犬は鎖に繋ぐべからず 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 犬は鎖に繋ぐべからず 第一場 第二場 第三場 人物 今里念吉 同 二見 同 甲吉 黒林家の女中ため 酒屋の御用聞 大串葉絵 片倉州蔵の妻まつの 女の子 百瀬鬼骨 郵便配達 男の子 歩兵大尉島貫 片倉州蔵 平大野球部選手越水 同 クマソ 同 ヤモリ 近所の人櫛谷 同 尾畑 同 黒林 同 両角 同 岩城 同 藤巻 隠居多胡鵺人 近所の人A 同 B 同 C 時  現代 所  東京の郊外──最近水田を埋立てた第七流住宅地。 第一場 今里念吉の住居。正面に磨硝子戸入りの玄関。右手に杉丸太の門柱。玄関の右に渋塗りの洋館。左手に座敷と茶の間。芝生の庭に手製のブランコ。椽に近く粗末な犬小屋。 初夏の午後。 息子の甲吉(八歳位)が、三輪車に乗つて外から帰つて来る。椽側から奥に向ひ、発育不良の声で母を呼ぶ。 甲吉  ママア! ママア! 声  (奥で)なんです、そんな声を出して……。(二見、菜箸をもつたまゝ現れる)駄目ですよ、静かにしなくつちや……。パパは今御勉強なんだから……。 甲吉  (それにかまはず)ママア、僕、落第坊主ぢやないねえ。 二見  落第なんかするもんですか。からだが弱いから、先生と御相談して、一年学校を休むことにしたんです。第一、学校へは一と月も行きやしないぢやありませんか。 甲吉  それから、うちのペスは野良犬ぢやないねえ。 二見  野良犬なもんですか。あれは、お前のお友達にと思つて、一昨年、湧山さんからいたゞいたんですよ。種類は忘れたけれど、ちやんと素性のわかつた犬です。パパがもう少し手入れをして下されば、毛並だつて、この辺のどこの犬にも負けやしません。 甲吉  そんならね、ママ、うちのパパは、英語よりほか、なんにも出来ないつて、ほんと? 二見  英語の先生なら、英語だけできれば沢山ぢやありませんか。いろんなことが少しづゝ出来るよりも、一つのことが立派に出来る方がいゝんですよ。一体全体、誰がそんなことを云ふの? 甲吉  僕のことを落第坊主つて云つたのは、ケンちやんだよ。 二見  ペスのことを野良犬だつて云つたのは……? 甲吉  それはね、坊つちやん……。 二見  また、「坊つちやん」なんて云ふんぢやありません。「ツルヲさん」つておつしやい。それから、パパのことをなんとか云つたのは……? 甲吉  忘れちやつた……。(彼は三輪車を運転して、また外へ遊びに行かうとする) 二見  もう御飯だから、お家にいらつしやい。余計なことを云ふ子供たちと遊ばなくつたつていゝのよ。 近所で、また、ピアノの練習を始めたらしい。単調な音階がうるさく繰り返される。 二見  (洋館の方に行き)パパ、あと十分で御飯にしますから、そろそろ、おつむをお休めになつてね。甲吉が帰つてますわ。 やがて、主人の念吉が座敷に現れる。 念吉  (にやにや笑ひながら、口吟むやうに) “O miserable of happy! Is this the end Of this new glorious World, and me so late The glory of that glory ?”……… (夢中で三輪車を運転してゐる甲吉を見つけ)甲吉君、元気かね。さつき、床屋の前で、君に石をぶつゝけようとしてゐた子供は、あれや、何処のなんといふ子だい? 君は平気で三輪車の曲乗をしてゐたね。パパが通るのを知らずにゐるから、パパは、黙つて来てしまつた。それに、友達の前で、おやぢに口を利かれるのは、てれ臭いもんだ。 永い沈黙。 甲吉君、運動は、もうそれくらゐにしといたらどうだ。此処へ来て、一息休み給へ。そして、パパと一緒に、青葉でも眺めようぢやないか。台所から臭つて来る香ひは、これや、てつきり、ママお得意の筍入りチャプスイだ。何時かのやうに、焦げついてくれなけれやいゝが……。 この時、門をはひつて来る一人の婦人がある。玄関の外で、呼鈴のボタンを探してゐるが、みつからないので、「御免下さいませ」と声をかける。 甲吉  (三輪車をとめ、父に向ひ)坊つちやんのとこの「ためや」だ。 念吉  何か御用ですか。 甲吉は、椽側から奥へ飛び込んで行く。 ため  旦那さまでいらつしやいますか、わたくし、そこの黒林のものでございますが、ちよつと、奥さまに……。 念吉  奥さんは、今、飯の用意をしてゐますが、僕ぢやわかりませんか。 ため  いえ、実は、お宅のペスのことで伺ひましたんですけれど……。 念吉  ペスのことですか。 妻の二見が、奥から玄関に出る。念吉は、椽側に立つたまゝ、女たちの会話を聴いてゐる。 二見  失礼いたしました。黒林さんのお女中さんでしたね。そして、御用は……? ため  はい、実は、申上げにくいことでございますけれど、お宅のペスが、今日、宅の旦那さまのお靴を片一方咬へて行つたんでございますよ。あたくしの不注意からなんでございますけれど、若しや、こちらへ持つて来てはをりませんかと存じまして……。 二見  まあ、それは、それは、飛んだことをしましたね。今朝から、ちつとも見かけませんのですけれど、どんなお靴でせう。 ため  赤革の、かう、ボツボツの模様のついた、旦那さまが一番度々お召しになる編上なんでございますが……。 二見  それぢや、よく、気をつけておきますわ。ほんとに御迷惑でしたね。そんな悪戯をするなんて、ちつとも存じませんものですから……。でも、おつしやつていたゞいてようござんした。これからのこともありますからね。何れ、どつちにしても、あたくし、御挨拶にあがりますけれど、奥さまによろしくおつしやつて頂戴ね。 ため  では、どうぞ……。御免遊ばせ。 二見  どうも。御苦労さま、あ、それから、甲吉が度々お邪魔に伺ひますんですつてね。 ため  いゝえ……。 黒林家の女中が去つたあと、二見は、座敷に来て、念吉の顔を見る。 二見  お聞きになつて? 念吉  あゝ、聞いた。 二見  どうしませう。 念吉  それを、今、考へてるところだ。いくら犬でも、靴を片一方、食つちまふわけはあるまい。何処へ持つて行くかだが、この探索は、一寸困難だね。僕の靴が古くなつたからと思つて、代りを見つけて来るほどの忠犬でもなしね。 二見  弁償するつて云つても、向うぢや気持よく思はないでせう。 念吉  あの家が五千円かゝつたといふんだから、穿いてる靴も十八円ぢや利くまい。それより、近所を探してみることにしよう。いよいよ無かつたら、その時、なんとか始末をつけるさ。おい、甲吉君、君も一緒に来い。 彼は下駄をつゝかけて外に出る。甲吉はその後から、走つて従いて行く。 二見は、これも庭に降りて、椽の下、犬小屋の中、植込の間をのぞきまはり、その足で裏の方に廻る。 何処かで鶏の啼く声。 二見が、家を一と廻り廻つて、門のところへ出て来ると、表を酒屋の御用聞が通る。 二見  ちよつと、三良さん、あんた、うちの犬を、何処かで見なかつた? 三良  さあ、今日はと……。あゝ、今朝、何処かの鶏を追つかけまはしてるところを見ましたよ。幼稚園のそばでしたよ、たしか……。ゐなくなつたんですか? 二見  そん時、靴を咬へてやしなかつた? 三良  靴ですか。さあ、咬へてないやうでしたよ。 二見  さう、ありがたう。あんた、さうして歩いてゝ、靴が片一方落つこつてたら、拾つて来て頂戴ね。お駄賃をあげるから、……。赤革の、かう、ボツボツの模様のある、かなり上等の編上だから……。でも、少しぐらゐ違つてたつていゝわ。 三良  旦那んですか。 二見  男の靴よ。なんでもいゝから、落つこつてる靴は、みんな一度、うちへもつて来て見せて頂戴。 三良  畏こまりました。毎度ありがたう……。 御用聞が行つてしまふと、今度は、大串葉絵が、切花を手に持つて通りかゝる。識るでもなく識らぬでもなき間柄とみえ、軽い会釈をしたまゝ行き過ぎようとする。 二見  (追ひ縋るやうにして)一寸、失礼でございますが、そこのお花のお師匠さまぢやいらつしやいませんか? 葉絵  さやうでございます。あたくし、大串葉絵でございます。 二見  あたくし、今里の家内でございます。始終お見かけしてゐながら、まだ御挨拶もいたしませんで……。お嬢さまが、ほんとにお可愛くつて……。 葉絵  どういたしまして、お宅の坊つちやまこそ、おとなしい、御利口さうな坊つちやまでいらつしやいますこと……。 二見  多分、ちよくちよくお邪魔に上がることゝ存じます。それから、子供ばかりでなく、宅の犬がまた、きつと、お庭を荒しますことでございませう。 葉絵  とんだ御心配で……。どうぞ、ちつと、奥様も、お話しにいらしつて下さいませ。独りもので、淋しく暮してをりますから……。(花を見せながら)こんなことでも致してをりませんと、日が永うございまして……。 二見  結構でございますわ。(もぢもぢしながら)あのう……だしぬけに妙なことをお願ひいたしますけれど、若しや、お宅の裏にでも、古靴が片一方落ちてをりましたら、宅の犬が咬へて参つたんでございますから、一寸、お知らせ下さいませんでせうか。誠に相済みませんけれど……。 葉絵  それはまあ、お困りでいらつしやいませう。早速、調べてみることにいたします。ほんとに、どんなにお躾けがよくつても、犬つて申しますものはね。 二見  いゝえ、もう、野良犬同然な犬でございますから、なにをいたしますか……。 葉絵  では、人を待たせてございますから、これで……。 二見  お呼びとめして、ほんとに……。 両人、丁寧にお辞儀をし合ふ。二見は、しばらくその後を見送つた後、家の中にはひる。やがて、膳ごしらへをはじめる。そこへ、六つぐらゐの女の子の手を引いて、片倉州蔵の妻まつのが、この家の玄関口に立つ。 まつの  御免下さい。 二見  はい。 二見は玄関に出る。 二見  どうぞ、お開け下さい。 まつの  (玄関の戸を開けるが、中にはひらない。にべのない挨拶)わたくし、そこの幼稚園のそばにゐるものでございますが、今日、お宅の犬が、宅で飼つてをります鶏を追つかけまはして、噛み殺してしまつたんでございますよ。すぐには死にませんでしたけれど、さきほどたうとう駄目になりました。宅では、余所様のやうに卵を生ますために鶏を飼つてるんぢやございませんのです。これの遊び相手に二三羽飼つてみたんでございますけれど、毎日のやうにお宅の犬が追ひかけますんで、これが、そのたんびに騒ぎますんです。今日なんか、羽根を咬へられて、藻掻いてゐる様子をみますと、これが、あたくしにしがみついて、狂ふやうに泣くぢやございませんか。鶏小屋へ入れておけばいゝとお思ひになるかも知れませんけれど、それでは、子供が、一緒に遊んでゐるといふ気がいたしません。鶏の方でも、それはよくこれになつきまして、餌なんかも手からたべるやうになりますし……。 この時、今里念吉は、甲吉をおぶつて、門をはひつて来る。玄関の人声に気づき、立ちどまる。 まつの  (念吉の姿を見て、軽く腰をかゞめ、そのまゝ喋りつゞける)兎も角、代りを買へばいいといふやうな鶏ではないのでございますから、ほんとに当惑してをりますんです。 念吉  お宅の鶏が見えないんですか。 まつの  (突剣呑に)見えないんぢやございません。現に、お宅の犬に噛み殺されたんでございますよ。 念吉  それは、それは……。 まつの  かうして伺つたのは、別に、どうしていたゞかうつていふんぢやございません。できてしまつたことは、しかたがございませんからね。たゞ、これから、犬を繋いどいていたゞきたいんでございます。昼間だけでも、さうしといていたゞきませんと、鶏を庭で遊ばせることができませんですからね。卵を生ませるだけなら、小屋で飼へますけれど……さつきも申上げましたやうに……。 念吉  わかりました。誠に申わけありません。犬は繋いでおくことにします。これから、御迷惑はかけないつもりです。して、その死んだ鶏は、どうしませう。 まつの  それや、もう、どうしていたゞかなくつてもよろしいんです。庭の隅へ、お墓でもこしらへて、末永く弔つてやるつもりでございますから……。 念吉  あなたの方はそれでいゝとして、僕の方は、それぢや困ります。犬を代りに殺してみたところではじまりませんし、弁償をするにも、金には代へられないとなると、一体、どうしたらいゝんですか。つまり、犬がわるいんだから、その犬に刑罰を与へろとおつしやるんですか。 まつの  いゝえ、犬よりも、お宅の方でお気をおつけになつて下さればよろしいんです。 念吉  なるほど、その御注意は有がたくお受けします。 二見  でも……それぢや、代りの鶏でも買つて差上げることにいたしませうか。ほんとに、あの犬には困つてしまひますわ。 まつの  かう申しちやなんですが、この辺の鶏を飼つてらつしやるお家ぢや、みんな、お宅の犬には困つていらつしやいますよ。わたくしのところばかりぢやないんですからね。いちいち、さうおつしやつていらつしやいませんでせうけれど、このお隣りの尾畑さんでも、大事になすつてらしつたチヤボが一羽、何時の間にかゐなくなつたんですつてね。多分お宅の犬だらうつて、さう云つてらつしやいましたよ。 二見  何時のことですの、それは……。 まつの  つい、先達ですけれどね。──なにしろ、一寸、外へ出て御覧になればわかりますよ。あの犬が、毎日のやうに方々の鶏を追つかけまはしてることを、お宅では御存じないんですか知ら……。 二見  ちつとも存じませんの。ほんとに、今日さういふことを伺はなければ、何時までも皆さんにお迷惑をかけるところでしたわね。(夫に向ひ)ペスは、その辺にゐませんでしたか。 念吉  ゐないよ。靴もないよ。甲吉が寝ちまつた。犬は、帰り次第、厳重に縛りつけます。 二見  失礼ですが、どちら様でございませう。 まつの  いゝえ、名前なんか申上げても仕様がございません。どうか、それでは、今後のことをお願ひいたします。 二見  かしこまりました。何れ、なんとかして御挨拶に伺ひます。こんなところで、御免下さいませ。 まつのの去つた後、念吉、黙つて玄関から上にあがる。 念吉  (座敷に現れ)さ、おろしてくれ。 二見  (座蒲団の上に甲吉を寝かせ)今頃寝てくれちや困りますわ。 念吉  よつぽど草臥れたんだ。それに近所を一軒々々尋ねて歩いたんだからね。空地といふ空地も見て歩いた。ところで、靴つていふものは、割合落ちてないね。しかし、なかなか思ひ掛けないものが棄てゝあるよ。 二見  (子供に掛蒲団をかけ終り)靴も靴ですけれど、今の話はどうしませうね。 念吉  向うの云ふとほりにするほかないさ。鎖は、何処へしまひ込んだかなあ……。 二見  それほどにして飼つておく犬ですか知ら……。湧山さんがあんまり御自慢をなさるもんで、子供が生れたら一匹下さいつて、なんの気なしに云つてしまつたんですわ。初めのうちは甲吉も悦びましたけれど、近頃では、丸で見むきもしませんよ。かまつてやらないせいもあるでせうけれど、毛は汚れ放題、虫はたかり放題で、その上、意気地がないことゝ来たら、余所の犬を見さへすれば、どんな犬にでも尻尾を垂れちまつて、いきなり降参の恰好ですもの。連れて歩くんだつて、こつちが羞かしいくらゐですわ。 念吉  君はさういふ風に、さも自慢らしくペスの悪口を云ふが、そんなら僕が警察へ引渡さうつて云つた時、頑強に反対したのは誰だい。一歩譲つて獣医にモルヒネを注射して貰はうと提議しても、君は、僕の前に立ち塞つて、如何にペスが泥棒の用心になるかを力説した。 二見  ですから、何処かで貰つてくれゝば、すぐにでもやりますわ。 念吉  あの犬をかい。いきなり降参の恰好をする犬をかい。 二見  それや、仕込みやうで、どうにでもなりますわ。飼主次第ですわ。 念吉  よし、仮りに僕の仕込方が優柔不断であつたとしよう。それならそれで、せめて、見場だけでも、もうちつと好くなくつちやね。なるほど、あいつには、面白いところがある。しかし、これは飼つてみないとわからない。僕は別段、あの犬に愛想をつかして殺してしまはうと思つたわけぢやない。こんな飼ひ方をするくらゐなら、飼つておかない方がいゝと思つたまでだ。あの犬を余所へやることは、流石に僕も気がつかなかつたよ。あ、帰つて来た。ペス! ペス! (彼はいきなり立上がり、椽側に出て犬を呼ぶ、それから、下駄を穿いて庭伝ひに犬をつかまへに行く)ペス! こゝへ来い。(やがて、犬の首環をつかまへて小屋の前へ連れて来る)こら、ペス! もうちつとほかに遊び方はないかい。靴が面白けれや、おれの靴があるぢやないか。余所の鶏なんか追つかけずに、そろそろ女友達でも作つたらどうだ。 二見  (チヤブ台の前にすわり)そんな気の利いたことができるもんですか。 念吉  おい、台所の棚をみてくれ。鎖はあそこへ置いた筈だ。 二見  夜は何処へも行きやしませんよ。 念吉  いや、朝、いはかれるのを待つてやしまい。何んでもいゝから持つて来てくれ。 二見  (台所から鎖を持つて来る)あとでよく手を洗つて下さいね。 念吉  気の毒だが辛抱しろ。そのうちにまたいゝこともあるだらう。 彼は犬を縛り終ると、膳に向ふ。箸を取上げる。すると、その時、百瀬鬼骨が半死半生の牝鶏を小脇にかゝへて玄関に現れる。 鬼骨  御免! お留守ですか? 二見が取次に出る。 二見  どうぞ、お開け下さい。 鬼骨  (玄関の戸を開け)わたくしは、ついそこにをります百瀬ですが、実は、御迷惑な御相談に上がりました。 二見  はあ、まあ、おはひり下さいませ。 鬼骨  いえ、こゝで結構です。わたくしは、昨年、失職以来、妻子を国元へ帰し、只今、独りで、そこの家を借りてをるんですが、なにしろ暇なもんですから、それと、朝食の卵ぐらゐは買はなくてもすむやうに、コーチンを三羽ばかり飼ひましてね。 二見  はあ。 鬼骨  まあ、ぼつぼつやつてをるんですが、どうも、生憎お隣が大家さんでしてな。大串葉絵といふ花の師匠がありませう。家賃を半年も溜めて、毎日、顔をつき合はせるのはあんまりいゝ気持ぢやありませんよ。目下、それとなく立退きを命ぜられてゐるやうなわけでして……。ついてはです。なに、なんでもないことですが、お宅の犬に噛みつかれてこの通りふいふいになつてゐる鶏をですな、若し、これでくたばるやうなことがありましたら、一つ、お買ひ取りを願ひたい、といふ訳なんです。なほ、充分、手当はしてみます。もち直せば文句はありません。それから、お宅の犬ですがな。かまはなけれや、わたしが、一つ、鶏を追つかけないやうに仕込んであげませう。これや、わけありません。鶏と一緒に遊ばせておけばいゝんです。わたしが、そばについてましてね。叱りながら馴らすんです。なにしろ、暇でぶらぶらしてるんですから……。 二見  さやうでございますか。(奥に向ひ)ねえ、パパ……。 さつきから、箸を置いて玄関の話を聴いてゐた念吉は、この時、起ち上つて出て行く。 念吉  やあ、僕、今里です。お話は伺ひました。鶏のことは承知しました。それから、犬の方は、お言葉に甘へて、さうしていたゞくことにしませう。 二見  ほんとに、さうしていたゞければ……。 念吉  しかし、その鶏は、大分弱つてるぢやありませんか。とても駄目でせう。 鬼骨  まあ、できるだけ介抱はしてみます。こちらにも御迷惑をかけないで済めば、これに越したことはないんですから……。 念吉  いや、どうも……。 二見  お金で済むことなら、なんでもございませんけれど……。ねえ、パパ、それより、あゝおつしやつて下さるんだから、一層ペスを差上げてしまつたらどうでせう。犬はお好きでいらつしやいますか。 鬼骨  (聞こえないふりをして)今、そこで話を聞いたんですが、大分、この近辺を荒したらしいですね。犬のお蔭で、お宅の評判はとてもわるいですよ。ハヽヽヽヽ。どれ、犬を兎も角、お預りして行きませう。今、をりますか。 念吉  ゐるにはゐますが、まだ夕飯も食はしてありませんから、後程、僕が連れて伺ひます。 鬼骨  それぢや、その夕食も一緒にお預りして行きませう。味噌汁の残りでも、魚の骨でもかまひません。容れ物はありませう。 二見  でも、あんまり汚れてゐて……。 念吉  外側だけ拭いたらいゝぢやないか。 二人は、それぞれ、犬の夕食と容れ物の心配をしはじめる。 やがて、念吉は、犬を引張つて来る。二見は、古洗面器の中へ何か知らを容れて持つて来る。 二見  こんなものでよろしうございませうか。生憎、なんにもございませんのよ。 念吉  ほんとだね。なんだ、もう少し、身のついたところはないのか。 鬼骨  (犬とその食事を受け取り)なに、かまやしませんよ、わたしが食べるんぢやないから。 彼は、そのまゝ、悠々と門を出て行く。 第二場 前と同じ場面。翌朝。 今里念吉は、座敷で外出の用意をしてゐる。二見は、その側で、ネクタイの皺を伸ばしてゐる。もう洋服に着かへた甲吉は、庭で三輪車を乗り廻してゐる。 二見  また泥をつけちやいやですよ。 甲吉  パパ、自動車で行くんだらう。 念吉  馬鹿云つちやいかんよ。急ぐ用事でなけれや、自動車なんかへ乗るもんぢやない。 甲吉  また早く行かないと、ライオンが牛肉をたべるとこ見られないぢやないか。 二見  上野なら、電車だつて、おんなじ時間ですよ。それより、こゝへいらつしやい。はなをかんであげるから……。 甲吉  つまんないな。倹約しようと思つて、あんなこと云つてやがらあ。 二見  やがらあたあ、なんです。さうよ、倹約よ。倹約はいゝことなんですよ。 甲吉  いゝことなら、はじめからさう云やいゝぢやないか。 念吉  こいつ、なかなかやるわい。さ、蟇口は……? この時、表から、百瀬鬼骨が、死んだ牝鶏を片手にぶら下げて現れる。座敷の方をのぞき込んで、つかつかと庭へはひつて来る。 鬼骨  こゝから御免なさい。いや、たうとう参つちまひましたよ。いろいろ手を尽してみたんですが、駄目でした。それぢや、お迷惑でも、これを一円五十銭で買つて下さい。 二見  でも、さうなつたのを頂戴しても仕方がございませんから、それはそれで、よろしいやうにしていたゞいて……。ねえ、パパ、お金はお金で別に取つていたゞけばよろしいでせう。 念吉  無論さうさ。 鬼骨  いや、それやいけません。これでも、つぶしにすれや、いくらかになるんですからね。たゞ、わたしは、代りの鶏を一羽買はうと思ひましてね。 念吉  ですから、その肉は、よろしかつたら、あなたがおあがりになつて下さい。 二見  ほんとですわ。うちの犬が殺した鶏なんぞ、こちらではいたゞけませんわ。 鬼骨  さうですか。それなら仕方がありません。しかし、さうなると、お金はいたゞきにくいですな。 念吉  いえ、いえ、それは別問題です。ぢや、どうか、これで……一円五十銭……。 鬼骨  弱つたなあ。一体、かういふ問題は、お互に注意しさへすれば、起さずにすむ問題なんですからね。わたしがこのお金をいたゞいて、死んだ鶏の肉を食ふとなると、損害を蒙るのは、わたしの方でなくつて、寧ろ、あなたの方ですからね。以後、誰彼となく、死んだ鶏をもつて、あなたのところに押しかけて来ないもんでもない。それは戯談だが、お宅のペスは、うちの鶏と遊んでゐますよ。嘴で鼻の頭をつツ突かれて、あとすざりをしてゐますよ。可愛いゝもんです。わたしもね、年に三度は引越をする男ですが、何処へ行つても、近所といふものが五月蠅くていけない。こつちばかりぢやない、向うでもきつとさう思つてゐる。それが、いろんな機会に、いろんな形で現れるんです。わたしは、これで新聞記者の成れの果です。社会生活といふものに、人一倍関心をもつてゐる。無論、わたし一人の腕ではどうにもなりやしませんが、昨夜、つくづく考へました。そして、かういふことを思ひついたんです。この近所一区劃が、仮りに二十軒あるとしませう。その二十軒が、それぞれ違つた様式の生活をしてゐる。それはまあいゝとして、めいめいが、少しも隣人のために計るといふことをしない。これは間違つてる。当り障りはありますが、犬なんかのこともです。自分の家の鶏が追つかけられてゐるのを見たら、他所の家の鶏のことを考へて、早く、犬の飼主へそのことを知らせるやうにすれば、面倒は起らない。面倒が起つても二軒の間だけですむわけです。蔭で愚図々々不平を云ふ、それも、悪戯をした犬のことだけならいゝが、飼主の人身攻撃に亙るやうなことを、あつちこつちへ触れ歩く。これは怪しからんです。そこでゝすな。わたしの考へたといふのは、お互が胸襟を披いて、ひとつ、めいめいの苦情なり、註文なりを云ひ合ふ会合を催してゞすね、改善すべきことは改善する、特別の事情は特別の事情で諒解を求めるといふやうにすればです、お互に、今後、明るく、のびのびと生活ができやしないかと思ふ。如何です、異議がおありですか。 念吉  結果がよければいゝですが……。 二見  気まづい思ひをするだけぢやございませんか知ら……。 鬼骨  大丈夫です。その代り見栄と利己主義を棄てなければいけません。わたしにお委せなさい。これから、ずつと廻つて、意見を集めてみます。同じ近所の噂を聞くにしても、あそこの旦那つていふのは、奥さんが女学生時代の英語の先生で、学校にゐる頃から怪しかつたんだとか……(念吉と二見は、思はず顔を見合はせる)旦那も不愛想だが、奥さんときたら、どこが偉いのか、人に遇つても自分の方から先へお辞儀をした例しがないとか、向うの子供が遊びに来れば、まあお菓子だけはおいしさうなのをと思つてやつてゐるのに、こつちの子供が向うへ行くと、しけたお煎餅しか出さないとか……。 二見  あらまあ、そんな……。たつた一度きりですよ。随分ですわね。 鬼骨  さういふ噂は全く聞きづらいですからなあ。 二見  そんなこと云ふなら、こつちだつて云ひますわ。まだろくに歯もかたまらない宅の子供に正月のおかちんの揚げたのなんか食べさせるのは、何処の家でせうね。そんなことなら、まだようござんすわ。少し発育が遅れて、年の割に無邪気なのをいゝことにして、人のとこの食事の献立まで根掘り葉掘り訊いたりなんかするつていふのは何処の奥さんでせうね。 念吉  もういゝ、ママ、こゝでそんをことを云つたつてしようがないぢやないか。それぢや、僕は、一寸出かけて来ますから……。また何れゆつくり……。 鬼骨  お出掛けですか。今日は日曜で、お休みでせう。それぢや、お手間は取らせません。ぢき、話をきめて来ます。 念吉  でも……。 鬼骨  いや、なんでもありません。すぐ帰つて来ます。 彼は、そこに置いてある一円五十銭を引浚ひ、そのまゝあたふたと出て行く。 二見  (ぐつたりと、そこに坐り)あたし、いやんなつちやふわ。(泣く) 念吉  (甲吉の姿が見えないので)おい、甲吉君、遠くへ行くんぢやないよ。今すぐ御用がすむからね。それから、ねえ、ママ、せめて君だけはしつかりしてゐてくれ。甲吉は甲吉で、年が頭を置いてきぼりにするし、ペスはペスで、家にあるもんだけぢや気に入らんといふし、その上、君が、僕の黙つてゐたいことをみんな喋つちまつちや、僕は立つ瀬がないよ。甲吉君! 危い、そんなことしちや……。(なるほど、甲吉が、庭の隅で三輪車の曲乗りをし損ふ)だがね、ママ、僕たちはこれまで、二人の生活だけを愉しんでゐればよかつた。(ピアノの練習曲が聞えて来る)これからは、さうは行かないよ。世間との交渉がだんだん複雑になる。周囲のことをいちいち気にする必要はないが、こつちも相当、準備をしてかゝらなけれや駄目だよ。 二見  そんなこと、わかつてますわ。 念吉  わかつてれば、それでいゝさ。鼻から涙が落ちてら。 二見  いゝんですよ。(拭かうとしない) 念吉  (椽側に腰をおろし)お隣りのお嬢さんも、早くピアノが上手になつてくれるといゝなあ。おい、こら、甲吉君、そんな無理なことをしたつて駄目だよ。それより、こゝへ来給へ。パパがまた、試験をしてやる。 甲吉君はしぶしぶ父親のそばへ行く。 念吉  (甲吉の肩を両手で抑へ)甲吉君のパパは、なんていふ名前? 甲吉  今里念吉。 念吉  ママは? 甲吉  今里二見。 念吉  パパの商売は? 甲吉  商売つて? 念吉  商売つていふのはね、どうしてお金を儲けるかつていふことさ。 甲吉  ママに貰ふんだ。 念吉  さうか。そのママのお金は、何処からはひつて来る? 甲吉  袋へ入れてパパがもつて来るよ。 念吉  その袋へはひつたお金は、パパが何処から持つて来る? 甲吉  知らないやあ。 念吉  それはね、パパが毎日学校で英語を教へて、そのお駄賃に貰ふんだ。 甲吉  毎日貰ふの? 念吉  うゝん、一と月目毎に貰ふんだ。幾ら貰ふかといふと……。 二見  およしなさいよ、そんなこと教へるの。 念吉  どうして? 教へといた方がいゝよ。 二見  また近所がうるさいぢやありませんか。 念吉  なにがうるさい。幾ら貰つてるかと云ふと……。 二見  およしなさいつてば……。そんなこと、子供におつしやるなら、あたし、この家にやゐませんよ。 念吉  また引越すのか。 二見  さうぢやありませんよ。あたし、一人で出て行きますよ。 念吉  あゝ、さうか。そいぢや、よさう。いゝか、甲吉君、ママがあゝいふから、幾らだといふことは教へないが、パパは決してお金持ぢやない。君は、大きくなつたら、働いて、自分で御飯をたべて行かなければならん。自分で着物も買はなけれやならん。 甲吉  肝油ドロツプも自分で買ふの? 念吉  さうさ。ではね、君は、大きくなつたら、なんになる? 甲吉  こないだ、ケイちやんとこの小母さんも、さう云つて訊いたよ。 念吉  なんて返事をした。 甲吉  黙つてゝやつた。さうしたら、ケイちやんがそばから、屑屋になるんだらうつて云つたよ。 念吉  どうして? 甲吉  だつて、屑屋が通るたんびに、うちのママが「屑屋さん」つて呼ぶんだもの。みんな知つてるよ。 二見  それはね、甲ちやん、うちぢや、いろんな壜づめのものを使ふでせう。だから、すぐに空壜がたまるのよ。それと、パパが外国の新聞をいくつも……。 念吉  うん、だから、いゝさ。 二見  なんていふ子供たちでせうね。 念吉  屑屋になるつて云はれて、君は、口惜しかつたか? 甲吉  馴れてるから平気だい。 念吉  初めは癪にさわつたか? 甲吉  ほんとに、僕、なんになるの? 念吉  君の好きなものになるさ。屑屋だつてかまはないよ。かまはないどころぢやない。さつきママが云つたとほり、空壜や古新聞がうんと溜つて御覧。どこの家でも始末に困る。埃のたまつた空壜が、ずらりと台所の隅に並んでゐたり、虫のついた古新聞が、押入の中へぎつしりつまつてゐたりすると、第一、からだによくない。次に、家の中が乱雑になる。第三に、無駄だ。壜や新聞は、ほかへもつて行けば役に立つもんなんだ。屑屋がゐてくれなけれやどうすることもできない。屑屋は、乞食とは違ふ。ちやんとお金を出して、そいつを買つてつてくれるんだ。だから、屑屋つていふものは、四ついゝことをしてるわけだ。第一に……。 二見  (笑ひながら)甲ちやん、パパの云ふことなんか聴かないで、こつちへいらつしやい。ママがいゝお話をしてあげるから。 甲吉  動物園見に行かないの。 二見  パパの御用がすんでから……。それまで上へ上がつてらつしやい。帽子はどこへ脱いだの。 念吉  (手に持つた甲吉の帽子を出し)こゝへ脱いだ。僕は、こいつに学問を仕込むことは諦めた。だから、学校へなんかはひりたがらないうちに、実地の職業教育を受けさせようと思ふんだ。それには、今から、学問尊重の風を養つてはならない。また、所謂立身出世の夢をみさしてはならないと思ふ。君も、そのつもりでゐてくれ。 二見  これで、まだどうなるかわかるもんですか。(しなだれかゝる甲吉を、かばふやうに抱き締める) この時、郵便配達がやつて来る。 配達  今里さん、集金郵便です。 念吉  どら、こゝへくれ給へ。 配達  (庭へはひつて来る) 念吉  校友会費を取りに来たよ。 二見  何処んです。 念吉  君の分だよ。 二見  明後日来て頂戴な。 配達  明後日つていふなあ、一昨日のこつてすか。もうこれで二度目ですからね。よござんす。返してやりませう。 二見  ちよつと待つて……。何時かのはあんただつたのね。それぢや、パパ、そつから三円出しといて下さいな。 念吉  (訝しげに)こつちから……? 僕んとつからかい。よし来た。はい、三円……。 郵便配達去る。 念吉  四円八十銭から四円五十銭引くと三十銭……。三十銭ぢや、電車にも乗れないや。 二見  甲吉は、丁度、眠つちまひましたわ。 念吉  また眠つたのか。待ちくたびれたな。(間)君、隣へ行つて、あやまつて来い。 二見  だつて、鶏がゐなくなつたから、ペスのせいだとは限りませんわ。猫だつてなんだつてゐるんですもの。 念吉  ペスのせいだと思つてるんだから、あやまつて来い。 二見  いやですよ。お隣の犬だつて、何時かのやうなことがあつたんですわ。こつちは、それを黙つてるんですわ。 念吉  しかし、覚えてだけはゐるか。 甲吉  (囈言のやうに)パパ、動物園はまだ遠いの? 念吉  いや、もうぢきだ。そうら、向うに門が見える。象の哮き声が聞えるだらう。まだ起きないでいゝ。 二見  ほんとだわ、ペリカンも啼いてるわ。眠りながら笑つてますよ。 念吉  O! miserabie of happy! 甲吉  (何かむにやむにや云ふ) 念吉  なんて云つてる? 二見  ライオン、ライオンですつて……。 念吉  さうだ、ライオンだ。ライオンが牛肉をたべてる。ライオンは、小便をひつかけるから、そばへ寄るなと書いてある。これは滑稽だ。檻の中へ入れられた猛獣の悲哀だ。これでも昔は、阿弗利加の沙漠で、縞馬の腹を引裂いてゐたんだ。パパは何時か、仏蘭西の詩人の書いた、獅子と虎との闘ひの詩を読んだことがある。無論、獅子が勝つた。河の水が、虎の血で、真赤に染まるところが書いてあつた。甲吉君は、ある勇敢な探検家が、ピストル一挺で大きなライオンを撃ち止めた話を知つてるかい? その探検家は、森の中で、不意に畳一畳敷ぐらゐのライオンに出くわしたんだ。鉄砲を肩から外す暇がない。ライオンは、もう大きな口をあけて、眼の前五六歩のところに迫つてゐる。やうやく、ポケツトの中へ手をいれたと思ふ瞬間、ライオンは、後脚を蹴つて、躍りかゝつた。探検家の片手が、ライオンの口へはひつた。グワン! 一人の男の子が庭へはひつて来る。 念吉  甲吉君は今、眠てるよ。 男の子  遊びに来たんぢやないよ。手紙を持つて来たんだよ。 念吉  何の手紙……? 男の子  そこの小父さんに頼まれたんだ。 念吉  (手紙を受け取り、封を開く)回状だね。なんだ、これや……。(読み上げる) 一、近隣の平和親善を目的とする一夕の会合を催したく、奮つて御出席を希望します。 一、会合の時刻は、本日午後七時。 一、場所は、八〇二番地今里念吉氏方庭園。 一、会費なし。 発起人 百瀬鬼骨 多胡鵺人 二見  なに、それは……。 念吉  かういふもんだ。八〇二番地今里念吉氏方庭園か……。この庭園のことだらうな。 第三場 同じ場面。夕刻。 今里念吉は、椽側を行つたり来たりしてゐる。二見は、鏡台に向つて化粧をしてゐる。甲吉は、紙で折つた冑をかぶり、帯にハタキを差し、蚊にかまれた脚を掻いてゐる。 すると、一人の男が、門前に来て立ち止る。中をのぞき込む。陸軍歩兵大尉島貫である。そこへ、また、一人やつて来る。興信所所員片倉州蔵である。何かこそこそ話をする。途方に暮れたやうな風をする。そこへ、今度は、三人連れの学生風の男がやつて来る。平大野球部選手越水とその仲間である。念吉は、刻々数を増す敵勢に、孤城の運命を案ずる如く、椽側の端に仁王立となり、眦を決して門外を睨んでゐる。やがて、もう一人、続いて二三人。念吉は、肩で呼吸をしはじめる。 念吉  おい、ママ、君は、今のうち、甲吉を連れて、買物にでもなんでも出掛け給へ。 二見  (夫の只ならぬ様子に、これも椽側へ出て外を見る。今更のやうに驚く。が)いゝえ、あたしも家にゐますわ。パパ一人を見殺しにはできませんわ。女ながらも、飽くまで闘つてみせますわ。 念吉  ナイフを貸せ、ナイフを……。 二見  ナイフは学校へ置いてらしつたんでせう。 念吉  そいぢや、火箸でもいゝ。長いやつを貸せ。 が、もう遅い。禿頭の隠居多胡鵺人を先頭に、門外の群集はぞろぞろと庭の中に闖入する。 念吉は、思はず四五歩、後にさがる。二見と甲吉は、座敷の隅に追ひやられる。 多胡  大分お揃ひになつたやうですから、ひとつ……。こちらからで、よろしいんですか? 念吉  (黙つて身構へる) 多胡  わたくしは、お向ひの多胡でございます。御無沙汰をいたしてをります。今日はまた、とんだお厄介で……。さ、みなさん、多勢ですから、なるほど露天の方がいゝでせう。わたくしは、年寄ですから、御免下さい。(彼はさう云つて、一人、椽側に腰をかける) 島貫  自分は、突然で、よく御趣旨がわからないんでありますが……あ、自分は、参謀本部に勤めてをるかういふもんであります。(名刺を出す) 念吉  (油断を見せず、その名刺を受け取る) 越水  僕は、名刺を持ちませんが、そこの平大野球部の合宿所にゐる越水といふもんです。これが、クマソ、そつちが、ヤモリです。どうせ、ほんとの名前を云つたつてしようがねえや。 州蔵  わたくしは、昨日家内が伺つた筈ですが、幼稚園のそばに住んでをります片倉でございます。今日は是非出ろといふお話なもんでございますから、もうぢき客が来ることになつてをるんでございますが、ちよつと外して参りましたやうな次第で……。犬はどちらへか参りましたんですか。(犬小屋のまはりを探す) 後から後から、門をはひつて来るものがある。最後に、百瀬鬼骨が、大串葉絵と共に現れる。 鬼骨  女主人は女が出ることになつてゐます。さあ、どうぞ……。そんな遠慮をしてちやいけません。やあ、みなさん、遅くなりました。二十三戸のうち、七戸は差支があつて、今回は欠席、残り十六戸の方々がお集り下さいました。有望な成績です。中には、一戸で三人まで御出席下さつた方がある。発起者として感謝する次第です。では、わたしから、もう一度、この会合の趣旨を申上げます。(咳払ひをする)えゝ、最初に、この会合を思ひ立ちました動機についてお話をすれば、実は、今日、会合の場所を御提供願つた当今里家の愛犬ペスがであります、不図した迷ひから、近所の鶏を追ひまはすやうになつた。これはであります、猟犬などにはよくあることでありまして、猟犬でなくても、犬の青年期と申しますか、つまり、元気旺盛な時代には、何か生き物を弄びたいといふ慾望が盛んである。そこで鶏を追つかけた。追つかけてみると面白い。つひ、無我夢中で食ひつく。これはたまたま、人間にもその例があることでありまして、深く咎むべきではない。しかし、食ひつかれた鶏が、そのために一命を墜すといふことになると、問題が面倒であります。今里家の愛犬ペスは、遺憾ながら、この種の問題を惹き起したのであります。奥さん、水を一杯頂戴。 二見は、しかたなしに、水をコツプに汲んで差出す。もう、外は真暗である。だんだん椽側に腰をおろすものが出来て来る。 鬼骨  恐れ入ります。えゝと、うん、この種の問題を再三惹き起したのであります。折角思ふところあつて飼つてゐる鶏を、むざむざ犬に噛み殺されるやうでは、飼つてゐる方でも迷惑でありますし、それにまたいちいち弁償をさせられては犬の飼主も堪らない。そこはお互である。めいめい注意をしなくてはならない。その方法は、いくらでもあるんであります。 片倉  ちよつと、お話中ですが、今の鶏のことでございますがね。 鬼骨  お待ちなさい、あとで質問を許します。そこでゝす、これは単に金銭で解決のつく問題でありますが、中には、さうでない問題がいくらもある。 片倉  実は、その、手前共では……。 鬼骨  黙つて……。さうでない問題がいくらもある。隣近所が、お互に、知らず知らず迷惑をかけ、それをまた、双方苦情も云へず、蔭でぶつぶつ云つてゐるといふやうな場合が度々ある。これがなかなか、恐ろしい事であります。あらぬ噂となり、不公平な評判となり、嫉視反目、この界隈、住むに堪えずといふことになる。かくの如きは、お互文明人の慎み戒むべきことであるのみならず、さなきだに世智幸き時代を、一層暗黒に導くものだと考へるのでありまして、これはひとつ、われわれの力で、われわれの恵まれた智力で、なんとか解決をしなければならぬと、不肖、私が、僭越を顧みず、こゝに、近隣平和会議の提案をいたした次第であります。 拍手をするものがある。念吉は、何時の間にか椽側の柱にもたれて、話を傾聴してゐる。 鬼骨  つきましては、この会議に列席する代表の範囲でありますが、これは私の独断で、当今里家を中心とする一区劃に限りました。御承知の通り、この界隈は、もと水田を埋め立てた土地でありまして、最近家が建つたばかりの、云はゞオアシスの如き孤立部落であります。地所は大部分、あそこに見えますあの森、蒼々たる千古不伐の森に取巻かれた麦倉一家の所有でありますが、昔日の水呑百姓は、今日、娘を女子大学に通はせ、妾に麻雀倶楽部をさせてゐる。 また拍手が起る。念吉はしやがんでしまふ。 鬼骨  われわれは、不平を数へればきりがない。先づ、小さな不平から片づけて行きませう。如何です、議事の進行を計るために議長を指名しては……。(「自分でやれ」といふ声がかゝる)皆さん、異議ありませんか。なければ、わたしがやります。それではと、お名前をいちいち覚えてをりませんから、そちらから順々に自己紹介をなすつた上で、議題となるべき件を御提出願ふことにしませう。(椽側に上り、二見に向ひ)奥さん、ちよつと、机と紙と鉛筆を拝借。 二見  パパ、紙はどんなのにしませう。(彼女はさう云つて、自分の机を椽側に運んで来る。この間に、人々は椽側へぎつしり並んで腰をおろす) 鬼骨  答案紙の残りかなんかあれませんか。 二見  そんなんでなく、ちやんとした紙がございます。(彼女は、罫紙を一帖もつて来る) 州蔵  少し急ぎますから、手前から先に申上げます。手前は、片倉と申すもんです。先程、百瀬さんからお話の御座いました犬の被害者の一人でございます。この席で申上げるのも如何かと存じますが、一概に鶏を飼ふと申しますと、なにかかう、慾得でやつてゐるやうに聞えますが、手前どもでは、その……。 鬼骨  なるべく簡単に願ひます。結論を先におつしやつて頂けませんか。 州蔵  はい。結論は、つまり、どなた様でも、犬は、なるべく、鎖に繋いどいていたゞきたいと思ひますので、これは、なに、鶏ばかりでなく、夜道などいたしますと、不意に曲り角で吠えつかれるやうなことがございまして、それにまた……。 鬼骨  すると、何処の家でも、犬は鎖に繋いで置けといふ提案ですね。 州蔵  はい。しかし、まあ、特に、鶏を追ひかけますやうな犬は……。 鬼骨  では、鶏を追ふ犬はと限りますか? 州蔵  みなさん、如何でございませう。 声  わたしのところには、鶏も犬も飼つてありますが、犬を鎖へ繋ぐといふことは、絶対に反対です。今里さんにはお気の毒ですが、これは、現行犯に基いて、危険な犬だけを適宜に処分すればいゝと考へます。 鬼骨  あなたは、尾畑さんでしたな。 尾畑  さうです。 鬼骨  では、尾畑君の提議に賛成の御方は恐れ入りますが……。 二見  (膝を乗り出し)それぢや、あたくしにも云はしていたゞきます。 念吉  おい、ママ。 鬼骨  なにか、意見がおありですか。 二見  人のうちの犬のことは、平気でそんなことがおつしやれるでせうけれど、お宅の犬が、先達、これの晩のおかずにわざわざ買つといた平目の切身を、うつかりしてる間に銜へてつたことは御存じございますまい。さういふ犬も、鎖で繋いどいていたゞきたうございますわ。それから、片倉さんとやらに申上げますけど……。 鬼骨  反対意見もあるやうですから、こゝで採決を取ることにします。先づ、尾畑君の意見に賛成の御方は、手を挙げて下さい。よく見えませんから、しつかり挙げて下さい。(闇をすかしながら)一、二、三、四、五、六、七……。はい。では、今里夫人の提案、即ち、鶏のみならず、魚の切身を銜へて行つた犬をも含める意見に賛成の方は……?(見廻して)奥さんお一人ですか。その他の方は、どういふ御意見ですか。(誰も答へない)どんな犬でも、鎖に繋ぐといふことは絶対に不賛成だとおつしやるんですか。(「不賛成だ」と答へるものがある)それぢや、その方は手を挙げて下さい。(他の全部が手を挙げる、念吉もその一人である)一、二、三、四、五、六、七、八……。はい。では、尾畑案、及び、今里夫人案は否決されました。(拍手)次は、どなたですか。 州蔵  手前、少し急ぎますんですが、もう引取りましてもよろしうございませうか。 鬼骨  いけません。次は、それぢや、多胡さん……。 多胡  わたくしは隠居の分際で、御近所への不平など毛頭ございませんが、あの本道からこちらへ曲ります道でございますな。あの道がどうも、雨降りなどには……。 鬼骨  お待ちなさい。それは、地主か役場へ掛け合ひませう。では、お次の黒林さん……。 黒林  先程、犬の問題がでましたが、議長に御注意申上げたいことがある。最初、片倉さんが提議されたのは、飼犬は悉く鎖に繋ぐべしといふことであつた。議長は、何故に、先づ、この提案に対して採決を求められなかつたか。重大な手落であると思ふ。今里夫人の御意見も、恐らく、これに含めらるべきものだと考へるが、如何です。 鬼骨  では、今の黒林案に賛成の方は……?(「おれや、どつちでもいゝや」といふものがある)一、二、三、四、五、六、七……否決であります。 黒林  手を幾度も挙げる人がある。 鬼骨  否決であります。えゝと、次は、島貫君……。 島貫  自分は、外に不満はありませんが、ピアノの練習は時間を決めてやつていたゞきたい。出来れば昼間だけといふことに願ひたいのであります。それから、序に申上げて置きますが、何処かの犬が、先達、拙宅の掃溜へ、古靴を片一方銜へておいて行きました。もう五六度底を替へたやうな靴でしたから、そのまゝにしておきましたが、みなさん、玄関の履物なんかは、御用心なさる方がいゝと思ひます。これで終り。 二見  あの、その靴は、若しや、赤革の、ボツボツの模様のある編上ぢやございませんでしたか。 島貫  そのボツボツも、泥でおほかたみえないくらゐでした。 二見  あゝ、それぢや、黒林さんのお宅のですわ。 黒林  いゝや、なに、わたしのとこのは、出て来ました。 二見  まあ、それで安心いたしました。ほんとに安心いたしましたわ。(鬼骨に)では、どうぞ……。みなさん、お茶も差上げなくつてよろしうございませうか。 鬼骨  なに、結構です。それでは、「ピアノは時間を決めて練習すべし」この実に賛成の方は……?(八人手を挙げる。二見は挙げるが念吉は挙げない)多数と認めます。では、心当りのお方はさう実行なさるやうに……。次は、越水君。 越水  畑に肥料をやるのはいゝが、臭くつてやりきれない。あれをなんとかして貰へんですか。僕んとこは、前うしろに畑があるんだから閉口なんだ。なあ、おいクマソ……。 クマソ  どんな畑かと思へや、菜葉が二行半ばかりと……。 鬼骨  しツ! 畑には臭ひのしない肥料をやるといふ案に賛成の方は……?(越水とその仲間二人だけ手を挙げる) 越水  これだけか。鼻の悪い奴ばかり揃つてやがらあ。 鬼骨  臭いのが君達んとこへは、はいりいゝんだらう。 越水  なに? 今の言葉を取消せ。取消さんか? 鬼骨  只今の失言は取消します。次は……。 越水  まだあるぞ。おれたちは、昼間みんな練習に出るもんだから、近所の餓鬼共が其処へ上り込んで、菓子箱でもなんでも空にしちまふんだ。親たち、ちつと取締つてくれ。 多胡  家を明けるときは、鍵をかけて出るんですよ。第一、用心がわるいですぜ。 越水  別に取られるやうなもんも、置いてないからさ。 多胡  なにを云つてるのかわけがわからん。 越水  禿、黙れ。てめえの孫も、その一人ぢやねえか。 多胡  生憎、孫は北海道にゐる。菓子をつまむなあ、子供と限るまい。 越水  てめえか。 多胡  さ、議長、議事を進行させたらどうです。 鬼骨  それでは、只今の議案は、「家を明ける時は鍵をかけること」でしたな。 越水  さうぢやない。 鬼骨  賛成の方は……?(誰も手を挙げない)おや、賛成の方はありませんか。 多胡  そんなことは決議するまでもないでせう。鍵をかけないのが馬鹿なんだから……。 越水  なにを! こいつ、殴れ! 逃げようとする多胡を引揃へ、野球部選手三人は争つて拳固をふるふ。この四人の一塊が、揉みつ揉まれつ門外に出るのを待つて、 鬼骨  守衛がをりませんので、遺憾ながら、議場の整理は、自然の成行に委せるより外ありません。休憩の必要がありますか。ないと認めます。それでは、その次、あなた……いゝえ、あなた、角帯のお方……。 両角  僕は、両角です。さつき犬の問題がでましたが、僕は、近所の鶏に迷惑をしてゐます。人の家の庭へはひり込んで草花の芽をほぢくる。それから、黙つてゐると、椽側へ上つて糞をして行きます。書斎のそばへ来て、けたゝましい声を立てます。追つ払つてもすぐやつて来る。僕は、そのために神経衰弱にかゝりました。夜、鶏に腹をつツ突かれる夢をみる。女房の顔が牝鶏の顔に似て来るんです。(賛成といふものがある) 鬼骨  まだまだ。 両角  僕は、鶏屋以外、鶏を飼ふことを禁じる案を提出します。 甲吉は、さつきの騒動以来、念吉の膝に抱かれてゐるが、この頃から、ぼつぼつ、頭を父親の胸に埋めて眠りはじめる。 鬼骨  これは大分議論があるでせう。 尾畑  さういふ難題を出される前に、御自分が、鶏のゐない町へ引越されたらどうですか。(賛成といふものがある) 両角  鶏のゐない町……それは久しく僕の探し求めてゐる町です。(「丸の内へ行け」といふものがある)鶏のゐないところには黴菌が充満してゐます。 岩城  両角さんに申上げますが、鶏、鶏とおつしやるのは、多分わたしのところの鶏を指しておつしやるのでせうが、なるほど、御尤もの点もあると思ひますから、将来、垣根を越えないやうに、なんとか設備をすることにしませう。しかし、この機会に希望しておきますが、お宅の下水は、みんなわたくしの家の庭に流れ込んで来るやうになつてる。あれは、早速、工事をしていたゞきたい。穴を掘ればなんでもないことですから……。 藤巻  横から口を出すやうですが、岩城さん、あなたのところの流しの水も、おほかたわたくしの屋敷へ流れて来るやうになつてをりますが、あれは、どういふもんでせう。 岩城  いや、そんな筈はありません。わたしのところは、ちやんと吸ひ込み式になつてゐます。たゞ、両角さんの方から流れて来るやつだけは、面倒ですから、お宅の方へ溝をつけました。たゞ、それだけです。 藤巻  たゞそれだけは有難くないですなあ。 鬼骨  (鉛筆の尻で机を叩き)さうしますと、さつきの両角案は如何いたしませう。両角岩城両家の問題としますか、一般に採決を取りますか。(「その必要なし」と云ふもの一人。「採決を取れ」と応ずるもの二人)その必要なしと認めます。(「議長不公平」と云ふものがある)それなら、採決を取ります。鶏を飼ふことを禁ずる案に賛成の方……。一、二、三、四……(二見はその一人である)少数と認めます。鶏は飼つて差支ありません。その次、櫛谷君……。 藤巻  まだ、下水の問題が解決されてゐません。 鬼骨  隣から流し込まれた汚水は、そのまた隣りへ流し込まず、その一軒で喰ひ止めるべきこと、これについて、諸君……? 両角  賛成。 鬼骨  少し急ぎませう。(下を向いたまゝ)賛成、多数と認めます。次は、今里君……。 今里  (やうやく我に帰り、甲吉を抱いて蒲団の上に寝かせ)かういふ会合は、日曜日に開かないやうにしていたゞきたいです。日曜日でもいゝから、誰かほかの人の家でやつて貰ひたい。僕は、勿論欠席しますよ。 二見  若し、パパが、あたくしを代理に出してくれたら、あたくしは、みなさんにかう申し上げるつもりです。──お互に蔭口は慎みませうつて……。あたくしが、どなたに会つても、先へお辞儀をしないなんて、どこの奥さんがおつしやつたんでせうね。 葉絵  あたくしが申しました。 二見  あら……。 葉絵  御存じなかつたんですか。百瀬さんの喋舌は中途半端なんですのね。 鬼骨  その代り、あなたのことを、誰のことかわからないやうに褒めておきましたよ。なに、さういふことは、あなたばかりが云つてるんぢやない。第一、尾畑さんの奥さんもさう云つてた。 尾畑  家内はなんと申したか知りません。しかし、宅の家内が洋装をして出掛けるのをみて、人差指に帽子を被せたやうだなんておつしやつたのはどなたでせう。 二見  それは、あたくしぢやございません。パパでございます。あたくしは、たゞ笑つたゞけでございます。どこからそんなことがお耳にはひりました? 尾畑  お宅の坊つちやんが、なんでもおつしやる。 鬼骨  (鉛筆で机をたゝき)それでは、「人の噂は子供の前でするな」この提案を、わたしからいたします。これに賛成の方……。 この時、何処かでけたゝましい鶏の啼き声が起る。それは、犬に追ひかけられて逃げ惑ふ鶏の悲鳴に違ひない。片倉州蔵が先づ門外に飛び出す。尾畑がこれに続く。 百瀬鬼骨は、しばらく耳をすましてゐたが、いきなり庭に飛び降り、一目散に駈け出す。 鬼骨  (門の外に出るや)こら、ペス! ペス! しツ! ペス! 今里さん、ペスを……。今里さん……早く……。こらツ! しツ! 一同、外へ出る。犬の後を追ふもの、「うし、うし」とけしかけるもの、さまざま。念吉は、椽側で、ぼんやり、眼をつぶり、二見は、甲吉の寝顔を見つめてゐる。屋外の暗く騒々しいのに引替へ、家の中は、電燈の明るい光の下に静まり返つてゐる。 ──幕── 底本:「岸田國士全集4」岩波書店    1990(平成2)年9月10日発行 底本の親本:「浅間山」白水社    1932(昭和7)年4月20日発行 初出:「中央公論 第四十五年第六号」    1930(昭和5)年6月1日発行 入力:kompass 校正:門田裕志 2012年2月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。