おさらい帳 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 おさらい帳  この夏のことでした。正ちゃんは毎日のようにもち棒を持って、お宮のけいだいへ、せみとりに出かけました。そのけいだいは、木立がたくさんあって、すずしい風が吹いていました。そして、雨のふる音のように、ジイジイせみがないていました。また、あぶらぜみがなき、午後からはひぐらしがないたのでありました。正ちゃんは日にやけた黒い顔をして、ごはんを食べるのも忘れて、あそびにむちゅうの日が多かったのです。  だから、晩がたは疲れてお家へかえり、お湯にはいると、すぐにいねむりをしてしまいました。 「そう毎日あそんでばかりいていいのですか?」と、お母さんがしんぱいをしておっしゃいました。  すると、そばからお父さんが、 「いや、どこへも避暑にいかなかったのだから、休みのあいだだけじゅうぶんにあそばしてやればいい。」と、いわれたのです。  正ちゃんは、お父さんの言葉がどんなにうれしかったかしれません。自分は、どこへもいきたいとは思いませんでした。ただ、あのお宮のけいだいで、年ちゃんや吉雄さんたちと仲よくあそんでいることができれば、それがなによりもたのしいことだと思いました。 「ねえ、お父さん。きょう紙芝居のおじさんが、じてん車をほったらかして木の下で、道具屋のおじさんと将棋をさしていましたよ。」と、話しました。 「ああそうか。あすこは涼しいからな。将棋をさしたり、ひるねをしたりするのにはいいだろう。」と、お父さんはわらわれました。 「紙芝居のおじさんは、なまけていけませんね。」と、正ちゃんは、まじめになっていいました。  これをおききになったお母さんは、おかしくてたまらぬように、 「まあ、自分のなまけることはわからずに、ひとのなまけることはよくわかるんですね。」と、おわらいになりました。  学校がはじまって、だんだん涼しくなると、みんなは勉強にせいを出さなければならなくなりました。  ある日、正ちゃんのおさらい帳をごらんになったお母さんは、おどろいて、 「わからないところはみんな書いてないのですね。書いてあるところも、いくつかちがっているじゃありませんか。」といって、正ちゃんをおしかりになりました。  正ちゃんは自分が悪いと思ったときは、だまっていました。 「なぜ、わからないところはお姉さんにでもきかないのですか。」  お母さんはこのことを、お父さんにいわぬわけにはまいりませんでした。お父さんがおかえりなさって、一家のものがたのしく夕飯をすましたのちでありました。 「正ちゃんは、学校のことがちっともできないのでございますよ。これをごらんください。」といって、おさらい帳をお父さんの前にお出しになりました。  お父さんは、できないとおききになると、ちょっと暗い顔つきをなさいましたが、おさらい帳をおとりあげになって、ていねいにごらんになりました。 「せみととんぼの絵を、おかきなさい。」と、いうところがありました。  これは、正ちゃんのいちばんとくいなところだったのでしょう。ほんもののせみと、とんぼを見るように、それはよくかけていました。これには、さすがにお父さんも、 「うまいもんだなあ!」と、心の中で感心なさっていました。  そして、正ちゃんのかいた絵をごらんなさっているうちに、自分も子供の時分に、よく虫を観察して、とんぼの背中にはおかんのんさまがあるといったものであるが、そのかんのんさまのおすがたまで、完全にうつしてあるのに、むしろびっくりなさいました。  正ちゃんもお母さんも、お父さんの口からなんといってお小言が出るかと思っていると、 「これからおちついて勉強しなければならない。おちついてやりさえすれば、正坊はよくできるのだから。」  こうおっしゃったお父さんは、自分も子供の時分には、せみやとんぼのお友だちだった、そして彼らの生活からいろいろのことをおぼえたと、なつかしくお思いになったのであります。  お父さんは、正ちゃんをしかる気にはなれませんでした。かえって、忘れてしまっていたせみやとんぼのすがたを、つくづくごらんになって、「こんなだったかなあ。」と、お思いになりました。  正ちゃんは、また、いつもやさしいお父さんのことばに感激して、これから勉強するようにちかったのでした。 底本:「定本小川未明童話全集 10」講談社    1977(昭和52)年8月10日第1刷    1983(昭和58)年1月19日第6刷 初出:「教育・国語教育 5巻11号」    1935(昭和10)年11月 ※表題は底本では、「おさらい帳」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2015年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。