さびしいお母さん 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 さびしいお母さん  二時間の図画の時間に、先生が、 「みなさんのお母さんを、描いてごらんなさい。」と、おっしゃいました。 「先生、お母さんのない人は、どうしますか?」と、いったものがあります。 「お母さんのない人は、だれですか?」 「武田くんは、お母さんがないのです。」 「じゃ、ない人は、お父さんをおかきなさい。」と、先生はおっしゃいました。  みんなは、静かになりました。そして、年ちゃんは、まるまるとした手に鉛筆を握って、お母さんの、お顔を思い出しているうちに、 「いまごろ、お母さんは、どうしていらっしゃるだろうな。」と、ほんとうに考えたのでした。  昨日の夜でした。お父さんが、お出かけなさろうとして、 「まだ、着物はできないのか?」と、お母さんに、おっしゃいました。 「もうすこしですけれど、まだできあがっていないのです。」と、お答えなさると、 「なにをぐずぐずしているんだ。」と、お父さんは、お怒りになりました。  そのとき、お母さんは、 「昼前に、お客さまがあって、お帰りなされると、もうお昼ですし、昼過ぎに仕事をしかけますと、年ちゃんが帰ってきて、そして、遊びに出て、ころんできましたので、お洗濯をしてやりました。つぎに、花子が帰ってきて、お友だちのところへゆくのだから、髪を結ってくれといいますので、髪を結ってやったりしていますと、もう晩方になりました。晩には、お湯があるので、お湯に入ってからは、じき年ちゃんは眠たがりますから、その前に学校のおさらいをしてやりますと、ほんとうに、お仕事をする時間というものがなかったのでした。今夜は、おそくなっても縫い上げるつもりでいます。」と、お母さんは、おっしゃっていました。そばでこれをきいていた年ちゃんは、もしそれでお父さんが、怒るなら、お父さんがわるいと思いましたが、お父さんは、だまっていました。  いま、そんなことを考えると、お母さんが、なんだか、かわいそうになりました。 「あの原っぱで、あんなことをして遊ばなければ、ころびもしなくて、よかったのだ。」と、年ちゃんは、昨日、材木がたくさん積んである上を、吉雄くんや、賢二くんと、駈け足をして渡っているうちに、水たまりへ落ちて、着物をよごしたことを思ったのです。 「いまごろ、お母さんは、どうしていらっしゃるだろうな。」  いつもお仕事をなさるところにすわって、お母さんは一人で、ガラス戸の内から、外のお庭を見ていらっしゃる姿を、年ちゃんは、目に浮かべたのでした。そして、うぐいすが、きょうも昼前に飛んできて、赤い実のなった、梅もどきの木や、つばきの枝にとまって、虫をさがしているのを、お母さんは、見ていらしたのです。しかし、そのお母さんの顔はさびしそうでありました。  年ちゃんは、図画紙の上へ、さびしいお母さんのお顔を描きました。なんだか、そのお母さんは、泣いていらっしゃるようです。 「こんなの、おかしいなあ。」と、年ちゃんは、考えていましたが、そのかたわらへ、「ボクたちが、るすのときの、さびしいお母さんのお顔」と、書いて、先生へ出しました。  先生は、それをごらんになって、どうお思いなされるでしょう? それは、このつぎ、いただいたときでなければわかりません。  年ちゃんは、早くお家に帰って、お母さんのお顔を見たいと思いました。学校が終わると、急いでお家へ帰りました。 「ただいま!」と、いつものごとく、外から声をかけました。はたして、お母さんは、いつもの場所にすわっていらっしゃいました。 「お母さん、さびしくなかった?」と、年ちゃんは、ききました。 「うるさい人が、みんなお留守で、静かでようございましたよ。」と、お母さんはおっしゃいました。 「うれしかった?」 「ほほほほほ。」 「うぐいすがきた?」 「きましたよ、きょうは、子うぐいすと、母うぐいすと、二羽きましたよ。」 「お母さんは、ボクのことを思っていた?」 「ええ、いまごろ年ちゃんは、おやつが食べたいと思っているだろうと思いました。」と、お母さんは、お笑いになりました。 「そんなこと、思うもんか。」と、年ちゃんがいいました。そして、ランドセルを投げ出すと、おやつを握って遊びに出ました。目にあった、さびしいお母さんのお顔は消えて、どこを見ても、たのしい朗らかなお母さんの顔が笑っていました。 底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社    1977(昭和52)年9月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「ドラネコと烏」岡村商店    1936(昭和11)年12月 初出:「教育・国語教育」    1936(昭和11)年2月 ※表題は底本では、「さびしいお母さん」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2016年6月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。