冬のちょう 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 冬のちょう  すがすがしい天気で、青々と大空は晴れていましたが、その奥底に、光った冷たい目がじっと地上をのぞいているような日でした。  美しい女ちょうは、自分の卵をどこに産んだらいいかと惑っているふうでありました。なるたけ暖かな、安全な場所を探していたのでした。  もう、季節は秋の半ばだったからです。その卵が孵化して一ぴきの虫となって、体に自分のような美しい羽がはえて自由にあたりを飛べるようになるには、かなりの日数がなければならぬからでした。 「ああ、かわいそうに、こんな時分に生まれてこなければよかったのに……。」といって、女ちょうはまだ見ない子供のことを憂えたのでありました。  彼女は、さらに、そのような心配をしなくてはならぬ、自分をも不幸に考えたのでありました。 「なぜ、私は、もっと日の長い、そしていろいろの花がたくさんに咲いている時分に、この世の中へ生まれてこなかったのだろう。」と、思わずにいられなかったのです。  どこか、庭の捨て石の下からはい出てきた、がまがえるが、日あたりのいい、土手の草の上に控えて、哲学者然と瞑想にふけっていましたが、たまたま頭が上へ飛んできた、女ちょうのひとりごとをきくと、目をぱっちりと開けて、大きな口で話しかけました。 「そのころの世の中のことなら、私がよく知っている。話してきかせるから、木の葉にとまってすこし休みなさい。」  女ちょうは、びっくりしました。そこにいて、さっきから獲物をねらっていた、恐ろしい怪物に気がつかなかったのでした。 「私は、おまえをとろうとは思っていない。私は、いまなにもたべたくない。静かに、昔のことを思っていたのだ。春から夏にかけては、私たち、生物は、だれもかれも幸福なものだった。それから見れば、いまのものは、かわいそうだと思うよ。」  こうがまがえるがいったので女ちょうは、自分に同情してくれるものと思って、立ち上がったのを、引き返してきて、かたわらの一つの葉の上に止まりました。 「後生ですから、私のお母さんや、お父さんたちの、黄金時代のことを話してください。きくだけでも、生まれてきたかいがありますから。」と、彼女は、頼みました。 「それは、野にも、山にも、圃にも、花という花はあったし、やんわりとした空気には、甘い香りがただよっていた。鳥が鳴き、流れがささやき、風さえうたうのだから音楽がいたるところできかれたものだ。それは、このごろの悲しい歌とちがって力のあふれたものだった。おまえさんたちの知らない、いろんなちょうを見たよ。おまえさんが、美しくないというのでは、けっしてないが、それは、美しいちょうがたくさん飛んでいた。人間は、花よりも、かえって、ちょうちょうといって、ほめそやしたものだ。ちょっとおおげさだが、空中いっぱいちょうだといってよかったんだ。」 「まあ、そんなに、私たち、ちょうばかりだったのですか。そして、そんなに、人間に愛されたのですか。」と、女ちょうは目をまわすばかりおどろきました。  すると、がまがえるは、冷静な調子で、語りつづけました。 「おまえさんは、どう思う。そんなにちょうがたくさんいて、どの圃にも、どの花壇にも、いっぱいで、みつを吸うばかりでなく卵を産みつけたとしたら。たちまち、若木は坊主となり、野菜の葉は、穴だらけになってしまう。そうなってもちょうをきれいだなどというのは、ただふらふらしている遊び人だけで百姓や、また草木をかわいがる人間は、そうはいわない。一滴からだについたら、死んでしまうような殺虫剤で、朝から晩まで、ちょうの後を追いまわしたものだ。おまえのお母さんや、おまえさんが、子供の時分に殺されなかったのは、よほど、運がよかったのだ。」  これをきくと、女ちょうは、本能的に、くもをおそれ、人間をおそれたことが、まちがいでなかったのを悟りました。そして、さらに、なんとなく無気味に感じたので、がまがえるからも遠くはなれて飛び去ったのです。  彼女は、庭のすみにあって、日当たりのいいからたちの木を撰びました。そこには、鋭い無数の刺があって、外からの敵を守ってくれるであろうし、そのやわらかな若葉は卵が孵化して幼虫となったときの食物となるであろうと考えたからでした。  彼女は、子供に対する最後の義務を終えたのでありました。そして、子供らの将来の幸福をねがうように、からたちの木のいただきを三、四へんもひらひらと舞うと、あだかもあらしに吹かれる落ち葉のように、女ちょうの姿は、青空のかなたへと消えていったのであります。  秋草の乱れた、野原にまで、女ちょうは一気に飛んでくると気がゆるんで、一本の野菊の花にとまって休みました。  このうす紫色の、花の放つ高い香気は、なんとなく彼女の心を悲しませずにいませんでした。 「冬を前にして、なんと私たちは、悪い時代に生まれてこなければならなかったのだろう。」  彼女が、こういっているのを、だまってきいていた野菊は、 「なんの、まだ季節の遅いことがあるものですか。このように、野にはいろいろの花が咲いているではありませんか。このあいだここへやってきた緑色の蛾は、夏のはじめのころ、なんでもおおぜいが群れを造って、あの国境の高い山々を越えて七十里も、八十里も、あちらの方から旅をしてきたといっていました。まだ冬になるまでにはだいぶ間のあることです。いろいろおもしろいことがありますよ。」といって、女ちょうをなぐさめるとともに、自分で、自分をなぐさめたのでありました。  その翌日は、秋にはめずらしい暖かな日でした。強く射す光に、草の葉はきらきらと輝いて、冬などはどこか遠い地平線のかなたにしかないと考えられたのです。  このとき、黒く、雲のように、頭の上の空をかすめて飛んでいったものがあります。女ちょうは昨日から、この野の中に一夜を明かしたのであるが、音のする上を見あげて、渡り鳥にしては小さいと思ったので、 「あれは、なんですか。」と、花に向かって、たずねました。 「あれですか、ばったの群れが、どこかへ移ってゆくのです。」と、花は答えました。  どこかに、もっといい土地があるのであろうと、女ちょうは考えていました。  その晩の月は、明るかったのです。そして、地虫は、さながら、春の夜を思わせるように哀れっぽい調子で、唄をうたっていました。  幾たびか、眠られぬままに、からだを動かしていたちょうはついに、月の光を浴びながら、どこへとなく、飛び去ってしまいました。  そしてふたたび、彼女の姿は地上に見られなくなりました。  うすく霜の降りた、ある寒い朝、からたちの枝の先のところにしがみついて、金色の日の光を、ありがたそうに待っている青虫がありました。いじらしくも、そのからだには、わずかに羽が生えかかっているのでした。  たまたまかたわらにあった家の窓から、顔を出して、これを見た主人は、傷ましそうに、 「ああ。」と、感動して、声をあげました。なぜなら、彼はいまの時代に生まれてきた、自分の子供たちや、多くの子供たちのことについて、考えていたときであったからです。 「かわいそうに、こう寒くては、死んでしまうだろう。悪い時節に生まれてきたものだ。野にも、圃にも、花と光がないごとく、この社会にも、自由と空想と芸術が滅びたのだから。」 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第6刷発行 初出:「民政」    1934(昭和9)年1月 ※表題は底本では、「冬のちょう」となっています。 ※初出時の表題は「冬の蝶」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:仙酔ゑびす 2012年5月6日作成 2012年9月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。