つゆのあとさき 永井荷風 Guide 扉 本文 目 次 つゆのあとさき 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一  女給の君江は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた。そして鉄道線路のガードを前にして、場末の町へでも行ったような飲食店の旗ばかりが目につく横町へ曲り、貸事務所の硝子窓に周易判断金亀堂という金文字を掲げた売卜者をたずねた。  去年の暮あたりから、君江は再三気味のわるい事に出遇っていたからである。同じカッフェーの女給二、三人と歌舞伎座へ行った帰り、シールのコートから揃いの大島の羽織と小袖から長襦袢まで通して袂の先を切られたのが始まりで、その次には真珠入り本鼈甲のさし櫛をどこで抜かれたのか、知らぬ間に抜かれていたことがある。掏摸の仕業だと思えばそれまでの事であるが、またどうやら意趣ある者の悪戯ではないかという気がしたのは、その後猫の子の死んだのが貸間の押入に投入れてあった事である。君江はこの年月随分みだらな生活はして来たものの、しかしそれほど人から怨を受けるような悪いことをした覚えは、どう考えて見てもない。初めは唯不思議だとばかり、さして気にも留めなかったが、ついこの頃、『街巷新聞』といって、重に銀座辺の飲食店やカッフェーの女の噂をかく余り性の好くない小新聞に、君江が今日まで誰も知ろうはずがないと思っていた事が出ていたので、どうやら急に気味がわるくなって、人に勧められるがまま、まず卜占をみてもらおうと思ったのである。 『街巷新聞』に出ていた記事は誹謗でも中傷でもない。むしろ君江の容姿をほめたたえた当り触りのない記事であるが、その中に君江さんの内腿には子供の時から黒子が一つあった。これは成長してから浮気家業をするしるしだそうだが、果してその通り、女給さんになってから黒子はいつの間にか増えて三つになったので、君江さんは後援者が三人できるのだろうと、内心喜んだり気を揉んだりしているという事が書いてあった。君江はこれを読んだ時、何だか薄気味のわるい、誠にいやな心持がした。左の内腿に初めは一つであった黒子がいつとなく並んで三つになったのは決して虚誕でない。全くの事実である。自分でそれと心づいたのは去年の春上野池の端のカッフェーに始めて女給になってから、暫くして後銀座へ移ったころである。それを知っているのはまだ女給にならない前から今もって関係の絶えない松崎という好色の老人と、上野のカッフェー以来とやかく人の噂に上る清岡進という文学者と、まずこの二人しかないはずである。黒子のある場所が他とはちがって親兄弟でも知ろうはずがない。風呂屋の番頭とてそこまでは気がつくまい。黒子の有無は別にどうでもよい事であるが、風呂屋の番頭さえ気のつかない事を、どうして新聞記者が知っていたのだろう。君江はこの不審と、去年からの疑惑とを思合せて、これから先どんな事が起るかも知れないと、急に空おそろしくなって、今まで神信心は勿論、お御籤一本引いたことのない身ながら、突然占いを見てもらう気になったのである。  アパートメントの一室を店にしている新時代の売卜者は年の頃四十前後、口髭を刈り洋服を着、鼈甲のロイド眼鏡をかけ、デスクに凭れて客に応対する様子は見たところ医者か弁護士と変りはない。省線電車の往復するのが能く見える硝子窓の上には「天佑平八郎書」とした額を掲げ、壁には日本と世界の地図とを貼り、机の傍の本箱には棚を殊にして洋書と帙入の和本とが並べてある。  君江は薄地の肩掛を取って手に持ったまま、指示された椅子に腰をかけると、洋装の売卜者はデスクの上によみかけの書物を閉じ廻転椅子のままぐるりとこちらへ向直って、 「御縁談ですか。それとも大体にお身の上の吉凶を見ましょうか。」とわざとらしく笑顔をつくる。君江は伏目になって、 「別に縁談というわけでも御在ません。」 「では、まず大体の事から拝見しましょう。」と易者はあたかも婦人科の医者が患者の容態をきくように、なりたけ気がねをさせまいと苦心するらしい砕けた言葉づかいになり、「占いも見つけると面白いものと見えまして、いろいろなお客様がお出になります。毎朝会社のお出かけにお寄りになって、その日その日の吉凶を見る方もあります。しかしむかしから当るも八卦、当らぬも八卦という事がありますから、凶の卦に当ってもあまりお気におかけなさらん方がよいです。お年はおいくつでいらっしゃいます。」 「丁度で御在ます。」 「それでは子の年でいらっしゃいますな。それからお生れになったのは。」 「五月の三日。」 「子の五月三日。さようですか。」と易者はすぐに筮竹を把って口の中で何か呟きながらデスクの上に算木を並べ、「お年廻りは離中断の卦に当ります。しかし文字通り易の釈義を申上げても廻遠くて要領を得ない事になりましょうから、わたくしの思いついた事だけを手短に申上げて見ましょう。大体を申上げると、この離中断の卦に当る方は男女に限らず親兄弟にはなれ友達も至って少く一人で世を渡る傾きがあります。それにあなたのお生れになった月日から見ますと、遊魂巽風の卦に当ります。これは一時お身の上に変った事が起っても、その変った事が追々元の形に立戻るという卦であります。この卦から考えて見ますと、現在のお身の上は一時変った事の起った後、追々もとのようになって行こうという間のように思われます。天気に譬えて申上げれば暴風のあった後、その名残りがなかなか静まらない。しかし追々静になって、やがてもとの天気になろうというその途中だと申したらよいでしょう。」  君江は膝の上に肩掛を弄びながらぼんやり易者の顔を見ていたが、その判断は全くその身に覚えがない事ではない。どこか当っている処があるので、何となく気まりのわるいような心持で再び伏目になった。一時身の上に変った事があったと言うのは、大方両親の意見をきかず家を飛出し、東京へ来て、とうとう女給になった事だろうと思ったのである。  君江が家を出たわけは両親はじめ親類中挙って是非にもと説き勧めた縁談を避けようがためであった。君江の生れた家は上野停場車から二時間ばかりで行かれる埼玉県下の丸円町にあって、その土地の名物になっている菓子をつくる店である。君江は小学校の友達の中で、一時牛込の芸者になり、一年たつかたたぬ中身受をされて、人の妾になっていた京子という女と絶えず往来をしていたので、田舎者の女房などになる気はなく、家を逃げ出してそのまま京子の家に厄介になった。田舎から迎いの人が来て、二、三度連れ戻されてもまたすぐ飛出す始末。親たちも困りぬいて、君江の我儘を通させ銀行か会社の事務員になる事を許した。  君江は京子の旦那になっている川島という人の世話で、間もなく或保険会社に雇われたものの、これは一時実家へ対しての申訳に過ぎないので、半年とはつづかず、その後はぶらぶら京子の家に遊んで日を暮している中、突然京子の旦那は会社の金を遣込んだ事が露見して検事局へ送られる。京子は芸者に出ていた頃のお客をそのまま妾宅へ引込み、それでも足りない時は知合いの待合や結婚媒介所を歩き廻って、結句何不自由もなく日を送っているのを、傍で見ている君江もいつかこれをよい事にしてその仲間にはいった。しかし何分にもその筋の検挙がおそろしいので、京子はもとの芸者になろうと言出す。君江もともども芸者はどんなものか一度はなって見たいと思いながら、鑑札を受ける時所轄の警察署から実家へ問合せの手続をする規定のある事を知って、やむことをえず女給になった。  京子は田舎の家へ仕送りをしなければならぬ身であるが、君江はそんな必要がない。田舎に育っただけそれほど流行の物に身を飾る心もなければ、芝居や活動のような興行物も、人から誘われないかぎり、自分から進んで見に行こうとはしない。小説だけは電車の中でも拾い読みをするほどであるが、その他には自分でも何が好きだかわからないと言っている位で、結局貸間の代と髪結銭さえあれば、強いて男から金など貰う必要がない。金などは貰わずに、随分男のいうままになってやった事もあるほどなので、君江は今までいかほど淫恣な生活をして来ても、人からさほど怨を受けるようなはずはないと思い込んでいる。占者の説明を待って、 「それでは今のところ別にたいして心配するようなことはないんで御在ますね。」 「御健康はいかがです。現在別に御わるいところがないのなら、無論近い将来にもさして病難があるとは思われません。現在は唯今も申上げたように波瀾のあった後むしろ無事で、いくらか沈滞というような形もあります。御自分ではお気がつかないでいらっしゃるかも知れませんが、何か知ら不安で、おちつかないような気がなさるのかも知れません。しかし易の卦では唯今申上げたように一時の変動が追々静まって行くのですから、これから先たいした事件が起ろうとは思われません。しかし何か御心配な事があって、その事をどうしたらいいかと思召すなら、その特別な事について、もう一度見直しましょう。それで大抵お心当りがつくだろうと思います。」と易者は再び筮竹を取り上げた。 「実はすこし気にかかる事が御在まして。」と君江は言いかけたが、まさかに黒子の事は明らさまには言出しにくいので、「自分には別に覚がないんですけれど、誰かわたくしの事を誤解している人がありはしないかと思うような事が御在ます。」 「はい。はい。」と易者は仔細らしく眼を閉じて再び筮竹を数え算木を置き直して、「なるほど。この卦は物に影の添う事を意味します。して見ると、何か御自分でいろいろ思いすごしをなさるのですな。それがためない事もあるように思われて来ます。唯今の言葉で申すと幻影と実体ですな。物があって影の生ずるのが自然でありますが、時と場合には、それとは反対に影から物の起ることもあります。それ故まず影をなくすようになされば、自然と物事は落つく処へ落ついて行くわけで。そういう御心持でいらっしゃれば、別に御心配には及ばないと思います。」  君江は易者のいう事を至極尤だと思うと、自分ながらつまらない事を気に掛けていたと、忽ち心丈夫な気になってしまった。それでもまだ何やらきいて見たいような心持がしながら、しかしあまり微細な事まで問掛けて、それがため現在の職業はまだしもの事、二、三年前京子と二人で待合や媒介所を歩き廻った事まで知られてはと、底気味のわるい心持もする。猫の死骸や櫛のなくなった事もきいて見ようとは心づきながら、カッフェーへ行く時間が気になるので、今日はこのまま立去ろうと考え、 「失礼ですが、御礼は。」といいながら帯の間へ手を入れる。 「壱円いただく事にしてありますが、いかほどでも思召しで宜しいのです。」  出入口の戸があいて、洋服の男が二人無遠慮に君江の腰をかけているすぐ側の椅子に坐ったのみならず、その一人はぎょろりとした眼付の、どうやら刑事かとも思われる様子に、君江は横を向いたまま椅子から立って、易者にも挨拶せず、戸を明けて廊下へ出た。  建物を出ると、おもては五月はじめの晴れ渡った日かげに、日比谷公園から堀端一帯の青葉が一層色あざやかに輝き、電車を待つ人だまりの中から流行の衣裳の翻えるのが目に立って見える。腕時計に時間を見ながら、君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立留る気もなく立留って空を見上げた時、後から君江さんと呼びながら馳け寄る草履の音。誰かと振返れば去年池の端のサロンラックで一緒に働いていた松子という年は二十一、二の女で。その時分にくらべると着物も姿もずっと好くなっている。君江は同じ経験からすぐに察して、 「松子さん。あなたも銀座。」 「ええ。いいえ。」と松子は曖昧な返事をして、「去年の暮、暫くアルプスにいたのよ。それから遊んでいたの。だけれどまたどこかへ出たいと思って実はこれから五丁目のレーニンっていう酒場。君江さんも御存じでしょう。あの時分ラックにいた豊子さんがいるから、ちょっと様子を見て来ようと思っているの。」 「そう。あなた、アルプスにいたの。ちっとも知らなかったわ。わたしはあれからずっとドンフワンにいるわ。」 「この春だったか、アルプスでお客様から聞いたことがあったわ。お逢いしたいと思ってもつい時間がないでしょう。あの、先生もお変りがなくって。」  君江は小説家清岡進の事にちがいないとは思いながら、数の多いお客の中には、弁護士の先生もあれば、医者の先生もあるので、それとなく念を押すに若くはないと、「ええ。この頃は新聞の外に映画や何かで大変おいそがしいようだわ。」  松子はこれを何と思いちがいしたのか、「アラ、そう。」といかにも感に打たれたらしく深く息を呑んで、「男はいざとなると薄情ねえ。わたしもいい経験をしたのよ。だから今度は大に発展してやろうと思ってるのよ。」  君江は心の中で高が五人か十人、数の知れた男の事を大層らしく経験だの何だのと言うにも及ぶまいと、可笑しくなって来て、からかい半分、わざと沈んだ調子になり、「あの先生には立派な奥様はあるし、スターで有名な玲子さんがあるし、わたし見たような女給なんぞは全く一時的の慰み物だわ。」  橋を渡ると、人通りは尾張町へ近くなるに従って次第に賑かになる。それにもかかわらず松子は正直な女と見えて、忽激した調子になり、「だって、玲子さんが結婚したのは、先生が君江さんを愛したためだっていう評判よ。そうじゃないの。」  君江はあたりを憚らぬ松子の声に辟易して、「松子さん。その中ゆっくり会って話しましょうよ。何なら、ちょっとお寄んなさいな。ドンフワンでも募集しているから紹介してもいいわ。」 「あすこは今幾人いて。」 「六十人で、三十人ずつ二組になっているのよ。掃除はテーブルも何も彼も男の人がするから、それだけ他よりも楽だわ。」 「一日に幾番くらい持てるの。」 「そうねえ。この頃じゃ三ツ持てればいい方だわ。」 「それで、綺羅を張ったら、かつかつねえ。自動車だって一度乗ると、つい毎晩になってしまうし……。」  君江はこまこました世智辛いはなしが出ると、他人の事でもすぐに面倒でたまらなくなる。それにまた、金なんぞはだまっていても無理やりに男の方から置いて行くものと思っているので、人込の中に隔てられたまま松子の方には見向きもせず、日の光に照付けられた三越の建物を眩しそうに見上げながら、すたすた四辻を向側へと横ぎってしまったが、少しは気の毒にもなって、後を振返って見ると、松子は以前の処に立止ったまま、挨拶のしるしに遠くからちょっと腰をかがめ、それでもう安心したという風で、これも忽ち人通りの中に姿を没した。 二  松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、この字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカッフェーであるが、見渡すところ殆ど門並同じようなカッフェーばかり続いていて、うっかりしていると、どれがどれやら、知らずに通り過ぎてしまったり、わるくすると門ちがいをしないとも限らないような気がするので、君江はざっと一年ばかり通う身でありながら、今だに手前隣の眼鏡屋と金物屋とを目標にして、その間の路地を入るのである。路地は人ひとりやっと通れるほど狭いのに、大きな芥箱が並んでいて、寒中でも青蠅が翼を鳴し、昼中でも鼬のような老鼠が出没して、人が来ると長い尾の先で水溜の水をはね飛す。君江は袂をおさえ抜足して十歩ばかり。やがて裏通を行く人の顔も見分けられるあたり。安油の悪臭が襲うように湧き出してくる出入口をくぐると、何処という事なく竈虫のぞろぞろ這い廻っている料理場である。料理場は後から建て増したものらしく、銀座通に面した表附とはちがって、震災当時の小屋同然、屋根も壁もトタンの海鼠板一枚で囲ってあるばかり。それでも土間から急な梯子段を土足のまま登って行くと、十畳ばかり畳を敷いた一室があって、四方の壁際ぐるりと十四、五台ばかりも鏡台が並べてある。丁度三時五、六分前。十畳の一室は、朝十一時から店へ出ていた女給と、今方来たものとの交代時間で、坐る場所もないほど混雑している最中。鏡一台の前にはいずれも女が二、三人ずつ繍眼児押しに顔を突出して、白粉の上塗をしたり髪の形を直したり、あるいは立って着物を着かえたり、大胡坐で足袋をはき替えたりしているのもある。  君江は竪シボの一重羽織をぬいで肩掛と一つにして風呂敷に包んだ。そして廊下への出口に置いてある衣裳棚に、名前の貼紙がしてある処を見てその包を載せ、コンパクトで鼻の先を叩きながら、廊下づたいにパンツリイを通り抜けると、丁度店二階の方から歩いて来る春代という女に出逢った。帰り道が同じ四谷の方角なので、六十人いる朋輩の中では一番心安くなっている。 「春さん。昨夜はグレたんじゃないの。後で何かおごってよ。」 「それァあなたでしょう。わたし随分待っていたのよ。今夜はきっと一緒に帰りましょう。その方が経済だからねえ。」  君江はそのまま表二階の方へ行きかけると、階段の下から下足番をしている男ボーイが、「君江さん、電話です。」と頻に呼んでいる声が聞えた。 「はアイ。」と大声に答えながら、口の中で「誰だろう。いけすかない。」とつぶやきながら、テーブルや植木鉢の間を小走りに通り抜けて階段を下りて行った。  階下は銀座の表通から色硝子の大戸をあけて入る見通しの広い一室で、坪数にしたら三、四十坪ほどもあろうかと思われるが、左右の壁際には衝立の裏表に腰掛と卓子とをつけたようなボックスとかいうものが据え並べてあって、天井からは挑灯に造花、下には椅子テーブルに植木鉢のみならず舞台で使う藪畳のような植込が置いてあるので、何となく狭苦しく一見唯ごたごたした心持がする。正面の奥深い片隅に洋酒を棚に並べた酒場があって、壁に大きな振子時計、その下に帳場があり、続いて硝子戸の内に電話機がある。君江は行きちがう人ごとに笑顔をつくりながら、電話室へ駈け込み、「もしもしどなた。」ときくと、電話は君江を呼んだのではなく、清子という女給の聞きちがえであった。  爪先で電話室の硝子戸を突きあけ、「清子さん。電話。」と呼びながら君江は反身に振返ってあたりを見廻したが、昼間のことで客はわずかに二組ほど、そのまわりに女給が七、八人集っているばかり。植木の葉かげを透して見ても清子の姿は見えない。誰やらが「清子さんは早番でしょう。」という。君江はその通り電話の返事をして硝子戸の外へ出ると、その姿を見て、洋服をきた中年の痩せた男が帳場の台に身を倚せたまま、「君江さん。」と呼留めて、「どうしました。占いは。」 「たった今、見てもらったわ。」 「どうでした。やっぱり男のおもいでしょう。」 「それなら見てもらわなくっても覚えがあるはずじゃないの。もうそんな景気じゃないわ。小松さん。わたし大に悲観しているのよ。」 「へえ。君江さんが……。」と小松といわれた男は円顔の細い目尻に皺をよせて笑う。年はもう四十前後。神田の何とやらいうダンスホールの会計に雇われている男で、夕方六時に出勤する頃まで、毎日懇意なカッフェーを歩き廻って女給の貸間をはじめ、質屋の世話、芝居の切符の取次など、何事にかぎらず女の用を足してやって、皆から小松さん小松さんと重宝がられるのをこの上もなく嬉しいことにしている男である。いや味な事は言わないかわり、お客になって飲み食いもした事がない。以前はどこかの箱屋だともいうし役者の男衆だったという噂もある。君江はこの男から日比谷の占者のことをきいたのである。 「君江さん。どうでした。何か手がかりがありましたか。」 「さア。何だか、いろいろな事を言われたけれど、何の事だかわけがわからないのよ。わたしの方でも別に何ともきいては見なかったんだけれど。」 「それじゃ駄目だ。君江さんと来たら実にのん気だからな。」 「壱円損したわ。」と君江は人に問われて始めて占者の判断の甚要領を得ていなかった事と、自分のきき方も随分不熱心であった事に心づいた。最少し向の困るくらい委しくこまかい事まできけばよかったという気がした。 「でもねえ、小松さん。当分今の通りで別条はないんですとさ。覚えているのはそれッきりよ。いろんな事を言われたけれど『何が何だかわからないのヨ』なのよ。まったくさ。何しろ占を見てもらうのは生れて始てでしょう。見てもらいつけないと駄目なものねえ。占もやっぱり聞方があるんじゃないか知ら。」 「占いかたはあっても、別に聞き方はないでしょう。」 「それでも、お医者さまでも始めて見てもらう時には、いろいろこっちから言わなくっちゃ、いけないッていうじゃないの。だから占や何かでもやっぱりそうだろうと思うわ。」  表梯子の方から蝶子という三十越したでっぷりした大年増が拾円紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟を合せ直しながら、 「君江さん。二階に矢さんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」 「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、先に辰子さんのパトロンだって、ほんとうなの。」 「そうよ。日活の吉さんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭とを出す。その時この店の持主池田何某という男に事務員の竹下というのが附き随い、コック場へ通う帳場の傍の戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶するのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相な男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。  表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスに坐っている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下す窓際のテーブルを占めた矢さんというお客の方へと歩みを運びながら、 「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」 「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目に遇った事は御在ません。」 「矢さん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌を作って君江は膝頭の触れ合うほどに椅子を引寄せて男の傍に坐り、いかにも懇意らしく卓の上に置いてある敷島の袋から一本抜取って口にくわえた。  矢さんというのは赤阪溜池の自動車輸入商会の支配人だという触込みで、一時は毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐を振舞う。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環を抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給連は寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯でも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そう情なく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故矢さんからひやかされたのを、なまじ胡麻化すよりも明さまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。矢さんは内心むっとしたらしいのを笑いにまぎらせて、 「とにかく羨しかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているお民、春江、定子など三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でお揃いのところを後からすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」 「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」 「こいつ。ひどいぞ。」と矢さんは撲つまねをするはずみにテーブルの縁にあったサイダアの壜を倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退き、長い袂をかかえるばかりか、テーブルから床に滴る飛沫をよける用心にと裾まで摘み上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所なく、雑巾を持って来て袂の先を口に啣えながら、テーブルを拭いている中、新しく上って来た二、三人連の客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先はどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。  客は二人とも髭を生した五十前後の紳士で、松屋か三越あたりの帰りらしく、買物の紙包を携え、紅茶を命じたまま女給には見向きもせず、何やら真面目らしい用談をしはじめたので、君江はかえってそれをよい事に、ひまな女たちの寄集っている壁際のボックスに腰をかけた。テーブルの上には屑羊羹に塩煎餅、南京豆などが、袋のまま、新聞や雑誌と共に散らかし放題、散らかしてあるのを、女たちは手先の動くがまま摘んでは口の中へと投げ入れているばかり。活動写真の評判や朋輩同士の噂にも毎日の事でもう飽きている。睡気がさしてもさすがここでは居睡りをするわけにも行かないらしく、いずれも所業なげに唯時間のたつのを待っているという様子。その時隅の方でひとり雑誌の写真ばかり繰りひろげて見ていた女が、突然、 「アラ、実にシャンねえ。清岡先生の奥様よ。」という声に、ボックスに休んでいた女は一斉に顔を差出した。君江も屑羊羹を頬張りながら少し及腰になって、 「どれさ。見せてよ。わたしまだ知らないんだからさ。」 「はい。よく御覧なさい。」と以前の女が差付ける雑誌の挿絵。見れば、縁側に腰をかけている夫人風の女の姿で、「名士の家庭。」「創作家清岡進先生の御夫人鶴子さまのお姿。」としてあった。 「君江さん。あんた、何ともない事。そんなもの見て。わたしなら破いてしまいたくなるわ。」と写真の上に南京豆を打ちつけたのは、もと歯医者の妻で生活難から女給になった鉄子である。 「あなた。随分焼餅やきねえ。」と君江はかえって驚いたように鉄子の顔を見返して、「いいじゃないの。奥様なら奥様で。気にしないだって。」 「君江さんは全く徹底しているわ。」とダンス場から転じてカッフェーに来た百合子というのが相槌を打つと、もとは洋髪屋の梳手であった瑠璃子というのが、 「とにかく一番幸福なのは清岡さんよ。令夫人はシャンだし、第二号は銀座における有名なる女給さんだし……。」 「ちょいと何が有名なのさ。止して頂戴よ。」と君江はわざとらしく憤然と椅子を立って、先刻から打捨てて置いた自動車商会の矢田さんの方へと行ってしまった。女たちは無論戯れとは知りながら、少し心配したように斉しくその後姿を見送ったが、瑠璃子はもともと梳子の時分ないない私娼窟に出没して君江とも一、二度言葉を交えた間柄。偶然このカッフェーで邂逅しても、互に黙契する処があるらしく秘密を守り合っているくらいなので、何を言ってもまた言われても互に気を悪くするはずはないと、平気な顔で、折からテーブルを叩くらしい音がするのを聞きつけ、自分が持番の客ではないかと、音する方へ目を注ぐ。丁度その途端、階段から上って来る新しい客の洋服姿が向の壁の鏡に映ったのを早くも認めて、「アラ清岡先生よ。」と瑠璃子は小声で一同に知らせた。 「先生。くしゃみが出なかって。」と君江とは仲の好い春代が逸早く駈寄って、「あっちのボックスがいいわよ。」と洋服の袖に縋り、人目につかない隅のボックスへ連れて行った。これは君江を張りに来る自動車屋の矢田さんが、まだ帰らずにいるので、万一の事を用心した春代の心づかいである。 「歩いて来るともう暑い。黒ビールか何か貰おうよ。」と清岡進は抱えていた新刊雑誌と新聞紙とをテーブルの下の揚板に押入れ、新しい鼠色の中折帽をぬいで造花の枝にかけた。紺地二重ボタンの背広に蝶結のネキタイ。年の頃は三十五、六。鼻先と頤のとがっているのが目に立つので、色の白い眼の大きい頬のこけた顔立は一層神経質らしく見えるのに、長く舒ばした髪をわざと無造作に後に掻き上げている様子。誰が目にも新進の芸術家らしく、また宛然活動写真中に現れて来る人物らしくも見える。その父は漢学者だとかいう事であるが、清岡は仙台あたりの地方大学に在学中も学業の成績は極めて不出来で、卒業の後文学者の仲間入はしたものの、つい三、四年ほど前までは、更に月旦に登るような著述もなかった。然に、何から思いついたのやら、ふと曲亭馬琴の小説『夢想兵衛胡蝶物語』を種本にして、原作の紙鳶を飛行機に改め、「彼はどこへでも飛んで行く。」という題をつけ、全篇の趣向をそのまま現代の世相に当てはめた通俗小説を執筆して、或新聞に連載した。これが偶然大当りにあたって、新派俳優の芝居や活動写真にも仕組まれ、爾来名声は藉然として、一作ごとに高くなり、今日では大抵の雑誌や新聞に清岡進の名を見ないものはないような勢になった。 「これも先生の御本。」と春代は遠慮なくテーブルの上の一冊を取り上げ口絵を見ながら、「これはまだ活動にはならないんでしょう。」  清岡はわざとうるさいような顔をして、「春さん。ちょっと電話を掛けてくれ。『丸円新聞』の編輯局に村岡がいるはずだから。京橋の丸丸番だよ。呼出してすぐにここへ来いッて。」 「村岡さんて、いつもの村岡さん。」 「そうだよ。」 「京橋の丸丸番だわね。」と春代が行きかけた時、持番の定子というのが、黒ビールと南京豆の小皿を持って来て、酌をしながら、「わたし、先生の小説には思出の深い事があるのよ。あの時分、別に役も何も付いた訳じゃないけれど、始めて蒲田へ這入ったのよ。」 「定さん。蒲田にいた事があるのか。」と清岡はコップを片手に定子の顔を斜に見上げながら、「どうして止したんだ。」 「どうしてッて。見込みがないんですもの。」 「お世辞じゃないが、定さんのような顔立なら映画には向くんだがね。監督の言う事を聴かないからだろう。女は何になっても男の後援がなくっちゃ駄目だからな。女流作家だって少し売出すまでには、みんな背景があるんだよ。」  その時君江が巻煙草を啣えながら歩いて来て、黙って清岡の側に腰をかける。春代が戻って来て電話の返事を伝え、そのまま腰をかけて、 「先生。何か御馳走してよ。君ちゃんは。」 「わたしこの方がいいわ。」と清岡が飲残した黒ビールのコップを取上げた。 「おむつまじい事ね。じゃア、春代さん、チキンライスか何か一緒にたべましょう。」と定子は帯の間から取出す伝票紙に注文の品を書きながら立って行った。  明り取りの窓にさしていた夕日の影はいつか消えて、階段の下から突然蓄音機が響き出した。これが五時半になった知らせで、三時過から休んでいた女給も化粧をし直して出てくる。階上階下の電燈には残りなく灯がついて、外はまだ明い夏の夕方も建物の内ばかりは早くも夜の景気である。 三  帰り途が同じ四谷の方角なので、君江と春代とは大抵毎晩連立って数寄屋橋あたりから円タクに乗る。銀座通では人目に立つのみならず、その辺にはカッフェーを出た酔客がまだうろうろ徘徊しているので、これを避けるため、少し歩きながら、通過る円タクを呼止め、値切る上にも賃銭を値切り倒して、結局三十銭位で承知する車に乗るのである。その晩二人は数寄屋橋を渡ってガードの下を過ぎ、日比谷の四辻近くまで来たが、三十銭で承知する車は一台もない。春代は腹立しげに、「何だい。馬鹿にしている。停るかと思ったら、あいつも行ってしまった。」 「いいわよ。ぶらぶら歩きましょうよ。少し酔ったから丁度いいわよ。」 「もうすっかり夏だわねえ。御堀の方を見ると、まるで芝居の背景見たようねえ。」  日比谷の四辻には電車を待つ人がまだ大分立っている。 「今夜は節約して電車に乗ろうよ。」  二人は道幅のひろい四辻を歩道から線路の方へと歩み寄ろうとした時、横合いからぬっと二人の前へ立ちふさがった洋服の男があったので、二人はびっくりしてその顔を見ると、今日も午後にカッフェーへ来ていたダイヤモンドの矢田さんであった。 「まア、大変御ゆっくりねえ。どこで飲んでいらしったの。」 「送ってあげよう。」と矢田は円タクを呼びかけた。 「わたし、電車でいいのよ。お客様と自動車に乗るのはやかましいから。」と春代は体よく逃げようとすると、矢田は、度々その手を食っていると見えて、 「それァ銀座通のことじゃないか。ここまで来れば構やせん。僕が責任を負う。」 「あなたも節約して電車になさいよ。矢さん。」と君江は丁度来かかった赤電車の方へとすたすた行きかけたので、矢田はとやかく言っている暇もなく、二人の後について新宿行の電車に乗った。  案外すいている車の中には、二人の知らない他の店の女給が三人ばかりに、男が五、六人。いずれも居眠りをしている。半蔵門を過ぎて四谷見附に来かかる時まで、矢田はさすがにおとなしく、連れではないような風をして口もきかずにいたが、君江が春代を残して一人車から降りかけるのを見るや否や、あわててその後について来て、 「君江さん。もう乗換はないぜ。自動車を呼ぼう。」 「いいのよ。すぐ其処ですから。」と君江は人通の絶えた堀端を本村町の方へと歩いて行く。円タクの運転手が二人の姿を見て、窓から手を出し指で賃銭の割引を示すものもあれば、垢じみた顔を出してひやかすものもある。矢田はぴったり寄添い、 「君江さん。どうしても家へ帰らなくっちゃいけないのか。一晩ぐらい都合できないのか。エ、君江さん。どうしてもいけなければ、一時間でも、三十分でもいい。話をしてすぐ別れてもいいから、ちょっとつき合ってくれ。僕はそんな無理なことは決して言わない。今夜の中にきっと帰すから。」 「もう晩すぎるわよ。ぐずぐずしていると、わたし帰れなくなってしまうから。それに明日は早番だから。」 「早番だって、あすこは十一時じゃないか。こんな事を言ってぐずぐずしている中に時間がたってしまうじゃないか。この近辺はいけないのか。荒木町か、それとも牛込はどうだ。」と矢田は君江の手を握って動かない。  土手上の道路は次第に低くなって行くので、一歩ごとに夜の空がひろくなったように思われ、市ヶ谷から牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼く霧のようにかすんでいる。そよそよと流れて来る夜深の風には青くさい椎の花と野草の匂が含まれ、松の聳えた堀向の空から突然五位鷺のような鳥の声が聞えた。 「アラ。何だか田舎へ行ったようねえ。」と君江は空を見上げた。矢田はすかさず、 「どこか静な処へ行こうじゃないか。一晩位犠牲におしよ。僕のために。」 「矢さん。もしか目付かって、ごたごたしたら、あなた。あの人の代りになってくれること。わたし、実はもうカッフェーなんかよしたいと思っているの。」と君江は矢田の心を引いて見るつもりで、わざと身を摺り寄せながら静に歩き出した。実は今夜連れられて行った先で、矢田が気前好く祝儀を奮発するかどうかを確めて置こうと思っただけである。 「あの人ッて、誰だ。この間一緒に邦楽座へ行った人か。」 「いいえ。」と言いかけて君江は心づき、「え、そうよ。あの人よ。」と狼狽えて言直した。邦楽座へ一緒に行ったのは旦那でも恋人でも何でもない。つまり矢田さんと同様なその場かぎりのお客なのである。 「そうか。あの人が君さんの旦那なのか。」と矢田はすっかり本気にして、「しかし、今まで世話をしている関係があっちゃア、そう急によしてしまう訳には行かないだろう。恨まれるのはいやだからな。」  君江は噴き出したくなるのを耐えて、「ですからさ。もしも、万一の事があったらッて言うのよ。知れると面倒だから、今夜の事は誰にも絶対に秘密よ。」 「そんな事は心配しないだって大丈夫だよ。まさかの時にはきっと僕が引受ける。」と矢田はまず今夜だけはいよいよ自分のものになった嬉しさ。人通のない堀端を幸に、いきなり抱き寄せて女の頬に接吻した。  本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。 「あすこの交番はうるさいのよ。すこしおそくなると、いろいろな事を聞くから、車に乗りましょう。」  矢田はこの機逸すべからずと、あたりを見廻したが、折悪しく円タクが通らないので、二人はそのまま立止った。 「わたしの家はすぐ其処の横町だわ。角に薬屋があるでしょう。宵の中には屋根の上に仁丹の広告がついているからすぐにわかるわ。わたしこの荷物を置いて来るから待っててヨ。」 「おい。君さん。大丈夫か。すっぽかしはあやまるぜ。」 「そんな卑怯な真似しやしないわヨ。心配なら一緒にそこまでいらっしゃいよ。わたしが帰らないと、いつまでも下のおばさんが鍵をかけずに置くから。」  高力松の下から五、六軒先の横町を曲ると、今までひろびろしていた堀端の眺望から俄に変る道幅の狭さに、鼻のつかえるような気がするばかりか、両側ともに屋並の揃わない小家つづき、その間には潜門や生垣や建仁寺垣なども交っているが、いずれも破れたり枯れたりしているので、あたりは一層いぶせく貧し気に見える。君江は軒先に魚屋の看板を出した家の前まで来て、「ここで待っていらっしゃい。」と言いすて、魚屋の軒下から路地へ這入った。矢田はすぐにその後について行こうとしたが、君江の感情を害しはせぬかと遠慮して、暫く首をのばして真暗な路地の中をのぞくと、がたりがたりといかにも具合のわるそうな潜戸の音がしたので、いくらか安心はしたものの、どうも、様子が見届けたくてならぬところから、一歩二歩とだんだん路地の中へ進み入ると、忽ち雨だれか何かの泥濘へぐっすり片足を踏み込み、驚いて立戻り、魚屋の軒燈をたよりに半靴のどろを砂利と溝板へなすりつけている。間もなく、君江は出て来て、 「アラ、どうしたの。」 「イヤ、ひどい道だ。馬鹿にくさい。猫か犬の糞だろう。」 「だから、外で待っていらっしゃいッて言ったんじゃないの。ほんとに臭いわ。あなた。」と君江は寄添う矢田からその身を離して、「わたし、草履だから、足袋へくっ付けちゃ、いやヨ。」  矢田は歩きながら、砂利に靴の裏をこすりこすりもとの堀端へ出ると、丁度曲角の軒下に薪と炭俵とが積んであったのでやっと靴の掃除をし終った時、呼びもしない円タクが二人の前に停った。 「神楽阪。五十銭。」と矢田は君江の手を取って、車に乗り、「阪の下で降りよう。それから少し歩こうじゃないか。」 「そうねえ。」 「今夜は何となく夜通し歩きたいような気がするんだよ。」と矢田は腕をまわして軽く君江を抱き寄せると、君江はそのまま寄りかかって、何も彼も承知していながら、わざと、 「矢さん。一体どこへ行くの。」ときいた。  矢田の方でも随分白ばッくれた女だとは思いながら、その経歴については何事も知らないので、表面は摺れていても、その実案外それほどではないのかという気もするので、この場合は女の仕向けるがまま至極おとなしい女給さんとして取扱っていれば間違いはないと、君江の耳元へ口を寄せて、「待合だよ。」と囁き聞かせ、「差しつかえはないだろう。今夜は晩いからね。僕の知ってる処がいいだろう。それとも君江さん。どこか知っているなら、そこへ行こう。」  思いがけない矢田の仕返しに、さすがの君江も返事に困り、「いいえ。何処だってかまわないわ。」 「じゃ、阪下で降りよう。尾沢カッフェーの裏で、静な家を知っているから。」  君江はうなずいたまま窓の外へ目を移したので、会話はそのまま杜絶える間もなく車は神楽阪の下に停った。商店は残らず戸を閉め、宵の中賑な露店も今は道端に芥や紙屑を散らして立去った後、ふけ渡った阪道には屋台の飲食店がところどころに残っているばかり。酔った人たちのふらふらとよろめき歩む間を自動車の馳過る外には、芸者の姿が街をよこぎって横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門の祠の前あたりまで来て、矢田は立止って、向側の路地口を眺め、 「たしかこの裏だ。君江さん。草履だろう。水溜りがあるぜ。」  石を敷いた路地は、二人並んでは歩けないほどせまいのを、矢田は今だに一人先に立って行ったら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板に肱や肩先が触るのもかまわず、身を斜にしながら並んで行くと、突当りに稲荷らしい小さな社があって、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋はすぐさま石段になって降り行くあたりから、その時静な下駄の音と共に褄を取った芸者の姿が現れた。二人はいよいよ身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田の髱に怪し気な癖のついたのもかまわず、歩くのさえ退儀らしい女の様子。矢田は勿論の事。君江の目にも寐静った路地裏の情景が一段艶しく、いかにも深け渡った色町の夜らしく思いなされて来たと見え、言合したように立止って、その後姿を見送った。それとも心づかぬ芸者は、稲荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち変った威勢のいい声で、「かアさん。もう間に合わなくって。」  君江は耳をすましながら、「矢さん。わたしも芸者になろうと思ったことがあるのよ。ほんとうなのよ。」 「そうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびっくりしたらしく、その事情をきこうとした時、早くも目指した待合の門口へ来た。内にはまだ人の気勢がしていたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おいおい」と呼びながら敲くと、すぐに硝子戸の音と、下駄をはく音がして、 「どなたさま。」と女の声。 「僕。矢さんだよ。」 「あら、大変御ゆっくりねえ。」と門の扉を明けた女中は、君江の姿を見て、いくらか調子を改め、「さア、どうぞ。」  女中は廊下の突当りから、厠らしい杉戸の前を過ぎて、瓦塔口の襖をあけ、奥まった下座敷の四畳半に案内した。今しがたまでお客がいたものと見え、酒のかおりと共に、煙草の烟も籠ったままで、紫檀の卓の溝には煎豆が一ツ二ツはさまっていた。女中は片隅に積み載せた座布団を出し、「ただ今綺麗にいたします。やっと今方片づいた処なんで御在ますよ。」 「大した景気だな。」 「いいえ。相変らずで仕様が御在ません。」と女中はお定まりの茶菓を取りにと立って行く。 「すこし明けようじゃないか。」 「蒸し蒸しするわねえ。」と君江はいざりながら手を伸して障子を明けると、土庇の外の小庭に燈籠の灯が見えた。 「あら、いいわね。芝居のようだわ。」 「カッフェーとはまた別だな。これが江戸趣味ッていうんだろうな。」と矢田は沓脱石の上に両足を投出して煙草へ火をつけた。  植込を隔てて隣の二階の窓が見える。簾がおろしてあるが障子の上に、島田に結った女が立って衣服をぬいでいるらしい影のありあり映っているのを見て、君江はそっと矢田の袖を引いたが、それと同時に艶しい影は雲のように大きく薄くなったまま消え去って、かすかな話声ばかりになった。矢田は何の事やら気がつかなかったらしく、石の上に両脚を踏みのばしたまま洋服の上着を脱ぎ、ネキタイを解きかけたが、君江は女中が茶を運び、続いて浴衣を持って来る時まで、そのままぼんやり隣の火影を眺めていた。何ともつかず、突然君江は待合というところへ初めて連れ込まれた時の事を憶い出したからである。場処は牛込ではなく、大森であったが、中庭を隔てた植込の彼方に二階の灯影を見ながら男と二人縁側に腰をかけて、女中が仕度するのを待っていたその場の様子は今夜と少しも変りがない。変ったのは自分の心持ばかり。その時分恐しかったり珍しかったりした事は、もう馴れた上にも馴れきって、何とも思わなくなってしまった。 「君さん。何かたべるか。もう支那蕎麦ぐらいしか出来ないとさ。」  矢田の声に君江は振返ると、洋服を浴衣にきかえ、立ってしごきを結びかけている。 「わたし、ほしくないわ。」と君江も一重羽織の紐を解きかけた。  女中は矢田の洋服を入れた乱箱を片隅に運び、「今夜はどこもふさがっておりますから、お狭いでしょうけれど、ここで、どうぞ。」と床の間につづいた押入から夜具を取出したので、二人は再び濡縁に腰をかけて庭の方を向いた。君江の眼にはいよいよ初めての夜の事が浮んで来る。 「お風呂はいつでもわいておりますから。」と女中は出て行く。 「君さん。何を考えているんだ。お着かえよ。」と矢田は心配そうに横顔を覗き込んで君江の手を取った。  君江は羽織をきたまま坐ったなりで、帯揚と帯留とをとり、懐中物を一ツ一ツ畳の上に抜き出しながら、矢田の顔を見てにっこりした。君江は三年前、家を飛出して、学校友達で人の妾になっていた京子の許に身を寄せ、その旦那の世話で保険会社の女事務員になって、僅一、二カ月たつかたたぬ中、早くも課長に誘惑されて大森の待合に連れられて行った。これが実際男と戯れた初めであったが、君江はその前から京子が旦那の目をかすめていろいろな男を妾宅へ引入れるさまを目撃していたのみならず、折々は京子とその旦那との三人一ツ座敷へ寝たことさえある位で、言わば待合か芸者家の娘も同様、早くから何事をも承知しぬいていただけ、時にはなお更甚しく好奇心に駆られる矢先。課長の誘惑をよい事にしてこれに応じたまでの事である。課長は五十を越した道楽者にも似ず、その晩君江が酒も飲めば冗談も言うし、更に気まりのわるい事を知らない様子に、かえって興をさましたらしく、そこそこにその場を引上げた。それらの事を憶い返して、君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顔を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、 「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思って絶望していたんだよ。」 「そんな事ないわ。わたしだって女ですもの。だけれど男の人はすぐ外の人に話をするから、それでわたし逃げていたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまま、羽織の下に片手を廻し、帯の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗の袷は捻れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染の長襦袢の胸もはだけた艶しさ。男はますます激した調子になり、 「こう見えたって、僕も信用が大事さ。誰にもしゃべるもんかね。」 「カッフェーは実に口がうるさいわねえ。人が何をしたって余計なお世話じゃないの。」と言いながら、端折りのしごきを解き棄て、膝の上に抱かれたまま身をそらすようにして仰向きに打倒れて、「みんな取って頂戴、足袋もよ。」  君江はこういう場合、初めて逢った男に対しては、度々馴染を重ねた男に対する時よりもかえって一倍の興味を覚え、思うさま男を悩殺して見なければ、気がすまなくなる。いつからこういう癖がついたのかと、君江は口説かれている最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止めようと思いながら、そうなるとかえって止められなくなるのである。美男子に対する時よりも、醜い老人やまたは最初いやだと思った男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江はなお更烈しくいつもの癖が増長して、後になって我ながら浅間しいと身顫いする事も幾度だか知れない。  この夜、平素気障な奴だと思っていた矢田に迫まられて、君江は途中から急にその言うがままになり出したのも、知らず知らずいつもの悪い癖を出したまでの事である。 四  翌日の朝、矢田と合乗りした自動車から、君江はひとり士官学校の土手際で降りて、路地の貸間に立戻ったが、鏡台の前へ坐ると、急に眠くなって来て化粧をし直す力もなく、わずかに羽織をぬぎすてたばかり。着のみ着のまま、ごろりと横になった。腕時計の針はまだ九時半をさしたところなので、十時まで三十分間眠るつもりで眼をつぶったのであるが、忽ち格子戸につけた鈴の音と共に男の声のするのを聞きつけて耳をすますと、思いがけない清岡の声なので、君江はびっくりして起直った。  清岡がこの貸間へ来るのは、いつも君江がその翌日五時出の晩番に当る前の夜にきまっている。それも大抵カッフェーにいる間から予め知れていることで、今日のような早出の朝、不意に尋ねて来ることは滅多にない。君江は昨夜のことが知れたのではないか。それにしては知れ方が早過ると、心の中では随分あわてながら、何喰わぬ顔で勢好く、 「お早いことねえ。まだ散らかしたまんまなのよ。」と梯子段を降りて行くと、清岡は丁度靴をぬいで上ったばかり。戸口を掃いていた小母さんも抜目のない狸婆と見えて、 「君江さん。おいやでも、もう一度おばさんの薬を上ってお出かけなさいましよ。昨夜はほんとにびっくりしました。」  君江はそれに力を得て、「もう大丈夫よ。きっと食合せがわるかったのねえ。」 「どうかしたのか。お腹でも下したのか。」と言いながら清岡は二階へ上って、窓へ腰をかけた。  二階は六畳に三畳の二間つづきであるが、前桐の安箪笥と化粧鏡と盆に載せた茶器の外には殆何にもない。箪笥の上にも何一ツこまごました物も載せられていないので、二階中はいかにもがらんとして古畳と鼠壁のよごれが一際目に立つばかり。座布団も色のさめたメリンスの汚点だらけになったのが一枚、鏡台の前に置いてある外には、木綿麻の随分古ぼけた夏物が二枚壁際に投出されているばかりである。君江はいつものように鏡台の前の座布団を裏返しにして清岡にすすめると、清岡はそれを窓の敷居の上に載せ、ズボンの折目を気にしながら再び腰をかけた。  窓の下はコールタの剥げたトタン葺の平屋根で、二階から捨てる白粉や歯磨の水の痕ばかりか、毎日掃出す塵ほこりに糸屑や紙屑もまざっている。この汚らしい屋根の彼方は、士官学校門前の通に立っている二階家の裏側で、汚い洗濯物や古毛布や赤児のおしめが干してある間から、絶えずミシンの音やら印刷機の響が聞える。これと共に士官学校の構内で生徒の練習する号令の声、軍歌の声、喇叭の響のみならず、昼の中は馬場の砂烟が折々風の吹きぐあいで灰のように飛んで来て畳の上のみならず襖をしめた押入の内までじゃりじゃりさせる事がある。清岡は丁度去年の今頃、初めて君江に導かれてこの貸間に立寄った時から、もう少しあたりの清潔な居心地の好い処へ引越したらばと勧めていたが、君江は唯口先でばかり同意しながら、その実今日まで更に引越そうとする様子もなく、家具も一年前と同じで、その後新に湯呑一つ買った事もないらしい。金には決して不自由していないのに、机も衣桁もなく、電気の笠もかけたままで、いつまでたっても、今方引越して来たばかりだという体裁である。君江は年頃の女のように、窓に草花の鉢を置いたり、箪笥の上に人形や玩具を飾り立てたり、壁に絵葉書を貼ったりするような趣味は全然持っていない。とにかく一風変った妙な女だと清岡は早くから心付いていた。 「お茶はいらない。もうそろそろ出掛ける時分だろう。」と清岡は窓から座布団と共に腰をすべらせて畳の上に胡坐をかき、「僕もこれから新宿の駅まで用事があるんだよ。それでちょいと寄って見たんだ。」 「そう。でも、お茶だけ入れましょうよ。おばさん。お湯がわいているなら頂戴。」と叫びながら下へ降り、すぐに瀬戸引の薬鑵を提げて来た。 「昨日、お前、占を見てもらいに行ったんだってね。『街巷新聞』に出た黒子の一件は、誰がいたずらをしたのか当がついたか。」 「いいえ。当も何もつかないわ。」と君江は久須の茶を湯呑につぎながら、「初めは、いろいろな事をきいて見ようと思って出かけて見たんだけれど、何だか気まりがわるいから止してしまったのよ。だけれど、考えるとほんとに不思議ねえ。誰も知っているはずがない事なんですもの。」 「占いでわからなければ、今度は巫女か、お先狐にでも見てもらうんだな。」 「巫女ッて何。」 「知らないのか、よく芸者なんぞが見てもらうじゃないか。」 「わたし、占者だって全く昨日が始てですもの。何だか馬鹿馬鹿しいような気がするから、ああいう事はわたしには駄目よ。」 「だから、気にしない方がいいッて僕は最初からそう言ってるじゃないか。」 「でもあんまり不思議なんですもの。知れようはずのない事が知れたんですもの。まったく不思議だわ。」 「自分ばかり知れないと思っていても、世の中には案外な事があるからね。秘密はかえって漏れやすいものさ。」と言い終って清岡は自分から言過ぎたと心付き、急いで煙草を啣えながら君江の顔色を窺うと、君江の方でも何か言おうとしたのをそのまま黙って、飲みかけた湯呑を口の端に持ち添えたまま、じろりと清岡の顔を見たので、二人の目はぴったり出遇った。清岡は煙草の烟にむせた風をして顔を外向け、 「何でも気にしないのが一番いいよ。」 「ほんとうねえ。」と君江の方でも心からそう思っているらしく見せかけるために、声まで作ったが、それなり後の言葉が出て来ないので、湯呑の茶をゆっくり飲干して静に下に置いた。君江は昨夜矢田と神楽坂へ泊った事は知られていないにしても、何しろ二年越しの間柄なので、何事に限らず大抵の事は清岡には知られていると思っているが、さてどの辺まで知られているか、それは君江にも当がつかない。君江は何か好い折があったら、清岡とは関係を断ってさっぱりとして、自分の過去の事を少しも知らない新しい恋人を得たいという気にもなっている。君江はどういう訳だか、自分の平生を人に知られている事を好まない。秘密にする必要がない事でも、君江は人に問われると、唯にやにや笑いにまぎらすか、そうでなければ口から出まかせな虚言をつく。最親しいはずの親兄弟に対しては君江は一番よそよそしく決して本心を明した事がない。自分の方から好きだと思う男に対してはなお更の事で、その男が何か深く聞知ろうとすればいよいよ堅く口を閉じて何事をも語らない。同じ店につとめているカッフェーの女給連は、君江さんほど姿の優しいしとやかな人はないが、不断何を考えているのやらあれほど訳のわからない人もないと言われているのである。  清岡が君江を識ったのは君江が始めて下谷池の端のサロン、ラックという酒場の女給になったその第一日の晩からであった。清岡は始めて君江を見た時、女給をした事がないというならば、どこかで芸者をしていた女だろうと想像した。容貌はまず十人並で、これと目に立つ処はない。額は円く、眉も薄く眼も細く、横から見ると随分しゃくれた中低の顔であるが、富士額の生際が鬘をつけたように鮮かで、下唇の出た口元に言われぬ愛嬌があって、物言う時歯並の好い、瓢の種のような歯の間から、舌の先を動かすのが一際愛くるしく見られた。この外には色の白いのと、撫肩のすらりとした後姿が美点の中の第一であろう。清岡はその晩、君江が物言いのしずかなのと、挙動の疎暴でないのを殊更うれしく思って、纏頭は拾円奮発してその帰途をそっと外で待っていた。それとは心づかない君江は広小路の四辻まで歩いて早稲田行の電車に乗り、江戸川端で乗換え、更にまた飯田橋で乗換えようとした時は既に赤電車の出た後であった。清岡は自動車でここまで跡をつけて来たので、そっと車を降り、偶然再会したような振りで話をしかけた。君江は問われてもはっきり住処は知らせなかったが、唯市ヶ谷辺だと答えて、一緒に外濠を逢阪下あたりまで歩いて行く中、どうやら男の言うままになってもいいような素振を示した。  君江はその頃、久しく一緒に住んで共に私娼をしていた京子という女が、いよいよ小石川諏訪町の家をたたんで富士見町の芸者家に住込む事になったので、泣きの涙で別れ、独り市ヶ谷本村町の貸二階へ引移り、私娼の周旋宿へ出入する事をよしていたので、一月あまりの間一晩も男に戯れる折がなかった。夜ふけてから外へ出た事さえ稀だったので、この夜久しぶり静にふけ渡った濠端の景色を見てさえ、何とも知れず心の浮き立つ折から、時候も丁度五月の初めで、袷の袖口や裾前から静に夜風の肌を撫でる心持。君江は清岡の事を少壮の大学教授か何かだろうと、始めからわるく思っていなかったので、飛び立つような嬉しさをわざと押隠し、誘われるがまま気まりのわるい風をしながら、その夜は四谷荒木町の待合へ連られて行った。君江は新に好きな男ができると忽ち熱くなって忽ち冷めてしまうという、生れついての浮気者なので、翌日も夕方近くまでいちゃついていたが、離れるのがいやさにカッフェーもそれなり休んで、井の頭公園の旅館に行き次の夜は丸子園に明して三日の後、市ヶ谷の貸間まで一緒に来てやっとわかれた。  清岡は丁度その頃、一時妾にしていた映画女優の玲子とやらを人に奪われ、代りの女を物色していた矢先、君江が身も心も捧げ尽したような濃厚な態度に、すっかり迷い込み、どんな贅沢な生活でも望む通りにさせてやるから、女給をやめるようにと勧めたが、君江は将来自分でカッフェーを出したいから、もう暫く女給をしていたいと言った。それならば本場の銀座へ出て経験をした方がよいと、池ノ端のサロンは一カ月あまりで止めさせ、半月ばかり京阪を連れ歩いた後、清岡は人を介して、銀座では屈指のカッフェーに数えられている現在のドンフワンに君江を周旋した。間もなく入梅があけて夏になり、土用の半からそろそろ秋風の立ち初める頃まで、清岡は何一つ疑う所もなく、心から君江に愛されているものとばかり思込んでいた。ところが或夜二、三の文学者と芝居の帰り、銀座に立寄って見ると、君江は急に心持がわるくなったと言って夕方から店を休んだという事を、他の女給から聞き、友達にわかれてから、一人本村町の貸間へ病気見舞いに行こうとした時、いつも曲る濠端の横町から、突と現われ出た女の姿を見た。まだ十二時前ではあったが、片側町の人家は既に戸を閉め、人通りも電車も杜絶えがちになった往来には円タクが馳過るばかり。清岡は四、五間こちらから、白っぽい絽縮緬の着物と青竹の模様の夏帯とで、すぐにそれと見さだめ、怪訝のあまり、車道を横断して土手際の歩道を行きながら女の跡をつけた。女はスタスタ交番の前をも平気で歩み過るので、市ヶ谷の電車停留場で電車でも待つのかと思いの外、八幡の鳥居を入って振返りもせず左手の女阪を上って行く。いよいよ不審に思いながら、地理に明い清岡は感づかれまいと、男の足の早さをたのみにして、ひた走りに町を迂回して左内阪を昇り神社の裏門から境内に進入って様子を窺うと、社殿の正面なる石段の降口に沿い、眼下に市ヶ谷見附一帯の濠を見下す崖上のベンチに男と女の寄添う姿を見た。尤もベンチは三、四台あって、いずれも密会の男女が肩を摺寄せて腰をかけていた。清岡はかえって好い都合だと、桜の木立を楯にして次第次第に進み寄り、君江がどんな話をしているかを窺い、同時に相手の男の何者たるかを見定めようと試みた。  清岡はいかなる作者の探偵小説中にも、この夜の事件ほど探偵に成功したはなしは恐らくあるまいと、殆どその瞬間には驚愕のあまり嫉妬の怒りを発する暇がなかったくらいであった。男はパナマらしい帽子を冠り紺地の浴衣一枚、夏羽織も着ず、ステッキを携えている様子はさして老人とも見えなかったが、薄暗い電燈の灯影にも口髯の白さは目に立つほどであった。腕をまわして帯の下から君江の腰を抱きながら、 「なるほどここは涼しい。お前のおかげで、おれもいろいろな事を経験するよ。六十になってベンチで女を待ち合わすなんて、実に我ながら意想外だ。この社殿の向に今でもきっと大弓場があるだろうが、おれも若い時分に弓をやりに来たことがあった。それから何十年とこの石段を上った事がない。それはそうと今夜はこれからどこへ行こうというんだね。ここのベンチでもいいよ。はははは。」と笑いながら君江の頬に接吻した。  君江は黙って、暫くの間老人のなすがままになっていたが、やがて静にベンチから立上り着物の裾前を合せ、鬢を撫でながら、「すこし歩きましょう。」と連立って石段を降りる。清岡は先刻君江が昇った女阪の方へ迂回って見えがくれに後をつけた。それとは知らない二人は話しながら堀端を歩いて行く。 「京子は富士見町へ出てから、どうだね。あの女のことだから、きっといそがしいだろう。」 「毎日昼間からお座敷があるんですって。この間ちょいと尋ねたのよ。だけれどろくろく話をしている暇もなかったのよ。あなた。これから寄って見ない。いなかったらいなかったで、別にかまやアしないから。」 「うむ。久しぶり、三人で夜明しするのも面白い。諏訪町の二階では実にいろいろな事をしたね。とにかくお前と京子とは実にいい相棒だよ。僕は昼間真面目な仕事をしている最中でも、ふいと妙な事を考え出すと、すぐにお前の事を思出す。それから京子の事を思出して、夢でも見ているような心持になるんだ。」 「それでも京子さんに較べれば、わたしの方がまだ健全だわねえ。」 「どっちともいえない。お前の方が見かけが素人らしく見えるだけ罪が深いよ。カッフェーへ行ってから別に変ったのも出来ないかね。西洋人はどうだ。」 「銀座はあんまり評判になり過るから、そう思うようにはやれないわ。そこへ行くと芸者の方が大びらで、面倒臭くなくっていいわ。諏訪町にいる時分はほんとに面白かったわね。」 「旦那はあれっきりか。まだ出て来ないのか。」 「そうでしょう。その後別に話が出ないから、どの道もう関係はないんでしょう。それにもともと京子さんの方じゃ、借金を返してもらった義理があるだけで、別に何とも思っていた訳じゃないんだから。」 「今度は何て言っている。やはり京子というのか。」 「いいえ。京葉さんていうのよ。」  二人は夜ふけの風の涼しさと堀端のさびしさを好い事に戯れながら歩いて新見附を曲り、一口阪の電車通から、三番町の横町に折れて、軒燈に桐花家とかいた芸者家の門口に立寄った。夏の夜の事で、その辺の芸者家ではいずれもまだ戸を明けたまま、芸者は門口の涼台に腰をかけて話をしているのを、男はなれなれしく、 「京葉さんはいますか。」ときくと、直に家の内から、小づくりの円顔。髪はつぶしにたけながを結んだ女が腰の物一枚、裸体のまま上框へ出て来て、 「あら、御一緒。まアうれしいわね。わたし今帰って来たところ。丁度よかったわ。」 「どこかいい家を教えろよ。ゆっくり話をするから。」 「そうねえ。それじゃア……。」と裸体の女は行先を男に囁くと、二人はそのまま歩いて四ツ角をまがる。  ここまで跡をつけて来て路地のかげに身をひそめていた清岡は、万事があまりに都合好く進捗して行くので、このまま中途から帰るわけには行かなくなった。頃合いを計って、清岡は君江のつれられて行った同じ待合へと、振りの客になり済まして上り込み、女中には勘定を先に払って、なりたけおとなしい若い芸者をといい付け、素知らぬ振りで寝てしまった。そして彼の見知らぬ老人が君江と京葉の二人を相手の遊びざまを思い残りなく窺った後、翌日の朝はまだ日の照らぬ中清岡はそっとその待合を出た。しかし赤阪の家へ帰るには時間が少し早過るので、やむことをえず四番町の土手公園を歩みベンチに腰をかけて、ぼんやりとして堀向うの高台を眺めた。  清岡は三十六歳のその日まで、夢にも見なかった事実を目撃し、これまで考えていた女性観の全然誤っていた事を知って、嫉妬の怒りを発する力もなく、唯わけもなく欝ぎ込んでしまった。清岡はその日まで、独り君江に限らず世間の若い女が五十六十の老人に身を寄せて平気でいるのは、恋愛と性慾との不満足を忍んでひたすら生活の安定を得ようがためとばかり思込んでいたのであるが、豈図らんや。事実は決してそうでない。自分ばかりを愛していると思っていた君江の如きは、事もあろうに淫卑な安芸者と醜悪な老爺と、三人互に嬉戯して慚る処を知らない。清岡は自分の経験と観察とのいかに浅薄であったかを知ると共に、君江に対しては言うに言われぬ憎悪の念を覚え、このままもう二度と顔は見まいと思った。しかしその日家へ帰ってから一ト寐入りして目をさますと、一時激昂した心も大分おちついている。それと共にこのまま何事をも知らぬ顔に済してしまうのは、あまり言甲斐がなさ過る。面責した上、女の口から事実を白状させてあやまらせねば、どうも気がすまない。しかしまた更に思直して見ると、君江は見掛けに似ず並大抵の女でない。問われるままに案外無造作に白状してしまうかも知れない。それと共に自分の遊び足りない事と嫉妬を起した事などを心窃に冷笑しないとも限らない。これは男の身に取っては浮気をされたよりも、なお更忍びがたい侮辱である。清岡は黙殺するのも無念だし、表面は謝罪って、蔭で舌を出されるのはなお更口惜しいと、さまざま思案した末、やはり何事をも知らぬ振りで表面は今まで通り、あくまで馬鹿にされながら、その代りいつか時節を待って、痛烈な復讐をしてやるに若くはないと決心した。  清岡は多年原稿生活を営む必要上、腹心の男を二人使っている。一人は村岡といって、早稲田あたりを卒業したばかりの文士で、毎月百円内外の手当を貰い、清岡の口述する小説を筆記して原稿を製作すると、それを駒田という五十年輩の男が新聞社や雑誌社へ売込みに行く。駒田は多年或新聞社の会計部に雇われていたので、原稿料の相場にも明くまた記者仲間にも知己が多いので、清岡の受取るべき稿料の二割を自分の所得にする約束で働いているのである。清岡は門人同様の村岡に命じて、君江が歌舞伎座へ見物に行った帰途、安全剃刀の刃で着物の袂を切らせた。尤もその衣類は清岡が買ってやったものである。暫くしてから清岡はこれも三越で自分が買ってやった真珠入の櫛を、一緒に自動車に乗った時、その降り際にそっと抜き取って見た。君江はきっと泣いて騒ぐだろうと思いの外、さして気にも留めないらしく、清岡にもまた間貸しのおばさんにも別にそんな話さえしない様子であった。  君江は極めてじだらくで、物の始末をしたことのない、不経済な女である代り、着物もそれほど着たがらない事は清岡も不断から心づいてはいたものの、かくまで無頓着だとは思っていなかった。そこで、留守の中に窃と猫の児の死骸を押入の中に投込んで様子を見たが、これさえさほど恐怖の種にはならなかったらしいので、遂に清岡はわるくすると感付かれるかも知れぬと危ぶみながら、君江が内股の黒子の事を、村岡にいい付けて『街巷新聞』に投書させたのであった。これは大分君江の心を不安にさせたらしいので、清岡は内心それ見ろと幾分か胸のすくような心地がした。しかし一度目が覚めた後、君江の生活を探偵して見るといよいよ腹の立つ事ばかりなので、報復の手段も唯一時の悪戯ではなかなか気がすまないようになる。もっと激烈な痛苦を肉体と精神とに加えてやる機会を窺うため、清岡は十分相手に油断をさせ、こちらの胸中を悟られぬよう、以前にも増してあくまで惚れ込んでいるような様子を示すようにしていたが、平常心の底に蟠っている怨恨は折々われ知らず言葉の端にも現われそうになるのを、清岡は非常な努力でこれを押えていなければならない。  今方占者のはなしから、清岡は我知らず言過ぎたと心付き狼狽えて言いまぎらしたのも、実はこういう事情からである。このまま長く向い合って二階にいるのはよくないと心づいて、腕時計を見ながら、いかにも驚いたように、「もう十時半だ。そこまで一緒に出かけよう。」  君江の方でも昨夜泊ったまままだ湯にさえ入らぬ身のまわりを男に見廻されるのが、何となく辛くてならないので、何はともあれ一まず外へ出るに如くはないと考え、 「ええ。少し歩きましょう。お天気が好いと店へ行くのがいやになるわ。一日、日の目を見ずにいるんだから。」とぬぎ捨ててあった竪しぼの一重羽織を引掛けて、窓の障子をしめた。 「今日十一時だと明日は五時出だね。」 「ええ。だから、今夜店へいらしってよ。何処かゆっくり遊びに行きたいわ。いいでしょう。」 「そうだな。」と男は曖昧な返事をしながら帽子を取った。 「ねえ、遊びに行きましょうよ。どの道今夜はゆっくり遊ぶ日じゃないの。」と君江は既に梯子段の降口に出た清岡の身に寄添い、接吻してと言わぬばかりに顔を近寄せ、睫毛の長い目を軽くふさいだ。  清岡は憎い仕方だとは思いながら、もともと嫌いではない女のいかにも艶しく情を含んだ姿を見ると、その瞬間はさすがに日頃の怒りも何処へやら消え去って、生れつき売笑婦にでき上っているこういう女に対して、道徳上とやかく非難するのはあるいは過酷かも知れない。男の劣情を挑発する一種の器械だと思えば、自分の見ない処で何をしていても更に咎むべき事ではない。弄ぶだけ弄んで随意に捨ててしまえばそれでよいのだというような心持にもなる。忽ち進んで、それにしてもこの女がもすこし自分の心を汲み分け、その身を慎しんで、自分の専有物になってくれればという慾望が次第に強くなって来る。清岡は横を向いてさり気なく、 「とにかく夜になったら銀座で逢おう。その時にきめよう。」 「ええ。そうして頂戴。」と君江は急に明い顔になって一足先にばたばたと下へ降り、おばさんの手から雑巾を奪い取って、手ずから清岡の靴を拭いた。  市ヶ谷の堀端へ出る横町は人目に立つので、二人は路地から路地を抜けて士官学校の門前に出で比丘尼坂を上って本村町の堀端を四谷見附の方へ歩いた。昼前のことで、二人は並びながらも少し離れて話もせず、君江は日傘に顔をかくしていたが、ふとこの堀端は昨夜十二時過電車を降りてから矢田と手を引合って歩いた同じ道だと思うと、夜と昼との相違から、君江はどうして昨夜はあんな矢田のような碌でもない男の言う事をきく気になったのだろうと、自分ながらその腑甲斐なさに厭な心持がした。清岡さんがそれと知ったらどんなに怒ることだろうと、日傘のかげからそっと男の横顔を窺うと、少しは気が咎めもするし、またいかにも気の毒でならないような心持もして、これからはカッフェーの帰り道にはなりたけ慎しんでその場かぎりの浮気は起すまいという気にもなる。せめての申訳というではないが、何やら急に清岡の事が恋しくなって、君江は歩きながら突と摺寄って人通りをもかまわずその手を握った。  清岡は君江が石にでも躓いて、そのために急に自分の手を握ったとでも思ったらしく、「どうしたんだ。」と言いながら、往来の人目を憚って溝際の方へ少し身を避けた。 「わたし、今日どうしても休みたいの。電話で断るわ。いいでしょう。」 「断ってどうするんだ。」 「あなたの御用がすむまで、わたしどこかで待っているわ。」 「夜になれば会えるんだから、休むにも及ばないじゃないか。」 「だって、わたし何だか急になまけたくなっちまったのよ。でも、あなたの御用の邪魔をしちゃアわるいわねえ。」  清岡はもともと用事があるのではない。君江の様子を窺いに不意と出て来たので、この場合振切って別れたなら、浮気な君江の事だから、今夜自分の行くまでに何をしだすか知れないと、つまらない事が妙に気になり出した。  君江の方ではこの年月いろいろな男をあやなした経験で、こういう場合には男がすこしは持て余すほど我儘を言った方がかえって結果の好い事を知っている。それにまた先刻占いのはなしから清岡の言った事が何となく気にかかってならぬ矢先、夜になるのを待たず一刻も早く男の心の打解けるような方法を取らなくてはならないと考えたのである。これも度々の実験で、君江は男がどんなに怒っていても結局その場に至れば訳もなく悩殺する事ができるものと、あくまで自分の魔力に信頼して安心している所がある。魔力というのは、生れつき君江の肌には一種の温度と体臭とがあって、別に技巧を弄せずとも一度これに触れた男は終生忘れることの出来ない快感を覚えるという事である。君江はこれまで一人ならず二人ならず、さまざまな男からお前はほんとの妖婦だなどと言われて、自分の肉体はそんなにまで男に強い刺撃を与えるものかと、次第に自覚した後熟練を積み、今では自分ながら深く信ずる所があるようになっている。  四谷駅の降り口近くまで歩いて来た時、君江は急に悲しいような遣瀬のないような表情を見せて、「じゃ、わたし、あんまり我儘をいうとわるいから、ここから円タクで行きますわ。」 「うむ。」とそっ気なく言ったが、清岡は君江の遣瀬なげな様子に気がつくと、その瞬間どうしたのか、昨日今日新に得た恋人と別れるような、何とも知れぬ残り惜しい心持になった。君江はわざとぼんやり清岡の顔を見詰めたまま、日傘の尖で砂利を突きながら立ちすくんでいる。  清岡は何も彼も忘れて寄り添い、「いいよ。休んでしまえ。どこでもいい。一緒に行こう。」 「あなた。ほんとウ。」と君江は巧に睫毛の長い眼の中をうるませて徐に俯向いた。 五  府下世田ヶ谷町松陰神社の鳥居前で道路が丁字形に分れている。分れた路を一、二町ほど行くと、茶畠を前にして勝園寺という匾額をかかげた朱塗の門が立っている。路はその辺から阪になり、遥に豪徳寺裏手の杉林と竹藪とを田と畠との彼方に見渡す眺望。世田ヶ谷の町中でもまずこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最幽静な処であろう。寺の門前には茶畠を隔てて西洋風の住宅がセメントの門墻をつらねているが、阪を下ると茅葺屋根の農家が四、五軒、いずれも同じような藪垣を結いめぐらしている間に、場所柄からこれは植木屋かとも思われて、摺鉢を伏せた栗の門柱に引違いの戸を建て、新樹の茂りに家の屋根も外からは見えない奥深い一構がある。清岡寓と門の柱に表札が打付けてあるが、それも雨に汚れて明には読み得ない。小説家清岡進の老父熙の隠宅である。  初夏の日かげは真直に門内なる栗や楝の梢に照渡っているので、垣外の路に横たわる若葉の影もまだ短く縮んでいて、雞の声のみ勇ましくあちこちに聞える真昼時。じみな焦茶の日傘をつぼめて、年の頃は三十近い奥様らしい品のいい婦人が門の戸を明けて内に這入った。髪は無造作に首筋へ落ちかかるように結び、井の字絣の金紗の袷に、黒一ツ紋の夏羽織。白い肩掛を引掛けた丈のすらりとした痩立の姿は、頸の長い目鼻立の鮮な色白の細面と相俟って、いかにも淋し気に沈着いた様子である。携えていた風呂敷包を持替えて、門の戸をしめると、日の照りつけた路端とはちがって、静な夏樹の蔭から流れて来る微風に、婦人は吹き乱されるおくれ毛を撫でながら、暫しあたりを見廻した。  麦門冬に縁を取った門内の小径を中にして片側には梅、栗、柿、棗などの果樹が欝然と生茂り、片側には孟宗竹が林をなしている間から、その筍が勢よく伸びて真青な若竹になりかけ、古い竹の枝からは細い葉がひらひら絶間なく飛び散っている。栗の木には強い匂の花が咲き、柿の若葉は楓にも優って今が丁度新緑の最も軟かな色を示した時である。樹々の梢から漏れ落る日の光が厚い苔の上にきらきらと揺れ動くにつれて、静な風の声は近いところに水の流でもあるような響を伝え、何やら知らぬ小禽の囀りは秋晴の旦に聞く鵙よりも一層勢が好い。  婦人は小禽の声に小砂利を踏む跫音にも自然と気をつけ、小径に従って斜に竹林を廻り、此方からは見通されぬ処に立っている古びた平家の玄関前に佇立んだ。玄関には磨硝子の格子戸が引いてあるが、これは後から取付けたものらしく、家はさながら古寺の庫裏かと思われるほどいかにも堅牢に見える。しかしその太い柱と土台には根継をした痕があって、屋根の瓦は苔で青く染められている。玄関側の高い窓が明放しになっていたが、寂とした家の内からは何の物音も聞えない。窓の下から黄楊とドウダンとを植交えた生垣が立っていて、庭の方を遮っているが、さし込む日の光に芍薬の花の紅白入り乱れて咲き揃ったのが一際引立って見えながら、ここもまた寂としていて、花鋏の音も箒の音もしない。唯勝手口につづく軒先の葡萄棚に、今がその花の咲く頃と見えて、虻の群れあつまって唸る声が独り夏の日の永いことを知らせているばかりである。 「御免下さい。」と肩掛を取りながら、静に格子戸を明けると寂とした奥の間から、「どなたじゃ。」という声がして、すぐさま襖を明けたのは、真白な眉毛の上まで老眼鏡を釣し上げた主人の熙であった。 「鶴子か。さアお上んなさい。今日は婆やはお墓参り。伝助も東京へ使にやって誰もおらん。」 「それじゃ、丁度よう御在ました。代りに何か御用をいたしましょう。」と婦人は包を持ったまま、老人の後について縁側づたいに敷居際に坐り、 「もう虫干をなさいますの。」 「いつという事はない。手がないから気の向いた時、年中やるよ。年寄の運動には一番いい。」  縁側の半ほどから奥の八畳の間に書帙や書画帖などが曝してある。障子も襖も明け放してあるので、揚羽の蝶が座敷の中に飛込んで来て、やがてまた庭の方へ飛んで行く。鶴子は風呂敷包を膝の上にほどいて、 「先日のお召物を仕立直してまいりました。あちらへ置いてまいりましょう。ついでにお茶でも入れてまいりましょうか。」 「そう。一杯貰いましょう。茶の間に到来物の羊羹か何かあったと思うが、ついでにちょっと見て下さい。」と老人は鶴子が座を立つのを見て縁側に曝した古書を一冊一冊片づけはじめた。五分刈の頭髪は太い眉毛や口髭と共に雪のように白くなっているので、血色のいい顔色はなお更赧らみ、痩せた小づくりの身体は年と共にますます矍鑠としているように見える。やがて鶴子が番茶と菓子とを持って来たのを見て、老人はそのまま縁先に腰をかけ、 「暫く見えんから風邪でも引いたのかと思っていた。市中では今だにインフルエンザがはやるそうだな。」 「お父さまは去年からお風邪一つお引きになりませんのね。」 「今の若い者とは少し訓練がちがうからな。はははは。その代りふだん丈夫なものはころりと行くからな。当てにはならん。」 「アラ、そんな事をおっしゃるもんじゃありません。」 「むかしから頼みにならない事を、君寵頼み難し。老健頼み難しなどというじゃないか。はははは。進は相変らず達者か。」 「はい。おかげさまで。」 「その中ちょっと逢いたいと思う事があるのだ。実はこの間偶然電車の中でお宅の御兄さんにお目にかかってな……。」と老人は言いかけて咳嗽をしながら眼鏡越しに鶴子の顔を見た。鶴子はかえってさり気なく、 「何か、わたくしの話が出ましたの。」 「そうだ。わるい話ではない。お前の戸籍をこの後どうして置くかというはなしさ。なりはじめの事はもうとやかく言った処で仕様のない事だからな。成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めずという教もあるから、わしはいずれにしても異存はないと申上げて置いた。お前の家とわしとが承知なら、進は無論何とも言うはずはないわけだから、どうだね。早くその手続をしてしまったら、届書は区役所の代書にたのめばすぐ出来るから、印さえ押せばそれでいいのだよ。」 「はい。帰りましたら早速そう申します。」 「戸籍などはどうでもいいようなものだが、しかし人倫の道は正しいに越した事はない。幾年も夫婦同様にしていれば結局籍を入れるのがあたり前のはなしだからな。最初の事は能く知らんが、お宅のはなしではもう五年になるそうだな。」 「はい。たしか。」と鶴子はわざと言葉を濁して伏目になった。今更指を折って数えて見るまでもなく、鶴子は五年前、年齢は二十三の秋、前の夫が陸軍大学を出て西洋へ留学中、軽井沢のホテルで清岡進と道ならぬ恋に陥ったのである。先夫の家は子爵で、別に資産はなかったが、とにかく旧華族の家柄なので、世間の耳目を憚り親族は夫の帰朝を待たず多病といいなして鶴子を離別した。鶴子の家にはその時既に両親がなく、惣領の兄が実業界では相応に名を知られていたところから、衣食に窮しないだけの資産を鶴子に与えて生涯実家や親類の家へ出入する事を禁じた。その時分進はまだ駒込千駄木町にあった老父熙の家にいて、文学好きの青年らと同人雑誌を刊行していたのであるが、鶴子が離別されると間もなく父の家を去って鎌倉に新家庭をつくった。半年ほどたった時老父の熙は突然流行感冒で老妻を先立たせ、また文官年限令で帝国大学教授の職を免ぜられたので、これを機会に千駄木の家を人に貸して、以前から別荘にしてあった世田ヶ谷の廃屋に棲遅した。  世田ヶ谷の家には十年ほど前まで、八十歳で世を去った熙の父玄斎が隠居していた。玄斎は維新前駒場にあった徳川幕府の薬園に務めていた本草の学者で、著述もあり、専門家の間には名を知られていたので、維新後しばしば出仕を勧められたが節義を守ってこの村荘に余生を送った。今日庭内に繁茂している草木は皆玄斎が遺愛の形見である。  熙は初め中村敬宇の同人社に入り後に佐藤牧山と信夫恕軒との二家について学を修め、帝国大学を卒業後は直に助教授に挙げられ、老免せられるまで凡三十年漢文の講座を担任していたのであるが、深く時勢に感ずる所があったと見えて、平素学生に向っては、今の世の中に漢文学の如き死文字を学ぶほど愚な事はない。唯骨董としてこれを好むものが弄んでいればよいものだと称して、人に意見をきかれても笑って答えず、同僚の教授連とも深くは交らず、唯自家の好む所に従って専ら老荘の学を研究し、著書も少くはないのであるが、一として世に示したものはない。熙はその子の進が人妻と密通して世間を憚らず一家を構えたのを知って、深く憤りはしたものの、現代の青年男女は老人の訓戒などに耳を借すはずがないと、あきらめ切っているので、表向は何事も知らぬ振りで、実は義絶したのも同様、世田ヶ谷に隠居してから三年ばかりの間は一度も音信をしたことさえなかった。進の方でも父が平生の気質からその憤りを察して、これに反抗するため、わざとそれなりに月日を過していた。ところが老人は亡妻の命日に駒込の吉祥寺に往った時、一人の若い女が墓前に花を手向けているのを見て、不審のあまり、丁度狭い垣根の内のことで、女の方から気まりわるそうに辞儀をするまま、その名をきいて始めてその女が倅の妻の鶴子である事を知ったのである。老人は進の如き乖戻な男と好んで苦楽を偕にしているような女が、言わばその姑に当るものの忌日を知って墓参りをするとは、そもそもどうした訳であろう。そんな訳のあろうはずがない。年寄の耳の聞まちがえではないかという気もしたので、墓地の小径を並んで歩む折重ねてその名をきき直した。それが話の糸口になって、寺の門を出てから電車に乗って別れる時まで知らず知らず話をしつづけた。老人は平素現代の青年男女には道徳の観念は微塵もない。男は大抵乖戻放慢の徒で、女はまず禽獣と大差なきものと思込んでいる矢先、鶴子の言葉使いや挙動のしとやかな事がますます不可思議に思われ、更にまた、これほど礼節をもわきまえている女がどうして姦通の罪を犯したのであろうと、家へ帰った後も頻に心を労した末、ふと老人は鶴子が操を破ったのはあるいは放蕩無頼な倅に欺かれたためではないかという気がした。果してそうだとすると、実に気の毒な事だ。何となく親の身として申訳のないような心持がして来るので、その後老人は図らず新宿の停車場で出会った時は此方から呼びかけたくらいであった。それらの事から、鶴子はいつともなく世田ヶ谷の隠宅へ出入することを許されるようになったのであるが、しかし進との間柄については、二人とも何やら互に遠慮して、問いもせず言いもせず、そのままになっている。生計の事ではその後進は莫大な収入がある身となっているし、老人の質素な生活は恩給だけでも有り余るほどなので、互に家事向の話の出べき所がないわけであった。  世田ヶ谷の家には庭掃除の下男と雇婆がいるものの、鶴子は老人が日々の食事を始め衣類や身のまわりの事に不自由しているらしいのを見て、それとなく陰へ廻って気のつくかぎり世話をするようになった。表向きお世話をするといえば老人はきっとそれには及ばないと言うにちがいはない。かつまた、清岡の家には既に或医学博士に嫁した姉娘もあるので、鶴子はその手前をも憚って、何事も目に立たないようにひかえ目にしている。その態度や心持は月日と共におのずから老人の眼にもわかるようになったので、老人はいよいよ鶴子の胸中を気の毒に思い、心窃に倅進の如きものの妻にはむしろ過ぎたものと感服しなければならぬようになった。  老人は茶を飲み干した茶碗を膝の上に握りながら、「その中お宅へ伺ってお話を伺おうと思っているのだがね、年をとると、つい袴をはくのが面倒でな。そうかといって、初めて伺うのに着流ではあまり失礼だし、何か好い折がと思っているのだが、お前はその後もやはり出入りはせんのかね。」 「はい。そのままになっております。兄ばかりならかえって遠慮が御在ませんけれど、義姉の手前も御在ますから。」 「それは大きにそうかも知れない。」 「とにかくわたくしが悪いのにちがいは御在ませんのですから、別にどなたの事もお怨み申してはおりません。」 「その心持があればもう立派なものだ。」と言った時、曬した古法帖の上に大きな馬蠅が飛んで来たので、老人は立って追いながら、「過を改むるに憚ること勿れ。若い時の事はどうもいたし方がない。人間の善悪はむしろ晩節にあるのだよ。」  鶴子は何か言おうとしたが、自分ながら声が顫えはせぬかと思ってそのまま俯向くと、胸が急に一杯になって来て、どうやら眼が潤んで来るような心持がした。折好く勝手の方に人の声がしたのを聞付けて、これ幸とあわてて坐を立った。老人は馬蠅の飛び去る方を睨みながら、「酒屋か郵便屋だろう。うっちゃってお置きなさい。」と徐に石摺の古法帖を畳んだ。  鶴子は涙を見せまいと台所へ行って見ると、老人の言った通り、酒屋の男が醤油の壜を置いて立去るところであった。勝手口は葡萄棚のかげになって日の光も和げられ、竹藪の間から流れて来る風はひやりとするほど爽かである。女中部屋は雇婆が出がけに掃除をして行ったものと見え、火鉢の灰もならしたまま綺麗に片づいている。鶴子は酒屋の男の去った後あたりにはもう誰もいないと思うと、こらえていた涙が一時に溢れ落るのを急いでハンカチで押えた。ここの家のお父さまは何も知らずにいらっしゃるのであるが、自分と進との間柄は今では名ばかりの夫婦で、入籍するの、しないのというような状態ではない。夫の進は一昨日家を出たなり今夜も多分帰って来ないであろう。この二、三年原稿の製作を口実にして随意に外泊することはもう珍しくはない。いずれ二、三日すれば帰って来るであろうが、今のような状況では、自分を正妻にして籍を入れる事をまさかに拒みはしまいけれど、さして喜びもしない事は言わずと明である。事によればかえって迷惑そうな顔をしないとも限らない。と思うと、鶴子は老人の好意をかたじけなく思うにつけ、その好意を受ける事のできない身の上を省みて涙を催さずにはいられなかったのである。  進と鶴子との恋愛生活は鎌倉に家を借りていた間、わずか一年くらいのものであった。進は一躍して文壇の流行児になり、俄に売文の富を得るようになると、忽ち杉原玲子という活動写真の女優に家を持たせるばかりか、絶えず芸者遊びをするようになった。その後玲子が進を捨てて同業の俳優と正式に結婚をすると、進はすぐその代りにカッフェーの女給を妾にするという有様。鶴子は殆どあきれ返って、嫉妬の情を起すよりも次第に夫の人格に対して底知れぬ絶望の悲しみを抱くようになった。鶴子は女学校に通っていた時から、仏蘭西の老婦人に就いて語学と礼法の個人教授を受け、また国学者某氏に就いて書法と古典の文学を学んだ事もあったので、結局それらの修養と趣味とがかえって禍をなし、没趣味な軍人の家庭にはいたたまれなかった。それと共に自分から夫に択んだ文学者清岡進の人物に対しても永く敬愛の情を捧げている事ができなくなったのである。初め軽井沢の教会堂で人から紹介せられた時の進と、今は通俗小説の大家を以て目せられている進とを比較すると、全く別の人としか思われない。五年前の進は勉学の志を擲たない真率な無名の文学者であったが、今日の進は何といってよいのやら。思想上の煩悶などは少しもないらしい様子で、その代り絶えず神経を鋭くして世間の流行に目を着け、営利にのみ汲々としているところは先相場師と興行師とを兼業したとでも言ったらよいかも知れない。新聞に連載しているその小説を見れば、今まで世にありふれた講談や伝奇を現代の口語に書替えたまでの事で、忌憚なく言えば少し読書好きの女の目にさえ、これでは殆読むには堪えまいと思われるくらいのものである。鶴子は進が去年の暮あたりから或婦人雑誌に連載し出した小説を見た時、ふと六樹園の『飛弾匠物語』の事を思出して、娘の時分源氏の講義を聞きに行った国学者の先生が、いつも口癖のように今の文士にくらべると江戸時代の作者がどれだけ優れているか知れないと言ったことなどを夢のように思返した事もあった。平生家へ出入する進の友人を見れば、言葉使いから様子合いまで、いずれも兄弟かと思われるほど能く似た人ばかりで、二、三人集まればすぐ洋酒を飲み、胡坐をかいたり寐そべったりして、喧嘩でもするような高調子。その談話は何かと聞けば、競馬の掛けごとに麻雀賭博、友人の悪評、出版屋の盛衰と原稿料の多寡、その他は女に関する卑猥極る話で持切っている。  鶴子は既に幾たびとなく決心して、折があったら進の家を去ろうと思っていた。今更兄の家の厄介にはなれないので、その当時義絶の証として与えられた金がまだ半分位は銀行に預けてあるのをたよりに、間借りでもして、何処かの事務員にでも雇われようとまで、すっかり覚悟をきめて、それとなく最後の破綻の来る時を待っていたが、進の方からはまさか手切金の請求を恐れたわけでもあるまいが、そのままに何事も言出さず、表向きはどこまでも令夫人らしく冷に崇め奉っているので、月日のたつにつれて、さすがに女の方から突然別ればなしを持ち出す訳にも行かず、つい言出しそびれて今日に至った。それやこれやの思いに暮れて、鶴子はハンケチを口に銜えたまま台所の柱に身をよせかけ、葡萄棚に集る虻の羽音を聞いていた。  突然人の跫音がしたので、鶴子はびっくりして様子をつくろうとしたが、眼の縁に残った涙の痕と、憂いに沈んだ顔の色とは俄にどうする事もできない。  老人は鶴子が勝手へ行ったままいつまでも戻って来ないので、性の好くない行商人でも来たのではないかと、何気なく様子を窺いに来たのである。 「鶴子。心持でもわるいのじゃないか。何なら少しお休みなさい。」 「いいえ。別に。」と言いはしたものの、鶴子は身体の置場にこまって板の間にべったり坐った。 「顔色がよくない。」と老人は既に様子を察したものらしく、「わしは人から聞いたはなしは何事によらず他言はしない。むかし細井平洲という先生は人の手紙を見るとその場で焼いてしまったという事だ。心配せん方がよい。」  鶴子はこの時胸にある事は何も彼もこの老人だけには打明けてしまいたい気になって、縋るようにその足下に摺寄り、「お話したい事が御在ますの。わたくし、お父さまより外には、お話したいと思いましても、誰もお話する方が御在ませんから。」 「うむ。聞きます。先刻からどうも様子が変だと思っていた。」と老人は酒屋の男が明放しにして行った勝手口の硝子戸に心づき、手を伸してそれを閉めた。 「お父さま。あのおはなし。あれはもう、折角の思召しで御在ますけれど、実はもう、なんにもならない事だと存じますから。」と涙を啜った。 「そうか。家がうまく行っておらんのか。困ったものだ。お前の考はどうだ。この末望みがないのか。」 「今のところ、別にどうという事も御在ませんけれど、籍を入れましても、ほんの名義だけの事で、いつどういう事になるか分りませんから、かえってこのままの方がよくはないか知らと、そういうような心持もいたします。わたくし、ほんとに我儘な事ばかり申しまして……。」 「いや、それで事情は大抵わかりました。お前に向って進の事を悪くいっては甚気の毒だが、これは進ばかりには限らん事で、今日文学を弄ぶ青年に物の道理を説いてきかしてもわかるはずはない。わしは長年教師をしていたからそのくらいの事はよく知っています。見込みのあるものなら、呼びつけて意見もして見るが、わしはまず駄目だとあきらめている……。」 「わたくしが、何か申上げたようになりましても困りますし……。」 「それは今も言う通り、わしは一切何も言いません。しかしこのままにして置いたら、行末お前が困るでしょう。それが気の毒だ。」 「いえ。わたくしは、もうどの道、若い身空でも御在ませんから、行先の事は別にそれほど心配してはおりません。長い間には宅の心持もまたどんな事で直らないとも限りませんし……。」 「うむ。うむ。」と老人は立ったまま腕を拱いて嘆声を発したが、裏木戸の方に音のするのを聞きつけ、「伝助が帰って来たらしい。あっちで話をしましょう。」  老人は手を取らぬばかりに鶴子を急き立てて勝手から立ち去った。 六  雨は降っているが、小降りで風もなく、雲切れのし始めた入梅の空は、まだなかなか暮れきらぬ七時頃。富士見町の待合野田家の門口へ自動車を乗りつけた三人連。一人は清岡の原稿売込方を引受けている駒田弘吉という額の禿げ上った鰐口の五十男に、一人は四十あまり、一人は三十前後の、一見していずれも新聞記者らしい眼鏡をかけた洋服の男である。駒田が先に格子戸を明け、靴をぬぐ間から女中にからかいながら、どやどやと表二階の広い座敷へ通る。前以て電話が掛けてあったものと見えて、煙草盆に座布団も人の数だけ敷いてあって、煉香の匂がしている。「お風呂がわいております。」と女中の挨拶に、間もなくこの土地では姉さん株らしい三十近い年増と、二十前後の芸者が現われ、女中の運び上げる料理の皿を卓の上に並べる。  駒田は現在『丸円新聞』に連載せられている清岡の小説がほどなく半月くらいで完結する見込なので、早くも別の新聞社へ交渉して次の原稿を売込む相談をまとめたところから、編輯長へは内々で割戻しの礼金も渡してしまい、部下の記者は待合に連れて来て酒肴を振舞い芸者をあてがう腹である。 「先生も、もうそろそろお出ででしょう。構いませんから先へやりましょう。」と駒田は盃を年上の記者にさして吸物椀の蓋をとる。 「僕はどうも飲む方は得意でない。」と年上の記者は芸者に酌をさせながら、「まず箱なしの一方というやつだ。」 「恐入りましたね。売ッ児はそれでなくっちゃいけません。」 「お前、どこかで見たことがあるな。思出せないが。まさかカッフェーでもあるまい。」 「いいえ。そうかも知れませんよ。この頃は芸者が女給さんになったり、女給さんが芸者になったり、全く区別がつきませんからね。」 「芸者から女給になるのはざらだが、カッフェーから芸者になるのは少いだろう。」 「少いこともないわ。随分あってよ。ねえ。姐さん。」 「そうか。随分いるのか。それは驚いた。」 「そうねえ。五、六人……さがしたらもっといるかも知れないことよ。」 「銀座あたりにいた奴はいないか。」 「辰巳家からこの間お弘めした児、なんていったっけ……。」と年増が飲みかけた盃の手を留めて、眉を寄せ、「あの児はたしか銀座にいたんだわね。」 「新橋会館よ。」と若い方の芸者が直に答えた。 「新橋会館に。そうか。いつ時分だろう。」と今まで黙っていた若い記者が急に卓を押し出したので、駒田は女中を見返り、 「その芸者を掛けろ。おい。名前は何ていうんだ。」 「辰巳家の辰千代さん。」と若い芸者が名ざしをしたので、女中はすぐさま立ちかけた時、下から、「お花さん。お客様がお見えになりました。」 「先生だろう。」と駒田は襖の方を見返りながら、少し席を譲る間もなく、梯子段に跫音がして、パナマ帽を片手に、鼠セルの二重廻を着たまま上って来たのは、清岡進である。 「おそくなって失礼しました。」と進は年増の芸者に帽子と二重廻を渡し、お召の一重物に重ねた鉄無地一重羽織の紐を結直しながら、卓の上に小皿と箸の置いてある空席に坐る。年輩の記者は既に知り合っていると見え、若い記者を紹介したので、直様茶ぶ台の上で名刺の交換が始まった。女中が芸者の返事と共に銚子を持って来て、 「辰千代さん。すぐ伺います。」 「ほんとに皆さん、あがらないのね。」と年増が新しい銚子を受取って、「あなた。お一ツ。」 「一向景気がつかないようだね。」と清岡は酌をさせながら、駒田を顧み、「まだ後から来るのか。」 「目下大に選定中なんですよ。まだ外に知らないか。女給芸者がいるから、ダンサー上りや女優上りもいるだろう。どうせ、呼ぶなら変ったのがいい。」 「こちら、ほんとに物好きねえ。」 「家にもこのあいだまで一人変ったのがいたんだけれど、誰がいいか知ら。」 「姐さん、ほら。桐花家さんの。評判じゃないこと。」 「ウム。京葉さん。」と年増は膝を叩いて、「あの人ならむしろダンサー以上。逆立くらいやり兼ねないわ。」 「その代り大変な御面相だろう。」 「ところが綺麗で、色っぽいのよ。何しろこの土地で一番いそがしい人ですもの。」 「いやに宣伝するなア。いくらか貰っているな。とにかく呼べ呼べ。」と駒田はすこし酔い始めたらしく大分元気づいて来たが、清岡は桐花家京葉の名を聞くと共に、去年残暑の頃の一件を想起して厭な心持がしたが、この場合よせとも言えないので、素知らぬ顔をしていると、年増の芸者は座談に興を添えるつもりで、 「わたしだって、もう三、四ツ年がわかければ芸者なんぞやめて銀座へ押出しますわ。女給さんの方がとにかく表面だけは素人なんですからね。何をするにも胡麻化しがききますよ。わたし、つくづくそう思っているのよ。わたしの家のすぐ隣が待合さんなのよ。その家へいろいろなお客さまを連れて来る女給さんがあるのよ。家が建込んでいるから、窓から首を出せば障子一重で、話はみんな聞えてしまうのよ。身丈がすらりとして、身なりは芸者衆よりいい位だから、銀座でもきっと一流のカッフェーでしょうよ。いつでも来るのは朝早いのよ。九時前の時もあるわ。それから正午になるかならない中お立ちだわ。こっちは九時や十時じゃやっと眼がさめた時分でしょう。それに今のところ抱はいないし家の内はしんとしているから、つい耳をすまして聞く気になるのよ。」  清岡はだまって若い方の芸者に酌をさせている。記者は二人ともいかにも面白そうに、「うむ、それから、それから。」とあおり立てるので年増も興にまかせて、 「相手のお客様は時々ちがうらしいのよ。だけれど、いつでも君さん君さんというから、きっと君子さんとか君代さんとかいうんでしょうよ。実にすごいものよ。いつだったか感心しちまった事があるわ。」  清岡は上目づかいにじろりと記者の顔を見た。駒田も年を取っているだけ、すぐに気がつき、芸者のはなしがドンフワンの君江の事でなければいいがと心配したらしく、それとなく記者の方を見たが、記者は二人とも案外銀座のカッフェーの事には明くないと見え、別に心当りもない様子で、「感心したというのは一体どういう事なんだ。芸者よりも濃厚だっていうのか。」 「それァ勿論そうよ。まアお聞きなさいよ。虚言見たようなはなしだけれど……。」  駒田はとにかく長く話をさして置いてはいけないと、気転をきかして、「おい。さっき呼んだ芸者はどうした。催促するようにそう言って来い。」 「はい。」と立上ったのは若い方の芸者なので、駒田は更に、「おれはそろそろ飯をくおう。」 「僕もつき合いましょう。」と酒を飲まない記者が駒田に同意した。御飯の給仕やら番茶の入替やらで、どうやら年増芸者のはなしも中絶した時、辰千代という女が明けてある襖の外に手をついた。  年は二十ばかり。つぶしの島田に掛けたすが糸も長目に切り、薄紫に飛模様の裾を長々と引いているので、肉付のいい大柄な身は芸者というよりも娼妓らしく見られた。 「銀座にいたのはお前か。」 「ええ。そうよ。」と辰千代はむしろ得意らしい調子で、「あっちでお目に掛かったか知ら。何しろわたし眼がわるいんでしょう。だから失礼ばっかりしているのよ。」  年増の芸者は辰千代が自分の方には見向きもせず独りでぺらぺらしゃべり続けるのを、さも苦々しそうに尻目に見返したが、此方は一向気がつかない様子で、さされる盃を立てつづけに二杯干して若い記者に返しながら、「こっちへ来てから一度も銀座の方へ行かないから、きっと変ったでしょうね。今どこが一番賑なのか知ら。」 「お前、先に何処にいたんだ。コロンビヤか。」 「あら、失礼しちゃうわ。新橋会館よ。」 「どうして芸者になったんだ。あんまり発展しすぎて睨まれたんだろう。」 「そう仰有るけれどカッフェーは割に堅いことよ。何しろ昼間から夜の十二時まではちゃんとお店にいるんですもの。」 「十二時から先のはなしさ。」 「十二時から先は誰だって寝るんじゃないの。夜通し起きてはいられないじゃないの。ねえ。あなた。」  その時同じく潰島田に結った小づくりの年は二十二、三の芸者につづいて、ハイカラに結った身丈の高い十八、九の芸者が来て末座に坐る。清岡は小づくりの女が京葉だということは、いつぞや市ヶ谷八幡の境内から窃に君江の跡をつけた晩、一生涯忘れるはずのないほどはっきり見覚えている。しかし相手には自分の顔を見知られない方が何かの場合都合がいいと思って、その後二、三度この土地へあそびに来た時も用心して逢わないようにしていたので、自然横を向いて煙草の烟ばかり吹いていると、駒田は飯をすませて廊下へと立つ。 「駒田さん。ちょいと。」と女中が裏梯子の方へ引張って行って、「お北姐さん。丁度二本になりますから、もう帰してもよろしいでしょう。」 「後の奴はみんな間に合うのか。」と駒田は時計を見た。 「菊代さんだけ少し高いんですけれど。」 「そんならそれも帰してしまえ。どの道、おれはいらないんだから、三人残して置けばいい。」 「じゃア、京葉さんに、辰千代さんに、松葉さん。」と念を押して、「どういう風にしましょう。」  女中が相方をきめるのに困っているらしいのを見て、駒田は厠から帳場へ姿をかくし、それから清岡を呼出し、座敷には招待した記者二人を残して好きな芸者を択り取らせる事にした。 「そう致しましょう。」と女中はまず年増芸者を帰すように座敷へ行って見ると、若い記者は女給上りの辰千代を膝の上に載せて窓に腰をかけ外を見ながら、流行唄を唄っているので、これはそのままにして、年上の記者に耳打をした。清岡は様子を察して何とつかず立って厠へ行き、駒田をさがす振りで裏梯子から下へ降りて、再び二階の座敷へ戻って見ると、記者の姿は二人とも見えず、女中が脱いである洋服の上着と折革包とを持ち、立ちかけた京葉に、「三階のすぐ突当り。」と教えているところであった。清岡は何事も気のつかない振りをして、窓の敷居に腰をかけると、一人取残された身丈の高いハイカラの芸者は、その場の様子から清岡を自分の出る客と思ったらしく、「もう霽れたようね。」と言いながら並んで腰をかけた。  雨はいつか歇んで、両側とも待合つづきの一本道には往来する足駄の音もやや繁くなり、遠い曲角の方でバイオリンを弾く門附の流行唄が聞え出した。 「今帰ったお北の家はどこだ。富士見町の方か。」と、清岡は何の訳もないような風できいて見た。実は先刻その女のはなしをした隣りの待合の事が気になっていたからである。 「いいえ、三番町もずっと先の方……。」 「それじゃ、女学校か何かある、あっちの方か。」 「ええ。そうよ。わたしの家もお北姐さんの家のすぐそばだわ。」 「そうか。お北の家の隣りは待合だっていうじゃないか。」 「ええ。千代田家さんでしょう。先どなりがお北ねえさんの家で、手前の方がわたしのいる家なのよ。」 「そうか。それじゃその家にちがいない。背中合せになっている待合がありゃアしないか。」 「何だか変ねえ。」 「義理があるから、今度行こうと思っているんだけれど、様子がわからないからさ。」 「あの辺でお茶屋さんは千代田家さんだけだわ。何しろ許可地の一番はずれですもの。」  女中が三階から降りて来て、「どうぞ。」と言ったが、清岡はあまりぞっとしない芸者なので、 「ちょっと用があるんだが、駒田はどうした。まだ帰りゃアしまい。」 「先ほどお帳場で旦那とお話していらっしゃいました。見て参りましょう。」  女中が立ちかけた時、駒田は上着のかくしへ大きな紙入を差込みながら、表梯子を上って来た。駒田は商売の取引ならば待合でもカッフェーでも何処へでも出入りするが、自分では滅多に女など買ったことのない男で、新聞社の営業部に勤めていた頃から株相場や家屋地所の売買に手を出し、今では大分身代をつくり上げたという噂であるが、それにもかかわらず、電車の出来ないむかしから、今以て四谷寺町辺の車さえ這入らぬ細い横町の小家に住んでいる。清岡は駒田の事を爪に火をともす流儀の古風な守銭奴だと思っている。 「駒田君。帰るなら一緒に出よう。まだ時間は早いし、どうせ電車だろう。」 「君はこれから銀座へ廻るのかね。」 「イヤ、彼奴はもう止めだ。君も知っているような始末で、ああ見さかいなしに誰でも御座れじゃ、全く名誉毀損だからな。すこし相談したい事があるんだ。とにかくぶらぶら出かけよう。」 「アラ、ほんとにお帰りなの。」と芸者はさも驚いたような顔をしたが、清岡は見向きもせず、丁度窓際の柱に呼鈴の紐がついていたのを引寄せて、ボタンを押した。  駒田は清岡と共に表梯子を降りながら、急に思出したらしく、送り出す女中を顧て、「おいおい。お泊りのようだったら芸者は明日の朝時間通りに帰してしまえ。」 「それはもう承知しております。」 「別に忘れ物はなかったな。マッチを貰って行こう。」と駒田は靴をはきながらも、さすがに抜目がない。 「またどうぞ。お近い中に。」という声を後に二人は格子戸をあけて外へ出ると、雨あがりの空には月が出ていて、色町の横町はいかにも夏の夜らしく、往来する女の浴衣が人の目を牽く。 「駒田君。これから、赤坂までつき合わないか。」 「この頃はあの方面ですか。」 「カッフェーももう飽きたからね。やっぱり芸者が一番いいな。少しピンとしたやつをどうかしようと思っているんだがね。」 「どうかすると言うのは、身受でもしようというはなしですか。それは考物ですよ。」 「君に相談すれば、きっとそう言うだろうと思っていたんだ。」 「まとまった金を出すことはとにかく止した方がいいですよ。芸者の身受も将来奥さんになれるとか何とかいう目当があれば、女の方もそのつもりで真面目になるでしょうが、そうでなければ、きっと面白くない事が起って結局お止めになるんですからな。」 「将来は、僕の方だってわからない。また一人になるかも知れないし……。」 「そうですか。風雲頗急ですな。」 「イヤ、まだそれほどの事でもないんだがね。どういうもんだか、家へ帰ると陰気になっていけない。」  清岡は問われるままに、家の事情を委しく語りたいと思いながら、さてどういう風に、何からはなし出したらいいものかと考えながら歩いて行く中、忽ち富士見町の電車停留場に来てしまった。そもそも清岡には最初から鶴子を正妻に迎えるほどの堅い決心があったわけではない。唯折々人目を忍んで逢瀬をたのしむくらいに留めて置くつもりであったが、女の方が非常にまじめで、事件が案外重大になってしまったので、どうする訳にも行かず、幸女がその兄から金を貰ったのを聞いて鎌倉に家を借りて同棲したような次第であった。勿論人の妻として才色両つながら非の打ちどころのない事は能く承知しているが、その後清岡は月日の立つにつれて自分の品行の修らないところから、何となく面伏な気がしだして、冗談一ツ言うにも気をつけねばならぬような心持がして窮屈でならなくなった。それがため、一日に一度はどうしてもカッフェーか待合に行って女給か芸者を相手に下らない事を言いながら酒を飲まなければ心淋しくてならないような習慣になった。清岡は女給の君江が最少し乗気にさえなってくれれば、明日といわず即座にカッフェーなり酒場なり開業させようと思いながら、そういう相談には君江ではいかにも頼みにならないところから、いっそ方面を転じて、これぞと思う芸者の見つかり次第、芸者家でも出させて見ようかという気になっている。実はそれらの相談もして見たいと思って、駒田を誘い出したのであるが、駒田は電車が近づくのを見ると、早くも折革包を抱え直して、年寄りのくせに飛乗りでもしかねまじき様子。清岡は忽興がさめて、 「それじゃ失礼。僕はちょっと寄るところがあるから。」 「あした。午後は丸円社にいますから、御用があったら電話をかけて下さい。」と駒田は電車に乗った。  時計を見ると十時である。清岡はこのまま家へ帰れば、さしておそいというでもなく、丁度ほど好い時間だとは思いながら、夜ふかしに馴れた身は、何となく物足りない気がして、もう一軒どこへか立寄ってからでなくては、どうしても足が家の方へは向かない。しかし今時分、丁度酔客の込合う時刻には、銀座のドンフワンなどへは君江との関係もあるところから、うかうか一人では行かれない。銀座辺の飲食店を徘徊する無頼漢や不良の文士などから脅迫される虞もあり、また君江が酔客を相手に笑い興ずるのを目の前に見ているのも不愉快である。清岡はこれから立寄るべきところは、まずこの間から折々出かける赤阪の待合より外にはないと思いながら、しかし目ざした芸者は既に五、六度呼んでいるにもかかわらず、今もってなかなか承知する様子がないので、今夜あたりも大抵話はまとまるまいと思うと、行かない先から、何やらむやみに腹立しい心持になって来る。しかしこの腹立しさもよくよく考えて見ると、あの芸者が自分の意に従わないという事から発しているのではなくて、その原因はやはり君江に対する平素の憤りから起っている。君江がもし自分の思うようにさえなっていれば、何もあんな芸者にふられるような馬鹿な目に遇わなくてもすむ事だと思うと、一時ゆるがせにしていた報復の悪念がまたしてもむらむらと胸中に湧き立って来る。清岡が君江に対して、何よりも腹が立ってならないのは、平素君江が何の心配もなく面白そうに日を送っている事で、その次には君江が名声籍々たる文学者の恋人である事をさほど嬉しいとも思っていないように見える事である。もし自分が関係を断つような事があっても女の方では別に名残惜しいとも何とも思わないように見える事である。君江は自分との関係が断えればかえってそれをよい事にして、直様代りの男を見付けて、今と同じように、たわいもなく浮々と日を送るに相違ない。虚栄と利慾の心に乏しく、唯懶惰淫恣な生活のみを欲している女ほど始末にわるいものはない。こういう女を苦しめるには肉体に痛苦を与えるより外には仕様がないかも知れない。といって、まさかに髪を切ったり、顔に疵をつけたりする事もできないとすれば、まず二、三カ月も床につくような重い病気に罹るのを待つより外に仕様がないわけである。そんな事を考えながら足の向く方へとふらふら歩きながら、ふと心づいて行先を見ると、燈火の煌々と輝いている処は市ヶ谷停車場の入口である。斜に低い堀外の町が見え、またもや真暗に曇りかけた入梅の空に仁丹の広告の明滅するのが目についた。  君江の家はあの広告のついたり消えたりしている横町だと思うと、一昨日から今夜へかけてまず三日ほど逢わないのみならず、先刻富士見町で芸者から聞いたはなしも思い出されるがまま、とにかくそっと様子を窺って置くに若くはないと思定め、堀端を歩いて、いつもの横町をまがった。  角の酒屋と薬屋の店についている電燈が、通る人の顔も見分けられるほど隈なく狭い横町を照している。清岡は去年から丁度一年ほど、四、五日目にはここを通るので、店のものにも必顔を見知られているにちがいないと、俄に眉深く帽子の鍔を引下げ、急いで通り過ると、その先の駄菓子屋と煙草屋の店もまだ戸をしめずにいたが、ここは電燈も薄暗く店先には人もいない。路地の入口の肴屋はもう表の戸を閉めているので、ちょっと前後を見廻し、暗い路地へ進入ろうとすると、その途端にばったり行き会ったのは間貸しの家の老婆である。闇にまぎれて知らぬ振りで行き過ぎようとしたが、老婆は目ざとく、「アラ旦那。」と呼びかけ、「一歩ちがいで、まア能う御在ました。不用心ですから鍵をかけて、お湯へ行こうと思ったんですよ。お君さんも今夜はお早いんですか。」 「イヤちょっと市ヶ谷まで用事があったから、寄って見たんだよ。帰って来るまで、とても待ってはいられないから、今夜寄ったことは黙っていておくれ。また心配するからなア。」 「じゃ、お茶一ツ上っていらっしゃいまし。」 「でも、おばさん、お湯へ行くんだろう。」 「ナニ、あなた。まだ急がないでもよう御在ます。」  清岡は振切って去るわけにも行かず、勧められるがまま老婆の寐起している下座敷に通り長火鉢の前に坐った。座敷は二階と同じく六畳ばかり。壁も天井も煤けて、床板も抜けた処さえあるらしいが、隅々まで綺麗に片づいていて、障子や襖紙の破れも残らず張ってあるなど、もし借手さえあればここも貸間にするのかとも思われるくらいである。床の間には一度も掛替えたことのないらしい摩利支天か何かの掛物がかけてあって、渋紙色に古びた安箪笥の上には小さな仏壇が据えられ、長火鉢にはぴかぴかに磨いた吉原五徳に鉄瓶がかかっている。こういう道具から老婆の年齢も大方想像がつくであろう。老婆が口ずから語る所によれば、日露戦争の際陸軍中尉であった良人が戦死してから、下女奉公に行ったり派出婦になったりまた手内職をしたりして、一人の娘を養育したが、その娘は幸いにも資産のある貿易商の妻になり、夫婦とも現在は亜米利加に居住していて、老婆には不自由のないように仕送りをしているとの事である。しかし人の噂では、娘からの仕送りは真実であるが、娘は始め西洋人の妾になり子供が出来てそのまま旦那の本国へ連れられて行ったのだともいう。いずれが真実やら、清岡は定めかねているのみならず、君江が始めどうしてこの家の二階を借りたのやら、そして何故、もっと場所柄のいい綺麗な家へ引移らずにいるのやら、その事情もはっきり知ることが出来ないのである。老婆は中尉の妻だったというが、現在の様子や物の言いざまから見れば、本所浅草辺の路地裏によく見るような老婆で、生れも育ちも好くない事は、酒屋の通帳がやっと読める位。洋服を着て髯を生した人をわけもなく尊敬する事などから万事は大抵想像されるのである。清岡はこの老婆に向って、自分の来ない間君江が何をしているかを、今更きいて見たところで、何の得るところもないだろうと思っているので、日頃の欝憤などは顔色にも現わさず、努めて機嫌のいい調子をつくり、 「カッフェーへ行くといろいろな人に逢うんで実に困るのだよ。だから夜は前を通ってもなりたけ入らないようにしているのさ。」 「それが能御在ますよ。御身分のある方はつい人が目をつけて、何の彼のと噂をしたがるもんですからね。オヤもう十一時ですね。」と婆は隣の時計の鳴る音を聞きつけ、箪笥の上の八角時計を見上げ、 「旦那、もう一時間お待ちになればいいんでしょう。待ってお上げなさいましよ。火鉢に火でもついで置きましょう。」 「おばさん。何も今夜にかぎった事じゃない。あしたゆっくり来るからさ。」と清岡は敷島の袋を袂に入れたが、婆は最初から清岡が時ならぬ時分この近所を徘徊していたらしい様子といい、また日夜見知っている君江のふしだらとを思合せて、大抵それと察しながら、これもわざと気のつかない振をして、 「それでも旦那、お待たせして置かないと、後で君江さんに叱られますから。」 「だまっていれば知れやしない。」 「それでも何だかわたしの気がすみませんからさ。酒屋の電話をかりて掛けて来ましょう。」と婆は長火鉢の曳出しをさぐって、電話番号をかいた紙片を取り出した。 「それじゃ、とにかく帰るまで二階にごろごろしていよう。十二時には帰って来るにきまっているんだから、電話なんぞ掛けないでもいいよ。」と清岡は立ちかけて、「おばさん、留守番をしているから、何なら湯へ行ってお出で。」  清岡は老婆を銭湯にやり、二階へ上って、秘密の手紙でもあったら手に入れようという下心。老婆は前々から不意の事が起ったら電話で知らせるようにと君江からくれぐれも頼まれているので、銭湯への道すがら酒屋か薬屋から電話をかけるつもりで、電話番号の紙片を帯の間にはさみながら出て行った。 七  おばさんから電話がかかった時、君江は折よく電話室に近いテーブルのお客と飲んでいたので、呼ばれるが否や、すぐに立って電話を聞いたが、もう三、四十分で店のしまう刻限、大分酔が廻っている上に、あたりの騒々しさに、清岡先生の来ていることだけは通じたけれど、それについておばさんのくどくど言うことは一向に聞取れなかった。とにかく今夜は清岡さんの来べき晩ではなく、かつまた前以て何のたよりさえなかったところから、君江は安心して既に宵の口に木村義男という洋行帰りの舞踏家とどこへか泊りに行く約束をしてしまった所へ、その後二、三度馴染みになった自動車輸入商の矢田さんが来て、カッフェーの帰りに春代と百合子の二人をも誘って、松屋呉服店の裏通にこの頃開店した麗々亭とかいうおでん屋へ是非とも寄ってくれ。外に約束があるなら一時間でも三十分でもよいからと言って、一度外へ出てから、今方再び立戻って来て、四、五人の女給にいろいろな物を食べさせている最中である。これと殆ど前後して、いつもカッフェーなどへは来た事のない松崎さんという老紳士が今夜にかぎってひょっくり姿を現した。尤も東京駅へ人を送りに行った帰りだという事である。  銀座通のカッフェーはこのドンフワンに限らず、いずこも十時過ぎてから店のしめ際になって急に込み合って来るのが常である。絶間なく鳴りひびく蓄音機の音も、どうかすると掻消されるほど騒しい人の声やら皿の音に加えて、煙草の烟や塵ほこりに、唯さえ頭の痛くなる時分、君江は自分ながらも今夜は少し酔い過ぎたと思っている矢先、目の前には三人の男が落ち合ったのみならず、家の方にも待っているものがあると聞いて、どうしてよいのやら、殆ど途法に暮れてしまった。今夜にかぎって、どうしてこうも都合が悪るいようになったのだろうと、自分の身よりも罪のない他人を恨むばかり。一層この場で酔いつぶれてさえしまえば周囲の者が結句どうにか始末をつけてくれるだろうと、君江は松崎老人の卓に来て、 「今夜わたしべろべろに酔って見たいのよ。オトカを飲まして頂戴。」 「何かいざこざがあるな。お客と喧嘩でもしたのか。」と松崎は年を取っているだけ、すぐに気がついたらしい。 「いいえ。そうじゃないのよ。だけれど。」 「だけれど。やっぱりそういう訳じゃないかね。」  君江は返事に窮って黙ってしまったが、その時ふと、この老人とは女給にならない以前からの知合いで、身の上の事は何も彼も承知している人だから、内々打明けて相談した方がよいかも知れないと思いついた。折好くテーブルには一人も女給がいないので、君江はぴったり寄添い、 「今夜、わたしこまってしまったのよ。こんな都合のわるい事は始めてだわ。」  その語調と様子とで、松崎は忽ち万事を洞察したらしく、「おれはもうすぐ帰るつもりだよ。今夜は唯カッフェーの景気を見物に来たばかりさ。逢うのはその中ゆっくり昼間にしよう。」 「すまないわねえ。あなた、怒らないで頂戴。よくって。」 「おこるものか。おれにはもう分っている。お客がかち合っているんだろう。」 「さすがに小父さんだけあるわねえ。どうして分るんだろう。」と君江は松崎の耳に口を寄せて今夜の始末を包まずに打明け、「何かうまい工夫はないか知ら。」 「いくらでもあるさ。わけはない。」と松崎はすぐに一策を授けた。それは先カッフェーの帰り大急行で一人のお客を待合へ連れて行き、どうしても泊るわけには行かないからと、暫くしてから、男が帰り仕度をしない中、お先へ失礼と言ってあわてて帰る振りで、別の座敷へ姿をかくす。その前に極く懇意な友達の女給に頼んで市ヶ谷の家へ寄ってもらい、間貸しのおばさんに、或お客様が自動車で送ってやるからと言うので、何の気もなく一緒に乗ったところ、無理やりに待合へ連れて行かれた。仕様がないから芸者を呼ばせお酒だの御料理だの取らせている間に、自分だけ隙を見て逃げ出して来たのだから、急いで君江さんを迎いに行ってくださいと、言うのだ。そうすればきっと清岡が自身でその待合へやって来るにちがいはない。それまでにたっぷり一時間あまりはかかるから、その間にお客の一人位お前の腕ならどうにでも始末はつけられるはずだ。もう一人のお客には、人目を憚るからと口実を設けて、一人先へ別の家へ行かして、気の毒だが、その方はそれなり寐こかしを喰わしてしまうのだ。勿論その時はひどく怒るだろうが、怒るほど内心未練が強くなるのにきまっているから、翌日必恨みをいいにやって来る。その時思うさま嬉しがらしてやれば効果はむしろ平穏無事の時より以上になるだろう。松崎は刈り込んだ半白の口髭を撫でながら、微笑して、「しかし、こういう仕事をするには、呑込の早い、気のきいた家でなくっちゃいけない。心安い家でうまい処があるか。」 「そうね。牛込の彼処はどう。諏訪町時分にあなたとも二、三度行った家さ。この頃三番町にもちょいちょい往くところがあるのよ。」  その時持番の女給が来たので、君江は取りとめのない冗談を言いながら立って行った。松崎はもう半時間ばかりたてば戸をしめる時間になるので、その間に君江のお客はどんな人か。また君江が果してどういう行動を取るかをも見究めたいような心持もしたが、それまで自分がここに居坐っていてはやりにくかろうと察して、ほどなく勘定を払って外へ出た。両側の商店は既に灯を消し戸を鎖している。夜肆も宵の中雨が降っていたのと、もう時間がおそいのとで、飲みくいする屋台店が残っているばかり。銀座の大通りは左右のひろい横町もともども見渡すかぎりひっそりしていて、雨気を含んだ闇の空と、湿った路の面に反映するカッフェーや酒場の色電燈が目につくばかりである。劇場や興行物は既に一時間ほど前には閉場しているので、今頃ぶらぶら歩いている男女は悉くカッフェーへ出入するものとしか思われない。通り過る電車は割合にすいていて、辻自動車ばかりが行先の見えぬほど街の角々に徘徊している。  松崎は今ではたまにしか銀座へ来る用事がないので、何という事もなく物珍しい心持がして、立止るともなく尾張町の四辻に佇立んだ。そしてあたりの光景を観望すると、いつもながら今更のようにこの街の変革と時勢の推移とに引きつづいてその身の過去半生の事が思返されるのである。  松崎は法学博士の学位を持ち、もと木挽町辺にあった某省の高等官であったが、一時世間の耳目を聳動させた疑獄事件に連坐して刑罰を受けた。しかしそれがため出獄の後は生涯遊んで暮らせるだけの私財をつくり、子孫も既に成長し立身の途についているものもある。疑獄事件で収監される時まで幾年間、麹町の屋敷から抱車で通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人が羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄席の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓するに過ぎない。西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。翻って自分の身を省れば、あの当時、法廷に引出されて涜職の罪を宣告せられながら胸中には別に深く愧る心も起らなかった。これもまた時代の空気のなす所であったのかも知れない。月日はそれから二十年あまり過ぎている。一時はあれほど喧しく世の噂に上ったこの親爺が、今日泰然として銀座街頭のカッフェーに飲んでいても、誰一人これを知って怪しみ咎めるものもない。歳月は功罪ともにこれを忘却の中に葬り去ってしまう。これこそ誠に夢のようだと言わなければなるまい。松崎は世間に対すると共にまた自分の生涯に対しても同じように半は慷慨し半は冷嘲したいような沈痛な心持になる。そして人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉も褒貶も共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。果して然りとすれば、自分の生涯などはまず人間中の最幸福なるものと思わなければならない。年は六十になってなお病なく、二十の女給を捉えて世を憚らず往々青年の如く相戯れて更に愧る心さえない。この一事だけでもその幸福は遥に王侯に優る所があるだろうと、松崎博士は覚えず声を出して笑おうとした。        *     *     *     *  君江は舞踊家木村義男と牒し合して、カッフェーを出てから有楽橋の暗い河岸通りで待合せ、自動車で三番町の千代田家という懇意な待合へ行った。そして松崎のおじさんから教えられたように先へ帰る振りをして別の小座敷に姿をかくし、素知らぬ顔で清岡先生を迎えるつもりであったが、車の道すがら話の様子で、君江は木村が案外さばけた男で、女給には恋人の二人や三人あるくらいの事は当前だと思っているらしいので、千代田家の裏二階へ通ると、すぐさま今夜の始末をそのまま打明けてしまった。すると、木村は案の定どこまでもおとなしく、 「始めから打明けてくれれば、こんな心配をさせなくってもよかったのに。許してくれたまえ。僕がわるかったんだ。その代り今度都合のいい時ゆっくり逢ってくれたまえ。」  木村はわざと追立てるように君江をせき立て、手つだってその帯まで結んでやった。  君江は始め邦楽座の舞台で活動写真の幕間に出演する木村の技芸を見た時から例の好奇心に駆られていたので、このまま別れるのが物足りなくてしようがない。木村の技芸というのは彼自身雑誌や新聞などに書いている議論によれば、露西亜の舞踊ニジンスキイ以後の芸術と、支那俳優の舞技と、即東西両種の芸術を渾和したとか称するもので、男女両性の肉体的曲線美の動揺は、絵画彫刻の如き静止した造形美術の効果よりも遥に強烈で、また音楽が与える直感的な暗示の力よりも更に深刻だというのであるが、しかし女給さんの君江にはそういう審美学上の議論はどうでもよい。若い男と女とが裸体になって衆人の面前で時々抱き合いながらさまざまな姿態を示すのを見て、君江はああいう事を商売にしている男と逢って見たらばどんなだろうと思ったのである。その心持はあばずれた芸者が相撲を贔屓にしたり、また女学生が野球選手を恋するのと変りがない。 「先生。もうおそいから真直にお帰りじゃないんでしょう。きっと何処かへお寄りになるのよ。口惜しいわねえ。」 「だって、パトロンが来るんじゃ仕様がないじゃないか。僕はすぐ家へ帰る。虚言だと思うなら電話をかけて見給え。」と名刺を渡して、「君江さん。この次きっと逢ってくれるねえ。」 「あなたもよ。きっとよくって。わたし何だかほんとに済まないような気がして、お帰ししたくないのよ。」と君江は例の如く新しい男に対する興味を押える事ができないので、既に帰仕度をしかけた木村の膝によりかかってその手を握った。  暫くしてから君江は木村の帰る自動車を頼もうと、女中を呼びに廊下へ出て、時間をきくと今方二時を打った。そして清岡さんというお客様はまだお見えにもならず、また電話もかからないと言う。自動車が来たので舞踊家の木村先生はお帰りになる。小説家の清岡先生はそれなり二時半を過ぎてもお出でにならない。君江はカッフェーの仕舞際に瑠璃子という女給に市ヶ谷へ立寄って伝言をするように頼んだのである。瑠璃子はもと洋髪屋の梳手をしている時分から方々の待合へも出入をしていたので、こういう事には抜目のあろうはずがない。事によると、清岡先生は瑠璃子の伝言を聞かない先に怒って早く帰ってしまったのかも知れない。そう思うと君江は木村を帰すのではなかったものをと、いよいよ残り惜しくてたまらなくなって来た。帯の間に入れた名刺を見ると、その住処、昭和アパートメントの電話番号が記してあるので、前後の考もなく電話をかけて見ようと裏梯子を降りかけた時、表口の方で誰かお客の来たらしい物音がした。清岡先生にちがいないと、君江は耳をすまして表二階へ上る人の声を聞くと、清岡ではなくて、思いもかけない矢田さんらしい。矢田さんにはカッフェーのテーブルで、今夜はいくら誘われても先約があるから裏通りのおでん屋麗々亭へは行かれないがその代り少しおそくなってからならば、何処へでも行かれるから、行先を教えて先へ行って待っていて下さいと虚言をついて、それなり寐こかしを食わしてしまうつもりであったのだ。  矢田の方では君江のいう事を真に受け、最初の晩君江をつれて行った神楽阪裏の待合へ行き、二時過まで待ちあぐんでいたが、電話さえかかって来ないので、矢田は形勢を察し、十日ほど前君江がカッフェーの行掛けに自分を連れて行った三番町の千代田家の事を思合せて、万一まぐれ当りにさがし当てたら、腹いせに騒いで邪魔をしてやろうと、突然自動車を乗りつけたのである。門をたたくと直様女中が雨戸をあけたので、矢田は鎌をかけて君江さんはと聞くと、女中はてっきり君江の待っている旦那だと思込んで、 「奥様は先刻からお待ちかねなんですよ。殿方はほんとに罪だわねえ。」という返事。矢田は烟に巻かれて何とも言えず、おとなしく二階へ上り、帽子もとらず床の間を後に胡坐をかいて不審そうに座敷中を見廻していた。  君江は裏梯子の下で女中から様子をきき、今はどうする事も出来ないと覚悟をきめ、いきなり座敷の襖をあけると共に、 「矢さん。あなた。あんまりだわよ。」と鋭い声で叱りつけた。  矢田は今方女中の返事に驚かされた後、またしても意外な君江の様子に、何とも言わず、目ばかりぱちぱちさせている。 「わたし、もう帰ろうかと思ったのよ。」と君江はきちんと坐って俯向いた。 「一体どうしたというんだ。」と矢田は始めて心づいたらしく帽子を取り、「何だか、さっぱり訳がわからない。」  君江は俯向いたまま黙って膝の上にハンケチを弄んでいる。女中が上り花を運んで来て、 「ほんとにお待ちになっていらしったんですよ。お銚子をおつけ致しましょうか。」 「もう、おそう御在ますから。」と君江は妙に声を沈ませて、「こんなにおそくまで。ほんとに済みません。」 「おそいのは、もう馴れております。それでは。どうぞ。」と女中は矢田の帽子と夏外套とを持って立ちかけるので、矢田はとやかく言うひまもなく、案内されるがまま、先刻舞踊家のいた座敷とも知らず、黙って裏二階の四畳半に入った。        *     *     *     *  短夜の明けぎわにざっと一降り降って来た雨の音を夢うつつの中に聞きながら、君江は暫くうとうとしたかと思うと、忽ち窓の下の横町から、急に暑くなったわねえという甲高な女の声と小走りにかけて行く下駄の音に目をさました。軒に雀の囀る声。やや遠く稽古三味線の音。表の方でばたばた掃除をする戸障子の音と共に、隣の屋根に洗濯物でも干しに上るらしい人の跫音がする。雨はすっかり晴れて日が照り輝いていると思うと、昨夜のままに電燈のついている閉切った座敷の中の蒸暑さが一際胸苦しく、我ながら寐臭い匂いに頭が痛くなるようなので、君江は夜具の上から這い出して窓の雨戸を明けようとした。矢田は既に昨夜の中わけもなく機嫌を直していた後なので、 「お止しよ。僕があける。実際暑くなったなア。」 「こら。こんなよ。触って御覧なさい。」と君江は細い赤襟をつけた晒木綿の肌襦袢をぬぎ、窓の敷居に掛けて風にさらすため、四ツ匐いになって腕を伸す。矢田はその形を眺めて、 「木村舞踊団なんかよりよほど濃艶だ。」 「何が濃艶なの。」 「君江さんの肉体美のことさ。」  君江は知らぬが仏とはよく言ったものだと笑いたくなるのをじっと耐えて、「矢さん。あの中に誰かお馴染があるんでしょう。みんな好い身体しているわね。女が見てさえそう思うんだから、男が夢中になるのは当前だわねえ。」 「そんな事があるものか。舞台で見るからいいのさ。差向になったらおはなしにならない。ダンサアやモデルなんていうものは、裸体になるだけが商売なんだから、洒落一つわかりゃアしない。僕はもう君さん以外の女は誰もいやだ。」 「矢さん。そんなに人を馬鹿にするもんじゃなくってよ。」  矢田はまじめらしく何か言おうとした時、女中が障子の外から、「もうお目覚ですか。お風呂がわきました。」 「もう十時だ。」と矢田は枕もとの腕時計を引寄せながら、「おれはちょっと店へ行かなくっちゃならないんだけれど、君さん、今日は晩番か。」 「今日は三時出なのよ。暑くって帰れないから、わたしその時間までここに寐ているわ。あなたもそうなさいよ。」 「うむ。そうしたいんだけれど。」と考えながら、「とにかく湯へはいろう。」  矢田は自分の店へ電話をかけ、どうしても帰らなければならない用事が出来たというので、朝飯も食わず、君江を残して急いで帰って行った。その時はかれこれ十二時近くなっていたが、今だに清岡の様子がわからないので、君江は平素から頼んである表の肴屋に電話をかけ、間貸しのおばさんを呼出して様子をきくと、昨夜お友達の女給さんが見えて、先生はその女と一緒にお出かけになったきりだという返事である。君江は事によると先生と瑠璃子と出来合ったのかも知れない。それでこっちへは姿を見せないのだろうと思った。しかし唯そう思っただけの事で、君江はそれについてとやかく心を労する気にはならなかった。十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬という感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤を生じたり、または金を貰ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好いと思っている。十七の暮から二十になる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。時たま一人孑然と貸間の二階に寝ることがないでもないが、そういう時には何より先に平素の寝不足を補って置こうという気になる。それと同時に、やがて疲労の恢復した後おのずから来るべき新しい戯れを予想し始めるので、いかなる深刻な事実も、一旦睡に陥るや否や、その印象は睡眠中に見た夢と同じように影薄く模糊としてしまうのである。君江は睡からふと覚めて、いずれが現実、いずれが夢であったかを区別しようとする。その時の情緒と感覚との混淆ほど快いものはないとしている。  この日も君江はこの快感に沈湎して、転寐から目を覚した時、もう午後三時近くと知りながら、なお枕から顔を上る気がしなかった。枕もとを見れば、昨夜脱ぎ捨てた着物や、解きすてた帯紐に取乱されている裏二階の四畳半は、昨夜舞踊家の木村が帰った後、輸入商の矢田が来て、今朝方帰りがけに窓の雨戸一枚明けて行ったままで、消し忘れた天井の電燈さえまた昨夜と同じように床の間の壁に挿花の影を描いている。懶い稽古唄や物売の声につれて、狭間の風が窓から流れ入って畳の上に投げ落した横顔を撫る心地好さ。君江は今こういう時、矢田さんでも誰でもいいから来てくれればいい。そうすればありとあらゆる身内の慾情を投げかけてやろうものをと思うと、いよいよ湧起る妄想の遣瀬なさに、君江は軽く瞼を閉じ、われとわが胸を腕の力かぎり抱きしめながら深い息をついて身もだえした。その時静に襖の明く音がして、屏風の前に立った男の姿を、誰かと見れば昨夜から名残惜しく思っていた木村義男である。 「あら。」と君江はわずかに顔を擡げながら、起直りもせず、仰向きに臥たまま両腕をひろげ、木村が折屈むのを待って、ぐっと引寄せながら、「わたし、夢を見ていたのよ。」  暫くして後木村は昨夜銀細工の鉛筆を落したから、もしやと思って捜しに来たことを告げた。  二人は起きて、表座敷で料理の肴に箸をつけた時、女給の瑠璃子から電話がかかった。瑠璃子は昨夜君江から頼まれた通り、狼狽した振りで本村町へ行き、清岡先生に三番町の千代田という家へ行った事を告げると、先生は俄に不快な顔色をして、いろいろ弁解するのも聴かず、途中から自分を振捨てどこへか行ってしまった。その事を知らせたいと思って今まで君江の来るのを待っていたが、三時の出番にも姿が見えないので、最初に肴屋へ呼出しの電話をかけ、おばさんの返事から推量して、更に電話をかけて見たという事である。  日が暮れて飯を食べてしまうと、木村は明日丸円劇場の初日なので、これから稽古に行かなくてはならないと、急いで仕度をした後、特等の座席券を五、六枚、カッフェーの女給さんたちに売ってくれと頼んで、そのまま晩飯の代も自動車賃も払わずに帰ってしまった。  君江はまるで落語家か芸人などと遊んだような気がして、俄に興が覚め、折角きょう一日夢を見ていたような心持はもう消え失せてしまった。折からたっぷり日が暮れると共に、今のところ何の当もない今夜一晩の事が急に物さびしく思われて来た。女一人では待合にもいられないので、木村の飲み食した勘定を仕払って外へ出ると、横町は丁度座敷へ出て行く芸者の行来の一番急しい時分。今頃おくれてカッフェーへも行かれない、といって、家へ帰っても仕様がないので、思出すまま桐花家の京葉をたずねて見ようと、四角を曲りかけた時、向から座敷着の褄を取り、赤い襦袢の裾を夕風に翻しながら来かかる一人の芸者。見れば京葉である。 「君ちゃん。これから銀座?」 「もう晩くなったから休もうと思ってるの。」 「あなた。千代田家さんにいたんじゃないの。」 「あら。どうして知ってるの。」 「どうしてじゃないことよ。君ちゃん。あすこはいけないよ。昨夜わたし清岡先生にもお目にかかったのよ。」 「あら。そう。」と君江もさすがに目をみはった。 「ゆうべ、宵の中に野田家さんでお目にかかったのよ。三、四人お連があったわ。わたしは後口で廻って行ったもんだから、ちょっとお目にかかったばっかりなのよ。だから、その時にはどなただか気がつかなかったのよ。だけれど、わたしお連の方に出たもんだから、後ですっかり話をきいてしまったのさ。お前さんがちょいちょい千代田家さんへ行くことを能く知っている芸者衆があるんだよ。家が隣合っているものだから、窓からよく見えるんだとさ。お座敷でその芸者衆が先生とは知らずにお前さんのはなしをしたんだとさ。何しろ此処じゃはなしができないから、わたし明日かあさって、おばさんにも用があるから、ゆっくり行って話をするわ。とにかくあすこはよした方がいいよ。」 「そう。そんな事があったの。じゃ待ってるわよ。」  近処の犬だの、箱屋だの、出前持だの、芸者などが、絶え間なく通過るので、二人は立談もそこそこに右と左へわかれた。 八  良人の起るのは大抵正午近くなので、鶴子は毎朝一人で牛乳に焼麺麭を朝飯に代え、この年月飼馴らした鸚鵡の籠を掃除し、盆栽に水を灌ぎなどした後、髪を結び直し着物をきかえて、良人の起るのを待つのである。その日の朝牛乳と共に女中の持って来た郵便物の中に、番地も宛名も洋字で書いた一封があったので、何心なく手に把ると、自分へ宛てたもので、その筆蹟にも見覚がある。女学校を卒業する前後二年あまり教を受けた仏蘭西の婦人マダム、シュールの手紙である。  マダム、シュールは東洋文学研究の泰斗として各国に知られている博士アルフォンズ、シュールの夫人で、始め良人に従い支那に遊ぶ事十余年、日本に留ることまた更に数年にして一度本国に帰ったが、その後良人に先立れ孀婦となった悲しみを慰めるため、単身米国を漫遊して再び日本に来て二年ほど東京にいた。鶴子が女学校の友達二、三人と語学と礼法とを学びに通ったのはこの折であった。マダム、シュールは巴里で亡夫の遺著を出版するについて至急な用事が出来たので、四、五日前またもや日本に来て、帝国ホテルに投宿したから一度訪ねて来るようにというのであった。  鶴子は進の起るのを待ち丁度正午の汽笛が鳴った頃、電話で聞合せてホテルへ往った。  マダム、シュールは西洋の老女にはよく見るような円顔の福々しく頬の垂れ下った目の細い肥った女である。日常の日本語は勿論不自由なく、漢文も少しは読める。『説文』で字を引く事などは現代日本の学生の及ばぬところかも知れない。  丁度食事の頃だったので、マダムは昼餉のテーブルに鶴子を案内して、亡夫の遺著を編輯するについて、第一に社寺または古器物の写真の不足しているのを補うためにこれを買集める事、第二には仏蘭西の本邸に儲えてある東洋の書画載籍の整理を依嘱するため適当な日本人をさがして本国へ同行したいという事を語った。  鶴子はどの位学識があればよいのかと問うと、別に専門の学者を望んでいるのではない。譬えば和歌と端唄との区別を知っている位の程度でよいのであるが、学問よりもむしろ日本固有の趣味と鑑識とを具備した人で、かたがた幾分なりと仏蘭西語を知っていれば申分はないのだという。マダムはなお言葉をつづけて、 「半年ぐらいで仕事はすみます。あなたがお一人で遊んでおいででしたら、是非ともお頼みするのですけれど、今ではそんなわけには行きませんから、誰か御存じの方をさがしていただかなければなりません。」  この言葉を聞くと共に、鶴子は食卓を押出さんばかり、殆我を忘れて半身を突き出し、「わたくし、半年や一年ぐらいなら……わたくしのようなものでもお役に立ちますのなら、どんな都合をしても御一緒に参りたいと存じます。」 「あなた。おいでになれますか。」とマダムも驚きと喜びとにその目を見張った。 「一度はどうかして洋行して見たいと思っておりましたから。」と鶴子は一時に湧起る感情を見せまいとして努めて声を沈ませた。  鶴子は今朝マダム、シュールの手紙を受取り、このホテルに来て食卓の椅子につく時まで、自分の生涯にかくの如き大変動が起ろうとは夢にだも思っていなかった。運命ほど測りがたいものはない。鶴子はマダム、シュールの談をきいている中、突然何物かに誘惑せられたように、唯ふらふらと遠いところへ往きたくなったのである。往った先の事はよかれあしかれ、鶴子は今住む家の門を出る事が自分の生涯をつくり直す手始だと日頃から心づいてはいたものの、きょうが日までこれを決行する機会がなかった。一時は深く絶望して何事も皆自分が為した過の報いとのみ思いあきらめ、一日も早く年をとって、半生の悔いと悲しみとを茶のみばなしにする日の来る事を待つより外はないと思っていたが、今突然意外な機会が目の前に現われて来たのを見ては、とかくの思慮を費す暇もない。日頃因循していただけ、障碍が起ったなら、極力これを排斥して思うところを決行しようという元気さえ出て来たような心持になった。  食事の後廊下の長椅子に並んで腰をかけ珈琲を啜りながら、懇談することまた一時間ばかり。鶴子はホテルを出て梅雨晴の俄に蒸暑くなった日盛りをもいとわず、日比谷の四辻から自動車を倩って世田ヶ谷に往き良人の老父をたずねて、洋行のはなしをすると、老父はかつて大学教授のころ両三度シュール博士に面談した事があるといって、「あっちへ行ってから書物の事で何かわからない事があったら遠慮なく手紙で問合せるがよい。」というような次第であった。鶴子はいよいよ門出の幸あるを喜び、夏の夕陽のまだ照り輝いている中、急いで家へ帰り良人の承諾を求めようと思うと、良人は既に外出した後で、その夜十二時近くなってからいつものように今夜は晩くなるから先へ寝てくれるようにとの事であった。仕様がないので、鶴子はその夜は先に寝て、翌朝は良人の起るまで待っているわけにも行かないところから、マダム、シュールから依頼された用事のある事だけを一筆認めて、再びホテルへ出かけた。マダムは次の日に京都へ往き奈良に遊び、二、三日長崎に滞在して神戸に立戻って便船を待つつもりであるから、その日までに仕度をしてその地のホテルへ来てくれるようにと、日割を明細に書いて見せてくれた。そして鶴子が旅行免状の事は至急運びがつくように大使館から直接その筋の役所へ交渉してもらう手筈だという事であった。  鶴子が良人に逢って始めて洋行の事を打明けたのは次の夜も世間は既に寝静った頃であった。進はどこかで飲んで来た酒の酔も一時に醒めるほど驚いたらしいのを、わざとさり気なく、 「そうか。それは結構だ。行って来るがいい。」 「半年という約束で御在ますけれど、都合でもっと早く帰りたいと思っております。」 「別に急いで帰るにも及ばない。二度出掛けるのも大変だから、ゆっくり勉強したり見物したりして来る方がいい。」  二人のはなしはそれなり途切れてしまった。進は鶴子が洋行する胸中を推察して今更引留めても既におそいと思ったので、未練らしい様子を見せて、「それ御覧なさい。その位なら平素からもう少し大事にしてくれればよいのに。」と思われるのが無念である。そうかといって、「お前のいなくなるのを待っていたのだ。」と思わせるほど冷静な態度を取るのも、かえって腹の底を見すかされるような気がする。いずれともつかぬ曖昧な態度を取るに若くはない。とそう考えたのは、鶴子の身になってもやはり同じことであった。あまり名残を惜しむような様子を見せて、無理に引留められても困るし、といって、あまり冷淡にして、それがため軽薄無情な女だと思込まれるのは元より好むところでない。夫婦は互に顔色を窺い、できるかぎり真実の事情には触れないようにして、平和に体よくこの場をすませてしまいたいと心掛けたのである。  一週間ばかりの後、鶴子は夕方神戸急行の列車に乗った。始め進の友人間には送別会を催すようなはなしが起らないでもなかったが、鶴子は実家へ対して新聞などに自分の名の出るような事はなるべく避けたいからといって固く辞退したので、その夕東京駅まで見送りに行ったものは、良人の進と門生の村岡と、書生の野口という男の外には、鶴子の学友でいずれも相応のところへ嫁しているらしい婦人二、三人だけであった。実兄は窃に旅費を贈ってもいいといったほど好意を持っていたが、世間を憚って見送りに行かず、世田ヶ谷の老人もまた頽齢をいいわけにして出て来なかった。  列車が出発すると、進を始め男二人と婦人たちとは自然別々になってプラットフォームを降口の方へと歩みはじめたが、村岡一人はいつまでも帽子を片手に列車の行衛を見送ったまま立っている。進は見返りながら、 「おい。村岡。何をぼんやりしているのだ。」 「実にさびしい出発でしたな。」と村岡は既に人影のなくなったプラットフォームを見廻しながら初めて歩み出した。 「彼の女の生活もこれで第一篇の終を告げたのだ。」と進は吸いかけの巻煙草を線路の方へ投捨てた。 「でも、半年たてばお帰りになるんでしょう。」 「いずれ帰るだろう。しかし恐らく僕の家へは帰って来ないだろう。」 「先生。僕も実はそういう気がしたんです。一種の暗示ですね。」 「おい。村岡。君はどうして彼女のツバメにならなかったんだ。おれには能くわかっていた。彼女は君のような感傷的な比較的純情な青年を要求していたんだぜ。」  村岡はまだ三十にはならない青年なので、顔を真赤にして、「先生。そんな冗談を。うそですよ。そんな事は。」 「ははははは。帰って来てからでも遅くはあるまい。」と進は始めて面白そうに笑った。  改札口へ来かかると俄に混雑する人の往来に、談話もそのまま、三人は停車場の外へ出た。吹きすさむ梅雨晴の夜風は肌寒いほど冷である。 「おい。野口。まだ早いから活動でも見て帰るがいい。ここに招待券があるから。」と進は書生を遠ざけてから、村岡と連立って丸ビル下の往来をぶらぶら当てもなく歩いて行く。村岡は突然思出したように、 「先生。ドンフワンはあれッきりなんですか。」 「うむ。すこし考えていることもあるから。」 「どんな事です。」 「さア、別にまだはっきりした考もないんだがね。しかし君にはもう心配させないつもりだから、それだけは安心していたまえ。君はあんまり善人過るから。」 「そうでしょうか。」 「どうかすると、まるで田舎の老人見たような事を言うからな。」 「それでも、僕には君江さんはそんなに憎むべき女だとは思われないんですよ。」 「君は傍観者だからさ。僕だってそれほど深く憎んでいるわけでもない。唯癪にさわるんだ。復讐だとか報復だとかいうほど深い意味じゃない。唯すこしいじめてやろうと思っているんだ。僕の考えている事をはなしたら、君はきっと残酷だとか人道にはずれているとか言うにちがいない。」 「どんな事です。」 「君を信用しないわけではないが、今話をするわけには行かない。」 「警察へ密告でもするというんですか。」 「ばかな。そんな事をしたって、あいつは何とも思やしない。拘留された所で二、三日たてば出て来る。女給でなくってもあいつのする事はまだ沢山ある。僕はあいつが何もする事ができなくなるようにしてやりたいと思っているんだ。それもおれが自身に手を下さずに、自然に他の人が手を下すような、そういう機会をつくらせようと思っている。はははは。これは僕の空想だよ。イヤ、僕はこういう男の心理状態を小説にして見たいとこの間から苦心しているんだ。たしかバルザックの小説にあったはなしだと思う。欺かれた男が密夫の隠れた戸棚を密閉して壁を塗って、その前で姦婦と酒を飲むはなしがある。僕の空想したのは、……僕の書こうと思っているのは、女を裸体にして自動車から銀座通のような町の上に投り出してやりたい。日比谷公園の木の上に縛りつけて置くのも面白い。昔は不義の男女を罰するために日本橋の袂に晒し者にして置いた。それと同じような事さ。どうだろう。今の読者には受けないか知ら。」  村岡は進が真実小説の腹案を語るのやら、または戯に自分をからかうのやら、あるいはまた小説に托して君江に対する報復の手段をそれとなく語るのやら、その区別がつかない。唯何となく薄気味がわるく、総毛立つような気がするばかり。やっと気を取直して、 「いいでしょう。甘ったるい場面にはもう飽きている時ですから。」 「女が恋人と寝ている処へ放火するのも面白いだろう。乱れた姿で外へ逃げ出すところを、火事場騒ぎにまぎれて女をつかまえ、どこか知らない処へつれて行って思うさま侮辱を与える……。」 「なるほど……。」 「まだ考えている事がある……。」 「先生。もう止してください。何だか変な心持になるから、もう止してください。」 「暴風になりそうだな。今夜は。」  空は真暗に曇って、今にも雨が降って来そうに思われながら、烈風に吹きちぎられた乱雲の間から星影が見えてはまた隠れてしまう。路傍の新樹は風にもまれ、軟なその若葉は吹き裂れて路の面に散乱している。唯さえ夜になれば人通りの絶がちな丸の内の道路は、この風とこの闇とに一際物寂しく、屹立する建物の間の小路から突然追剥でも出て来はせぬかと思われるような気がする。 「帝劇の女優が楽屋から帰り道に、車から引ずりおろされて脚を斬られたことがあった。犯人はわからずじまいだ。」 「そうですか。そんな事があったんですか。」 「寝ている中に黴菌をなすりつけられて盲目になった芸者もある。君江のような女は最後にはきっとそういう目に遇うだろう……。」  突然進がアッと叫んだので、村岡はびっくりして寄添うと、横合から吹つける風に、進は高価なパナマ帽子を奪い去られたのであった。  知らず知らず日々新聞社の近くまで歩いて来たので、二人はやや疲れたままその辺の小さなカッフェーに小憩みして、進はウイスキー村岡はビール一杯を傾け、足の向くまま銀座通へ出た。村岡は別れて帰ろうとするのを清岡は無理に引留め、今夜は顔を見知られていない裏通のカッフェーを観察しようと言出して、つづけざまに五、六軒飲みあるいた。どの店へ入っても四、五盃ずつウイスキーばかり飲みつづけるので、いつも強酒の清岡も今夜は足元が大分危くなった。それにもかまわずまたしても通りすがりのカッフェーへ這入ろうとするので、村岡は清岡が羽織の袖を捉えながら、 「先生。もう止しましょう。カッフェーよりか、どこか外の処へつれて行って下さい。僕はもうくたびれてしまいました。」 「一体何時だ。」 「もう十二時です。」 「もうそんな時間か。」 「だから、もうカッフェーはつまりません。」と村岡はとにかく酔って清岡がこの辺を徘徊している事を危険に思い、それよりもどこぞの待合へでも上った方がまだしも安全だと考えて、「先生。もっとゆっくりした処で静に飲み直しましょうよ。」 「うむ。君もなかなか話せるようになった。何処でもいい。好きなところへ連れて行け。」 「じゃ、先生、車に乗りましょう。」と村岡は早速清岡の袖を引張って、土橋へ通ずる西銀座の新道路へ出ようとした。 「待て待て。」と清岡は真暗な建物の壁に向って立小便をしはじめたので、村岡は少し離れて曲角に立留った時、女給らしい女が三人つれ立って、摺れちがいに通りかかったのをふと見ると、その中の一人はドンフワンの君江である。君江の方でも村岡の顔を見て、アラとかオヤとか言ったらしかったが、その声はまだ吹きやまぬ烈風に吹き去られて聞えなかった。村岡は咄嗟の間に、先刻丸の内を歩きながら清岡が言った事を思出し、何とも知れぬ恐怖を感じて、首と手を振って早く行けと知らせた。いつになく乱酔した清岡が、人通のないこの裏通の角で突然君江の姿を見たら、何をしだすか知れない。新聞紙を賑すような騒ぎを引起しては大変だと心配したのである。  君江は村岡の心を察したのか、どうか分らぬが、そのまま通り過ぎて、三人連で向側の蕎麦屋へ這入りかけた時、丁度長小便をし終った清岡はひょろひょろと歩み出で、向を眺めながら、「どこの女給だ。おれが行っておごってやろう。」  村岡は驚いて袖にすがり、「およしなさい。変な男がついているようです。」 「かまうものか。おごってやるんだ。」 「先生。およしなさい。」と村岡は力のかぎり抱き留めながら、通り過る円タクを呼留めた。この騒ぎに気がつかずにいたが、風に交っていつの間にやら霧雨が降り出していたと見え、村岡は車に乗ってから窓の硝子の濡れているのに心づいた。        *     *     *     *  蕎麦屋を出てから自動車に乗ったのは瑠璃子、春代、君江の三人であった。瑠璃子が赤阪一ツ木で先に降り、次に春代が四谷左門町で降りると、運転手は予め行先を教えられているので、塩町の電車通から曲って津の守阪を降りかけた。小雨のふり出した深夜のことで人通はない。君江は酔っているので、一人になると急に眠くなって覚えず瞼を合せたかと思うと、突然君子さんと呼ぶ男の声。びっくりして気がつくと自分を呼んだのは見も知らぬ運転手である。いやな奴だと思いながら、大方女給同士の話から聞知って冗談を言うのだろうと、気にも留めず、「もう本村町なの。」  運転手はゆるゆる車を進めながら、「初めから君子さんにちがいないと思っていたんですよ。忘れましたか。諏訪町の加藤さんで二、三度お逢いしました。」と鳥打帽をとり振返って顔を見せた。  諏訪町の加藤というのは今富士見町に出ている京葉の事なので、君江はそこで知っているというからには二度や三度出たお客にちがいないと思いながら、その顔はとうに忘れ果てて思い出せない。日頃君江はカッフェーの人中で、もしその時分のお客と顔を見合せた場合、自分の取るべき態度については予め考えていないことはなかった。しかし東京はさすがに広いもので、半年近くも稼ぎ廻っていたにもかかわらず、銀座のカッフェーへ出てから今日まで一人もその時分のお客には出逢わなかったので、月日と共に一時の用心もおのずから忽せになった時、今夜突然、自分の乗っている車の運転手から呼び掛けられ、君江はさすがにびっくりはしたものの、知らぬ顔で押通すに若くはないと思定め、 「人ちがいでしょう。知らないわ。わたし。」 「君子さんの方じゃ、お忘れになるのも無理はありませんよ。円タクの運転手にまでなり下ってる始末だから。しかし君子さん女給になったからって、何もそうお高くとまるには及ばないでしょう。女給も高等も内実においては変りはないんでしょう。」 「下してよ。ここでいいから。」 「雨が降っています。お宅まで是非送らせて下さいな。」 「いいのよ。迷惑よ。」 「君子さん。あの時分は十円だったね。」 「下せっていうのに、何故下さないんだよ。男が怖くって夜道が歩けるかい。馬鹿ッ。」  君江の威勢に運転手は暴力を出しても駄目だと思ったのか、そのままおとなしく車を駐めると、折からざっと吹ッ掛けて来た驟雨に傘の用意のないのを、さも好い気味だといわぬばかり。手を伸して内から戸を明け、 「ここでいいなら。お下りなさい。」 「一円ここへ置きますよ。」と君江は五拾銭銀貨二枚を腰掛の上に投出して、戸口から降りようとするその片脚が、地につくかつかぬ瞬間を窺い、運転手は突然急速力で車を進めたので、君江はアッと一声。でんぐり返しを打って雨の中に投げ出された。 「ざまア見ろ。淫売め。」と冷罵した運転手の声も驟雨の音に打消され、車は忽ち行衛をくらましてしまった。  君江は気がついて泥の中に起直って、あたりを見ると、投出された場所は津の守阪下から阪町下の巡査派出所へ来る間の真暗な道だと思いの外、まるで方角のわからない屋敷町の塀外であった。自動車も通らなければ無論人影もない。足を曳摺りながら、石の門柱についている灯の下に歩み寄り、塀外へ枝を伸した椎の葉かげをせめての雨やどりに、君江はまず泥と雨とに濡れくずれた髪の毛を束ね直そうと、額を撫でながらその手を見ると、べったり血がついている。君江は顔の血に心づくと俄に胸がどきどき鳴出して、髪や着物にかまっている気力は失せ、声を出して救いを呼ぼうとしたのをわずかに我慢して、唯一心に医者か薬屋かを目当に雨の中を馳け出した。 九  市ヶ谷合羽阪を上った薬王寺前町の通に開業している医者が、応急の手当をしてくれた上に、自動車まで頼んでくれたので、君江は雨の夜もいつか明くなりかけた頃、本村町の貸間へ帰って来た。顔と手足との疵はさほどの事もなかったが、長い間着のみ着のままぐっすり雨に濡れていたので、夜明から体温は次第に昇って摂氏四十度を越え、夕方になっても一向下りそうもない容態に、医者は窒扶斯か、肺炎でも起さなければよいがと、貸間の老婆にも注意して行ったが、幸にしてそれほどの事もなく、三日目には入院の沙汰も止み、一週間目には布団の上に起き直ってもいいようになった。  君江は事実を知らせると、大勢見舞いに来るのが煩さいのみならず、強姦の噂が立たないとも限らないと思って、カッフェーへは唯風邪をひいたことにして置いたのである。八日目の午後になって、春代が初めて見舞に来たが、その時には額の繃帯は既に除かれていたので、疵の痕はその晩路地で転んだことにいいまぎらしてしまった。次の日には瑠璃子が来たが、これも風邪の重いのに罹ったのだとばかり思い込んで帰った。体温は既に平生に復し食慾もついて来たが、腰や手足の打身はまだ直らず、梯子段の上り下りにもどうかすると痛みを覚えるくらいである。間貸の婆は市ヶ谷見附内の何とやらいう薬湯がいいというので、君江はその日の暮方始めて教えられた風呂屋へ行き、翌日はとにかく少し無理をしても髪を結おうと思いさだめた。  湯から帰って来ると、郵便が届いている。状袋には署名がないが、読んで行く中に清岡の門人村岡の手紙である事がわかった。 「私は直接あなたに手紙を上げていいかどうかを一度考えた後にこの手紙を書きました。何故なれば、先生がこれを知ったなら、先生と私との今までの関係は必断滅するだろうと思ったからです。私はしかしながらあなたが十分に秘密を守って下さるだけの好意を私のために持っていられる事を信じて、そして私はこの手紙をかきました。あなたは御存じかどうか知りませんが、先生の令夫人は突然先月の末に或外国の婦人と一緒に日本を去られました。先生はこの別離については何らの感激をも催さないように粧っておられますが、しかし現われたる事実が凡てを打消しています。その後十日ばかりの間における先生の生活は飲酒と放蕩とのために俄にすさんで行きかけています。この場合、現在とそして将来における先生の生涯を慰める力のあるものは、君江さん、あなたの愛より外にはないものと私は信じています。尤も先生はあなたの名をさえ今では私たちの前では発音することを避けていられます。避けていられるだけ、それだけ、私は先生の心の底にあなたの事がまだ真実消去らずにいるものと推察するのです。先生は令夫人を失った原因をあるいはあなた一人の上に塗りつけようとしているのではないかと疑われることがある位です。私は去年からの凡ての秘密をあなたに打明けなければなりません。私はあなたに向って、先生の心の底に去年から絶えず蠢いている報復の企をお知らせする事を敢てするのは、あなたと先生との間を遠くさせるためではなくて、かえって先生がかくの如き残忍性を感じたほど、いかにあなたを愛しつつあるかを、私はあなたに向ってお知らせしたい誠実さからなのです。先生は二、三日中に丸円発行所主催の文芸講演会で講演をされるため仙台から青森の方面へ旅行されます。今年の夏はどこか東北の温泉場で避暑するといわれるので、私もこれを機会に、久しく郷里の地を踏みませんから、先生をお見送りしてから暫く東京を去るつもりでいます。その前に一度お逢いしたいと思って、実は昨日一人でドンフワンへ行って見ました。そしてあなたが御病気で寝ておいでだという事を聞いたのです。私はむしろあなたがこの数日間病気のために外出されなかった事を祝福しなければなりますまい。私は唯それだけを言うに止めて置きます。その理由を明言する事を躊躇していると言ったら、あなたは直に凡てをお察しなさるだろうと思います。それでは、今年の秋風が丈の高くなったコスモスの茎をゆり動す頃まで、私は田舎に行っていましょう。夜の涼しさに銀座の賑いが復活する時分、またお目にかかるのを楽しみにしていましょう。七月四日。」  君江は手紙の日附を見て、初めて七月になったのに心づいたような気がした。それと共に、わずか十日とはたたぬ先夜の事がもう一月も二月も前のような気がして、それ以来長らく枕についていたような心持もした。とにかく一年あまり毎日通馴れたカッフェーへ行かない事だけでも、境遇が一変してしまったような心持がするのに、時節も丁度その日入梅があけて、空はからりと晴れ昼の中は涼風が吹き通っていたが夕方からぱったり歇み、坐っていても油汗が出るような蒸暑い夜になった。小家の建込んだ路地裏は昨日までの梅雨中の静けさとは変って、人の話声やら内職のミシンの響などが俄に騒々しく聞え始め、路地の外の裏通にもラジオを始め、何という事なくいろいろな物音がしている。君江はおばさんに呼ばれて下へ行き夕飯をすますと、洗髪のまま薄化粧もそこそこに路地を出た。家にいると毎晩のようにおばさんに話し込まれるのがうるさいのみならず、俄に真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなったからである。出しなに鏡台の曳出しから蟇口を取出す時、村岡の手紙が目に触れたまま一緒に帯の間に挿込んだ。半分から先は夕飯に呼ばれたのと夜になりかけた窓の薄暗さに拾い読みをしたばかりなので、君江はぶらぶら堀端を歩みながら、どこか静な土手際で電燈の光の明い処でもあったらもう一度読み直そうという気もしたのである。しかし電車と自動車の往復する堀端は、新見附の土手へ来るまでは手紙を読返す事のできるような処もなかった。行手に牛込見附の貸ボートの灯が見え、二、三人女学生風の女が見附の柵に腰をかけて涼んでいたので、君江は蔦の葉つなぎの浴衣のさして目にたたぬを好い事に、少し離れた処に佇立んで、束ねた洗髪を風に吹かせながら、街燈の光に手紙を開いて見た。君江には手紙の文体が学生の艶書と同じように気障にも思われるし、また翻訳小説でも読むようにまわりくどくて、どうやら気味のわるい気はしながらも、事実と文飾との境がはっきりしないのである。君江は手紙の意味を手短に言ってしまえば、清岡先生はわたしを二号同様にしていたために奥さんに逃げられたのだから、そのつもりでどうかしなければいけない。このまま知らない顔をしていれば、清岡先生はやけ半分、何か仕返しをしないとも限るまい。どうか、そういう事のないように気をつけてくれというような事になると考えた。そして随分訳のわからない無理な事を言う人だと腹立しい心持になった。  君江は暫くしてこの手紙は村岡の心から出たものではなく、内々清岡さんに言われて書いたものではないかと、気がついて見ると、あの晩西銀座の蕎麦屋へ這入りがけ、意外な処で村岡に出逢った時の様子から思合せて、自分が車から突落されたのも、事によると清岡さんの教唆から起った事かも知れない。君江は突然襟首に寒さを覚えるような恐怖と共に、ナニ、先が先ならこっちもこっちで負けているものか。どうでも勝手にするがいいというような心持になった。  あまりいつまでも同じところに立ってもいられないので、君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通り過る女にからかう学生もいないのは、大方日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静な櫂の音に雑って若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとに賑かになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川の家へ同居した当時の事を憶い出す。京子と二人で、岸の灯のとどかない水の真中までボートを漕ぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣な生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横っている飯田橋から市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。  火取虫が礫のように顔を掠めて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納めになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失せないように、能く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄ろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭から現れ出た男に危く突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、 「や、君子さん。」 「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受して牛天神下に囲っていた旦那の事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といって或会社の株式係をしていたが遣い込みの悪事が露われて懲役に行ったのである。その時分は結城ずくめの凝った身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらした手拭地の浴衣に兵児帯をしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。  川島は手拭浴衣の襟を寒そうに引合せ、「このざまじゃア、どうもこうもあったものじゃない。むかしはむかし今は今だ。」と取って付けたように笑いながらも、絶えずそれとなく四辺に気を配っているらしく、何とつかずそわそわしている。年はその時分既に四十五、六になっていたが、白髪もさして目につかず、中肉中丈の後姿は、若い妾とつれ立って散歩に出かける時などは、随分様子のいい血気盛の男に見まがうほどであったが、今見れば、妙に黄ばんだ顔一面、えぐったような深い皺ができ、蓬々とした髪の毛の白くなったさまは灰か砂でも浴びたように爺むさく、以前ぱっちりしていただけ、落窪んだ眼は薄気味のわるいほどぎょろりとして、何か物でも見詰めるように輝いている。 「その時分はいろいろ御世話になりまして。」と君江は挨拶にこまって、思出したように礼を述べた。 「やっぱりこの辺にいるのかい。」 「市ヶ谷の本村町におります。」 「そう。じゃ、またその中、どこかで逢うだろう。」とそのまま行きかけるので、君江は住処だけでも聞いて置きたいと思って、二歩三歩一緒に歩きながら、 「おじさん。京子さんにお逢いになって。わたしその後はしばらく逢いません。」と鎌を掛けて見た。 「そうか。富士見町に出ているそうじゃないか。噂はきいているけれど、このざまじゃア行ったところで、寄せつけまいから、いっそ逢わない方がいい。」 「あら、そんな事はありませんわ。逢ってお上げなさいましよ。」 「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」 「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」 「そうか。女給さんか。」  話しながら歩いて行く中、川島は木蔭のベンチには若い男女の寄添っている他には、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」 「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」 「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、明いところが神楽阪だな。そうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たら諦めをつけなくっちゃいけない。」 「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。女給をしていても、それは別にかまわないんですけれど、つまらない事から悪く思われたり恨まれたりするのがいやですし、それにいつどんな目に遇わされるか知れないと思うと、何となくおそろしい気がしますから……。おじさん、わたし十日ばかり前に自動車からつき落されて怪我をしたんですよ。まだ、痕がついているでしょう。ね。それから腕にも痕が残っています。」と浴衣の袖をまくり上げて見せた。 「かわいそうに。ひどい目に逢ったな。恋の意恨か。」 「おじさん。男っていうものは女よりもよほど執念深いものね。わたし今度始めてそう思いましたわ。」 「思込むと、男でも女でも同じ事さ。」 「じゃ、おじさんもそんな事を考えた事があって。先に遊んでいる時分……。」  突然土手の下から汽車の響と共に石炭の烟が向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなく袂に顔を蔽いながら立上った。川島もつづいて立上り、 「そろそろ出掛けよう。差閊がなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」 「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」 「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」  公園の小径は一筋しかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程なので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車が停っても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩市ヶ谷見附が近くなって来る。 「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心淋しい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。 「さしつかえは無いのか。」 「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」 「間借をしているんだろう。」 「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」 「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」 「ええ。寄っていらっしゃいよ。おばさんは誰か男の人が来ると、何でもない人でも、いやに気をきかして、すぐ外へ行ってしまうんですよ。あんまり気が早いんで気まりのわるい事がある位ですわ。」  君江は堀端から横町へ曲る時、折好く酒屋の若いものが路端に涼んでいたのを見て、麦酒三本と蟹の鑵詰とをいい付け、「おばさん。唯今。」といいながら川島を二階へ案内した。留守の中老婆が掃除をしたと見え、鏡台の鏡にも友褝の片が掛けられ、六畳の間にはもう夜具が敷きのべてあった。川島は障子際に突立ったまま内の様子を見てびっくりしたように目ばかり光らせているので、君江は何の事とも察しがつかず、「おばさんはまだ病気だと思っているのよ。今片づけますわ。」と押入の襖をあけて枕をしまいかける。  川島は始めて我に返ったらしく狼狽えた調子で、「君子さん。かまわずに置いてくれ。お客様にされちゃアかえってこまる。」 「じゃ、このままにして置きましょう。御厄介になっている時分、着物一つ畳んだ事がないって能くお京さんに言われましたわね。だらしがないのはその時分から、おじさんも御承知なんですから。」と鏡台の前にあったメリンスの座布団を裏返しにして薦めた。  おばさんが麦酒と蟹の鑵詰に漬物を添えて黙って梯子段の上の板の間に置いて行く。その物音に君江は立って座敷へ持運び、「おじさん。お肴なら何でも御馳走しますわ。表の家が肴屋ですから窓から呼べば何でも持って来ます。」  川島は君江のついだビールを一息にコップ一杯飲干したまま、何ともいわず、明放した窓から見える外の方へ気をくばっている様子に、君江は一度懲役に行くとこうまで世間へ気をかねるようになるものかと、気がついて見ればいよいよ気の毒になって、 「わたし、今日起きたせいだか、暑いくせに何だか風が寒いような気がするのよ。」とその実蒸暑くてならないのに、窓の障子を半ばしめてしまった。  川島は二杯目のビールに忽ち目の縁を赤くして、「世の中は何といってもやっぱり酒と女だな。おれももう一度奮発して働いて見ようかと思うんだが、ひびたけの入った身体じゃどうする事もできない。君子さんなんかはこれからだ。これから先ほんとうに世の中の味がわかって来るんだよ。田舎へ帰るなんて、先刻そう言っていたけれど、半月といられるものか。おれ見たようになっても、赤い布団を見たり、一杯飲んでぽうッとすると、やっぱりむらむらとして来るからな。」 「おじさん。もうすっかり堅くなっておしまいなのね。」  君江は川島が出獄して後現在どうしているのかきいて見たいと思いながら、あけすけには問いかねて遠廻しにこう言って見たのである。川島は大分好い心持になったと見え、調子もいくらか元気づいて、「無い袖は振れないから一番いいのさ。娑婆へ出てから、乞食も同然、お酒どころか飯も食えない事があったよ。倅が丈夫でいたらどうにか力になるんだがね。おれがあっちへ行っている中に肺炎で死んでしまうし、嚊は娘と一緒に田舎へあずけてある始末だ。まだ四、五年たたなくっちゃ芸者に売る事もできないのさ。以前世話をした奴らに頼んだら、どうにかしてくれない事もなかろうが、それほど耻を晒して歩く位なら一思に死んだ方がまだしもだよ。君子さん、今夜の事はあの世へ行っても……おじさんは忘れないでお礼を言うよ。」 「あら。おじさん。そんな事……。わたしの方がいくらお世話になったか知れませんわ。こうして一人でやって行けるようになったのも元はといえば、みんなおじさんのおかげじゃアありませんか。始め事務員になったのも、おじさんのおかげだし……。それから段々いろいろな事を覚えて……。方々の待合や何かの様子を覚えたのもやっぱりおじさんのおかげですわ。」 「はははは。今夜のビールはわるい事を教えてもらった御礼か。それなら、おじさんも遠慮せずに御馳走になろう。あの時分商売人の京子がびっくりしたくらいだからな。今はたいしたもんだろう。」 「割合にそうでもない事よ。あの時分会社の方には随分おちかづきになったわねえ。みんなどうなすってしまったんでしょう。カッフェーでもお見かけした事がありません。」 「そうか。みんな相応に年をとっていたからな。それにあの会社もつぶれてしまったから、窮っているのはおればかりでもないんだろう。」 「おじさんなんか。まだまだそんなに老込む年じゃないわ。六十になっても、いやになるほど元気な人があってよ。」と君江はその実例に松崎博士の事を語ろうとしてそのまま黙ってしまった。 「遊びも癖になるとつい止められなくなるもんだ。」 「おじさんなんかも、以前が以前だから、また直に癖がついてよ。」  十日ばかり君江も酒を断っていた後なので、話をしている中に忽ち取寄せた三本のビールを空にしてしまった。 「商売だけあって凄くなったな。あすこにあるのはウイスキイじゃないか。」 「アラ。病気や何かで、すっかり忘れていたわ。」と君江は棚の上に載せたままにして置いた角壜の火酒を取りおろして湯呑につぎ、「グラスがないからこれで我慢して下さい。」 「おれはもういけない。」 「じゃア、ビールか日本酒を貰いましょう。」 「もう何にもいらない。久振りで飲むとカラ意久地がない。帰れなくなると大変だ。」 「お帰りになれなかったら、そこへお休みなさい。かまいません。」と君江は湯呑半分ほどのウイスキイを一口に飲干す。 「女給さんの手並みはなるほど見事だ。」 「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉の焼けるのを潤すために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きく息をしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔だといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘らしい様子が残っていたのが、今では頬から頤へかけて面長の横顔がすっかり垢抜けして、肩と頸筋とはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐った腿のあたりの肉づきはあくまで豊艶になって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶な趣が目につくようになった。この趣は譬えば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客の身体には如何にくつろいでいる時にも隙がないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。 「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りに膝を崩して窓の敷居に片肱をつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方から眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。  君江は半眼をつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄をうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌で一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。        *     *     *     *  何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーの壜はそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣の時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見ると枕もとに書簡箋が一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出しに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢いました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切を嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」  君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。 昭和六年辛未三月九日病中起筆至五月念二夜半纔脱初稿荷風散人 底本:「つゆのあとさき」岩波文庫、岩波書店    1987(昭和62)年3月16日改版第1刷    2010(平成22)年4月26日第28刷 底本の親本:「荷風全集 第八巻」岩波書店    1963(昭和38)年12月 入力:米田 校正:門田裕志 2012年3月28日作成 2012年9月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。