机前に空しく過ぐ 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 机前に空しく過ぐ  私は、机の前に坐っているうちに、いつしか年をとってしまいました。床屋が、他人の頭の格好を気にしながら、鋏をカチ〳〵やっているうちに、自分の青年時代が去り、いつしか、その頭髪が白くなって、腰の曲った時が至る如く、また、靴匠が仕事場に坐って、他人の靴を修繕したり、足の大きさなどを計っているうちに、いつしか、自分の指頭に皺が寄り、眼が霞んでくるように、私の青春も去ってしまえば、また、やがてその壮年期も去らんとしているのであります。  年というものを忘れてしまいたい。毎日、新しく生れ変ったような気持になって自然に接して見たい。今となっては、こうも思って、自分のやゝもすれば、沈み勝な気持を引立てたいとしますけれど、東洋流の思想が、子供の時分から頭にはいっている私達には、人生五十年というような言葉がいまでも思い出されることがあるのです。時勢が積極的となり、事実また、ほんとうに、社会のためにも働いているような人々が、五十以上の人にも多いのを知ると、昔の人の言った、この厭世的な見解は誤っていたということを知るのであります。そして、自分も、これからだと思い、また、真剣に、しなければならぬと考えます。  しかし、私は、四十の坂を越しました。自分は、常の如く、机の前に坐って、毎日同じようにペンを採っているうちに、いつしか、ひとりでに年を取ってしまったのでした。とは、いうもの、この間、街頭の響きから、人間との接触から、そこに感じられた複雑な人生の幾多の変遷と推移が、文壇の上にも、もしくは、他の社会の上にもあったことを考え出さずにはいられません。私自身にとっても、憧憬、煩悶、反抗、懐疑、信仰、いろ〳〵と、心の推移と、其の時代々々の思想と生活の異った有様とを顧みて、それ等をあり〳〵と目の前に描くことができます。  何といっても、私が最も、年齢について、悲哀を感じたのは、その三十の年を過ぐる時でありました。 「あゝ、もう青春も去ってしまったのか?」  四季について言えば、三十までは、春の日の光りの裡にまどろむ自然の如くでありました。柔らかな、香わしい風に吹かれる、若葉のように、うっとりとした時節でありました。たとえ、その光には、嚇々とした夏があり、楽しみの多き、また働き甲斐の多き、雄壮な人生が控えていたとはいえ。自分にとって最も、美しい幻の如く、若やかな、そして熱い血の胸に躍った、なやましい日のつゞいた、憧がれ心地に途をさ迷った、二十時代を送ることは、たとえ、当時は、私の、一番生活の逆境時代にあったにかゝわらず、尚この悲しみとやるせなさのために、深く悲しんだものでありました。  それに較べれば、人生の夏も過ぎんとする、四十を越した時でさえ、さまで心を動かすこともなくて済んだと記憶しています。  かのロマンチシズムの恍洋たる波に揺られて、年若くして死んだ、キイツ、シェリー、透谷、樗牛、其の詩人等を惜しみ、人間は、若く、美しい時分に死すべきものだ。年とって、感情が涸渇し、たゞ利害のみに敏く、羞恥をすら感ぜぬようになって、醜悪の姿をいつまでも晒らすものでない。こう真に、考えたことも、やはり、当時であったのでした。  たとえ、其の人の事業は、年をとってから完成するものだとはいうものゝ、すでに、其の少時に於て、犯し難き片鱗の閃きを見せているものです。若くして死んだ、詩人や、革命家は、その年としては、不足のないまで、何等か人生のために足跡を残していました。  人は、年齢により、また、その時代により、生活の意識も、理想も異なるものです。この世の中が、一人の英雄によって左右されると考えられた時代には、誰しも、英雄に対する讃美を惜しまなかったこともあります。また、天才が、時代に超越すると考えられた時代もありました。その時分には、天才を人間以外の人間の如く、天才には、すべてが許されなければならないと、特権あるものゝ如くに考えた時代もありました。  いま、それ等が、いかに愚であったかということと悟るのであります。英雄も、天才もたゞ真実に生きる人間という以外に、何ものもなかった筈です。  この頃に至って、私は、ようやく虚名からも、また利欲からも、心を煩わされなくなりました。たゞ、自分の理想に生きるということ、正義のために戦わなければならぬということ、そして、要するに、人間は、いかなる職業にあっても、その心がけが、社会のためにつくすという一事に於て、全的生涯が完うされるものだということを感じているのであります。  善良な理髪師の如く、善良な靴匠の如く、私は、また真実な一文筆者として使命を果たしたいと思っています。幸に、男子にとって、厄年である四十三も、無事に過ぎたことを祝福します。 ──十三年十二月── 底本:「芸術は生動す」国文社    1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行 底本の親本:「未明感想小品集」創生堂    1926(大正15)年4月30日初版 入力:Nana ohbe 校正:仙酔ゑびす 2011年11月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。