お母さん 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 お母さん  正ちゃんは、目をさますと、もう朝でした。窓が明るくなって、どこかで雨戸を繰る音がしました。けれどそばに寝ている兄さんも、目をさまさなければ、またお母さんもお起きなさらぬようすです。 「きょうは、日曜日なんだ。」  いつもなら、みんなが、こうゆっくりしてはいられぬのでした。正ちゃんは、いつも日曜は、朝がおそいのを知っていました。それをうっかりして、いつもと同じような気になって、三人で、八時から釣りにいく約束をしたのでした。かならず、七時半に迎えにくると勇ちゃんがいったから、もう起きて、ご飯を食べなければなりませんでした。 「お母さんを起こそうかしらん。」と、考えていましたが、まず、兄さんにいってみようと、 「兄ちゃん、まだ起きない?」と、声をかけました。小さな声で、いったのだけれど、兄さんは、目をふさいでいても、いつも、いまごろ起きる習慣がついているので、半分さめていたとみえて、 「正二、きょうは日曜日だろう。お母さんをゆっくり寝かしておいてあげな。音をたてると、お母さんが、目をおさましになるよ。」といいました。  なるほど、そうだった。いつも早く起きてくださるのだから、きょうは、お母さんをゆっくり寝かしてあげなければならぬと、正二にも思われたのでした。 「ああ、あんな約束をしなければよかった。これから、勇ちゃんの家へいって、断ってこようかしらん。」と、正ちゃんは、気がもめてなりませんでした。 「僕、釣りにいく約束をしたのだよ。」 「だれとかい。」と、兄の敏夫さんは、こちらへ向き直って聞きました。 「茂ちゃんと、勇ちゃんと三人で、八時にいくって。」と、正ちゃんが、いいました。 「いま何時だろうな。」と、敏夫さんが、いいました。 「もう六時過ぎだろう。」 「だけど、起こしては、お母さんに悪いじゃないか。」 「僕、勇ちゃんのところへいって、断ってくるよ。」 「もう、すこし待ってみな。」 「だって、勇ちゃんは、七時半にくるといったもの。」  正ちゃんは、独り、起きて、洋服に着かえると、二階から下りてきました。  すると、お母さんの姿が見えません。おへやは、もうちゃんときれいにかたづいていました。 「おや、お母さんは?」  正ちゃんは、お勝手もとへいってみました。ガスに火がついて、お汁のなべが、かかっていました。そこにもお母さんは、いらっしゃいません。 「お母さんは、どこへいったろうな。」  このとき、お母さんは、外から、お豆腐をいれた入れ物を持って、帰っていらっしゃいました。 「すぐに、ご飯にしてあげますよ。」と、おっしゃいました。 「うん、お母さんは、早いね。」と、正ちゃんが、いいました。 「だって、あんたが、釣りにいくんでしょう。」と、お母さんはおっしゃいました。 「どうして、わかったの? 勇ちゃんが、迎えにきた?」と、正ちゃんは、驚いて、ききました。 「いいえ、だれもきませんよ。お母さんには、なんでも、あんたのすることはわかるのです。」 「お母さんは、えらいなあ。」と、正ちゃんは、お母さんの顔を見上げました。 「えらいでしょう。だから、うそをいっても、お母さんには、すぐわかりますよ。」 「僕、うそなんかいわないよ。」 「だから、お母さんは、こうして、正ちゃんの思うようにしてあげるのです。」  まだ年のいかない正ちゃんは、おとなしくご飯をいただいていました。  お母さんは、昨夜、物置の前に、釣りざおが一本立てかけてあり、その下に、小さなバケツとみみず箱が、置いてあるのをごらんになって、 「おお、ちゃんと用意がしてあること。」と、なんとなくいじらしいような気がして、お笑いになったのでした。それで、きょうは日曜日だけれど、早く出かけるものと思って、いつもと同じように、お起きなされたのであります。  正ちゃんは、日ごろ、やさしい、いいお母さんだと思っています。しかし、いつになったら、このお母さんの愛が、ほんとうにもっと深くわかるでありましょうか。 底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社    1977(昭和52)年10月10日第1刷発行    1982(昭和57)年9月10日第5刷発行 底本の親本:「日本の子供」文昭社    1938(昭和13)年12月 初出:「教育行童話研究」    1938(昭和13)年5月 ※表題は底本では、「お母さん」となっています。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:酒井裕二 2016年9月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。