鳴門秘帖 江戸の巻 吉川英治 Guide 扉 本文 目 次 鳴門秘帖 江戸の巻 お千絵様 旅川周馬 鏡の裏 悪玉と悪玉 日蔭の花 江戸大火 自来也鞘 見返り柳 変化小路 投げ十手 かなしき友禅 夕雲流真髄 目安箱 悪行善心 大慈大悲閣 お千絵様  みぞれ模様の冬空になった。明和二年のその年も十一月の中旬を過ぎて。  ここは江戸表──お茶の水の南添いに起伏している駿河台の丘。日ごとに葉をもがれてゆく裸木は、女が抜毛を傷むように、寒々と風に泣いている。  虱しぼりの半手拭を月代に掛けて、継の当った千種の股引を穿き、背中へ鉄砲笊をかついだ男が、 「屑ウーイ。屑ウーイ」  馴れない声で、鈴木町の裏を流していた。 「エエ寒い。こいつが関東の空ッ風か……」  と、胴ぶるいをした屑屋の肩へ、パラパラと落葉の雨が舞いかかった。 「寒いのはとにかくだが、さっぱり呼んでくれねえのは心細い。せめてこの近所に馴染ができれば、ちッたあ様子も聞かれるだろうと思うが……なにしろすること、なすことはずれてきやがる。考えてみると俺は三十六、今年は大厄だったんだなア」  愚痴をこぼしてフラフラと一、二町、うつむいたまま歩いて来ると、頭の上の窓口から、 「屑屋さん」  と、女の声で呼び込まれた。  呼ばれたので急に思い出したように、 「屑ウーイ」と、商売声を出したから、呼んだ女もおかしくなれば、屑屋も自分ながらてれ臭そうにあおむいた。 「屑屋でございますが……」と、もう一度、窓に見える女の顔へ頭を下げると、 「あッちへ廻って下さいな」 「へ、お勝手口へ?」 「そこに潜り戸があるだろう」 「ございます、ございます」ガラリと開けた水口の戸も開けっ放しに、鉄砲笊と一緒に入り込んだ。 「たいそうお寒うございますな」 「縁側のほうへお廻りよ、少しばかり古反古を払いますから」  打ち見たところ、五人扶持ぐらいな御小人の住居でもあろうか。勝手つづきの庭も手狭で、気のよさそうな木綿着の御新造が払い物を出してきた。  煙草の火を借りて話し込んだ屑屋、さっきからこの界隈の噂ばなしをしきりに聞きたがって、 「時に御新造様……、この駿河台にある甲賀組というのは、たしか、この前の囲いの中にある、真っ黒なお屋敷のことじゃございませんでしたか」 「そうだよ、墨屋敷といってね、二十七家の隠密役の方ばかりが、この一つ所にお住まいになっている」 「二十七軒もありますか。フーム、ずいぶん広いものでございますなア」とわざとらしく感心して、ちょっと相手の容子をみたが、その眸の底に鋭い光が潜んでいた。 「申しちゃ失礼でございますが、隠密役なんていう方は、平常は何の御用もねえでしょうに、これだけの家筋をそれぞれ立てておく将軍様の世帯も、大きなもんじゃありませんか」 「だからだんだんとその家筋を、お上でも減らすようにしているという話だね」 「そうでしょう。権現様の時代には、戦もあれば敵も多い、そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召し抱えになる必要がありましたろうが、今じゃ天下泰平だ。なんとか口実をつけて減らす算段もするでしょうさ」 「現にツイ先頃も、また一軒のお古い屋敷が絶家になって潰れたという話だよ」 「そうそう、それは甲賀世阿弥様という、二十七軒の中でも、宗家といわれた家筋でございましょう」 「オヤ、お前よく知っておいでじゃないか」 「実は、御新造様……」と屑屋はあたりへ気配りして、にわかに声を低くした。 「わっしの不馴れな様子でもお分りでしょうが、まったくは、これは本業じゃございませんので」 「えっ……」と内儀は少し後ずさって、「まあ、気味の悪い屑屋さんだ。毎日この辺ばかり歩いているし、それに稼業馴れないふうだから、可哀そうに思って呼んでやったのに……、じゃ、屑屋は世間態だけなのね」 「もし、御新造様。そうお驚きなすッちゃ困ります」 「困るのは私のほう、そんな仮面をかぶって世渡りするような者なら、迷惑ですから、サッサと帰って下さいまし」 「決して、盗ッ人や騙りじゃございませぬ。どうかご安心なすって、その甲賀家のことについてご存じだけ、お聞かせなすって下さいませんか」 「いいえ、素姓の知れない者などと、めったな話はできません」 「じゃ、その身柄を正直に明かします。もし……御新造様、わっしはこれが本業なのでございます」と、内懐から抜いた紺房の十手を、そッと内儀の前に出して、虱しぼりの手拭をとった。 「まあ」と、内儀は十手を見て、いっそう気味悪そうな面持をした。とんだ屑屋を呼び入れてしまったと、今になって後悔する色がありありとみえる。 「ですが、決してこちらさまへ、ご迷惑をおかけ申しは致しません」と、髷からはずした手拭を折り畳んで、縁先へ腰を入れた男は、目明し万吉、彼であった。 「深い事情は申されませんが、わっしは大阪東奉行所の手先です。といっても内々は、少し道楽半分な目的に憂き身をやつしておるので……」出された茶を啜って、素姓を明かした目明し万吉。後は程のいいこしらえごとを口実に、近頃、絶家になってしまったという甲賀家の消息を根掘り葉掘り訊きはじめた。  禅定寺峠の上から、弦之丞と西東に立ち別れ、一足先に江戸へ入った万吉は、まだ何かの都合で、お千絵様にも会ってはいないらしかった。  という次第は。  彼が江戸へ入ると真っ先に、この駿河台の墨屋敷、甲賀家の門を訪れたのは無論だったが、ひょいと見ると門札の名が変っている。その門札には、甲賀世阿弥の代りに「旅川周馬」という文字が書かれてあった。  しまッた! 遂に間に合わなかったのである。つまり第一に阿波へ立った銀五郎がああいうはめとなり、何の便りもなく半年以上の日が過ぎたため、隠密組の法規通り、満十年帰らぬ甲賀世阿弥は、客死したものとお上に見なされ、そのお家は断絶の命が下されてしまったのだ。  ああ、何もかも鶍の喙──と落胆したが、とにかく、その代がわりになっている旅川周馬という者に会い、絶家したお千絵様が、どこに身を落ちつけたか、それを尋ねてみるにしかずと門をくぐった。  ところが、玄関はピッタリ釘付け、庭口も錠を下ろしてある様子。呼べど出てくる人はなく、昼だというのにすべての雨戸も閉じきってある。  黒い板塀の周りを巡ってみると、十年も主がいなかった甲賀宗家。この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構えだが、広いだけに荒れ方も甚だしく、雑草離々として古社ででもあるような相だ。  と──瓦腰の隅座敷、そこの窓だけが細目に一ヵ所開いていた。万吉がふと目をつけて、塀の穴から差し覗いてみると、やッぱり人の気配はない。シーンとして狐狸の棲家かと思われるくらい。  だが──ここに必ず誰か棲んでいることを、その時、万吉に教えてくれたものがあった。何かといえば、その部屋の腰壁と垣の間に落ちていた丸い紙屑だ──雨に打たれた様子もなく、フワリと草の上に浮いているのは、捨てたばかりの手拭紙に相違ない。  いつか俵一八郎に、今度のことは目的が大きい、必ずケチな目明し根性を出すなよ、といわれてもいたが、こんな物が目に触れると検索心がムラムラする。万吉はそこらの棒切れを拾って、塀の穴から腕を伸ばし、その紙屑の玉をかきよせて手に取った。  嗅いでみると、プーンと伽羅油のにおいがする。そして皺をのばした紙の中からもつれた髪の毛が四、五本出た。その一本を指に伸ばして見て、彼は女の毛だということを知った。 「してみるとこの屋敷は、お千絵様が立ち退いた後へ、旅川周馬とかいう奴や、女も住んでいるらしい。とすると、おかしいなあ……なんだって、こう草茫々としたまま方々釘付けにしてあるんだろう?」  耳をつねって考えても、どうもはっきりした見当がつかないふう。  で、今度はこの一廓の、ほかの墨屋敷を訪れて尋ね廻った。ところが、誰の答えも一致して、 「アア、お千絵様でございますか。お気の毒でございますねえ。ですけれど、手前方では、あのお方のことについて、何の存じ寄りもございません」と、ことに話を避けるのみか、姿を見たこともないという家ばかりだ。  毎日、同じ姿で聞き歩くのも変なので、俄屑屋を思いついた。これならどこの横丁へでも自由に入れる。日に一度ずつ墨屋敷の近所を歩き廻ったところで怪しまれる気づかいはない。  そうしてようよう今日呼びこまれた家の内儀が、どうやら甲賀家や墨屋敷の事情に詳しい口ぶりなので、万吉は、わざと生地をはいでみせて、この手がかりを遁すまいとしたのである。  万吉が上手に口裏を探ってみると、そこの主は元甲賀組とも多少由縁のあった者らしく、初めは気をすくませていた内儀も、だんだん隙を緩めてしゃべりだした。 「では何でございますか、そのお千絵様の居所さえ、お分りになればよろしいので」 「ええ、それさえ知れれば、こんな寒空に鉄砲笊を担いで、毎日歩き廻ることもねえんです。で御新造様、一体お千絵様は、どこへ立ち退いてしまったものでしょうね?」 「さあ、そこには深い事情があるようでして……」 「な、なるほど。わっしもちっとばかり小耳に挟んでおりましたが、同じ甲賀組の中の者で、あのお方の縹緻と、世阿弥の残した財宝に目をつけて、つきまとっている奴もあるそうですな」 「それなんですよ。あのお千絵様のお苦しみはね」 「して、そいつの名は?」 「旅川周馬というお人……。ア、うっかりよそで、私がしゃべったなどというて下さいますなえ」 「ええ、おっしゃるまでもございません」 「その周馬が、あの滅亡したお屋敷を、お代地としてお上からいただいたのをよいことにして、世間へはお千絵様が他へ立ち退いたように言いふらし、その実、門も戸も釘付けにしたまま、あの屋敷の奥に押しこめてあるのでございます。ええ、それは組仲間の者でもうすうす知っている人もあるでしょうが、なにしろ悪智にたけた周馬に仇をされるのが恐ろしさに、誰も、知らぬ顔をよそおっているのでございます」 「へえ? じゃお千絵様は、やっぱりあの屋敷にいるんですか。ナーンだ、それじゃいくら屑籠を背負って、世間を嗅ぎ歩いても知れねえ訳だ。……イヤ、大きにどうもありがとう存じました、それだけ教えていただけば、後は商売商売というやつで、どんなことをしてもきっとお目にかかります」  と万吉は礼をいって、また虱しぼりの手拭を頭にのせ、鉄砲笊を背中へ廻して往来へ出た。  やがてその姿は、出た所から遠くない墨屋敷の堤囲いへ入り、甲賀家の古い黒塀に沿って、ピタ、ピタと藁草履の音をすりながら、 「屑ウーイ。屑ウーイ」  張りしまっている心とは反対に、わざと間の抜けた濁み声を流していった。  と──万吉は立ち止まって、ズウと後ろを見廻した。あっちこっちに黒い屋敷の塀や樹木が見えるのみで、この囲い内は人通りのない所だ。  万吉が立ち止まった所は、いつか初めてここを訪れた時、細目にあいている小窓を見たあの辺である。そこへ立つと目明し万吉、耳朶をつねってちょっと何か考えこむ。  そして塀の節穴へ目を当てた。覗いてみると屋敷の中、相変らず森閑とはしているが、今日もあの窓の戸が四、五寸ほど開いている。 「ははあ、やッぱりここだな。ここより外に人臭い様子がねえ。いつか草の中に、髪の毛のついた手拭紙が捨ててあったのもこの辺だ。ほかに女気もないという話、きっと座敷牢とでもいう按配になっているのかも知れねえ、一つ当ってみようか……」  何の造作もなく、万吉は塀の朽ちた穴を探して犬のように這い込んだ。どうせ犬の真似をしたついでだ、と思ったのでもなかろうが、そのまま膝で歩き寄って、隅座敷の窓の下へ屈み込む。  そして、ややしばらく、じっと耳を澄ましていたが、時折黄色い銀杏の葉が、廂を打ってハラハラと落ちてくるほか、物音らしい音はない。  はてな、やっぱり誰もいないのかしら? ……と思っていると、家の中でごく密やかに袋戸棚でも開けたような辷り音がした。そして柔らかい絹ずれが窓の近くへ寄ってきた。  窓を開けて、お千絵様が顔でも出してくれるような都合になれば、まことにありがたい偶然だが、なかなかそう願って叶う訳には行かない。  で、万吉。遂に痺れがきれてしまったので、試みに羽目板をコツンコツンと指の尖で叩いてみた。だがやはり、いつまでたっても、中からあけて覗く気配がなかった。  しかしそれにあせって、もし人違いな旅川周馬とでも、面と向ってしまった際には、それこそだいぶこと面倒になるだろう。としばらく我慢してみたが、どうもこっちから当りをつけるより仕方がなくなって、万吉は、いざといえば、半分逃げ支度の気構えを取って、 「お千絵様……」と、聞き取れぬほど低い声をかけてみた。窓は屋敷作りなので背が届かぬほど高目にあった。 「お千絵さま」  二度目に呼ぶと、 「誰……?」  すぐ低い答えが洩れてきた。しかもきわめて優しい女の返辞! 万吉はドキンと胸を躍らすと一緒に思わず「ありがてえ」と心の奥で呟いたことである。 「そうおっしゃるのは、お千絵様でございましょうか」  姿は隠して、眼だけを白く上ずらせながら、も一度こう呼んでみると、今度はしばらく何の答えもなかったが、やがてよほど間をおいてから、 「誰……?」  かすかな女の声が前と同じに繰り返された。 「その私は、お目にかかった上でなければ申されませぬが」  万吉はソロソロ身を伸ばして、 「あなたは、甲賀世阿弥様の御息女、あの、お千絵様でございましょうな」  くどいようだが、なお念を押すと、 「エエ」  とはばかるようなうなずきが、万吉の耳へやっと届いてきた。その声を聞くと、一遍に重荷が下りた心地がして、彼は、初めてのびのびと腰を立てて、雨戸の隙が四、五寸ほど障子になっている高窓の口を見上げたが、背が足らないので隙見をすることができない。  だが、まアこれで安心というもの。やはりここがお千絵様の部屋だったものと見える。  とかく、目明しなどという者は、八ツ当りに当った時と慢心の味に狎れて、いつでも物の裏を観よう、裏を行こうとする癖があるから、正直に、表が表で来たり、白が白で目の前に存在していたりすると、かえって己れの小智慧にからかわれて、神楽堂の外で神楽舞をやっているような、お話にならない骨折損をやるものだ──ということを、この時万吉、悟ったかどうだか。 「では、お千絵様でいらっしゃいますな。さようなら申しあげますが……」と閉まっている窓の下から頭を下げて、 「実はわっしは、大阪表からまいりましたもので、はい、是非折り入って内密にお目にかかりたいと存じますが」こういって、彼はまた向うの声を待っていた。しかし、こっちでさんざん疑心を抱いたように、先でも多少の警戒をもつとみえて、待てど容易に返辞がない。  で万吉は、その疑惑を先に解いて貰うために、 「決して、お案じなさる者じゃございません。あなた様のよくご承知な、法月弦之丞様からの使いで、大事な用をおびてまいった者でございますから」 「えっ……」と驚く声。 「はい」  応えがあったと万吉は固唾をのむ。 「法月さんから?」 「ご存じでございましょうが」と、その図に乗って、何の気もなく爪先立ちになり、上の窓框へ手をかけると、不意に! 窓の隙からその手をグイとつかみ取りに引き込まれて、格子へ絡みつけるように、強く捻じつけられてしまった。 「あッ」  と彼は羽目板へ足を踏んがけたが、もがけばもがくほど窓の角に手が縊れてしまうばかりだ。  ちぇッ、不覚! 優しい女の声であったばかりに、油断しぬいていたのは俺にも似げなかったと、万吉は歯を食いしばって振りほどこうと試みたが、窓縁を力に両手で抑えつけている家の中の者と、爪尖立ちをして締木にかけられている下の者とは、地の利において大変な相違がある。  こういう結果になってみると、やはり世の中には二一天作の五ばかりには行かず、二四が九であったり、三五十九である場合も常に心得ておかなければならないかも知れぬ。  そんなことは釈迦が経文をそらんじているより、百も千も合点している万吉にしてこの失策は遺憾至極といわねばならぬ。彼は、懸命に力をしぼってもがき遁れようとじれながらも、対手はそも何者であろうかと、必死に考えずにおられなかった。  噂に聞いていた旅川周馬か? イヤそれにしてはたしかにさっきの答えが女の音声であった。声ばかりでなく、ひしとつかまれている手の触感でも、それはあきらかに柔らかく温い女の手だと知れる、だが女にしてはなんと粘り強い指の力だ。 「ちッ、畜生ッ……」と目明し万吉、腕が抜けるか離すかとばかり、再度の強引を試みると、家の中の女は憎いほど落ちつきすまして、 「あぶないよ」  と静かにいったものである。 「──騒ぐのはおよしなさい。わたしの側には手頃な小刀がありますからね、じたばたすると掌を窓板へ、鰻の首を刺めるように、プツンと縫ってしまいますよ……」  小刀で掌を刺し止められては堪らない。万吉はひやりとして、その女の手を羅生門の鬼かとも強く感じた。  だが、それが旅川周馬でなく、お千絵様でもないとすれば、一体誰と判じていいか。この甲賀世阿弥の廃家になった跡には、周馬が入れ代り、周馬はお千絵様をとりこにして、密かに監禁しているのだと、あの内儀がまことしやかに話したではないか。  するとあの女の話はうそだったかしら。いやいや、万吉の眼では、そんな虚言を吐く人間とは思われなかった。  彼は頭の昏迷と無駄力に疲れてしまった。 「静かにおしよ、騒ぐとかえってお前のほうの不為だからね」  家の中でそういう声の裡に笑いが含んでいた。万吉はいまいましさに唇を噛みしめたが、所詮ムダだと知ったので、もういたずらに逆らわなかった。 「なにも、こんなにいじめることはないのだけど、逃げようとするからこっちも捕まえる気になるというもの……。実は少しお前さんに、訊きたいことがあるのだけれど、この屋敷では都合が悪いから、改めて私の宅まで来てくれないかえ」  万吉はオヤッと思った。  こう落ちついて聞くと、女の語調にどこか聞き覚えがあるばかりでなく、いう注文がいよいよ出ていよいよ不思議に聞かれたのである。 「じゃ、お前は、この屋敷の者じゃねえんだね」 「誰がこんな、草茫々とした化け物屋敷に住んでいるものかね。万吉さん」 「えっ……?」 「ぜひ、頼みますから私の宅へ来て下さいな。そっちは捕縄を持つ渡世、私は裏の闇に棲む人間だけれど、思案に余っていることがあるんだから、渡世を捨てて会ってくれる訳には行きませんか。そういうこの私の家は本郷妻恋一丁目──」 「あっ、お綱⁉」 「──分ったでしょう」  不意に手を離されたのと、意外なおどろきにうたれたのとで、万吉はヨロリと後ろへ足を踏み乱しながら、窓の細目へ瞠目した。と、白い手が嫋やかに動いて、雨戸の障子を二尺ばかり押し開けた。  急に流れこむ外の光線をうけてまぶしげな微笑を含んでいる女の半身──見ると蔵前風な丸髷くずしに被布を着て、琴か茶か挿花の師匠でもありそうな身装、姿はまるで変っているが、それは見返りお綱に違いなかった。  万吉はただ呆れ顔である。  家違いでもしたのではないかと見廻したが、やはりここは元の甲賀家、今では旅川周馬の門標が打ってあるその屋敷には相違ないのである。そこに見返りお綱がいる! あの妖艶なお嬢様姿や、粋な引っかけ帯とは、また打って変った被布姿でいるのが、いよいよ不思議にたえぬのであった。  お綱は片えくぼに万吉の気振りを見ながら、 「とんだ人の声色を使って、定めし胆を潰したでしょうね」 「さすがの俺もびっくりしたよ。おまけに人の腕首をねじつけて、ひでえ真似をするじゃねえか」 「堪忍しておくんなさい。半分は私のいたずら、半分はお前さんを逃がすまいと思ってね……」 「だが、どうしてこんな所にいたのだ」 「貸したお金の催促に来ておりますのさ。ところがこの通りな荒屋敷、いつ来てみても釘付けなので、業腹だから今日は向うをコジ開けて、この部屋へ上がり込んで周馬の戻りを待っていたところが、たいそう草双紙が積んであるから、肘枕をして読んでいると、窓の外からお前さんの見当違い……まったく妙な所で会いましたねえ」 「じゃ、ここの旅川周馬という者とお前とは、ずっと以前から懇意なのか」 「いいえ、時々賭場で落ちあうので、懇意というのでもないけれど、二、三百両ほどの立て替えがあるんですよ……あ、こんな話は目明しさんには禁句だっけ、ご免なさいよ、ホ、ホ、ホ、ホ」 「なに、目明しは目明しでも、この万吉はほかに大きな望みを賭けている体だ。ケチな十手をピカつかせることはしねえつもりだから、お上の者とひがまねえで、何なりと明けすけに話してくれ」 「じゃ、女掏摸でも捕まえませんか」 「さア、そいつは、どうともいえねえが、見返りお綱という人には、住吉村で助けられた恩義がある。そいつを忘れちゃすまねえからな……」 「恩も糸瓜もありませんが、どうか、さっきもいった通り、一度妻恋の私の家へ来て下さいな」 「そして何だか相談があるといったが」 「エエ、法月さんのその後の様子を、よくご存じのようですから、それやこれやも聞きたいし……また私の思い余っていることも……」  口ごもって、お綱は、フイと心に何ものかをえがく様子である──打出ヶ浜の夜寒から、月夜の風邪はいっそう根深いものとなったらしい。 旅川周馬 「ではお千絵様、エエ違った! お綱さん。どういう話か知らないが、お前のほうの相談はいずれ場所を改めて、ゆっくり聞くとしようじゃないか」 「そう、では妻恋の私の家へ」 「日を改めて訪ねましょう」 「必ずね。固く約束しましたよ」 「万吉、義理は固いつもりです」 「ああ、それは私も見込んでいる……掏摸と目明し、オランダ骨牌で結べましたね」 「一つ仲好くやりましょうぜ」 「え、待っていますよ」と、お綱は蠱惑にニッコリ笑って、すうと障子を閉めかけた。  驚いたのは目明し万吉。尋ねてきた者は尋ね当てないで、尋ねもしないお綱から口約束を取られた上に、窓を閉められてしまっては、虻蜂とらずな訳である。 「オット!」と、あわてて背伸びをした。 「こう、お綱さん、自分の用だけはすんだからといって、俺の頼みをきいてくれねえのは酷過ぎるだろう」 「オヤ、何か私にも頼みがあるの?」 「あるからこそ、かりそめにも、目明したる者の万吉が、チボのお前と手を握ろうというんじゃねえか」 「ほんに、これはわたしが現金過ぎたね。なるほど誰かがいったっけ……。恋飛脚の梅川にしろ、河庄の小春にしろ、月夜の風邪をひいた女は、他人の都合はお構いなしで、みんな自分だけの世間のように、勝手な気持ちになるものだって」 「冗談じゃねえ、そんな手前勝手な奴らには、この万吉はつきあえねえ」 「私だって、今にどうなるか知れないよ。自分で自分の心が少し変に思えてきたからね」 「そこで、チボの足でも洗いなせえ」 「とんだ所でご意見でした。そのうち、ゆっくり考えましょう」 「エエ、また話がそれちまった。お綱さん──」と万吉、今度はいよいよ真剣に、窓の格子へつかまった。 「この屋敷の奥かどこかに、まだ誰か人がいやしねえか」 「イイエ誰もいないようだね……どこの部屋も真っ暗だし、第一鼠がいないのは、食い物なしの証拠だから、時々、旅川周馬が帰ってくるくらいなものに違いない」 「おかしいなア……? たしかに、お千絵様という、前の世阿弥様の御息女が、ここに押し込められているという話なんだが」 「アアその御息女と私を間違えて呼んだのだね。お綱もはすっぱな姿を見せないと、これでも武家のお娘様に買いかぶられるのかしら」 「どうだろう、お綱さん」 「なに?」 「お前の相談はまだ聞いていねえが、この万吉が、命にかけてもきっとひきうけるから、現在俺の弱っている一つの大事へ、ウンと片肌をぬいでくれないか」 「ほんとにかい」  気味の悪いほど真味な顔色で、お綱がトンと肘掛へ身を凭せてきたので、万吉は目の前へタラリと下がった被布の色地をみつめながら、ちょっと後の言葉を絶句した。  彼の推量では、お綱の頼みごとを、奉行所筋のことか、手先仲間の扱い事か、くらいに考えていたのである。  まさか、法月弦之丞に絡まる、伊達の女の初心な恋とは──露ほども気がつかなかった。  彼が、お綱をここで利用しようとしたのは賢明だが、この時、フイと頼みごとの交換をした一事のため、後々、万吉がどれほどの艱難苦労をし、どれほど骨を削り髄を抉られる原因となったか知れない。  これが近世人気質なら、頼んだことはやらしておいて、頼まれたことはケロリと忘れてしまうだろうが、そうでない時代、また、そうでない気性の万吉。 「誰が嘘をいうものですか」  キッパリと言ってしまった。  お綱は、ほッと嬉しそうな顔をする。  江戸へ帰って以来、いよいよはかなきものと悩んでいた、弦之丞への接近へ、一縷の望みが繋がれて──。 「話してごらん、万吉さん」と、吾から頼まれたがる。 「ほかじゃねえが、お前が懇意なのは何より倖せ。旅川周馬のやつを欺して、お千絵様をこの屋敷から誘い出してくれねえか」 「いいとも」  一も二もなくのみ込んだ。と──お綱がフイと眼をそらし、ジッと神経を耳に澄ます様子。  悪い所へ、旅川周馬が戻ってきたのではないか、その時、塀の向うに忍びやかに、チャラリ、チャラリ……と雪踏の音。 「周馬だろう!」  万吉は、ペタリと羽目板へ背中をつけてしまった。  そして、逃げ口を探すような眼配りして、 「ちぇッ、悪い所へ帰ってきやがった」 「そうじゃないよ……」お綱は少し身を退いて、半分窓障子の蔭に隠れながら、 「あの足音は別な者らしい……」 「そうですか」と、ホッとしたらしい首をもたげて、「まだ一言話し残りがあるんです。それは、幾ら周馬に押し込められているお千絵様でも、ただ、屋敷から逃げだせといったところで、お綱さんを疑って、出る気づかいはございません」 「それは大きにもっともだね」 「ですから、こういっておくんなさい。──近いうちに法月様が江戸へきて、ぜひいろいろなご相談がある、それには旅川周馬なンて、亀の子だか泥亀だか分らねえ奴の屋敷では工合が悪い──と、ようがすか」 「オオ、それじゃ何かい、弦之丞様もお近いうちに」 「へえ、わっしの後から来る筈なんで」 「まア……」  牡丹が花を開き切ったように、お綱の顔が明るく笑った。 「いいよ、いいよ。お千絵様とかいうお女、きっと、私が周馬をうまく欺して、誘いだして上げるから」 「じゃ、吉報は妻恋へ」 「アア、四、五日うちに聞きにおいで」 「ありがとう!」  と万吉は、八ツ手の葉蔭から、もう一度お綱へ頭を下げて、前の穴からズルズルと塀の外へ這いだした。ヒューッと寒い空風が目に砂を入れて行った。  塀の穴から出てみると、もう夕暮に近そうだ。  渡世道具のてっぽう笊。チャンとそこに待っていた。  笊もし人間なれば、怒っている。 「エエ寒い」  すぐ水ッ洟を啜ったのは、目明し万吉、屑屋に早変りの心支度が、自然にそうさせたものなのだ。膝や袂の土を払って、鉄砲笊を斜めにかつぎ、 「屑ウーイ」  濁み声を淋しくひいて、二足三足あるきだしたのである。すると──すぐ。  万吉は水でも足へ掛けられたように、ハッと驚いて道を避けた。  墨渋を塗った黒塀へ、一人の男、守宮のように貼りついて、じっと、横目でこっちを睨んでいる。  向う側を廻りながら、万吉もグイと横目で睨んだ……。  黒縮緬の頭巾、鉄漿染の羽織。  黒い塀の所へ黒い人間が、ジッと立っていたのだから、ウッカリ気がつかなかったのも当然で、茶柄の大小、銀鐺、骨太だがスラリとして、鮫緒の雪踏をはいている背恰好。  お十夜孫兵衛!  きゃつだ! まぎれもなき十夜頭巾。  ──野郎、どうしてこの江戸表へ来たのかしら? と万吉、鋭い眼をくれながら、ソロリ、ソロリ、と草履を摺って廻ると、お十夜もまた同じ気構え、同じ敵意。  岡ッ引きめ。  来おったナ、命を捨てに。  どうしても、おれの差している助広の錆になれと、三世相に書いてあるような奴だ。  大阪以来ここしばらく、そぼろ助広にもうまい生血を舐めさせない。  斬ッてやろうか! バッサリと。 「だが待てよ……ここは俺にゃ大事な瀬戸際だ。せっかく今日、お綱を見かけてこれまで突きとめてきたものを、また関の山の時のように、とち狂われちゃ堪らねえ。まア、向うでそしらぬ顔をするなら、こっちも横を向いていよう」  こういう腹で見ているのだ。  万吉は腕がムズムズしてきた。  彼の心もまた叫ぶ。  獣め!  見ていろよ。見ていろよ。  方円流二丈の捕縄が、今に、てめえの喉首をお見舞い申して、その五体を俵ぐくりに締めあげるぞ。  ああ、腕が唸って堪らねえ。  だが、当分は見遁してやら。おれにゃ別の大望があるからよ。けッ! それさえなけりゃ、汝なんぞ、半日だッてこの人間界へおくもんけえッ!  とは思いながら──思わず十手の柄を握ってブルブルッとふるえた。  殺気を感じて、お十夜の手も、雷光のように刀の柄へ飛ぶ。  あわや! とみえた。  と。塀の中から、お綱であろう、周馬を待つ間の退屈しのぎに、探し出した三味線の糸をなおして、薗八節か隆達か、こッそりと爪で気まぐれな水調子を洩らしている。  水調子の三味の音が、フッと万吉と孫兵衛の殺気を消して、二人を理性に返らせた。  殊に万吉は、 「大事な体だ、おれの体は」  一八郎の訓戒を思いだし、目をつぶるように気を持って、バラバラッと、早足に駈けだしてしまった。  駈ける背中を凩が吹き拯って、てっぽう笊の紙屑を、蝶か千鳥かと、黄昏の空へ吹き散らした。やがて高く舞ったのが、どこかの屋敷の屋根瓦へ、気永にヒラ──と白く落ちてくる。  一方は、お十夜孫兵衛。  相変らずりゅうとして、縮緬ぞッきの懐手だ。それは万吉とあべこべのほうへ、黒塀に添って歩きだした。歩きださぬときゃつの眼が、またうるさくつけてくるだろうと、それをまぎらす足どりである。だから、いたって悠々としたもの、雪踏の裏金も鳴らぬ程に。  ここに、お十夜の姿をみるのは、大津以来のことであるが、困れば、相変らず持病の辻斬りを稼ぐとみえて、身装持物、穿物に至るまで、どうしてなかなかこっている。  帯も流行の伝九郎好み、羽織の紐とておろそかではない。だいぶ江戸ふうにかぶれたところがある。お綱好みの迎合をやらかし、これでお綱が参らなければ、また一工夫という腹だろうが、さりとはお十夜、どこまで根のいい男だろう。  しかしながら孫兵衛自身は、決してさまで精根を費やしている様子もなく、むしろ、精根のやり場に困っている姿だ。  そうだろう、あの好色なお十夜が、お綱を見てから禁慾同然、ボロ買いをせず辻斬りも無駄にはせず、かつ、職業というものがない。すべての精と力と時間とを、お綱を手に入れることだけに懸っている。無論、妻恋にあるお綱の家も、執念くうかがっていたのであるが、遂に今日までいい折がなかった。  そのうちに、お綱が時々、挿花の外稽古に出るような姿をして、紀州屋敷の仲間部屋に、賭博ごとをしに行くという話。今日も、紫被布を着たその女が来ていると聞いて、お十夜はただちに出向いて行った。  ところが、その日お綱に酷い落ち目が続いたため、金の工面をしに行くといって帰ってしまった、という後であった。その金の工面の行き先を糺すと、同じく、ここへしばしば来たことのある甲賀組の旅川周馬。お綱が前に貸しがあるので、今日はどうでも取ってくるといって出たから、あの女のことだ、多分、居催促をしているだろう。──こういう道筋を辿って、お十夜孫兵衛、ここへゆらりと現れたものである。  そこで様子をうかがえば、お綱はたしかにこの荒屋敷の中にいる。さっき、チラと洩れてきた爪弾の音でも知れる。だが、旅川周馬とかいう奴、一体留守なのか、いるのだろうか。留守とすればいい都合だがな……と孫兵衛は、獰猛な猫が鶏の籠を巡るように、心の爪を研ぎ澄ました。  そして、いつか懐手のまま、広い屋敷の外廓を、ブラブラ一周り廻ってしまう。  さて、やッぱり妙策もない。  自体、はっきりと、女のほうからご免をこうむられているお十夜だ。どう懐手をしてみたところで、妙案のある筈もなし、にわかに、お綱の心を惹く手段のあろう理由もない。  だがお十夜は、ないとは決して考えていない。あると固く信じている。まだまだお綱をなびかせる方法は山ほどある! 金ずく。腕ずく。根気ずく。あるいは脅し。あるいはホロリとさせる泣き落し。でなければ迫害だ、呪い廻す助広だ。 「ふウン……いくらでもあるじゃねえか」  独り語を洩らした孫兵衛、ひょいと気がついてみると、いつかグルリと廻って表門の前に来ていた。 「旅川周馬」という門札は掛かっていたが、草茫々として無住寺のような寂寞さ。  ドンと一つ押してみたが、門も潜戸も開く様子がない。お綱はどこから入ったか知らぬが、孫兵衛、縮緬ぞッきの風采で、塀の中からは潜りかねた。  折からあたりもたそがれてきたし、人の見る眼もない様子なので、彼は門前の捨て石を足がかりとし、塀の見越へ片手をかけて、ヒラリと上へ攀じ登った。  そして。  ポンと囲いの中へ、身軽に跳び下りようとすると、疾走してきた人影が、 「待てッ」  と、お十夜の片足を捕って、ズルッ──と外へ引きずり下ろしてしまった。  驚くまに、お十夜の体、何者かに足を取られて、ズルーッと、塀の上から辷り落ちてしまった。 「こやつッ」  と、跳びかかってきた男は、小泥棒でもあしらうように、ムズと孫兵衛の襟がみを引っつかむ。  好きにつかませておいて、お十夜は、ゆるりと右の足を前へ出し、暗い地面を爪先で探っていたかと思うと、脱げていた雪踏に足を突ッこんで、固くはきなおした。  いかにも図々しい落ちつきよう。そして、ギラリと凄い上目を射た。  己の襟がみをつかんでいるのは、二十七、八の小男であった。若い侍のくせに、髪を総髪にして後ろへ垂れ、イヤにもったいぶった風采。ハハア、こいつだな、旅川周馬という男は──と孫兵衛、わざと力も出さずにいる。  丹石流の、据物斬りの達人、お十夜孫兵衛の襟がみをとって、どう料理する気か。  こいつは面白い、一つ、彼の好きに任せておいて、周馬の腕をみてやろうと、お十夜は、おとなしく身を屈ませて様子をみた。  さて、あぶない話になった。  周馬は孫兵衛の襟がみをつかんでいるが、右手が使えず。孫兵衛は、相手に襟を取られているが、右手は早くも助広の柄を握って、胴払い! 横一文字の抜打ちを気構えている。  この竦みあいはあきらかにお十夜の利だ。  旅川周馬なるものが、かりにも剣道に眼があるなら、今は危険な瀬戸際と知るところである。襟がみを離して悪し、引いて悪し、押して悪し、どう行っても変る途端に抜けてくる。胴払いの殺剣をのがれて抜きあわせる工夫はない。 「はッはッはははは」  不意に笑いだしたのは周馬である。  何の気だか分らないが、また、 「はははは……」と笑いつづけ、かつ、笑いながら手を離して、いかにも軽快な言葉づかい、 「いや、これはこれは」といったものである。 「お見うけ申すところ、どなたかは知らぬが、ご風采も賤しからぬ様子。まさか、空巣狙いではござるまい。何で拙者の屋敷へ、無断でお踏みこみなさるか、仔細がござろう、それをお聞かせ願いたい」  こう真面目になられると孫兵衛も弱った。 「いや……」と襟を掻き合せながら、「武士にあるまじき無作法をして、慇懃な武士扱いをなされては、なんと面目もない次第で」 「いやいや、拙者は常に外出勝ち、事情によってはお咎めも致すまい。何かこのほうの屋敷内に、急な御用事でもありますかな」  若いけれど旅川周馬、総髪で納まっているだけに、なかなか能弁で如才がない。お十夜の腕と殺念の燃えた気ぶりを、巧みにかわした上、こういいながら、おもむろに相手の真意を読もうとする眼ざし。ここに猫をかぶった悪玉と悪玉とが、双方、微妙な腹探りをやりだした。 「されば」  と孫兵衛、まことに神妙な様子でいう。 「実は手前の女房が、お屋敷のうちにおりますので、それを訪ねてまいりました」 「ほほう……これは異なことを」  旅川周馬、いかにも恍呆けた返辞をして、 「そこもとの女房といわっしゃるのは?」 「貴殿は前からご承知のある筈。見返りお綱と申す女で……。いや、まことにお恥かしいわがまま者。無断で国表を出奔して、この江戸表に遊び暮らしているというのを聞き、はるばる尋ねてまいりましたような訳……。ところが、今日、何かそこもとに用事があって、昼からお屋敷内で待っているとか承ります。はなはだ恐れ入りますが、ここへ呼び出していただきたいものでござるが」 「やあ、ではお綱が来ておりますか」 「たしかに、中にいる様子」 「これは困った」  と周馬は頭をかいて、 「あのお綱には、少し借財がござってな。それを取りに来ているのでござろう」 「いや、借貸などのことはどうでも。とにかくちょっと、お綱を呼んで下さらぬか」 「承知いたした。して貴公のお名前は?」 「拙者は」グッと詰まったが孫兵衛、「藤田三四郎と申す者……」口から出まかせにいってみた。 「アア藤田殿で? 心得ました、しばらくそこでお待ち願いたい」  いたって気軽に頷いた旅川周馬、腰から鍵をだして潜り門を開け、中へ入ってお十夜にちょっと笑ってみせたが、門を閉めてスウとどこかへ消えてしまうと、半刻、一刻、二刻あまり、待てど暮らせどそれッきり出てこない。 鏡の裏  いくら待っても出てこない筈。旅川周馬は荒屋敷の庭を素通りに裏門の戸をコッソリ開けて、どこともなく立ち去ってしまった。  家の中に待ちうけているお綱と、門の外に待ちぼけているお十夜とを捨てて、彼は、その夜も翌日も、とうとう、この荒屋敷へ帰ってこなかった。  お十夜が、それと知った時には、既に喧嘩相手の周馬がそこにいない時で、さすがの孫兵衛も、もう一度塀を躍り越えてみる勇気も失せ、また後日の策を描いて、その夜はむなしく引き揚げて行った。  がしかし、お綱はすッかり腰をすえて、その屋敷を当分の住居のように心得ている。  女だけに居催促も要領がよい。一間どころをこぎれいに掃除して、納戸の隅から見つけてきた置炬燵、赤い友禅の蒲団をかけてその中にうずくまり、側には持ち出した草双紙を、より取り勝手に見散らかしていた。  なるほど、居催促もこういう按配に行けば、三日はおろか一月が百日でも続くわけ。ただ不便なのは食事だが、これもいつか当座だけの用意を求めてきたらしく、呉須の急須に茶を入れて、栗饅頭まで添えたのが、読み本の側においてある。  緋友禅の炬燵蒲団に、草双紙と三味線に、玉露と栗饅頭。そこに蔵前風な丸髷の美女が、冬の陽ざしを戸閉していたら、誰が目にも、この屋敷の若奥様か或いはお妾様、──まさかに掏摸の見返りが居催促とは見えなかろう。  だが、華やかなお側女様の生活にも、人知れない苦労があるごとく、今のお綱の腹の中も、なかなかのんきな置炬燵ではない。  旅川周馬が帰ってきたら、どういう手段で、お千絵様の居所を聞き出そうか、ということも一つの心配なら、また、今日あたりは万吉が、妻恋の方へ吉報を聞きに来ていやしまいか、というのも気が気ではない苦労である。  そうかと思うと、お綱はまた、お伽草子の拾い読みに、はかない女の恋物語などを見出して、弦之丞のことに思いくらべ、思わず知らず一日を暮らしてしまうこともある。  ──こうしてここの空屋敷に、七日ばかり落ちついてしまった。  八日とたっても、まだ旅川周馬は帰ってこない。 「どうしたのだろう?」  お綱も少しあきあきしてきた。 「こんなにいつまで戻らないところをみると、この屋敷に門標は打ってあるが、ここには、住んでいないのかしら?」とも考えられてくるのである。 「第一に、お千絵様──」お綱はそれをしきりに思索した、「万吉はああいうけれど、この屋敷のどこにもいる気配はない。七日の間に奥の座敷から女中部屋まで、くまなく探していないのだもの、きっと、周馬のやつがどこかほかへお千絵様の身を隠し、そこへ行っているに違いない……。とすると、根よくここにいるのも、何だかばかばかしい話だが」  あしたは一度妻恋の家へ帰ろうと思った。  そして、万吉にこの事を話そう。  この先とも、お千絵様の居所を尋ねるについて、自分も、どこまで骨身を砕くかわりに、弦之丞様のこともあの人に頼んでおこう。  そう思いながら、お綱はいつか、炬燵の上に横顔をのせて、トロトロとうたた寝していた。  お綱は何を夢みるのであろうか、寝顔に笑くぼがういている。その耳には、川長の座敷で聞いた一節切、その眼には打出ヶ浜の月の色がみえるのであろう。  このあたりは、みな軒のかけ離れた隠密屋敷。ましてや広い家の中には、お綱のほかに人気とてなく、まだ宵らしいが、うたた寝をさますカタンという物音もしない。  と──氷へ物の辷ったように、部屋の襖が音なく開いた。  ヌッと立った男がある。  行燈の明りを、顎から逆にうけたのが怖ろしい容貌にみえた。しばらく、黙然として、うたた寝の美しい寝顔を見下ろしている……。  それはお十夜孫兵衛だった。  この間は、周馬のためにさえぎられたが、今夜は、念入りに忍びこんで来たものとみえる。 「お綱!」  と呼ぼうとしたが、孫兵衛は、この美しい寝顔をさましてしまうのは惜しいと思った。  関の山の月見草の崖に、うっとりと寝転んでいた時のお綱も凄艶にみえたが、緋の友禅に寝顔をつけて、埋火のほてりに上気している今のお綱は、お十夜の眼を眩惑するにありあまる濃艶さである。  孫兵衛は、静かに坐って、蒲団の中へ手を入れる。  そして、お綱の髪の香をかぐように、炬燵の縁へ顎をのせた。  炬燵に蒸れる伽羅油の匂いに、孫兵衛、もう恍惚となって、 「どんなことがあろうとも、おそらく、俺には、この女だけは殺し得まい……」  十夜頭巾にくるんだ顔を、炬燵にのせ、こんなことを思うらしい。  そして、頬へ冷たく触ってきたお綱の髷のほつれ毛を、一筋、自分の唇にくわえながら、目は、ほれぼれと、寝伸びた女の襟あしに燃えついていた。  と、お綱は。  うたた寝の耳へ、人の呼吸が冷たくふれてきたのに、 「おや」  パチリと、棗形に眼を見ひらいた。  それのみか、炬燵の中の自分の手に、誰かの大きな掌が重なっていたのに驚いて、思わず蒲団から飛び離れた。 「驚くことはなかろう、お十夜だ」 「アア……」とお綱は後ろへ手を支えて、黒猫に似た孫兵衛の姿をみつめながら、 「……とうとうここまでやってきたね」  さすがに、胸は少し動悸を打ったが、語気にひるみは見せなかった。 「なんで来ずにいるものか」と孫兵衛は、凄くニヤリとしてみせながら、 「てめえが江戸へ来れば江戸表へ、北へ逃げれば北の果てまで、我を折って俺の心に従うまで、付きまとってやるということは、オオ、いつか関の明神でも、たしかに言い渡してある筈だ」 「ご苦労さまだねエ」  お綱はツンと横を向いて、 「道理でこの間うちから、妻恋坂の私の家やこの辺を、きざな雪踏がチャラついていると思ったら……」 「じゃうすうすは、おれの真意を感づいていたろうに、ずいぶんてめえも薄情けな、血の冷てえ女だの」 「ホ、ホ、ホ……」お綱は鼻であしらうように、 「うす情けだなんていう言葉は、お十夜さん、お前の柄にはまらない文句だよ。私の血の冷たいのは生れつき──そう育ってきたのだからしかたがないやね。嫌いな者には氷のよう、その代りにまた、好きな人へは火よりも熱い心になるのさ」 「そんな熱に浮かされている年頃には、どこの女も、みんなてめえと似たようなたわごとをいってるものなのさ。それがだんだん、世の中を知り、苦労の味を噛みしめてくると、実意のある男を嫌ったことが後じゃもったいなくなるものだ」 「ご親切さま。はるばる上方くんだりから、そんな月並をいいに来るのは、まったく、お前さんでもなければできない芸だよ」 「おれもいつまで血なまぐさい、辻斬り稼ぎをしているのは嫌だし、お前も、いつまで指先の危ねえ世渡りでもなかろうが。のうお綱、ここらで一つ気を締めて、二人で大きな仕事を最後に、堅気な世帯でも持とうじゃねえか」 「ほんとに、私もいつもそう思いますよ……。だがね、お十夜さん、お前とだけは嫌ですとさ」 「なぜ⁉」 「だって、それは気持だもの」 「じゃ、誰かほかに思う男が」 「お綱にもあるんですよ」 「ウム、誰だ、そいつは」 「聞きたいの……」 「オオ、聞いておこう!」と孫兵衛。  助広の鯉口をつかんで、凄い血相、一膝前へすりだしてきた。  お綱は、冷えた茶をグッとすすって、苦っぽい笑みでお十夜の剣幕を斜めに冷視した。  こうした脅迫をうければうけるほど、お綱の意地は捻けるばかりで、むしろ、紅舌に男をのた打たせ、思うさま冷然と揶揄してやりたいような度胸まですわってくる。 「それは……いっておいたほうがいいかも知れない。そうすれば、お前さんも、自分のしていることが、どんな無駄だか、はっきり分ってくるだろうから」 「そんなことはどうでもいい! その男の名を聞こう。それをいえ」 「私の胸に誓っている人は、天涯無住の御浪人でね……」 「ウム、してそいつは」と、お綱の揶揄がやや深刻にすぎたので、孫兵衛、左につかむ助広の鍔をブルルとふるわせ、瞋恚の炎を燃えたたせる。 「……法月弦之丞というお方。お十夜さん、私に指でもさす気なら、すみませんが、その人に断ってきて下さいよ」 「よし! おれもお十夜孫兵衛だ」 「どうするの」 「よくも恥をかかせたな!」ジリジリと寄ってきたので、さては抜き浴びせるのかと思うと、孫兵衛は、ふッ……と行燈を吹き消してしまった。  部屋の中は真ッ暗となった……。  すばやく、行燈を吹き消したお十夜の意は、問わでものこと。  お綱はトンと身を退いた。  が──咄嗟に立とうとした体は裾の重みと、瀬戸物へつまずいて、よろりと、元の所へ仆れてしまった。 「おい、どこへ行く気だ」  憎々しいお十夜の嘲り顔が、闇にも目に見えるような気がして、お綱はまたカッとなった声走りで、 「お離しよ、わたしの裾を!」  どんと、対手の胸を突いたのが悪く、かえって、孫兵衛のために、そのきき腕をつかまれた上、触るるも忌わしい膝の上へ捻じつけられて、あたら丸髷の根を揉み壊されてしまった。 「お綱ッ、情の強いのも程にしろよ」 「わたしには、弦之丞様という、心に誓った人があるというのに、まだそんなくどいことを」 「おう、恋仇があるときけば、なおさら俺の根性として、てめえを弦之丞のものにさせねえのだ」 「ええ、誰が、お前なんぞに! ……」腕に腕を絡んでもぎ離そうとしたけれど、孫兵衛の膝はビクともせずに折り敷いて、なおかつ、女の足掻き悶える態を心の奥で陶酔している。 「喚け喚け、いくらでもジタバタいたせ。ここは関の明神と違って、何とてめえが騒いだところが、無住な伽藍も同じ空屋敷……、旅川周馬のいねえうちは、この孫兵衛と二人よりほかに、誰も出てくる者はいない場所だ。は、は、は、はは……お綱! もういい加減に我を折れよ」  ひしと抱きすくめた孫兵衛、歯を食いしばるお綱の顔を覗いて、その頬へ自分の頬をすりつけて行こうとする。  お綱は、苦しまぎれに顔をそむけて、すり寄せてきた十夜頭巾の端に、ムズと爪を立てたのである。  ズル──とそれが脱げそうになる。  と、孫兵衛は、あたかも、忘れていた神経を、針の先で、突かれたように、ハッと、両手で頭巾を抑えた。  その間髪に、お綱はさっ──と立ち上がった。 「うぬ!」  と追いかかる孫兵衛、浅ましい獣心の沸り狂うままに、真っ暗な空屋敷の間ごと間ごとを追い廻して、今は、眼にお綱よりほかの何ものもない。  お綱はまた必死に逃げ廻った。  けれど、運の悪いことには、このダダッ広い屋敷は、昼でもすべての戸が閉めきッてあったため、外へは一歩も逃げだせないのだ。ただ、お綱のかすかな強味は、万吉に頼まれて、お千絵様の居所を探した時、念のため、一間のこらず歩いてあったし、押入れ納戸の勝手まで覗いているので、茶の間から客間、中廊下から奥の間と、ほどけた帯を巻くひまもなく、尾長鳥が尾を曳くように駈け廻った。  だが、かかる場合、逃げれば逃げるほど、お十夜の執念は増すばかり、お綱を傷ついた色鳥と見れば、彼は情炎の猟犬に等しい。  今しも、だんだんに追いつめてきた奥廊下。  鉤の手に曲るところを、そのままそれればまたもとの茶の間あたりへ入るのだが、そこへ行っては、いよいよ袋詰めにされてしまう。  で、一方をまっすぐ走ったのである。  そこは九間の橋廊下。渡るとすぐに部屋がある。右は書院、左は居間、昔、この屋敷の主人、甲賀世阿弥のいた頃は、ここを居所と定めていたものらしく、すべて木口もしっかりとした別棟である。  お綱はそこへ逃げてきた。  すぐに書院を開けようとした。ところが──開かない!  はッと思って、居間の杉戸へ手をかけた。もう、お十夜の影、バタバタッと橋廊下まで追いついてきた。 「ああ! どうしよう」  お綱は絶望の声を洩らした。  そこもやっぱり開かないのであった。  不思議な! と、思う余裕はなかったろうが、いつか、ここをあらためた時には、たしかに、どッちの部屋も開いて、内から錠を下ろせるようになっていた筈──? 「待てッ、お綱!」  悪魔の爪が襟もとへさわった。お綱はそれを潜り抜けた。だが、もう廊下はドン詰り!  是非がない。お綱はそこで振りかえった。猫を噛むの窮鼠となって、帯の間から引き抜いた匕首を逆手にもち、寄らば、お十夜にズタズタに斬られるまでも、こっちも、相手のどこかしらへ、一突き刺し貫いてやろうという女の一念。  紅をさいて吊りあがった眦、髷も笄もどこかへ落ちて、ありあまるお綱の黒髪、妖艶といおうか凄美といおうか、バラリと肩へ流れている。  お十夜の血は狂いに狂った。意馬心猿──という相である。  浅ましや孫兵衛。その廊下のつきあたりまで、お綱を追いつめてきたかと思うと、いきなり、跳びついてゆこうとした。  飢えた狼が、鶏へかかったように。  と──かれの血眼を、キラリとさえぎったものがある。お綱が、死をきわめて、待ちかまえていた匕首の色! 寄らば、という気ぐみが、その切ッ尖に張りつめていた。  はっと、お十夜は気をすくめた。  つり上がったお綱の眼と、月形の刃が、こんどはあべこべに、お十夜のほうへ、一、二寸ずつ迫ってくる。  前にもいったように、お綱のうしろは廊下の行き詰りで、左右は、居間と書院の檜戸だ。逃げようとて逃げられる場所ではない。お綱の身は、今こそ、お十夜の爪にかきむしられるか、その匕首をもぎとられて、かれに心臓を刺されるか、途は二つを出ないのである。  死ぬのがましか。どうあろうと、助かるのがまだしもか。誰が! こんな男にゆるすものか。お綱はそう思うほど強くなった。  けれど孫兵衛は、ひとかどの男さえ、歯の立たない丹石流の達者だ。なんで、女の匕首に、身を掠らせるような隙があろう。獣情と殺気に、らんらんと燃える眼ざしをして、ジリジリ……となおも彼女の手元へよってきた。  ええ、口惜しい!  お綱は、唇をかみしめ、匕首の切ッ尖をブルブルさせた。けれど、ともすると、孫兵衛の体が、それを潜ってきそうになるので、一足退き、二足さがり、いよいよ袋廊下の壁ぎわまで攻めつけられてしまった。 「もうだめだ!」  心の奥で叫びをあげた。と一緒に、彼女の心は意気地なく萎えかけたが、ふとみると、お十夜は、何か物の怪にでも逢ったように、一、二間ほど前で、急にじっとなったまま、寄りついてこなくなった。  なぜ! というに。  お綱のうしろから、もの凄い顔をした、黒頭巾の男が、ぬッと、彼に見えたから── 「あっ……」  お十夜の情血がいっぺんに冷たくなった。残ったのは兇暴な殺気だけだ。彼は、女のうしろから、ヌッと覗いた男を、そも、誰かと、五体を硬ばらしている……。  お綱には、うしろをかえりみる余裕がなかった。  よもや、自分のうしろから、そんな男が見えたために、対手が二の足をふんだとは知らない。ただ一念に、匕首を逆手にかまえ、最後の心支度をして待った。  刻……一刻、穴のような闇に、二人の、息づかいだけが数えられる。  そのうちに、お十夜が、 「おウ……」とかすかな唸きをもらした。  かれが、脅かされた向うの男は、どこからか、きわめてほのかにさす光線で、自分のかげを自分の目に映した一面の姿見なのであった。舶載物であろう、幅二尺七、八寸、長さ五尺ほどな玻璃の鏡──、それが、行きづまりの壁に、戸のようにはめこんであったのだ。  闇に馴れた目で、それを知ると孫兵衛は、なんのこったといわんばかりの様子、前にもまして、猛然と、ふたたび、お綱へ迫ってきた。  途端に、お綱。 「ちくしょうッ!」  命がけの匕首をふるッて、かれの脾腹を狙ってきた。 「ええ、往生際の悪い女だッ」  孫兵衛は苦もなく身を避けた。そして、お綱の手くびをつかみ止め、手強く捻り曲げようとする。 「ちイッ」と、歯を食いしばるお綱の息! 振り動かす匕首と、お十夜の手が、同じ角度を幾たびも閃めいた。 「あっ痛!」  不意に小指を咬まれたので、孫兵衛は女の胸をドンと突き放した。  ヨロヨロとあおむけになったお綱は、思わず、うしろの鏡へ手をついた。──とたんに、壁はクルリと一転して、あっというまにお綱の体は、車返りにはねこまれて姿を消し、孫兵衛の前には、ただ冷たい鏡だけが立っていた。  掌のうちの玉を見失って、あッ気にとられた孫兵衛は、 「や? 龕燈返し──」  泳ぐように壁ぎわへきて、その大鏡面をグンと押してみた。  すると、鏡は自然に壁を離れて、くるりと廻る仕掛になっている。  孫兵衛も、うッかりすると、その中へはねこまれそうになったが、はっと驚いて身を退いた。  がんどう返しと呼ぶ非常口は、武家屋敷の主人の居間近くには、必ずどこかに伏せられてあると聞いたが、当時、珍しい南蛮渡りの大鏡を壁にはめこんで、そこから一体どこへつづいているのだろう。 「うぬ、ここまで追いつめて、逃がして堪るものか」  彼は、も一度それへ手をかけた。すると、 「あぶのうござるぞ」  不意に後ろで声がした。  同時に、なれなれしく肩に手をかけて、 「はははは。うッかりその鏡の裏を覗き召さるな。鏡の裏は奈落の闇、ドーンとはねこまれたが最後でござるぞ」  嘲笑をふくんでいう者がある。あっ、誰かと驚いて、孫兵衛、ヒョイとふりかえってみると、例の総髪の若侍、旅川周馬という男だ。  周馬は、とにかく屋敷の主である。どこから出てこようと不審ではないが、お十夜はさすがにちょっと戸まどいをして、咄嗟の言葉が見つからない。 「孫兵衛殿」  かれはすでにお十夜の名まで知っていた。ニヤリと皮肉な笑い方をして、 「とうとう塀をのり越えてまいられたな。なかなかお忍びがお上手なもので、周馬感服しましたわい。それはいいが、鏡の裏へ呑まれたお綱、ありゃそこもとの妻だと仰せられたが、嘘でござろう、分っている。はははは、お互いにな、強情な女には手を焼くものでござるて」  何もかも呑みこんでいるような口ぶり、若いくせに、年よりじみた言葉づかいで、さっさと、書院の戸を開けて、スッと中へ入りながら、 「お綱は質にとりましたぞ、この周馬がな。ところで、あとのご相談、どういうご希望があらっしゃるか、ここで聞こうじゃござらぬか」  カチッ、カチッ……と燧石をすりながら、書院の中でいっている。やがて、ぼうと灯がついて、あたりへ燻んだ灯影が流れてきた。 「お入りなされ、お十夜殿」  いよいよいけない。足許を見透している。  孫兵衛も、こいつは少し苦手なやつだと思った。咎め立てをするとか、いきり立って斬りかかるとかいう奴は、かれにとって、まだ扱いいいが、いやにねッとりした旅川周馬、白いのか黒いのか、腹の底が知れないので、しばらく閾をふみかねていた。 「ご遠慮はない、ここは周馬の居間でござる。拙者はどうでもよろしいが、お綱を質に取られたままでは、そこもとの立場として、まさか、このままお帰りになれますまい。受け出すか、お流し召さるか、ご相談があろうというもの。さ、さ、ずっとこちらへ──」 「ウム!」と孫兵衛、余儀なく大きく頷いて、ズッとそこへ引っ提げ刀で入りこんだ。 「いかにも、お綱を申しうけて帰りたいが、まさか、鏡の裏から屋敷の外へなど、抜け道があるのではあるまいな」 「お案じなさるまい。只今も申したような奈落の闇、逃げてくれればまだよいが、悪くすると、あのまま、息が絶えたかもしれぬ」 「えっ!」  死なしてしまっては玉なしである。お十夜はやや狼狽して、また鏡のところへ立とうとすると、周馬は、人の悪い薄ら笑みを浮かめて、 「したが、まアお待ちなされ、生死のところは、いずれこの周馬が後に見届けてまいるであろう。その前に、そこもとのご希望を一つ……いやなに、それは伺うまでもなかった。つまり、お綱を手に入れたいご一念、問うだけ野暮でござりますな。いや万々承知いたしてござる。じゃあ、こんどは一つ、拙者側の注文を申し出よう、それをきいて貰わにゃならぬ」 「うむ、お綱を身どもに渡すかわりに……?」 「さよう、貴殿にお頼みがござるので」 「話によっては引きうけよう」 「お嫌ならば、なアに別に、無理とは申さぬ。ただ、お綱があのまま、ふたたび息を吹っかえさぬだけのことに終るので」 「ま、とにかく、そちらの希望を、承ろう」  孫兵衛をじらしておいて、 「では言いましょう」と、旅川周馬、悪賢い目で、額ごしにお十夜の顔を見つめた。 悪玉と悪玉 「それは、つまり……」  と、旅川周馬、 「ほかでもないが、そこもとの得意なものを、お借り申せばよろしいので」 「身どもの得意なものを?」  お十夜は解しかねた面もちである。  がんどう返しの穽し穴に墜ちた、お綱の身を質にとって、その交換条件に、得意なものをかせとは、一体なんのことかしら? ……と旅川の顔をみつめ返した。 「さよう」  周馬は悪く落ちついて、 「そこもとのお得意といえば、裏書していうまでもなく、そこにお持ちの助広で」 「うむ?」 「人を殺していただきたいのじゃ」 「なるほど」と、思わずうなずいてしまったが、孫兵衛はおどろいた。この周馬のやつ、いつのまに、おれの辻斬り稼ぎをしていることや、刀の銘までみていたのだろう? 「どうでござる。ウンと一つ呑みこんでは」 「まず、ゆるりと、考えてみた上にいたそう」 「いかにも、安受け合いは頼もしくない、どうぞごゆるりと、算盤をとってごらんなさるがよい」 「なかなか念入りなお頼みだ」 「どうして、こちらでは、これでも至って、手軽な注文をつけたつもりなので……」と銀延の煙管をだし、行燈の灯口から、周馬は、すぱりと一服吸いつけながら、 「それをご承知下さるなら、鏡の裏へ落ちこんだお綱の体は、このほうが必ずお渡しいたすであろう。嫌と仰せあらば、それまでのこと、まず物別れとなるよりしかたがありますまい。したがって、お綱の生死、この周馬には責任もなし、或いは、妙な依怙地になって、かえって、女の味方になり、よそへ逃がしてしまうかも知れませんて……とかく人間というやつ、その依怙地のほうへ曲りたがるものでしてな」  独り言のように、そそのかしたり、おびやかしたりするのである。  お十夜のような曲者を、こう呑んでかかる旅川周馬には、邪智に富んだ一面があって、たえず、悪心が陰謀的に、また打算的に働く性格をもっている。  それに反して、孫兵衛の質は、慓悍なる一本気で、計画もなく衒いもなく、本能にまかせて、悪を悪とも思わずに、なんでもやってのけようとする先天的なほうであった。  どっちも物騒きわまる人物だが、周馬を、江戸という都会型の悪党とみるならば、孫兵衛は、元阿波の原士であるところの、野性的な悪党だということができる。  この悪玉と悪玉。  妙なはずみで、お綱の体を渡すか渡さぬかの、懸引くらべになってしまった。  けれど、三寸の舌先では、とても孫兵衛は周馬の敵ではない。まるで、さっきから、いやこの間、この屋敷の門前で逢った時から、翻弄されぬいているようなものだ。 「こましゃくれた青二才め」  お十夜はむっと癪にさわっていた。  お綱を渡すも渡さぬもあるものか、面倒くさい、こいつから先に片づけて、あの鏡の裏の穴蔵をあらためてみよう。  と──密かに殺気をふくんでいると、周馬はまた、薄ッぺらな笑い方をして、 「だいぶご熟考でござりますな。ご決断はまだでござるか。はははは……造作もないではござらぬか、辻斬り屋の孫兵衛殿が、一晩暇をつぶせば、それですむので」 「まあ、もう少々考えさせて貰いたい」  じらしてやろうという気と、隙を計る心支度とで、孫兵衛は、上眼づかいに腕ぐみをしていた。 「さようか、夜が長うござるから、お考えもゆるゆるでよろしかろう。しかし、煎じつめた話が、そこもとの運命は、つまりお綱と似たり寄ったりなもので、この周馬の手に握られてしまったのだ。イヤまったく、偽りのないところじゃ。命と惚れた女がほしいなら、孫兵衛先生、ウンとご承知あるよりほかに行き道はありませんぜ」  いい終るのを待たず、お十夜が、 「えい、生意気なッ!」  とつかみとった助広の一刀。  脇の下に鍔を抱き、サッと抜き打ちに、相手の眉間へ斬りつけると、 「おッと、あぶない!」  と、旅川周馬、手をつかえて身をかわし、煙管の雁首を青眼の構えにとって、 「──なるほど、そいつが丹石流か、これじゃお綱も嫌うだろう、よし給えよ、そんな野暮は……」  腰も浮かさずにひやかした。  冷やかされたので、お十夜の怒気は、ムラムラと燃えた。 「周馬!」  と睨めて、片膝をたて、 「ふざけやがッて! この孫兵衛を甘くみたな。お綱はもとよりおれの女だ。渡してやるもやらねえもあるものか」  助広の鎬に、行燈の灯をギラギラとよじらせながら、その切ッ尖を、周馬の鼻ッ先へ寄せて行った。 「──さ、お綱をつれて帰るんだから、鏡の裏の穴蔵へ案内しろ! イヤの応のといやあ真ッ二つだからそう思え」 「冗談いっちゃいけない」  煙管を構えて、旅川周馬、五、六寸ほど後ずさりして、 「そんな刀を引ッこぬいて、こけ脅しをする貴様の方が、よッぽど甘くみている。そりゃ、腕にかけたら、貴様の方が強いだろう。しかし、ここは甲賀組の墨屋敷、おまけに悪智にたけた周馬様がお住みの家だ、どんなカラクリがしてあるか、よく四辺や足もとを見廻してから、手出しをするならするがいいぞ」  と、いわれたので、お十夜もぎょッとした。  みると周馬の左の手が、いつのまにか、部屋の角柱に伸びていて、そこにある鈎のようなものへ指をかけている。 「引くぞ、こいつを」  周馬は相手の眼色に、そのうろたえを察しながら、 「床板ぐるみ奈落へ行くか、上の天井がズンと落ちてくるか、一つ仕掛けの種明しをやって見せてもいい。だが、そんなことで命を無駄にするのももったいないじゃないか。ええ、お十夜。まだお互に、これから花も実も結ぼうという悪党同士だ、そう怖い面をしておらずに、周馬の相談に乗るほうが得策だろう」 「ウーム……」と、さすがな孫兵衛も、やや薄気味わるくなって、抜いた助広のヤリ場がなくなってしまった形。  いうまでもなく、この部屋には、なにか危険なカラクリ普請がしてあるのだ。さもなくて、自分の口から、腕ではかなわぬと告白している周馬が、アア落ちつきはらっていられるものではない。  と、周馬は、相手のひるんだ色を、すぐ心に読んできて、その足もとへまた懸合いをもちだした。 「まず、その刀を退いてはどうだ、分の悪い相談ならともかく、この周馬が、貴様に殺してくれと頼むのは、そッちに取っても、遅かれ早かれ、生かしておけぬ奴なのだ……。してみれば、まんざら他人のためばかりじゃない、その上に、ウンといって手を貸してくれれば、お綱を渡そうという条件ではないか。こんな割のいい仕事を振られて、野暮な刀をふり廻すなどとは、さてさて頭の悪い悪党だ」 「ふウム、じゃ何か……そっちで殺してくれという奴は、俺にとっても仇のある人間なのか」 「さよう。二人にとって、生かしておけぬ男なのだ」 「というのは……どうも俺には見当がつかねえ。一体誰だ?」 「実を申すと、この周馬の恋仇でな」 「けッ、ばかにするなッ」 「怒るまい──。拙者にとっても恋仇だが、そっちの身にも恋仇にあたるやつ。それは法月弦之丞! いくら頭のわるいそこもとでも、この名を忘れてはおるまいが」 「ヤ、弦之丞を?」 「どうかして殺したい! 手を砕いても、きゃつを亡きものにせねばならぬ」 「ウーム、そうか! 相手が法月弦之丞なら、この孫兵衛も手を貸してやろう」 「そうだろう、イヤ、そう来なければならぬ筈だ。あいつに息がある間は、一生涯、脅かされていなければならぬ、この周馬と同様に、貴様にとってもお綱の恋仇、頼まれないでも、急に殺したくなってきたに違いない」 「そうならそうと、最初から相手の名をいえば、おれだって、こんな刀は抜きゃあしねえ」  と、孫兵衛は助広を鞘に戻して、 「だが、お前の恋仇とは初耳だ。一体、そっちの恨みという事情は……?」 「それは一朝一夕に話せぬが、つまるところ、お千絵という世阿弥の娘も、弦之丞に思いをよせて、あいつに逢うのを一念で待っているのだ」 「そのお千絵に、お前が嫌われているという筋か」 「ちょうど、お身がお綱に嫌われているごとく」 「エエ、口が減らねえ。だが、弦之丞という奴は、どこまで女に果報のある奴だろう」 「だから殺してしまうがいい」 「して、今の居所は?」 「あしたは江戸へ着くという所を、たしかに、拙者がつきとめている」  法月弦之丞が江戸へ帰る!  これは、旅川周馬にとって、まことに、由々しい脅威である。  かれは今、世阿弥の残した秘財と、美しいその息女とに、色慾の二道かけて、さまざまな画策をやりぬいている最中だ。  そのお千絵様はどこにいるか?  その財宝とは何をさすのか?  これはひとり周馬の黒い腹の中にあることで、もとより、お十夜などには、おくびにも洩らす筈がない。  かれはただ、この凄腕のある孫兵衛──丹石流の据物斬りに、妖妙な技をもつお十夜を、うまく利用しようというつもりなのである。  で、この間うちから、ここへ来ているお綱を、孫兵衛がつけ廻しているのも知っていながら、わざとそしらぬ顔をして、すべての様子を察知した上、予定どおり、巧みに孫兵衛を抱きこんでしまった。  しかし。  お十夜とて、一筋縄でいくしれ者ではない。かれがお綱の口から法月弦之丞という名を洩らされていなかったら、おそらく、周馬の舌も操ることがむずかしかった。  ところが、相手という者が、お綱の恋する弦之丞──ときいて、彼の心がにわかに変ったのである、すぐに加担する気になった。 「よし! おれが殺してやろう」  その言葉に、多寡をくくった調子が十分にあった。で、今度は、周馬が大事をとって、 「待ちたまえ」  と、かれの暴虎の勇を押さえた。 「なんで⁉」 「下手をやると失敗する。なにせよ法月弦之丞は、夕雲流の使い手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前、さよう……貴公と拙者と二人がかりで、やッとどうかと思われるくらいだ」 「ほほう、夕雲流をやるやつか……」これは孫兵衛の初めてしるところだった。イヤ、その人となりのみならず、お十夜は、まだ今日までの間に、弦之丞という者に、面接したことがないのである。  もとより、その腕前が、どれほどなものか、尺度は周馬の話でも分らない。  とにかく、撰りに撰った悪玉と悪玉とが、この夜、手を結んだのは、弦之丞の身にとって、怖るべき不幸の兆だ。 「では仲なおりに──」  と、話半ばに、周馬はその部屋から立ち上がって、 「どこかへまいって一杯酌ろう。細かい話や、あしたの手筈は、そこで飲みながらのことと致して」 「だが、待ってくれ」  お十夜は出渋った。 「お綱は一体どうなったんだ?」 「死にはしまい……、ただし、気絶ぐらいはしているかもしれないが」 「じゃ、なんとか手当をしておかなくっちゃ……」 「ご無用ご無用、今にひとりでに気がつくであろう。また気がついたところで、逃げられる気づかいのない穴蔵だ」  スタスタと廊下を先に歩きだした。  お十夜の方は、まだ幾らか、お綱に気がかりを残すらしかったが、ぜひなく、周馬についてそこを出る。  玄関へ出るのかと思っていると、そうではなかった。  真っ暗な、奥の一間へ入って、床脇の壁をギーと押した。壁に蝶番いがついていて開くのである。と、床下へ向って深く、石の段がおちこんでいる。  二人の影がそこへ消えた。  表構えを釘づけにしてあるとみせて、周馬は、たえずここから出入りしているものらしく、馴れた足で、まっ暗な道を、サッサと先に歩いてゆく。  と。──星がみえ、木の葉が見えて、やがて数十歩で出た所を見廻すと、お茶の水の崖である。 日蔭の花 「あ……っ……」  と、かすかに動いた影がある。  お綱は、やっと意識づいた。──気がついて、ジッとあたりを見廻したが、そこは、音もなく、光もない、まったくの暗黒。  どこへ──という気もなく、お綱は、よろりと立ち上がった。 「オオ、どうしたのだろう……私は? 私は? ──ああ、墜ちたのだっけ! 妙な所へ」  何物へか触れようとして、泳ぐように歩きだしたお綱は、墜ちた時の体の痛みに、思わずそこへ仆れてしまった。  だが、痛くなかった。  そこには畳が敷いてある。プーンと、湿っぽい煤の匂いが鼻をうった。そして、どうやら伽藍のように広い部屋だという気がした。  深々と、毛の根のしまる寒さと、所々、骨ぶしの痛むのをこらえながら、かれはまた、暗黒の部屋を探りだした。  けれど、そこは、手探りで測りきれないほどな広さであった。畳数にしたら、およそ七、八十畳も敷けているかと思われる。  太い角柱にさわった──八寸角ぐらいの堅い柱である。  また、氷のように冷たい羽目板も撫で廻した。二間おきに柱があり、また羽目板がつづいていた。  こうして、グルリと一巡探ってみると、この部屋は、目鼻のない顔のごとく、障子もなければ出口もなく、無論、床の間とか書院窓のような造作もない。 「アア、やっぱりここは、屋敷の地底へ建てた隠し部屋に違いない……」  冷静にかえると同時に、ふだんのお綱に戻ったかれは、その時、初めてハッキリと、自分の居場所が分ってきた。  そして何やら、カラリと、足にふれて鳴った物がある。手を伸ばしてみると匕首だ! 自分が鏡の裏からここへ墜ちた時まで、握りしめていたあの匕首だ。  こんな場合、刃物というものは、不思議な強味を与えるのである。お綱は、それを拾って、暗闇の畳の上へ、くの字形に体を投げた。 「──喚いたところで、しようがありゃしない」  自分で自分の心にいいきかせるように。 「ジッと落ちついていれば、そのうちになんとかいい智慧もあろうというものさ……。眼が馴れてくれば暗闇でも見えるというし、夜が明ければどこからか、少しぐらいな明りが射してくるかも知れない」  こう思い決めるとともに、努めて、無駄に疲れまいと心がけた。いたずらに心身を疲らしてしまうことが、何より恐ろしいことだ、という点に気がつくほど、お綱は、取り乱していなかった。  と……。お綱の澄みきった神経が、やがて、不思議なものを感じてきた。  目に感じたものでもなく、耳から感じたものでもない。どこからともなく、忍びやかに、きわめてほのかに、プーンと薫ってきた得ならぬ香気なのである。 「おや? ……」  かれは、ハッとしてあたりの闇を見廻した。  身動きをしてすら、その妙な薫りは、掻き消えてしまいそうにかすかであった。  しかし、お綱は、その一脈の芳香に、全身の神経をあつめて不思議に思った。こんな地底の穴蔵に、あり得べからざるいい匂いが、一体、どこから流れこんでくるのだろう? ……と。  惑うているまにも、お綱は、あまりに好ましい香気に、酔わされるような、溶けゆくような気持になった。その香気は、日向に蒸れる薫梅のような陽香ではない。ちょうど、日かげにつつましく匂っている丁子の花を思わせる陰香である。  いつのことであったか。  お綱は、挿花の師匠になりすまして、さるお屋敷の聞香の席にまじっていたことがある。  その時、雁金香であるとか、菊水であるとか、新月、麝香木などと、おのおのが自慢に焚くのを眺めて、まア、この人たちは、なんというばかばかしい悠長な遊びをしているのだろう、小判を欠いて焚くような、たかい名香を煙にするくらいなら、骨牌でもしたらよかろうに、と隅であくびを噛んでいたことであった。  で──この匂いを、何香とさぐり当てる力はないまでも、それに近い物の薫りだ、というだけは確かめられた。  それはそれと分ったが、さて、誰が? どこで? このいい匂いをたてているのか──となると、皆目判断がつかなくなる。  お綱は、も一度、眸をこらして見廻した。  しかし何べん見ても、そこ一面は、やはり厚ぼったい闇が陰湿にこめてあるのみだ。  と。お綱の目が、向うの隅へ、はッと、吸いつけられたのである。  暗たんたる中に、ツウ──と赤い、一筋の光がみえた。まさに無明の底から碧落を仰いだような狂喜である。お綱は、われを忘れて闇を泳いだ。  そこへ駈け寄ってみると、いよいよ香ぐわしい匂いが強く感じられた。細い明りは、隅の太柱と羽目板との境の、わずかな隙間から洩れている。  丁子の薫るに似た香煙も、その隙から、忍びやかに流れてくるのだ。お綱は、この板壁の向うにいるのが、何者であろうと考えてみる余裕もなく、 「おっ、誰かいる!」  匕首の柄をみずおちに当てて、力いっぱい、板壁を突いてみた。だが、欅かなんぞの厚板とみえて、刃物の尖がツウ! と辷った。 「あ、これを折っては……」と、匕首の尖を透かしてみたが、折れていなかったのでホッとした。  偶然、この短い刃金を握って離さなかったのが、奈落をのがれるただ一つの活路である。お綱は、そう思って、鉄のような欅の羽目板に向い、こんどは、きわめて大事をとりながら、サクリ、サクリ……と仮面でも彫るようにえぐり始めた。  白い短刀の切ッ尖から、削らるる木屑が、シュッシュッと顔や胸へ散ってくる。かれは知らず知らず一心になれた。そして、一寸一寸と、彫りこまれてゆくのが、自分の最善な活き路であるように信じられてきた。  と。さすがに鉄壁のような欅張りも、ようやく、眸の覗かれるぐらいな穴が彫れた。サクリッ……とえぐりこんだ短刀の肌に、淡明りがだんだんと濃くなった。  そこで、お綱は、初めて、しぼるような汗の冷々と肌をぬらしているのに、ホッと息をついて、乱れ毛を耳の根へなでつけたのである。 「誰だろう? こんな所に住んでいるのは」  初めて、疑惑をもつだけの余裕がでた。匕首の刃を手裏にして、ジッとえぐりこんだ穴へ眼をあてて覗いてみると、──おお、まさしく、そこには、お綱の想像もしなかった景色が深沈と、不可思議なる夜の底に沈まれてあったのだ。  どうだろう!  そこにはありありとして二人の婦人がいたのである。  部屋は、お綱のいる所の、暗たんたる板と柱の穴蔵と違い、普通と変らぬ部屋づくり、むしろ、美々しい結構である。  金砂子の袋戸棚、花梨の長押、うんげんべりの畳──そして、淡き絹行燈の光が、すべてを、春雨のように濡らしている……。  その床の間に向って、﨟たけた一人の女性が黒々とした髪をうしろにすべらかし、ジッと合掌したまま、作りつけた人形のごとく、或いはこの部屋のまま、この灯かげのともったまま、ミイラになっているのではないか? ……と思われるほど、動かずにいるのである。  その側には、また、もう一人の女がいた。  両手をついて、合掌している女性のごとく、これも果てしなくうつむいている。縷々としてのぼるのは香の煙である。  糸より細い煙のすじが、床の香炉から夢のように立っている。そして、日蔭の丁子に似るゆかしい香りが板一重を隔てたお綱をも酔わせて、恍惚と、身のある所を忘れさせる。 「ああ、誰だろう……? ここは一体どこなのであろう?」と、お綱の頭脳がその時、一心に考え迷った。  と一緒に、かれの記憶を、ピーンとよみがえらせたのは。  お千絵様?  その人の名であった。 「たみや……」  ひッそりとした静寂のなかに、鈴をふるような声がした。床に向って、名香を焚き、石のごとく目を閉じていた﨟やかな女性──その人の口から、やがて、低く洩れた言葉なのである。 「はい」  侍いて、手をつかえていた中年の女。心もち顔をあげて、ジッと、仕えるお方の姿を見上げているうちに、何の意味か……ポロポロと畳に落つる涙の音……。  女は、泣いているのである。  と。床に向っている女性の、うしろ姿も、ソッと涙を拭くらしい。  絹に漉されるほのかな灯が、あたりを柔らかに照らしてはいるが、さすがに夜、ましてや地の底──、部屋の調度の美わしさも、若い女性の住む所にある明るさも、すべてが、深沈とした鬼気にかき消されて、一味の凄さ、というようなものさえ流れているかにみえる。  おっ。たしかに、お千絵様。  お綱は、胸をドキッとさせた。  そことは、板一重の穴蔵部屋で、やっと小指の入るくらいな隙まを作った所から、お綱は、息を殺して覗いている。  そして、その人こそ、お千絵様にまぎれのない方──と思いながら、お綱は、何とは知らずゾーッとして、髪の毛から足の先まで、全身の血が、凍ってくるかのような心地をおぼえた。  凄いといって、生れてから、こんな凄い気がしたことはない──と、お綱は後で、万吉にもしみじみ話したことである。  でも、じっと、息をひそめて覗いていると。 「たみや……」  夜の淋しさに堪えぬかのようにまたこう呼んで、若い女性は、はふり落つる涙をふく。  凄いとみれば、円山応挙の美女の幽精。チリにもふれぬ深窓の処女とみれば、花水仙の気高さを思わせる姿である。その女性こそ、甲賀家の家付きの娘、お千絵様なのであった。  かかる冬の冷々とするのに、下には色地の襟をみせているが、上には、白絖の雪かとばかり白いかいどりを着て、うるしの艶をふくむ黒髪は、根を紐結びにフッサリと、曲下げにうしろへ垂れている。 「お嬢様……」  同じように、涙の目をふいて、側の女が静かに手を伸べると、お千絵はその掌へ、ま白な珠をサラサラと鳴らしてのせた。水晶の玉をつらねた数珠である。  今日は、まる十年と二月前に、世阿弥が江戸を出た日であった。  床に、一幅の軸がかけられてある。端厳な肖像が描かれてあった。それがお千絵の父である、阿波へ入ったまま消息をたって、今に知れぬ甲賀世阿弥の像である。  幕府は死んだものとみなして、絶家の命を下してしまった。お千絵とても、今では、すでに世に亡い父と諦めている。 「たみや」  今、お千絵は永い回向をすました。 「はい」 「しんしんと寒くなりましたことねえ……」 「師走といえば、夜霜の立つ頃でございますから」 「さだめし外の世間には、寒風が吹いておりましょうね」 「ここへは、凩の声もきこえてまいりませぬ」 「ああ凩は嫌……浮世の寒風は嫌……。千絵はこのまま、この地底の部屋に埋もれてしまいたい」 「たみもご一緒に埋もれまする。……けれどお嬢様。朽ちた落葉の下からも、いつか春が芽ぐむではございませぬか。ヒョッとして、たみの兄が帰ってくるか、また、弦之丞様でも江戸へおいでになれば」 「阿波へ様子を見に行ってくれたお前の兄の銀五郎が、帰ることはあろうけれど……」 「いいえ、弦之丞様にしましても、いつか一度は」 「アア、たみや……もうそれをいうておくれでない」白いかいどり姿が、雪くずれをしたように、ガバと、袂を顔にして泣き伏した。 「お嬢様、お嬢様。あなたに泣かれてこの乳母がどうしましょう。もっと……お強くなって下さいませ。いいえ、今が、アア今が、大事な時でござります。あなたはもっとお強くならなければなりませぬ」 「お前までが、そんな無理を」 「もうわずかな御辛抱……ジッとこらえて下さいませ。お嬢様のお手紙を持って、阿波へ行った兄の銀五郎が、今に、きっといい報らせを持って戻りましょう程に……」  お千絵は、どうしてこんな地底の部屋にいるのだろうか!  いうまでもなく、恋と慾の二道をかけている、旅川周馬の奸策である。  鏡の裏から、お綱の墜ちこんだ所は、昔、事あるごとに、甲賀組の者が、ここへ集合して隠密の諜しあわせをした評定場所。かれらの手にかかることは、みな、秘密であり他聞をはばかるので、相談や打ち合せには、必ず、宗家の穴蔵部屋に寄るものにきまっていた。  で、組仲間の者は、そこを符牒に呼んで、「お鏡下」ともまた「おしゃべりの間」ともいっていた。しかし、世間が泰平になるにつれて、ものものしい集合もなく、世阿弥の代になっては、一度も使ったことがない。  その隣はというと。そこは「密見の間」といった跡で、深い企らみをしている旅川周馬は、自分が、この屋敷へ移ると同時に、お千絵と乳母とを、ここへ押しこめて、世間には行方しれずになったと、言いふらしていたのだ。三日に一度、周馬は、鏡下へ縄梯子を下ろして、密見の間をおとずれる。  その日が、お千絵の地獄であった。針の山、血の池へ趁わるるより、なおまだ辛い苛責をうける日なのである。  周馬が責める。  おれの意に従え! 旅川周馬の妻になれ!  ここに伝わる、甲賀流の秘書私財の隠してある所を教えろ!  こういって羅刹のごとく責めさいなむのだ。 「そちが指でも触れれば、千絵はすぐ死にまするぞ──」  お千絵の防ぎは、この一語であった。  周馬はあの通りな横着者である、またお千絵が必ず死のうことも知っている。死なしては玉なしだ。彼はどこまでもジリジリづめに弱らせる策をとった。三日目にきて一責め責めると、あと三日の食べ物をおいて、鏡の裏から抜けだしてゆく。  お千絵は幾度か死のうとした。周馬ずれの恥かしめに、こうまでたえては行かれない。けれど、乳母のおたみは、兄の唐草銀五郎が吉報をもたらしてくれるまで──と、それこそ、一日のばしに、お千絵の死を思い止まらしてきたのである。  ああ。その待ちに待っている唐草銀五郎が、すでに、禅定寺峠の土になっているとは、夢寐にも知らぬのであった。  その、間違いをひき起した、そもそもの禍因を、今深くかえりみてみると、まったく、お綱の指である。  見返りお綱の指わざが、天王寺で、あの紙入れを掏ったばかりに、渦が渦を呼ぶ鳴門の海のように、それからそれへ波瀾の絶えぬことになった。  だが、その下手人であるお綱自身は、自分の指一本から、そんな大きな悪闘の渦が、この人々の運命を覆していようとは夢にも知らない。事実、みじんも知らずにいるのだ。  かれはただ、弦之丞という初恋の対象だけに吸いよせられて、この渦紋を離れずにいるが、さもなければ、毒を散らして飛び去った、いたずらな蝶に過ぎなかったであろう。  さらに、そのお綱の磁力に、お十夜がひきずられている。  この二人だけは、阿波にも江戸にも、何ら中心の事件にかかわりなく、今日まできたが、いつかは必ず、その渦紋の真ッただ中に巻かれ込むに違いない。  すでに、お千絵とお綱の恋人である法月弦之丞は、東海道八ツ山口から、あすは、江戸に入るという周馬の話。  その弦之丞を狙い打つため、あとを追ってきた蜂須賀家の刺客天堂一角も、同時に江戸入りをするであろう。  一歩、かれが江戸へ入れば、そこには、周馬、お十夜などの毒刃が伏せてあり、うしろには、天堂一角の虚をつけ狙う殺刀がある。  物慾の争奪、血刀の乱舞、恋と恋の生々しい争い──それらの悪気をふくんだ険しい嵐の前兆が、今や、どこからとなくソヨソヨと、江戸の近くへ見舞ってきた。目明し万吉、かれの神経が、この模様を、敏くも感じているかどうか?  女スリの指一本。  かくも、怖ろしい葛藤と、果て知れぬ修羅を現じてきてしまった。この禍いの元が、おのれの罪と知った日に、見返りお綱は、どう変るだろう?  あえていう。鳴門秘帖の眼目とする狂瀾は、これから本題に入るのである。  さて、お綱は、匕首に懸命をこめた。 「おしゃべりの間」の暗闇に立って、かれは一心不乱に、欅の厚みをえぐッて行く。  ザクリ、ザクリッと木屑が散る! 一分二分ずつ、隣とそことの境が削りとられてゆき、近づいてゆくのだ。一人の弦之丞を恋う、お綱とお千絵との境目が──。  メリッ──と、お綱の匕首が、一念に欅の板をえぐり抜いて、柄元まで向うへ通った。  密見の間にいる、お千絵とおたみとは、その音にハッと驚かされて、等しい目色を、思わず後ろの方へ射向けた。 「おッ!」  おたみは、のけぞるばかりに気を消した。無論、お千絵の眉のあたりにも、不安と、怪訝におびやかされた表情が漲った。  そこから見ると、ちょうど、部屋の一面から、謎のごとき刃ものの切ッ尖が、不意に突きぬけて見えたのである。  刃がかりを得た切れ刀はみているまにも、必死に躍って、たちまち切れ目をひろげてきた。 「た、たれじゃッ」  おたみの声が鋭く咎めた。  お綱のほうには、それが耳に入らなかった。半刻あまりの死力が、そこに酬いられてきたうれしさにみちていた。  躍る匕首は、木屑を雪のごとくちらして、たちまち、一尺ばかりもうがってきた。 「誰じゃッ、たれじゃ!」 「オオ……」お綱は初めて手を休めた。そして、こっちから中の様子を明らかに見なおすことができたように、お千絵のほうからも、凄艶なお綱の顔を見たであろう。 「もし」 「たれじゃ、そなたは」 「あ──、私は、お綱と申すものでございますが、あなた様は、甲賀家の御息女、お千絵様ではありませぬか」 「や? ……どうしてそれを知っていやる」 「お千絵様! ああ、やっぱりそうでございましたか。では、お言伝申します、目明し万吉という者が、はるばる遠い上方から、あなた様に会いたいために、この江戸表へまいっております。ところが、このお屋敷ときた日には、いつも釘付けになっていて、おまけに、旅川周馬の眼があるので、その万吉が、大事なお話をすることができません」 「待って下さい」  おたみは少し安心して、側から、お綱の早口な言葉を聞きなおした。 「上方から来た目明しの万吉とやら、いっこうおぼえのない人ですけれど、それは一体、お嬢様に何の用があって来た者でござりますか」 「さあ……実は私も、そこのところは、深く聞いていないんですけれど、仔細があって、あなた方を、この屋敷から救いだしてくれ──、こう頼まれているうちに、嫌な奴に見つけられ、思わぬ所へ落ち込んだのが、かえってお目にかかる倖せとなったんでございます。詳しい話は、その万吉からお聞きなすッて下さいまし」 「お嬢様……」と、おたみはそれをうけついで、「あのように申しますが、どうしたものでございましょう」  と、いうのを待たず、お綱はまた、万吉から頼まれた通りの言葉をつけ足した。 「それで、何でございます……万吉という者を、さだめし御不審にお思いなさりましょうが、決して悪い者ではなく、法月様から、大事な御用をいいつかって、一足先に、ここへまいったのだということでございます」 「えっ。あの法月様から?」 「はい、弦之丞様も近々のうちに、この江戸表へお越しなさいますそうな」 「まあ! ……」といって乳母のおたみ、お千絵の顔を振りかえると、かの女は、あまり意外なお綱の言葉を、よろこんでいいか、疑っていいか、茫然として聞いている。 「お綱さんとやら、それは真実でございますか」 「なんで、こんな憂き目にあってまで、お二人様へわざわざ嘘を言いにきましょう。さ、周馬の眼にかからぬうちに、ここから逃げるご思案をして下さいまし。本郷妻恋の、私の家までご案内して、どうなと後はおかくまい申します」 「お嬢様。いよいよ時節がまいりました」 「だけれど、たみや……」とお千絵は、躍りたつよろこびを、冷たい理性で打ちけしながら、 「どう考えてみても、弦之丞様が、江戸へお戻りなされる筈がない。これは何かの間違いでありましょうが」 「たとえ、間違いであったにしろ、せっかく、お綱とやらがああ申します程に、ここを遁れ出ようではございませぬか。どうなろうと、この上運の悪いほうへ、転ぶ気づかいはありませぬ」 「といって、たみや、お前にこの厳重な所から、逃げ出られる工夫がありますか」 「さあ?」  おたみは、初めて悲しい当惑を知った。周馬が、抜け目なく出口を断ってある、八方封じの地底の部屋──。お綱の帰り途もない筈である。 「お嬢様」  おたみは励ますように語を強めて、 「──逃げられます! そこの境さえ切り破れれば、あの鏡の裏の出口から」 「お千絵様」  またこちらから、お綱がいった。 「ここの境は、この匕首で、わたしが必死に破ります。さ、早くお支度をなさいまし。もし周馬のやつが帰ってきた日には、それこそもう百年目──」  と。お綱はまた匕首をとりなおして、人の体が抜け出られるまで、無二無三に切り開け始めた。  そのまに、おたみは甲斐甲斐しく身支度をした。けれど、お千絵にはまだ幾分かためらう様子がある。それを見ると、おたみは乳母らしい言葉で、 「お嬢様!」と強く叱った。 「こんな穴蔵の地獄に、なんの御未練でございます。御先祖様からの財宝を、残してゆくのが惜しいとでも……」 「いいえ、たみや、そんなものに未練はない……私はただ」  と、乳母の胸へ抱きついて、 「家に伝わる甲賀流のあまたの秘書を、そッくり、あの人非人の旅川周馬へ、残してゆくのが、お父上様にすまぬと思うて……」 「いえ。今の場合は、お嬢様という大事なお体にはかえられませぬ。家名は潰れても、あなた様さえお恙なければ、甲賀家のお血筋だけは残ります。あ! よいことがございます」  おたみはきっと心をきめて、 「あの悪人の手へ、すべての物を残してゆくよりは、お嬢様、いッそのこと、ここへ火を放けてまいりましょう」 「火を⁉」 「エエ、惜しいようではござりますが、このお屋敷に隠されてある財宝や秘書を、周馬ずれの悪党にふみにじられてしまうよりは……」ホロリとたまる目がしらの露を押さえて──「すべてを灰になさいませ……そして、お嬢様という甲賀家の血だけをお残し遊ばしませ」 「たみや」 「お分りなさいましたかえ」 「わかりました、だけれど……」  と、お千絵は、怖ろしい紅蓮の炎を思いうかべて、うつろな眼で、古い歴史のある地底の部屋を眺めた。 「出られますよ!」  その時、お綱が弾んだ声で呼んだ。  みると、もう出入りができるほど、そこが切り破られてあった。 「さ、お千絵様──」手をのばして救い出した。たみは、火を放けるために後へ残って、反古や木屑や乱れ箱などを、手当り次第に、部屋の中ほどへ積み上げる。  だだッ広い闇の間を、お綱の持つ蝋の灯がユラユラと走りぬけた。  さっき、自分が墜ちこんだ所を、鏡の裏の下から仰ぐと、一丈あまりの高さであって、梯子のない二階同様、上がる術がないのである。  と、向うでは、残っているおたみが、 「お綱さんとやら、逃げる出口が見つかったら、いいと、声をかけて下さいましね、すぐに火を放けて、私もそこへ行きますから」  こう声をかけておいて、行燈の油壷をとりあげ、反古の上へタラタラと撒いていた。 「ま、待っていて下さいよ」  気ばかりは急いているが、お綱も少しうろたえた。  一丈余りの高さでは、飛びつかれる筈はなし、足をかける所もないので、さすがに思案がつきてしまった。 「分りましたかえ?」おたみも向うで急いていた。 「そこにたしか、数珠梯子が垂れている筈です。──数珠梯子が」──と、そういわれて、お綱の目にフイと止まったのは、柱のかげに隠れて、上から垂れていた一本の縄。  向うから、教えたのはこれであろう。所々に、結びコブシが作られていて、攀じるに都合よくできている。 「あったでしょう。そこに」 「ええ!」こんどは、お綱もいきいきと返辞をして、 「ありましたよ! 縄梯子が」 「では、ようござんすね──」  と、念をおして、おたみはすぐに反古の山へ行燈の火をくつがえした。  ボッ──と、まっ黒に匍い揚がった煙をくぐって、乳母のおたみが、お綱がえぐり抜いた穴から、バタバタと逃げだしてきた。  途端に、お綱が、 「あッ、いけない!」絶望的な声をあげた。  お千絵様を先に──と思って引いた数珠縄の梯子が、どうしたのか、ぷッつり、断れてしまったのである。  奥の炎は、遠慮なく燃えだして、そこを、カーッと赤く照らしてきた。 江戸大火  縄の朽ちていた数珠梯子は、三人の望みを絶って、途中からプツリと切れ、お綱の手もとへ躍ってきた。 「あっ──」 「しまった!」  等しく悲痛そのものの声だ。お綱は、お千絵の手をとって、第二の逃げ口を探し廻った。だが──もとより、そこ以外に、別な出口のある筈はない。  と。奥のほうから、ムーッと温い火ッ気が流れてきて、うろたえ廻る裾や袂に、渦になった黒煙が真綿のようにまつわりだす。 「アア、大変なことになった──」おたみは狂わしく駈け戻って、はやまって放けた奥の火を消そうとした。けれど、密見の間の反古と油は、もう消し伏せもならぬ焔となっている。  まっ黒な煙の中に、ピラピラ、ピラピラ……と、青い火、赤い火の舌尖が、うす気味悪く舐めずりだした。 「お嬢様! お綱さん! 早くどこからか逃げて下さい。火が! 火が! 火が……」  必死の力で、おたみは、二、三枚の畳をはねあげ、前の板境へ立てかけて、お綱の切り破った穴を密閉した。そしてそれを、自分の背中で支えながら、 「お綱さん! 早くしごきを繋ぎ合せて、今の数珠梯子へ、結び足して……早く、早く、お嬢様を助けてあげて下さいよウ!」  後の声は煙に咽んでしまった。こうして、おたみが自分の背なかの焦げるまで、畳で穴を塞いでいるうちは、しばらく、流れでる煙も防げ、また火の廻りも幾分かは遅くなろう……。  だが。  奥の焔が燃えぬけてこないまに、どうして上へ遁れだすことができよう。  さはあれ、ここは、死ぬか生きるかの境。  お綱は、手早く二本のしごきを繋ぎあわせた。  そして、お千絵の体を、高く抱きあげて、断れた数珠縄の端へ、そのしごきを結び足そうとした。  お千絵の白い手が伸びた。生きんとする力かぎり伸びた……。だが、もう二尺──ある、せめて、もう八、九寸、そこへ触れようとして、指が届かぬ。 「お嬢様ッ……」  主思いな乳母のおたみは、ジリジリと背中の熱くなるのをこらえて、狂わしく、声をふりしぼった。 「ま、まだですか! ……早く、ああ、あ熱……早く逃げて下さいまし」 「アア、たみや、駄目ですよ──」  お千絵は、遂に疲れはてて、ガックリとしごきの手を落した。と一緒に、さすがに勝気なお綱も、ムラムラと巻く煙に咽せ、お千絵の体を抱いたまま、 「ちィッ……」  と、糸切歯を咬んで、横に坐りくずれてしまった。       *     *     *  さて。  やはりその夜のことなのである。  外神田の河岸ッぷちを、風に吹かれてすッ飛んできた、角兵衛獅子の二人の子。  軍鶏の赤毛をお頭にのせて、萌黄木綿のお衣をきせたお獅子の面を、パックリと背中へ引っくり返して、ほお歯の日和下駄をカラカラ鳴らし、 「オオ寒、オオ寒……」  駈けて、ころんで、また駈けて、一膳めし屋へ飛びこんだ。  縄すだれでもその中は。  お芋の匂いや、酒の湯気や、汁に煮える葱のかおりで、別世界ほど暖かい。 「小父さん──」  こういったのはお獅子の子である。  姉と弟であるらしい、十四ぐらいな女の子と、十一ぐらいな男の子だ。  かじかんだ手を口に当てて、ハアハア息をかけながら、 「小父さん──御飯をちょうだい」 「あいよ」  と奥のほうでめし屋のおやじ。 「たいそう今日は遅かったな。今すぐに、暖かいのを拵らえてやるから、そのお客さんの火鉢へ、少しあたらして貰っていねえ。オイオイ三輪ちゃん、紙をやるから、乙坊の洟をカンでやんな。水ッ洟をチュチュさせて、お客様のそばへ寄るとな、それ……お客様の鮟鱇鍋がまずくならあ」 「なに、かまやしねえ」  と隅にいた客。 「こっちへ来てあたるがいい」と、火鉢を向けて、お獅子の姉弟を手招きした。  それは目明しの万吉であった。  お獅子の子は、人なつこく、 「おじさん、あたらしておくれ」  と、万吉の側の火鉢へ、しがみつくように寄ってきた。  姉と弟の手が二本、凍えきッていたとみえて、炭火の上に、がツがツとふるえている。 「偉えなあ、おめえたちは」 「おじさん」 「なんだい」 「どうして偉いの? あたいたちが」 「それを知らないところがなお偉い。よく働くなあ、小さいのに。人間、なんでも、働かなくちゃいけねえや。それを偉いといったのさ」  と万吉、鮟鱇鍋から、葱を挟んでフウと吹いて口へ入れた。  いつぞや、墨屋敷の窓の下で、お綱と約束したことがあるので、彼は、例の鉄砲笊を肩にかけて、その日妻恋坂のお綱の家を、ソッと覗いてきたのである。  まだ帰っていない様子なので、そのままブラブラ戻りながら、駿河台へ行ってみようか、明日を待って、もいちど妻恋へ出なおすとしようか、と迷った末に、この縄暖簾へとびこんで、とにかく、寒さしのぎに一合取った。  飲めそうでいて、あまり飲めない目明しの万吉。  徳利一本で、たくさんになったので、飯を貰おうと思っていると、可愛いお獅子の姉弟が、人なつこく寄ってきたので、思わず、もう一本取ってしまった。 「いい子だなあ」  万吉は、冷ッこい手を、暖めてやる気で、二人の手を一ツずつ握ってやりながら、 「なんていう名だい」と訊くと、 「あたい?」と弟のほう。 「乙吉っていうの。姉ちゃんは、お三輪ちゃん」 「フム。お三輪に乙吉か。いい名だ……そして、どこだい、お前たちの家は?」 「吉原だよ」 「へえ、豪気に粋な所へ住んでいるじゃねえか」 「おじさんも行くかい」 「どこへ」 「吉原さ」  万吉、思わず吹きだしそうになって、 「おじさんは野暮天だから、まだ吉原を見たこともねえのさ。だが、まさかお前たちだって、あの廓の中じゃないだろう」 「ああ、五十間の裏だよ。孔雀長屋という所にいるの」 「そんな所があるのかい」 「見返り柳のすぐ下でね、オハグロ溝が側にあるよ、いつ帰っても、賑やかだから怖かない」 「おっ母さんはいるのかい」 「おっ母アは、死んじゃった」 「おやじさんは」 「生きてるよ」 「じゃアまあ結構だ。なあ、片親だけでもいりゃ、これに越したことはねえ。で、姉弟は二人ッきりかい」 「ううん……大きな姉ちゃんが二人いる」 「それでいて、お前たちまで、角兵衛獅子をして稼ぐのは、ああ、親父さんでも体が悪くって、永患いをしているとみえるな」 「違うの……」姉のほうが、悲しい顔をした。 「じゃ、どうなんだい、一体?」 「父ッちゃんは、ピンピンしているけれど、お酒呑みなんだもの」 「フーム、で姉さんは何しているな?」 「小ッちゃいほうの姉ちゃんはね、吉原の花魁に売られてしまったの」 「だ、誰によ?」 「ちゃんに──」と弟のほうがいって、ポロポロと涙をこぼした。  こぼれた涙が火鉢に落ちて、ジューッと、炭火の中で泣き消える。 「可哀そうに……」と万吉、思いだしたように皿に残っていた里芋を箸に刺して、 「サ、食べな」  と、一本ずつ持たせてやる。お獅子の子は、それを貰って、すぐムシャムシャと食べ始めた。  この優しい小父さんが、ふところに十手を呑んでいる怖い目明しだとは、その子も思わなければ、万吉もまた、おのれが、悪党にも恐れられる目明しだということを忘れている。  そこへ、亭主が、お焦げの御飯を塩にぎりにして、一杯ずつの味噌汁をつけ、奥から持ってきて飯台にのせると、角兵衛獅子のお三輪乙吉、いつもだけの小銭を出して、すぐ、ムシャとふるいつく。  何もかも忘れて、真から、おいしそうに食べていた。 「おやじさん、俺にも、飯をくれないか」  万吉も茶漬を貰って、熱い飯に番茶をぶッかけ、新菜の漬けもので、ザブザブとかッこみ始めた。  そこでまた、箸休めに、 「──で、何かい?」  と、今の話しかけを、こっちから訊きほじる。 「もう一人の姉っていうのは、家にいるのか」 「大きいほうの姉ちゃんはネ……」  指の飯粒をシャブりながら、女の子のお獅子がいう。 「あたいたちが、小ッちゃい時──、おっ母アが死んじまってから後に、どっかへ、行ってしまったの」 「オヤオヤ……親爺さんが呑んだくれで、一人の姉は吉原へ売りとばされ、その上、一番年上の姉までが家出をしてしまったのか」  万吉は、これだけの話で、ホボその家のありさまが想像された。そして、なんだか、他人事ではないように腹が立ってきた。 「フーム、そうか。それで小せえお前たちが、毎日、外へ角兵衛獅子に出ているのか……。気の毒だなあ。この空ッ風の吹く町へ出て、テンツクテンツク、氷のような地べたへ逆さにオッ立って、お前たちが稼いだ銭も、おおかた、おやじの寝酒になってしまうんだろう。よく世間にあるやつだ。殊に色街の掃溜には、怠け者の地廻りとかなんとかいって、そういう野郎がいかねない。……だがまア、よくお前たちは辛抱してるなあ、今におやじも眼をさますだろう。また、大きい姉ちゃんが帰ってきたら、きッと、両手をついてあやまるだろうぜ」 「あたいたち、その姉ちゃんに逢いたくてしようがない。おじさん、いたら、教えておくんなね」 「ウン、そうだろう、そうだろう」 「毎日、お獅子に出ていても、そればっかり見てるんだけれど」 「じゃ、うすうすおぼえているとみえる。そしてその姉さんは、幾つぐらいでどんな女よ」 「ちゃんがいったよ。まだ若いし、いい女だから、あいつがおれば、千両に売れるッて」 「いい女で、若くって、ふーん……そして名前は?」 「お綱ッていうの」 「え、お綱ッ?」 「おじさん! 知ってるね」 「ま、まってくんねえ」 「おじさん──」  飯つぶだらけな手のままで、両方から、万吉の袖へたかって来る。 「知ってるなら、教えてくんな、よウ小父さん」 「ま、まちねえッてことよ。今おじさんが考えている所だわなあ。……フーム、すると何だね、お前たちの姉というのは、見返り柳の下にいた、お綱ッていういい女かい?」 「アア」  ジィと、二人の顔を見つめていた万吉が、思わず、手の箸をポロリと落して、 「ム……似てらあ!」  お獅子の姉と弟の手を、強く握った時である。  ジャーン!  すぐ、程近いすじかい見附の夜を見守るお火の見の上から、不意に、耳おどろかす半鐘の音。  時刻は、まさに、宵の五刻(午後八時)。  それは、ちょうど。  かの、駿河台の墨屋敷──鏡の裏の穴蔵部屋で、お綱や、お千絵や、その乳母たちが、密見の間に火をかけて、唯一つの力と思ってすがった数珠梯子が、プツンと切れた──その時刻である。  どたどたと、飯屋の二階から、三、四人の若い者が、ころげるように降りてきた。 「火事だ!」 「火事、火事、火事」  ちんばの下駄を突ッかけて、ワラワラと外へ飛びだして行ったので、皿を洗っていた亭主も、万吉も、お獅子の子も、それに巻かれて、縄のれんの外へ駈けだしてみた。  師走初めの冷たい風が、向う柳原から神田川の水をかすって、ヒュッ──と町の横丁へまで入ってくる。 「どこだ、火事は?」 「今、二階の物干しから、たしかに見えていたんだ」 「だってちッとも赤くねえじゃねえか」 「火の手は上がっていなかったが、お茶の水の森あたりで、ボウ──と、白い煙がのぼった」 「よせやい。夜靄か、湯屋の煙を見まちがいしやがッて」  闇を仰いでいた首が、いっせいに、なアンだ──という顔をして、少し拍子抜けしていると、紛れもない二度目の半鐘。  ジャーン! ジャーン! ジャーン。  つづけざまに、乱打のすり鐘。 「おおッ、近え!」というと、あたりの者たちは、いなごのようにワラワラワラッと駈けて散る。 「どこだ、おい!」  飯屋の亭主が、軒さきの大樹をふり仰いでどなった。もう、はしッこいのが、いつのまにか、高い枯木の突ッ尖に攀じのぼっていて、物見の役を承っている。 「近えッ。そぐそこだ!」  と、上から、素頓狂な声がしてきた。 「すぐそこだって⁉」 「お茶の水、お茶の水──」 「おお、じゃ風上だ」 「おまけにかなり風が強い──」  と、その北風の吹き揺する梢に、寒鴉のようにとまった男、なおもジッと見ていたが、 「──やッ。火事は駿河台の甲賀組らしいぞ。あの墨屋敷の下の森から、真っ黒な煙が吹き出しているンだ!」  火の手をたしかめたものであろう、それを最後に樹の上の男は、スルスルスルと下へ辷って来る。 「えっ、駿河台の墨屋敷だと⁉」  こう仰天して叫んだのは、今が今まで、よそごとに聞いていた万吉だった。  いまだに帰らぬお綱の消息や、あの屋敷にいる筈で、そして姿の見えないお千絵様──。この二人の運命が刹那に、火! という不安な旋風に結びついて万吉の敏な神経へ、不吉な予覚を与えた。 「おお! 駿河台と聞いちゃア……」内ぶところへ手を入れて、ギュッと晒の腹巻をしめ、帯もしっかりと後ろへ廻す。  火事が近いと聞いて、泣きだしそうになった角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、やさしい言葉をかけてくれた、万吉の側を離れたくないように、 「おじさん──」  と、寄りついて、頭の鶏毛を寒そうにそよがせ、歯をガタガタと鳴らしている。  一番鐘をついた見附のすり鐘に合せて、やがて遠く、両国のやぐらや鳥越あたりのお火の見でも、コーン、コーンと、冴えた二ツ鐘をひびかせてきた。  自身番から板木が廻る。ドーン、ドーンと、裏通りを打ってくる番太郎の太鼓報らせ。  万吉の胸も、早鐘を打ってきた。 「ええ、こうしちゃアおられねえ!」  吾を忘れて走りだすと、腰につかまっていたお獅子の乙吉が、日和下駄を引ッくり返して、そこへ転び、ワーッと、大声で泣きだした。 「あッ、堪忍しなよ!」  ふりかえったが、万吉は、戻ろうとはしなかった。と、 「だ、だんなッ──」と呼び返したのは飯屋の亭主。 「おお、違えねえ、勘定か」  屑屋の資本の縞の財布を、首からはずして、紐ぐるみ、クルクルと巻いたかと思うと、万吉は、それをポーンとほうってやって、 「おやじさん、おつりはお獅子にやってくンな」  というや否や。  後も見ずに、目明しの万吉、もう、バラバラと提灯の駈けみだれている、紅梅河岸を一散にぬけて、息もつかずに、駿河台まで韋駄天と飛んできた──。  針を吹ッかけられるような寒風なのに、万吉は、あぶら汗をタラタラ流して、紅梅河岸から上り道、突きあたる奴を突きとばして、まっしぐらに、駿河台へ駈け上がった。  お千絵様の墨屋敷──  燃えあがっていやしまいか、と思ったが、そこまで来てみると、あなたこなたの組屋敷も、また、案じていたそのお屋敷も異常はなかったので、ホッとしたり、急に、拍子抜けがしたりした。  だが、ホッとするのは、まだ早かった。  あたり一面、夜靄のような薄けむりが、どこからともなくもうもうと立ち迷っている。 「出火ですぞ、出火でござるぞ」  わめいて廻る組屋敷の者。 「どこだ、どこだ」 「火元はどこだ、火元は⁉」  後から後からと、ここへ、駈け上がってきた人々も、やや戸まどいの態だったが、やがて、その煙が、人家のないお茶の水の崖ぷちからだと知れて、それッ、怪し火だとばかり、皆そのほうへなだれていった。  その崖には、旅川周馬が上なる墨屋敷の中へ、常に出入りをしている隠し道があった。今夜も周馬は、お十夜孫兵衛と出会って、一刻ばかり前に、その穴口から出ていったばかりである。  とは、誰あって、知ろう筈はない。不思議な所から、不思議な煙──と、怪し火の騒ぎはいよいよ大きくなる。  万吉は、方角違いな、怪し火騒ぎには目もくれなかった。なにせよ、墨屋敷にはまだお綱がいる筈、もし大火にでもなった日には、お千絵様の身も心もとない──と思ったので、例の、覚えのある塀の下から、つッと中へ潜りこんだ。  そして。  ズウと、家のまわりを見渡すと同時に、かれは、 「あっ!」  といって、顛倒した。  何ぞ計らん、怪し火の火元はここだ!  かれが、そと見渡した家まわり──、相変らず、数ある雨戸も窓の戸も、箱のように、ピッタリと閉てきってあったが、その、戸と戸との細い隙間や、廂の蔭などからは、まるで、蒸されたせいろうのごとく、家の中から白い煙が、ソヨソヨと洩れだしているではないか。 「オオ! こいつア大変だ」  はね返されたように目明しの万吉、いつか、お綱に手をつかまれた、あの、窓へと飛びついて行ったが、今夜に限って閉めきってある。ええ、じれッてえ! と足もとの、石を拾って叩き破り、さらに窓格子を五、六本、バラバラッと打ちこわす。  指をかけると、万吉の体は、ヒラリと家の中へ、躍り込んでいった。  と──どうしたか、 「あア──!」  と、口を抑えて、畳へ顔をうッ伏せた。  煙──煙──煙──目もあけない黒煙だ。  思わず、太い息を吸ったので、涙をこぼしてむせかえッた。  いよいよ、火はこの屋敷の、どこかしらに籠ってるときまった。風を入れては、一煽りに燃えぬける惧れがある、と感づいたので、万吉はあとの戸をピンと閉めてしまった。  こうなるとかれの身は、煙蒸しのせいろうの中へ、みずから封じてしまったようなもの。  危険は危険だが、お綱の安否が気づかわれる。それに、お千絵様の消息も知れない今! 火の中へも飛びこむ意気とは、この場合の万吉の覚悟であったろう。  上を向いて息を吸わぬように心がけて、まず、あたりを撫で廻してみると、やわらかい友禅の炬燵ぶとん──温みがある──四、五冊の草双紙──コロコロと湯呑茶碗が手にふれて転がった。  そいつをつかんで、盲滅法、闇の中へ投げつけて、 「お綱ア! ──」  力いッぱい呼んでみた。  答えやあると待っている……。  だが、なんらの反応もない。  口を抑え、耳をすまし、目にしむ涙をこらえながら、しばらくジッとしていたが、かれの耳に聞こえるものは、ただムクムクと漂ってくる煙の音──、イヤ、煙に音はなかろうが、この時、万吉の神経には、たしかにそれがありありと聞こえた。  煙の底を這ってゆく──低い所ほど煙がうすい。次の間から次の間へと、目明しの万吉は、だんだん深入りをしていった。 「お千絵様ア!」  呼べど、答える声はない。 「お綱ア! お綱アーッ」  と二声三声。  もう、一番奥と思うところに、長廊下から杉戸があって、ピンと固く閉まっている。  何か、ぶちこわす物はないかと、あたりを撫で廻してみると、あった! あったが一枚の櫛である。これじゃあ戸をコジ開ける物にもならない。  しかし、ここに一枚の櫛が落ちていたのは、たしかに、女のさまよっていた証拠!  万吉は、いよいよあせった。と──廊下の一隅で、唐金の水盤らしいものにさわった。  それを持って、力まかせに、ドーンと突いて行くと、仕切戸がさっと開いた。  空洞のような橋廊下──、口を開くと一緒にその奥から、ムーッとするばかりな熱風が面を衝ってきた。 「ここだ! 火はッ」  猛然と身を起こした万吉。  左の肱をまげて口をふせぎ、何のためらいもなくダッ──と奥まで駈けこんで行った。  すると!  その突き当りとおぼしき闇に、いきなり、何者だろう? かれの目をさえぎって、ギラリと躍った人影がある。  血相をかえた男の相貌。 「あっ畜生!」  不意だったので万吉も夢中である。  右手につかんでいた唐金の水盤、その男の影を狙って、力の限り投げつけた。  うまく当った! ──と思うと、こはそも何?  グワラグワラッ! と、ものすさまじい響きがして、燦然と八方へ飛んだのは、まっ白なギヤマンの破片! あの大鏡がみじんになって砕け、その口からは、赤い火の粉がチラチラと噴き出した。  モクッ──と一つ、違った煙の渦が、鏡の裏の地底から、かれの顔へ吹きつけてきた。 「ア! アッ!」  と万吉。  思わず後ろへ飛びのくと──、煙に声がまじってきた、かすかに叫ぶ地底の声! オオ、女の悲鳴──まぎれもなく耳に入った。 「やっ、お綱じゃねえか! あの声は」  ザクザクとギヤマンの破片を踏んで、框だけになった鏡の口へ寄ってゆくと、いよいよ濃い煙が巻き揚ってくる。  呼ぼうとしては咽び、咽んでは叫んだのである。 「だッ、だッ、だれがいるンだッ──誰がいるんだッ」  と、中を覗いてみる──  漠々たる密雲に、夕陽が射しているような有様。深い穴蔵の底へ万吉の声がひびいた。  よみがえったような叫びがしてきた。 「お綱……お綱……お綱だよう!」 「おお、やっぱりそうだッたか、おれは万吉だ、万吉だぞッ」 「あッ……」というと声が消えた。 「お綱ッ、しっかりしろよ! 今すぐに助けてやるから、眠ってしまっちゃいけねえぞ。地面へ口をつけて辛抱していろ」 「ま、万吉ッつぁん──、縄を!」 「待て待て、待ってくれよ! 今すぐだ」  もう、たえられぬかのような苦しい声で、またお綱が下から叫ぶ……。 「早くしてーッ。万吉ッつぁん──わ、わたしよりもお千絵様が!」 「げッ、お千絵様が? や、やや! お千絵様もそこにいたのか。チェーッ、一大事!」  と万吉は、その時こそ、まったく、煙を吸う苦しさも火ッ気も、身に感じなくなっていた。 「縄だ、縄だ、縄だ、縄だ!」  心の底でガリガリどなる。  眼は吊り上がってしまっている。足もつかずに廊下の彼方此方を、無我夢中で探し廻った。 「縄はないか、縄は──、縄だ、縄だ、縄だ!」  グズグズしている間には穴蔵のものが、紅蓮の舌さきに焼き殺されてしまう。鏡の口が開いたので、火の早さは一散になるであろう。  その身自身が、焦熱地獄に焼かるるよりは、むしろ万吉の苦しさのほうが百倍。  かれは極度にうろたえた、悩乱した、半狂乱の態になった。  縄! 縄! 縄! 救いの縄。  こんな所に、あろう筈のないものを、かれは咄嗟に求めなければならない。  紅蓮の地獄──焦熱の地獄。  それは今、三人の女性が、喘ぎ呻いている穴蔵部屋のけしきである。  こもりきッた黒煙が、お茶の水の抜け道へまで噴きだした程であるから、お千絵様のいた密見の間は、あらかた、火になったものと思われる。  それを、命がけで、外から防いでいるのは、おたみであった。  今日まで、檻となっていた厳重な厚板が、今は、わずかに身を焼かぬ防火壁となっている。ただ、お綱が匕首で切り破った口があるので、おたみは、そこから焔をふき出させまいとして、幾枚もの畳を立て重ね、身をもっておさえながら、最後の努力をつくしていた。  けれど、悲しや、密見の間の焔は、口をふさがれた怒りをこめて、ジリジリと襖を焦がし天井を焼き、さしも厚い欅の板を焼きぬいて、ペロリ……と、真っ赤な火の色を吹いてきた。  怒れる紅蓮は、あなやと見るまに、隣りの穴蔵部屋の方へ、ゴウッと──火唸りをして這いだした。 「──お嬢様ッ……」  おたみは、声を限りに叫んだ。  百千の火龍は、かの女の肩の上から、メラメラッと音を立てて、近づいてくる。  お千絵は、お綱にかばわれて、地底の土に顔をうっ伏せ、わずかに煙を防いでいたが、乳母の声が聞こえるたびに、声をしぼって呼び返した。けれど、おたみは、背中からジリジリと身が焦がされてくるのに、そこを離れようとしなかった。 「た、たみやア……」 「──お嬢様ア! ──」  もう両方で、呼びあう力もなくなってしまった。たみの黒髪にチリチリッと火が燃えついた。  兄の唐草銀五郎に似て、気丈な乳母のたみも、さすがに、 「あッ……熱ッつつ……お嬢様ッ」  火の黒髪を振って、悶絶した。  と同時に、半ばまで火となっていた畳の蓋が、ドッと、かの女の体へ倒れかかった。一瞬……ボウ……といったきり、あとは、なんの声もしない……。  ただ、真ッ黒な渦と、火の粉の微塵がもうもうとそこを立てこめてしまった。  そこへ、目明し万吉が、こうとは知らずに、鏡を叩き砕いたのである。 「万吉ッつぁん──縄を!」  と、紅蓮の底から叫ばれて、かれは面食らった、歯ぎしりを咬んだ、地団駄をふんだ。 「ええッ、情けねえッ、縄がねえ、縄が、縄が、縄が! ……」  ヒ──ッという、悲鳴が一声揚ったようだ。いよいよお綱も断末魔か?  お千絵様の黒髪にも、無残な火が燃えついてしまったのであろうか?  万吉はもう堪らなくなった。  知らぬことならぜひもないが、みすみすここに自分がいて、お綱を見殺しにするのみか、お千絵様を焼き殺してしまっては、法月弦之丞に対して、なんと、男の面が立とう。  いや、男一匹の面が立つの立たぬのという、そんなケチな問題ではない。  ここで、お千絵様の身に、万一があったひには、銀五郎の死も犬死となり、弦之丞が初志をひるがえして起った意味も、まったく空しいものとなる。  ひいては、世阿弥の消息をつきとめ、阿波の密境を探ろうとする中心力を失ってしまい、すべてはもとの晦冥に帰って、遂に、俵一八郎や常木鴻山なども、あのまま、永世に浮かばぬ人となって亡びるであろう。  無論、目明し万吉としても、そうなっては、今日まで可愛い女房にさえ居所を知らせずに、江戸くんだりまでやッてきて、屑屋をしたり、犬の真似をしたりして、悲雨惨風をなめている苦労がみんな水の泡だ。  と。その時、万吉、 「エエッ、この間抜け野郎め!」  自分で自分をドヤシつけるように、ハッと思いついたのである。  縄はある! 縄があった! 縄は目明しの商売道具。肌身離さぬ二丈の捕縄が、チャンと自分のふところにある。  悪党と見れば目明しの縄は、放たずとてひとりでにスルスルと飛びだすものを、人を助けんとする咄嗟には、こうまで血眼に探し廻った最後まで、頭に浮かんでこなかったのである。  ほとばしる火の粉を浴び、紅蓮の大波をくぐり抜けくぐり抜けて──目明しの万吉。  グワラッ! と、大廊下の戸を二、三枚蹴破った。ふウ──ッと巻きだす煙と共に、庭先へ跳び下りたかと思うと、 「お綱あアッ──」  よろめきながら、喘ぐ声! ……。 「しッ、しッかりしろッ。しッかりしてくれ!」  辛くも投げた人助けの捕縄で、焔の底から救い上げたお千絵様であろう──右手には、浄瑠璃人形のように、ダラリとなった女の体を抱き、左に、お綱の帯をつかんだ──。  手をとってやる余裕がない。  だが、お綱はさすがに、気が張っていた。 「──だッ、大丈夫だよッ……」  こう叫んだようである。とたちまち、炎々たる狂い火が、蹴破られた雨戸から大廂の梁を流れて、いっせいに燃えあがり、凍りきっている冬の夜の空へ、カアーッと火柱が立ったのは、それから、ほんの一瞬の後──。  こけつ、転びつ、お千絵を抱えた万吉と、お綱の姿だけは、渦まく火塵を泳ぎぬけて、裏門の外へ出たらしいが、ああ、遂に、乳母のおたみだけは、すでに穴蔵部屋の火の畳に押し伏せられてしまったとみえて、声もなければ姿も見せぬ……。  折もあれ。  吹き催していた北風の一煽りに、火の魔の跳躍はほしいままとなり得た。さしも、由緒のある墨屋敷──甲賀流の宗家世阿弥のあとは、幾多の秘書財宝をかくしたまま、ここにバリバリと惜しげもなく燃えに燃えて、ドーッとものすさまじい地響きをして焼けくずれる……。  風はいよいよ吹き荒んで、見る見るうちに、辺り二十七家の組屋敷から、町つづきの鈴木町、紅梅坂の武家屋敷の、ここかしこに飛び火した。  場所は高台、火は強し、空いちめんを真ッ赤にして、江戸から見えぬ所はない。  ピューッ……ピューッと、いよいよ募る魔風の絶え間に、近くのすり鐘、遠くの鐘、陰々と和して町々の人を呼びさます。  その頃はもう、お綱の姿も万吉の姿も、どこに見ることもならず、神田一帯、駿河台の上り口、すべて、人と提灯と火事頭巾と、ばれんと鳶口の光ばかりに埋まっている。  ……………………  所は京橋、桜新道──長沢町の裏あたりである。 「オヤ?」  と、飲みかけていた盃を下に置いて、 「火事ではないか」  今頃になって、迂濶至極なことをいいながら、ガラリと、裏二階の障子を開けて首を出した者がある。  お十夜孫兵衛と、旅川周馬であった。  もっともそこは、喜撰という額風呂の奥で、湯女を相手に、世間かまわず騒げるような作りなので、さっきからの半鐘も、聞こえぬくらいに静かなのである。 「オオ、大変な火の粉──」  空を仰いで、お十夜がこういうと、旅川周馬、バラバラッと、表二階へ駈けだして行った。と──すぐにまた、そこへ取って返してきて、 「お十夜、大火だ! 大火だ! しかも火元は神田だそうだ」  少し酒の気は醒ましている。 「大丈夫だろう……」孫兵衛は席へ戻って、手酌の一盞を、チビリと唇に鳴らしながら、 「いくら風が強勢でも、まさか、あの高台までは燃えてゆくまい」 「イヤ、そう安心はしていられない。とにかく、ここを引き揚げて、屋敷の安否を見届けねばならぬ」あわてて刀を差しかけるのを見ると、 「おい周馬、ちょっと待ちねえ」  お十夜は、何か不服があるらしい。 「イヤに落ちつき払ったな。ま、とにかく、外へ出て様子を聞いた上にいたそう」 「じゃ、あのほうは止めにする気か?」 「止めるものか! ばかなことを」 「そうだろう、初めからその手筈を相談するために、わざわざここへ落ち着いたのだ。まア火事なんざあどうでもいい、いよいよあすは江戸へ入るという、法月弦之丞から先に片づけてしまうことのほうが、今夜の火事より急だろうぜ」 「それも一理あるな? ……」  と、旅川周馬は、耳につくすり鐘の音と、弦之丞のことを、半々に思い迷って棒立ちとなっている。  お十夜がいうとおり、今夜、わざわざこの喜撰風呂へまできて、女気なしにくつろいでいる目的は、翌日の相談や、手筈を諜しあわすのが眼目であった。  翌日というのは、法月弦之丞が、江戸へ着くのをさすのである。かれが江戸の地をふまないうちに、かれの命を絶ってしまうことは、周馬にとりまた孫兵衛にとっても、最上なる手段に相違なかった。  東海道から江戸へ入るには、是非ともさしかかる八ツ山口か高輪の浦あたり──、その辺に、必殺の策を伏せておいて、殺してしまおうという二人が大体の目算。  で、そのために。  使屋に手紙を持たせて、二、三ヵ所の賭場へ、ならず者の狩り集めにやってあるところだ。しかるに、返事もこないうちに、周馬が中座しかけたから、お十夜が少しムッとした。 「まア落ちつけよ」  と、孫兵衛は、周馬の浮き腰を顎で抑えて、 「大事をもくろむ矢先に立って、気を散らすのは禁物だ。そんな量見方なら、この俺は俺で、勝手な道をとるとして、お前と組むのはお断りだから、そう思って貰いたい」 「お十夜、そう腹を立てては困る」 「だが、考えてみるがいい。なるほど、弦之丞はおれの恋仇、生かしておいては都合の悪いやつだ。しかし、お前のほうは、女のほかにあの屋敷の、すばらしい財宝まで、鷲づかみにしようとする、分の勝っている所がある。いわば、この仕事はそっちが七分で、おれが三分、その三分がとこで、丹石流の腕前を貸してやるようなものだ。少しは恩に思って貰いてえな」 「分っている、分っている……」周馬も、ここでお十夜に、グズられては困るので、またほどよく扱いながら、腰をすえて飲み始めた。  と。まっ白に塗った湯女が、銚子の代えを持ってきながら、 「旦那様」 「なんだ」 「使屋の半次が戻ってまいりました」 「たいそう早いな、連れてきてくれ」  湯女が出てゆくとすれ違いに、一人の男が入ってきた。 「ご苦労だった」と、周馬が言葉をかけて、 「頼んでやった者は、みんな来るといったろうな」 「ところが旦那──」と、使屋は、この寒いのに汗をふいて、 「お手紙を持って行った賭場先には、どこにも、誰もおりませんです」 「フーム……どうして?」 「なにしろ、旦那、とても、神田一帯は火の海になりそうな騒ぎです。大概のお屋敷は、見舞を出すやら、火事頭巾でくりだすやらで、いくらのんきな部屋でも、今夜ばかりは、人の影もございませんよ」 「なるほど──」いわれてみれば道理であった。 「火事はそんなにひどくなってきたか」 「ひどいのなんのって、高台から焼け拡がったので、八方移りに燃えそうです。こっち側は昌平橋御門から佐柄木町すじ、連雀町から風呂屋町の辺りまで、すっかり火の粉をかぶっています」 「と、すると……」周馬は急に色を変えて、 「火元はどこじゃ、火元は?」 「なんでも、怪し火だという噂ですがね」 「怪し火? フーム……して駿河台の、甲賀組の墨屋敷などは、かけ離れてもいるから、さしたることはあるまいな」 「どう致しまして、旦那、その怪し火てえのが、そもそも墨屋敷の、何とかいう古い家から出たんです」 「げッ!」と、仰天したのは、周馬ばかりか、お十夜も同様、カラリと手の盃を取り落して、言いあわしたようにヌッと立った。 「使屋、今の話に間違いはあるまいな」 「ええ、嘘なんざア申しませんが、このお手紙はどうしましょう」 「ウーム、弱った……」と、明日の手筈も急なら、今夜も急! 周馬も孫兵衛も当惑したが、それは、使屋に頼んでおいて出なおすことにきめ、二人はバラバラと喜撰風呂の二階から駈け下りてきた。  怪し火とは気がかり、周馬の胸は、穴蔵部屋の財宝と、そこに押しこめてあるお千絵の安否に騒ぎ立ち、お十夜はまた、とり残してきたお綱の身が、もしやと心配になってきた。  空を仰ぐと一面の火の粉!  二人は、肩をならべて駈けだした。 「ちぇッ。しまった!」  護持院ヶ原まで飛んでくると、周馬はそこで、茫然と足を止めてしまった。 「ウーム、だめだ! やっぱり火元は墨屋敷だった。今さら駈けつけてみたところで、間に合わねえ」  それを聞くと、お十夜も、ガッカリとして太い息を吐きながら、 「駄目だろうか」 「あれだもの! ……」  周馬はいまいましそうに、そこからあきらかに仰がれる高台の焔を指さして、 「無論、屋敷は焼け落ちてしまったさ」と、捨鉢のように言い放った。 「──残念だな。すると……お綱はどうなってしまったろう。オイ」と急に思いついたように孫兵衛。 「あの、鏡の裏から、どこかへ逃げ道があったのか」とききはじめた。 「逃げ道なぞがあるものか。ないからこそ安心して、お綱を置いてきたのではないか」 「えッ、じゃ今頃は」 「灰になってしまったろう。あアあ……そっちは女だけのことだが、この周馬の身になってみろ、多年心を砕いて、手に入れようと計っていた財宝と恋人、二ツとも一緒に失くしてしまった……」  泣かんばかりの落胆である。  と、お十夜が、不意にまた、 「オイ、周馬──」と呼びかけてきた。 「なんだ。おれはもう、返辞をするのもいやになった」 「そうしょげるのはまだ早い。さッきの使屋の話では、火元は、墨屋敷から出た怪し火だといった」 「ウム、怪し火だといった」 「その怪し火に、何か曰くがありそうじゃねえか。とにかく、ここでベソを掻いていたところで始まらねえわけだ、もう一息駈けだして、現場の様子を見た上の思案としよう」 「なるほど、それももっともだ」  くじけた元気をとりなおして、お十夜孫兵衛と旅川周馬、ふたたび、韋駄天の足を飛ばした。  鳶の光、火事頭巾、火消目付の緋らしゃなどが、煙にまじって渦まく中を抜けて、勧学坂から袋町を突ッきり、やがて己れの棲家まで来てみると、すでにそこは一面の火の海。  世阿弥の家のあとを初め、二十七家の隠密組の屋敷は、あとかたもなく焼け落ちて、坩堝を砕いたような余燼の焔は、二人を嘲るごとくメラメラと紫色に這っていた。 「ウーム……」と唸いてしまったきり、二人は口もきかずにいた。  その紫の火の色は。  お十夜の眼には、お綱の焼け溶ろける火かとも見え、また、周馬の眼には、お千絵様の焼ける焔、惜しい財宝が、燃えきれずにいる火かと恨めしく映る。 「オオ、大変だ!」  いつか風が変っている。ヒョイと気がついた孫兵衛が、ふりかえってみると、袋町を縫った火は、下町へまで移りだして、まごまごしていると逃げ道を塞がれそうな形勢だ。 「それ、あぶねえぞ」  幻滅の悲哀を抱いて、火に追われた二人の悪玉は、足に力もなく走りだした。大樹があるので焼け止まった堤がある。そこをヒラリと躍り越えると、落莫とした冬木立の下に、サーッと響いてゆく水音が聞こえた。  柳原へ落ちてゆく、神田川の流れらしい。  バラバラ、バラバラと、揺するたびに落ちてくる枯葉を浴びて、崖伝いに下りてゆくと、そこは、太田媛神社の境内であった。枯柳や梅にとり囲まれ、神田川の水にのぞんで、火事をよそに森深と更けている。 「おや⁉」  崖から境内へ、ポンと飛び下りた孫兵衛は、何か、柔らかなものが足へ絡んだので、それを手に拾って、常夜燈のそばへ寄って行ったが、一目見るとともに、 「やッ、こいつア? ……」  よみがえったような、また意外に衝たれたような唸き──。 「なんだ?」  周馬が横から顔を出すと、お十夜は、手にしていたのをクルクルと丸めて、 「畜生ッ。──やっぱり逃げたに違いねえ!」  腹立たしげに投げ捨てた。  見るとそれは、ところどころ火に焦がされた女の被布、浮織唐草の江戸紫は、まぎれもなく、お綱の着ていたものである。  火焔の中から、無我夢中で躍りだした万吉は、喪心しているお千絵様を肩にかけ、またお綱を励ましながら、やッとのことで、太田媛神社の境内へ逃げ下りてきた。  ここは、お茶の水の崖を屏風にしているので、火が森を焼き抜いてこぬ限りは、まず安全な場所であった。  ホッ……と一息。  万吉は、拝殿の前へ、お千絵の体を辷り下ろした。紅蓮に巻かれた苦しさと愕きの果てに、かの女は意識を失っている。  白絖のかいどりにくるまれたまま、グッタリそこへ仆れる……。お綱は驚いて肌をさわってみた。  肌は温かであった。美しい曲下の黒髪も、幸いにして焼かれなかった。 「おう、お綱──」と万吉は、すぐに気転を働かせて、 「すまねえが、御手洗の水を掬ってきて、お千絵様を介抱して上げてくれ。おれはその間に渡し船を探してくる。とても、この火事騒ぎじゃ、橋を越しちゃ行かれねえから」 「あい、よござんす──」  気を失っているものの、ここに凍えさせておいてはと──お綱は、お千絵の体へ、自分の被布を脱いで着せかけようとした。  で──初めて、気がついたのである。 「おや、どこで脱げてしまったのだろう? ……」と。  何を思い出すゆとりもなかった。お綱の頭は今のところ、何もかもが昏迷している。万吉とても同じであろう、川縁へ駈けだして行くと、無論、誰か持主のある物だろうが、委細かまわずもやいを解いて、手頃な小舟を社の裏へ曳いて来る。  その間に。  白い素足を闇に見せて、お綱は向うへ走って行った。御手洗に張った薄氷を割って、小柄杓に水を掬ったのである。  気はいらいらと急きながら、掬って来た柄杓の水をこぼさぬように、お綱は小刻みに戻ってきた。  赤い空から地の闇へ、火の粉がバラバラと降ってくる──。火事はまだまださかんらしい。神田川は夕焼のようだ。 「あっ……」  柄杓の水がこぼれてしまった。  お綱の足もとへ、何かフワリとした物が、絡みついてよろけたので──。  常夜燈の前だった。淡い明りが流れているので、ヒョイと見ると、それは、自分の着ていた江戸紫の被布であった。 「こんな所へ落したのか……」と、お綱は一目に思ったが、もとよりそれを拾う気はなく、小柄杓を持ってもう一度、水を掬いに戻りかけた。  すると、その時だ。  ここに落ちていた被布を見て、先ほどから、しきりに人の気配を探っていたお十夜孫兵衛が、常夜燈のうしろからヌッとうねりだして、 「むッ! ……」  物もいわずに、お綱の襟をつかんでしまった。 「あっッ」と、お綱。  右手に持っていた小柄杓で、驚きの力任せに、かれの真眉間を狙ってヒュッと打った。  さッと、身をかわされて柄杓の首は、お十夜の柄に当ってパキンと割れる!  さらに、首の抜けた柄杓の柄で、お綱はお十夜へ突いてかかった。が、身は綿のように疲れているので、苦もなくそれをもぎ取られた上に、ドンと一と突き飛ばされた。  乳のあたり!  お綱は、ふたたび起つ力がなかった。精がきれて、罵る声も出なかった。 「…………」  ただ、口惜し涙と怨みをこめて、カッと孫兵衛を睨みつけた。と、相手のほうも、女に反抗力がないことを知ると、ぬッと片手を懐へ入れて、物もいわずにその姿を見すえていた、いわなくッても分っているだろう、フフン、ざまを見やがれ──というふうに。  何の悲鳴も立てないので、万吉は、こうとは知らずに小舟を曳いて、近くの岸へその縄を絡げていた。  と、誰かの跫音が、後ろを抜けた様子なので、ヒョイと振りかえってみると、総髪にした若い侍が、いきなり拝殿の前へ寄って、気絶しているお千絵の体へ手をかけた。  その人影は旅川周馬であった。  万吉が、アッ──とおどろくまに、周馬は、何の拒みもない白いかいどり姿を横に抱いて、 「おい、お十夜! そんな女一匹を持て余して、いつまでグズグズしているのだ」  とばかり、一方へ声を投げながら、自分は自分の恋人を取り戻して、一足先にスタスタと急ぎだした。  周馬だ! 万吉はなんとなくこう思った。 「畜生ッ」  ブルブルッと身をふるわせて、 「焔の中から、命がけで救ってきたお千絵様を、うぬに、取り返されて堪るものか!」  何の猶予があるものではない。  彼は、周馬の影が、ものの二十歩と拝殿の前を去らぬまに、一気に、うしろへ追いついた。 「待てッ」  ムズと、その腰帯をひッつかむ。  一振りふってねじ倒すつもりだったが、周馬もさる者、どッこい、そうはさせねえと万吉の手を払って、横へ七尺ばかり、つッ──と体を避けたかと思うと、 「なんだ、てめえは?」  怖ろしい目で、万吉を睨めた。  あの総髪を風にそよがせ、美女の姿を引っ抱えた旅川周馬の影、その時、昔物語にでもありそうな悪鬼かなんぞのように見える。  万吉は、こいつの度胆を抜いてやろうという気で、 「おお、おれは法月弦之丞様に頼まれて、お千絵様の蔭身に添う万吉という者だ」  ふところの十手をつかんで、明らさまに名乗ってしまった。それで、ぎょッとするかと思うと、周馬は、鼻の先で、 「ふム……弦之丞の差金か」 「その弦之丞様が江戸へ帰ると、うぬの首も危なくなるぞ。悪いことはいわねえから、お千絵様を俺に渡して、今のうちに、どこかへ姿を隠す算段でもしやがれ」 「よけいなことを申すな」  片腹痛い──というふうに、旅川周馬、ゲタゲタ笑っているのである。  万吉はかッとなって、 「野郎ッ、どうでも渡さねえといや、十手にかけても受けとるからそう思え!」 「だまれッ、察するところ、墨屋敷へ火を放ったのも汝であろう」 「悪因悪果、天罰の火よ! 呪いの火よ! こうなるなア当り前だッ」 「よし! そう聞く上はなおのこと、お千絵を渡すことはならねえ。弦之丞に逢ったら、いってくれよ、世阿弥の娘のお千絵様は、旅川周馬が可愛がってやりますとな」 「エエ、しぶといことを吐かすな!」 「待てッ、万吉」 「くそッ──」とばかり、十手を真っ向に飛びかかッてゆくと、周馬はまたも五、六歩逃げて、キラリと前差の小太刀を抜いた。  片手に引っ抱えているお千絵の咽へ、その切ッ尖をピタリと向けて、 「おい」と周馬、万吉と切ッ尖とを、七分三分の眼くばりで、 「下手にあがくと玉なしになるぞ。どうせ墨屋敷の財宝を灰にして、破れかぶれになっている旅川周馬だ。さ、おれに指でもさすなら、差してみろ、その代りにゃ、貴様が一足ふみ出す前に、お千絵の咽笛を突きぬいてくれる」  ハッと思ったが、万吉は、ただちにそれが、周馬の狡い脅しにすぎないことをみやぶった。 「ふざけた真似をするなッ」  鋭い気構えを見せて、彼の小太刀を、十手で叩き落そうとしながら、ジリジリと近寄って行ったが、今度は旅川周馬、あとへも退かずにニヤリと白い歯を見せた。  と──思うといつの間にか、万吉の後ろへ、ぬウと立ったお十夜が、そぼろ助広に手をかけて、据物斬り! 息を計っていたのである。  あッ!  声と、剣と、孫兵衛の気合い。  三ツの力が瞬間にそこを割って、ほとばしった孫兵衛の切ッ尖から、あやうくも、髪の毛一すじの命拾いをした目明し万吉、 「ちイッ……畜生!」  歯軋りをかんだが、力の相違はぜひもなく、りゅうと、しごきなおしてくる孫兵衛の銀蛇に追われて、タタタタタ……と十歩、二十歩。  追い詰められた土壇場である。 「かッ! ……」と、孫兵衛が口を曲げた。  含み気合いに斬りつけた、片手伸ばしの助広の切ッ先へ、ザ──ッと揚がったのは血けむりではなかった、神田川の水しぶき──。  足をすべらして、目明し万吉、真ッ逆さまに落ち込んだのである。大きな波紋が蛇の目を描く……。  それを見捨てて、お十夜と旅川周馬は、思いがけなく取り戻したお綱とお千絵とを、これからどこへ運んで行こうか──と、暗闇に立ってコソコソ相談しはじめた。 「お綱は?」  と、周馬は義理でたずねると、孫兵衛は刀を鞘に納めながら、 「ちょっと当身をくれておいた」  悦に入った顔である。もう、あの女はどこへ持って行こうが、どうしようが、完全におれのものだと安んじているものらしい。 「それはよかった。だが、万吉とかいう奴は? ……大丈夫だろうな」 「なアに、この寒さだ。川の水を食らって、たいがい凍え死んでしまうにきまっている。──ところで周馬、お前はその女を引っ抱えて、これからどこへ落ちつく気だ」 「なにしろ、かんじんな巣から焼け出されてしまったので、それにはこのほうも当惑いたした」 「まさか、お千絵様とかいう別嬪を抱いて、そこらへ野宿もできねえしなあ」 「しかたがないから、一時、喜撰風呂の奥でも借りて、そこへ隠しておくとしようか」 「永えことはおられねえが、それも一時の妙案だろう。女をきれいに洗い上げて、ゆっくり楽しむには誂え向きだ……。ウム。おれもお綱を連れて、一緒にそこへ落ちつくとしよう」 「だが、どうする、途中を?」  なるほど、いくら惚れた女にしても、あの通りな火事騒ぎの中を、背中に掛けて京橋まで歩いちゃ行かれなかった。 「どこかで駕屋を呼んでまいろう」 「待ちねえ。駕といやあ、さっきそこの鳥居側に、提灯が二つ見えていた筈だが……」 「えっ、駕が置いてあるッて」 「悪運の強い時には、何もかもトントン拍子というやつよ。ここは太田媛神社の境内だ、神様は粋をきかして、呼んでおいてくれたのだろう」 「なにしろ、時にとってありがたい。どこだ、その駕は?」  二人はノソノソと歩き出した。  周馬はお千絵を引っ抱え、お十夜は当身をくれたお綱の体を抱いている。  鳥居につづく玉垣の蔭、そこに、なるほど最前から、二挺の駕がすえてあった。  提灯は灯っているが、駕屋もいず、垂れもシンと下ろしてあるところをみると、そこらへ来かかった者が、火事に道をさえぎられて、ここに避難したものか、或いは、不用意にここへ来た矢先、周馬とお十夜の暴行をみて、ビックリして駕屋が逃げてしまったものであろうか。  なにしろ、二人にとっては、渡りに舟。  周馬は先に、その一挺の駕へ寄り、お千絵の体を垂れの中へはねこんだ。そして、手早く細曳を引ッぱずして、駕のまわりを蜘蛛手にかがりだす。  と──後からお十夜も、その側にある駕へ寄って、片手にお綱の体を支え、片手で何の気もなく駕の垂れをはね上げたのである。  するとその途端に。  駕の中からヌッと出た手が、不意に、お十夜の足をさっとすくった。  一挺が空駕だったので、全く油断しきっていた孫兵衛、もろくも仰むけざまにひっくり返されたが、 「おのれ!」というと、助広を鞘走らせて、地へ腰をつくと同時に、手ははね上がった駕のすだれを、パラリと虚空へ向けて斬っていた。 「な、なに奴だッ」  さすがなお十夜孫兵衛も、立って身構えを取りなおしたものの、語勢ははなはだしく乱れている。 「周馬、手を貸せ、手を!」  こうあわてて息まくと、旅川周馬も驚いた。いくら悪党づきあいで狡く立ち廻っているとはいえ、まさかにここでこの場をはずしもならず、また得意な詭弁でゴマ化しているいとまもない。  ぜひなく周馬、ギラリと一刀を抜きつれた。 「おお、心得た」  剣の光をジリジリとよじらせて、お十夜と共に、怪しげな駕を挟み打ちに、左右から肉迫して行った。  で──二人は、中の奴が駕からヒョイと出たが最後と、充分大事な気構えを取っておいて、さて何者だろうか? と密かに相手をうかがってみると、向うの者は、一向静かなものごしである。  吾から、お十夜の足をすくい飛ばしたからには、それ相当な用意もあるべきに、ガタとも騒ぐ気色がない……。  見ると、駕の中にいることはたしかにいる──一人の侍。  ゆったりと駕蒲団に身を埋めて、怒りに燃えた二本の白刃が、身に迫りつつあることも、どこ吹く風かという様子でだ。かれは、深編笠の紐を結んでいるのである。  相手の者が、あまり落ちつきはらっているので、業を煮やしたお十夜が、 「ヤイ出ろ!」というと、 「お、ただ今──」  皮肉な答えと一緒に、駕の中から一本の鉄扇が、ヌーと二人の間へ伸びてきた。  それにしたがって、侍の体が、周馬と孫兵衛の斬りこみに充分な要意を備えながら、徐々と辷りだして駕の外へ立ち上がった。  孫兵衛の注文は見事にはずれてしまった。鉄扇の隙なき構え、立ち上がる間の気配り──どこにも斬りつける破綻がない。  ちイッ……この野郎! と孫兵衛は刀の背から鋭い目を通して相手を睨んだ。 「意趣か遺恨か、何でおれの足をすくった!」 「だまれ」 「何をッ」 「なんで足をすくったと問われる前に、なんでこのほうの駕へ無断で手をかけたか、それをこのほうから訊ねたい」 「ええ、小癪なッ──」と、応答の隙を狙って、周馬がいきなり切ッ尖を飛ばしてしまった。  空を斬ると編笠の侍は、右手の鉄扇に力をくれて、旅川周馬の顔をハタキつけた。こうなっては孫兵衛も、大事をとっていられない。 「おのれッ」と叫んでそぼろ助広を振りかぶった。──途端に、周馬を打った鉄扇が、ポンと返って、孫兵衛の目つぶしに飛んで来る。  顔をかわしたので、鉄扇は肩越しに通り抜けたが、刹那に、手元へ躍ってきた深編笠が、孫兵衛の肱を平手で打った。 「くそうッ」  勢いよくふり下ろしたが、切ッ尖の行き所は見事に狂っていた。あっ──と二の太刀、飛び退いて持ちなおそうとしたが、その腕首はもう相手にねばり強くつかまれていた。えい! えい! えい! 二、三度もぎ離そうとしたが、離れればこそ、足を割り込まれて将棋倒れに、デンとそこへ組み敷かれる。 「周馬! 周馬!」  苦しまぎれに助太刀を求めたが、相手が手強いと見たので、旅川周馬は、いつのまにか姿を隠してしまっている。 「周馬ッ……後ろを、後ろを」  もがく孫兵衛を押し伏せて、深編笠の侍、ウム、と何かうなずいた。 「最前から、どうも覚えのある奴と思ったが……果たしてそうじゃ。汝はこの夏頃まで、住吉村のぬきや屋敷にいたお十夜孫兵衛という浪人者だな」  胆をつぶして、下から笠の裡を覗いた途端に、孫兵衛、思わずブルブルッと身をふるわせた。しまった! そう感じたものらしい。右手に持っている助広の柄頭で、イヤという程、喉を締めている相手の腕を撲った。  襟の力が緩んだので孫兵衛は死に身になってはね返った。と一緒に、突き飛ばした深編笠の影へサッと斬りつけたが、かれも咄嗟に尺ばかりな物を懐から抜いて受けとめた。  小太刀かと見えたが、それは銀磨きの十手である。もぎりへ辷りこんだ孫兵衛の刃が、鏘然として火を降らした。  と、孫兵衛は、腕の筋へ稲妻が来たように、ブルブルとしびれを感じた。十手のもぎりに刀を絡み込まれたのである。あっ! と引っぱずしたがその刹那に、駄目だ! 歯が立つ相手ではない! こういう見きりをつけてしまった。  で、お十夜孫兵衛は、心に周馬の卑劣を憤りながら、やむなく、自分もそこを逃げだした。  編笠の侍は、野袴の土をはらって後ろに立っていた。そして周馬が念入りにからげておいた駕の方を差し覗いて、 「オオ……やはりお千絵殿に相違ない」とうなずいた。  やがて駕屋を呼び立てると、その侍は、にわかにどこかへ向って息杖を急がせた──一挺の駕にはお千絵様の体をそのまま乗せ、後の駕には自身が乗って──  焔の空はまだ真ッ赤だ。  駿河台から蜿蜒と下町へのびた火は、その夜、川を越えて外神田の一角を焼き、東は勧学坂から小川町の火消屋敷を舐めつくし、丹後殿前の風呂屋町、雉子町あたりの脂粉の町も、春を控えてみじめに焼けた。  その火の海を遥かにみて、お千絵様をのせた二挺の駕、牛込見附から番町の台へ上ったが、さて、それから先はどこへ行ったか、皆目行方が知れなくなった。  倖いにして目明しの万吉は、墜ちた所が浅瀬であったので、やッと河から這い上がってきた。──けれどそこには、気を失っているお綱の姿を見出しただけで、お千絵様の姿は遂に見えなかったのである。 自来也鞘  こんな日に、気まぐれな返り花が咲くのであろう。めったにない、暖かな冬日和である。  神奈川宿の立場を出て、少しあるくと、左は鵙の啼く並木のままつづいて、右は松の途切れた所から、きれいな砂浜の眺めがひらけ、のたりのたりと波うつ浦が江戸まで六里。  風が東南風とみえて、寒色の海の青さもさまでには覚えない。ざこ場の小屋にも人影がなく、海草や貝がらや、蟹の甲羅などが陽に乾いていた。  と、どこかで、一節切の音が流れた……。  尺八は近くがよく、一節切は遠音がいい。さて、どこの風流子であろうかと思うまに、その音はふッと絶えてしまった。  やがてであった。  ふと見ると浦づたいに、江戸のほうへ向って、サク、サク、ときれいな砂へ草鞋のあとをつけて行く、一人の虚無僧の姿がみえる。  一節切の吹き人であろう。  それらしい竹を、紫金襴の笛袋へおさめて、平ぐけの帯の横へ刀のように差しこんで、そして、とある所へ立ち止まったかと思うと、かれの天蓋は、強い感慨に衝たれでもしたように、沖を眺めて動かなくなった。 「おお、江戸が見える! ……」  こうつぶやいたようである。  波に縒れ、波に散りひろがる陽のかげが、笠の下から虚無僧の顔へ映っている。白い腮、丹の如き唇──もっと深くさし覗くと凛とした明眸が、海をへだてた江戸の空を、じっとみつめているのであった。  何を思い耽っているのか、美男の虚無僧、そこにややしばらく忘我の態で立っていたが、やがてまた少し足を早めて、スタスタと立ち去って行く──。子安、生麦、鶴見、川崎──、浦づたいの道はそこで切れて、六郷川の渡舟──、乗合いの客はこんでいた。 「まったく、この年の暮へきて、えらいこッてございましたなあ」 「えらいにもなにも、お話にゃなりませんて」 「いッたい、どこが火元だったのでしょう?」 「さア、そいつはよく分りませんがね、なんでも怪し火だということで」 「怪し火……ふウン、まア魔火でございますな」 「そうでもなければ、あんな宵に、駿河台から外神田まで焼けッちまうなんて、ばかなことはありますまい。おまけに、小川町にはお火消屋敷があるんですからな」  合羽をきた旅の者と、風呂敷づつみを持った手代ふうの男。どうやら話は火事のことらしい。 「ちょッと伺いますが」  舷へあわただしく煙管をハタいて、横から口をだしたのは、とちめんや北八といったような、剽軽な顔をした男である。 「なんですか、どこかに火事でもあったんで?」 「知らないのかい、お前さんは」 「ちッとも。──いったい全体、その火事ってえのは、どこでいつの話なんです」 「ゆうべさ」 「へえ、ゆうべ?」 「しかも大火だ、おまけに目ぬきな神田から駿河台、あの辺のお屋敷町まで、この暮へきて焼け野が原だ」 「とすると──佐久間町あたりは、どんなものでござンしょう」 「まず、たいがい焼けたでしょうよ」 「ば、ばかにしてやがら」 「怒ったってしようがねえやな。お前さん、やっぱり神田かい?」 「その佐久間町の四ツ角でさ。願掛けがあって、大山の石尊様へお詣りに行ってきたんですからね、冗談じゃありませんや、神詣りに行った留守にまる焼けになっちまうなんて、そんな箆棒なチョボイチがあるもんじゃねえ。もし帰ってみてまる焼けになっていたら、この正月を控えてどうするンだと、女房子をつれて石尊様へ掛合いに行かなくッちゃならねえ。ねえ虚無僧さん──そんなものじゃありませんか」  と、側に腰をかけている虚無僧の方へ向って、その笠のうちを覗きこむようにいった。  渡しが六郷へつくと、舟の客はわれがちに陸へ上がった。神田大火の噂──駿河台も焼けたという話──などを小耳にはさんで、不安らしい色を浮かべていた虚無僧も一番あとから渡舟場を上がってきた。  そして、蒲田、鈴ヶ森、浜川と足を早めて、一歩一歩と江戸の府内へ急いでゆく。  心なしか浜川の海岸へ立って、ふたたび、江戸の方角をみると、大火の余燼がまだ残っているのであろうか、どんよりした黒いものがはるかな空をおおっている。  なんとも案じられて堪らなくなったかのごとく、品川へかかるやただちに宿役人らしい者の溜りの前に立って、 「ちと、ものを伺いまするが……」  と天蓋の縁へ指をかけた。 「はい、なんでございますな」 「昨夜御府内に、大火がありましたとやらでござるが……」 「さよう。ございました」 「駿河台の辺はどうでございましょう」 「焼けました」 「お茶の水の上にある組屋敷は?」 「組屋敷……というと?」 「大府の隠密方、甲賀組の家ばかりがあります所で」 「おお、あれも皆焼けたそうです」 「えっ、焼けましたか」 「そんなふうで」 「ウーム……」と思わず太い嘆息をもらして、茫然としてしまった。  この虚無僧こそは、いうまでもなく法月弦之丞、かれであった。  大阪表から東海道へ下ってきた──。かなり急いできたのである。  禅定寺峠の上で、あえない死を遂げた唐草銀五郎の真心にうごかされて、初志をひるがえした弦之丞は、まず、安治川の蜂須賀家の様子をほぼ見届け、阿波守が帰国する船出までを確かめて大急ぎに、江戸へ引っ返してきたのである。  江戸には、先に万吉をよこしてある。いずれ万吉はもうお千絵様と会って、銀五郎がああなったことや、また自分が来るべきことを、とうの昔に話して手筈をしているだろう──とばかり思ってここまで来た。  意外や、その墨屋敷は、前の夜の怪し火とやらで焼失したという。  もしお千絵殿の身に異変があったら、すべては水泡に帰してしまうがと、彼の心は気が気ではなくなった。何のために、二度と足をふむまいと誓った江戸へ、急いで帰る必要があるか、弦之丞の奮起はまったく徒労にならねばならぬ。  そうだ、かれは江戸へ帰るべき筈の人でなかった。終生、旅で暮らそうと誓っていた弦之丞である。銀五郎が死の刹那に、ああまでの熱と侠気とを見せてすがったればこそ、では──と、お千絵様のために、かれの意思をついで起ったのだ。でなければ、まだ五年も十年も、いや、あるいは死ぬまでも、一管の竹にわびしい心を託して普化の旅をつづけて終るつもりであった。  がしかし、神奈川の浦に立ち、品川の海辺に立って、江戸の姿を眺め、だんだんと御府内へ近づいてゆくにつれて、かれはなんともいえぬ愛着をよびさましていた。やはり郷土というものには、母性のような魅力がある。そこには仇があり、迫害があり、うるさい情実や陥穽があるにしても、土地そのものだけには懐かしまずにはいられない力がある。  ではなぜ、そんな親しみのある江戸を捨てたのであろう?  二度と、帰るまいとまでして、かれは求めて漂泊していたのか、深い理由がなければならない。  それは、なすべからざる恋をしたためにである。お千絵と恋をしたことが、かれを余儀なくそうさせた。  お千絵と恋をしたことが、なぜいけないかといえば、かの女は甲賀組の娘である。幕府の政策として、隠密方の者は、必ず、同役以外の者とは縁を結べぬ掟であった。  笹の間詰、お庭の者、などと称される隠密の役は、駿河台の甲賀組、四谷の伊賀組、牛込の根来組、こう三ヵ所に組屋敷があった。  いずれも柳営の出入り自由で、将軍家と会う時も、笹の間かお駕台とよぶ所で、直問直答のならわしである。いわば当時の御用探偵で将軍自身のささやきをうけて、疑わしき諸国の大名を探りに出るのであるから、一倍その機密のもれるのをおそれたのだ。で、この三組の者にかぎって、同役以外の家すじとの養子縁組が固く禁じられて、みな神文血判の御誓書を上げてある。  だのに──お千絵は恋をした。  弦之丞にとっても、それは、なすべからざる恋であった。  その恋は、旅川周馬に呪われて幕府の耳に入ることになり、かれが江戸に止まる以上は、かれの父法月一学の家も、またかれ自身も、恋人の身も亡びることになるのであった。  弦之丞が虚無僧寺にかくれ、そのまま旅へ去ったのは、こうした切ない理由からであった。 「とにかく急いでみるに如くはない。御府内へ入れば、なお詳しい様子も分り、いずれお千絵どのの安否もおよそ知れるであろう」  弦之丞は、茫然と気ぬけのしてゆく、吾とわが心に鞭を打った。  江戸朱引内の境、八ツ山下の木戸を通りこえたのは、やがてその日の七刻過ぎ──。  こうして、法月弦之丞は、いよいよ江戸へ着いたのである。  旅川周馬の脅威。  お十夜が恋の仇と寝刃をとぐ彼、そして、お綱の思いあくがれている彼の姿が、江戸の地へ立ったのである。  すると。 「おお、弦之丞だ」  と一歩、かれが江戸へ入るとすぐに、こういって、その姿を凝視した者がある。  その男は、高輪岸の支度茶屋に腰かけて、午ごろから、しきりに往来を見張っていたのであるが、弦之丞の過ぐるを見ると同時に、 「これ、茶代は置いたぞ」  あわててそこを飛びだした。  とも知るや知らずや、弦之丞は大木戸から裏通りへ入って、三田から芝のほうへ急いだ。  後からそれをつけて行った者は軽捷な旅いでたちで、まず服装のいい武芸者という風采、野袴を短くはき、熊谷笠をかぶり、腰には長めな大小をさし、それは朱色の自来也鞘であるように見られる。  弦之丞が右すれば右へ──辻で立ちどまれば止まり、歩めばそれに従いて歩みだすのである。いわゆる影の形に添うごとく、どこまでも後をつけまわして行った。  その者こそ、蜂須賀阿波守から、弦之丞を刺殺せよと命ぜられて、大阪表から後になり先になって、ここまで尾行してきた原士の天堂一角だ。  五十三次の宿駅をこえてくる間に、かれは幾度か、弦之丞の身に接近したが、遂にここまで斬りつける隙がなかった。  一角の目算ははずれていた。  相手の姿が江戸の雑沓へまぎれこむと、容易に討ち難くもあり、影もくらまされる怖れもあるので、ぜひとも、東海道を旅する間に、討ってしまうつもりでいたのが──とうとうそれを果たされなかった。 「今日こそ、どこかで──」  一角の殺意はしきりと動いていた。折から相手の弦之丞は、都合よく人通りのある道を避けて、芝の山内へ歩いてゆく様子──、増上寺の山内は、もうドップリと暮れていた。  と──先にゆく弦之丞は、 「また一角がつけて来るな……うるさい奴」  と、舌うちをした。  かれは後から身を狙っている刺客のあることを、とうに覚っていたのである。 「──はて、どうしてくりょう」  撒いて影をくらます思案をしているらしかった。ヒョイと立ち止まって後ろを見る──、と、後ろの一角も、素速く足を止めて物かげへ身を潜めた。  途端に、弦之丞は、何思ったか、増上寺の門内へ、ツイと身をひるがえして駈けこんだ。  以心伝心。  その挙動が飛鳥のようだったので、天堂一角はハッとした。 「あっ、これは油断がならぬ。弦之丞めは感づいているのだ。うぬ、見のがしてなるものか──」  早足に駈けだしてきて、石段の下へ身を潜め、そッと、中へ入った影を見送ってみると、そこは通りぬけのならぬ道だと知ったか、弦之丞らしい白衣天蓋の人影が、ふたたびこっちへ戻ってくる……。 「おお、今だ!」  と考えた一角は、ヒラリと山門の外に身を寄せて、刀の柄糸へしめりをくれた。  ピタリ、ピタリ……とこっちへ戻ってくる人の跫音。……と何気なく山門の外へ、ひょいと白い人影が出てきたので、天堂一角が、躍りかかッて、一刀の下に斬って伏せた。 「うッ──む……」  といって白衣の影は、肩の傷手をおさえたまま、天蓋をあおむけにして、よろよろと石畳の上へぶっ仆れた。  夜気にただよう血腥さい闇の中に、斬ッて曳いた一角の白刃と、しめた! という笑みに歪んだ顔とが、物凄く泛いて見えた。  不意を狙って、見事に相手を斬って仆したことは仆したが、いかにも、無造作だったことと、弦之丞にしては、余りにもろかったと気がついて、天堂一角、 「や、これは、いぶかしい」  と、すぐに自身の得意をあやしみだした。そして、虚空をつかんで仆れた者の側へ、血刀をさげてソッと寄って行った。  違っている。  虚無僧には違いないが、それは似ても似つかぬ別人であった。  とすると──弦之丞は、折よく山門の中から出て来る虚無僧があったので、尾行の眼をくらますために、わざと姿をそらしたに違いない。 「ええ、騙かられた」と一角は、われとわが不覚を罵りながら、地団駄をふんで、ふたたび相手のかげを血眼で探しはじめた。  そのころ。  一方の法月弦之丞は、御霊廟のわきの築土をヒラリと越えて、もうとっくに、芝の山内を駈け抜けていたのである。 「まず、これで一角の目も、当分の間は、自分を見つけだせぬであろう」と、かれの心は爽やかに晴れていた。  そして、疲れと寒さをこらえながら、その夜のうちに、駿河台まで辿ってきた。  見るにたえない焼け跡のさまが、荒涼として彼を迎えたのみである。  墨屋敷のあともなければ、お千絵様の姿もない……。  ここまで来たら、その人の安否や、難を避けている所も聞かれようかと、かすかな望みをつないできたのも空しかった。  余燼は消されつくしても、まだ人の不安と怖ろしい昨夜の騒ぎは消えていない。火消改めの提灯だの町与力の列だの、お布施米の小屋だのが、大変な混雑である。  その血眼の人たちに、お千絵の消息をたずねたところで、もとより分かる筈がないのは知れていた。で弦之丞は、「ぜひがない……」と、空しい諦めの心をいだいて、何物もない闇を茫然と見つめていた。  すると、自分の立っている所から、四、五間ほど離れた所にも、同じように、茫然たるかたちで、立ちすくんでいる者があった。  二人の侍である。  二人は腕ぐみをして突っ立ったまま、石のように肩を並べて、いつまでも、黙然として焼跡を眺めていた。  そのうちに、チラ、チラと白いものが空から落ちてきた。  雪である──牡丹雪が降ってきた。  でもまだ、向うの二人は立っていた。弦之丞も立っていた。 「ウム。そこにいるのは、やはり家を失ったこの辺の組屋敷の者であろう……。同じ甲賀組の者とすれば、多少のことは分るかも知れない」こう思って、弦之丞は、しずかに側へ歩み寄った。 「少々、おたずね致しますが……」  二人の侍は虚無僧ずれの会釈をうるさく思うのか、または、焼け出された憂いに暗然としていて耳に入らぬのか、それにも答えず、チラチラと、顔や袖にかかる雪も払わずに立っていた。 「おたずね致しますが……」  もう一度こういうと、 「なんだ」  と、にべもなく、端の一人がふり向いた。 「まことに失礼なことを伺いまするが、やはり貴公方は、甲賀組のお武家でござりますか」 「なに?」 「焼けた組屋敷のお人でござるか」 「そうだ」 「おお、それならば、或いはご承知ではござりますまいか? ……」 「何をじゃ」 「組屋敷のうちでは第一の旧家──世阿弥殿の娘お千絵と申す者の行方を?」 「や、お千絵を!」 「はい」 「貴様、たずねているのか」 「いかにも」  と弦之丞が、ふと天蓋の小縁をあげて、その侍の顔を覗いた刹那である。  ほとんど、双方が一緒に、 「おお!」 「あっ!」  とおどろいて、火と水とが触れ合ったように弾き返った。  と──弦之丞が、次の言葉をかける間もあらばこそ、怪しげな二人の侍──霏々とふる雪のあなたへ、脱兎のごとく逃げだしてゆく──。  家のうつばりがミシリミシリと軋むほかは、音もなく降り通していたゆうべの大雪。今朝は厚ぼったく積っていた。  カラン、カタンと、小桶の音。  喜撰風呂のざくろ口には、もう湯気の中に洒落本のだじゃれをまる呑みにしているような、きざで通がりで、ケチで、色男ぶった糸びん頭の怠け者が、ふさ楊子をくわえて真っ赤にゆだりながら、 「アアいい気持だ、どうも、こたえられねえ」 「朝風呂はオツでげす」 「この雪を見ちゃ、また今日も帰られませんて」 「おぬしの買った女はなんという湯女だっけ」 「エヘヘヘヘヘ」 「いやに納まってるじゃねえか。浅黄はおよしよ」 「どうも、すみません。なんしろここに来ると、めっきり痩せてしまうんで、やりきれませんて」  などと、神田界隈では、この大雪に焼け出された人々が路頭に凍えているのも思わずに、いけしゃアしゃアと、気のいいことを吐かしている。  客を相手に夜をふかして、まだねむたげな湯女たちは、しどけない寝乱れ姿で板の間の雑巾がけ、暖簾口の水そうじ、雪をかいたあとへ盛塩を積んで、 「オオ寒い、まだ降ってるよ」  とあわてて重い戸を閉める。  朱塗の広蓋へ、ゆうべの皿小鉢や徳利をガチャガチャさせて、またそこへ、だらしのない女が二階から持って降りてくる。 「どうしたの、奥は?」 「まだ寝ているんだよ」 「今日もいるつもりかしら?」 「なんだか知らないけれど、二人とも、神田で焼け出されて宿なしになったんだから、ここで正月をするっていっていたよ」 「ああ、そういえば旅川さん、あの人は駿河台とかいっていたから、ほんとに焼けだされてしまったのかもしれない」 「だけれど、もう一人のお十夜さんとかっていうお浪人、何だろうあの人は、気味の悪いお侍だね」 「額風呂へきて泊りながら、ちっとも風呂へ入らないじゃないか」 「なに、入ることは入るんだよ。だがね……それもいつでも仕舞風呂さ、そして流しの戸口を閉めきって、誰もいない時にだけ入るんだから、まったく妙ちくりんじゃあないの」 「だれ? あの人へ出ているのは」 「いやだね、まア」 「あら、お前さん」 「ああ」 「よかったね」 「おからかいでないよ、ひとを!」 「だって、まんざらな男振りじゃないじゃあないか」 「だれかに代って貰いたいよ」 「どうしてさ」 「怖くって……なんとなく怖くって」 「人みしりをする柄でもない癖に」 「だけれど、恐ろしい声をだして寝言をいうんだよ。女の名を呼んでね、そうかと思うと、人でも斬りそうな呻き声を出すし……。まだそればかりじゃない、あのお十夜頭巾を、寝てまでとったためしがないんだもの……」  梯子段をふむ音がしたので、二人の湯女はびっくりして奥のほうへ隠れてしまった。だが、そこへ来たのは噂をしていた者ではなく、丹前を着た別なお客、太り肉でいい年をして、トロンとした目で手拭を探している。よくもよくもこの家の軒下には、やくたいもない人間ばかりがたむろをしているとみえて、ひょこひょこと出てくる者が、一人としてロクな人物ではない。  ひとつ二階を覗いてみようか。  梯子を上がると鐚文部屋、ビタモン部屋というのは小銭百文か二百文で湯札を買って、半日ここで湯気をさまして遊んでいる、金にならないお客をさす湯女の悪口。碁、将棋、貸本、細見などが散らかっているが、ここは七刻限りといって夕方は追い出しとなり、夜は屏風を立て廻して、ボロ三味線に下手な甚句や弄斎節がはじまるのである。  あとは小部屋がいくつもある。  その一番奥のかけ離れた二間つづき、裏梯子があるので人と顔を合せずに出入りができるので、喜撰では特別いい部屋としてある。  そこには、お十夜と、そして周馬。  いろんなことのあてが外れて、少しばかり、やけのやん八気味──けさもまだ起きないで、 「雪の一丈もふればいい」  と、フテ寝をしている恰好である。 「おい、周馬」  夜具の中から首をだして、こういったのはお十夜である。体を腹ンばいにして枕の上に顎をのせ、朱羅宇のきせるで、 「まだ寝ているのか」  と側にいる周馬のふとんをソッと突いた。  湯女の開けて行った小窓の障子は、こんにゃく色に明るくなっているが、世間の音もしない雪の日は、朝とも昼ともケジメがつかない。 「もう眼をさましたらどうだ」  というと、不承不承に、 「うむ? ……」  と周馬は、ふとんを猫の背のようにして、ムクムクとこっちを向いた。  総髪の毛が寝くたれて、にきびだらけの顔の脂肪にこびりつき、二日酔いの赤い目を、渋そうにしばたたいたかれの顔は、けだし女性に好意をもたれる顔でなく、いかにも手のつけられない都会の青年武士が、恋と慾の幻滅で、やけのやん八、どうでもなれという顔だ。  まだその時代には、耽溺という字がなかった。だが、そんな按配が二人の今の気持だろう。 「どうだい、お十夜」 「なにが」 「考えついたかってことよ」 「ウム、あいつか」と、煙管の口を前歯に鳴らして、 「やっと思いついた、分ったよ」  こういって後は眉をしわめたまま黙ってしまった。  あいつという符牒は、無論、大火の夜に、駕のなかからヌッと鉄扇を出した侍を指すので、それを考えあぐねていたのである。 「分ったと?」と周馬がやっと眼をさました声を出す。 「ウン」 「誰だ。なにせよ、よほどな腕達者だ」 「ありゃ、常木鴻山という、元天満与力をしていた奴にちげえねえ」 「ふウん。そいつが、何で江戸表へ来ているのだ」 「おれにも合点がゆかねえが、たったいっぺん……そうだ、住吉村のぬきやの巣にいた時、あいつに踏み込まれたことがある」 「とすると、何かを探しに来ているのかな」 「まさか、俺をつけているのでもあるめえ」 「しかし、お千絵とお綱の二人は、いったいどうしてしまったろうな。そのほうが眼目だ」 「あの後で、太田媛神社の境内へ行ってみたが、駕もなければ二人の姿もみえず、まったく、何が何やら判断がつかなくなった」 「その鴻山とかいうやつが、どこかへ連れて行ったのではないか」 「まずそう考えるより思案がない」 「弱ったなあ」 「当分はお綱の行方を探し廻らなけりゃならねえ」 「身どもはお千絵をつきとめる」 「わかるかい」 「広いようでも江戸の中なら、きっと知れるにきまっている」 「じゃあ、余りあせらぬことにしよう」と、孫兵衛、腹ばいがくたびれたので、ゴロと仰むけに寝ざまを変えたが、まだ起き出そうという気は出ずに、じっと天井へ眼を向けている。  周馬も、それを真似して仰むけになる。  しばらくは、どっちからも口を開かずに、沈思黙考、天井板と相談をしているというふうである。  雪の日だ。悪智をめぐらす頭も、自然にシンと落ちついてくるらしい。 「ウーム……」やがて周馬がこう唸った。 「どうした?」 「凶兆歴々。どうも吾々の前途は暗いな」 「ばかいやがれ」  お十夜が、肯んぜない。 「イヤしかし、ゆうべも焼け跡で、現に、法月弦之丞の姿を見かけたではないか」 「あんなに肝を消して、逃げる奴があるものか。そっちが泡を食って駈けだしたので、おれまで釣り込まれてしまったが、今度いい折があった時は、叩ッ斬ってしまうことだぜ。いいか周馬、また逃げ腰にならねえようにな」 「ムウ……」といって目を閉じたが、旅川周馬、悪党のくせに大火以来、また、弦之丞の姿を見たりしてから、少し神経衰弱のきみで、スッカリ気をめいらせてしまった。  空しい日が幾日か過ぎて、いよいよ年の瀬も押しつまってきた。喜撰風呂の奥にいるお十夜と周馬は、弦之丞を討つ機会をつかめずお綱やお千絵の消息も知れずに、ただ、いらいらと暮らしている。今日も二人は酔っていた。そのご機嫌を見計らって、取りまきの湯女のお勘とお千代が、しきりに浅草の景気をそそったので、つい、駕を四つあつらえてしまった。  茶屋町で駕を降りる──そして二人は二人の湯女を連れて、いい身分でもありそうに、仲店から観音堂の界隈へわたる、羽子板市のすばらしい景気の雰囲気につつまれて行った。 「あら、いいこと」 「もう、ふるいつきたいねエ」 「成田屋の暫──」 「あたい、浜村屋が好きさ、菊之丞の女鳴神──当たったねえ、あの狂言は」 「佐野川万菊、悪くないね」 「あれは?」 「宗十郎じゃないか、梅の由兵衛だよ。あの由兵衛のかぶっている頭巾から、宗十郎頭巾というのが、今年の冬たいへんな流行になったンだとさ」 「オヤ、お十夜さんみたいだね」  湯女のお勘とお千代が、こくめいに、端から一軒ごとに見て歩くので、周馬と孫兵衛は、つまらない所へ来たものだと、今さら人に揉まれて後悔している。こういう所へ来ると、女を連れてきた男は、いつも女の随属になって、吾ながらテレた顔を撫でているよりほかはない。 「あれは誰だろう。見かけない役者だねえ」  お勘がまた立ち止まって指さしたのを、不思議に、お十夜だけが知っていた。  で、少し得意に、 「あれか、ありゃ大阪の姉川新四郎よ」 「自来也ですね」 「新四郎の自来也ときては、もう古いものだ。今頃江戸の市へ出るなんて……」 「へえ、そんなに当たり役?」 「あの押絵の自来也がさしている朱塗の荒きざみの鞘は、新四郎の自来也が舞台でさして流行らせたものだ。で、阿波の侍でもさしている者がある」 「おや、じゃあお十夜さんの故郷は、阿波なんですね」 「はははは……つまらねえところで、お里を出してしまったものだ」笑ってそこを立ち去った。  奈良茶飯か何かへ寄って、まだ少し早い支度をすましてから、観音堂を一周りして、さて、帰ろうかと、雷門から並木の方へブラブラと出てくると、湯女のお勘が、 「あら、さっきの人──」とつぶやいた。  わき見をしていた周馬が、それを聞きとがめて、 「だれだ、さっきの人というのは」 「いいえ、羽子板の自来也が歩いて行くから──」と、他愛のないことをいっている。 「なんだ、くだらない」 「だって、そっくりじゃありませんか、あの前へスタスタ行くお侍の姿が。笠といい、袴といい、そして何より差している刀が、押絵にあった自来也鞘と同じ物ですよ」 「そういわれてみると、江戸には見かけぬ珍しい朱鞘を差している」 「押絵が、抜けだして、市の景気に浮かれているんじゃないかしら……」 「まさか」と、お千代も周馬も笑ってしまった。  だが、孫兵衛は笑っていない。  お勘の見つけた自来也鞘の侍を、じっと見つめていたかと思うと、にわかに、 「周馬、おれはここで別れるから──一足先へ帰ってくれねえか」  プイとそれて、人と人との間を縫いながら、暮れかける町を足早に行く、自来也鞘のあとをつけて行った。 「オイ、天堂一角」  ふいに、肩を叩かれたので、 「おう」と、少しびっくりして振りかえった自来也鞘の侍。  熊谷笠を横に向けて──、この江戸表にこう親しく呼びかけられる者はない筈だが、と怪訝そうにしていたが、 「ウム。関屋孫兵衛か」  と膝を打って、踵をめぐらした。  関屋とはお十夜の本名である。かれも元は阿波の原士であるから、天堂一角とは、その当時の剣友か飲み友達であるらしい。 「奇遇だなあ」 「変ったなあ」  同じ言葉を投げあった。 「珍しい……何年ぶりになるであろう」 「もう、ざっと一昔だろう。なにしろ、おれが阿波を飛びだしてから、ぶらついているのも七、八年だ」 「では、いまだに御浪人か」 「不思議に食えてゆけるものだから、ツイ、この着流しがやめられねえのよ」 「縮緬ぞっきに雪駄ばきかなんぞで、たいそうりゅうとしているではないか」 「どうして、ふところ手をしている代りにゃ、暮がきても米一粒の的はねえ身だ。なかなか苦労があるンだよ。は、は、は、は……。そりゃそうと、九鬼弥助、森啓之助、あの連中はどうしているな?」 「弥助はこの秋、禅定寺峠という所で、間違いがあって落命いたした。だが、森啓之助の方は、只今お国詰めで相かわらずにやっている」 「そうか──そして貴公は」 「どうして分った?」 「あまり江戸で見かけない、自来也鞘をさしているので、ちょっと、ハテなと目をつけたのよ」 「ウム、なるほど、これは自分でも気がつかずにいたが、そういわれてみれば悪く目立つの」 「目立ったほうがいいじゃねえか。この江戸表という所は、剣術使いは使い手らしく、いい女はいいらしく、何でも人に目立たせなけりゃ損な所だ」 「それでは少し都合が悪い。実は、少しつけ狙っている者があるのだから」 「ふウむ……だいぶ話が面白そうだ。じゃあ一角、貴公は仇討にでも出ているのか?」 「なにさ、そんな読本物の筋ではない」 「じゃあ、どうなんだ」 「ちと、手軽には、話しかねる」 「水くせえことはよそうじゃねえか。おれも昔の関屋じゃねえ、お十夜孫兵衛とかっていう、妙な通り名をつけられて、少し垢抜けをしかけている人間だ。やくざ者はやくざなりに、打ち明けてくれりゃ、力にもなろうし、儲かることなら乗ってもいいし、また縁のない話なら、口外ご無用、それでアバヨとしようじゃねえか」 「それは、話さぬと申す訳ではないが、殿様より直命をうけてまいった大事……路傍ではちと畏れ多い気も致してな」 「と、いわれると、なお聞きたい」 「実は、お家にとって、生かしておけぬ一人の男をつけてきたのじゃ」 「男だけでは分らねえが……それは?」 「──法月弦之丞というやつ」 「おい!」  いきなり腕くびをつかんできたので、一角はぎょッとした。 「なんだ」 「法月弦之丞?」 「いかにも」 「ちょッとこっちへ寄ろうじゃねえか。ここは土手へ出る馬道の本通りだ、吉原へゆく四ツ手や人通りが多くって、おちおち話もしていられない」  と、手を引っ張って、人気のない所へしゃがみこんだ。隅田川の西河岸である。  猪牙舟がのぼる──猪牙舟がくだる──。  吉原がよいの舟である。  川向うは三囲の土手、枕橋から向島はちょうど墨絵の夕べである。宵闇を縫って、チラチラ飛んでゆく駕の灯も見えだしたが、まだ空も明るく川も明るかった。  陸へ上がった水鳥のように、そこへしゃがみこんだ十夜頭巾と自来也鞘。  だいぶ話に実が入ったとみえて、陽の落ちたのを忘れていたが、やがて孫兵衛が、 「いや、そういうわけか……」  と、聞き終って、腕組みをした両の袖に、三ツ鱗の紋が白く浮く。 「今話したこと──なにせよ、阿波の大秘事でござる。必ずとも、他言してくれては困る」 「浪人はしても、おれも元は阿波の原士だ。なんで国元の秘密をペラペラしゃべるものか」  と、お十夜も、一角の口から大阪表のことを、聞けば聞くほど不思議な思いに、たえなかった。  旧主の阿波守をめぐって、影絵のごとく動いている、法月弦之丞をはじめ常木鴻山や目明しの万吉や、それはみな、自分と妙な因縁をもっている者ばかりで、一角の話がいちいち自分の過去であるのが妙である。  それのみか。  聞けば天堂一角も、阿波守の内命を受けて、どこまでも弦之丞の命を絶たんために、この江戸表までつけてきたのだというから、かれはいよいよ驚きもし、また乗気にもなった。  これはまったく、何かの巡りあわせみたいなものである。──旅川周馬、天堂一角、そして、おれ自身──期せずして弦之丞を殺害せんとする者が、ここで三人数えられる。いよいよ事成就の前兆だ。  これは一つ、天堂一角に出世の蔓をつかませる態にケシかけて、喜撰風呂へ連れこんでやろう──こうお十夜は考えた。  そこで周馬にひきあわせる。  ざッくばらんに話しあう。  話は早いだろう──目的は一つだ。  弦之丞を、暗殺か、惨殺か、どっちみち片づけてしまうことが、三人ともに一致しているから、すこぶる都合がいい。  ばらした上の報酬は。  おれはお綱を自由にする。周馬はお千絵を探して勝手にするだろう。そして一角は、国元へ帰ってこの由を阿波守へ報告する。莫大な恩賞と加増と面目をほどこすのは分りきったこと、これもずいぶん悪くない。 「うむ、一角」 「なんだ」 「その話なら安心しろ」  天堂一角は、まだ自分の目的を洩らしただけで、孫兵衛のほうの話はきいていないので、何を安心していいのか分らなかった。 「三人組だ。おめえと俺と旅川周馬と」 「周馬? それは一体何者なのだ」 「まあいいから、俺と一緒に桜新道の喜撰風呂まで来るさ。そこでその男にもひきあわせるし、うまい相談もしようじゃねえか」 「いや、拙者は一刻も早く、見失った弦之丞の宿だけでも突きとめねばならぬせわしい体、これでご免をこうむるといたそう」 「野暮をいうなよ、湯女遊びをすすめるのじゃねえ、底を割って話すと、この孫兵衛も、そこにいる周馬という男も、少し仔細があって、弦之丞めをつけ狙っていたところなのだ」 「えっ、きゃつを?」 「だから、ひとつ三人組で、それを相談しようというのだ」と、熱を上げて説きつけていると、ちょうどそこの河岸ッぷちへ、バラバラと駈け寄ってきた二人の子供。  見ると、お獅子の姉弟である。  きょうも角兵衛を稼いで、家へ帰る途中だろうに、そこらの小石を拾い取ったかと思うと、 「──二アつ切った──」 「三ツ切った!」 「──こんどは四ツ」  掬い投げに小石を打って、その小石が川の面を、つッ──つッ──と千鳥に水をかすって飛ぶ数をかぞえて興がりだした。 「えい、びっくりした」と、お十夜が睨みつけると、その血相に縮みあがって、逃げだしながら、お三輪と乙吉。 「こわいおじさん」 「泥棒ずきん」 「ずきん流行はロクでもない」 「ないしょ話はみな聞いた」 「いいこと聞いた、二度聞いた」 「三度目にゃア忘アすれた」 「四たび目にゃ言いつけた──」  かわりばんこに歌いつづけて、ドンドン向うへ行ってしまった。 見返り柳  目明しの万吉は、その後もたえず駿河台の焼け跡に立ち廻っていた。  暮から正月の二日をおいて、明けて──明和三年となった四日目のこと。  鉄砲笊をかつがずに、素のままの姿で、今日も万吉が例の焼け跡へ来てみると、そこに果たして、彼がこの間うちから心待ちにしていた消息があった。  人目につかぬ石塀の隅へ、消し炭で書いてあった文字である。それは、法月弦之丞が、自分へ意思を伝えようとしたものであるのはあきらかであった。  ==予は江戸に着いて、お千絵どのの居所を求めつつあり。また予をたずねんとする者は、下谷一月寺、普化宗関東支配所にて問われなば知れん==。としてある。「うむ。弦之丞様も、やっぱりこっちで察していた通り、江戸へ着いて迷っているのだ」  万吉は、それを読むとすぐに引っ返してきた。  かれの心は、一刻も早く、一月寺の支配所へ急いでいたが、大火の晩以来、万吉も妻恋の家へ身を寄せていたので、とにかく、お綱にもこのよろこびを早く知らしてやる義務があると思った。 「いるかい?」  と、少しはずんだ足どりで、お綱の家の門口を開けて入ると、 「おや、万吉さん──」  奥の長火鉢で、何か考えこんでいたらしいお綱が、猫板から肘を離して、いきいきとした万吉の顔色を見つめた。 「お綱、よろこんでくれ、やっと一方の目星がついた」 「そうですか、じゃああの晩、お千絵様を連れて行った者が誰だか、その見当がついたのですね?」 「なにさ、そのほうは残念ながら、まだ手懸りはねえんだが、いい按配に、弦之丞様の居所がやっと分った」 「あら法月さんの? ……」  お綱の顔に美しい赤味がさした。  年の暮の火難から、怖ろしいあの夜の出来ごと──倖いに、万吉に助けられて、この妻恋の家へ帰って正気づいたものの、お綱は今年ばかりは暮も元日も夢のように何も手がつかないのであった。  だが──今万吉の口からよろこばしい便りを聞いて、初めて、お綱の心と顔が、福寿草のように明るく笑った。 「まあ、それが本当なら、これで一つの苦労はとけたというもの……、早く弦之丞様にお目にかかって、何かの相談をしようじゃありませんか」 「──で、すぐにこれから、一月寺の支配所へ、訪ねて行こうと思うんだが……」 「じゃあ、私も一緒に行きましょうよ」お綱は手早く支度をした。そして、羽織は着ずに、葡萄染の縮緬頭巾をかぶり、火鉢の側の煙草入れを帯に挟んだ。  万吉は、にわかにはずんで、いそいそとするお綱の気持がよく分った。そして、それを拒むことはできないのである。 「お前がお千絵様を救いだしてくれれば、おれも、どんなことでも力を貸してやろうじゃねえか」と、墨屋敷の窓の所で、固く約束したことがある。そのために、お綱は命がけで、あの屋敷の穴蔵部屋へまで身を墜したのだ。よしや今ここに、お千絵が完全に助けきれていないにしても、その約束を破ることはできなかった。 「困ったなあ……」  口には出さないが、万吉は心の底で呻いていた。──とんだ約束をしてしまったものだ──と今さら後悔するのでもあった。  やがて、弦之丞に会った時、お綱から、約束を迫られて、恋の橋渡しをせがまれた時には、さて、どうして諦めさしたものだろう?  実をいうと万吉は、今度のいきさつがあってから、お綱の気性を見込んで、すべての真相を残らず打ち明けていたのである。  だが──たった一つ、弦之丞とお千絵との仲だけは話さなかった。それは、それを話す前に、お綱の方から先に、切ない胸を打ち明けられてしまったから──。  お綱はまた、自分の胸だけで、どこまでも、弦之丞や万吉たちの、阿波の密事をさぐるという目的のために、力を貸そうと誓っていた。  万吉から、いろいろな話を聞いた時に、かれはどんなに、自分の罪を怖ろしく思ったろう。天王寺で掏り取った紙入れ一つが、やがて多市の死となり、銀五郎の最期となり、ひいてはこの江戸の空へまで、幾多の怖ろしい禍いを波及してきた。  それは皆、自分のこの指がしたいたずらから起った罪だ。お綱は初めてスリという商売の何と怖ろしい悪業かということを知った。そして、唐草銀五郎にも弦之丞にも、それを何よりすまなく考えてきた。  これから後は、見返りお綱の命にかけても、その罪を償わなければならないという、けなげな意気を持たずにはおられなかった。  それはまた、弦之丞へひそかに寄せる恋の力もあるので、鉄石のように強かった。  妻恋からお成道へ出て、二人は無口に歩きつづけた。お綱のいそいそと燃えてゆく気持は、自然と足を早くさせ、万吉が密かに持つ苦労は、ともすると遅れがちの足どりになった。そしてやがて、  普化宗江戸番所、一月寺末頭──  山門の札を読んで立った二人は静かな寺内へ入って、松の多い境内を見廻した。ここは、勤詮派の虚無僧が足だよりとする宿寺であるので、境内へ入ると、稽古の尺八や一節切の音がゆかしくもれて聞こえた。  万吉が訪れて、ここに、法月弦之丞という者が、宿泊しているかどうかという由をただすと、院代の者が寄宿帳を繰ってみて、 「うむ……法月弦之丞……寄竹派の者でござるが、都合によってお泊め申してある。どういう御用向きでござりますな」 「じゃあ、たしかにおいででございますか──」  万吉は初めてホッと安心した。  お綱はそのうしろに待ちながら、もう、奥から洩れる一節切の音に、吾を覚えず胸騒ぎをさせていた。 「──では、まことに恐れいりますが、万吉という者がお目にかかりにまいったとお取次ぎ願います。へい、万吉とさえおっしゃって下さりゃ、ご存じの筈でございますから」 「ああさようでござるか。では、六刻過ぎに出なおしてお訪ね下さい。その御人は、今朝から市中へ合力に出ておられます」 「へえ、では今はお留守でございますか」 「夕景には戻られるであろう。戻った節にはお言伝いたしておく」 「じゃあ、またその頃に伺いますから……」二人は是非なくそこを出てきた。けれど、それは軽い失望にもあたらぬものであった。むしろ、久しぶりで、さまざまな話したいことを持って会うには、会うという楽しみと心のゆとりをつけておくに好ましい時間であった。 「これから妻恋の家へ帰って、また出なおすほどの間もねえから、そこらで飯でも食べて待ちあわせようじゃありませんか」 「そうだね……」とお綱もちょっと首をひねって、 「じゃあ、私の行きつけた家があるから、池の端まであるいてくれないか」 「江戸のことは他人任せがいい、どこへでもお供をしますよ」 「お供なんていわれちゃ気恥かしいけれど、やはり食べ物はあの辺がいいから……。それに、弦之丞様に会う前に、改めて私から、お前さんに頼んでおきたいこともあるし」  万吉の胸底へ、その言葉が強くひびいた。  あの時の約束をふんでくれ、そして弦之丞との恋をとりもってくれ──こう迫られるに違いない。  二人の姿は、まもなく、不忍の池を見晴らした蓮見茶屋に上がっていた。  日が暮れたら、もう一度弦之丞をたずねる筈なので、酔うまいと気を締めていながら、蓮見茶屋で二、三本の銚子をかえている間に、お綱もホンノリと耳を染め、万吉もポッと赤い顔色をしてきた。 「勘定を払って、そろそろ出ようじゃないか」 「だって、今から行ったところで」  お綱は座敷の障子を細目にあけて、 「ごらんな、陽があたっているじゃないか」 「待つという時刻は永えものだ」 「それよりは万吉さん、これから、私が一つたずねたいことがあるんだから、まあ、もう少し腰を落ちつけておくれなね」 「うむ、そりゃ何でも聞くけれど……」と万吉、飲めない口のくせにまたうっかり一盃ほして、 「おれにゃあおよそ分っている」と独りでうなずいたものである。 「分っている? まあ、八卦屋さんみたいだこと」 「そりゃあ、ヘボにしろ目明しの万吉だ。お前がおれにはッきりと話しておきてえことというのは、いつか墨屋敷の窓の下で、お千絵様さえ見つけてくれたら俺も何なりと相談相手になるといった、あの約束をふんで、弦之丞様へ、お前の恋を取次いでくれというのだろう。どうだお綱……」 「万吉さん……」お綱は酒の上の頬に紅を増して、「……察しておくんなさいよ」  繻子の襟へあごを埋めて、聞こえぬほどな声でいった。 「だが……そのことは、もう少し時機を待っていねえ。な、いつかもお前に話したように、弦之丞様は本来なら法月一学という大番組頭の御子息だ。恋に身分の分けへだてはねえにせよ、一方には、おめえも知っている通り、これから俺たちと手筈をあわして、阿波の本国へ忍び込んで、蜂須賀家の内部をすっかり探りきわめてしまおうという大望のある人だ」 「ええ、そりゃあもう、深い事情を伺っておりますから、今が今とはいいませんけれど……。どうか、その末になった後にでようござんすから、私という気のねじけた女、日蔭の女を救うと思って……」 「そりゃ、いつか一度は話してみるがね……」 「浮いた話じゃございません、真から思っているのでござんす。心の底から、今の私を打ちなおしたい、見返りお綱の根性を、真人間に近づけたいと──がらにもなく苦しんでいるのでございますから」  帯の間へ手を入れて、石のようにこわばったお綱の物言いぶりが、あまりにも真味に迫っているので、よいほどにあしらっていられない責任感が、万吉の心をまで、締木にかけてきたのである。 「ふうむ……、するとなにか、お前は今の自分というものを、本当に、ねじけた女だ、浅ましい境界だ──イヤ、もっとはッきりいえば、外道の渡世をしている女スリだということを、自分で恥じる気になってきているのか」 「天王寺で掏った紙入れ一つが、あんなにまで、多くの人へ迷惑をかけた因果を聞かないうちは、まだそんなにまでは思いませんでしたが、江戸へ帰った後にお前さんから、いろいろな話を打ち明けられてみて、初めてスリという渡世が、自分ながら怖ろしくなったんです。万吉さん、私ゃあ、今度かぎり、きッと悪事の足は洗うつもり──そしてその罪滅ぼしに、及ばずながら弦之丞様が望みを遂げなさるまで、この身を粉にしてもいいとまで、ひとりで覚悟をしております」 「うむ、なるほどなア! そうなくっちゃならねえ筈だ」と万吉も、お綱が悔悟した真情に衝たれて、思わずこう共鳴してしまったが、そうなるといよいよかれは、お綱がスリの足を洗うためにも、あの約束を固く守ってやらなければならない負担を強く感じる。事実、こうした性悪の女を、その本然な純情へ立ちかえらせてやるには、神の力よりも、仏の功力よりも、はたまた、幾度とない獄吏の責めよりも、ただ一人のよき恋人が手を取って明るい道へいざなってやるにかぎる。  お綱はそうして、怖ろしい魔道から救われたいと思った。自分だけの悔悟や意志ではなおりきれない悪心の習性も、弦之丞のそばにいたら、きッと、子供の昔に返って、まじめな女に帰れるに違いないと信じられた。  自分だとて──女スリのお綱だとても──まだ若い女だもの。  奥座敷の客が呼びこんだのであろう、初春らしい太神楽のお囃子が鳴りだした。  外には羽子の音、万歳の鼓──。そして、ふと万吉の耳に、角兵衛獅子の寒げな太鼓が耳についた。  楊子をくわえて、二人が茶屋の軒を出たのは、それから間もないことであった。ちょうど、陽もころあいに暮れてきた時分──。  すると、その出合いがしらに忍川の方から、いっさんに、バラバラッと駈けてきた二人の角兵衛獅子があった。  オヤ? と目をみはっていると、すぐ駈けつづいてきた三人の浪人に追い詰められて、向うの空地でヒーッという悲鳴を揚げた。  いきなり、殴りつけられたものらしい。 「ごめんなさい! ご免なさい! ……」という泣き声まじりに、おさないお獅子が二人、地べたへ蹴仆されていた。 「なんだなんだ、喧嘩か」 「喧嘩じゃねえ、いつも来る角兵衛獅子だ」 「可哀そうに、無礼打だ、浪人に何かして斬られるところだ」などと、もう口々にいって、それを見かけたあたりの弥次馬が、ワラワラと寄って人垣を作る。  万吉は足をすくませて、 「お! ありゃいつぞや、外神田の飯屋で見かけた、お三輪と乙吉──」  思いあたって、お綱の顔色をソッと覗くと、お綱も酒の気をさまして、まっ青になっていた。 「万吉さん、ちょッと待っていておくれな」眼色を変えて駈けだしたので、かれもただちに、 「おれも行く!」  こういって後から続いた。  が、すでにそこには、寄っても付けない人だかりとなっていた。角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、蹴仆されたまま土まみれとなって、オイオイ泣き声をあげている様子。 「この餓鬼め!」と、その上にも土足をあげて、この抵抗力のない姉弟をさいなんでいる三人組の浪人は、よりによってたくましい者ばかりだ。ふと見ると、それは自来也鞘をおびた天堂一角と、総髪の旅川周馬とお十夜孫兵衛なのである。 「まあ、いい加減にゆるしてやれ」  あまり人だかりがしてきたので、周馬がこういうと、孫兵衛は頑として、 「いいや、いけねえ」と、姉弟の襟がみを両の手に吊るして、 「今日だけのことならとにかく、いつぞやも山の宿の河岸ッぷちで、おれと天堂一角との話を立ち聞きして、なにやら悪たいをついて逃げやがったのだ。これッ、あの時の角兵衛獅子も、たしかにてめえたちに違いなかろう」 「あッ──小父さん! かんにんして」 「ごめんなさい! ……あれーッ」  乙吉とお三輪が、金切り声をしぼって謝まるのを、お十夜は耳にも貸さないで、 「こいつめ、ヒイヒイいうとぶった斬るぞ。ではなぜ、今も今とて、向うの田楽屋で飲んでいたおれたちの後ろへ廻って、葭簀のかげから人の話をぬすみ聞きしていたのだ。このすれっからしめ、餓鬼だといって油断のならねえ奴だ」  そういえば三人とも、三橋の田楽屋で飲んでいたものか、少し酒気をおびているふうだ。泣き叫ぶお獅子の姉弟を軽々と引っさげて、なおも何か問いつめるつもりなのであろう。 「どけどけ」  と弥次馬を追いちらして、向うの森へ連れ込んで行こうとする。それを見ると無心な群集も、これを単なる路傍のものとばかり、興味に眺めてもおられないとみえて、 「あっ、誰か口をきいてやれよ」 「どうするんだ、お獅子が可哀そうじゃねえか。誰か助けてやらねえか、あれッ、連れて行かれてしまうぞ」 「試し斬りにされるんだ、試し斬りに──」口々に騒ぎたててはいるものの、相手が生やさしい御家人やなんぞと違って、いかにも一癖ありそうなのが、三人までも揃っているので、ただいたずらにわめいてみるにすぎないのである。  と──その混雑の中をくぐって、走り寄ってきた見返りお綱は、今しも孫兵衛や、一角の手に引きずられてゆくお獅子の姿を見ると、吾を忘れて、 「あッ──お三輪ちゃん」  肉親の愛情、その対手が何者であるかも目には止めないで、帯のあい首に手をやるが早いか、キラリと抜いたのを袖裏へ逆手に隠して、 「おい、お待ちッ!」と、癇走った声を投げた。  可憐な姉弟を取り返そうとする一心である。お綱がその時の血相の前には、お十夜の怖るべきことも、周馬や一角の太刀の凄みもなかった。  お綱が向う見ずに駈けだしたので、万吉は、あッと胆をつぶして、その後ろから力の限り抱き止めた。 「ど、どこへ行くんだ!」 「知れているじゃないか──。あれ、可哀そうに」 「まあ、待ちねえ。待ちねえッてことよ!」 「ええ畜生。ま、万吉さん──そんな悠長なことをしちゃいられない──今向うへ引きずられて行く姉弟は、ありゃ実の私の小さい妹弟なんだよ……」 「うむ、お三輪と乙吉──それがお前の親身だというこたあ、おれもうすうす知っているが、なにしろ対手がお十夜にまだ二人の連れがある。でなくてせえあいつらは、お前の姿を探し廻っているところだ」 「かまわない! かまわないから離しておくれ」 「ばかをいっちゃいけねえ、飢えた狼のような者の前へ、自分で餌になってゆく奴があるものか。イザといやあ俺だって、黙って眺めていやしねえから、まアも少し様子を見ていねえ」と、今の騒ぎに崩れだした人混みにまぎれて、万吉は、力の限りお綱の体を抱き止めていた。  すると、そのちりぢりになった人群の中から、ただ一人、足早に駈けぬけて、向うへゆくお十夜の三人組へ、「しばらく!」と声を打って響かせた者がある。と、すぐにバラバラッと追いついて行った。  鼠木綿の手甲脚絆に掛絡、天蓋。いうまでもなく虚無僧である。 「待て待て、浪人ども待て!」  こう浴びせかけたが、周馬も一角も、場所がらではあり白昼なので、知りつつ知らぬふりを装いながら、お三輪乙吉の背なかを突いて急ぎだすと、虚無僧はムッとした様子で、大股に寄るが早いか、今度は無言で、 「待てと申すにッ」  強く、孫兵衛の利腕をとって、いたいけな角兵衛獅子の姉弟を、かばうように左の手で後ろに寄せた。 「なにをするッ?」  周馬と一角が肘を並べて柄手をかける。虚無僧は冷然とそれを見すえて、 「あまりといえば不愍でござる。このいじらしい角兵衛獅子の姉弟──なんと、放しておやりなすッてはどうじゃ」 「やっ、てめえは⁉」  そういう横合いから、こうおめいたのはお十夜である。左右の手を綾にして不意に虚無僧の胸倉を引っとらえた。 「──おのれは法月弦之丞だな」 「なにッ、弦之丞だ?」  周馬と一角とは、その途端に、足元から白刃をずり上げられたように、パッと踏みのいて物々しい構えをとった。  こうなると、事はにわかで、お獅子の姉弟などは問題のほかである。お十夜たるものは、一たんねじ取った弦之丞の襟もとを、締めて攻めるか、投げて倒すか、あるいは腰の助広にものをいわすか、どッちみち、ただでは別れ難きいきさつとなってしまった。  だが、弦之丞はそうでない。あたりまえの態度である。  ニヤリとして天蓋を払った。  普化の作法として、とるべからざる天蓋をとったのは、間髪を思う心支度である筈だが、それが、白刃を渡す宣言とは思えぬほど、あくまで神妙に見せて脱いだのだった。  脱げば──フッサリと切り下げた根元、色糸で巻き締めたのが凛としている。かれが天性の色の白さも際だつのであるが、こう見くらべたところ、お十夜の色悪な、一角の魁偉な、周馬のにきびだらけの面相などとは、やや性格なり修養なりの奥行の差を現わしているように見える。  で、やんわりと棘をたてずに、お十夜の諸手を抜けて、法月弦之丞。 「おお、旅川周馬──天堂一角──お十夜孫兵衛殿──いずれも珍しいお揃いで」  と、いとニコやかに会釈をした。  すると、そこを離れた三橋の角では、やっと、お綱のはやり立つのを抱きとめていた万吉が、 「おや、ありゃあ弦之丞様じゃねえか」  地獄で仏のよろこばしさをそのままに、ここで幾月かの間、張りつめていた神経がいっぺんにゆるんで、膝ッ骨の蝶番いがクタクタになるかと思われると、お綱も遠見に気がついて、 「ああ、法月さんが──」と、思わず背を伸ばして、もう懐かしさをからませる。  だがしかし、それが弦之丞であると知ると、江戸の大道で、かくも明白に出会した仇と仇が、どうなりゆくのか、それも心配。  面と面とを向いあわせた途端に、ハッと思ったが、弦之丞の挨拶、意外にいんぎんであったので、かえって薄気味悪く思ったお十夜と一角とは、ひそかに鯉口を整えて、顔の筋を怖ろしげにこわばらせてしまった。  そこへゆくと、旅川周馬、腕に器量はないが人を食ってもいるし、鼻ッ先の機智もあるので、ギョッとした気振も見せずに、 「よう、法月氏か! 意外な所でお目にかかった。いつもご壮健か、イヤ、それは何より重畳、して、いつ江戸表へお帰りでござった」  久濶の情を誇張して、いかにも親しげな表情である。もう少し弦之丞が白い歯をみせれば、その図に乗って肩を叩き、あわよくば襟首にでもからみついてきそうな按配。  だが、もとより弦之丞は、このにきび侍の軽佻浮薄と邪心とを以前から見抜いている。ましてや、ここには蜂須賀家の天堂一角や、大阪表でチラチラ噂に聞いたお十夜という悪浪人まで道づれだ。  油断のならぬ三人連れである──。ははあ、さてはこの三人、一味同腹となって、自分をつけ狙っているのではあるまいか。  彼の炯眼は、疾く、こう見破っていた。  だが、この人通りの多い盛り場で、それを表に現わして立ち争っては面白くない。第一、自分は本来まだ公然と白昼笠をはらって江戸の巷を歩くことのできぬ身──という立場からも、弦之丞はあくまでここを無事に別れようとする。  で、周馬の空表情を、他意なくうけいれるさまに、 「そこもともいつに変らぬご様子で」  微笑をもってむくいると、周馬。 「イヤ、ところが大変りなのでござる──」浅黒い唇を上へ舐めた。 「まだご承知ないか、墨屋敷を初め、甲賀組一帯が焼けたことを」 「おお、その話は聞いているが、いずれお上から相応なお代屋敷を賜わるであろう」 「さあ、それは平常、まじめにお役目を勤めている連中のこと。拙者はもう隠密組などという、泰平の世に無用なお役儀には飽き果てましたよ。で、こん度をいい機に浪人いたして、これからはちと自由なほうへ生き道を伸ばす考え」 「結構でござります」 「無論、そう行かねば生き甲斐がござらん。ところで、弦之丞殿、お身も大番頭の子息の身で、自由な恋をし、拘束のない境地へ去られたのは賢明でござるよ。その段、周馬も敬服いたしている。イヤ実際、五百や六百石のこぼれ米を貰って朝夕糊付けの裃で、寒中に足袋一つはくのにも、奉書のお届を出さなければ足袋がはけないなんていうような幕府勤めはまッぴらでござるよ。アハハハハハ。おう、それはさておき、法月氏、江戸へお帰りになったからには、さだめし、お千絵殿とお逢いであろう。ただ今あの方は、どこにおられますな?」  と、余談にまぎらして、巧妙な探りを入れる。この貉め! と弦之丞は心で冷蔑して、 「その消息は、トンと承りませぬ。お千絵殿の行くえはこのほうより、むしろそこもとのほうが百も二百もご承知あっていい筈だが……」  逆に言葉の鉾先をねじ向けると、 「と、とんでもない!」と周馬はあわてて、「知っているくらいならおたずねは致さん。──いずれそのうちには分りましょうよ、分った節には、誰より先に貴公の所へご通知いたす。で法月氏、ただ今のご宿所は?」 「一月寺関東の支配所」 「アア下谷の虚無僧寺でござるか。そのうちに、是非とも一度おたずねいたす」 「その節には──」と弦之丞、右と左へギラリと眼光をやって、「──そこにおいでの、一角殿や孫兵衛殿をも、ぜひお誘い合せてお越しありたい」 「ウム……」と一角は、その言葉の裏を胸にこたえて、咄嗟にばつのいい返辞に窮した。  お十夜は目知らせで、しきりに、抜こう! 斬ってしまおう! という殺気を誘ったが、一角の常識でも、今は地の利と時とを得ていないと思った。ことに、中に挟まった旅川周馬が、優柔不断で髪の毛ばかりを撫であげて大事な機を逸してしまったので、一角は、まずい、抜くな、と目と目でお十夜をおさえている。  こなたの人群の中に隠れて、ハラハラしていたお綱と万吉も、どうやら、この分ならばとホッとしていた。 「ではまた、時を改めて会うとしよう。ただし──その節には、このほうから、ちと所望するものがあるかもしれぬが」と天堂一角が、少し凄味をみせた気で、弦之丞へ捨てぜりふを投げたのをきッかけに、お十夜、周馬の三人組、互に目くばせをし合って、スタスタと辻から横丁へ立ち去ってしまった。  かかるいきさつの間に、角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、賢い気転をきかして、人立ちのした間かどこかへ素早く姿をひそめている。 「なんだ、ばかばかしい……」  群集は失望した。 「あの按配では、さだめし斬合いになるだろうと思っていたら、イヤに馴れ合ってしまやがった」弥次馬声をヒソヒソ交わして、皆ちりぢりに歩きだした。──弦之丞は禁じ得ぬ微苦笑を笠のうちに隠して、誰よりも大股に上野の山の裾にそって急ぎ足になる──。  それを見つけるとお綱も急に、「万吉さん、早く行かないと、法月さんの姿を見失ってしまう……」人を縫って小走りに追い慕った。そのあわてようを見ると万吉は、あれほど、気の勝っている見返りお綱も、恋という魅力のためには、こうももろくなるものかと、心でおかしく思いながら、 「なアに、もう急ぐことはねえ。弦之丞様の帰る先は、いずれ一月寺ときまっている。それに、向うもこっちもなるたけ世間から忍んでいたい体だ。もう少し、人通りのねえ所へ行って声をかけよう」と、場所を計ってついて行く。  四、五町来ると、屏風坂から鶯谷のさびしい山蔭、もう、ここらでよかろうと万吉、 「もし、弦之丞様、弦之丞様」  と、呼びかけた。向うでハッとふりかえると、お綱は胸を躍らせて、思わず足を止めてしまった。──弦之丞は天蓋をこなたに透かして、 「おお、万吉ではないか」ピタピタと戻ってきて、お綱には目もくれずに、 「どうしたのじゃ? 江戸表へまいって以来、どれほどそちの姿を探していたかしれぬぞ」 「イヤどうも、お話にならねえ手違いだらけで、私もあなたの居所を知るまでどんなに、気をもんだかしれません」 「ではこのほうが、先日焼け跡へ印してきた文字を読んだか」 「あれを見なかった日にゃ、それこそ、まだお目にかかることはできなかったでしょう。で、実は早速、一月寺の方へ伺いましたところ、今日は合力に出ていてお留守だという話。もう夕方までは間もねえからと、今しがたまで池の端の茶屋に休んでおりますと、あなたをつけ狙っている三人組の奴らが、角兵衛獅子の子をいじめているので、思わずあの弥次馬の中にまじっていたのでございます」 「おお、そうか」 「ところが、あの二人の角兵衛獅子というのが……まことに妙な因縁でして……」と万吉は、不得要領に、ちょッと髷を掻きながら、うしろに隠れているお綱を指した。 「──そこにいる見返りお綱の、実の妹弟なんでございます。で、本人に聞いてみると、弦之丞様とは、大津の打出ヶ浜とやらで、一度シンミリとお話をしたこともあるそうで……かたがた只今のお礼も言いたいそうですから」  と、うまくひきあわせをしてしまった。で、初めて弦之丞は、そこにあだめいた女がはにかましげに立っているのを見出したように、 「大津の打出ヶ浜と申すと? ……ウム、あの嵐のあとの月夜に、瓦小屋で会うた女子か」 「はい……お久しゅうござりました」  お綱は精いッぱいに、これだけいった。そして、後はなんにもいい得ないで、ポッと耳の根を紅くしたまま、万吉へ、救いを求めるような眼を向けた。 「で、弦之丞様、このお綱でございますが」と、なんのことはない、とりなし役になってしまった万吉。ここで手っ取り早く、お綱の過去と今の気持や、また墨屋敷の変事をも、話してしまおうと語をつぎかけると、 「まあ待て」と、弦之丞が軽くおさえて、 「この路傍では、何かの話もなりかねる。一月寺の宿院はすぐこの先じゃ、そこへ落ちついてきこうから、私の後についてまいるがいい」 「へい、それじゃそこへまいりましてから」 「万吉さん、私は? ……」お綱は少し甘えるように、万吉の袂を取ってはにかんだ。 「二人ともに来るがよい」  笠でさしまねいて弦之丞が、先に立って歩きだしたので、お綱の心は甘い喜びにとけそうだった。宿院へ来いとゆるされただけを、もうすべてのことのように思って──。  そして、前へゆく弦之丞の後ろ姿に、磁力のような愛執を感じながら、足も心もその人へ引きずられて行く見返りお綱。 「私は……私は……」お綱はついて歩く足もともうつろに、めくるめくばかりな熱情でこう思った。 「死んでもこの人を忘れまい! 命がけでこの人の胸にすがろう……、そしたら、怖ろしい掏摸の足もきッと洗える」  するとその時、屏風坂の辺から近道をして追いついてきたのであろう。こけつ転びつ──声を揚げて追いついてきた角兵衛獅子のお三輪と乙吉。 「姉ちゃん! ……姉ちゃん!」 「姉ちゃん、待ッて──」  なかば、必死の泣き声で呼び止めた。 「姉ちゃアん! ──」  と、お獅子の声のありッたけが、弦之丞の後ろについてゆくお綱の吾をハッとさました。  常々も、忘れてはいない可憐しい妹! 可愛い弟! それを、今は、なんという魔がさしたのか、弦之丞の姿を見た刹那にフイと忘れて、あそこへ置き去りにしてきてしまった。  耳をつんざかれて、甘い幻想は霧のように散った。そして、なぜか、お綱はうろたえた。 「あっ……」  こう洩らして、ふりかえるまもあらばこそ、息せき切って飛んできた乙吉とお三輪は、永い間、氷のようにカジカんでいたおさな心に、会いたい会いたいと念じていた姉を見つけて、それこそ本当の児獅子が牝獅子の乳へでも狂い寄るように、お綱の袂がほころびるほど、両方から、むしゃぶりついてきたのである。 「おお! 三輪ちゃんだったかい」  と、両の袂へ、鉛のような情の重目をかけられて、お綱は、飲ンだくれな父はとにかく、自分という大きな姉がありながら、こんな無邪気な者へ、こんなしがない稼業をさせておいた、自責の念にせめられて、思わずよろよろと足を乱した。 「姉ちゃんだ! 姉ちゃんだ! あたいの姉ちゃんだ!」 「まア、乙吉も──」と、本能的に、ひしと二人を抱きしめて、見返りお綱、血の気もなく横にそむけた顔をおののかせて、 「もう久しい間、家へもよりつかないこの姉を、よく覚えていておくれだッたね。おお、ほんとにお前たちも、すッかり大きくおなりだこと……」弦之丞や万吉の前も忘れて、止めあえぬ熱い涙を、さすがに女らしく注ぎかけた。  お三輪もシャクリあげていた。  乙吉も大粒の涙をこぼして、筒袖の腕をあてていた。 「三輪ちゃんご免よ──、乙吉もかんにんしておくれよね。今に私が家へ帰ったら、角兵衛獅子なンかさせておきゃあしないから。──いい着物も買ってあげる……おいしい物も食べさせてあげる……そして寺小屋へも勉強に通わせてあげるから……ねえ」 「うん、姉ちゃん、ほんとにネ」 「ああ、嘘なんかいうものじゃない。──だから……いい子だから、暫く我慢して働いていておくれ、私が家へ帰るまで……」 「…………」 「分ったかい! 姉さんはこれから、ほれ、向うにいるお二人の方と一緒に、大事な用があって行く途中なのだから、日が暮れないうちに、早く家へお帰りなさい」 「いや!」  ハッキリとかぶりを振った。  そして、どこまでも離れまいとするように、袂の端を握りしめる。無邪気なだけに、純情であるがゆえに、こうなるといくらいいすかしたり、わけをいってきかせても、ウンと承知して帰る気ぶりはないのであった。  お綱は、当惑してしまった。  無理はない、無理はない! この子たちには、酒飲みで無理解で乱暴な男親はあるが、貧しい中にも、稚い心を温めてくれる女親の肌がない。──吉原裏のおはぐろ溝、黒い泡がブツブツと立つ、あの濁り水のような裏店で、情けも仮借もなく育てられては、こんな姉でも、こうまで強く慕う気になるのであろう。  そうも思うし──お綱はまた一方には、ここで、弦之丞にすげなく別れてしまうのが、一時にせよ、何としても辛かった。それは、幼い二人がたまたま巡り会った姉に別れるより、お綱にとっては、なおさらせつなく感じられる。  法月弦之丞は、わざと少し道ばたへ身を避けて、何かしきりと、万吉がささやくのを聞いていたが、 「お綱とやら──不愍ではないか」 「は、はい……」 「およその事情は万吉から聞いたが、そちを慕うて離れぬのは無理ではない。拙者も万吉も、どの道しばらくは一月寺の宿院に滞在することになろうから、とにかく妹弟どもを送り届けて、明日なり、また四、五日おいてなり後に、改めて一月寺へ尋ねてまいるがよい」 「そうだ!」万吉も口を合せて、 「そうしねえそうしねえ。なんぼなんでもお前、あれほどまでにすがる者を、蛇か鬼じゃあるめえし、振りもぎッて行かれるものか。弦之丞様がおっしゃる通り、その子たちを送り届けて、家の様子も見てきた上に、後から訪ねておいでなさい。──え、大丈夫だよお綱さん、その間に、弦之丞様が消えてなくなる気づかいはねえから──」  お綱はそこで、弦之丞と万吉に別れた。がんぜない妹弟たちを得心させた上、後からきっと一月寺へお訪ねします──と固く誓って。  お獅子のお三輪と乙吉は、すッかり元気がよくなった。嬉々として、お綱の後になり先になりして目まぐるしくじゃれ歩く。 「姉ちゃん」 「あいよ」 「姉ちゃん」 「なんだい」 「なんでもないの」  無上に嬉しくってたまらない。  用もないのに呼んでばかりいた。そして、あたいの姉ちゃんなる人の顔を見ては、ニッコリ笑って寄り添った。お綱もニッコリ笑ってやる。求め難い男に執着し、求めがたい恋に苦しみあえぐより、無邪気な目下に喜ばれるって、なんていいものだろう。けれど人は、淡いものには飽きたらないで血みどろな恋の修羅場を選んでゆく。なぜだかお綱にも分らない。お綱もやっぱりそうだから。 「姉ちゃん」 「ええ」 「なぜ姉ちゃんは家にいないの」  お三輪にきかれて、お綱はギクリと言いつまった。江戸はおろか東海道から上方へかけて、掏摸を働いているなんていうことを、どうして、この純な神様たちへ話されよう。 「あの、私はね、よそのお屋敷へご奉公に出ているからさ……。それで、お前たちのことを思い出しても、めったに家へ帰れないのだよ」 「そう? ……じゃ姉ちゃんは、立派なお屋敷に出ているんだね。それを、角の荒物屋の小母さんてば、お前たちの姉さんは、見返りお綱っていう金箔付きだッていったよ。姉ちゃん──金箔付きって何のこと?」 「そら、立派な、お屋敷のことさ」 「それで姉ちゃんは、家みたいな、きたない所へ寝るのがいやなの?」 「そんなことがあるものかね。たとえ、お施米小屋のような中へ、藁をかぶって寝ればとて、みんなで一緒に暮らしているほど、倖せなことはないんだよ」  解せないような顔つきで、お三輪は姉を見上げていた。それならば、なぜ家にいないのだろう、という疑問がおさな心にもあるとみえる。  町通りにポチポチ灯の色が見え初めた。松の内の夕暮は、道行く人も店飾りもことのほか美しい。サヤサヤと竹に吹く風が耳に痛くなってきたので、お綱は、折り畳んでいた頭巾を出して、形よくかぶった。  黙っているが、ひもじそうに見えたので、観音堂の境内で、串にさした芋田楽を買ってやると、お三輪も乙吉も、歩きながらムシャムシャ食べる。あんな物が、どんなに味覚をよろこばせるのかと思うと、熱い涙がにじみ出て、お綱は、放縦にぜいたくのし放題をやってきたことが、この二人だけにすまない気がする。  観音堂から田町の裏田圃──向うを見ると吉原の一廓が宵の空に薄黒く浮いていた。赤い灯の数の一ツ一ツは花魁たちの部屋なのであろう、田圃をこえて、大尽舞の笛や、すががきの三味線や太鼓が、賑やかに流れてくる。  その廓を取りまいているおはぐろ溝のふちに添って、頭巾のお綱はうつむき加減に、お獅子の二人は後先に、トボトボ歩いてゆくのである。  文字どおりな鉄漿の使い水や、風呂の垢や、台の物の洗い流しや、あらゆる廓の醜悪がこの下水へ流れこんで、どす黒い泡を立てていた。そこへは、籠の鳥の女がしぼる涙もしたたり落ちてくるであろうし、あたりの空気もその下水のように濁っている気がして、なんとなく、息づまるものが澱んでいた。そしてこの溝どろの空気の漂う町が、お綱の育った故郷である。 「じゃあ……」かれは思いきって足を止めた。 「もう家の側まで来たから、姉ちゃんはここでお別れするよ。ね、またそのうちに、お屋敷のご奉公がすんだら、お前たちの側へ帰ってたくさん可愛がって上げるからね……」  こういって、帯の間からつまみ出した小判を四、五枚、お三輪の手へ握らせてやったが、小判はチラチラと足元へこぼれ、お三輪も乙吉も、目に涙をいっぱいためて、急に悲しい顔をした。 「さっきも話した通り、お屋敷奉公をしている身だから、この姉ちゃんは、家へ泊ってゆかれない体なんだよ。ネ、いい子だから聞きわけて、今日はここで別れておくれ」 「え……」 「分ったかい。そのうちに、きっとお前たちを幸福にして上げるからね。廓へ売られた姉ちゃんも、今に私が身うけをして、家へ戻れるようにする。だから、そんなに泣かないで……」  お綱にだましすかされて、やっとうなずいたお三輪と乙吉は、ぜひなくトボトボと歩きだした──別れともない泣き顔で。  その影が、おはぐろ溝のドンドン橋を左に越えて、九尺二間の軒と軒とが挟み合っている孔雀長屋の路次へションボリ消える。  細い月が空にあった。  廓は人出の潮時である。  大きな雪洞を向けたように、不夜城の空は赤く映えていた。  おはぐろ溝のへりにしゃがんで、お綱は肩をすぼめたまま、子供のようにしばらくすすり泣きに泣いていた。  ここは自分の育った土地で、この溝もこの廓もこの辺の家も、皆昔ながらであるだけに、なんとなく小娘頃の気もちがヒタヒタとよみがえってくる。それがいっそう悲しかった。 「お母さんさえ生きていたら、私はこんな女にもならず、ほかの妹弟たちも、あんな不幸せにはならなかったろうに……」しみじみ思いだされるのである。  親父は廓の遊び人で、紋日の虎という手のつけられないあぶれ者だが、死んだ母だけは、今も温かく甘く涙ぐましく、お綱の胸に残っている。  その母は、お才といって、やはり根は廓者であったけれど、いわゆる仲之町の江戸前芸者で、名妓といわれた女であったそうな。だのに、どうして紋日の虎なんて、箸にも棒にもおえない地廻りと夫婦になったのか──お綱は子供心の頃から、それが不思議に目に映った。  で、ある時、まだ母のお才が生きていた頃、聞いてみたことがある。 「お前、そんなことに気がついているのかい。油断のならない子だね」  睨むようにいったけれど、また、抱き込んで、頬へ頬をつけながら、たッた一語、こういった。 「お前だけはネ、今のお父さんの子じゃないんだよ」  この謎は、解いて聞かせてくれなかった。  女親のお才が死ぬと、怠け者で飲んだくれな紋日の虎は、家財をあらかた博奕でハタいて、お綱を廓へ売ろうとした。 「イヤなこッた」という調子で、お綱は家を飛びだしたのである。こうした家庭と罪悪の町中で育ったかれには、いつか立派に、一本立ちのできる技術がついていた。それは虎のところへ遊びにくる商売人が、おもしろ半分に教えたスリだ。  養父の非人道な行いに反抗して、家をとびだしたお綱も、いつか、人の道からそれてしまった。おもしろ半分に覚えた指わざで、思う存分な日を暮らした。でも、たとえ捨てるほどな金があった日も、養父へ貢ごうと思ったことは一度もなかった。ただ、不愍なのは、お三輪と乙吉と──廓へ売られたもう一人の義理の妹。 「どう考えても、ほかの子たちは可哀そうだねえ」そこを立って、沈みきった足どりを運ばせたが、お綱はふと廓の灯を仰いで、この中にも、むごい男親に売られた妹が一人いるのかと思って、ほッと太い息がもれた。  ああ、救ってやりたい。  養父の行いは憎いが、罪のない妹たちを。  一つ──久しぶりに、たんまりとありそうなふところを狙って、妹の身請の金と、あとの二人が幸福になれるだけの金を稼いでやろうか。──なんの造作もない朝飯前のひと仕事に。  ふッと、そんな気がさした。  おはぐろ溝の暗いかげから、お綱は明るい方へあるきだした。しだれ柳、辻行燈、編笠茶屋の灯などが雨のように光る中を、土手から大門へと、四ツ手が駈ける、うかれ客が流れこむ、投げ節がよろけて行く。  お綱の名と姿に似る、衣紋坂の見返り柳──その小暗いかげにたたずんで、かれは、密かにあてを狙っていた。  金のありそうな人間のふところ。 変化小路  二百両もあったらいい。  廓にいる妹をひかして、余った金は意見に添えて、養父にくれてやるとしよう。そしたら、少しは心を入れ代えて、お三輪や乙吉にも、あんなむごい稼ぎはさせまい。  二百両──大したことでもありやしない。  だが、その金は、お綱が自分のふところの物を勘定するのではなく、これから、行きずりの人様から、拝借しようというのである。  かれは、頭巾姿の身をすぼめて、見返り柳から土手のあたりを、小刻みに歩きだした。  田中田ン圃の寒風もいとわず、土手はチラチラと廓通いの人影がたえない。と──向うから、俳諧師か何かを取巻きにつれて、おさまった若旦那がほろ酔いでくる。  お綱の目が輝いた。  あいつ! と目星をつけたら、決して遁したことがないお綱だったが、妙に指先がこわばって、その人間をやりすごしてしまった。 「ちッ……」と舌うちをして、残り惜しそうに振り向いたが、やがてまたもう一人、たのもしい金持ちがお綱の前を歩いて行った。  それは紺股引にわらじをはいた爺さんである。わらじがけであってみれば吉原帰りでないことは知れている。お綱の目をそそったのは、蛇が蛙を呑んだように胴ぶくれのしている内ぶところ。たしかに、まとまった金がある。  今戸、馬道の四ツ角へきた。  人通りが乱れている。今だ! と思いながら、お綱は、フッ──と前へ駈けぬけようとしたが──。  なんだか、妙に、気が重くなっていた。 「魔がさしたね! 見返りお綱! お前のもち前の魔がさしたね!」  それは自分で自分にいう、心の底の声であった。  そう思った刹那に、お綱はなぜか、ブルブルと身がふるえてきた。かくも、自分をはッきりと意識するようでは、とても、隼に人の物を掏るなどという神技に近い芸ができるものではない。 「お綱の腕のヤキが戻ってしまったのかしら? ……」こう思う間に、いつか自分は自分ひとりで、涙橋の上に立っていた。 「ああ、よそう、よそう……とんでもないことをするところだった。スリはやめると万吉さんにざんげをした私じゃないか。自分でも、二度とこの悪い指は使うまいと、心に誓っていたんじゃないか……。上方の四天王寺で掏った紙入れ一つから、どんな因果がむくわれて、幾多の人を不幸な目に会わしたか、その怖ろしい輪廻をまざまざ見ている今じゃないか……」  今夜のお綱の心というものは、まったく冷静であり純であった。お三輪や乙吉の感化かも知れない。けれど、そのために、不幸な妹弟が救えなくなった。 「すみません……」  誰にいうのでもなく、お綱はこういって、涙橋の欄干へうッ伏した。過去の罪を思うて、唐草銀五郎にわびるのか、不憫な妹弟たちへ詫びるのか、或いは、神のような形なきものへひれ伏したのか。  橋の夜霜が袖に着く。  下には堀の水がゆるやかに流れていた。隅田川から入ってくる猪牙舟や屋形船が夜寒の灯を伏せて漕ぎぬけてゆく。  頭のしんが痛んできたのか、お綱は顔を上げなかった。──早く弦之丞様の所へ帰って、一切をざんげしてゆるして貰いたい気もち。また、あの浮世のおはぐろ溝に埋められている妹弟を見捨ててもいられぬ悩み──。  声もなく、川千鳥が白く渡った、待乳の山から水神の森あたりへ。  と。  お綱がうっ伏しているまに、かれの足元へ、黒々と、蟇のような人かげが這いつながった。  橋の右と左から、その影は、欄干の根を這って、ジリ、ジリ……と寄りつめてきつつある。  捕手だ! 足がついた。密かに伏せた、十四、五本の十手。霜より真っ白に光ってみえる。  もう手が廻った! およそ悪事に名を染めた者が、その故郷や肉親のいる家の近くに立ち廻れば、必ず、足がつくにきまっている。  ああ、それを知らない、お綱でもなかったが……。  元は知らず、未来は知らず、今、涙橋の上に、うっ伏している間のお綱は、まことに浄心純情な女であった。  だが、なんで捕手に、仮借があろう。  五十間の番屋にいあわせた町役人が、いち早く、お綱の姿を見かけて、ここに手を廻してきた以上、もう袋の鼠とみられている。  先に這い寄った一人の捕手が、いきなりお綱の足を狙って、 「御用ッ!」  すくい飛ばしたのが合図となる。 「あっ! ──」不意をくッて、お綱は霜の欄干をツウ──と五尺ばかり辷った。きっとみると、もう八方は、黒々とかがんだ捕方の影。 「御用だッ!」 「御用ッ、御用ッ!」  続けざまに二、三人、銀磨きの光を射さして躍ってきた。飛びかかるが早いか、お綱の驚きのまも与えず、 「神妙にしろッ」  欄干の楯をもぎ離して、タタタタタと橋のまん中までひっ立ててくる。 「な、なにをするんだい!」  と癇走ったお綱の声に耳も貸さないで、いきなり頭巾に手をかけた一人が、 「しらを切ってもムダだ! てめえは女スリの見返りお綱、とうから立ち廻ってくるのを待っていたのだ」  力まかせに頭巾を引いた。 「あっ──」というと、夜目にもきわだつ凄艶な顔がむきだされて、頭巾に飛ばされた珊瑚の釵、お綱に、もうこれまでと思わせた。 「笑わせちゃいけないよ。番屋廻りの下ッ端に、見返りお綱が自由になって堪るものか」  肘をはずして、一人の捕手を勢いよく投げつけた。途端に、サッと持った匕首が、青い光流を描いて横に走った。 「うーむッ……」  血が飛んだ! お綱の白い手へもサッと返り血が散ってくる。 「うむ、上役人に手向いするか」  同心とみえる。十手よりやや長めなハチワリを持って、真っ向から、かれの小手を叩き伏せようとした。──が、お綱はヒラリと横に避けて、近づくものを斬りとばしながら、まッしぐらに駈けだした──今戸河岸から聖天町のほうへ。  続いて十四、五人の捕手、バタバタとあとを慕う。霜の夜の御用の声は、ひときわすごくひびいて戸を開ける窓もない。 「どこへ曲った」 「たしかにこの路次」 「抜けられるな──しまッた──早く先へ廻れ、番屋の前をみたらお手を拝借とどなれ、おお、みんなそっちへ行っちゃいけねえ、半分はここから後を追いつめろ」  長蛇は二つに別れて横丁へ入る。  路次から路次をかけ廻りながら捕手は、ゴミための蓋から空家の床下まで覗いていったが、とうとう姿が見あたらなかった。  だがどうしても、この一劃から出たとは思われないので、番屋の者の手を借りあつめて、なおもくまなく尋ねたが、それに似よった女にも出あわない。  では、お綱は一体どこへどう消えてしまったのだろう? というに、あえて女だてらに屋根や高塀伝いの離れ業をしたのでもなく、また変幻自在な忍びの技を弄したのでもない、明々白々と、裸体になっているのである。  どこにというと、それが少しおかしい。  鵜の目鷹の目の捕手や、六尺棒をもってつきあいに出た番太郎が、みすみす二度も三度も前を通っている、横丁の銭湯へ七文の湯銭を払って、そこの女湯に、のびのびとして温まっている。  もうもうと白い湯気が立ちこめて、数多の女の肌が人魚のように混んでいるので、誰が誰とも分らないが、風呂へつかって、 「ああ、いいお湯加減……」  こういったのがお綱らしい。 「ええ、人参湯でございますからね」と、乳呑み児を抱えた、近所の若いお内儀さんらしいのが話しかける。 「お子さんがあると、お風呂もたいていじゃありませんね」 「まったくですよ。それに冬は、風邪をひかしてはと思うもんですから、自分の体も洗えやしません」 「少し、抱っこしていてあげましょうか」 「いいえ、いいんですよ」  その時、番台の側の戸が開いた。  向うからもこっちからも、湯気でよく見えないからいいようなものの、いきなり女湯の戸を開けたのは、一人の男だ。 「あ、お間違いでしょう」  と番台がいうと、かぶりを振って、下から、何かささやいた。と、みるまに番台のおやじ、青くなってざくろ口の湯気を見つめた。  安永頃にはもう江戸は混浴禁止になっている。男のくせに大手を振って、女湯へ入ってくるのは、お上の御威光でもなければできないこと。  無論、それは捕手の一人。  ことによったらという疑念をもって、銭湯をねらってみたが、まさか、自分も裸になって、湯気の中の女を一人一人あらためてみることもできないので、何か、番台のおやじに吹っかけている。 「入ったろう、そんなふうな女が……」 「さア、なにしろこの通り混んでおりますから」 「不注意な奴だ」 「申し訳がございません……ですが、どうぞ流し場でおあらためだけは一つご勘弁を。へい、男湯の方なら、ちッともかまやしませんが、その……ほかのお客様がお気の毒でございます。なんなら、その脱いである着物をごらんくださいまして」 「夜分なので、衣服にはよく覚えがないのだ。では、必ず裏口などから突っ走らぬように気をつけてくれ」 「へい、その辺はよろしゅうございます」 「きッとだぞ」  ツウと外へ出て行った。  湯屋の暖簾を出た男は、左右の路次を向いて、手をさし招いた。ゾロゾロとすぐに十八、九人の人数が集まる。ヒソヒソと耳うちをして、やがてあたりの物蔭へシンと鳴りをひそめてしまう。  驚いたのは番台のおやじ。  えらいお客がまぎれこんでしまった。いったいその女掏摸というのは、どの客であろうかと、銭筥の抽出から眼鏡をだして、上がってくるのを一人一人見張っている。  たいがいなお客は入れ代ってしまったほど、かなり時間がたったが、どうもそれらしい女は上がってこない。みんな、近所の顔見知りな人ばかりだ。ばかにしてやがる、不浄役人め、女湯覗きをして行きやがった。  おやじは眼鏡をはずして手に持った。すると、その時、近所の若いお内儀さん──馴染なので顔を知っているが、その内儀さんと親しい口をききながら、一緒に出て行った小粋なのがチラと目についた。  オヤ! といいたかったが、そうもいえないので、番台から、 「ありがとう、おしずかに──」  ひょいと振りかえるまに戸を閉めて下駄を取っている様子。何かいいながら、馴染の方の内儀さんは、湯道具やらおむつやらをいっぱい抱えて、ねんねこにくるんだ乳呑み児の方は、も一人の女の手へ預けていた。 「すみませんです、ほんとにご親切様な」 「どういたしまして、お互い様ですもの」 「おかげ様で今夜ばかりは」 「おう、外へ出るといい気もち──赤児もスヤスヤ寝ていますよ」 「まア、のんきなものでございます。どうもありがとうぞんじました」 「せっかく、いい気持そうにしているのに、目をさますといけませんから……」  カラカラと夜寒に下駄をひびかせて、濡れ手拭を下げながら湯上がり姿を風に吹かせて出ていった。  捕手は足をしびらせていた。今か今かと息をひそめて待ち切ったが、まさか、今乳呑み児を抱いて出てきたものが、見返りお綱であろうとは、誰も見破る者がなかった。  そのうちに、アラ、私の下駄がない、と湯屋の門で騒ぎだしたものがある。  さてはと、初めて思いあたったが、もう長蛇はとッくに逸していた。お綱は、風呂の中で、女同士のありがちな親しみを向けて、その人をおとりに、まんまと重囲を脱してしまった。  しかし、今夜虎口はひとまず遁れ得たにしろ、お綱がお三輪と乙吉に会ってから、一そう切実になった悪と善心の闘い、恋と環境の添わぬなやみは、かれの行くところまた走るところへ、影身にからんでつきまとって行くであろう。  そのせいか。  一月寺では万吉が、弦之丞とともに、お綱の訪れを待っているのに、二、三日たっても、その姿が見えなかった。 投げ十手  お江戸日本橋。いつも織るような人どおりだ。  ついそこの魚河岸から、威勢のいいのが鮪や桜鯛をかついで、向う見ずに駈けだしてくるかと思うと、お練りの槍が行く、お駕が従く──武士や町人、雑多な中に鳥追の女太夫が、編笠越しに富士をあおいでゆくのも目につく。 「あら……」  と驚いて、太鼓反りの橋の上で、塗歯の下駄の踵を上げた女があった。  蔵前ふうの丸曲髷に、曙染の被布をきて、手に小風呂敷をかかえている──、で、二、三日前とは、すっかり服装が違っているので、ヒョイと見違えてしまうけれど、それはまぎれもないお綱の変身。 「ちイ……」と、舌打ちをして踵を上げたのは、向うへ駈けだしていった子供の奴凧が、お綱の白い脛へからんだのである。 「辻占が悪い」  面倒くさそうに糸を取りのけて、そのまま四、五間歩きだしたが、橋の袂で、ちょっと足を止めていた。  そこには今日も相変らず、珍しからぬ人立ちがしていた。何かというと、心中のしぞこないだ。御法によって男女とも、生きながらの曝し者となり、鰒食ったむくいとはいえ、浮名というには、あまりにもひどい人の目や指にとり巻かれている。 「あれッ?」  馬鹿な顔をして、それを見ていた一人の男が、不意に、すっ頓狂な声をだして、ふところや袂をハタき始めた。 「す、す、掏摸にやられたッ」 「えっ、掏摸?」 「今、瀬戸物町で、四十両の勘定をとってきたばかりなンだ。それがねえ! 財布ぐるみだ! 財布ぐるみ掏られてしまった」  血眼になって騒ぎだした。  誰だ、誰だ、というふうに、群衆の目が、お互いにウサン臭い目つきをし合う。掏られた男は、狂気のようになって番屋へ訴えに駈けだすと、おせッかいな人間が、それ、向うへ大股で行った法被が怪しいの、今おれの後ろに立っていた男の人相が悪かったのと、その間にもワイワイと騒ぎ立っていた。  お綱は、いつのまにか、河岸通りを右へそれて、金座後藤の淋しい裏を歩いていた。ずいぶん澄ましたものである。  ちょっとあたりを見廻して、袂の八ツ口から出したのは、商人持ちの革財布、中身を抜いて、 「しようがありやしない──、こんな端た──」  財布の殻を、ぽんと、河の中へ投げ捨てた。そして、少しじれ気味に、 「ああ、もう少し、まとまった金が手に入らないかしら? そしたら、これを最後に、スリの足をきれいに洗って」  いつもならば、同じ場所で一日に、二度と仕事はしないものを、しきりにあせっているお綱は、また金座屋敷の長い塀に添って、本町の問屋町を、軒づたいに歩きだした。  すると、山善という薬問屋の店に、一人の侍が、編笠をかぶったまま、買物をしていた。侍は、真鍮の獅噛み火鉢に片手をかざして、 「ウム、では、薬種はこれで残らず揃うたの」  と、書きとめてきた処方と薬の数とを読み合している。 「はい」  手代は、五、六種の小袋をまとめてあらためながら、 「揃いましてござります。この中の、南蛮薬草などは、手前どもの店以外にはございません物で、はい、ありがとうぞんじました」 「今日はこの処方を揃えるために、かなり尋ね歩いたわい。して、代は何程になるの」  といいながら、紙入れを出しかけると、手代は侍の風采を見て、 「いえ、そのうちに、お屋敷の方へ、ちょうだいに伺わせますから、どうぞお持ち帰りを」 「いやいや、わしは浪人者じゃ。取りに来るというても、定まる屋敷などはない」 「ご冗談を……。ではかえってお手数でございましょうから」と、算盤をパチと弾いて、 「どれもお値の高い物ばかりなので……、ちょうど、三両二分に相成りますが」 「さようか。ではこれで取ってくれい」と、払っている紙入れを、通りすがりに、お綱がチラと見てしまった。  何の薬を求めたのか、本町通りの薬種問屋をでた編笠の侍は、そのままスタスタと大通りへ向ったが、フイと道をかえて、横丁の刀研屋へ入り、そこの店さきで、また小半刻ほど話していた。  やがて出てきた。  前ともつかず、後ろともつかずに、お綱の姿がからんでゆく。  刀屋の店にいた間も、眉深にかぶっている編笠をとらないので、その面ざしはうかがえぬが、一見、丈高く肩幅広く、草履をすって外輪に歩いてゆく足どりなど、どうも、心得のある武士らしく思われる。年はザット四十前後か、衣服大小も立派、ただちょっと異なことには、御府内だというのに、緞子の野袴をはいている。  野袴は、野がけ支度、または旅中の物である。主持ちの侍が市内で裾べりの旅袴をはいている筈がない。では、浪人かというに浪人ふうでもなし、また旅の途中という様子もない。  しかも、人品賤しからず、という風格。  なんだろう。この侍は?  密かに、こんな細かい観察をしながら、お綱は、間髪の隙を心に計っていた。  しかし、容易にその機会がなかった。編笠の姿は、どこ吹く風かという態度で、石町から裏道へそれ、やがて、呉服橋をこえて、丸の内へ入ってゆく。  はてな?  この橋から向うは、江戸城の外濠、大手門、桔梗門、日暮門、それを取り巻く家屋敷というものも、およそは皆大名の邸宅で、普通の住居はない筈だが、あの侍、一体どこへ帰るのだろう。 「ええ、そんなことに、気をとられている場合じゃない」  お綱は度胸をきめて、その侍へ近づいて行った。  と──都合よく、とある屋敷の角から、絢爛な乗物と供人が列をなして流れてきた。それがちょうど、出あいがしらであったので、前へゆく編笠の侍が、トンと足を踏み戻した。 「あっ──」  その瞬間に、お綱の体は、小石にでもつまずいたように、侍の横へ、フワリとよろけていったのである。 「おお」 「あぶない」  からんですり抜けた緋縮緬の蹴出しは、その時、もう二、三間行き交わしていて、 「ごめん遊ばせ……」  艶に笑って、チラとこっちへ振りかえった。  そしてそのまま、見返りお綱、燕の飛ぶかとばかり逸早く走って、あッと思うまに、宏壮な屋敷塀の角を曲って、ヒラリと姿を隠しかけた。  途端に!  ブーンと閃めいてゆく一本の短剣。  キラキラと風を縫って、飛魚のごとく飛んだかと見るまに、今しも、角をそれようとした、お綱の真白い踵のあたりへ──。  なんでたまろう。 「あッ!」といってよろめいた。  足をすくって、カラリと地に落ちた銀の光──短剣かと見えたのは、房のつかない尺四、五寸の十手であった。 「ア痛ッ……」と足を押さえながら、お綱が身を泳がせるやいな、一足跳びに寄ってきた編笠の侍は、 「これッ」  と一喝して、お綱の利腕をねじ上げてしまった。 「掏摸だな汝は? 虫も殺さぬような顔をして、武士の懐中物をかすめるとは大胆な女じゃ」 「ア痛ッ、ア痛……旦那、今わたしの掏った紙入れは返しますから、どうか、このところは、見遁してやっておくンなさいまし……、どうしても、せっぱに詰まることがあって、魔がさしたのでございます」 「イヤ、ならぬ! たとえ一流の武芸者でも、めったに斬りかけられまいこの身の隙を計って、見事に、ふところの物を抜きおった汝の手際、出来心とは思われない……ウム」とうなずくと侍は、お綱の利腕を取ったまま、有無をいわせず、グングンと歩き出した。  そして、宏壮な一構えの大屋敷、漆喰塗の塀際に沿ってしばらく歩いたかと思うと、その屋敷の裏門へ、ポンと、お綱をほうりこんだ。  自分に屋敷は持たぬ──といったこの侍、お綱を引っ立てて、その裏門から、さッさと奥庭へ進んで行った。  しかもそこは、善美をつくした庭作り、丘あり池泉あり馥郁と咲く花あり、書院茶室の結構はいうまでもなく、夜を待つ春日燈籠の灯が、早くもここかしこにまたたいている。 かなしき友禅  捕まえられた恐怖よりも、引っ立てられてきた屋敷のすばらしさに、お綱は気を奪われてしまった。  なんという豪華な庭、数寄な建築。  いずれ何十万石という、大名の屋敷には相違なかろうが、女掏摸を成敗するため、わざわざ引き出した白洲にしては、あまり舞台が勝ちすぎる。 「これ」  編笠の侍は、お綱の肩を軽く押して、 「しばらくそこに控えておれ」と初めて笠の紐を解きにかかった。  ひょいと見ると、色浅黒く、眉毛の濃い顔だち。──オヤ、どこかで一度見たような……とお綱はフイとびっくりしたが、どこで見たというほどな、はっきりとした記憶はない。 「御前様、御前様──、只今帰りました」  廊下へ身を寄せてこういうと、すぐ前の一室、書院か主人の居間であろう、スーと一方の障子が開いた。  銀泥の利休屏風に、切燈台の灯がチカチカと照り返していた。青螺つぶしの砂床には、雨華上人の白椿の軸、部屋の中ほどに厚い褥を重ね、脇息を前において、頬杖をついている人物があった。  いうまでもなく、当屋敷の殿。金目貫、白鮫巻の短い刀を差し、黒染の絹の袖には、白く、三ツ扇の紋所が抜いてあった。──三ツ扇は誰も知る松平左京之介輝高の紋だ。  輝高は、かの寛永年間に腕の冴えをみせた智慧伊豆、松平信綱の孫にあたる人物である。智慧伊豆の名声に圧せられて、その孫の左京之介輝高には、さしたる聞えもなかったが、今から十一年前、かれが所司代として京都に在職していた当時──宝暦の事変が起った時には、自身、竹内式部をしらべ公卿十七家の処分をして、相当にその手腕をみせたものである。 「おお、今帰ったか」  と、左京之介は、茶をすすりながら、 「当分の間は、なるべく、外出無用であるぞ」 「心得ております。しかし、今日はちと是非ないことで、自身買物に出かけました」 「買物にじゃ? はて、なぜ家来どもにいいつけぬか」 「それが、ちとむずかしい蘭薬の調じ合せをいたしますため、薬名や何かも、自分でなければなりませぬので」 「ほほう、さては、あの病人にのます薬かの」 「御意にございます。所詮、ああまでの状態になりましては、漢薬の利き目おぼつかなく存じますので、実は、今日ふと思いつきました蘭薬の処方を持ち、本町薬種屋町の問屋を一軒ごとに歩きまして、ようよう望みどおりの薬種を揃えてまいりました」 「ふーむ、そちも、かなり博識と聞いたが、医学にまで精通しているとは、今日初めて知った。近頃はだいぶ蘭薬流行であるようじゃな」 「いえ、なかなかもって、この処方は、手前の究学ではござりませぬ。大阪表におりました頃、しばらく一緒におりました、鳩渓平賀源内と申す男の秘とする処方で」 「ああ、源内であるか。なるほど、あれなら蘭学の方も詳しい筈じゃ。して、その源内は、ただ今どこにおろうな」 「いつか、殿にもお話しいたした通り、住吉村で別れまして以来、トンと音沙汰もござりませぬ」  住吉村と聞いた刹那に、お綱は初めて、アッと思い当った。今、左京之介輝高となれなれしく話している深編笠の侍──それは、自分がお十夜と一緒に、住吉村のぬきや屋敷にいた時、目明し万吉を救うべく、俵一八郎や源内と一緒に、不意に、そこを襲ってきた、もと天満与力の常木鴻山! おお、その鴻山に違いない。  どうしてあの常木鴻山が、この松平家にいるのであろう? イヤイヤ、そんなことよりは、知らぬこととはいえ、とんだ人のふところを狙ったものだ。天満の鴻山といえば、常木流の十手術にかけて天下に比のない人だとはお綱も噂を聞いている。  その人の懐へ手をかけたのだもの、捕まるのが当然であった。知って見れば、今さら身の毛がよだつ心地がする。 「誰じゃ、そこにいるのは?」  気がついたか、松平輝高、脇息から頬杖を外して、不思議そうに庭先を見透かした。 「御前、これにおります者は、見返りお綱と申す、名うてな、女掏摸でござります」 「なに、掏摸じゃと申すか。女だてらに──」 「これでどうやら、尋ねる者の手がかりがあろうかと存じます。で、おそれ多うござりますが、じきじきに一つお調べを願いとう存じます」 「では、この女が、たしかに弦之丞の居所を存じていると申すのじゃな」  左京之介が、褥をずらせて前へ進むや、お綱も弦之丞という一言をきいて、思わずハッと正面へ顔をあげた。 「手がかりになる者とあらば、貴賤を問う場合ではない、鴻山、まずそちが口を開かせてみい」  左京之介は、上からジッと、お綱の姿を見つめていた。 「はっ」と、一礼をして、常木鴻山。 「お綱──」と、おごそかに向きなおった。 「そちは拙者を知っているであろうな」 「ハイ、存じております」 「ウム、たしか二度ほど見かけている。一度は大阪表にいた当時、住吉村でそちを見た。また、一度はツイ先日じゃ──おお、駿河台大火の節、太田媛神社の境内で……」 「えっ……」お綱はあきれたような顔をして、 「あの墨屋敷が焼けた晩に?」 「そうじゃ、しかし、そちは知るまい。気を失っていた筈だからの。ちょうどあの夜、この鴻山は所用あって、飯田町から戻る途中であった。火に行く先をふさがれて、ぜひなく駕を休めていると、そこへそちと、もう一人、由ありげな女子とが、気を失って引きずられてきた」 「あ! その、もう一人の女子こそ、お千絵様でありました!」と、お綱は心で叫んだが、口には出ずに、ただ鴻山の言葉に気をとられていた。 「しかし、その晩には、そちを助ける気はないので、もう一人の女子だけを駕に乗せて、はるか、四谷の台を迂回して、焔の中から逃れてきたのじゃ。ところが、後になって後悔いたした。なぜ、その時、そちをも一緒に連れてこなかったかと……」  アア、さてはお千絵様の身は、あの時、無事に鴻山の手に救われて、この屋敷の内に守られているのかと、お綱は初めてうなずいた。  が、どうして、常木鴻山がこの屋敷にいて、そして、かくも詳しく、何かを知っているのであろうか。  それにも、径路がなければならぬ。  去年の夏──、蜂須賀家の原士に斬りこまれて、住吉村を去ったかれは、あれから幾月かを、紀伊の山奥に暮らしていた。  その後、かれは、阿波守が安治川屋敷を引きあげたと聞いて、ソッと平賀源内の住居を訪れ、そこで、法月弦之丞の話をきいた。  かけ違って、弦之丞と会わなかったため、鴻山もすぐに、江戸へ立った。  そして彼は、松平輝高の門を訪れた。  左京之介とは古くから面識がある。  十一年前、鴻山が宝暦の事変で血眼になって活躍していたころ、左京之介も京都にあって、事件の要路にあたる所司代であった。  で、かれは、今日までの苦心を、つぶさに打ち明けた。  与力や目明しの中には、一つの事件に、四年五年の根気をつづける者もあるが、十一年──しかも、職をはがれて今なお意志をかえない鴻山の話には、左京之介も、心を動かされずにはいられない。  折も折とて、輝高は、ちょうどこの頃、江戸長沢町に兵法講堂を開いている、山県大弐という者に目をつけていた。  この大弐も、十一年前に事変を起こした、竹内式部と何らかの連脈がありそうで、京の堂上たちと事を結んで、幕府の虚をうかがっているらしい疑いがある。  けれど、確たる証拠はない。  ところへ、鴻山の話があった。  宝暦変──反幕府思想──不平な公卿──竹内式部──その一味──山県大弐──。こう考えあわせてみると、その黒幕に、阿波という謎の強国が、ありありと浮かんでくる。  禍根は阿波だ。  公卿を踊らす者は阿波だ。無禄の兵学者を踊らすものは公卿だ。不平な浪人を踊らすものは兵学者だ。まず、この禍いの根を刈るには鴻山のいうがごとく、阿波の密謀をさぐり、その確証をつかんで、取りひしいでしまわなければならぬ。  こう気づいたので、左京之介は、鴻山を自邸にとめて、密かに、いろいろな便宜を与えることを約した。  で、鴻山は、まず、弦之丞と万吉を見出して、力を協せたいと願った。また一方には、世阿弥の残した、甲賀家のあとの様子、お千絵の身などについても、ぽつぽつと調べていた。  だから、お綱のあきれるほど、すべてを知っていたわけである。  けれど、一つ困っていることがある。  そのために鴻山は、今日も自身で、源内秘伝の蘭薬を買いに出かけたのだが、はたして、それが利くかどうか、すくなからぬ心配である。  というのは。  大火の晩に、この屋敷へ運んできたお千絵が、あのまま、意識を狂わして、気はついても、あらぬことのみ口走っている。  医薬の利かぬ、もの狂いの兆がみえる。お千絵は、狂気してしまった。 「お綱、こういう訳じゃ──」と、一通り話してから、常木鴻山、こん度はほんとの調べ口調になった。 「そちは、弦之丞と万吉のいる所を存じておろう。前夜の様子から推しても、知っておらねばならぬ筈じゃ。そこへ拙者を案内してくれぬか。──さすれば、そちの罪はゆるしてやる。そして、何か事情は分らぬが、せっぱにつまる金とあらば、要用だけはそちにくれる」  刀試しか、きびしい糺問をうけるかと思いのほか、弦之丞と万吉の居所へ案内してくれれば、いるだけ金はやろうという、鴻山の言葉に、お綱は思わず手をついて、 「悪うござりました……悪うございました」ただ、嬉しさに、泣き伏してしまった。 「いや、罪科を糺すのではない。もとより初めに、このほうをつけてきた時から、そちが掏摸だということは見抜いていた。しかし、前にも話したとおり、こちらにも聞きたいことがあったゆえ、わざとここまで釣り込んでまいった次第──、罪の半分はこの鴻山にもある訳じゃ」 「恐れ入りました。そうおっしゃられると見返りお綱も、穴があったら入りたいほどでございます」 「ウム、それほどまでに、しかとした性根をもちながら、なんで、あのようなあぶない芸をいたすのじゃ」 「一時のがれの、嘘いつわりは申しませぬ。実は自分の心でも、真から悪いと悟って、もう金輪際掏摸は働かぬと誓っていたのでございますが、どうしても、救ってやりたい不愍な目下がございますため、この一仕事で、足を洗おうと思ったのが、私の誤りでございました……。どうぞこの上は、お腹のいえるように、御成敗なすって下さいまし」 「その言葉に偽りはなさそうじゃ。最前、そちの手にかかったこの紙入れ、過分にはないが納めておくがよい、そして、これを最後に、きッと邪心を起こさぬことだぞ」 「あ、ありがとう存じます……、これさえあれば、心がかりな妹弟たちを救ってやれます上に、お綱も生れ代りまする」 「わずかのことで、そちまで生れ代った女になれるとは何よりうれしい。してお綱、弦之丞殿と万吉は、ただ今どこにいるであろうか、一日も早く逢いたいのだが……」 「御恩返しという程でもございませんが、いつでも、すぐに御案内申しましょう、下谷根岸の一月寺においでなさいます」 「おお、では虚無僧の宿院にいるのか」  と、鴻山は、廊下の端から、左京之介の居間の方へ向って、 「お聞きの通りでござりますが、こちらから出向いたものでございましょうか、それとも、書面でもつかわして、密かにここへ招じ寄せましょうか」 「そうじゃの? ……」  輝高は少し考えてから、 「当家へ、あまり出入りの多いは人目につくかも知れぬ。その女を案内に、ともかく、そちが訪ねてまいったらどうじゃ」 「手前も、それがよいように考えておりまする。ではお綱、これからすぐに案内を頼むぞ」 「乗物は?」  左京之介がいうと、鴻山は支度をなおして、いつもの眉深い編笠をいただきながら、 「町へ出てから求めます」 「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右が知れるであろうから、心待ちに帰邸を待っておるぞ」 「はっ、では……」  と、庭先に立って一礼すると、常木鴻山は、お綱を目で促して、ピタピタとそこから歩きかけた。所詮、生きては、この屋敷を出られまいと諦めていた結果が、思いがけなく、妹や弟を救うだけの金を恵まれた上に、これからすぐに、弦之丞のいる所へ訪ねて行かれようとは、何から何まで、夢のようなトントン拍子。お綱は、嬉しいといってよいか、悲しいといっていいか、また、恥かしいといってよいか、自分で自分が分らぬような感激につつまれていた。  そして、四、五間歩きかけた。  すると不意に、長廊下の向うから、晴々とした女の高笑いが聞こえた。と思うとまた、 「弦之丞様! アレ、アレ、弦之丞様ッ──」  絹を裂くように叫びながら、バタバタと走りだしてきた美しい女がある。  続いて後から、付き添いの女や家来たちが、ワラワラと手を振って、 「アアお千絵様──、お千絵様がまたお狂い遊ばして──」と、あっちこっちへ追い廻してくる。  背すじへ水を浴びたように、お綱はそこに立ちすくんでしまった。そして、麗しい友禅に身をつつみ、蝋より青白い顔をカラカラと笑みくずしながら、大勢の者に抱き戻されてゆく、お千絵の姿をありありと見た。 「おお大事な薬を忘れていた」  鴻山は別な用口へ廻って、奥坊主の者に、源内秘方の蘭薬を、お千絵にのますことを言いのこして、急ぎ足に裏門の潜戸をぬけ出した。 夕雲流真髄  春の夜の寒さは、襟と爪の先からしみてくる。  炉にはトロトロと紫色の火が崩れていた。 「どうしたのだろう? ……今日でもう七日目だが」  また同じことをいって、万吉は指を繰っていた。炉に対して弦之丞は、ピシリと二、三本の枯れ枝を折り、衰えかけた榾の火へつぎ足している。 「──あんなに熱く言っていたんだから、もう訪ねてこなけりゃならねえ筈だが。はてな、悪くすると、またお十夜にでもふん捕まってしまったのじゃねえかしら? ……」  独りごとを洩らすまでに、案じぬいているふうである。無論、それはお綱の身の上。  ここは根岸の奥の一月寺、普化僧仲間で、俗に風呂入とよぶ宿院である。一枝の竹管をもって托鉢する者は、誰でも宿泊できるが、弦之丞は京都寄竹派の本則をうけているので、この寺とはまったくの派違いだ。で、本院へは寄宿をゆるされず、境内にある別棟の客房を借りうけていた。  それがかえって、気ままでもあり、都合もいい。  折から目明しの万吉も、あれ以来、起居を共にして、昼は外にお千絵様の行方を探し、夜は炉の火をかこんでヒソヒソと、やがて阿波へ入り込む日の密議やうち合せに余念がない。  しかしここ数日、かなりの努力をつくしたが、お千絵の所在について皆目手がかりがなく、お綱もあのまま、此寺へ訪ねてこず、二人のかこむ炉には焦躁と沈鬱の夜がつづいた。  と。──敷石をふむ木履の音がしてきて、客房の濡れ縁に、誰か人の気配がする……。 「客僧どの」 「はい」 「まだお寝みではございませんでしたか」  聞き馴れた番僧の言葉づかいである。 「起きておいでのご様子、ちと急用でございます。この障子を開けますが……」 「おお、差支えはござらぬ、どうぞ」  内から弦之丞が手を伸ばすと、番僧も外から障子へ手をかけた。部屋にこもっている煤煙が、ムーッと軒へ吸いだされて、入れ代りに、寒梅の香をふくむ冷やかな夜気がそこへ浸ってくる。 「ただ今、御院代のお手元へ、こういう手紙を届けてまいった男がございます」  縁に膝をついて一月寺の番僧、敷居ぎわへ一通の手紙をさしおく。 「なに、このほうへの書状?」 「はい、すぐご返事がほしいそうで、使いの者が待っております。どうぞ、ご一見下さいまし」 「はて、誰からであろう? ……」と弦之丞、封を切って読み下したが、巻き返しながらジイッと天井を見上げて、何か思案をしているらしかった。 「弦之丞様、この夜中に、一体どこからのお手紙なので?」  と万吉が、不審そうにきいたのには答えないで、弦之丞、番僧のほうへ向って、 「委細承知いたしたと、使いの者へお伝え願いたい」という。 「はい、それだけでよろしゅうございますか」 「後よりすぐにまいりますゆえ」 「では、そう申して、使いを帰せばよろしいので」 「ご苦労ながら」 「いえ、どう致しまして……」と番僧は木履を鳴らして本院の方へ戻って行く。──その後で、弦之丞二、三服の煙草をくゆらしてから、ゆったりと立ち上がった。 「万吉、拙者はちょっと行ってみるから、先に寝んでいてくれい」 「えっ、これからお出かけなさいますッて?」 「ウム、その手紙を見るがいい……。少し腑に落ちぬことではあるが、何ぞの手がかりがあるかもしれぬ」 「へえ……」と万吉、あわてて炉べりにおいてある今の手紙を開いてみると何ぞ計らん、差出人は旅川周馬──、お千絵殿の所在が知れたから、至急、鶯谷の古梅庵という料亭までご足労を願いたい──という文意。  先日、路傍でお目にかかった節は、連れがいたし雑沓の中で失礼いたしたが、今夜はゆるりと旧交を温めたく思う、そして、自分がつきとめたお千絵殿の所在をお告げする。それを以て、自分の誠意を認めてほしい。などという美言が巧妙につらねてある。 「貉め!」  万吉は、おッぽりだすように読み捨てて、 「こいつアいけねえや! もし弦之丞様、こんな物騒なものに誘われて、うっかりお出かけなさいますと、どこにどんな死神が待ち伏せしているかも知れませんぜ。およしなせえ、およしなせえ! 万吉は大不承知でございます」  と、真剣になって止めはじめた。 「なんの……」と弦之丞は、万吉の危惧を笑い、その不服を軽く聞き流して、「必ずともに、深く案ずることはない。夕餉の後の腹ごなしじゃ、無駄足をすると思うて行ってくるから、きっと留守をしていてくれよ」 「じゃ、どうしても、お出かけなさるおつもりなので?」  と、なおも心配そうにいう、万吉の言葉には答えないで、身軽に帯をしめなおして、外出の支度をすました弦之丞。 「だいぶ風が吹いてきそうな……周馬や一角や孫兵衛などよりは、火の用心がおそろしい。宿院を拝借して、炉に火を残したまま無人に致しては、寺則を破ることになる。万吉、必ずわしが留守の間に、ここをあけては相ならぬぞ」 「へえ……」といったが万吉は、一緒について行こうと考えていた矢先なので、こう釘を打たれてしまうと、いよいよ面白くない。口が尖ってくる。 「わっしもお供いたしましょう。なアに、炉の火はスッカリ埋けてまいりますよ」 「これこれ万吉、つまらぬ情を張って、拙者の足手まといになってくれるな。いよいよ阿波へ入り込む時やまた、向うへ着いて働く場合には、随分そちの腕も借ろうが、今はまだ目的の本道に入っていない」 「へい……」阿波と聞くと、万吉も、すなおに首を垂れてしまった。 「前途の多難は今宵ばかりでない。どこまでも大事を取って進まねばならぬ。騎虎の勇にはやって、二つとない身を傷つけたら何といたす」 「さ、それだから俺もまた、いっそうあなたのお体を、お案じ申すのでございます」 「ウム、その心は過分である。いずれ周馬の手紙には、深い魂胆があり、企らみがあるものとは拙者も察しているが、この弦之丞の眼からみれば、およそは多寡の知れたあの三人……あはははは、久しく試みぬ夕雲流、場合によっては──」  と、無銘の一腰、笛袋に入れて腰に落した。 「そりゃ、弦之丞様には、腕に覚えもございましょうが、足場の悪い根岸の闇、欺し討ちや、飛び道具という策もございますから、必ず、ご油断をなさいますな」 「そこまで物を案じては、いわゆる取越し苦労というもの。大望をもつ身でなくとも、こんな例は、道場通いの修業中にもママあることじゃ。申せば武士の日常茶飯事……」  スタスタと板縁から土間へ出て、塗下駄を突っかけ、行乞の深笠をとって頭につけた。そして、みずから戸を開け、みずから後を閉めて、万吉が何と口をさし挟むいとまもなく、 「では頼むぞ──」といい残して、境内を斜かいに抜けて寺門へ出て行った──。万吉は、最初の不安がまだ拭われないらしく、その足音の消えてゆく闇を、戸の隙間から見送っていた。 「暗い晩だな……。ああ、行ってしまった」祈るようにつぶやいた。  如月近くを思わせる、冷やかな東風が吹きだして、小さい風の渦が、一月寺の闇に幾つもさまよっているようだ。桜吹雪のような濃艶さはないが、もみ散らされる梅の点々が、白く、チラチラと、人の姿を追っている。  弦之丞の細い影が、梅の香に吹かれて寺門を出た。二、三十歩の石畳の上を、カタ、カタと塗下駄の音が静かに運んでゆく──、そしてやがて、正面の石段を降りかけたが、フイと、足もとからさす明りに足をとめてみると、草履を持ってしゃがみこんだ一人の男、そばに、仮名書きで「こばいあん」とした朱文字の提灯をおいて、ゆるんだ鼻緒をすげなおしている。  ポッ、ポッと、提灯の明りが、男の周りに、大きく明滅の輪を描いていた。  弦之丞がその前をスッと通りぬけると、 「まず、これでよし」  と、緒を直した草履をはき、小提灯を手に持って、その男も、ピタピタと弦之丞について歩きだした。 「こばいあん」としるしてある小提灯が、弦之丞の影に添って、ゆらゆらとついてきたかと思うと、 「もし……」と、その男が声をかけた。 「一月寺においでの方は、みんな同じようなお姿なので、間違ったらご免下さいまし」と、念入りに断わっておいて──「あなた様は、もしや私が今手紙を持って、お迎えに参りました法月様ではいらっしゃいませんか」 「いかにも、わしはその弦之丞だが……」 「ああ、それはよい所でご一緒になりました。私はごらんのとおり……」と、提灯の朱文字を少し前へかざして、 「古梅庵の若い者で、旅川様からお手紙をいいつかってきた男でございます」 「そうか。では何分とも案内を頼む」 「エエよろしゅうございますとも、なにしろ、御行の松から御隠殿──あの水鶏橋の辺は、昼でも薄気味のわるい所でございますからな……。夜のお使いは、あんまりゾッとしませんや。それに来る時は一人ぽッちなんで、びくびくものでございましたが、おかげ様で、まず帰りは気強いというものでございます」 「所々に見える灯は、どこかの寮か隠居所だの」 「へえ、お旗本の別荘とか、上野の宮様の別院とか、吉原に大店を持っている人の寮だとか……そんなものばかりでございますから、淋しいわけでございまさ。……ア、旦那、そこに小さな流れがございますぜ」  闇から闇をフワフワと来る小提灯。いつか御行の松の前を右にそれて、一面の藪だたみ、ザザザザッという笹鳴きの声を聞きながら、男は縞の着物の袂で提灯の灯をかばってゆく。弦之丞は、しきりとしゃべっている男の話には、よい程な生返辞をしていながら、ひそかに笛嚢の紐を解き、秘差しの一刀へ左の手をかけて、プツンと拇指で鍔裏を押しきっていた。  どうせこの男も、古梅庵の若いものではあるまい。旅川周馬の手先になって、自分を誘い出しにきた囮に違いない──と見抜いたので。  そのせいか、男はわざとらしからぬように、いつも、弦之丞の左へ左へと寄って、小提灯の明りを、たえず、自分よりは対手の前へ寄せて歩いている。この分でみると、或いは、万吉がいったように、飛び道具の惧れがあるかもしれない。  提灯の明りは、暗夜の狙い撃ちに、何よりな的であるから、心得のある武士は、くわえ煙管と提灯は決して持たない。  藪だたみがつきて、道が二股にわかれる所へ来ると、男はツウと、また右寄りへ進もうとした。 「待て、道が違うようではないか」  弦之丞が立ち止まると、男はギョロリとすごい眼をくれたが、それは対手に感づかせない程な瞬間に笑い消して、 「へへへへへ。旦那、ご心配なさいますな、私はこれでも根岸にゃ四年も住んでおりますから、決して道に迷うなんていうことはございませんよ」 「しかし、鶯谷へ出るには、ちと、方角違いな気がするが」 「ところが、ズッと近道なんで……」グングン先に立って進んだが、やがて赤土の辷りそうな崖を上がると、闇ながら四方がひらけて、どこかを行く水の音がザアーッと低く響いている。 「ええ、寒いッ……」と男は一つ身ぶるいして、「旦那、ここはどこだか知っていましょう」 「ウム、御隠殿下であろう」 「あすこに見えるのが水鶏橋で……、あれを渡って向う岸を入りますと、古梅庵はもうじきでございます。さだめし、旅川様もお待ちかねでございましょう」 「だいぶ遅いが、周馬は宵のうちからまいっているのか」 「へえ、私がお使いに出る二刻ほど前から、奥の座敷でチビチビ飲んでおいででした」 「その周馬だけではなかろうが」  ジッと眸に力をこめて、眉間を睨みながらこうきくと、男は少しドギマギして、 「へい」と、うろたえ気味の提灯を、フイとこっちへさし出して、二ツ三ツお辞儀をした。 「旦那、まことに申しかねますが、提灯をちょッと持っていて下さいませんか……どうも尾籠なお話ですが、すこし小用がつかえまして……」  うさん臭い古梅庵の男が、先に立って、御隠殿の下まで道案内をしてきたかと思うと、そこで、 「旦那、すみませんが……」  と、弦之丞の手へ提灯を預け、小用をたすふりをして、スッ──と横ッ飛びに身を交わした。 「おう」と、なんの気もなく、明りを手に持った途端に、かれは異様な臭気を知った。  プーンと、闇に漂ってくる臭気! 火縄だ、火縄のいぶるあの臭い! 「あッ──」  と弦之丞が、その提灯を空へ捨てたのが早かったか、轟然とゆすッた鉄砲の音が早かったか? ──ほとんど、けじめのない一瞬。  上野の森の裏山へ、一発の銃声が、ドーンと木魂返しにひびいてきた刹那、はッと眼をこすって見直すと、空に躍った提灯の行方は知れず、それを持っていた弦之丞の影もあらず、ただ、強い火薬の匂いと、白い硝煙とが、玉になってモクリッと闇をかすっていた。 「うまくあたった!」  水鶏橋の袂へ、横ッ飛びに逃げだした男は、こうつぶやいて、枯草の中から、そろそろと亀首をもたげだす。  こいつ、古梅庵の提灯を、どう工面してきたものか、まことは使屋の半次といって、周馬や孫兵衛が、京橋の喜撰風呂にごろついている間に、手馴ずけられたあぶれ者。  かまきりのように、橋袂からゴソゴソと四つン這いに寄ってきて、半次、しばらく息を殺しながら、ジイと地面をすかしてみると、そこに顎をはずした提灯の落ちているのは見えたが、弦之丞の姿は見当らない。 「おや……」と、いったが、またすぐに、 「野郎。とうとうまいってしまやがった」  すッかり安心した様子で、のッそり腰を伸ばしかけた。  と、水鶏橋のほうから一人。向うのかげから一人、そして御隠殿のほうからまた一人……。  いかにも厳しい身構えで、一歩、一歩と、闇を探りながら、寄り集まってくる者があった。かかる夜、魔手をふるって、跳躍するには屈強な、黒いでたちという拵え。かすかに、その者の帯ぎわにキラキラ光るのは、金か銀か四分一か、柄がしらの金具であろう。 「半次か」 「周馬様で?」 「ウム」 「手ごたえは? ……」  と、また一方の黒装束。 「関金にこたえがあった。あたった弾は分る」  こう応じたのは、木立の中から短銃を引っさげてきた者の声だ。半次をのぞいて、同じ黒いでたちの頭数三人──、たしかに、旅川周馬、お十夜孫兵衛、天堂一角、この以外の者でないにはきまっているが、闇ではあり、覆面同装、誰がそれとも見分けがつかない。 「どこだ、彼奴の仆れた所は? ……」 「あ、その辺……。いえ、もう少し向うへ寄った笹の中で」 「はてな」 「そ、そこに、白いものがぶっ仆れているじゃありませんか」と、半次、及び腰で指をさした。 「違う……」 「道しるべの石だ」 「と、すると、もう少し向うだったかしら」 「油断を致されるな!」  それは、明らかに、天堂一角の声らしかった。 「仆れたに致せ、弾が急所をはずれていることもある」 「おう!」と思わず三方に開き分れて、ふたたび、念入りな構えを取りながら、いざといわば三本の白刃を、一度に抜き浴びせる気で、ジリジリと寄りつめて行った。 「や? ……」 「なんといたした」 「妙だ、いない。イヤ、何者も仆れておらんぞ」 「ばかな、そんな筈が……」  と、誰か、三人のうちの一人がいいかけて、グルリと、後ろを睨み廻した刹那だった。  すぐ、傍らの木の幹に、ベタリと身を貼りつけていた影が、 「弦之丞はここだッ!」  と、大声でいった。  剣の行く前に、まず対手の心胆を、真ッ二つにする気殺!  それと一緒に、声と五体と剣の光流! 一ツになって飛び斬りの真ッ向落し、あッというまに、一人の影を前伏せに斬ッて仆した。  測らぬ虚をつかれて、まっ先に、斬られた者は誰だったか? 「あッ」  と、いったのは使屋の半次。  斬られたような声をあげて、木立のほうへすッ飛んでしまったが、その逃げようでは怪我をしたふうもないから、さしずめそこで、 「ウウーム!」と、陰惨な呻きを血煙につつまれたのは、お十夜か、周馬か、でなければ天堂一角──、その中の運の悪い一人であるには違いない。 「ちぇッ! やられた!」  危なく、後の二人は跳び開いて、パッと居合抜きに大刀を払ったが、その瞬間、一方でパチン! と火花を降らしたかと思うと、すぐ焼刃のすり合う音がして、鍔と鍔とが競りあうまもあらず、デン! と一方が蹴仆された。  仆されたまま、エエッ! と、持ったる刀で地を払ったのは黒装束のほうの男。 「うぬッ──」と叫んで起き上がり、弦之丞の姿を八、九間ほど追いかけたが、その時うしろで、 「お十夜! おい、おいッ」  と、しきりに呼びとめる声がする。それは旅川周馬らしい。  怖るべき早技で、一人を斬り、一人を蹴仆し、疾風迅雷に駈け去った弦之丞の姿は、時既に、遠い闇に消えていた。 「ええ、しまった。意気地のねえ奴が揃っている」孫兵衛は舌うちをして振りかえったが、その途端にハッとして、鋭い眼ざしで闇を探った。 「誰だ……誰だ、今斬られたのは?」 「一角だ、一角が深傷を負ってしまった」  周馬は色を失ったような声で、怪我人を抱き起こしながらお十夜の応援を求めた。  すると、その時になって、木立の裾をつつんだ藪だたみが、嵐のように、ザワザワと揺れだした。そして、その中から、四人、五人、三人と、得物を持ったあぶれ者が、張合いぬけのした顔で、怪我人のまわりへ寄り集まる。 「間抜けめ!」と、お十夜は、時機をはずしてノコノコと出てきた大勢の面へ、唾を吐きつけるように腹を立てた。 「なんで、俺が抜いた時に、すぐに対手を押ッ包んでしまわなかったのだ。見ろッ、弦之丞の奴はとうの昔に逃げ出してしまった。やい、半次はどうした、半次は?」 「へえ、ここにおりますが」 「なぜ、てめえは、みんなに合図をしなかったのだ。ざまを見やがれ! 対手は夕雲流の使い手だ、てめえがまごまごしている間に、この辺にはまだミッシリと人数が伏せてあると気取ったから、素早く影を隠してしまった」 「おい、孫兵衛、孫兵衛」  と、深傷を負った一角を抱えて、旅川周馬がよろよろと立ち上がった。 「今さらそんなことをいって、ぷんぷん当り散らしていたところで始まるまい。早くこの怪我人を、どこかへ落ちつかせて手当てをしなけりゃあ……」 「深傷か?」 「深傷だ。──だが、急所じゃない」 「助かるものなら背負って帰ろう。何をするにも、この暗闇じゃ、しようがねえ」 「ウム、さし当って、血止めはギリギリと巻いておいた。だが、おれの手は血糊でヌラヌラしてきたから、貴公、少しの間代ってくれ」 「いや、そう皆で血みどろになっては、町へ出てから人目につく。おい半次、半次、てめえ、どこか町医者の所まで、天堂一角を肩にかけて行け。そしてな、役にも立たねえ、あとの有象無象は、もう用はねえからと追い返してしまうがいい」 「ええ、返します。ですが、旦那」 「なんだ」 「あいつらが、酒代を貰ってくれというんですが……」 「ふざけたことを申すなッ」 「それや、きッかけが悪くって、お役には立ちませんでしたが、賭場のゴロや駕かきなんぞを、呼び集めてきたんですから、手ぶらじゃ帰りません」 「太い奴だ。手ぶらで帰るのが嫌ならのべ金をやろう! どいつだ、酒代がほしいのは」と、さなきだに、弦之丞を討ち損じた腹立ちまぎれ、そぼろ助広を抜いて脅しにふりこむと、頼まれて来たあぶれ者は、胆をつぶして逃げだしてゆく。 「ああ、とても大変な血だ……」  やがて、一角を肩にかけて歩きだした半次は、顔をしかめて襟首を撫でた。周馬とお十夜は苦りきッてその後につき、手負いの一角は、時折、ウーム、ウーム、と虫の息をもらしていた。 目安箱  その夜、法月弦之丞が外へでるとまもなく、一月寺の宿院へ、二人の客があった。  どう考えても、今夜のことは不安で、今も炉にいらいらとした万吉が、軽く叩く戸の音に立ち上がってみると、忍びやかに入ってきた深編笠の侍とのしお頭巾の若い女。  女は、心待ちにしていたお綱、ということが、万吉にも一目で分ったが、はてな? 連れの侍は何者だろう──と膝をついて下から仰ぐと、訪れた常木鴻山。 「突然まいって、さだめしびっくりしたであろう」と笠をぬいでお綱に渡す。 「やッ、あなたは!」といったきり万吉はただあきれ顔だ。そうだろう、天満組三人のうち、俵一八郎は阿波屋敷に捕えられ、鴻山はぬきや屋敷を去って以来、紀州の奥にでも隠れているのだろうという噂をきいたままで、今は、実際のもくろみにかかって働いているのは、自分一人と思っていたところだ。  それさえあるに、その鴻山が、見返りお綱と一緒に、突然、この宿房へ訪ねてきたのだから、かれの驚愕はもっともだ。しかし、この訪れは、同じ意外でも、一刻前に来た周馬の訪れと違って、まことにうれしい邂逅である。 「まず、ともあれこちらへ」  と、炉べりにいざなってきたが、さて、渋茶をくんで出すいとまも惜しい。大阪以来のつもる話、江戸表へ来てからのこと……何から何を話していいやら。  一通りの話をきき、万吉の苦衷のある所に、鴻山もとくとうなずいて、次には、自分がここへ来るまでの経路を、飾り気なく物語った。 「この女に、ふところの金を掏られて、投げ十手を打ったのが、そちの居所を知る機縁となった。そこで一刻も早く、弦之丞殿へも会いたく存じたので、夜中を押してまいったのじゃ」  と、笑いながらでも、あの時のことを、あけすけにいわれた時には、見返りお綱、顔をまッ赤に染めて恥じ入った。 「いったん心を入れ代えるといっておきながら、面目のない訳ですけれど、それにも、こうした切ない事情があったんです」  偽らぬお綱のざんげ話にも、二人は強く心をうたれた。そこへ、足音しずかに、法月弦之丞が帰ってきた。  常にかわらぬ落ちつきようだ。  万吉もその様子を見てホッとしたが、ヒョイと見ると鼠甲斐絹の袖に、点々たる返り血の痕──。ああ、斬ったな、何かあったな、とは思ったが、折からの来客、それを問うまもなく、また弦之丞も話をそれに触れず、常木鴻山と初対面の挨拶をかわした。  その部屋には、夜の明けがたにいたるまで、焚き足す榾の火がつきなかった。しっかりと手を握り合って、互に、奥底までの胸襟をひらいたので、常木鴻山は、年来の目的を達することに、はッきりとした曙光を感得し、翌朝、眠らずとも晴々しい顔で、一月寺を辞し、左京之介の屋敷へ帰って行った。  そしてまた、四、五日おきに、幾度となく、ここと大手町との間を往復した。  かくて、左京之介と、鴻山と、弦之丞との間に、なんらかの密約が成り立ったらしい。  ある日である。  月はじめの如月日和。  ひそかに、大手町の松平家をでた女乗物は、左京之介が茶席や閑居にのみ建ててある、江戸郊外の代々木荘へ急いでいった。その駕には、狂ったお千絵がのせられている。  鴻山が心をこめてのませた南蛮薬草のききめもなく、お千絵の心はとりとめもなく乱れていた。  代々木荘には、前の日から左京之介が滞在し、その朝は、弦之丞と鴻山がきて、奥の一室を密閉し、家臣を遠ざけ、何かヒソヒソ半日余り密議をこらしていたのである。  代々木荘の密議の半日。午後になって、ようやく何かの諜しあわせが一決したとみえ、 「では、早速がよいぞ」  と、窓の内で左京之介の声がした。その時、紅白の山茶花がポトリと黒土の上へこぼれて、上の障子が細目に開く。  脇息を離れて、窓ぎわへもたれた左京之介の半身と三ツ扇の紋がみえた。 「只今、予が申したような順序をふめば、いずれお上より、何らかのお沙汰があるに違いない。天下の大事、よも、お捨ておきになる筈はない」 「はっ」  密話がすんだので、弦之丞と常木鴻山、二、三尺ほど後へ辷って、きちんと両手を膝に正していた。 「さすれば、その儀について、この輝高がお召をうけるは必定である。その時、お上のお訊ねに対して、そちたちの願望、足かけ十年の苦衷、つぶさに申し上げる所存。また、この輝高の意見としても、阿波探索の必要をおすすめ申し上ぐるであろう」 「ひとえに、御助力のほど願わしゅう存じます」 「いや、そち達に頼まれいでも、大公儀にとって由々しい問題じゃ。必ずこの上ともに、輝高をうしろ楯と思うがよい。しかし、京の公卿たちと気脈を結んで、幕府を倒そうとする阿波そのものの陰謀、たとえ歴然たるにいたせ、確たる証拠をつかまぬうちは、どこまでも、この儀世間に洩らしてはならぬぞ」 「は、それは法月殿も、とくと心得ておりますし、拙者も、大事に大事をとって秘密を守っておりまする」 「そういう点からも、これを、密々お上のお耳にだけいれて、弦之丞が大公儀の隠密役となり、阿波へ探索に入りこむということは、何より、よい策のように考える。ただ弦之丞は大番頭法月一学の伜、公儀の隠密役としての御印可あるや否や、その点だけがちと心配であるが……」 「段々とありがたいお取り計らい、お礼の申しようもござりませぬ」と弦之丞は、この日、左京之介から何か重大な策を授けられたもののごとく、いんぎんに礼をのべて、 「この上は、少しも早く一月寺へ立ち帰り、委細の下書を作りました上、仰せのように致して、またのお沙汰を待ちまする。では、これにてお暇を……」と、立ちかけると、 「あいや」と左京之介が止めて、 「その話はすんだが、今日をよい機と存じて、鴻山がそちに一人の婦人と引き合わせると申している」 「弦之丞殿。それは先日お話しいたしたお千絵殿でござりますが……」と、常木鴻山は気の毒そうに語韻を沈めた。 「蘭薬を試み、いろいろ手当てを尽くしてみましたが、まだ幾分か乱心のところがあって、時折狂いだしまする。で、騒がしいお上屋敷よりは、この代々木荘なれば養生にもよし、人目にもつかぬであろうという、御当家のお取り計らいで、ちょうど、今日駕にのせて、ひそかにここへ移してまいる筈……。どうでござりますな、よそながら、お会いになっておいでになっては」 「は……なんと、お礼の言葉もござりませぬ……」弦之丞は冷静になるべく悶えていた。乱れだした情熱をおさえきるまで、ジッとうつむいていたが、やがて、思慮をきめて、 「勝手のようではござりますが、只今会いましたところで、拙者を拙者とも分りませず、積もる話をすることもなりますまい。御当家のお情けに甘えて、何とぞ、このまましばらくの間お預りを……」 「なるほど」と、鴻山は、弦之丞の気持が分るようにうなずいた。 「よろしゅうござる。医養の及ばぬ病とはきくが、この鴻山が手をつくしても、御養生の方はおひきうけ致す」 「それにて安堵いたしました。何分ともここしばらくの間を」と、弦之丞はそこを辞して、茶荘の門を淋しく出てきた。  すると、入れ違いにスウと門へ入って行った一挺の蒔絵駕。 「あ、今のが──」  と、思わず天蓋を振りかえらせた時、玄関の方で、何か、とりとめなく口走るお千絵の声が、かれの胸へ針のような辛さをうった。 「おお……」  門柱の蔭にすがって、弦之丞は、駕から奥へ連れられてゆく、痛ましい人の姿を見送っていたが、やがて、両眼へ掌を当てたまま、鼠甲斐絹のかげ寒く、代々木の原を走っていた。  弦之丞は、今朝、起きるとすぐに机に向っていた。  何であろうか、わき目もふらず、奉書七、八枚に達筆を走らせ、草し終ると、二重に厳封して、封の表に太く強く、「上」と書いて机にのせ、しばらく腕をくんでいた。  これでよかろう──というふうに、やがて次の部屋に向いて、 「万吉。用事がなかったら、ちょッとここへまいってくれぬか」 「へい」というと襖が開いた。炉べりに砥の粉と紅殻と十手が置き放してある。暇にあかして磨きをかけていたのだろう、十手が燦然と光ってみえる。 「何か御用でございますか」 「ウム」といって、机の上の奉書封じを取りあげたが、ふと次の部屋を覗いて、 「お綱は?」と、万吉の顔を見た。 「何を思いだしたか、今朝は朝飯も食べずに、妻恋の家を畳んでくるのだといって出て行きましたが」 「どうも解せぬ女ではある」 「わっしには、少しばかり、お綱の心が分っております。だが、それをこうとは、あなたへいえない話なんで……。まあ当分のうち、あの女のすることを、見ていてやって下さいまし」 「それは困る。今の場合、お綱がこの宿院におることすら、密かに迷惑と存じている」 「けれど、あの女のことですから、一念思いこんでいることは、きっとやり通すだろうと思うんで」 「不審なことを申す。なぜじゃ」 「ゆうべ、弦之丞様が代々木からお帰りなすって、いよいよ阿波へ立つ日も近づいたぞ──と俺へおっしゃった一言を聞いてすら、今日はもう、早速、妻恋坂の家を片づけ、いつでも一緒に旅立つ覚悟をしているくらいですから」 「すると、拙者について、あれも阿波までまいるつもりでいるのか」 「それをお綱は、四天王寺で犯した、自分の罪の償いだと信じているのですから、止めるわけにも行きません」 「何とあろうが、さようなことはまかりならぬ。拙者が阿波へ渡るのは、大きくは公儀のお為、小さくは甲賀世阿弥の消息をつきとめ、お千絵殿の……」といいかけて、弦之丞は、ふと暗い顔になった。駕から出て、代々木荘の奥へ入ったあの姿が──あの狂わしい声が、まざまざと思い浮かぶ。  と、またきッとなって、万吉を責めるように、 「そちもまたそちではないか。お綱がさような心得違いをしておるなら、なぜとくと意見をしてやらぬ。ただの旅やいたずらごとではないぞ、他領者禁制の関をくぐって忍びこむ命がけの探索。女づれの同行がなるか成らぬか、つもってみても知れたことじゃ」 「…………」万吉は、一言もなかった。俺はまったく、お綱の心を買いすぎている、と自分でもはっきり気づいている彼であった。  そのくせ、お綱の今の真向きな気持──それはやっぱり事情のゆるすかぎり、容れてやりたい気がするのだ。けれど、弦之丞へ恋していることだけは、万吉には、どうも話しにくくって、ついそのまま、おくびにも出さずにいる……。  だから弦之丞には、お綱が、天王寺で紙入れを掏った罪を深く悔悟している心もわかり、また、その悪い渡世の境界から、生れ代ろうとしている悩みも分っているが、より以上、どこまでも、自分について──しかも阿波へ渡る秘密の旅先まで、つきまとおうとする心のほどが解せないのである。  恋の力! ときけば、彼にも一語でうなずけよう。その代り、今の如き真剣味でいる弦之丞は、キッと、お綱を悲嘆の底に落すだろう。  あの、不愍なお千絵を忘れて、お綱の恋をうけいれるような弦之丞でないことは、万吉にも、あまりに分りすぎている。 「おっしゃられてみれば、まことに、ごもっともでございます」と、引き退るよりほかにない。 「折があったら、よく言い悟して、得心させておくがよい」 「なんとか、諦めさせましょう」と、ぜひなく答えたものの、いつか板挟みになっている万吉、肚の底では、密かに弱りぬいている。 「オオ、話がそれた──」と、弦之丞は改まって、「ご苦労だが、今日は一つ頼みがある。この密封の書付を持って、大急ぎにまいってくれい」 「承知しました。して行く先は?」 「辰の口の評定所──あの右側の御門にある目安箱へ、この上書をソッと投げ込んで来てくれまいか──つまりこの一書は、弦之丞がいよいよ阿波へ発足する口火となるもの。早速、行ってきて貰いたい」 「エ?」と万吉。それへ出された密封の書付へ目をみはって、 「では、これを評定所の目安箱へ、ほうりこんでこいとおっしゃいますか」 「そうじゃ。ちょうどきょうは七の日にあたる。月に三度の御開錠日。目安箱が柳営へあがる日である、午の刻を過ぎぬうちに、急いでそれを入れてきてくれい」 「かしこまりました」  帯をしめなおして、三尺と臍の間へ、シッカリとそれをしまいこんだ。ついでに、磨きかけていた十手を内ぶところへ逆に差して、 「じゃあ行ってまいります──」 「頼んだぞよ」弦之丞も立って、書き損じの反古をまるめ、炉の中へくべて、ボッと焔にしてしまった。 「一走りでございます」  煙といっしょに、威勢よく、宿院の軒を出た目明しの万吉。大股に急ぎながら、しきりと首をかしげている。 「目安箱へこれを入れる? ……目安箱へ? ……ははア、さてはいよいよ昨日の相談で、常木様と弦之丞様と、そして松平の殿様と、何かの話がまとまったな。それだ! そこでこの御上書だ、ウム違えねえ! とすると、阿波の怪しい様子を将軍様のお耳に入れて、表向きのお沙汰となるか、それともまた、弦之丞様と俺とが、こッそり阿波へ探索に入る段取りとなるか、なんとか目鼻がつくんだろう」  ひとり問いひとり答えて、一月寺の横門から、根岸田圃を斜かいに切ッてゆく万吉。笹の雪から車坂の途中、幾つも駕屋を抜いて、タッタと元気な足を飛ばしていた。 「時節到来。時節到来」  こんなことをつぶやきながら、ニヤニヤ笑って駈けて行った。ドンと誰かに突き当たったが、 「おッと、ごめんよ!」振りかえりもせずにまた駈ける。足はドンドン加速度になって、またたくうちに外神田から鎌倉河岸──評定所のある辰の口和田倉門はもうすぐそこだ。 「春が来たぜ、春が来たぜ! お濠の柳が芽を吹いてら! 丸の内へも渡り鳥がやってきたぜ! 三本鳥毛の槍先にチラチラ蝶々が舞っている。──こういう春は毎年だが、この万吉には十一年目で、やッと巡りめぐってきた春なんだ! なんだか今年はすてきもねえいいことがありそうだ。時節到来、時節到来」  かれの心が、こう叫んだ。  実際今の万吉は、春の鳥のように軽快だ、前途に耀々たる曙光がある。まだ深い話を弦之丞から打ち明けられていないが、この御上書を辰の口の目安箱へ投げ入れてこいというからには、ほぼ想像のつく内容──すなわち、急転直下に、いや急転直上に、阿波の内密、公卿浪人の策動、甲賀世阿弥のことなど、すべてを箇条書きにして、将軍家の御覧に達し、そして? そして? さアその先は万吉には分らないが、なにか、いい吉兆のある気がする。  まもなく外濠、和田倉御門。  評定所はその筋向いにみえる。 「おお、あれだな」  と万吉、スタスタと門前へ寄って行った。  厳めしい冠木門から奥まった式台まで、ズーと細かい玉川砂利が敷きつめてある。  その袖門、門柱から二、三尺離れた所に、いわゆる目安箱というものがかかっていた。  これは、八代将軍吉宗の時代から設けられた一つの制度で、百姓、町人、僧侶、神官、誰でもかまわぬ、何か治政上についての得失利害、役人の奸曲、奉行の圧政など、上申したいことがあったら、書面にしたためて箱の中へ投げ入れておくことをゆるされたもの。  開錠日は、月三回、七の日と決まっている。お錠番は評定所付きの御小人目付、その日の正午に箱ごとピンとはずして、柳営の奥坊主へ届ける、奥坊主はすぐこれを本丸の小姓頭の部屋にもちこみ、そこで御用取次の役人がついて、将軍家休息の間の中央にすえておく。この間は何人でも、その箱の中の書類に指をふれることは無論、覗くこともゆるされない。  その目安箱の側へよって、万吉は、ふところから弦之丞のしたためた密封をさぐり出し、生唾をのみながら、箱の口へ、ポンと入れた。 「さて、このあとの御沙汰が、吉とくるか、凶とくるか。……この書付一本が、天満組の俺たちや、甲賀家のお千絵様、また弦之丞様たちが、一生涯浮沈の分れ目……」  自分の手で入れた書類が、箱の底へゴソリと落ちこんだ音に、かれは一種の昂奮と動悸をおぼえて、そこに茫となっていた。 「町人! 早く歩けッ」  門番にどなられて、万吉は初めてハッと吾にかえり、からくり人形のように、春風の中へ、ふわりと足を運びだした。  一方、その日の目安箱は、常例のとおり、評定所づきの役人の手から、御小人目付、奥坊主、御用番の順をへて、江戸城本丸の将軍家休息の次の間にすえられていた。  やがて、将軍自身の出御がある。  月番御用取次は、立花出雲守。  ズーと、お座所の前へそれをすすめて、 「ただ今、評定所の目安箱、お表より上がりました」といった。 「ウム」  当時の将軍家は、十代家治であった。軽くうなずいて紅錦の嚢をとりだす。いわゆる肌着のお巾着、守り鍵とともに添えてあるのを、 「開錠せい」と、小姓頭高木万次郎の手に渡した。  ピンと、箱の錠をあけて、中の投書を揃え、将軍家の前へさし出して、空箱は元どおりの順に下げ渡される。  家治はそれを持って、楓の間へ入った。  四、五通の書類であった。楓の間は密室なので、小姓頭以外のものは近侍しない。上から順にくり拡げて目を通してゆくと、やがて、将軍家の眼に、異様なかがやきが流れた。  それは、弦之丞が書いて、万吉が投げこんだあの奉書七、八枚の長文である。 「ウーム……これは容易ならぬことじゃ」  息を殺して黙読して行くうちに、家治は強い衝動をうけた。今、柳営の春は和光にみち、天下は凪のごとく治まっていると思いのほか、いつか西都に皇学の義が盛んに唱えられ、公卿と西国大名の間に、恐るべき叛逆の密謀が着々として進んでいるというのは、なんとしても彼だけには、不審であった。  しかも、弦之丞の上書には、歴然と、それが箇条書きに並べられてある。そして、蜂須賀阿波守がその反幕府派の盟主であることが、指摘されてあった。  阿波第一の不審は、十年前から、領土に他国人を入れぬ制度をとったこと。  第二は、安治川の船屋敷で、堂上公卿たちとしばしば密かな会合を催すこと。  第三は、宝暦変の時に、倒幕の先鋒であった竹屋三位卿が、幕府の目をくらまして失踪の後、いつか同家の食客となっていること。  等、等、等、いろいろ家治の心胆を驚かさぬものはない。さらに、別札には、それについて、弦之丞の目的である、一通の嘆願書がそえてあった。  願書は、甲賀家の私事に筆をおこしている。  今から十一年前に、その内秘をさぐるため阿波へ入国した世阿弥の顛末。また、その一子が女であるため、昨年改易されて甲賀家のたえたことを誌し、最後に、自分は仔細あって、阿波守の身辺に接しもし、また世阿弥の所在を知りたいこともあるので、烏滸ながら、公儀の隠密として、阿波探索の密命を仰せつけられたい──という熱願の文面であった。そしてなお委細のことは伝手を求めて、元の京都所司代、松平左京之介の手もとまで、言訴してある由をつけ加えてある。  弦之丞が、目安箱を利用して、わざとこうした手段をとったのは、代々木荘で鴻山と左京之介との相談でやったことだが、一つには、お千絵の幸福のため、甲賀家の再興のためでもあった。いかに自分が苦心しても、公ならぬ、一個の法月弦之丞としてやった仕事では、無意味である。  目安箱のききめはあった。  それから十数日の後、松平左京之介、突然お召状をうけて本丸へ伺候した。果たして、将軍家は、楓の間の御用箪笥から、弦之丞の嘆願書をとりださせ、阿波の嫌疑や、甲賀家のことや、弦之丞の身がらについて、さまざまな下問があった。  この日、将軍家は左京之介に、何か、大事な密命をさずけたらしい。それかあらぬか、左京之介は、屋敷へ帰るとすぐに、常木鴻山を別室に招いて、密談数刻の後、使いを飛ばして、一月寺にいる弦之丞を呼びにやった。  吉報を待ちわびていた弦之丞、この日だけは歩くのももどかしく思ったか、駕を急がせて、駈けつけてきた。  そして、松平家の奥へ入った──。  たしかに、この夜、かれは松平家の脇門から、奥座敷へ入ったに相違なかった。だが──どうしたのだろう? 幾日たっても、法月弦之丞、あれッきり屋敷から出た様子もなし、また、一月寺へも帰ってこない。 悪行善心 「喧嘩だッ」 「喧嘩だ、喧嘩だ」  朝ッぱらからの騒ぎである。  五十間の両側に、暖簾をならべている飲食店の内から、客や女が、いっせいに外へ飛びだしてみると、廓の大門口から衣紋坂の方へ、一人の侍が、血刀を持ったまま、盗ッ人のように逃げて行った。 「斬られた!」 「誰だ誰だ、斬られたのは」 「対手は逃げてしまった──早く、早くしろいッ」 「オオ、こいつア助からねえ、肋にかけて斬られている」 「助からねえッて、見ている奴があるものか」 「オイ弥次馬、ばかな面をして見物していねえで、手を貸せよ、手を!」  ちょうど、大門の高札場前。  喧嘩や斬合いは、この廓の年中行事。別に珍らしいほどでもないが、夜と違って朝ッぱらの血まみれ騒ぎ、真っ黒になってワラワラと駈け集まった。  肩から背すじにかけて、むごい太刀傷を浴びせられ、そこにうっ伏していた男は、この辺の者とみえて吉原つなぎの袷袢纏に、算盤玉の三尺をしめ、ウーム、ウームと、土を吹いて苦しげに呻いている。 「や、こりゃ孔雀長屋の者じゃねえか」 「紋日の虎だ。紋日の虎五郎だ」  虎といえば、知らぬ者はない程なあぶれ者、驚きながら抱き起こすと、朝酒でもあおっていたところを斬られたとみえて、おびただしい血がこんこんと吹き流れている。 「この野郎め、また酒を食らやがって、人の見境なく喧嘩でも吹ッかけやがったに違いねえ。ざまア見やがれ、といってやるところだが、悪い奴でも、こんな深傷を負っちゃ可哀そうだ。オオ、番屋の戸板を外してきねえ」  気転のいいのが三尺を解いて、傷口を押さえているまに、持ってきた戸板へ怪我人をのせ、祭りのように、ヤッサヤッサと五十間を急ぎだした。  ゾロゾロとついてくる弥次馬を追ッ払って、四、五人の顔役だけが戸板と一緒におはぐろ溝の小橋を渡り、路次の狭い長屋の奥へ入って行った。 「オオここだぜ、虎の家は」 「誰かいるのか」 「ガラ空きだ──誰もいやしねえ」 「隣で聞いてみねえ、隣でよ」  戸まどいをしている間にも、虎五郎の顔は土色に変ってきて、戸板の隙からポタポタと垂れる血汐も力なく細ってくる。 「オイ、隣の衆──」と、一人が台所から首を突っこんで、 「この虎五郎の家はガラ空きだが、誰か家の者はいねえんですか、大変が起きたんだ、大変が」 「アア、お隣の人ですか」と羅宇屋煙管の親爺が、なんの気もなく破れ障子を開けて言った。 「稼ぎに出る子供がいますよ、三輪ちゃんに乙坊というのがネ──。それが今朝、ひもじそうにふるえているので、よけいなおせッかいだが、お隣の飯櫃をのぞいてみると、御飯なんざ一粒だってありゃアしねえ。空ッぽだア。で──今私のところで、お茶漬を食べさせてやっているところなンだが、何か御用ですかい」 「子供じゃ、しようがねえなア」 「じゃ、親父さんを探したらいいでしょう。またお決まりの茶飯屋へでも行って、勝手な大たくらを吹いているに違いない」 「ところがよ、その紋日の虎が、どこかの侍に斬られたンだ」 「えッ、き、きられたンですか、虎さんが」 「戸板にのせて持ってきてやったのだが、それじゃ、手当てをする者もねえだろう。もっとも、どうせお陀仏になることは、相場がきまっている怪我人だがネ」 「そ、そいつア大事だ!」  と、色を失った羅宇屋の親爺が裸足で外へ飛びだした途端に、そこの家で、朝飯を貰っていたお三輪と乙吉が、手に持っていた飯茶碗をとり落して、ワーッと一緒に泣いてしまった。  その騒ぎに、長屋中が総出になって、とにかく、怪我人を戸板から移したが、近所合壁の同情は、瀕死の紋日の虎よりは、むしろ、そばにメソメソと泣いている、お三輪と乙吉の方に集まって、 「泣くンじゃない、泣くンじゃない」  と、菓子や食べ物を持ってくる者があるし、 「心配おしでない、今夜は、わたしが側にいて、面倒をみてあげるから」と、吾家をほうって、泊りにきてくれるお婆さんもある。  苦悶のあとは昏睡に落ちて、この界隈で鼻つまみなあぶれ者も、息の細りとともに断末へ近づいてゆく。 「もう、駄目でしょうよ」  と、怪我人のほうへは見きりをつけて、あしたは早速、虎五郎の枕元で、長屋の誰彼三、四人がヒソヒソと善後策の相談。まず何よりの問題は、お葬式の費用であった。 「しかたがありませんから、町年寄へ泣きついて、いくらかお慈悲を仰ごうじゃありませんか」 「駄目駄目。およしなさいよ」 「虎さんじゃネ──なにしろ、可哀そうだと、いってくれる者はありますまい」 「ひどい悪者で通っているから──こんな時には」 「じゃ、長屋の衆に、もう少しずつ泣いて貰って、棺桶と線香代……」 「お寺は?」 「箕輪の浄閑寺、あすこの、投込みへ、無料で頼むよりしようがないでしょう」 「浄閑寺の投込みは、廓の女郎衆で、引取り人のない者だけを埋葬する所。地廻りの無縁仏まで、ひきうけてくれるでしょうか」 「困ったなア。といって、ほかに方法はないから、そこを一ツ、泣きついてみましょうよ」  虎五郎は、ドンヨリした眸を天井へ向けて、仮面のような、怖い皺をよせていた。と、その蒲団の足の方へ、うっ伏していたお三輪がヒョイと、 「お隣の小父さん。困るッて、お金のことなの?」  泣き腫れている顔をあげた。 「ウム、お金だ。だがネ、お三輪坊。おめえなんか子供だから、なにも、そんなことを心配するにゃ当らないよ」 「でも小父さん、お金なら、まだちゃんのふところに、小判がたくさん残っている」 「えッ、小判が?」  半信半凝で相談の上、虎五郎の胴巻をほどいてみると、お三輪のいったとおり、垢もつかない鋳き立ての小判が、古畳の上にザラザラと二百両余り。 「あ! 小判だ」 「ほんものだ!」と、一同は、ぎょッとして手を引ッこめたまま、ただ茫然としてしまう。  さて、難儀な中にまた厄介な代物が出てきた。無職で性質の悪い紋日の虎が、金座の坩堝から出たばかりの、うぶな小判をこう持っているのは怪しいよりは怖ろしい。この金の素姓も問わずに、手でもつけたら、それこそどんな災難が降ってくるかも知れない……と、まず筋向うの糊屋の婆さん、妙に、シンミリと声を落して、 「お三輪坊……」と、側へよった。 「いッたい、どうして、こんな大金を虎さんが持っているのか、お前、なんだか知っていそうだね……」 「ええ。知っている」  お三輪は、率直に答えていう。 「こないだの晩、お綱姉ちゃんが、窓の下へきて、ソッと、あたいにくれて行ったの……」 「えっ、お綱さんがかい?」と、みんな顔を見あわせて──「なんだッて、お前にそれを渡して行ったの」 「このお金で、廓にいる、小ちゃい姉ちゃんを落籍して、あとのお金で店でも出して、みんなで仲よく働いてお暮らしよ──、そうして、細かいことは、この手紙に書いてあるから、お父さんが帰ったら、よく、読ンでくれるように、頼むンだよ……って、そういったまま──」  話しているうちに、お三輪はシクシクしゃくりあげて、後のことは言いにくそうに、蒲団の中へ顔を埋めた。 「ふウーム……」と、等しく、長屋の者が、目と目を見あわせていると、今まで、昏々としていた紋日の虎。 「ア痛……、ア痛ててて……」と、苦悶の皺を深くよせて、火のような喘ぎと一緒に、なんとしてか、ポロポロと涙を流した。 「す、すまねえ。……お綱にすまねえ、お長屋の衆、後生ですから、わっしが目をつぶる前に、あいつに一目会わして下せえ。……お、お綱は、ここにおりますから」  おののく手で、つかみ出した手紙の端──、それもベットリと黒い血にひからびて、一月寺──という字が淡く書いてある。  死期を悟ったものであろう、紋日の虎五郎、苦しい息で、しきりに悪行をざんげする。 「悪かった、すまなかったよ……」  唇をワナワナさせて、繰り返した。 「お三輪や、乙吉や、廓へ売り飛ばした娘は、みんな、おれと、お才との間にできた子だ。すまねえが、おれのような悪い親父を持った因果。……だが、お綱は、わっしの子じゃアありません。そのお綱から、意見手紙をつけてくれた、三百両の金まで、いい気になって、飲んだり打ったりしておりやした。罰があたったンです、罰だ。こうなったのも……」  つかんでいた手紙を、力なく離して、 「下谷の一月寺におるッて書いてあります。お長屋の衆、後生ですから、お、お綱にちょッと知らせておくんなさい。あ……あいつに一言、い、いい残すことがあります。わっしがこのまま死ってしまうと、お綱は、とうとう一生知らずにいるでしょう……」  何か深い仔細があるらしい。  それをお綱にいわないうちは、さすがな虎も、両掌を合すことができないふうだ。一月寺といえば、根岸の奥、誰か一走り行ってこい──イヤ、あぶないぞという者がある。アレは名うてな女スリ、この辺へ立ち廻ったら届けろという五人組のお沙汰だ。  といって、死なんとする善き声を、無情にほうッてもおけまい、長屋一同が口どめの誓約をして、今夜こッそり呼んできて、すぐ帰したら、まさか、番屋へも知れやしまい。  よかろう、ではこのことを、他言するような不人情者は、この孔雀長屋からお構いだぞ。──というので、 「オイ、虎さん。今お綱さんを呼んできてやるから、それまで、気をしっかりしていなよ。いいかい!」  と、中で、年の若い男が、尻切れ草履を突ッかけて、あたふたと、長屋の路次を飛びだして行った。       *     *     *  目安箱の上書が効を奏して、楓の間の密議となり、元京都所司代であった松平輝高は、召されて将軍家から内々に秘命をうけた。  その結果。  法月弦之丞は、松平家から火急な使者をうけて、いよいよ吉報と、よろこんで駈けつけたが、不思議や、そのまま行方不明となってしまった。  よもやに引かれて、今日は帰るか、明日は松平家から、なんとか沙汰があるかと、一月寺の宿院には、万吉とお綱とが、痩せる思いで待っている。不安な、さびしい日が二人に続いた。  けれど、遂に、弦之丞は、帰らなかった。  お綱は憂鬱になった。 「やッぱり私は、あの人に嫌われている……」  万吉は万吉でまた、 「こいつは、目安箱が、悪い方へたたったかな? ……」と考えて、とかく凶事にばかり想像される。  で、焦躁のあまり、かれは今朝早く飛びだして行った。  松平家へ出向いて様子をきき、もし、そこで要領を得ないようなら、代々木荘まで行って、常木鴻山に会い、その後の成行きや、また弦之丞の帰らぬわけを糺してくる、とお綱にいい残した。  すると、午後になって、目明しの万吉。どこで支度をととのえたか、旅合羽に道中差、一文字笠を首にかけて、 「お綱、とうとうお別れだ」  不意に、妙なことをいって、帰ってきた。  しかし、出て行った時の不安な顔とは、ガラリと変って、ばかに元気づいている。そして、遠旅にでも出るように、振分けや畳み桐油紙まで肩に掛け、上がりもしないで、 「常木様に会った話の都合で、急に、おれはこれから、西へ素ッ飛ぶことになった。──だが、お前に断わりなしで出先から立ってしまうのも、あんまり寝覚がよくねえから、ちょッと、お別れをいいに戻ったが……、お綱、ここはなんにもいわないで、お前は一ツ、別に考えなおしてくれ」  お綱はあッ気にとられてしまった。  万吉の口裏では、恋はともあれ、真心だけは、弦之丞も不愍なやつと、認めてくれているらしいので、妻恋の家も畳み、妹弟たちの始末もみて、いつでも、江戸に未練のないように、心支度をしているものを──。  その弦之丞は、出先から姿を隠し、万吉はまた万吉で、突然、帰ってきたかと思うと、上がりもせずに腰掛け話で、 「おれは急に西へ立つから、お前はお前で、別に身の落ちつきを考えなおすがいい」と、いわんばかりな、突ッ拍子もない言葉。  サッと、お綱の顔色が変った。  自分はまだ、弦之丞様にも、誰にも信じられていない! だから振り捨てられるのだ──。厄介な女と、二人が腹を合せて態よく私を振りきッてゆく──。西へ? それは無論、阿波への旅であろう。  こう思うと、お綱は、ワナワナと唇をふるわせた。勝気なだけに、ジッとこらえてはいるが、こみあげてくる悲しさの後から熱い涙が、とめどもなく睫毛に溜った。 「万吉さん──」  いきなりすりよると、万吉の手を痛いほど握り取って、 「な、なぜ、こうならこうと、明らさまにいっておくれでない。私も江戸の女、事情を明しておくれなら、どうでも自分の情を張ろうとは言いはしない……」 「だから、その訳を話して、得心して貰いてえと思って、急ぐところを引ッ返してきたのじゃねえか。まア、落ちついて、おれの話を聞いてくれ」 「いいえ、聞かないでも、およそのことは分っています。だけれど、それじゃお前……」 「おッと、その後をいってくれるな。墨屋敷の窓の下で、約束したことは、必ず忘れていやしねえ。またお前が命がけで、お千絵様を探りだしてくれたことも、弦之丞様としてみれば、心じゃ礼をいっているくらいだ。だが、ままにならねえのは今度の旅立ち……、弦之丞様は、この万吉にさえ一言も洩らさずに、もう半月も前に、中仙道から上方へ、お立ちになってしまったのだ」 「えッ……。では法月さんは、もうこの江戸にいないのだね……」 「そうよ。俺もずいぶん半間だったが、弦之丞様も弦之丞様だ。松平様のお屋敷に呼ばれて、常木様と三人で、コッソリ相談をきめるとすぐに、代々木荘から夜にまぎれて、甲州街道をお急ぎなすってしまったという話──」 「じゃ、万吉さんまでを置き残して? ……」 「だから俺も、そう聞いた時にゃ、常木様へさんざん不服を並べてしまった。けれど、深い仔細を聞くと……」と、にわかに声を低めて、ソッとあたりを見廻しながら、上がり框から身を延ばした。 「目安箱の御上書やら、左京之介様のお計らいで、弦之丞様へ、ごく密々なお墨付が下ったのだ、早くいえば将軍家のお声がかり──、阿波の間者牢にいる世阿弥に会い、蜂須賀家の陰謀をあばく一ツの証拠を聞き取ってまいれ──という御内命であったそうな」 「では、とうとうそのことが、将軍様のお指図とまでなって?」 「公儀で表沙汰となさるには、まだ拠り所が充分でない。といって、これから大がかりに、所司代やお目付が手を廻せば、向うで気取ってしまうから、この探索は弦之丞様一人がいいという御方針になったらしい。そこで弦之丞様が、首尾よく甲賀世阿弥に会って、何ぞ、蜂須賀家の急所を押すような証拠をつかんでおいでになれば、即座に、阿波二十五万石はお取潰しとくる段取になっている。無論そうなれば、あのお方一代の誉れ、甲賀の家にもふたたび花が咲こうし、十年以上も暗闇の手探りをしていた天満組の俺たちも、さすがに目が利いていたといわれるだろう──。けれど俺は不服だった」  包みきれぬ昂奮に、いつか調子を張っている自分の声に気がついて、万吉は、ここでちょっと言葉をきった。 「阿波の海陸二十七関、そこを潜って剣山の間者牢までまぎれこむのは、なるほど、できるだけ密かがいいし、弦之丞様の身になっても、足手まといがねえほうがいい。けれど俺は大不足さ、ここまできて、大事な、本舞台へのり出さなくっちゃ、目明し万吉の一分が立たねえ。イヤ、そういうと、たいそう見得をきるようだが、大した出世にも金にもならず、ただこういう山を当てることだけを楽しみに、家や女房まで捨てて歩いている、目明し根性にしてみりゃア、ちっとばかり、役不足にも思うだろうじゃねえか」 「おれも天満の万吉だ。ポカンとした面をして、江戸に待っていられるものか。弦之丞様に追いついて、どうでも一緒に阿波へ渡る──と、じつあ、常木様のお諭しもきかねえで、ぷいと、代々木を飛びだした帰り途──、これ見てくンな、柳原の吊しん棒で、合羽や脚絆の急仕立て、すぐに旅へ立とうとしたが、ハッと気がついたなアお前のことだ……」  しんみりと声を落すと、今まで、怨みがましく、邪推した心も解けてお綱は、ほつれ毛の濡れついた顔をジッとうつむかせた。 「その気持だけを買ってくれ。くどいようだがあかの他人で、俺ほどお前の今の気持を、よッく呑み込んでいる者はあるめえと思う。その万吉がこうして頼む。どうか、お前は得心して、今の望みを諦めてくれないか」  万吉の言外にも、まだいろいろな事情があろう。まして、将軍家の内密なお墨付までうけたといえば、弦之丞が、万難を排して、阿波へ急いだのも無理ではない。  なおかつ、万吉の衷情も、いっそう同情にたえないことだ。  ただ切ないのはお綱の胸──。  事情をわけて頼まれてみれば、なおさら辛い立場であった。恋の幻滅、甦生の失望。お綱の胸を割ってみれば、今は悪行の享楽もなく、帰る望みを持つ家庭もない。ただかすかに、心淋しくも、はかない思慕と、生れ代ろうとする本善の性だけがある。 「分りました……」お綱はやっとこう洩らして、 「けれど、ねえ、万吉さん、今の私の心にもなってみておくれ。どうしても、私は、あの弦之丞様にすがっていなくっては、生きておられない身なんだよ……」 「そりゃ俺も充分に承知している。承知しながら何もかも、諦めてくれと頼むのは、ちょうど、お前に尼になれという難題を吹ッかけるようなものだが」 「いいえ、尼になれる私なら、いッそ、そうなったほうがましだけれど、とても私の性質では、尼寺へなぞは住めないし、といって、弦之丞様やお前さんの側を離れて、このまま江戸に揉まれていれば、いつかまたよりが戻って、癖の悪い指技の出来心が起こらないとも限らない……。私はね、万吉さん、それが一番怖ろしいと思っている」 「じゃ、お綱、これほど俺が頼んでも、得心してくれねえのか」 「決して、分らない我を張るのではないけれど、万吉さん、私のほうからもこの通り、一生涯のお願いだから……」 「ええ、お前にそう手をつかれちゃ、いよいよ俺の立つ瀬がねえ」 「私という女一人を、助けると思って、もし──お願いだから、お願いだから」 「幾ら何といわれても、俺をさえ、置き残して行った弦之丞様のお覚悟を思うと、ウンと承知ができねえじゃねえか」 「ああ……それじゃどうしても──」 「オ、オ、オ、おい! お綱ッ」 「見遁しておくれ」 「な、なにをするんだッ」 「私はもう、死ぬよりほかに……」お綱の手に、いつか匕首が光っていた。袖に巻いて、あわや、自分の喉笛──グサッと突き立てそうにしたので、万吉があわてて袖を引っ張ると、お綱はそれを振りもぎって、パタパタと奥の部屋へ。 「とッ、とんでもねえ真似をッ」  草鞋ばきのまま飛び上がって後から追いかぶさった。あやうく外れた切ッ尖が、キラリと見えたのに冷やりとしながら、無理にそれをもぎ取って、 「ばッ、ばかな! そんな、つまらぬ短気を起こす奴があるものか、てめえも、見返りお綱といわれた女じゃねえか! ……」  と、肩に大きな波を打たせて、真ッ青になった目明しの万吉、罵るごとく、叱るごとく、こう呶鳴りつつ涙は頬をボロボロと流れてくる。  乱れ髪に顔を埋めて、お綱もそこへ泣き伏してしまった。──ややしばらくのすすり泣き、万吉も棒立ちになったまま。  すると、そこへ、戸まどいをしたような一人の男、バタバタと裏口へ入ってきて、座敷の中を覗きながら、 「御本院で伺いましたが、こちらに、お綱さんがおいでになるそうですが」 「あ、誰だい、お前は?」  畳の上に、脚絆わらじで突ッ立っている万吉、あわてて匕首を後ろへ隠して、土足のまま坐ってしまった。 「へい。私は、吉原の孔雀長屋にいる者ですが、お綱さんの親父さんが大門口で喧嘩をして対手の侍に斬られました。え、昨日の朝の出来事なんで……。昨夜はどうにか持ち越しましたが、今夜あたりは、とても難かしそうだから、すぐに、私と一緒に来て貰いたいと──へい、長屋中の相談で、お知らせに飛んできたような訳で……」 「ああ、間に合ってくれればいいが」  枕元にいる長屋の者は、時々、深い溜息でこう祈った。そして、お互いに、痛い心をジッと抑えて、虎五郎の容体を見まもっていた。  灯のつく頃に、だいぶ苦痛に疲れた怪我人は、もう呻く力も失せたらしい。汐の落刻に向うのではないか。皮膚の色、吸う息のもよう、刻々と悪いほうへ変ってくる。 「どうしたのでしょう?」 「もう来そうなものだが……」 「会わせてやりたいものだ、間に合ってくれればいい。私たちはちっとも知らなかったが、お綱さんは虎さんの血を分けた娘じゃないのだそうだ……それだけにねえ」  低い声でささやいていると、また痛みが来たのか、怪我人は眉をしかめて、蝦のようにそりだした。と、その門口へ、一月寺へ使いに走った男が帰りついて、 「来ましたよ、一緒に……」と汗を拭いた。 「エ、来たかい?」と、みんな自分のことのようにホッとすると、静かな下駄の音がして、土間の中に、お綱と見馴れぬ男が立った。 「じゃ、そこで」 「エエ、私は、待っておりますから」と土間の隅ッこに腰かけたのは万吉で、不意な知らせと行きがかり上、ここへ一緒に来たのであった。  頭巾をぬいで上がると一緒に、 「あ、姉ちゃん……」  と、乙吉とお三輪が、蒲団の裾から飛びつくのを、側の者があわてて、 「しッ……いい子だからね」  と両の手へ抱き抑える。  その声に、意識を茫とさせていた怪我人は、かすかな気を呼び起こしたとみえ、あらぬ方へ力のない目をみはった。  枕元の者は、その耳へ口をよせて、 「お綱さんが見えましたよ。お前さんの、待ちぬいていたお綱さんが──」  顔の近くへ、指をさして示してやると、虎五郎の鈍い目は、それにしたがって、その姿を見ようとするらしく必死にみはった。  そして、しばらくするうちに、薄暗い行燈の灯かげへ、ソウ……と寄ってくるお綱の姿が、やっと、彼の眸に入ったのであろう、下瞼の肉をビクとさせて、ボロボロと涙を流したかと思うと、 「オオ……」  異様な感情の昂ぶりに唇をふるわせた。 「お父っさん──」  その刹那に、お綱は何も忘れて、虎五郎の側へ飛びついていった。そして、養父の出した手の上へ、自分の両手と顔をうつ伏せた。 「ア──」不意に、まわりの者が中腰になって、怪我人の顔を見なおした。瞬間であったけれど、見違えるほど皮膚の色が変って、動かぬ眸が吊り上がっている。 「お父っさん!」 「おやじさん!」 「もし、もし……」 「気をしっかりしておくれよ。せっかく、お綱さんが来て間に合ったものを」 「アア、もう難かしそうだ。お綱さん、せめて、お前、抱いてあげなさいよ」 「私も一言お詫をします──お父っさん! お綱はほんとに親不孝でございました」  泣きすがると、虎五郎はホッと太い息を吐いた。そして、ゴクリと水が咽喉へ落ちると、 「お、お綱ッ」  こう一言、洩らした。 「すまなかった……。もう、く、口ではいえない、後で、あ、あの押入れの奥を見てくれ、刀と……」  それだけであった。  それが、紋日の虎の死であった。  墓場のような無言のうちに、みんなのすすり泣きが起こった。万吉も土間の隅で、ジッと首をうなだれている。  ところへ、勝手口から、あわただしく入ってきた男が、お綱に大変を告げてきた。その者が、口忙しくいうことには、何だか今、手先臭い男が、此家を覗いているなと思うと、一散に、番屋の方へ駈けだして行きました。  目前には、今息をひきとったばかりの養父の空骸があり、側には、泣きじゃくるお三輪と乙吉のいじらしい姿がある。  そして、お綱の身辺には、もうひそかにその筋の目が光っている。という知らせだ。  さすがのお綱も、当惑して、この成行きがどう神の手に裁かれるのか。これも、自分のなせる罪業のむくいかとしみじみと思う。 「逃げて下さい、逃げて下さい」  長屋の者は、お綱を、そこから引き離すようにして、「後の始末は、みんながどうにでも致します。なアに、お三輪ちゃんや乙坊だって、決して、心配することはないから」  上がり框に腰かけていた万吉も、 「そうしたほうがいいだろう。ここへ捕手が踏ン込んで、枕元から縄付きになった日には、養父さんも安々と行く所へも行かれまい」  それでも、お綱は動かなかった。けれど、そのお綱自身よりも長屋の者が度を失って心配した。そして、追い立てるように支度をさせる。 「おお、あれを調べてみなくっちゃいけない。虎さんの遺言した物を……何やら押入れの奥に、お綱さんへ渡したい物があるといった……」 「刀──と一語いったようだが」 「それだけが気がかりで、ああして一目会いたいといっていたのだろうから、忘れては大変だ」  狼狽している騒ぎの中にも、こう気づく者があって、押入れの中へ首を突ッこみ、ガタガタと何かかき廻していたが、やがて、二尺四、五寸程な細長い紙包みを探しだして、 「此品じゃあないか?」  と行燈を引き寄せた。  そして、埃だらけな渋紙をはいでみると、その下にもまた二重に桐油紙が掛かっていて、丹念に麻糸を巻いてあるが、もうその中はあらためるまでもなく、脇差──ということが手ざわりでも知れる。 「失礼だが、こんな物のある家ではないのに、大事に納ってあったところをみても、刀──といったのはこれでしょう。ではお綱さん、養父さんの遺言どおり、これはお前さんに渡すから、とにかく、一時どこかへ落ちのびて、番屋のほとぼりをさますがいい。──そしてな、まじめになって、世間の噂を消しなさいよ。この養父さんがいいお手本だ」  口をそろえて、長屋の者、遠い旅立ちの門でも見送るように、涙にくれるお綱を促して、手を取らんばかり、否応なく外へ出る……。  と、遅かったか!  見馴れぬ提灯と侍の影が、あたりを見廻しながらこの路次へ入ってきた。  一同が、ハッと胸を躍らして、そこにいすくんでしまっていると、上役人らしくない若党を連れた年配の武士。 「紋日の虎と申す者の家はどこであろうか」 「は、その家なら……」となお、何事かと怪しみながら、「ここでございますが」というと、 「わしは龍泉寺に住む、小池喜平という御徒士の者じゃが」侍から先に身分を明して、立話のまま来意を話しだした。  その言葉を一同が聞いていると、こうである。  自分の甥が、昨日吉原へきてフトした間違いから人を斬ったというので、密かに調べてみると、それは、いつも附近で見かける角兵衛獅子の姉弟の、たった一人の男親だということ。実は、その獅子舞の姉弟のことは、常に家内が不愍がって、詳しいことを知っているので尋ねてきた。まことに気の毒ではあり甥の罪も償わねばならぬ、なんと、孤児となったお三輪と乙吉を、自分の家にくれたと思って、養育させてくれまいか。  思いがけない相談であった。  長屋の者は、聞くと共に、嬉し涙にくれてしまう。  お綱にも、この場合、二人のために、もとより異議のない話である。なおもう一人、廓にいる妹の身は、この間の金の余りで、充分始末がつくだろうと、それも心安かった。 「では、皆さん」  お綱は一同へ声低く腰をかがめて、 「お言葉に甘えて、後々のことは……」  ソッと、別れを告げたが、その侍には、わざと姉と名乗らなかった。そして、ただ心のうちで、浮世のドン底に棲む人々の美しい心を伏し拝みながら、桐油紙ぐるみの脇差を袖にかかえ、万吉と一緒にその路次から忍び忍びに歩きだした。 大慈大悲閣  ひとりになった。  もう親のない一人ぽッち。  女掏摸という兇状をもった姉は、あの妹弟たちにもない方がいい。ただ、どうぞ、倖せであっておくれ、いい芽をまッすぐに育っておくれ……。  お綱は祈りながら、そッと頭巾の端で目を抑えた──。だが、無意識の間にも、足は自然に、暗い道を暗い道をと選っている。  いつになったら明るい道を、明るい気もちが選ぶのだろうか。  悪い渡世の足は洗いました!  そう叫んでいるのに、誓っているのに、世間はそうと信じてくれない。養父が息をひきとる晩も、十手は影身につきまとう。  アア、歩けど歩けど道は暗い。今の足元も遠い先も──。  彼岸のない暗夜行路、それが、終生辿らねばならない自分の生涯だろうか──と、お綱がホッと息をした時、睫毛の涙の光ではなく、ボウとあたりが明るくみえた。  いつか、お綱のいる所は、冷寂とした仏地である。吉原尻から千束をぬけてきたとすれば、そこは多分、浅草の観音堂。  ふり仰ぐと、堂閣の千本廂に、錆びた金色の仏龕が、ほの明るく廻廊を照らしている。 「待って……」  お綱がそこでそういうと、同じように、黙々として、先へ歩いていた万吉は、下駄の緒でも切らしたかと、 「…………」  黙って、向うに立ち止まった。 「万吉さん」 「ウム?」 「ちょっと、待ってくれないか」 「いいとも、ゆっくり休むがいい。俺も旅支度までしているくらいだから、実をいうと、肚の中じゃ先をあせっているんだが、こう夜が更けちゃしようがねえ。明日の朝の早立ちとしよう」 「私も、別に休みたい訳じゃないけれど、お父っさんが臨終にまで、アア言い遺して行ったこの紙包みに、何か、深い仔細があるような気がするので、早く開けてみたいと思ってね……」 「ウム。詳しいことは知らないが、俺もそう考えていた。じゃお綱、向うの廻廊がいいだろう。御灯が下がっている」  更けているので参詣の人影もない。  たまたま、人影らしいものがあるかと見れば、宿のない病人や順礼が、大慈の御廂を借りて、菰にくるまッている冷たい寝息……。  淡島堂の池で、キキ……と亀の啼くのも聞えるほど、伽藍の空気は森としていた。 「俺もさっきは、土間の隅で待ちながら、思わず、貰い泣きをしていたが、なんだか、其品は刀だという話じゃないか」 「それが、どうも私にゃ腑に落ちない一ツなのさ……。私の家は小さい時から、今も同じな長屋暮らし、こんな刀がある筈はないのだもの」 「フーム、するとそりゃなんだろう、お前が小さい時に死んだという、お袋さんに由緒のある刀じゃねえかな」 「私も……もしや、そうじゃアないかと思っているんだがね……何か、私とお母さんの……」  二人は、廻廊の隅へしゃがみこんだ。  ちょうど、内陣の薄い明りが、横の扉から流れているので、ほどこうとする、麻糸の結び目もどうやら分る。  その糸を解き終えると、お綱はフイと、 「万吉さん」  考えるような眸をあげて、 「なんだか私は、これを開いてみるのが、少し怖いような気がしてきたよ」 「何か思い当ったかい?」 「こんなシーンとした晩に、この観音様のお堂に立ったせいか、初めてフイと思いうかんだことがある……。それはもう、十何年か前のことだけれど」 「と、すると、お前が八ツか九ツごろ?」 「なんでも、うすら覚えに考えると、あの弁天山や仁王門の桜が、チラチラと、散りぬいている晩でしたっけ。──その小さな時分の私が、お母さんの手に引かれて、この観音堂へ来たのですよ、それもたしかに夜半のよう……」  刀の包みを解きかけて、お綱はこう語りだした。なつかしい、その頃の夢をおうように。 「万吉さんにも、一度話したことがあるけれど、お母さんはお才といって、仲之町では売れた芸妓、たいそうきれいな女でした──。そのお母さんに手を引かれて、なんの気もなくこのお堂へ連れられてきてみると、そこに、ジッと待っていたお武家様がありました。オオ恐い、というような気がして、私はお母さんにすがりつくと、そのお侍は、いきなり私の手を取って、見飽かぬように、涙ぐむじゃアありませんか」  磬の音ひとつ洩れないで更けてゆく伽藍の下には、ただ、水底のような夜気があった。  万吉には、今夜のお綱が、十か九ツぐらいな小娘にみえた。おばこか、お煙草盆みたいな髪に結って、母の手にひかれているお綱がそのまま目にうかぶ。  かの女が、幼かりし頃の思い出ばなしに。 「どんなにびっくりしたことか──今でも分るくらいでしたよ」と、お綱は、うッとりとなって、話の息をつぎたした。 「──そして、この観音堂に、お母さんと私を待っていた妙な侍は、ややしばらく、怖がる私の手をとって、ジッと涙ぐんでいましたが、そのうちに、今度は、お母さんに、シンミリと別れの言葉をいいのこして──そうでした──旅へでも立つように、名残を惜しんで、幾度も幾度も振り返りながら、花吹雪の闇の中へ、姿が消えてしまったのです……影絵みたいなそのお侍の姿が行ってしまったのでした」 「ふウむ、そして?」 「それから先は、小さい私は無我夢中、おはぐろ溝の裏店で、お転婆娘に育ってきましたが、お母さんと死に別れた頃から、時々、その影絵のお侍が、妙に思いだされてくるんですよ──、そしてね万吉さん、どうして私のお母さんが、そのお侍と別れる時に、あんなに泣いていたのだろうか? ……とそれが解けない謎でした」 「ウム、そう話されて、俺にはうッすら分ってきた」 「私も年頃になってから、それを覚ってきたのです」 「花の散る晩に、ここへ別れにきた侍は、お前の──」 「私の、ほんとの、父親でしょう? ……」 「そうよ、それに違えねえ」 「養い親の人情で、虎五郎は私にそれを秘し隠しにしていましたが、息をひきとる時になって、初めて、それを明かそうとしたのじゃないかと思うのです」 「なるほど……、そうすると、お前に渡した刀と一緒に、何か由緒が書いてあるかもしれねえ」 「このお堂の御廂を仰いで、ふいと思い浮かんだのも、何か深い因縁ずく……と、急に開けてみたくなったもんだから……」 「まア、とにかくそれじゃ、早く中をあらためてみるがいい」 「ええ……」と、いって、お綱はまた現実のときめきにうたれながら、膝にのせていた刀の包み紙を、クルクルと、静かにはいでゆくのであった。  と──その下には、卯黄の布。  固くこま結びにしてあるのを、糸切歯で解こうとして、口の辺りへ持ってゆくと、その布の隙間からバラバラと散りこぼれたのは七、八通の書付と──手紙と──そして守り袋。  怖ろしい運命の神籤でもひくように、お綱が、こわごわと、その一通を手に拾ってみると、なつかしや、死んだ母の名。  お才どのへ。  また、一ツの手紙を取ってみると、それにも同じ手蹟で同じように。  お才どのへ。  としてあった。  そして、順々に、見ては膝へのせながら、何気なく、最後に拾った一本の手紙の裏──。 「万吉さん、──ちょ、ちょッと体を少し避けて」  御堂の内陣から洩れる灯りの方へ、その手紙をさし向けて、お綱がおののく手に持ったのを見ると、ああ、それはなんという不思議な人の名──不思議な輪廻のあらわれであろう。  甲賀世阿弥。  ──と書いてある。  甲賀世阿弥?  甲賀世阿弥?  なん度ジイと読み返してみても、それはやはり甲賀世阿弥としか読めない。  だが、しかし! これはまたどうしたということだろう。  甲賀世阿弥といえば、今さら、こと新しく考えだすまでもなく、幕府笹の間づめ甲賀組宗家の人。お千絵様の父なる人。そして、阿波の間者牢に囚われたまま、十年あまりも生死の消息をすら絶たれていた人。  また近くは法月弦之丞が、大府の秘命をふくんで、深秘の間者牢を訪れるべく、単身江戸を立って行った目標の人ではないか。  その甲賀世阿弥の名が、お綱の母へ──お才どのへ──と宛てた手紙の封の裏に、ありありと読まれた不思議さにうたれて、お綱は、渺茫とした迷宮に疑心をさまよい、万吉も、それへ驚目をみはったまま、ゴクリと、生唾をのんでいるばかり……まったく、いうべき言葉を忘れているとは瞬間、二人の姿であった。 「ウーム……?」と、やがて万吉が思惑に疲れてうなっていた。お綱もそれにつりこまれて、深い息をホッと洩らして、 「……ああ、わからない……」と、指から封を取り落すと、万吉がすぐに拾い取って、中の巻紙をサラサラと夜風に流して読み始めた。 多度津ユキ渡船ヲ待ツ間、コレヲ最後ニ一札便別申シオキ候。在府中、ソモジトノ永キ縁モ、マタ江戸出立ノミギリ、観音堂ニテ綱女ノ顔ヲ見オサメ申シ候夜ノコトモ、今ナオマザマザシク覚エ候エド、コノタビコソハ、阿波ニテステベキ一命、ソモジニハ、スベテヲ忘レクルルコソ、何ヨリモヨキ餞別ニコソ……。  こう読みかけて万吉は、あッ! とお綱の顔をみつめてしまった。 「お、おい! 今読んだのを聞いていたか」 「聞いていました……そ、それから」 「だんだんに読んでいったら、すッかり仔細も分るだろうが、お綱さん! お前はまさしくこの人の娘だ! ア──甲賀世阿弥の血をうけているお嬢様だ」 「でも……」お綱はまだ信じきれないで── 「世阿弥様のお嬢様には、あの、墨屋敷においでになった、美しいお千絵という方が? ……」 「さ、だからなおのこと、お前が世阿弥様の娘だということが分る。というなア、最前きいた話にも、また、この手紙の様子をみても、お前の死んだお母さんは、仲之町の江戸芸妓だろう……。いいかい、そこで何かの機縁から、甲賀様と馴染みになって、いつか、日蔭の腹違いに、生れたものがお前なのだ……イヤ、お綱さんだったのに違いない。まア待ちねえ。もッと先を読んでみるから……」  紙背を透すような眼ざしで、万吉が、その手紙、またほかの四、五通、残らず読んでみた時に、すべての疑雲は晴れていた。かれの想像は当っていた。  吉原の仲之町、そこの夜桜よりは桐佐のお才といわれたお綱の母と、まだ三十二、三であった世阿弥とは、かなり永い馴染みだった。  そして、二人の仲にお綱が生れた。  芸と意気張りで売る仲之町芸妓だ。年増となっても、よしや引手茶屋の店先に自分の子供をあそばせておいても、人気に廃りはなかったが、やがて、宝暦の何年かに、世阿弥は阿波へ去ってしまった。  お才の名は、それからまもなく、桐佐のたそや行燈から隠れて、廓の馴染みな人を相手に、薗八節の女師匠と変った。そして、淋しいしもたやにお綱の育つのを楽しみにしていたが、紋日の虎につきまとわれて、何かやむない事情にしばられ、なさぬ仲のお三輪を生み、乙吉を生み、そして、さすがな色香も年ごとに褪せて、おはぐろ溝の長屋に散った──。 「名妓の末路はなぜああでしょう?」  仲之町では、そう噂した。  そうした古い記録のほかにも、まだ確かな証拠があった。  一緒に出てきた紅錦の守り札袋──それには、紺紙金泥の観音の像に添えて、世阿弥とお才とが仲の一女、お綱の干支生れ月までが、明らかに誌してあった。  もう、疑う余地もないが、残る脇差の方をしらべてみると、これは世阿弥がかたみとして、阿波入国の前にお才へ渡したものであろう、六角の象嵌鍔に藍よりの柄糸、めぬきは四代光乗が作らしく、観世水に若鮎が埋めこまれ、柳しぼりの鞘ごしらえ、なんともいえない品格がある。 「すばらしい。大名物といってもいいくらいな刀だ。お綱さん、ひとつ中身をあらためさしておくんなさい」  こういって万吉はなおも深く、装剣の美術に見とれた後、しずかに鞘を払ってみた。  抜いてみると、目づもりは二尺二、三寸、片手斬りに頃あいな肉づきである。刃紋は朧夜の雲に似る五の目乱れ、星の青さを吸って散らすかとばかりかがやかしい、鵜首作りの鋩子に特徴のある太刀の相は──まず相州系、新藤五国光とみてまちがいはない。 「ウーム、こう見ていると、背骨の髄まで凍えてきそうだ。こんな名刀をさしていた人の、若い姿が偲われるなあ」  抜いてあるまま、その鞘と柄とを、お綱の手へ返すと、お綱もそれをうけてややしばらく、深味のある錵の色に、ジッと心を吸いこませたが、やがてわれを忘れかけたように、 「阿波へ行けば──」  突然に、こう独りで強く叫んだ。 「お目にかかることができる! 血を分けた父親に会われる! オオ私はどうしても、剣山の間者牢へ行かなければならない」 「よし!」  と、その独りごとへうなずいて、万吉も、ここに固く意を決したらしく、 「一緒に行こう! 阿波へ」とキッパリ言いきった。 「えッ、じゃあ、承知してくれますかえ?」 「こう分ってみる上は、俺が止めだてをするいわれがねえ。夜明けを待ってすぐに立とう! 弦之丞様のあとを慕って、木曾街道から上方路へ──」 「なんだか、私の目の前が、急にほんのりと明るくなったような気がする……。そうなれば、弦之丞様へお尽しもできるし、真の父親にも会われるというもの。これも、死んだお母さんのおひきあわせであるかも知れない……」  無明の底から、一道の光をみたように、お綱は手に持ちささえていた新藤五の刀の肌を見まもっていた。そこに、亡き母親の面影がういて、自分に、ものをいいかけるかと──。  すると……。あやしむべし、ジッと眸をこらしている刀の刃紋へ、ありありと、人間の顔らしいものが映った。  が──しかし、それは美しい仲之町の名妓お才の面影ではなかった。鋭い双眸をもった男の悪相! ギラリと、お綱を睨むようにかすって消えた。 「あッ」  と、肩のうしろを振り仰ぐと、いつのまにか、内陣の御灯を横にうけて、一人の男が立っている。長やかな大小と、眉深に結んだ十夜頭巾、それは、まぎれもない孫兵衛の姿だ。  油がきれたか、格子天井の仏龕が、パッ、パッ……と大きな明滅の息をついて、そこへヌッと反身に立っているお十夜の影を、魔魅のようにゆらゆらさせた。 「おお、てめえはッ」  見るがいなや、万吉は床を鳴らして躍り立った。と一緒に、お綱もサッと飛びのいたので、膝にのせていた手紙の反古が、あたりへ白く散らばッたが、もう拾っている間はなかった。 「邪魔だッ、おのれは!」  こう呶鳴ったのは孫兵衛の錆び声。足をあげて、躍り込んできた万吉を蹴返した。弾みをくって目明しの万吉、ドーンと廻廊へ腰をついたが、その強敵を向うへ避けて、 「早く!」と、お綱へ目くばせをした。  そうだ! こんな者にかまっていられる場合ではない、とお綱も覚って、本堂の正面へ、バラバラと走りだしてゆくと、ちょうど廻廊の曲り角、太い丸柱の蔭から、 「待てッ──」と一本の白刃が出た。  それは旅川周馬である。  同じようにその廻廊を、裏手へ向って駈けだした万吉の前にも、いきなり、平青眼の大刀が、ヌーと光をよじってきて、かれの行く手をふさいでしまった。アッ──と欄干を楯にして見透かすと、左の片腕を繃帯して、白布で首に吊り下げている。これ、天堂一角であった。 「ビクとでもすると命がないぞ! 動くな、そこをッ」  一角が片手に持った大刀は、ヌーと寄って、相手の精気をすくませ、みるまに、その剣尖に立った者を、死相に変らせてしまうかと思われる。 「エエ、しまった! さてはさっきからの様子を、残らず聞いていやがッたな」  と、おのれの油断に臍を噛みつつ、十手に必死をこめた万吉。──かれの切ッ尖が一寸寄れば一寸、二寸よれば二寸ずつ、ジリジリと、欄干に添って後ずさりした。  と──お綱もまた、廻廊の角で、旅川周馬の白刃に支えられたが、ハッと驚いたのは一時で、手に提げていた新藤五国光の鵜首作りを、無意識に、サッと構えるなり、周馬の小手へ一閃くれた。  シュッと、青い火花が双方の目を射る。  その、無法な胆気と、国光の五の目乱れにおびやかされて、周馬は少し気を乱しながら、真ッ向兵字構えに直って、寄らば──と眼をいからせた。  お綱もふだんのお綱ではなかった。  甲賀世阿弥という武士の血をうけている──と明らかに自覚したお綱。意気地を肌と一緒に研く江戸の女の気質をも、多分にうけている見返りお綱だ。  永い間、甲賀家に仇なし、お千絵様に仇なしたニキビ侍の旅川周馬には、お綱の方から怨むべき理由がある。  だが──今はこんな者に、カケかまっている場合ではない。一刻も早く、阿波へ! 阿波へ! 遥かな空へ、お綱の心は急いでいる。 「お退きッ──」  と横に薙いで、小太刀の光と共に飛び抜けようとすると、その時まで、廻廊の真ン中に立って、双方を眺めていたお十夜は、「これッ」と、お綱のうしろから抱きすくめた。  そして、無碍に利腕をねじあげようとするのを、お綱は振り払って、お十夜の影へサッと小太刀の光を投げた。──そして、素早く廻廊の欄干を躍ったかとみれば、翼をひろげた鳳凰のように、一丈ほどな御堂の下へ飛び下りた。 「うぬ!」 「逃すな。お綱を!」  と、孫兵衛に周馬は、すぐ欄干へ足をかけて、お綱のあとから跳ぼうとすると、どこからか、轟然と夜気を揺すって、一発の銃声、ズドーンと鼓膜をつんざいた。 「や? ……」  ぎょッとして、向うを見ると、その時、天堂一角が飛龍とみせて斬りつけた剣光の先から、万吉も、十手をくわえて観音堂から跳びおりた様子──と同時に、 「オオ、向うへ!」  と叫んだのは万吉の声。お綱の影と一ツになって、バラバラと、淡島堂の石橋を越え、お火除地の桐畑へと走って行った。 「それッ、見失うな」  と、お十夜は真ッ先に、周馬と一角もその後から追いつづいたが、ふとみると、いつのまに横道から出てきたのか、二つの駕に、四ツ五ツの提灯を振って、先の者と後の間を、邪魔するように散らばってゆく人数がある。  そして、その駕と提灯に添ってゆく中の一人が、足をとめて、こッちをふりかえったかと思うと、チリチリと火縄の粉を赤く散らして、ドーン! と短銃の関金を引き放した。 「あッ!」  後の者は三方に飛び別れて、思わず大地へ身をうッ伏せる。  そしてまた身を起こそうとすると、しばらくの間隔をおいて、さらに凄じい三ツ目の弾がうなってくる。  そのまに、先の駕と人数と提灯とは、前へゆくお綱や万吉の姿をも引っくるんで、無二無三に、桐畑の坊主林を走りぬけ、どこへともなく急ぎに急いだ。  虎口をのがれたお綱と万吉も、それが、誰の人数か、提灯の印が何かも気がつかずに、一本道のつづく限り、その人々の中にまぎれて走ったが、やがて、下谷の四ツ目の辻新堀端まできた時に、ヒョイと道を交わそうとすると、 「万吉、もう少し先まで」  と、短銃を持った侍が言った。  何を問うまもなく、ふたたび駈けだした駕と人数は、堀端の施行小屋の前から横道へそれて、佐竹ッ原の野中へグングンと入って行った。  朧夜ほどの空明りもないが、若草の匂いがどことなく漂って、わらじにふむ露湿りの感じも、夜ながら春らしい。 「もうこの辺でよかろうから、駕を下ろしてお待ち申そう」  待つとは誰のことか分らないが、火薬袋の紐をクルクルと短銃の筒に巻いて、打ッ裂羽織の後ろへ差した最前の武士が、こういって止め合図をかけると、その露をふくんだ春草の上へ駕尻軽く下ろされて、若党らしい者三、四名、小侍が二人ほど、小膝を折って駕のまわりへズラリと休んだ。  ところで、お綱と万吉も、そこで初めてホッと息をつきながら、短銃を携えていた侍の顔をみると、なんと意外なことだろう?  それは、虎五郎が息をひきとった際に、御徒士の小池喜平と名乗って長屋をおとずれ、その場でお三輪と乙吉の養育をひきうけて行った、あの若党連れの侍であった。 「おや、あなた様は?」  思わず目をみはると、その武士はニヤリと笑って、 「先程は失礼いたした。手前は松平左京之介の家臣で、さだめし御不審に思われようが、只今、あのお方が後よりまいって、いずれ詳しいお話をいたすことであろう」と、控え目にいってそれ以上のことは口をつぐんでいる。  と、まもなく、佐竹ッ原の野道を、人影でも探すように歩いてくる武士があった。 「おお、常木様、こちらにお待ちうけ申しております」と、声をかけると、深編笠のその影がツカツカと近づいてきたが、その時、驚いたのは万吉で、常木鴻山がどうしてここへ来たのか? とただ不審に思っていた。 「大儀でござった」  鴻山は駕側の者をねぎらって、少し離れた所に、茫然と立っている、お綱と万吉のそばへ寄ってきた。そして不意に、 「お綱殿──」と呼びかけた。  いつぞやこの人の紙入れを掏ろうとしたことから、身の素姓を話して、何百両の金まで恵まれている鴻山に改まって、お綱殿と、丁重に呼ばれたから、ひそかに卑下を持つかの女の心はハッとしたらしかった。 「万吉と一緒に、阿波へお渡りあろうという御決心、けなげに存ずる。で──鴻山が心ばかりの餞別、おうけとり願いたい」  と、唐突にいって、懐中から取り出したものをお綱の手へ渡した。それは美濃の垂井の宿、国分寺の割印を捺した遍路切手で、それを持って国分寺にゆけば、この三月の中旬に、阿波八十八ヵ所の遍路にのぼる道者船の便乗をゆるされるということだ。  今、阿波二十七関は、一切、他領の者を入れぬが、宗法の者ばかりは、それを拒むことができないので、春と秋二度の道者船に限ってそれをゆるす掟である──と、常木鴻山は、さらに詳しく説明した。  先に江戸を立って行った法月弦之丞も、垂井の国分寺に行って、ひそかに、それへ便乗する用意をしている筈、今から、道を急いで行ったら、或いはそこで落ちあうことができるであろう。──とも言い足した。  なお──今夜、自分がここへ来たことについては、こういって、二人の不審を解いた。  注意深い鴻山は、いつとなく、町年寄に頼んで、お綱の身の上を調べさせていた。そこへ、虎五郎の不慮の死を知ったので、代々木荘から松平家の者をやって、龍泉寺町にすむ御徒士といわせて、その身がらを引き取ってくると、ちょうど、浅草寺の闇の中に、お十夜や周馬や一角などが、何か待ち伏せでもしているようなので、あの観音堂の内陣の扉に隠れて、一伍一什の様子を、のこらず聞いていたのだった。  前に、五十間の町年寄から、お綱は甲賀という由緒ある侍の娘だということを、鴻山にいってきてはあったが、現在、阿波の間者牢にいる世阿弥の血をうけたものとは、自分も、その時に初めて知って、実に意外な心地がした──。とかれは感慨の深い面持ちで、お綱の顔をしげしげと見なおした。  いくら早立といっても、まだ人影もない真夜半。  江戸から中仙道へ踏みだす第一関門、本郷森川宿のとある茶店をたたき起こして、そこに、一刻ばかり前に佐竹の原にいたままの駕や人数が休んでいた。 「では万吉、道中必ず気を配って、不慮のことがないように致せよ──、また弦之丞殿は何も知るまいから、落ちあった節は、よく、その後の事情を話すがよい」  この、街道口まで、わざわざ見送ってきた常木鴻山は、いよいよ夜にまぎれて江戸を立つ二人の者へ、何くれとない注意を与える。  お綱は、姿も形もそのままな上に、寝ているところを起こした立場茶屋から、笠とわらじと杖だけを求め、床几を借りて、はきなれぬわらじの紐を結んでいた。  支度がすむと、やがて二人は笠を揃えて、常木鴻山の前に立ち、情け深い今日の取りなしに真心からの礼をのべる。 「おお、お綱殿にも堅固にして、どうぞ、無事に、お父上に会われてまいるよう、鴻山も、蔭ながら祈りますぞ」 「何から何までのお心尽し、たとえ、途中で阿波の土となりましょうとも、決して忘れは致しません」 「なアに鴻山様、たとえ体が舎利になっても、きっと、剣山まで行きついて、望みを達してまいりますから、どうか、御安心なすって下さいまし」 「遍路切手がある以上は、関所や便船になやむことはあるまいが、飽くまでもと、そちや弦之丞殿をつけ狙っている者もあることゆえ、ひとたび江戸を踏みだした後は、いっそう油断をしてはならぬぞ」 「よく承知いたしております。では鴻山様、めでたく大事を成し遂げて立ち帰りました後に、また改めてお目にかかります」 「おお」と鴻山も、門出へ気味よくうなずいたが、 「お綱どの、一目別れを告げて行ったらどうじゃ」と、向うに据えてある駕の垂れをソッとめくった。と見ると中には、お三輪と乙吉がグッタリと無心な顔をして眠り落ちている。 「何も知らずにおりますから、このまま言葉をかけないでまいります」 「ウム。せっかく罪もなく、寝入っているものを起こして、また辛い涙をしぼらせるのも、心ない業かもしれぬ。では、後々のことは案ぜられるな。殿も御承知の上、代々木荘で養育して取らせい、とおっしゃられたことでもあるから」 「ハイ、もうこれで、塵ほども心残りはございません。ただ慾には、お千絵様に一目会ってまいりたいとは思いましたが……」 「そのお千絵殿も、今の容体では、まだ何を話してもお分りあるまい、いずれ病気が癒えた後に、晴れて名乗りあう時節もござろう」 「じゃアお綱さん──」と促しながら、万吉は笠の紐を結んだついでに、今宵かぎりの江戸の空をふり仰いだ。  つるべ撃ちに鳴った短銃が、観音堂の境内をゆすッてから、一刻ほどたった後だ。  しきりに、あっちこっちを見廻しながら、町人態の男が、バタバタとそのあたりを駈け廻っていたが、お堂の西側にしゃがみ込んで、蝋の裸火に顔を集めている三人の人影を見つけると、 「孫兵衛様で……」と身をかがめた。 「半次か」  三人の目が、一様にギラリとこっちへ向いた。最前、お綱が廻廊へ落していった反古を見つけて、ヒソヒソと読みあっていたところらしい。 「どうした、先の様子は?」 「佐竹ッ原までつけて行って、すッかり様子を見届けて来ました。案の定、邪魔をして行った奴らは、常木鴻山の廻し者でさ。まアそれはいいが、愚図愚図していられなくなったのは、お綱と万吉の方で、あの二人はとうとう今夜かぎりで江戸表にはいないことになりましたぜ」 「えッ、江戸におらぬと⁉」 「鴻山の手から、阿波へ渡る遍路切手をうけとって、中仙道から、木曾路の垂井へ急いで行きました。そこにゃ、先に姿を消してしまった法月弦之丞もいて、この春の道者船にのる支度をしているとかということです」 「あっ!」と三人は、あっ気にもとられたが、また躁狂として、一刻も早く、万吉とお綱の道をくい止め、弦之丞と合しぬうちに、非常手段を講じなければ──と騒ぎ立った。  しかし、それは、あくまで弦之丞を討たんとする天堂一角と、あくまでお綱に執着をもつお十夜のことで、ひとり旅川周馬だけは、割合に冷淡であった。  かれが一頃野望の爪を研ぎぬいていた甲賀家の財宝は焼け尽し、お千絵様そのものは、恋すべきようもない乱心の人となっている。 底本:「鳴門秘帖(一)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2004(平成16)年1月9日第20刷発行    「鳴門秘帖(二)」吉川英治歴史時代文庫、講談社    1989(平成元)年9月11日第1刷発行    2008(平成20)年12月24日第22刷発行 ※副題は底本では、「江戸の巻」となっています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:トレンドイースト 2013年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: 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