黒檜 北原白秋 Guide 扉 本文 目 次 黒檜 序 黒檜の沈静なる、花塵をさまりて或は識るを得べきか。 上巻 熱ばむ菊 駿台月夜 朝 菊、その他の花 杏雲堂屋上展望 冬の日 鑑真和上 童女像の下にて 或る画報を見て 降誕祭前夜 ある夜 早春指頭吟 退院直後 冬日向 山鳥 冬光無し 白き冬 方丈冬夜 春寒月夜三首 書斎後夜 春蘭 片手 春夜寒 早春五首 粉雪 菫咲く 玉蘭吟 月のごとく 玉蘭散る 日光現像 春日籠居 篁子 春日すら 良寛遺愛の鞠 その一 その二 道 千手 文珠 慶州石窟庵を憶ふ 鑑真和上木像 雪柳 春夕 雨後 春曇 春昼一首 初夏の庭 盲目の蛙 田蛙 背戸に出でて 牡丹現像 庭の一隅 初夏の灸点 五月靄 浴湯一首 夏山 えごの花咲く 人杖 ラヂオ朝暮 多磨三周年歌会にて 光を たまたま、道に出でて 曇れる魚眼 霖雨低唱 蛙青し 白昼 盲父子像 メンコン蛙 六月二十五日 山寄り 卓上の一鉢 水の音 晩夏、瞼に想ふ 火 秋気 夕顔 七夕 残暑籠居 深大寺の九月 月色 夜色をまた 秋夜父に読む 秋曇り 山椒太夫哀歌 短日童女像 短日 初冬月象 鼠騒ぐ 冬夜 雑魚 谷地の冬 冬山 落葉 霜三首 愚かなる虎 読書 妻 短日起居 飲食 絵馬 短日視野 鼠と貂 寒夜 雪空 観雪 雪後 瞳人語 年頭薄明吟 木魚と明笛 春寒 鼠の春 春山 春日 三度、鑑真和上を憶ふ 瞳人語 暗夜行 塙保己一を偲びて、一首 四度、鑑真和上を憶ふ 藤と牡丹 惜春賦 黒檜 孟夏余情 春蝉 五月十六日 青蛙呼ぶ 郭公 大暑 茅蜩 東宝映画撮影所俯瞰 所懐二三 多磨運動会 額髪 冬の庭 心の花五百号をことほぎて 篁子 榛名湯沢行 雪祭四章 利久居士 春寒 尾長 玉蘭唱 庭の春日 転居近づく 下巻 日本古武道 武神 神前 武田流陣貝 立身流居合 日置流弓術 その一 その二 剣道諸流 柔道諸流 天道流薙刀 根岸流手裏剣 夢想流杖術 武道 戦時雑唱 鋒鋩 哀歌 この感激を 老兵 その一 応召 その二 その家 戦影 盲兵春日 戦聾 弔電二首 若鷹 長江夜話 新秋を待つ 波濤の歌人に寄せて 海洋図絵 戦時立冬 内閣印刷局 鉄を削る 黄塵 紀元二千六百年讃歌 巻末に 序  黒檜の沈静なる、花塵をさまりて或は識るを得べきか。  薄明二年有半、我がこの境涯に住して、僅かにこの風懐を遣る。もとより病苦と闘つて敢て之に克たむとするにもあらず、幽暗を恃みて亦之を世に愬へむとにもあらず、ただ煙霞余情の裡、平生の和敬ひとへに我と我が好める道に終始したるのみ。 「黒檜」一巻、秘して寧ろ密かに我といつくしむべく、梓に上して些か我が真実の謬られむことをおそる。他に言ふところなし。 庚辰孟夏 白秋 上巻 熱ばむ菊 駿台月夜 照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり 月読は光澄みつつ外に坐せりかく思ふ我や水の如かる 朝 鶏の声けぶかき闇にたちにしがよく聴けば市の病院にして お茶の水電車ひびくに朝早やも爽涼の空気感じゐるなり 杏雲堂側面未明は暗き窻あけて混み合ひの屋根に霜の置く見つ 暁の窻にニコライ堂の円頂閣が見え看護婦は白し尿の瓶持てり 屋上の胸壁にして朝あがる一つの気球みつめつ我は 菊、その他の花 菊の鉢は我が家の子久吉爺の丹精になるものなり 逆光の玉の白菊仰臥に見つつはなげけやがて見ざらむ 我が眼先しろきに蘊む菊の香の硝子戸あけて乱れたるらし 視力とぼし掌にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ 影にのみ匂やかなる窻ぎはのその花むらも暮れて来りぬ 杏雲堂屋上展望 冬曇り明大の塔にこごりゐて一つ黝きは赤き旗ならむ 雲厚く冬は日ざしかとどこほる聖堂の黝き樹立うごかず 冬の日 失明を予断せられ、I眼科医院を出づ 犬の佇ち冬日黄に照る街角の何ぞはげしく我が眼には沁む 病院街冬の薄日に行く影の盲目づれらし曲りて消えぬ 鑑真和上 昭和十一年盛夏、多磨第一回全国大会の節に拝しまつりし唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なり 目の盲ひて幽かに坐しし仏像に日なか風ありて触りつつありき 盲ひはててなほし柔らとます目見に聖なにをか宿したまひし 唐寺の日なかの照りに物思はず勢ひし夏は眼も清みにけり 童女像の下にて 童女像朱の輝り霧らひ今朝見れば手に持つ葡萄その房見えず 焔だち林檎一つぞ燃えにける上皿一キロ自動計量器 或る画報を見て 両の眼を白く蔽へる兵ひとり見やる方だにおもほえなくに 降誕祭前夜 ニコライ堂円頂閣青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す ニコライ堂この夜揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり ある夜 暖房は後冷きびし夜にさへや眼帯白くあてて寝むとす 鳥籠に黒き蔽布をかけしめて灯は消しにけり今は寝ななむ 早春指頭吟 退院直後 花かともおどろきて見しよく見ればしろき八つ手のかへし陽にして 我が宿よ冬日ぬくとき端居には隣もよろし松の音して 今朝見えて置く霜さへや我が眼には谷地田も畦も隈黝みあり 冬、ぴしりと氷ひびく石くれは子か打ちつけし沈みて止みぬ 瞼しめしつくづくとゐる冬日中畳の目など見むはすべなし 眼を病めば起居をぐらし冬合歓の日ざしあたれる片枝のみ見ゆ 折ふしに冬木見えくる眼先もたちまち暗し虚しかりけり こがらしの背戸に音やむ小夜ふけて温罨法の息吹眼に当つ (吸入器にて) 冬日向 文鳥の影移りする鳥籠は日なたの軒にかけてこそ置け 蘭の香や冬は日向に面寄せてただにひとつの命養ふ 山鳥 木俣修より贈り来る 冬冷き皿の上には山鳥の瞼しろし閉ぢしまなぶた 冬光無し 高空に富士はま白き冬いよよ我が眼力敢なかりけり 眼を洗ふ冬光無し雑木々のいつひらきなむ柔き若葉ぞ 眼にたのむ何ひとつなき芝庭の冬なりながら薄日照りたる 冬ひと日堪へてありしか池水の冰れる面に風の吹き当つ 白き冬 冬三月ただにましろく引くものに方丈の屏風襞冷えにけり 白きものまた白からじ立つ襞の六曲の屏風影もこそもて 我がみ冬しろき屏風に引きかけてラヂオの線の影も凍てゐる 白磁の八角の壺の稜線引きてほの上光るみ冬なるなり 眼は閉ぢて眶毛にさやる眼帯の冷きはみけり月夜かも沁む 方丈冬夜 影さへや蕾は硬き冬の薔薇ただ三葉四葉の灯映りにして 聴耳に胡桃食みゐる影我は坐る太尾の栗鼠にかも似る 何しらに灰掻きならす夜のなぐさまぶれあやしく蝿かはばたく 手を当ててまたほてるなき鉄瓶の胴はじきつつすべな夜寒は 春寒月夜三首 春立ちて月の幾夜ぞ雑木々の風騒ぐ枝に我が眼閃く 冬雑木こずゑほそきに照りいでて鏡の如く月坐せりとふ 父われに冴ゆる月夜を戸は鎖して書よみにけり女童この子 書斎後夜 万巻の書をい照らす灯うつりに鼠は啼くかさむき鼠は 夜の鼠小耳かき立て声も無しうしろけはひをうかがふらしき 古書の帙のぼる鼠の尾は引きて夜の咳に乱れたりけり 物の文繁にし思へばかいさぐる我が指頭に眼はのるごとし 春蘭 春蘭の冷やき葉叢の香の蘊み点滴の音は鉢の外にあり 春蘭のかをる葉叢に指入れ象ある花にひた触れむとす 片手 眼さきに 眼さきに片手さし寄せしぱしぱと見入るならひもおのづとなりぬ 能のなげきを 片手のみ眼にさしかざし声は無し泣くなる姿こころには観よ 春夜寒 春夜寒白の小屏風超ゆとして面出す鼠声落ちにけり 風すごし愛しふたつのあなうらに赤外線の燈は当てて寝む 早春五首 雪降りてしづけかりとふ朝庭に春の時雨か音わたり来る 我が内障眼すべないたはり日も暗し春早き外に土旋風巻く 春塵のいづ方となき日のまぎれ渡鳥のこゑを聴くと切なり 水ぐるま春めく聴けば一方にのる瀬の音もかがやくごとし 何知れず眩き雲やはげしくぞ眼をしばたたき我はありける 粉雪 朝の餉の堆朱の膳に散らひ来る粉雪は松の揺りにたるらし 女童は雛祭るとぞ言問ひて朱の氈など部屋に取りに来 女の子ろに傾ぐ思は積む雪の枝しづりつつ春待ちがてぬ 菫咲く 楢山に菫咲くとふその色のどれが菫ぞ見つつわかぬに 乾反葉にまじる菫をおぼつかな陽炎をのみ見つつあやなし 玉蘭吟 まさに鳴く音はヒーカタカタなり 日方とよ鶲啼くなり玉蘭のまだ蕾なる枝の揺れ見よ 玉蘭は空すがすがし光発す一朝にしてひらき満ちたる 木高きは現あらぬか玉蘭の花多にしてむしろ幽けき 春昼はあやかしふかし玉蘭の下照る篁子影二人笑む 月のごとく 観るほどは敢なかるらし日を経りて物のあいろの暗くなりゆく 日の光月のごときに玉蘭の花さゆれつつあるが清しさ 我が眼には月の色なる日の照りを雀歩けり庭片寄りに 玉蘭散る 玉蘭は花うやうやし散るとして散りつつ冴えぬその下枝に 玉蘭は木末より散りやすけらし下枝の花ぞ日に照らひつつ 土に帰る時なりけらし玉蘭のいや澄みまさる散りがたの花 花落ちてただち萌ゆるか玉蘭の立枝の芽ぶき雷に勢ふ 日光現像 春日籠居 春ふかむ隣家のしろき花一樹透影ゆゑにいよよおもほゆ 春田中ねもごろ人のいふ聴けばげんげは遅し菫いま咲く 承塵には池の水照の影ゆらぎまだ春早し鼠のをどり 註、水陽炎の影を壁鼠と云ふ 壺にして影ぞおぼめけ盛る色の薔薇とを見れば薔薇とし見ゆ 籠鳥の揺りつつ遊ぶさま聴けば夕とのぐもり久しかるらし 篁子 春の陽に輝き笑まふ女の童瞼の外に置きて思へや 女童を今朝出だしやり午まけて早や待ちがたし山辺かすむに (受験の日) 春日すら 春日すら霞をぐらき雑木山木の芽もただにたちて匂ふを 雲といへば光恋しき玻璃の戸にあまりてしろく春は闌けつつ 良寛遺愛の鞠 かねて懇望したりしかば、遂に越後長岡の知人よりやうやく届け来る。喜びかぎりなし。この鞠、見るからに円く稚く、赤と青とにてかがりたるが、手垢黒くついていとめでたし。小函に入れ、その函の蓋には良寛遺愛の鞠、裏には第十七代の孫新木吟雨とあり。吟雨六十二翁は与板の人、蓋し良寛の父以南の実家新木氏の子孫なる由。乃ちその鞠の歌 その一 我が籠り楽しくもあるか春日さす君が手鞠をかたへ置きつつ 春ひねもす鞠のこもりの音聴くと幽かよ吾れの手触り飽かなく 霞立つ永き春日を子どもらと手鞠つきつつこの日暮らしつ    良寛 乙宮の春はひねもす子どもらと手触り遊びし君が鞠これ 何の香かこむる春野ぞ手もすまにつきて遊びし君が鞠これ 鉢の子と鞠といづれぞ陽にあてて鞠はすみれの花の香のする 春日さす鞠はかなしもうつしとる感光板にうつら影引く その二 ぬくとさは縁の端居の春日向われも袂の鞠とり出す 手に撫でてつくづくと居れこの鞠のかがりの綾は透かせど見えず 女童がふふむ笑ひはこの鞠のかがりの手垢愛しがりつつ 手垢つく君が手鞠のあや糸は赤しとを見えず青しともまた 春日向ぬくむ手鞠は掌にのせて綾は見えずもほの光りさす 聞くほどは人香こもらへこれの鞠手触りすべなもなにかゆがみて 陽に明る瞼さし寄せ嗅ぐ鞠の影黝きかもやかゆきこの鞠 つきて見よ一二三四五六七八九の十、とをとをさめてまたはじまるを  良寛 つきて見む一二三四五六七八九の十手もて数へてこれの手鞠を 霞立つかかる春日に子らとゐてつかしし鞠ぞいま手にはずむ おぼつかな鞠のありどの手を逸れて音なかりけり霞むこの昼 道 技びとや技に遊ぶといにしへは一生の命かけて愛惜みき めでたかる世々の匠は言挙げずただ恍れゐつその楽しみに 言さやぐけだし寒けし匂ふらく幽けききはぞ道に哭かしむ 新万葉審査所懐、四首 和み魂楽しみ思へば苦しくもただに言はまく言すらも無し 我敢て道に言はずも読み読みて盲ひしふたつの眼かくあり 道により敢て楽しと言はまくは楽しびあまり声泣かむかに 読み読みき選び選びきひたむきを眼は楽しみき喰ひ入るまでに 千手 唐招提寺金堂追想 観音の千手の中に筆もたすみ手一つありき涙す我は 観世音像千手の指のことごとに眼坐しにき清みかがやかに 文珠 紫磨金の匂おだしき御座にして文珠の笑はてなかるらし 慶州石窟庵を憶ふ 本尊の石仏は悲願によつて日本海に正面したまひ、洞窟はその朝噋の光により微妙に荘厳せられたり 東の海さしわたる朝日影石仏は坐しぬこよなき目見に 鑑真和上木像 再び唐招提寺の和上を憶ふ。芭蕉に句あり 若葉しておん眼の雫拭はばや み眼は閉ぢておはししかなや面もちのなにか湛へて匂へる笑を 雪柳 春邦画伯を訪ふ 輝るばかりたわわに匂ふ雪柳君が門辺は寒からなくに 咲きしだり匂清みゐる雪柳ただ白してふものにあらなくに 春夕 春ゆふべ眼に白らけゆく燠の色のもの柔きかなや火桶かい撫づ そことなき春の蚊にすら聴くものは愛しかりけり若葉たをやぐ 雨後 水楢の若葉ほたほたと雨重り何ぞここだく雫線引く 萱の根に鼠あらはれ小走りを此方見しとふ我も其方見る 春曇 糸檜葉にしろくこもらふ春曇のこのかがやきは底しれぬなり 隣にて鳴く雛聴けば群れはしり眼は開かぬもや若葉山吹 春昼一首 現身は春も背の経絡に火をつづらせて愛しがるなり 註、経絡は灸の筋 初夏の庭 朝間干す白き衾の日に照るは夜ににほふよりせつなかりけり 山吹の黄に咲きしだる色かとも見つつは籠れ若葉とも見ゆ 日おもての庭の此面の白つつじ蕋長なれや春酣に 盲目の蛙 草ごめや蛙のこゑの、夜に聴けばくくくとふくむ。おもしろよ盲目の蛙、かいろ、くく、暗しとを啼く。盲ひぬ盲ひぬ、くくく。惜しや惜しや、くくく。すべな右すでに盲ひぬと、左の眼早やあやしとぞ。春の田のげんげの小田の、水のるや鋤きかへし田を、その蛙、ころろ、かいろ、くくく、草ごもり暗しとぞ跳ぶ。をかしとよ、早や見えずとよ、後脚はねてまた水くぐる。 反歌 春の田の草間の蛙眼をあけて啼くなるのみと子らは思はむ 田蛙 丘の翼家にて 眼は見えて啼くがままなる蛙らに春雨づつみ風そよぎつつ 声あがる田居の蛙を上居りて眼はふたぎゐる親蛙われは 背戸に出でて 春の田の柔ら浅茅生風向を色走りつつ子らが追ひがてぬ 女童を手触りなげかひげんげ田の春の日向は行き飽かぬかも 牡丹現像 1 庭にて 春の日の朱鷺色牡丹女童が跳ぶ足音に揺れつつ照りぬ ほのあかき朱鷺の白羽の香の蘊み牡丹ぞと思ふ花は闌けつつ 2 病室にて 豊けきは葉ぐみととのふ牡丹のひと花紅き穏しさにして 香ひたつ朱鷺いろ牡丹籠にあふれ時計と置くにひと花しづか 蕋つつむ幾重花びら内紅き朝の牡丹は食ままく柔ら 禿髪垂る黒きかほばせあどなくてあてなる際は物思はずらし 匂満ちて全けき牡丹二日まり我と在りしがくづれてちりぬ 3 居間の縁にて 蕾添ふ黒き牡丹は一鉢の花重きから縁にさし置く 女童や穏し牡丹の靄だちを禿髪かき垂り父にゐずまふ 牡丹の弁なごしくつつむ靄すらや我が眼先には揺れてくるしき 庭の一隅 靄ごもり層む若葉の緑金はただ一方を陽の照らふらし うち層む若葉くらきに子が遊ぶ鏡の反射そこらひらめく 初夏の灸点 影黝む照やすからず夏山のこの靄立を我が眼おとろふ よく点きて当りかなしく柔らかき艾は妻が揉むべかるらし 火のうつり繁にし沁むる艾には蓬の汁を先濡らしてむ 背は向けて灸こらふる若葉どき妻が手触の繁に来るかも 若葉照りいぶる艾は押しすゑて熱き三里がよくきくよくきく 五月靄 谷地の靄こむるかぎりは日の射して色おぎろなし若葉かも蒸す 靄ごめと香に蒸す緑くるしくて蛙は鳴くか声盛りあがる おぼほしく若葉黝ずむこの眺め梅雨のま待たず我が眼盲ひむか 若葉靄けふただならず爆弾機関銃弾漢口の空に火を噴くとふはや 激しく火を噴き墜つるたまゆらの機上幾干を眼見すゑし 浴湯一首 朝早やもたぎる風呂釜の湯を浴ぶとひたかぶる時し我適きにけり 夏山 朝鳥の声乱れ来る夏山は窻ひきあけてただちすずしさ 山蝉の翅かがやかす声聴けば合歓の若葉か最もをさなき えごの花咲く 陽にまがふ何かしらけし眺めには若葉もわかずえごの鈴花 花しろきえごの木のまを日ごもりと手斧は音に楽しむごとし 人杖 女童は父が人づゑ蔓薔薇の白きは見つつ寄りて言ふかも 女童や香ふ人づゑ肩触りてはずむ温みの艶ひ母めく 女童は愛し人づゑ行かしめて行きつつ父の笑あかるを     § 眼に触りてしろく匂ふは夏薔薇の揺りやはらかき空気なるらし ラヂオ朝暮 夏の鳥朝のラヂオに啼き乱りその山と思ふ滝津瀬鳴りぬ 夕待たず我が眼くらきに聴きほくる早慶戦もラヂオに止みぬ 犬の声ラヂオの中に群れ起り外に吠え継ぎて月の夜ふけぬ 多磨三周年歌会にて 睡蓮の花泛けりとふ池の面は日の照りつけて観る色も無し な悲しみ霧りてをぐらき我が眼にももろもろの頭は光りて見ゆるに 弟の撮し来し水郷柳河と北支大同の映画を観る。天然色のそれらもありき 眼のうらに光る汲水場を蛇の奔る影さへすばやかりしか 石仏は正面向きおはし須臾に見る空現しけく涯なかりにし 光を ひと度は相見まつりき縁なり日光菩薩加護あらせたまへ 物のはし黄金にあかる夕すらもただにし塵の舞ふと思へや たまたま、道に出でて 夏菊のしろき籬の角にして日のいちじるき光に遇ひぬ 曇れる魚眼 霖雨低唱 庭を観つつ 梅雨の庭おぼおぼしきに鉄線蓮の花見えてゐてまた降りこめぬ ふりこむる梅雨は霖雨の日ぐらしを硯に向ひ書くこともなし ふる雨にベンチ濡れゐるそれのみの影なりながら眼には頼みき 谷地の水上と下とに瀬鳴りて気ごもり重しここの梅雨時 日癖雨梅雨はけ長しふきぶりとふりこむるきはぞむしろすがしき 木深くも繁に異なる物の雨瞼へだててひびくを聴けば 隣の松 梅雨ぐもり気重き松や靄ごめと隣は邃き色のこめつつ 隣の松、舞台の松に似たれば、お能の松と我が呼びならはしぬ 靄ごめや三階松の塗笠の笠揺り畳ね今は梅雨時 蛙青し 森にひびき鳴ける蛙を梅雨早やも茅蜩の声のきざむかと聴く 雨がへる日中啼き継ぎ声速し矢筈檀の根にひびかひぬ 白昼 我がほかは日の白光にこだましてラヂオ体操の響くあるのみ 暑の霞はてなきごとし熬りつつやにいにい蝉の声沁むるかに 盲父子像 父八十三翁、四年前、手術の甲斐ありて幸に明を得たまひたれどこの頃再びよろしからず、我が視界も亦渾沌たり ま白髯長かる父の目は盲ひて端然と坐すに月押し照りき 父の老内障眼はかなくなりましてひたすらと執らす母の手なりき 立秋を白き木槿の花咲きて見る眼すがしく開きましし父や 閉ぢしみ眼ひらくただちを咲き笑まふ少女が面輪こよなかりしと 老のみ眼とかく曇らへ年なれば早や諦めておはすかよ父よ そのごとも盲ふる子が眼を乞ひ祷むと手触りなげかす父は子が眼を 盲ふる眼の梅雨の霖雨を日ぐらしと子は父を思ふ父は子を蓋し 父と子や霖雨けなるき起臥を盲ひつつ坐すに盲ひにつつあり メンコン蛙 土もぐるメンコン蛙眼ばかりを上のぞかせて吼ゆとふかなや ラヂオにはメンコン蛙くくみ啼き鳴る瀬のうつつ蛍が飛ぶも 六月二十五日 茅蜩のこの日啼きそめ山方やまだ夕淡き合歓のふさ花 雨けむる合歓の条花夕淡きこの見おろしも今は暮れなむ 山寄り 小綬鶏の雛うち連れて過ぎりしはまだ朝かげの山寄りにして 小綬鶏の雛を守りつつ降り行ける谷地をぞ思ふその夏霞 我が庭は莠にまじる桔梗の紫しらけ朝から暑し 卓上の一鉢 朝顔は白く柔らにひらきゐて葉映あをし蔓も濡れつつ 何なるや白くすずしくひらき来て朝顔の花といま匂ふもの 眼かも蔓にはあらし一方と伸び向ふなり朝顔絡む 水の音 ある日のラヂオ 苔清水ひびきつたふる幽かなる金閣寺の庭を我家にぞ聴く 金閣は細みちよろろぐ水の音のただもはらなる夏の日にして 晩夏、瞼に想ふ 火のごとや夏は木高く咲きのぼるのうぜんかづらありと思はむ 夏山は我が知る方の夕霧に緋秧鶏飛びて風もつらしき 火 谷地の東宝撮影所、日々に戦火起る 閑けきを人は戦ふ夏闌けて模擬地雷火を爆発せしむ 秋気 葉ごもりと合歓のうれの秋霧に尾長は居らしその飛ぶ一羽 風の先つぎつぎと飛ぶ雛見れば尾長や秋を気色だちたる 夕顔 眼力けだし敢なし夕顔の色見さだめむ睫毛触りたり 夕顔は端居の膳に見さだめて月より白し満ちひらきつつ 七夕 篁子の傍らにて 端渓の硯に向ふ女の童髪黒う垂れて面照りにけり また磨らな硯にうつる空のいろの消えつつしあるに墨の乾くに よく磨らむ愛し女童七夕は磨る墨のいろの金に顕つまで 端渓の硯の魚眼すがしくて立秋はいま水のごとあり 残暑籠居 澄みつつし沁むる暑さか西日さししづけき幹に蔦ひかり見ゆ いよいよに濃く黒き眼鏡をかけて うち沈む黒き微塵の照りにして暑は果しなし金の向日葵 日中レコードのみをかく 何聴かむこの日のうちぞ指触りあてゆく針の鋭くも短かき 深大寺の九月 深大寺水多ならし我が聴くに早や涼しかる滝の音ひびく むくろじの実のまだあをき庫裏の前もの申すこゑの我はありつつ 深大寺の池、水澄みたらし下照りて紫金の鯉の影行く見れば 御厨子には倚像の仏坐しまして秋さなかなり響くせせらぎ はてしらぬ仏の笑まひ面あかる灯映りにしてみ掌の欠けたる ここの山我が聴く方ゆ日照雨して庫裏戸に濡るる秋海棠の花 月色 雲とありて月の光の流らふる屋の空ならし坐りて飽かず 子等がいふ欠くることなき望月も父我の眼には二日三日の月 風に見ゆる月の光を涼しくはにじり出て仰げ暗きかも木々 薄雲にひらめく月の光かも風にかもあれや我が眼過ぎぬる 夜色をまた 月い照るかかるか黝く厳しき地表の皴を我が思はなくに 山河に輝れる今宵の望月の円けき思へば我盲ひにけり 秋夜父に読む 女童の読みとどこほり声無きは灯に見てかあらむ瞳凝らすと 秋曇り 渡り鳥飛ぶとふ空も雨雲のいや降りつぎて暗きかもただ 山椒太夫哀歌 安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ 佐渡ヶ島雑太の庄に目は盲ひて干すさ莚の粟の粒はや 啄む粟の薄日あはれとほうやれと追ふ鳥すらや眼には見なくに 短日童女像 短日 短日は盲ふる眼先に朱の寂びし童女像ありて暮れてゆきにけり 初冬月象 夜の池にうごきて繊き月形はかがやく箆のゑぐれる如し 夜のふけの冬の池水か黒くて深沈たるに月映りけり 鼠騒ぐ 田鼠ら硝子戸のぼりあわただし谷地の月夜も凍みて明きか 物欲ると鼠つい居る燈かげには霜こごる夜の微動がありぬ 夜々出づる鼠ひとつにこだはるは何ぞとも思へその尾引くなり 書画箋や鼠被ぶる間をおきて聴くに穏止みまた引き裂きぬ 護摩壇に鼠むらがる夜半にして頼豪阿闍梨狂ひたまひき 冬夜 ラヂオには赤き翼といふ曲の楽すすむなり夜ただ寒きに 篁子一銭新貨といふものを持てくる 冬夜さりひとつ光れる手に載せて吹きて見よちふ吹けば飛ぶ貨 鼠よあはれ 鼠子は後も見ざらしするすると柱に消えて夜寒なるなり 雑魚 吉植庄亮君より送り来たる、二首 眼にさぐる雑魚の熬り煮は箸つけて暗きかもやあはれ霜夜燈火 冬ざれの印旛郡ゆ熬りて来し小蝦のひげが繁こごりけり 谷地の冬 藪雑木谷地の日かげのしづけきは一朝にしもみ冬寂びたる 小綬鶏の群れつつ黙む雑木原冬は日すぢの目に立たずして 冬山 冬ひと日なにかきこえてある山のまだしづかにて明らなりける 瀬の音のひと日ひびかふ冬まけて鉄瓶の湯気我も立たしむ 冬むかふ谷地田の日かげ瀬の音して照る山方ぞす枯れはてたる 陽にあてて瞼温もるほどほどは聴かゆる方の音きこえつつ 積むのみぞ冬の書塵のもろもろは我が読まずなりてすでにしづけき 落葉 玉蘭の落葉掻き集め焚く風呂のねもごろ柔き湯気に立つめり 我が山は落葉繁なり風呂立てて二十日まり焚きていまだ散り敷く 霜三首 大霜の田川ひびかふのみなるを我が聴きに出て朝は居りける 霜下りて近くなりたる冬山を鴑の声は繁くもぞ来る 眼を開き歩む林の小綬鶏は霜踏み越えて清しかるべし 愚かなる虎 讃岐金刀比羅宮の襖絵を思ひ出でて 虎の貌啖ひ飽きたるさましてぞ愚かなりしかその眼とろめつ 猛々し群虎の月に嘯くを呆けたるがひとり澗水なめぬ 読書 書読みて楽しかりにし昨思へば燠掻きほぜり冬よるべなし 楽しみと書は読みしか味気なしゆとりとてあらず読むを聴きつつ 書読みてひたり味ふしづけさを声ありやとも聴きぬ霜夜は 読みさしてゆとりあるまのうら和ぎや自が楽しみと書は読みける 聴きてゐつ心に読むと沁む文字の声ことごとく象ありにし 妻 いたりける妻なるならしねもごろとかたへ寄りつつこの夜読みつぐ 我が二人いたりつくらし何くれと言には出でね依り合ふ思へば 聴くとして書読ませゆく気づまりも妻には思はず心隔かずも 家妻は心おきなし読む書の声ねむたげに落ちゆく聴けば 短日起居 口授しつつうしろ寒けき短日を懸巣は飛びてするどかりしか その母の父とこもるにいつか来て子らはあるなり居るともなしに 飲食 面火照り炉に寄る子らが影見ればあかあかとけぶり煮立つものあり ありやうは春の朝の飲食も色に見ずてはつひに寒けき 絵馬 山にして幽けかりしか蔀戸に冬はここだくの小さきめの絵馬 めの絵馬は掌を合せゐる幼児に一刷毛の空を青く流しき 短日視野 眺めとて何の色なき冬山の雑木端山も見ずばさぶしき 冬山は雑木のかげり夕早し灯を点けよとぞ諸に点けしむ 鼠と貂 明き燈に人ははばかる我が影を鼠牙研ぎ噛む音立てぬ 明笛の竹紙すらだに舌ねぶる鼠なりきや啖ひやぶりける 眼を開くをさな夜床の灯かげには鼠の法師大きかりにし 鉢の蘭くらひゐにしか夜の凍みを障子ゆるがし鼠去りぬ 貂ならむ我が冷えわぶる後夜にして鼠ひた追ふ音駈けめぐる 壁うらに食はるる鼠声啼けり飽くなき貂もはたや寒かる 冬夜さり鼠の業も果てけらし貂の眼も食に和むか 松風やさわたるらしき灯を消してその松の姿いまは見えつつ 寒夜 池水に黝き八つ手の葉はひたりなまじひに月夜見えてあるなり うちみはり眼うつろに居る我を月昼のごと照りて闌くるか 東宝撮影所 トーキーは夜の寒にして騎馬隊の蹄の音も撮るにかあらむ 雪空 めらめらと火の燃えつきし幻覚も障子に消えて雪曇りなり 雪空の暗く閉ぢたる降り出でてことごとが白く楽しく舞ひぬ 我が堪へて瞼たぎる日暮れ方雪はけはひに降り乱れつつ 一つ来て瞼に煮ゆる雪片の須臾とどまらず水と滴りにけり 睫毛より涙したたる両眼を映画にて見にきその大写し 観雪 枯山に雪しらしらと降れりとふ枯山にすらも人目遊ぶを 降る雪に灯向けしめその雪のほたほたと出でて飛ぶに胆冷ゆ 雪後 庭に観て眼もひらく今朝のよろこびは雪つもる木々の立体感なり 冬わたる紅腹鷽は雪ぶりの後晴にして声にこそ来め 瞳人語 年頭薄明吟 新春と今朝たてまつる豊御酒のとよとよとありてまたたのたのと 父母に寿詞まうさく歳の旦仰ぎまみえむ視力早や無し ゑずまひに眼先貴なる杯やとよりと屠蘇の注がれたるかに 汝兄今は屠蘇も召さぬかあはれよと母嘆かすやしづけき我を 弟どもが酒に吼ゆるを寿詞とも元日は聴け日もかたむきぬ 木魚と明笛 人より贈られて 妻を呼ぶ小さき木魚は掌に据ゑてうつによろしも足音ちかづく 呼ぶとしてたたく木魚も見えぬ外に手元逸れつつ畳をうちぬ     § 明笛はひやるろほろろと吹きいでてすべしらぬかなや指を遣るすべ 指触り冬は頼めし明笛の竹紙のつよき張りぞひびらぐ 春寒 春早やも蛙鳴きそめ幾夜さか真闇つづきて月ほそく出ぬ へうへらと蟇は土より音哭きして春なりけりや月夜はつかに 世は献金の盛りなるに ほそき金何ぞ秘むやと夜を覚めて妻に訊きゐつをさな蟇の音 夜哭きする食用蛙風にゐて春寒なれや咽喉つづかず 或る絵をもらひて 夜は暗し皿なる鰯冰れるが片照る青き脊すぢそろへぬ 鼠の春 冴えかへる 蘭の香に寒波押し来る夜の闇や春酣といふに間はあり 春蘭の根に置く卵殻なるを鼠は出でて触れゐるらしき 春蘭の鉢跳びおりる夜の鼠そのひと跳びの尾は冴えかへる 春夜寒 鼠出てもこりと居るは畳目のけばをかひろふ夜寒灯あかり 承塵に水月のかげのぼるとき鼠は居りき面を出だして 註、承塵は長押 電燈のコード咬み切るふてぶてし鼠彼奴は感ぜぬらしき 温ときは鼠らしきが小走りに体あたりして早や消えしなり 冷えまさる闇に目を瞑ぢ我が居ればおのれ鼠の親なるごとし 闇にゐる鼠思へば立つ鬚に眼のするどかる啼く音引くなり 春惜む 春惜む我が方丈の闇にしてさうさうと群るる鼠暫あり 薄眼にぞ走る鼠の影追ひて何すとならし春も暮るるに 梁や春来てかじる野鼠のおもしろと聴けばなほと居るなり 風狂 歳時記をかじる鼠はげんげ田の畔をかも来らすその日がへりを 花さぐる鼠和上は身ぐるみに濡れてかまさめ春雨な降り 朧 春朧ろかがむ鼠のをさなきは両肢持ちそへ物ふふみ食む 朧月の匂ふ面を行く刻み定刻九時四十分の時報今点つ 花塵 牡丹しろく香を吐く夜々は陰のみを鼠跳梁し早や在らずあはれ 花塵をさまりて幽けく暑くなるものか梁を走る鼠すら無し 春山 百千鳥聴くによろしき春山も眺むるにしかずこれの霞を 聴くになほ匂ふ霞か春山のわたりの野鳥羽ぶりしじなり そこらくは萌ゆる端山の藪雑木春の鳴る瀬のかがよひにけり 盲ひむより見る眼まされり楽しみとただに聴けとふ何のなぐさめ 色に見ずもただに聴けとふ明らなる両眼にして人言ひにけり 聴くものに春はのどけき鑿かんな昼の鼠のそことなきこゑ 春日 鶯に蛙鳴きつぐ庭ありて我が春日は果なきごとし 三度、鑑真和上を憶ふ 盲ひてなほ浄慧の人は明らけし面もちしろく春を寂びてぞ 瞳人語 聊斎志異の瞳人を思ひあはせて のんのんと瞳の中に言ふ聴けば春昼にして花か咲きたる 夜にまさる黒き眼鏡の視野にして桜の花はひらきそめにし 靖国神社を偲びて、一首 映画には桜浮び出揺れゐしが影日向ありて真昼なりにし 塑像を置く縁にて 風はまだ繁しらけ立つ春塵に眼洗はむ朝とてなし 立ちにけり空にさまよふあるかなき春の蚊すらも眼は持つらしき 我が塑像ふくらみ黒き瞼に夕柔らなる春陽かぎろふ 短歌新聞百号の祝に 百と積むけだし稀なり香の果の影さへや然り歌に敢て積む 人ならば百に垂ん翁にて言ひてめでたし新聞を君は 暗夜行 夜行くはむしろ安けしひと色と見つつ馴れにし闇の眼にして 真闇にはまぎらふ光あらなくに瞼慧しにほひのみして 闇いとど春夜は愛しこの道のにほふかぎりを聞きて行くがね ガソリン・コールター・材香・沈丁と感じ来て春繁しもよ暗夜行くなり 春の夜と時計うごけるアトリエは表の闇も光さすごとし 土移る桜の花にありけらし夜風うごきて将たしづまりぬ 春しぐれ夜を行く人の間隔はけだしけはひに濡れて知りつつ 闇ながら戦盲い寝る家の棟は蛙鳴く田をのぼりきりて見ゆ 夜目にして黒きはふかき藤浪のしだれたりけり隣家なるらし 物の和沈むを聴けば草堀の春闌けにつつ雨夜ひさしき 塙保己一を偲びて、一首 燈や消えし眼のあきらけきあはれとぞ沈痛に人の言ひて笑ひき 四度、鑑真和上を憶ふ 若葉しておん眼の雫ぬぐはばや  芭蕉 水楢の柔き嫩葉はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ 藤と牡丹    一 豊けくや匂ふ藤浪房垂れてひと鉢の空をその色とせり 莟みける短かかりしか臈たけて房ことごとに長き藤浪 糸づくり光る鱵魚はすずしくて早や夏近し鉢の藤浪 触りよきは空にしだるる藤浪の下重りつつとどめたる房 牡丹の四方の明りはしづけくて色無きがごとしこもる蚊のこゑ 白牡丹光発ちつつ和久し自界荘厳の際にあらむか 陰にして紫紺の香ひすさまじき藤浪にあれや夜の灯闌けたる 藤浪は重りしだるる夜のしじま世界動乱の気先観むとす    二 隆太郎富山高校に入りてより早や四十日にもなりぬ 鉢の藤かかへ危ふきその母と畳にぞ下ろす房ゆらゆらに ひと鉢を藤は老木の片寄りに房しだれたり空しき椅子に 藤といへば早やも夏場所夕こめて鉄傘の揺ぎラヂオとよもす 我が眼には黝きのみなる藤浪の散りかつ散りぬけ長き房を 鉢うづむ藤の散花干からびて手に触るるほどは音に立つめり 惜春賦 花ひとつ片枝に留むる玉蘭の我が視野にして煙霞はてなし 裏端山匂ふ霞のおほよそは聴きつつ居らむ聴くに幽けき 春山はえごの楉のとわたりを闌けつつかあらしきよろろ鶯 閑けさは春の蚊をすら羽ぶき澄む浅間の鷹のごとも聴き居つ 春すでに闌けてほけゆく紫雲英田は我が木戸過ぎて打越橋まで 下空に沈みかがやく花見えて我が夕闇は迫れるごとし 表には月夜あかるき我が山を春のしぐれか背戸わたりゆく 黒檜 孟夏余情 黒き檜の沈静にして現しけき、花をさまりて後にこそ観め か黝葉にしづみて匂ふ夏霞若かる我は見つつ観ざりき 我が眼はや今はたとへば食甚に秒はつかなる月のごときか 視ると聴くとそのいづれとふいよをかし視て而も聴くに豈まさらめや 我ならぬ言ひたやすかり縦しや眼は耳に聴けちふ心に観よちふ 我が暗き人にここだくきこゆるは勢ふに似たり言ひて何せむ 馴れにけり暗き視界もよのつねはかくあるごとく見つつ安らに 春蝉 五月十六日 春蝉の早や鳴きそむる我が山を向ひにもこの日じじと声立つ 激しかる我が性をしも言撓めて堪へ堪へて居れ蝉の鳴きいづ 青蛙呼ぶ 若葉森に雨呼ぶ蛙湯に聴けば煙筒を揺りて声湧くごとし 郭公 野鳥レコード 郭公の録音聴くと楢わか葉風あざやけき庭に眼は留む 眼もひらく初夏の清しさ我聴けりかつこうかつこうの光の録音 大暑 深かりし霧霽れゆきて谷地田には月照れりとふ明日から暑し 靄ごもり大暑の照りのしづけきは寒むかるがごとし蝶ひらら居る 白栄の靄たちこむる真昼にぞげんのしようこはよく煮立つらし 鳥猫大暑の照りに耳立てて蚊を追ふ見れば体かろく跳ぶ 茅蜩 茅蜩は合歓の夕花咲きそむる山方にして気色添ひつつ 雨とふる朝ひぐらしの声きけば常あるに似たり繁き杉山 東宝映画撮影所俯瞰 夏山に波の音荒く起りしがあはれあはれトーキーの模擬音にして すべて模造花らし 夏撮す林檎の花は光れども現ならねば早やあはれなり 夜の零時火星赤々と迫り来て模擬市たちまちにネオン消したり 街建てて夜々華やぎし今朝聴けばぐわらぐわらとすでに壊しつつあり 所懐二三 憤ることありて 反高の青かまきりを打つべくは一撃にしてその斧ともに 蟷螂のはらわた頼めすぢ黒き針金虫の生くらくあはれ 樹相に寄せて 大き木の鬱然たるは然ありてその雲吐けり年を経にける 多磨運動会 短歌マラソンのともがらを、我家の方へ出しやるとて 日の透り影と乱るる秋ざくらよく見て来むぞ庭つきぬけて 庭なべて落葉のみなるありやうをこの凪の陽に思ひみるべし 夕光の諸葉かがよふ黄の銀杏わが腰掛は庭に置きたる 村童、あまりに現実的なる 眼にうとく我がつきそれし風船は童が地よりさらひて逃げぬ 鉛筆の一二本ゆゑに我れがちと子らひた競ふあの駈けざまや 額髪 井上理吉夫人弔歌一首 額髪の幼なかりにし俤は五十歳過ぎてその亡きあとも 冬の庭 玉蘭は黄葉乾びし落ちはてて庭のはひりの音ひびきけり 夕かげはここだをぐらき我が眼にも楓の紅葉火照するなり 日おもてに黄葉はららく声するは日陰の雑木風か吹き越す 背戸わきを我が蹴つまづくバケツには落葉かきためあかつきの霜 心の花五百号をことほぎて おのがじし華は咲かせてゆたかなるみ園のあるじ今よき老に 我が園と眺め足らはす竹柏の園牡丹の花も咲きて明るき 五百あまり華の慶積みましてなほかがやかしみ園は久に 篁子 女の童篁子が削る鉛筆に朱き粉の飛び短日いまは 灯のもとに篁子がすなる英習字菊さし寄せてその父われは 髪揺りて父に笑み寄る夜の寝ぎは手のつめたきは少女ゆゑにぞ 榛名湯沢行 榛名 巓の裏行く低き冬の雲榛名の湖は山のうへの湖 上つ毛榛名のみ湖雲のうへのいただきにして冬の陽映す 雲過ぎて陽のあたりたる湖面には漁舟ひとつ見ゆとふかなや 榛名富士明く日あたり暖しとふ鬢櫛山は早や白しとふ はろばろに神楽きこゆる雲の上埴山姫や巌の秀に坐す 日すぢ降る雲こそ透けれ冬山榛名の宮はいや石高に 榛名の宮冬日薄きに妻と我が鶯笛を吹きつつ下る この下りいまだ日のある山路とて残んの黄葉目にとまりつつ 上越線を湯沢へ、水上より 水上は屋群片寄る高岸に瀬の音ぞひびく冬陽さしつつ こごしかる湯檜曾の村や片谿と日ざしたのめて冬はありつつ 岩ひとつ白かりしかなや冬谿水上の瀬は澄みにしかなや 短日の分水嶺に我が立てば二方へくだる水の瀬早し 上つ毛利根の水上我が越えてすでにぞくだる越の山がは 北の峡雲ひたひたと押しかぶし降雪ちかし紅葉も過ぎぬ 上つ毛は明き黄葉を越へ来てほとほと過ぎぬのこれる見れば ふりさけて空に寒けき裾山を奥なる峯は隠りて見えず 湯沢の宿 山国はすでに雪待つ外がまへ簾垂りたり戸ごと鎖しつつ 冬の宿屋内暗きに人居りて木蓼食むかひそと木蓼 父が曳く柴積み車子が乗りてその頬かぶり寒がり行きぬ 鯉市 鯉市ぞ本城寺前に立てりとふ早や短日を競りてあらむか 門川は黒きのみなる鯉生きて初冬の真水ほそりたりけり 雪降らむ雲は低きに荒々し山袴づれが真鯉競りあぐ 山びとが鯉を愛づるは常無くて徹り澄みたる姿観にけり 白鱗の三色の鯉の清けきは氷中花とも澄みて真水に 観るものとはぐくむ鯉は常愛でてなほ思ふから色に出づちふ 水に澄む端厳の相これをかも豊けしといはむ鯉ぞ老いたる 生くらくは鯉市にしもしかもなほ青淵の鎮み鯉たもちたり 黒の鯉三十六鱗みな張りて息ととのへれ寒きはまらむ 山国は冬のものなる鯉市も日の目みじかく数よまずけり 短日の市の盥や手づかみと鯉は投げられ少くなりぬ 市はてて気どほきごとし鯉あらぬせせらぎに菊のうつれる見れば み湯のしりとろむお池の湯ごもりに息づきてあるか鯉は老けつつ (高半旅館にて) 冬渓 風ひびく冬山岸にはららくは白樺の清き黄葉なりけり 冬山のつまさきあがり早や凍みて日光はじかぬここだ石ころ 冬渓にこもる椙森夕日さしかかる鎮みの雪を待つなり 山柿のここだ朱かる豆柿も正眼仰ぎて色によむなし 手にひろふものの落葉はつくづくと眼さきすがめて見るべかるらし 柴積は莚かけ置く霜ながらまだあをあをし穭田の湯田 月夜 天の月川の瀬照らす更闌けてここにしぞ思ふ四方の鎮もり 潭水の自力発電の音澄みて飯士の山に月照りわたる 雪祭四章 穂積忠が処女歌集「雪祭」に寄せて 雪祭は睦月の神事 雪祭は睦月の神事、その雪は田の面の鎮め、雪こそは豊の年の、穂に穂積む稔のしるし、その雪を神に祈ると、その雪に神と遊ぶと、山峡や小峡の子らが、あな幽か、鬼の子鬼が、雪祭四方の鎮めと、幣立てて、小松植ゑてな、あな清けおもしろ、雪よ雪こんこよ、ハレヤとう、ヤソレたたらと、夜すがら遊ぶ。 反歌 天竜の水上清み雪祭る族が鬼はよに遊びける 「雪祭」幽けきかも 「雪祭」幽けきかも、忠はうれしきかも。その窓に富士を見さけて、狩野の瀬に月を仰ぎて、豊かなる心ばえやなほも、ほのぼのと朝夜あらし。ちちのみの父のみ身、ははそばの母のみ魂、老いませば、常無けばあはれ。風花や天城の杉を、うらら日を、何とはなくて吹きちらふその影にかも、心は寄する。 反歌 うら歎く父母の子は風花の消ぬかに散らふ和ぎにかも行く おもしろの雪祭や おもしろの雪祭や。風花の空に顕ちて、日和うららよとの。遠山は霜月祭、新野にては睦月、西浦は田楽、北設楽は花祭とよの。さてもめでたや、雪祭のとりどり。国は信濃よ三河遠江、水は天竜の流、水上よ、下り下りに春うらかすむ。 反歌 春天城雪の鎮めと伊豆びとは何をもて遊ぶ歌をもて遊ぶ 神業ぞ雪祭 神業ぞ雪祭、鬼の子の出でて遊ぶは、ひたぶるぞ雪の上の田楽、鎮みこそ四方に響くに、まことのみぞ神と遊ぶに、おもしろとこれをや聴く、をかしとよそをや笑ららぐ。な巧みそ歌に遊ぶと、早や選りそ言のをかしと。心にぞはじめて満ちて、匂ひ出るその外ならし。遊びつつ将たや忘れよ、そのいのち命とをせよ、穂積の忠。 反歌 神遊び忘るるきはよ鬼の子がひたぶるに笑らぐ命とをあれ 利久居士 三百五十年遠忌によせて、その墓所、京の聚光院へ贈れる懐紙の歌一首 茶をわびと和敬きよらに常ありてそのおのづから坐りたまひき 春寒 池辺 池の面に匂へる影を雲ぞとは知らで過ぎしか今は見さだむ 池水に映る繊雲あふぎみて霞むのみなるあはれ白雲 十方射光霞むのみなる浮雲のまうへ照りつつ春なるかなや 門前新月 眼にとめて月のをさなさいふこゑはまかる人らし門の夜寒に 月暦睦月二日の新月の眉をさなかる西に見ゆとふ 白辛夷 春邦画伯の銀屏によせて 白辛夷花さく枝にとまりたる頬白見れば春冴えにけり 春雷 春雷の行かそけかる夜なりけり寒餅の水の雫切らしむ 尾長 うち霞む三階松の空にして尾長は喚ぶかその尾ひらめく 春山の松に群れ来る尾の長き空いろの鳥といふがめでたし 玉蘭唱 ひらきかけて黄にぞこごれる玉蘭は時ならぬ寒波昨夜かいたりし その母の子らかきおこす声きけば白木蓮の咲きて夜明ちかきか 玉蘭の花咲きてより来る鳥の尾長・鷽・鶲・雀みなあはれ 玉蘭の下照る土に歩めるは野の小綬鶏か長閑になり来し 庭の春日 春日照る庭の枯芝しづかやとただ白くもぞ観てを居りける 蝶の飛ぶ春なるかなと見てをるを小鳥ぞといふに微笑尽きず 春日照る庭の芝生を鶏じもの我は掻きをり白けたる芝 冬旱長かるあひだ乾び来し雑の落葉もはららき失せぬ うちしらけ色無き芝生下萌えず日は春にして眼霧らひ泣かゆ うち見には枯山芝生春日照りねもごろ聞けば濃すみれ咲きぬ 吾が犬の呆けてあくなきい寝ざまにうらら春日の照りこそなごめ 春といへば菓子などめして犬じもの我の坐しけり渇くものから 口出づる「おばこ」のどかや用のない煙草売など春はふれて来る 我がこもり春は匂へば照り美し物のあいろよ強ひてしも見ず 転居近づく 成城十九番地月まどかなる春夕の暮れつつはありて明りつつあり 花ひとつ枝にとどめぬ玉蘭の夏むかふなり我も移らむ 下巻 日本古武道 昭和十三年九月十五日独逸青少年使節団一行を迎へて、日本古武道型大会開かる、会場神田国民体育館、主催は日本文化聯盟なり、我視力乏しけれども行きて参観す 武神 建御雷響きわたらし夏雲やすでに向伏す下つ国原 大船の香取の海に潮とよみ弓弭輝りわたらす経津主の神 ひもろぎ香取の山は鷺多に梢とよめり清の明りを 荒み魂しかも和すと明らけし遠つ祖先は討ちに討たしき 神前 神とある弓矢のまことうやうやしひとたび立ちてたぢろがめやも 剣執り闘ふかぎり斎庭なり塵だにとめじ朝潔めつつ 武田流陣貝 陣貝は裃正し高々と両手持ちにぞ吹きあげにけれ 陣貝の法螺貝聴けば武者押しに今ぞ押しゆく昧爽の空 音に止む陣の法螺貝緋ぶさ垂りしづけかるかも吹きをさめける 立身流居合 真竹を立身の居合抜く手見せずすぱりずんとぞ切りはなちける 見たりけり斎庭に立つる青竹の試し切りこそうべな一と太刀 日置流弓術 その一 弓構や差矢前型いざとこそ片折り敷きぬ物見正しく 矢を番へ物見安らぐ跼のよに落居たる姿よく見む 物見しばし弣しづもる際ありてきりり引きしぼる張りのよろしさ 姿なり構正しく張る弓の矢と一つなる心澄みつつ 引く弓はいよよ張り詰め一筋や眼先の鏃弣まで引く 満を持してまさに射はなすたまゆらは幽けかるらし弽ふるへつ 詰いよよ張りて堪へたる右手の肱矢頃はよろしひようとはなしつ 射てはなし見入る我かのしばらくは楽しきがごとしいまだ名残に 矢をはなしくるりと返る弓返りの弣よろしも君が押手に 的はいざ神明らに引く弓の矢は音たてつ徹りたらしも その二 矢継ぎ早に管矢継ぎ射るしばらくは矢筈あてゆくひまもなく見ゆ つぎつぎと矢継早にぞ引く弓の弦は鳴りぬしづけきまでに 甲矢乙矢射継ぎはなちてつく息の事なかりけり弓はをさめつ 剣道諸流 相むかひ声無き太刀の鋒鋩はむしろ凄まじき気合なるなり 気先には撃つと見せつつまじろがず張り満つる力極みなむとす 青眼にひたとつけたるしづかなる時たちにけりひらめく一太刀 真向より打ちおろす太刀雷撃のこの太刀風は息もつかせず 一太刀にひた打ちおろす、響あり何を思はむぞ小手先のわざ 体あたりかららと絡む火のごとき気合鍔にして敢て押しにけり 白刃取極む捨身の入り早し飛鳥の如くその手抑へぬ 柔道諸流 男童ら構凛々しく肱立ててゐずまふ見れば張り切るごとし 母はいざ国の童男が相搏つと対ひ構へぬ小さき柔ら手 相むかふ今か搏んず面がまへ丹田にして気合満ちたる えやと掛けおうと応ふる張り満てる童が気合相搏つかすでに 身をあげてすべて相搏つひたごころ童なれや響き合ひにつつ 男童は稚なかるとも相搏つとひとたび対ひ面ふらぬかも 手は疾し礼してぞ退くすなはちをじりりじりりと寄り身にはゆく 早技とすくふただちのこのきまり大外刈の型のよろしさ 師の道におのれ鍛ふとたじろがず力尽くしてその型学ぶ 天道流薙刀 薙刀の一手ひらめきいつくしき真夏なるなりしづもる塵に しやつ小女童小太刀するどし老刀自の薙刀ぐるまたとうちとめぬ 根岸流手裏剣 十の指諸に手挟む手裏剣のつぎつぎ疾しうつ手は見えず 手裏の技神にもかもや的の戸にうちし小柄は我と礼し抜く 夢想流杖術 天地に構ふる杖の音無きはただ水のごとし無念無想の型 杖の手は眼にもとまらず引くと見せ打つと返すと十方無礙なり 武道 青雲に直にひびかふ剣太刀古へありきいまもこの道 戦時雑唱 鋒鋩 靖光は陸軍省贈の将官刀なり。征戦一ヶ年、而も我眼を病みて今為す無し 晴けふを暗きかもやとうちなげきひたと瞻り居りわが太刀靖光 父の子はつくづくと見よ我が太刀と鞘はらふ太刀に曇りひとつ無し 一方に力あつむる我が眼先鋒鋩の蒼み光発し見ゆ 哀歌 ひたひたと攀ぢてうばへる塁にて何を叫びしつはもの彼ら つはものはあへぐいまはもをたけびてこゑあげにけむ天皇陛下万歳 先き駆くとただに勢ふ軍の犬ひとたび吼えてかへらざりけり 伝書鳩荒野の空に行き消えてたより無しとふその鳩泣かゆ 斃れ伏す軍馬あはれと我が水のひとしづくつけて死にし兵はや この感激を 昭和十三年九月廿六日、大日本聯合青年団第十四回大会に際して、秩父宮殿下には会場日本青年館に台臨あらせられ、畏くも令旨を賜ふ。一同感激措く能はず、我また席末を忝うすれども、眼疾の篤きをもつて幽かにただ拝し奉るのみ。この日、我が新作大日本青年団々歌初めて合唱さる 澄みわたりいよよ静けき時今を宮成らすらしみ気配聴かゆ 金屏の映えて畏き真正面に宮おはすらしあたりしづけき 秩父嶺に神立ちわたる朝の雲み声いさぎよし若き直の宮 朗かと国の若らに下したぶ力雄々しきみ声なるはや 聞えあげ応へまつれる人誰ぞ涙せきあへずその声歔欷る みそなはせ天もとよめとけふ今ぞ声揺りあがる大日本青年団の歌 老兵 その一 応召 昭和十三年五月、応召兵我家に宿る。その中にひとりの老兵ありき 老いし兵笑落しつかきかぞへ一二三四五六七八九人の子 召されけり老いし兵若やぐと面もふらね多きかも子ら 小童らかよ末は名すらも忘れつと兵後言はず将たや忘れし 老いし兵強き日差に歩を張れりむしろ叫びて駈けたかるべし 点呼なり若葉しづもる午行くと兵は照る陽の地に灼くる踏む 死ぬべくぞ兵は戦へかりそめと病みてな還り草も灼くるに 手もすまに養ふ蚕かなしびまた書かず兵が妻や九人の母や 立つとして今は安きか兵彼ら生死の外に遊べるごとし 壺口の防毒マスク管長し若葉光るにをどり出て来る 蒸しむしと夜眼に撲ち来る土ほこりトラックとどろき兵発ちはじむ その二 その家 初夏、我家に宿りし兵士の一人今既に中支に奮戦しつつあり、我等とその妻子との消息絶ゆることなし 兵の妻九人とふ子の母のまた細るらし家貧しきに 兵の家事に嘆たず貧しくも国を頼めて養ふ蚕あげにき 山と言へば子ら九人母のみにかつかつ暮らす冬日おもほゆ 兵の家雑木端山の後空も朝寒むからむ子らの騒ぎて 前線に今ぞ発つとふ文ありて生死もわかね戦勝ちぬ 秋ざくら花みだれゆく庭にして何くれとなく干す日はつづく 霜夜着る幼な小衾継ぎあてて仕立て送らな内のさがりを 小ぎれもの掻集め送る菰巻に古綿畳ねキャラメル九つ 戦影 戦場の眼 じりじりと匍匐しつつも寄り進む兵をぞ思ふその眼力 ひたおもて戦車にあるはまじろがずその眼射たれけり両つのその眼 銃向けて壕に押し並む鉄兜眼には堪ふるか待つある時を 動ぜぬはいよよ見据うと塹にして未だは射たず敵引き寄せぬ 白昼に思ふ 日のさかり眼射たれて聴きにける兵の命の四方のしづもり 夜戦 夜戦は月をこもれば黍の根に鳴き澄む虫のその翅すら見む 眼先に友の屍凍れるを月夜堪へつつ七夜経しとふ 廃馬 ましぐらに進み行きける軍のあと馬縡切れぬ草は喰みつつ 砲火絶え今はあやなき夜の沼に馬沈まんずまた嘶きて 盲兵春日 ひと棟は盲目のみなる兵にして真昼明きに坐りてありしと もの言はず光る戸口へ面向けて兵はありきと盲目なりしと 面あげし兵の一人はそれぞとふ眼も無かりきと見て来て言ひぬ 戦盲兵見て来しといふ人見れば眼はあきらけく頼むあるらし 戦聾 面笑ひ照る日に群るる兵見れば呆けたるがごとし耳聾ひにけり 夕河鹿また聴かざらし戦聾の幾人の兵青葉見てあり 空は見て答ふるなきは音絶えし兵の起居の性とやなりにし 爆撃音今は玄けくありぬらし聾兵は碁に余念無しとぞ 弔電二首 手嶋多賀美君の英霊に捧ぐ つはものはかくしあるべし先行くと面もふらず戦ひ死にぬ ちちははは国に捧ぐとひとり子の愛児先立たし老いつつ言はず 若鷹 我が一族、陸軍航空兵少佐(当時大尉)鶴田静三君、昭和十三年初夏、南昌空中に於て散華す 九月十一日、郷里柳河にて葬儀盛大に行はる 我が族すでに一人はいさぎよしくわうくわうと空に散りつつ消えぬ 夏空を翼はららかし錐揉むと激し若鷹眼見据ゑき 誉とぞ世人讃へむ我も然りその老いし父も厳かしくあらむ 電送歌口授し勢ひし今出でて秋草の中にうづくまりぬる 故郷や今日し響まむ秋草の闌けて閑けきかかる日差を 長江夜話 見る見る黝き蝗の大群の空おほひ来る恐れを言ひぬ 長江の大き出水は見るさへや空をのみ映し白き積雲 或る船員 揚子江遡江しつつも夜ふけには耳に入り来と後引く波 下航する夜のおそろしさ言ひにけり兵揚げて来て後のむなしさ 新秋を待つ あますなき戦車爆撃を軍言ひて虱つぶしに撃ちに撃ちにけり 哈爾哈河朝越え来てほろびたる蘇蒙の兵に白夜け長し 戦車来る音のとどろを地に伏して待つま澄みつつ神はあるらむ 大草原沙塵捲きつつ響き来し百の戦車の骸燃えにけり 編隊機けだし進むは山形と列並む雁の一機先かゆく ノモンハン火を噴き戦ふ国境の上空にして夏もをはるか ホロンバイル夕湖岸にうつ砲の煙噴きつぎて未し暑からむ 掃射戦のすさまじかりし後冷えてパン焼き車香立てつと 国境線敢て守りてしづかなる月夜にしあるか笛を吹きつつ 口をつくハロンアルシャンといふ語韻新秋にして我も癒えなむ 波濤の歌人に寄せて ながむらくしづけきがごとしまともにぞ敢てしぬぎて大き荒波 海洋図絵 辰の歳に寄せて、二首 竜巻の幾はしら立つ冥き海リーダアの画は影繁かりき 海を雲へ竜巻き騰る幾はしら覆る船は小さくゑがきつ   § 海洋の西洋木版画帆船描き地球の円き弧線があはれ   § コロンブスが卵立てをるその画など時に笑ましく思ふことあり 戦時立冬 めらめらと人馬も草も燬きつくす火焔砲とふに冬ひた恐る 火焔砲重戦車ピアノ鋼線あはれあはれ子らが遊びも昂じ来にけり 戦はいつ止むとしもあらなくに米ひた惜む冬にぞ入りぬ 独居る暗き眼にして頼めたる一と擦りのマチの火すら惜みつ ハルハ河あはれとしいふ言すらも冬来にけらし口を衝かずも 町に遇ふ小さき兵隊バンドには代用らしき締めてみ冬なり   § 北支那に砲とどろきし頃よりぞ目見闇くなりて我は籠りつ 内閣印刷局 かうがうし菊の御紋は透かし漉き人つつましも紙あつく漉く 閑けくて偉き機構の刷り出づる百円紙幣は現しけなくに 長江の流もかくやたうたうと刷りいづる紙幣の清の洪水 国の紙幣日を夜をただにかく刷りて幾百億円刷るにやあらむ 截ち切るや刷る間ただちを香に澄みて百円紙幣手も切れぬべし うち羽ぶき常にもがもな刷られゆく紙幣夜昼なし戦長きに 五色旗の満州紙幣手童がただに愛しぶものならなくに 紙幣・債券・印紙・郵便貯金帳虹なして刷りいづるところ人鼠なす 円陣に秘ゐる少女鋭眼速く紙幣検しをれ早やおそれつつ 網の目の蟻なす花文うつしけき百円紙幣を指はじくなり 豊けかる退けて出る子がゆふぐれは身のほそりして悲しかるべし 大御代と刷りいづる紙幣や我は見て大臣のごとく闊く歩みき 年の瀬一首 我が戦疑ふとにはあらなくに紀元二千五百九十九年の年の瀬今は 鉄を削る 前橋理研工場所見 機械とは将たやしづけき鉄削る旋盤のかくも艶澄みつつ 複雑の単純化とふ一方に機械はこころこめゐるごとし 旋盤やひねもす速れ事といへばただにリングの幅削るのみ 旋盤に立つ微塵見れば鉄と鉄や触れあひのただち声いづるなり 鉄微塵短日にして現しけき色盛りあがれ旋盤速む 冬といへば精密機械気先にもリングの寸分ひた感じつつ 戦艦のピストンリング大きなるこの円輪に我はなごまむ おなじ作業ただに繰り返すのみなるを愛し機械や倦みもせなくに 旋盤工は少年のみなり、一首 れうれうと子ら一つなれやリング削り単純にただにうごくを見れば 香にほくる鉄の微塵や気色すら旋盤も人も別ししらずも 黄塵 風荒れて黄に霾らす下つ空大き年けさの初日ぞのぼる 国挙げて事に惑へりかくしてぞ年明けたりといふもおろかや かきほぜる埋火すらに早や消ちて後継ぎ足さむ炭とてもなし ゆゆしくも照りつつ降らぬ冬空の寒にもちこし水尽きむとぞ 我が観るはむしろ用なしけだしただ盲ひつつくらき眼にぞ堪へゐむ 紀元二千六百年讃歌 読売新聞社募集奉讃歌選者吟 天雲の青くたなびく大き陸かくいにしへも和したまひき 大日本歌人協会奉祝歌集に 遥けくも今に澄みたる天の原その蒼雲に直むかふ我は 巻末に  本集『黒檜』は前集『渓流唱』(未完)に次ぐものである。  昭和十二年十一月、眼疾いよいよ昂じて、駿河台の杏雲堂病院に入院して以来、同十五年四月、砧の成城よりこの杉並の阿佐ヶ谷に転住するに至る、約二年有半の期間に於ける薄明吟の集成が之である。  収むるところ長歌五章短歌六百五十一首、之等がそのすべてである。  本来病中生活の吟詠であるゆゑ、自らの歌誌「多磨」以外にはさして発表せず、知らるることも欲しなかつた。ここにはじめて取りまとめて諸賢の清鑑を仰ぐのである。  此の集の歌は、別に選ぶところ無く、作したほどのものは洩れなくここに蒐めた。ただ一々に検して、その磨くべきは改めて磨き直した。  私の眼疾は遠因を肉体の上に加へた多年の精神的暴虐に発し、糖と蛋白との漏出が激甚となり、遂に、新万葉選歌に於ける日夜の苦業が眼底の出血と共に極度の視神経の衰弱を来し、失明直前の薄明状態に坐らねばならなくなつた。この一生の重患に於て、他に補うてあまりある道の楽しみを得たことは、私の欣びである。私は寧ろ現在の境涯に於て幸せられてゐる。  本集は歌集であるゆゑ、作品にすべてを委ね、病気の経過その他心境の如何等に就いてはここに贅しない。短歌以外の詩作、或は随感、消息等は、各年度の白秋年纂「全貌」に全部を収録してある。  なほ、病中吟の外に、正統「郷土飛翔吟」その他の覊旅歌六百余首も、その後半期には氾濫した。しかし之等はその性質上前々集『夢殿』に収めてある。で、創作の順序歌風の推移に就いては、これも「全貌」によつて知つてほしく思ふ。その「全貌」にはこの『黒檜』の諸作も、原形のままに保存して置いた。異同も亦録したい考である。  終りに、此の集の中に時局の歌が少いのは、恰も発病が北支事変と同じ頃に当つて作歌の機を逸したのである。これは短歌作品のみならず他の詩歌にも禍した。甚だ残念に思ふがいづれ大成してその責を果したいと思ふ。ここには「戦時雑唱」としてその片鱗のみを示すにとどめた。  視力は一進一退して、今日に至つたが、やや小康を得て、薄明にも馴れた。ただ四方は暗くなりつつある。(昭和十五年七月廿四日夜) 底本:「歌集 黒檜」短歌新聞社文庫、短歌新聞社    1994(平成6)年8月25日初版発行    2002(平成14)年1月10日再版発行 底本の親本:「黒檜」八雲書林    1940(昭和15)年8月13日 初出:「黒檜」八雲書林    1940(昭和15)年8月13日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※小見出しよりもさらに下位の見出しには、注記しませんでした。 入力:岡村和彦 校正:光森裕樹 2014年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。