人橋の上で腕をくんだあの侍が──蟇のように身を屈していた。そして今、この寮の裏で見届けた事実を告げている。  能役者──桜間金五郎──紫紺の頭巾に銀杏笠の女? ──それらを端的に頭の中でつづり合せながら、三位卿、しばらく小首をかしげた後、 「これ」と、いっそうかがみこんで、 「ことによるとそやつこそ、弦之丞にお綱のふたりであろうもしれぬ。しかし、迂濶に先へ気どられて、せっかくこれまでおびきよせた長蛇を逸してしまっては何もならぬ」  ギリギリギリ……と髪切虫の啼くような自鳴鐘の音が、その時、有村の後ろでした。  ちらとふりかえって、 「ウム、もう六刻半」と心をせわしなくしつつ、 「船の出る潮時までは後一刻(今の二時間)ほどしかない。その間にとくと見定めておきたいが、どこじゃ、その男女が隠れた部屋は?」 「それと見た時に母屋の下も探りましたなれど、何せい、床下からはその見当がつきませぬ」 「念を入れて身を潜めば、気配ぐらいは分る筈、もう一度忍んでみい」 「はっ」 「その男女から寸間も目を離してはならぬ」 「心得ました、では」  と、床下の影がズリ退ろうとすると、 「待て待て」  と呼び止めた。  そしてちょっと思案をしなおすふうであったが、またすぐに、 「よし行け!」とキッパリいって──「この有村も屋敷裏へ廻って天井から母屋の様子を探ってみるであろう。万一、なんぞ非常な場合が生じた時には、呼子笛を吹いて合図をすること。よいか、くれぐれ先の者に気取られるなよ」  と、畳を伏せた。そして、 「これ、森──」と面をふり向けた。 「はっ」 「しばらくそこを動いてはならぬ」 「あまり軽率なことを召されては」 「いや、大事ない」  下緒を解いて、片だすきに袖を結び、隅の釣戸棚へ目をつけてスルリとその中へ身軽に跳ね上がった。 「啓之助、啓之助」  はずされた天井板の隙間から顔だけが白く見える。 「何でございますか」 「後ろを閉めてくれい、その、釣戸棚の袋戸を」 「暗うなりますが」 「かまわぬ」 「は」  と、かれはそこを閉めた後の森とした天井裏を見あげていた。──ミリッと梁のキシむ音が静かに奥へ消えてゆく。  と。ひと足違いに── 「おや、三位卿様はどうなさいましたか」  湯上がりでもあるらしく、艶に、薄白粉を粧ったお久良が、着物をかえて、部屋の前にたたずんだ。  ぎょっとしたが、啓之助、さあらぬ顔で、 「お、御退屈をまぎらわしに、今し方、庭下駄をはいて前栽のほうへ出られたが」 「そろそろお時刻が近づきました」 「ム、もう一刻ばかりじゃの」 「あまり間際に迫りませぬうち、天神の船待場の方へ、私が御案内申しまする」 「そうか……それは大儀……ム、では三位卿が見えられたら、すぐに支度をするであろう」  と落ちつかぬ自分の所作に気がついて、またそこへ坐りなおした。  お久良の眼は、有村の空席に散らばっている、藁ゴミをじっと見ていた。 茨の愛嬌  母屋の奥、寂とした闇の中に、三つのつづらがすえてあった。  雪のせ笹の金紋が、薄暗いその部屋の隅に、妖魅めいた光を放って──。  召使でも置き忘れたものか、交い棚の端に裸火の手燭が一つ、ゆら、ゆら、と明滅の息をついている。  家具や調度の物のあんばい、お家様の部屋らしいが、籠行燈は墨のような色をしてお久良も誰もいなかった。  すると、その向うの納屋の内で。  やはり灯明のない暗い中で。 「船のほうでは、松兵衛という水夫が、お家様の旨を含んで、よいようにしてくれることになっております。はい、もちろん私も、それへ乗って何かとおかばい申しますから、ご心配はございませぬが、ただあぶないのは、安治川を出ますまでの間で……」  あたりをしのぶ新吉の声。  その合間に密やかなのはお綱と弦之丞の言葉らしい。 「じゃ、私に方寸もございますから、お家様が数寄屋のほうをを防いでおります間に──」  やがて仕切戸が開いたかと思うと、静かな人の気配が中廊下へ出てきた。  新吉は先に前の部屋へ入って、つづらの側へ手燭を持ってきた。ガチャリと、ふところから合鍵の音をさせる。  中の荷はいつかほかへ移してあると見えて、つづらの中の四角な闇が、人を吸うべく待っていた。 「…………」  黙って部屋の外へ目じらせすると、お綱は笠で髪をかばいながら、ツウと寄って素早くその中へ身を潜めた。色彩をまぜた反物がひと抱えに入ったように。  弦之丞もまた、新吉が次のつづらを手早く開けたのを見て、「さらば」と、刀を手に、それへ足を入れかけた。  そして中へ身をかがめようとしながら、ふと蝋燭の焔を見て、ジイと心耳を澄ます様子であったが、何思ったか、不意に、一刀の鞘を払って畳の筋目へ逆持ちに切ッ尖を向け──ブスッと、鍔の際まで突き通した。  と。目には見えぬ所で、 「ウウッ……」と陰惨な──深いうめき声。  新吉は踏んでいる床が左右に揺れたかと思って角柱へ背なかを寄せたが、その入口に、いつの間にかお久良が来て立っていた。 「新吉や」 「ああ、お家様ですか」 「だいぶ探りが入っている様子、どうやら今夜の船は危ないようだよ」 「じゃあ所詮無事には出られますまいか」 「何しろ、奥に張り込んでいる竹屋卿という方がなかなか鋭いお人らしい」 「ああ」と新吉、思わず出足を鈍らして── 「そいつあどうも弱りましたな」 「私のほうはかまいませんけれど、弦之丞様、どうなさいますか」 「どうするかとは?」  おうむ返しにいって、畳へ立てた刀を上げ、脂をしごいて鞘に納める。 「その床下に忍んだような侍がまだ一人や二人ではございませぬ。それでも今夜の船へお乗りなさいますか」 「もとより危険は覚悟、ただ当家へ累を及ぼそうかと、それがいささかの心がかり」 「乗りかかった船、その御懸念はいりませぬ」 「では、強っても」 「そのお覚悟ならば」 「浮くか沈むか弦之丞が運の岐れ目」 「ほんとに、危なッかしいとは思いますけれど……」 「申さば鳴門の狂瀾へ吾から運命を投げこんで、大望なるかならざるか、いちかばちかの瀬戸ぎわへまいったのじゃ。すべては天意──このつづらに任せるのほかはない」  刀を抱いて沈みこんだ。 「じゃ新吉、お前もヌカリはあるまいけれど、早く天神の船待場へ」 「お家様は?」  と、ふたをしめたが、新吉、妙に胸が波立ってやまなかった。 「私は数寄屋の客を案内して、わざと道を違えて行くから」 「承知しました。では何かのことは向うでまた……」 「しッ!……」  お久良はいきなり袂で蝋燭の灯を打った。  はッと──新吉はつづらに抱きついて、自分の動悸の音を聞いた。  そのとたんに。  天井板の隙間から真ッ暗になった畳の上へ、バラバラと落ちてきた塵……針がこぼれる程の音をたてた。  肋骨のような屋根裏の梁に手をかけていた三位卿。 「や、この下?」  と思ったので、天井板のつぎ目へ小柄をさし込み、そッとねじりながら隙間へ顔をよせてゆくと、刹那に、 「シッ……」と、下の部屋の明りが消え、やり場を失った目の先へツウンと蝋燭のいぶりが沁みてきた。 「怪しい……」  と、かれは直覚した。  しばらく息をためていると、やがて四国屋の若者らしいのがドロドロと暗闇になだれてきて、何かその部屋から運びだして行く様子──。  むせッたい煤の暗闇を這って、有村は前の茶屋へ戻ってきた。  みると、いる筈の啓之助が、そこに姿を見せないので、 「きゃつめ!」と舌打ちして、 「どこへ行ったのだ。ここを見張っていろといっておいたに」  塵を払って前栽のほうを眺めていると、庭木の間を潜って近寄ってくる影がある。 「啓之助か──」 「有村様」 「何をうろたえておるのじゃ」 「ただいま原士の者が」 「原士がどうした?」 「一散にここを離れて、船待場のほうへ急ぎました」 「分った、今のつづらじゃ」 「え、つづら?」 「そちも支度をせい、すぐにまいろう」 「は……」と、啓之助が取り散らした懐紙や扇子などをあわてて身につけている間に、三位卿は行燈を吹ッ消して、すたすたと廊下へ出た。  すると、さっきの簾戸の蔭で、 「もし、お待ちなさりませ」  という声がする。 「誰じゃ……」  急いているので語韻にも気が立っていた。 「お久良でございます」 「ウム、お久良か──」と有村はキッと唇を締めた。 「ただいま、船待場のほうへ御案内いたそうと存じて、支度をしているところでござります。天神の河岸のほうは、荷方の者や便乗のお人が混みあっておりますから、水夫などがどんな御無礼をいたさないとも限りませぬ。それに、船のお席も私がまいらぬと分りませんから、ちょッとお待ち下さいませ……ただいま、提灯を灯して、すぐにお供をいたしますから」  いっているうちに、お久良は店印のついた提灯を手に持って、有村の前へ姿を立たせた。  かれはかれ一流の読心的な態度で、眸に威をこめてジッとお久良の顔を凝視したが、その眼ざしを邪魔するように、下から射す円い明りの輪が、薄化粧の腮にふわふわとうごいて、才はじけた年増の笑くぼがなぶるように映って見える。  心は先を急いて猛っているが、こちらが表面の理由に偽ってきている以上、先の当然な言葉を退けるわけにはゆかない。ましてや、あくまでニコやかな心尽くしを。  有村はじりじりと思う。  先にお久良の部屋で見ておいた三個のつづら。あの雪のせ笹のつづらこそ怪しい。  寮の外へまきちらしておいた原士どもも、それが密かにこの家を出たのを嗅ぎ知ったからこそ、いっせいに船待場のほうへ追ったのであろう。  だが、どうにもならない気持で、かれは苦いうなずきを与え、大股に表のほうへ歩みかけた。  と──お久良はまた、和らかに呼びとめて、 「三位様、お履物はわざと前栽のほうへお廻し申しておきました。何せいもう表のほうは、荷埃や店の者で乱雑で、お足の踏みどころもございませぬ」  と声がらまで、愛嬌のよい物いいぶり。  庭木の暗がりを照らしながら、先に立って一歩一歩と導いて行くのにも、商家の内儀らしい細心さや年増の優しみが溶けていたが、今の場合! 寸刻もどうかと思うこの間際! 三位卿と啓之助の心になってみれば、婉曲な女人の案内は、むしろ始末にならぬ茨の枝にまといつかれている如しだ。 つづらの闇 「もう来そうなもンだが」  と、さっきから仲間の宅助、天神河岸の築出にたたずんで、お米の姿を待ちあぐねていた。  広い闇を抱えた埋地の船岸には荷主や見送り人の提灯がいッぱいだ。口々にいう話し声が、ひとつの騒音となってグワーと水にひびいている。  とんでもない大声で船夫の猛るのや、くるくるとうごいて廻る影が四国屋の帆印をたたんだ二百石船の胴の間に躍ってみえた。宅助は、そこの桟橋にも寄ってみたが、お米はまだ来あわしていなかった。 「ちッ、何をまごまごしていやがるんだろう」  舌打ちをしながら、提灯の中をぬけて、またトップリと暗い埋地の草原をぶらぶら歩き廻っている。 「冗談じゃねえ、いい加減立ちしびれてしまった。どこかに、一服やる所はねえかしら」  そう思って見廻すと、向うの浜倉から少し離れた所に、屋台うどんの赤い行燈が見えて、その明りに、雑な小屋のあるのがすぐと目につく。  側へ行って覗いてみると、小屋の中には藁ござや床几もあり、煙草の火縄なども吊るしてあるので、 「船待場だな」  と、うなずきながらござの上へドッカリと腰をおろし、首にかけていたまんじゅう笠をそれへはずした。  夜の潮風を察してひっかけてきた渋合羽の前をはだけ、二本の毛脛を立てながら、そこで、スパリと一服吸っていると、向うの屋台うどんの床几に、編笠をかぶったひとりの浪士と、ふたりの子供の影が見える。  むッつりとしたその浪人者は、誰か人待ち顔に時折笠をあたりへめぐらし、広い闇を見廻しているふうだったが、子供のほうはうどんの器を吹いて、チューチューと音をさせながらすすっていた。それがいかにも美味そうなので、宅助も急に食慾をそそられ、船待の小屋から居なりに声をかけて、 「おい、うどん屋、こっちへもひとつ頼みてえな」  と煙管をハタいた。 「へい」  というと、間もなく、剥げた盆の上にお誂えが乗ってくる。莨入れの底をさぐって、 「いくらだい?」 「十二文です」  ザラリと銭を盆へのせてうどんを取る。 「ありがとうぞんじます」 「父さん、ちょっと聞きてえんだが」 「へい」 「お前は、夕方からここにいたのかい」 「船が出るのを当てこみに、明るいうちから屋台を曳いてまいりましたんで」 「売れたろうな、さだめし」  と、箸でうどんを上げながら── 「なかなか美味えもの」 「はい、お蔭様で、八軒家やこの辺では、かなりよく売れますんで」 「そうだろう、もう一ツくんな」 「ありがとうございます」  代りを取って側へ置いた。 「ところで俺の来る前に、ここへ二十四、五になる女が見えなかったろうか」 「お女中様でございますか」 「そうだ、俺の風態を見て、ザラにあるお女中と間違えちゃいけねえぜ、スラリとした柳腰よ、ふるえつくようないい女なんだ」 「さあ? ……商売に気をとられて、ツイどうもうッかりしておりましたが」 「見かけなかったかえ?」 「お見かけ申しませんでしたね」 「じゃ、やっぱり来ねえのかしら」 「この船へ乗って立つお方でも、見送りにおいでなさるんですか」 「そうじゃねえ、俺がお供をして阿波へ帰ろうという人なんだ。やがて時刻も迫ってくるのに、だから、こっちも気が気じゃあねえところさ」  といっていると、向うに立った編笠の侍が、 「うどん屋、子供の食べた代を取ってくれい」 「二十四文でございます」  うどん屋が揉み手をすると、浪人は紙入れの内から二歩銀を一つつまんで、 「これへ置くぞ」  と屋台へ乗せた。 「あ、恐れ入りますが、細かいのを持ちあわせはござんすまいか」 「つりは要らん……ところで……しばらくの間邪魔ではあろうが、この二人の子供をここに預かっておいてくれぬか、だいぶ疲れておるのでな」 「じきにお戻りなさいましょうか」 「うむ、船の出るまで!」  フイとどこかへ見えなくなった。  それを眺めて宅助も、 「あ! おれもこうしちゃあいられねえ」と塵をはたいて跳ね上がった。 「早く来てくれりゃいいが、何をしているんだろうな、お米のやつは?」  と独り言にじれて、饅頭笠を持ったまま広い空地へさまよいだした。 「おお、あぶないぜ」  後に残ったうどん屋は、丼を洗いながら床几に居眠っている子供を眺めて思わず笑った。 「可愛い子だな、疲れているといっていたが、どこから来たんだね」  空腹をみたされて急に眠気ざした子供は、それに返辞もしないで時々縁台から転げそうになっていた。 「は、は、は、罪はないな。だが、そこで居眠っていちゃ危ないから、今おじさんがいい按配にしてやろう、こっちへおいで、こっちへ──さあさあここならいくら寝ぼけたって腰掛から落ちる心配はない」  と小屋の中へ連れてきて、その子供の寝床を作ってやろうという考え──何気なく奥に見えた荷物のかぶせになっている蓆を五、六枚めくり取ると、その下から金紋のついた青漆つづらが三つ見えた。  金紋に怖れをなして、うどん屋は抱えただけをソッと持ってきて、向う側の隅へそれを重ねてやる。子供は他愛なくもたれあって寝てしまう。  するとそこへ、ひとりの男が駈けてきた。四国屋の手代の新吉だった。少し気の立っている血相で、 「おい、うどん屋!」と外で呼ぶ。 「へい」と飛びだして「差上げますか」 「イヤうどんは要らない、今ここへ高貴なお方が見えるのだから、屋台をあっちへ引っ張って行っておくれ、目障りだ」 「へい」 「咎められないうちに、早くあっちへ行きなさい、あっちへ」 「へい」 「船が纜を解く間際には、よけいに混雑するから、屋台を引っくりかえされたって知らないよ」 「ヘエ、ですが……」と何かいおうとした時に、屋台をかすって、覆面をした侍が十四、五人、追い立てられた夜鴉のようにバラバラと疾走して行った。 「あっ……」と、うどん屋は肝をつぶして、あわてて商売道具を遠くへ運んで行った。  新吉はというと、原士の一群が目の前を通り過ぎた途端に、小屋の蔭にかがみこんでいた。そして、その足音の消えるのを待ってソロソロと奥のほうへ這いこみ、静かにまたたいている金紋の光へ探り寄った。 「……御窮屈でございましょう……ですが……ヘエ、もう間もなく……船から松兵衛という船頭が、水夫を連れてまいりますから……委細は松兵衛が……」と問わず語りにつづらの中と話している。 「……はい、だいぶ原士が立ち廻っております、なにしろ安治川を出るまでが御難儀で……いえ、三位卿はまだ見えません、来たらお家様と松兵衛が……ヘエ、どうかしばらく御辛抱を」  と言いかけていながら、新吉あわてて蓆をつづらへかぶせて首をすくめた。  ピカリッと手槍の紫電、小屋の前をはすかいに流れたかと思うと── 「怪しい奴ッ!」  突ッかけてきた声だった。  新吉は自分の背すじからつづらの中へまで、その光り物が突きぬいて行ったかと生ける空もなかったが、 「わッ……」  と、別な苦鳴を向うに聞いた。  ドタッ……と誰か倒れたらしい。  見ると槍をつかんだ覆面の死骸が、袈裟がけに切られてピクついている。  その側から白刃をひいて、ツウと寄ってきたのは深編笠の浪人の影──、小屋のまわりをしきりに見廻しているのは、さっき、うどん屋へ預けて行った子供の姿が見当たらないので、 「はてな?」  と探し廻っている眼ざし。 「お、あんなほうへ」  やがて、深編笠の浪人、遠く離れてゆくうどん屋の灯を見出して埋地の果てへ走りだした。  と──  ここに今しがた、血煙の立った様子を嗅ぎ知って、わらわらと集まってきた覆面の原士は──手槍や抜刀の光を隠して、スススと風のごとく、先へ走った編笠の影をつけて廻る。  で、新吉は、ホッと顔を上げながら、 「何だろう、あの侍は?」  と見送った。  が、すぐにまた新吉もそこを出て、船のほうへ打合せに駈けだしていた。なにせよ、纜を解く混雑まぎわに、八方で光る眼をくらまし、首尾よく三ツのつづらを船底へ持ち込もうという危ないからくり、並大抵な気苦労ではない。  もうそろそろ時刻の五刻半に近づいてきた気配、ざわめいていた船のほうも割合にヒッソリしてきた。  ただ、提灯の灯だけは船岸の近くにうようよとうごいている。  爽やかな風が空を吹き廻っている。星月夜だ。五月にしては珍らしい空。  このあんばいでは、海も順風、鳴門の浪にも大してもまれることはなかろう、まず、船出の幸先は上々吉だ。  けれど、その海へ乗っ切るまでに、何ぞ、予想もつかぬような大暴雨がやってこないとはいいきれない。今──その十万坪あまりの埋地の闇はひとつの廻り燈籠になった、三ツのつづらを心棒に、あまたの覆面や怪しげな編笠や、宅助や新吉や、そしてなお幾人もの影が、グルグル廻っているのだから……  これもその廻り燈籠の影絵の一ツ。  昔、楼の岸にあった古柳の名残とかいう空井戸の側に、夜目にもしるきといいたい女が、褄を折って腰帯に結び、手拭の端をつまんで姉様冠りをしなおしている。  と──向うに立った男を見つけて、 「宅助じゃないのかえ?」  と呼ぶと、 「お米さんですか」  と腰をかがめてくる合羽の影。  やッと巡り会ったという風に、喜悦を誇張して、 「冗談じゃありませんぜ。いくら探し廻っていたかしれやしねえ。エエ心配しちまった!」 「そうかい……ホ、ホ、ホ」 「そうかいもねえもンです、あれほど、船待の小屋と念を押したじゃありませんか。それをこんな所で、夜鷹みてえにしゃがみこんでいるンだもの、分りッこありゃしねえ」 「まあそれでも落ちあえたからいいじゃないか」 「またうめえことをいッといて、一杯食わすんじゃないかと、少しお冠が曲りかけていたところなンで」 「そうしたらどうおしだえ?」 「こんどこそはただ置きゃアしませんさ──まああしたの読売にゃ、お米殺しと出るでしょうよ」 「おお怖い……」  と、わざとらしく男を見たが、ちっとも怖そうな表情でなかった。 「とにかく、も少しあっちへ行っていようじゃありませんか」 「あっちッていうと?」 「船待の小屋にいるのが一番です。あすこにいりゃ、出る間際にだって船頭が知らせてくれます」 「じゃ、そっちへ行ってみようかね」 「お米さん」 「エ……」 「誰か探しているンですか」 「なぜ」 「イヤに後先を見廻しているじゃありませんか」 「そうかい」 「そうかいッて、自分のしていることを」 「淋しいからだよ……妙に広くってさ、イヤなものだね、船旅に立つ夜というものは」  弦之丞様、弦之丞様。  どうしたろうか姿が見えない?  ──そう思う闇はお米には淋しいはず。  争闘と愛慾。ひそむ者と追う者。  次々に奇しき影絵は巡り廻ってくる。  お米と宅助がそこを去ったかと思うと、空井戸の縁に手をかけて、中からヒラリと躍りだした者があった。  たッた今、向うの小屋から、うどん屋の灯を目的に走って、原士の群れにつけられたあの編笠の侍。 「違う! ……」と、ぽッつり一語。  こうつぶやいて、お米の後ろ姿に小首をかしげた。 「年ごろもよく似ていたが……」  腕ぐみをして、二、三歩、前へ伸びようとすると、捨石の蔭から這い寄って行ったひとつの影が、 「うぬッ!」  と組みついてたすきにしぼる。  ダダダッと四つの足が乱れつよれつ──草の根を踏みにじって、 「で、出合えッ。組ンだ!」  叫ぶと一緒に側面から、 「おっッ」  といってまたひとり、駆けよりざま太刀を突いてきた──無論、絞りつけた編笠の脇腹へ。  だが──颯光はそれた。引くも遅し! 横一文字に相手の剣! あッと思いつつ、のめり込んで、その刃を抱いてしまった。 「うう──ッ……」  と一方が横倒れになるとたんに、目を閉って、組みついていた腕だすきも、ハッとふりほどかれて、侍の肩を越した。  そしてその体が地につかぬうちに、腕の付根から肋骨へかけて、ザッと、あまりにすごい二の太刀がかかる……。  目にもくれず編笠の影は、刃の血をビューッと振って、 「ああ、子供たちの身も気がかりな……それに、阿波の手配りも思いのほか厳しい様子、この分ではさすがの彼も」  と、面を星にふりあげていると、足もとから不意に、断続した呼子笛の音が水のように鳴った。  斬り伏せられた傷負のひとりが、断末苦の必死に、あえぎながらくわえた呼子笛……。  その絶えだえな音がかすれ消えると一緒に、八方から集まった原士の影は、仲間の死骸をとり巻いて、無念そうに、不思議な編笠の出没にじらされ、かつ錯覚を起こし、じだんだを踏んで口惜しがった。 「奇怪な編笠、何者だろうか」 「無論、幕府方の奴に違いない。今夜の騒ぎにまぎれて、やはり御本国へでも入り込もうとして来たのだろう」 「この斬り口を見ろ! すごいやつだ。とても唯の曲者ではない」 「ことによるとそいつの正体が、法月弦之丞なのではないか」 「う……うム? ……それも大きに」  と、やや背すじの寒さを感じてどよめいていると、 「何じゃ、何かあったか!」  と駆けてきた者がある。 「や、森啓之助殿──」と輪をくずして後ろを見ると、啓之助と一緒にきた竹屋三位卿、七、八間離れた所に、お久良の持ち添える提灯をうけて立っている。  宵のうちから、この埋地の闇に怪しい編笠の侍が出没して幾人かの原士が斬られたという話を聞いて、啓之助は小首をかしげながら、それを三位卿に囁いた。 「ふウむ? ……」  と思い当たる様子もなく、 「何奴だろう」  と彼のつぶやきも同じであった。 「有村様……」と啓之助、袖知らせをして、お久良の側を離れながら、 「──手口を見るとすばらしく腕の確かな奴なそうで、或いは、それが弦之丞ではないかと申しおりますが」  三位卿の思判も少し錯覚にとらわれてきた。  お久良の部屋から密かに運び出されたつづらこそ怪しむべしと目星をつけてきたが、原士の言葉を綜合すると、またその深編笠の正体も怪しまざるを得なくなる。 「旅立ちは急くもんじゃねえ。まだ煙草ぐらい吸う間はゆっくりありますぜ」  と宅助は、ムリにお米を船待小屋へ連れこんだ。 「お誂えだ、ちゃンと蓆が敷いてある」  合羽の裾をまくッて、 「どッこいしょ──」と腰をすえる。  お米もひとつ蓆に並んで、紅緒のついた両足を前へ投げだした。  ちょうど、いい按配によりかかる物があった。  宅助もよりかかって、後ろの物を枕にしながら── 「お米……一昨日の今ごろはよかったなあ」と、いやらしい思いだし笑いを浮かべる。「一昨日って? ……」 「松島の水茶屋サ、あそこの奥の四畳半サ。忘れちまうなア薄情だな」 「忘れやしないけれど、まじめくさって不意にそんなことをいうからさ」 「だが約束を違えずに今夜ここへ来た心意気は買っとくぜ」 「私の気性は一本気なンだよ」 「どう一本気なのか、聞きてエものだが」 「こうと思う男にぶつかるとネ……その気性がよくないと知りながら」 「ヘ、ヘ、ヘ。ほンとけえ?」 「さあ、お前にはどうだか」 「あれ」 「憎いねエ、知りぬいているくせに」 「あ痛……」 「来たよ、お離し」 「え」 「人がさ……」と身をねじると、そこへ誰かの影が立って、小屋の内を覗きこみ、 「宅助ではないか」といった。 「ア! 旦那様で」  と、これには驚いて立ち上がった。 「そこにいるのはお米ではないか。久しぶりだな」 「ハイ、永らく気ままに遊ばせていただきました」 「ウム、いよいよ帰るか」 「お蔭様で大阪にも、ゆっくり滞留いたしました」 「それですッかり気がすんだであろう」  と啓之助、ひどく機嫌がよい。 「いろいろと話もいたしたいが、なにしろ三位卿が御一緒でな」 「宅助から聞きましたが、そんな御都合だそうで……」 「いずれ帰国した上で、ゆるゆるいたすが、船の中では一切素知らぬふうを粧っているようにな。よいか」 「旦那。ご安心なせえまし、宅助が呑みこんでおります」 「ではあろうが、乗る間際にも、充分に気をつけてくれ、なにせい連れが、お公卿にしては血の巡りのよすぎるお人だ」 「で、その三位卿様は?」 「いま彼方で、原士の者に何かいい含めておいでになる。その隙をみて、大急ぎでここへ探しに来た訳だ。ウ、なに、弦之丞のことか? いずれこの船が安治川口を出るまでには、何とかして捕まるだろう。とにかく、船の上へ追い込んでからの方策だといっておられたから。お、船といえば、乗ってからも、決して言葉をかけてはならぬぞ。ではお米、くれぐれもそのつもりで、さびしかろうが徳島まで一日ひと晩の辛抱じゃ……」  啓之助は落ちつきのない様子で、それだけいうと、スタスタと三位卿のいるほうへ大股に立ち去った。  その後ろ姿を見送って、 「うふッ……」と、宅助、口を押さえて吹きだしたものである。「もったいねえくれいお人好しだなア」──と。 「お米」  と、そこでまた、色男へ立ち返った気で、以前の所へドッカリ腰をすえなおした。 「小屋の中が暗かったからいいようなものの、不意に、コレ宅助と来やがったんで、すっかり面食らってしまった」 「でも気がつかなかったから倖せさ」 「付かれて堪ったもンじゃねえ」 「やっぱり悪いことはできないものかね」 「河豚の味と間男の味、その怖いのがよろしいので……」  と、いい気持で、後ろへ体をよっかけてゆくと、ズルズルと襟元へ蓆が辷り落ちてくる。 「エエ、塵が入った……」と背中へ手を突っこみながらふりかえってみると、蓆をかぶせた四角い荷物。 「つづらだナ」  といったが、宅助、別に気にも止めなかった。  ちょうど、凭れぐあいがいいのに任せて、そのつづらによッかかりながら、 「ええ、お米さん」  と、神ならぬ凡夫、 「こう寄んねエな……」と女の肩へ手を廻した。  お米は顔をそむけて、 「あ、およし」  と、宅助の青ひげを避けるようにした。 「なぜエ」 「まだ動悸が鳴っていて息苦しいンだから……後生……手を離しておくれ、この手を」  頼むようにいえばいうほど、宅助の腕は女を苦しめた。お米は腹が立った。人が方便に白い歯を見せていれば──。  それに、嘘ではなく、仮借のない下司男の力に、心臓がしめられるようだった。 「およしといったら……もう船の時刻も来ているのじゃないか」 「まだ大丈夫だッていうことよ」 「ま、くどい!」  後ろの荷物へ押しつけられて、ズズと背中を辷らせたかと思うと──  どうしたのか? 宅助。 「うッ! ……」  と突然、妙な呻き声をふくみ、それと一緒に、激しい痙攣を起こして四肢を硬直させた。 「宅助ッ……宅助や……」  お米は、自分の首にからみついている彼の手が、肌へ爪を立つばかりに、ブルブルと慄えてきたので、色を失った。 「ど、どうしたンだえ⁉ 宅助や……あれ……宅助ッてば!」  一本一本指をもいで、ソウと体を起こしてみた。  と──どうだろう! 眉をしかめた形相を青蝋のような色に変らせて、グタッと、お米の肩へもたれてくる。 「あっ……」  と支える手の先に、何か? 温い液体がタラタラと伝わってきたので、よくよく目をこらしてみると、宅助の胸の脇、ちょうど肋骨の下の辺に、キラッと光る物が突き抜けている。  わずかに見えたのだが、まぎれもない、小柄か短刀の切っ尖。 「…………」  お米は、キャッという悲鳴も立て得なかった。  喪心したようになって、ふわりと、宅助の体を離した。  そして、歯の根のわななきをこらえながら、懸命に、腰を立てようとした。  すると……。  ギイと蝶番いの鳴る音がして、後ろのつづらの蓋がひとりでに口を開いたかと思うと、その中から肩を起こした紫紺頭巾の人影。 「お米……」 「…………」 「お米」  しずかな声で呼びとめる。  お米は一念に歩こうとしていたが、どうしても前へ体が運べなかった。  足に釘でも打たれたように、ワナワナとすくみ立ちにふるえているばかりで──。  いつのまにか左の袂が、もう一つのつづらの口に噛まれている。  と、うしろから伸びた腕が、 「待て」  と襟元へ触ったので、かの女は今が最期のように、思わず声をしぼって、 「ひイ──ッ」と地べたへうッ伏せになった。その途端。  もう一つのつづらがポンと開いて、咲きひらいた花のように、 「弦之丞様──」  と、お綱の顔がニッコリと笑う。 「しッ──」  と、手を振って耳をすます。  誰かの跫音でもして来たか、ふたりの影は、つづらの蓋と一緒に吸われたように消え込んだ……。  そこへ、風のようにはいってきたのは、あの編笠の侍だった。  うどん屋を捕まえて、ようよう子供の居所を聞いてきたと見え、一本槍に小屋の隅へ駈けこみ、藁にくるまって正体なく寝入っていた子供に何かささやくと、また、風のごとく出て行った。  その跫音に、 「ウウム……」と、宅助は動きだした。  そして、傷口をおさえながら、小屋の羽目板につかまって立ち上がると、その足にからんで、お米も必死な力で、よろよろと腰を切った……。       *     *     *  二百石船の舳に立って、水夫頭が貝を吹いた。  五刻半だ。  にわかに、埋地の闇や水明りの船岸に、ワラワラと人影がうごき出す中を、一散に、船待小屋へ目がけてきたのは、竹屋三位卿。 「つづらはここか」  ついてきた原士を顧みていうと、 「は、四国屋の若者が、たしかに最前、ここへ運び入れましたはず」 「ウム」と重くうなずいた。  そして一歩、中へ足を踏み込もうとした時に、ゴソゴソと、すれちがいに、外へ出てきた者があった。  手拭に髪をくるんだ若い女と、渋合羽にまんじゅう笠をかざした仲間。  出会いがしらの目を避けて、さりげなく行き過ぎようとした男女の足は、 「待てッ!」  という一喝を浴びて、思わずすくみ止まってしまった。 「不審なやつ、ふたりともしばらく待て!」  こうしっかりと呼び止めておいて、三位卿、あの炯々と射るような眼をジッと注いだ。  まんじゅう笠のツバをおさえて、小腰をかがめた仲間と、手拭をかぶった艶やかな女の影が、暗がりの中に肝を縮めている。女の口にくわえている手拭の端がワナワナとふるえているように見えた。  だが、この男女があわてて小屋から出てきたとたんに、誰よりも狼狽し、誰よりも穏やかでない色をなしたのは、三位卿の側についてきた啓之助で、向うにうずくまった影を見るや、 「ちッ、どじな奴め」と人知れず腹立たしい舌打ちをしたことである。  アレほど噛んで含めるようにいってあるのに、何をぐずついてこんな所に、有村の目に触れるのを待っていたのだ! 迂愚め! 鈍智!  人前がなければ森啓之助、こういって、頭から男女をどなりつけたに違いない。  この上はうまく三位卿をゴマ化して、難なくこの場がすんでくれるようにありたいものだ、と心のうちでひたすら祈っていると、願いは覆されて、有村はうしろへ顎をすくった。 「あの男女を捕えて糺してみい。どうやらうさんくさい風態」 「あっ」と、原士の二、三名が、躍り立ちそうに見えたので啓之助はぎょッとして、開くべからざる口から、思わず、 「しばらく!」と叫んでしまった。 「なんで止めるか」 「は、実は」 「実は? ……」と眉をひそめて「実はなんじゃ」と三位卿、きびしくたたみかけて行った。 「手前が用事をいいつけて、先に大阪表へよこしておきました仲間にござります」 「ふム、お手前の仲間であるとか」 「宅助と申します者で……それに相違ござりませぬ」と、腋の下に冷汗をかいている。 「して、一方は」 「は……?」 「アノ女は。一方の艶めいた女は、アリャ何者か!」  啓之助はみじめなほど口吃って、 「あれは、その、私の身寄りのもので」と、手の甲で額を拭く。人の悪い三位卿、その様子で、ははあ、とうなずいているくせに、なお初めて聞いたように、 「あんな美しい身寄りが其許にあったとは初耳である」と苦笑をふくみ、皮肉な眼で啓之助の足もとから逆さに見上げた。 「どうも恐れ入りました」 「なにも恐れいることはない、身寄りとあらば格別の間がら。これから船へ乗るのであろう、親切に面倒をみておやンなさい」 「いや、仲間がおりますから」 「遠慮するな!」  痛い言葉だ。 「宅助ッ」と啓之助はその腹立たしさを向うへ当って、 「たわけ者め、何をまごついているのだ。早く船のほうへ行かんか、船のほうへ。お目ざわりなッ」  と叱りとばした。──すると三位卿はもう小屋の中へ入って、あっちこっちを見廻していたが、 「ヤ、いつのまにか、つづらは船へ運ばれているぞ」と叫んだ。  ここに三個のつづらがあったことを、たしかに見届けていた原士たちは、驚いて有村と一緒に小屋の中をかき廻したけれど、荷縄の束や蓆が山に積んであるばかりで、つづらはいつのまにか運び出されてある。  と。ひとりの原士。  隅の方に抱きあって、怖ろしそうに眼をさましていた二人の子供を見つけだした。 「おい」と、その前に二、三人立って──「お前たちはこの小屋に寝ていたのか」 「ウン……」と、姉らしいほうの少女がわずかにうなずいた。 「じゃ知っているだろう! たしか向う側の隅に蓆をかぶせてあったと思う、三ツのつづらが置いてあった筈だが、それを誰がいつ運びだしたか、知っていたら教えてくれい」  弟であろう、十か九ツくらいな子、姉の胸に抱かさりながら、 「たッた今だよ」  と少しふるえながら答えた。 「今? ふム……」 「たッた今──小父さんたちがここへ来てから」 「そうではあるまい、見なかった」 「嘘じゃアない、本当だよ。その後ろの戸を開けてそッと裏のほうへ持ちだして行ったンだ」  また先を越されたな! と有村は唇を噛んだ。  しかし、自分の計画は船の上にあるのだから、お久良とはらを合す者が、巧みにつづらを運び去ったとしても、それはむしろこっちの思う壺へ墜ちて行くのだ! と笑止にも考えられる。  やがてあの親船が、安治川屋敷の裏へかかれば、水見番の詰所には天堂一角が見張っており、周馬や孫兵衛も手ぐすね引いて待ち構えている! もうどんなことがあろうと、ここまで追い込んできた網の目から、かれらは遁れることはできない。  こう信じて三位卿は、ゆうゆうとそこを引き揚げた。そして親船のほうへ足を向けてくると、お久良が提灯をかざして呼んでいる。  ぼウ、ぼウ、ぼウ……と出船の貝がゆるやかに鳴りだした。折から潮も満々と岸をひたしてきて、夜はちょうど五刻半ごろ、大川の闇は櫓韻にうごいてくる……。  合図の貝ぶれと一緒に、二百石船の胴の間はいちどきに人をもって雑鬧してきた。船頭絞りの水襦袢をつけて帆役や荷方、水夫や楫主が、夜凪をのぞんでめいめいの部署に小気味よくクルクルと活躍しだす一方には、手形を持って便乗する商人だの、寺証をたよりに乗る四国詣り、城下へ帰る武士、諸州巡拝の山伏、人形箱を首にかけた阿波祭文、そのまた雑多なものがドカドカと混み入って、潮除けの蔀をめぐらした胴の間へ埋まった。  阿波には他領者の入国禁制がかなりきびしく行われているが、やはりそこを郷土としている者、是非の用務がある者、信仰に国境なしと踏み歩く行者たちは、皆なんらかの縁故や手づるを求めて是非にもこうして渡るものとみえる。いや、平常の便船がないだけに、こういう場合は、いっそう人が混むのかも知れない。何しろかなり多くの頭数であった。その中には、森啓之助が人しれず気に病んでいるところの艶な女と合羽をかぶった仲間も、混雑にまぎれて後ろ向きに座をしめていた。  で、雑人たちが落ちついた一番最後に、竹屋三位卿と啓之助とは、四国屋の提灯に囲繞されて、送りこまれてきた。それと見ると、松兵衛という老船頭、つづらについて阿波へ行く手代の新吉、ばらばらと駆けてきて、三位卿を艫寄りの屋形へ案内した。 「松兵衛や、心得てはいるだろうけれど、ずいぶん気を配って、途中御無礼のないように頼みますよ」  お久良はこういって竹屋卿の前へ進んできた。 「では三位卿様──」と腰をかがめて、「海上御無事にお渡りを祈っております」 「ウム、何かと世話をやかせたの」 「まことに行届かぬことばかりでした。それに御覧の通りな商船。お席もむさ苦しゅうございますが、どうぞお忍び下さいませ。また何かの御用は松兵衛に仰せつけ下さいますように。では森様もごきげんよう……新吉も頼みますよ」  お久良が陸へおりると同時に、船は天神岸を離れて粘墨のような黒い川波へゆるぎ出した。二百石船といえば十四反帆、苫数八十四枚、水夫十六人、飲み水十五石積だ。それにかなりの便乗者と雑貨雑殻がミッシリ入っているので、船脚もズンと深く沈んでいる。  船は流れに乗りだした。雑音のひびきも徐々に遠く、大川の中ほどをきわめてゆるく押しだされてゆく。太いともづながうねうねと波を切って艫へ手繰り上げられているのが大蛇のように見えた。 「ああ……」  お久良が重荷を下ろしたように深い吐息をもらした。ともかくも、ここまで運んだというホッとした気持がいッぺんにこの間からの気疲れを覚えさせた。そして、心の中で合掌をくんだ。 「どうぞ無事に彼岸まで、あのつづらが……」  いつの間にか、送りの灯は思い思いに帰っていた。お久良は吾を忘れたように船の影について岸を歩いている自身に気がついた。  そしてその足もとへ、誰かぶつかった者があるので、初めてオヤと我に返って見ると、姉弟の稚いものが手をつないでシクシクと泣いている……。 「誰か、船へ乗った人を、送りに来たのかえ?」  お久良がそう訊ねてみても姉弟はかぶりを振っているだけだった。 「どこから来たの、お前方は」 「江戸から……」 「えっ、江戸からだって、まあ。そして何でこんな所に泣いているのだえ? 連れの人にでもはぐれたのかえ? エ、そうなの」  姉弟は泣きながらうなずいた。  するとそこへ、闇を探しながら駆けてきた侍があった。あの編笠の浪人である。 「オオ、ここにいたか!」と子供たちの側へ来て両手に抱きこむと、姉弟も嬉しそうにすがりついた。と、侍はまた、編笠の目堰から水明りにお久良の姿をすかして、 「や! もしやそちは」  ツカツカと歩み寄ってきて、不気味なほどジッと顔を見ていたが、 「もとわしの屋敷におった久良ではないか」といった。 「エッ、そうおっしゃいますと、あなた様は?」 「見忘れておるのももっとも、もう十年も以前に、そちや多くの召使に暇をつかわした頃から浪人いたしておる元天満与力の常木鴻山じゃ」 「まア……」とお久良はよろめくばかりあきれた。  自分が恐ろしい危険を予覚しながら、弦之丞とお綱に尽くしたのも、その人が以前の恩主である常木鴻山と同じ目的をもっているのを知ったからである。ことにお久良は江戸に生い立っていて、二十歳ごろまで常木家に小間使となっていた。そして鴻山が浪人した後、縁があって阿波の四国屋へ嫁いでいたもので、そうした人の知らない好意が胸につつまれていたものだった。  だが、江戸に残っていた鴻山が、どうして不意にここへ来たのだろうか? それにもいろいろな事情があるが、要は道者船取止の沙汰をはるかにきいて、弦之丞の多難を知り、松平左京之介と計って、別な方策の打合せに急いで来たので、連れている姉弟の子供は、すなわちお三輪と乙吉であった。  弦之丞には、その後お千絵様の病状がよくなったことをついでに話してやりたいし、また、姉のお綱を慕ってやまぬお三輪と乙吉にも、もう一と目の名残を惜しませてやりたいと急いで来たが、ここへ来る前に、桃谷の万吉の家へ寄って聞けば、着いた日の今夜、ふたりは四国屋の船で阿波へ立つというあの弦之丞の置手紙。  で、疲れている姉弟を励まし、ただちにこの埋地へ駆けつけて、宵の内からさまよっていたが、そのうちに張り込んでいる原士には怪しまれ、尋ねる二人がまさか荷つづらの底とは分らず空しく水と岸とに別れたのである。  油断のならない埋地、ここでは深い話もできぬからと、お久良は思いがけなく会った旧主の常木鴻山とお三輪と乙吉の姉弟とを連れて、農人橋際の自分の寮へ帰ったのである。  そこで夜もすがら尽きぬ話となったのはいうまでもなかろう。  万吉が不慮のことで落伍したのにガッカリして、さらに弦之丞とお綱の前途にまで、心もとない不安を持っていた鴻山も、お久良が臨機な計らいを聞いて、いささか胸を撫でた様子。  なおその前途に、安からぬ暗礁を感じないではないが、既に、運を天意にまかせたつづらと船とは、還らぬともづなをきって天神岸から離れてしまった以上、今さらどう気をもんだところでおよばぬことであった。 「そちが十年前の縁を思って、こうまでしていてくれようとは、思いがけぬ神護であった。なおこの上は自分としても、ジッと弦之丞の安否を待っているのは心苦しい。で、迷惑の上の迷惑ではあろうが、この姉弟をしばらく寮に預かっておいてくれぬか。そして、桃谷の家に療治をしている万吉のことも、よそながら何分心づけてくれるように頼みたい」  こう言い残して、お久良の侠気を見込んだ鴻山が、ふたたび、藺編の笠の紐を結んで、四国屋の寮からいずこともなく飄然と立ち去ったのは……後の話。  さて。  大事はまだ当夜の四刻時ごろに残っている。  表面は夜凪のとおり無事平穏に天神岸からともづなを解いた二百石船──淀の水勢に押されて川口までは櫓櫂なしだが、難波橋をくぐり堂島川を下って、いよいよ阿州屋敷の女松男松、水見櫓の赤い灯、お船蔵の石垣などが右岸に見えだしてきたころも、果たして何の疾風も船中に巻き起こらなかったであろうか? ……これはお久良も鴻山も知るよしがなかった。       *     *     *  船が天保山の燈籠台を左に過ぎるまでは帆柱を立てないので、水夫は帆車や帆綱を縦横にさばき、川口を出るとたんにキリキリと張り揚げるばかりに支度をしていた。  その間に船津橋をくぐってすぐに左の三角洲、えびす島の船番所で、川支配の役人から定例のとおりな船検めをされる。この間が約半刻。  この検分は御番城配下の手だから、新吉はまず安心していた。雪のせ笹の金紋は、梅渓家の貴重品が入っているつづらとして、別に何の面倒もなく役人を黙認させた。  実をいうと新吉は、この幕府方の川番所にもすくなからぬ心配をもったのであった。なぜかといえば、役人たちはもとよりこの中に、大公儀の秘命を帯びた人物が隠れていようなどとは夢にも知らないから、もし蓋へ手でも掛けられた日には、味方からボロをだして、同船の阿波方の者に思いがけない発見をさせるからである。  しかし、それは杞憂に過ぎなかった。  で新吉は、 「まずよかった」  と初めて満面にくる川風にホッとした気持を撫でられて、腰の煙草入れを抜いた。だが、まだまったく心が鎮みきっていないとみえて、火縄を借りる気力もなく、筒を抜いて煙管を指に持っているだけであった。  川幅がひろくなって行くにつれて、星明りとも水明りともつかず、何となくあたりが明るくなってきたのが乗合の者の気持にまで影響して、そろそろ胴の間のほうでは大勢の話し声が賑わいだした。それも絶えずソヨソヨと吹く風が消してゆくので耳うるさい程ではない。  その乗合の混んでいる蔀の蔭にうしろ向きになっている仲間づれの女が、この間寮へ手形を貰いに来た森啓之助のかこい女だろうと、新吉は遠くから眺めていたが、自分の居場所は、ちょっとも離れられない気がして、別に話しかけにも行かなかった。  かれは、ちょうど胴の間と艫の間にある、松兵衛の部屋の戸口に、三つのつづらを大事そうにすえて、その前に二、三枚の苫を重ね、よしや船が沈もうともこの側は動くまい、というふうに腰を下ろしていた。  だが夜更けてくる頃には外海の飛沫もかかってくるから、乗合が木枕をつけて寝入った頃に、この場所も松兵衛がどこかへ移してくれる筈。そしたら、こっそり船底かどこかで、ふたの隙から、弦之丞とお綱に、阿波へ着いた時の手筈をささやいておこう……などと胸のうちで目算をたてている。  松兵衛は今、水夫に櫓の持場をいいつけたり、帆方の者を指図したりして、舳と帆柱の間を駆け廻っていた。だがその忙しい中にも、時々、新吉が背なかにかぶっているつづらのほうへ眼配りを忘れていない。 「よい凪だの、風も頃合、海へ出たら定めし爽やかであろう」 「さようでござります。この分では揺れることもござりますまい」 「昨年、殿と同船して帰国した時は、厳めしいお関船で、船中も住居とかわらぬ綺羅づくしであったが、旅はむしろこうした商船で、穀俵や雑人たちと乗合のほうが興味深いものだ」 「仰せのとおり、手前なども」 「啓之助!」 「は」 「見えてまいったな、安治川屋敷のかすかな灯が」  そういう話し声に、新吉がハッと背筋をすくめながら、よりかかっているつづら越しに覗いてみると、森啓之助と、三位卿のニヤリと見あわせた顔がすぐ後ろに── ふたりの死 「おも舵イッ」  白い波の条が大きな曲線を描く。  どーンと一つ、今までと違った波濤が胴の間にぶつかる。  海が近くなったのだ。  左の小高い丘に天保山の燈籠台、右舷のすぐ前に安治川屋敷の水見番所。 「おおウイーッ」  そこから漕ぎだす小舟があった。 「止まれーッ。その舟待てーッ」  小舟の上には三ツの人影。  止まれ止まれと声を嗄らしているのは旅川周馬、指さして立っているのがお十夜孫兵衛、櫓を撓わせて烏羽玉の闇を切っている者は天堂一角。時々サッとその影を白くかするのは波飛沫だ。親船のほうでは水夫頭の松兵衛、みよしに立って川口の水路を睨んでいたが、 「ちぇッ、来やがった。面倒くせい」と聞えぬ振りをして、 「おも舵イッ」  左岸へ左岸へとかわしてゆく。 「親方ア!」  櫓方のひとりがふりかえった。 「追っかけて来ますぜ、阿州屋敷の役人が」 「かまわねエから撓わせろ!」 「合点!」  というと両舷六挺ずつの十二船頭。 「エーイ、オーッ。エーイ、オーッ」  音頭を合せて流れに乗せると、松兵衛、帆方アとどなって手を振った。キキキキキと帆車が鳴る、赤い魚油燈がぶらんとかかった。人魂が綱を手繰って登ったように。  するとその時胴の間のほうで、にわかに大勢がガヤガヤ騒ぎだした。ドタドタドタと松兵衛のそばへ真ッ蒼になって飛んできたのは手代の新吉。 「松兵衛、大変だッ」 「ヤ、新吉さん、何だって、つづらの側を離れて来たンだ」 「三位卿がお前を連れてこいというんだ、何か御立腹で、タダごととは見えない」 「かまうものか、ほうッておけ」 「だって」 「船の上じゃ船頭が御城主だ。お前さんはあの側を離れちゃいけねエ、川口を出たら船底へ下ろすから」といったとたんに、松兵衛の襟がみをつかんで、 「おいッ、なぜ来ないかッ」と利腕をねじ上げた者がある。見ると、森啓之助だ。 「あっ、何をしやがるンだ」 「何をしようと三位卿の前へ出れば分る、じたばたするとそのほうたちの不為だぞ」  松兵衛が突きのめされて行ったのを見て、新吉は慄え上がった。 「連れてまいりました。水夫頭の松兵衛を!」 「ウム、そこへすえろ」  と三位卿大きくいって開きなおった。  ウウム、と胆をつぶされて松兵衛、ヘタヘタとそこへ腰をついてしまった。なぜかといえば、潮除けの苫を払って、三ツのつづらの真ン中へ、竹屋三位卿、どったり腰を乗せて磐石のごとく構えている。 「松兵衛ーッ」  お公卿に似合わぬ大声だ。 「へい」 「なぜ船を止めないか、咎めがなければさしつかえないが、最前から安治川屋敷の水見張が、アアして呼び止めているのになぜ止めない」 「ヘエ、お呼び止めがございましたか」 「だまれーッ。この有村を盲目と思うか」 「けれど番所のお検めは、えびす島ですんでおりますので」 「ひかえろ。ありゃ御番城のきまったことだ。そのほう達には公儀だけあって、領主蜂須賀侯の御支配は無視いたしてもかまわぬという所存であるか」  三位卿の追詰いよいよ凛烈、新吉も松兵衛も、もう舌の根がうごかない。 「ともあれ有村が盲目でないことだけは心得ておけい! そこで一応問い糺すが、この三個の荷つづらの送り状は、いずれ水夫頭のそのほうが預かっているであろう。中の品物は何か、読み聞かせろ」 「それはご免こうむりまする」 「なぜか」 「梅渓家からお預かりしました貴重なお品、それに、二十四組の廻船問屋には、送り状の内容は決して人様に洩らさぬという組掟がございますんで」 「いうなッ、あくまで吾らの眼をくらまそうとて、その言い訳にうなずく有村ではない。強って組掟を楯にとるならこのほうは領主重喜公の御名をもってこの荷つづらの錠をぶち破るがどうじゃ!」  ブーンとその時一本の鈎縄、右舷の下から高くおどった。と、その鈎の爪がガッキとどこかへ食いついた途端に、天神岸から軽舸を飛ばしてついてきた原士たち、縄を攀じてポンポンと蝗のようにおどり込んできた。  そこへザザッともう一艘。安治川屋敷から大川を横に切ってきた三人の艀舟だ。 「オイ、槍を!」  と天堂一角が親船へどなると、 「ホイ!」といって上から槍──。 「お先へ」  と、お十夜孫兵衛、それにすがってはね上がると、次にそれへならって周馬も槍へつかまったが、呼吸が足らない、ドタンと艀舟へ辷り落ちた。 「旅川、こうやるンだ」  と一角はあざやかに上がってしまう。周馬はいまいましそうに鈎縄のほうへ取ッついた。  船中は混乱した。  水夫や乗合の者は理由を知らぬだけに何事かと驚いて隅へなだれた。  そのまにものものしくおどり込んできた原士と天堂ら三人組は竹屋卿の前後をグルリと取巻いて、目指すつづらとともに、松兵衛、新吉の二人をも剣槍の中にくるんでしまった。  舵取も舵に手がつかない、櫓方も胆をひしがれて姿をひそめ、方向の眼を失った船そのものは、流れに押されて天保山の丘へ着いている。 「松兵衛、白状してしまえッ」  森啓之助は中央に立って、かれの利腕をねじ上げた。新吉は原士に襟がみをつかまれてすくんでいる。 「お久良に何か言いふくめられて、この荷つづらの内へ抜乗り者を隠したであろう。吐かせッ、さ、新吉もだ!」  と船板へ額をコヅいて責めた。 「知らねエ!」  松兵衛は頑として強くかぶりを振りながら、 「おいらは船頭だ、船頭は船をうごかすだけだ! 頼まれたものを積むだけだ! そんなこたア知るもンか」と捨鉢の語気になった。 「情の強いおやじめ!」  三位卿はそのつづらに腰を構えたままハッタと睨めて、 「そちたちはこのつづらの金紋を何よりの不可侵境と心得て、梅渓家の威光を借り、吾らに手出しがならぬと心得ているのであろうが、抜乗りの者がひそんでいることは、四国屋を出る時から読めているのじゃ。強って言い張るなら言い張ってみよ、今その実証を目に見せてやろうから」  と、言いながら、戛! 叩くように柄を握ったかと思うと、有村の手に、晃とした剣が抜き払われた。と──。  有村が腰をのせているそれと、もう一個のつづらの中で、パリッと爪をかくような音がして、錠金具がかすかにカチカチとゆすぶれた。  新吉は生色を失って、中に足掻きもがいている者と同じな苦悶を感じていた。 「ムム……」と心地よげな笑みを口辺にのぼせて、竹屋三位、抜き払った大刀の切ッ尖を真ッすぐに、つづらの蓋へ向けながら、 「とやこうは事面倒。松兵衛も新吉も、これでもなお泥を吐かぬというか! 曇りのないこの刀で、中の品物を探ってみるがどうじゃ!」と叱咤した。 「あッ……」  ふたりは、啓之助に襟がみをつかまれながら顛倒した。そして、何か口走ったが、それは意味をなさないくらい平心を欠いたものだった。  三位卿は、腰かけている物の中から必死に突き上げてくる力を身に感じて、思わずムラムラとする殺念が剣にこもるのを禁じ得ない──、 「いわぬな!」 「…………」 「どうしても実を吐かぬなッ」 「ムム」と松兵衛、船板へしがみついて、 「し、知らねエッ……」 「ちイッ、よウし!」  有村キッと唇を噛みしめた。 「天堂、天堂」 「はっ」  と、天堂一角、帆柱の裾からおどり出した。  ふたつのつづらへ眼を落して、有村、 「その一方を槍で探ってみい! この中にたしかにいる! 阿波へ抜乗りをせんとする生きものが」 「承りました」  というと天堂一角、かたわらにいる原士の手から槍を取って、黒樫の柄を低目に持ち、ずっと斜身になったかと思うと、ピウッと素ごきをくれてつづらの横へ穂先をつけた。  重い息づかいが流れるほか、船の中はヒッソリとしてしまった。誰の眼も空洞のようにそこへ気を奪われている。  遠い天星の青光りが、ギラッとつづらの側によれ合った。一方のつづらへは有村の剣! ひとつのほうへは天堂一角が、今にも突き出さんと撓め澄ます光鋩。 「松兵衛!」 「…………」 「新吉!」 「…………」 「面を上げてこの切ッ先をよッくみはっておれ! これでもなお梅渓家から預かったお品と申し張るかッ──ウウム!」といった声もろとも。  三位卿の剣は力まかせにつづらの蓋をブスッと貫いて切羽の辺まで突き通って行った。  同時に。  一方の槍は天堂の気合とともに走って、つづらの横を突き破り、深さ蛭巻の半ばまで入った。  と──見るまに、中の生命は断末のあえぎをあげて、なんと名状しようもない──耳を掩わずにはおられない、凄惨な震動を刻むようにさせて、船板とつづらの間を、噛むがごとく、ガタガタといわせた。  スッと、有村は刃を引いた。  抜き取った白い鉄の肌には、まざまざと人間のギラが浮いている。  と同時に。  二つのつづらの下から、こんこんと噴き出した温い血汐!  船床のかしいでいるままに、数条の黒い血の条が、生ける長虫かのごとく一散にほとばしってきた。  たしかに感じられた手応え、存分な抉りをよりながら、一角もまたおもむろに槍を戻した。そして、槍の尖端からポト──と糸を曳いた一滴の粘液に、年来の鬱念を一時に晴らした心地。  あははははははは! と。  かれは、声を揚げて、哄笑したい気がした。  ついに刺止めた!  法月弦之丞をついに刺止めたぞ!  いくたびも心の底で叫んだ。  安治川屋敷から東海道に、或いは、江戸に木曾路に上方に、つけつ廻しつ、折あるごとに討たんと計っていつも失敗してきたことは、今となってみると、この最終の幕切れの歓喜を大きくさせるべく積んできた転変にほかならない。  と、チャリンという鍔鳴りの音が、かれの瞬間な陶酔をさました。  後ろ向きになった有村は、血糊をしごいて、刀を鞘に納めた。そして、紅をなすった懐紙を捨て、松兵衛や新吉へは、いずれ後日沙汰あるべきことをいい渡し、固唾をのんでいた原士たちへはつづらの始末をいいつけている。 「はっ」  と、黒い影が右往左往に動きはじめる。だが、前よりは妙に静かだ。どんな場合にでも、人の死の前に立って生ける者は、何か考えずにはいられない。精悍なかれらも、暗黙のうちにはそれぞれの感想を描いているのだろう、自然、憂鬱な運動となり、妙に静かに働いている。  そのうちに、かれらは細曳を手繰り、二つのつづらをがんじがらめにくくりだした。なお、残る一つのつづらへも、念のために槍や刀を突っ込んでみたが、それは、何の手応えもなかった。 「この下へ寄せろ! その艀舟を」  つづらは、ズ、ズ、ズ、と左舷へ引きずられて行った。  あとの鮮血は目もあてられない。  太陽があったら燃えあがるだろうが、星明りでは黒い液体でしかない。だが、なんとなく、生きている、うごいている、うなずいているように感じられる。  つづらは、がんじがらめのまま、さっき、原士たちが乗ってきた小舟の一つへつり下ろされた。それに続いて三位卿が降りてゆく。原士もぞろぞろ跳び降りる。  森啓之助、天堂一角、各〻小舟へ移って行った。  親船には恐怖と大寂が残った。松兵衛と新吉とは、最前から額をすりつけてしまったまま、雷にうたれたようにうッ伏した形となっていた。  その肘や膝の下へまで、温い液体がこんこんと浸しているのも感じないくらい、喪心したかの態である。  三位卿の仮借ないあばき方には、もう絶対に抗弁する余地がなかった。なおさらのこと、みすみすつづらを運ばれて行っても、阻める気力などはない。被征服者の屈伏があるのみだ。  櫓も帆も舵も、茫然と、水夫の手から忘れられているまに、船は、怖ろしい暗礁からつき出されて、目印山の水尾木を沖へ離れ、果てなき黒い海潮に舷を叩かれていた。  夜の海鳥が、ちぬの浦の闇に、気味の悪い、羽ばたきを搏った。  さて。  四国屋の船から凱歌をあげた数艘の艀舟は、暗い大川を斜めにさかのぼって、安治川屋敷へと櫓韻をそろえた。  お船蔵の石垣へと、白い飛沫を寄せたかと思うと、そこから庭づたいに、屋敷のほうへ引き揚げて行った。  きのうからぶッ通しに緊張していたので、誰も相当に疲れていた。かたがた慰労という意味で、三位卿、酒樽の鏡を抜かして、一同の労を多とし、自身も敷物もせず縁先へ座をかまえた。  庭には、二ヵ所の篝火がドカドカ燃え、そこに真ッ赤なつづらが二ツ、暑い覆面を解いた原士、あぐらを組んでグルリと居流れ、杯を廻して、景気のいい歓声を湧かせた。  有村は愉快だった。  血の匂いを嗅いだ後の酒は、一種の湿気ばらい、自分も冷酒の杯を取って、 「まだ多少は、息の音が通っているかも知れぬ。それ、中のふたりを引きずりだせ」  と、命じた。  いい気持でもありいい機嫌だ。  大勢の中から、三、四人の原士が立った。  小柄を抜いて麻縄をプツプツ断り、錠前を抉ったが容易にはがれないので、石を持ってきて滅茶滅茶にぶちこわした。  たちまちそこに隙ができた。  気転をきかせた一人、弓の折れを噛ませて、ミリッ、ミリッと、生木を裂くようにコジ上げた。 「よし」  といって一方のつづらも、同じような手段でコジ開けると、縁の上から有村、 「これ、もう少し、その篝火を」  と、伸びあがって手を振った。 「はっ」  と、啓之助が縁を下りたのを見て、原士の中にまぎれていた一角もそこへ出て、篝火の鉄脚を五、六尺ほどつづらの側へズリ寄せる。  焔をゆたぶられた松薪の火、パチパチパチパチ火の粉を降らせた。  で、一角と森啓之助。  ふたつのつづらの側へわかれて立ち、検分の格でその蓋へ手をかけた。そして、 「有村様」  と名だけ呼んでかれを見上げた。  今こそこの赫々とした焔の下に、死に瀕した法月弦之丞の姿を見るのだ──といううなずき合いの眼、拈華微笑だ。三位卿もただちょっと顎を下へ動かしたばかり、 「では」というと、蝶番の金具がキイと……悲しむように鳴った。この一瞬になると、並いるもの誰彼の境なく、痛快とか悲壮とかいうものを超えて、一種の凄気に歯の根が咬みしまる。  ぽんと、棺の蓋が開かれたように、血腥さいつづらの中が覗かれた。  一角が手にかけたほうには、血でこね廻したような男の体がかがまっていた。何のためらいなく、被われている物をズルズルと引っ張りだしてみると、その夕べ、弦之丞が面をくるんでいた紫紺色の頭巾の布……。  別なつづらには、蓋を払うと一緒に、青い富士形の藺笠が見えた。  覗きこんだ森啓之助は、 「ウム、見返りお綱だな」  と、少し、無残な念に衝たれて、中からムーッとしてくる血と白粉のまじった匂いに、思わずちょッと顔をそむけた。そして、両手を深く差しこんで、お綱の腰帯らしい所をつかむ。  押し込められていたせいか、まだ温湯のような体温がある。  足を踏ん張って、ずるずると抱え出した途端に、つづらの口は横に仆れて、ダランとした青白い手──笠の首──着物の裾が──啓之助の小脇に、糸の切れた人形みたいに吊るされた。 「あ、三位卿!」 「なんじゃ」 「お綱の方は、もう息が絶えておりまする」  そういって啓之助は、片手を廻して死骸がかぶっている銀杏笠の紐を解こうとしたが、持ちこらえているのが辛いので、縁をつかんでペリッと引っ剥いだ。と──啓之助、オ、啓之助、どうしたんだ、森啓之助、 「わーッ!」  と叫ぶと、いきなり女の死骸から手を離して、うしろのつづらへ、ドンと、弱腰をついてしまった。 「ヤ、ヤッ?」──と総立ちに、驚目をみはる。  見れば! 篝火の下に投げだされた女の死顔、帯も着物も、見返りお綱のに違いないが、息は絶えながらドンヨリした死膜の目で、森啓之助を見ているのは、 (旦那さま……)  と呼びかけてきそうな、川長のお米。  その顔の青白さ。その唇の無念そうなこと。  啓之助は、喪心したようになって、唇をワナワナふるわせていた。 「ウウム」  と拳をにぎり、板縁に棒立ちになったまま、三位卿、お綱と思いのほかな、お米の死顔を睨みつめた。これだ! 剣山の帰りに馬上から見かけた啓之助の匿し女は!  そう思って、意外な蹉跌に、無念な唇をかみしめた。そして、そこの薄のろ武士を、足蹴にしても飽き足らなく思った。 「天堂ッ、天堂ッ」  かれの声は、にわかに癇癖をフンざかせてきた。  足の拇指をジリジリさせて、縁の板を踏み鳴らしながら、 「それはどうだ? そのつづらのほうは弦之丞に相違ないか」  と急きこんだ。  一角は、中の死骸が、金具の裏に噛みついていたため、容易に抱き出されないで弱っていたが、もしや? と彼の心もわくわくして、 「エエ、面倒」  とばかり、つづらを横に蹴倒した。  そして、ムリに引きずりだしてみると、これはただ、弦之丞とおぼしい衣類を、頭の上からかぶせられた倶利伽羅紋々の死骸──すなわち仲間の宅助だった。 狂瀾  つづら心中の形となったお米の死、宅助の死。  なんと無残な輪廻だろう。不合理な心中だろう。運命の神の皮肉さよ。  だが、真の弦之丞とお綱は、いつのまにこの二人と入れ代っていたのだろうか? なにせよ阿波方の面々、不覚のかぎりであった。 「ちぇッ、うまうまと騙られた」  醜しとは思いながら、三位卿、歯ぎしりを噛まずにはいられない。 「今にして思い当たるのは、船待小屋ですれちがった時の、怪しげな男女であった! それを啓之助めが、おのれの非に恟々としておったがため、いらざる口出しをして、有村の明察をあやまらせた」  じだんだ踏んで口惜しがった。  原士たちは唖然として、棒を飲んだようになっていた。一角も呆ッ気にとられて、いうべき言葉を忘れている。  弦之丞の瞬速に、これだけの者が翻弄されたのか! そう思う苦々しさが、みんなの醒めた顔にみなぎっていた。 「いたずらに茫としてはおられない!」  有村は形相をかえて庭へ下りた。 「一角ッ、大急ぎでお船蔵から船を出せ。まだ先の船も、さして沖を遠くへは離れていまい」 「あっ、追手を?」 「無論。早くだ!」 「あるか、脚の早い船が?」  一角、原士の中へどなった。 「お手入れ中の納戸船、あれなら軽い、たいして人数は乗れませぬが」 「それでいい、それでいいッ」  叱りとばすように有村が急がせると、バラバラ向うへ駆けだした。櫓だ、櫂だ、帆の支度だ! そんな声が八方の闇へ別れる。  三位卿もすぐに船蔵のほうへ急ぎかけた。すると、その前へ駆け廻って、啓之助が、 「有村様ッ……」と、足元へへばり伏した。 「なんだッ蛆虫」 「め、めんぼく次第もございませぬ」 「それがどうしたというのかッ」  かれの額には青筋が太かった。 「不始末のほど、慚愧にたえませぬ。本来、御一同の前で、切腹すべきでございますが……」 「そうだ! 当り前だ!」 「殿の御意もうけず、身勝手に死ぬこともなりませず」 「よかろう!」 「ではございますが」 「かまわん、わしが、殿のお耳へ入れておく。殿もよい家来を失ったとは惜しむまい」 「は……しかし、武士の意気地」 「人が笑うぞ! 貴様がそんな言葉をつかうと」 「はい」  とガッカリした啓之助、土下座の腰をのばして、いきなり三位卿へ両掌を合せた。 「有村様ッ、こ、このとおりでございます」 「何をするんだ、ばかなッ、わしは笏を持っている木像じゃない」 「終生のお願い──どうぞこの不始末を、殿様へおとりなしのほどを。啓之助、過去を悔悟して、御奉公をしなおしまする。そして、武士の意地にも、追手の船へのりまして、弦之丞めを」 「世迷言を申すな」 「でなければ」 「うるさいッ、お前はお前のすることをしておれ。そのな、啓之助」  と、かたわらのものを指さした。  宅助の死骸とお米の亡骸が重なっている。 「──その醜いものを見ろ、それを。おのれのものがおのれに帰ってきたのではないか。所有主はお前だ、あれを抱いて、早くお屋敷を出て行け! けがらわしいやつッ」  と、肩を蹴った。  うしろへ引っくりかえった啓之助は、手にからみついた黒髪にゾッとした。  何を見ているのか、お米の眼は閉じないである。急にとがってみえる骨の間に、どんよりと、なんらかの執着の相をたたえて。  これが、あれほど自分を燃え立たせた、情慾の対人か。  かれは両手で顔をおおった。  逃げ場のない気持を、死者の冷たい手が追い廻してくるようで、啓之助は立ちもならず、いたたまれもしない。 「有村様ッ、有村様ッ」  と叫んだが、その三位卿は、もうお船蔵へ向って駆けていた。かれは、気狂いじみた迅さで、お米の死に顔を照らしている二ツの篝火をいきなり泉水の中へ打ちこんだ。  あたりを闇にしたら、深い土の底へ現実を埋めた気がして幾らか心が安らぐかと思ったが、無駄だった。  駆ければ駆けるほうへ、 (旦那様……)  と、お米の顔が。       *     *     *  沖の汐鳴りが変ってきた。  風が出てきた。  暗い五更を、黒い潮の海を。  破れんばかりに帆を鳴らして、まっしぐらに走る追手の船! 指してゆく沖の一線に、これまた、満々と帆を張りきって南へ南へと急ぐ船影がかすかに黒く──。  雲! 雲! 形相の悪い雲のうごき。  まさに、狂瀾天をうとうとしている。  血は潮水で洗われたが、四国屋の船の上には、まだ宵の陰惨の空気が漂っていた。黙々とした水夫、おびえた夢に苫をかぶっている旅客、人魂のような魚油燈、それらを乗せて、船脚は怖ろしいほど迅くなっている。  ときたま、山のような波がかぶった。  その大波の度がふえるにつれて、潮鳴、潮風、帆のはためき、どうやら暴風の兆がみえる。と気がついた頃には、船の揺れ方も尋常ではない。  だが、島とは見えない、淡路の巨影にかばわれて、紀淡海峡を出るまでは、水夫も多寡をくくっていたし、それに、宵のことで、スッカリ気がめいっていたので、騒がず、声を立てず、相変らず黙々と、船は帆まかせに走っている。駸々として白浪を蹴っている。  真夜半を過ぎた。  阿波へ阿波へ。  満をはらんだ十四反帆は巨大な怪鳥のごとく唸りを搏って進む──。  と。やがて大寂の丑満すぎ。  船の一隅、潮除けの蔀の蔭に、苫をかぶっていたふたりの客が、ムクムクと身を起こしてあたりの旅客の様子を眺めた。  うごいているのは船暈に悩んでいる者だけであった。 「…………」  何か目と目でうなずきあうと、苫をはねたそのふたり、手と膝とで、松兵衛の部屋のほうへ這いだした。船は坂のように見える。  互に、左右へ気を配って──。  低い達磨部屋の戸の隙から、煤んだ灯の色が洩れている所へ寄ると、 「松兵衛、松兵衛」  ひとりが軽く戸を打った。 「新吉さん」と、またひとりが低く呼ぶ。  見ると、その男女は、天神岸から乗ったあのまんじゅう笠の仲間と手拭の女だ。  達磨部屋の底には、水夫頭の松兵衛と新吉、魚油くさい灯壺を中に挟んで、互に、ものもいわず、ためいきばかりつきあって、暗鬱な腕ぐみをしていたところ。  ゴト、ゴト、と戸が鳴ったので、ひょいと眼を上げたが、風だろう、そう思ってまた首を垂れてしまった。  上には訪れた男女、低い声は潮風に消されてしまうし、大きな声はあたりをはばかるし……としばらく迷っている様子。時々、虚空へさらわれてゆく苫の影にもハッとする。 「一言知らせておきたいが」 「そうですね……さだめし気を腐らしておりましょう」 「事情を知ったらびっくりするぞ」 「幽霊かと思うかもしれませんね」 「なにしろ、無駄な心配をさせておくのは気の毒、それに……」 「シッ」と手を振られて口をつぐむ。 「誰か起きている者があります。向うに人影が」 「では、後にしようか」 「…………」うなずいて、身を隠そうとした時、髪をくるんでいた手拭が、サッと風に飛んで、女の白い顔が凄艶にむきだされた。 「あら……」  と吹かるる髪をおさえたのは、まぎれもないお綱であった。  とすれば、仲間にやつした一方の者は、無論法月弦之丞でなければならない。  ふたりは健在である。  天神の船待小屋までは、あのつづらに身をひそめていたが、じっと中から埋地の空気を察していると、どうやらそこの安全でないのを感じた。すると、その荷つづらによりかかって、痴話狂っている男女があった。お米をもてあそぶ宅助であった。宅助を操っているお米であった。弦之丞は前からの約束もあるので、お米に、つづらの中へ入れ代って貰おうと思った。まさか、アア無残な結果になろうとは予測せずに──、そして都合の悪い宅助をまず、不意につづらの中から刺したのである。  そして、つづらを開けて呼び止めると、誰か人が入ってきたので、また、中へ潜んでしまった。それが常木鴻山であると知ったら、その必要もなかったが、咄嗟に蓋をかぶってしまったので、かれも先も気がつかずに、鴻山はまた走りだして行った。  その後で、弦之丞はお米を承知させて、お綱と姿をとり代えさせた。宅助は否応なく、合羽を剥がれて押し込まれた。すべては、まったく一瞬の間に行なわれたのである。弦之丞が代玉を入れて錠をかっている手も間に合わないくらいに、そこへ、竹屋三位が来たのだから──。  で当然に、松兵衛も新吉も、つづらの中がすり変ったとは知らないはず、達磨部屋の底に嘆息をついて、お家様への言い訳や、後で領主からどんな厳罰をくわされるかと、頭をなやめているわけだった。 「おお、ひどい風」  お綱は白鳥のように飛んだ手拭の行方を見送って、帆柱の腰へ背なかを支えた。弦之丞もその白いものへ眸をあげた。なぜか、その一瞬に、かれは悲恋非業の終りを遂げたお米の魂のさまよいを見る心地がした。  すると。  今お綱が艫のほうにボンヤリと見た二ツの人影が、いつのまにか、足音をぬすませて、弦之丞のうしろに立っていた。 「おい、どうだ」 「ウウム……」  袖を引きあって、お綱の顔を睨んでいる。 「シッ……」と左右へ辷ると二人とも、あり合う苫を頭からかぶって、船床の上へ寝てしまった。  かかるまにも、竹屋三位卿そのほかの乗っている追手の船は、滔天の飛沫をついてこの船を追っている。  不意にボウと月光がさした。  鯖の背みたいな青黒い海の色が、一瞬、ものすごく目に映ったかと思うと、バラバラッと、痛いような大粒の雨!  嵐の先駆──。  気味のわるい微風が撫でた。  ほんの一瞬、欺すようにさした月光は、空の怒ろうとする前に見せる微笑であった。 「あ……アア……」  と、お綱は帆ばしらの根を離れ得ずに、冷たくなった額をおさえた。 「どうした?」  と、抱きこむように支えて、 「暈ったのか」と弦之丞が優しく訊く。 「エ、すこウし……」 「しっかりいたせ、夜明けになれば凪ぎるであろう」 「はい……お案じ下さいますな」 「よいか」 「大丈夫でございます」 「前の所へ戻って、少し落ちつくがよい」 「そういたします」 「わしの帯につかまって……よいか……足をすくわれるな、足を」  お綱は弦之丞に力とすがった。  弦之丞はお綱を抱いた。  そうして、片手に、笠のつばをおさえて、蔀の蔭へ走ろうとすると、その時だ!  一条の帆綱が、ピュッと──輪を解いて弦之丞の足もとへ飛んだ。 「あっ!」  船の動揺に気をとられていたので、かわすまもなく一方の足は、クルクルと巻きつかれて何者かに手繰られた。  お綱の体は、かれの手を離れてうしろへよろける。弦之丞は倒れながら、脇差を払って、足首にからんだ綱を抜き打ちに切ってはねた。 「ちぇッ」  と、向うの闇で声がする。  弦之丞とお綱は、船床へかがみついたまま、そこへ眼を向けたが、誰の影とも判らない。向うの者も、腹這いになっている様子だ。 「ううむ、まだ船の中に、阿波の武士が残っておった。お綱……わしの側を離れるな」  かれは白い光を背なかへ廻しながら、膝で歩くように、縄の飛んできたほうへいざりだした。  と──先の影も這うように動きだした。そして、グルリと向う側の舷へ廻ってゆく。  人数はいないな、ことによると船頭の中で、拾い首の功名をしようとする奴かもしれぬ。──弦之丞はそう思った。そして、機を計って跳びかかってゆくと、案の定、抜きあわせてもこず、バタバタと艫のほうへ逃げだした。 「ひと浴びせッ」  と気をはやったが、ほかの者の目をさましてはと、静かに、気永に、船具や積荷の間を追い廻していると、先の影も、船蔵の鼠のように敏速だ。  すると、後ろの胴の間で、突然な叫び声がかすれた。弦之丞はあッといって、一足跳びに引ッ返した。  見ると、お綱が何者にか組み敷かれている。 「おのれッ」  というが早いか、弦之丞の太刀──その影を横に払った。  が──先も足首に気構えをとっていたとみえて、いきなり、お綱の胸に片膝をのせたまま、ぱちッと、太刀の切羽。抜き合せに受けた。  燐のような火の匂いと光がシュウッと削り落された。 「ウウ、おのれは──ッ」  と弦之丞、からんだ鍔をそのまませめて、 「お十夜だなッ!」と、絶叫した。 「驚いたか、三位卿の目はかすめても、この孫兵衛があんな甘手を食うものか」  ──その時である、艫のほうを逃げ廻っていた旅川周馬、隙を狙って帆柱の半ばごろまで、スルスルと猿のぼりに上って行った。  有村や一角が、つづらの内から血汐のあふれだしたのを、てっきりと信じて、引き揚げて行った際に、孫兵衛と周馬のふたりは、一同の移った小舟へ乗らなかった。というのが──あの騒動のうちに、艫へなだれて行った乗合客の中に、ハテナと、小首をかしげた女を見たので。  手拭に顔を隠していても、お十夜にとれば、お綱はあれまでにほれていた女、決して、あかの他人を見るごとくではない。  すべての者は、皆つづらの中に気を奪われて、他に何ものもないくらいだったが、孫兵衛は、周馬にも耳打ちして、絶えず、それへ眼をつけていた。で、ついに仲間の舟へは乗りおくれた訳であるが、やがて有村も一角も、あわてて追いをかけてくるに違いないと察していた。  案のごとく、洲本の沖あたりから、それらしい船が後ろから白浪を蹴立ててくる。それらに来られてからでは気が利かない、その前に料理しておこうではないか──と、周馬があぶながるものを、孫兵衛、いきなり弦之丞の足元へ綱を投げた。そして、かれは巧妙に帆柱の蔭へ立ったので、周馬は運悪く弦之丞の切ッ尖に追い廻されてしまった。  で──とうとう、帆柱の上までスルスルよじ登った旅川周馬。 「お、そこまで来たな」  と、近づく船影にホッとした。そしていきなり、脇差を抜き、片手にふるって、蜘蛛手に張り廻した帆綱帆車、風をはらみきった十四反帆! ばらばらズタズタ斬り払った。  周馬が、虚空から切って落した帆布は、その下にいた弦之丞とお十夜の上へ、バラ──ッと、すごい唸りをあげて落ちてきた。  柱を離れた十四反帆、船をそっくり包んでしまうほど大きい、巨大な獣の背なかのようにムクムク波を打っている。  ザアーッと、一散な雨が横に吹ッかけてきた。  雨の白さが、いっそう闇を濃くさせた。波は高くおどり、風は狂わしく吠えたける。  船は、無論、暗澹たる中をグルグル廻っているのである。水夫、楫主、船幽霊のような声をあげて、ワーッと八方の闇にうろたえている。 「あっ、ひどい音が?」 「暴雨だッ」  と達磨部屋の底で、はね起きたのは、松兵衛と新吉。  戸を引ッぱずして外へ首を出してみたが、そこは、いッぱいに、落ちた帆布がかぶさっている。  で何も見えない。ただ、ザンザとうつ大雨の音と、風の咆哮と、船夫たちの気狂いのような声。  暴雨ばかりではない! 何か、騒動が起こった様子と──松兵衛、わけは知らないのでそれへ潜り込んでゆくと、ギラリと、太刀魚のような光りもの! 「あッ」  と、突っ伏した途端に、うしろの新吉は、達磨部屋へころげ落ちていた。──と、帆布の一端を切り破って、おどりだしたのは弦之丞である。うごくところを狙って、突き刺そうとすると、松兵衛の悲鳴にハッとおどろいて手を引いた。  その隙に、お十夜も、大魚の腹を切り破って出るように、雨の中へころがりだす。  雨は帆布を叩いて、滝のように白くあふれていた。さらに、空へ、奈落へ、ゆれかえる合の動揺!  目もあけられぬ雨! 疾風! 「うぬッ」 「おのれッ」  と互に、剣をかまえて、斬ろうとし、刺そうとはするが、自然の力に妨げられて、技も気念もほどこすによしがない。  帆は切り裂かれても、船は運よく、由良の岬にも乗りあげずに、鯉突の鼻をかわして、狂浪に翻弄されながら外海へつきだされていた。  帆柱にしがみついて、しばらく様子を眺めていた周馬も、いよいよつのる疾風に、ともすると体ぐるみ吹ッ飛ばされそうになるので、 「あっ、堪らねえ」  と、辷り落ちてきた。  そこに、お綱が、船暈いの顔を青ざめさせて、うッ伏していた。だが、ドンと降りてきたかれの足音に、ハッと顔をあげて、帯の小脇差に手をかけた。  世阿弥のかたみ──新藤五国光の刀へ。  と、周馬は、 「ウム!」と叫んで、足をあげた。  だが──お綱の肩を蹴とばしたとたんに、かれの体も、意気地なくもんどり打って、四、五間向うへ突ンのめっている。  イヤ、周馬のみならず、その時二百石積みの船がもろに傾いて、海水をすくうかと思われたほど、激しい震動を食ったのであった。  突然。  船体の木組が、皆バラバラになったような音がした。  と思うと──舳をつッかけてきた一艘の納戸船、そこから、ワーッという喊声が揚がった。  手鈎、投げ爪、バラバラこっちの船へ引っかけて、ずぶ濡れになった原士の輩、手槍を持った一角、竹屋三位卿など、面もふらず混み入ってくる。  そして、荷蔵や苫のかげに、かがまッている客や船夫を捕えて、いちいち改めているらしいので、旅川周馬、大手をひろげて、お綱の姿を見張りながら、 「ここだ──ッ、ここだッ」  と、大声で知らせた。  すると。  その声も終らぬところへ、法月弦之丞の姿が、目の前へ飛んできた。あっと、思わず逃げ腰になる隙に、弦之丞はいきなりお綱の体を横に引ッ抱えて、斬りつけてくるお十夜を、片手の太刀で防ぎながら舳のほうへ走りだした。 「おッ、いたぞ」 「弦之丞だ!」 「それッ」  と、槍を取った原士の影が、先をふさいで叫んだが、なお、血とも雨ともわかたぬ飛沫をついて、夜叉にも似た乱髪のかげが、舳の鼻に突っ立った。  そこへ、なだれて来た三位卿と一角とが、 「あッ──」  と、声を筒抜かせた途端。  うしろへ迫ったお十夜へ白刃の素振りをくれながら、法月弦之丞、お綱の体を抱えたまま、逆まく狂瀾をのぞんで身を躍らせた……。 底本:「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行    「鳴門秘帖(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年10月11日第1刷発行    2009(平成21)年2月2日第21刷発行 ※副題は底本では、「船路の巻」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。