金色夜叉 尾崎紅葉 Guide 扉 本文 目 次 金色夜叉 前編 第一章 (一)の二 第二章 第三章 第四章 第五章 第六章 (六)の二 第七章 第八章 中編 第一章 第二章 第三章 (三)の二 第四章 (四)の二 (四)の三 第五章 第六章 第七章 第八章 (八)の二 後編 第一章 (一)の二 第二章 (二)の二 第三章 第四章 第五章 (五)の二 第六章 第七章 (七)の二 続金色夜叉 与紅葉山人書 第一章 第二章 第三章 (三)の二 第四章 (四)の二 (四)の三 第五章 第六章 (六)の二 第七章 第八章 続続金色夜叉 第一章 (一)の二 第二章 (二)の二 第三章 (三)の二 第四章 第五章 新続金色夜叉 第一章 第二章 (二)の二 (二)の三 第三章 (三)の二 前編 第一章  未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠めて、真直に長く東より西に横はれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来の絶えたるに、例ならず繁き車輪の輾は、或は忙かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来なるべく、疎に寄する獅子太鼓の遠響は、はや今日に尽きぬる三箇日を惜むが如く、その哀切に小き膓は断れぬべし。  元日快晴、二日快晴、三日快晴と誌されたる日記を涜して、この黄昏より凩は戦出でぬ。今は「風吹くな、なあ吹くな」と優き声の宥むる者無きより、憤をも増したるやうに飾竹を吹靡けつつ、乾びたる葉を粗なげに鳴して、吼えては走行き、狂ひては引返し、揉みに揉んで独り散々に騒げり。微曇りし空はこれが為に眠を覚されたる気色にて、銀梨子地の如く無数の星を顕して、鋭く沍えたる光は寒気を発つかと想はしむるまでに、その薄明に曝さるる夜の街は殆ど氷らんとすなり。  人この裏に立ちて寥々冥々たる四望の間に、争か那の世間あり、社会あり、都あり、町あることを想得べき、九重の天、八際の地、始めて混沌の境を出でたりといへども、万物未だ尽く化生せず、風は試に吹き、星は新に輝ける一大荒原の、何等の旨意も、秩序も、趣味も無くて、唯濫に邈く横はれるに過ぎざる哉。日の中は宛然沸くが如く楽み、謳ひ、酔ひ、戯れ、歓び、笑ひ、語り、興ぜし人々よ、彼等は儚くも夏果てし孑孑の形を歛めて、今将何処に如何にして在るかを疑はざらんとするも難からずや。多時静なりし後、遙に拍子木の音は聞えぬ。その響の消ゆる頃忽ち一点の燈火は見え初めしが、揺々と町の尽頭を横截りて失せぬ。再び寒き風は寂き星月夜を擅に吹くのみなりけり。唯有る小路の湯屋は仕舞を急ぎて、廂間の下水口より噴出づる湯気は一団の白き雲を舞立てて、心地悪き微温の四方に溢るるとともに、垢臭き悪気の盛に迸るに遭へる綱引の車あり。勢ひで角より曲り来にければ、避くべき遑無くてその中を駈抜けたり。 「うむ、臭い」  車の上に声して行過ぎし跡には、葉巻の吸殻の捨てたるが赤く見えて煙れり。 「もう湯は抜けるのかな」 「へい、松の内は早仕舞でございます」  車夫のかく答へし後は語絶えて、車は驀直に走れり、紳士は二重外套の袖を犇と掻合せて、獺の衿皮の内に耳より深く面を埋めたり。灰色の毛皮の敷物の端を車の後に垂れて、横縞の華麗なる浮波織の蔽膝して、提灯の徽章はTの花文字を二個組合せたるなり。行き行きて車はこの小路の尽頭を北に折れ、稍広き街に出でしを、僅に走りて又西に入り、その南側の半程に箕輪と記したる軒燈を掲げて、剡竹を飾れる門構の内に挽入れたり。玄関の障子に燈影の映しながら、格子は鎖固めたるを、車夫は打叩きて、 「頼む、頼む」  奥の方なる響動の劇きに紛れて、取合はんともせざりければ、二人の車夫は声を合せて訪ひつつ、格子戸を連打にすれば、やがて急足の音立てて人は出で来ぬ。  円髷に結ひたる四十ばかりの小く痩せて色白き女の、茶微塵の糸織の小袖に黒の奉書紬の紋付の羽織着たるは、この家の内儀なるべし。彼の忙しげに格子を啓るを待ちて、紳士は優然と内に入らんとせしが、土間の一面に充満たる履物の杖を立つべき地さへあらざるに遅へるを、彼は虚さず勤篤に下立ちて、この敬ふべき賓の為に辛くも一条の道を開けり。かくて紳士の脱捨てし駒下駄のみは独り障子の内に取入れられたり。 (一)の二  箕輪の奥は十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銅鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに耀き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊を為るなりけり。蝋燭の焔と炭火の熱と多人数の熱蒸と混じたる一種の温気は殆ど凝りて動かざる一間の内を、莨の煙と燈火の油煙とは更に縺れて渦巻きつつ立迷へり。込合へる人々の面は皆赤うなりて、白粉の薄剥げたるあり、髪の解れたるあり、衣の乱次く着頽れたるあり。女は粧ひ飾りたれば、取乱したるが特に著るく見ゆるなり。男はシャツの腋の裂けたるも知らで胴衣ばかりになれるあり、羽織を脱ぎて帯の解けたる尻を突出すもあり、十の指をば四まで紙にて結ひたるもあり。さしも息苦き温気も、咽ばさるる煙の渦も、皆狂して知らざる如く、寧ろ喜びて罵り喚く声、笑頽るる声、捩合ひ、踏破く犇き、一斉に揚ぐる響動など、絶間無き騒動の中に狼藉として戯れ遊ぶ為体は三綱五常も糸瓜の皮と地に塗れて、唯これ修羅道を打覆したるばかりなり。  海上風波の難に遭へる時、若干の油を取りて航路に澆げば、浪は奇くも忽ち鎮りて、船は九死を出づべしとよ。今この如何とも為べからざる乱脈の座中をば、その油の勢力をもて支配せる女王あり。猛びに猛ぶ男たちの心もその人の前には和ぎて、終に崇拝せざるはあらず。女たちは皆猜みつつも畏を懐けり。中の間なる団欒の柱側に座を占めて、重げに戴ける夜会結に淡紫のリボン飾して、小豆鼠の縮緬の羽織を着たるが、人の打騒ぐを興あるやうに涼き目を瞪りて、躬は淑かに引繕へる娘あり。粧飾より相貌まで水際立ちて、凡ならず媚を含めるは、色を売るものの仮の姿したるにはあらずやと、始めて彼を見るものは皆疑へり。一番の勝負の果てぬ間に、宮といふ名は普く知られぬ。娘も数多居たり。醜きは、子守の借着したるか、茶番の姫君の戸惑せるかと覚きもあれど、中には二十人並、五十人並優れたるもありき。服装は宮より数等立派なるは数多あり。彼はその点にては中の位に過ぎず。貴族院議員の愛娘とて、最も不器量を極めて遺憾なしと見えたるが、最も綺羅を飾りて、その起肩に紋御召の三枚襲を被ぎて、帯は紫根の七糸に百合の折枝を縒金の盛上にしたる、人々これが為に目も眩れ、心も消えて眉を皺めぬ。この外種々色々の絢爛なる中に立交らひては、宮の装は纔に暁の星の光を保つに過ぎざれども、彼の色の白さは如何なる美き染色をも奪ひて、彼の整へる面は如何なる麗き織物よりも文章ありて、醜き人たちは如何に着飾らんともその醜きを蔽ふ能はざるが如く、彼は如何に飾らざるもその美きを害せざるなり。  袋棚と障子との片隅に手炉を囲みて、蜜柑を剥きつつ語ふ男の一個は、彼の横顔を恍惚と遙に見入りたりしが、遂に思堪へざらんやうに呻き出せり。 「好い、好い、全く好い! 馬士にも衣裳と謂ふけれど、美いのは衣裳には及ばんね。物それ自らが美いのだもの、着物などはどうでも可い、実は何も着てをらんでも可い」 「裸体なら猶結構だ!」  この強き合槌撃つは、美術学校の学生なり。  綱曳にて駈着けし紳士は姑く休息の後内儀に導かれて入来りつ。その後には、今まで居間に潜みたりし主の箕輪亮輔も附添ひたり。席上は入乱れて、ここを先途と激き勝負の最中なれば、彼等の来れるに心着きしは稀なりけれど、片隅に物語れる二人は逸早く目を側めて紳士の風采を視たり。  広間の燈影は入口に立てる三人の姿を鮮かに照せり。色白の小き内儀の口は疳の為に引歪みて、その夫の額際より赭禿げたる頭顱は滑かに光れり。妻は尋常より小きに、夫は勝れたる大兵肥満にて、彼の常に心遣ありげの面色なるに引替へて、生きながら布袋を見る如き福相したり。  紳士は年歯二十六七なるべく、長高く、好き程に肥えて、色は玉のやうなるに頬の辺には薄紅を帯びて、額厚く、口大きく、腮は左右に蔓りて、面積の広き顔は稍正方形を成せり。緩く波打てる髪を左の小鬢より一文字に撫付けて、少しは油を塗りたり。濃からぬ口髭を生して、小からぬ鼻に金縁の目鏡を挾み、五紋の黒塩瀬の羽織に華紋織の小袖を裾長に着做したるが、六寸の七糸帯に金鏈子を垂れつつ、大様に面を挙げて座中を眴したる容は、実に光を発つらんやうに四辺を払ひて見えぬ。この団欒の中に彼の如く色白く、身奇麗に、しかも美々しく装ひたるはあらざるなり。 「何だ、あれは?」  例の二人の一個はさも憎さげに呟けり。 「可厭な奴!」  唾吐くやうに言ひて学生はわざと面を背けつ。 「お俊や、一寸」と内儀は群集の中よりその娘を手招きぬ。  お俊は両親の紳士を伴へるを見るより、慌忙く起ちて来れるが、顔好くはあらねど愛嬌深く、いと善く父に肖たり。高島田に結ひて、肉色縮緬の羽織に撮みたるほどの肩揚したり。顔を赧めつつ紳士の前に跪きて、慇懃に頭を低れば、彼は纔に小腰を屈めしのみ。 「どうぞ此方へ」  娘は案内せんと待構へけれど、紳士はさして好ましからぬやうに頷けり。母は歪める口を怪しげに動して、 「あの、見事な、まあ、御年玉を御戴きだよ」  お俊は再び頭を低げぬ。紳士は笑を含みて目礼せり。 「さあ、まあ、いらつしやいまし」  主の勧むる傍より、妻はお俊を促して、お俊は紳士を案内して、客間の床柱の前なる火鉢在る方に伴れぬ。妻は其処まで介添に附きたり。二人は家内の紳士を遇ふことの極めて鄭重なるを訝りて、彼の行くより坐るまで一挙一動も見脱さざりけり。その行く時彼の姿はあたかも左の半面を見せて、団欒の間を過ぎたりしが、無名指に輝ける物の凡ならず強き光は燈火に照添ひて、殆ど正く見る能はざるまでに眼を射られたるに呆れ惑へり。天上の最も明なる星は我手に在りと言はまほしげに、紳士は彼等の未だ曾て見ざりし大さの金剛石を飾れる黄金の指環を穿めたるなり。  お俊は骨牌の席に復ると侔く、密に隣の娘の膝を衝きて口早に咡きぬ。彼は忙々く顔を擡げて紳士の方を見たりしが、その人よりはその指に耀く物の異常なるに駭かされたる体にて、 「まあ、あの指環は! 一寸、金剛石?」 「さうよ」 「大きいのねえ」 「三百円だつて」  お俊の説明を聞きて彼は漫に身毛の弥立つを覚えつつ、 「まあ! 好いのねえ」  鱓の目ほどの真珠を附けたる指環をだに、この幾歳か念懸くれども未だ容易に許されざる娘の胸は、忽ち或事を思ひ浮べて攻皷の如く轟けり。彼は惘然として殆ど我を失へる間に、電光の如く隣より伸来れる猿臂は鼻の前なる一枚の骨牌を引攫へば、 「あら、貴女どうしたのよ」  お俊は苛立ちて彼の横膝を続けさまに拊きぬ。 「可くつてよ、可くつてよ、以来もう可くつてよ」  彼は始めて空想の夢を覚して、及ばざる身の分を諦めたりけれども、一旦金剛石の強き光に焼かれたる心は幾分の知覚を失ひけんやうにて、さしも目覚かりける手腕の程も見る見る漸く四途乱になりて、彼は敢無くもこの時よりお俊の為に頼み難き味方となれり。  かくしてかれよりこれに伝へ、甲より乙に通じて、 「金剛石!」 「うむ、金剛石だ」 「金剛石⁇」 「成程金剛石!」 「まあ、金剛石よ」 「あれが金剛石?」 「見給へ、金剛石」 「あら、まあ金剛石⁇」 「可感い金剛石」 「可恐い光るのね、金剛石」 「三百円の金剛石」  瞬く間に三十余人は相呼び相応じて紳士の富を謳へり。  彼は人々の更互におのれの方を眺むるを見て、その手に形好く葉巻を持たせて、右手を袖口に差入れ、少し懈げに床柱に靠れて、目鏡の下より下界を見遍すらんやうに目配してゐたり。  かかる目印ある人の名は誰しも問はであるべきにあらず、洩れしはお俊の口よりなるべし。彼は富山唯継とて、一代分限ながら下谷区に聞ゆる資産家の家督なり。同じ区なる富山銀行はその父の私設する所にして、市会議員の中にも富山重平の名は見出さるべし。  宮の名の男の方に持囃さるる如く、富山と知れたる彼の名は直に女の口々に誦ぜられぬ。あはれ一度はこの紳士と組みて、世に愛たき宝石に咫尺するの栄を得ばや、と彼等の心々に冀はざるは希なりき。人若し彼に咫尺するの栄を得ば、啻にその目の類無く楽さるるのみならで、その鼻までも菫花の多く齅ぐべからざる異香に薫ぜらるるの幸を受くべきなり。  男たちは自から荒められて、女の挙りて金剛石に心牽さるる気色なるを、或は妬く、或は浅ましく、多少の興を冷さざるはあらざりけり。独り宮のみは騒げる体も無くて、その清き眼色はさしもの金剛石と光を争はんやうに、用意深く、心様も幽く振舞へるを、崇拝者は益々懽びて、我等の慕ひ参らする効はあるよ、偏にこの君を奉じて孤忠を全うし、美と富との勝負を唯一戦に決して、紳士の憎き面の皮を引剥かん、と手薬煉引いて待ちかけたり。されば宮と富山との勢はあたかも日月を並懸けたるやうなり。宮は誰と組み、富山は誰と組むらんとは、人々の最も懸念するところなりけるが、鬮の結果は驚くべき予想外にて、目指されし紳士と美人とは他の三人とともに一組になりぬ。始め二つに輪作りし人数はこの時合併して一の大なる団欒に成されたるなり。しかも富山と宮とは隣合に坐りければ、夜と昼との一時に来にけんやうに皆狼狽騒ぎて、忽ちその隣に自ら社会党と称ふる一組を出せり。彼等の主義は不平にして、その目的は破壊なり。則ち彼等は専ら腕力を用ゐて或組の果報と安寧とを妨害せんと為るなり。又その前面には一人の女に内を守らしめて、屈強の男四人左右に遠征軍を組織し、左翼を狼藉組と称し、右翼を蹂躙隊と称するも、実は金剛石の鼻柱を挫かんと大童になれるに外ならざるなり。果せる哉、件の組はこの勝負に蓬き大敗を取りて、人も無げなる紳士もさすがに鼻白み、美き人は顔を赧めて、座にも堪ふべからざるばかりの面皮を欠されたり。この一番にて紳士の姿は不知見えずなりぬ。男たちは万歳を唱へけれども、女の中には掌の玉を失へる心地したるも多かりき。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙されし富山は、余りにこの文明的ならざる遊戯に怖をなして、密に主の居間に逃帰れるなりけり。  鬘を被たるやうに梳りたりし彼の髪は棕櫚箒の如く乱れて、環の隻捥げたる羽織の紐は、手長猿の月を捉へんとする状して揺曳と垂れり。主は見るよりさも慌てたる顔して、 「どう遊ばしました。おお、お手から血が出てをります」  彼はやにはに煙管を捨てて、忽にすべからざらんやうに急遽と身を起せり。 「ああ、酷い目に遭つた。どうもああ乱暴ぢや為様が無い。火事装束ででも出掛けなくつちやとても立切れないよ。馬鹿にしてゐる! 頭を二つばかり撲れた」  手の甲の血を吮ひつつ富山は不快なる面色して設の席に着きぬ。予て用意したれば、海老茶の紋縮緬の裀の傍に七宝焼の小判形の大手炉を置きて、蒔絵の吸物膳をさへ据ゑたるなり。主は手を打鳴して婢を呼び、大急に銚子と料理とを誂へて、 「それはどうも飛でもない事を。外に何処もお怪我はございませんでしたか」 「そんなに有られて耐るものかね」  為う事無さに主も苦笑せり。 「唯今絆創膏を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々御招申しまして甚だ恐入りました。もう彼地へは御出陣にならんが宜うございます。何もございませんがここで何卒御寛り」 「ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの」 「へえ、又いらつしやいますか」  物は言はで打笑める富山の腮は愈展れり。早くもその意を得てや破顔せる主の目は、薄の切疵の如くほとほと有か無きかになりぬ。 「では御意に召したのが、へえ?」  富山は益笑を湛へたり。 「ございましたらう、さうでございませうとも」 「何故な」 「何故も無いものでございます。十目の見るところぢやございませんか」  富山は頷きつつ、 「さうだらうね」 「あれは宜うございませう」 「一寸好いね」 「まづその御意でお熱いところをお一盞。不満家の貴方が一寸好いと有仰る位では、余程尤物と思はなければなりません。全く寡うございます」  倉皇入来れる内儀は思ひも懸けず富山を見て、 「おや、此方にお在あそばしたのでございますか」  彼は先の程より台所に詰きりて、中入の食物の指図などしてゐたるなりき。 「酷く負けて迯げて来ました」 「それは好く迯げていらつしやいました」  例の歪める口を窄めて内儀は空々しく笑ひしが、忽ち彼の羽織の紐の偏断れたるを見尤めて、環の失せたりと知るより、慌て驚きて起たんとせり、如何にとなればその環は純金製のものなればなり。富山は事も無げに、 「なあに、宜い」 「宜いではございません。純金では大変でございます」 「なあに、可いと言ふのに」と聞きも訖らで彼は広間の方へ出でて行けり。 「時にあれの身分はどうかね」 「さやう、悪い事はございませんが……」 「が、どうしたのさ」 「が、大した事はございませんです」 「それはさうだらう。然し凡そどんなものかね」 「旧は農商務省に勤めてをりましたが、唯今では地所や家作などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三と申して、直隣町に居りまするが、極手堅く小体に遣つてをるのでございます」 「はあ、知れたもんだね」  我は顔に頤を掻撫づれば、例の金剛石は燦然と光れり。 「それでも可いさ。然し嫁れやうか、嗣子ぢやないかい」 「さやう、一人娘のやうに思ひましたが」 「それぢや窮るぢやないか」 「私は悉い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで」  程無く内儀は環を捜得て帰来にけるが、誰が悪戯とも知らで耳掻の如く引展されたり。主は彼に向ひて宮の家内の様子を訊ねけるに、知れる一遍は語りけれど、娘は猶能く知るらんを、後に招きて聴くべしとて、夫婦は頻に觴を侑めけり。  富山唯継の今宵ここに来りしは、年賀にあらず、骨牌遊にあらず、娘の多く聚れるを機として、嫁選せんとてなり。彼は一昨年の冬英吉利より帰朝するや否や、八方に手分して嫁を求めけれども、器量望の太甚しければ、二十余件の縁談皆意に称はで、今日が日までもなほその事に齷齪して已まざるなり。当時取急ぎて普請せし芝の新宅は、未だ人の住着かざるに、はや日に黒み、或所は雨に朽ちて、薄暗き一間に留守居の老夫婦の額を鳩めては、寂しげに彼等の昔を語るのみ。 第二章  骨牌の会は十二時に迨びて終りぬ。十時頃より一人起ち、二人起ちて、見る間に人数の三分の一強を失ひけれども、猶飽かで残れるものは景気好く勝負を続けたり。富山の姿を隠したりと知らざる者は、彼敗走して帰りしならんと想へり。宮は会の終まで居たり。彼若疾く還りたらんには、恐く踏留るは三分の一弱に過ぎざりけんを、と我物顔に富山は主と語合へり。  彼に心を寄せし輩は皆彼が夜深の帰途の程を気遣ひて、我願くは何処までも送らんと、絶か念ひに念ひけれど、彼等の深切は無用にも、宮の帰る時一人の男附添ひたり。その人は高等中学の制服を着たる二十四五の学生なり。金剛石に亜いでは彼の挙動の目指れしは、座中に宮と懇意に見えたるは彼一人なりければなり。この一事の外は人目を牽くべき点も無く、彼は多く語らず、又は躁がず、始終慎くしてゐたり。終までこの両個の同伴なりとは露顕せざりき。さあらんには余所々々しさに過ぎたればなり。彼等の打連れて門を出づるを見て、始めて失望せしもの寡からず。  宮は鳩羽鼠の頭巾を被りて、濃浅黄地に白く中形模様ある毛織のシォールを絡ひ、学生は焦茶の外套を着たるが、身を窄めて吹来る凩を遣過しつつ、遅れし宮の辿着くを待ちて言出せり。 「宮さん、あの金剛石の指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭に気取つた奴ぢやないか」 「さうねえ、だけれど衆があの人を目の敵にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷い目に遭されてよ」 「うむ、彼奴が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹を二つばかり突いて遣つた」 「まあ、酷いのね」 「ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか」 「私は可厭だわ」 「芬々と香水の匂がして、金剛石の金の指環を穿めて、殿様然たる服装をして、好いに違無いさ」  学生は嘲むが如く笑へり。 「私は可厭よ」 「可厭なものが組になるものか」 「組は鬮だから為方が無いわ」 「鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの」 「そんな無理な事を言つて!」 「三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ」 「知らない!」  宮はシォールを揺上げて鼻の半まで掩隠しつ。 「ああ寒い!」  男は肩を峙てて直と彼に寄添へり。宮は猶黙して歩めり。 「ああ寒い‼」  宮はなほ答へず。 「ああ寒い!!!」  彼はこの時始めて男の方を見向きて、 「どうしたの」 「ああ寒い」 「あら可厭ね、どうしたの」 「寒くて耐らんからその中へ一処に入れ給へ」 「どの中へ」 「シォールの中へ」 「可笑い、可厭だわ」  男は逸早く彼の押へしシォールの片端を奪ひて、その中に身を容れたり。宮は歩み得ぬまでに笑ひて、 「あら貫一さん。これぢや切なくて歩けやしない。ああ、前面から人が来てよ」  かかる戯を作して憚らず、女も為すままに信せて咎めざる彼等の関繋は抑も如何。事情ありて十年来鴫沢に寄寓せるこの間貫一は、此年の夏大学に入るを待ちて、宮が妻せらるべき人なり。 第三章  間貫一の十年来鴫沢の家に寄寓せるは、怙る所無くて養はるるなり。母は彼の幼かりし頃世を去りて、父は彼の尋常中学を卒業するを見るに及ばずして病死せしより、彼は哀嘆の中に父を葬るとともに、己が前途の望をさへ葬らざる可からざる不幸に遭へり。父在りし日さへ月謝の支出の血を絞るばかりに苦き痩世帯なりけるを、当時彼なほ十五歳ながら間の戸主は学ぶに先ちて食ふべき急に迫られぬ。幼き戸主の学ぶに先ちては食ふべきの急、食ふべきに先ちては葬すべき急、猶これに先ちては看護医薬の急ありしにあらずや。自活すべくもあらぬ幼き者の如何にしてこれ等の急を救得しか。固より貫一が力の能ふべきにあらず、鴫沢隆三の身一個に引承けて万端の世話せしに因るなり。孤児の父は隆三の恩人にて、彼は聊かその旧徳に報ゆるが為に、啻にその病めりし時に扶助せしのみならず、常に心着けては貫一の月謝をさへ間支弁したり。かくて貧き父を亡ひし孤児は富める後見を得て鴫沢の家に引取られぬ。隆三は恩人に報ゆるにその短き生時を以て慊らず思ひければ、とかくはその忘形見を天晴人と成して、彼の一日も忘れざりし志を継がんとせるなり。  亡き人常に言ひけるは、苟くも侍の家に生れながら、何の面目ありて我子貫一をも人に侮らすべきや。彼は学士となして、願くは再び四民の上に立たしめん。貫一は不断にこの言を以て警められ、隆三は会ふ毎にまたこの言を以て喞たれしなり。彼は言ふ遑だに無くて暴に歿りけれども、その前常に口にせしところは明かに彼の遺言なるべきのみ。  されば貫一が鴫沢の家内に於ける境遇は、決して厄介者として陰に疎まるる如き憂目に遭ふにはあらざりき。憖ひ継子などに生れたらんよりは、かくて在りなんこそ幾許か幸は多からんよ、と知る人は噂し合へり。隆三夫婦は実に彼を恩人の忘形見として疎ならず取扱ひけるなり。さばかり彼の愛せらるるを見て、彼等は貫一をば娘の婿にせむとすならんと想へる者もありしかど、当時彼等は構へてさる心ありしにはあらざりけるも、彼の篤学なるを見るに及びて、漸くその心は出で来て、彼の高等中学校に入りし時、彼等の了簡は始めて定りぬ。  貫一は篤学のみならず、性質も直に、行も正かりければ、この人物を以つて学士の冠を戴かんには、誠に獲易からざる婿なるべし、と夫婦は私に喜びたり。この身代を譲られたりとて、他姓を冒して得謂はれぬ屈辱を忍ばんは、彼の屑しと為ざるところなれども、美き宮を妻に為るを得ば、この身代も屈辱も何か有らんと、彼はなかなか夫婦に増したる懽を懐きて、益学問を励みたり。宮も貫一をば憎からず思へり。されど恐くは貫一の思へる半には過ぎざらん。彼は自らその色好を知ればなり。世間の女の誰か自らその色好を知らざるべき、憂ふるところは自ら知るに過るに在り。謂ふ可くんば、宮は己が美しさの幾何値するかを当然に知れるなり。彼の美しさを以てして纔に箇程の資産を嗣ぎ、類多き学士風情を夫に有たんは、決して彼が所望の絶頂にはあらざりき。彼は貴人の奥方の微賤より出でし例寡からざるを見たり。又は富人の醜き妻を厭ひて、美き妾に親むを見たり。才だにあらば男立身は思のままなる如く、女は色をもて富貴を得べしと信じたり。なほ彼は色を以て富貴を得たる人たちの若干を見たりしに、その容の己に如かざるものの多きを見出せり。剰へ彼は行く所にその美しさを唱はれざるはあらざりき。なほ一件最も彼の意を強うせし事あり。そは彼が十七の歳に起りし事なり。当時彼は明治音楽院に通ひたりしに、ヴァイオリンのプロフェッサアなる独逸人は彼の愛らしき袂に艶書を投入れぬ。これ素より仇なる恋にはあらで、女夫の契を望みしなり。殆ど同時に、院長の某は年四十を踰えたるに、先年その妻を喪ひしをもて再び彼を娶らんとて、密に一室に招きて切なる心を打明かせし事あり。  この時彼の小き胸は破れんとするばかり轟けり。半は曾て覚えざる可羞の為に、半は遽に大なる希望の宿りたるが為に。彼はここに始めて己の美しさの寡くとも奏任以上の地位ある名流をその夫に値ひすべきを信じたるなり。彼を美く見たるは彼の教師と院長とのみならで、牆を隣れる男子部の諸生の常に彼を見んとて打騒ぐをも、宮は知らざりしにあらず。  若かのプロフェッサアに添はんか、或は四十の院長に従はんか、彼の栄誉ある地位は、学士を婿にして鴫沢の後を嗣ぐの比にはあらざらんをと、一旦抱ける希望は年と共に太りて、彼は始終昼ながら夢みつつ、今にも貴き人又は富める人又は名ある人の己を見出して、玉の輿を舁せて迎に来るべき天縁の、必ず廻到らんことを信じて疑はざりき。彼のさまでに深く貫一を思はざりしは全くこれが為のみ。されども決して彼を嫌へるにはあらず、彼と添はばさすがに楽からんとは念へるなり。如此く決定にそれとは無けれど又有りとし見ゆる箒木の好運を望みつつも、彼は怠らず貫一を愛してゐたり。貫一は彼の己を愛する外にはその胸の中に何もあらじとのみ思へるなりけり。 第四章  漆の如き闇の中に貫一の書斎の枕時計は十時を打ちぬ。彼は午後四時より向島の八百松に新年会ありとて未だ還らざるなり。  宮は奥より手ラムプを持ちて入来にけるが、机の上なる書燈を点し了れる時、婢は台十能に火を盛りたるを持来れり。宮はこれを火鉢に移して、 「さうして奥のお鉄瓶も持つて来ておくれ。ああ、もう彼方は御寝になるのだから」  久く人気の絶えたりし一間の寒は、今俄に人の温き肉を得たるを喜びて、直ちに咬まんとするが如く膚に薄れり。宮は慌忙く火鉢に取付きつつ、目を挙げて書棚に飾れる時計を見たり。  夜の闇く静なるに、燈の光の独り美き顔を照したる、限無く艶なり。松の内とて彼は常より着飾れるに、化粧をさへしたれば、露を帯びたる花の梢に月のうつろへるが如く、背後の壁に映れる黒き影さへ香滴るるやうなり。  金剛石と光を争ひし目は惜気も無く瞪りて時計の秒を刻むを打目戍れり。火に翳せる彼の手を見よ、玉の如くなり。さらば友禅模様ある紫縮緬の半襟に韜まれたる彼の胸を想へ。その胸の中に彼は今如何なる事を思へるかを想へ。彼は憎からぬ人の帰来を待佗ぶるなりけり。  一時又寒の太甚きを覚えて、彼は時計より目を放つとともに起ちて、火鉢の対面なる貫一が裀の上に座を移せり。こは彼の手に縫ひしを貫一の常に敷くなり、貫一の敷くをば今夜彼の敷くなり。  若やと聞着けし車の音は漸く近きて、益轟きて、竟に我門に停りぬ。宮は疑無しと思ひて起たんとする時、客はいと酔ひたる声して物言へり。貫一は生下戸なれば嘗て酔ひて帰りし事あらざれば、宮は力無く又坐りつ。時計を見れば早や十一時に垂んとす。  門の戸引啓けて、酔ひたる足音の土間に踏入りたるに、宮は何事とも分かず唯慌ててラムプを持ちて出でぬ。台所より婢も、出合へり。  足の踏所も覚束無げに酔ひて、帽は落ちなんばかりに打傾き、ハンカチイフに裹みたる折を左に挈げて、山車人形のやうに揺々と立てるは貫一なり。面は今にも破れぬべく紅に熱して、舌の乾くに堪へかねて連に空唾を吐きつつ、 「遅かつたかね。さあ御土産です。還つてこれを細君に遣る。何ぞ仁なるや」 「まあ、大変酔つて! どうしたの」 「酔つて了つた」 「あら、貫一さん、こんな所に寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ」 「かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた」  仰様に倒れたる貫一の脚を掻抱きて、宮は辛くもその靴を取去りぬ。 「起きる、ああ、今起きる。さあ、起きた。起きたけれど、手を牽いてくれなければ僕には歩けませんよ」  宮は婢に燈を把らせ、自らは貫一の手を牽かんとせしに、彼は踉きつつ肩に縋りて遂に放さざりければ、宮はその身一つさへ危きに、やうやう扶けて書斎に入りぬ。  裀の上に舁下されし貫一は頽るる体を机に支へて、打仰ぎつつ微吟せり。 「君に勧む、金縷の衣を惜むなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪へなば直に折る須し。花無きを待つて空く枝を折ることなかれ」 「貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?」 「酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮さん、非常に酔つてゐるでせう」 「酔つてゐるわ。苦いでせう」 「然矣、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就いては大いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!」 「可厭よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌ひの癖に何故そんなに飲んだの。誰に飲されたの。端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷いわね、こんなに酔して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ」 「本当に待つてゐてくれたのかい、宮さん。謝、多謝! 若それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ」  彼は宮の手を取りて、情に堪へざる如く握緊めつ。 「二人の事は荒尾より外に知る者は無いのだ。荒尾が又決して喋る男ぢやない。それがどうして知れたのか、衆が知つてゐて……僕は実に驚いた。四方八方から祝盃だ祝盃だと、十も二十も一度に猪口を差されたのだ。祝盃などを受ける覚は無いと言つて、手を引籠めてゐたけれど、なかなか衆聴かないぢやないか」  宮は窃に笑を帯びて余念なく聴きゐたり。 「それぢや祝盃の主意を変へて、仮初にもああ云ふ美人と一所に居て寝食を倶にすると云ふのが既に可羨い。そこを祝すのだ。次には、君も男児なら、更に一歩を進めて、妻君に為るやうに十分運動したまへ。十年も一所に居てから、今更人に奪られるやうな事があつたら、独り間貫一一個人の恥辱ばかりではない、我々朋友全体の面目にも関する事だ。我々朋友ばかりではない、延いて高等中学の名折にもなるのだから、是非あの美人を君が妻君にするやうに、これは我々が心を一にして結の神に祷つた酒だから、辞退するのは礼ではない。受けなかつたら却つて神罰が有ると、弄謔とは知れてゐるけれど、言草が面白かつたから、片端から引受けて呷々遣付けた。  宮さんと夫婦に成れなかつたら、はははははは高等中学の名折になるのだと。恐入つたものだ。何分宜く願ひます」 「可厭よ、もう貫一さんは」 「友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥よ僕の男が立たない義だ」 「もう極つてゐるものを、今更……」 「さうでないです。この頃翁さんや姨さんの様子を見るのに、どうも僕は……」 「そんな事は決して無いわ、邪推だわ」 「実は翁さんや姨さんの了簡はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ」 「私の心は極つてゐるわ」 「さうかしらん?」 「さうかしらんて、それぢや余りだわ」  貫一は酔を支へかねて宮が膝を枕に倒れぬ。宮は彼が火の如き頬に、額に、手を加へて、 「水を上げませう。あれ、又寐ちや……貫一さん、貫一さん」  寔に愛の潔き哉、この時は宮が胸の中にも例の汚れたる希望は跡を絶ちて彼の美き目は他に見るべきもののあらざらんやうに、その力を貫一の寐顔に鍾めて、富も貴きも、乃至有ゆる利慾の念は、その膝に覚ゆる一団の微温の為に溶されて、彼は唯妙に香き甘露の夢に酔ひて前後をも知らざるなりけり。  諸の可忌き妄想はこの夜の如く眼を閉ぢて、この一間に彼等の二人よりは在らざる如く、彼は世間に別人の影を見ずして、又この明なる燈火の光の如きものありて、特に彼等をのみ照すやうに感ずるなり。 第五章  或日箕輪の内儀は思も懸けず訪来りぬ。その娘のお俊と宮とは学校朋輩にて常に往来したりけれども、未だ家と家との交際はあらざるなり。彼等の通学せし頃さへ親々は互に識らで過ぎたりしに、今は二人の往来も漸く踈くなりけるに及びて、俄にその母の来れるは、如何なる故にか、と宮も両親も怪き事に念へり。  凡そ三時間の後彼は帰行きぬ。  先に怪みし家内は彼の来りしよりもその用事の更に思懸けざるに驚けり。貫一は不在なりしかばこの珍き客来のありしを知らず、宮もまた敢て告げずして、二日と過ぎ、三日と過ぎぬ。その日より宮は少く食して、多く眠らずなりぬ。貫一は知らず、宮はいよいよ告げんとは為ざりき。この間に両親は幾度と無く談合しては、その事を決しかねてゐたり。  彼の陰に在りて起れる事、又は見るべからざる人の心に浮べる事どもは、貫一の知る因もあらねど、片時もその目の忘れざる宮の様子の常に変れるを見出さんは難き事にあらず。さも無かりし人の顔の色の遽に光を失ひたるやうにて、振舞など別けて力無く、笑ふさへいと打湿りたるを。  宮が居間と謂ふまでにはあらねど、彼の箪笥手道具等置きたる小座敷あり。ここには火燵の炉を切りて、用無き人の来ては迭に冬籠する所にも用ゐらる。彼は常にここに居て針仕事するなり。倦めば琴をも弾くなり。彼が手玩と見ゆる狗子柳のはや根を弛み、真の打傾きたるが、鮟鱇切の水に埃を浮べて小机の傍に在り。庭に向へる肱懸窓の明きに敷紙を披げて、宮は膝の上に紅絹の引解を載せたれど、針は持たで、懶げに火燵に靠れたり。  彼は少く食して多く眠らずなりてよりは、好みてこの一間に入りて、深く物思ふなりけり。両親は仔細を知れるにや、この様子をば怪まんともせで、唯彼の為すままに委せたり。  この日貫一は授業始の式のみにて早く帰来にけるが、下座敷には誰も見えで、火燵の間に宮の咳く声して、後は静に、我が帰りしを知らざるよと思ひければ、忍足に窺寄りぬ。襖の僅に啓きたる隙より差覗けば、宮は火燵に倚りて硝子障子を眺めては俯目になり、又胸痛きやうに仰ぎては太息吐きて、忽ち物の音を聞澄すが如く、美き目を瞠るは、何をか思凝すなるべし。人の窺ふと知らねば、彼は口もて訴ふるばかりに心の苦悶をその状に顕して憚らざるなり。  貫一は異みつつも息を潜めて、猶彼の為んやうを見んとしたり。宮は少時ありて火燵に入りけるが、遂に櫓に打俯しぬ。  柱に身を倚せて、斜に内を窺ひつつ貫一は眉を顰めて思惑へり。  彼は如何なる事ありてさばかり案じ煩ふならん。さばかり案じ煩ふべき事を如何なれば我に明さざるならん。その故のあるべく覚えざるとともに、案じ煩ふ事のあるべきをも彼は信じ得ざるなりけり。  かく又案じ煩へる彼の面も自ら俯きぬ。問はずして知るべきにあらずと思定めて、再び内を差覗きけるに、宮は猶打俯してゐたり。何時か落ちけむ、蒔絵の櫛の零れたるも知らで。  人の気勢に驚きて宮の振仰ぐ時、貫一は既にその傍に在り。彼は慌てて思頽るる気色を蔽はんとしたるが如し。 「ああ、吃驚した。何時御帰んなすつて」 「今帰つたの」 「さう。些も知らなかつた」  宮はおのれの顔の頻に眺めらるるを眩ゆがりて、 「何をそんなに視るの、可厭、私は」  されども彼は猶目を放たず、宮はわざと打背きて、裁片畳の内を撈せり。 「宮さん、お前さんどうしたの。ええ、何処か不快のかい」 「何ともないのよ。何故?」  かく言ひつつ益急に撈せり。貫一は帽を冠りたるまま火燵に片肱掛けて、斜に彼の顔を見遣りつつ、 「だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直に疑深いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか」 「だつて何ともありもしないものを……」 「何ともないものが、惘然考へたり、太息を吐いたりして鬱いでゐるものか。僕は先之から唐紙の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞したつて可いぢやないか」  宮は言ふところを知らず、纔に膝の上なる紅絹を手弄るのみ。 「病気なのかい」  彼は僅に頭を掉りぬ。 「それぢや心配でもあるのかい」  彼はなほ頭を掉れば、 「ぢやどうしたと云ふのさ」  宮は唯胸の中を車輪などの廻るやうに覚ゆるのみにて、誠にも詐にも言を出すべき術を知らざりき。彼は犯せる罪の終に秘む能はざるを悟れる如き恐怖の為に心慄けるなり。如何に答へんとさへ惑へるに、傍には貫一の益詰らんと待つよと思へば、身は搾らるるやうに迫来る息の隙を、得も謂はれず冷かなる汗の流れ流れぬ。 「それぢやどうしたのだと言ふのに」  貫一の声音は漸く苛立ちぬ。彼の得言はぬを怪しと思へばなり。宮は驚きて不覚に言出せり。 「どうしたのだか私にも解らないけれど、……私はこの二三日どうしたのだか……変に色々な事を考へて、何だか世の中がつまらなくなつて、唯悲くなつて来るのよ」  呆れたる貫一は瞬もせで耳を傾けぬ。 「人間と云ふものは今日かうして生きてゐても、何時死んで了ふか解らないのね。かうしてゐれば、可楽な事もある代に辛い事や、悲い事や、苦い事なんぞが有つて、二つ好い事は無し、考れば考るほど私は世の中が心細いわ。不図さう思出したら、毎日そんな事ばかり考へて、可厭な心地になつて、自分でもどうか為たのかしらんと思ふけれど、私病気のやうに見えて?」  目を閉ぢて聴ゐし貫一は徐に眶を開くとともに眉を顰めて、 「それは病気だ!」  宮は打萎れて頭を垂れぬ。 「然し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい」 「ええ、心配しはしません」  異く沈みたるその声の寂しさを、如何に貫一は聴きたりしぞ。 「それは病気の所為だ、脳でも不良のだよ。そんな事を考へた日には、一日だつて笑つて暮せる日は有りはしない。固より世の中と云ふものはさう面白い義のものぢやないので、又人の身の上ほど解らないものは無い。それはそれに違無いのだけれど、衆が皆そんな了簡を起して御覧な、世界中御寺ばかりになつて了ふ。儚いのが世の中と覚悟した上で、その儚い、つまらない中で切ては楽を求めやうとして、究竟我々が働いてゐるのだ。考へて鬱いだところで、つまらない世の中に儚い人間と生れて来た以上は、どうも今更為方が無いぢやないか。だから、つまらない世の中を幾分か面白く暮さうと考へるより外は無いのさ。面白く暮すには、何か楽が無ければならない。一事かうと云ふ楽があつたら決して世の中はつまらんものではないよ。宮さんはそれでは楽と云ふものが無いのだね。この楽があればこそ生きてゐると思ふ程の楽は無いのだね」  宮は美き目を挙げて、求むるところあるが如く偸に男の顔を見たり。 「きつと無いのだね」  彼は笑を含みぬ。されども苦しげに見えたり。 「無い?」  宮の肩頭を捉りて貫一は此方に引向けんとすれば、為すままに彼は緩く身を廻したれど、顔のみは可羞く背けてゐたり。 「さあ、無いのか、有るのかよ」  肩に懸けたる手をば放さで連に揺るるを、宮は銕の槌もて撃懲さるるやうに覚えて、安き心もあらず。冷なる汗は又一時流出でぬ。 「これは怪しからん!」  宮は危みつつ彼の顔色を候ひぬ。常の如く戯るるなるべし。その面は和ぎて一点の怒気だにあらず、寧ろ唇頭には笑を包めるなり。 「僕などは一件大きな大きな楽があるので、世の中が愉快で愉快で耐らんの。一日が経つて行くのが惜くて惜くてね。僕は世の中がつまらない為にその楽を拵へたのではなくて、その楽の為にこの世の中に活きてゐるのだ。若しこの世の中からその楽を取去つたら、世の中は無い! 貫一といふ者も無い! 僕はその楽と生死を倶にするのだ。宮さん、可羨いだらう」  宮は忽ち全身の血の氷れるばかりの寒さに堪へかねて打顫ひしが、この心の中を覚られじと思へば、弱る力を励して、 「可羨いわ」 「可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう」 「何卒」 「ええ悉皆遣つて了へ!」  彼は外套の衣兜より一袋のボンボンを取出して火燵の上に置けば、余力に袋の口は弛みて、紅白の玉は珊々と乱出でぬ。こは宮の最も好める菓子なり。 第六章  その翌々日なりき、宮は貫一に勧められて行きて医の診察を受けしに、胃病なりとて一瓶の水薬を与へられぬ。貫一は信に胃病なるべしと思へり。患者は必ずさる事あらじと思ひつつもその薬を服したり。懊悩として憂に堪へざらんやうなる彼の容体に幾許の変も見えざりけれど、その心に水と火の如きものありて相剋する苦痛は、益募りて止ざるなり。  貫一は彼の憎からぬ人ならずや。怪むべし、彼はこの日頃さしも憎からぬ人を見ることを懼れぬ。見ねばさすがに見まほしく思ひながら、面を合すれば冷汗も出づべき恐怖を生ずるなり。彼の情有る言を聞けば、身をも斫らるるやうに覚ゆるなり。宮は彼の優き心根を見ることを恐れたり。宮が心地勝れずなりてより、彼に対する貫一の優しさはその平生に一層を加へたれば、彼は死を覓むれども得ず、生を求むれども得ざらんやうに、悩乱してほとほとその堪ふべからざる限に至りぬ。  遂に彼はこの苦を両親に訴へしにやあらん、一日母と娘とは遽に身支度して、忙々く車に乗りて出でぬ。彼等は小からぬ一個の旅鞄を携へたり。  大風の凪ぎたる迹に孤屋の立てるが如く、侘しげに留守せる主の隆三は独り碁盤に向ひて碁経を披きゐたり。齢はなほ六十に遠けれど、頭は夥き白髪にて、長く生ひたる髯なども六分は白く、容は痩せたれど未だ老の衰も見えず、眉目温厚にして頗る古井波無きの風あり。  やがて帰来にける貫一は二人の在らざるを怪みて主に訊ねぬ。彼は徐に長き髯を撫でて片笑みつつ、 「二人はの、今朝新聞を見ると急に思着いて、熱海へ出掛けたよ。何でも昨日医者が湯治が良いと言うて切に勧めたらしいのだ。いや、もう急の思着で、脚下から鳥の起つやうな騒をして、十二時三十分の滊車で。ああ、独で寂いところ、まあ茶でも淹れやう」  貫一は有る可からざる事のやうに疑へり。 「はあ、それは。何だか夢のやうですな」 「はあ、私もそんな塩梅で」 「然し、湯治は良いでございませう。幾日ほど逗留のお心算で?」 「まあどんなだか四五日と云ふので、些の着のままで出掛けたのだが、なあに直に飽きて了うて、四五日も居られるものか、出養生より内養生の方が楽だ。何か旨い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう」  貫一は着更へんとて書斎に還りぬ。宮の遺したる筆の蹟などあらんかと思ひて、求めけれども見えず。彼の居間をも尋ねけれど在らず。急ぎ出でしなればさもあるべし、明日は必ず便あらんと思飜せしが、さすがに心楽まざりき。彼の六時間学校に在りて帰来れるは、心の痩するばかり美き俤に饑ゑて帰来れるなり。彼は空く饑ゑたる心を抱きて慰むべくもあらぬ机に向へり。 「実に水臭いな。幾許急いで出掛けたつて、何とか一言ぐらゐ言遺いて行きさうなものぢやないか。一寸其処へ行つたのぢやなし、四五日でも旅だ。第一言遺く、言遺かないよりは、湯治に行くなら行くと、始に話が有りさうなものだ。急に思着いた? 急に思着いたつて、急に行かなければならん所ぢやあるまい。俺の帰るのを待つて、話をして、明日行くと云ふのが順序だらう。四五日ぐらゐの離別には顔を見ずに行つても、あの人は平気なのかしらん。  女と云ふ者は一体男よりは情が濃であるべきなのだ。それが濃でないと為れば、愛してをらんと考へるより外は無い。豈にあの人が愛してをらんとは考へられん。又万々そんな事は無い。けれども十分に愛してをると云ふほど濃ではないな。  元来あの人の性質は冷淡さ。それだから所謂『娘らしい』ところが余り無い。自分の思ふやうに情が濃でないのもその所為か知らんて。子供の時分から成程さう云ふ傾向は有つてゐたけれど、今のやうに太甚くはなかつたやうに考へるがな。子供の時分にさうであつたなら、今ぢや猶更でなければならんのだ。それを考へると疑ふよ、疑はざるを得ない!  それに引替へて自分だ、自分の愛してゐる度は実に非常なもの、殆ど……殆どではない、全くだ、全く溺れてゐるのだ。自分でもどうしてこんなだらうと思ふほど溺れてゐる!  これ程自分の思つてゐるのに対しても、も少し情が篤くなければならんのだ。或時などは実に水臭い事がある。今日の事なども随分酷い話だ。これが互に愛してゐる間の仕草だらうか。深く愛してゐるだけにかう云ふ事を為れると実に憎い。  小説的かも知れんけれど、八犬伝の浜路だ、信乃が明朝は立つて了ふと云ふので、親の目を忍んで夜更に逢ひに来る、あの情合でなければならない。いや、妙だ! 自分の身の上も信乃に似てゐる。幼少から親に別れてこの鴫沢の世話になつてゐて、其処の娘と許嫁……似てゐる、似てゐる。  然し内の浜路は困る、信乃にばかり気を揉して、余り憎いな、そでない為方だ。これから手紙を書いて思ふさま言つて遣らうか。憎いは憎いけれど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀さうだ。  自分は又神経質に過るから、思過を為るところも大きにあるのだ。それにあの人からも不断言はれる、けれども自分が思過であるか、あの人が情が薄いのかは一件の疑問だ。  時々さう思ふ事がある、あの人の水臭い仕打の有るのは、多少か自分を侮つてゐるのではあるまいか。自分は此家の厄介者、あの人は家附の娘だ。そこで自ら主と家来と云ふやうな考が始終有つて、……否、それもあの人に能く言れる事だ、それくらゐなら始から許しはしない、好いと思へばこそかう云ふ訳に、……さうだ、さうだ、それを言出すと太く慍られるのだ、一番それを慍るよ。勿論そんな様子の些少でも見えた事は無い。自分の僻見に過ぎんのだけれども、気が済まないから愚痴も出るのだ。然し、若もあの人の心にそんな根性が爪の垢ほどでも有つたらば、自分は潔くこの縁は切つて了ふ。立派に切つて見せる! 自分は愛情の俘とはなつても、未だ奴隷になる気は無い。或はこの縁を切つたなら自分はあの人を忘れかねて焦死に死ぬかも知れん。死なんまでも発狂するかも知れん。かまはん! どうならうと切れて了ふ。切れずに措くものか。  それは自分の僻見で、あの人に限つてはそんな心は微塵も無いのだ。その点は自分も能く知つてゐる。けれども情が濃でないのは事実だ、冷淡なのは事実だ。だから、冷淡であるから情が濃でないのか。自分に対する愛情がその冷淡を打壊すほどに熱しないのか。或は熱し能はざるのが冷淡の人の愛情であるのか。これが、研究すべき問題だ」  彼は意に満たぬ事ある毎に、必ずこの問題を研究せざるなけれども、未だ曾て解釈し得ざるなりけり。今日はや如何に解釈せんとすらん。 (六)の二  翌日果して熱海より便はありけれど、僅に一枚の端書をもて途中の無事と宿とを通知せるに過ぎざりき。宛名は隆三と貫一とを並べて、宮の手蹟なり。貫一は読了ると斉しく片々に引裂きて捨ててけり。宮の在らば如何にとも言解くなるべし。彼の親く言解かば、如何に打腹立ちたりとも貫一の心の釈けざることはあらじ。宮の前には常に彼は慍をも、恨をも、憂をも忘るるなり。今は可懐き顔を見る能はざる失望に加ふるに、この不平に遭ひて、しかも言解く者のあらざれば、彼の慍は野火の飽くこと知らで燎くやうなり。  この夕隆三は彼に食後の茶を薦めぬ。一人佗しければ留めて物語はんとてなるべし。されども貫一の屈托顔して絶えず思の非ぬ方に馳する気色なるを、 「お前どうぞ為なすつたか。うむ、元気が無いの」 「はあ、少し胸が痛みますので」 「それは好くない。劇く痛みでもするかな」 「いえ、なに、もう宜いのでございます」 「それぢや茶は可くまい」 「頂戴します」  かかる浅ましき慍を人に移さんは、甚だ謂無き事なり、と自ら制して、書斎に帰りて憖ひ心を傷めんより、人に対して姑く憂を忘るるに如かじと思ひければ、彼は努めて寛がんとしたれども、動もすれば心は空になりて、主の語を聞逸さむとす。  今日文の来て細々と優き事など書聯ねたらば、如何に我は嬉からん。なかなか同じ処に居て飽かず顔を見るに易へて、その楽は深かるべきを。さては出行きし恨も忘られて、二夜三夜は遠かりて、せめてその文を形見に思続けんもをかしかるべきを。  彼はその身の卒に出行きしを、如何に本意無く我の思ふらんかは能く知るべきに。それを知らば一筆書きて、など我を慰めんとは為ざる。その一筆を如何に我の嬉く思ふらんかをも能く知るべきに。我を可憐しと思へる人の何故にさは為ざるにやあらん。かくまでに情篤からぬ恋の世に在るべきか。疑ふべし、疑ふべし、と貫一の胸は又乱れぬ。主の声に驚かされて、彼は忽ちその事を忘るべき吾に復れり。 「ちと話したい事があるのだが、や、誠に妙な話で、なう」  笑ふにもあらず、顰むにもあらず、稍自ら嘲むに似たる隆三の顔は、燈火に照されて、常には見ざる異き相を顕せるやうに、貫一は覚ゆるなりき。 「はあ、どういふ御話ですか」  彼は長き髯を忙く揉みては、又頤の辺より徐に撫下して、先打出さん語を案じたり。 「お前の一身上の事に就いてだがの」  纔にかく言ひしのみにて、彼は又遅ひぬ、その髯は虻に苦しむ馬の尾のやうに揮はれつつ、 「いよいよお前も今年の卒業だつたの」  貫一は遽に敬はるる心地して自と膝を正せり。 「で、私もまあ一安心したと云ふもので、幾分かこれでお前の御父様に対して恩返も出来たやうな訳、就いてはお前も益勉強してくれんでは困るなう。未だこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、私も鼻は高くないのだ。どうか洋行の一つも為せて、指折の人物に為たいと考へてゐるくらゐ、未だ未だこれから両肌を脱いで世話をしなければならんお前の体だ、なう」  これを聞ける貫一は鉄繩をもて縛められたるやうに、身の重きに堪へず、心の転た苦きを感じたり。その恩の余りに大いなるが為に、彼はその中に在りてその中に在ることを忘れんと為る平生を省みたるなり。 「はい。非常な御恩に預りまして、考へて見ますると、口では御礼の申しやうもございません。愚父がどれ程の事を致したか知りませんが、なかなかこんな御恩返を受けるほどの事が出来るものでは有りません。愚父の事は措きまして、私は私で、この御恩はどうか立派に御返し申したいと念つてをります。愚父の亡りましたあの時に、此方で引取つて戴かなかつたら、私は今頃何に成つてをりますか、それを思ひますと、世間に私ほど幸なものは恐く無いでございませう」  彼は十五の少年の驚くまでに大人びたる己を見て、その着たる衣を見て、その坐れる裀を見て、やがて美き宮と共にこの家の主となるべきその身を思ひて、漫に涙を催せり。実に七千円の粧奩を随へて、百万金も購ふ可からざる恋女房を得べき学士よ。彼は小買の米を風呂敷に提げて、その影の如く痩せたる犬とともに月夜を走りし少年なるをや。 「お前がさう思うてくれれば私も張合がある。就いては改めてお前に頼があるのだが、聴いてくれるか」 「どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します」  彼はかく潔く答ふるに憚らざりけれど、心の底には危むところ無きにしもあらざりき。人のかかる言を出す時は、多く能はざる事を強ふる例なればなり。 「外でも無いがの、宮の事だ、宮を嫁に遣らうかと思つて」  見るに堪へざる貫一の驚愕をば、せめて乱さんと彼は慌忙く語を次ぎぬ。 「これに就いては私も種々と考へたけれど、大きに思ふところもあるで、いつそあれは遣つて了うての、お前はも少しの事だから大学を卒業して、四五年も欧羅巴へ留学して、全然仕上げたところで身を固めるとしたらどうかな」  汝の命を与へよと逼らるる事あらば、その時の人の思は如何なるべき! 可恐きまでに色を失へる貫一は空く隆三の面を打目戍るのみ。彼は太く困じたる体にて、長き髯をば揉みに揉みたり。 「お前に約束をして置いて、今更変換を為るのは、何とも気の毒だが、これに就いては私も大きに考へたところがあるので、必ずお前の為にも悪いやうには計はんから、可いかい、宮は嫁に遣る事にしてくれ、なう」  待てども貫一の言を出さざれば、主は寡からず惑へり。 「なう、悪く取つてくれては困るよ、あれを嫁に遣るから、それで我家とお前との縁を切つて了ふと云ふのではない、可いかい。大した事は無いがこの家は全然お前に譲るのだ、お前は矢張私の家督よ、なう。で、洋行も為せやうと思ふのだ。必ず悪く取つては困るよ。  約束をした宮をの、余所へ遣ると云へば、何かお前に不足でもあるやうに聞えるけれど、決してさうした訳ではないのだから、其処はお前が能く承知してくれんければ困る、誤解されては困る。又お前にしても、学問を仕上げて、なう、天晴の人物に成るのが第一の希望であらう。その志を遂げさへ為れば、宮と一所になる、ならんはどれ程の事でもないのだ。なう、さうだらう、然しこれは理窟で、お前も不服かも知れん。不服と思ふから私も頼むのだ。お前に頼が有ると言うたのはこの事だ。  従来もお前を世話した、後来も益世話をせうからなう、其処に免じて、お前もこの頼は聴いてくれ」  貫一は戦く唇を咬緊めつつ、故ら緩舒に出せる声音は、怪くも常に変れり。 「それぢや翁様の御都合で、どうしても宮さんは私に下さる訳には参らんのですか」 「さあ、断つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな」 「…………」 「さうではあるまい」 「…………」  得言はぬ貫一が胸には、理に似たる彼の理不尽を憤りて、責むべき事、詰るべき事、罵るべき、言破るべき事、辱むべき事の数々は沸くが如く充満ちたれど、彼は神にも勝れる恩人なり。理非を問はずその言には逆ふべからずと思へば、血出づるまで舌を咬みても、敢て言はじと覚悟せるなり。  彼は又思へり。恩人は恩を枷に如此く逼れども、我はこの枷の為に屈せらるべきも、彼は如何なる斧を以てか宮の愛をば割かんとすらん。宮が情は我が思ふままに濃ならずとも、我を棄つるが如きさばかり薄き情にはあらざるを。彼だに我を棄てざらんには、枷も理不尽も恐るべきかは。頼むべきは宮が心なり。頼まるるも宮が心也と、彼は可憐き宮を思ひて、その父に対する慍を和げんと勉めたり。  我は常に宮が情の濃ならざるを疑へり。あだかも好しこの理不尽ぞ彼が愛の力を試むるに足るなる。善し善し、盤根錯節に遇はずんば。 「嫁に遣ると有仰るのは、何方へ御遣しになるのですか」 「それは未だ確とは極らんがの、下谷に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので」  それぞ箕輪の骨牌会に三百円の金剛石を炫かせし男にあらずやと、貫一は陰に嘲笑へり。されど又余りにその人の意外なるに駭きて、やがて又彼は自ら笑ひぬ。これ必ずしも意外ならず、苟くも吾が宮の如く美きを、目あり心あるものの誰かは恋ひざらん。独り怪しとも怪きは隆三の意なる哉。我十年の約は軽々く破るべきにあらず、猶謂無きは、一人娘を出して嫁せしめんとするなり。戯るるにはあらずや、心狂へるにはあらずや。貫一は寧ろかく疑ふをば、事の彼の真意に出でしを疑はんより邇かるべしと信じたりき。  彼は競争者の金剛石なるを聞きて、一度は汚され、辱められたらんやうにも怒を作せしかど、既に勝負は分明にして、我は手を束ねてこの弱敵の自ら僵るるを看んと思へば、心稍落ゐぬ。 「は、はあ、富山重平、聞いてをります、偉い財産家で」  この一言に隆三の面は熱くなりぬ。 「これに就いては私も大きに考へたのだ、何に為ろ、お前との約束もあるものなり、又一人娘の事でもあり、然し、お前の後来に就いても、宮の一身に就いてもの、又私たちは段々取る年であつて見れば、その老後だの、それ等の事を考へて見ると、この鴫沢の家には、お前も知つての通り、かうと云ふ親類も無いで、何かに就けて誠に心細いわ、なう。私たちは追々年を取るばかり、お前たちは若しと云ふもので、ここに可頼い親類が有れば、どれ程心丈夫だか知れんて、なう。そこで富山ならば親類に持つても可愧からん家格だ。気の毒な思をしてお前との約束を変易するのも、私たちが一人娘を他へ遣つて了ふのも、究竟は銘々の為に行末好かれと思ふより外は無いのだ。  それに、富山からは切つての懇望で、無理に一人娘を貰ふと云ふ事であれば、息子夫婦は鴫沢の子同様に、富山も鴫沢も一家のつもりで、決して鴫沢家を疎には為まい。娘が内に居なくなつて不都合があるならば、どの様にもその不都合の無いやうには計はうからと、なう、それは随分事を分けた話で。  決して慾ではないが、良い親類を持つと云ふものは、人で謂へば取も直さず良い友達で、お前にしてもさうだらう、良い友達が有れば、万事の話合手になる、何かの力になる、なう、謂はば親類は一家の友達だ。  お前がこれから世の中に出るにしても、大相な便宜になるといふもの。それやこれや考へて見ると、内に置かうよりは、遣つた方が、誰の為彼の為ではない。四方八方が好いのだから、私も決心して、いつそ遣らうと思ふのだ。  私の了簡はかう云ふのだから、必ず悪く取つてくれては困るよ、なう。私だとて年効も無く事を好んで、何為に若いものの不為になれと思ふものかな。お前も能く其処を考へて見てくれ。  私もかうして頼むからは、お前の方の頼も聴かう。今年卒業したら直に洋行でもしたいと思ふなら、又さう云ふ事に私も一番奮発しやうではないか。明日にも宮と一処になつて、私たちを安心さしてくれるよりは、お前も私もも少しのところを辛抱して、いつその事博士になつて喜ばしてくれんか」  彼はさも思ひのままに説完せたる面色して、寛に髯を撫でてゐたり。  貫一は彼の説進むに従ひて、漸くその心事の火を覩るより明なるを得たり。彼が千言万語の舌を弄して倦まざるは、畢竟利の一字を掩はんが為のみ。貧する者の盗むは世の習ながら、貧せざるもなほ盗まんとするか。我も穢れたるこの世に生れたれば、穢れたりとは自ら知らで、或は穢れたる念を起し、或は穢れたる行を為すことあらむ。されど自ら穢れたりと知りて自ら穢すべきや。妻を売りて博士を買ふ! これ豈穢れたるの最も大なる者ならずや。  世は穢れ、人は穢れたれども、我は常に我恩人の独り汚に染みざるを信じて疑はざりき。過ぐれば夢より淡き小恩をも忘れずして、貧き孤子を養へる志は、これを証して余あるを。人の浅ましきか、我の愚なるか、恩人は酷くも我を欺きぬ。今は世を挙げて皆穢れたるよ。悲めばとて既に穢れたる世をいかにせん。我はこの時この穢れたる世を喜ばんか。さしもこの穢れたる世に唯一つ穢れざるものあり。喜ぶべきものあるにあらずや。貫一は可憐き宮が事を思へるなり。  我の愛か、死をもて脅すとも得て屈すべからず。宮が愛か、某の帝の冠を飾れると聞く世界無双の大金剛石をもて購はんとすとも、争でか動し得べき。我と彼との愛こそ淤泥の中に輝く玉の如きものなれ、我はこの一つの穢れざるを抱きて、この世の渾て穢れたるを忘れん。  貫一はかく自ら慰めて、さすがに彼の巧言を憎し可恨しとは思ひつつも、枉げてさあらぬ体に聴きゐたるなりけり。 「それで、この話は宮さんも知つてゐるのですか」 「薄々は知つてゐる」 「では未だ宮さんの意見は御聞にならんので?」 「それは、何だ、一寸聞いたがの」 「宮さんはどう申してをりました」 「宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様や御母様の宜いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸く得心がいつたのだ」  断じて詐なるべしと思ひながらも、貫一の胸は跳りぬ。 「はあ、宮さんは承知を為ましたので?」 「さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう」 「はい」 「その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一」 「はい」 「それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉い事は何れ又寛緩話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々考へて置くが可いの」 「はい」 第七章  熱海は東京に比して温きこと十余度なれば、今日漸く一月の半を過ぎぬるに、梅林の花は二千本の梢に咲乱れて、日に映へる光は玲瓏として人の面を照し、路を埋むる幾斗の清香は凝りて掬ぶに堪へたり。梅の外には一木無く、処々の乱石の低く横はるのみにて、地は坦に氈を鋪きたるやうの芝生の園の中を、玉の砕けて迸り、練の裂けて飜る如き早瀬の流ありて横さまに貫けり。後に負へる松杉の緑は麗に霽れたる空を攅してその頂に方りて懶げに懸れる雲は眠るに似たり。習との風もあらぬに花は頻に散りぬ。散る時に軽く舞ふを鶯は争ひて歌へり。  宮は母親と連立ちて入来りぬ。彼等は橋を渡りて、船板の牀几を据ゑたる木の下を指して緩く歩めり。彼の病は未だ快からぬにや、薄仮粧したる顔色も散りたる葩のやうに衰へて、足の運も怠げに、動すれば頭の低るるを、思出しては努めて梢を眺むるなりけり。彼の常として物案すれば必ず唇を咬むなり。彼は今頻に唇を咬みたりしが、 「御母さん、どうしませうねえ」  いと好く咲きたる枝を飽かず見上げし母の目は、この時漸く娘に転りぬ。 「どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発にお前が適きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……」 「それはさうだけれど、どうも貫一さんの事が気になつて。御父さんはもう貫一さんに話を為すつたらうか、ねえ御母さん」 「ああ、もう為すつたらうとも」  宮は又唇を咬みぬ。 「私は、御母さん、貫一さんに顔が合されないわね。だから若し適くのなら、もう逢はずに直と行つて了ひたいのだから、さう云ふ都合にして下さいな。私はもう逢はずに行くわ」  声は低くなりて、美き目は湿へり。彼は忘れざるべし、その涙を拭へるハンカチイフは再び逢はざらんとする人の形見なるを。 「お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。さう何時までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然極めなくては可けないよ。お前が可厭なものを無理にお出といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……」 「可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……」  貫一が事は母の寝覚にも苦むところなれば、娘のその名を言ふ度に、犯せる罪をも歌はるる心地して、この良縁の喜ぶべきを思ひつつも、さすがに胸を開きて喜ぶを得ざるなり。彼は強ひて宮を慰めんと試みつ。兼ねては自ら慰むるなるべし。 「お父さんからお話があつて、貫一さんもそれで得心がいけば、済む事だし、又お前が彼方へ適つて、末々まで貫一さんの力になれば、お互の仕合と云ふものだから、其処を考へれば、貫一さんだつて……、それに男と云ふものは思切が好いから、お前が心配してゐるやうなものではないよ。これなり遇はずに行くなんて、それはお前却つて善くないから、矢張逢つて、丁と話をして、さうして清く別れるのさ。この後とも末長く兄弟で往来をしなければならないのだもの。  いづれ今日か明日には御音信があつて、様子が解らうから、さうしたら還つて、早く支度に掛らなければ」  宮は牀几に倚りて、半は聴き、半は思ひつつ、膝に散来る葩を拾ひては、おのれの唇に代へて連に咬砕きぬ。鶯の声の絶間を流の音は咽びて止まず。  宮は何心無く面を挙るとともに稍隔てたる木の間隠に男の漫行する姿を認めたり。彼は忽ち眼を着けて、木立は垣の如く、花は幕の如くに遮る隙を縫ひつつ、姑くその影を逐ひたりしが、遂に誰をや見出しけん。慌忙く母親に咡けり。彼は急に牀几を離れて五六歩進行きしが、彼方よりも見付けて、逸早く呼びぬ。 「其処に御出でしたか」  その声は静なる林を動して響きぬ。宮は聞くと斉く、恐れたる風情にて牀几の端に竦りつ。 「はい、唯今し方参つたばかりでございます。好くお出掛でございましたこと」  母はかく挨拶しつつ彼を迎へて立てり。宮は其方を見向きもやらで、彼の急足に近く音を聞けり。  母子の前に顕れたる若き紳士は、その誰なるやを説かずもあらなん。目覚く大なる金剛石の指環を輝かせるよ。柄には緑色の玉を獅子頭に彫みて、象牙の如く瑩潤に白き杖を携へたるが、その尾をもて低き梢の花を打落し打落し、 「今お留守へ行きまして、此処だといふのを聞いて追懸けて来た訳です。熱いぢやないですか」  宮はやうやう面を向けて、さて淑に起ちて、恭く礼するを、唯継は世にも嬉しげなる目して受けながら、なほ飽くまでも倨り高るを忘れざりき。その張りたる腮と、への字に結べる薄唇と、尤異き金縁の目鏡とは彼が尊大の風に尠からざる光彩を添ふるや疑無し。 「おや、さやうでございましたか、それはまあ。余り好い御天気でございますから、ぶらぶらと出掛けて見ました。真に今日はお熱いくらゐでございます。まあこれへお掛遊ばして」  母は牀几を払へば、宮は路を開きて傍に佇めり。 「貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに──と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙い体、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌の朝立たなければならんのであります」 「おや、それは急な事で」 「貴方がたも一所にお立ちなさらんか」  彼は宮の顔を偸視つ。宮は物言はん気色もなくて又母の答へぬ。 「はい、難有う存じます」 「それとも未だ御在ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩遊びに来るです」 「結構でございますね」 「お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?」  宮は笑を含みて言はざるを、母は傍より、 「これはもう遊ぶ事なら嫌はございませんので」 「はははははは誰もさうです。それでは以後盛にお遊びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌ですか、ははあ。船が平気だと、支那から亜米利加の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山に行いたところで知れたもの。どんなに贅沢を為たからと云つて」 「御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全で為方が無い! こんな若い野梅、薪のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走を為ますよ。お宮さんは何が所好ですか、ええ、一番所好なものは?」  彼は陰に宮と語らんことを望めるなり、宮はなほ言はずして可羞しげに打笑めり。 「で、何日御帰でありますか。明朝一所に御発足にはなりませんか。此地にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります」 「はい、難有うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内には音信がございます筈で、その音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい」 「ははあ、それぢやどうもな」  唯継は例の倨りて天を睨むやうに打仰ぎて、杖の獅子頭を撫廻しつつ、少時思案する体なりしが、やをら白羽二重のハンカチイフを取出して、片手に一揮揮るよと見れば鼻を拭へり。菫花の香を咽ばさるるばかりに薫じ遍りぬ。  宮も母もその鋭き匂に驚けるなり。 「ああと、私これから少し散歩しやうと思ふのであります。これから出て、流に沿いて、田圃の方を。私未だ知らんけれども、余程景色が好いさう。御一所にと云ふのだが、大分跡程が有るから、貴方は御迷惑でありませう。二時間ばかりお宮さんを御貸し下さいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が不良のだから散歩は極めて薬、これから行つて見ませう、ねえ」  彼は杖を取直してはや立たんとす。 「はい。難有うございます。お前お供をお為かい」  宮の遅ふを見て、唯継は故に座を起てり。 「さあ行つて見ませう、ええ、胃病の薬です。さう因循してゐては可けない」  つと寄りて軽く宮の肩を拊ちぬ。宮は忽ち面を紅めて、如何にとも為ん術を知らざらんやうに立惑ひてゐたり。母の前をも憚らぬ男の馴々しさを、憎しとにはあらねど、己の仂なきやうに慙づるなりけり。  得も謂はれぬその仇無さの身に浸遍るに堪へざる思は、漫に唯継の目の中に顕れて異き独笑となりぬ。この仇無き娧しらしき、美き娘の柔き手を携へて、人無き野道の長閑なるを語ひつつ行かば、如何ばかり楽からんよと、彼ははや心も空になりて、 「さあ、行つて見ませう。御母さんから御許が出たから可いではありませんか、ねえ、貴方、宜いでありませう」  母は宮の猶羞づるを見て、 「お前お出かい、どうお為だえ」 「貴方、お出かいなどと有仰つちや可けません。お出なさいと命令を為すつて下さい」  宮も母も思はず笑へり。唯継も後れじと笑へり。  又人の入来る気勢なるを宮は心着きて窺ひしに、姿は見えずして靴の音のみを聞けり。梅見る人か、あらぬか、用ありげに忙く踏立つる足音なりき。 「ではお前お供をおしな」 「さあ、行きませう。直其処まででありますよ」  宮は小き声して、 「御母さんも一処に御出なさいな」 「私かい、まあお前お供をおしな」  母親を伴ひては大いに風流ならず、頗る妙ならずと思へば、唯継は飽くまでこれを防がんと、 「いや、御母さんには却つて御迷惑です。道が良くないから御母さんにはとても可けますまい。実際貴方には切つてお勧め申されない。御迷惑は知れてゐる。何も遠方へ行くのではないのだから、御母さんが一処でなくても可いぢやありませんか、ねえ。私折角思立つたものでありますから、それでは一寸其処までで可いから附合つて下さい。貴女が可厭だつたら直に帰りますよ、ねえ。それはなかなか好い景色だから、まあ私に騙されたと思つて来て御覧なさいな、ねえ」  この時忙しげに聞えし靴音ははや止みたり。人は出去りしにあらで、七八間彼方なる木蔭に足を停めて、忍びやかに様子を窺ふなるを、此方の三人は誰も知らず。彳める人は高等中学の制服の上に焦茶の外套を着て、肩には古りたる象皮の学校鞄を掛けたり。彼は間貫一にあらずや。  再び靴音は高く響きぬ。その驟なると近きとに驚きて、三人は始めて音する方を見遣りつ。  花の散りかかる中を進来つつ学生は帽を取りて、 「姨さん、参りましたよ」  母子は動顛して殆ど人心地を失ひぬ。母親は物を見るべき力もあらず呆れ果てたる目をば空く瞪りて、少時は石の如く動かず、宮は、あはれ生きてあらんより忽ち消えてこの土と成了らんことの、せめて心易さを思ひつつ、その淡白き唇を啖裂かんとすばかりに咬みて咬みて止まざりき。  想ふに彼等の驚愕と恐怖とはその殺せし人の計らずも今生きて来れるに会へるが如きものならん。気も不覚なれば母は譫語のやうに言出せり。 「おや、お出なの」  宮は些少なりともおのれの姿の多く彼の目に触れざらんやうにと冀へる如く、木蔭に身を側めて、打過む呼吸を人に聞かれじとハンカチイフに口元を掩ひて、見るは苦けれども、見ざるも辛き貫一の顔を、俯したる額越に窺ひては、又唯継の気色をも気遣へり。  唯継は彼等の心々にさばかりの大波瀾ありとは知らざれば、聞及びたる鴫沢の食客の来れるよと、例の金剛石の手を見よがしに杖を立てて、誇りかに梢を仰ぐ腮を張れり。  貫一は今回の事も知れり、彼の唯継なる事も知れり、既にこの場の様子をも知らざるにはあらねど、言ふべき事は後にぞ犇と言はん、今は姑く色にも出さじと、裂けもしぬべき無念の胸をやうやう鎮めて、苦き笑顔を作りてゐたり。 「宮さんの病気はどうでございます」  宮は耐りかねて窃にハンカチイフを咬緊めたり。 「ああ、大きに良いので、もう二三日内には帰らうと思つてね。お前さん能く来られましたね。学校の方は?」 「教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日明後日と休課になつたものですから」 「おや、さうかい」  唯継と貫一とを左右に受けたる母親の絶体絶命は、過ちて野中の古井に落ちたる人の、沈みも果てず、上りも得為ず、命の綱と危くも取縋りたる草の根を、鼠の来りて噛むに遭ふと云へる比喩に最能く似たり。如何に為べきかと或は懼れ、或は惑ひたりしが、終にその免るまじきを知りて、彼はやうやう胸を定めつ。 「丁度宅から人が参りましてございますから、甚だ勝手がましうございますが、私等はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……」 「ははあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな」 「はい、話の模様に因りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……」 「成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下さいよ。宜いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出なさいよ。誠に今日は残念でありますな」  彼は行かんとして、更に宮の傍近く寄来て、 「貴方、きつと後にお出なさいよ、ええ」  貫一は瞬も為で視てゐたり。宮は窮して彼に会釈さへ為かねつ。娘気の可羞にかくあるとのみ思へる唯継は、益寄添ひつつ、舌怠きまでに語を和げて、 「宜いですか、来なくては可けませんよ。私待つてゐますから」  貫一の眼は燃ゆるが如き色を作して、宮の横顔を睨着けたり。彼は懼れて傍目をも転らざりけれど、必ずさあるべきを想ひて独り心を慄かせしが、猶唯継の如何なることを言出でんも知られずと思へば、とにもかくにもその場を繕ひぬ。母子の為には幾許の幸なりけん。彼は貫一に就いて半点の疑ひをも容れず、唯饜くまでも娧き宮に心を遺して行けり。  その後影を透すばかりに目戍れる貫一は我を忘れて姑く佇めり。両個はその心を測りかねて、言も出でず、息をさへ凝して、空く早瀬の音の聒きを聴くのみなりけり。  やがて此方を向きたる貫一は、尋常ならず激して血の色を失へる面上に、多からんとすれども能はずと見ゆる微少の笑を漏して、 「宮さん、今の奴はこの間の骨牌に来てゐた金剛石だね」  宮は俯きて唇を咬みぬ。母は聞かざる為して、折しも啼ける鶯の木の間を窺へり。貫一はこの体を見て更に嗤笑ひつ。 「夜見たらそれ程でもなかつたが、昼間見ると実に気障な奴だね、さうしてどうだ、あの高慢ちきの面は!」 「貫一さん」母は卒に呼びかけたり。 「はい」 「お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は」 「はい」 「ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口などを言ふものぢやありませんよ」 「はい」 「さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にでも入つて、さうして未だ御午餐前なのでせう」 「いえ、滊車の中で鮨を食べました」  三人は倶に歩始めぬ。貫一は外套の肩を払はれて、後を捻向けば宮と面を合せたり。 「其処に花が粘いてゐたから取つたのよ」 「それは難有う!!!」 第八章  打霞みたる空ながら、月の色の匂滴るるやうにして、微白き海は縹渺として限を知らず、譬へば無邪気なる夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹来る風は人を酔はしめんとす。打連れてこの浜辺を逍遙せるは貫一と宮となりけり。 「僕は唯胸が一杯で、何も言ふことが出来ない」  五歩六歩行きし後宮はやうやう言出でつ。 「堪忍して下さい」 「何も今更謝ることは無いよ。一体今度の事は翁さん姨さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可いのだから」 「…………」 「此地へ来るまでは、僕は十分信じてをつた、お前さんに限つてそんな了簡のあるべき筈は無いと。実は信じるも信じないも有りはしない、夫婦の間で、知れきつた話だ。  昨夜翁さんから悉く話があつて、その上に頼むといふ御言だ」  差含む涙に彼の声は顫ひぬ。 「大恩を受けてゐる翁さん姨さんの事だから、頼むと言はれた日には、僕の体は火水の中へでも飛込まなければならないのだ。翁さん姨さんの頼なら、無論僕は火水の中へでも飛込む精神だ。火水の中へなら飛込むがこの頼ばかりは僕も聴くことは出来ないと思つた。火水の中へ飛込めと云ふよりは、もつと無理な、余り無理な頼ではないかと、僕は済まないけれど翁さんを恨んでゐる。  さうして、言ふ事も有らうに、この頼を聴いてくれれば洋行さして遣るとお言ひのだ。い……い……いかに貫一は乞食士族の孤児でも、女房を売つた銭で洋行せうとは思はん!」  貫一は蹈留りて海に向ひて泣けり。宮はこの時始めて彼に寄添ひて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。 「堪忍して下さいよ、皆私が……どうぞ堪忍して下さい」  貫一の手に縋りて、忽ちその肩に面を推当つると見れば、彼も泣音を洩すなりけり。波は漾々として遠く烟り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は墨の滴りたるやうの影を作れり。 「それで僕は考へたのだ、これは一方には翁さんが僕を説いて、お前さんの方は姨さんが説得しやうと云ふので、無理に此処へ連出したに違無い。翁さん姨さんの頼と有つて見れば、僕は不承知を言ふことの出来ない身分だから、唯々と言つて聞いてゐたけれど、宮さんは幾多でも剛情を張つて差支無いのだ。どうあつても可厭だとお前さんさへ言通せば、この縁談はそれで破れて了ふのだ。僕が傍に居ると智慧を付けて邪魔を為ると思ふものだから、遠くへ連出して無理往生に納得させる計だなと考着くと、さあ心配で心配で僕は昨夜は夜一夜寐はしない、そんな事は万々有るまいけれど、種々言はれる為に可厭と言はれない義理になつて、若や承諾するやうな事があつては大変だと思つて、家は学校へ出る積で、僕はわざわざ様子を見に来たのだ。  馬鹿な、馬鹿な! 貫一ほどの大馬鹿者が世界中を捜して何処に在る‼ 僕はこれ程自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日まで知……知……知らなかつた」  宮は可悲と可懼に襲はれて少く声さへ立てて泣きぬ。  憤を抑ふる貫一の呼吸は漸く乱れたり。 「宮さん、お前は好くも僕を欺いたね」  宮は覚えず慄けり。 「病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう」 「まあ、そればつかりは……」 「おおそればつかりは?」 「余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を」  泣入る宮を尻目に挂けて、 「お前でも酷いと云ふ事を知つてゐるのかい、宮さん。これが酷いと云つて泣く程なら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りは為んよ。  お前が得心せんものなら、此地へ来るに就いて僕に一言も言はんと云ふ法は無からう。家を出るのが突然で、その暇が無かつたなら、後から手紙を寄来すが可いぢやないか。出抜いて家を出るばかりか、何の便も為んところを見れば、始から富山と出会ふ手筈になつてゐたのだ。或は一所に来たのか知れはしない。宮さん、お前は奸婦だよ。姦通したも同じだよ」 「そんな酷いことを、貫一さん、余りだわ、余りだわ」  彼は正体も無く泣頽れつつ、寄らんとするを貫一は突退けて、 「操を破れば奸婦ぢやあるまいか」 「何時私が操を破つて?」 「幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処に在る?」 「さう言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等が此地に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ」 「何で富山が後から尋ねて来たのだ」  宮はその唇に釘打たれたるやうに再び言は出でざりき。貫一は、かく詰責せる間に彼の必ず過を悔い、罪を詫びて、その身は未か命までも己の欲するままならんことを誓ふべしと信じたりしなり。よし信ぜざりけんも、心陰に望みたりしならん。如何にぞや、彼は露ばかりもさせる気色は無くて、引けども朝顔の垣を離るまじき一図の心変を、貫一はなかなか信しからず覚ゆるまでに呆れたり。  宮は我を棄てたるよ。我は我妻を人に奪はれたるよ。我命にも換へて最愛みし人は芥の如く我を悪めるよ。恨は彼の骨に徹し、憤は彼の胸を劈きて、ほとほと身も世も忘れたる貫一は、あはれ奸婦の肉を啖ひて、この熱膓を冷さんとも思へり。忽ち彼は頭脳の裂けんとするを覚えて、苦痛に得堪へずして尻居に僵れたり。  宮は見るより驚く遑もあらず、諸共に砂に塗れて掻抱けば、閉ぢたる眼より乱落つる涙に浸れる灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨ひて、迫れる息は凄く波打つ胸の響を伝ふ。宮は彼の背後より取縋り、抱緊め、撼動して、戦く声を励せば、励す声は更に戦きぬ。 「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」  貫一は力無げに宮の手を執れり。宮は涙に汚れたる男の顔をいと懇に拭ひたり。 「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ! 可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」  宮は挫ぐばかりに貫一に取着きて、物狂う咽入りぬ。 「そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余り言難い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ──私は生涯忘れはしないわ」 「聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた」 「だから、私は決して見棄てはしないわ」 「何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい」 「だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少し辛抱してそれを──私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ」 「ええ、狼狽へてくだらんことを言ふな。食ふに窮つて身を売らなければならんのぢやなし、何を苦んで嫁に帰くのだ。内には七千円も財産が在つて、お前は其処の一人娘ぢやないか、さうして婿まで極つてゐるのぢやないか。その婿も四五年の後には学士になると、末の見込も着いてゐるのだ。しかもお前はその婿を生涯忘れないほどに思つてゐると云ふぢやないか。それに何の不足が有つて、無理にも嫁に帰かなければならんのだ。天下にこれくらゐ理の解らん話が有らうか。どう考へても、嫁に帰くべき必用の無いものが、無理に算段をして嫁に帰かうと為るには、必ず何ぞ事情が無ければ成らない。  婿が不足なのか、金持と縁を組みたいのか、主意は決してこの二件の外にはあるまい。言つて聞かしてくれ。遠慮は要らない。さあ、さあ、宮さん、遠慮することは無いよ。一旦夫に定めたものを振捨てるくらゐの無遠慮なものが、こんな事に遠慮も何も要るものか」 「私が悪いのだから堪忍して下さい」 「それぢや婿が不足なのだね」 「貫一さん、それは余りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ」 「婿に不足は無い? それぢや富山が財があるからか、して見るとこの結婚は慾からだね、僕の離縁も慾からだね。で、この結婚はお前も承知をしたのだね、ええ?  翁さん姨さんに迫られて、余義無くお前も承知をしたのならば、僕の考で破談にする方は幾許もある。僕一人が悪者になれば、翁さん姨さんを始めお前の迷惑にもならずに打壊して了ふことは出来る、だからお前の心持を聞いた上で手段があるのだが、お前も適つて見る気は有るのかい」  貫一の眼はその全身の力を聚めて、思悩める宮が顔を鋭く打目戍れり。五歩行き、七歩行き、十歩を行けども、彼の答はあらざりき。貫一は空を仰ぎて太息したり。 「宜い、もう宜い。お前の心は能く解つた」  今ははや言ふも益無ければ、重ねて口を開かざらんかと打按じつつも、彼は乱るる胸を寛うせんが為に、強ひて目を放ちて海の方を眺めたりしが、なほ得堪へずやありけん、又言はんとして顧れば、宮は傍に在らずして、六七間後なる波打際に面を掩ひて泣けるなり。  可悩しげなる姿の月に照され、風に吹れて、あはれ消えもしぬべく立ち迷へるに、淼々たる海の端の白く頽れて波と打寄せたる、艶に哀を尽せる風情に、貫一は憤をも恨をも忘れて、少時は画を看る如き心地もしつ。更に、この美き人も今は我物ならずと思へば、なかなか夢かとも疑へり。 「夢だ夢だ、長い夢を見たのだ!」  彼は頭を低れて足の向ふままに汀の方へ進行きしが、泣く泣く歩来れる宮と互に知らで行合ひたり。 「宮さん、何を泣くのだ。お前は些も泣くことは無いぢやないか。空涙!」 「どうせさうよ」  殆ど聞得べからざるまでにその声は涙に乱れたり。 「宮さん、お前に限つてはさう云ふ了簡は無からうと、僕は自分を信じるほどに信じてゐたが、それぢややつぱりお前の心は慾だね、財なのだね。如何に何でも余り情無い、宮さん、お前はそれで自分に愛相は尽きないかい。  好い出世をして、さぞ栄耀も出来て、お前はそれで可からうけれど、財に見換へられて棄てられた僕の身になつて見るが可い。無念と謂はうか、口惜いと謂はうか、宮さん、僕はお前を刺殺して──驚くことは無い! ──いつそ死んで了ひたいのだ。それを怺へてお前を人に奪れるのを手出しも為ずに見てゐる僕の心地は、どんなだと思ふ、どんなだと思ふよ! 自分さへ好ければ他はどうならうともお前はかまはんのかい。一体貫一はお前の何だよ。何だと思ふのだよ。鴫沢の家には厄介者の居候でも、お前の為には夫ぢやないかい。僕はお前の男妾になつた覚は無いよ、宮さん、お前は貫一を玩弄物にしたのだね。平生お前の仕打が水臭い水臭いと思つたも道理だ、始から僕を一時の玩弄物の意で、本当の愛情は無かつたのだ。さうとは知らずに僕は自分の身よりもお前を愛してゐた。お前の外には何の楽も無いほどにお前の事を思つてゐた。それ程までに思つてゐる貫一を、宮さん、お前はどうしても棄てる気かい。  それは無論金力の点では、僕と富山とは比較にはならない。彼方は屈指の財産家、僕は固より一介の書生だ。けれども善く宮さん考へて御覧、ねえ、人間の幸福ばかりは決して財で買へるものぢやないよ。幸福と財とは全く別物だよ。人の幸福の第一は家内の平和だ、家内の平和は何か、夫婦が互に深く愛すると云ふ外は無い。お前を深く愛する点では、富山如きが百人寄つても到底僕の十分の一だけでも愛することは出来まい、富山が財産で誇るなら、僕は彼等の夢想することも出来んこの愛情で争つて見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情が無ければ既に夫婦は無いのだ。  己の身に換へてお前を思つてゐる程の愛情を有つてゐる貫一を棄てて、夫婦間の幸福には何の益も無い、寧ろ害になり易い、その財産を目的に結婚を為るのは、宮さん、どういふ心得なのだ。  然し財といふものは人の心を迷はすもので、智者の学者の豪傑のと、千万人に勝れた立派な立派な男子さへ、財の為には随分甚い事も為るのだ。それを考へれば、お前が偶然気の変つたのも、或は無理も無いのだらう。からして僕はそれは咎めない、但もう一遍、宮さん善く考へて御覧な、その財が──富山の財産がお前の夫婦間にどれ程の効力があるのかと謂ふことを。  雀が米を食ふのは僅か十粒か二十粒だ、俵で置いてあつたつて、一度に一俵食へるものぢやない、僕は鴫沢の財産を譲つてもらはんでも、十粒か二十粒の米に事を欠いて、お前に餒い思を為せるやうな、そんな意気地の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」  貫一は雫する涙を払ひて、 「お前が富山へ嫁く、それは立派な生活をして、栄耀も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招れて行く人もあれば、自分の妻子を車に載せて、それを自分が挽いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁けば、家内も多ければ人出入も、劇しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。  聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人外に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似をして、妻は些の床の置物にされて、謂はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦ばかりで楽は無いと謂つて可い。お前の嫁く唯継だつて、固より所望でお前を迎ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財が有るから好きな真似も出来る、他の楽に気が移つて、直にお前の恋は冷されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地を考へて御覧、あの富山の財産がその苦を拯ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽かい、満足かい。  僕が人にお前を奪られる無念は謂ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。  僕に飽きて富山に惚れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過つてゐる、それは実に過つてゐる、愛情の無い結婚は究竟自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直してくれないか。  七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛くは思はんのかい」  彼は危きを拯はんとする如く犇と宮に取着きて匂滴るる頸元に沸ゆる涙を濺ぎつつ、蘆の枯葉の風に揉るるやうに身を顫せり。宮も離れじと抱緊めて諸共に顫ひつつ、貫一が臂を咬みて咽泣に泣けり。 「嗚呼、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方へ嫁つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」  木を裂く如く貫一は宮を突放して、 「それぢや断然お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓の腐つた女! 姦婦‼」  その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたと踢たり。地響して横様に転びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為ず弱々と僵れたるを、なほ憎さげに見遣りつつ、 「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了ふのだ。学問も何ももう廃だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁さん姨さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あつて貫一はこのまま長の御暇を致しますから、随分お達者で御機嫌よろしう……宮さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若し貫一はどうしたとお訊ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方知れずになつて了つたと……」  宮はやにはに蹶起きて、立たんと為れば脚の痛に脆くも倒れて効無きを、漸く這寄りて貫一の脚に縋付き、声と涙とを争ひて、 「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方これから何……何処へ行くのよ」  貫一はさすがに驚けり、宮が衣の披けて雪可羞く露せる膝頭は、夥く血に染みて顫ふなりき。 「や、怪我をしたか」  寄らんとするを宮は支へて、 「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」 「話が有ればここで聞かう」 「ここぢや私は可厭よ」 「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」 「私は放さない」 「剛情張ると蹴飛すぞ」 「蹴られても可いわ」  貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。 「貫一さん」 「貫一ははや幾間を急行きたり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷に幾度か仆れんとしつつも後を慕ひて、 「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺した事がある」  遂に倒れし宮は再び起つべき力も失せて、唯声を頼に彼の名を呼ぶのみ。漸く朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶して猶呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、此方を目戍れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙に来りぬ。 「宮さん!」 「あ、あ、あ、貫一さん!」  首を延べて眴せども、目を瞪りて眺むれども、声せし後は黒き影の掻消す如く失せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。  宮は再び恋き貫一の名を呼びたりき。 中編 第一章  新橋停車場の大時計は四時を過ること二分余、東海道行の列車は既に客車の扉を鎖して、機関車に烟を噴せつつ、三十余輛を聯ねて蜿蜒として横はりたるが、真承の秋の日影に夕栄して、窓々の硝子は燃えんとすばかりに耀けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚くを余所に、大蹈歩の寛々たる老欧羅巴人は麦酒樽を窃みたるやうに腹突出して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘の柄に橙色のリボンを飾りたるを小脇にせると推並び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色も無く過る後より、蚤取眼になりて遅れじと所体頽して駈来る女房の、嵩高なる風呂敷包を抱くが上に、四歳ほどの子を背負ひたるが、何処の扉も鎖したるに狼狽ふるを、車掌に強曳れて漸く安堵せる間も無く、青洟垂せる女の子を率ゐて、五十余の老夫のこれも戸惑して往きつ復りつせし揚句、駅夫に曳れて室内に押入れられ、如何なる罪やあらげなく閉てらるる扉に袂を介まれて、もしもしと救を呼ぶなど、未だ都を離れざるにはや旅の哀を見るべし。  五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅に円居して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装にて、紋付の袷羽織を着たるもあれば、精縷の背広なるもあり、袴着けたるが一人、大島紬の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別の瓶、凾などを網棚の上に片附けて、その手を摩払ひつつ窓より首を出して、停車場の方をば、求むるものありげに望見たりしが、やがて藍の如き晩霽の空を仰ぎて、 「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」 「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟」  黒餅に立沢瀉の黒紬の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条の仙台平の袴を着けたる、この中にて独り頬鬚の厳きを蓄ふる紳士なり。  甘糟の答ふるに先ちて、背広の風早は若きに似合はぬ皺嗄声を振搾りて、 「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」 「馬鹿言へ。甘糟の痒きに堪へんことを僕は丁と洞察してをるのだ」 「これは憚様です」  大島紬の紳士は黏着いたるやうに靠れたりし身を遽に起して、 「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利と甘糟は夙て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔を吐く意なのさ」 「何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪しからん事たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣らるるね。ええ、肩書を辱めん限は遣るも可からうけれど、注意はしたまへよ、本当に」  この老実の言を作すは、今は四年の昔間貫一が兄事せし同窓の荒尾譲介なりけり。彼は去年法学士を授けられ、次いで内務省試補に挙げられ、踰えて一年の今日愛知県の参事官に栄転して、赴任の途に上れるなり。その齢と深慮と誠実との故を以つて、彼は他の同学の先輩として推服するところたり。 「これで僕は諸君へ意見の言納じや。願くは君達も宜く自重してくれたまへ」  面白く発りし一座も忽ち白けて、頻に燻らす巻莨の煙の、急駛せる車の逆風に扇らるるが、飛雲の如く窓を逸れて六郷川を掠むあるのみ。  佐分利は幾数回頷きて、 「いやさう言れると慄然とするよ、実は嚮停車場で例の『美人クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖ふかと思ふね、毎見ても美いには驚嘆する。全で淑女の扮装だ。就中今日は冶してをつたが、何処か旨い口でもあると見える。那奴に搾られちや克はん、あれが本当の真綿で首だらう」 「見たかつたね、それは。夙て御高名は聞及んでゐる」  と大島紬の猶続けんとするを遮りて、甘糟の言へる。 「おお、宝井が退学を吃つたのも、其奴が債権者の重なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金の腕環なんぞ篏めてゐると云ふぢやないか。酷い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊にならんやうに褌を緊めて掛るが可いぜ」 「誰か其奴には尻押が有るのだらう。亭主が有るのか、或は情夫か、何か有るのだらう」  皺嗄声は卒然としてこの問を発せるなり。 「それに就いては小説的の閲歴があるのさ、情夫ぢやない、亭主がある、此奴が君、我々の一世紀前に鳴した高利貸で、赤樫権三郎と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物と来てゐるのだ」 「成程! 積極と消極と相触れたので爪に火が熖る訳だな」  大島紬が得意の譃浪に、深沈なる荒尾も已むを得ざらんやうに破顔しつ。 「その赤樫と云ふ奴は貸金の督促を利用しては女を弄ぶのが道楽で、此奴の為に汚された者は随分意外の辺にも在るさうな。そこで今の『美人クリイム』、これもその手に罹つたので、原は貧乏士族の娘で堅気であつたのだが、老猾この娘を見ると食指大いに動いた訳で、これを俘にしたさに父親に少しばかりの金を貸したのだ。期限が来ても返せん、それを何とも言はずに、後から後からと三四度も貸して置いて、もう好い時分に、内に手が無くて困るから、半月ばかり仲働に貸してくれと言出した。これはよしんば奴の胸中が見え透いてゐたからとて、勢ひ辞りかねる人情だらう。今から六年ばかり前の事で、娘が十九の年老猾は六十ばかりの禿顱の事だから、まさかに色気とは想はんわね。そこで内へ引張つて来て口説いたのだ。女房といふ者は無いので、怪しげな爨妾然たる女を置いてをつたのが、その内にいつか娘は妾同様になつたのはどうだい!」  固唾を嚥みたりし荒尾は思ふところありげに打頷きて、 「女といふ者はそんなものじやて」  甘糟はその面を振仰ぎつつ、 「驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ」 「何故かい」  佐分利の話を進むる折から、滊車は遽に速力を加へぬ。 佐「聞えん聞えん、もつと大きな声で」 甘「さあ、御順にお膝繰だ」 佐「荒尾、あの葡萄酒を抜かんか、喉が渇いた。これからが佳境に入るのだからね」 甘「中銭があるのは酷い」 佐「蒲田、君は好い莨を吃つてゐるぢやないか、一本頂戴」 甘「いや、図に乗ること。僕は手廻の物を片附けやう」 佐「甘糟、焠児を持つてゐるか」 甘「そら、お出だ。持参いたしてをりまする仕合で」  佐分利は居長高になりて、 「些と点けてくれ」  葡萄酒の紅を啜り、ハヴァナの紫を吹きて、佐分利は徐に語を継ぐ、 「所謂一朶の梨花海棠を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父さん、どうか承知して下さいは、親父益す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相を尽して、唯一人の娘を阿父さん彼自身より十歳ばかりも老漢の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家の方へ貢ぐと思の外、極の給の外は塵葉一本饋らん。これが又禿の御意に入つたところで、女め熟ら高利の塩梅を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭の方が大事、といふ不敵な了簡が出た訳だね」 「驚くべきものじやね」  荒尾は可忌しげに呟きて、稍不快の色を動せり。 「そこで、敏捷な女には違無い、自然と高利の呼吸を呑込んで、後には手の足りん時には禿の代理として、何処へでも出掛けるやうになつたのは益す驚くべきものだらう。丁度一昨年辺から禿は中気が出て未だに動けない。そいつを大小便の世話までして、女の手一つで盛に商売をしてゐるのだ。それでその前年かに親父は死んだのださうだが、板の間に薄縁を一板敷いて、その上で往生したと云ふくらゐの始末だ。病気の出る前などはろくに寄せ付けなんださうだがな、残刻と云つても、どう云ふのだか余り気が知れんぢやないかな──然し事実だ。で、禿はその通の病人だから、今ではあの女が独で腕を揮つて益す盛に遣つてゐる。これ則ち『美人クリイム』の名ある所以さ。  年紀かい、二十五だと聞いたが、さう、漸う二三とよりは見えんね。あれで可愛い細い声をして物柔に、口数が寡くつて巧い言をいふこと、恐るべきものだよ。銀貨を見て何処の国の勲章だらうなどと言ひさうな、誠に上品な様子をしてゐて、書替だの、手形に願ふのと、急所を衝く手際の婉曲に巧妙な具合と来たら、実に魔薬でも用ゐて人の心を痿すかと思ふばかりだ。僕も三度ほど痿されたが、柔能く剛を制すで、高利貸には美人が妙! 那彼に一国を預ければ輙ちクレオパトラだね。那彼には滅されるよ」  風早は最も興を覚えたる気色にて、 「では、今はその禿顱は中風で寐たきりなのだね、一昨年から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮な女だな」 「余り壮なのは恐れる」  佐分利は頭を抑へて後様に靠れつつ笑ひぬ。次いで一同も笑ひぬ。  佐分利は二年生たりしより既に高利の大火坑に堕ちて、今はしも連帯一判、取交ぜ五口の債務六百四十何円の呵責に膏を取るる身の上にぞありける。次いでは甘糟の四百円、大島紬氏は卒業前にして百五十円、後に又二百円、無疵なるは風早と荒尾とのみ。  滊車は神奈川に着きぬ。彼等の物語をば笑しげに傍聴したりし横浜商人体の乗客は、幸に無聊を慰められしを謝すらんやうに、懇に一揖してここに下車せり。暫く話の絶えける間に荒尾は何をか打案ずる体にて、その目を空く見据ゑつつ漫語のやうに言出でたり。 「その後誰も間の事を聞かんかね」 「間貫一かい」と皺嗄声は問反せり。 「おお、誰やらぢやつたね、高利貸の才取とか、手代とかしてをると言うたのは」 蒲「さうさう、そんな話を聞いたつけね。然し、間には高利貸の才取は出来ない。あれは高利を貸すべく余り多くの涙を有つてゐるのだ」  我が意を得つと謂はんやうに荒尾は頷きて、猶も思に沈みゐたり。佐分利と甘糟の二人はその頃一級先ちてありければ、間とは相識らざるなりき。 荒「高利貸と云ふのはどうも妄ぢやらう。全く余り多くの涙を有つてをる。惜い事をした、得難い才子ぢやつたものね。あれが今居らうなら……」  彼は忍びやかに太息を泄せり。 「君達は今逢うても顔を見忘れはすまいな」 風「それは覚えてゐるとも。あれの峭然と外眥の昂つた所が目標さ」 蒲「さうして髪の癖毛の具合がな、愛嬌が有つたぢやないか。デスクの上に頬杖を抂いて、かう下向になつて何時でも真面目に講義を聴いてゐたところは、何処かアルフレッド大王に肖てゐたさ」  荒尾は仰ぎて笑へり。 「君は毎も妙な事を言ふ人ぢやね。アルフレッド大王とは奇想天外だ。僕の親友を古英雄に擬してくれた御礼に一盃を献じやう」 蒲「成程、君は兄弟のやうにしてをつたから、始終憶ひ出すだらうな」 「僕は実際死んだ弟よりも間の居らなくなつたのを悲む」  愁然として彼は頭を俛れぬ。大島紬は受けたる盃を把りながら、更に佐分利が持てる猪口を借りて荒尾に差しつ。 「さあ、君を慰める為に一番間の健康を祝さう」  荒尾の喜は実に溢るるばかりなりき。 「おお、それは辱ない」  盈々と酒を容れたる二つの猪口は、彼等の目より高く挙げらるると斉く戞と相撃てば、紅の雫の漏るが如く流るるを、互に引くより早く一息に飲乾したり。これを見たる佐分利は甘糟の膝を揺して、 「蒲田は如才ないね。面は醜いがあの呼吸で行くから、往々拾ひ物を為るのだ。ああ言れて見ると誰でも些と憎くないからね」 甘「遉は交際官試補!」 佐「試補々々!」 風「試補々々立つて泣きに行く……」 荒「馬鹿な!」  言を改めて荒尾は言出せり。 「どうも僕は不思議でならんが、停車場で間を見たよ。間に違無いのじや」  唯の今陰ながらその健康を祷りし蒲田は拍子を抜して彼の面を眺めたり。 「ふう、それは不思議。他は気が着かなんだかい」 「始は待合所の入口の所で些と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子を起つと、もう見えなくなつた。それから有間して又偶然見ると、又見えたのじや」 甘「探偵小説だ」 荒「その時も起ちかけると又見えなくなつて、それから切符を切つて歩場へ入るまで見えなかつたのじやが、入つて少し来てから、どうも気になるから振返つて見ると、傍の柱に僕を見て黒い帽を揮つとる者がある、それは間よ。帽を揮つとつたから間に違無いぢやないか」  横浜! 横浜! と或は急に、或は緩く叫ぶ声の窓の外面を飛過るとともに、響は雑然として起り、迸り出づる、群集は玩具箱を覆したる如く、場内の彼方より轟く鐸の音はこの響と混雑との中を貫きて奔注せり。 ☆昨七日イ便の葉書にて(飯田町局消印)美人クリイムの語にフエアクリイム或はベルクリイムの傍訓有度との言を貽られし読者あり。ここにその好意を謝するとともに、聊か弁ずるところあらむとす。おのれも始め美人の英語を用ゐむと思ひしかど、かかる造語は憖に理詰ならむよりは、出まかせの可笑き響あらむこそ可かめれとバイスクリイムとも思着きしなり。意は美アイスクリイムなるを、ビ、アイ──バイの格にて試みしが、さては説明を要すべき炊冗しさを嫌ひて、更に美人の二字にびじ訓を付せしを、校合者の思僻めてん字は添へたるなり。陋しげなるびじクリイムの響の中には嘲弄の意も籠らむとてなり。なほ高諭を請ふ(三〇・九・八附読売新聞より) 第二章  柵の柱の下に在りて帽を揮りたりしは、荒尾が言の如く、四年の生死を詳悉にせざりし間貫一にぞありける。彼は親友の前に自の影を晦し、その消息をさへ知らせざりしかど、陰ながら荒尾が動静の概略を伺ふことを怠らざりき、こ回その参事官たる事も、午後四時発の列車にて赴任する事をも知るを得しかば、余所ながら暇乞もし、二つには栄誉の錦を飾れる姿をも見んと思ひて、群集に紛れてここには来りしなりけり。  何の故に間は四年の音信を絶ち、又何の故にさしも懐に忘れざる旧友と相見て別を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自ら解釈せらるべし。  柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独り間貫一のみにあらず、そこもとに聚ひし老若貴賤の男女は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一なり。数分時の混雑の後車の出づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸く踵を旋せし時には、推重るまでに柵際に聚ひし衆は殆ど散果てて、駅夫の三四人が箒を執りて場内を掃除せるのみ。  貫一は差含るる涙を払ひて、独り後れたるを驚きけん、遽に急ぎて、蓬莱橋口より出でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。 「間さん!」  慌てて彼の見向く途端に、 「些と」と戸口より半身を示して、黄金の腕環の気爽に耀ける手なる絹ハンカチイフに唇辺を掩いて束髪の婦人の小腰を屈むるに会へり。艶なる面に得も謂はれず愛らしき笑をさへ浮べたり。 「や、赤樫さん!」  婦人の笑もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉だに動かさず。 「好い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些と此方へ」  婦人は内に入れば、貫一も渋々跟いて入るに、長椅子に掛れば、止む無くその側に座を占めたり。 「実はあの保険建築会社の小車梅の件なのでございますがね」  彼は黒樗文絹の帯の間を捜りて金側時計を取出し、手早く収めつつ、 「貴方どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方へかお供を致しませう」  紫紺塩瀬に消金の口金打ちたる手鞄を取直して、婦人はやをら起上りつ。迷惑は貫一が面に顕れたり。 「何方へ?」 「何方でも、私には解りませんですから貴方のお宜い所へ」 「私にも解りませんな」 「あら、そんな事を仰有らずに、私は何方でも宜いのでございます」  荒布革の横長なる手鞄を膝の上に掻抱きつつ貫一の思案せるは、その宜き方を択ぶにあらで、倶に行くをば躊躇せるなり。 「まあ、何にしても出ませう」 「さやう」  貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭に、入来る者ありて、その足尖を挫げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高き老紳士の目尻も異く、満枝の色香に惑ひて、これは失敬、意外の麁相をせるなりけり。彼は猶懲りずまにこの目覚き美形の同伴をさへ暫く目送せり。  二人は停車場を出でて、指す方も無く新橋に向へり。 「本当に、貴方、何方へ参りませう」 「私は、何方でも」 「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極めやうでは御坐いませんか」 「さやう」  満枝は彼の心進まざるを暁れども、勉めて吾意に従はしめんと念へば、さばかりの無遇をも甘んじて、 「それでは、貴方、鰻鱺は上りますか」 「鰻鱺? 遣りますよ」 「鶏肉と何方が宜うございます」 「何方でも」 「余り御挨拶ですね」 「何為ですか」  この時貫一は始めて満枝の面に眼を移せり。百の媚を含みて睼へし彼の眸は、未だ言はずして既にその言はんとせる半をば語尽したるべし。彼の為人を知りて畜生と疎める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と隣れる金歯とを露して片笑みつつ、 「まあ、何為でも宜うございますから、それでは鶏肉に致しませうか」 「それも可いでせう」  三十間堀に出でて、二町ばかり来たる角を西に折れて、唯有る露地口に清らなる門構して、光沢消硝子の軒燈籠に鳥と標したる方に、人目にはさぞ解あるらしう二人は連立ちて入りぬ。いと奥まりて、在りとも覚えぬ辺に六畳の隠座敷の板道伝に離れたる一間に案内されしも宜なり。  懼れたるにもあらず、困じたるにもあらねど、又全くさにあらざるにもあらざらん気色にて貫一の容さへ可慎しげに黙して控へたるは、かかる所にこの人と共にとは思懸けざる為体を、さすがに胸の安からぬなるべし。通し物は逸早く満枝が好きに計ひて、少頃は言無き二人が中に置れたる莨盆は子細らしう一炷の百和香を燻らせぬ。 「間さん、貴方どうぞお楽に」 「はい、これが勝手で」 「まあ、そんな事を有仰らずに、よう、どうぞ」 「内に居つても私はこの通なのですから」 「嘘を有仰いまし」  かくても貫一は膝を崩さで、巻莨入を取出せしが、生憎一本の莨もあらざりければ、手を鳴さんとするを、満枝は先じて、 「お間に合せにこれを召上りましな」  麻蝦夷の御主殿持とともに薦むる筒の端より焼金の吸口は仄に耀けり。歯は黄金、帯留は黄金、指環は黄金、腕環は黄金、時計は黄金、今又煙管は黄金にあらずや。黄金なる哉、金、金! 知る可し、その心も金! と貫一は独り可笑しさに堪へざりき。 「いや、私は日本莨は一向可かんので」  言ひも訖らぬ顔を満枝は熟と視て、 「決して穢いのでは御坐いませんけれど、つい心着きませんでした」  懐紙を出してわざとらしくその吸口を捩拭へば、貫一も少く慌てて、 「決してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」  満枝は再び彼の顔を眺めつ。 「貴方、嘘をお吐きなさるなら、もう少し物覚を善く遊ばせよ」 「はあ?」 「先日鰐淵さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」 「はあ?」 「瓢箪のやうな恰好のお煙管で、さうして羅宇の本に些と紙の巻いてございました」 「あ!」と叫びし口は頓に塞がざりき。満枝は仇無げに口を掩ひて笑へり。この罰として貫一は直に三服の吸付莨を強ひられぬ。  とかくする間に盃盤は陳ねられたれど、満枝も貫一も三盃を過し得ぬ下戸なり。女は清めし猪口を出して、 「貴方、お一盞」 「可かんのです」 「又そんな事を」 「今度は実際」 「それでは麦酒に致しませうか」 「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」  酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑めて酌せんとこそあるべきに、甚い哉、彼の手を束ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。 「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞お受け下さいましな」  貫一は止む無くその一盞を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、 「時に小車梅の件と云ふのはどんな事が起りましたな」 「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」  彼は忽ち眉を攅めて、 「いやそんなに」 「それでは私が戴きませう、恐入りますがお酌を」 「で、小車梅の件は?」 「その件の外に未だお話があるのでございます」 「大相有りますな」 「酔はないと申上げ難い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様ですが、もう一つお酌を」 「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」 「今晩は私酔ふ意なのでございますもの」  その媚ある目の辺は漸く花桜の色に染みて、心楽しげに稍身を寛に取成したる風情は、実に匂など零れぬべく、熱しとて紺の絹精縷の被風を脱げば、羽織は無くて、粲然としたる紋御召の袷に黒樗文絹の全帯、華麗に紅の入りたる友禅の帯揚して、鬢の後れの被る耳際を掻上ぐる左の手首には、早蕨を二筋寄せて蝶の宿れる形したる例の腕環の爽に晃き遍りぬ。常に可忌しと思へる物をかく明々地に見せつけられたる貫一は、得堪ふまじく苦りたる眉状して密に目を翥しつ。彼は女の貴族的に装へるに反して、黒紬の紋付の羽織に藍千筋の秩父銘撰の袷着て、白縮緬の兵児帯も新からず。  彼を識れりし者は定めて見咎むべし、彼の面影は尠からず変りぬ。愛らしかりしところは皆失せて、四年に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自ら暗き陰を成してその面を蔽へり。撓むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色の表に動けども、嘗て宮を見しやうの優き光は再びその眼に輝かずなりぬ。見ることの冷に、言ふことの謹めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎るるを憚れば、自もまた苟も親みを求めざるほどに、同業者は誰も誰も偏人として彼を遠けぬ。焉んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪むなりけり。  彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃を重ぬる体を打目戍れり。 「もう一盞戴きませうか」  笑を漾ふる眸は微醺に彩られて、更に別様の媚を加へぬ。 「もう止したが可いでせう」 「貴方が止せと仰有るなら私は止します」 「敢て止せとは言ひません」 「それぢや私酔ひますよ」  答無かりければ、満枝は手酌してその半を傾けしが、見る見る頬の麗く紅になれるを、彼は手もて掩ひつつ、 「ああ、酔ひましたこと」  貫一は聞かざる為して莨を燻らしゐたり。 「間さん、……」 「何ですか」 「私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか」 「それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか」  満枝は嘲むが如く微笑みて、 「私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障へては困りますの。然し、御酒の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意で、宜うございますか」 「撞着してゐるぢやありませんか」 「まあそんなに有仰らずに、高が女の申すことでございますから」  こは事難うなりぬべし。克はぬまでも多少は累を免れんと、貫一は手を拱きつつ俯目になりて、力めて関らざらんやうに持成すを、満枝は擦寄りて、 「これお一盞で後は決してお強ひ申しませんですから、これだけお受けなすつて下さいましな」  貫一は些の言も出さでその猪口を受けつ。 「これで私の願は届きましたの」 「易い願ですな」と、あはや出でんとせし唇を結びて、貫一は纔に苦笑して止みぬ。 「間さん」 「はい」 「貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未だお長くゐらつしやるお意なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう」 「勿論です」 「さうして、まづ何頃彼方と別にお成りあそばすお見込なのでございますの」 「資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます」  満枝は忽ち声を斂めて、物思はしげに差俯き、莨盆の縁をば弄べるやうに煙管もて刻を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽に晦むに驚きて顔を挙れば、又旧の如く一間は明うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫し打案じたりしが、 「こんな事を申上げては甚だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」  意外に打れたる貫一は箸を扣へて女の顔を屹と視たり。 「さう遊ばせよ」 「それはどう云ふ訳ですか」  実に貫一は答に窮せるなりき。 「訳ですか?」と満枝は口籠りたりしが、 「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」 「全然解らんですな」 「貴方、可うございますよ」  可恨しげに満枝は言を絶ちて、横膝に莨を拈りゐたり。 「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」  貫一が飯桶を引寄せんとするを、はたと抑へて、 「お給仕なれば私致します」 「それは憚様です」  満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀をそれに伏せて、彼方の壁際に推遣りたり。 「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」 「もう頭が痛くて克はんですから赦して下さい。腹が空いてゐるのですから」 「お餒いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛うございませう」 「知れた事ですわ」 「さうでございませう。それなら、此方で思つてゐることが全で先方へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな」 「返事と言はれたつて、有仰ることの主意が能く解らんのですもの」 「何故お了解になりませんの」  責むるが如く男の顔を見遣れば、彼もまた詰るが如く見返しつ。 「解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな」 「解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか」 「気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……」 「あれ、その事ではございませんてば」 「どうも非常に腹が空いて来ました」 「それとも貴方外にお約束でも遊ばした御方がお在なさるのでございますか」  彼終に鋒鋩を露し来れるよと思へば、貫一は猶解せざる体を作して、 「妙な事を聞きますね」  と苦笑せしのみにて続く言もあらざるに、満枝は図を外されて、やや心惑へるなりけり。 「さう云ふやうなお方がお在なさらなければ、……私貴方にお願があるのでございます」  貫一も今は屹と胸を据ゑて、 「うむ、解りました」 「ああ、お了解になりまして⁈」  嬉しと心を言へらんやうの気色にて、彼の猪口に余せし酒を一息に飲乾して、その盃をつと貫一に差せり。 「又ですか」 「是非!」  発に乗せられて貫一は思はず受ると斉く盈々注れて、下にも置れず一口附くるを見たる満枝が歓喜! 「その盃は清めてございませんよ」  一々底意ありて忽諸にすべからざる女の言を、彼はいと可煩くて持余せるなり。 「お了解になりましたら、どうぞ御返事を」 「その事なら、どうぞこれぎりにして下さい」  僅にかく言ひ放ちて貫一は厳かに沈黙しつ。満枝もさすがに酔を冷して、彼の気色を候ひたりしに、例の言寡なる男の次いでは言はざれば、 「私もこんな可耻い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」  貫一は緩かに頷けり。 「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」 「御尤です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹まず自分の考量をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆とは大きに考量が違つてをります。  第一、私は一生妻といふ者は決して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷めて、この商売を始めたのは、放蕩で遣損つたのでもなければ、敢て食窮めた訳でも有りませんので。書生が可厭さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外に幾多も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日盗を為すと謂はうか、病人の喉口を干すと謂はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択むものですか」  聴居る満枝は益す酔を冷されぬ。 「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日始めて知つたのではない、知つて身を堕したのは、私は当時敵手を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念極る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」  火影を避けんとしたる彼の目の中に遽に耀けるは、なほ新なる痛恨の涙の浮べるなり。 「実に頼少い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原はと云へば、金銭からです。仮初にも一匹の男子たる者が、金銭の為に見易へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一……一生忘れられんです。  軽薄でなければ詐、詐でなければ利慾、愛相の尽きた世の中です。それほど可厭な世の中なら、何為一思に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹と霽さなければ措かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚い、殆ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭ゆゑに売られもすれば、辱められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望も持たんのです。又考へて見ると、憖ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐か頼になりますよ。頼にならんのは人の心です!  先かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」  彼は仰ぎて高笑しつつも、その面は痛く激したり。  満枝は、彼の言の決して譌ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実にさるべき所見を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉を閉ぢて、詐と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙く望を失はざるなりき。 「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」 「疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌で、総ての人間を好まんのですから」 「それでは誠も誠も──命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」 「勿論! 別して惚れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」 「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解になりましても」 「高利貸の目には涙は無いですよ」  今は取付く島も無くて、満枝は暫し惘然としてゐたり。 「どうぞ御飯を頂戴」  打萎れつつ満枝は飯を盛りて出せり。 「これは恐入ります」  彼は啖ふこと傍に人無き若し。満枝の面は薄紅になほ酔は有りながら、酔へる体も無くて、唯打案じたり。 「貴方も上りませんか」  かく会釈して貫一は三盃目を易へつ。やや有りて、 「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣みて遽に応ふる能はず、唯目を挙げて女の顔を見たるのみ。 「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶を受けては、私実に面目無くて……余り悔うございますわ」  慌忙くハンカチイフを取りて、片手に恨泣の目元を掩へり。 「面目無くて私、この座が起れません。間さん、お察し下さいまし」  貫一は冷々に見返りて、 「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅の件に就いてのお話は?」  泣赤めたる目を拭ひて満枝は答へず。 「どう云ふお話ですか」 「そんな事はどうでも宜うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召して下さい。で、お可厭ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ」 「承知しました」 「もつと優い言をお聞せ下さいましな」 「私も覚えてゐます」 「もつと何とか有仰りやうが有りさうなものではございませんか」 「御志は決して忘れません。これなら宜いでせう」  満枝は物をも言はずつと起ちしが、飜然と貫一の身近に寄添ひて、 「お忘れあそばすな」と言ふさへに力籠りて、その太股を絶か撮れば、貫一は不意の痛に覆らんとするを支へつつ横様に振払ふを、満枝は早くも身を開きて、知らず顔に手を打鳴して婢を呼ぶなりけり。 第三章  赤坂氷川の辺に写真の御前と言へば知らぬ者無く、実にこの殿の出づるに写真機械を車に積みて随へざることあらざれば、自ら人目を逭れず、かかる異名は呼るるにぞありける。子細を明めずしては、「将棊の殿様」の流かとも想はるべし。あらず! 才の敏、学の博、貴族院の椅子を占めて優に高かるべき器を抱きながら、五年を独逸に薫染せし学者風を喜び、世事を抛ちて愚なるが如く、累代の富を控へて、無勘定の雅量を肆にすれども、なほ歳の入るものを計るに正に出づるに五倍すてふ、子爵中有数の内福と聞えたる田鶴見良春その人なり。  氷川なる邸内には、唐破風造の昔を摸せる館と相並びて、帰朝後起せし三層の煉瓦造の異きまで目慣れぬ式なるは、この殿の数寄にて、独逸に名ある古城の面影を偲びてここに象れるなりとぞ。これを文庫と書斎と客間とに充てて、万足らざる無き閑日月をば、書に耽り、画に楽み、彫刻を愛し、音楽に嘯き、近き頃よりは専ら写真に遊びて、齢三十四に迨べども頑として未だ娶らず。その居るや、行くや、出づるや、入るや、常に飄然として、絶えて貴族的容儀を修めざれど、自らなる七万石の品格は、面白う眉秀でて、鼻高く、眼爽に、形の清に揚れるは、皎として玉樹の風前に臨めるとも謂ふべくや、御代々御美男にわたらせらるるとは常に藩士の誇るところなり。  かかれば良縁の空からざること、蝶を捉へんとする蜘蛛の糸より繁しといへども、反顧だに為ずして、例の飄然忍びては酔の紛れの逸早き風流に慰み、内には無妻主義を主張して、人の諌などふつに用ゐざるなりけり。さるは、かの地に留学の日、陸軍中佐なる人の娘と相愛して、末の契も堅く、月下の小舟に比翼の櫂を操り、スプレイの流を指して、この水の終に涸るる日はあらんとも、我が恋の燄の消ゆる時あらせじ、と互の誓詞に詐はあらざりけるを、帰りて母君に請ふことありしに、いと太う驚かれて、こは由々しき家の大事ぞや。夷狄は□□よりも賤むべきに、畏くも我が田鶴見の家をばなでう禽獣の檻と為すべき。あな、可疎しの吾子が心やと、涙と共に掻口説きて、悲び歎きの余は病にさへ伏したまへりしかば、殿も所為無くて、心苦う思ひつつも、猶行末をこそ頼めと文の便を度々に慰めて、彼方も在るにあられぬ三年の月日を、憂きは死ななんと味気なく過せしに、一昨年の秋物思ふ積りやありけん、心自から弱りて、存へかねし身の苦悩を、御神の恵に助けられて、導かれし天国の杳として原ぬべからざるを、いとど可懐しの殿の胸は破れぬべく、ほとほと知覚の半をも失ひて、世と絶つの念益す深く、今は無尽の富も世襲の貴きも何にかはせんと、唯懐を亡き人に寄せて、形見こそ仇ならず書斎の壁に掛けたる半身像は、彼女が十九の春の色を苦に手写して、嘗て貽りしものなりけり。  殿はこの失望の極放肆遊惰の裏に聊か懐を遣り、一具の写真機に千金を擲ちて、これに嬉戯すること少児の如く、身をも家をも外にして、遊ぶと費すとに余念は無かりけれど、家令に畔柳元衛ありて、その人迂ならず、善く財を理し、事を計るに由りて、かかる疎放の殿を戴ける田鶴見家も、幸に些の破綻を生ずる無きを得てけり。  彼は貨殖の一端として密に高利の貸元を営みけるなり。千、二千、三千、五千、乃至一万の巨額をも容易に支出する大資本主たるを以て、高利貸の大口を引受くる輩のここに便らんとせざるはあらず。されども慧き畔柳は事の密なるを策の上と為して叨に利の為に誘はれず、始よりその藩士なる鰐淵直行の一手に貸出すのみにて、他は皆彼の名義を用ゐて、直接の取引を為さざれば、同業者は彼の那辺にか金穴あるを疑はざれども、その果して誰なるやを知る者絶えてあらざるなりき。  鰐淵の名が同業間に聞えて、威権をさをさ四天王の随一たるべき勢あるは、この資本主の後楯ありて、運転神助の如きに由るのみ。彼は元田鶴見の藩士にて、身柄は謂ふにも足らぬ足軽頭に過ぎざりしが、才覚ある者なりければ、廃藩の後出でて小役人を勤め、転じて商社に事へ、一時或は地所家屋の売買を周旋し、万年青を手掛け、米屋町に出入し、何れにしても世渡の茶を濁さずといふこと無かりしかど、皆思はしからで巡査を志願せしに、上官の首尾好く、竟には警部にまで取立てられしを、中ごろにして金これ権と感ずるところありて、奉職中蓄得たりし三百余円を元に高利貸を始め、世間の未だこの種の悪手段に慣れざるに乗じて、或は欺き、或は嚇し、或は賺し、或は虐げ、纔に法網を潜り得て辛くも繩附たらざるの罪を犯し、積不善の五六千円に達せし比、あだかも好し、畔柳の後見を得たりしは、虎に翼を添へたる如く、現に彼の今運転せる金額は殆ど数万に上るとぞ聞えし。  畔柳はこの手より穫るる利の半は、これを御殿の金庫に致し、半はこれを懐にして、鰐淵もこれに因りて利し、金は一にしてその利を三にせる家令が六臂の働は、主公が不生産的なるを補ひて猶余ありとも謂ふべくや。  鰐淵直行、この人ぞ間貫一が捨鉢の身を寄せて、牛頭馬頭の手代と頼まれ、五番町なるその家に四年の今日まで寄寓せるなり。貫一は鰐淵の裏二階なる八畳の一間を与へられて、名は雇人なれども客分に遇はれ、手代となり、顧問となりて、主の重宝大方ならざれば、四年の久きに弥れども主は彼を出すことを喜ばず、彼もまた家を構ふる必要無ければ、敢て留るを厭ふにもあらで、手代を勤むる傍若干の我が小額をも運転して、自ら営む便もあれば、今憖ひにここを出でて痩臂を張らんよりは、然るべき時節の到来を待つには如かじと分別せるなり。彼は啻に手代として能く働き、顧問として能く慮るのみをもて、鰐淵が信用を得たるにあらず、彼の齢を以てして、色を近けず、酒に親まず、浪費せず、遊惰せず、勤むべきは必ず勤め、為すべきは必ず為して、己を衒はず、他を貶めず、恭謹にしてしかも気節に乏からざるなど、世に難有き若者なり、と鰐淵は寧ろ心陰に彼を畏れたり。  主は彼の為人を知りし後、如此き人の如何にして高利貸などや志せると疑ひしなり、貫一は己の履歴を詐りて、如何なる失望の極身をこれに墜せしかを告げざるなりき。されども彼が高等中学の学生たりしことは後に顕れにき。他の一事の秘に至りては、今もなほ主が疑問に存すれども、そのままに年経にければ、改めて穿鑿もせられで、やがては、暖簾を分けて屹としたる後見は為てくれんと、鰐淵は常に疎ならず彼が身を念ひぬ。直行は今年五十を一つ越えて、妻なるお峯は四十六なり。夫は心猛く、人の憂を見ること、犬の嚏の如く、唯貪りて饜くを知らざるに引易へて、気立優しとまでにはあらねど、鬼の女房ながらも尋常の人の心は有てるなり。彼も貫一の偏屈なれども律義に、愛すべきところとては無けれど、憎ましきところとては猶更にあらぬを愛して、何くれと心着けては、彼の為に計りて善かれと祈るなりける。  いと幸ありける貫一が身の上哉。彼は世を恨むる余その執念の駆るままに、人の生ける肉を啖ひ、以つて聊か逆境に暴されたりし枯膓を癒さんが為に、三悪道に捨身の大願を発起せる心中には、百の呵責も、千の苦艱も固より期したるを、なかなかかかる寛なる信用と、かかる温き憐愍とを被らんは、羝羊の乳を得んとよりも彼は望まざりしなり。憂の中の喜なる哉、彼はこの喜を如何に喜びけるか。今は呵責をも苦艱をも敢て悪まざるべき覚悟の貫一は、この信用の終には慾の為に剥がれ、この憐愍も利の為に吝まるる時の目前なるべきを固く信じたり。 (三)の二  毒は毒を以て制せらる。鰐淵が債務者中に高利借の名にしおふ某党の有志家某あり。彼は三年来生殺の関係にて、元利五百余円の責を負ひながら、奸智を弄し、雄弁を揮ひ、大胆不敵に構へて出没自在の計を出し、鰐淵が老巧の術といへども得て施すところ無かりければ、同業者のこれに係りては、逆捩を吃ひて血反吐を噴されし者尠からざるを、鰐淵は弥よ憎しと思へど、彼に対しては銕桿も折れぬべきに持余しつるを、克はぬまでも棄措くは口惜ければ、せめては令見の為にも折々釘を刺して、再び那奴の翅を展べしめざらんに如かずと、昨日は貫一の曠らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。  彼は散々に飜弄せられけるを、劣らじと罵りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣らで壮に言争ひしが、病者に等き青二才と侮りし貫一の、陰忍強く立向ひて屈する気色あらざるより、有合ふ仕込杖を抜放し、おのれ還らずば生けては還さじと、二尺余の白刃を危く突付けて脅せしを、その鼻頭に待ひて愈よ動かざりける折柄、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来にけるが、これが為に彼の感じ易き神経は甚く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転た勝れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠れるなりけり。かかることありし翌日は夥く脳の憊るるとともに、心乱れ動きて、その憤りし後を憤り、悲みし後を悲まざれば已まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故に彼は折に触れつつその体の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸く慣れてけれど、彼の心は決してこの悪を作すに慣れざりき。唯能く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来終天の失望と恨との一日も忘るる能はざるが為に、その苦悶の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或は人の加ふる侮辱に堪へずして、神経の過度に亢奮せらるる為に、一日の調摂を求めざるべからざる微恙を得ることあり。  朗に秋の気澄みて、空の色、雲の布置匂はしう、金色の日影は豊に快晴を飾れる南受の縁障子を隙して、爽なる肌寒の蓐に長高く痩せたる貫一は横はれり。蒼く濁れる頬の肉よ、髐へる横顔の輪廓よ、曇の懸れる眉の下に物思はしき眼色の凝りて動かざりしが、やがて崩るるやうに頬杖を倒して、枕嚢に重き頭を落すとともに寝返りつつ掻巻引寄せて、拡げたりし新聞を取りけるが、見る間もあらず投遣りて仰向になりぬ。折しも誰ならん、階子を昇来る音す。貫一は凝然として目を塞ぎゐたり。紙門を啓けて入来れるは主の妻なり。貫一の慌てて起上るを、そのままにと制して、机の傍に坐りつ。 「紅茶を淹れましたからお上んなさい。少しばかり栗を茹でましたから」  手籃に入れたる栗と盆なる茶器とを枕頭に置きて、 「気分はどうです」 「いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様でございます」 「冷めない内にお上んなさい」  彼は会釈して珈琲茶碗を取上げしが、 「旦那は何時頃お出懸になりました」 「今朝は毎より早くね、氷川へ行くと云つて」  言ふも可疎しげに聞えけれど、さして貫一は意も留めず、 「はあ、畔柳さんですか」 「それがどうだか知れないの」  お峯は苦笑しつ。明なる障子の日脚はその面の小皺の読まれぬは無きまでに照しぬ。髪は薄けれど、櫛の歯通りて、一髪を乱さず円髷に結ひて顔の色は赤き方なれど、いと好く磨きて清に滑なり。鼻の辺に薄痘痕ありて、口を引窄むる癖あり。歯性悪ければとて常に涅めたるが、かかるをや烏羽玉とも謂ふべく殆ど耀くばかりに麗し。茶柳条のフラネルの単衣に朝寒の羽織着たるが、御召縮緬の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、 「何為ですか」  お峯は羽織の紐を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅へる風情なるを、強ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃なる栗を取りて剥きゐたり。彼は姑く打案ぜし後、 「あの赤樫の別品さんね、あの人は悪い噂が有るぢやありませんか、聞きませんか」 「悪い噂とは?」 「男を引掛けては食物に為るとか云ふ……」  貫一は覚えず首を傾けたり。曩の夜の事など思合すなるべし。 「さうでせう」 「一向聞きませんな。那奴男を引掛けなくても金銭には窮らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」 「だから可けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」 「はて、な」 「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方へお貸しなさい」 「これは憚様です」  お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々と手を束ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択みて、その頂よりナイフを加へつ。 「些と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人だから可いけれど、本当にあんな者に係合ひでもしたら大変ですよ」 「さう云ふ事が有りますかな」 「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣ると云ふのは評判ですよ。金窪さん、鷲爪さん、それから芥原さん、皆その話をしてゐましたよ」 「或はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」 「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内の人も同じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの──どうしたら可からうかと思つてね」  お峯がナイフを執れる手は漸く鈍くなりぬ。 「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」 「非常ですな」 「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」 「さうです」  お峯は又一つ取りて剥き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運は愈よ等閑なりき。 「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処きりの話ですからね」 「承知しました」  貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自から潜りぬ。 「どうも私はこの間から異いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫があの別品さんに係合を付けてゐやしないかと思ふの──どうもそれに違無いの!」  彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑して、 「そんな馬鹿な事が、貴方……」 「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房の私が……それはもう間違無しよ!」  貫一は熟と思ひ入りて、 「旦那はお幾歳でしたな」 「五十一、もう爺ですわね」  彼は又思案して、 「何ぞ証拠が有りますか」 「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの‼」  息巻くお峯の前に彼は面を俯して言はず、静に思廻らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言を継がざりしが、さて徐に、 「それはもう男の働とか云ふのだから、妾も楽も可うございます。これが芸者だとか、囲者だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡の代物ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落た沙汰ぢやありはしません。あんな者に係合つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下し渾成で、その奇麗事と謂つたら、何が日にも氷川へ行くのにあんなに靚した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」 「それが事実なら困りましたな」 「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」  貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒くて心苛つなるべし。 「はあ、事実とすれば弥よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」 「私は悋気で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手が悪いからねえ」  思ひ直せども貫一が腑には落ちざるなりけり。 「さうして、それは何頃からの事でございます」 「ついこの頃ですよ、何でも」 「然し、何にしろ御心配でせう」 「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処を突止めたいのだけれど、私の体ぢや戸外の様子が全然解らないのですものね」 「御尤」 「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」  行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉、紅茶と栗と、と貫一はその余に安く売られたるが独り可笑かりき。 「いえ、一向差支ございません。どういふ事ですか」 「さう? 余りお気の毒ね」  彼の赤き顔の色は耀くばかりに懽びぬ。 「御遠慮無く有仰つて下さい」 「さう? 本当に可いのですか」  お峯は彼が然諾の爽なるに遇ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧く覚ゆるなり。 「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若し行つたのなら、何頃行つて何頃帰つたか、なあに、十に九まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」 「では行つて参りませう」  彼は起ちて寝衣帯を解かんとすれば、 「お待ちなさいよ、今俥を呼びに遣るから」  かく言捨ててお峯は忙く階子を下行けり。  迹に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、 「女房に振られて、学士に成損つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」  と端無く思ひ浮べては漫に独り打笑れつ。 第四章  貫一は直に俥を飛して氷川なる畔柳のもとに赴けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入すべく、館の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣に取廻して、昔形気の内に幽しげに造成したる二階建なり。構の可慎う目立たぬに引易へて、木口の撰択の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。  貫一も彼の主もこの家に公然の出入を憚る身なれば、玄関側なる格子口より訪るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物は在らず。はや帰りしか、来ざりしか、或は未だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言にも符号すれども、直にこれを以て疑を容るべきにあらずなど思ひつつ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主の妻の声して、連に婢の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出で来て、 「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出でした」  眼のみいと大くて、病勝に痩衰へたる五体は燈心の如く、見るだに惨々しながら、声の明にして張ある、何処より出づる音ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂へるその人なり。年は五十路ばかりにて頭の霜繁く夫よりは姉なりとぞ。  貫一は屋敷風の恭き礼を作して、 「はい、今日は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方様へ伺ひましたでございませうか」 「いいえ、お出はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸りたいと申してをりましたところ。唯今御殿へ出てをりますので、些と呼びに遣りませうから、暫くお上んなすつて」  言はるるままに客間に通りて、端近う控ふれば、彼は井の端なりし婢を呼立てて、速々主の方へ走らせつ。莨盆を出し、番茶を出せしのみにて、納戸に入りける妻は再び出で来らず。この間は貫一は如何にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促き還来にける気勢せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。 「さあ唯今些と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方へお出なすつて。直其処ですよ。婢に案内を為せます。あの豊や!」  暇乞して戸口を出づれば、勝手元の垣の側に二十歳かと見ゆる物馴顔の婢の待てりしが、後さまに帯㕞ひつつ道知辺す。垣に沿ひて曲れば、玉川砂礫を敷きたる径ありて、出外るれば子爵家の構内にて、三棟並べる塗籠の背後に、桐の木高く植列ねたる下道の清く掃いたるを行窮れば、板塀繞らせる下屋造の煙突より忙しげなる煙立昇りて、折しも御前籠舁入るるは通用門なり。貫一もこれを入りて、余所ながら過来し厨に、酒の香、物煮る匂頻りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間に導かれぬ。 (四)の二  畔柳元衛の娘静緒は館の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持に召れて、高髷、変裏に粧を改め、お傍不去に麁略あらせじと冊くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子の半を昇行く後姿に、その客の如何に貴婦人なるかを窺ふべし。鬘ならではと見ゆるまでに結做したる円髷の漆の如きに、珊瑚の六分玉の後挿を点じたれば、更に白襟の冷豔物の類ふべき無く、貴族鼠の縐高縮緬の五紋なる単衣を曳きて、帯は海松色地に装束切摸の色紙散の七糸を高く負ひたり。淡紅色紋絽の長襦袢の裾は上履の歩に緩く匂零して、絹足袋の雪に嫋々なる山茶花の開く心地す。  この麗き容をば見返り勝に静緒は壁側に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯きて昇れるに、櫛の蒔絵のいと能く見えければ、ふとそれに目を奪はれつつ一段踏み失ねて、凄き響の中にあなや僵れんと為たり。幸に怪我は無かりけれど、彼はなかなか己の怪我などより貴客を駭かせし狼藉をば、得も忍ばれず満面に慚ぢて、 「どうも飛んだ麁相を致しまして……」 「いいえ。貴方本当に何処もお傷めなさりはしませんか」 「いいえ。さぞ吃驚遊ばしたでございませう、御免あそばしまして」  こ度は薄氷を蹈む想して一段を昇る時、貴婦人はその帯の解けたるを見て、 「些とお待ちなさい」  進寄りて結ばんとするを、心着きし静緒は慌て驚きて、 「あれ、恐入ります」 「可うございますよ。さあ、熟として」 「あれ、それでは本当に恐入りますから」  争ひ得ずして竟に貴婦人の手を労せし彼の心は、溢るるばかり感謝の情を起して、次いではこの優しさを桜の花の薫あらんやうにも覚ゆるなり。彼は女四書の内訓に出でたりとて屡ば父に聴さるる「五綵服を盛にするも、以つて身の華と為すに足らず、貞順道に率へば、乃ち以つて婦徳を進むべし」の本文に合ひて、かくてこそ始めて色に矜らず、その徳に爽かずとも謂ふべきなれ。愛でたき人にも遇へるかなと絶に思入りぬ。  三階に着くより静緒は西北の窓に寄り行きて、効々しく緑色の帷を絞り硝子戸を繰揚げて、 「どうぞ此方へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます」 「まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀が匂ひますね、お邸内に在りますの?」  貴婦人はこの秋霽の朗に濶くして心往くばかりなるに、夢など見るらん面色して佇めり。窓を争ひて射入る日影は斜にその姿を照して、襟留なる真珠は焚ゆる如く輝きぬ。塵をだに容さず澄みに澄みたる添景の中に立てる彼の容華は清く鮮に見勝りて、玉壺に白き花を挿したらん風情あり。静緒は女ながらも見惚れて、不束に眺入りつ。  その目の爽にして滴るばかり情の籠れる、その眉の思へるままに画き成せる如き、その口元の莟ながら香に立つと見ゆる、その鼻の似るものも無くいと好く整ひたる、肌理濃に光をさへ帯びたる、色の透るばかりに白き、難を求めなば、髪は濃くて瑩沢に、頭も重げに束ねられたれど、髪際の少く打乱れたると、立てる容こそ風にも堪ふまじく繊弱なれど、面の痩の過ぎたる為に、自ら愁う底寂きと、頸の細きが折れやしぬべく可傷きとなり。  されどかく揃ひて好き容量は未だ見ずと、静緒は心に驚きつつ、蹈外せし麁忽ははや忘れて、見据うる流盻はその物を奪はんと覘ふが如く、吾を失へる顔は間抜けて、常は顧らるる貌ありながら、草の花の匂無きやうに、この貴婦人の傍には見劣せらるること夥かり。彼は己の間抜けたりとも知らで、返す返すも人の上を思ひて止まざりき。実にこの奥方なれば、金時計持てるも、真珠の襟留せるも、指環を五つまで穿せるも、よし馬車に乗りて行かんとも、何をか愧づべき。婦の徳をさへ虧かでこの嬋娟に生れ得て、しかもこの富めるに遇へる、天の恵と世の幸とを併せ享けて、残る方無き果報のかくも痛き人もあるものか。美きは貧くて、売らざるを得ず、富めるは醜くて、買はざるを得ず、二者は愜はぬ世の習なるに、女ながらもかう生れたらんには、その幸は男にも過ぎぬべしなど、若き女は物羨の念強けれど、妬しとは及び難くて、静緒は心に畏るるなるべし。  彼は貴婦人の貌に耽りて、その欵待にとて携へ来つる双眼鏡を参らするをば気着かでゐたり。こは殿の仏蘭西より持ち帰られし名器なるを、漸く取出して薦めたり。形は一握の中に隠るるばかりなれど、能く遠くを望み得る力はほとほと神助と疑ふべく、筒は乳白色の玉もて造られ、僅に黄金細工の金具を施したるのみ。  やがて双眼鏡は貴婦人の手に在りて、措くを忘らるるまでに愛でられけるが、目の及ばぬ遠き限は南に北に眺尽されて、彼はこの鏡の凡ならず精巧なるに驚ける状なり。 「那処に遠く些の小楊枝ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄に赤い柳条の模様まで昭然見えて、さうして旗竿の頭に鳶が宿つてゐるが手に取るやう」 「おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度御座いませんさうで、招魂社のお祭の時などは、狼煙の人形が能く見えるのでございます。私はこれを見まする度にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜うございませう。余り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます」 「音が聞えたら、彼方此方の音が一所に成つて粉雑になつて了ひませう」  かく言ひて斉く笑へり。静緒は客遇に慣れたれば、可羞しげに見えながらも話を求むるには拙からざりき。 「私は始めてこれを見せて戴きました折、殿様に全然騙されましたのでございます。鼻の前に見えるだらうと仰せられますから、さやうにございますと申上げますと、見えたら直にその眼鏡を耳に推付けて見ろ、早くさへ耳に推付ければ、音でも声でも聞えると仰せられますので……」  淀無く語出づる静緒の顔を見入りつつ貴婦人は笑ましげに聴ゐたり。 「私は急いで推付けましたのでございます」 「まあ!」 「なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在でゐらつしやいましたが、皆為つて御覧遊ばしました」  貴婦人は怺へかねて失笑せり。 「あら、本当なのでございますよ。それで、未だ推付けやうが悪い、もつと早く早くと仰せられるものでございますから、御殿に居ります速水と申す者は余り急ぎましたので、耳の此処を酷く打ちまして、血を出したのでございます」  彼の歓べるを見るより静緒は椅子を持来りて薦めし後、さて語り続くるやう。 「それで誰にも聞えないのでございます。さやう致しますると、殿様は御自身に遊ばして御覧で、なるほど聞えない。どうしたのか知らんなんて、それは、もう実にお真面目なお顔で、わざと御考へあそばして、仏蘭西に居た時には能く聞えたのだが、日本は気候が違ふから、空気の具合が眼鏡の度に合はない、それで聞えないのだらうと仰せられましたのを、皆本当に致して、一年ばかり釣られてをりましたのでございます」  その名器を手にし、その耳にせし人を前にせる貴婦人の興を覚ゆることは、殿の悪作劇を親く睹たらんにも劣らざりき。 「殿様はお面白い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね」 「それでもこの二三年はどうも御気分がお勝れ遊ばしませんので、お険いお顔をしてゐらつしやるのでございます」  書斎に掛けたる半身の画像こそその病根なるべきを知れる貴婦人は、卒に空目遣して物の思はしげに、例の底寂う打湿りて見えぬ。  やや有りて彼は徐に立ち上りけるが、こ回は更に邇きを眺めんとて双眼鏡を取り直してけり。彼方此方に差向くる筒の当所も無かりければ、偶ま唐楪葉のいと近きが鏡面に入り来て一面に蔓りぬ。粒々の実も珍く、何の木かとそのまま子細に視たりしに、葉蔭を透きて人顔の見ゆるを、心とも無く眺めけるに、自から得忘れぬ面影に肖たるところあり。  貴婦人は差し向けたる手を緊と据ゑて、目を拭ふ間も忙く、なほ心を留めて望みけるに、枝葉の遮りてとかくに思ふままならず。漸くその顔の明に見ゆる隙を求めけるが、別に相対へる人ありて、髪は黒けれども真額の瑩々禿げたるは、先に挨拶に出でし家扶の畔柳にて、今一人なるその人こそ、眉濃く、外眦の昂れる三十前後の男なりけれ。得忘れぬ面影に肖たりとは未や、得忘れぬその面影なりと、ゆくりなくも認めたる貴婦人の鏡持てる手は兢々と打顫ひぬ。  行く水に数画くよりも儚き恋しさと可懐しさとの朝夕に、なほ夜昼の別も無く、絶えぬ思はその外ならざりし四年の久きを、熱海の月は朧なりしかど、一期の涙に宿りし面影は、なかなか消えもやらで身に添ふ幻を形見にして、又何日は必ずと念懸けつつ、雨にも風にも君が無事を祈りて、心は毫も昔に渝らねど、君が恨を重ぬる宮はここに在り。思ひに思ふのみにて別れて後の事は知らず、如何なる労をやさまでは積みけん、齢よりは面瘁して、異うも物々しき分別顔に老いにけるよ。幸薄く暮さるるか、着たるものの見好げにもあらで、なほ書生なるべき姿なるは何にか身を寄せらるるならんなど、思は置所無く湧出でて、胸も裂けぬべく覚ゆる時、男の何語りてや打笑む顔の鮮に映れば、貴婦人の目よりは涙すずろに玉の糸の如く流れぬ。今は堪へ難くて声も立ちぬべきに、始めて人目あるを暁りて失したりと思ひたれど、所為無くハンカチイフを緊く目に掩てたり。静緒の驚駭は謂ふばかり無く、 「あれ、如何が遊ばしました」 「いえ、なに、私は脳が不良ものですから、余り物を瞶めてをると、どうかすると眩暈がして涙の出ることがあるので」 「お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭をお摩り申上げませう」 「いえ、かうしてをると、今に直に癒ります。憚ですがお冷を一つ下さいましな」  静緒は驀地に行かんとす。 「あの、貴方、誰にも有仰らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽をすると言つて、持つて来て下さいましよ」 「はい、畏りました」  彼の階子を下り行くと斉く貴婦人は再び鏡を取りて、葉越の面影を望みしが、一目見るより漸含む涙に曇らされて、忽ち文色も分かずなりぬ。彼は静無く椅子に崩折れて、縦まに泣乱したり。 (四)の三  この貴婦人こそ富山宮子にて、今日夫なる唯継と倶に田鶴見子爵に招れて、男同士のシャンペンなど酌交す間を、請うて庭内を遊覧せんとて出でしにぞありける。  子爵と富山との交際は近き頃よりにて、彼等の孰も日本写真会々員たるに因れり。自ら宮の除物になりて二人の興に入れるは、想ふにその物語なるべし。富山はこの殿と親友たらんことを切望して、ひたすらその意を獲んと力めけるより、子爵も好みて交るべき人とも思はざれど、勢ひ疎じ難くして、今は会員中善く識れるものの最たるなり。爾来富山は益す傾慕して措かず、家にツィシアンの模写と伝へて所蔵せる古画の鑒定を乞ふを名として、曩に芝西久保なる居宅に請じて疎ならず饗す事ありければ、その返とて今日は夫婦を招待せるなり。  会員等は富山が頻に子爵に取入るを見て、皆その心を測りかねて、大方は彼為にするところあらんなど言ひて陋み合へりけれど、その実敢て為にせんとにもあらざるべし。彼は常にその友を択べり。富山が交るところは、その地位に於て、その名声に於て、その家柄に於て、或はその資産に於て、孰の一つか取るべき者ならざれば決して取らざりき。されば彼の友とするところは、それらの一つを以て優に彼以上に価する人士にあらざるは無し。実に彼は美き友を有てるなり。さりとて彼は未だ曾てその友を利用せし事などあらざれば、こたびも強に有福なる華族を利用せんとにはあらで、友として美き人なれば、かく勉めて交は求むるならん。故に彼はその名簿の中に一箇の憂を同うすべき友をだに見出さざるを知れり。抑も友とは楽を共にせんが為の友にして、若し憂を同うせんとには、別に金銭ありて、人の助を用ゐず、又決して用ゐるに足らずと信じたり。彼の美き友を択ぶは固よりこの理に外ならず、寔に彼の択べる友は皆美けれども、尽くこれ酒肉の兄弟たるのみ。知らず、彼はこれを以てその友に満足すとも、なほこれをその妻に於けるも然りと為すの勇あるか。彼が最愛の妻は、その一人を守るべき夫の目を眊めて、陋みても猶余ある高利貸の手代に片思の涙を灑ぐにあらずや。  宮は傍に人無しと思へば、限知られぬ涙に掻昏れて、熱海の浜に打俯したりし悲歎の足らざるをここに続がんとすなるべし。階下より仄に足音の響きければ、やうやう泣顔隠して、わざと頭を支へつつ室の中央なる卓子の周囲を歩みゐたり。やがて静緒の持来りし水に漱ぎ、懐中薬など服して後、心地復りぬとて又窓に倚りて外方を眺めたりしが、 「ちよいと、那処に、それ、男の方の話をしてお在の所も御殿の続きなのですか」 「何方でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする」 「お宅は? 御近所なのですか」 「はい、お邸内でございます。これから直に見えまする、あの、倉の左手に高い樅の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます」 「おや、さうで。それではこの下から直とお宅の方へ行かれますのね」 「さやうでございます。お邸の裏門の側でございます」 「ああさうですか。では些とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな」 「お邸内と申しても裏門の方は誠に穢うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです」  宮はここを去らんとして又葉越の面影を窺へり。 「付かない事をお聞き申すやうですが、那処にお父様とお話をしてゐらつしやるのは何地の方ですか」  彼の親達は常に出入せる鰐淵の高利貸なるを明さざれば、静緒は教へられし通りを告るなり。 「他は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買を致してをります者の手代で、間とか申しました」 「はあ、それでは違ふか知らん」  宮は聞えよがしに独語ちて、その違へるを訝るやうに擬しつつ又其方を打目戍れり。 「番町はどの辺で?」 「五番町だとか申しました」 「お宅へは始終見えるのでございますか」 「はい、折々参りますのでございます」  この物語に因りて宮は彼の五番町なる鰐淵といふに身を寄するを知り得たれば、この上は如何にとも逢ふべき便はあらんと、獲難き宝を獲たるにも勝れる心地せるなり。されどもこの後相見んことは何日をも計られざるに、願うては神の力も及ぶまじき今日の奇遇を仇に、余所ながら見て別れんは本意無からずや。若し彼の眼に睨まれんとも、互の面を合せて、言は交さずとも切ては相見て相知らばやと、四年を恋に饑ゑたる彼の心は熬るる如く動きぬ。  さすがに彼の気遣へるは、事の危きに過ぎたるなり。附添さへある賓の身にして、賤きものに遇はるる手代風情と、しかもその邸内の径に相見て、万一不慮の事などあらば、我等夫婦は抑や幾許り恥辱を受くるならん。人にも知られず、我身一つの恥辱ならんには、この面に唾吐るるも厭はじの覚悟なれど奇遇は棄つるに惜き奇遇ながら、逢瀬は今日の一日に限らぬものを、事の破を目に見て愚に躁るべきや。ゆめゆめ今日は逢ふべき機ならず、辛くとも思止まんと胸は据ゑつつも、彼は静緒を賺して、邸内を一周せんと、西洋館の後より通用門の側に出でて、外塀際なる礫道を行けば、静緒は斜に見ゆる父が詰所の軒端を指して、 「那処が唯今の客の参つてをります所でございます」  実に唐楪葉は高く立ちて、折しく一羽の小鳥来鳴けり。宮が胸は異うつと塞りぬ。  楼を下りてここに来たるは僅少の間なれば、よもかの人は未だ帰らざるべし、若しここに出で来らば如何にすべきなど、さすがに可恐きやうにも覚えて、歩は運べど地を踏める心地も無く、静緒の語るも耳には入らで、さて行くほどに裏門の傍に到りぬ。  遊覧せんとありしには似で、貴婦人の目を挙れども何処を眺むるにもあらず、俯き勝に物思はしき風情なるを、静緒は怪くも気遣くて、 「まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか」 「いいえ、もう大概良いのですけれど、未だ何だか胸が少し悪いので」 「それはお宜うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう」 「家の中よりは戸外の方が未だ可いので、もう些と歩いてゐる中には復りますよ。ああ、此方がお宅ですか」 「はい、誠に見苦い所でございます」 「まあ、奇麗な! 木槿が盛ですこと。白ばかりも淡白して好いぢやありませんか」  畔柳の住居を限として、それより前は道あれども、賓の足を容るべくもあらず、納屋、物干場、井戸端などの透きて見ゆる疎垣の此方に、樫の実の夥く零れて、片側に下水を流せる細路を鶏の遊び、犬の睡れるなど見るも悒きに、静緒は急ぎ返さんとせるなり。貴婦人もはや返さんとするとともに恐懼は忽ちその心を襲へり。  この一筋道を行くなれば、もしかの人の出来るに会はば、遁れんやうはあらで明々地に面を合すべし。さるは望まざるにもあらねど、静緒の見る目あるを如何にせん。仮令此方にては知らぬ顔してあるべきも、争でかの人の見付けて驚かざらん。固より恨を負へる我が身なれば、言など懸けらるべしとは想はねど、さりとてなかなか道行く人のやうには見過されざるべし。ここに宮を見たるその驚駭は如何ならん。仇に遇へるその憤懣は如何ならん。必ずかの人の凄う激せるを見ば、静緒は幾許我を怪むらん。かく思ひ浮ぶると斉く身内は熱して冷き汗を出し、足は地に吸るるかとばかり竦みて、宮はこれを想ふにだに堪へざるなりけり。脇道もあらば避けんと、静緒に問へば有らずと言ふ。知りつつもこの死地に陥りたるを悔いて、遣る方も無く惑へる宮が面色の穏からぬを見尤めて、静緒は窃に目を側めたり。彼はいとどその目を懼るるなるべし。今は心も漫に足を疾むれば、土蔵の角も間近になりて其処をだに無事に過ぎなば、と切に急がるる折しも、人の影は突としてその角より顕れつ。宮は眩きぬ。  これより帰りてともかくもお峯が前は好きやうに言譌へ、さて篤と実否を糺せし上にて私に為んやうも有らんなど貫一は思案しつつ、黒の中折帽を稍目深に引側め、通学に馴されし疾足を駆りて、塗籠の角より斜に桐の並木の間を出でて、礫道の端を歩み来れり。  四辺に往来のあるにあらねば、二人の姿は忽ち彼の目に入りぬ。一人は畔柳の娘なりとは疾く知られけれど、顔打背けたる貴婦人の眩く着飾りたるは、子爵家の客なるべしと纔に察せらるるのみ。互に歩み寄りて一間ばかりに近けば、貫一は静緒に向ひて慇懃に礼するを、宮は傍に能ふ限は身を窄めて密に流盻を凝したり。その面の色は惨として夕顔の花に宵月の映へる如く、その冷なるべきもほとほと、相似たりと見えぬ。脚は打顫ひ打顫ひ、胸は今にも裂けぬべく轟くを、覚られじとすれば猶打顫ひ猶轟きて、貫一が面影の目に沁むばかり見ゆる外は、生きたりとも死にたりとも自ら分かぬ心地してき。貫一は帽を打着て行過ぎんとする際に、ふと目鞘の走りて、館の賓なる貴婦人を一瞥せり。端無くも相互の面は合へり。宮なるよ! 姦婦なるよ! 銅臭の肉蒲団なるよ! とかつは驚き、かつは憤り、はたと睨めて動かざる眼には見る見る涙を湛へて、唯一攫にもせまほしく肉の躍るを推怺へつつ、窃に歯咬をなしたり。可懐しさと可恐しさと可耻しさとを取集めたる宮が胸の内は何に喩へんやうも無く、あはれ、人目だにあらずば抱付きても思ふままに苛まれんをと、心のみは憧れながら身を如何とも為難ければ、せめてこの誠は通ぜよかしと、見る目に思を籠むるより外はあらず。  貫一はつと踏出して始の如く足疾に過行けり。宮は附人に面を背けて、唇を咬みつつ歩めり。驚きに驚かされし静緒は何事とも弁へねど、推すべきほどには推して、事の秘密なるを思へば、賓の顔色のさしも常ならず変りて可悩しげなるを、問出でんも可や否やを料りかねて、唯可慎う引添ひて行くのみなりしが、漸く庭口に来にける時、 「大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出あそばして、お休み遊ばしましては如何でございます」 「そんなに顔色が悪うございますか」 「はい、真蒼でゐらつしやいます」 「ああさうですか、困りましたね。それでは彼方へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可けませんから、お庭を一周しまして、その内には気分が復りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方のお世話になりまして、お蔭様で私も……」 「あれ、飛んでもない事を有仰います」  貴婦人はその無名指より繍眼児の押競を片截にせる黄金の指環を抜取りて、懐紙に包みたるを、 「失礼ですが、これはお礼のお証に」  静緒は驚き怖れたるなり。 「はい……かう云ふ物を……」 「可うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様にも阿母様にも誰にも有仰らないやうに、ねえ」  受けじと為るを手籠に取せて、互に何も知らぬ顔して、木の間伝ひに泉水の麁朶橋近く寄る時、書院の静なるに夫の高笑するが聞えぬ。  宮はこの散歩の間に勉めて気を平げ、色を歛めて、ともかくも人目を逭れんと計れるなり。されどもこは酒を窃みて酔はざらんと欲するに同かるべし。  彼は先に遭ひし事の胸に鏤られたらんやうに忘るる能はざるさへあるに、なかなか朽ちも果てざりし恋の更に萠出でて、募りに募らんとする心の乱は、堪ふるに難き痛苦を齎して、一歩は一歩より、胸の逼ること急に、身内の血は尽くその心頭に注ぎて余さず熬らるるかと覚ゆるばかりなるに、かかる折は打寛ぎて意任せの我が家に独り居たらんぞ可き。人に接して強ひて語り、強ひて笑ひ、強ひて楽まんなど、あな可煩しと、例の劇く唇を咬みて止まず。  築山陰の野路を写せる径を行けば、蹈処無く地を這ふ葛の乱れ生ひて、草藤、金線草、紫茉莉の色々、茅萱、穂薄の露滋く、泉水の末を引きて𥻘々水を卑きに落せる汀なる胡麻竹の一叢茂れるに隠顕して苔蒸す石組の小高きに四阿の立てるを、やうやう辿り着きて貴婦人は艱しげに憩へり。  彼は静緒の柱際に立ちて控ふるを、 「貴方もお草臥でせう、あれへお掛けなさいな。未だ私の顔色は悪うございますか」  その色の前にも劣らず蒼白めたるのみならで、下唇の何に傷きてや、少く血の流れたるに、彼は太く驚きて、 「あれ、お唇から血が出てをります。如何あそばしました」  ハンカチイフもて抑へければ、絹の白きに柘榴の花弁の如く附きたるに、貴婦人は懐鏡取出して、咬むことの過ぎし故ぞと知りぬ。実に顔の色は躬も凄しと見るまでに変れるを、庭の内をば幾周して我はこの色を隠さんと為らんと、彼は心陰に己を嘲るなりき。  忽ち女の声して築山の彼方より、 「静緒さん、静緒さん!」  彼は走り行き、手を鳴して応へけるが、やがて木隠に語ふ気勢して、返り来ると斉く賓の前に会釈して、 「先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直に彼方へお出あそばしますやうに」 「おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから」  道を転じて静緒は雲帯橋の在る方へ導けり。橋に出づれば正面の書院を望むべく、はや所狭きまで盃盤を陳ねたるも見えて、夫は席に着きゐたり。  此方の姿を見るより子爵は縁先に出でて麾きつつ、 「そこをお渡りになつて、此方に燈籠がございませう、あの傍へ些とお出で下さいませんか。一枚像して戴きたい」  写真機は既に好き処に据ゑられたるなり。子爵は庭に下立ちて、早くもカメラの覆を引被ぎ、かれこれ位置を取りなどして、 「さあ、光線の具合が妙だ!」  いでや、事の様を見んとて、慢々と出来れるは富山唯継なり。片手には葉巻の半燻りしを撮み、片臂を五紋の単羽織の袖の内に張りて、鼻の下の延びて見ゆるやうの笑を浮べつつ、 「ああ、おまへ其処に居らんければ可かんよ、何為歩いて来るのかね」  子爵の慌てたる顔はこの時毛繻子の覆の内よりついと顕れたり。 「可けない! 那処に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙る? ──可けない! お手間は取せませんから、どうぞ」 「いや、貴方は巧い言をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い」 「この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方へ。静緒、お前奥さんを那処へお連れ申して」  唯継は目もて示して、 「お前、早く行かんけりや可かんよ、折角かうして御支度をなすつて下すつたのに、是非願ひな。ええ。あの燈籠の傍へ立つのだ。この機械は非常に結構なのだから是非願ひな。何も羞含むことは無いぢやないか、何羞含む訳ぢやない? さうとも羞含むことは無いとも、始終内で遣つてをるのに、あれで可いのさ。姿勢は私が見て遣るから早くおいで。燈籠へ倚掛つて頬杖でも拄いて、空を眺めてゐる状なども可いよ。ねえ、如何でせう」 「結構。結構」と子爵は頷けり。  心は進まねど強ひて否むべくもあらねば、宮は行きて指定の位置に立てるを、唯継は望み見て、 「さう棒立ちになつてをつちや可かんぢやないか。何ぞ持つてをる方が可いか知らんて」  かく呟きつつ庭下駄を引掛け、急ぎ行きて、その想へるやうに燈籠に倚しめ、頬杖を拄しめ、空を眺めよと教へて、袂の皺めるを展べ、裾の縺を引直し、さて好しと、少く退きて姿勢を見るとともに、彼はその面の可悩げに太くも色を変へたるを発見して、直に寄り来つ、 「どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処か不快のか、ええ。非常な血色だよ。どうした」 「少しばかり頭痛がいたすので」 「頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう」 「いいえ、それ程ではないので」 「苦いやうなら我慢をせんとも、私が訳を言つてお謝絶をするから」 「いいえ、宜うございますよ」 「可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから」 「宜うございますよ」 「さうか、然し非常に可厭な色だ」  彼は眷々として去る能はざるなり。待ちかねたる子爵は呼べり。 「如何ですか」  唯継は慌忙く身を開きて、 「一つこれで御覧下さい」  鏡面に照して二三の改むべきを注意せし後、子爵は種板を挿入るれば、唯継は心得てその邇を避けたり。  空を眺むる宮が目の中には焚ゆらんやうに一種の表情力充満ちて、物憂さの支へかねたる姿もわざとならず。色ある衣は唐松の翠の下蔭に章を成して、秋高き清遠の空はその後に舗き、四脚の雪見燈籠を小楯に裾の辺は寒咲躑躅の茂に隠れて、近きに二羽の鵞の汀に𩛰るなど、寧ろ画にこそ写さまほしきを、子爵は心に喜びつつ写真機の前に進み出で、今や鏡面を開かんと構ふる時、貴婦人の頬杖は忽ち頽れて、その身は燈籠の笠の上に折重なりて岸破と伏しぬ。 第五章  遊佐良橘は郷里に在りし日も、出京の遊学中も、頗る謹直を以て聞えしに、却りて、日本周航会社に出勤せる今日、三百円の高利の為に艱さるると知れる彼の友は皆驚けるなり。或ものは結婚費なるべしと言ひ、或ものは外を張らざるべからざる為の遣繰なるべしと言ひ、或ものは隠遊の風流債ならんと説くもありて、この不思議の負債とその美き妻とは、遊佐に過ぎたる物が二つに数へらるるなりき。されどもこは謂ふべからざる事情の下に連帯の印を仮せしが、形の如く腐れ込みて、義理の余毒の苦を受ると知りて、彼の不幸を悲むものは、交際官試補なる法学士蒲田鉄弥と、同会社の貨物課なる法学士風早庫之助とあるのみ。  凡そ高利の術たるや、渇者に水を売るなり。渇の甚く堪へ難き者に至りては、決してその肉を割きてこれを換ふるを辞せざるべし。この急に乗じてこれを売る、一杯の水もその値玉漿を盛るに異る無し。故に前後不覚に渇する者能くこれを買ふべし、その渇の癒るに及びては、玉漿なりとして喜び吃せしものは、素と下水の上澄に過ぎざるを悟りて、痛恨、痛悔すといへども、彼は約の如く下水の倍量をばその鮮血に搾りその活肉に割きて以て返さざるべからず。噫、世間の最も不敵なる者高利を貸して、これを借るは更に最も不敵なる者と為さざらんや。ここを以て、高利は借るべき人これを借りて始めて用ゐるべし。さらずばこれを借るの覚悟あるべきを要す。これ風早法学士の高利貸に対する意見の概要なり。遊佐は実にこの人にあらず、又この覚悟とても有らざるを、奇禍に罹れる哉と、彼は人の為ながら常にこの憂を解く能はざりき。  近きに郷友会の秋季大会あらんとて、今日委員会のありし帰さを彼等は三人打連れて、遊佐が家へ向へるなり。 「別に御馳走と云つては無いけれど、松茸の極新いのと、製造元から貰つた黒麦酒が有るからね、鶏でも買つて、寛り話さうぢやないか」  遊佐が弄れる半月形の熏豚の罐詰も、この設にとて途に求めしなり。  蒲田の声は朗々として聴くに快く、 蒲「それは結構だ。さう泊が知れて見ると急ぐにも当らんから、どうだね、一ゲエム。君はこの頃風早と対に成つたさうだが、長足の進歩ぢやないか。然し、どうもその長足のちやうはてう(貂)足らず、続ぐにフロックを以つて為るのぢやないかい。この頃は全然フロックが止つた? ははははは、それはお目出度いやうな御愁傷のやうな妙な次第だね。然し、フロックが止つたのは明に一段の進境を示すものだ。まあ、それで大分話せるやうになりました」  風早は例の皺嗄声して大笑を発せり。 風「更に一段の進境を示すには、竪杖をして二寸三分クロオスを裂かなければ可けません」 蒲「三たび臂を折つて良医となるさ。あれから僕は竪杖の極意を悟つたのだ」 風「へへへ、この頃の僕の後曳の手際も知らんで」  これを聞きて、こたびは遊佐が笑へり。 遊「君の後曳も口ほどではないよ。この間那処の主翁がさう言つてゐた、風早さんが後曳を三度なさると新いチョオクが半分失る……」 蒲「穿得て妙だ」 風「チョオクの多少は業の巧拙には関せんよ。遊佐が無闇に杖を取易へるのだつて、決して見とも好くはない」  蒲田は手もて遽に制しつ。 「もう、それで可い。他の非を挙げるやうな者に業の出来た例が無い。悲い哉君達の球も蒲田に八十で底止だね」 風「八十の事があるものか」 蒲「それでは幾箇で来るのだ」 「八十五よ」 「五とは情無い! 心の程も知られける哉だ」 「何でも可いから一ゲエム行かう」 「行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ」  語も訖らざるに彼は傍腹に不意の肱突を吃ひぬ。 「あ、痛! さう強く撞くから毎々球が滾げ出すのだ。風早の球は暴いから癇癪玉と謂ふのだし、遊佐のは馬鹿に柔いから蒟蒻玉。それで、二人の撞くところは電公と蚊帳が捫択してゐるやうなものだ」 風「ええ、自分がどれほど撞けるのだ」 蒲「さう、多度も行かんが、天狗の風早に二十遣るのさ」  二人は劣らじと諍ひし末、直に一番の勝負をいざいざと手薬煉引きかくるを、遊佐は引分けて、 「それは飲んでからに為やう。夜が長いから後で寛り出来るさ。帰つて風呂にでも入つて、それから徐々始めやうよ」  往来繁き町を湯屋の角より入れば、道幅その二分の一ばかりなる横町の物売る店も雑りながら閑静に、家並整へる中程に店蔵の質店と軒ラムプの並びて、格子木戸の内を庭がかりにしたる門に楪葉の立てるぞ遊佐が居住なる。  彼は二人を導きて内格子を開きける時、彼の美き妻は出で来りて、伴へる客あるを見て稍打惑へる気色なりしが、遽に笑を含みて常の如く迎へたり。 「さあ、どうぞお二階へ」 「座敷は?」と夫に尤められて、彼はいよいよ困じたるなり。 「唯今些と塞つてをりますから」 「ぢや、君、二階へどうぞ」  勝手を知れる客なれば傱々と長四畳を通りて行く跡に、妻は小声になりて、 「鰐淵から参つてをりますよ」 「来たか!」 「是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些とお会ひなすつて、早く還してお了ひなさいましな」 「松茸はどうした」  妻はこの暢気なる問に驚かされぬ。 「貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……」 「待てよ。それからこの間の黒麦酒な……」 「麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私は那奴が居ると思ふと不快な心持で」  遊佐も差当りて当惑の眉を顰めつ。二階にては例の玉戯の争なるべし、さも気楽に高笑するを妻はいと心憎く。  少間ありて遊佐は二階に昇り来れり。 蒲「浴に一つ行かうよ。手拭を貸してくれ給へな」 遊「ま、待ち給へ、今一処に行くから。時に弱つて了つた」  実に言ふが如く彼は心穏かならず見ゆるなり。 風「まあ、坐りたまへ。どうしたのかい」 遊「坐つてもをられんのだ、下に高利貸が来てをるのだよ」 蒲「那物が来たのか」 遊「先から座敷で帰来を待つてをつたのだ。困つたね!」  彼は立ちながら頭を抑へて緩く柱に倚れり。 蒲「何とか言つて逐返して了ひ給へ」 遊「なかなか逐返らんのだよ。陰忍した皮肉な奴でね、那奴に捉つたら耐らん」 蒲「二三円も叩き付けて遣るさ」 遊「もうそれも度々なのでね、他は書替を為せやうと掛つてゐるのだから、延期料を握つたのぢや今日は帰らん」  風早は聴ゐるだに心苦くて、 「蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮つて」 「これは外の談判と違つて唯金銭づくなのだから、素手で飛込むのぢや弁の奮ひやうが無いよ。それで忽諸すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀を為るから」  いと難しと思ひながらも、かくては果てじと、遊佐は気を取直して下り行くなりけり。 風「気の毒な、萎れてゐる。あれの事だから心配してゐるのだ。君、何とかして拯つて遣り給へな」 蒲「一つ行つて様子を見て来やう。なあに、そんなに心配するほどの事は無いのだよ。遊佐は気が小いから可かない。ああ云ふ風だから益す脚下を見られて好い事を為れるのだ。高が金銭の貸借だ、命に別条は有りはしないさ」 「命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼れるだらうぢやないか」 「ところが懼れない! 紳士たるものが高利を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利や無利息なんぞを借りるから見れば、夐に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭に窮らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為まいし、名誉に於て傷くところは少しも無い」 「恐入りました、高利を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな」 「で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚づべき行と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能はざるなりだらう。宋の時代であつたかね、何か乱が興つた。すると上奏に及んだものがある、これは師を動かさるるまでもない、一人の将を河上へ遣して、賊の方に向つて孝経を読せられた事ならば、賊は自から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割と吃つて一月隔に血を吮れる。そんな無法な目に遭ひながら、未だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族さ」  得意の快弁流るる如く、彼は息をも継せず説来りぬ。 「濡れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな悞だ。それは勿論借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物にして一物ならずだよ。武士の魂と商人根性とは元是一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容さんことは、武士の魂と敢て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟は敵に応ずる手段なのだ」 「それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利を借りて、栄と為るに足れりと謂ふに至つては……」  蒲田は恐縮せる状を作して、 「それは少し白馬は馬に非ずだつたよ」 「時に、もう下へ行つて見て遣り給へ」 「どれ、一匕深く探る蛟鰐の淵と出掛けやうか」 「空拳を奈んだらう」  一笑して蒲田は二階を下りけり。風早は独り臥つ起きつ安否の気遣れて苦き無聊に堪へざる折から、主の妻は漸く茶を持ち来りぬ。 「どうも甚だ失礼を致しました」 「蒲田は座敷へ参りましたか」  彼はその美き顔を少く赧めて、 「はい、あの居間へお出で、紙門越に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥くてなりません」 「なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません」 「私はもう彼奴が参りますと、惣毛竪つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭に陰気な韌々した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ」  急足に階子を鳴して昇り来りし蒲田は、 「おいおい風早、不思議、不思議」  と上端に坐れる妻の背後を過るとて絶かその足を蹈付けたり。 「これは失礼を。お痛うございましたらう。どうも失礼を」  骨身に沁みて痛かりけるを妻は赤くなりて推怺へつつ、さり気無く挨拶せるを、風早は見かねたりけん、 「不相変麁相かしいね、蒲田は」 「どうぞ御免を。つい慌てたものだから……」 「何をそんなに慌てるのさ」 「落付れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸と云ふのは、誰だと思ふ」 「君のと同し奴かい」 「人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか」 「これは失礼」 「僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面を蹈んだ」 「でも仕合と皮の厚いところで」 「怪しからん!」  妻の足の痛は忽ち下腹に転りて、彼は得堪へず笑ふなりけり。 風「常談どころぢやない、下では苦しんでゐる人があるのだ」 蒲「その苦しめてゐる奴だ、不思議ぢやないか、間だよ、あの間貫一だよ」  敵寄すると聞きけんやうに風早は身構へて、 「間貫一、学校に居た⁈」 「さう! 驚いたらう」  彼は長き鼻息を出して、空く眼を瞪りしが、 「本当かい」 「まあ、見て来たまへ」  別して呆れたるは主の妻なり。彼は鈍ましからず胸の跳るを覚えぬ。同じ思は二人が面にも顕るるを見るべし。 「下に参つてゐるのは御朋友なのでございますか」  蒲田は忙しげに頷きて、 「さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ」 「まあ!」 「夙て学校を罷めてから高利貸を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和い男で、高利貸などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか」 「まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう」 「さあ、そこで誰も虚と想ふのです」 「本にさうでございますね」  少き前に起ちて行きし風早は疑を霽して帰り来れり。 「どうだ、どうだ」 「驚いたね、確に間貫一!」 「アルフレッド大王の面影があるだらう」 「エッセクスを逐払はれた時の面影だ。然し彼奴が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう」 「さあ、あれで因業な事が出来るだらうか」 「因業どころではございませんよ」  主の妻はその美き顔を皺めたるなり。 蒲「随分酷うございますか」 妻「酷うございますわ」  こたびは泣顔せるなり。風早は決するところ有るが如くに余せし茶をば遽に取りて飲干し、 「然し間であるのが幸だ、押掛けて行つて、昔の顔で一つ談判せうぢやないか。我々が口を利くのだ、奴もさう阿漕なことは言ひもすまい。次手に何とか話を着けて、元金だけか何かに負けさして遣らうよ。那奴なら恐れることは無い」  彼の起ちて帯締直すを蒲田は見て、 「まるで喧嘩に行くやうだ」 「そんな事を言はずに自分も些と気凛とするが可い、帯の下へ時計の垂下つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか」 「うむ、成程」と蒲田も立上りて帯を解けば、主の妻は傍より、 「お羽織をお取りなさいましな」 「これは憚様です。些と身支度に婦人の心添を受けるところは堀部安兵衛といふ役だ。然し芝居でも、人数が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ」 「馬鹿な! 間如きに」 「急に強くなつたから可笑い。さあ。用意は好いよ」 「此方も可い」  二人は膝を正して屹と差向へり。 妻「お茶を一つ差上げませう」 蒲「どうしても敵討の門出だ。互に交す茶盃か」 第六章  座敷には窘める遊佐と沈着きたる貫一と相対して、莨盆の火の消えんとすれど呼ばず、彼の傍に茶托の上に伏せたる茶碗は、嘗て肺病患者と知らで出せしを恐れて除物にしたりしをば、妻の取出してわざと用ゐたるなり。  遊佐は憤を忍べる声音にて、 「それは出来んよ。勿論朋友は幾多も有るけれど、書替の連帯を頼むやうな者は無いのだから。考へて見給へ、何ぼ朋友の中だと云つても外の事と違つて、借金の連帯は頼めないよ。さう無理を言つて困らせんでも可いぢやないか」  貫一の声は重きを曳くが如く底強く沈みたり。 「敢て困らせるの、何のと云ふ訳ではありません。利は下さらず、書替は出来んと、それでは私の方が立ちません。何方とも今日は是非願はんければならんのでございます。連帯と云つたところで、固より貴方がお引受けなさる精神なれば、外の迷惑にはならんのですから、些の名義を借りるだけの話、それくらゐの事は朋友の誼として、何方でも承諾なさりさうなものですがな。究竟名義だけあれば宜いので、私の方では十分貴方を信用してをるのですから、決してその連帯者に掛らうなどとは思はんのです。ここで何とか一つ廉が付きませんと、私も主人に対して言訳がありません。利を受取る訳に行かなかつたから、書替をして来たと言へば、それで一先句切が付くのでありますから、どうぞ一つさう願ひます」  遊佐は答ふるところを知らざるなり。 「何方でも可うございます、御親友の内で一名」 「可かんよ、それは到底可かんのだよ」 「到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関るやうな手段も取らんければなりません」 「どうせうと言ふのかね」 「無論差押です」  遊佐は強ひて微笑を含みけれど、胸には犇と応へて、はや八分の怯気付きたるなり。彼は悶えて捩断るばかりにその髭を拈り拈りて止まず。 「三百円やそこらの端金で貴方の御名誉を傷けて、後来御出世の妨碍にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して可好くはないのです。けれども、此方の請求を容れて下さらなければ已むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます」 「それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金の上に借用当時から今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強、それと合して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書される! 余り馬鹿々々しくて話にならん。此方の身にも成つて少しは斟酌するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい」  空嘯きて貫一は笑へり。 「今更そんな事を!」  遊佐は陰に切歯をなしてその横顔を睨付けたり。  彼も逭れ難き義理に迫りて連帯の印捺きしより、不測の禍は起りてかかる憂き目を見るよと、太く己に懲りてければ、この際人に連帯を頼みて、同様の迷惑を懸くることもやと、断じて貫一の請求を容れざりき。さりとて今一つの請求なる利子を即座に払ふべき道もあらざれば、彼の進退はここに谷るとともに貫一もこの場は一寸も去らじと構へたれば、遊佐は羂に係れる獲物の如く一分時毎に窮する外は無くて、今は唯身に受くべき謂無き責苦を受けて、かくまでに悩まさるる不幸を恨み、飜りて一点の人情無き賤奴の虐待を憤る胸の内は、前後も覚えず暴れ乱れてほとほと引裂けんとするなり。 「第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか」 「先月の二十日にお払ひ下さるべきのを、未だにお渡が無いのですから、何日でも御催促は出来るのです」  遊佐は拳を握りて顫ひぬ。 「さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた」 「別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空く帰るその日当及び俥代として下すつたから戴きました。ですから、若しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう」 「貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……」 「それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜い訳なのです。まあ、過去つた事は措きまして……」 「措けんよ。過去りは為んのだ」 「今日はその事で上つたのではないのですから、今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有るのですな」 「出来ん!」 「で、金も下さらない?」 「無いから遣れん!」  貫一は目を側めて遊佐が面を熟と候へり。その冷に鋭き眼の光は異く彼を襲ひて、坐に熱する怒気を忘れしめぬ。遊佐は忽ち吾に復れるやうに覚えて、身の危きに処るを省みたり。一時を快くする暴言も竟に曳れ者の小唄に過ぎざるを暁りて、手持無沙汰に鳴を鎮めつ。 「では、何ごろ御都合が出来るのですか」  機を制して彼も劣らず和ぎぬ。 「さあ、十六日まで待つてくれたまへ」 「聢と相違ございませんか」 「十六日なら相違ない」 「それでは十六日まで待ちますから……」 「延期料かい」 「まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜うございませう」 「宜い事も無い……」 「不承を有仰るところは少しも有りはしません、その代り何分か今日お遣し下さい」  かく言ひつつ手鞄を開きて、約束手形の用紙を取出せり。 「銭は有りはせんよ」 「僅少で宜いので、手数料として」 「又手数料か! ぢや一円も出さう」 「日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり」 「五円なんと云ふ金円は有りはせん」 「それぢや、どうも」  彼は遽に躊躇して、手形用紙を惜めるやうに拈るなりけり。 「ええ、では三円ばかり出さう」  折から紙門を開きけるを弗と貫一の睼ふる目前に、二人の紳士は徐々と入来りぬ。案内も無くかかる内証の席に立入りて、彼等の各心得顔なるは、必ず子細あるべしと思ひつつ、彼は少く座を動ぎて容を改めたり。紳士は上下に分れて二人が間に坐りければ、貫一は敬ひて礼を作せり。 蒲「どうも曩から見たやうだ、見たやうだと思つてゐたら、間君ぢやないか」 風「余り様子が変つたから別人かと思つた。久く会ひませんな」  貫一は愕然として二人の面を眺めたりしが、忽ち身の熱するを覚えて、その誰なるやを憶出せるなり。 「これはお珍い。何方かと思ひましたら、蒲田君に風早君。久くお目に掛りませんでしたが、いつもお変無く」 蒲「その後はどうですか、何か当時は変つた商売をお始めですな──儲りませう」  貫一は打笑みて、 「儲りもしませんが、間違つてこんな事になつて了ひました」  彼の毫も愧づる色無きを見て、二人は心陰に呆れぬ。侮りし風早もかくては与し易からず思へるなるべし。 蒲「儲けづくであるから何でも可いけれど、然し思切つた事を始めましたね。君の性質で能くこの家業が出来ると思つて感服しましたよ」 「真人間に出来る業ぢやありませんな」  これ実に真人間にあらざる人の言なり。二人はこの破廉耻の老面皮を憎しと思へり。 蒲「酷いね、それぢや君は真人間でないやうだ」 「私のやうな者が憖ひ人間の道を守つてをつたら、とてもこの世の中は渡れんと悟りましたから、学校を罷めるとともに人間も罷めて了つて、この商売を始めましたので」 風「然し真人間時分の朋友であつた僕等にかうして会つてゐる間だけは、依旧真人間で居てもらひたいね」  風早は親しげに放笑せり。 蒲「さうさう、それ、あの時分浮名の聒かつた、何とか云つたけね、それ、君の所に居つた美人さ」  貫一は知らざる為してゐたり。 風「おおおおあれ? さあ、何とか云つたつけ」 蒲「ねえ、間君、何とか云つた」  よしその旧友の前に人間の面を赧めざる貫一も、ここに到りて多少の心を動かさざるを得ざりき。 「そんなつまらん事を」 蒲「この頃はあの美人と一所ですか、可羨い」 「もう昔話は御免下さい。それでは遊佐さん、これに御印を願ひます」  彼は矢立の筆を抽きて、手形用紙に金額を書入れんとするを、 風「ああ些と、その手形はどう云ふのですね」  貫一の簡単にその始末を述ぶるを聴きて、 「成程御尤、そこで少しお話を為たい」  蒲田は姑く助太刀の口を噤みて、皺嗄声の如何に弁ずるかを聴かんと、吃余の葉巻を火入に挿して、威長高に腕組して控へたり。 「遊佐君の借財の件ですがね、あれはどうか特別の扱をして戴きたいのだ。君の方も営業なのだから、御迷惑は掛けませんさ、然し旧友の頼と思つて、少し勘弁をしてもらひたい」  彼も答へず、これも少時は言はざりしが、 「どうかね、君」 「勘弁と申しますと?」 「究竟君の方に損の掛らん限は減けてもらひたいのだ。知つての通り、元金の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処は能く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹つたので、如何にも気の毒な次第。ところで、図らずも貸主が君と云ふので、轍鮒の水を得たる想で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林が従来三回に二百七十円の利を払つて在る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ」  貫一は冷笑せり。 「さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費はずに空に出るのだから随分辛い話、君の方は未だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前にはなつてゐる、此方は三百九十円の全損だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で」 「全でお話にならない」  秋の日は短しと謂はんやうに、貫一は手形用紙を取上げて、用捨無く約束の金額を書入れたり。一斉に彼の面を注視せし風早と蒲田との眼は、更に相合うて瞋れるを、再び彼方に差向けて、いとど厳く打目戍れり。 風「どうかさう云ふ事にしてくれたまへ」 貫「それでは遊佐さん、これに御印を願ひませう。日限は十六日、宜うございますか」  この傍若無人の振舞に蒲田の怺へかねたる気色なるを、風早は目授して、 「間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何とも手の着けやうが無い。対手が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君」 「私は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く」  遊佐はその独に計ひかねて覚束なげに頷くのみ。言はで忍びたりし蒲田の怒はこの時衝くが如く、 「待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰が門に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然き挨拶を為たまへ」 「お話がお話だから可然き御挨拶の為やうが無い」 「黙れ、間! 貴様の頭脳は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑したこの有様を、荒尾譲介に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱いでゐたぞ。その一言に対しても少しは良心の眠を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順く帰れ、帰れ」 「受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形はそれで一先附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして」  蒲田はこの手段を知るの経験あるなり。 「うん、宜い」 「ではさう為つて下さるか」 「うん、宜い」 「さう致せば又お話の付けやうもあります」 「然し気の毒だな、無利息、十個年賦は」 「ええ? 常談ぢやありません」  さすがに彼の一本参りしを、蒲田は誇りかに嘲笑しつ。 風「常談は措いて、いづれ四五日内に篤と話を付けるから、今日のところは、久しぶりで会つた僕等の顔を立てて、何も言はずに帰つてくれ給へな」 「さう云ふ無理を有仰るで、私の方も然るべき御挨拶が出来なくなるのです。既に遊佐さんも御承諾なのですから、この手形はお貰ひ申して帰ります。未だ外へ廻るで急ぎますから、お話は後日寛り伺ひませう。遊佐さん、御印を願ひますよ。貴方御承諾なすつて置きながら今になつて遅々なすつては困ります」 蒲「疫病神が戸惑したやうに手形々々と煩い奴だ。俺が始末をして遣らうよ」  彼は遊佐が前なる用紙を取りて、 蒲「金壱百拾七円……何だ、百拾七円とは」 遊「百十七円? 九十円だよ」 蒲「金壱百拾七円とこの通り書いてある」  かかる事は能く知りながら彼はわざと怪しむなりき。 遊「そんな筈は無い」  貫一は彼等の騒ぐを尻目に挂けて、 「九十円が元金、これに加へた二十七円は天引の三割、これが高利の定法です」  音もせざれど遊佐が胆は潰れぬ。 「お……ど……ろ……いたね!」  蒲田は物をも言はず件の手形を二つに引裂き、遊佐も風早もこれはと見る間に、猶も引裂き引裂き、引捩りて間が目先に投遣りたり。彼は騒げる色も無く、 「何を為るのです」 「始末をして遣つたのだ」 「遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな」  彼は間が非常手段を取らんとするよ、と心陰に懼を作して、 「いやさう云ふ訳ぢやない……」  蒲田は仡と膝を前めて、 「いや、さう云ふ訳だ!」  彼の鬼臉なるをいと稚しと軽しめたるやうに、間はわざと色を和げて、 「手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士」 「おお俺が法学士ならどうした」 「名実が相副はんと謂ふのです」 「生意気なもう一遍言つて見ろ」 「何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為さい」  蒲田が腕は電光の如く躍りて、猶言はんとせし貫一が胸先を諸掴に無図と捉りたり。 「間、貴様は……」  捩向けたる彼の面を打目戍りて、 「取つて投げてくれやうと思ふほど憎い奴でも、かうして顔を見合せると、白い二本筋の帽子を冠つて煖炉の前に膝を並べた時分の姿が目に附いて、嗚呼、順い間を、と力抜がして了ふ。貴様これが人情だぞ」  鷹に遭へる小鳥の如く身動し得為で押付けられたる貫一を、風早はさすがに憫然と見遣りて、 「蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ」 「さあ、間、どうだ」 「友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自から別問題……」  彼は忽ち吭迫りて言ふを得ず、蒲田は稍強く緊めたるなり。 「さあ、もつと言へ、言つて見ろ。言つたら貴様の呼吸が止るぞ」  貫一は苦しさに堪へで振釈かんと捥けども、嘉納流の覚ある蒲田が力に敵しかねて、なかなかその為すに信せたる幾分の安きを頼むのみなりけり。遊佐は驚き、風早も心ならず、 「おい蒲田、可いかい、死にはしないか」 「余り、暴くするなよ」  蒲田は哄然として大笑せり。 「かうなると金力よりは腕力だな。ねえ、どうしてもこれは水滸伝にある図だらう。惟ふに、凡そ国利を護り、国権を保つには、国際公法などは実は糸瓜の皮、要は兵力よ。万国の上には立法の君主が無ければ、国と国との曲直の争は抑も誰の手で公明正大に遺憾無く決せらるるのだ。ここに唯一つ審判の機関がある、曰く戦!」 風「もう釈してやれ、大分苦しさうだ」 蒲「強国にして辱められた例を聞かん、故に僕は外交の術も嘉納流よ」 遊「余り酷い目に遭せると、僕の方へ報つて来るから、もう舎してくれたまへな」  他の言に手は弛めたれど、蒲田は未だ放ちも遣らず、 「さあ、間、返事はどうだ」 「吭を緊められても出す音は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面を五百円の紙幣束でお撲きなさい」 「金貨ぢや可かんか」 「金貨、結構です」 「ぢや金貨だぞ!」  油断せる貫一が左の高頬を平手打に絶か吃すれば、呀と両手に痛を抑へて、少時は顔も得挙げざりき。蒲田はやうやう座に復りて、 「急には此奴帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為う」 「さあ、それも可からう」  独り可からぬは遊佐なり。 「ここで飲んぢや旨くないね。さうして形が付かなければ、何時までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞になつてこればかり遺られたら猶困る」 「宜い、帰去には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに」 「はい」 「貴様、妻君有るのか。おお、風早!」  と彼は横手を拍ちて不意に呌べば、 「ええ、吃驚する、何だ」 「憶出した。間の許婚はお宮、お宮」 「この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日ぢや大きに日済などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為しちや可かんよ。けれども高利貸などは、これで却つて女子には温いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪る所以の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨を殖へるやうだがな、譬へば、軍用金を聚めるとか、お家の宝を質請するとか。単に己の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多のガリガリ亡者は論外として、間貫一に於ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存するのだらう」  秋の日は忽ち黄昏れて、稍早けれど燈を入るるとともに、用意の酒肴は順を逐ひて運び出されぬ。 「おつと、麦酒かい、頂戴。鍋は風早の方へ、煮方は宜くお頼み申しますよ。うう、好い松茸だ。京でなくてはかうは行かんよ──中が真白で、庖丁が軋むやうでなくては。今年は不作だね、瘠せてゐて、虫が多い、あの雨が障つたのさ。間、どうだい、君の目的は」 「唯貨が欲いのです」 「で、その貨をどうする」 「つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです」 風「まあ、これを一盃飲んで、今日は機嫌好く帰つてくれ給へ」 蒲「そら、お取次だ」 「私は酒は不可のです」 蒲「折角差したものだ」 「全く不可のですから」  差付けらるるを推除くる機に、コップは脆くも蒲田の手を脱れば、莨盆の火入に抵りて発矢と割れたり。 「何を為る!」  貫一も今は怺へかねて、 「どうしたと!」  やをら起たんと為るところを、蒲田が力に胸板を衝れて、一耐もせず仰様に打僵けたり。蒲田はこの隙に彼の手鞄を奪ひて、中なる書類を手信に掴出せば、狂気の如く駈寄る貫一、 「身分に障るぞ!」と組み付くを、利腕捉つて、 「黙れ!」と捩伏せ、 「さあ、遊佐、その中に君の証書が在るに違無いから、早く其奴を取つて了ひ給へ」  これを聞きたる遊佐は色を変へぬ。風早も事の余に暴なるを快しと為ざるなりき。貫一は駭きて、撥返さんと右に左に身を揉むを、蹈跨りて捩揚げ捩揚げ、蒲田は声を励して、 「この期に及んで! 躊躇するところでないよ。早く、早く、早く! 風早、何を考へとる。さあ、遊佐、ええ、何事も僕が引受けたから、かまはず遣り給へ。証書を取つて了へば、後は細工はりうりう僕が心得てゐるから、早く探したまへと言ふに」  手を出しかねたる二人を睨廻して、蒲田はなかなか下に貫一の悶ゆるにも劣らず、独り業を沸して、効無き地鞴を踏みてぞゐたる。 風「それは余り遣過ぎる、善くない、善くない」 「善いも悪いもあるものか、僕が引受けたからかまはんよ。遊佐、君の事ぢやないか、何を懵然してゐるのだ」  彼はほとほと慄きて、寧ろ蒲田が腕立の紳士にあるまじきを諌めんとも思へるなり。腰弱き彼等の与するに足らざるを憤れる蒲田は、宝の山に入りながら手を空うする無念さに、貫一が手も折れよとばかり捩上れば、 「ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから」 「ええ聒い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ」  かく言捨てて蒲田は片手して己の帯を解かんとすれば、時計の紐の生憎に絡るを、躁りに躁りて引放さんとす。 風「独でどうするのだよ」  彼はさすがに見かねて手を仮さんと寄り進みつ。 蒲「どうするものか、此奴を蹈縛つて置いて、僕が証書を探すわ」 「まあ、余り穏でないから、それだけは思ひ止り給へ。今間も話を付けると言つたから」 「何か此奴の言ふ事が!」  間は苦き声を搾りて、 「きつと話を付けるから、この手を釈してくれ給へ」 風「きつと話を付けるな──此方の要求を容れるか」 間「容れる」  詐とは知れど、二人の同意せざるを見て、蒲田もさまではと力挫けて、竟に貫一を放ちてけり。  身を起すとともに貫一は落散りたる書類を掻聚め、鞄を拾ひてその中に捩込み、さて慌忙く座に復りて、 「それでは今日はこれでお暇をします」  蒲田が思切りたる無法にこの長居は危しと見たれば、心に恨は含みながら、陽には克はじと閉口して、重ねて難題の出でざる先にとかくは引取らんと為るを、 「待て待て」と蒲田は下司扱に呼掛けて、 「話を付けると言つたでないか。さあ、約束通り要求を容れん内は、今度は此方が還さんぞ」  膝推向けて迫寄る気色は、飽くまで喧嘩を買はんとするなり。 「きつと要求は容れますけれど、嚮から散々の目に遭されて、何だか酷く心持が悪くてなりませんから、今日はこれで還して下さいまし。これは長座をいたしてお邪魔でございました。それでは遊佐さん、いづれ二三日の内に又上つてお話を願ひます」  忽ち打つて変りし貫一の様子に蒲田は冷笑して、 「間、貴様は犬の糞で仇を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今毎でも蒲田が現れて取挫いで遣るから」 「間も男なら犬の糞ぢや仇は取らない」 「利いた風なことを言ふな」 風「これさ、もう好加減にしないかい。間も帰り給へ。近日是非篤と話をしたいから、何事もその節だ。さあ、僕が其処まで送らう」  遊佐と風早とは起ちて彼を送出せり。主の妻は縁側より入り来りぬ。 「まあ、貴方、お蔭様で難有う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう」 「や、これは。些と壮士芝居といふところを」 「大相宜い幕でございましたこと。お酌を致しませう」  件の騒動にて四辺の狼藉たるを、彼は効々しく取形付けてゐたりしが、二人はやがて入来るを見て、 「風早さん、どうもお蔭様で助りました、然し飛んだ御迷惑様で。さあ、何も御坐いませんけれど、どうぞ貴下方御寛り召上つて下さいまし」  妻の喜は溢るるばかりなるに引易へて、遊佐は青息呴きて思案に昏れたり。 「弱つた! 君がああして取緊めてくれたのは可いが、この返報に那奴どんな事を為るか知れん。明日あたり突然と差押などを吃せられたら耐らんな」 「余り蒲田が手酷い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前を考へて遣つてくれなくては他迷惑だらうぢやないか」 「まあ、待ち給へと言ふことさ」  蒲田は袂の中を撈りて、揉皺みたる二通の書類を取出しつ。 風「それは何だ」 遊「どうしたのさ」  何ならんと主の妻も鼻の下を延べて窺へり。 風「何だか僕も始めてお目に掛るのだ」  彼は先づその一通を取りて披見るに、鰐淵直行に対する債務者は聞きも知らざる百円の公正証書謄本なり。  二人は蒲田が案外の物持てるに驚されて、各息を凝して瞪れる眼を動さず。蒲田も無言の間に他の一通を取りて披けば、妻はいよいよ近きて差覗きつ。四箇の頭顱はラムプの周辺に麩に寄る池の鯉の如く犇と聚れり。 「これは三百円の証書だな」  一枚二枚と繰り行けば、債務者の中に鼻の前なる遊佐良橘の名をも署したり、蒲田は弾機仕掛のやうに躍り上りて、 「占めた! これだこれだ」  驚喜の余り身を支へ得ざる遊佐の片手は鶤の鉢の中にすつぱと落入り、乗出す膝頭に銚子を薙倒して、 「僕のかい、僕のかい」 「どう、どう、どう」と証書を取らんとする風早が手は、筋の活動を失へるやうにて幾度も捉へ得ざるなりき。 「まあ!」と叫びし妻は忽ち胸塞りて、その後を言ふ能はざるなり。蒲田は手の舞ひ、膝の蹈むところを知らず、 「占めたぞ! 占めたぞ‼ 難有い!!!」  証書は風早の手に移りて、遊佐とその妻と彼と六の目を以て子細にこれを点検して、その夢ならざるを明めたり。 「君はどうしたのだ」  風早の面はかつ呆れ、かつ喜び、かつ懼るるに似たり。やがて証書は遊佐夫婦の手に渡りて、打拡げたる二人が膝の上に、これぞ比翼読なるべき。更に麦酒の満を引きし蒲田は「血は大刀に滴りて拭ふに遑あらざる」意気を昂げて、 「何と凄からう。奴を捩伏せてゐる中に脚で掻寄せて袂へ忍ばせたのだ──早業さね」 「やはり嘉納流にあるのかい」 「常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝さ」 「遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ」 「それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘ふ敵の証書ならんとは、全く天の善に与するところだ」 風「余り善でもない。さうしてあれを此方へ取つて了へば、三百円は蹈めるのかね」 蒲「大蹈め! 少し悪党になれば蹈める」 風「然し、公正証書であつて見ると……」 蒲「あつても差支無い。それは公証人役場には証書の原本が備付けてあるから、いざと云ふ日にはそれが物を言ふけれど、この正本さへ引揚げてあれば、間貫一いくら地動波動したつて『河童の皿に水の乾いた』同然、かうなれば無証拠だから、矢でも鉄砲でも持つて来いだ。然し、全然蹈むのもさすがに不便との思召を以つて、そこは何とか又色を着けて遣らうさ。まあまあ君達は安心してゐたまへ。蒲田弁理公使が宜く樽爼の間に折衝して、遊佐家を泰山の安きに置いて見せる。嗚呼、実に近来の一大快事だ!」  人々の呆るるには目も掛けず、蒲田は証書を推戴き推戴きて、 「さあ、遊佐君の為に万歳を唱へやう。奥さん、貴方が音頭をお取んなさいましよ──いいえ、本当に」  小心なる遊佐はこの非常手段を極悪大罪と心安からず覚ゆるなれど、蒲田が一切を引受けて見事に埒開けんといふに励されて、さては一生の怨敵退散の賀と、各漫に前む膝を聚めて、長夜の宴を催さんとぞ犇いたる。 第七章  茫々たる世間に放れて、蚤く骨肉の親むべき無く、況や愛情の温むるに会はざりし貫一が身は、一鳥も過ぎざる枯野の広きに塊然として横はる石の如きものなるべし。彼が鴫沢の家に在りける日宮を恋ひて、その優き声と、柔き手と、温き心とを得たりし彼の満足は、何等の楽をも以外に求むる事を忘れしめき。彼はこの恋人をもて妻とし、生命として慊らず、母の一部分となし、妹の一部分となし、或は父の、兄の一部分とも為して宮の一身は彼に於ける愉快なる家族の団欒に値せしなり、故に彼の恋は青年を楽む一場の風流の麗き夢に似たる類ならで、質はその文に勝てるものなりけり。彼の宮に於けるは都ての人の妻となすべき以上を妻として、寧ろその望むところ多きに過ぎずやと思はしむるまでに心に懸けて、自はその至当なるを固く信ずるなりき。彼はこの世に一人の宮を得たるが為に、万木一時に花を着くる心地して、曩の枯野に夕暮れし石も今将た水に温み、霞に酔ひて、長閑なる日影に眠る如く覚えけんよ。その恋のいよいよ急に、いよいよ濃になり勝れる時、人の最も憎める競争者の為に、しかも輙く宮を奪はれし貫一が心は如何なりけん。身をも心をも打委せて詐ることを知らざりし恋人の、忽ち敵の如く己に反きて、空く他人に嫁するを見たる貫一が心は更に如何なりけん。彼はここに於いて曩に半箇の骨肉の親むべきなく、一点の愛情の温むるに会はざりし凄寥を感ずるのみにて止らず、失望を添へ、恨を累ねて、かの塊然たる野末の石は、霜置く上に凩の吹誘ひて、皮肉を穿ち来る人生の酸味の到頭骨に徹する一種の痛苦を悩みて已まざるなりき。実に彼の宮を奪れしは、その甞て与へられし物を取去られし上に、与へられざりし物をも併せて取去られしなり。  彼は或はその恨を抛つべし、なんぞその失望をも忘れざらん。されども彼は永くその痛苦を去らしむる能はざるべし、一旦太くその心を傷けられたるかの痛苦は、永くその心の存在と倶に存在すべければなり。その業務として行はざるべからざる残忍刻薄を自ら強ふる痛苦は、能く彼の痛苦と相剋して、その間聊か思を遣るべき余地を窃み得るに慣れて、彼は漸く忍ぶべからざるを忍びて為し、恥づべきをも恥ぢずして行ひけるほどに、勁敵に遇ひ、悪徒に罹りて、或は弄ばれ、或は欺かれ、或は脅され勢毒を以つて制し、暴を以つて易ふるの已むを得ざるより、一はその道の習に薫染して、彼は益す懼れず貪るに至れるなり。同時に例の不断の痛苦は彼を撻つやうに募ることありて、心も消々に悩まさるる毎に、齷齰利を趁ふ力も失せて、彼はなかなか死の安きを懐はざるにあらず。唯その一旦にして易く、又今の空き死を遂げ了らんをば、いと効為しと思返して、よし遠くとも心に期するところは、なでう一度前の失望と恨とを霽し得て、胸裡の涼きこと、氷を砕いて明鏡を磨ぐが如く為ざらん、その夕ぞ我は正に死ぬべきと私に慰むるなりき。  貫一は一はかの痛苦を忘るる手段として、一はその妄執を散ずべき快心の事を買はんの目的をもて、かくは高利を貪れるなり。知らず彼がその夕にして瞑せんとする快心の事とは何ぞ。彼は尋常復讐の小術を成して、宮に富山に鴫沢に人身的攻撃を加へて快を取らんとにはあらず、今少く事の大きく男らしくあらんをば企図せるなり。然れども、痛苦の劇く、懐旧の恨に堪へざる折々、彼は熱き涙を握りて祈るが如く嘆ちぬ。 「唉、こんな思を為るくらゐなら、いつそ潔く死んだ方が夐に勝だ。死んでさへ了へば万慮空くこの苦艱は無いのだ。それを命が惜くもないのに死にもせず……死ぬのは易いが、死ぬことの出来んのは、どう考へても余り無念で、この無念をこのままに胸に納めて死ぬことは出来んのだ。貨が有つたら何が面白いのだ。人に言はせたら、今俺の貯へた貨は、高が一人の女の宮に換へる価はあると謂ふだらう。俺には無い! 第一貨などを持つてゐるやうな気持さへ為んぢやないか。失望した身にはその望を取復すほどの宝は無いのだ。唉、その宝は到底取復されん。宮が今罪を詑びて夫婦になりたいと泣き付いて来たとしても、一旦心を変じて、身まで涜された宮は、決して旧の宮ではなければ、もう間の宝ではない。間の宝は五年前の宮だ。その宮は宮の自身さへ取復す事は出来んのだ。返す返す恋いのは宮だ。かうしてゐる間も宮の事は忘れかねる、けれど、それは富山の妻になつてゐる今の宮ではない、噫、鴫沢の宮! 五年前の宮が恋い。俺が百万円を積んだところで、昔の宮は獲られんのだ! 思へば貨もつまらん。少いながらも今の貨が熱海へ追つて行つた時の鞄の中に在つたなら……ええ‼」  頭も打割るるやうに覚えて、この以上を想ふ能はざる貫一は、ここに到りて自失し了るを常とす。かかる折よ、熱海の浜に泣倒れし鴫沢の娘と、田鶴見の底に逍遙せし富山が妻との姿は、双々貫一が身辺を彷徨して去らざるなり。彼はこの痛苦の堪ふべからざるに任せて、ほとほと前後を顧ずして他の一方に事を為すより、往々その性の為す能はざるをも為して、仮さざること仇敵の如く、債務を逼りて酷を極むるなり。退いてはこれを悔ゆるも、又折に触れて激すれば、忽ち勢に駆られて断行するを憚らざるなり。かくして彼の心に拘ふ事あれば、自ら念頭を去らざる痛苦をもその間に忘るるを得べく、素より彼は正を知らずして邪を為し、是を喜ばずして非を為すものにあらざれば、己を抂げてこれを行ふ心苦しさは俯して愧ぢ、仰ぎて懼れ、天地の間に身を置くところは、纔にその容るる空間だに猶濶きを覚ゆるなれど、かの痛苦に較べては、夐に忍ぶの易く、体のまた胖なるをさへ感ずるなりけり。  一向に神を労し、思を費して、日夜これを暢るに遑あらぬ貫一は、肉痩せ、骨立ち、色疲れて、宛然死水などのやうに沈鬱し了んぬ。その攅めたる眉と空く凝せる目とは、体力の漸く衰ふるに反して、精神の愈よ興奮するとともに、思の益す繁く、益す乱るるを、従ひて芟り、従ひて解かんとすれば、なほも繁り、なほも乱るるを、竟に如何に為ばや、と心も砕けつつ打悩めるを示せり。更に見よ、漆のやうに鮮潤なりし髪は、後脳の辺に若干の白きを交へて、額に催せし皺の一筋長く横はれるぞ、その心の窄れる襞ならざるべき、況んや彼の面を蔽へる蔭は益す暗きにあらずや。  吁、彼はその初一念を遂げて、外面に、内心に、今は全くこの世からなる魔道に墜つるを得たりけるなり。貪欲界の雲は凝りて歩々に厚く護り、離恨天の雨は随所直に灑ぐ、一飛一躍出でては人の肉を啖ひ、半生半死入りては我と膓を劈く。居る所は陰風常に廻りて白日を見ず、行けども行けども無明の長夜今に到るまで一千四百六十日、逢へども可懐き友の面を知らず、交れども曾て情の蜜より甘きを知らず、花咲けども春日の麗なるを知らず、楽来れども打背きて歓ぶを知らず、道あれども履むを知らず、善あれども与するを知らず、福あれども招くを知らず、恵あれども享くるを知らず、空く利欲に耽りて志を喪ひ、偏に迷執に弄ばれて思を労らす、吁、彼は終に何をか成さんとすらん。間貫一の名は漸く同業者間に聞えて、恐るべき彼の未来を属目せざるはあらずなりぬ。  かの堪ふべからざる痛苦と、この死をも快くせんとする目的とあるが為に、貫一の漸く頻なる厳談酷促は自から此処に彼処に債務者の怨を買ひて、彼の為に泣き、彼の為に憤るもの寡からず、同業者といへども時としては彼の余に用捨無きを咎むるさへありけり。独り鰐淵はこれを喜びて、強将の下弱卒を出さざるを誇れるなり。彼は己の今日あるを致せし辛抱と苦労とは、未だ如此くにして足るものならずとて、屡ばその例を挙げては貫一を𠹤し、飽くまで彼の意を強うせんと勉めき。これが為に慰めらるるとにはあらねど、その行へる残忍酷薄の人の道に欠けたるを知らざるにあらぬ貫一は、職業の性質既に不法なればこれを営むの非道なるは必然の理にて、己の為すところは都ての同業者の為すところにて、己一人の残刻なるにあらず、高利貸なる者は、世間一様に如此く残刻ならざるべからずと念へるなり。故に彼は決して己の所業のみ独り怨を買ふべきにあらずと信じたり。  実に彼の頼める鰐淵直行の如きは、彼の辛うじてその半を想ひ得る残刻と、終に学ぶ能はざる譎詐とを左右にして、始めて今日の富を得てしなり。この点に於ては彼は一も二も無く貫一の師表たるべしといへども、その実さばかりの残刻と譎詐とを擅にして、なほ天に畏れず、人に憚らざる不敵の傲骨あるにあらず。彼は密に警めて多く夜出でず、内には神を敬して、得知れぬ教会の大信者となりて、奉納寄進に財を吝まず、唯これ身の無事を祈るに汲々として、自ら安ずる計をなせり。彼は年来非道を行ひて、なほこの家栄え、身の全きを得るは、正にこの信心の致すところと仕へ奉る御神の冥護を辱なみて措かざるなりき。貫一は彼の如く残刻と譎詐とに勇ならざりけれど、又彼の如く敬神と閉居とに怯ならず、身は人と生れて人がましく行ひ、一も曾て犯せる事のあらざりしに、天は却りて己を罰し人は却りて己を詐り、終生の失望と遺恨とは濫に断膓の斧を揮ひて、死苦の若かざる絶痛を与ふるを思ひては、彼はよし天に人に憤るところあるも、懼るべき無しと為るならん。貫一の最も懼れ、最も憚るところは自の心のみなりけり。 第八章  用談果つるを俟ちて貫一の魚膠無く暇乞するを、満枝は暫しと留置きて、用有りげに奥の間にぞ入りたる。その言の如く暫し待てども出で来ざれば、又巻莨を取出しけるに、手炉の炭は狼の糞のやうになりて、いつか火の気の絶えたるに、檀座に毛糸の敷物したる石笠のラムプの燄を仮りて、貫一は為う事無しに煙を吹きつつ、この赤樫の客間を夜目ながら眗しつ。  袋棚なる置時計は十時十分前を指せり。違棚には箱入の人形を大小二つ並べて、その下は七宝焼擬の一輪挿、蝋石の飾玉を水色縮緬の三重の褥に載せて、床柱なる水牛の角の懸花入は松に隼の勧工場蒔絵金々として、花を見ず。鋳物の香炉の悪古びに玄ませたると、羽二重細工の花筐とを床に飾りて、雨中の富士をば引攪旋したるやうに落墨して、金泥精描の騰竜は目貫を打つたるかとばかり雲間に耀ける横物の一幅。頭を回らせば、楣間に黄海大海戦の一間程なる水彩画を掲げて座敷の隅には二鉢の菊を据ゑたり。  やや有りて出来れる満枝は服を改めたるなり。糸織の衿懸けたる小袖に納戸小紋の縮緬の羽織着て、七糸と黒繻子との昼夜帯して、華美なるシオウルを携へ、髪など撫付けしと覚く、面も見違ふやうに軽く粧ひて、 「大変失礼を致しました。些と私も其処まで買物に出ますので、実は御一緒に願はうと存じまして」  無礼なりとは思ひけれど、口説れし誼に貫一は今更腹も立て難くて、 「ああさうですか」  満枝はつと寄りて声を低くし、 「御迷惑でゐらつしやいませうけれど」  聴き飽きたりと謂はんやうに彼は取合はで、 「それぢや参りませう。貴方は何方までお出なのですか」 「私は大横町まで」  二人は打連れて四谷左門町なる赤樫の家を出でぬ。伝馬町通は両側の店に燈を列ねて、未だ宵なる景気なれど、秋としも覚えず夜寒の甚ければ、往来も稀に、空は星あれどいと暗し。 「何といふお寒いのでございませう」 「さやう」 「貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜いぢやございませんか。それではお話が達きませんわ」  彼は町の左側をこたびは貫一に擦寄りて歩めり。 「これぢや私が歩き難いです」 「貴方お寒うございませう。私お鞄を持ちませう」 「いいや、どういたして」 「貴方恐入りますが、もう少し御緩りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸が切れて……」  已む無く彼は加減して歩めり。満枝は着重るシォウルを揺上げて、 「疾から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而のやうな事は再び申上げませんから。些といらしつて下さいましな」 「は、難有う」 「お手紙を上げましても宜うございますか」 「何の手紙ですか」 「御機嫌伺の」 「貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか」 「では、恋い時に」 「貴方が何も私を……」 「恋いのは私の勝手でございますよ」 「然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞をします」 「でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……」  唯見れば伝馬町三丁目と二丁目との角なり。貫一はここにて満枝を撒かんと思ひ設けたるなれば、彼の語り続くるをも会釈為ずして立住りつ。 「それぢや私はここで失礼します」  その不意に出でて貫一の闇き横町に入るを、 「あれ、貴方、其方からいらつしやるのですか。この通をいらつしやいましなね、わざわざ、そんな寂い道をお出なさらなくても、此方の方が順ではございませんか」  満枝は離れ難なく二三間追ひ行きたり。 「なあに、此方が余程近いのですから」 「幾多も違ひは致しませんのに、賑かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附の所までお送り申しますから」 「貴方に送つて戴いたつて為やうが無い。夜が更けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし」 「そんなお為転を有仰らなくても宜うございます」  かく言争ひつつ、行くにもあらねど留るにもあらぬ貫一に引添ひて、不知不識其方に歩ませられし満枝は、やにはに立竦みて声を揚げつ。 「ああ! 間さん些と」 「どうしました」 「路悪へ入つて了つて、履物が取れないのでございますよ」 「それだから貴方はこんな方へお出でなさらんが可いのに」  彼は渋々寄り来れり。 「憚様ですが、この手を引張つて下さいましな。ああ、早く、私転びますよ」  シォウルの外に援を求むる彼の手を取りて引寄すれば、女は踽きつつ泥濘を出でたりしが、力や余りけん、身を支へかねて摚と貫一に靠れたり。 「ああ、危い」 「転びましたら貴方の所為でございますよ」 「馬鹿なことを」  彼はこの時扶けし手を放たんとせしに、釘付などにしたらんやうに曳けども振れども得離れざるを、怪しと女の面を窺へるなり。満枝は打背けたる顔の半をシオウルの端に包みて、握れる手をば弥よ固く緊めたり。 「さあ、もう放して下さい」  益す緊めて袖の中へさへ曳入れんとすれば、 「貴方、馬鹿な事をしては可けません」  女は一語も言はず、面も背けたるままに、その手は益放たで男の行く方に歩めり。 「常談しちや可かんですよ。さあ、後から人が来る」 「宜うございますよ」  独語つやうに言ひて、満枝は弥寄添ひつ。貫一は怺へかねて力任せに吽と曳けば、手は離れずして、女の体のみ倒れかかりぬ。 「あ、痛! そんな酷い事をなさらなくても、其処の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……」 「好い加減になさい」  と暴かに引払ひて、寄らんとする隙もあらせず摩脱くるより足を疾めて津守坂を驀直に下りたり。  やうやう昇れる利鎌の月は乱雲を芟りて、逈き梢の頂に姑く掛れり。一抹の闇を透きて士官学校の森と、その中なる兵営と、その隣なる町の片割とは、懶く寝覚めたるやうに覚束なき形を顕しぬ。坂上なる巡査派出所の燈は空く血紅の光を射て、下り行きし男の影も、取残されし女の姿も終に見えず。 (八)の二  片側町なる坂町は軒並に鎖して、何処に隙洩る火影も見えず、旧砲兵営の外柵に生茂る群松は颯々の響を作して、その下道の小暗き空に五位鷺の魂切る声消えて、夜色愁ふるが如く、正に十一時に垂んとす。  忽ち兵営の門前に方りて人の叫ぶが聞えぬ、間貫一は二人の曲者に囲れたるなり。一人は黒の中折帽の鐔を目深に引下し、鼠色の毛糸の衿巻に半面を裹み、黒キャリコの紋付の羽織の下に紀州ネルの下穿高々と尻褰して、黒足袋に木裏の雪踏を履き、六分強なる色木の弓の折を杖にしたり。他は盲縞の股引腹掛に、唐桟の半纏着て、茶ヅックの深靴を穿ち、衿巻の頬冠に鳥撃帽子を頂きて、六角に削成したる檳榔子の逞きステッキを引抱き、いづれも身材貫一よりは低けれど、血気腕力兼備と見えたる壮佼どもなり。 「物取か。恨を受ける覚は無いぞ!」 「黙れ!」と弓の折の寄るを貫一は片手に障へて、 「僕は間貫一といふ者だ。恨があらば尋常に敵手にならう。物取ならば財はくれる、訳も言はずに無法千万な、待たんか!」  答は無くて揮下したる弓の折は貫一が高頬を発矢と打つ。眩きつつも迯行くを、猛然と追迫れる檳榔子は、件の杖もて片手突に肩の辺を曳と突いたり。踏み耐へんとせし貫一は水道工事の鉄道に跌きて仆るるを、得たりと附入る曲者は、余に躁りて貫一の仆れたるに又跌き、一間ばかりの彼方に反跳を打ちて投飛されぬ。入替りて一番手の弓の折は貫一の背を袈裟掛に打据ゑければ、起きも得せで、崩折るるを、畳みかけんとする隙に、手元に脱捨てたりし駒下駄を取るより早く、彼の面を望みて投げたるが、丁と中りて痿むその時、貫一は蹶起きて三歩ばかりも逭れしを打転けし檳榔子の躍り蒐りて、拝打に下せる杖は小鬢を掠り、肩を辷りて、鞄持つ手を断れんとすばかりに撲ちけるを、辛くも忍びてつと退きながら身構しが、目潰吃ひし一番手の怒を作して奮進し来るを見るより今は危しと鞄の中なる小刀撈りつつ馳出づるを、輙く肉薄せる二人が笞は雨の如く、所嫌はぬ滅多打に、彼は敢無くも昏倒せるなり。 檳「どうです、もう可いに為ませうか」 弓「此奴おれの鼻面へ下駄を打着けよつた、ああ、痛」  衿巻掻除けて彼の撫でたる鼻は朱に染みて、西洋蕃椒の熟えたるに異らず。 檳「おお、大変な衂ですぜ」  貫一は息も絶々ながら緊と鞄を掻抱き、右の逆手に小刀を隠し持ちて、この上にも狼藉に及ばば為んやう有りと、油断を計りてわざと為す無き体を装ひ、直呻きにぞ呻きゐたる。 弓「憎い奴じや。然し、随分撲つたの」 檳「ええ、手が痛くなつて了ひました」 弓「もう引揚げやう」  かくて曲者は間近の横町に入りぬ。辛うじて面を擡げ得たりし貫一は、一時に発せる全身の疼通に、精神漸く乱れて、屡ば前後を覚えざらんとす。 後編 第一章  翌々日の諸新聞は坂町に於ける高利貸遭難の一件を報道せり。中に間貫一を誤りて鰐淵直行と為るもありしが、負傷者は翌日大学第二医院に入院したりとのみは、一様に事実の真を伝ふるなりけり。されどその人を誤れる報道は決して何等の不都合をも生ぜざるべし。彼等を識らざる読者は湯屋の喧嘩も同じく、三ノ面記事の常套として看過すべく、何の遑かその敵手の誰々なるを問はん。識れる者は恐くは、貫一も鰐淵も一つに足腰の利かずなるまで撃踣されざりしを本意無く思へるなるべし。又或者は彼の即死せざりしをも物足らず覚ゆるなるべし。下手人は不明なれども、察するに貸借上の遺趣より為せる業ならんとは、諸新聞の記せる如く、人も皆思ふところなりけり。  直行は今朝病院へ見舞に行きて、妻は患者の容体を案じつつ留守せるなり。夫婦は心を協せて貫一の災難を悲み、何程の費をも吝まず手宛の限を加へて、少小の瘢をも遺さざらんと祈るなりき。  股肱と恃み、我子とも思へる貫一の遭難を、主人はなかなかその身に受けし闇打のやうに覚えて、無念の止み難く、かばかりの事に屈する鰐淵ならぬ令見の為に、彼が入院中を目覚くも厚く賄ひて、再び手出しもならざらんやう、陰ながら卑怯者の息の根を遏めんと、気も狂く力を竭せり。  彼の妻は又、やがてはかかる不慮の事の夫の身にも出で来るべきを思過して、若しさるべからんには如何にか為べき、この悲しさ、この口惜しさ、この心細さにては止まじと思ふに就けて、空可恐く胸の打騒ぐを禁め得ず。奉公大事ゆゑに怨を結びて、憂き目に遭ひし貫一は、夫の禍を転じて身の仇とせし可憫さを、日頃の手柄に増して浸々難有く、かれを念ひ、これを思ひて、絶に心弱くのみ成行くほどに、裏に愧づること、懼るること、疚きことなどの常に抑へたるが、忽ち涌立ち、跳出でて、その身を責むる痛苦に堪へざるなりき。  年久く飼るる老猫の凡そ子狗ほどなるが、棄てたる雪の塊のやうに長火鉢の猫板の上に蹲りて、前足の隻落して爪頭の灰に埋るるをも知らず、齁をさへ掻きて熟睡したり。妻はその夜の騒擾、次の日の気労に、血の道を悩める心地にて、懵々となりては驚かされつつありける耳元に、格子の鐸の轟きければ、はや夫の帰来かと疑ひも果てぬに、紙門を開きて顕せる姿は、年紀二十六七と見えて、身材は高からず、色やや蒼き痩顔の険しげに口髭逞く、髪の生ひ乱れたるに深々と紺ネルトンの二重外套の襟を立てて、黒の中折帽を脱ぎて手にしつ。高き鼻に鼈甲縁の眼鏡を挿みて、稜ある眼色は見る物毎に恨あるが如し。  妻は思設けぬ面色の中に喜を漾へて、 「まあ直道かい、好くお出だね」  片隅に外套を脱捨つれば、彼は黒綾のモオニングの新からぬに、濃納戸地に黒縞の穿袴の寛なるを着けて、清ならぬ護謨のカラ、カフ、鼠色の紋繻子の頸飾したり。妻は得々起ちて、その外套を柱の折釘に懸けつ。 「どうも取んだ事で、阿父さんの様子はどんな? 今朝新聞を見ると愕いて飛んで来たのです。容体はどうです」  彼は時儀を叙ぶるに迨ばずして忙しげにかく問出でぬ。 「ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作りはしないわね」 「はあ? 坂町で大怪我を為つて、病院へ入つたと云ふのは?」 「あれは間さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭だね、どうしたと云ふのだらう」 「いや、さうですか。でも、新聞には歴然とさう出てゐましたよ」 「それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来だらう。まあ寛々してお在な」  かくと聞ける直道は余の不意に拍子抜して、喜びも得為ず唖然たるのみ。 「ああ、さうですか、間が遣られたのですか」 「ああ、間が可哀さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ」 「どんなです、新聞には余程劇いやうに出てゐましたが」 「新聞に在る通だけれど、不具になるやうな事も無いさうだが、全然快くなるには三月ぐらゐはどんな事をしても要るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛は十分にしてあるのだから、決して気遣は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧けたとかで、手が緩縦になつて了つたの、その外紫色の痣だの、蚯蚓腫だの、打切れたり、擦毀したやうな負傷は、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部を撲れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在ださうだけれど、今のところではそんな塩梅も無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込んだ時は半死半生で、些の虫の息が通つてゐるばかり、私は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね」 「それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました」 「何ととは?」 「間が闇打にされた事を」 「いづれ敵手は貸金の事から遺趣を持つて、その悔し紛に無法な真似をしたのだらうつて、大相腹を立ててお在なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人い人だから、つまらない喧嘩なぞを為る気遣はなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更気の毒で、何とも謂ひやうが無い」 「間は若いから、それでも助るのです、阿父さんであつたら命は有りませんよ、阿母さん」 「まあ可厭なことをお言ひでないな!」  浸々思入りたりし直道は徐にその恨き目を挙げて、 「阿母さん、阿父さんは未だこの家業をお廃めなさる様子は無いのですかね」  母は苦しげに鈍り鈍りて、 「さうねえ……別に何とも……私には能く解らないね……」 「もう今に応報は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭つたのは、決して人事ぢやありませんよ」 「お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ」 「言ひます! 今日は是非言はなければならない」 「それは言ふも可いけれど、従来も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些もお聴きではないぢやないか。とても他の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑つてお在よ、よ」 「私だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没して了ひたいと熟く思ふのです。噫、こんな事なら未だ親子で乞食をした方が夐に可い」  彼は涙を浮べて倆きぬ。母はその身も倶に責めらるる想して、或は可慚く、或は可忌く、この苦き位置に在るに堪へかねつつ、言解かん術さへ無けれど、とにもかくにも言はで已むべき折ならねば、辛じて打出しつ。 「それはもうお前の言ふのは尤だけれど、お前と阿父さんとは全で気合が違ふのだから、万事考量が別々で、お前の言ふ事は阿父さんの肚には入らず、ね、又阿父さんの為る事はお前には不承知と謂ふので、その中へ入つて私も困るわね。内も今では相応にお財も出来たのだから、かう云ふ家業は廃めて、楽隠居になつて、お前に嫁を貰つて、孫の顔でも見たい、とさう思ふのだけれど、ああ云ふ気の阿父さんだから、そんなことを言出さうものなら、どんなに慍られるだらうと、それが見え透いてゐるから、漫然した事は言はれずさ、お前の心を察して見れば可哀さうではあり、さうかと云つて何方をどうすることも出来ず、陰で心配するばかりで、何の役にも立たないながら、これでなかなか苦いのは私の身だよ。  さぞお前は気も済まなからうけれど、とても今のところでは何と言つたところが、応と承知をしさうな様子は無いのだから、憖ひ言合つてお互に心持を悪くするのが果だから、……それは、お前、何と云つたつて親一人子一人の中だもの、阿父さんだつて心ぢやどんなにお前が便だか知れやしないのだから、究竟はお前の言ふ事も聴くのは知れてゐるのだし、阿父さんだつて現在の子のそんなにまで思つてゐるのを、決して心に掛けないのではないけれども、又阿父さんの方にも其処には了簡があつて、一概にお前の言ふ通にも成りかねるのだらう。  それに今日あたりは、間の事で大変気が立つてゐるところだから、お前が何か言ふと却つて善くないから、今日は窃として措いておくれ、よ、本当に私が頼むから、ねえ直道」  実に母は自ら言へりし如く、板挾の難局に立てるなれば、ひたすら事あらせじと、誠の一図に直道を諭すなりき。彼は涙の催すに堪へずして、鼻目鏡を取捨てて目を推拭ひつつ猶咽びゐたりしが、 「阿母さんにさう言れるから、私は不断は怺へてゐるのです。今日ばかり存分に言はして下さい。今日言はなかつたら言ふ時は有りませんよ。間のそんな目に遭つたのは天罰です、この天罰は阿父さんも今に免れんことは知れてゐるから、言ふのなら今、今言はんくらゐなら私はもう一生言ひません」  母はその一念に脅されけんやうにて漫寒きを覚えたり。洟打去みて直道は語を継ぎぬ。 「然し私の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚れた家業を為るのを見てゐるのが可厭だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在でせう」 「さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処に居たらさぞ好からうとは……」 「それは、私は猶の事です。こんな内に居るのは可厭だ、別居して独で遣る、と我儘を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰のお陰かと謂へば、皆親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父さんを踏付にしたやうな行を為るのは、阿母さん能々の事だと思つて下さい。私は親に悖ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌ふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤い家業が大嫌なのです。人を悩めて己を肥す──浅ましい家業です!」  身を顫はして彼は涙に掻昏れたり。母は居久らぬまでに惑へるなり。 「親を過すほどの芸も無くて、生意気な事ばかり言つて実は面目も無いのです。然し不自由を辛抱してさへ下されば、両親ぐらゐに乾い思はきつと為せませんから、破屋でも可いから親子三人一所に暮して、人に後指を差れず、罪も作らず、怨も受けずに、清く暮したいぢやありませんか。世の中は貨が有つたから、それで可い訳のものぢやありませんよ。まして非道をして拵へた貨、そんな貨が何の頼になるものですか、必ず悪銭身に附かずです。無理に仕上げた身上は一代持たずに滅びます。因果の報う例は恐るべきものだから、一日でも早くこんな家業は廃めるに越した事はありません。噫、末が見えてゐるのに、情無い事ですなあ!」  積悪の応報覿面の末を憂ひて措かざる直道が心の眼は、無残にも怨の刃に劈れて、路上に横死の恥を暴せる父が死顔の、犬に蹋られ、泥に塗れて、古蓆の陰に枕せるを、怪くも歴々と見て、恐くは我が至誠の鑑は父が未然を宛然映し出して謬らざるにあらざるかと、事の目前の真にあらざるを知りつつも、余りの浅ましさに我を忘れてつと迸る哭声は、咬緊むる歯をさへ漏れて出づるを、母は驚き、途方に昏れたる折しも、門に俥の駐りて、格子の鐸の鳴るは夫の帰来か、次手悪しと胸を轟かして、直道の肩を揺り動しつつ、声を潜めて口早に、 「直道、阿父さんのお帰来だから、泣いてゐちや可けないよ、早く彼方へ行つて、……よ、今日は後生だから何も言はずに……」  はや足音は次の間に来りぬ。母は慌てて出迎に起てば、一足遅れに紙門は外より開れて主直行の高く幅たき躯は岸然とお峯の肩越に顕れぬ。 (一)の二 「おお、直道か珍いの。何時来たのか」  かく言ひつつ彼は艶々と赭みたる鉢割の広き額の陰に小く点せる金壺眼を心快げに瞪きて、妻が例の如く外套を脱するままに立てり。お峯は直道が言に稜あらんことを慮りて、さり気無く自ら代りて答へつ。 「もう少し先でした。貴君は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね」 「いや、仕合と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて」  黒一楽の三紋付けたる綿入羽織の衣紋を直して、彼は機嫌好く火鉢の傍に歩み寄る時、直道は漸く面を抗げて礼を作せり。 「お前、どうした、ああ、妙な顔をしてをるでないか」  梭櫚の毛を植ゑたりやとも見ゆる口髭を掻拈りて、太短なる眉を顰むれば、聞ゐる妻は呀とばかり、刃を踏める心地も為めり。直道は屹と振仰ぐとともに両手を胸に組合せて、居長高になりけるが、父の面を見し目を伏せて、さて徐に口を開きぬ。 「今朝新聞を見ましたところが、阿父さんが、大怪我を為つたと出てをつたので、早速お見舞に参つたのです」  白髪を交へたる茶褐色の髪の頭に置余るばかりなるを撫でて、直行は、 「何新聞か知らんけれど、それは間の間違ぢやが。俺ならそんな場合に出会うたて、唯々打れちやをりやせん。何の先は二人でないかい、五人までは敵手にしてくれるが」  直道の隣に居たる母は密に彼のコオトの裾を引きて、言を返させじと心着るなり。これが為に彼は少しく遅ひぬ。 「本にお前どうした、顔色が良うないが」 「さうですか。余り貴方の事が心配になるからです」 「何じや?」 「阿父さん、度々言ふ事ですが、もう金貸は廃めて下さいな」 「又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ」 「廃めなければならんやうになつて廃めるのは見ともない。今朝貴方が半死半生の怪我をしたといふ新聞を見た時、私はどんなにしても早くこの家業をお廃めなさるやうに為せなかつたのを熟く後悔したのです。幸に貴方は無事であつた、から猶更今日は私の意見を用ゐて貰はなければならんのです。今に阿父さんも間のやうな災難を必ず受けるですよ。それが可恐いから廃めると謂ふのぢやありません、正い事で争つて殞す命ならば、決して辞することは無いけれど、金銭づくの事で怨を受けて、それ故に無法な目に遭ふのは、如何にも恥曝しではないですか。一つ間違へば命も失はなければならん、不具にも為れなければならん、阿父さんの身の上を考へると、私は夜も寝られんのですよ。  こんな家業を為んでは生活が出来んのではなし、阿父さん阿母さん二人なら、一生安楽に過せるほどの資産は既に有るのでせう、それに何を苦んで人には怨まれ、世間からは指弾をされて、無理な財を拵へんければならんのですか。何でそんなに金が要るのですか。誰にしても自身に足りる以外の財は、子孫に遺さうと謂ふより外は無いのでせう。貴方には私が一人子、その私は一銭たりとも貴方の財は譲られません! 欲くないのです。さうすれば、貴方は今日無用の財を貯へる為に、人の怨を受けたり、世に誚られたり、さうして現在の親子が讐のやうになつて、貴方にしてもこんな家業を決して名誉と思つて楽んで為つてゐるのではないでせう。  私のやうなものでも可愛いと思つて下さるなら、財産を遺して下さる代に私の意見を聴いて下さい。意見とは言ひません、私の願です。一生の願ですからどうぞ聴いて下さい」  父が前に頭を低れて、輙く抗げぬ彼の面は熱き涙に蔽るるなりき。  些も動ずる色無き直行は却つて微笑を帯びて、語をさへ和げつ。 「俺の身を思うてそんなに言うてくれるのは嬉いけど、お前のはそれは杞憂と謂ふんじや。俺と違うてお前は神経家ぢやからそんなに思ふんぢやけど、世間と謂ふものはの、お前の考へとるやうなものではない。学問の好きな頭脳で実業を遣る者の仕事を責むるのは、それは可かん。人の怨の、世の誚のと言ふけどの、我々同業者に対する人の怨などと云ふのは、面々の手前勝手の愚痴に過ぎんのじや。世の誚と云ふのは、多くは嫉、その証拠は、働の無い奴が貧乏しとれば愍まるるじや。何家業に限らず、財を拵へる奴は必ず世間から何とか攻撃を受くる、さうぢやらう。財の有る奴で評判の好えものは一人も無い、その通じやが。お前は学者ぢやから自ら心持も違うて、財などをさう貴いものに思うてをらん。学者はさうなけりやならんけど、世間は皆学者ではないぞ、可えか。実業家の精神は唯財じや、世の中の奴の慾も財より外には無い。それほどに、のう、人の欲がる財じや、何ぞ好えところが無くてはならんぢやらう。何処が好えのか、何でそんなに好えのかは学者には解らん。  お前は自身に供給するに足るほどの財があつたら、その上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量じやと謂ふんじやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可えと満足して了うてからに手を退くやうな了簡であつたら、国は忽ち亡るじや──社会の事業は発達せんじや。さうして国中若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前どうするか、あ。慾にきりの無いのが国民の生命なんじや。  俺にそんなに財を拵へてどうするか、とお前は不審するじやね。俺はどうも為ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟財を拵へるが極めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るが面白いんじや。お前に本を読むのを好え加減に為い、一人前の学問が有つたらその上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。  お前は能うこの家業を不正ぢやの、汚いのと言ふけど、財を儲くるに君子の道を行うてゆく商売が何処に在るか。我々が高利の金を貸す、如何にも高利じや、何為高利か、可えか、無抵当じや、そりや。借る方に無抵当といふ便利を与ふるから、その便利に対する報酬として利が高いのぢやらう。それで我々は決して利の高い金を安いと詐つて貸しはせんぞ。無抵当で貸すぢやから利が高い、それを承知で皆借るんじや。それが何で不正か、何で汚いか。利が高うて不当と思ふなら、始から借らんが可え、そんな高利を借りても急を拯はにや措れんくらゐの困難が様々にある今の社会じや、高利貸を不正と謂ふなら、その不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。必要の上から借る者があるで、貸す者がある。なんぼ貸したうても借る者が無けりや、我々の家業は成立ちは為ん。その必要を見込んで仕事を為るが則ち営業の魂なんじや。  財といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念うとる、獲たら離すまいと為とる、のう。その財を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲する者は皆不正な事をしとるんじや」  太くもこの弁論に感じたる彼の妻は、屡ば直道の顔を偸視て、あはれ彼が理窟もこれが為に挫けて、気遣ひたりし口論も無くて止みぬべきを想ひて私に懽べり。  直道は先づ厳に頭を掉りて、 「学者でも商業家でも同じ人間です。人間である以上は人間たる道は誰にしても守らんければなりません。私は決して金儲を為るのを悪いと言ふのではない、いくら儲けても可いから、正当に儲けるのです。人の弱みに付入つて高利を貸すのは、断じて正当でない。そんな事が営業の魂などとは……! 譬へば間が災難に遭つた。あれは先は二人で、しかも不意打を吃したのでせう、貴方はあの所業を何とお考へなさる。男らしい遺趣返の為方とお思ひなさるか。卑劣極る奴等だと、さぞ無念にお思ひでせう?」  彼は声を昂げて逼れり。されども父は他を顧て何等の答をも与へざりければ、再び声を鎮めて、 「どうですか」 「勿論」 「勿論? 勿論ですとも! 何奴か知らんけれど、実に陋い根性、劣な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設ひその手段は如何にあらうとも」  父は騒がず、笑を含みて赤き髭を弄りたり。 「卑劣と言れやうが、陋いと言れやうが、思ふさま遺趣返をした奴等は目的を達してさぞ満足してをるでせう。それを掴殺しても遣りたいほど悔いのは此方ばかり。  阿父さんの営業の主意も、彼等の為方と少しも違はんぢやありませんか。間の事に就いて無念だと貴方がお思ひなさるなら、貴方から金を借りて苦められる者は、やはり貴方を恨まずにはゐませんよ」  又しても感じ入りたるは彼の母なり。かくては如何なる言をもて夫はこれに答へんとすらん、我はこの理の覿面当然なるに口を開かんやうも無きにと、心慌てつつ夫の気色を密に窺ひたり。彼は自若として、却つてその子の善く論ずるを心に愛づらんやうの面色にて、転た微笑を弄するのみ。されども妻は能く知れり、彼の微笑を弄するは、必ずしも、人のこれを弄するにあらざる時に於いて屡するを。彼は今それか非ぬかを疑へるなり。  蒼く羸れたる直道が顔は可忌くも白き色に変じ、声は甲高に細りて、膝に置ける手頭は連りに震ひぬ。 「いくら論じたところで、解りきつた理窟なのですから、もう言ひますまい。言へば唯阿父さんの心持を悪くするに過ぎんのです。然し、従来も度々言ひましたし、又今日こんなに言ふのも、皆阿父さんの身を案じるからで、これに就いては陰でどれほど私が始終苦心してゐるか知つてお在は無からうけれど、考出すと勉強するのも何も可厭になつて、吁、いつそ山の中へでも引籠んで了はうかと思ひます。阿父さんはこの家業を不正でないとお言ひなさるが、実に世間でも地獄の獄卒のやうに憎み賤んで、附合ふのも耻にしてゐるのですよ。世間なんぞはかまふものか、と貴方はお言ひでせうが、子としてそれを聞される心苦しさを察して下さい。貴方はかまはんと謂ふその世間も、やはり我々が渡つて行かなければならん世間です。その世間に肩身が狭くなつて終には容れられなくなるのは、男の面目ではありませんよ。私はそれが何より悲い。此方に大見識があつて、それが世間と衝突して、その為に憎まれるとか、棄てられるとか謂ふなら、世間は私を棄てんでも、私は喜んで阿父さんと一処に世間に棄てられます。親子棄てられて路辺に餓死するのを、私は親子の名誉、家の名誉と思ふのです。今我々親子の世間から疎れてゐるのは、自業自得の致すところで、不名誉の極です!」  眼は痛恨の涙を湧して、彼は覚えず父の面を睨みたり。直行は例の嘯けり。  直道は今日を限と思入りたるやうに飽くまで言を止めず。 「今度の事を見ても、如何に間が恨まれてゐるかが解りませう。貴方の手代でさへあの通ではありませんか、して見れば貴方の受けてゐる恨、憎はどんなであるか言ふに忍びない」  父は忽ち遮りて、 「善し、解つた。能う解つた」 「では私の言を用ゐて下さるか」 「まあ可え。解つた、解つたから……」 「解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな」 「お前の言ふ事は能う解つたさ。然し、爾は爾たり、吾は吾たりじや」  直道は怺へかねて犇と拳を握れり。 「まだ若い、若い。書物ばかり見とるぢや可かん、少しは世間も見い。なるほど子の情として親の身を案じてくれる、その点は空には思はん。お前の心中も察する、意見も解つた。然し、俺は俺で又自ら信ずるところあつて遣るんぢやから、折角の忠告ぢやからと謂うて、枉げて従ふ訳にはいかんで、のう。今度間がああ云ふ目に遭うたから、俺は猶更劇い目に遭はうと謂うて、心配してくれるんか、あ?」  はや言ふも益無しと観念して直道は口を開かず。 「そりや辱いが、ま、当分俺の躯は俺に委して置いてくれ」  彼は徐に立上りて、 「些とこれから行て来にやならん処があるで、寛りして行くが可え」  忽忙と二重外套を打被ぎて出づる後より、帽子を持ちて送れる妻は密に出先を問へるなり。彼は大いなる鼻を皺めて、 「俺が居ると面倒ぢやから、些と出て来る。可えやうに言うての、還してくれい」 「へえ? そりや困りますよ。貴方、私だつてそれは困るぢやありませんか」 「まあ可えが」 「可くはありません、私は困りますよ」  お峯は足摩して迷惑を訴ふるなりけり。 「お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから」 「それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな」 「俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ」  さすがに争ひかねてお峯の渋々佇めるを、見も返らで夫は驀地に門を出でぬ。母は直道の勢に怖れて先にも増してさぞや苛まるるならんと想へば、虎の尾をも履むらんやうに覚えつつ帰り来にけり。唯見れば、直道は手を拱き、頭を低れて、在りけるままに凝然と坐したり。 「もうお中食だが、お前何をお上りだ」  彼は身転も為ざるなり。重ねて、 「直道」と呼べば、始めて覚束なげに顔を挙げて、 「阿母さん!」  その術無き声は謂知らず母の胸を刺せり。彼はこの子の幼くて善く病める枕頭に居たりし心地をそのままに覚えて、ほとほとつと寄らんとしたり。 「それぢや私はもう帰ります」 「あれ何だね、未だ可いよ」  異くも遽に名残の惜れて、今は得も放たじと心牽るるなり。 「もうお中食だから、久しぶりで御膳を食べて……」 「御膳も吭へは通りませんから……」 第二章  主人公なる間貫一が大学第二医院の病室にありて、昼夜を重傷に悩める外、身辺に事あらざる暇に乗じて、富山に嫁ぎたる宮がその後の消息を伝ふべし。  一月十七日をもて彼は熱海の月下に貫一に別れ、その三月三日を択びて富山の家に輿入したりき。その場より貫一の失踪せしは、鴫沢一家の為に物化の邪魔払たりしには疑無かりけれど、家内は挙りてさすがに騒動しき。その父よりも母よりも宮は更に切なる誠を籠めて心痛せり。彼はただに棄てざる恋を棄てにし悔に泣くのみならで、寄辺あらぬ貫一が身の安否を慮りて措く能はざりしなり。  気強くは別れにけれど、やがて帰り来んと頼めし心待も、終に空なるを暁りし後、さりとも今一度は仮初にも相見んことを願ひ、又その心の奥には、必ずさばかりの逢瀬は有るべきを、おのれと契りけるに、彼の行方は知られずして、その身の家を出づべき日は潮の如く迫れるに、遣方も無く漫惑ひては、常に鈍う思ひ下せる卜者にも問ひて、後には廻合ふべきも、今はなかなか文に便もあらじと教へられしを、筆持つは篤なる人なれば、長き長き怨言などは告来さんと、それのみは掌を指すばかりに待ちたりしも、疑ひし卜者の言は不幸にも過たで、宮は彼の怨言をだに聞くを得ざりしなり。  とにもかくにも今一目見ずば動かじと始に念ひ、それは愜はずなりてより、せめて一筆の便聞かずばと更に念ひしに、事は心と渾て違ひて、さしも願はぬ一事のみは玉を転ずらんやうに何等の障も無く捗取りて、彼が空く貫一の便を望みし一日にも似ず、三月三日は忽ち頭の上に跳り来れるなりき。彼は終に心を許し肌身を許せし初恋を擲ちて、絶痛絶苦の悶々の中に一生最も楽かるべき大礼を挙げ畢んぬ。  宮は実に貫一に別れてより、始めて己の如何ばかり彼に恋せしかを知りけるなり。  彼の出でて帰らざる恋しさに堪へかねたる夕、宮はその机に倚りて思ひ、その衣の人香を嗅ぎて悶え、その写真に頬摩して憧れ、彼若し己を容れて、ここに優き便をだに聞せなば、親をも家をも振捨てて、直に彼に奔るべきものをと念へり。結納の交されし日も宮は富山唯継を夫と定めたる心はつゆ起らざりき。されど、己は終にその家に適くべき身たるを忘れざりしなり。  ほとほと自らその緒を索むる能はざるまでに宮は心を乱しぬ。彼は別れし後の貫一をばさばかり慕ひて止まざりしかど、過を改め、操を守り、覚悟してその恋を全うせんとは計らざりけるよ。真に彼の胸に恃める覚悟とてはあらざりき。恋佗びつつも心を貫かんとにはあらず、由無き縁を組まんとしたるよと思ひつつも、強ひて今更否まんとするにもあらず、彼方の恋きを思ひ、こなたの富めるを愛み、自ら決するところ無く、為すところ無くして空き迷に弄ばれつつ、終に移すべからざる三月三日の来るに会へるなり。  この日よ、この夕よ、更けて床盃のその期に迨びても、怪むべし、宮は決して富山唯継を夫と定めたる心は起らざるにぞありける、止この人を夫と定めざるべからざる我身なるを忘れざりしかど。彼は自ら謂へり、この心は始より貫一に許したるを、縁ありて身は唯継に委すなり。故に身は唯継に委すとも、心は長く貫一を忘れずと、かく謂へる宮はこの心事の不徳なるを知れり、されどこの不徳のその身に免る能はざる約束なるべきを信じて、寧ろ深く怪むにもあらざりき。如此にして宮は唯継の妻となりぬ。  花聟君は彼を愛するに二念無く、彼を遇するに全力を挙げたり。宮はその身の上の日毎輝き勝るままに、いよいよ意中の人と私すべき陰無くなりゆくを見て、愈よ楽まざる心は、夫の愛を承くるに慵くて、唯機械の如く事ふるに過ぎざりしも、唯継は彼の言ふ花の姿、温き玉の容を一向に愛で悦ぶ余に、冷かに空き器を抱くに異らざる妻を擁して、殆ど憎むべきまでに得意の頤を撫づるなりき。彼が一段の得意は、二箇月の後最愛の妻は妊りて、翌年の春美き男子を挙げぬ。宮は我とも覚えず浅ましがりて、産後を三月ばかり重く病みけるが、その癒ゆる日を竣たで、初子はいと弱くて肺炎の為に歿りにけり。  子を生みし後も宮が色香はつゆ移はずして、自ら可悩き風情の添りたるに、夫が愛護の念は益深く、寵は人目の見苦きばかり弥よ加るのみ。彼はその妻の常に楽まざる故を毫も暁らず、始より唯その色を見て、打沈みたる生得と独合点して多く問はざるなりけり。  かく怜まれつつも宮が初一念は動かんともせで、難有き人の情に負きて、ここに嫁ぎし罪をさへ歎きて止まざりしに、思はぬ子まで成せし過は如何にすべきと、躬らその容し難きを慙ぢて、悲むこと太甚かりしが、実に親の所憎にや堪へざりけん。その子の失せし後、彼は再び唯継の子をば生まじ、と固く心に誓ひしなり。二年の後、三年の後、四年の後まで異くも宮はこの誓を全うせり。  次第に彼の心は楽まずなりて、今は何の故にその嫁ぎたるかを自ら知るに苦めるなりき。機械の如く夫を守り置物のやうに内に据られ、絶えて人の妻たる効も思出もあらで、空く籠鳥の雲を望める身には、それのみの願なりし裕なる生活も、富める家計も、土の如く顧るに足らず、却りてこの四年が間思ひに思ふばかりにて、熱海より行方知れざりし人の姿を田鶴見の邸内に見てしまで、彼は全く音沙汰をも聞かざりしなり。生家なる鴫沢にては薄々知らざるにもあらざりしかど、さる由無き事を告ぐるが如き愚なる親にもあらねば、宮のこれを知るべき便は絶れたりしなり。  計らずもその夢寐に忘れざる姿を見たりし彼が思は幾計なりけんよ。饑ゑたる者の貪り食ふらんやうに、彼はその一目にして四年の求むるところを求めんとしたり。饜かず、饜かず、彼の慾はこの日より益急になりて、既に自ら心事の不徳を以つて許せる身を投じて、唯快く万事を一事に換へて已まん、と深くも念じたり。  五番町なる鰐淵といふ方に住める由は、静緒より聞きつれど、むざとは文も通はせ難く、道は遠からねど、独り出でて彷徨ふべき身にもあらぬなど、克はぬ事のみなるに苦かりけれど、安否を分かざりし幾年の思に較ぶれば、はや嚢の物を捜るに等しかるをと、その一筋に慰められつつも彼は日毎の徒然を憂きに堪へざる余、我心を遺る方無く明すべき長き長き文を書かんと思立ちぬ。そは折を得て送らんとにもあらず、又逢うては言ふ能はざるを言はしめんとにもあらで、止だかくも儚き身の上と切なき胸の内とを独自ら愬へんとてなり。 (二)の二  宮は貫一が事を忘れざるとともに、又長く熱海の悲き別を忘るる能はざるなり。更に見よ。歳々廻来る一月十七日なる日は、その悲き別を忘れざる胸に烙して、彼の悔を新にするにあらずや。 「十年後の今月今夜も、僕の涙で月は曇らして見せるから、月が曇つたらば、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると想ふが可い」  掩へども宮が耳は常にこの声を聞かざるなし。彼はその日のその夜に会ふ毎に、果して月の曇るか、あらぬかを試しに、曾てその人の余所に泣ける徴もあらざりければ、さすがに恨は忘られしかと、それには心安きにつけて、諸共に今は我をも思はでや、さては何処に如何にしてなど、更に打歎かるるなりき。  例のその日は四たび廻りて今日しも来りぬ。晴れたりし空は午後より曇りて少く吹出でたる風のいと寒く、凡ならず冷ゆる日なり。宮は毎よりも心煩きこの日なれば、かの筆採りて書続けんと為たりしが、余に思乱るればさるべき力も無くて、いとどしく紛れかねてゐたり。  益す寒威の募るに堪へざりければ、遽に煖炉を調ぜしめて、彼は西洋間に徙りぬ。尽く窓帷を引きたる十畳の間は寸隙もあらず裹まれて、火気の漸く春を蒸すところに、宮は体を胖に友禅縮緬の長襦袢の褄を蹈披きて、緋の紋緞子張の楽椅子に凭りて、心の影の其処に映るを眺むらんやうに、その美き目をば唯白く坦なる天井に注ぎたり。  夫の留守にはこの家の主として、彼は事ふべき舅姑を戴かず、気兼すべき小姑を抱へず、足手絡の幼きも未だ有らずして、一箇の仲働と両箇の下婢とに万般の煩きを委せ、一日何の為すべき事も無くて、出づるに車あり、膳には肉あり、しかも言ふことは皆聴れ、為すことは皆悦ばるる夫を持てるなど、彼は今若き妻の黄金時代をば夢むる如く楽めるなり。実に世間の娘の想ひに想ひ、望みに望める絶頂は正に己のこの身の上なる哉、と宮は不覚胸に浮べたるなり。  嗟乎、おのれもこの身の上を願ひに願ひし余に、再び得難き恋人を棄てにしよ。されども、この身の上に窮めし楽も、五年の昔なりける今日の日に窮めし悲に易ふべきものはあらざりしを、と彼は苦しげに太息したり。今にして彼は始めて悟りぬ。おのれのこの身の上を願ひしは、その恋人と倶に同じき楽を享けんと願ひしに外ならざるを。若し身の楽と心の楽とを併享くべき幸無くて、必ずその一つを択ぶべきものならば、孰を取るべきかを知ることの晩かりしを、遣方も無く悔ゆるなりけり。  この寒き日をこの煖き室に、この焦るる身をこの意中の人に並べて、この誠をもてこの恋しさを語らば如何に、と思到れる時、宮は殆ど裂けぬべく胸を苦く覚えて、今の待つ身は待たざる人を待つ身なる、その口惜しさを悶えては、在るにも在られぬ椅子を離れて、歩み寄りたる窓の外面を何心無く打見遣れば、いつしか雪の降出でて、薄白く庭に敷けるなり。一月十七日なる感はいと劇く動きて、宮は降頻る雪に或言を聴くが如く佇めり。折から唯継は還来りぬ。静に啓けたる闥の響は絶に物思へる宮の耳には入らざりき。氷の如く冷徹りたる手をわりなく懐に差入れらるるに驚き、咄嗟と見向かんとすれば、後より緊と抱へられたれど、夫の常に飭める香水の薫は隠るべくもあらず。 「おや、お帰来でございましたか」 「寒かつたよ」 「大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう」 「何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた」  宮は楽椅子を夫に勧めて、躬は煖炉の薪を焌べたり。今の今まで貫一が事を思窮めたりし心には、夫なる唯継にかく事ふるも、なかなか道ならぬやうにて屑からず覚ゆるなり。窓の外に降る雪、風に乱るる雪、梢に宿れる雪、庭に布く雪、見ゆる限の白妙は、我身に積める人の怨の丈かとも思ふに、かくてあることの疚しさ、切なさは、脂を搾らるるやうにも忍び難かり。されども、この美人の前にこの雪を得たる夫の得意は限無くて、その脚を八文字に踏展け、漸く煖まれる頤を突反して、 「ああ、降る降る、面白い。かう云ふ日は寄鍋で飲むんだね。寄鍋を取つて貰はう、寄鍋が好い。それから珈琲を一つ拵へてくれ、コニャックを些と余計に入れて」  宮の行かんとするを、 「お前、行かんでも可いぢやないか、要る物を取寄せてここで拵へなさい」  彼の電鈴を鳴して、火の傍に寄来ると斉く、唯継はその手を取りて小脇に挾みつ。宮は懌べる気色も無くて、彼の為すに任するのみ。 「おまへどうした、何を鬱いでゐるのかね」  引寄せられし宮はほとほと仆れんとして椅子に支へられたるを、唯継は鼻も摩るばかりにその顔を差覗きて余念も無く見入りつつ、 「顔の色が甚だ悪いよ。雪で寒いんで、胸でも痛むんか、頭痛でもするんか、さうも無い? どうしたんだな。それぢや、もつと爽然してくれんぢや困るぢやないか。さう陰気だと情合が薄いやうに想はれるよ。一体お前は夫婦の情が薄いんぢやあるまいかと疑ふよ。ええ? そんなことは無いかね」  忽ち闥の啓くと見れば、仲働の命ぜし物を持来れるなり。人目を憚らずその妻を愛するは唯継が常なるを、見苦しと思ふ宮はその傍を退かんとすれど、放たざるを例の事とて仲働は見ぬ風しつつ、器具と壜とをテエブルに置きて、直に退り出でぬ。かく執念く愛せらるるを、宮はなかなか憂くも浅ましくも思ふなりけり。  雪は風を添へて掻乱し掻乱し降頻りつつ、はや日暮れなんとするに、楽き夜の漸く来れるが最辱き唯継の目尻なり。 「近頃はお前別して鬱いでをるやうぢやないか、俺にはさう見えるがね。さうして内にばかり引籠んでをるのが宜くないよ。この頃は些とも出掛けんぢやないか。さう因循してをるから、益す陰気になつて了ふのだ。この間も鳥柴の奥さんに会つたら、さう言つてゐたよ。何為近頃は奥さんは些ともお見えなさらんのだらう。芝居ぐらゐにはお出掛になつても可ささうなものだが、全然影も形もお見せなさらん。なんぼお大事になさるつて、そんなに仕舞込んでお置きなさるものぢやございません。慈善の為に少しは衆にも見せてお遣んなさい、なんぞと非常に遣られたぢやないか。それからね、知つてをる通り、今度の選挙には実業家として福積が当選したらう。俺も大いに与つて尽力したんさ。それで近日当選祝があつて、それが済次第別に慰労会と云ふやうな名で、格別尽力した連中を招待するんだ。その席へは令夫人携帯といふ訳なんだから、是非お前も出なければならん。驚くよ。俺の社会では富山の細君と来たら評判なもんだ。会つたことの無い奴まで、お前の事は知つてをるんさ。そこで、俺は実は自慢でね、さう評判になつて見ると、軽々しく出行かれるのも面白くない、余り顔を見せん方が見識が好いけれど、然し、近頃のやうに籠つてばかり居るのは、第一衛生におまへ良くない。実は俺は日曜毎にお前を連れて出たいんさ。おまへの来た当座はさうであつたぢやないかね。子供を産んでから、さう、あれから半年ばかり経つてからだよ。余り出なくなつたのは。それでも随分彼地此地出たぢやないかね。  善し、珈琲出来たか。うう熱い、旨い。お前もお飲み、これを半分上げやうか。沢山だ? それだからお前は冷淡で可かんと謂ふんさ。ぢや、酒の入らんのを飲むと可い。寄鍋は未か。うむ、彼方に支度がしてあるから、来たら言ひに来る? それは善い、西洋室の寄鍋なんかは風流でない、あれは長火鉢の相対に限るんさ。  可いかね、福積の招待には吃驚させるほど美くして出て貰はなけりやならん。それで、着物だ、何か欲ければ早速拵へやう。おまへが、これならば十分と思ふ服装で、隆として推出すんだね。さうしてお前この頃は余り服装にかまはんぢやないか、可かんよ。いつでもこの小紋の羽織の寐恍けたのばかりは恐れるね。何為あの被風を着ないのかね、あれは好く似合ふにな。  明後日は日曜だ、何処かへ行かうよ。その着物を見に三井へでも行かうか。いや、さうさう、柏原の奥さんが、お前の写真を是非欲いと言つて、会ふ度に聒く催促するんで克はんよ。明日は用が有つて行かなければならんのだから、持つて行かんと拙いて。未だ有つたね、無い? そりや可かん。一枚も無いんか、そりや可かん。それぢや、明後日写しに行かう。直と若返つて二人で写すなんぞも可いぢやないか。  善し、寄鍋が来た? さあ行かう」  夫に引添ひて宮はこの室を出でんとして、思ふところありげに姑く窓の外面を窺ひたりしが、 「どうしてこんなに降るのでせう」 「何を下らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう」 第三章  宮は既に富むと裕なるとに饜きぬ。抑も彼がこの家に嫁ぎしは、惑深き娘気の一図に、栄耀栄華の欲するままなる身分を願ふを旨とするなりければ、始より夫の愛情の如きは、有るも善し、有らざるも更に善しと、殆ど無用の物のやうに軽めたりき。今やその願足りて、しかも遂に饜きたる彼は弥よ夤らるる愛情の煩きに堪へずして、寧ろ影を追ふよりも儚き昔の恋を思ひて、私に楽むの味あるを覚ゆるなり。  かくなりてより彼は自ら唯継の面前を厭ひて、寂く垂籠めては、随意に物思ふを懌びたりしが、図らずも田鶴見の邸内に貫一を見しより、彼のさして昔に変らぬ一介の書生風なるを見しより、一度は絶えし恋ながら、なほ冥々に行末望あるが如く、さるは、彼が昔のままの容なるを、今もその独を守りて、時の到るを待つらんやうに思做さるるなりけり。  その時は果して到るべきものなるか。宮は躬の心の底を叩きて、答を得るに沮みつつも、さすがに又己にも知れざる秘密の潜める心地して、一面には覚束なくも、又一面にはとにもかくにも信ぜらるるなり。  便ち宮の夫の愛を受くるを難堪く苦しと思知りたるは、彼の写真の鏡面の前に悶絶せし日よりにて、その恋しさに取迫めては、いでや、この富めるに饜き、裕なるに倦める家を棄つべきか、棄てよとならば遅はじと思へるも屡々なりき。唯敢てこれを為ざるは、窃に望は繋けながらも、行くべき方の怨を解かざるを虞るる故のみ。  素より宮は唯継を愛せざりしかど、決してこれを憎むとにはあらざりき。されど今はしも正にその念は起れるなり。自ら謂へらく、吾夫こそ当時恋と富との値を知らざりし己を欺き、空く輝ける富を示して、售るべくもあらざりし恋を奪ひけるよ、と悔の余はかかる恨をも他に被せて、彼は己を過りしをば、全く夫の罪と為せり。  この心なる宮はこの一月十七日に会ひて、この一月十七日の雪に会ひて、いとどしく貫一が事の忍ばるるに就けて転た悪人の夫を厭ふこと甚かり。無辜の唯継はかかる今宵の楽を授るこの美き妻を拝するばかりに、有程の誠を捧げて、蜜よりも甘き言の数々を咡きて止まざれど、宮が耳には人の声は聞えずして、雪の音のみぞいと能く響きたる。  その雪は明方になりて歇みぬ。乾坤の白きに漂ひて華麗に差出でたる日影は、漲るばかりに暖き光を鋪きて終日輝きければ、七分の雪はその日に解けて、はや翌日は往来の妨碍もあらず、処々の泥濘は打続く快晴の天に曝されて、刻々に乾き行くなり。  この雪の為に外出を封ぜられし人は、この日和とこの道とを見て、皆怺へかねて昨日より出でしも多かるべし。まして今日となりては、手置の宜からぬ横町、不性なる裏通、屋敷町の小路などの氷れる雪の九十九折、或は捏返せし汁粉の海の、差掛りて難儀を極むるとは知らず、見渡す町通の乾々干に固れるに唆かされて、控へたりし人の出でざるはあらざらんやうに、往来の常より頻なる午前十一時といふ頃、屈み勝に疲れたる車夫は、泥の粉衣掛けたる車輪を可悩しげに転して、黒綾の吾妻コオト着て、鉄色縮緬の頭巾を領に巻きたる五十路に近き賤からぬ婦人を載せたるが、南の方より芝飯倉通に来かかりぬ。  唯有る横町を西に切れて、某の神社の石の玉垣に沿ひて、だらだらと上る道狭く、繁き木立に南を塞がれて、残れる雪の夥多きが泥交に踏散されたるを、件の車は曳々と挽上げて、取着に土塀を由々しく構へて、門には電燈を掲げたる方にぞ入りける。  こは富山唯継が住居にて、その女客は宮が母なり。主は疾に会社に出勤せし後にて、例刻に来れる髪結の今方帰行きて、まだその跡も掃かぬ程なり。紋羽二重の肉色鹿子を掛けたる大円髷より水は滴るばかりに、玉の如き喉を白絹のハンカチイフに巻きて、風邪気などにや、連に打咳きつつ、宮は奥より出迎に見えぬ。その故とも覚えず余に著き面羸は、唯一目に母が心を驚せり。  閑ある身なれば、宮は月々生家なる両親を見舞ひ、母も同じほど訪ひ音づるるをば、此上無き隠居の保養と為るなり。信に女親の心は、娘の身の定りて、その家栄え、その身安泰に、しかもいみじう出世したる姿を見るに増して楽まさるる事はあらざらん。彼は宮を見る毎に大なる手柄をも成したらんやうに吾が識れるほどの親といふ親は、皆才覚無く、仕合薄くて、有様は気の毒なる人達哉、と漫に己の誇らるるなりけり。されば月毎に彼が富山の門を入るは、正に人の母たる成功の凱旋門を過る心地もすなるべし。  可懐きと、嬉きと、猶今一つとにて、母は得々と奥に導れぬ。久く垂籠めて友欲き宮は、拯を得たるやうに覚えて、有るまじき事ながら、或は密に貫一の報を齎せるにはあらずやなど、枉げても念じつつ、せめては愁に閉ぢたる胸を姑くも寛うせんとするなり。  母は語るべき事の日頃蓄へたる数々を措きて、先づ宮が血色の気遣く衰へたる故を詰りぬ。同じ事を夫にさへ問れしを思合せて、彼はさまでに己の羸れたるを惧れつつも、 「さう? でも、何処も悪い所なんぞ有りはしません。余り体を動かさないから、その所為かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱いで鬱いで耐らない事があるの。あれは血の道と謂ふんでせうね」 「ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診てもらふ方が可いよ、放つて措くから畢竟持病にもなるのさ」  宮は唯頷きぬ。  母は不図思起してや、さも慌忙しげに、 「後が出来たのぢやないかい」  宮は打笑みつ。されども例の可羞しとにはあらで傍痛き余を微見せしやうなり。 「そんな事はありはしませんわ」 「さう何日までも沙汰が無くちや困るぢやないか。本当に未だそんな様子は無いのかえ」 「有りはしませんよ」 「無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先の内は子供が所好だつた癖に、自分の子は欲くないのかね」  宮もさすがに当惑しつつ、 「欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ」 「だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専だよ」 「体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診てもらふのも変だし……けれどもね、阿母さん、私は疾から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快くないの。その所為で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ」  母のその目は瞪り、その膝は前み、その胸は潰れたり。 「どうしたのさ!」  宮は俯きたりし顔を寂しげに起して、 「私ね、去年の秋、貫一さんに逢つてね……」 「さうかい!」  己だに聞くを憚る秘密の如く、母はその応ふる声をも潜めて、まして四辺には油断もあらぬ気勢なり。 「何処で」 「内の方へも全然爾来の様子は知れないの?」 「ああ」 「些も?」 「ああ」 「どうしてゐると云ふやうな話も?」 「ああ」  かく纔に応ふるのみにて、母は自ら湧せる万感の渦の裏に陥りてぞゐたる。 「さう? 阿父さんは内証で知つてお在ぢやなくて?」 「いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ」  宮はその梗概を語れり。聴ゐる母は、彼の事無くその場を遁れ得てし始末を詳かにするを俟ちて、始めて重荷を下したるやうに哱と息を咆きぬ。実に彼は熱海の梅園にて膩汗を搾られし次手悪さを思合せて、憂き目を重ねし宮が不幸を、不愍とも、惨しとも、今更に親心を傷むるなりけり。されども過ぎしその事よりは、為に宮が前途に一大障礙の或は来るべきを案じて、母はなかなか心穏ならず、 「さうして貫一はどうしたえ」 「お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……」 「ああそれから?」 「それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采をして、何だか大変羸れて、私も極が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……」  彼は襦袢の袖の端に窃と眶を挲りて、 「好い心持はしないわ、ねえ」 「へええ、そんなになつてゐるのかね」  母の顔色も異き寒さにや襲はるると見えぬ。 「それまでだつて、憶出さない事は無いけれど、去年逢つてからは、毎日のやうに気になつて、可厭な夢なんぞを度々見るの。阿父さんや、阿母さんに会ふ度に、今度は話さう、今度は話さうと思ひながら、私の口からは何と無く話し難いやうで、実は今まで言はずにゐたのだけれど、その事が初中終苦になる所為で気を傷めるから体にも障るのぢやないかと、さう想ふのです」  思凝せるやうに母は或方を見据ゑつつ、言は無くて頷きゐたり。 「それで、私は阿母さんに相談して、貫一さんをどうかして上げたいの──あの時にそんな話も有つたのでせう。さうして依旧鴫沢の跡は貫一さんに取して下さいよ、それでなくては私の気が済まないから。今までは行方が知れなかつたから為方がないけれど、聞合せれば直に分るのだから、それを抛つて措いちや此方が悪いから、阿父さんにでも会つて貰つて、何とか話を付けるやうにして下さいな。さうして従来通に内で世話をして、どんなにもあの人の目的を達しさして、立派に吾家の跡を取して下さい。私はさうしたら兄弟の盃をして、何処までも生家の兄さんで、末始終力になつて欲いわ」  宮がこの言は決して内に自ら欺き、又敢て外に他を欺くにはあらざりき。影とも儚く隔の関の遠き恋人として余所に朽さんより、近き他人の前に己を殺さんぞ、同く受くべき苦痛ならば、その忍び易きに就かんと冀へるなり。 「それはさうでもあらうけれど、随分考へ物だよ。あのひとの事なら、内でも時々話が出て、何処にどうしてゐるかしらんつて、案じないぢやないけれど、阿父さんも能くお言ひのさ、如何に何だつて、余り貫一の仕打が憎いつて。成程それは、お前との約束ね、それを反古にしたと云ふので、齢の若いものの事だから腹も立たう、立たうけれど、お前自分の身の上も些は考へて見るが可いわね。子供の内からああして世話になつて、全く内のお蔭でともかくもあれだけにもなつたのぢやないか、その恩も有れば、義理も有るのだらう。そこ所を些と考へたら、あれぎり家出をして了ふなんて、あんなまあ面抵がましい仕打振をするつてが有るものかね。  それぢやあの約束を反古にして、もうお前には用は無いからどうでも独で勝手に為るが可い、と云ふやうな不人情なことを仮初にも為たのぢやなし、鴫沢の家は譲らうし、所望なら洋行も為せやうとまで言ふのぢやないか。それは一時は腹も立たうけれど、好く了簡して前後を考へて見たら、万更訳の解らない話をしてゐるのぢやないのだもの、私達の顔を立ててくれたつて、そんなに罰も当りはしまいと思ふのさ。さうしてお剰に、阿父さんから十分に訳を言つて、頭を低げないばかりにして頼んだのぢやないかね。だから此方には少しも無理は無い筈だのに、貫一が余り身の程を知らな過るよ。  それはね、阿父さんが昔あの人の親の世話になつた事があるさうさ、その恩返なら、行処の無い躯を十五の時から引取つて、高等学校を卒業するまでに仕上げたから、それで十分だらうぢやないか。  全く、お前、貫一の為方は増長してゐるのだよ。それだから、阿父さんだつて、私だつて、ああされて見ると決して可愛くはないのだからね、今更此方から捜出して、とやかう言ふほどの事はありはしないよ。それぢや何ぼ何でも不見識とやらぢやないか」  その不見識とやらを嫌ふよりは、別に嫌ふべく、懼るべく、警むべき事あらずや、と母は私に慮れるなり。 「阿父さんや阿母さんの身になつたら、さう思ふのは無理も無いけれど、どうもこのままぢや私が気が済まないんですもの。今になつて考へて見ると、貫一さんが悪いのでなし、阿父さん阿母さんが悪いのでなし、全く私一人が悪かつたばかりに、貫一さんには阿父さん阿母さんを恨ませるし、阿父さん阿母さんには貫一さんを悪く思はせたのだから、やつぱり私が仲へ入つて、元々通に為なければ済まないと思ふんですから、貫一さんの悪いのは、どうぞ私に免じて、今までの事は水に流して了つて、改めて貫一さんを内の養子にして下さいな。若しさうなれば、私もそれで苦労が滅るのだから、きつと体も丈夫になるに違無いから、是非さう云ふ事に阿父さんにも頼んで下さいな、ねえ、阿母さん。さうして下さらないと、私は段々体を悪くするわ」  かく言出でし宮が胸は、ここに尽くその罪を懺悔したらんやうに、多少の涼きを覚ゆるなりき。 「そんなに言ふのなら、還つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか」 「いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に──さうね、何と謂つたら可いのだらう──私があんなに不仕合な身分にして了つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉からうと、そんな事ばかり考へては鬱いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから」  されども母は投首して、 「私の考量ぢや、どうも今更ねえ……」 「阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……」 「お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……」 「可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は凴拠にはしないから、不承知なら不承知でも可いの」  涙含みつつ宮が焦心になれるを、母は打惑ひて、 「まあ、お聞きよ。それは、ね、……」 「阿母さん、可いわ──私、可いの」 「可かないよ」 「可かなくつても可いわ」 「あれ、まあ、……何だね」 「どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……」  我にもあらで迸る泣声を、つと袖に抑へても、宮は急来る涙を止めかねたり。 「何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……」 「可いわ。そんなら、さうで私にも了簡があるから、どうとも私は自分で為るわ」 「自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ」 「…………」 「帰つたら阿父さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね」 「だから、阿母さんは私の心を知らないのだから、頼効が無い、と謂ふのよ」 「多度お言ひな」 「言ふわ」  真顔作れる母は火鉢の縁に丁と煙管を撃けば、他行持の暫く乾されて弛みし雁首はほつくり脱けて灰の中に舞込みぬ。 第四章  頭部に受けし貫一が挫傷は、危くも脳膜炎を続発せしむべかりしを、肢体に数個所の傷部とともに、その免るべからざる若干の疾患を得たりしのみにて、今や日増に康復の歩を趁ひて、可艱しげにも自ら起居を扶け得る身となりければ、一日一夜を為す事も無く、ベッドの上に静養を勉めざるべからざる病院の無聊をば、殆ど生きながら葬られたらんやうに倦み困じつつ、彼は更にこの病と相関する如く、関せざる如く併発したる別様の苦悩の為に侵さるるなりき。  主治医も、助手も、看護婦も、附添婆も、受附も、小使も、乃至患者の幾人も、皆目を側めて彼と最も密なる関係あるべきを疑はざるまでに、満枝の頻繁病を訪ひ来るなり。三月にわたる久きをかの美き姿の絶えず出入するなれば、噂は自から院内に播りて、博士の某さへ終に唆されて、垣間見の歩をここに枉げられしとぞ伝へ侍る。始の程は何者の美形とも得知れざりしを、医員の中に例の困められしがありて、名著の美人クリイムと洩せしより、いとど人の耳を驚かし、目を悦す種とはなりて、貫一が浮名もこれに伴ひて唱はれけり。  さりとは彼の暁るべき由無けれど、何の廉もあらむに足近く訪はるるを心憂く思ふ余に、一度ならず満枝に向ひて言ひし事もありけれど、見舞といふを陽にして訪ひ来るなれば、理として好意を拒絶すべきにあらず。さは謂へ、こは情の掛〓(「(箆-竹-比)/民」)と知れば、又甘んじて受くべきにもあらず、しかのみならで、彼は素より満枝の為人を悪みて、その貌の美きを見ず、その思切なるを汲まんともせざるに、猶かつ主ある身の謬りて仇名もや立たばなど気遣はるるに就けて、貫一は彼の入来るに会へば、冷き汗の湧出づるとともに、創所の遽に疼き立ちて、唯異くも己なる者の全く痺らさるるに似たるを、吾ながら心弱しと尤むれども効無かりけり。実に彼は日頃この煩を逃れん為に、努めてこの敵を避けてぞ過せし。今彼の身は第二医院の一室に密封せられて、しかも隠るる所無きベッドの上に横はれれば、宛然爼板に上れる魚の如く、空く他の為すに委するのみなる仕合を、掻挘らんとばかりに悶ゆるなり。  かかる苦き枕頭に彼は又驚くべき事実を見出しつつ、飜へつて己を顧れば、測らざる累の既に逮べる迷惑は、その藁蒲団の内に針の包れたる心地して、今なほ彼の病むと謂はば、恐くは外に三分を患ひて、内に却つて七分を憂ふるにあらざらんや。貫一もそれをこそ懸念せしが、果して鰐淵は彼と満枝との間を疑ひ初めき。彼は又鰐淵の疑へるに由りて、その人と満枝との間をも略推し得たるなり。  例の煩き人は今日も訪ひ来つ、しかも仇ならず意を籠めたりと覚き見舞物など持ちて。はや一時間余を過せども、彼は枕頭に起ちつ、居つして、なかなか帰り行くべくも見えず。貫一は寄付けじとやうに彼方を向きて、覚めながら目を塞ぎていと静に臥したり。附添婆の折から出行きしを候ひて、満枝は椅子を躙り寄せつつ、 「間さん、間さん。貴方、貴方」  と枕の端を指もて音なへど、眠れるにもあらぬ貫一は何の答をも与へず、満枝は起ちてベッドの彼方へ廻り行きて、彼の寐顔を差覗きつ。 「間さん」  猶答へざりけるを、軽く肩の辺を撼せば、貫一はさるをも知らざる為はしかねて、始めて目を開きぬ。彼はかく覚めたれど、満枝はなほ覚めざりし先の可懐しげに差寄りたる態を改めずして、その手を彼の肩に置き、その顔を彼の枕に近けたるまま、 「私貴方に些とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし」 「あ、まだ在しつたのですか」 「いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう」 「…………」 「外でもございませんが……」  彼の隔無く身近に狎るるを可忌しと思へば、貫一はわざと寐返りて、椅子を置きたる方に向直り、 「どうぞ此方へ」  この心を暁れる満枝は、飽くまで憎き事為るよと、持てるハンカチイフにベッドを打ちて、かくまでに遇はれながら、なほこの人を慕はでは已まぬ我身かと、効無くも余に軽く弄ばるるを可愧うて佇みたり。されども貫一は直に席を移さざる満枝の為に、再び言を費さんとも為ざりけり。  気嵩なる彼は胸に余して、聞えよがしに、 「唉、貴方には軽蔑されてゐる事を知りながら、何為私腹を立てることが出来ないのでせう。実に貴方は!」  満枝は彼の枕を捉へて顫ひしが、貫一の寂然として眼を閉ぢたるに益苛ちて、 「余り酷うございますよ。間さん、何とか有仰つて下さいましな」  彼は堪へざらんやうに苦りたる口元を引歪めて、 「別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有迷惑で……」 「何と有仰います!」 「以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します」 「貴方、何と……‼」  満枝は眉を昂げて詰寄せたり。貫一は仰ぎて眼を塞ぎぬ。  素より彼の無愛相なるを満枝は知れり。彼の無愛相の己に対しては更に甚きを加ふるをも善く知れり。満枝が手管は、今その外に顕せるやうに決して内に怺へかねたるにはあらず、かくしてその人と諍ふも、また愜はざる恋の内に聊か楽む道なるを思へるなり。涙微紅めたる眶に耀きて、いつか宿せる暁の葩に露の津々なる。 「お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私も貴方に度々来て戴くのは甚だ迷惑なのですから」 「御迷惑は始から存じてをります」 「いいや、未だ外にこの頃のがあるのです」 「ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか」 「まあ、さうです」 「それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶しがつて、如何に何でもそんなに作るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭なことを有仰つたのです。私些もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます」  聴ゐざるにはあらねど、貫一は絶えて応答だに為ざるなり。 「実は疾からお話を申さうとは存じたのでございますけれど、そんな可厭な事を自分の口から吹聴らしく、却つて何も御存じない方が可からうと存じて、何も申上げずにをつたのでございますが、鰐淵様のかれこれ有仰るのは今に始つた事ではないので、もう私実に窮つてをるのでございます。始終好い加減なことを申しては遁げてをるのですけれど、鰐淵さんは私が貴方をこんなに……と云ふ事は御存じなかつたのですから、それで済んでをりましたけれど、貴方が御入院あそばしてから、私かうして始終お訪ね申しますし、鰐淵さんも頻繁いらつしやるので、度々お目に懸るところから、何とかお想ひなすつたのでございませう。それで、この間は到頭それを有仰つて、訳が有るなら有るで、隠さずに話をしろと有仰るのぢやございませんか。私為方がありませんから、お約束をしたと申して了ひました」 「え!」と貫一は繃帯したる頭を擡げて、彼の有為顔を赦し難く打目戍れり。満枝はさすが過を悔いたる風情にて、やをら左の袂を膝に掻載せ、牡丹の莟の如く揃へる紅絹裏の振を弄りつつ、彼の咎を懼るる目遣してゐたり。 「実に怪しからん! 謊なことを有仰つたものです」  萎るる満枝を尻目に掛けて、 「もう可いから、早くお還り下さい」  彼を喝せし怒に任せて、半起したりし体を投倒せば、腰部の創所を強く抵てて、得堪へず呻き苦むを、不意なりければ満枝は殊に惑ひて、 「どう遊ばして? 何処ぞお痛みですか」  手早く夜着を揚げんとすれば、払退けて、 「もうお還り下さい」  言放ちて貫一は例の背を差向けて、遽に打鎮りゐたり。 「私還りません! 貴方がさう酷く有仰れば、以上還りません。いつまでも居られる躯ではないのでございますから、順く還るやうにして還して下さいまし」  いとはしたなくて立てる満枝は闥の啓くに驚かされぬ。入来れるは、附添婆か、あらず。看護婦か、あらず。国手の回診か、あらず。小使か、あらず。あらず!  胡麻塩羅紗の地厚なる二重外套を絡へる魁肥の老紳士は悠然として入来りしが、内の光景を見ると斉く胸悪き色はつとその面に出でぬ。満枝は心に少く慌てたれど、さしも顕さで、雍かに小腰を屈めて、 「おや、お出あそばしまし」 「ほほ、これは、毎度お見舞下さつて」  同く慇懃に会釈はすれど、疑も無く反対の意を示せる金壺眼は光を逞う女の横顔を瞥見せり。静に臥したる貫一は発作の来れる如き苦悩を感じつつ、身を起して直行を迎ふれば、 「どうぢやな。好え方がお見舞に来てをつて下さるで、可えの」  打付に過ぎし言を二人ともに快からず思へば、頓に答は無くて、その場の白けたるを、さこそと謂はんやうに直行の独り笑ふなりき。如何に答ふべきか。如何に言釈くべきか、如何に処すべきかを思煩へる貫一は艱しげなる顔を稍内向けたるに、今はなかなか悪怯れもせで満枝は椅子の前なる手炉に寄りぬ。 「然しお宅の御都合もあるぢやらうし、又お忙いところを度々お見舞下されては痛入ります。それにこれの病気も最早快うなるばかりじやで御心配には及ばんで、以来お出で下さるのは何分お断り申しまする」  言黒めたる邪魔立を満枝は面憎がりて、 「いいえ、もうどう致しまして、この御近辺まで毎々次手がありますのでございますから、その御心配には及びません」  直行の眼は再び輝けり。貫一は憖に彼を窘めじと、傍より言を添へぬ。 「毎度お訪ね下さるので、却つて私は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然御断り下さるやうに」 「当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう」 「お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私差控へませう」  満枝は色を作して直行を打見遣りつつ、その面を引廻して、やがて非ぬ方を目戍りたり。 「いや、いや、な、決して、そんな訳ぢや……」 「余りな御挨拶で! 女だと思召して有仰るのかは存じませんが、それまでのお指図は受けませんで宜うございます」 「いや、そんなに悪う取られては甚だ困る、畢竟貴方の為を思ひますじやに因つて……」 「何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私の不為になるのでございませう」 「それにお心着が無い?」  その能く用ゐる微笑を弄して、直行は巧に温顔を作れるなり。  満枝は稍急立ちぬ。 「ございません」 「それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子が度々出入したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易い、可えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様と云ふ者のある貴方の躯に疵が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ」  陰には己自ら更に甚き不為を強ひながら、人の口といふもののかくまでに重宝なるが可笑し、と満枝は思ひつつも、 「それは御深切に難有う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今慎みますでございます」 「これは太い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘にもかれこれ言るるんぢやから、どんなにも嬉いぢやらう、私のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為まいにな」  貫一は苦々しさに聞かざる為してゐたり。 「そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも」 「さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい」 「それこそ、御妻君が在つしやるのですから、余り頻繁上りますと……」  後は得言はで打笑める目元の媚、ハンカチイフを口蔽にしたる羞含しさなど、直行はふと目を奪はれて、飽かず覚ゆるなりき。 「はッ、はッ、はッ、すぢや細君が無いで、ここへは安心してお出かな。私は赤樫さんの処へ行つて言ひますぞ」 「はい、有仰つて下さいまし。私此方へ度々お見舞に出ますことは、宅でも存じてをるのでございますから、唯今も貴方から御注意を受けたのでございますが、私も用を抱へてをる体でかうして上りますのは、お見舞に出なければ済まないと考へまする訳がございますからで、その実、上りますれば、間さんは却つて私の伺ふのを懊悩く思召してゐらつしやるのですから、それは私のやうな者が余り参つてはお目障か知れませんけれど、外の事ではなし、お見舞に上るのでございますから、そんなに作らなくても宜いではございませんか。  然し、それでも私気に懸つて、かうして上るのは、でございます、宅へお出になつた御帰途にこの御怪我なんでございませう。それに、未だ私済みません事は、あの時大通の方をお帰りあそばすと有仰つたのを、津守坂へお出なさる方がお近いとさう申してお勧め申すと、その途でこの御災難でございませう。で私考へるほど申訳が無くて、宅でも大相気に致して、勉めてお見舞に出なければ済まないと申すので、その心持で毎度上るのでございますから、唯今のやうな御忠告を伺ひますと、私実に心外なのでございます。そんなにして上れば、間さんは間さんでお喜が無いのでございませう」  彼はいと辛しとやうに、恨しとやうに、さては悲しとやうにも直行を視るなりけり。直行は又その辛し、恨し、悲しとやうの情に堪へざらんとする満枝が顔をば、窃に金壺眼の一角を溶しつつ眺入るにぞありける。 「さやうかな。如何さま、それで善う解りましたじや。太い御深切な事で、間もさぞ満足ぢやらうと思ひまする。又私からも、そりや厚うお礼を申しまするじや、で、な、お礼はお礼、今の御忠告は御忠告じや、悪う取つて下さつては困る。貴方がそんなに念うて、毎々お訪ね下さると思や、私も実に嬉いで、折角の御好意をな、どうか卻るやうな、失敬なことは決して言ひたうはないんじや、言ふのはお為を念ふからで、これもやつぱり年寄役なんぢやから、捨てて措けんで。年寄と云ふ者は、これでとかく嫌はるるじや。貴方もやつぱり年寄はお嫌ひぢやらう。ああ、どうですか、ああ」  赤髭を拈り拈りて、直行は女の気色を偸視つ。 「さやうでございます。お年寄は勿論結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね」 「すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが」 「それでございますから、もうもう口喧くてなりませんのです」 「ぢや、口喧うも、気難うもなうたら、どうありますか」 「それでも私好きませんでございますね」 「それでも好かん? 太う嫌うたもんですな」 「尤も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方から好きましても、他で嫌はれましては、何の効もございませんわ」 「さやう、な。けど、貴方のやうな方が此方から好いたと言うたら、どんな者でも可厭言ふ者は、そりや無い」 「あんな事を有仰つて! 如何でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます」 「さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ」  椅子も傾くばかりに身を反して、彼はわざとらしく揺上げ揺上げて笑ひたりしが、 「間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの」 「如何ですか、さう云ふ事は」  誰か烏の雌雄を知らんとやうに、貫一は冷然として嘯けり。 「お前も知らんかな、はッはッはッはッ」 「私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈はございませんわ。ほほほほほほほほ」  そのわざとらしさは彼にも遜らじとばかり、満枝は笑ひ囃せり。  直行が眼は誰を見るとしも無くて独り耀けり。 「それでは私もうお暇を致します」 「ほう、もう、お帰去かな。私もはや行かん成らんで、其所まで御一処に」 「いえ、私些と、あの、西黒門町へ寄りますでございますから、甚だ失礼でございますが……」 「まあ、宜い。其処まで」 「いえ、本当に今日は……」 「まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座の株式一件な、あれがつい纏りさうぢやで、この際お打合をして置かんと、『琴吹』の収債が面白うない。お目に掛つたのが幸ぢやから、些とそのお話を」 「では、明日にでも又、今日は些と急ぎますでございますから」 「そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん」  姑く推問答の末彼は終に満枝を拉し去れり。迹に貫一は悪夢の覚めたる如く連に太息呴いたりしが、やがて為ん方無げに枕に就きてよりは、見るべき物もあらぬ方に、止だ果無く目を奪れゐたり。 第五章  檜葉、樅などの古葉貧しげなるを望むべき窓の外に、庭ともあらず打荒れたる広場は、唯麗なる日影のみぞ饒に置余して、そこらの梅の点々と咲初めたるも、自ら怠り勝に風情作らずと見ゆれど、春の色香に出でたるは憐むべく、打霞める空に来馴るる鵯のいとどしく鳴頻りて、午後二時を過ぎぬる院内の寂々たるに、たまたま響くは患者の廊下を緩う行くなり。  枕の上の徒然は、この時人を圧して殆ど重きを覚えしめんとす。書見せると見えし貫一は辛うじて夢を結びゐたり。彼は実に夢ならでは有得べからざる怪き夢に弄ばれて、躬も夢と知り、夢と覚さんとしつつ、なほ睡の中に囚れしを、端無く人の呼ぶに駭されて、漸く慵き枕を欹てつ。  愕然として彼は瞳を凝せり。ベッドの傍に立てるは、その怪き夢の中に顕れて、終始相離れざりし主人公その人ならずや。打返し打返し視れども訪来れる満枝に紛あらざりき。とは謂へ、彼は夢か、あらぬかを疑ひて止まず。さるはその真ならんよりなほ夢の中なるべきを信ずるの当れるを思へるなり、美しさも常に増して、夢に見るべき姿などのやうに四辺も可輝く、五六歳ばかりも若ぎて、その人の妹なりやとも見えぬ。まして、六十路に余れる夫有てる身と誰かは想ふべき。  髪を台湾銀杏といふに結びて、飾とてはわざと本甲蒔絵の櫛のみを挿したり。黒縮緬の羽織に夢想裏に光琳風の春の野を色入に染めて、納戸縞の御召の下に濃小豆の更紗縮緬、紫根七糸に楽器尽の昼夜帯して、半襟は色糸の縫ある肉色なるが、頸の白きを匂はすやうにて、化粧などもやや濃く、例の腕環のみは燦爛と煩し。今日は殊に推して来にけるを、得堪へず心の尤むらん風情にて佇める姿限無く嬌きて見ゆ。 「お寝のところを飛んだ失礼を致しました。私上る筈ではないのでございますけれど、是非申上げなければなりません事がございますので、些と伺ひましたのでございますから、今日のところはどうか御堪忍あそばして」  彼の許を得んまでは席に着くをだに憚る如く、満枝は漂しげになほ立てるなり。 「はあ、さやうですか。一昨々日あれ程申上げたのに……」  内に燃ゆる憤を抑ふるとともに貫一の言は絶えぬ。 「鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ」 「いや、その事なら伺ふ必要は無いのです」 「あら、そんなことを有仰らずに……」 「失礼します。今日は腰の傷部が又痛みますので」 「おや、それは、お劇いことはお在なさらないのでございますか」 「いえ、なに」 「どうぞお楽に在しつて」  貫一は無雑作に郡内縞の掻巻引被けて臥しけるを、疎略あらせじと満枝は勤篤に冊きて、やがて己も始めて椅子に倚れり。 「貴方の前でこんな事は私申上げ難いのでございますけれど、実は、あの一昨々日でございますね、ああ云ふ訳で鰐淵さんと御一処に参りましたところが、御飯を食べるから何でも附合へと有仰るので、湯島の天神の茶屋へ寄りましたのでございます。さう致すと、案の定可厭い事をもうもう執濃く有仰るのでございます。さうして飽くまで貴方の事を疑つて、始終それを有仰るので、私一番それには困りました。あの方もお年効の無い、物の道理がお解りにならないにも程の有つたもので、一体私を何と思召してゐらつしやるのか存じませんが、客商売でもしてをる者に戯れるやうな事を、それも一度や二度ではないのでございますから、私残念で、一昨々日なども泣いたのでございます。で、この後二度とそんな事の有仰れないやうに、私その場で十分に申したことは申しましたけれど、変に気を廻してゐらつしやる方の事でございますから、取んだ八当で貴方へ御迷惑が懸りますやうでは、何とも私申訳がございませんから、どうぞそれだけお含み置き下さいまして、悪からず……。  今度お会ひあそばしたら、鰐淵さんが何とか有仰るかも知れません。さぞ御迷惑でゐらつしやいませうけれど、そこは宜いやうに有仰つて置いて下さいまし。それも貴方が何とか些でも思召してゐらつしやる方とならば、そんな事を有仰られるのもまた何でございませうけれど、嫌抜いてお在あそばす私のやうな者と訳でもあるやうに有仰られるのは、さぞお辛くてゐらつしやいませうけれど、私のやうな者に見込れたのが因果とお諦め遊ばしまし。  貴方も因果なれば、私も……私は猶因果なのでございますよ。かう云ふのが実に因果と謂ふのでございませうね」  金煙管の莨の独り杳眇と燻るを手にせるまま、満枝は儚さの遣方無げに萎れゐたり。さるをも見向かず、答へず、頑として石の如く横はれる貫一。 「貴方もお諦め下さいまし、全く因果なのでございますから、切てさうと諦めてでもゐて下されば、それだけでも私幾分か思が透つたやうな気が致すのでございます。  間さん。貴方は過日私がこんなに思つてゐることを何日までもお忘れないやうにと申上げたら、お志は決して忘れんと有仰いましたね。お覚えあそばしてゐらつしやいませう。ねえ、貴方、よもやお忘れは無いでせう。如何なのでございますよ」  勢ひて問詰むれば、極めて事も無げに、 「忘れません」  満枝は彼の面を絶に怨視て瞬も為ず、その時人声して闥は徐に啓きぬ。  案内せる附添の婆は戸口の外に立ちて請じ入れんとすれば、客はその老に似気なく、今更内の様子を心惑せらるる体にて、彼にさへ可慎う小声に言付けつつ名刺を渡せり。  満枝は如何なる人かと瞥と見るに、白髪交りの髯は長く胸の辺に垂れて、篤実の面貌痩せたれども賤からず、長は高しとにあらねど、素より膄にもあらざりし肉の自ら齢の衰に削れたれば、冬枯の峰に抽けるやうに聳えても見ゆ。衣服などさる可く、程を守りたるが奥幽くて、誰とも知らねどさすがに疎ならず覚えて、彼は早くもこの賓の席を設けて待てるなりき。  貫一は婆の示せる名刺を取りて、何心無く打見れば、鴫沢隆三と誌したり。色を失へる貫一はその堪へかぬる驚愕に駆れて、忽ち身を飜して其方を見向かんとせしが、幾ど同時に又枕して、終に動かず。狂ひ出でんずる息を厳く閉ぢて、燃るばかりに瞋れる眼は放たず名刺を見入りたりしが、さしも内なる千万無量の思を裹める一点の涙は不覚に滾び出でぬ。こは怪しと思ひつつも婆は、 「此方へお通し申しませうで……」 「知らん!」 「はい?」 「こんな人は知らん」  人目あらずば引裂き棄つべき名刺よ、涜しと投返せば床の上に落ちぬ。彼は強ひて目を塞ぎ、身の顫ふをば吾と吾手に抱窘めて、恨は忘れずとも憤は忍ぶべしと、撻たんやうにも己を制すれば、髪は逆竪ち蠢きて、頭脳の裏に沸騰る血はその欲するままに注ぐところを求めて、心も狂へと乱螫すなり。彼はこれと争ひて猶も抑へぬ。面色は漸く変じて灰の如し。婆は懼れたる目色を客の方へ忍ばせて、 「御存じないお方なので?」 「一向知らん。人違だらうから、断つて返すが可い」 「さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰つてお尋ね……」 「ああ、何でも可いから早く断つて」 「さやうでございますか、それではお断り申しませうかね」 (五)の二  婆は鴫沢の前にその趣を述べて、投棄てられし名刺を返さんとすれば、手を後様に束ねたるままに受取らで、強ひて面を和ぐるも苦しげに見えぬ。 「ああ、さやうかね、御承知の無い訳は無いのだ。ははは、大分久い前の事だから、お忘れになつたのか知れん、それでは宜い。私が直にお目に掛らう。この部屋は間貫一さんだね、ああ、それでは間違無い」  屹と思案せる鴫沢の椅子ある方に進み寄れば、満枝は座を起ち、会釈して、席を薦めぬ。 「貫一さん、私だよ。久う会はんので忘れられたかのう」  室の隅に婆が茶の支度せんとするを、満枝は自ら行きて手を下し、或は指図もし、又自ら持来りて薦むるなど尋常の見舞客にはあらじと、鴫沢は始めてこの女に注目せるなり。貫一は知らざる如く、彼方を向きて答へず。仔細こそあれとは覚ゆれど、例のこの人の無愛想よ、と満枝は傍に見つつも憫に可笑かりき。 「貫一さんや、私だ。疾にも訪ねたいのであつたが、何にしろ居所が全然知れんので。一昨日ふと聞出したから不取敢かうして出向いたのだが、病気はどうかのう。何か、大怪我ださうではないか」  猶も答のあらざるを腹立くは思へど、満枝の居るを幸に、 「睡てをりますですかな」 「はい、如何でございますか」  彼はこの長者の窘めるを傍に見かねて、貫一が枕に近く差寄りて窺へば、涙の顔を褥に擦付けて、急上げ急上げ肩息してゐたり。何事とも覚えず驚されしを、色にも見せず、怪まるるをも言に出さず、些の心着さへあらぬやうに擬して、 「お客様がいらつしやいましたよ」 「今も言ひました通り、一向識らん方なのですから、お還し申して下さい」  彼は面を伏せて又言はず、満枝は早くもその意を推して、また多くは問はず席に復りて、 「お人違ではございませんでせうか、どうも御覚が無いと有仰るのでございます」  長き髯を推揉みつつ鴫沢は為方無さに苦笑して、 「人違とは如何なことでも! 五年や七年会はんでも私は未だそれほど老耄はせんのだ。然し覚が無いと言へばそれまでの話、覚もあらうし、人違でもなからうと思へばこそ、かうして折角会ひにも来たらうと謂ふもの。老人の私がわざわざかうして出向いて来たのでのう、そこに免じて、些とでも会うて貰ひませう」  挨拶如何にと待てども、貫一は音だに立てざるなり。 「それぢや、何かい、こんなに言うても不承してはくれんのかの。ああ、さやうか、是非が無い。  然し、貫一さん、能う考へて御覧、まあ、私たちの事をどう思うてゐらるるか知らんが、お前さんの爾来の為方、又今日のこの始末は、ちと妥当ならんではあるまいか。とにかく鴫沢の翁に対してかう為たものではなからうと思ふがどうであらうの。成程お前さんの方にも言分はあらう、それも聞きに来た。私の方にも少く言分の無いではない。それも聞かせたい。然し、かうしてわざわざ尋ねて来たものであるから、此方では既に折れて出てゐるのだ。さうしてお前さんに会うて話と謂ふは、決して身勝手な事を言ひに来たぢやない、やはり其方の身の上に就いて善かれと計ひたい老婆心切。私の方ではその当時に在つてもお前さんを棄てた覚は無し、又今日も五年前も同じ考量で居るのだ。それを、まあ、若い人の血気と謂ふのであらう。唯一図に思ひ込んで誤解されたのか、私は如何にも残念でならん。今日までも誤解されてゐるのは愈よ心外だで、お前さんの住所の知れ次第早速出掛けて来たのだ。凡そ此方の了簡を誤解されてゐるほど心苦い事は無い。人の為に謀つて、さうして僅の行違から恨まれる、恩に被せうとて謀つたではないが、恨まれやうとは誰にしても思はん。で、ああして睦う一家族で居つて、私たちも死水を取つて貰ふ意であつたものを、僅の行違から音信不通の間になつて了ふと謂ふは、何ともはや浅ましい次第で、私も誠に寐覚が悪からうと謂ふもの、実に姨とも言暮してゐるのだ。私の方では何処までも旧通りになつて貰うて、早く隠居でもしたいのだ。それも然しお前さんの了簡が釈けんでは話が出来ん。その話は二の次としても、差当り誤解されてゐる一条だ。会うて篤と話をしたら直に訳は分らうと思ふで、是非一通りは聞いて貰ひたい。その上でも心が釈けん事なら、どうもそれまで。私はお前さんの親御の墓へ詣つて、のう、抑もお前さんを引取つてから今日までの来歴を在様陳べて、鴫沢はこれこれの事を為、かうかう思ひまする、けれども成行でかう云ふ始末になりましたのは、残念ながら致方が無い、と丁とお分疏を言うて、そして私は私の一分を立ててから立派に縁を切りたいのだ。のう。はや五年も便を為んのだから、お前さんは縁を切つた気であらうが、私の方では未だ縁は切らんのだ。  私は考へる、たとへばこの鴫沢の翁の為た事が不都合であらうか知れん、けれども間貫一たる者は唯一度の不都合ぐらゐは如何にも我慢をしてくれんければ成るまいかと思ふのだ。又その我慢が成らんならば、も少し妥当に事を為てもらひたかつた。私の方に言分のあると謂ふのは其処だ。言はせればその通り私にも言分はある。然し、そんな事を言ひに来たではない、私の方にも如何様手落があつたで、その詫も言はうし、又昔も今も此方には心持に異変は無いのだから、それが第一に知らせたい。翁が久しぶりで来たのだ、のう、貫一さん、今日は何も言はずに清う会うてくれ」  曾て聞かざりし恋人が身の上の秘密よ、と満枝は奇き興を覚えて耳を傾けぬ。  我強くも貫一のなほ言はんとはせざるに、漸く怺へかねたる鴫沢の翁はやにはに椅子を起ちて、強ひてもその顔見んと歩み寄れり。事の由は知るべきやう無けれど、この客の言を尽せるにも理聞えて、無下に打も棄てられず、されども貫一が唯涙を流して一語を出さず、いと善く識るらん人をば覚無しと言へる、これにもなかなか所謂はあらんと推測るれば、一も二も無く満枝は恋人に与してこの場の急を拯はんと思へるなり。  枕頭を窺ひつつ危む如く眉を攅めて、鴫沢の未だ言出でざる時、 「私看病に参つてをります者でございますが、何方様でゐらつしやいますか存じませんが、この一両日病人は熱の気味で始終昏々いたして、時々譫語のやうな事を申して、泣いたり、慍つたり致すのでございますが、……」  頭を捻向けて満枝に対せる鴫沢の顔の色は、この時故に解きたりと見えぬ。 「はあ、は、さやうですかな」 「先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直に除れまするさうでございますから、又改めてお出を願ひたう存じます。今日は私御名刺を戴いて置きまして、お軽快なり次第私から悉くお話を致しますでございます」 「はあ、それはそれは」 「実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日は又如何致したのでございますか、昨日とは全で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇なことを申されるよりは始末が宜いでございます」  かくても始末は善しと謂ふかと、翁は打蹙むべきを強ひて易へたるやうの笑を洩せば、満枝はその言了せしを喜べるやうに笑ひぬ。彼は婆を呼びて湯を易へ、更に熱き茶を薦めて、再び客を席に着かしめぬ。 「さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して──名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌してあります──貴方は失礼ながらやはり鰐淵さんの御親戚ででも?」 「はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります」 「はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶うたと聞きましたが、如何いたしましたな」  彼はこの美き看病人の素性知らまほしさに、あらぬ問をも設けたるなり。 「さやうな事はついに存じませんですが」 「はて、さうとばかり思うてをりましたに」  容儀人の娘とは見えず、妻とも見えず、しかも絢粲しう装飾れる様は色を売る儔にやと疑はれざるにはあらねど、言辞行儀の端々自らさにもあらざる、畢竟これ何者と、鴫沢は容易にその一斑をも推し得ざるなりけり。されども、懇意と謂ふも、手伝と謂ふも、皆詐ならんとは想ひぬ。正き筋の知辺にはあらで、人の娘にもあらず、又貫一が妻と謂ふにもあらずして、深き訳ある内証者なるべし。若しさもあらば、貫一はその身の境遇とともに堕落して性根も腐れ、身持も頽れたるを想ふべし、とかくは好みて昔の縁を繋ぐべきものにあらず。如此き輩を出入せしむる鴫沢の家は、終に不慮の禍を招くに至らんも知るべからざるを、と彼は心中遽に懼を生じて、さては彼の恨深く言を容れざるを幸に、今日は一先立還りて、尚ほ一層の探索と一番の熟考とを遂げて後、来る可くは再び来らんも晩からず、と失望の裏別に幾分の得るところあるを私に喜べり。 「いや、これはどうも図らずお世話様に成りました。いづれ又近日改めてお目に掛りまするで、失礼ながらお名前を伺つて置きたうござりまするが」 「はい、私は」と紫根塩瀬の手提の中より小形の名刺を取出だして、 「甚だ失礼でございますが」 「はい、これは。赤樫満枝さまと有仰いますか」  この女の素性に於ける彼の疑は益暗くなりぬ。夫有てる身の我は顔に名刺を用意せるも似気無し、まして裏面に横文字を入れたるは、猶可慎からず。応対の雍にして人馴れたる、服装などの当世風に貴族的なる、或は欧羅巴的女子職業に自営せる人などならずや。但しその余に色美きが、又さる際には相応からずも覚えて、こは終に一題の麗き謎を彼に与ふるに過ぎざりき。鴫沢の翁は貫一の冷遇に慍るをも忘れて、この謎の為に苦められつつ病院を辞し去れり。  客を送り出でて満枝の内に入来れば、ベッドの上に貫一の居丈高に起直りて、痩尽れたる拳を握りつつ、咄々、言はで忍びし無念に堪へずして、独り疾視の瞳を凝すに会へり。 第六章  数日前より鰐淵が家は燈点る頃を期して、何処より来るとも知らぬ一人の老女に訪るるが例となりぬ。その人は齢六十路余に傾きて、顔は皺みたれど膚清く、切髪の容などなかなか由ありげにて、風俗も見苦からず、唯異様なるは茶微塵の御召縮緬の被風をも着ながら、更紗の小風呂敷包に油紙の上掛したるを矢筈に負ひて、薄穢き護謨底の運動靴を履いたり。  所用は折入つて主に会ひたしとなり。生憎にも来る度他出中なりけれど、本意無げにも見えで急ぎ帰り、飽きもせずして通ひ来るなりけり。お峯は漸く怪しと思初めぬ。  彼のあだかも三日続けて来れる日、その挙動の常ならず、殊には眼色凄く、憚も無く人を目戍りては、時ならぬに独り打笑む顔の坐寒きまでに可恐きは、狂人なるべし、しかも夜に入るを候ひ、時をも差へず訪ひ来るなど、我家に祟を作すにはあらずや、とお峯は遽に懼を抱きて、とても一度は会ひて、又と足踏せざらんやう、ひたすら直行にその始末を頼みければ、今日は用意して、四時頃にはや還り来にけるなり。 「どうも貴方、あれは気違ですよ。それでも品の良いことは、些とまあ旗本か何かの隠居さんと謂つたやうな、然し一体、鼻の高い、目の大きい、痩せた面長な、怖い顔なんですね。戸外へ来て案内する時のその声といふものが、実に無いんですよ。毎でも極つて、『頼みます、はい頼みます』とかう雍に、緩り二声言ふんで。もうもうその声を聞くと悚然として、ああ可厭だ。何だつて又あんな気違なんぞが来出したんでせう。本当に縁起でもない!」  お峯は柱なる時計を仰ぎぬ。燈の点るには未だ間ありと見るなるべし。直行は可難しげに眉を寄せ、唇を引結びて、 「何者か知らんて、一向心当と謂うては無い。名は言はんて?」 「聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい」 「さうして今晩来るのか」 「来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐りませんから、貴方本当に来ましたら、篤り説諭して、もう来ないやうに作つて下さいよ」 「そりや受合へん。他が気違ぢやもの」 「気違だから私も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか」 「幾多頼まれたてて、気違ぢやもの、俺も為やうは無い」  頼める夫のさしも思はで頼無き言に、お峯は力落してかつは尠からず心慌るなり。 「貴方でも可けないやうだつたらば、巡査にさう言つて引渡して遣りませう」  直行は打笑へり。 「まあ、そんなに騒がんとも可え」 「騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの」 「誰も気違の好えものは無い」 「それ、御覧なさいな」 「何じや」  知らず、その老女は何者、狂か、あらざるか、合力か、物売か、将主の知人か、正体の顕るべき時はかかる裏にも一分時毎に近くなりき。  終日灰色に打曇りて、薄日をだに吝みて洩さざりし空は漸く暮れんとして、弥増す寒さは怪からず人に逼れば、幾分の凌ぎにもと家々の戸は例よりも早く鎖れて、なほ稍明くその色厚氷を懸けたる如き西の空より、隠々として寂き余光の遠く来れるが、遽に去るに忍びざらんやうに彷徨へる巷の此処彼処に、軒ラムプは既に点じ了りて、新に白き焔を放てり。  一陣の風は砂を捲きて起りぬ。怪しの老女はこの風に吹出されたるが如く姿を顕はせり。切髪は乱れ逆竪ちて、披払と飄る裾袂に靡されつつ漂しげに行きつ留りつ、町の南側を辿り辿りて、鰐淵が住へる横町に入りぬ。銃槍の忍返を打ちたる石塀を溢れて一本の梅の咲誇れるを、斜に軒ラムプの照せるがその門なり。  彼は殆ど我家に帰り来れると見ゆる態度にて、傱々と寄りて戸を啓けんとしたれど、啓かざりければ、かの雍に緩しと謂ふ声して、 「頼みます、はい、頼みます」  風は飈々と鳴りて過ぎぬ。この声を聞きしお峯は竦みて立たず。 「貴方、来ましたよ」 「うん、あれか」  実に直行も気味好からぬ声とは思へり。小鍋立せる火鉢の角に猪口を措き、燈を持て来よと婢に命じて、玄関に出でけるが、先づ戸の内より、 「はい何方ですな」 「旦那はお宅でございませうか」 「居りますが、何方で」  答はあらで、呟くか、咡くか、小声ながら頻に物言ふが聞ゆるのみ。 「何方ですか、お名前は何と有仰るな」 「お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花はやつぱりこの梅が宜からうと存じます。さあ、どうぞ此方へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ」  啓けんとせしに啓かざれば、彼は戸を打叩きて劇く案内す。さては狂人なるよと直行も迷惑したれど、このままにては逐ふとも立去るまじきに、一度は会うてとにもかくにも為んと、心ならずも戸を開けば、聞きしに差はぬ老女は入来れり。 「鰐淵は私じやが、何ぞ用かな」 「おお、おまへが鰐淵か!」  つと乗出してその面に瞳を据ゑられたる直行は、鬼気に襲はれて忽ち寒く戦けるなり。熟くと見入る眼を放つと共に、老女は皺手に顔を掩ひて潜々と泣出せり。呆れ果てたる直行は金壺眼を凝してその泣くを眺むる外はあらざりけり。  彼は泣きて泣きて止まず。 「解らんな! 一体どう云ふんか、ああ、私に用と云ふのは?」  朽木の自ら頽れ行くらんやうにも打萎れて見えし老女は、猛然として振仰ぎ、血声を搾りて、 「この大騙め!」 「何ぢやと!」 「大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国の住人武田大膳太夫信玄入道、田夫野人の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井の鈴ちやんがお嫁に来てくれれば、私の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見のあの雅之、能うも能うもおのれは瞞したな! さあ、さあさ讐を討つから立合ひなさい」  直行は舌を吐きて独語ちぬ。 「あ、いよいよ気違じやわい」  見る見る老女の怒は激して、形相漸くおどろおどろしく、物怪などの凴いたるやうに、一挙一動も全くその人ならず、足を踏鳴し踏鳴し、白歯の疎なるを牙の如く露して、一念の凝れる眸は直行の外を見ず、 「歿られた良人から懇々も頼まれた秘蔵の秘蔵の一人子、それを瞞しておのれが懲役に遣つたのだ。此方を女と侮つてさやうな不埒を致したか。長刀の一手も心得てゐるぞよ。恐入つたか」  彼は忽ちさも心地快げに笑へり。 「さうあらうとも、赦します。内には鈴ちやんが今日を曠と着飾つて、その美しさと謂ふものは! ほんにまああんな縹致と云ひ、気立と云ひ、諸芸も出来れば、読、書、針仕事、そんなことは言つてゐるところではない。頸を長くして待つてお在だのに、早く帰つて来ないと云ふ法が有るものですか。大きにまあお世話様でございましたね、さあさ、馬車を待たして置いたから、履物はここに在るよ。なあに、おまへ私はね、滊車で行くから訳は無いとも」  かく言ふ間も忙しげに我が靴を脱ぎて、其処に直すと見れば、背負ひし風呂敷包の中結を釈きて、直行が前に上掛の油紙を披げたり。 「さあさ、お前の首をこの中へ入れるのだ。ころつと落して。直に落ちるから、早く落してお了ひなさい」  さすがに持扱ひて直行の途方に暮れたるを、老女は目を纖めて、何処より出づらんやとばかり世にも奇き声を発ちて緩く笑ひぬ。彼は謂知らぬ凄気に打れて、覚えず肩を聳かせり。  懲役と言ひ、雅之と言ふに因りて、彼は始めてこの狂女の身元を思合せぬ。彼の債務者なる飽浦雅之は、私書偽造罪を以つて彼の被告としてこの十数日前、罰金十円、重禁錮一箇年に処せられしなり。実にその母なり。その母はこれが為に乱心せしか。  爾思へりしのみにて直行はその他に猶も思ふべき事あるを思ふを欲せざりき。雅之の私書偽造罪をもて刑せられしは事実の表にして、その罪は裏面に彼の謀りて陥れたるなり。  彼等の用ゐる悪手段の中に、人の借るを求めて連帯者を得るに窮するあれば、その一判にても話合の上は貸さんと称へて先づ誘ひ、然る後、但し証書の体を成さしめんが為、例の如く連帯者の記名調印を要すればとて、仮に可然き親族知己などの名義を私用して、在合ふ印章を捺さしめ、固より懇意上の内約なればその偽なるを咎めず、と手軽に持掛けて、実は法律上有効の証書を造らしむるなり。借方もかかる所業の不義なるを知るといへども、一は焦眉の急に迫り、一は期限内にだに返弁せば何事もあらじと姑息して、この術中には陥るなりけり。  期に迨びて還さざらんか、彼は忽ち爪牙を露し、陰に告訴の意を示してこれを脅し、散々に不当の利を貪りて、その肉尽き、骨枯るるの後、猶ほ饜く無き慾は、更に件の連帯者に対して寝耳に水の強制執行を加ふるなり。これを表沙汰にせば債務者は論無う刑法の罪人たらざるべからず、ここに於て誰か恐慌し、狼狽し、悩乱し、号泣し、死力を竭して七所借の調達を計らざらん。この時魔の如き力は喉を扼してその背を捬つ、人の死と生とは渾て彼が手中に在りて緊握せらる、欲するところとして得られざるは無し。  雅之もこの〓(「(箆-竹-比)/民」)に繋りて学友の父の名を仮りて連印者に私用したりき。事の破綻に及びて、不幸にも相識れる学友は折から海外に遊学して在らず、しかも父なる人は彼を識らざりしより、その間の調停成らずして、彼の行為は終に第二百十条の問ふところとなりぬ。  法律は鉄腕の如く雅之を拉し去りて、剰さへ杖に離れ、涙に蹌ふ老母をば道の傍に踢返して顧ざりけり。噫、母は幾許この子に思を繋けたりけるよ。親に仕へて、此上無う優かりしを、柏井の鈴とて美き娘をも見立てて、この秋には妻すべかりしを、又この歳暮には援く方有りて、新に興るべき鉄道会社に好地位を得んと頼めしを、事は皆休みぬ、彼は人の歯せざる国法の罪人となり了れり。耻辱、憤恨、悲歎、憂愁、心を置惑ひてこの母は終に発狂せるなり。  無益に言を用ゐんより、唯手柔に撮み出すに如かじと、直行は少しも逆はずして、 「ああ宜いが。この首が欲いか、遣らうとも遣らうとも、ここでは可かんから外へ行かう。さあ一処に来た」  狂女は苦々しげに頭を掉りて、 「お前さんの云ふことは皆妄だ。その手で雅之を瞞したのだらう。それ、それ見なさい、親孝行の、正直者の雅之を瞞着して、散々金を取つた上に懲役に遣つたに相違無いと云ふ一札をこの通り入れたぢやないか、これでも未だ皛しい顔をしてゐるのか」  打披げたりし油紙を取りて直行の目先へ突付くれば、何を包みし移香にや、胸悪き一種の腥気ありて夥く鼻を撲ちぬ。直行は猶も逆はで已む無く面を背けたるを、狂女は目を瞪りつつ雀躍して、 「おおおお、あれあれ! これは嬉い、自然とお前さんの首が段々細くなつて来る。ああ、それそれ、今にもう落ちる」  地には落さじとやうに慌て愺き、油紙もて承けんと為る、その利腕をやにはに捉へて直行は格子の外へ㩳さんと為たり。彼は推れながら格子に縋りて差理無理争ひ、 「ええ、おのれは他をこの崖から突落す気だな。この老婦を騙討に為るのだな」  喚きつつ身を捻返して、突掛けし力の怪き強さに、直行は踏辷らして尻居に倒るれば、彼は囃し立てて笑ふなり。忽ち起上りし直行は彼の衿上を掻掴みて、力まかせに外方へ突遣り、手早く雨戸を引かんとせしに、軋みて動かざる間に又駈戻りて、狂女はその凄き顔を戸口に顕はせり。余りの可恐しさに直行は吾を忘れてその顔をはたと撲ち、痿むところを得たりと鎖せば、外より割るるばかりに戸を叩きて、 「さあ、首を渡せ。大事な証文も取上げて了つたな、大事な靴も取つたな。靴盗坊、大騙! 首を寄来せ」  直行は佇みて様子を候ひゐたり。抜足差足忍び来れる妻は、後より小声に呼びて、 「貴方、どうしました」  夫は戸の外を指してなほ去らざるを示せり。お峯は土間に護謨靴と油紙との遺散れるを見付けて、由無き質を取りけるよと思ひ煩へる折しも、 「頼みます、はい、頼みますよ」  と例の声は聞えぬ。お峯は胴顫して、長くここに留るに堪へず、夫を勧めて奥に入りにけり。  戸叩く音は後も撓まず響きたりしが、直行の裏口より出でて窺ひける時は、風吹荒ぶ門の梅の飛雪の如く乱点して、燈火の微に照す処その影は見えざるなりき。  次の日も例刻になれば狂女は又訪ひ来れり。主は不在なりとて、婢をして彼の遺せし二品を返さしめけるに、前夜の暴れに暴れし気色はなくて、殊勝に聞分けて帰り行きぬ。  お峯はその翌日も必ず来るべきを懼れて夫の在宅を請ひけるが、果して来にけり。又試に婢を出して不在の由を言はしめしに、こたびは直に立去らで、 「それぢやお帰来までここでお待ち申しませう。実はね、是非お受取申す品があるので、それを持つて帰りませんと都合が悪いのですから、幾日でもお待ち申しますよ」  彼は戸口に蹲りて動かず。婢は様々に言作へて賺しけれど、一声も耳には入らざらんやうに、石仏の如く応ぜざるなり。彼は已む無くこれを奥へ告げぬ。直行も為ん術あらねば棄措きたりしに、やや二時間も居て見えずなりぬ。  お峯は心苦がりて、この上は唯警察の手を借らんなど噪ぐを、直行は人を煩すべき事にはあらずとて聴かず。さらば又と来ざらんやうに逐払ふべき手立のありやと責むるに、害を為すにもあらねば、宿無犬の寝たると想ひて意に介るなとのみ。意に介くまじき如きを故に夫には学ばじ、と彼は腹立く思へり。この一事のみにあらず、お峯は常に夫の共に謀ると謂ふこと無くて、女童と侮れるやうに取合はぬ風あるを、口惜くも可恨くも、又或時は心細さの便無き余に、神を信ずる念は出でて、夫の頼むに足らざるところをば神明の冥護に拠らんと、八百万の神といふ神は差別無く敬神せるが中にも、ここに数年前より新に神道の一派を開きて、天尊教と称ふるあり。神体と崇めたるは、その光紫の一大明星にて、御名を大御明尊と申す。天地渾沌として日月も未だ成らざりし先高天原に出現ましませしに因りて、天上天下万物の司と仰ぎ、諸の足らざるを補ひ、総て欠けたるを完うせしめんの大御誓をもて国土百姓を寧く恵ませ給ふとなり。彼は夙に起信して、この尊をば一身一家の守護神と敬ひ奉り、事と有れば祈念を凝して偏に頼み聞ゆるにぞありける。  この夜は別して身を浄め、御燈の数を献げて、災難即滅、怨敵退散の祈願を籠めたりしが、翌日の点燈頃ともなれば、又来にけり。夫は出でて未だ帰らざれば、今日若し罵り噪ぎて、内に躍入ることもやあらば如何せんと、前後の別知らぬばかりに動顛して、取次には婢を出し遣り、躬は神棚の前に駈着け、顫声を打揚げ、丹精を抽でて祝詞を宣りゐたり。狂女は不在と聞きて敢て争はず、昨日の如く、ここにて帰来を待たんとて、同き処に同き形して蹲れり。婢は格子を鎖し固めて内に入りけるが、暫くは音も為ざりしに、遽に物語る如き、或は罵る如き声の頻に聞ゆるより主の知らで帰来て、捉へられたるにはあらずや、と台所の小窓より差覗けば、彼の外には人も在らぬに、在るが如く語るなり。その語るところは婢の耳に聞分けかねたれど、我子がここの主に欺かれて無実の罪に陥されし段々を、前後不揃に泣いつ怒りつ訴ふるなり。 第七章  子の讐なる直行が首を獲んとして夕々に狂女の訪ひ来ること八日に迨べり。浅ましとは思へど、逐ひて去らしむべきにあらず、又門口に居たりとて人を騒がすにもあらねば、とにもかくにも手を着けかねて棄措るるなりき。直行が言へりし如く、畢竟彼は何等の害をも加ふるにあらざれば、犬の寝たると太だ択ばざるべけれど、縮緬の被風着たる人の形の黄昏るる門の薄寒きに踞ひて、灰色の剪髪を掻乱し、妖星の光にも似たる眼を睨反して、笑ふかと見れば泣き、泣くかと見れば憤り、己の胸のやうに際も知らず黒く濁れる夕暮の空に向ひてその悲と恨とを訴へ、腥き油紙を拈りては人の首を獲んを待つなる狂女! よし今は何等の害を加へずとも、終にはこの家に祟を作すべき望を繋くるにあらずや。人の執着の一念は水をも火と成し、山をも海と成し、鉄を劈き、巌を砕くの例、ましてや家を滅し、人を鏖にすなど、塵を吹くよりも易かるべきに、可恐しや事無くてあれかしと、お峯は独り謂知らず心を傷むるなり。  夫は決して雅之の私書偽造を己の陥れし巧なりとは彼に告げざれば、悪は正く狂女の子に在りて、此方に恨を受くべき筋は無く、自らかかる事も出来るは家業の上の勝負にて、又一方には貸倒の損耗あるを思へば、所詮仆し、仆さるるは商の習と、お峯は自ら意を強うして、この老女の狂を発せしを、夫の為せる業とは毫も思ひ寄るにあらざりき。さは謂へ、人の親の切なる情を思へば、実にさぞと肝に徹ふる節無きにもあらざるめり。大方かかる筋より人は恨まれて、奇き殃にも遭ふなればと唯思過されては窮無き恐怖の募るのみ。  日に日に狂女の忘れず通ひ来るは、陰ながら我等の命を絶たんが為にて、多時門に居て動かざるは、その妄執の念力を籠めて夫婦を呪ふにあらずや、とほとほと信ぜらるるまでにお峯が夕暮の心地は譬へん方無く悩されぬ。されば狂女の門に在る間は、大御明尊の御前に打頻り祝詞を唱ふるにあらざれば凌ぐ能はず。かかる中にも心に些の弛あれば、煌々と耀き遍れる御燈の影遽に晦み行きて、天尊の御像も朧に消失せなんと吾目に見ゆるは、納受の恵に泄れ、擁護の綱も切れ果つるやと、彼は身も世も忘るるばかりに念を籠め、烟を立て、汗を流して神慮を驚かすにぞありける。槍は降りても必ず来べし、と震摺れながら待たれし九日目の例刻になりぬれど、如何にしたりけん狂女は見えず。鋭く冱返りたるこの日の寒気は鍼もて膚に霜を種うらんやうに覚えしめぬ。外には烈風怒り号びて、樹を鳴し、屋を撼し、砂を捲き、礫を飛して、曇れる空ならねど吹揚げらるる埃に蔽れて、一天晦く乱れ、日色黄に濁りて、殊に物可恐き夕暮の気勢なり。  鰐淵が門の燈は硝子を二面まで吹落されて、火は消え、ラムプは覆りたり。内の燈火は常より鮮に主が晩酌の喫台を照し、火鉢に架けたる鍋の物は沸々と薫じて、はや一銚子更へたるに、未だ狂女の音容はあらず。お峯は半危みつつも幾分の安堵の思を弄び喜ぶ風情にて、 「気違さんもこの風には弱つたと見えますね。もう毎もきつと来るのに来ませんから、今夜は来やしますまい、何ぼ何でもこの風ぢや吹飛されて了ひませうから。ああ、真に天尊様の御利益があつたのだ」  夫が差せる猪口を受けて、 「お相をしませうかね。何は無くともこんな好い心持の時に戴くとお美いものですね。いいえ、さう続けてはとても……まあ、貴方。おやおやもう七時廻つたんですよ。そんなら断然今晩は来ないと極りましたね。ぢや、戸締を為して了ひませうか、真に今晩のやうな気の霽々した、心の底から好い心持の事はありませんよ。あの気違さんぢやどんなに寿を短めたか知れはしません。もうこれきり来なくなるやうに天尊様へお願ひ申しませう。はい、戴きませう。御酒もお美いものですね。なあにあの婆さんが唯怖いのぢやありませんよ。それは気味は悪うございますけれどもさ、怖いより、気味が悪いより、何と無く凄くて耐らないのです。あれが来ると、悚然と、惣毛竪つて体が竦むのですもの、唯の怖いとは違ひますわね。それが、何だか、かう執着れでもするやうな気がして、あの、それ、能く夢で可恐い奴なんぞに追懸けられると、迯げるには迯げられず、声を出さうとしても出ないので、どうなる事かと思ふ事がありませう、とんとあんなやうな心持なんで。ああ、もうそんな話は止しませう。私は少し酔ひました」  銚子を更へて婢の持来れば、 「金や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ」 「好い塩梅でございます」 「お前には後でお菓子を御褒美に出すからね。貴方、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです」 「あら可厭なことを有仰いまし」  吹来り、吹去る風は大浪の寄せては返す如く絶間無く轟きて、その劇きは柱などをひちひちと鳴揺がし、物打倒す犇き、引断る音、圧折る響は此処彼処に聞えて、唯居るさへに胆は冷されぬ。長火鉢には怠らず炭を加へ加へ、鉄瓶の湯気は雲を噴くこと頻なれど、更に背面を圧する寒は鉄板などや負はさるるかと、飲めども多く酔ひ成さざるに、直行は後を牽きて已まず、お峯も心祝の数を過して、その地顔の赭きをば仮漆布きたるやうに照り耀して陶然たり。  狂女は果して来ざりけり。歓び酔へるお峯も唯酔へる夫も、褒美貰ひし婢も、十時近き比には皆寐鎮りぬ。  風は猶も邪に吹募りて、高き梢は箒の掃くが如く撓められ、疎に散れる星の数は終に吹下されぬべく、層々凝れる寒は殆ど有らん限の生気を吸尽して、さらぬだに陰森たる夜色は益す冥く、益す凄からんとす。忽ちこの黒暗々を劈きて、鰐淵が裏木戸の辺に一道の光は揚りぬ。低く発りて物に遮られたれば、何の火とも弁へ難くて、その迸発の朱く烟れる中に、母家と土蔵との影は朧に顕るるともなく奪はれて、瞬くばかりに消失せしは、風の強きに吹敷れたるなり。やや有りて、同じほどの火影の又映ふと見れば、早くも薄れ行きて、こたびは燃えも揚らず、消えも遣らで、少時明を保ちたりしが、風の僅の絶間を偸みて、閃々と納屋の板戸を伝ひ、始めて騰れる焔は炳然として四辺を照せり。塀際に添ひて人の形動くと見えしが、なほ暗くて了然ならず。  数息の間にして火の手は縦横に蔓りつつ、納屋の内に乱入れば、噴出づる黒烟の渦は或は頽れ、或は畳みて、その外を引韞むとともに、見え遍りし家も土蔵も堆き黯黮の底に没して、闇は焔に破られ、焔は烟に揉立てられ、烟は更に風の為に砕かれつつも、蒸出す勢の夥ければ、猶ほ所狭く漲りて、文目も分かず攪乱れたる中より爆然と鳴りて、天も焦げよと納屋は一面の猛火と変じてけり。かの了然ならざりし形はこの時明に輝かされぬ。宵に来べかりし狂女の佇めるなり。躍り狂ふ烟の下に自若として、面も爛れんとすばかりに照されたる姿は、この災を司る鬼女などの現れ出でにけるかと疑はしむ。実に彼は火の如何に焚え、如何に燬くや、と厳に監るが如く眥を裂きて、その立てる処を一歩も移さず、風と烟と焔との相雑り、相争ひ、相勢ひて、力の限を互に奮ふをば、妙くも為たりとや、漫笑を洩せる顔色はこの世に匹ふべきものありとも知らず。  風の暴頻る響動に紛れて、寝耳にこれを聞着る者も無かりければ、誰一人出て噪がざる間に、火は烈々と下屋に延きて、厨の燃立つ底より一声叫喚せるは誰、狂女は嘻々として高く笑ひぬ。 (七)の二  人々出合ひて打騒ぐ比には、火元の建物の大半は烈火となりて、土蔵の窓々より焔を出し、はや如何にとも為んやうあらざるなり。さしもの強風なりしかど、消防力めたりしに拠りて、三十幾戸を焼きしのみにて、午前二時に迨びて鎮火するを得たり。雑踏の裏より怪き奴は早くも拘引せられしと伝へぬ。かの狂女の去りも遣ざりしが捕れしなり。  火元と認定せらるる鰐淵方は塵一筋だに持出さずして、憐むべき一片の焦土を遺したるのみ。家族の消息は直ちに警察の訊問するところとなりぬ。婢は命辛々迯了せけれども、目覚むると斉く頭面は一面の火なるに仰天し、二声三声奥を呼捨にして走り出でければ、主たちは如何になりけん、知らずと言ふ。夜明けぬれど夫婦の出で来ざりけるは、過など有りしにはあらずやと、警官は出張して捜索に及べり。  熱灰の下より一体の屍の半焦爛れたるが見出されぬ。目も当てられず、浅ましう悒き限を尽したれど、主の妻と輙く弁ぜらるべき面影は焚残れり。さてはとその邇くを隈無く掻起しけれど、他に見当るものは無くて、倉前と覚き辺より始めて焦壊れたる人骨を掘出せり。酔ひて遁惑ひし故か、貪りて身を忘れし故か、とにもかくにも主夫婦はこの火の為に落命せしなり。家屋も土蔵も一夜の烟となりて、鰐淵の跡とては赤土と灰との外に覓むべきものもあらず、風吹迷ふ長烟短焔の紛糾する処に、独り無事の形を留めたるは、主が居間に備へ付けたりし金庫のみ。  別居せる直道は旅行中にて未だ還らず、貫一はあだかもお峯の死体の出でし時病院より駈着けたり。彼は三日の後には退院すべき手筈なりければ、今は全く癒えて務を執るをも妨げざれど、事の極めて不慮なると、急激なると、瑣小ならざるとに心惑のみせられて、病後の身を以てこれに当らんはいと苦かりけるを、尽瘁して万端を処理しつつ、ひたすら直道の帰京を待てり。  枕をも得挙げざりし病人の今かく健に起きて、常に来ては親く慰められし人の頑にも強かりしを、空く燼余の断骨に相見て、弔ふ言だにあらざらんとは、貫一の遽にその真をば真とし能はざるところなりき。人は皆死ぬべきものと人は皆知れるなり。されどもその常に相見る人の死ぬべきを思ふ能はず。貫一はこの五年間の家族を迫めての一人も余さず、家倉と共に焚尽されて一夜の中に儚くなり了れるに会ひては、おのれが懐裡の物の故無く消失せにけんやうにも頼み難く覚えて、かくては我身の上の今宵如何に成りなんをも料られざるをと、無常の愁は頻に腸に沁むなりけり。  住むべき家の痕跡も無く焼失せたりと謂ふだに、見果てぬ夢の如し、まして併せて頼めし主夫婦を喪へるをや、音容幻を去らずして、ほとほと幽明の界を弁ぜず、剰へ久く病院の乾燥せる生活に困じて、この家を懐ふこと切なりければ、追慕の情は極りて迷執し、迫めては得るところもありやと、夜の晩きに貫一は市ヶ谷なる立退所を出でて、杖に扶けられつつ程遠からぬ焼跡を弔へり。  連日風立ち、寒かりしに、この夜は遽に緩みて、朧の月の色も暖に、曇るともなく打霞める町筋は静に眠れり。燻臭き悪気は四辺に充満ちて、踏荒されし道は水に漐り、燼に埋れ、焼杭焼瓦など所狭く積重ねたる空地を、火元とて板囲も得為ず、それとも分かぬ焼原の狼藉として、鰐淵が家居は全く形を失へるなり。黒焦に削れたる幹のみ短く残れる一列の立木の傍に、塊堆く盛りたるは土蔵の名残と踏み行けば、灰燼の熱気は未だ冷めずして、微に面を撲つ。貫一は前杖拄いて悵然として佇めり。その立てる二三歩の前は直行が遺骨を発せし所なり。恨むと見ゆる死顔の月は、肉の片の棄てられたるやうに朱く敷ける満地の瓦を照して、目に入るものは皆伏し、四望の空く寥々たるに、黒く点せる人の影を、彼は自ら物凄く顧らるるなりき。  立尽せる貫一が胸には、在りし家居の状の明かに映じて、赭く光れるお峯が顔も、苦き口付せる主が面も眼に浮びて、歴々と相対へる心地もするに、姑くはその境に己を忘れたりしが、やがて徐に仰ぎ、徐に俯して、さて徐に一歩を行きては一歩を返しつつ、いとど思に沈みては、折々涙をも推拭ひつ。彼は転た人生の凄涼を感じて禁ずる能はざりき。苟くもその親める者の半にして離れ乖かざるはあらず。見よ或はかの棄てられし恨を遺し、或はこの奪はれし悲に遭ひ、前の恨の消えざるに又新なる悲を添ふ。棄つる者は去り、棄てざる者は逝き、㷀然として吾独り在り。在るが故に慶ぶべきか、亡きが故に悼むべきか、在る者は積憂の中に活き、亡き者は非命の下に殪る。抑もこの活とこの死とは孰を哀み、孰を悲まん。  吾が煩悶の活を見るに、彼等が惨憺の死と相同からざるなし、但殊にするところは去ると留るとのみ。彼等の死ありて聊か吾が活の苦きをも慰むべきか、吾が活ありて、始めて彼等が死の傷きを弔ふに足らんか。吾が腸は断たれ、吾が心は壊れたり、彼等が肉は爛れ、彼等が骨は砕けたり。活きて爾苦める身をも、なほさすがに魂も消ぬべく打駭かしつる彼等が死状なるよ。産を失ひ、家を失ひ、猶も身を失ふに尋常の終を得ずして、極悪の重罪の者といへども未だ曾て如此き虐刑の辱を受けず、犬畜生の末までも箇様の業は曝さざるに、天か、命か、或は応報か、然れども独り吾が直行をもて世間に善を作さざる者と為すなかれ。人情は暗中に刃を揮ひ、世路は到る処に陥穽を設け、陰に陽に悪を行ひ、不善を作さざるはなし。若し吾が直行の行ふところをもて咎むべしと為さば、誰か有りて咎められざらん、しかも猶甚きを為して天も憎まず、命も薄んぜず、応報もこれを避るもの有るを見るにあらずや。彼等の惨死を辱むるなかれ、適ま奇禍を免れ得ざりしのみ。  かく念へる貫一は生前の誼深かりし夫婦の死を歎きて、この永き別を遣方も無く悲み惜むなりき。さて何時までかここに在らんと、主の遺骨を出せし辺を拝し、又妻の屍の横はりし処を拝して、心佗く立去らんとしたりしに、彼は怪くも遽に胸の内の掻乱るる心地するとともに、失せし夫婦の弔ふ者もあらで闇路の奥に打棄てられたるを悲く、あはれ猶少時留らずやと、いと迫めて乞ひ縋ると覚ゆるに、行くにも忍びず、又立還りて積みたる土に息へり。  実に彼も家の内に居て、遺骸の前に限知られず思ひ乱れんより、ここには亡き人の傍にも近く、遺言に似たる或る消息をも得るらん想して、立てたる杖に重き頭を支へて、夫婦が地下に齎せし念々を冥捜したり。やがて彼は何の得るところや有りけん、繁き涙は滂沱と頬を伝ひて零れぬ。  夜陰に轟く車ありて、一散に飛し来りけるが、焼場の際に止りて、翩と下立ちし人は、直ちに鰐淵が跡の前に尋ね行きて歩を住めたり。  焼瓦の踏破かるる音に面を擡げたる貫一は、件の人影の近く進来るをば、誰ならんと認むる間も無く、 「間さんですか」 「おお、貴方は! お帰来でしたか」  その人は待ちに待たれし直道なり。貫一は忙く出迎へぬ。向ひて立てる両箇は月明に面を見合ひけるが、各口吃して卒に言ふ能はざるなりき。 「何とも不慮な事で、申上げやうもございません」 「はい。この度は留守中と云ひ、別してお世話になりました」 「私は事の起りました晩は未だ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸く駈着けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽される方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多い事を致しました」  直道は塞ぎし眼を怠げに開きて、 「何もかも皆焼けましたらうな」 「唯一品、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました」 「金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか」 「貨も少しは在りませうが、帳簿、証書の類が主でございます」 「貸金に関した?」 「さやうで」 「ええ、それが焼きたかつたのに!」  口惜しとの色は絶かその面に上れり。貫一は彼が意見の父と相容れずして、年来別居せる内情を詳かに知れば、迫めてその喜ぶべきをも、却つてかく憂と為す故を暁れるなり。 「家の焼けたの、土蔵の落ちたのは差支無いのです。寧ろ焼いて了はんければ成らんのでしたから、それは結構です。両親の歿つたのも、私であれ、貴方であれ、かうして泣いて悲む者は、ここに居る二人きりで、世間に誰一人……さぞ衆が喜んでゐるだらうと思ふと、唯親を喪したのが情無いばかりではないのですよ」  されども堰敢へず流るるは恩愛の涙なり。彼を憚りし父と彼を畏れし母とは、決して共に子として彼を慈むを忘れざりけり。その憚られ、畏れられし点を除きては、彼は他の憚られ、畏れられざる子よりも多く愛を被りき。生きてこそ争ひし父よ。亡くての今は、その聴れざりし恨より、親として事へざりし不孝の悔は直道の心を責むるなり。  生暖き風は急に来りてその外套の翼を吹捲りぬ。こはここに失せし母の賜ひしを、と端無く彼は憶起して、さばかりは有のすさびに徳とも為ざりけるが、世間に量り知られぬ人の数の中に、誰か故無くして一紙を与ふる者ぞ、我は今聘せられし測量地より帰来れるなり。この学術とこの位置とを与へて恩と為ざりしは誰なるべき。外にこれを求むる能はず、重ねてこれを得べからざる父と母とは、相携へて杳に迢に隔つる世の人となりぬ。  炎々たる猛火の裏に、その父と母とは苦み悶えて援を呼びけんは幾許ぞ。彼等は果して誰をか呼びつらん。思ここに到りて、直道が哀咽は渾身をして涙に化し了らしめんとするなり。 「喜ぶなら世間の奴は喜んだが可いです。貴方一箇のお心持で御両親は御満足なさるのですから。こんな事を申上げては実に失礼ですけれども、貴方が今日まで御両親をお持ちになつてゐられたのは、私などの身から見ると何よりお可羨いので、この世の中に親子の情愛ぐらゐ詐の無いものは決して御座いませんな、私は十五の歳から孤児になりましたのですが、それは、親が附いてをらんと見縊られます。余り見縊られたのが自棄の本で、遂に私も真人間に成損つて了つたやうな訳で。固より己の至らん罪ではありますけれど、抑も親の附いてをらんかつたのが非常な不仕合で、そんな薄命な者もかうして在るのですから、それはもう幾歳になつたから親に別れて可いと謂ふ理窟はありませんけれど、聊か慰むるに足ると、まあ、思召さなければなりません」  貫一のこの人に向ひて親く物言ふ今夜の如き例はあらず、彼の物言はずとよりは、この人の悪み遠けたりしなり。故は、彼こそ父が不善の助手なれと、始より畜生視して、得べくば撲つて殺さんとも念ずるなりければ、今彼が言の端々に人がましき響あるを聞きて、いと異しと思へり。 「それでは、貴方真人間に成損つたとお言ひのですな」 「さうでございます」 「さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか」 「勿論でございます」  直道は俯きて言はざりき。 「いや貴方のやうな方に向つてこんな太腐れた事を申しては済みません。さあ、参りませうか」  彼はなほ俯き、なほ言はずして、頷くのみ。  夜は太く更けにければ、さらでだに音を絶てる寂静はここに澄徹りて、深くも物を思入る苦しさに直道が蹂躙る靴の下に、瓦の脆く割るるが鋭く響きぬ。地は荒れ、物は毀れたる中に一箇は立ち、一箇は偃ひて、言あらぬ姿の佗しげなるに照すとも無き月影の隠々と映添ひたる、既に彷彿として悲の図を描成せり。  かくて暫く有りし後、直道は卒然言を出せり。 「貴方、真人間に成つてくれませんか」  その声音の可愁き底には情も籠れりと聞えぬ。貫一は粗彼の意を暁れり。 「はい、難有うございます」 「どうですか」 「折角のお言ではございますが、私はどうぞこのままにお措き下さいまし」 「それは何為ですか」 「今更真人間に復る必要も無いのです」 「さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶をして下さいな」 「いや、お気に障りましたらお赦し下さいまし。貴方とは従来浸々お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂を伺つて、能く貴方を存じてをります。極潔いお方なので、精神的に傷いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正い、直なお耳へは入らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗けた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流に願ひます」 「ああ、善く解りました」 「真人間になつてくれんかと有仰つて下すつたのが、私は非常に嬉いのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛いのでございます。そんな思をしつつ何為してゐるか! 曰く言難しで、精神的に酷く傷けられた反動と、先づ思召して下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒でも吃つて、体を毀して、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可かず、腹を切る勇気は無し、究竟は意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます」  彼の潔しと謂ふなる直道が潔き心の同情は、彼の微見したる述懐の為に稍動されぬ。 「お話を聞いて見ると、貴方が今日の境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉く聞して下さいませんか」 「極愚な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他には語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟或事に就いて或者に欺かれたのでございます」 「はあ、それではお話はそれで措きませう。で、貴方もあんな家業は真人間の為べき事ではない、と十分承知してゐらるる、父などは決して愧づべき事ではない、と謂つて剛情を張り通した。実に浅ましい事だと思ふから、或時は不如父の前で死んで見せて、最後の意見を為るより外は無い、と決心したことも有つたのです。父は飽くまで聴かん、私も飽くまで棄てては措かん精神、どんな事をしても是非改心させる覚悟で居つたところ、今度の災難で父を失つた、残念なのは、改心せずに死んでくれたのだ、これが一生の遺憾で。一時に両親に別れて、死目にも逢はず、その臨終と謂へば、気の毒とも何とも謂ひやうの無い……凡そ人の子としてこれより上の悲が有らうか、察し給へ。それに就けても、改心せずに死なしたのが、愈よ残念で、早く改心さへしてくれたらば、この災難は免れたに違無い。いや私はさう信じてゐる。然し、過ぎた事は今更為方が無いから、父の代に是非貴方に改心して貰ひたい。今貴方が改心して下されば、私は父が改心したも同じと思つて、それで満足するのです。さうすれば、必ず父の罪も滅びる、私の念も霽れる、貴方も正い道を行けば、心安く、楽く世に送られる。  成程、お話の様子では、こんな家業に身を墜されたのも、已むを得ざる事情の為とは承知してをりますが、父への追善、又その遺族の路頭に迷つてゐるのを救ふのと思つて、金を貸すのは罷めて下さい。父に関した財産は一切貴方へお譲り申しますからそれを資本に何ぞ人をも益するやうな商売をして下されば、この上の喜は有りません。父は非常に貴方を愛してをつた、貴方も父を愛して下さるでせう。愛して下さるなら、父に代つて非を悛めて下さい」  聴ゐる貫一は露の晨の草の如く仰ぎ視ず。語り訖れども猶仰ぎ視ず、如何にと問るるにも仰ぎ視ざるなりけり。  忽ち一閃の光ありて焼跡を貫く道の畔を照しけるが、その燈の此方に向ひて近くは、巡査の見尤めて寄来るなり。両箇は一様に睼へて、待つとしもなく動かずゐたりければ、その前に到れる角燈の光は隈無く彼等を曝しぬ。巡査は如何に驚きけんよ、かれもこれも各惨として蒼き面に涙垂れたり──しかもここは人の泣くべき処なるか、時は正に午前二時半。 続金色夜叉 与紅葉山人書 学海居士 紅葉山人足下。僕幼嗜読稗史小説。当時行於世者。京伝三馬一九。及曲亭柳亭春水数輩。雖有文辞之巧麗。搆思之妙絶。多是舐古人之糟粕。拾兎園之残簡。聊以加己意焉耳。独曲亭柳亭二子較之余子。学問該博。熟慣典故。所謂換骨奪胎。頗有可観者。如八犬弓張侠客伝。及田舎源氏諸国物語類是也。然在当時。読此等書者。不過閭巷少年。畧識文字。間有渉猟史伝者。識見浅薄。不足以判其巧拙良否焉。而文学之士斥為鄙猥。為害風紊俗。禁子弟不得縦読。其風習可以見矣。」年二十一二。稍読水滸西遊金瓶三国紅楼諸書。兼及我源語竹取宇津保俊蔭等書。乃知稗史小説。亦文学之一途。不必止游戯也。而所最喜。在水滸金瓶紅楼。及源語。能尽人情之隠微。世態之曲折。用筆周到。渾思巧緻。而源氏之能描性情。文雅而思深。金瓶之能写人品。筆密而心細。蓋千古無比也。近時小説大行。少好文辞者。莫不争先攘臂其間。然率不過陋巷之談。鄙夫之事。至大手筆如金瓶源氏等者。寥乎無聞何也。僕及読足下所著諸書。所謂細心邃思者。知不使古人専美於上矣。多情多恨金色夜叉類。殆与金瓶源語相似。僕反覆熟読不能置也。惜範囲狭。而事跡微。地位卑而思想偏。未足以展布足下之大才矣。盍借一大幻境。以運思馳筆。必有大可観者。僕老矣。若得足下之一大著述。快読之。是一生之願也。足下以何如。 第一章  時を銭なりとしてこれを換算せば、一秒を一毛に見積りて、壱人前の睡量凡そ八時間を除きたる一日の正味十六時間は、実に金五円七拾六銭に相当す。これを三百六十五日の一年に合計すれば、金弐千壱百〇弐円四拾銭の巨額に上るにあらずや。さればここに二十七日と推薄りたる歳末の市中は物情恟々として、世界絶滅の期の終に宣告せられたらんもかくやとばかりに、坐りし人は出でて歩み、歩みし人は走りて過ぎ、走りし人は足も空に、合ふさ離るさの気立く、肩相摩しては傷き、轂相撃ちては砕けぬべきをも覚えざるは、心々に今を限と慌て騒ぐ事ありて、不狂人も狂せるなり。彼等は皆過去の十一箇月を虚に送りて、一秒の塵の積める弐千余円の大金を何処にか振落し、後悔の尾に立ちて今更に血眼を瞪き、草を分け、瓦を揆しても、その行方を尋ねんと為るにあらざるなし。かかる間にも常は止一毛に値する一秒の壱銭乃至拾銭にも暴騰せる貴々重々の時は、速射砲を連発にするが如く飛過るにぞ、彼等の恐慌は更に意言も及ばざるなる。  その平生に怠無かりし天は、又今日に何の変易もあらず、悠々として蒼く、昭々として闊く、浩々として静に、しかも確然としてその覆ふべきを覆ひ、終日北の風を下し、夕付く日の影を耀して、師走の塵の表に高く澄めり。見遍せば両行の門飾は一様に枝葉の末広く寿山の翠を交し、十町の軒端に続く注連繩は、福海の霞揺曳して、繁華を添ふる春待つ景色は、転た旧り行く歳の魂を驚かす。  かの人々の弐千余円を失ひて馳違ふ中を、梅提げて通るは誰が子、猟銃担げ行くは誰が子、妓と車を同うするは誰が子、啣楊枝して好き衣着たるは誰が子、或は二頭立の馬車を駆る者、結納の品々担する者、雑誌など読みもて行く者、五人の子を数珠繋にして勧工場に入る者、彼等は各若干の得たるところ有りて、如此く自ら足れりと為るにかあらん。これ等の少く失へる者は喜び、彼等の多く失へる輩は憂ひ、又稀には全く失はざりし人の楽めるも、皆内には齷齪として、盈てるは虧けじ、虧けるは盈たんと、孰かその求むるところに急ならざるはあらず。人の世は三の朝より花の昼、月の夕にもその思の外はあらざれど、勇怯は死地に入りて始て明なる年の関を、物の数とも為ざらんほどを目にも見よとや、空臑の酔を踏み、鉄鞭を曳き、一巻のブックを懐にして、嘉平治平の袴の焼海苔を綴れる如きを穿ち、フラネルの浴衣の洗ひ曬して垢染にしたるに、文目も分かぬ木綿縞の布子を襲ねて、ジォンソン帽の瓦色に化けたるを頂き、焦茶地の縞羅紗の二重外套は何の冬誰が不用をや譲られけん、尋常よりは寸の薄りたるを、身材の人より豊なるに絡ひたれば、例の袴は風にや吹断れんと危くも閃きつつ、その人は齢三十六七と見えて、形癯せたりとにはあらねど、寒樹の夕空に倚りて孤なる風情、独り負ふ気無く麗くも富める髭髯は、下には乳の辺まで毿々と垂れて、左右に拈りたるは八字の蔓を巻きて耳の根にも迨びぬ。打見れば面目爽に、稍傲れる色有れど峻くはあらず、しかも今陶々然として酒興を発し、春の日長の野辺を辿るらんやうに、西筋の横町をこの大路に出で来らんとす。 「瓢空く夜は静にして高楼に上り、酒を買ひ、簾を巻き、月を邀へて酔ひ、酔中剣を払へば光月を射る」  彼は節をかしく微吟を放ちて、行く行くかつ楽むに似たり。打晴れたる空は瑠璃色に夕栄えて、俄に冴え勝る颰の目口に沁みて磨錻を打つらんやうなるに、烈火の如き酔顔を差付けては太息嘘いて、右に一歩左に一歩と踽きつつ、 「往々悲歌して独り流涕す、君山を剗却して湘水平に桂樹を砍却して月更に明ならんを、丈夫志有りて……」  と唱ひ出づる時、一隊の近衛騎兵は南頭に馬を疾めて、真一文字に行手を横断するに会ひければ、彼は鉄鞭を植てて、舞立つ砂煙の中に魁の花を装へる健児の参差として推行く後影をば、壮なる哉と謂まほしげに看送りて、 「我四方に遊びて意を得ず、陽狂して薬を施す成都の市」  と漫にその詩の首をば小声朗に吟じゐたり。さては往来の遑き目も皆牽れて、この節季の修羅場を独天下に吃ひ酔へるは、何者の暢気か、自棄か、豪傑か、悟か、酔生児か、と異き姿を見て過る有れば、面を識らんと窺ふ有り、又はその身の上など思ひつつ行くも有り。彼は太く酔へれば総て知らず、町の殷賑を眺め遣りて、何方を指して行かんとも心定らず姑く立てるなりけり。  さばかり人に怪まるれど、彼は今日のみこの町に姿を顕したるにあらず、折々散歩すらんやうに出来ることあれど、箇様の酔態を認むるは、兼て注目せる派出所の巡査も希しと思へるなり。  やがて彼は鉄鞭を曳鳴して大路を右に出でしが、二町ばかりも行きて、乾の方より狭き坂道の開きたる角に来にける途端に、風を帯びて馳下りたる俥は、生憎其方に踽ける酔客の膁の辺を一衝撞てたりければ、彼は郤含を打つて二間も彼方へ撥飛さるると斉く、大地に横面擦つて僵れたり。不思議にも無難に踏留りし車夫は、この麁忽に気を奪れて立ちたりしが、面倒なる相手と見たりけん、そのまま轅を回して逃れんとするを、俥の上なる黒綾の吾妻コオト着て、素鼠縮緬の頭巾被れる婦人は樺色無地の絹臘虎の膝掛を推除けて、駐めよ、返せと悶ゆるを、猶聴かで曳々と挽き行く後より、 「待て、こら!」と喝する声に、行く人の始て事有りと覚れるも多く、はや車夫の不情を尤むる語も聞ゆるに、耐りかねたる夫人は強て其処に下車して返り来りぬ。  例の物見高き町中なりければ、この忙き際をも忘れて、寄来る人数は蟻の甘きを探りたるやうに、一面には遭難者の土に踞へる周辺を擁し、一面には婦人の左右に傍ひて、目に物見んと揉立てたり。婦人は途を来つつ被物を取りぬ。紋羽二重の小豆鹿子の手絡したる円髷に、鼈甲脚の金七宝の玉の後簪を斜に、高蒔絵の政子櫛を翳して、粧は実に塵をも怯れぬべき人の謂ひ知らず思惑へるを、可痛しの嵐に堪へぬ花の顔や、と群集は自ら声を歛めて肝に徹ふるなりき。  いと更に面の裹まほしきこの場を、頭巾脱ぎたる彼の可羞しさと切なさとは幾許なりけん、打赧めたる顔は措き所あらぬやうに、人堵の内を急足に辿りたり。帽子も鉄鞭も、懐にせしブックも、薩摩下駄の隻も投散されたる中に、酔客は半ば身を擡げて血を流せる右の高頬を平手に掩ひつつ寄来る婦人を打見遣りつ。彼はその前に先づ懦れず会釈して、 「どうも取んだ麁相を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打ちましたか、まあどうも……」 「いや太した事は無いのです」 「さやうでございますか。何処ぞお痛め遊ばしましたでございませう」  腰を得立てずゐるを、婦人はなほ気遣へるなり。  車夫は数次腰を屈めて主人の後方より進出でけるが、 「どうも、旦那、誠に申訳もございません、どうか、まあ平に御勘弁を願ひます」  眼を其方に転じたる酔客は恚れるとしもなけれど声粛に、 「貴様は善くないぞ。麁相を為たと思うたら何為車を駐めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻する」 「へい恐入りました」 「どうぞ御勘弁あそばしまして」  俥の主の身を下して辞を添ふれば、彼も打頷きて、 「以来気を着けい、よ」 「へい……へい」 「早う行け、行け」  やをら彼は起たんとすなり。さては望外なる主従の喜に引易へて、見物の飽気無さは更に望外なりき。彼等は幕の開かぬ芝居に会へる想して、余に落着の蛇尾振はざるを悔みて、はや忙々き踵を回すも多かりけれど、又見栄あるこの場の模様に名残を惜みつつ去り敢へぬもありけり。  車夫は起ち悩める酔客を扶けて、履物を拾ひ、鞭を拾ひて宛行へば、主人は帽を清め、ブックを取上げて彼に返し、頭巾を車夫に与へて、懇に外套、袴の泥を払はしめぬ。免されし罪は消えぬべきも、歴々と挫傷のその面に残れるを見れば、疚きに堪へぬ心は、なほ為すべき事あるを吝みて私せるにあらずやと省られて、彼はさすがに見捨てかねたる人の顔を始は可傷しと眺めたりしに、その眼色は漸く鋭く、かつは疑ひかつは怪むらんやうに、忍びては矚りつつ便無げに佇みけるに、いでや長居は無益とばかり、彼は蹌踉と踏出せり。  婦人はとにもかくにも遣過せしが、又何とか思直しけん、遽に追行きて呼止めたり。頭を捻向けたる酔客は眊れる眼を屹と見据ゑて、自か他かと訝しさに言も出さず。 「もしお人違でございましたら御免あそばしまして。貴方は、あの、もしや荒尾さんではゐらつしやいませんですか」 「は?」彼は覚えず身を回して、丁と立てたる鉄鞭に仗り、こは是白日の夢か、空華の形か、正体見んと為れど、酔眼の空く張るのみにて、益す霽れざるは疑なり。 「荒尾さんでゐらつしやいましたか!」 「はあ? 荒尾です、私荒尾です」 「あの間貫一を御承知の?」 「おお、間貫一、旧友でした」 「私は鴫沢の宮でございます」 「何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰る……?」 「はい、間の居りました宅の鴫沢」 「おお、宮さん!」  奇遇に驚かされたる彼の酔は頓に半は消えて、せめて昔の俤を認むるや、とその人を打眺むるより外はあらず。 「お久しぶりで御座いました」  宮は懽び勇みて犇と寄りぬ。  今は美き俥の主ならず、路傍の酔客ならず名宣合へるかれとこれとの思は如何。間貫一が鴫沢の家に在りし日は、彼の兄の如く友として善かりし人、彼の身の如く契りて怜かりし人にあらずや。その日の彼等は又同胞にも得べからざる親を以て、膝をも交へ心をも語りしにあらずや。その日の彼等は多少の転変を覚悟せし一生の中に、今日の奇遇を算へざりしなり。よしさりとも、一たび同胞と睦合へりし身の、弊衣を飄して道に酔ひ、流車を駆りて富に驕れる高下の差別の自ら種有りて作せるに似たる如此きを、彼等は更に更に夢ざりしなり。その算へざりし奇遇と夢ざりし差別とは、咄々、相携へて二人の身上に逼れるなり。女気の脆き涙ははや宮の目に湿ひぬ。 「まあ大相お変り遊ばしたこと!」 「貴方も変りましたな!」  さしも見えざりし面の傷の可恐きまでに益す血を出すに、宮は持たりしハンカチイフを与へて拭はしめつつ、心も心ならず様子を窺ひて、 「お痛みあそばすでせう。少しお待ちあそばしまし」  彼は何やらん吩咐けて車夫を遣りぬ。 「直この近くに懇意の医者が居りますから、其処までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました」 「何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです」 「あれ、お殆うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出あそばしまし」 「いんや、宜い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか」  宮は胸先を刃の透るやうに覚ゆるなりき。 「その事に就きまして色々お話も致したいので御座います」 「然し、どうしてゐますか、無事ですか」 「はい……」 「決して、無事ぢやない筈です」  生きたる心地もせずして宮の慙ぢ慄ける傍に、車夫は見苦からぬ一台の辻車を伴ひ来れり。漸く面を挙れば、いつ又寄りしとも知らぬ人立を、可忌くも巡査の怪みて近くなり。 第二章  鬚深き横面に貼薬したる荒尾譲介は既に蒼く酔醒めて、煌々たる空気ラムプの前に襞襀もあらぬ袴の膝を丈六に組みて、接待莨の葉巻を燻しつつ意気粛に、打萎れたる宮と熊の敷皮を斜に差向ひたり。こはこれ、彼の識れると謂ひし医師の奥二階にて、畳敷にしたる西洋造の十畳間なり。物語ははや緒を解きしなるべし。 「間が影を隠す時、僕に遺した手紙が有る、それで悉い様子を知つてをるです。その手紙を見た時には、僕も顫へて腹が立つた。直に貴方に会うて、是非これは思返すやうに飽くまで忠告して、それで聴かずば、もう人間の取扱は為ちやをられん、腹の癒ゆるほど打踣して、一生結婚の成らんやう立派な不具にしてくれやう、と既にその時は立上つたですよ。然し、間が言を尽しても貴方が聴かんと云ふ、僕の言を容れやう道理が無い。又間を嫌うた以上は、貴方は富山への売物じや。他の売物に疵を附けちや済まん、とさう思うて、そりや実に矢も楯も耐らん胸を挲つて了うたんです」  宮が顔を推当てたる片袖の端より、連に眉の顰むが見えぬ。 「宮さん、僕は貴方はさう云ふ人ではないと思うた。あれ程互に愛してをつた間さへが欺かれたんぢやから、僕の欺れたのは無理も無いぢやらう。僕は僕として貴方を怨むばかりでは慊らん、間に代つて貴方を怨むですよ、いんや、怨む、七生まで怨む、きつと怨む!」  終に宮が得堪へぬ泣音は洩れぬ。 「間の一身を誤つたのは貴方が誤つたのぢや。それは又間にしても、高が一婦女子に棄てられたが為に志を挫いて、命を抛つたも同然の堕落に果てる彼の不心得は、別に間として大いに責めんけりやならん。然し、間が如何に不心得であらうと、貴方の罪は依然として貴方の罪ぢや、のみならず、貴方が間を棄てた故に、彼が今日の有様に堕落したのであつて見れば、貴方は女の操を破つたのみでない。併せて夫を刺殺したも……」  宮は慄然として振仰ぎしが、荒尾の鋭き眥は貫一が怨も憑りたりやと、その見る前に身の措所無く打竦みたり。 「同じですよ。さうは思ひませんか。で、貴方の悔悟されたのは善い、これは人として悔悟せんけりやならん事。けれども残念ながら今日に及んでの悔悟は業に晩い。間の堕落は間その人の死んだも同然、貴方は夫を持つて六年、なあ、水は覆つた。盆は破れて了うたんじや。かう成つた上は最早神の力も逮ぶことではない。お気の毒じやと言ひたいが、やはり貴方が自ら作せる罪の報で、固よりかく有るべき事ぢやらうと思ふ」  宮は俯きてよよと泣くのみ。  吁、吾が罪! さりとも知らで犯せし一旦の吾が罪! その吾が罪の深さは、あの人ならぬ人さへかくまで憎み、かくまで怨むか。さもあらば、必ず思知る時有らんと言ひしその人の、争で争で吾が罪を容すべき。吁、吾が罪は終に容されず、吾が恋人は終に再び見る能はざるか。  宮は胸潰れて、涙の中に人心地をも失はんとすなり。  おのれ、利を見て愛無かりし匹婦、憎しとも憎しと思はざるにあらぬ荒尾も、当面に彼の悔悟の切なるを見ては、さすがに情は動くなりき。宮は際無く顔を得挙げずゐたり。 「然し、好う悔悟を作つた。間が容さんでも、又僕が容さんでも、貴方はその悔悟に因つて自ら容されたんじや」  由無き慰藉は聞かじとやうに宮は俯しながら頭を掉りて更に泣入りぬ。 「自にても容されたのは、誰にも容されんのには勝つてをる。又自ら容さるるのは、終には人に容さるるそれが始ぢやらうと謂ふもの。僕は未だ未だ容し難く貴方を怨む、怨みは為るけれど、今日の貴方の胸中は十分察するのです。貴方のも察するからには、他の者の間の胸中もまた察せにやならん、可いですか。さうして孰が多く憐むべきであるかと謂へば、間の無念は抑どんなぢやらうか、なあ、僕はそれを思ふんです。それを思うて見ると、貴方の苦痛を傍観するより外は無い。  かうして今日図らずお目に掛つた。僕は婦人として生涯の友にせうと思うた人は、後にも先にも貴方ばかりじや。いや、それは段々お世話にもなつた、忝いと思うた事も幾度か知れん、その媛友に何年ぶりかで逢うたのぢやから、僕も実に可懐う思ひました」  宮は泣音の迸らんとするを咬緊めて、濡浸れる袖に犇々と面を擦付けたり。 「けれど又、円髷に結うて、立派にしてゐらるるのを見りや、決して可愛うはなかつた。幸ひ貴方が話したい事が有ると言るる、善し、あの様に間を詐つた貴方じや、又僕を幾何ほど詐ることぢやらう、それを聞いた上で、今日こそは打踣してくれやうと待つてをつた。然るに、貴方の悔悟、僕は陰に喜んで聴いたのです。今日の貴方はやはり僕の友の宮さんぢやつた。好う貴方悔悟なすつた! さも無かつたら、貴方の顔にこの十倍の疵を附けにや還さんぢやつたのです。なあ、自ら容されたのは人に赦さるる始──解りましたか。  で、間に取成してくれい、詑を言うてくれい、とのお嘱ぢやけれど、それは僕は為ん。為んのは、間に対してどうも出来んのぢやから。又貴方に罪有りと知つてをりながらその人から頼まるる僕でない。又僕が間であつたらば、断じて貴方の罪は容さんのぢやから。  かうして親友の敵に逢うてからに、指も差さずに別るる、これが荒尾の貴方に対する寸志と思うて下さい。いや、久しぶりで折角お目に掛りながら、可厭な言ばかり聞せました。それぢや、まあ、御機嫌好う、これでお暇します」  会釈して荒尾の身を起さんとする時、 「暫く、どうぞ」宮は取乱したる泣顔を振挙げて、重き瞼の露を払へり。 「それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私を容さんと有仰るので御座いますか」 「さうです」  忙しげに荒尾は片膝立ててゐたり。 「どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今直に御飯が参りますですから」 「や、飯なら欲うありませんよ」 「私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし」 「いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか」 「そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍なすつて下さいまし」  火鉢の縁に片手を翳して、何をか打案ずる様なる目を翥しつつ荒尾は答へず。 「荒尾さん、それでは、とてもお聴入はあるまいと私は諦めましたから、貫一さんへお詑の事はもう申しますまい、又貴方に容して戴く事も願ひますまい」  咄嗟に荒尾の視線は転じて、猶語続る宮が面を掠め去りぬ。 「唯一目私は貫一さんに逢ひまして、その前でもつて、私の如何にも悪かつた事を思ふ存分謝りたいので御座います。唯あの人の目の前で謝りさへ為たら、それで私は本望なのでございます。素より容してもらはうとは思ひません。貫一さんが又容してくれやうとも、ええ、どうせ私は思ひは致しません。容されなくても私はかまひません。私はもう覚悟を致し……」  宮は苦しげに涙を呑みて、 「ですから、どうぞ御一所にお伴れなすつて下さいまし。貴方がお伴れなすつて下されば、貫一さんはきつと逢つてくれます。逢つてさへくれましたら、私は殺されましても可いので御座います。貴方と二人で私を責めて責めて責め抜いた上で、貫一さんに殺さして下さいまし。私は貫一さんに殺してもらひたいので御座います」  感に打れて霜置く松の如く動かざりし荒尾は、忽ちその長き髯を振りて頷けり。 「うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ」 「私はかまひません!」 「可かん、そりや可かん。間に殺されても辞せんと云ふその悔悟は可いが、それぢや貴方は間有るを知つて夫有るのを知らんのじや。夫はどうなさるなあ、夫に道が立たん事になりはせまいか、そこも考へて貰はにやならん。  して見りや、始には富山が為に間を欺き、今又間の為に貴方は富山を欺くんじや。一人ならず二人欺くんじや! 一方には悔悟して、それが為に又一方に罪を犯したら、折角の悔悟の効は没つて了ふ」 「そんな事はかまひません!」  無慙に唇を咬みて、宮は抑へ難くも激せるなり。 「かまはんぢや可かん」 「いいえ、かまひません!」 「そりや可かん!」 「私はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如さうして死んで了ひたいので御座います」 「それそれさう云ふ無考な、訳の解らん人に僕は与することは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧ろ富山を不憫に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈よ憎むべきは貴方じや」  四途乱に湿へる宮の目は焚ゆらんやうに耀けり。 「さう有仰つたら、私はどうして悔悟したら宜いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召してお誨へなすつて下さいまし」 「僕には誨へられんで、貴方がまあ能う考へて御覧なさい」 「三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々と全で疾つてをるやうな気分で、噫もうこんななら、いつそ死んで了はう、と熟くさうは思ひながら、唯もう一目、一目で可うございますから貫一さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います」 「まあ能う考へて御覧なさい」 「荒尾さん、貴方それでは余りでございますわ」  独に余る心細さに、宮は男の袂を執りて泣きぬ。理切めて荒尾もその手を払ひかねつつ、吾ならぬ愁に胸塞れて、実にもと覚ゆる宮が衰容に眼を凝しゐたり。 「荒尾さん、こんなに思つて私は悔悟してをるのぢやございませんか、昔の宮だと思召して頼に成つて下さいまし。どうぞ、荒尾さん、どうぞ、さあ、お誨へなすつて下さいまし」  涙に昏れてその語は能くも聞えず、階子下の物音は膳運び出づるなるべし。  果して人の入来て、夕餉の設すとて少時紛されし後、二人は謂ふべからざる佗き無言の中に相対するのみなりしを、荒尾は始て高く咳きつ。 「貴方の言るる事は能う解つてをる、決して無理とは思はんです。如何にも貴方に誨へて上げたい、誨へて貴方の身の立つやうな処置で有るなら、誨へて上げんぢやないです。けれどもじや、それが誨へて上げられんのは、僕が貴方であつたらかう為ると云ふ考量に止るので……いや、いや、そりや言れん。言うて善い事なら言ひます、人に対して言ふべき事でない、况や誨ふべき事ではない、止だ僕一箇の了簡として肚の中に思うたまでの事、究竟荒尾的空想に過ぎんのぢやから、空想を誨へて人を誤つてはどうもならんから、僕は何も言はんので、言はんぢやない、実際言得んのじや、然し猶能う考へて見て、貴方に誨へらるる方法を見出したら、更にお目に掛つて申上げやう。折が有つたら又お目に掛ります。は、僕の居住? 居住は、まあ言はん方が可い、蜑が子なれば宿も定めずじや。言うても差支は無いけれど、貴方に押掛けらるると困るから、まあ言はん。は、如何にも、こんな態をしてをるので、貴方は吃驚なすつたか、さうでせう。自分にも驚いてをるのぢやけれどどうも為方が無い。僕の身の上に就ては段々子細が有るですとも、それもお話したいけれど、又この次に。  酒は余り飲むな? はあ、今日のやうに酔うた事は希です。忝い、折角の御忠告ぢやから今後は宜い、気を着くるです。  力に成つてくれと言うたとて、義として僕は貴方の力には成れんぢやないですか。貴方の胸中も聴いた事ぢやから、敵にはなるまい、けれど力には成られんですよ。  間にもその後逢はんのですとも。一遍逢うて聞きたい事も言ひたい事も頗る有るのぢやけれども。訪ねもせんので。それにや一向意味は無いですとも。はあ、一遍訪ねませう。明日訪ねてくれい? さうは可かん、僕もこれでなかなか用が有るのぢやから。ああ、貴方も浮世が可厭か、僕も御同様じや。世の中と云ふものは、一つ間違ふと誠に面倒なもので、僕なども今日の有様では生効の無い方じやけれど、このままで空く死ぬるも残念でな、さう思うて生きてはをるけれど、苦しみつつ生きてをるなら、死んだ方が無論勝ですさ。何故命が惜いのか、考へて見ると頗る解なくなる」  語りつつ彼は食を了りぬ。 「嗚呼、貴方に給仕して貰ふのは何年ぶりと謂ふのかしらん。間も善う食うた」  宮は差含む涙を啜れり。尽きせぬ悲を何時までか見んとやうに荒尾は俄に身支度して、 「こりや然し却つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇」 「あれ、荒尾さん、まあ、貴方……」  はや彼は起てるなり。宮はその前に塞りて立ちながら泣きぬ。 「私はどうしたら可いのでせう」 「覚悟一つです」  始て誨ふるが如く言放ちて荒尾の排け行かんとするを、彼は猶も縋りて、 「覚悟とは?」 「読んで字の如し」  驚破、彼の座敷を出づるを、送りも行かず、坐りも遣らぬ宮が姿は、寂くも壁に向ひて動かざりけり。 第三章  門々の松は除かれて七八日も過ぎぬれど、なほ正月機嫌の失せぬ富山唯継は、今日も明日もと行処を求めては、夜を晷に継ぎて打廻るなりけり。宮は毫かもこれも咎めず、出づるも入るも唯彼の為すに任せて、あだかも旅館の主の為らんやうに、形ばかりの送迎を怠らざると謂ふのみ。  この夫に対する仕向は両三年来の平生を貫きて、彼の性質とも病身の故とも許さるるまでに目慣されて又彼方よりも咎められざるなり。それと共に唯継の行も曩日とは漸く変りて、出遊に耽らんとする傾も出で来しを、浅瀬の浪と見し間も無く近き頃より俄に深陥して浮るると知れたるを、宮は猶しも措きて咎めず。他は如何にとも為よ、吾身は如何にとも成らば成れと互に咎めざる心易さを偸みて、異き女夫の契を繋ぐにぞありける。  かかれども唯継はなほその妻を忘れんとはせず。始終の憂に瘁れたる宮は決して美き色を減ぜざりしよ。彼がその美しさを変へざる限は夫の愛は虧くべきにあらざりき。抑もここに嫁ぎしより一点の愛だに無かりし宮の、今に到りては啻に愛無きに止らずして、陰に厭ひ憎めるにあらずや。その故に彼は漸く家庭の楽からざるをも感ずるにあらずや。その故に彼は外に出でて憂を霽すに忙きにあらずや。されども彼の忘れず塒に帰り来るは、又この妻の美き顔を見んが為のみ。既にその顔を見了れば、何ばかりの楽のあらぬ家庭は、彼をして火無き煖炉の傍に処しむるなり。彼の凍えて出でざること無し。出づれば幸ひにその金力に頼りて勢を得、媚を買ひて、一時の慾を肆まにし、其処には楽むとも知らず楽み、苦むとも知らず苦みつつ宮が空き色香に溺れて、内にはかかる美きものを手活の花と眺め、外には到るところに当世の翮を鳴して推廻すが、此上無う紳士の願足れりと心得たるなり。  いで、その妻は見るも厭き夫の傍に在る苦を片時も軽くせんとて、彼の繁き外出を見赦して、十度に一度も色を作さざるを風引かぬやうに召しませ猪牙とやらの難有き賢女の志とも戴き喜びて、いと堅き家の守とかつは等閑ならず念ひにけり。さるは独り夫のみならず、本家の両親を始親属知辺に至るまで一般に彼の病身を憫みて、おとなしき嫁よと賞め揚さぬはあらず。実に彼は某の妻のやうに出行かず、くれがしの夫人のやうに気儘ならず、又は誰々の如く華美を好まず、強請事せず、しかもそれ等の人々より才も容も立勝りて在りながら、常に内に居て夫に事ふるより外を為ざるが、最怜しと見ゆるなるべし。宮が裹める秘密は知る者もあらず、躬も絶えて異まるべき穂を露さざりければ、その夫に事へて捗々しからぬ偽も偽とは為られず、却りて人に憫まるるなんど、その身には量無き幸を享くる心の内に、独り遣方無く苦める不幸は又量無しと為ざらんや。  十九にして恋人を棄てにし宮は、昨日を夢み、今日を嘆ちつつ、過せば過さるる月日を累ねて、ここに二十あまり五の春を迎へぬ。この春の齎せしものは痛悔と失望と憂悶と、別に空くその身を老しむる齢なるのみ。彼は釈れざる囚にも同かる思を悩みて、元日の明るよりいとど懊悩の遣る方無かりけるも、年の始といふに臥すべき病ならねば、起きゐるままに本意ならぬ粧も、色を好める夫に勧められて、例の美しと見らるる浅ましさより、猶甚き浅ましさをその人の陰に陽に恨み悲むめり。  宮は今外出せんとする夫の寒凌ぎに葡萄酒飲む間を暫く長火鉢の前に冊くなり。木振賤からぬ二鉢の梅の影を帯びて南縁の障子に上り尽せる日脚は、袋棚に据ゑたる福寿草の五六輪咲揃へる葩に輝きつつ、更に唯継の身よりは光も出づらんやうに、彼は昼眩き新調の三枚襲を着飾りてその最も珍と為る里昂製の白の透織の絹領巻を右手に引摳ひ、左に宮の酌を受けながら、 「あ、拙い手付……ああ零れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所で飲む気にもなりますと謂つて可い位のものだ」 「ですから多度上つていらつしやいまし」 「宜いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ」 「何時頃お帰来になります」 「遅いよ」 「でも大約時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります」 「遅いよ」 「それぢや十時には皆寝みますから」 「遅いよ」  又言ふも煩くて宮は口を閉ぢぬ。 「遅いよ」 「…………」 「驚くほど遅いよ」 「…………」 「おい、些と」 「…………」 「おや。お前慍つたのか」 「…………」 「慍らんでも可いぢやないか、おい」  彼は続け様に宮の袖を曳けば、 「何を作るのよ」 「返事を為んからさ」 「お遅いのは解りましたよ」 「遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌を直すべし」 「お遅いなら、お遅いで宜うございますから……」 「遅くはないと言ふに、お前は近来直に慍るよ、どう云ふのかね」 「一つは病気の所為かも知れませんけれど」 「一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね」 「…………」 「お前一つ飲まんかい」 「私沢山」 「ぢや俺が半分助けて遣るから」 「いいえ、沢山なのですから」 「まあさう言はんで、少し、注ぐ真似」 「欲くもないものを、貴方は」 「まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅に、愛子流かね」  妓の名を聞ける宮の如何に言ふらん、と唯継は陰に楽み待つなる流眄を彼の面に送れるなり。  宮は知らず貌に一口の酒を喞みて、眉を顰めたるのみ。 「もう飲めんのか。ぢや此方にお寄来し」 「失礼ですけれど」 「この上へもう一盃注いで貰はう」 「貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか」 「可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ」 「さうでございますか」 「遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川の処へ集つて下温習を為るのさ。俺は、それお特得の、「親々に誘はれ、難波の浦を船出して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待にテチンチンツン……」  厭しげに宮の余所見せるに、乗地の唯継は愈よ声を作りて、 「たまたま逢ひはア──ア逢ひイ──ながらチツンチツンチツンつれなき嵐に吹分けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父イイイイ母のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定……」 「貴方もう好加減になさいましよ」 「もう少し聴いてくれ、〔立つる操を破ら……」 「又寛り伺ひますから、早くいらつしやいまし」 「然し、巧くなつたらう、ねえ、些と聞けるだらう」 「私には解りませんです」 「これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰はうか」 「解らなくても宜うございます」 「何、宜いものか、浄瑠璃の解らんやうな頭脳ぢや為方が無い。お前は一体冷淡な頭脳を有つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ」 「そんな事はございません」 「何、さうだ。お前は一体冷淡さ」 「愛子はどうでございます」 「愛子か、あれはあれで冷淡でないさ」 「それで能く解りました」 「何が解つたのか」 「解りました」 「些も解らんよ」 「まあ可うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし」 「うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか」 「私は何時でも待つてをりますぢや御座いませんか」 「これは冷淡でない!」  漸く唯継の立起れば、宮は外套を着せ掛けて、不取敢彼に握手を求めぬ。こは決して宮の冷淡ならざるを証するに足らざるなり、故は、この女夫の出入に握手するは、夫の始より命じて習せし躾なるをや。 (三)の二  夫を玄関に送り出でし宮は、やがて氷の窖などに入るらん想しつつ、是非無き歩を運びて居間に還りぬ。彼はその夫と偕に在るを謂はんやう無き累と為なれど、又その独を守りてこの家に処るるをも堪へ難く悒きものに思へるなり。必しも力むるとにはあらねど、夫の前には自ら気の張ありて、とにかくにさるべくは振舞へど恣まなる身一箇となれば、遽に慵く打労れて、心は整へん術も知らず紊れに乱るるが常なり。  火鉢に倚りて宮は、我を喪へる体なりしが、如何に思入り、思回し思窮むればとて、解くべきにあらぬ胸の内の、終に明けぬ闇に彷徨へる可悲しさは、在るにもあられず身を起して彼は障子の外なる縁に出でたり。  麗く冱えたる空は遠く三四の凧の影を転じて、見遍す庭の名残無く冬枯れたれば、浅露なる日の光の眩きのみにて、啼狂ひし梢の鵯の去りし後は、隔てる隣より戞々と羽子突く音して、なかなかここにはその寒さを忍ぶ値あらぬを、彼はされども少時居て、又空を眺め、又冬枯を見遣り、同き日の光を仰ぎ、同き羽子の音を聞きて、抑へんとはしたりけれども抑へ難さの竟に苦く、再び居間に入ると見れば、其処にも留らで書斎の次なる寝間に入るより、身を抛ちてベットに伏したり。  厚き蓐の積れる雪と真白き上に、乱畳める幾重の衣の彩を争ひつつ、妖なる姿を意も介かず横はれるを、窓の日の帷を透して隠々照したる、実に匂も零るるやうにして彼は浪に漂ひし人の今打揚げられたるも現ならず、ほとほと力竭きて絶入らんとするが如く、止だ手枕に横顔を支へて、力無き眼を瞪れり。竟には溜息呴きてその目を閉づれば、片寝に倦める面を内向けて、裾の寒さを佗しげに身動したりしが、猶も底止無き思の淵は彼を沈めて逭さざるなり。  隅棚の枕時計は突と秒刻を忘れぬ。益す静に、益す明かなる閨の内には、空しとも空き時の移るともなく移るのみなりしが、忽ち差入る鳥影の軒端に近く、俯したる宮が肩頭に打連りて飜きつ。  やや有りて彼は嬾くベットの上に起直りけるが、鬢の縺れし頭を傾けて、帷の隙より僅に眺めらるる庭の面に見るとしもなき目を遣りて、当所無く心の彷徨ふ蹤を追ふなりき。  久からずして彼はここをも出でて又居間に還れば、直に箪笥の中より友禅縮緬の帯揚を取出し、心に籠めたりし一通の文とも見ゆるものを抜きて、こたびは主の書斎に持ち行きて机に向へり。その巻紙は貫一が遺せし筆の跡などにはあらで、いつかは宮の彼に送らんとて、別れし後の思の丈を窃に書聯ねたるものなりかし。  往年宮は田鶴見の邸内に彼を見しより、いとど忍びかねたる胸の内の訴へん方もあらぬ切なさに、唯心寛の仮初に援りける筆ながら、なかなか口には打出し難き事を最好く書きて陳けも為しを、あはれかのひとの許に送りて、思ひ知りたる今の悲しさを告げばやと、一図の意をも定めしが、又案ずれば、その文は果して貫一の手に触れ、目にも入るべきか。よしさればとて、憎み怨める怒の余に投返されて、人目に曝さるる事などあらば、徒に身を滅す疵を求めて終りなんをと、遣れば火に入る虫の危く、捨つるは惜くも、やがて好き首尾の有らんやうに拠無き頼を繋けつつ、彼は懊悩に堪へざる毎に取出でては写し易ふる傍ら、或は書添へ、或は改めなどして、この文に向へば自らその人に向ふが如く、その人に向ひてはほとほと言尽して心残のあらざる如く、止これに因りて欲するままの夢をも結ぶに似たる快きを覚ゆるなりき。かくして得送らぬ文は写せしも灰となり、反古となりて、彼の帯揚に籠められては、いつまで草の可哀や用らるる果も知らず、宮が手習は実に久うなりぬ。  些箇に慰められて過せる身の荒尾に邂逅ひし嬉しさは、何に似たりと謂はんも愚にて、この人をこそ仲立ちて、積る思を遂げんと頼みしを、仇の如く与せられざりし悲しさに、さらでも切なき宮が胸は掻乱れて、今は漸く危きを懼れざる覚悟も出で来て、いつまで草のいつまでかくてあらんや、文は送らんと、この日頃思ひ立ちてけり。  紙の良きを択び、筆の良きを択び、墨の良きを択び、彼は意してその字の良きを殊に択びて、今日の今ぞ始めて仮初ならず写さんと為なる。打顫ふ手に十行余認めしを、つと裂きて火鉢に差爇べければ、焔の急に炎々と騰るを、可踈しと眺めたる折しも、紙門を啓けてその光に惧えし婢は、覚えず主の気色を異みつつ、 「あの、御本家の奥様がお出で遊ばしました」 第四章  主夫婦を併せて焼亡せし鰐淵が居宅は、さるほど貫一の手に頼りてその跡に改築せられぬ、有形よりは小体に、質素を旨としたれど専ら旧の構造を摸して差はざらんと勉めしに似たり。  間貫一と陶札を掲げて、彼はこの新宅の主になれるなり。家督たるべき直道は如何にせし。彼は始よりこの不義の遺産に手をも触れざらんと誓ひ、かつこれを貫一に与へて、その物は正業の資たれ。その人は改善の人たれと冀しを、貫一は今この家の主となれるに、なほ先代の志を飜さずして、益す盛に例の貪を営むなりき。然れば彼と貫一との今日の関繋は如何なるものならん。絶えてこれを知る者あらず。凡そ人生箇々の裏面には必ず如此き内情若くは秘密とも謂ふべき者ありながら、幸に他の穿鑿を免れて、瞹眛の裏に葬られ畢んぬる例尠からず。二代の鰐淵なる間の家のこの一件もまた貫一と彼との外に洩れざるを得たり。  かくして今は鰐淵の手代ならぬ三番町の間は、その向に有数の名を成して、外には善く貸し、善く歛むれども、内には事足る老婢を役ひて、僅に自炊ならざる男世帯を張りて、なほも奢らず、楽まず、心は昔日の手代にして、趣は失意の書生の如く依然たる変物の名を失はでゐたり。  出でてはさすがに労れて日暮に帰り来にける貫一は、彼の常として、吾家ながら人気無き居間の内を、旅の木蔭にも休へる想しつつ、稍興冷めて坐りも遣らず、物の悲き夕を特に独の感じゐれば、老婢はラムプを持ち来りて、 「今日三時頃でございました、お客様が見えまして、明日又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰つてお帰りになりました」 「学校の友達?」  臆測にも知る能はざるはこの藪から棒の主なり。 「どんな風の人かね」 「さやうでございますよ、年紀四十ばかりの蒙茸と髭髯の生えた、身材の高い、剛い顔の、全で壮士みたやうな風体をしてお在でした」 「…………」  些の憶起す節もありや、と貫一は打案じつつも半は怪むに過ぎざりき。 「さうして、まあ大相横柄な方なのでございます」 「明日三時頃に又来ると?」 「さやうでございますよ」 「誰か知らんな」 「何だか誠に風の悪さうな人体で御座いましたが、明日参りましたら通しませうで御座いますか」 「ぢや用向は言つては行かんのだね」 「さやうでございますよ」 「宜い、会つて見やう」 「さやうでございますか」  起ち行かんとせし老婢は又居直りて、 「それから何でございました、間もなく赤樫さんがいらつしやいまして」  貫一は懌ばざる色を作してこれに応へたり。 「神戸の蒲鉾を三枚、見事なのでございます。それに藤村の蒸羊羹を下さいまして、私まで毎度又頂戴物を致しましたので御座います」  彼は益す不快を禁じ得ざる面色して、応答も為で聴きゐたり。 「さうして明日、五時頃些とお目に掛りたいから、さう申上げて置いてくれと有仰つてで御座いました」  可しとも彼は口には出さで、寧ろ止めよとやうに忙く頷けり。 (四)の二  学校友達と名宣りし客はその言の如く重ねて訪ひ来ぬ。不思議の対面に駭き惑へる貫一は、迅雷の耳を掩ふに遑あらざらんやうに劇く吾を失ひて、頓にはその惘然たるより覚むるを得ざるなりき。荒尾譲介は席の温る間の手弄に放ちも遣らぬ下髯の、長く忘れたりし友の今を如何にと観るに忙かり。 「殆ど一昔と謂うても可い程になるのぢやから話は沢山ある、けれどもこれより先に聞きたいのは、君は今日でも僕をじや、この荒尾を親友と思うてをるか、どうかと謂ふのじや」  答ふべき人の胸はなほ自在に語るべくもあらず乱れたるなり。 「考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是か否かの一つじや」 「そりや昔は親友であつた」  彼は覚束無げに言出せり。 「さう」 「今はさうぢやあるまい」 「何為にな」 「その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい」 「なに五六年前も一向親友ではありやせんぢやつたではないか」  貫一は目を側めて彼を訝りつ。 「さうぢやらう、学士になるか、高利貸になるかと云ふ一身の浮沈の場合に、何等の相談も為んのみか、それなり失踪して了うたのは何処が親友なのか」  その常に慙ぢかつ悔る一事を責められては、癒えざる痍をも割るる心地して、彼は苦しげに容を歛め、声をも出さでゐたり。 「君の情人は君に負いたぢやらうが、君の友は決して君に負かん筈ぢや。その友を何為に君は棄てたか。その通り棄てられた僕ぢやけれど、かうして又訪ねて来たのは、未だ君を実は棄てんのじやと思ひ給へ」  学生たりし荒尾! 参事官たりし荒尾‼ 尾羽打枯せる今の荒尾の姿は変りたれど、猶一片の変らぬ物ありと知れる貫一は、夢とも消えて、去りし、去りし昔の跡無き跡を悲しと偲ぶなりけり。 「然し、僕が棄てても棄てんでも、そんな事に君は痛痒を感ずるぢやなからうけれど、僕は僕で、友の徳義としてとにかく一旦は棄てんで訪ねて来た。で、断然棄つるも、又棄てんのも、唯今日にある意じや。  今では荒尾を親友とは謂へん、と君の言うたところを以つて見ると、又今更親友であることを君は望んではをらんやうじや。さうであるならば僕の方でも敢て望まん、立派に名宣つて僕も間貫一を棄つる!」  貫一は頭を低れて敢て言はず。 「然し、今日まで親友と思うてをつた君を棄つるからには、これが一生の別になるのぢやから、その餞行として一言云はんけりやならん。  間、君は何の為に貨を殖ゆるのぢや。かの大いなる楽とする者を奪れた為に、それに易へる者として金銭といふ考を起したのか。それも可からう、可いとして措く。けれどもじや、それを獲る為に不義不正の事を働く必要が有るか。君も現在他から苦められてゐる躯ではないのか。さうなれば己が又他を苦むるのは尤も用捨すべき事ぢやらうと思ふ。それが他を苦むると謂うても、難儀に附入つて、さうしてその血を搾るのが君の営業、殆ど強奪に等い手段を以つて金を殖えつつ、君はそれで今日慰められてをるのか。如何に金銭が総ての力であるか知らんけれど、人たる者は悪事を行つてをつて、一刻でも安楽に居らるるものではないのじや。それとも、君は怡然として楽んでをるか。長閑な日に花の盛を眺むるやうな気持で催促に行つたり、差押を為たりしてをるか。どうかい、間」  彼は愈よ口を閉ぢたり。 「恐くじや。さう云ふ気持の事は、この幾年間に一日でも有りはせんのぢやらう。君の顔色を見い! 全で罪人じやぞ。獄中に居る者の面じや」  別人と見るまでに彼の浅ましく瘁れたる面を矚りて、譲介は涙の落つるを覚えず。 「間、何で僕が泣くか、君は知つてをるか。今の間ぢや知らんぢやらう。幾多貨を殖へたところで、君はその分では到底慰めらるる事はありはせん。病が有るからと謂うて毒を飲んで、その病が痊るぢやらうか。君はあたかも薬を飲む事を知らんやうなものじやぞ。僕の友であつた間はそんな痴漢ぢやなかつた、して見りや発狂したのじや。発狂してからに馬鹿な事を為居る奴は尤むるに足らんけれど、一婦人の為に発狂したその根性を、彼の友として僕が慙ぢざるを得んのじや。間、君は盗人と言れたぞ。罪人と言れたぞ、狂人と言れたぞ。少しは腹を立てい! 腹を立てて僕を打つとも蹴るとも為て見い!」  彼は自ら言ひ、自ら憤り、尚自ら打ちも蹴も為んずる色を作して速々答を貫一に逼れり。 「腹は立たん!」 「腹は立たん? それぢや君は自身に盗人とも、罪人とも……」 「狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目無いけれど、既に発狂して了つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ」  貫一は纔にかく言ひて已みぬ。 「さうか。それぢや君は不正な金銭で慰められてをるのか」 「未だ慰められてはをらん」 「何日慰めらるるのか」 「解らん」 「さうして君は妻君を娶うたか」 「娶はん」 「何故娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに」 「さうでもないさ」 「君は今では彼の事をどう思うてをるな」 「彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!」 「然し、君も今日では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや」 「さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか」 「僕も畜生かな」 「…………」 「間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷めにやならんじやな」 「彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得るものか」 「何為成り得んのか」 「何為成り得るのか」 「さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか」 「望むも望まんも、あんな者に用は無い!」  寧ろその面に唾せんとも思へる貫一の気色なり。 「そりや彼には用は無いぢやらうけれど、君の為に言ふべきことぢやと思ふから話すのぢやが、彼は今では大いに悔悟してをるぞ。君に対して罪を悔いてをるぞ!」  貫一は吾を忘れて嗤笑ひぬ。彼はその如何に賤むべきか、謂はんやうもあらぬを念ひて、更に嗤笑ひ猶嗤笑ひ、遏めんとして又嗤笑ひぬ。 「彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ」 「彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう」 「先頃計らず彼に逢うたのじや、すると、僕に向うて涙を流して、そりや真実悔悟してをるのじや。さうして僕に詑を為てくれ、それが成らずば、君に一遍逢せてくれ、と縋つて頼むのじやな、けれど僕も思ふところが有るから拒絶はした。又君に対しても、彼がその様に悔悟してゐるから容して遣れと勧めは為ん、それは別問題じや。但僕として君に言ふところは、彼は悔悟して独り苦んでをる。即ち彼は自ら罰せられてをるのぢやから、君は君として怨を釈いて可からうと思ふ。君がその怨を釈いたなら、昔の間に復るべきぢやらうと考へるのじや。  君は今のところ慰められてをらん、それで又、何日慰めらるるとも解らんと言うたな、然しじや、彼が悔悟してからにその様に思うてをると聞いたら、君はそれを以つて大いに慰められはせんかな。君がこの幾年間に得た金銭、それは幾多か知らんけれど、その寡からん金銭よりは、彼が終に悔悟したと聞いた一言の方が、遙に大いなる力を以つて君の心を慰むるであらうと思ふのじやが、どうか」 「それは僕が慰められるよりは、宮が苦まなければならん為の悔悟だらう。宮が前非を悟つた為に、僕が失つた者を再び得られる訳ぢやない、さうして見れば、僕の今日はそれに因つて少も慰められるところは無いのだ。憎いことは彼は飽くまで憎い、が、その憎さに僕が慰められずにゐるのではないからして、宮その者の一身に向つて、僕は棄てられた怨を報いやうなどとは決して思つてをらん、畜生に讐を復す価は無いさ。  今日になつて彼が悔悟した、それでも好く悔悟したと謂ひたいけれど、これは固よりさう有るべき事なのだ。始にあんな不心得を為なかつたら、悔悟する事は無かつたらうに──不心得であつた、非常な不心得であつた!」  彼は黯然として空く懐へるなり。 「僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨を殖へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭の力に頼つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委する。貨を殖ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪つて聚むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用んでも、富む道は幾多も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止だ手段を改めよじや。路は違へても同じ高嶺の月を見るのじやが」 「辱ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切かまひ付けずに措いてくれ給へ」 「さうか。どうあつても僕の言は用られんのじやな」 「容してくれ給へ」 「何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか」 「今日限互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね」 「見たら解るぢやらう」 「見たばかりで解るものか」 「貧乏してをるのよ」 「それは解つてゐるぢやないか」 「それだけじや」 「それだけの事が有るものか。何で官途を罷めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか」 「話したところで狂人には解らんのよ」  荒尾は空嘯きて起たんと為なり。 「解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ」 「それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No thankじや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然として楽んでをるのじや」 「それだから猶、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ」  荒尾は故らに哈々として笑へり。 「貴様如き無血虫がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな」 「さうまで辱められても辞を返すことの出来ん程、僕の躯は腐つて了つたのだ」 「固よりじや」 「かう腐つて了つた僕の躯は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰にそれを祷つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日まで君の外には一人の友も無いのだ。一昨年であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀も言ひたいと念つたけれど、どうも逢れん僕の躯だから、切て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た」  さてはと荒尾も心陰に頷きぬ。 「君の出世を見て、それほど嬉かつた僕が、今日君のそんなに零落してゐるのを見る心持はどんなであるか、察し給へ。自分の身を顧ずにかう云ふ事を君に向つて言ふべきではないけれど、僕はもう己を棄ててゐるのだ。一婦女子の詐如きに憤つて、それが為に一身を過つたと知りながら、自身の覚悟を以て匡正することの出来んと謂ふのは、全く天性愚劣の致すところと、自ら恨むよりは無いので、僕は生きながら腐れて、これで果てるのだ。君の親友であつた間貫一は既に亡き者に成つたのだ、とさう想つてくれ給へ。であるから、これは間が言ふのではない。君の親友の或者が君の身を愛んで忠告するのだとして聴いてくれ給へ。どう云ふ事情か、君が話してくれんから知れんけれど、君の躯は十分自重して、社会に立つて壮なる働を作して欲いのだ。君はさうして窮迫してゐるやうだけれど、決して世間から棄てられるやうな君でない事を僕は信ずるのだから、一箇人として己の為に身を愛みたまへと謂ふのではなく、国家の為に自重し給へと願ふのだ。君の親友の或者は君がその才を用る為に社会に出やうと為るならば、及ぶ限の助力を為る精神であるのだ」  貫一の面は病などの忽ち癒えけんやうに輝きつつ、如此く潔くも麗き辞を語れるなり。 「うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄してをるのを見て気毒と思ふのか」 「君が謂ふほどの畜生でもない!」 「其処じや、間。世間に貴様のやうな高利貸が在る為に、あつぱれ用らるべき人才の多くがじや、名を傷け、身を誤られて、社会の外に放逐されて空く朽つるのじやぞ。国家の為に自重せい、と僕の如き者にでもさう言うてくるるのは忝ないが、同じ筆法を以つて、君も社会の公益の為にその不正の業を罷めてくれい、と僕は又頼むのじや。今日の人才を滅す者は、曰く色、曰く高利貸ぢやらう。この通り零落れてをる僕が気毒と思ふなら、君の為に艱されてをる人才の多くを一層不敏と思うて遣れ。  君が愛に失敗して苦むのもじや、或人が金銭の為に苦むのも、苦むと云ふ点に於ては差異は無いぞ。で、僕もかうして窮迫してをる際ぢやから、憂を分つ親友の一人は誠欲いのじや、昔の間貫一のやうな友が有つたらばと思はん事は無い。その友が僕の身を念うてくれて、社会へ打つて出て壮に働け、一臂の力を仮さうと言うのであつたら、僕は如何に嬉からう! 世間に最も喜ぶべき者は友、最も悪むべき者は高利貸ぢや。如何に高利貸の悪むべきかを知つてをるだけ、僕は益す友を懐ふのじや。その昔の友が今日の高利貸──その悪むべき高利貸! 吾又何をか言はんじや」  彼は口を閉ぢて、貫一を疾視せり。 「段々の君の忠告、僕は難有い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処に今居るかね」 「まあ、高利貸などは来て貰はん方が可い」 「その日は友として訪ねるのだ」 「高利貸に友は持たんものな」  雍かに紙門を押啓きて出来れるを、誰かと見れば満枝なり。彼如何なれば不躾にもこの席には顕れけん、と打駭ける主よりも、荒尾が心の中こそ更に匹ふべくもあらざるなりけれ。いでや、彼は窘みてその長き髯をば痛に拈りつ。されど狼狽へたりと見られんは口惜しとやうに、遽にその手を胸高に拱きて、動かざること山の如しと打控へたる様も、自らわざとらしくて、また見好げにはあらざりき。  満枝は先づ主に挨拶して、さて荒尾に向ひては一際礼を重く、しかも躬は手の動き、目の視るまで、専ら貴婦人の如く振舞ひつつ、笑むともあらず面を和げて姑く辞を出さず。荒尾はこの際なかなか黙するに堪へずして、 「これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな」 「君はどうして此方を識つてゐるのだ」  左瞻右視して貫一は呆るるのみなり。 「そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した」 「荒尾さん」  満枝は逭さじと呼留めて、 「かう云ふ処で申上げますのも如何で御座いますけれど」 「ああ、そりや此で聞くべき事ぢやない」 「けれど毎も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから」 「いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ」 「それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな」 「うう、随分酷い事を察しさせられるのじやね」 「近日に是非私お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く」 「そりや一向宜くないかも知れん」 「ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬つて了ふとか云ふ事が御座いましたさうで」 「有つた」 「あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?」  満枝は彼に耻ぢよとばかり嗤笑ひぬ。さ知つたる荒尾は飽くまで真顔を作りて、 「本当とも! 実際那奴砍却つて了はうと思うた」 「然しお考へ遊ばしたで御座いませう」 「まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい」 「まあ、怖い事ぢや御座いませんか。私なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね」  そは誰が事を言ふならんとやうに、荒尾は頂を反して噪き笑ひぬ。 「僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭いて置かう」 「荒尾君、夕飯の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ」 「それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて」 「まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて」  満枝は荒尾の立てる脚下に褥を推付けて、実に還さじと主にも劣らず最惜む様なり。 「全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや」 「そのお意で、どうぞお席にゐらしつて」  固より留らざるべき荒尾は終に行かんとしつつ、 「間、貴様は……」 「…………」 「…………」  彼は唇の寒かるべきを思ひて、空く鬱抑して帰り去れり。その言はざりし語は直に貫一が胸に響きて、彼は人の去にける迹も、なほ聴くに苦き面を得挙げざりけり。 (四)の三  程も有らずラムプは点されて、止だ在りけるままに竦みゐたる彼の傍に置るるとともに、その光に照さるる満枝の姿は、更に粧をも加へけんやうに怪しからず妖艶に、宛然色香を擅にせる牡丹の枝を咲撓めたる風情にて、彼は親しげに座を進めつ。 「間さん、貴方どうあそばして、非常にお鬱ぎ遊ばしてゐらつしやるぢや御座いませんか」  貫一は怠くも纔に目を移して、 「一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか」 「私よりは、貴方があの方の御朋友でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ」 「貴方はどうして御存じなのです」 「まあ債務者のやうな者なので御座います」 「債務者? 荒尾が? 貴方の?」 「私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど」 「はあ、さうして額は若干なのですか」 「三千円ばかりでございますの」 「三千円? それでその直接の貸主と謂ふのは何処の誰ですか」  満枝は彼の遽に捩向きて膝の前むをさへ覚えざらんとするを見て、歪むる口角に笑を忍びつ、 「貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生私がお話でも致すと、全で取合つても下さいませんのですもの」 「まあ可いです」 「些とも可い事はございません」 「うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね」 「存じません」 「お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから」 「私貴方からは戴きません」 「上げるのではない、弁償するのです」 「いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます」 「それは何為ですか」 「何為でも宜う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召すなら、私に債権を棄てて了へと有仰つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます」 「どう云ふ訳ですか」 「どう云ふ訳で御座いますか」 「甚だ解らんぢやありませんか」 「勿論解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね」 「いいや、僕は解つてゐます」 「ええ、解つてゐらつしやりながら些ともお解りにならないのですから、私も益す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし」  満枝は金煙管に手炉の縁を丁と拍ちて、男の顔に流眄の怨を注ぐなり。 「まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい」 「御勝手ねえ、貴方は」 「さあ、お話し下さいな」 「唯今お話致しますよ」  満枝は遽に煙管を索めて、さて傍に人無き若く緩に煙を吹きぬ。 「貴方の債務者であらうとは実に意外だ」 「…………」 「どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ」 「…………」 「三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆ど有得べき事でないのだけれど、……」 「…………」  唯見れば、満枝はなほも煙管を放たざるなり。 「さあ、お話し下さいな」 「こんなに遅々してをりましたら、さぞ貴方憤つたくてゐらつしやいませう」 「憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか」 「憤つたいと云ふものは、決して好い心持ぢやございませんのね」 「貴方は何を言つてお在なのです!」 「はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう」 「どうぞ」 「蓋か御承知でゐらつしやいましたらう。前に宅に居りました向坂と申すの、あれが静岡へ参つて、今では些と盛に遣つてをるので御座います。それで、あの方は静岡の参事官でお在なのでした。さやうで御座いましたらう。その頃向坂の手から何したので御座います。究竟あの方もその件から諭旨免官のやうな事にお成なすつて、又東京へお還りにならなければ為方が無いので、彼方を引払ふのに就いて、向坂から話が御座いまして、宅の方へ始は委任して参つたので御座いましたけれど、丁度去年の秋頃から全然此方へ引継いで了ふやうな都合に致しましたの。  然し、それは取立に骨が折れるので御座いましてね、ああして止と遊んでお在も同様で、飜訳か何か少ばかり為さる御様子なのですから、今のところではどうにも手の着けやうが無いので御座いますわ」 「はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん」 「それはあの方は連帯者なので御座います」 「はあ! さうして借主は何者ですか」 「大館朔郎と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚だとか云ふ話でございました」 「うむ、如何にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう」 「御承知でゐらつしやいますか」 「それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ」  はやその言の中に彼の心は急に傷みぬ。己の敬愛せる荒尾譲介の窮して戚々たらず、天命を楽むと言ひしは、真に義の為に功名を擲ち、恩の為に富貴を顧ざりし故にあらずや。彼の貧きは万々人の富めるに優れり。君子なる吾友よ。さしも潔き志を抱ける者にして、その酬らるる薄倖の彼の如く甚く酷なるを念ひて、貫一は漫ろ涙の沸く目を閉ぢたり。 第五章  遽に千葉に行く事有りて、貫一は午後五時の本所発を期して車を飛せしに、咄嗟、一歩の時を遅れて、二時間後の次回を待つべき倒懸の難に遭へるなり。彼は悄々停車場前の休憇処に入りて奥の一間なる縞毛布の上に温茶を啜りたりしが、門を出づる折受取りし三通の郵書の鞄に打込みしままなるを、この時取出せば、中に一通の M., Shigis──と裏書せるが在り。 「ええ、又寄来した!」  彼はこれのみ開封せずして、やがて他の読壳と一つに投入れし鞄を磤と閉づるや、枕に引寄せて仰臥すと見れば、はや目を塞ぎて睡を促さんと為るなりき。されども、彼は能く睡るを得べきか。さすがにその人の筆の蹟を見ては、今更に憎しとも恋しとも、絶えて念には懸けざるべしと誓へる彼の心も、睡らるるまでに安かる能はざるなり。  いで、この文こそは宮が送りし再度の愬にて、その始て貫一を驚かせし一札は、約そ二週間前に彼の手に入りて、一字も漏れずその目に触れしかど、彼は曩に荒尾に答へしと同様の意を以てその自筆の悔悟を読みぬ。こたびとてもまた同き繰言なるべきを、何の未練有りて、徒に目を汚し、懐を傷けんやと、気強くも右より左に掻遣りけるなり。  宮は如何に悲しからん! この両度の消息は、その苦き胸を剖き、その切なる誠を吐きて、世をも身をも忘れし自白なるを。事若し誤らば、この手証は生ながら葬らるべき罪を獲るに余有るものならずや。さしも覚悟の文ながら、彼はその一通の力を以て直に貫一の心を解かんとは思設けざりき。  故に幾日の後に待ちて又かく聞えしを、この文にもなほ験あらずば、彼は弥増す悲の中に定めて三度の筆を援るなるべし。知らずや、貫一は再度の封をだに切らざりしを──三度、五度、七度重ね重ねて十百通に及ばんとも、貫一は断じてこの愚なる悔悟を聴かじと意を決せるを。  静に臥したりし貫一は忽ち起きて鞄を開き、先づかの文を出し、焠児を捜りて、封のままなるその端に火を移しつつ、火鉢の上に差翳せり。一片の焔は烈々として、白く颺るものは宮の思の何か、黒く壊落つるものは宮が心の何か、彼は幾年の悲と悔とは嬉くも今その人の手に在りながら、すげなき烟と消えて跡無くなりぬ。  貫一は再び鞄を枕にして始の如く仰臥せり。  間有りて婢どもの口々に呼邀ふる声して、入来し客の、障子越なる隣室に案内されたる気勢に、貫一はその男女の二人連なるを知れり。  彼等は若き人のやうにもあらず頗る沈寂に座に着きたり。 「まだ沢山時間が有るから寛り出来る。さあ、鈴さん、お茶をお上んなさい」  こは男の声なり。 「貴方本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか」 「盆過には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父さんや尊母さんの気が変つて了つてお在なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦めるのだ。私は男らしく諦めた!」 「雅さんは男だからさうでせうけれど、私は諦めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父さんや阿母さんの為方を慍つてお在なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処へも適きはしませんから」  女は処々聞き得ぬまでの涙声になりぬ。 「だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰を怨む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯に疵の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤だと、それは私は自分ながら思つてゐる」 「阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰つて下されば可いのぢやありませんか」 「そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の〓(「(箆-竹-比)/民」)に罹つたばかりで、自分の躯には生涯の疵を付け、隻の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如私は牢の中で死んで了つた……方が可かつた!」 「あれ、雅さん、そんな事を……」  両箇は一度に哭き出せり。 「阿母さんがあん畜生の家を焼いて、夫婦とも焼死んだのは好い肚癒ぢやあるけれど、一旦私の躯に附いたこの疵は消えない。阿母さんも来月は鈴さんが来てくれると言つて、朝晩にそればかり楽にして在すつた……のだし」  女はつと出でし泣音の後を怺へ怺へて啜上げぬ。 「私も破談に為る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな」 「いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません」 「私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退いて、これまでの縁と諦めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ」  女は唯愈よ咽びゐたり。音も立てず臥したりし貫一はこの時忍び起きて、障子の其処此処より男を隙見せんと為たりけれど、竟に意の如くならで止みぬ。然れども彼は正くその声音に聞覚あるを思合せぬ。かの男は鰐淵の家に放火せし狂女の子にて、私書偽造罪を以て一年の苦役を受けし飽浦雅之ならずと為んや。さなり、女のその名を呼べるにても知らるるを、と独り頷きつつ貫一は又潜りて聴耳立てたり。 「嘘にもさうして志は忘れないなんて言つて下さる程なら、やつぱり約束通り私を引取つて下さいな。雅さんがああ云ふ災難にお遭なので、それが為に縁を切る意なら、私は、雅さん、……一年が間……塩断なんぞ為はしませんわ」  彼は自らその苦節を憶ひて泣きぬ。 「雅さんが自分に悪い事を為てあんな訳に成つたのぢやなし、高利貸の奴に瞞されて無実の罪に陥ちたのは、雅さんの災難だと、私は倶共に悔し……悔し……悔いとは思つてゐても、それで雅さんの躯に疵が附いたから、一処になるのは迷惑だなんと何時私が思つて! 雅さん、私はそんな女ぢやありません、そんな女ぢや……ない!」  この心を知らずや、と情極りて彼の悶え慨くが手に取る如き隣には、貫一が内俯に頭を擦付けて、巻莨の消えしを擎げたるままに横はれるなり。 「雅さんは私をそんな女だとお思ひのは、貴方がお留守中の私の事を御存じないからですよ。私は三月の余も疾つて……そんな事も雅さんは知つてお在ぢやないのでせう。それは、阿父さんや阿母さんは雅さんのところへ上げる気は無いにしても、私は私の了簡で、若しああ云ふ事が有つたので雅さんの肩身が狭くなるやうなら、私は猶更雅さんのところへ適かずにはゐられない。さうして私も雅さんと一処に肩身が狭くなりたいのですから。さうでなけりや、子供の内からあんなに可愛がつて下すつた雅さんの尊母さんに私は済まない。  親が不承知なのを私が自分の了簡通に為るのは、そりや不孝かも知れませんけれど、私はどうしても雅さんのところへ適きたいのですから、お可厭でなくば引取つて下さいましな。私の事はかまひませんから雅さんが貰つて下さるお心持がお有なさるのか、どうだか唯それを聞して下さいな」  貫一は身を回して臂枕に打仰ぎぬ。彼は己が与へし男の不幸よりも、添れぬ女の悲よりも、先づその娘が意気の壮なるに感じて、あはれ、世にはかかる切なる恋の焚る如き誠もあるよ、と頭は熱し胸は轟くなり。  さて男の声は聞ゆ。 「それは、鈴さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭はなかつたら、今頃は家内三人で睦く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂れないほど情無い。かうして今では人に顔向も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父さん、尊母さんの心にもなつて見たら、今の私には添されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情は、何処の親でも差違は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです」 「それぢや、雅さんは内の阿父さんや阿母さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね」 「そんな事が有るものぢやない! 私だつて……」 「いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから」 「鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全で私の心を酌んではおくれでないのだ」 「それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適くと極つて、その為に御嫁入道具まで丁と調へて置きながら、今更外へ適れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余り酷いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!」  女は身を顫して泣沈めるなるべし。 「そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為うと云ふのです」 「どう為ても可う御座います、私は自分の心で極めてゐますから」  亜いで男の声は為ざりしが、間有りて孰より語り出でしとも分かず、又一時密々と話声の洩れけれど、調子の低かりければ此方には聞知られざりき。彼等は久くこの細語を息めずして、その間一たびも高く言を出さざりしは、互にその意に逆ふところ無かりしなるべし。 「きつと? きつとですか」  始て又明かに聞えしは女の声なり。 「さうすれば私もその気で居るから」  かくて彼等の声は又低うなりぬ。されど益す絮々として飽かず語れるなり。貫一は心陰に女の成効を祝し、かつ雅之たる者のこれが為に如何に幸ならんかを想ひて、あたかも妙なる楽の音の計らず洩聞えけんやうに、憂かる己をも忘れんとしつ。  今かの娘の宮ならば如何ならん、吾かの雅之ならば如何ならん。吾は今日の吾たるを択ぶ可きか、将かの雅之たるを希はんや。貫一は空うかく想へり。  宮も嘗て己に対して、かの娘に遜るまじき誠を抱かざるにしもあらざりき。彼にして若し金剛石の光を見ざりしならば、また吾をも刑余に慕ひて、その誠を全うしたらんや。唯継の金力を以て彼女を脅したらんには、またかの雅之を入獄の先に棄てたりけんや。耀ける金剛石と汚れたる罪名とは、孰か愛を割くの力多かる。  彼は更にかく思へり。  唯その人を命として、己も有らず、家も有らず、何処の野末にも相従はんと誓へるかの娘の、竟に利の為に志を移さざるを得べきか。又は一旦その人に与へたる愛を吝みて、再び価高く他に売らんと為るなきを得べきか。利と争ひて打勝れたると、他の愛と争ひて敗れたると、吾等の恨は孰に深からん。  彼は又かくも思へるなり。  それ愛の最も篤からんには、利にも惑はず、他に又易ふる者もあらざる可きを、仮初もこれの移るは、その最も篤きにあらざるを明せるなり。凡そ異性の愛は吾愛の如く篤かるを得ざる者なるか、或は己の信ずらんやうに、宮の愛の特に己にのみ篤からざりしなるか。吾は彼の不義不貞を憤るが故に世上の恋なる者を疑ひ、かつ渾てこれを斥けぬ。されどもその一旦の憤は、これを斥けしが為に消ゆるにもあらずして、その必ず得べかりし物を失へるに似たる怏々は、吾心を食尽し、終に吾身を斃すにあらざれば、得やは去るまじき悪霊の如く執念く吾を苦むるなり。かかれば何事にも楽むを知らざりし心の今日偶ま人の相悦ぶを見て、又躬も怡びつつ、楽の影を追ふらんやうなりしは何の故ならん。よし吾は宮の愛ならずとも、これに易ふる者を得て、とかくはこの心を慰めしむ可きや。  彼はいよいよ思廻せり。  宮はこの日頃吾に篤からざりしを悔いて、その悔を表せんには、何等の事を成さんも唯吾命のままならんとぞ言来したる。吾はその悔の為にはかの憤を忘るべきか、任他吾恋の旧に復りて再び完かるを得るにあらず、彼の悔は彼の悔のみ、吾が失意の恨は終に吾が失意の恨なるのみ。この恨は富山に数倍せる富に因りて始て償はるべきか、或はその富を獲んとする貪欲はこの恨を移すに足るか。  彼は苦き息を嘘きぬ。  吾恋を壊りし唯継! 彼等の恋を壊らんと為しは誰そ、その吾の今千葉に赴くも、又或は壊り、或は壊らんと為るにあらざる無きか。しかもその貪欲は吾に何をか与へんとすらん。富か、富は吾が狂疾を医すべき特効剤なりや。かの妨げられし恋は、破鏡の再び合ふを得て楽み、吾が割れし愛は落花の復る無くして畢らんのみ! いで、吾はかくて空く埋るべきか、風に因りて飛ぶべきか、水に落ちて流るべきか。  貫一は船橋を過る燈暗き汽車の中に在り。 第六章  千葉より帰りて五日の後 M., Shigis ──の書信は又来りぬ。貫一は例に因りて封のまま火中してけり。その筆の跡を見れば、忽ち浮ぶその人の面影は、唯継と並び立てる梅園の密会にあらざる無きに、彼は殆ど当時に同き憤を発して、先の二度なるよりはこの三度に及べるを、径廷くも廻らぬ筆の力などを以て、旧に返し得べき未練の吾に在りとや想へる、愚なる精衛の来りて大海を填めんとするやと、却りて頑に自ら守らんとも為なり。  さりとも知らぬ宮は蟻の思を運ぶに似たる片便も、行くべき方には音づるるを、さてかの人の如何に見るらん、書綴れる吾誠の千に一つも通ずる事あらば、掛けても願へる一筋の緒ともなりなんと、人目あらぬ折毎には必ず筆採りて、その限無き思を写してぞ止まざりし。  唯継は近頃彼の専ら手習すと聞きて、その善き行を感ずる余に、良き墨、良き筆、良き硯、良き手本まで自ら求め来ては、この難有き心掛の妻に遣りぬ。宮はそれ等を汚はしとて一切用ること無く、後には夫の机にだに向はずなりけり。かく怠らず綴られし文は、又六日を経て貫一の許に送られぬ。彼は四度の文をも例の灰と棄てて顧ざりしに、日を経ると思ふ程も無く、五度の文は来にけり。よし送り送りて千束にも余れ、手に取るからの烟ぞと侮れる貫一も、曾て宮には無かりし執着のかばかりなるを謂知らず異みつつ、今日のみは直にも焚かざりしその文を、一度は披き見んと為たり。 「然し……」  彼は輙く手を下さざりき。 「赦してくれと謂ふのだらう。その外には、見なければ成らん用事の有る訳は無い。若し有ると為れば、それは見る可からざる用事なのだ。赦してくれなら赦して遣る、又赦さんでも既に赦れてゐるのではないか。悔悟したなら、悔悟したで、それで可い。悔悟したから、赦したからと云つて、それがどうなるのだ。それが今日の貫一と宮との間に如何なる影響を与へるのだ。悔悟したからあれの操の疵が愈えて、又赦したから、富山の事が無い昔に成るのか。その点に於ては、貫一は飽くまでも十年前の貫一だ。宮! 貴様は一生汚れた宮ではないか。ことの破れて了つた今日になつて悔悟も赦してくれも要つたものか、無益な事だ! 少も汚れん宮であるから愛してをつたのだ、それを貴様は汚して了つたから怨んだのだ。さうして一遍汚れた以上は、それに対する十倍の徳を行つても、その汚れたのを汚れざる者に改めることは到底出来んのだ。  であるから何と言つた! 熱海で別れる時も、お前の外に妻と思ふ者は無い、一命に換へてもこの縁は切られんから、俺のこの胸の中を可憐と思つて、十分決心してくれ、と実に男を捨てて頼んだではないか。その貫一に負いて……何の面目有つて今更悔悟……晩い!」  彼はその文を再三柱に鞭ちて、終に繩の如く引捩りぬ。  打続きて宮が音信の必ず一週に一通来ずと謂ふこと無くて、披れざるに送り、送らるるに披かざりしも、はや算ふれば十通に上れり。さすがに今は貫一が見る度の憤も弱りて、待つとにはあらねど、その定りて来る文の繁きに、自ら他の悔い悲める宮在るを忘るる能はずなりぬ。されど、その忘るる能はざるも、遽に彼を可懐むにはあらず、又その憤の弱れるも、彼を赦し、彼を容れんと為るにあらずして、始に恋ひしをば棄てられ、後には棄てしを悔らるる身の、その古き恋はなほ己に存し、彼の新なる悔は切に夤るも、徒に凍えて水を得たるに同かるこの両の者の、相対して相拯ふ能はざる苦艱を添ふるに過ぎざるをや。ここに於て貫一は披かぬ宮が文に向へば、その幾倍の悲きものを吾と心に読みて、かの恨ならぬ恨も生じ、かの憤ならぬ憤も発して、憂身独の儚き世をば如何にせんやうも知らで、唯安からぬ昼夜を送りつつ、出づるに入るに茫々として、彼は屡ばその貪るをさへ忘るる事ありけり。劇く物思ひて寝ねざりし夜の明方近く疲睡を催せし貫一は、新緑の雨に暗き七時の閨に魘るる夢の苦く頻に呻きしを、老婢に喚れて、覚めたりと知りつつ現ならず又睡りけるを、再び彼に揺起れて驚けば、 「お客様でございます」 「お客? 誰だ」 「荒尾さんと有仰いました」 「何、荒尾? ああ、さうか」  主の急ぎ起きんとすれば、 「お通し申しますで御座いますか」 「おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫く失礼致しますとさう申して」  貫一はかの一別の後三度まで彼の隠家を訪ひしかど、毎に不在に会ひて、二度に及べる消息の返書さへあらざりければ、安否の如何を満枝に糺せしに、変る事無く其処に住めりと言ふに、さては真に交を絶たんとすならんを、姑く強て追はじと、一月余も打絶えたりしに、彼方より好くこそ来つれ、吾がこの苦を語るべきは唯彼在るのみなるを、朋の来れるも、実にかくばかり楽きはあらざらん。今日は酒を出して一日彼を還さじなど、心忙きまでに歓ばれぬ。  絶交せるやうに疏音なりし荒尾の、何の意ありて卒に訪来れるならん。貫一はその何の意なりやを念はず、又その突然の来叩をも怪まずして、畢竟彼の疏音なりしはその飄然主義の拘らざる故、交を絶つとは言ひしかど、誼の吾を棄つるに忍びざる故と、彼はこの人のなほ己を友として来れるを、有得べからざる事とは信ぜざりき。  手水場を出来し貫一は腫眶の赤きを連𥉌きつつ、羽織の紐を結びも敢へず、つと客間の紙門を排けば、荒尾は居らず、かの荒尾譲介は居らで、美う装へる婦人の独り羞含う控へたる。打惑ひて入りかねたる彼の目前に、可疑き女客も未だ背けたる面を回さず、細雨静に庭樹を撲ちて滴る翠は内を照せり。 「荒尾さんと有仰るのは貴方で」  彼は先づかく会釈して席に着きけるに、婦人は猶も面を示さざらんやうに頭を下げて礼を作せり。しかも彼は輙くその下げたる頭と拄へたる手とを挙げざるなりき。始に何者なりやと驚されし貫一は、今又何事なりやと弥よ呆れて、彼の様子を打矚れり。乍ち有りて貫一の眼は慌忙く覓むらん色を作して、婦人の俯けるを仡と窺ひたりしが、 「何ぞ御用でございますか」 「…………」  彼は益す急に左瞻右視して窺ひつ。 「どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう」 「…………」  露置く百合の花などの仄に風を迎へたる如く、その可疑き婦人の面は術無げに挙らんとして、又慙ぢ懼れたるやうに遅疑ふ時、 「宮⁉」と貫一の声は筒抜けて走りぬ。  宮は嬉し悲しの心昧みて、身も世もあらず泣伏したり。 「何用有つて来た!」  怒るべきか、この時。恨むべきか、この時。辱むべきか、悲むべきか、号ぶべきか、詈るべきか、責むべきか、彼は一時に万感の相乱れて急なるが為に、吾を吾としも覚ゆる能はずして打顫ひゐたり。 「貫一さん! どうぞ堪忍して下さいまし」  宮は漸う顔を振挙げしも、凄く色を変へたる貫一の面に向ふべくもあらで萎れ俯しぬ。 「早く帰れ!」 「…………」 「宮!」  幾年聞かざりしその声ならん。宮は危みつつも可懐しと見る目を覚えず其方に転せば、鋭く睼ふる貫一の眼の湿へるは、既に如何なる涙の催せしならん。 「今更お互に逢ふ必要は無い。又お前もどの顔で逢ふ意か。先達而から頻に手紙を寄来すが、あれは一通でも開封したのは無い、来れば直に焼棄てて了ふのだから、以来は断じて寄来さんやうに。私は今病中で、かうしてゐるのも太儀でならんのだから、早く帰つて貰ひたい」  彼は老婢を召して、 「お客様のお立だ、お供にさう申して」  取附く島もあらず思悩める宮を委きて、貫一は早くも独り座を起たんとす。 「貫一さん、私は今日は死んでも可い意でお目に掛りに来たのですから、貴方の存分にどんな目にでも遭せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし」 「何の為に!」 「私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました‼ 悉い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言れない事ばかり、設ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑は為る意でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目が無いやら、悲いやらで、何一語も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし」 「それがどう為たのだ」 「さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし」  涙ながらに手を拄へて、吾が足下に額叩く宮を、何為らんとやうに打見遣りたる貫一は、 「六年前の一月十七日、あの時を覚えてゐるか」 「…………」 「さあ、どうか」 「私は忘れは為ません」 「うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ」 「堪忍して下さい」  唯見る間に出行く貫一、咄嗟、紙門は鉄壁よりも堅く閉てられたり。宮はその心に張充めし望を失ひてはたと領伏しぬ。 「豊、豊!」と老婢を呼ぶ声劇く縁続の子亭より聞ゆれば、直に走り行く足音の響きしが、やがて返し来れる老婢は客間に顕れぬ。宮は未だ頭を挙げずゐたり。可憐き束髪の頸元深く、黄蘖染の半衿に紋御召の二枚袷を重ねたる衣紋の綾先づ謂はんやう無く、肩状優う内俯したる脊に金茶地の東綴の帯高く、勝色裏の敷乱れつつ、白羽二重のハンカチイフに涙を掩へる指に赤く、白く指環の玉を耀したる、殆ど物語の画をも看るらん心地して、この美き人の身の上に何事の起りけると、豊は可恐きやうにも覚ゆるぞかし。 「あの、申上げますが、主人は病中の事でございますもので、唯今生憎と急に気分が悪くなりましたので、相済みませんで御座いますが中座を致しました。恐入りますで御座いますが、どうぞ今日はこれで御立帰を願ひますで御座います」  面を抑へたるままに宮は涙を啜りて、 「ああ、さやうで御座いますか」 「折角お出のところを誠にどうもお気毒さまで御座います」 「唯今些と支度を致しますから、もう少々置いて戴きますよ」 「さあさあ、貴方御遠慮無く御寛と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日はいつそお寒過ぎますで御座います」  彼の起ちし迹に宮は身支度を為るにもあらで、始て甦りたる人の唯在るが如くに打沈みてぞゐたる。やや久かるに客の起たんとする模様あらねば、老婢は又出来れり。宮はその時遽に身㕞して、 「それではお暇を致します。些と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方にお寝つてお在ですか……」 「はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……」 「いいえ、御挨拶だけ些と」 「さやうで御座いますか。では此方へ」  主の本意ならじとは念ひながら、老婢は止むを得ず彼を子亭に案内せり。昨夜の収めざる蓐の内に貫一は着のまま打仆れて、夜着も掻巻も裾の方に蹴放し、枕に辛うじてその端に幾度か置易られし頭を載せたり。  思ひも懸けず宮の入来るを見て、起回らんとせし彼の膝下に、早くも女の転び来て、立たんと為れば袂を執り、猶も犇と寄添ひて、物をも言はず泣伏したり。 「ええ、何の真似だ!」  突返さんとする男の手を、宮は両手に抱き緊めて、 「貫一さん!」 「何を為る、この恥不知!」 「私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし」 「ええ、聒い! ここを放さんか」 「貫一さん」 「放さんかと言ふに、ええ、もう!」  その身を楯に宮は放さじと争ひて益す放さず、両箇が顔は互に息の通はんとすばかり近く合ひぬ。一生又相見じと誓へるその人の顔の、おのれ眺めたりし色は疾く失せて、誰ゆゑ今の別に豔なるも、なほ形のみは変らずして、実にかの宮にして宮ならぬ宮と、吾は如何にしてここに逢へる! 貫一はその胸の夢むる間に現ともなく彼を矚れり。宮は殆ど情極りて、纔に狂せざるを得たるのみ。  彼は人の頭より大いなるダイアモンドを乞ふが為に、この貫一の手を把る手をば釈かざらん。大いなるダイアモンドか、幾許大いなるダイアモンドも、宮は人の心の最も小き誠に値せざるを既に知りぬ。彼の持たるダイアモンドはさせる大いなる者ならざれど、その棄去りし人の誠は量無きものなりしが、嗟乎、今何処に在りや。その嘗て誠を恵みし手は冷かに残れり。空くその手を抱きて泣かんが為に来れる宮が悔は、実に幾許大いなる者ならん。 「さあ、早く帰れ!」 「もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打つなり、殴くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小でも機嫌を直して、私のお詑に来た訳を聞いて下さい」 「ええ、煩い!」 「それぢや打つとも殴くともして……」  身悶して宮の縋るを、 「そんな事で俺の胸が霽れると思つてゐるか、殺しても慊らんのだ」 「ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから」 「自分で死ね!」  彼は自ら手を下して、この身を殺すさへ屑からずとまでに己を鄙むなるか、余に辛しと宮は唇を咬みぬ。 「死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見とも無い態を為ずに何為死ぬまで立派に棄て通さんのだ」 「私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません」 「そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!」 「帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません」  宮は男の手をば益す弛めず、益す激する心の中には、夫もあらず、世間もあらずなりて、唯この命を易ふる者を失はじと一向に思入るなり。  折から縁に足音するは、老婢の来るならんと、貫一は取られたる手を引放たんとすれど、こは如何、宮は些も弛めざるのみか、その容をだに改めんと為ず。果して足音は紙門の外に逼れり。 「これ、人が来る」 「…………」  宮は唯力を極めぬ。  不意にこの体を見たる老婢は、半啓けたる紙門の陰に顔引入れつつ、 「赤樫さんがお出になりまして御座います」  窮厄の色はつと貫一の面に上れり。 「ああ、今其方へ行くから。──さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか」 「ぢや私はここに待つてゐますから」 「知らん! もう放せと言つたら」  用捨もあらず宮は捻倒されて、落花の狼藉と起き敢へぬ間に貫一は出行く。 (六)の二  座敷外に脱ぎたる紫裏の吾妻コオトに目留めし満枝は、嘗て知らざりしその内曲の客を問はで止む能はざりき。又常に厚く恵るる老婢は、彼の為に始終の様子を告るの労を吝まざりしなり。さてはと推せし胸の内は瞋恚に燃えて、可憎き人の疾く出で来よかし、如何なる貌して我を見んと為らん、と焦心に待つ間のいとどしう久かりしに、貫一はなかなか出で来ずして、しかも子亭のほとほと人気もあらざらんやうに打鎮れるは、我に忍ぶかと、弥よ満枝は怺へかねて、 「お豊さん、もう一遍旦那様にさう申して来て下さいな、私今日は急ぎますから、些とお目に懸りたいと」 「でも、私は誠に参り難いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在のやうで御座いますから」 「かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの」 「ではさう申上げて参りますです」 「はあ」  老婢は行きて、紙門の外より、 「旦那さま、旦那さま」 「此方にお在は御座いませんよ」  かく答へしは客の声なり。豊は紙門を開きて、 「おや、さやうなので御座いますか」  実に主は在らずして、在るが如くその枕頭に坐れる客の、猶悲の残れる面に髪をば少し打乱し、左の袼の二寸ばかりも裂けたるままに姿も整はずゐたりしを、遽に引枢ひつつ、 「今し方其方へお出なすつたのですが……」 「おや、さやうなので御座いますか」 「那裡のお客様の方へお出なすつたのでは御座いませんか」 「いいえ、貴方、那裡のお客様が急ぐと有仰つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺へいらつしやいましたらう!」 「那裡にもゐらつしやいませんの!」 「さやうなので御座いますよ」  老婢はここを倉皇起ちて、満枝が前に、 「此方へもいらつしやいませんで御座いますか」 「何が」 「あの、那裡にもゐらつしやいませんので御座いますが」 「旦那様が? どうして」 「今し方這裡へ出てお在になつたのださうで御座います」 「嘘、嘘ですよ」 「いいえ、那裡にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……」 「嘘ですよ」 「いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません」 「だつて、此方へお出なさりは為ないぢやありませんか」 「ですから、まあ、何方へいらつしやつたのかと思ひまして……」 「那裡にきつと隠れてでもお在なのですよ」 「貴方、そんな事が御座いますものですか」 「どうだか知れはしません」 「はてね、まあ。お手水ですかしらん」  随処尋ねんとて彼は又倉皇起ちぬ。  有効無きこの侵辱に遭へる吾身は如何にせん、と満枝は無念の遣る方無さに色を変へながら、些も騒ぎ惑はずして、知りつつ食みし毒の験を耐へ忍びゐたらんやうに、得も謂れず窃に苦めり。宮はその人の遁れ去りしこそ頼の綱は切られしなれと、はや留るべき望も無く、まして立帰るべき力は有らで、罪の報は悲くも何時まで儚きこの身ならんと、打俯し、打仰ぎて、太息呴くのみ。  颯と空の昏み行く時、軒打つ雨は漸く密なり。  戸棚、押入の外捜さざる処もあらざりしに、終に主を見出さざる老婢は希有なる貌して又子亭に入来れり。 「何方にもゐらつしやいませんで御座いますが……」 「あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか」 「さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡にも這裡にもお客様を置去に作つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして」  彼は又満枝の許に急ぎ行きて、事の由を告げぬ。 「いいえ、貴方、私は見て参りましたので御座いますよ。子亭にゐらつしやりは致しません、それは大丈夫で御座います」  彼は遽に心着きて履物を検め来んとて起ちけるに、踵いで起てる満枝の庭前の縁に出づると見れば、傱々と行きて子亭の入口に顕れたり。  宮は何人の何の為に入来れるとも知らず、先づ愕きつつも彼を迎へて容を改めぬ。吾が恋人の恋人を拝まんとてここに来にける満枝の、意外にも敵の己より少く、己より美く、己より可憐く、己より貴きを見たる妬さ、憎さは、唯この者有りて可怜しさ故に、他の情も誠も彼は打忘るるよとあはれ、一念の力を剣とも成して、この場を去らず刺殺さまほしう、心は躍り襲り、躍り襲らんと為るなりけり。  宮は稍羞ひて、葉隠に咲遅れたる花の如く、夕月の涼う棟を離れたるやうに満枝は彼の前に進出でて、互に対面の礼せし後、 「始めましてお目に掛りますで御座いますが、間様の……御親戚? でゐらつしやいますで御座いますか」  憎き人をば一番苦めんの満枝が底意なり。 「はい親類筋の者で御座いまして」 「おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来お見上げ申しませんで御座いました」 「はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから」 「まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?」 「はい……広島の方に居りまして御座います」 「はあ、さやうで。唯今は何方に」 「池端に居ります」 「へえ、池端、お宜い処で御座いますね。然し、夙て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰るもので御座いますから、全くさうとばかり私信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作るので御座いますよ」  疑の雲は始て宮が胸に懸りぬ。父が甞て病院にて見し女の必ず訳有るべしと指せしはこれならん。さては客来と言ひしも詐にて、或は内縁の妻と定れる身の、吾を咎めて邪魔立せんとか、但は彼人のこれ見よとてここに引出せしかと、今更に差はざりし父が言を思ひて、宮は仇の為に病めるを笞たるるやうにも覚ゆるなり。いよいよ長く居るべきにあらぬ今日のこの場はこれまでと潔く座を起たんとしたりけれど、何処にか潜めゐる彼人の吾が還るを待ちて忽ち出で来て、この者と手を把り、面を並べて、可哀なる吾をば笑ひ罵りもやせんと想へば、得堪へず口惜くて、如何にせば可きと心苦く遅ひゐたり。 「お久しぶりで折角お出のところを、生憎と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些と遠方でございますから、お帰来の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛りとお出で遊ばしまして」 「大相長座を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました」 「いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう」 「はい、誠に残念でございます」 「さやうで御座いませうとも」 「四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日は一日遊んで参らうと楽に致してをりましたのを、実に残念で御座います」 「大きに」 「さやうなら私はお暇を致しませう」 「お帰来で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね」 「いいえ、幾多降りましたところが俥で御座いますから」  互に憎し、口惜しと鎬を削る心の刃を控へて、彼等は又相見ざるべしと念じつつ別れにけり。 第七章  家の内を隈無く尋ぬれども在らず、さては今にも何処よりか帰来んと待てど暮せど、姿を晦せし貫一は、我家ながらも身を容るる所無き苦紛れに、裏庭の木戸より傘も擎さで忍び出でけるなり。  されど唯一目散に脱れんとのみにて、卒に志す方もあらぬに、生憎降頻る雨をば、辛くも人の軒などに凌ぎつつ、足に任せて行くほどに、近頃思立ちて折節通へる碁会所の前に出でければ、ともかくも成らんとて、其処に躍入りけり。  客は三組ばかり、各静に窓前の竹の清韻を聴きて相対せる座敷の一間奥に、主は乾魚の如き親仁の黄なる髯を長く生したるが、兀然として独り盤を磨きゐる傍に通りて、彼は先づ濡れたる衣を炙らんと火鉢に寄りたり。  異み問はるるには能くも答へずして、貫一は余りに不思議なる今日の始末を、その余波は今も轟く胸の内に痛か思回して、又空く神は傷み、魂は驚くといへども、我や怒る可き、事や哀むべき、或は悲む可きか、恨む可きか、抑も喜ぶ可きか、慰む可きか、彼は全く自ら弁ぜず。五内渾て燃え、四肢直に氷らんと覚えて、名状すべからざる感情と煩悶とは新に来りて彼を襲へるなり。  主は貫一が全濡の姿よりも、更に可訝きその気色に目留めて、問はでも椿事の有りしを疑はざりき。ここまで身は遁れ来にけれど、なかなか心安からで、両人を置去に為し跡は如何、又我が為んやうは如何など、彼は打惑へり。沸くが如きその心の騒しさには似で、小暗き空に満てる雨声を破りて、三面の盤の鳴る石は断続して甚だ幽なり。主はこの時窓際の手合観に呼れたれば、貫一は独り残りて、未だ乾ぬ袂を翳しつつ、愈よ限無く惑ひゐたり。遽に人の騒立つるに愕きて顔を挙れば、座中尽く頸を延べて己が方を眺め、声々に臭しと喚はるに、見れば、吾が羽織の端は火中に落ちて黒煙を起つるなり。直に揉消せば人は静るとともに、彼もまた前の如し。  少頃有りて、門に入来し女の訪ふ声して、 「宅の旦那様はもしや這裡へいらつしやりは致しませんで為たらうか」  主は忽ち髯の頤を回して、 「ああ、奥にお在で御座いますよ」  豊かと差覗きたる貫一は、 「おお、傘を持つて来たのか」 「はい。此方にお在なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました」 「さうか。客は帰つたか」 「はい、疾にお帰になりまして御座います」 「四谷のも帰つたか」 「いいえ、是非お目に掛りたいと有仰いまして」 「居る?」 「はい」 「それぢや見付からんと言つて措け」 「ではお帰りに成りませんので?」 「も少し経つたら帰る」 「直にもうお中食で御座いますが」 「可いから早く行けよ」 「未だ旦那様は朝御飯も」 「可いと言ふに!」  老婢は傘と足駄とを置きて悄々還りぬ。  程無く貫一も焦げたる袂を垂れて出行けり。  彼はこの情緒の劇く紛乱せるに際して、可煩き満枝に夤らるる苦悩に堪へざるを思へば、その帰去らん後までは決して還らじと心を定めて、既に所在を知られたる碁会所を立出でしが、いよいよ指して行くべき方は有らず。はや正午と云ふに未だ朝の物さへ口に入れず、又半銭をも帯びずして、如何に為んとするにか有らん、猶降りに降る雨の中を茫々然として彷徨へり。  初夏の日は長かりけれど、纔に幾局の勝負を決せし盤の上には、殆ど惜き夢の間に昏れて、折から雨も霽れたれば、好者どもも終に碁子を歛めて、惣立に帰るをあたかも送らんとする主の忙々く燈ともす比なり、貫一の姿は始て我家の門に顕れぬ。  彼は内に入るより、 「飯を、飯を!」と婢を叱して、颯と奥の間の紙門を排けば、何ぞ図らん燈火の前に人の影在り。  彼は立てるままに目を瞪りつ。されど、その影は後向に居て動かんとも為ず。満枝は未だ往かざるか、と貫一は覚えず高く舌打したり。女は尚も殊更に見向かぬを、此方もわざと言を掛けずして子亭に入り、豊を呼びて衣を更へ、膳をも其処に取寄せしが、何とか為けん、必ず入来べき満枝の食事を了るまでも来ざるなりき。却りて仕合好しと、貫一は打労れたる身を暢かに、障子の月影に肱枕して、姑く喫烟に耽りたり。  敢て恋しとにはあらねど、苦しげに羸れたる宮が面影の幻は、頭を回れる一蚊の声の去らざらんやうに襲ひ来て、彼が切なる哀訴も従ひて憶出でらるれば、なほ往きかねて那辺に忍ばずやと、風の音にも幾度か頭を挙げし貫一は、婆娑として障子に揺るる竹の影を疑へり。  宮は何時までここに在らん、我は例の孤なり。思ふに、彼の悔いたるとは誠ならん、我の死を以て容さざるも誠なり。彼は悔いたり、我より容さば容さるべきを、さは容さずして堅く隔つる思も、又怪きまでに貫一は佗くて、その釈き難き怨に加ふるに、或種の哀に似たる者有るを感ずるなりき。いと淡き今宵の月の色こそ、その哀にも似たるやうに打眺めて、他の憎しとよりは転た自を悲しと思続けぬ。彼は竟に堪へかねたる気色にて障子を推啓れば、涼き空に懸れる片割月は真向に彼の面に照りて、彼の愁ふる眼は又痛かにその光を望めり。 「間さん」  居たるを忘れし人の可疎き声に見返れば、はや背後に坐れる満枝の、常は人を見るに必ず笑を帯びざる無き目の秋波も乾き、顔色などは殊に槁れて、などかくは浅ましきと、心陰に怪む貫一。 「ああ、未だ御在でしたか」 「はい、居りました。お午前から私お待ち申してをりました」 「ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも」 「急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか」  語気の卒に厲きを駭ける貫一は、空く女の顔を見遣るのみ。 「お悪いで御座いませう。お悪いのは私能く存じてをります。第一お待ち申してをりましたのよりは、今朝ほど私の参りましたのが、一層お悪いので御座いませう。飛だ御娯のお邪魔を致しまして、間さん、誠に私相済みませんで御座いました」  その眼色は怨の鋩を露して、男の面上を貫かんとやうに緊く見据ゑたり。  貫一は苦笑して、 「貴方は何を謊な事を言つてゐるのですか」 「今更お庾しなさるには及びませんさ。若い男と女が一間に入つて、取付き引付きして泣いたり笑つたりしてをれば、訳は大概知れてをるぢや御座いませんか。私あれに控へてをりまして、様子は大方存じてをります。七歳や八歳の子供ぢや御座いません、それ位の事は誰にだつて直に解りませうでは御座いませんか。  爾後貴方がお出掛になりますと私直にここのお座敷へ推掛けて参つて、あの御婦人にお目に掛りましたので御座います」  絮しと聞流せし貫一も、ここに到りて耳を欹てぬ。 「さうして色々お話を伺ひまして、お二人の中も私能く承知致しました。あの方も又有仰らなくても可ささうな事までお話を作いますので、それは随分聞難い事まで私伺ひました」  為失したりと貫一は密に術無き拳を握れり。満枝は猶も言足らで、 「然し、間さん、遉に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠に隠し通してゐらしつたお手際には私実に驚入つて一言も御座いません。能く凄いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう」 「もうつまらん事を……、貴方何ですか」 「お口ぢやさう有仰つても、実はお嬉いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋くてゐらつしやるのですかね」  されば我が出行きし迹をこそ案ぜしに、果してかかる孽は出で来にけり。由無き者の目には触れけるよ、と貫一はいと苦く心跼りつつ、物言ふも憂き唇を閉ぢて、唯月に打向へるを、女は此方より熟々と見透して目も放たず。 「間さん、貴方さう黙つてゐらつしやらんでも宜いでは御座いませんか。ああ云ふお美いのを御覧に成つた後では、私如き者には口をお利きに成るのもお可厭なのでゐらつしやいませう。私お察し申してをります。ですから私決して絮い事は申上げません。少し聞いて戴きたい事が御座いますのですから、庶かそれだけ言して下さいまし」  貫一は冷に目を転して、 「何なりと有仰い」 「私もう貴方を殺して了ひたい!」 「何です⁈」 「貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです」 「それも可いでせう。可いけれど何で私が貴方に殺されるのですか」 「間さん、貴方はその訳を御存無いと有仰るのですか、どの口で有仰るのですか」 「これは怪からん! 何ですと」 「怪からんとは、貴方も余りな事を有仰るでは御座いませんか」  既に恨み、既に瞋りし満枝の眼は、ここに到りて始て泣きぬ。いと有るまじく思掛けざりし貫一は寧ろ可恐しと念へり。 「貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措きません」 「貴方を何日私が憎みました。そんな事は有りません」 「では、何で怪からんなどと有仰います」 「怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決して貴方に殺される覚は無い」  満枝は口惜しげに頭を掉りて、 「有ります! 立派に有ると私信じてをります」 「貴方が独で信じても……」 「いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます」 「私を殺すと云ふのですか」 「随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし」 「はあ、承知しました」  いよいよ昇れる月に木草の影もをかしく、庭の風情は添りけれど、軒端なる芭蕉葉の露夥く夜気の侵すに堪へで、やをら内に入りたる貫一は、障子を閉てて燈を明うし、故に床の間の置時計を見遣りて、 「貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩くなるですから。ええ?」 「憚り様で御座います」 「いや、御注意を申すのです」 「その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので」 「ああ、さうですか」 「今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何ですか」  憎さげに言放ちて、彼は吾矢の立つを看んとやうに、姑く男の顔色を候ひしが、 「一体あれは何者なので御座います!」  犬にも非ず、猫にも非ず、汝に似たる者よと思ひけれど、言争はんは愚なりと勘弁して、彼は才に不快の色を作せしのみ。満枝は益す独り憤れて、 「旧いお馴染ださうで御座いますが、あの恰好は、商売人ではなし、万更の素人でもないやうな、貴方も余程不思議な物をお好み遊ばすでは御座いませんか。然し、間さん、あれは主有る花で御座いませう」  妄に言へるならんと念へど、如何にせん貫一が胸は陰に轟けるを。 「どうですか、なあ」 「さう云ふ者を対手に遊ばすと、別してお楽が深いとか申しますが、その代に罪も深いので御座いますよ。貴方が今日まで巧に隠し抜いてゐらしつた訳も、それで私能く解りました。こればかりは余り公に御自慢は出来ん事で御座いますもの、秘密に遊ばしますのは実に御尤で御座います。  その大事の秘密を、人も有らうに、貴方の嫌ひの嫌ひの大御嫌ひの私に知られたのは、どんなにかお心苦くゐらつしやいませう。私十分お察し申してをります。然し私に取りましては、これ程幸な事は無いので御座います。貴方が余り片意地に他を苦めてばかりゐらしつたから、今度は私から思ふ様これで苦めて上げるのです。さう思召してゐらつしやい!」  聞訖りたる貫一は吃々として窃笑せり。 「貴方は気でも違ひは為んですか」 「少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違には作すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣つて気が違つたのですから、元の正気に復してお還し下さいまし」  彼は擦寄り、擦寄りて貫一の身近に逼れり。浅ましく心苦かりけれど迯ぐべくもあらねば、臭き物に鼻を掩へる心地しつつ、貫一は身を側め側め居たり。満枝は猶も寄添はまほしき風情にて、 「就きましては、私一言貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁と有仰つてお聞せ下さいまし、宜う御座いますか」 「何ですか」 「なんですかでは可厭です、宜いと截然有仰つて下さい。さあ、さあ、貴方」 「けれども……」 「けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜いのですから」 「勿論答へます。それは当然の事ぢやないですか」 「それが当然でなく、極打明けて少しも裹まずに言つて戴きたいのですから」  善と貫一は頷きつ。 「では、きつと有仰つて下さいまし。間さん、貴方は私を憥い奴だと思召してゐらつしやるで御座いませう。私始終さう思ひながら、貴方の御迷惑もかまはずにやつぱりかうして附纏つてゐるのは、自分の口から箇様な事を申すのも、甚だ可笑いので御座いますけれど、私、実に貴方の事は片時でも忘れは致しませんのです。それは如何に思つてをりましたところが、元来私と云ふ者を嫌ひ抜いて御在なのですから、あの歌が御座いますね、行く水に数画くよりも儚きは、思はぬ人を思ふなりけりとか申す、実にその通り、行く水に数を画くやうな者で、私の願の愜ふ事は到底無いので御座いませう。もうさうと知りながら、それでも、間さん、私こればかりは諦められんので御座います。  こんな者に見込れて、さぞ御迷惑ではゐらつしやいませうけれども私がこれ程までに思つてゐると云ふ事は、貴方も御存でゐらつしやいませう。私が熱心に貴方の事を思つてゐると云ふ事で御座います、それはお了解に成つてゐるで御座いませう」 「さうですな……そりや或はさうかも知れませんけれど……」 「何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に憥がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を憥いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在のでは御座いませんか」 「それはさう謂へばそんなものです」 「貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう」 「さう」 「で、私従来に色々申上げた事が御座いましたけれど、些とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決して貴方の有仰るやうな道に外れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟貴方がそれを口実にして遁げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛な片意地なところもお有なすつて、色恋の事なんぞには貪着を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固なのを私歯痒いやうに存じてをつたので御座います……ところが!」  と言ひも敢へず煙管を取りて、彼は貫一の横膝をば或る念力強く痛か推したり。 「何を作るのです!」  払へば取直すその煙管にて、手とも云はず、膝とも云はず、当るを幸に満枝は又打ち被る。  こは何事と駭ける貫一は、身を避る暇もあらず三つ四つ撃れしが、遂に取つて抑へて両手を働かせじと為れば、内俯に引据ゑられたる満枝は、物をも言はで彼の股の辺に咬付いたり。怪からぬ女哉、と怒の余に手暴く捩放せば、なほ辛くも縋れるままに面を擦付けて咽泣に泣くなりき。  貫一は唯不思議の為体に呆れ惑ひて言も出でず、漸く泣ゐる彼を推斥けんと為たれど、膠の附きたるやうに取縋りつつ、益す泣いて泣いて止まず。涙の湿は単衣を透して、この難面き人の膚に沁みぬ。  捨置かば如何に募らんも知らずと、貫一は用捨無く〓(「(夕+匕)/手」)放して、起たんと為るを、彼は虚さず夤りて、又泣顔を擦付れば、怺へかねたる声を励す貫一、 「貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい」 「…………」 「さうして早くお帰りなさい」 「帰りません!」 「帰らん? 帰らんけりや宜い。もう明日からは貴方のここへ足蹈の出来んやうに為て了ふから、さうお思ひなさい」 「私死んでも参ります!」 「今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます」  満枝は始て涙に沾へる目を挙げたり。 「はあ、お話し下さい」 「…………」 「赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います」  貫一は歯を鳴して急上げたり。 「貴方は……実に……驚入つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか」 「間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか」 「怪からん!」  彼は憎き女の頬桁をば撃つて撃つて打割る能はざるを憾と為なるべし。 「定てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決してさやうでは御座いませんです」 「そんなら何ですか」 「往日もお話致しましたが、金力で無理に私を奪つて、遂にこんな体にして了つた、謂はば私の讐も同然なので。成程人は夫婦とも申しませうが私の気では何とも思つてをりは致しません。さうですから、自分の好いた方に惚れて騒ぐ分は、一向差支の無い独身も同じので御座います。  間さん、どうぞ赤樫にお会ひ遊ばしたら、満枝の奴が惚れてゐて為方が無いから、内の御膳炊に貰つて遣るから、さう思へと、貴方が有仰つて下さいまし。私豊の手伝でも致して、此方に一生奉公を致します。  貴方は大方赤樫に言ふと有仰つたら、震へ上つて私が怖がりでも為ると思召すのでせうが、私驚きも恐れも致しません、寧ろ勝手なのですけれど、赤樫がそれは途方に昧れるで御座いませう」  貫一はほとほと答ふるところを知らず。満枝も然こそは呆れつらんと思へば、 「それは実際で御座いますの。若し話が一つ間違つて、面倒な事でも生じましたら、私が困りますよりは余程赤樫の方が困るのは知れてゐるのですから、私を遠けやう為に、お話をなさるのなら、徒爾な事で御座います。赤樫は私を恐れてをりませうとも、私些ともあの人を恐れてはをりませんです。けれども、折角さう思召すものなら、物は試で御座いますから、間さん、貴方、赤樫にお話し遊ばして御覧なさいましな。  私も貴方の事を吹聴致します。ああ云ふ主有る婦人と関係遊ばして、始終人目を忍んで逢引してゐらつしやる事を触散しますから、それで何方が余計迷惑するか、比較事を致しませう。如何で御座います」 「男勝りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ」 「何で御座います?」 「お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直ちに逢引ですか。又妙齢の女でさへあれば、必ず主有るに極つてゐるのですか。浅膚な邪推とは言ひながら、人を誣ふるも太甚い! 失敬千万な、気を着けて口をお利きなさい」 「間さん、貴方、些と此方をお向きなさい」  手を取りて引けば、振釈き、 「ええ、もう貴方は」 「お憥いでせう」 「勿論」 「私向後もつと、もつともつと憥くして上げるのです。さあ、貴方、今何と有仰つたので御座います、浅膚な邪推ですつて? 貴方こそも少し気を着けてお口をお利き遊ばせな、貴方も男子でゐらつしやるなら、何為立派に、その通だ。情婦が有るのがどうしたと、かう打付けて有仰らんのです。間さん、私貴方に向つてそんな事をかれこれ申す権利は無い女なので御座いますよ。幾多さう云ふ権利を有ちたくても、有つ事が出来ずにゐるので御座います。それに、何も私の前を憚つて、さう向に成つてお隠し遊ばすには当らんでは御座いませんか。  私実を申しませうか、箇様なので御座います。貴方が余所外に未だ何百人愛してゐらつしやる方が有りませうとも、それで愛相を尽して、貴方の事を思切るやうな、私そんな浮気な了簡ではないのです。又貴方の御迷惑に成る秘密を洩しましたところで、愜はない願が愜ふ訳ではないので御座いませう。どう思召してゐらつしやるか存じませんけれど、私それ程卑怯な女ではない積で御座います。  世間へ吹聴して貴方を困らせるなどと申したのは、あれは些のその場の憎まれ口で、私決してそんな心は微塵も無いので御座いますから、どうかそのお積で、お心持を悪く遊ばしませんやうに。つい口が過ぎましたのですから、御勘弁遊ばしまして。私この通お詫を致します」  満枝は惜まず身を下して、彼の前に頭を低ぐる可憐しさよ。貫一は如何にとも為る能はずして、窃に首を掻いたり。 「就きましては、私今から改めて折入つた御願が有るので御座いますが貴方も従来の貴方ではなしに、十分人情を解してゐらつしやる間さんとして宣告を下して戴きたいので御座います。そのお辞次第で、私もう断然何方に致しても了簡を極めて了ひますですから、間さん、貴方も庶か歯に衣を着せずに、お心に在る通りをそのまま有仰つて下さいまし。宜う御座いますか。  今更新く申上げませんでも、私の心は奥底まで見通しに貴方は御存でゐらつしやるのです。従来も随分絮く申上げましたけれど、貴方は一図に私をお嫌ひ遊ばして、些でも私の申す事は取上げては下さらんのです──さやうで御座いませう。貴方からそんなに嫌はれてゐるのですから、私もさう何時まで好い耻を掻かずとも、早く立派に断念して了へば宜いのです。私さう申すと何で御座いますけれど、これでも女子にしては極未練の無い方で、手短に一か八か決して了ふ側なので御座います。それがこの事ばかりは実に我ながら何為かう意気地が無からうと思ふ程、……これが迷つたと申すので御座いませう。自分では物に迷つた事と云ふは無い積の私、それが貴方の事ばかりには全く迷ひました。  ですから、唯その胸の中だけを貴方に汲んで戴けば、私それで本望なので御座います。これ程に執心致してをる者を、徹頭徹尾貴方がお嫌ひ遊ばすと云ふのは、能く能くの因果で、究竟貴方と私とは性が合はんので御座いませうから、それはもう致方も有りませんが、そんなに為れてまでもやつぱりかうして慕つてゐるとは、如何にも不敏な者だと、設ひその当人はお気に召しませんでも、その心情はお察し遊ばしても宜いでは御座いませんか。決してそれをお察し遊ばす事の出来ない貴方ではないと云ふ事は、私今朝の事実で十分確めてをります。  御自分が恋く思召すのも、人が恋いのも、恋いに差は無いで御座いませう。増して、貴方、片思に思つてゐる者の心の中はどんなに切ないでせうか、間さん、私貴方を殺して了ひたいと申したのは無理で御座いますか。こんな不束な者でも、同じに生れた人間一人が、貴方の為には全で奴隷のやうに成つて、しかも今貴方のお辞を一言聞きさへ致せば、それで死んでも惜くないとまでも思込んでゐるので御座います。其処をお考へ遊ばしたら、如何に好かん奴であらうとも、雫ぐらゐの情は懸けて遣らう、と御不承が出来さうな者では御座いませんか。  私もさう御迷惑に成る事は望みませんです、せめて満足致されるほどのお辞を、唯一言で宜いのですから、今までのお馴染効にどうぞ間さん、それだけお聞せ下さいまし」  終に近く益す顫へる声は、竟に平生の調をさへ失ひて聞えぬ。彼は正くその一言の為には幾千円の公正証書を挙げて反古に為んも、なかなか吝からぬ気色を帯びて逼れり。息は凝り、面は打蒼みて、その袖よりは劒を出さんか、その心よりは笑を出さんか、と胸跳らせて片時も苦く待つなりき。  切なりと謂はば実に極めて切なる、可憐しと謂はば又極めて可憐き彼の心の程は、貫一もいと善く知れれど、他の己を愛するの故を以て直ちに蛇蝎に親まんや、と却りてその執念をば難堪く浅ましと思へるなり。  されど又情として厲く言ふを得ざるこの場の仕儀なり。貫一は打悩める眉を強て披かせつつ、 「さうして貴方が満足するやうな一言?……どう云ふ事を言つたら可いのですか」 「貴方もまあ何を有仰つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか」 「それはさうですけれど、私にも解らんから」 「解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上を有仰らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ」 「いや、それなら解つてゐます……」 「解つてゐらつしやるなら些と有仰つて下さいましな」 「それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ」 「まあ何でも宜う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし」 「だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか」 「私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います」 「貴方の思召は実に難有いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません」 「間さん、きつとで御座いますか、貴方」 「勿論です」 「きつとで御座いますね」 「相違ありません!」 「きつと?」 「ええ!」 「その証拠をお見せ下さいまし」 「証拠を?」 「はあ。口頭ばかりでは私可厭で御座います。貴方もあれ程確に有仰つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか」 「みせられる者なら見せますけれど」 「見せて下さいますか」 「見せられる者なら。然し……」 「いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……」  驚破、障子を推開きて、貫一は露けき庭に躍り下りぬ。つとその迹に顕れたる満枝の面は、斜に葉越の月の冷き影を帯びながらなほ火の如く燃えに燃えたり。 第八章  家の内には己と老婢との外に、今客も在らざるに、女の泣く声、詬る声の聞ゆるは甚だ謂無し、我或は夢むるにあらずやと疑ひつつ、貫一は枕せる頭を擡げて耳を澄せり。  その声は急に噪く、相争ふ気勢さへして、はたはたと紙門を犇かすは、愈よ怪しと夜着排却けて起ち行かんとする時、ばつさり紙門の倒るると斉く、二人の女の姿は貫一が目前に転び出でぬ。  苛まれしと見ゆる方の髪は浮藻の如く乱れて、着たるコートは雫するばかり雨に濡れたり。その人は起上り様に男の顔を見て、嬉しや、可懐しやと心も空なる気色。 「貫一さん」と匐ひ寄らんとするを、薄色魚子の羽織着て、夜会結に為たる後姿の女は躍り被つて引据れば、 「あれ、貫、貫一さん!」  拯を求むるその声に、貫一は身も消入るやうに覚えたり。彼は念頭を去らざりし宮ならずや。七生までその願は聴かじと郤けたる満枝の、我の辛さを彼に移して、先の程より打ちも詬りもしたりけんを、猶慊らで我が前に責むるかと、貫一は怺へかねて顫ひゐたり。満枝は縦まに宮を据へて些も動かせず、徐に貫一を見返りて、 「間さん、貴方のお大事の恋人と云ふのはこれで御座いませう」  頸髪取つて宮が面を引立てて、 「この女で御座いませう」 「貫一さん、私は悔う御座んす。この人は貴方の奥さんですか」 「私奥さんならどうしたのですか」 「貫一さん!」  彼は足擦して叫びぬ。満枝は直ちに推伏せて、 「ええ、聒い! 貫一さんは其処に一人居たら沢山ではありませんか。貴方より私が間さんには言ふ事が有るのですから、少し静にして聴いてお在なさい。  間さん、私想ふのですね、究竟かう云ふ女が貴方に腐れ付いてゐればこそ、どんなに申しても私の言は取上げては下さらんので御座いませう。貴方はそんなに未練がお有り遊ばしても、元この女は貴方を棄てて、余所へ嫁に入つて了つたやうな、実に畜生にも劣つた薄情者なのでは御座いませんか。──私善く存じてゐますわ。貴方も余り男らしくなくてお在なさる。それは如何にお可愛いのか存じませんけれど、一旦愛相を尽して迯げて行つた女を、いつまでも思込んで遅々してゐらつしやるとは、まあ何たる不見識な事でせう! 貴方はそれでも男子ですか。私ならこんな女は一息に刺殺して了ふのです」  宮は跂返さんと為しが、又抑へられて声も立てず。 「間さん、貴方、私の申上げた事をば、やあ道ならぬの、不義のと、実に立派な口上を有仰いましたでは御座いませんか、それ程義のお堅い貴方なら、何為こんな淫乱の人非人を阿容活けてお置き遊ばすのですか。それでは私への口上に対しても、貴方男子の一分が立たんで御座いませう。何為成敗は遊ばしません。さあ、私決してもう二度と貴方には何も申しませんから、貴方もこの女を見事に成敗遊ばしまし。さもなければ、私も立ちませんです。  間さん、どう遊ばしたので御座いますね、早く何とか遊ばして、貴方も男子の一分をお立てなさらんければ済まんところでは御座いませんか。私ここで拝見致してをりますから、立派に遣つて御覧あそばせ。卒と云ふ場で貴方の腕が鈍つても、決して為損じの無いやうに、私好い刃物をお貸し申しませう。さあ、間さん、これをお持ち遊ばせ」  彼の懐を出でたるは蝋塗の晃く一口の短刀なり。貫一はその殺気に撲れて一指をも得動かさず、空く眼を輝して満枝の面を睨みたり。宮ははや気死せるか、推伏せられたるままに声も無し。 「さあ、私かうして抑へてをりますから、吭なり胸なり、ぐつと一突に遣つてお了ひ遊ばせ。ええ、もう貴方は何を遅々してゐらつしやるのです。刀の持様さへ御存じ無いのですか、かうして抜いて!」  と片手ながらに一揮揮れば、鞘は発矢と飛散つて、電光袂を廻る白刃の影は、忽ち飜つて貫一が面上三寸の処に落来れり。 「これで突けば可いのです」 「…………」 「さては貴方はこんな女に未だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些と御覧あそばせな」  言下に勿焉と消えし刃の光は、早くも宮が乱鬢を掠めて顕れぬ。啊呀と貫一の号ぶ時、妙くも彼は跂起きざまに突来る鋩を危く外して、 「あれ、貫一さん!」  と満枝の手首に縋れるまま、一心不乱の力を極めて捩伏せ捩伏せ、仰様に推重りて仆したり。 「貫、貫一さん、早く、早くこの刀を取つて下さい。さうして私を殺して下さい──貴方の手に掛けて殺して下さい。私は貴方の手に掛つて死ぬのは本望です。さあ、早く殺して、私は早く死にたい。貴方の手に掛つて死にたいのですから、後生だから一思に殺して下さい!」  この恐るべき危機に瀕して、貫一は謂知らず自ら異くも、敢て拯の手を藉さんと為るにもあらで、しかも見るには堪へずして、空く悶えに悶えゐたり。必死と争へる両箇が手中の刃は、或は高く、或は低く、右に左に閃々として、あたかも一鉤の新月白く風の柳を縫ふに似たり。 「貫一さん、貴方は私を見殺になさるのですか。どうでもこの女の手に掛けて殺すのですか! 私は命は惜くはないが、この女に殺されるのは悔い! 悔い‼ 私は悔い‼」  彼は乱せる髪を夜叉の如く打振り打振り、五体を揉みて、唇の血を噴きぬ。彼も殺さじ、これも傷けじと、貫一が胸は車輪の廻るが若くなれど、如何にせん、その身は内より不思議の力に緊縛せられたるやうにて、逸れど、躁れど、寸分の微揺を得ず、せめては声を立てんと為れば、吭は又塞りて、銕丸を啣める想。  力も今は絶々に、はや危しと宮は血声を揚げて、 「貴方が殺して下さらなければ、私は自害して死にますから、貫一さん、この刀を取つて、私の手に持せて下さい。さ、早く、貫一さん、後生です、さ、さ、さあ取つて下さい」  又激く捩合ふ郤含に、短刀は戞然と落ちて、貫一が前なる畳に突立つたり。宮は虚さず躍り被りて、我物得つと手に為れば、遣らじと満枝の組付くを、推隔つる腋の下より後突に、𣠽も透れと刺したる急所、一声号びて仰反る満枝。鮮血! 兇器! 殺傷! 死体! 乱心! 重罪! 貫一は目も眩れ、心も消ゆるばかりなり。宮は犇と寄添ひて、 「もうこの上はどうで私は無い命です。お願ですから、貫一さん、貴方の手に掛けて殺して下さい。私はそれで貴方に赦された積で喜んで死にますから。貴方もどうぞそれでもう堪忍して、今までの恨は霽して下さいまし、よう、貫一さん。私がこんなに思つて死んだ後までも、貴方が堪忍して下さらなければ、私は生替死替して七生まで貫一さんを怨みますよ。さあ、それだから私の迷はないやうに、貴方の口からお念仏を唱へて、これで一思ひに、さあ貫一さん、殺して下さい」  朱に染みたる白刃をば貫一が手に持添へつつ、宮はその可懐き拳に頻回頬擦したり。 「私はこれで死んで了へば、もう二度とこの世でお目に掛ることは無いのですから、せめて一遍の回向をして下さると思つて、今はの際で唯一言赦して遣ると有仰つて下さい。生きてゐる内こそどんなにも憎くお思ひでせうけれど、死んで了へばそれつきり、罪も恨も残らず消えて土に成つて了ふのです。私はかうして前非を後悔して、貴方の前で潔く命を捨てるのも、その御詑が為たいばかりなのですから、貫一さん、既往の事は水に流して、もう好い加減に堪忍して下さいまし。よう、貫一さん、貫一さん!  今思へばあの時の不心得が実に悔くて悔くて、私は何とも謂ひやうが無い! 貴方が涙を零して言つて下すつた事も覚えてゐます。後来きつと思中るから、今夜の事を忘れるなとお言ひの声も、今だに耳に付いてゐるわ。私の一図の迷とは謂ひながら何為あの時に些少でも気が着かなかつたか。愚な自分を責めるより外は無いけれど、死んでもこんな回復の付かない事を何で私は為ましたらう! 貫一さん、貴方の罰が中つたわ! 私は生きてゐる空が無い程、貴方の罰が中つたのだわ! だから、もうこれで堪忍して下さい。よ、貫一さん。  さうしてとてもこの罰の中つた躯では、今更どうかうと思つても、願なんぞの愜ふと云ふのは愚な事、未だ未だ憂目を見た上に思死に死にでも為なければ、私の業は滅しないのでせうから、この世に未練は沢山有るけれど、私は早く死んで、この苦艱を埋めて了つて、さうして早く元の浄い躯に生れ替つて来たいのです。さう為たら、私は今度の世には、どんな艱難辛苦を為ても、きつと貴方に添遂げて、この胸に一杯思つてゐる事もすつかり善く聴いて戴き、又この世で為遺した事もその時は十分為てお目に掛けて、必ず貴方にも悦ばれ、自分も嬉い思を為て、この上も無い楽い一生を送る気です。今度の世には、貫一さん、私は決してあんな不心得は為ませんから、貴方も私の事を忘れずにゐて下さい。可うござんすか! きつと忘れずにゐて下さいよ。  人は最期の一念で生を引くと云ふから、私はこの事ばかり思窮めて死にます。貫一さん、この通だから堪忍して!」  声震はせて縋ると見れば、宮は男の膝の上なる鋩目掛けて岸破と伏したり。 「や、行つたな!」  貫一が胸は劈けて始てこの声を出せるなり。 「貫一さん!」  無残やな、振仰ぐ宮が喉は血に塗れて、刃の半を貫けるなり。彼はその手を放たで苦き眼を睜きつつ、男の顔を視んと為るを、貫一は気も漫に引抱へて、 「これ宮、貴様は、まあこれは何事だ!」  大事の刃を抜取らんと為れど、一念凝りて些も弛めぬ女の力。 「これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為放さんのだ」 「貫、貫一さん」 「おお、何だ」 「私は嬉い。もう……もう思遺す事は無い。堪忍して下すつたのですね」 「まあ、この手を放せ」 「放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!」  血は滾々と益す流れて、末期の影は次第に黯く逼れる気色。貫一は見るにも堪へず心乱れて、 「これ、宮、確乎しろよ」 「あい」 「赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!」 「貫一さん!」 「宮!」 「嬉い! 私は嬉い!」  貫一は唯胸も張裂けぬ可く覚えて、言は出でず、抱き緊めたる宮が顔をば紛り下つる熱湯の涙に浸して、その冷たき唇を貪り吮ひぬ。宮は男の唾を口移に辛くも喉を潤して、 「それなら貫一さん、私は、吁、苦いから、もうこれで一思ひに……」  と力を出して刳らんと為るを、緊と抑へて貫一は、 「待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ」 「いいえ、止めずに」 「待てと言ふに」 「早く死にたい!」  漸く刀を捥放せば、宮は忽ち身を回して、輾けつ転びつ座敷の外に脱れ出づるを、 「宮、何処へ行く!」  遣らじと伸べし腕は逮ばず、苛つて起ちし貫一は唯一掴と躍り被れば、生憎満枝が死骸に躓き、一間ばかり投げられたる其処の敷居に膝頭を砕けんばかり強く打れて、踣りしままに起きも得ず、身を竦めて呻きながらも、 「宮、待て! 言ふことが有るから待て! 豊、豊! 豊は居ないか。早く追掛けて宮を留めろ!」  呼べど号べど、宮は返らず、老婢は居らず、貫一は阿修羅の如く憤りて起ちしが、又仆れぬ。仆れしを漸く起回りて、忙々く四下を眴せど、はや宮の影は在らず。その歩々に委せし血は苧環の糸を曳きたるやうに長く連りて、畳より縁に、縁より庭に、庭より外に何処まで、彼は重傷を負ひて行くならん。  磐石を曳くより苦く貫一は膝の疼痛を怺へ怺へて、とにもかくにも塀外に踽ひ出づれば、宮は未だ遠くも行かず、有明の月冷かに夜は水の若く白みて、ほのぼのと狭霧罩めたる大路の寂として物の影無き辺を、唯独り覚束無げに走れるなり。 「宮! 待て!」  呼べば谺は返せども、雲は幽にして彼は応へず。歯咬を作して貫一は後を追ひぬ。  固より間は幾許も有らざるに、急所の血を出せる女の足取、引捉ふるに何程の事有らんと、侮りしに相違して、彼は始の如く走るに引易へ、此方は漸く息疲るるに及べども、距離は竟に依然として近く能はず。こは口惜し、と貫一は満身の力を励し、僵るるならば僵れよと無二無三に走りたり。宮は猶脱るるほどに、帯は忽ち颯と釈けて脚に絡ふを、右に左に踢払ひつつ、跌きては進み、行きては踉き、彼もはや力は竭きたりと見えながら、如何に為ん、其処に伏して復起きざる時、躬も終に及ばずして此処に絶入せんと思へば、貫一は今に当りて纔に声を揚ぐるの術を余すのみ。 「宮!」と奮つて呼びしかど、憫むべし、その声は苦き喘の如き者なりき。我と吾肉を啖はんと想ふばかりに躁れども、貫一は既に声を立つべき力をさへ失へるなり。さては効無き己に憤を作して、益す休まず狂呼すれば、彼の吭は終に破れて、汨然として一涌の鮮紅を嘔出せり。心晦みて覚えず倒れんとする耳元に、松風驀然と吹起りて、吾に復れば、眼前の御壕端。只看る、宮は行き行きて生茂る柳の暗きに分入りたる、入水の覚悟に極れりと、貫一は必死の声を搾りて連に呼べば、咳入り咳入り数口の咯血、斑爛として地に委ちたり。何思ひけん、宮は千条の緑の陰より、その色よりは稍白き面を露して、追来る人を熟と見たりしが、竟に疲れて起きも得ざる貫一の、唯手を抗げて遙に留むるを、免し給へと伏拝みて、つと茂の中に隠れたり。  彼は己の死ぬべきを忘れて又起てり。駈寄る岸の柳を潜りて、水は深きか、宮は何処に、と葎の露に踏滑る身を危くも淵に臨めば、鞺鞳と瀉ぐ早瀬の水は、駭く浪の体を尽し、乱るる流の文を捲いて、眼下に幾個の怪き大石、かの鰲背を聚めて丘の如く、その勢を拒がんと為れど、触るれば払ひ、当れば飜り、長波の邁くところ滔々として破らざる為き奮迅の力は、両岸も為に震ひ、坤軸も為に轟き、蹈居る土も今にや崩れなんと疑ふところ、衣袂の雨濃に灑ぎ、鬢髪の風転た急なり。  あな凄じ、と貫一は身毛も弥竪ちて、縋れる枝を放ちかねつつ、看れば、叢の底に秋蛇の行くに似たる径有りて、ほとほと逆落に懸崖を下るべし。危き哉と差覗けば、茅葛の頻に動きて、小笹棘に見えつ隠れつ段々と辷り行くは、求むる宮なり。  その死を止めんの一念より他あらぬ貫一なれば、かくと見るより心も空に、足は地を踏む遑もあらず、唯遅れじと思ふばかりよ、壑間の嵐の誘ふに委せて、驀直に身を堕せり。  或は摧けて死ぬべかりしを、恙無きこそ天の佑と、彼は数歩の内に宮を追ひしが、流に浸れる巌を渉りて、既に渦巻く滝津瀬に生憎! 花は散りかかるを、 「宮!」  と後に呼ぶ声残りて、前には人の影も在らず。  咄嗟の遅を天に叫び、地に号き、流に悶え、巌に狂へる貫一は、血走る眼に水を射て、此処や彼処と恋き水屑を覓むれば、正く浮木芥の類とも見えざる物の、十間ばかり彼方を揉みに揉んで、波間隠に推流さるるは、人ならず哉、宮なるかと瞳を定むる折しもあれ、水勢其処に一段急なり、在りける影は弦を放れし箭飛を作して、行方も知らずと胸潰るれば、忽ち遠く浮き出でたり。  嬉しやと貫一は、道無き道の木を攀ぢ、崖を伝ひ、或は下りて水を踰え、石を躡み、巌を廻り、心地死ぬべく踉蹌として近き見れば、緑樹蔭愁ひ、潺湲声咽びて、浅瀬に繋れる宮が骸よ!  貫一は唯その上に泣伏したり。  吁、宮は生前に於て纔に一刻の前なる生前に於て、この情の熱き一滴を幾許かは忝なみけん。今や千行垂るといへども効無き涙は、徒に無心の死顔に濺ぎて宮の魂は知らざるなり。  貫一の悲は窮りぬ。 「宮、貴様は死……死……死んだのか。自殺を為るさへ可哀なのに、この浅ましい姿はどうだ。  刃に貫き、水に溺れ、貴様はこれで苦くはなかつたか。可愛い奴め、思迫めたなあ!  宮、貴様は自殺を為た上身を投げたのは、一つの死では慊らずに、二つ命を捨てた気か。さう思つて俺は不敏だ!  どんな事が有らうとも、貴様に対するあの恨は決して忘れんと誓つたのだ。誓つたけれども、この無残な死状を見ては、罪も恨も皆消えた! 赦したぞ、宮! 俺は心の底から赦したぞ!  今はの際に赦したと、俺が一言云つたらば、あの苦い息の下から嬉いと言つたが、宮、貴様は俺に赦されるのがそんなに嬉いのか。好く後悔した! 立派な悔悟だぞ‼  余り立派で、貫一は恥入つた! 宮、俺は面目無い! これまでの精神とは知らずに見殺に為たのは残念だつた! 俺が過だ! 宮、赦してくれよ! 可いか、宮、可いか。  嗚呼死んで了つたのだ!!!」  貫一は彼の死の余りに酷く、余りに潔きを見て、不貞の血は既に尽く沃がれ、旧悪の膚は全く洗れて、残れる者は、悔の為に、誠の為に、己の為に捨てたる亡骸の、実に憐みても憐むべく、悲みても猶及ばざる思の、今は唯極めて切なる有るのみ。  かの烈々たる怨念の跡無く消ゆるとともに、一旦涸れにし愛慕の情は又泉の涌くらんやうに起りて、その胸に漲りぬ。苦からず哉、人亡き後の愛慕は、何の思かこれに似る者あらん。彼はなかなか生ける人にこそ如何なる恨をも繋くるの忍び易きを今ぞ知るなる。  貫一は腸断ち涙連りて、我を我とも覚ゆる能はず。 「宮、貴様に手向けるのは、俺のこの胸の中だ。これで成仏してくれ、よ。この世の事はこれまでだ、その代り今度の世には、貴様の言つた通り、必ず夫婦に成つて、百歳までも添、添、添遂げるぞ! 忘れるな、宮。俺も忘れん! 貴様もきつと覚えてゐろよ!」  氷の如き宮が手を取り、犇と握りて、永く眠れる面を覗かんと為れば、涙急にして文色も分かず、推重りて、怜しやと身を悶えつつ少時泣いたり。 「然し、宮、貴様は立派な者だ。一び罪を犯しても、かうして悔悟して自殺を為たのは、実に見上げた精神だ。さうなけりや成らん、天晴だぞ。それでこそ始て人間たるの面目が立つのだ。  然るに、この貫一はどうか! 一端男と生れながら、高が一婦の愛を失つたが為に、志を挫いて一生を誤り、餓鬼の如き振舞を為て恥とも思はず、非道を働いて暴利を貪るの外は何も知らん。その財は何に成るのか、何の為にそんな事を為るのか。  凡そ人と謂ふ者には、人として必ず尽すべき道が有る。己と云ふ者の外に人の道と云ふ者が有るのだ。俺はその道を尽してゐるか、尽さうと為てゐるか、思つた女と添ふ事が出来ん。唯それだけの事に失望して了つて、その失望の為に、苟くも男と生れた一生を抛たうと云ふのだ。人たるの効は何処に在る、人たる道はどうしたのか。  噫、誤つた!  宮、貴様が俺に対して悔悟するならば、俺は人たるの道に対して悔悟しなけりや済まん躯だ。貴様がかうして立派に悔悟したのを見て、俺は実に愧入りも為りや、可羨くもある。当初貴様に棄てられた為に、かう云ふ堕落をした貫一ならば、貴様の悔悟と共に俺も速かに心を悛めて、人たるの道に負ふところのこの罪を贖はなけりや成らん訳だ。  嗟乎、然し、何に就けても苦い世の中だ!  人間の道は道、義務は義務、楽は又楽で、それも無けりや立たん。俺も鴫沢に居て宮を対手に勉強してをつた時分は、この人世と云ふ者は唯面白い夢のやうに考へてゐた。  あれが浮世なのか、これが浮世なのか。  爾来、今日までの六年間、人らしい思を為た日は唯の一日でも無かつた。それで何が頼で俺は活きてゐたのか。死を決する勇気が無いので活きてゐたやうなものだ! 活きてゐたのではない、死損つてゐたのだ‼  鰐淵は焚死に、宮は自殺した、俺はどう為るのか。俺のこの感情の強いのでは、又向来宮のこの死顔が始終目に着いて、一生悲い思を為なければ成らんのだらう。して見りや、今までよりは一層苦を受けるのは知れてゐる。その中で俺は活きてゐて何を為るのか。  人たるの道を尽す? 人たるの行を為る? ああ、憥い、憥い! 人としてをればこそそんな義務も有る、人でなくさへあれば、何も要らんのだ。自殺して命を捨てるのは、一の罪悪だと謂ふ。或は罪悪かも知れん。けれども、茫々然と呼吸してゐるばかりで、世間に対しては何等の益するところも無く、自身に取つてはそれが苦痛であるとしたら、自殺も一種の身始末だ。増して、俺が今死ねば、忽ち何十人の人が助り、何百人の人が懽ぶか知れん。  俺も一箇の女故に身を誤つたその余が、盗人家業の高利貸とまで堕落してこれでやみやみ死んで了ふのは、余り無念とは思ふけれど、当初に出損つたのが一生の不覚、あれが抑も不運の貫一の躯は、もう一遍鍛直して出て来るより外為方が無い。この世の無念はその時霽す!」  さしも遣る方無く悲めりし貫一は、その悲を立ろに抜くべき術を今覚れり。看々涙の頬の乾ける辺に、異く昂れる気有りて青く耀きぬ。 「宮、待つてゐろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉いから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世で二人が夫婦に成る、これが結納だと思つて、幾久く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ」  さらば往きて汝の陥りし淵に沈まん。沈まば諸共と、彼は宮が屍を引起して背に負へば、その軽きこと一片の紙に等し。怪しと見返れば、更に怪し! 芳芬鼻を撲ちて、一朶の白百合大さ人面の若きが、満開の葩を垂れて肩に懸れり。  不思議に愕くと為れば目覚めぬ。覚むれば暁の夢なり。 続続金色夜叉 第一章  貫一が胸は益苦く成り愈りぬ。彼を念ひ、これを思ふに、生きて在るべき心地はせで、寧ろかの怪き夢の如く成りなんを、快からずやと疑へるなり。  彼は空く万事を抛ちて、懊憹の間に三日ばかりを過しぬ。  これを語らんに人無く、愬へんには友無く、しかも自ら拯ふべき道は有りや。有りとも覚えず、無しとは知れど、煩ふ者の煩ひ、悩む者の悩みて縦まなるを如何にせん。彼は実にこの昏迷乱擾せる一根の悪障を抉去りて、猛火に燬かんことを冀へり。その時彼は死ぬべきなり。生か、死か。貫一の苦悶は漸く急にして、終にこの問題の前に首を垂るるに至れり。  値無き吾が生存は、又同く値無き死亡を以つて畢へしむべき者か。悔に堪へざる吾が生の値無かりしを結ばんには、これを償ふに足る可き死を以て為ざる可からざるか、或は、ここに過多き半生の最期を遂げて、新に他の値ある後半の復活を明日に計るべきか。  彼は強ちに死を避けず、又生を厭ふにもあらざれど、両ながらその値無きを、私に屑しと為ざるなり。当面の苦は彼に死を勧め、半生の悔は耻を責めて仮さず。苦を抜かんが為に、我は値無き死を辞せざるべきか、過を償はんが為に、我は楽まざる生を忍ぶべきか。碌々の生は易し、死は即ち難し。碌々の死は易し、生は則ち難し。我は悔いて人と成るべきか、死してその愚を完うすべきか。  貫一は活を求めて得ず、死を覓めて得ず、居れば立つを念ひ、立てば臥すを想ひ、臥せば行くを懐ひ、寐ぬれば覚め、覚むれば思ひて、夜もあらず、日もあらず、人もあらず、世もあらで、唯憂ひ惑へる己一個の措所無く可煩きに悩乱せり。  あだかもこの際抛ち去るべからざる一件の要事は起りぬ。先に大口の言込有りし貸付の緩々急に取引迫りて、彼は些の猶予も無く、自ら野州塩原なる畑下と云へる温泉場に出向き、其処に清琴楼と呼べる湯宿に就きて、密に云々の探知すべき必要を生じたるなり。  謂知らず憥しと腹立たれけれど、行懸の是非無く、かつは難得き奇景の地と聞及べば、少時の憂を忘るる事も有らんと、自ら努めて結束し、かの日より約一週間の後、彼はほとほと進まぬ足を曳きて家を出でぬ。その晨横雲白く明方の空に半輪の残月を懸けたり。一番列車を取らんと上野に向ふ俥の上なる貫一は、この暁の眺矚に撲れて、覚えず悚然たる者ありき。 (一)の二  車は駛せ、景は移り、境は転じ、客は改まれど、貫一は易らざる他の悒鬱を抱きて、遣る方無き五時間の独に倦み憊れつつ、始て西那須野の駅に下車せり。  直ちに西北に向ひて、今尚茫々たる古の那須野原に入れば、天は濶く、地は遐に、唯平蕪の迷ひ、断雲の飛ぶのみにして、三里の坦途、一帯の重巒、塩原は其処ぞと見えて、行くほどに跡は窮らず、漸く千本松を過ぎ、進みて関谷村に到れば、人家の尽る処に淙々の響有りて、これに架れるを入勝橋と為す。  輙ち橋を渡りて僅に行けば、日光冥く、山厚く畳み、嵐気冷に壑深く陥りて、幾廻せる葛折の、後には密樹に声々の鳥呼び、前には幽草歩々の花を発き、いよいよ躋れば、遙に木隠の音のみ聞えし流の水上は浅く露れて、驚破や、ここに空山の雷白光を放ちて頽れ落ちたるかと凄じかり。道の右は山を𠠇りて長壁と成し、石幽に蘚碧うして、幾条とも白糸を乱し懸けたる細瀑小瀑の珊々として濺げるは、嶺上の松の調も、定てこの緒よりやと見捨て難し。  俥を駆りて白羽坂を踰えてより、回顧橋に三十尺の飛瀑を蹻みて、山中の景は始て奇なり。これより行きて道有れば、水有り、水有れば、必ず橋有り、全渓にして三十橋、山有れば巌有り、巌有れば必ず瀑有り、全嶺にして七十瀑。地有れば泉有り、泉有れば必ず熱有り、全村にして四十五湯。猶数ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰か一々探り得べき。  抑も塩原の地形たる、塩谷郡の南より群峰の間を分けて深く西北に入り、綿々として箒川の流に沂る片岨の、四里に岐れ、十一里に亙りて、到る処巉巌の水を夾まざる無きは、宛然青銅の薬研に瑠璃末を砕くに似たり。先づ大網の湯を過れば、根本山、魚止滝、児ヶ淵、左靱の険は古りて、白雲洞は朗に、布滝、竜ヶ鼻、材木石、五色石、船岩なんどと眺行けば、鳥井戸、前山の翠衣に染みて、福渡の里に入るなり。  途すがら前面の崖の処々に躑躅の残り、山藤の懸れるが、甚だ興有りと目留まれば、又この辺殊に谿浅く、水澄みて、大いなる古鏡の沈める如く、深く蔽へる岸樹は陰々として眠るに似たり。貫一は覚えず踏止りぬ。  かの逆巻く波に分け入りし宮が、息絶えて浮び出でたりし其処の景色に、似たりとも酷だ似たる岸の布置、茂の状況、乃至は漾ふる水の文も、透徹る底の岩面も、広さの程も、位置も、趣も、子細に看来ればいよいよ差はず。  彼は眦を決きて寒慄せり。  怪むべき哉、曾て経たりし塲をそのままに夢むる例は有れ、所拠も無く夢みし跡を、歴々とかく目前に見ると云ふも有る事か。宮の骸の横はりし処も、又は己の追来し筋も、彼処よ、此処よと、陰に一々指しては、限無く駭けるなり。  車夫を顧みて、処の名を問へば、不動沢と言ふ。  物可恐しげなる沢の名なるよ。げに思へば、人も死ぬべき処の名なり。我も既に死なんとせしがと、さすが現の身にも沁む時、宮にはあらで山百合の花なりし怪異を又懐ひて、彼は肩頭寒く顫ひぬ。  卒に踵を回して急げば、行路の雲間に塞りて、咄々、何等の物か、と先驚かさるる異形の屏風巌、地を抜く何百丈と見挙る絶頂には、はらはら松も危く立竦み、幹竹割に割放したる断面は、半空より一文字に垂下して、岌々たるその勢、幾ど眺むる眼も留らず。  貫一は惘然として佇めり。  彼が宮を追ひて転び落ちたりし谷間の深さは、正にこの天辺の高きより投じたらんやうに、冉々として虚空を舞下る危惧の堪難かりしを想へるなり。  我未だ甞て見ざりつる絶壁! 危しとも、可恐しとも、夢ならずして争か飛下り得べき。又この人並ならぬ雲雀骨の粉微塵に散つて失せざりしこそ、洵に夢なりけれと、身柱冷かに瞳を凝す彼の傍より、これこそ名にし負ふ天狗巌、と為たり貌にも車夫は案内す。  貫一はかの夢の奇なりしより、更に更に奇なるこの塩原の実覚をば疑ひ懼れつつ立尽せり。  既に如此くなれば、怪は愈よ怪に、或は夢中に見たりし踪の猶着々活現し来りて、飽くまで我を脅さざれば休まざらんと為るにあらずや、と彼は胸安からずも足に信せて、かの巌の頭上に聳ゆる辺に到れば、谿急に激折して、水これが為に鼓怒し、咆哮し、噴薄激盪して、奔馬の乱れ競ふが如し。この乱流の間に横はりて高さ二丈に余り、その頂は平に濶りて、寛に百人を立たしむべき大磐石、風雨に歳経る膚は死灰の色を成して、鱗も添はず、毛も生ひざれど、状可恐しげに蹲りて、老木の蔭を負ひ、急湍の浪に漬りて、夜な夜な天狗巌の魔風に誘はれて吼えもしぬべき怪しの物なり。  その古蒲生飛騨守氏郷この処に野立せし事有るに因りて、野立石とは申す、と例のが説出すを、貫一は頷きつつ、目を放たず打眺めて、独り窃に舌を巻くのみ。  彼は実に壑間の宮を尋ぬる時、この大石を眼下に窺ひ見たりしを忘れざるなり。  又は流るる宮を追ひて、道無きに困める折、左右には水深く、崖高く、前には攀づべからざる石の塞りたるを、攀ぢて半に到りて進退谷りつる、その石もこれなりけん、と肩は自と聳えて、久く留るに堪へず。  数歩を行けば、宮が命を沈めしその淵と見るべき処も、彼が釈けたる帯を曳きしその巌も、歴然として皆在らざるは無し! 貫一が髪毛は針の如く竪ちて戦げり。彼の思は前夜の悪夢を反復すに等き苦悩を辞する能はざればなり。  夢ながら可恐くも、浅ましくも、悲くも、可傷くも、分く方無くて唯一図に切なかりしを、事もし一塲の夢にして止らざらんには、抑も如何! 今や塩原の実景は一々夢中の見るところ、然らばこの景既に夢ならず! 思掛けずもここに来にける吾身もまた夢ならず! 但夢に欠く者とては宮一箇のみ。纔に彼のここに来らざるのみ‼  貫一はかく思到りて、我又夢に入りたるにあらざるかと疑はんとも為つ。夢ならずと為ば、我は由無き処に来にけるよ。幸に夢に似る事無くてあれかし。異しとも甚だ異し! 疾く往きて、疾く還らんと、遽に率し俥に乗りて、白倉山の麓、塩釜の湯、高尾塚、離室、甘湯沢、兄弟滝、玉簾瀬、小太郎淵、路の頭に高きは寺山、低きに人家の在る処、即ち畑下戸。 第二章  一村十二戸、温泉は五箇所に涌きて、五軒の宿あり。ここに清琴楼と呼べるは、南に方りて箒川の緩く廻れる磧に臨み、俯しては、水石の粼々たるを弄び、仰げば西に、富士、喜十六の翠巒と対して、清風座に満ち、袖の沢を落来る流は、二十丈の絶壁に懸りて、素縑を垂れたる如き吉井滝あり。東北は山又山を重ねて、琅玕の玉簾深く夏日の畏るべきを遮りたれば、四面遊目に足りて丘壑の富を擅にし、林泉の奢を窮め、又有るまじき清福自在の別境なり。  貫一はこの絵を看る如き清穏の風景に値ひて、かの途上険き巌と峻き流との為に幾度か魂飛び肉銷して、理むる方無く掻乱されし胸の内は靄然として頓に和ぎ、恍然として総て忘れたり。  彼は以為らく。  誠に好くこそ我は来つれ! なんぞ来るの甚だ遅かりし。山の麗しと謂ふも、壌の堆き者のみ、川の暢しと謂ふも、水の逝くに過ぎざるを、牢として抜く可からざる我が半生の痼疾は、争で壌と水との医すべき者ならん、と歯牙にも掛けず侮りたりし己こそ、先づ侮らるべき愚の者ならずや。  看よ、看よ、木々の緑も、浮べる雲も、秀る峰も、流るる渓も、峙つ巌も、吹来る風も、日の光も、鶏の鳴く音も、空の色も、皆自ら浮世の物ならで、我はここに憂を忘れ、悲を忘れ、苦を忘れ、労を忘れて、身はかの雲と軽く、心は水と淡く、希はくは今より如此くして我生を了らん哉。  恋も有らず、怨も有らず、金銭も有らず、権勢も有らず、名誉も有らず、野心も有らず、栄達も有らず、堕落も有らず、競争も有らず、執着も有らず、得意も有らず、失望も有らず、止だ天然の無垢にして、形骸を安きのみなるこの里、我思を埋むるの里か、吾骨を埋るの里か。  性来多く山水の美に親まざりし貫一は、殊に心の往くところを知らざるばかりに愛で悦びて、清琴楼の二階座敷に案内されたれど、内には入らで、始より滝に向へる欄干に倚りて、偶ま人中を迷ひたりし子の母の親にも逢ひけんやうに、少時はその傍を離れ得ざるなりき。  楼前の緑は漸く暗く、遠近の水音冱えて、はや夕暮るる山風の身に沁めば、先づ湯浴などせばやと、何気無く座敷に入りたる彼の眼を、又一個驚かす物こそあれ。  鞄を置いたる床間に、山百合の花のいと大きなるを唯一輪棒挿に活けたるが、茎形に曲り傾きて、あたかも此方に向へるなり。  貫一は覚えず足を踏止めて、その瞪れる眼を花に注ぎつ。宮ははやここに居たりとやうに、彼は卒爾の感に衝れたるなり。  既に幾処の実景の夢と符合するさへ有るに、またその殊に夢の夢なる一本百合のここに在る事、畢竟偶合に過ぎずとは謂へ、さりとては余りにかの夢とこの旅との照応急に、因縁深きに似て、などかくは我を驚かすの太甚き!  奇を弄して益出づる不思議に、彼は益懼を作して、或はこの裏に天意の測り難き者有るなからんや、とさすがに惑ひ苦めり。  やがて傍近く寄りて、幾許似たると眺むれば、打披ける葩は凛として玉を割いたる如く、濃香芬々と迸り、葉色に露気有りて緑鮮に、定て今朝や剪りけんと覚き花の勢なり。  少く楽まされし貫一も、これが為に興冷めて、俄に重き頭を花の前に支へつつ、又かの愁を徐々に喚起さんと為つ。 「お風呂へ御案内申しませう」  その声に彼は婢を見返りて、 「ああ、姐さん、この花を那裏へ持つて行つておくれでないか」 「はあ、その花で御座いますか。旦那様は百合の花はお嫌ひで?」 「いや、匂が強くて、頭痛がして成らんから」 「さやうで御座いますか。唯今直に片付けますです。これは唯一つ早咲で、珍う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒に挿して置いたんで御座います」 「うう、成程、早咲だね」 「さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯一つ有りましたんで、紛れ咲なので御座いますね」 「うう紛れ咲、さうだね」 「御案内致しませう」  風呂場に入れば、一箇の客先在りて、未だ燈点さぬ微黯の湯槽に漬りけるが、何様人の来るに駭けると覚く、甚だ忙しげに身を起しつ。貫一が入れば、直に上ると斉く洗塲の片隅に寄りて、色白き背を此方に向けたり。  年紀は二十七八なるべきか。やや孱弱なる短躯の男なり。頻に左視右胆すれども、明々地ならぬ面貌は定かに認め難かり。されども、自ら見識越ならぬは明なるに、何が故に人目を避るが如き態を作すならん。華車なる形成は、ここ等辺の人にあらず、何人にして、何が故になど、貫一は徒に心牽れてゐたり。  やがて彼が出づれば、待ちけるやうに男は入替りて、なほ飽くまで此方を向かざらんと為つつ、蕭索に浴を行ふ音を立つるのみ。  その膚の色の男に似気無く白きも、その骨纖に肉の痩せたるも、又はその挙動の打湿りたるも、その人を懼るる気色なるも、総て自ら尋常ならざるは、察するに精神病者の類なるべし。さては何の怪むところ有らん。節は初夏の未だ寒き、この寥々たる山中に来り宿れる客なれば、保養鬱散の為ならずして、湯治の目的なるを思ふべし。誠にさなり、彼は病客なるべきをと心釈けては、はや目も遣らずなりける間に、男は浴み果てて、貸浴衣引絡ひつつ出で行きけり。  暮色はいよいよ濃に、転激き川音の寒さを添ふれど、手寡なればや燈も持来らず、湯香高く蒸騰る煙の中に、独り影暗く蹲るも、少く凄き心地して、程無く貫一も出でて座敷に返れば、床間には百合の花も在らず煌々たる燈火の下に座を設け、膳を据ゑて傍に手焙を置き、茶器食籠など取揃へて、この一目さすがに旅の労を忘るべし。  先づ衣桁に在りける褞袍を被ぎ、夕冷の火も恋く引寄せて莨を吃しゐれば、天地静に石走る水の響、梢を渡る風の声、颯々淙々と鳴りて、幽なること太古の如し。  乍ちはたはたと跫音長く廊下に曳いて、先のにはあらぬ小婢の夕餉を運び来れるに引添ひて、其処に出でたる宿の主は、 「今日は好うこそ御越し下さいまして、さぞ御労様でゐらつしやいませうで御座ります。ええ、又唯今程は格別に御茶料を下し置れまして、甚だ恐入りました儀で、難有う存じまして、厚く御礼を申上げまするで御座います。  ええ前以てお詑を申上げ置きまするのは、召上り物のところで御座りまして一向はや御覧の通何も御座りませんで、誠に相済みません儀で御座いまするが、実は、未だ些と時候もお早いので、自然お客様のお越も御座りませんゆゑ、何分用意等も致し置きませんやうな次第で、然し、一両日中にはお麁末ながら何ぞ差上げまするやうに取計ひまするで御座いますで、どうぞ、まあ今明日のところは御勘弁を下さいまして、御寛と御逗留下さいまするやうに。──これ、早う御味噌汁をお易へ申して来ないか」  主の辞し去りて後、貫一は彼の所謂何も無き、椀も皿も皆黄なる鶏子一色の膳に向へり。 「内にはお客は今幾箇有るのだね」 「這箇の外にお一方で御座りやす」 「一箇? あのお客は単身なのか」 「はい」 「先に湯殿で些と遇つたが、男の客だよ」 「さよで御座りやす」 「あれは病人だね」 「どうで御座りやすか。──そんな事無えで御座りやせう」 「さうかい。何処も不良いところは無いやうかね」 「無えやうで御座りやすな」 「どうも病人のやうだが、さうでないかな」 「ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか」  貫一は覚えず噴飯せんと為つつ、 「成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か」 「いんえ、昨日お出になりやしたので」 「昨日来たのだ? 東京の人か」 「はい、日本橋の方のお方で御座りやす」 「それぢや商人か」 「私能く知りやせん」 「どうだ、お前達と懇意にして話をするか」 「そりやなさりやす」 「俺と那箇が為る」 「旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん」 「うむ、さうすると、俺の方がお饒舌なのだな」 「あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様が直にいらしやる筈で、それを、まあ酷う待つてお在なさりやす」 「おお、伴が後から来るのか。いや、大きに御馳走だつた」 「何も御座りやせんで、お麁末様で御座りやす」  婢は膳を引きて起ちぬ。貫一は顛然と臥たり。  二十間も座敷の数有る大構の内に、唯二人の客を宿せるだに、寂寥は既に余んぬるを、この深山幽谷の暗夜に蔽れたる孤村の片辺に倚れる清琴楼の間毎に亘る長廊下は、星の下行く町の小路より、幾許心細くも可恐き夜道ならんよ。戸一重外には、山颪の絶えずおどろおどろと吹廻りて、早瀬の波の高鳴は、真に放鬼の名をも懐ふばかり。  折しも唾壺打つ音は、二間ばかりを隔てて甚だ蕭索に聞えぬ。  貫一は何の故とも知らで、その念頭を得放れざるかの客の身の上をば、独り様々に案じ入りつつ、彼既に病客ならず、又我が識る人ならずと為ば、何を以つて人を懼るる態を作すならん。抑も彼は何者なりや。又何の尤むるところ有りて、さばかり人を懼るるや。  貫一はこの秘密の鑰を獲んとして、左往右返に暗中摸索の思を費すなりき。 (二)の二  明る朝の食後、貫一は先づこの狭き畑下戸の隅々まで一遍見周りて、略ぼその状況を知るとともに、清琴楼の家格を考へなどして、磧に出づれば、浅瀬に架れる板橋の風情面白く、渡れば喜十六の山麓にて、十町ばかり登りて須巻の滝の湯有りと教へらるるままに、遂に其処まで往きて、午近き頃宿に帰りぬ。  汗を流さんと風呂場に急ぐ廊下の交互に、貫一はあたかもかの客の湯上りに出会へり。こたびも彼は面を見せじとやうに、慌忙く打背きて過行くなり。  今は疑ふべくもあらず、彼は正く人目を避けんと為るなり。則ち人を懼るるなり。故は、自ら尤るなり。彼は果して何者ならん、と貫一は愈よ深く怪みぬ。  昨日こそ誰乎彼の黯黮にて、分明に面貌を弁ぜざりしが、今の一目は、躬も奇なりと思ふばかり奇くも、彼の不用意の間に速写機の如き力を以てして、その映じ来りし形を総て脱さず捉へ得たりしなり。  貫一はその相貌の瞥見に縁りて、直ちに彼の性質を占はんと試るまでに、いと善く見極めたり。されども、いかにせん、彼の相するところは始に疑ひしところと頗る一致せざる者有り。彼若し実に人を懼るると為ば、彼の人を懼るる所以と、我より彼の人を懼るる所以と為す者とは、或は稍趣を異にせざらんや。又想ふに、彼は決して自ら尤るところなど有るに非ずして、止だその性の多羞なるが故のみか、未だ知るべからず。この二者の前のをも取り難く、さすがに後のにも頷きかねて、彼は又新に打惑へり。  午飯の給仕には年嵩の婢出でたれば、余所ながらかの客の事を問ひけるに、箸をも取らで今外に出で行きしと云ふ。 「はあ、飯も食はんで? 何処へ行つたのかね」 「何でも昨日あたりお連様がお出の筈になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝から御心配遊して、停車場まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰いまして、それでお出ましに成つたので御座います」 「うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉んでゐるとは、どう云ふ伴なのかな。──年寄か、婦ででもあるか」 「如何で御座いますか」 「お前知らんのか」 「私存じません」  彼は覚えず小首を傾くれば、 「旦那も大相御心配ぢや御座いませんか」 「さう云ふ事を聞くと、俺も気になるのだ」 「ぢや旦那も余程苦労性の方ですね」 「大きにさうだ」 「それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方、お美い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね」 「どう大変なのか」 「又御心配ぢや御座いませんか」 「うむ、大きにこれはさうだ」  風恬に草香りて、唯居るは惜き日和に奇痒く、貫一は又出でて、塩釜の西南十町ばかりの山中なる塩の湯と云ふに遊びぬ。還れば寂く夕暮るる頃なり。例の如く湯に入りて、上れば直に膳を持出で、燈も漸く耀きしに、かの客、未だ帰り来ず、 「閑寂なのも可いけれど、外に客と云ふ者が無くて、全でかう独法師も随分心細いね」  託言がましく貫一は言出づれば、 「さやうでゐらつしやいませう、何と申したつてこの山奥で御座いますから。全体旦那がお一人でゐらつしやると云ふお心懸が悪いので御座いますもの、それは為方が御座いません」  婢はわざとらしう高笑しつ。 「成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ」 「今度なんて仰有らずに、旦那も明日あたり電信でお呼寄になつたら如何で御座います」 「五十四になる老婢を呼んだつて、お前、始らんぢやないか」 「まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ」 「気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ」 「ですから、旦那、づつと外にお在んなさるので御座いませう」 「そりや外には幾多でも在るとも」 「あら、御馳走で御座いますね」 「なあに、能く聴いて見ると、それが皆人の物ださうだ」 「何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰るもんですよ」 「本当にも嘘にもその通だ。私なんぞはそんな意気な者が有れば、何為にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか」 「おや! どうせ青臭い山の中で御座います」 「青臭いどころか、お前、天狗巌だ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐い山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨、閑さうな貌をして唯一箇で遣つて来るなんぞは、能々の間抜と思はなけりやならんよ」 「それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか」 「間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜一人と附けて在る」 「その傍に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴きませう」 「面白い事を言ふなあ、おまへは」 「やつぱり少し抜けてゐる所為で御座います」  彼は食事を了りて湯浴し、少焉ありて九時を聞きけれど、かの客は未だ帰らず。寝床に入りて、程無く十時の鳴りけるにも、水声空く楼を繞りて、松の嵐の枕上に落つる有るのみなり。  始よりその人を怪まざらんにはこの咎むるに足らぬ瑣細の事も、大いなる糢糊の影を作して、いよいよ彼が疑の眼を遮り来らんとするなりけり。貫一はほとほと疑ひ得らるる限疑ひて、躬も其の妄に過るの太甚きを驚けるまでに至りて、始て罷めんと為たり。  これに亜いで、彼は抑も何の故有りて、肥瘠も関せざるかの客に対して、かくばかり軽々しく思を費し、又念を懸るの固執なるや、その謂無き己をば、敢て自ら解かんと試みつ。  されども、人は往々にして自ら率るその己を識る能はず。貫一は抑へて怪まざらんと為ば、理に於て怪まずしてあるべきを信ずるものから、又幻視せるが如きその大いなる影の冥想の間に纏綿して、或は理外に在る者有る無からんや、と疑はざらんと為る傍より却りて惑しむるなり。  表階子の口に懸れる大時計は、病み憊れたるやうの鈍き響を作して、廊下の闇に彷徨ふを、数ふれば正に十一時なり。  かの客はこの深更に及べども未だ帰り来ず。  彼は帰り来らざるなるか、帰り得ざるなるか、帰らざるなるかなど、又思放つ能はずして、貫一は寝苦き枕を頻回易へたり。今や十二時にも成りなんにと心に懸けながら、その音は聞くに及ばずして遂に眠を催せり。日高き朝景色の前に起出づれば、座敷の外を小婢は雑巾掛してゐたり。 「お早う御座りやす」 「睡さうな顔をしてゐるな」 「はい、昨夜那裏のお客様がお帰になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす」 「ああ、あのお客は昨夜は帰らずか」 「はい、お帰が御座りやせん」  貫一はかの客の間の障子を開放したるを見て、咥楊枝のまま欄杆伝ひに外を眺め行く態して、その前を過れば、床の間に小豆革の手鞄と、浅黄キャリコの風呂敷包とを並べて、傍に二三枚の新聞紙を引揑ね、衣桁に絹物の袷を懸けて、その裾に紺の靴下を畳置きたり。  さては少く本意無きまでに、座敷の内には見出すべき異状も有らで、彼は宿帳に拠りて、洋服仕立商なるを知りたると、敢て背くところ有りとも覚えざるなりき。  拍子抜して返れる貫一は、心私にその臆測の鑿なりしを媿ぢざるにもあらざれど、又これが為に、直ちに彼の濡衣を剥去るまでに釈然たる能はずして、好し、この上はその待人の如何なる者なるかを見て、疑は決すべしと、やがてその消息を齎し来るべき彼の帰来の程を、陰ながら最更に遅しと待てり。  夜は山精木魅の出でて遊ぶを想はしむる、陰森凄幽の気を凝すに反してこの霽朗なる昼間の山容水態は、明媚争か画も如かん、天色大気も殆ど塵境以外の感無くんばあらず。黄金を織作せる羅にも似たる麗き日影を蒙りて、万斛の珠を鳴す谷間の清韻を楽みつつ、欄頭の山を枕に恍惚として消ゆらんやうに覚えたりし貫一は、急遽き跫音の廊下を動し来るに駭されて、起回りさまに頭を捻向れば、何事とも知らず、年嵩の婢の駈着るなり。 「些と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く」 「何が来たのだ」 「何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ」 「何だ、何だよ」 「早く階子の所へいらしつて御覧なさい」 「おお、あの客が還つたのか」  彼ははや飛ぶが如くに引返して、貫一の言は五間も後に残されたり。彼が注進の模様は、見るべき待人を伴ひ帰れるならんをと、直ぐに起ちて表階子の辺に行く時、既に晩し両箇の人影は欄の上に顕れたり。  鍔広なる藍鼠の中折帽を前斜に冠れる男は、例の面を見せざらんと為れど、かの客なり。引連れたる女は、二十歳を二つ三つも越したる可し。銀杏返を引約めて、本甲蒔絵の挿櫛根深に、大粒の淡色瑪瑙に金脚の後簪、堆朱彫の玉根掛をして、鬢の一髪をも乱さず、極めて快く結ひ做したり。葡萄茶の細格子の縞御召に勝色裏の袷を着て、羽織は小紋縮緬の一紋、阿蘭陀模様の七糸の袱紗帯に金鎖子の繊きを引入れて、嬌き友禅染の襦袢の袖して口元を拭ひつつ、四季袋を紐短かに挈げたるが、弗と此方を見向ける素顔の色蒼く、口の紅も点さで、やや裏寂くも花の咲過ぎたらんやうの蕭衰を帯びたれど、美目の盻たる色香尚濃にして、漫ろ人に染むばかりなり。  両箇は彼の見る目の顕露なるに気怯せる様子にて、先を争ふ如く足早に過行きぬ。貫一もまたその逢着の唐突なるに打惑ひて、なかなか精く看るべき遑あらざりけれど、その女は万々彼の妻なんどにはあらじ、と独り合点せり。 第三章  かの男女は娧しさに堪へざらんやうに居寄りて、手に手を交へつつ密々に語れり。 「さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方がここで想つてゐるやうな訳に行きは為ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁、私は今だに胸が悸々して、後から追掛けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない」 「まあ何でも、かうして約束通り逢へりや上首尾なんだ」 「全くよ。一昨日の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ」  些と男の顔を盻りて、濡るる瞼を軽く拭へり。 「その縁の尽きないのが、究竟彼我の身の窮迫なのだ。俺もかう云ふ事に成らうとは思はなかつたが、成程、悪縁と云ふ者は為方の無いものだ」  女は尚窃に泣きゐる面を背けたるまま、 「貴方は直に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!」 「悪縁だからかうなつたのぢやないか」 「かう成つたのがどうしたんですよ!」 「今更どうするものか」 「当然さ! 貴方は一体水臭いんだ‼」 「おい、お静、水臭いとは誰の事だ」  色を作せる男の眼は、つと湧く涙に輝けり。 「貴方の事さ!」  女の目よりは漣々と零れぬ。 「俺の事だ⁈ お静……手前はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか」 「済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ」 「未だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ」 「はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他の顔さへ見りや、直に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我の中の悪縁は、貴方がそんなに言なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂ふに謂れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞される身に成つて御覧なさいな。余り好い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ──何がさうでない事が有るもんですか」 「悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……」 「悪縁でも可ござんすよ!」  彼等は相背きて姑く語無かりしが、女は忍びやかに泣きゐたり。 「おい、お静、おい」 「貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!」  お静は竟に顔を掩うて泣きぬ。 「何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘にも水臭いなんて言れりや、俺だつて悔いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ」 「狭山さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか」 「お前が言出すからよ」 「だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝ります。ねえ、狭山さん、些と」  お静の顔を打矚りつつ、男は茫然たるのみなり。 「狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね」 「知れた事さ、彼我の身の上をよ」 「何だつてそんな事を考へてゐるの」 「…………」 「今更何も考へる事は有りはしないわ」  狭山は徐々に目を転して、太息を呴いたり。 「もうそんな溜息なんぞを呴くのはお舎しなさいつてば」 「お前二十……二だつたね」 「それがどうしたの、貴方が二十八さ」 「あの時はお前が十九の夏だつけかな」 「ああ、さう、何でも袷を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月さんのあの池に好いお月が映してゐて、暖い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全三年に成るのね」 「おお、さうさう。昨日のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ」 「何だか、かう全で夢のやうね」 「吁、夢だなあ!」 「夢ねえ!」 「お静!」 「狭山さん!」  両箇は手を把り、膝を重ねて、同じ思を猶悲く、 「ゆ……ゆ……夢だ!」 「夢だわ、ねえ!」  声立てじと男の胸に泣附く女。 「かう成るのも皆約束事ぢやあらうけれど、那奴さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日の御神籤通な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴が邪魔して、横紙を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余り申訳が無い! 堪……忍……して下さい」 「そりやなあに、お互の事だ」 「いいえ、私がもう少し意気地が有つたら、かうでもないんだらうけれど、胸には色々在つても、それが思切つて出来ない性分だもんだから、ついこんな破滅にも成つて了つて、私は実に済まないと、自分の身を考へるよりは、貴方の事が先に立つて、さぞ陰ぢや迷惑もしてお在なんだらうに、逢ふ度に私の身を案じて、毎も優くして下さるのは仇や疎な事ぢやないと、私は嬉いより難有いと思つてゐます。だものだから、近頃ぢや、貴方に逢ふと直に涙が出て、何だか悲くばかりなるのが不思議だと思つてゐたら、果然かう云ふ事になる讖だつたんでせう。  貴方にはお気の毒だ、お気の毒だ、と始終自分が退けてゐるのに、悪縁だなんぞと言れると、私は体が縮るやうな心持がして、ああ、さうでもない、貴方が迷惑してゐるばかりなら未だ可いけれど、取んだ者に懸り合つた、ともしや後悔してお在なんぢやなからうかと思ふと、私だつて好い気持はしないもんだから、つい向者はあんなに言過ぎて、私は誠に済みませんでした。それはもう貴方の言ふ通り悪縁には差無いんだけれど、後生だからそんな可厭な事は考へずにゐて下さい。私はこれで本望だと思つてゐる」 「生木を割いて別れるよりは、まあ愈だ」 「別れる? 吁! 可厭だ! 考へても慄然とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句がこんな事に成つたのも、想へば皆那奴のお蔭だ。ええ、悔い! 私はきつと執着いても、この怨は返して遣るから、覚えてゐるが可い!」  女は身を顫せて詈るとともに、念入りて呪ふが如き血相を作せり。  不知、この恨み、詈り、呪はるる者は、何処の誰ならんよ。 「那奴も好加減な馬鹿ぢやないか!」  男は歯咬しつつ苦しげに嗤笑せり。 「馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓の有る女が金で靡くか、靡かないか、些は考へながら遊ぶが可い。来りや不好な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう憥く附けつ廻しつして、了局には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能く能くの芸無猿に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産に、那奴の額を打割つて来たんでさね」 「ええ、どうして!」 「なあにね、貴方に別れたあの翌日から、延続に来てゐやがつて、ちつとでも傍を離さないんぢやありませんか。這箇は気が気ぢやないところへ、もう悪漆膠くて耐らないから、病気だと謂つて内へ遁げて来りや、直に追懸けて来て、附絡つてゐるんでせう。さうすると寸法は知れてまさね、丁と渉が付いてゐるんだから、阿母さんは傍から『ちやほや』して、そりや貴方、真面目ぢや見ちやゐられないお手厚さ加減なんだから、那奴は図に乗つて了つて、やあ、風呂を沸せだ事の、ビイルを冷せだ事のと、あの狭い内へ一個で幅を為やがつて、なかなか動きさうにも為ないんぢやありませんか。  私は全で生捕に成つたやうなもので、出るには出られず、這箇の事が有るから、さうしてゐる空は無し、あんな気の揉めた事は有りはしない──本当にどうせうかと思つた。ええ、なあに、あんな奴は打抛出して措いて、這箇は掻巻を引被つて一心に考へてゐたんですけれど、もう憤れたくて耐らなくなつて来たから、不如かまはず飛出して了はうかと、余程さう念つたものの、丹子の事も、ねえ、考へて見りや可哀さうだし、あの子を始め阿母さんまで、私ばかりを頼に為てゐるものを、さぞや私の亡い後には、どんなにか力も落さうし、又あの子も為ないでも好い苦労を為なけりやなるまいと、そればかりに牽されて、色々話も有るものだから、あの子の阿母さんにも逢つて遣りたし、それに、私も出るに就いちや、為て置かなけりやならない事も有るし為るので、到頭遅々して出損つて了つたんです。  さうすると、どうでせう、まあ、那奴はその晩二時過までうで付いてゐて、それでも不承々々に還つたのは可い。すると翌日は半日阿母さんのお談義が始まつて、好加減に了簡を極めろでせう。さう言つちや済まないけれど、育てた恩も聞飽きてゐるわ。それを追繰返し、引繰返し、悪体交りには、散々聴せて、了局は口返答したと云つて足蹴にする。なあに、私は足蹴にされたつて、撲れたつて、それを悔いとは思やしないけれど、這箇だつて貴方と云ふ者が有ると思ふから、もう一生懸命に稼いで、為るだけの事は丁と為てあるのに、何ぼ慾にきりが無いと謂つても、自分の言条ばかり通さうとして、他には些でも楽を為せない算段を為る。私だつて金属で出来た機械ぢやなし、さうさう駆使はれてお為にばかり成つてゐちや、這箇の身が立ちはしない。  別にどうしてくれなくても、訳さへ解つてゐてくれりや、辛いぐらゐは私は辛抱する。所歓は堰いて了ふし、旦那取は為ろと云ふ。そんな不可な真似を為なくても、立派に行くやうに私が稼いであるんぢやありませんか。それをさう云ふ無理を言つてからに、素直でないの、馬鹿だのと、足蹴に為るとは……何……何事で……せう!  それぢや私も赫として、もう我慢が為切れなく成つたから、物も言はずに飛出さうと為る途端に、運悪く又那奴が遣つて来たんぢやありませんか。さあ、捉つて了つて、其処の場図で迯るには迯られず、阿母さんは得たり賢しなんでせう、一処に行け行けと聒く言ふし、那奴は何でも来いと云つて放さない。私も内を出た方が都合が好いと思つたから、まあ言ふなりに成つて、例の処へ拽られて行つたとお思ひなさい。あの長尻だから、さあ又還らない、さうして何か所思でも有つたんでせうよ、何だか知らないけれど、その晩に限つて無闇とお酒を強るんでさ。這箇も鬱勃肚で、飲めも為ないのに幾多でも引受けたんだけれど、酔ひさうにも為やしない。  その内に漸々又お極りの気障な話を始めやがつて、這箇が柳に受けて聞いてゐて遣りや、可いかと思つて増長して、呆れた真似を為やがるから、性の付く程諤々さう言つて遣つたら、さあ自棄に成つて、それから毒吐き出して、やあ店番の埃被だの、冷飯吃ひの雇人がどうだのと、聞いちやゐられないやうな腹の立つ事を言やがるから、這箇も思切つて随分な悪体を吐いて遣つたわ、私は。  さうすると、了局に那奴は何と言ふかと思ふと、幾許七顛八倒しても金で縛つて置いた体だなんぞ、と利いた風な事を言ふんぢやありませんか。だから、私はさう言つて遣つた、お気の毒だが、貴方は大方目が眩んで、そりやお袋を縛つたんだらうつて」  聴ゐる狭山は小気味好しとばかりに頷けり。 「それで那奴は全然慍つて了つて、それからの騒擾でさ。無礼な奴だとか何とか言つて、私は襟を持つて引擦り仆された。随分飲んでゐたから、やつぱり酔つてゐたんでせう。その時はもう全で夢中で、唯那奴の憎らしいのが胸一杯に込上げて、這畜生と思ふと、突如其処に在つたお皿を那奴の横面へ叩付けて遣つた。丁度それが眉間へ打着つて血が淋漓流れて、顔が半分真赤に成つて了つた。これは居ちや面倒だと思つたから、家中大騒を遣つてゐる隙を見て、窃と飛出した事は飛出したけれど、別に往所も無いから、丹子の阿母さんの処へ駈込んだの。  ところが、好かつた事には、今旅から帰つたと云ふところなんで、時間を見ると、十時余程廻つてゐるんでせう。滊車はもう出ず、気ばかりは急くけれど、若箇道間に合ふんぢやなし、それに話は有るし為るもんだから、一晩厄介に成る事にして、髪なんぞを結んでもらひながら、些と訳が有つて、貴方と一処に当分身を隠すのだと云ふやうに話を為てね、それから丹子の事も悉く言置いて遣りましたら──善い人ね、あの阿母さんは──おいおい泣出して、自分の子の事はふつつりとも言はずに、唯私の身ばかりを案じて、ああのかうのと色々言つてくれたその実意と云つたら……噫、同じ人間でありながら、内の阿母さんは、実に、あなた、鬼ですわ! 私もあの子の阿母さんのやうな実の親が有つたらば、こんな苦労は為やしまいし、又貴方のやうな方の有るのを、さぞかし力に念つて、喜びも為やうし、大事にも為る事だらうと思つたら、もうもう悲くなつて、悲くなつて、如何に何でも余り情無くて、私はどんなに泣きましたらう。  それに、私をばあんなに頼に為てゐた阿母さんの事だから、当分でも田舎へ行つて了ふと云ふのを、それは心細がつて、力を落したの何のと云つたら、私も別れるのが気の毒に成るくらゐで、先へ落付いたら、どうぞ一番に住所を知せてくれ、初中終旅を出行いてゐる体だから、直に御機嫌伺ひに出ると、その事をあんなに懇々も頼んでゐましたから、後で聞いたら、さぞ吃驚して……きつと疾ひでも為るでせうよ。考へて見りや、丹子も可愛し、あの阿母さんも怜いし。吁、吁!」  歔欷して彼は悶えつ。 「さう云ふ訳ぢや、猶更内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう」 「大変でせうよ」 「それだと余り遅々しちやゐられないのだ」 「どうで、狭山さん、先は知れてゐ……」 「さうだ」 「だからねえ、もう早い方が可ござんすよ」  女は咽びて其処に泣伏しぬ。狭山は涙を連𥉌きて、 「お静、おい、お静や」 「あ……あい。狭山さん!」  憐むべし、情極りて彼等の相擁するは、畢竟尽きせぬ哀歎を抱くが如き者ならんをや。 (三)の二  両箇は此方にかつ泣きかつ語れる間、彼方の一箇は徒然の柱に倚りて、やうやう傾く日影に照されゐたり。  その待人の如何なる者なるかを見て、疑は決すべしと為せし貫一も、かの伴ひ還りし女を見るに迨びて、その疑はいよいよ錯雑して、しかも新なる怪訝の添はるのみなり。  如何なればや、女の顔色も甚だ勝れず、その点の男といと善く似たるは、同じ憂を分つにあらざる無からんや。我聞く、犯罪の底には必ず女有りと、若し信なりとせば、彼は正く彼女ゆゑに如何なる罪をも犯せるならんよ。その罪の故に男は苦み、その苦の故に女は憂ふると為ば、彼等は誠に相愛するの堅き者ならず哉。  知らず、彼等は何の故に相率てこの人目稀なる山中には来れる。その罪を逭れんが為か、その苦と憂とを忘れんが為か、或はその愛を全うせんが為か、明に彼等は夫婦ならず、又は、女の芸者風なるも、決して尋常の隠遊にあらずして、自から穂に露るるところ有り。さては何等の密会ならん。  貫一は彼を以て女を偸みて奔る者ならずや、と先推しつつ、尚ほ如何にやなど、飽かず疑へる間より、忽ち一片の反映は閃きて、朧にも彼の胸の黯きを照せり。  彼はこの際熱海の旧夢を憶はざるを得ざりしなり。  世上貫一の外に愛する者無かりし宮は、その貫一と奔るを諾はずして、僅に一瞥の富の前に、百年の契を蹂躙りて吝まざりき。噫我が当時の恨、彼が今日の悔! 今彼女は日夜に栄の衒ひ、利の誘ふ間に立ち、守るに難き節を全うして、世の容れざる愛に随つて奔らんと為るか。  爾思へる後の彼は、陰にかの両個の先に疑ひし如き可忌き罪人ならで、潔く愛の為に奔る者たらんを、祷るばかりに冀へり。若しさもあらば、彼は具に彼等の苦き身の上と切なる志とを聴かんと念ひぬ。  心永く痍きて恋に敗れたる貫一は、殊更に他の成敗に就いて観るを欲せるなり。彼は己の不幸の幾許不幸に、人の幸の幾許幸ならんかを想ひて、又己の失敗の幾許無残に、人の成効の幾許十分ならんかを想ひて、又己の契の幾許薄く、人の縁の幾許深からんかを想ひて、又己の受けし愛の幾許浅く、人の交せる情の幾許篤からんかを想ひて、又己の恋の障碍の幾許強く、人の容れられぬ世の幾許狭からんかを想ひて。嗟呼、既に己の恋は敗れに破れたり。知るべからざる人の恋の末終に如何ならんかを想ひて。  昼間の程は勗めて籠りゐしかの両個の、夜に入りて後打連れて入浴せるを伺ひ知りし貫一は、例の益す人目を避るならんよと念へり。  還り来て多時酒など酌交す様子なりしが、高声一つ立つるにもあらで、唯障子を照す燈のみいと瞭に、内の寂しさは露をも置きけんやうにて、さてはかの吹絶えぬ松風に、彼等は竟に酔を成さざるならんと覚ゆばかりなりき。  為す事もあらねば、貫一は疾く臥内に入りけるが、僅に眊むと為れば直に、寤めて、そのままに睡は失るとともに、様々の事思ひゐたり。  夜の静なるを動かして、かの男女の細語は洩れ来ぬ。甚だ幺微なれば聞知るべくもあらねど、娓々として絶えず枕に打響きては、なかなか大いなる声にも増して耳煩はしかり。  さなきだに寝難かりし貫一は、益す気の澄み、心の冱え行くに任せて、又徒にとやかくと、彼等の身上を推測り推測り思回らすの外はあらず。彼方もその幺微なる声に語り語りて休まざるは、思の丈の短夜に余らんとするなるか。  乍ち有りて、迸れるやうにその声はつと高く揚れり。貫一は愕然として枕を欹てつ。女は遽に泣出せるなり。  その時男の声音は全く聞えずして、唯独り女の縦まに泣音を洩すのみなる。寤めたる貫一は弥が上に寤めて、自ら故を知らざる胸を轟せり。  少焉泣きたりし女の声は漸く鎮りて、又湿り勝にも語り初めしが、一たび情の為に激せし声音は、自から始よりは高く響けり。されどなほその言ふところは聞知り難くて、男の声は却りて前よりも仄なり。  貫一は咳きも遣らで耳を澄せり。  或は時に断ゆれども、又続ぎ、又続ぎて、彼等の物語は蚕の糸を吐きて倦まざらんやうに、限も知らず長く亘りぬ。げにこの積る話を聞きも聞せもせんが為に、彼等はここに来つるにやあらん。されども、日は明日も明後日も有るを、甚だ忙くも語るもの哉。さばかり間遠なりし逢瀬なるか、言はでは裂けぬる胸の内か、かく有らでは慊らぬ恋中か、など思ふに就けて、彼はさすがに我身の今昔に感無き能はず、枕を引入れ、夜着引被ぎて、寐返りたり。  何時罷みしとも覚えで、彼等の寐物語は漸く絶えぬ。  貫一も遂に短き夢を結びて、常よりは蚤かりけれど、目覚めしままに起出でし朝冷を、走り行きて推啓けつる湯殿の内に、人は在らじと想ひし眼を驚して、かの男女は浴しゐたり。  貫一ははたと閉して急ぎ返りつ。 第四章  両箇はやや熱かりしその日も垂籠めて夕に抵りぬ。むづかしげに暮山を繞りし雲は、果して雨と成りて、冷々と密下るほどに、宵の燈火も影更けて、壁に映ふ物の形皆寂く、憖ひに起きて在るべき夜頃ならず。さては貫一も枕に就きたり。  ラムプを細めたる彼等の座敷も甚だ静に、宿の者さへ寐急ぎて後十一時は鳴りぬ。  凄き谷川の響に紛れつつ、小歇もせざる雨の音の中に、かの病憊れたるやうの柱時計は、息も絶気に半夜を告げわたる時、両箇が閨の燈は乍ち明かに耀けるなり。  彼等は倶に起出でて火鉢の前に在り。 「膳を持つて来ないか」 「ええ」  女は幺微なる声して答へけれど、打萎れて、なかなか立ちも遣らず。 「狭山さん、私は何だか貴方に言残した事が未だ有るやうな心持がして……」 「吁、もうかう成つちやお互に何も言はないが可い。言へばやつぱり未練が出る」  彼は熟と内向きて、目を閉ぢたり。 「貴方、その指環を私のと取替事して下さいね」 「さうか」  各その手に在るを抜きて、男は実印用のを女の指に、女はダイアモンド入のを男の指に、擐し了りてもなほ離れかねつつ、物は得言はでゐたり。  颯と鳴りて雨は一時繁く灑ぎ来れり。 「ああ、大相降つて来た」 「貴方は不断から雨が所好だつたから、きつとそれで……暇……乞に降つて来たんですよ」 「好い折だ。あの雨を肴に……お静、もう覚悟を為ろよ!」 「あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ」 「酒を持つて来な」 「あい」  お静も今は心を励して、宵の程誂へ置きし酒肴の床間に上げたるを持来て、両箇が中に膳を据れば、男は手早く燗して、その間に各服を更むる忙しさは、忽ち衣の擦り、帯の鳴る音高く綷〓(「糸+察」)と乱れ合ひて、転た雨濃なる深夜を驚かせり。 「ええ、もう好かない!」  帯緊めながら女はその端を振りて身悶せるなり。 「どうしたのだ」 「なあにね、帯がこんなに結ばつて了つて」 「帯が結ばつた?」 「ああ! あなた釈いて下さい、よう」 「何か吉い事が有るのだ」 「私はもしも遣損つて、耻でも曝すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐らなかつたんだから、これでもう可いわ」 「それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺はきつと後から往くから──どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか」  つと俯したるお静は、男の膝を咬みて泣きぬ。 「その代り、偶としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂はおまへの陰身を離れないから、必ず心変を……す、するなよ、お静」 「そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ」 「一処に往くとも!」 「一処に! 一処に往きますよ!」 「さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃飲むのだ。もう泣くな、お静」 「泣、泣かない」 「さあ、那裏へ行つて飲まう」  男は先づ起ちて、女の手を把れば、女はその手に縋りつつ、泣く泣く火鉢の傍に座を移しても、なほ離難なに寄添ひゐたり。 「猪口でなしに、その湯呑に為やう」 「さう。ぢや半分づつ」  熱燗の酒は烈々と薫じて、お静が顫ふ手元より狭山が顫ふ湯呑に注がれぬ。  女の最も悲かりしは、げにこの刹那の思なり。彼は人の為に酒を佐るに嫻ひし手も、などや今宵の恋の命も、儚き夢か、うたかたの水盃のみづからに、酌取らんとは想の外の外なりしを、唄にも似たる身の上哉と、漫に逼る胸の内、何に譬へん方もあらず。  男は燗の過ぎたるに口を着けかねて、少時手にせるままに眺めゐれば、よし今は憂くも苦くも、久く住慣れしこの世を去りて、永く返らざらんとする身には、僅に一盃の酒に対するも、又哀別離苦の感無き能はざるなり。  念へ、彼等の逢初めし夕、互に意有りて銜みしもこの酒ならずや。更に両個の影に伴ひて、人の情の必ず濃なれば、必ず芳かりしもこの酒ならずや。その恋中の楽を添へて、三歳の憂を霽せしもこの酒ならずや。彼はその酒を取りて、吉き事積りし後の凶の凶なる今夜の末期に酬ゆるの、可哀に余り、可悲きに過るを観じては、口にこそ言はざりけれど、玉成す涙は点々と散りて零れぬ。 「おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ」 「狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情で死んで了ふのが……悔い、私は!」  聞くも苦しと、男は一息に湯呑の半を呷りて、 「さあ、お静」  女は何気無く受けながら、思へば、別の盃かと、手に取るからに胸潰れて、 「狭山さん、私は今更お礼を言ふと云ふのも、異な者だけれど、貴方は長い月日の間、私のやうなこんな不束者の我儘者を、能くも愛相を尽かさずに、深切に、世話をして下すつた。  私は今まで口には出さなかつたけれど、心の内ぢや、狭山さん、嬉いなんぞと謂ふのは通り越して、実に難有いと思つてゐました。その御礼を為たいにも、知つてゐる通の阿母さんが在るばかりに唯さう思ふばかりで、どうと云ふ事も出来ず、本当に可恥いほど行届かないだらけで、これぢや余り済まないから、一日も早く所帯でも持つやうに成つて、さうしたら一度にこの恩返しを為ませうと、私は、そればかりを楽に、出来ない辛抱も為てゐたんだけれど、もう、今と成つちや何もかも水……水……水の……泡。  つい心易立から、浸々お礼も言はずにゐたけれど、狭山さん、私の心は、さうだつたの。もうこれぎりで、貴方も……私も……土に成つて了へば、又とお目には掛れ、ないんだから、せめては、今改めて、狭山さん、私はお礼を申します」  男は身をも搾らるるばかりに怺へかねたる涙を出せり。 「もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路の障だ。両箇が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ」 「私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます」  涙諸共飲干して、 「あなた、一つお酌して下さいな」  注げば又呷りて、その余せるを男に差せば、受けて納めて、手を把りて、顔見合せて、抱緊めて、惜めばいよいよ尽せぬ名残を、いかにせばやと思惑へる互の心は、唯それなりに息も絶えよと祈る可かめり。  男は抱ける女の耳のあたかも唇に触るる時、現ともなく声誘はれて、 「お静、覚悟は可いか」 「可いわ、狭山さん」 「可けりや……」 「不如もう早く」  狭山は直に枕の下なる袱紗包の紙入を取上げて、内より出せる一包の粉剤こそ、正に両個が絶命の刃に易ふる者なりけれ。  女は二つの茶碗を置並ぶれば、玉の如き真白の粉末は封を披きて、男の手よりその内に頒たれぬ。 「さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が」 「ああ可うござんす」  雨はこの時漸く霽れて、軒の玉水絶々に、怪禽鳴過る者両三声にして、跡松風の音颯々たり。  狭山はやがて銚子を取りて、一箇の茶碗に酒を澆げば、お静は目を閉ぢ、合掌して、聞えぬほどの忍音に、 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」  代りて酌する彼の想は、吾手男の胸元に刺違ふる鋩を押当つるにも似たる苦しさに、自から洩出づる声も打震ひて、 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無……阿弥陀……南無阿弥……陀……仏、南無……」  と両個は心も消入らんとする時、俄に屋鳴震動して、百雷一処に堕ちたる響に、男は顛れ、女は叫びて、前後不覚の夢か現の人影は、乍ち顕れて燈火の前に在り。 「貴方方は、怪からん事を! 可けませんぞ」  男は漸く我に復りて、惧ぢ愕ける目を瞪き、 「ああ! 貴方は」 「お見覚ありませう、あれに居る泊客です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか」  悄然として面を挙げざる男、その陰に半ば身を潜めたる女、貫一は両個の姿を眗しつつ、彼の答を待てり。 「勿論これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入つたお話は承はらんでも宜い、但何故に貴下方は活きてをられんですか、それだけお聞せ下さい」 「…………」 「お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか」  男は甚だ微に頷きつ。 「さやうですか。さうしてその添れんと云ふのは、何故に添れんのです」  彼は又黙せり。 「その次第を伺つて、私の力で及ぶ事でありましたら、随分御相談合手にも成らうかと、実は考へるので。然し、お話の上で到底私如きの力には及ばず、成程活きてをられんのは御尤だ、他人の私でさへ外に道は無い、と考へられるやうなそれが事情でありましたら、私は決してお止め申さん。ここに居て、立派に死なれるのを拝見もすれば、介錯もして上げます。  私もこの間に入つた以上は、空く手を退く訳には行かんのです。貴下方を拯ふ事が出来るか、出来んか、那一箇です。幸に拯ふ事が出来たら、私は命の親。又出来なかつたら、貴下方はこの世に亡い人。この世に亡い人なら、如何なる秘密をここで打明けたところが、一向差支無からうと私は思ふ。若し命の親とすればです、猶更その者に裹み隠す事は無いぢやありませんか。私は何も洒落に貴下方のお話を聴かうと云ふのぢやありません、可うございますか、顕然と聴くだけの覚悟を持つて聴くのです。さあ、お話し下さい!」 第五章  貫一は気を厳粛にして逼れるなり。さては男も是非無げに声出すべき力も有らぬ口を開きて、 「はい御深切に……難有う存じます……」 「さあ、お話し下さい」 「はい」 「今更お裹みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町の者で、間貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個の命を拯ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです」 「はい、段々御深切に、難有う存じます」 「それぢや、お話し下さるか」 「はい、お聴に入れますで御座います」 「それは忝ない」  彼は始めて心安う座を取れば、恐る惶る狭山は先づその姿を偸見て、 「何からお話し申して宜いやら……」 「いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰る──! 何為添れんのですか」 「はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣ひ込みましたので御座います」 「はあ、御主人持ですか」 「さやうで御座います。私は南伝馬町の幸菱と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋の愛子と申しまする」  名宣られし女は、消えも遣らでゐたりし人陰の闇きより僅に躙り出でて、面伏にも貫一が前に会釈しつ。 「はあ、成程」 「然るところ、昨今これに身請の客が附きまして」 「ああ、身請の? 成程」 「否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負の為に、主人から告訴致されまして、活きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何にとも致方が御座いませんゆゑ、無分別とは知りつつも、つい突迫めまして、面目次第も御座いません」  彼等はその無分別を慙ぢたりとよりは、この死失ひし見苦しさを、天にも地にも曝しかねて、俯しも仰ぎも得ざる項を竦め、尚も為ん方無さの目を閉ぢたり。 「ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消だつて、その金額を弁償して、宜く御主人に詑びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負は若干ばかりの額に成るのですか」 「三千円ほど」 「三千円。それから身請の金は?」  狭山は女を顧みて、二言三言小声に語合ひたりしが、 「何やかやで八百円ぐらゐは要りますので」 「三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな」  打算し来れば、真に彼等の命こそ、一人前一千九百円に過ぎざるなれ。 「それぢや死ぬのはつまらんですよ! 三千や四千の金なら、随分そこらに滾つてゐやうと私は思ふ。就いては何とか御心配して上げたいと考へるのですが、先づとにかく貴下方の身の上を一番悉くお話し下さらんか」  かかる際には如何ばかり嬉き人の言ならんよ。彼はその偽と真とを思ふに遑あらずして、遣る方も無き憂身の憂きを、冀くば跡も留めず語りて竭さんと、弱りし心は雨の柳の、漸く風に揺れたる勇を作して、 「はい、ついに一面識も御座いません私共、殊に痴情の果に箇様な不始末を為出しました、何ともはや申しやうも無い爛死蛇に、段々と御深切のお心遣、却つて恥入りまして、実に面目次第も御座いません。  折角の御言で御座いますから、思召に甘えまして、一通りお話致しますで御座いますが、何から何まで皆恥で、人様の前ではほとほと申上げ兼ねますので御座います。  実は、只今申上げました三千円の費消と申しますのは、究竟遊蕩を致しました為に、店の金に手を着けましたところ、始の内はどうなり融通も利きましたので、それが病付に成つて、段々と無理を致しまして、長い間に懵々穴を開けましたのが、積り積つて大分に成りましたので御座います。  然るところ、もう八方塞つて遣繰は付きませず、いよいよ主人には知れますので、苦紛れに相場に手を出したのが怪我の元で、ちよろりと取られますと、さあそれだけ穴が大きく成りましたものですから、愈よ為方御座いません、今度はどうか、今度はどうかで、もうさう成つては私も死物狂で、無理の中から無理を致して、続くだけ遣りましたところが、到頭逐倒されて了ひまして、三千円と申上げました費消も、半分以上はそれに注込みましたので御座います。  然し、これだけの事で御座いますれば、主人も従来の勤労に免じて、又どうにも勘弁は致してくれましたので御座います。現にこの一条が発覚致しまして、主人の前に呼付けられました節も、この度の事は格別を以つて赦し難いところも赦して遣ると、箇様に申してはくれましたので」 「成程⁈」 「と申すのには、少し又仔細が御座いますので。それは、主人の家内の姪に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻せやうと云ふ意衷で、前々からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延して御座いましたのを、決然どうかと云ふ手詰の談に相成りましたので。究竟、費消は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います」 「大きに」 「其処には又千百事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います」 「ああ、さうなのですか」 「そこへ持つて参つて、此度の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全で仇をば恩で返してくれますやうな、申分の無い主人の所計。それを乖きましては、私は罰が中りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何にともその気に成れませんので、已むを得ず縁談の事は拒絶を申しましたので御座います」 「うむ、成程」 「それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘を言ふのなら、費消を償へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵が附く事だから、思反して主人の指図に従へと、中に人まで入れて、未だ未だ申してくれましたのを、何処までも私は剛情を張通して了つたので御座います」 「吁! それは貴方が悪いな」 「はい、もう私の善いところは一つでも有るのぢや御座いません。その事に就きまして、主人に書置も致しましたやうな次第で、既に覚悟を極めました際まで、心懸と申すのは、唯そればかりなので御座いました。  で又その最中にこれの方の身請騒が起りましたので」 「成程!」 「これの母親と申すのは養母で御座いまして、私も毎々話を聞いてをりますが、随分それは非道な強慾な者で御座います。まあ悉く申上げれば、長いお話も御座いますが、これも娘と申すのは名のみで、年季で置いた抱も同様の取扱を致して、為て遣る事は為ないのが徳、稼げるだけ稼がせないのは損だと云つたやうな了簡で、長い間無理な勤を為せまして、散々に搾り取つたので御座います。  で、私の有る事も知つてはをりましたが、近頃私が追々廻らなく成つて参つたところから、さあ聒く言出しまして、毎日のやうに切れろ切れろで責め抜いてをります際に、今の身請の客が附いたので御座います。丁度去年の正月頃から来出した客で、下谷に富山銀行といふのが御座います、あれの取締役で」 「え⁉ 何……何……何ですか!」 「御承知で御座いますか、あの富山唯継と云ふ……」 「富山? 唯継!」  その面色、その声音! 彼は言下に皷怒して、その名に躍り被らんとする勢を示せば、愛子は駭き、狭山は懼れて、何事とも知らず狼狽へたり。貫一は轟く胸を推鎮めても、なほ眼色の燃ゆるが如きを、両個が顔に忙く注ぎて、 「その富山唯継が身請の客ですか」 「はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?」 「知つてゐます! 好く……知つてゐます!」  狭山の打惑ふ傍に、女は密に驚く声を放てり。 「那奴が身請の?」  問はるる愛子は、会釈して、 「はい、さやうなんで御座います」 「で、貴方は彼に退かされるのを嫌つたのですな」 「はい」 「さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか」 「私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!」 「はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか」 「いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで」 「ああ、さうですか! それぢや旦那に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか」  女は聞くも穢しと、さすが謂ふには謂れぬ尻目遣して、 「私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然無いんで御座います」 「ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました」  狭山は俯きゐたり。 「それではかう云ふのですな、貴方は勤を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個を守つて──さうですね」 「さやうです」 「さうして、余所の身請を辞つて──富山唯継を振つたのだ! さうですな」 「はい」  倐忽に瞳を凝せる貫一は、愛子の面を熟視して止まざりしが、やがてその眼の中に浮びて、輝くと見れば霑ひて出づるものあり。 「嗚呼……感心しました! 実に立派な者です! 貴方は命を捨てても……この人と……添ひたいのですか!」  何の故とも分かず彼の男泣に泣くを見て、両個は空く呆るるのみ。  貫一が涙なるか。彼はこの色を売るの一匹婦も、知らず誰か爾に教へて、死に抵るまで尚この頼り難き義に頼り、守り難き節を守りて、終に奪はれざる者あるに泣けるなり。  其の泣く所以なるか。彼はこの人の世に、さばかり清く新くも、崇く優くも、高く麗くも、又は、完くも大いなる者在るを信ぜざらんと為るばかりに、一度は目前睹るを得て、その倒懸の苦を寛うせん、と心爇くが如く望みたりしを、今却りて浮萍の底に沈める泥中の光に値へる卒爾の歓極まれればなり。 「勿論さう無けりや成らん事! それが女の道と謂ふもので、さう有るべきです、さう有るべき事です。今日のこの軽薄極つた世の中に、とてもそんな心掛のある人間は、私は決して在るものではないと念つてをつた。で、もし在つたらば、どのくらゐ嬉からうと、さう念つてをつたのです。私は実に嬉い! 今夜のやうに感じた事は有りません。私はこの通泣いてゐる──涙が出るほど嬉いのです。私は人事とは思はん、人事とは思はん訳が有るので、別して深く感じたのです」  かく言ひて、貫一は忙々く鼻洟打擤みつ。 「ふむ、それで富山はどうしました」 「来る度に何のかのと申しますのを、体好く辞るんで御座いますけれど、もう憥く来ちや、一頻なんぞは毎日揚詰に為れるんで、私はふつふつ不好なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独で利巧ぶつて、可恐い意気がりで、二言目には金々と、金の事さへ言へば人は難有がるものかと思つて、俺がかうと思や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆が『御威光』と云ふ仇名を附けて了つて、何処へ行つたつて気障がられてゐる事は、そりや太甚いんで御座います」 「ああ、さうですか」 「そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可けもしない事を不相変執煩く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局には手を易へて、内のお袋へ親談をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸の上下には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒く成りましたのも、それからなので、私は辛さは辛し、熟くこんな家業は為る者ぢやないと、何も解らずに面白可笑く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います」 「うむ、身請──けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直に身請と云ふのですか」 「さうなので」 「変な奴な! さう云ふ身請の為方が、然し、有りますか」 「まあ御座いませんです」 「さうでせう。それで、身請をして他へ囲つて置かうとでも云ふのですか」 「はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉がらせを言つちやをりましたけれど」  眉を昂げたる貫一、なぞ彼の心の裏に震ふものあらざらんや。 「妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか」 「何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気なんで御座います」 「さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは」 「随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす」 「ははあ」  彼は遽に何をや打案ずらん、夢むる如き目を放ちて、 「折合が悪いですか!……病身ですか!……隠居をさせるのですか!……ああ……さうですか!」  宮の悔、宮の恨、宮の歎、宮の悲、宮の苦、宮の愁、宮が心の疾、宮が身の不幸、噫、竟にこれ宮が一生の惨禍! 彼の思は今将たこの憐むに堪へたる宮が薄命の影を追ひて移るなりき。  貫一はかの生ける宮よりも、この死なんと為る女の幾許幸にかつ愚ならざるかを思ひて、又躬の、先には己の愛する者を拯ふ能はずして、今却りて得知らぬ他人に恵みて余有る身の、幾許幸無くも又愚なるかを思ひて、謂ふばかり無く悲めるなり。  時に愛子は話を継ぎぬ。貫一は再び耳を傾けつ。 「そんな捫懌最中に、狭山さんの方が騒擾に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚して了つて、唯もう途方に昧れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう」 「うむ、大きに」 「私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈だと、初中終言つてをりますんですから、あんな奴に身を委せるの、不好は知れてゐます」 「うむ、さうとも」 「さうなんですけれど金ゆゑで両個が今死ぬのも余り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏へ行つたつて、直に迯げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少の間不好な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取だ……」 「それは詐取だ! さうとも」  あだかも我名の出でしままに、男はこれより替りて陳べぬ。 「詐取で御座いますとも! 情婦を種に詐取を致すよりは、費消の方が罪は夐に軽う御座います。そんな悪事を働いてまでも活きてゐやうとは、私は決して思ひは致しません。又これに致しましても、あれまで振り通した客に、今と成つて金ゆゑ体を委せるとは、如何なる事にも、余り意気地が無さ過ぎて、それぢや人間の皮を被つてゐる効が御座りませんです。私は金に窮つて心中なんぞを為た、と人に嗤れましても、情婦の体を売つたお陰で、やうやう那奴等は助つてゐるのだ、と一生涯言れますのは不好で御座います。そんな了簡が出ます程なら、両個の命ぐらゐ助ける方は外に幾多も御座いますので。  ここに活きてゐやうと云ふには、どうでもこの上の悪事を為んければ成りませんので、とても死ぬより外は無い! 私は死ぬと覚悟を為たが、お前の了簡はどうか、と実は私が申しましたので」 「成程。そこで貴方が?」 「私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ──それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います」 「いや、善く解りました!」  貫一は宛然我が宮の情急に、誠壮に、凛たるその一念の言を、かの当時に聴くらん想して、独り自ら胸中の躍々として痛快に堪へざる者あるなり。  正にこれ、垠も知らぬ失恋の沙漠は、濛々たる眼前に、麗き一望のミレエジは清絶の光を放ちて、甚だ饒に、甚だ明かに浮びたりと謂はざらん哉。  彼は幾どこの女の宮ならざるをも忘れて、その七年の憂憤を、今夜の今にして始て少頃も破除するの間を得つ。信に得難かりしこの間こそ、彼が宮を失ひし以来、唯これに易へて望みに望みたりし者ならずと為んや。  嗚呼麗きミレエジ!  貫一が久渇の心は激く動されぬ。彼は声さへやや震ひて、 「さう申しては失礼か知らんが、貴方の商売柄で、一箇の男を熟と守つて、さうしてその人の落目に成つたのも見棄てず、一方には、身請の客を振つてからに、後来花の咲かうといふ体を、男の為には少しも惜まずに死なうとは、実に天晴なもの! 余り見事な貴方のその心掛に感じ入つて、私は……涙が……出ました。  貴方は、どうか生涯その心掛を忘れずにゐて下さい! その心掛は、貴方の宝ですよ。又狭山さんの宝、則ち貴下方夫婦の宝なのです!  今後とも、貴方は狭山さんの為には何日でも死んで下さい。何日でも死ぬと云ふ覚悟は、始終きつと持つてゐて下さい。可う御座いますか。  千万人の中から唯一人見立てて、この人はと念つた以上は、勿論その人の為には命を捨てるくらゐの了簡が無けりや成らんのです。その覚悟が無いくらゐなら、始から念はん方が可いので、一旦念つたら骨が舎利に成らうとも、決して志を変へんと云ふのでなければ、色でも、恋でも、何でもないです! で、若し好いた、惚れたと云ふのは上辺ばかりで、その実は移気な、水臭い者とも知らず、這箇は一心に成つて思窮めてゐる者を、いつか寝返を打れて、突放されるやうな目に遭つたと為たら、その棄てられた者の心の中は、どんなだと思ひますか」  彼の声音は益す震へり。 「さう云ふのが有ります! 私は世間にはさう云ふのの方が多いと考へる。そんな徒爾な色恋は、為た者の不仕合、棄てた者も、棄てられた者も、互に好い事は無いのです。私は現にさう云ふのを睹てゐる! 睹てゐるから今貴下方がかうして一処に死ぬまでも離れまいと云ふまでに思合つた、その満足はどれ程で、又そのお互の仕合は、実に謂ふに謂はれん程の者であらう、と私は思ふ。  それに就けても、貴方のその美い心掛、立派な心掛、どうかその宝は一生肌身に附けて、どんな事が有らうとも、決して失はんやうに為て下さい!──可う御座いますか。さうして、貴下方はお二人とも末長く、です、毎も今夜のやうなこの心を持つて、睦く暮して下さい、私はそれが見たいのです!  今は死ぬところでない、死ぬには及びません、三千円や四千円の事なら、私がどうでも為て上げます」  聞訖りし両個が胸の中は、諸共に潮の如きものに襲はれぬ。  未だ服さざりし毒の俄に変じて、この薬と成れる不思議は、喜ぶとよりは愕かれ、愕くとよりは打惑はれ、惑ふとよりは怪まれて、鬼か、神か、人ならば、如何なる人かと、彼等は覚えず貫一の面を見据ゑて、更にその目を窃に合せつ。  四辺も震ふばかりに八声の鶏は高く唱へり。  夜すがら両個の運星蔽ひし常闇の雲も晴れんとすらん、隠約と隙洩る曙の影は、玉の緒長く座に入りて、光薄るる燈火の下に並べるままの茶碗の一箇に、小き蛾有りて、落ちて浮べり。 新続金色夜叉 第一章  生れてより神仏を頼み候事とては一度も無御座候へども、此度ばかりはつくづく一心に祈念致し、吾命を縮め候代に、必ず此文は御目に触れ候やうにと、それをば力に病中ながら筆取りまゐらせ候。幸に此の一念通じ候て、ともかくも御披せ被下候はば、此身は直ぐ相果て候とも、つゆ憾には不存申候。元より御憎悪強き私には候へども、何卒是は前非を悔いて自害いたし候一箇の愍なる女の、御前様を見懸けての遺言とも思召し、せめて一通り御判読被下候はば、未来までの御情と、何より嬉う嬉う存上げまゐらせ候。  扨とや、先頃に久々とも何とも、御生別とのみ朝夕に諦め居り候御顔を拝し、飛立つばかりの御懐しさやら、言ふに謂れぬ悲しさやらに、先立つものは涙にて、十年越し思ひに思ひまゐらせ候事何一つも口には出ず、あれまでには様々の覚悟も致し、また心苦き御目もじの恥をも忍び、女の身にてはやうやうの思にて参じ候効も無く、誠に一生の無念に存じまゐらせ候。唯其折の形見には、涙の隙に拝しまゐらせ候御姿のみ、今に目に附き候て旦暮忘れやらず、あらぬ人の顔までも御前様のやうに見え候て、此頃は心も空に泣暮し居りまゐらせ候。  久う御目もじ致さず候中に、別の人のやうに総て御変り被成候も、私には何とやら悲く、又殊に御顔の羸、御血色の悪さも一方ならず被為居候は、如何なる御疾に候や、御見上げ申すも心細く存ぜられ候へば、折角御養生被遊、何は措きても御身は大切に御厭ひ被成候やう、くれぐれも念じ上候。それのみ心に懸り候余、悲き夢などをも見続け候へば、一入御案じ申上まゐらせ候。  私事恥を恥とも思はぬ者との御さげすみを顧ず、先頃推して御許まで参し候胸の内は、なかなか御目もじの上の辞にも尽し難くと存候へば、まして廻らぬ筆には故と何も記し申さず候まま、何卒々々宜く御汲分被下度候。さやうに候へば、其節の御腹立も、罪ある身には元より覚悟の前とは申しながら、余とや本意無き御別に、いとど思は愈り候て、帰りて後は頭痛み、胸裂るやうにて、夜の目も合はず、明る日よりは一層心地悪く相成、物を見れば唯涙こぼれ、何事とも無きに胸塞り、ふとすれば思迫めたる気に相成候て、夜昼と無く劇く悩み候ほどに、四日目には最早起き居り候事も大儀に相成、午過より蓐に就き候まま、今日まで懕々致候て、唯々懐き御方の事のみ思続け候ては、みづからの儚き儚き身の上を慨き、胸は愈よ痛み、目は見苦く腫起り候て、今日は昨日より痩衰へ申候。  かやうに思迫め候気にも相成候上に、日毎に闇の奥に引入れられ候やうに段々心弱り候へば、疑も無く信心の誠顕れ候て、此の蓐に就き候が元にて、はや永からぬ吾身とも存候まま、何卒これまでの思出には、たとひ命ある内こそ如何やうの御恨は受け候とも、今はの際には御前様の御膝の上にて心安く息引取り度くと存候へども、それは愜はぬ罪深き身に候上は、もはや再び懐き懐き御顔も拝し難く、猶又前非の御ゆるしも無くて、此儘相果て候事かと、諦め候より外無く存じながら、とてもとても諦めかね候苦しさの程は、此心の外に知るものも、喩ふるものも無御座候。是のみは御憎悪の中にも少は不愍と思召被下度、かやうに認め居り候内にも、涙こぼれ候て致方無く、覚えず麁相いたし候て、かやうに紙を汚し申候。御容し被下度候。  さ候へば私事如何に自ら作りし罪の報とは申ながら、かくまで散々の責苦を受け、かくまで十分に懺悔致し、此上は唯死ぬるばかりの身の可哀を、つゆほども御前様には通じ候はで、これぎり空く相成候が、余に口惜く存候故、一生に一度の神仏にも縋り候て、此文には私一念を巻込め、御許に差出しまゐらせ候。  返す返すも悔き熱海の御別の後の思、又いつぞや田鶴見子爵の邸内にて図らぬ御見致候而来の胸の内、其後途中にて御変り被成候荒尾様に御目に懸り、しみじみ御物語致候事など、先達而中冗うも冗うも差上申候。毎度の文にて細に申上候へども、一通の御披せも無之やうに仰せられ候へば、何事も御存無きかと、誠に御恨う存上候。百度千度繰返し候ても、是非に御耳に入れまゐらせ度存候へども、今此の切なく思乱れ居候折から、又仮初にも此上に味気無き昔を偲び候事は堪難く候故、ここには今の今心に浮び候ままを書続けまゐらせ候。  何卒余所ながらも承はり度存上候は、長々御信も無く居らせられ候御前様の是迄如何に御過し被遊候や、さぞかし暴き憂世の波に一方ならぬ御艱難を遊し候事と、思ふも可恐きやうに存上候を、ようもようも御めでたう御障無う居らせられ、悲き中にも私の喜は是一つに御座候。  御前様の数々御苦労被遊候間に、私とても始終人知らぬ憂思を重ね候て、此世には苦みに生れ参り候やうに、唯儚き儚き月日を送りまゐらせ候。吾身ならぬ者は、如何なる人も皆可羨く、朝夕の雀鴉、庭の木草に至る迄、それぞれに幸ならぬは無御座、世の光に遠き囹圄に繋れ候悪人にても、罪ゆり候日の楽は有之候ものを、命有らん限は此の苦艱を脱れ候事愜はぬ身の悲しさは、如何に致候はば宜きやら、御推量被下度候。申すも異な事に候へども、抑も始より我心には何とも思はぬ唯継に候へば、夫婦の愛情と申候ものは、十年が間に唯の一度も起り申さず、却つて憎き仇のやうなる思も致し、其傍に居り候も口惜く、倩く疎み果て候へば、三四年前よりは別居も同じ有様に暮し居候始末にて、私事一旦の身の涜も漸く今は浄く相成、益堅く心の操を守り居りまゐらせ候。先頃荒尾様より御譴も受け、さやうな心得は、始には御前様に不実の上、今又唯継に不貞なりと仰せられ候へども、其の始の不実を唯今思知り候ほどの愚なる私が、何とて後の不貞やら何やら弁へ申すべきや。愚なる者なればこそ人にも勾引され候て、帰りたき空さへ見えぬ海山の果に泣倒れ居り候を、誰一箇も愍みて救はんとは思召し被下候はずや。御前様にも其の愚なる者を何とも思召し被下候はずや。愚なる者の致せし過も、並々の人の過も、罪は同きものに御座候や、重きものに御座候や。  愚なる者の癖に人がましき事申上候やうにて、誠に御恥う存候へども、何とも何とも心得難く存上候は、御前様唯今の御身分に御座候。天地は倒に相成候とも、御前様に限りてはと、今猶私は疑ひ居り候ほど驚入まゐらせ候。世に生業も数多く候に、優き優き御心根にもふさはしからぬ然やうの道に御入り被成候までに、世間は鬼々しく御前様を苦め申候か。田鶴見様方にて御姿を拝し候後始て御噂承はり、私は幾日も幾日も泣暮し申候。これには定て深き仔細も御座候はんと存候へども、玉と成り、瓦と成るも人の一生に候へば、何卒昔の御身に御立返り被遊、私の焦れ居りまゐらせ候やうに、多くの人にも御慕れ被遊候御出世の程をば、偏に偏に願上まゐらせ候。世間には随分賢からぬ者の好き地位を得て、時めかし居り候も少からぬを見るにつけ、何故御前様には然やうの善からぬ業を択に択りて、折角の人に優れし御身を塵芥の中に御捨て被遊候や、残念に残念に存上まゐらせ候。  愚なる私の心得違さへ無御座候はば、始終御側にも居り候事とて、さやうの思立も御座候節に、屹度御諌め申候事も叶ひ候ものを、返らぬ愚痴ながら私の浅はかより、みづからの一生を誤り候のみか、大事の御身までも世の廃り物に致させ候かと思ひまゐらせ候へば、何と申候私の罪の程かと、今更御申訳の致しやうも無之、唯そら可恐しさに消えも入度く存まゐらせ候。御免し被下度、御免し被下度、御免し被下度候。  私は何故富山に縁付き申候や、其気には相成申候や、又何故御前様の御辞には従ひ不申候や、唯今と相成候て考へ申候へば、覚めて悔き夢の中のやうにて、全く一時の迷とも可申、我身ながら訳解らず存じまゐらせ候。二つ有るものの善きを捨て、悪きを取り候て、好んで箇様の悲き身の上に相成候は、よくよく私に定り候運と、思出し候ては諦め居り申候。  其節御前様の御腹立一層強く、私をば一打に御手に懸け被下候はば、なまじひに今の苦艱は有之間敷、又さも無く候はば、いつそ御前様の手籠にいづれの山奥へも御連れ被下候はば、今頃は如何なる幸を得候事やらんなど、愚なる者はいつまでも愚に、始終愚なる事のみ考居り申候。  嬉くも御赦を得、御心解けて、唯二人熱海に遊び、昔の浜辺に昔の月を眺め、昔の哀き御物語を致し候はば、其の心の内は如何に御座候やらん思ふさへ胸轟き、書く手も震ひ申候。今も彼の熱海に人は参り候へども、そのやうなる楽を持ち候ものは一人も有之まじく、其代には又、私如き可憐の跡を留め候て、其の一夜を今だに歎き居り候ものも決して御座あるまじく候。  世をも身をも捨て居り候者にも、猶肌身放さず大事に致候宝は御座候。それは御遺置の三枚の御写真にて何見ても楽み候はぬ目にも、是のみは絶えず眺め候て、少しは憂さを忘れ居りまゐらせ候。いつも御写真に向ひ候へば、何くれと当時の事憶出し候中に、うつつとも無く十年前の心に返り候て、苦き胸も暫は涼く相成申候。最も所好なるは御横顔の半身のに候へども、あれのみ色褪め、段々薄く相成候が、何より情無く存候へども、長からぬ私の宝に致し候間は仔細も有るまじく、亡き後には棺の内に歛めもらひ候やう、母へは其を遺言に致候覚悟に御座候。  ある女世に比無き錦を所持いたし候処、夏の熱き盛とて、差当り用無く思ひ候不覚より、人の望むままに貸与へ候後は、いかに申せども返さず、其内に秋過ぎ、冬来り候て、一枚の曠着さへ無き身貧に相成候ほどに、いよいよ先の錦の事を思ひに思ひ候へども、今は何処の人手に渡り候とも知れず、日頃それのみ苦に病み、慨き暮し居り候折から、さる方にて計らず一人の美き女に逢ひ候処、彼の錦をば華かに着飾り、先の持主とも知らず貧き女の前にて散々ひけらかし候上に、恥まで与へ候を、彼女は其身の過と諦め候て、泣く泣く無念を忍び申候事に御座候が、其錦に深き思の繋り候ほど、これ見よがしに着たる女こそ、憎くも、悔くも、恨くも、謂はうやう無き心の内と察せられ申候。  先達而は御許にて御親類のやうに仰せられ候御婦人に御目に掛りまゐらせ候。毎日のやうに御出で被成候て、御前様の御世話万事被遊候御方の由に候へば、後にて御前様さぞさぞ御大抵ならず御迷惑被遊候御事と、山々御察し申上候へども、一向さやうに御内合とも存ぜず、不躾に参上いたし候段は幾重にも、御詫申上まゐらせ候。  尚数々申上度存候事は胸一杯にて、此胸の内には申上度事の外は何も無御座候へば、書くとも書くとも尽き申間敷、殊に拙き筆に候へば、よしなき事のみくだくだしく相成候ていくらも、大切の事をば書洩し候が思残に御座候。惜き惜き此筆止めかね候へども、いつの限無く手に致し居り候事も叶ひ難く、折から四時の明近き油も尽き候て、手元暗く相成候ままはやはや恋き御名を認め候て、これまでの御別と致しまゐらせ候。  唯今の此の気分苦く、何とも難堪き様子にては、明日は今日よりも病重き事と存候。明後日は猶重くも相成可申、さやうには候へども、筆取る事相叶ひ候間は、臨終までの胸の内御許に通じまゐらせ度存候へば、覚束無くも何なりとも相認め可申候。  私事空く相成候とも、決して余の病にては無之、御前様御事を思死に死候ものと、何卒々々御愍み被下、其段はゆめゆめ詐にては無御座、みづから堅く信じ居候事に御座候。  明日は御前様御誕生日に当り申候へば、わざと陰膳を供へ候て、私事も共に御祝ひ可申上、嬉きやうにも悲きやうにも存候。猶くれぐれも朝夕の御自愛御大事に、幾久く御機嫌好う明日を御迎へ被遊、ますます御繁栄に被為居候やう、今は世の望も、身の願も、それのみに御座候。  まづはあらあらかしこ。 五月二十五日 おろかなる女ゟ 恋き恋き 生別の御方様 まゐる 第二章  隣に養へる薔薇の香の烈く薫じて、颯と座に入る風の、この読尽されし長き文の上に落つると見れば、紙は冉々と舞延びて貫一の身を縈り、猶も跳らんとするを、彼は徐に敷据ゑて、その膝に慵げなる面杖拄きたり。憎き女の文なんど見るも穢しと、前には皆焚棄てたりし貫一の、如何にしてこたびばかりは終に打拆きけん、彼はその手にせし始に、又は読去りし後に、自らその故を譲めて、自ら知らざるを愧づるなりき。  彼はやがて屈めし身を起ししが、又直ちに重きに堪へざらんやうの頭を支へて、机に倚れり。  緑濃かに生茂れる庭の木々の軽々なる燥気と、近き辺に有りと有る花の薫とを打雑ぜたる夏の初の大気は、太だ慢く動きて、その間に旁午する玄鳥の声朗に、幾度か返しては遂に往きける跡の垣穂の、さらぬだに燃ゆるばかりなる満開の石榴に四時過の西日の夥く輝けるを、彼は煩しと目を移して更に梧桐の涼き広葉を眺めたり。  文の主はかかれと祈るばかりに、命を捧げて神仏をも驚かししと書けるにあらずや。貫一は又、自ら何の故とも知らで、独りこれのみ披くべくもあらぬ者を披き見たるにあらずや。彼を絡へる文は猶解けで、巌に浪の瀉ぐが如く懸れり。  そのままに専と思入るのみなりし貫一も、漸く悩く覚えて身動ぐとともに、この文殻の埓無き様を見て、やや慌てたりげに左肩より垂れたるを取りて二つに引裂きつ。さてその一片を手繰らんと為るに、長きこと帯の如し。好き程に裂きては累ね、累ぬれば、皆積みて一冊にも成りぬべし。  かかる間も彼は自と思に沈みて、その動す手も怠く、裂きては一々読むかとも目を凝しつつ。やや有りて裂了りし後は、あだかも劇き力作に労れたらんやうに、弱々と身を支へて、長き頂を垂れたり。  されど久きに勝へずやありけん、卒に起たんとして、かの文殻の委きたるを取上げ、庭の日陰に歩出でて、一歩に一たび裂き、二歩に二たび裂き、木間に入りては裂き、花壇を繞りては裂き、留りては裂き、行きては裂き、裂きて裂きて寸々に作しけるを、又引捩りては歩み、歩みては引捩りしが、はや行くも苦く、後様に唯有る冬青の樹に寄添へり。  折から縁に出来れる若き女は、結立の円髷涼しげに、襷掛の惜くも見ゆる真白の濡手を弾きつつ、座敷を覗き、庭を窺ひ、人見付けたる会釈の笑をつと浮べて、 「旦那様、お風呂が沸きましたが」  この姿好く、心信かなるお静こそ、僅にも貫一がこの頃を慰むる一の唯一の者なりけれ。 (二)の二  浴すれば、下立ちて垢を流し、出づるを待ちて浴衣を着せ、鏡を据るまで、お静は等閑ならず手一つに扱ひて、数ならぬ女業の効無くも、身に称はん程は貫一が為にと、明暮を唯それのみに委ぬるなり。されども、彼は別に奥の一間に己の助くべき狭山あるをも忘るべからず。そは命にも、換ふる人なり。又されども、彼と我との命に換ふる大恩をここの主にも負へるなり。如此く孰れ疎ならぬ主と夫とを同時に有てる忙しさは、盆と正月との併せ来にけんやうなるべきをも、彼はなほ未だ覚めやらぬ夢の中にて、その夢心地には、如何なる事も難しと為るに足らずと思へるならん。寔に彼はさも思へらんやうに勇み、喜び、誇り、楽める色あり。彼の面は為に謂ふばかり無く輝ける程に、常にも愈して妖艶に見えぬ。  暫し浴後を涼みゐる貫一の側に、お静は習々と団扇の風を送りゐたりしが、縁柱に靠れて、物をも言はず労れたる彼の気色を左瞻右視て、 「貴方、大変にお顔色がお悪いぢや御座いませんか」  貫一はこの言に力をも得たらんやうに、萎え頽れたる身を始て揺りつ。 「さうかね」 「あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです」 「別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然せんねえ」 「惺然あそばせよ。麦酒でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし」 「麦酒かい、余り飲みたくもないね」 「貴方そんな事を有仰らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私が冷して置きましたのですから」 「それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう」 「何で御座いますつて⁈」 「いや、常談ぢやない、さうなのだらう」 「狭山は、貴方、麦酒なんぞを戴ける今の身分ぢや御座いませんです」 「そんなに堅く為んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る」  お静は些と涙含みし目を拭ひて、 「この上の気楽が有つて耐るものぢや御座いません」 「けれども有物だから、所好なら飲んでもらはう。お前さんも克くのだらう」 「はあ、私もお相手を致しますから、一盃召上りましよ。氷を取りに遣りまして──夏蜜柑でも剥きませう──林檎も御座いますよ」 「お前さん飲まんか」 「私も戴きますとも」 「いや、お前さん独で」 「貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?」 「私は飲まん」 「ぢや見てゐらつしやるのですか。不好ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今直に持つて参りますから、其処にゐらつしやいまし」  気軽に走り行きしが、程無く老婢と共に齎せる品々を、見好げに献立して彼の前に陳ぶれば、さすがに他の老婆子が寂き給仕に義務的吃飯を強ひらるるの比にもあらず、やや難捨き心地もして、コップを取挙れば、お静は慣れし手元に噴溢るるばかり酌して、 「さあ、呷とそれを召上れ」  貫一はその半を尽して、先づ息へり。林檎を剥きゐるお静は、手早く二片ばかり剡ぎて、 「はい、お肴を」 「まあ、一盃上げやう」 「まあ、貴方──いいえ、可けませんよ。些とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽れますから」 「そんなに飲んだら倒れて了ふ」 「お倒れなすたつて宜いぢや御座いませんか。本当に今日は不好な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ」  彼は覚えず薄笑して、 「薬だつてさうは利かんさ」 「どうあそばしたので御座います。何処ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから」 「体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか」 「へい、お酌。ああ、余りお見事ぢや御座いませんか」 「見事でも可かんのかい」 「いいえ、お見事は結構なのですけれど、余り又──頂戴……ああ恐入ります」 「いや、考へて見ると、人間と云ふものは不思議な者だ。今まで不見不知の、実に何の縁も無いお前さん方が、かうして内に来て、狭山君はああして実体の人だし、お前さんは優く世話をしてくれる、私は決して他人のやうな心持は為んね。それは如何なる事情が有つてかう成つたにも為よ、那裏で逢はなければ、何処の誰だかお互に分らずに了つた者が、急に一処に成つて、貴方がどうだとか、私がかうだとか、……や、不思議だ! どうか、まあ渝らず一生かうしてお附合を為たいと思ふ。けれども私は高利貸だ。世間から鬼か蛇のやうに謂れて、この上も無く擯斥されてゐる高利貸だ。お前さん方もその高利貸の世話に成つてゐられるのは、余り栄でも無く、さぞ心苦く思つてゐられるだらう、と私は察してゐる。のみならず、人の生血を搾つてまでも、非道な貨を殖へるのが家業の高利貸が、縁も所因も無い者に、設ひ幾らでも、それほど大事の金をおいそれと出して、又体まで引取つて世話を為ると云ふには、何か可恐い下心でもあつて、それもやつぱり慾徳渾成で恩を被せるのだらうと、内心ぢやどんなにも無気味に思つてゐられる事だらう、とそれも私は察してゐる。  さあ、コップを空けて、返して下さい」 「召上りますの?」 「飲む」  酒気は稍彼の面に上れり。 「お静さんはどう思ふね」 「私共は固より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助つてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります」 「忝ない。然し、私は天引三割の三月縛と云ふ躍利を貸して、暴い稼を為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に銭儲を為るやうな、廻り迂い事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決してそんな懸念は為て下さるな。又私の了簡では、元々些の酔興で二人の世話を為るのだから、究竟そちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう剰銭を貰はうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は愈よ怪く思ふかも知れん──いや、きつとさう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!」  彼は長吁して、 「それも悪木の蔭に居るからだ!」 「貴方、決して私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに有仰いますなら、何か私共の致しました事がお気に障りましたので御座いませう。かう云ふ何も存じません粗才者の事で御座いますから」 「いいや、……」 「いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きませんところは」 「いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けてくれては甚だ困る」 「ついにそんな事を有仰つた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、日頃私共に御不足がお有なすつて」 「いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が陰陽無く実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。往日話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの独法師の体だから、気分が悪くても、誰一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは心細いのだ。さう云ふ私に、鬱いでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるその深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、嘘でも何でも無い。さあ、嘘でない信に一献差すから、その積で受けてもらはう」 「はあ、是非戴かして下さいまし」 「ああ、もうこれには無い」 「無ければ嘘なので御座いませう」 「未だ半打の上有るから、あれを皆注いで了はう」 「可うございますね」  貫一が老婢を喚ぶ時、お静は逸早く起ち行けり。 (二)の三  話頭は酒を更むるとともに転じて、 「それはまあ考へて見れば、随分主人の面でも、友達の面でも、踏躙つて、取る事に於ては見界なしの高利貸が、如何に虫の居所が善かつたからと云つて、人の難儀──には附込まうとも──それを見かねる風ぢやないのが、何であんな格にも無い気前を見せたのかと、これは不審を立てられるのが当然だ。  けれども、ねえ、いづれその訳が解る日も有らうし、又私といふ者が、どう云ふ人間であるかと云ふ事も、今に必ず解らうと思ふ。それが解りさへしたら、この上人の十人や二十人、私の有金の有たけは、助けやうが、恵まうが、少も怪む事は無いのだ。かう云ふと何か酷く偉がるやうで、聞辛いか知らんけれど、これは心易立に、全く奥底の無いところをお話するのだ。  いやさう考込まれては困る。陰気に成つて可かんから、話はもう罷に為う。さうしてもつと飲み給へ、さあ」 「いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし」 「肴に成るやうな話なら可いがね」 「始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無いやうにお身受申しますのに、いつもかう御元気が無くて、お険いお顔面ばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してをるので御座いますが」 「これでお前さん方が来てくれて、内が賑かに成つただけ、私も旧から見ると余程元気には成つたのだ」 「でもそれより御元気がお有なさらなかつたら、まあどんなでせう」 「死んでゐるやうな者さ」 「どうあそばしたので御座いますね」 「やはり病気さ」 「どう云ふ御病気なので」 「鬱ぐのが病気で困るよ」 「どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います」  貫一は自ら嘲りて苦しげに哂へり。 「究竟病気の所為なのだね」 「ですからどう云ふ御病気なのですよ」 「どうも鬱ぐのだ」 「解らないぢや御座いませんか! 鬱ぐのが病気だと有仰るから、どう為てお鬱ぎ遊すのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処まで行つたつて、同じ事ぢや御座いませんか」 「うむ、さうだ」 「うむ、さうだぢやありません、緊りなさいましよ」 「ああ、もう酔つて来た」 「あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると御寐に成るから、お起きなすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方」  お静は寄りて、彼の肘杖に横はれる背後より扶起せば、為ん無げに柱に倚りて、女の方を見返りつつ、 「ここを富山唯継に見せて遣りたい!」 「ああ、舎して下さいまし! 名を聞いても慄然とするのですから」 「名を聞いても慄然とする? さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ」 「ええ、些の太好かないばかりです!」 「それぢや余り差はんぢやないか」 「あんな奴は那箇だつて可いんでさ。第一活きてゐるのが間違つてゐる位のものです。  本当に世間には不好な奴ばかり多いのですけれど、貴方、どう云ふ者でせう。三千何百万とか、四千万とか、何でも太した人数が居るのぢや御座いませんか、それならもう少し気の利いた、肌合の好い、嬉い人に撞見しさうなものだと思ひますのに、一向お目に懸りませんが、ねえ」 「さう、さう、さう!」 「さうして富山みたやうなあんな奴がまあ紛々然と居て、番狂を為て行くのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致しません。どうしたらあんなにも気障に、太好かなく、厭味たらしく生れ付くのでせう」 「おうおう、富山唯継散々だ」 「ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎しませうよ」 「それぢやかう云ふ話が有る」 「はあ」 「一体男と女とでは、だね、那箇が情合が深い者だらうか」 「あら、何為で御座います」 「まあ、何為でも、お前さんはどう思ふ」 「それは、貴方、女の方がどんなに情が」 「深いと云ふのかね」 「はあ」 「信にならんね」 「へえ、信にならない証拠でも御座いますか」 「成程、お前さんは別かも知れんけれど」 「可う御座いますよ!」 「いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、慮が浅いからして、どうしても気が移り易い、これから心が動く──不実を不実とも思はんやうな了簡も出るのだ」 「それはもう女は浅捗な者に極つてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、やつぱり本当に惚れてゐないからです。心底から惚れてゐたら、些も気の移るところは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、思窮めますと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも」 「大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が非いのか、それとも男の方が非いのか」 「大変難く成りましたのね。さうですね、それは那箇かが非い事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢に在るので御座いますね」 「はあ、齢に在ると云ふと?」 「私共の商買の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚に、気惚に、底惚と、かう三様有つて、見惚と云ふと、些と見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装の奇なのなんぞには余り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未だ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟お肚の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気の奴でも、さうさう上調子に遣つちやゐられるものぢやありません。其処は何と無く深厚として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛け島田の中は』と云ふ唄の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心が一人前に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね」  お静は一笑してコップを挙げぬ。貫一は連に頷きて、 「誠に面白かつた。見惚に気惚に底惚か。齢に在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢に在る! 確に在るやうだ!」 「大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか」 「大きに感心した」 「ぢやきつと胸に中る事がお有なさるので御座いますね」 「ははははははは。何為」 「でも感心あそばし方が凡で御座いませんもの」 「ははははははは。愈よ面白い」 「あら、さうなので御座いますか」 「はははははは。さうなのとはどうなの?」 「まあ、さうなのですね」  彼は故に瞪れる眼を凝して、貫一の酔ひて赤く、笑ひて綻べる面の上に、或者を索むらんやうに打矚れり。 「さうだつたらどうかね。はははははは」 「あら、それぢや愈よさうなので御座いますか!」 「ははははははははは」 「可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて」 「はははははは」 第三章  惜くもなき命は有り候ものにて、はや其より七日に相成候へども、猶日毎に心地苦く相成候やうに覚え候のみにて、今以つて此世を去らず候へば、未練の程の御つもらせも然ぞかしと、口惜くも御恥く存上参らせ候。御前様には追々暑に向ひ候へば、いつも夏まけにて御悩み被成候事とて、此頃は如何に御暮し被遊候やと、一入御案じ申上参らせ候。  私事人々の手前も有之候故、儀ばかりに医者にも掛り候へども、もとより薬などは飲みも致さず、皆打捨て申候。御存じの此疾は決して書物の中には載せて在るまじく存候を、医者は訳無くヒステリイと申候。是もヒステリイと申候外は無きかは不存申候へども、自分には広き世間に比無き病の外の病とも思居り候ものを、さやうに有触れたる名を附けられ候は、身に取りて誠に誠に無念に御座候。  昼の中は頭重く、胸閉ぢ、気疲劇く、何を致候も大儀にて、別けて人に会ひ候が憥く、誰にも一切口を利き不申、唯独り引籠り居り候て、空く時の経ち候中に、此命の絶えず些づつ弱り候て、最期に近く相成候が自から知れ候やうにも覚え申候。  夜に入り候ては又気分変り、胸の内俄に冱々と相成、なかなか眠り居り候空は無之、かかる折に人は如何やうの事を考へ候ものと思召被成候や、又其人私に候はば何と可有之候や、今更申上候迄にも御座候はねば、何卒宜く御判じ被遊度、夜一夜其事のみ思続け候て、毎夜寝もせず明しまゐらせ候。  さりながら、何程思続け候とても、水を覓めて逾よ焔に燃かれ候に等き苦艱の募り候のみにて、いつ此責を免るるともなく存へ候は、孱弱き女の身には余に余に難忍き事に御座候。猶々此のやうの苦き思を致候て、惜むに足らぬ命の早く形付き不申るやうにも候はば、いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、逈に愈と存付き候へば、万一の場合には、然やうの事にも可致と、覚悟極めまゐらせ候。  さまざまに諦め申候へども、此の一事は迚も思絶ち難く候へば、私相果て候迄には是非々々一度、如何に致候ても推して御目もじ相願ひ可申と、此頃は唯其事のみ一心に考居り申候。昔より信仰厚き人達は、現に神仏の御姿をも拝み候やうに申候へば、私とても此の一念の力ならば、決して愜はぬ願にも無御座と存参らせ候。 (三)の二  昨日は見舞がてらに本宅の御母様参られ候。是は一つは唯継事近頃不機嫌にて、とかく内を外に遊びあるき居り候処、両三日前の新聞に善からぬ噂出で候より、心配の余様子見に参られ候次第にて、其事に就き私へ懇々の意見にて、唯継の放蕩致候は、畢竟内のおもしろからぬ故と、日頃の事一々誰が告げ候にや、可恥き迄に皆知れ候て、此後は何分心を用ゐくれ候やうにと被申候。私事其節一思ひに不法の事を申掛け、愛想を尽され候やうに致し、離縁の沙汰にも相成候はば、誠に此上無き幸と存付き候へども、此姑と申候人は、評判の心掛善き御方にて、殊に私をば娘のやうに思ひ、日頃の厚き情は海山にも喩へ難きほどに候へば、なかなか辞を返し候段にては無之、心弱しとは思ひながら、涙の零れ候ばかりにて、無拠身の不束をも詑び申候次第に御座候。  此命御前様に捨て候ものに無御座候はば、外には此人の為に捨て可申と存候。此の御方を母とし、御前様を夫と致候て暮し候事も相叶ひ候はば、私は土間に寐ね、蓆を絡ひ候ても、其楽は然ぞやと、常に及ばぬ事を恋く思居りまゐらせ候。私事相果て候はば、他人にて真に悲みくれ候は、此世に此の御方一人に御座あるべく、第一然やうの人を欺き、然やうの情を余所に致候私は、如何なる罰を受け候事かと、悲く悲く存候に、はや浅ましき死様は知れたる事に候へば、外に私の願の障とも相成不申やと、始終心に懸り居り申候。  思へば、人の申候ほど死ぬる事は可恐きものに無御座候。私は今が今此儘に息引取り候はば、何よりの仕合と存参らせ候。唯後に遺り候親達の歎を思ひ、又我身生れ効も無く此世の縁薄く、かやうに今在る形も直に消えて、此筆、此硯、此指環、此燈も此居宅も、此夜も此夏も、此の蚊の声も、四囲の者は皆永く残り候に、私独り亡きものに相成候て、人には草花の枯れたるほどにも思はれ候はぬ儚さなどを考へ候へば、返す返す情無く相成候て、心ならぬ未練も出で申候。 底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社    1969(昭和44)年11月10日発行    1998(平成10)年1月15日第39刷 初出:「読売新聞」    1897(明治30)年1月1日~1902(明治35)年5月11日 入力:柴田卓治 校正:かとうかおり ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「市ヶ谷」「児ヶ淵」「竜ヶ鼻」は小振りに、「一ヶ年分」は大振りに、つくっています。 2000年2月23日公開 2015年10月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。