心は大空を泳ぐ 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 心は大空を泳ぐ  いまごろ、みんなは、たのしく話をしながら、先生につれられて、知らない道を歩いているだろうと思うと、勇吉は自分から進んで、いきたくないと、こんどの遠足にくわわらなかったことが、なんとなく残念なような気がしました。  しかし、家のようすがわかっているので、このうえ、父や母に、心配をかけたくなかったのでした。 「おまえがいきたいなら、お父さんは、なんとでもして、つごうをつけてやるから。」と、父はいいました。けれど、彼は、頭を強く横にふりました。  そのとき、これを見た母は、なんと感じたか、目に涙をためていました。  緑色の大空を、二羽のつばめが、気ままにとびまわっていました。それを見ていた勇吉は、 「ぼく、つばめになりたいなあ。そうしたら、すぐ、みんなのところへ、いけるのになあ。」と、ひとりごとをしました。  たちまち、目に、工場や、製造場のある、にぎやかな町が見え、また船の出たり、入ったりする港がうかんできて、見るもの、聞くもの、すべてこれまで、知らなかったことばかりでした。ちょうど、みんなは、大きな工場を見学して、いま、その門から出たところで、先生のお話を聞きながら、港のほうへ、歩いていたのでした。そして、一同のたのしそうな姿が、ありありと、想像されるのでした。  すると、つぎには、紫色の水平線のもり上がる海が見えました。どこか他国の港から、たくさんの貨物をつんできたのであろうか、汽笛をならして、入ってきた船があります。だんだん、その黒い大きな船が近づくと、日の丸の旗が、風にひらひらとひらめいて、目にしみるのでした。 「万歳……。」と、申し合わせたごとく、みんなのさけぶ声が、勇吉の耳に聞こえたのです。しばらく、彼は、うっとりとしていました。やがて、想像の夢からさめると、つばめもどこへか飛び去って、いませんでした。じっとして、家にいられなかったので、だれか友だちがいないものかと、学校のそばまで、走っていきました。  べつに、自分の知ったものとも、あいませんでした。ただ、広い運動場に、こいのぼりが立って、高いさおのいただきに、赤と黒の二匹のこいが、生きているように、大空を泳いでいました。彼はしばらく、その下に、たたずんで見上げているうち、自分がその黒い一ぴきのこいに、なったような気がしたのです。  若葉のけむるような林を、波だて、ふいてきた風が、 「さあ、はやく、いっしょにいこうよ。」と、黒いほうの大きなこいを、さそうのでした。 「どこへ、つれていってくれる。」と、こいが聞きました。 「君のいきたいところへ、どこへでも、つれていくよ。」と、風はいいました。 「あの雲の上まで、つれていってくれる。」と、こいは聞きました。 「いいとも、雲の上にのれば、それは楽なものさ。それに、海の上でも、山の上でも、世界じゅうを見てあるくことが、できるもの。」と、風は、いいました。 「ほんとうかい。はやく、ぼくをつれていっておくれ。」と、こいになった勇吉が、たのみました。 「いま、その綱を切るからね。」と、風はさけんで、こいのからだを、はりさけそうに、ふくらまして、力いっぱい、吹いて、吹いて、吹きとばそうとしました。けれど、太い綱を切ることができなかったのです。そのうち、風は力がつきてしまい、いつしか、ひっそりとして、二匹のこいも元気なく、だらりと、さおの先にたれさがりました。勇吉は、家を思い出して、かえっていきました。  真夜中のことでした。ふと耳をすますと、雨風がつのっていました。 「学校のこいのぼりは、どうなったろう。」と、勇吉は、とび起きました。 「小使いさんが、おろしなさったでしょう。」と、おかあさんが、いわれたので、勇吉は安心して、また床にはいって眠りました。  朝になると、太陽はかがやいて、まったく昨夜のあらしをわすれたような、うららかなお天気でした。彼は、顔をあらうと、ねんのため、こいのぼりはどうなったろうと、いそいで学校までいってみました。  しかし、小使いさんが、わすれたのか、こいのぼりは一晩じゅう、雨風にさらされたとみえます。そして、半分ぬれながらも、あらしに負けず、元気でした。大きな口をあけ腹いっぱい風をすって、大空を泳いでいました。 「そうだ、ぼくも、あらしなんかに負けず、元気よくやるぞ!」と、勇吉は、自分と思った黒いこいにむかって、拍手をおくりました。  大空で、銀色の雲が、下を見て、わらっていました。 底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社    1977(昭和52)年12月10日第1刷発行    1983(昭和58)年1月19日第5刷発行 底本の親本:「うずめられた鏡」金の星社    1954(昭和29)年6月 ※表題は底本では、「心は大空を泳ぐ」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2019年3月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。