風船虫 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 風船虫  原っぱは、烈しい暑さでしたけれど、昼過ぎになると風が出て、草の葉はきらきらと光っていました。昨日は、たくさん雨が降ったので、まだくぼんだところへ、水がたまっています。もうすこしばかり前でありました。 「きょうは、きっとよく釣れるよ。」といいながら、徳ちゃんは、釣りざおとバケツを持って先に立ち、後から、正ちゃんが、すくい網をかついでここを通ったのです。  年ちゃんは、毎日のように川へいくと、おばあさんにしかられるので、今日は、いっしょにいくのをやめたのでした。二人が、もう川へ着いた時分、年ちゃんは、原っぱへきて、お友だちをさがしていました。 「やあ、きれいだな。」と、年ちゃんは、水たまりのところに立ち止まって、大空の白い雲が下の水の面に映っているのをのぞいていました。  ちょうど、同じ時刻に、あちらには、誠くんが、さびしそうに独りで遊んでいて、年ちゃんを見つけると、 「年ちゃんおいでよ。おもしろいものがあるから。」といいました。 「なあに。」と、年ちゃんは、もはや雲のことなど忘れてしまって、その方へ駆けていきました。 「風船虫が、いるよ。」と、誠くんは、穴の中を指しました。  その穴は、このあいだ、みんながボールをして遊んでいると、ペスがきて、しきりに前足で掘っていたところでした。  年ちゃんが、水の中を見ると、黒い虫が、五、六ぴきも底の方を往ったり、きたりしていました。 「これが、風船虫なの?」 「ああ、風船虫だよ。」 「君は、釣りにいかなかったのかい。」と、年ちゃんが、誠くんに聞きました。 「きょうは、早くお湯に入って、お母さんとお使いにいくのだから。」と、誠くんは、いかない理由を、語りました。 「僕、風船虫をお家へ持っていこうかな。」 「ああ、二人で分けようよ。」と、誠くんがいいました。  そこで、年ちゃんと、誠くんは、紙片の中へ虫を半分ずつ分けて、二人は、めいめいお家へ持って帰ったのであります。  年ちゃんは、風船虫をサイダーの空きびんの中へ入れました。そして、小さく紙を切って、水の中へ落としました。すると、風船虫は、紙片の沈むのを見て、急いでそれにつかまりました。そして、いっしょに下へ沈んでしまうと、今度は、自分の体を浮かしにかかったのです。すると、紙片が、ずんずんと下から上へ引き上げられてきました。やがて水の上まで着くと、風船虫は、紙を放しました。紙片は、また水の底の方へ沈んでいきました。風船虫は、あわてて、これを追いかけるように、銀色の体を光らして、水をくぐって下の方へ泳いでいきました。そしてまた紙を上に引き上げにかかるのでした。 「おもしろいな。」と、年ちゃんは、喜びました。しかし、いつまでたっても、風船虫は、飽きるということなく、同じことをくり返していたのです。  年ちゃんは、しまいには、ごろりと畳の上へ寝ころんで、びんの内で風船虫の体が、ぴかぴかと輝くのを見ていました。 「風船虫って、きれいな虫だな。」と、年ちゃんは、つくづく感心していました。  そのうちに、年ちゃんは、眠ってしまいました。ところが、目がさめて見ると、びんの中には、一ぴきも風船虫はいませんでした。 「どこへ飛んでいってしまったろうか。」と、年ちゃんは、しばらく、ぼんやりとしていました。  その明くる日のことでした。年ちゃんは、大きなかしの木の下で、道具箱を下ろして、あしだの歯を入れているおじさんと話をしていました。 「おじさんのとこに、学校へいく子供がある?」 「ええありますよ。ちょうど坊ちゃんと同じくらいの。」と、おじさんが、いいました。  年ちゃんは、考えていました。 「おじさんのお家は、町の中にあるんだろう。子供たちは、どこで遊ぶの?」 「やはり、往来で遊んでいますよ。」 「おもしろい虫を今度捕らえてきてあげようか?」 「虫ですか? きりぎりすですか。」 「おじさんの知らない虫だよ」 「はて、なんという虫ですか?」 「風船虫というのだ。」 「ああ、風船虫なら知っていますよ。」と、おじさんは、笑いました。 「町の中にも、風船虫がいるの?」と、年ちゃんは、びっくりしました。 「私の家の近所に呉服屋さんがありましてね。毎夜ショーウインドーに燈火をつけますが、燈火の下へコップに水を入れておくと、風船虫が飛んできて入りましてね、紙片を上げたり、下げたりして、ひとりでに窓飾りになりますよ。そして、夜が明けると、どこへか飛んでいってしまいます。」と、おじさんは答えました。 「ふうん。」と、年ちゃんは、感歎したのでした。  いまさら、この自然の大きいということが、そして、小さな虫が、自由に、気ままに生活しているということが、なんとなく不思議に考えられたので、年ちゃんは、思わず、青い、青い、空を見上げたのでした。  昨日、水たまりに姿を映した白い雲が、今日は、あちらの高い木の上を飛んでいました。 底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社    1977(昭和52)年10月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第5刷発行 底本の親本:「日本の子供」文昭社    1938(昭和13)年12月 初出:「児童文学」    1936(昭和11)年9月 ※表題は底本では、「風船虫」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2017年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。