女房ども БАБЫ チェーホフ Anton Chekhov 神西清訳 Guide 扉 本文 目 次 女房ども БАБЫ  ライブージ村の教会の真向うに、石を土台にした鉄板葺きの二階家がある。階下には、ヂューヂャというのが通り名の、この家の主人フィリップ・イヷーノフ・カーシンが家族と一緒に住んでいる。二階は、夏はひどく暑くて冬はひどく寒いが、旅の官吏や商人や地主達が来て泊る。ヂューヂャは土地を貸したり、街道の小料理屋を経営したり、タールや蜂蜜から、家畜、鵲まで商って、もう千八百ほど蓄め込んだ。それは町の銀行に預けてある。  長男のフョードルは工場の技師長をしている。百姓たちの言草によると、えらく出世をしたもので、今じゃ手も届かない。フョードルの妻のソフィヤは、器量のわるい病身な女で、舅の家に住んでいる。いつも泣いてばかりいて、日曜ごとに病院へ療治をして貰いに行く。ヂューヂャの二番目の息子は傴僂のアリョーシカで、親父の家に暮らしている。つい此の間、或る貧乏な家からヷルヷーラという嫁を貰った。これは若い器量好しで、健康でお洒落が好きである。役人や商人達が泊まるとき、お声掛りでサモヷルを出したり床を敷いたりするのは、いつもこのヷルヷーラである。  ある六月の夕方、日が沈みかけて、空気には乾草や、まだ湯気の立つ家畜の糞や、搾り立ての牛乳の匂いがする頃、ヂューヂャの家の庭先に質素な馬車がはいって来た。三人の男がそれに乗っている。ズックの服を着た三十がらみの男。それと並んで、大きな骨ボタンの附いた黒い長上衣を着た十七ほどの少年。馭者台には、赤シャツを着た若者が坐っている。  若者は馬をはずすと、往還へ連れ出して運動をさせた。旅人は手を洗って、教会の方を向いて祈祷を上げてから、馬車の傍に膝掛を拡げて、少年と一緒に夕食をはじめた。落着いた、物静かな食べぶりである。一生のあいだに沢山の旅人を見て来たヂューヂャには、その道の人間らしい流儀で、これは真面目な、そして己れの値打をよく知っている人だなと頷かれた。  ヂューヂャは帽子も被らぬチョッキ一枚の姿で、昇り段に腰を下ろして、旅人が話しかけるのを待っていた。彼は、睡気のさすまでの宵のつれづれに、旅人が色々な話しをするのに慣れていたし、またそれを楽しみにしていた。婆さんのアファナーシエヴナと嫁のソフィヤは、牛部屋で乳を搾っていた。もう一人の嫁のヷルヷーラは、開けはなした二階の窓際で、向日葵の種子を齧っていた。 「その子供さんは、つまりあんたの息子さんですね?」と、ヂューヂャが旅人にきいた。 「いいや、養子です。みなし児でして。後生のため引取ってやりました。」  話がはじまった。旅人は話好きで、なかなかの能弁だった。話して行くうちにヂューヂャは、これは町から来た町人階級の男で、家作持でマトヴェイ・サヴィチという名だということを知った。また、これからドイツ移住民の或る男に貸してある庭を見に行くところで、少年の名はクージカだということも分った。蒸し暑い晩で、誰も寝に行く気がしなかった。暗くなって青ざめた星がちらほら瞬きだすと、マトヴェイ・サヴィチはクージカを引取った次第を物語りはじめた。アファナーシエヴナとソフィヤは少し離れた所に立って耳を澄した。クージカは門の方へ出て行った。 「これにはね、爺さん、長い話があるんでさ」と、マトヴェイ・サヴィチは口を切った、「あったままを残らず話すとなったら、夜通しかかっても足りません。もう十年になりますが、私の住んでいる街の、それもちょうど隣合せの小さな家に、マルファ・シモーノヴナ・カプルンツェヷという年寄りの後家が住んでいました。この家は今じゃ蝋燭工場と製油所になっていますがね。この婆さんに息子が二人あって、一人は鉄道の車掌でした。もう一人のヷーシャは私と同い年で、母親と一緒に暮らしていました。亡くなったカプルンツェフ老人は輓馬を五対も持っていて、町じゅうに荷馬車を出していましたが、婆さんもその稼業を継いで、馭者の取締りにかけては故人に劣らぬ腕前でした。だから日によっては稼り高が五ルーブルにもなることがありました。それに息子もやはり少しくらいは稼ぐのです。鳩の良種を育て上げて、好きな人達に売っていました。二六時ちゅう屋根の上にあがって、箒を振り上げては口笛を吹いていましたっけ。鳩はもう雲とすれずれまで舞い上っているのですが、それでもまだ不足で、もっと高く登らせたいのです。鶸や椋鳥も捕るし、鳥籠も上手に拵えました。……なに詰らないと言ってしまえばそれまでです。だが、それでも月に十ルーブルは転げ込みましたからね。…… 「さてそのうちに、婆さんは足が利かなくなって、床に就いてしまいました。そんなことで、家を取締る女手が無くなったのですが、これは人間が片眼になったも同じ事です。婆さんは急に慌てて、ヷーシャに嫁を貰おうと思い立ちました。そこで直ぐさま仲人婆さんを呼んで来る。あれでもないこれでもないと、例の女同士の話しが始まる。ヷーシャが見合いをして廻る。とどのつまりは或る後家さんの娘のマーシェンカを探し当てました。手っ取り早くそれに極めて、双方の承諾も済み、一週間のうちに万事片が附きました。十七と言ってもまだほんの子供で、小柄でつんつるてんな娘さんですが、色の白い愛くるしい顔立で、それに年頃のお嬢さんとしての資格はちゃんと具わっています。嫁入の財産にしても、悪いことはありません。お金で五百ルーブル、痩せたりとても牝牛が一匹、それに寝台。……ところで婆さんは、やっぱり虫が知らせたのか、婚礼が済んで三日目に、そこには病気も歎きもない天なるエルサレムへ旅立ちました。若夫婦は立派にお葬式を出して、水入らずの生活を始めました。半年ほどは人から羨まれる程の暮らしでしたが、そこへ突然新しい不幸が降って湧いた。泣面に蜂ってわけでしてね、ヷーシャが募兵所へ籤を引きに呼び出されました。可哀そうに兵隊に取られて、免除を願ったがお許しがない。額をつるつるに剃り上げられ、ポーランド王国へ追いやられました。神様の思召しで何ともなりません。庭先で女房と別れるまでは無事でしたが、見納めに鳩のいる乾草棚を振り返った時にゃ、滝のように涙を流しましたよ。見るも哀れな様子でした。 「最初のうちは淋しくないようにと、マーシェンカは母親に来て貰いました。母親は、あのクージカが生れるまでは一緒にいましたが、出産が済むと、オボヤーニに嫁に行っていた他の娘の所へ行ってしまい、マーシェンカは赤ん坊と二人ぎりになりました。馭者に傭ってある百姓たちは、五人とも酒飲みで図々しい野郎ですし、馬もいれば荷馬車もある。やれ垣根が崩れた、煙突の煤が燃えついた──とても女の手には負えません。そこは隣同士の誼みで、詰らんことまで一々私の所へ相談に来るようになりました。そこで私が色々と極りをつけて、智慧を貸してやる……。まあ私も行けば上り込んで、お茶の一杯も飲みながら、世間話をするようになるのは自然の成行きです。私は若くて才覚もあり、四方山の話をするのが好きでしたし、向うも教育のある慇懃な女です。いつも小ざっぱりした装をして、夏は日傘をさしました。偶にはこちらから宗教だの政治の話を仕掛けてやると、そうされるのが嬉しいのでしょう。お茶やジャムでもてなしました。……手短かに言えば、つまりその、私が人類の仇悪魔につけいられるまでには、一年とはかからなかったのです。彼女の家へ行かない日は、何となく気分がすぐれず物足りないことに、私は間もなく気がつきました。でしょっちゅう、彼女の家へ行く口実ばかり考えていました。『もうそろそろ、冬の用意に窓の二重枠をはめて置くんですね。』──そう言っては枠をはめたり外したり、明日の仕事に二枚ぐらいは残すように気を配りながら、一日彼女の所でぶらぶらして過ごします。『折角ヷーシャの丹精した鳩が、もしやいなくなっては大変ですから数えて置きましょう』──まあそんな工合です。 「いつも彼女とは垣根ごしに話しができるのですが、仕舞いにはぐるりと大廻りをしないで済むように、垣根に耳門をこしらえました。とかくこの世の禍や躓きは、女から来ることが多いものです。それも私たち罪深い者ばかりでなく、聖者さえこの道には迷います。マーシェンカの方でも、別に私を避ける素振りは見えません。夫を忘れずに身をつつしむどころか、私を慕うようになりました。私の姿を見ないとやはり淋しいらしく、しょっちゅう垣根の辺を行ったり来たりして、割れ目からこちらの庭先を覗いて見たりします。私も頭のなかの脳味噌が、夢心地でぐるぐる廻りだしました。復活祭週〔復活祭日(春分後第一の満月に次ぐ日曜日、従って三月二十 二日から四月二十五日の間に落ちる──)に始まる一週間〕の木曜のことです。朝早く、やっと白みはじめた頃、市へ行こうと彼女の家の門口に通りかかりました。悪魔も一緒について来たのです。見ると──その耳門は上の方が四つ目格子になっていましたが、彼女ももう起きていて、中庭へ出て鴨に餌をやっています。私はつい、彼女の名が口に出てしまいました。すると歩み寄って来て、格子越しに私を見つめます。色の白い可愛い顔、優しいまだ睡そうな眼……。とてもきれいに見えたので、まるでそこが門口ではなく、名の日の祝い〔「名の日」とはその人と同じ名の聖者の日。これ を誕生日のように祝うのがロシヤの習慣であった〕ででもあるように、お世辞をいいました。彼女は紅くなって、笑いだしましたが、それでも私の眼にじっと見入ったまま瞬きもしません。私は前後の見境もなくなって、自分の気持を打ち明けはじめました。……彼女は耳門をあけてはいって来ましたが、その朝以来、私たちは夫婦も同然の暮らしをすることになりました。……」  傴僂のアリョーシカが、往来から中庭へはいって来て、誰の顔も見ずに息せき切って家へ駈け込んだ。一分もすると風琴を抱えて、ポケットの銅銭をじゃらつかせて駈け出て来た。向日葵の種子の音をさせながら、門の外へ小走りに消えた。 「あれは誰方ですね」と、マトヴェイ・サヴィチがきいた。 「息子のアレクセイでさ」とヂューヂャは答えた、「また夜遊びに行きおった、仕様のない奴だ。ああした片輪に生まれついたもんで、まあ大抵のことは大目にみてやりますだが。」 「二六時ちゅう遊び仲間と飲み歩いとりますだよ、もうしょっちゅう」アファナーシエヴナが溜息をついた、「大斎前の週間〔「復活祭に先立つ六週間の精進を大斎といい、そ の前週をマースリヤナヤ」(牛酪週間)と称する〕に嫁を貰ってやりましたが、それで少しは収まるかと思いや、それどころか却って悪くなりおって。」 「無駄骨ださ。よその娘を、ただ喜ばしてやったようなものさ」と、ヂューヂャが言った。  教会の裏の方から、物悲しい壮んな歌声が湧き起った。歌詞は聞き取れず、声だけが聞えて来た。テノールが二人とバスである。皆がそれに聴き入ったので、庭先は寂としてしまった。……その声のうちの二つが、急に高笑いを響かせて絶えると、残るテノールだけが歌をつづけた。それも非常に高調子だったので、まるでその声の昂まる極み大空にまで舞い上るかのように、思わず皆の眸が上の方を振り仰いだ。ヷルヷーラが家から出て来て、日の光を避けでもするように手を眼に当てて、教会の方を見た。 「あれは、司祭の息子さんたちと学校の先生だわ」と彼女は言った。  また三つの声が合わさって歌いはじめた。マトヴェイ・サヴィチは溜息をつくと、再び話をつづけた。…… 「さてそれからね、二年ほどすると、ヷルシャヷにいるヷーシャから手紙が来ました。養生に家へ送り還されることになったというのです。病気なのです。尤もその頃は、私も馬鹿な考えはふっつり思い切って、いい嫁さんもちゃんと極っていたのですが、ただ可愛い女とどうして手を切ったものかしらと途方に暮れていました。今日こそはマーシェンカに言ってしまおうと、毎日そう思い立ちはするのですが、さてどう切り出したら女にきいきい声を立てさせずに済むものやら、見当がつきません。そこへその手紙なので、実はほっとしたのです。マーシェンカと一緒に読んだのですが、彼女は雪のように真蒼になりました。そこで私はこう言いました、『まあよかったね、これでつまりお前も、また御亭主のある女になれるというものだ。』すると彼女は、『私、もうあの人とは一緒になりませんわ』と言うのです。『だってお前の御亭主じゃないか』と私。『少しは察して頂戴……。私、あの人なんか好きじゃなかったのですわ。お母さんの言附けで、いやいやお嫁に来たのですわ。』──『そんな逃げ口上を言ったって駄目さ。馬鹿な女だ。ちゃんと教会で婚礼をしたんじゃないか。それとも、違うとでも言うのかい?』──『そりゃ婚礼はしましたわ。でも私はあなたが好きなの。死ぬ迄あなたと暮らしたいの。人は何と笑おうと構わないわ……。』──『お前はキリスト教徒だろう。聖典も読んだことがあるはずじゃないか。あれには何て書いてある?』」 「一たび嫁ぎては、夫と倶に暮らすべし」ヂューヂャが口を揷んだ。 「夫婦は一身同体です。『ね、二人は罪を犯したのだ』と私は言いました、『お前も私も。だがもうこれ以上はいけない。悔い改めて、神様を畏れなければならん。ヷーシャにはすっかり打明けてしまおう。あれは穏やかな内気な男だ。まさかお前を殺すとは言うまい。』また、こうも言いました、『それに、怖ろしい神の法廷で歯がみをして跑き廻るより、この世にいる内に自分の夫の手で折檻して貰う方がまだましだ。』けれど、下種女房め耳も貸しません。いやはや頑迷なものでして、何を言おうが『あなたが好きなの』の一点張りです。 「ヷーシャは、明日が五旬節という土曜日の朝早く帰って来ました。垣根ごしに何もかも聞えました。彼はわが家へ駈け込むと、一分ほど後にはクージカを抱いて出て来て、泣き笑いをしています。クージカにキスをしながら、眼は乾草棚へ行っています。クージカを下へ卸すのも可哀そうだし、鳩の方へは行って見たいしという訳です。気の優しい情に脆い男でした。その日は無事に、至極穏やかに暮れました。やがて晩祷の鐘が鳴りはじめたとき、私ははっとしました。──明日は五旬節だ、だのになぜ彼らの家では、門や垣根を緑葉で飾らないのだろう? こりゃ唯事ではないぞ。……そこで行って見ました。見ると、彼は部屋の真中でじかに床に坐って、酔払いのように眼をきょろつかせています。涙が頬を伝わり、ぶるぶると顫える手で、包みの中から薄ビスケットや、頸飾りや生姜パンや、まあ色んな土産物を掴み出しては、床一面に投げ散らかしています。クージカは三つでしたが床を這い廻って、生姜パンを齧っています。マーシェンカはと見れば、真蒼な顔をして煖炉の所につっ立って、身体じゅう顫わせながら、『私はもう貴方の妻じゃありません、貴方と一緒にいるのは厭です』などと、馬鹿のありったけをほざいています。 「私はヷーシャの前に跪いて言いました、『ヷシーリイ・マクシームィチ、われわれ二人は君に悪いことをしたのだ。どうか宥してくれたまえ。』それから起ち上って、マーシェンカにこう言ってやりました、『マリヤ・セミョーノヴナ、貴女もこれからはヷシーリイ・マクシームィチの足を洗い、その水でも飲む覚悟でなくてはなりません。この人の従順な妻になって、慈悲深い神様が私の罪を宥して下さるよう、私のために祈って下さい。』まるで天使が一々耳に吹き込んで下さりでもするように、彼女にこんな説教をしてやったのですが、話している内に胸がこみ上げて、涙が出てしまいました。まあそんな訳で、二日ほどするとヷーシャが訪ねて来ました。そして、『マチューシャ、僕は君も妻も宥すことにしたよ』と、そう言います、『あれは唯の兵隊の女房だ。何しろまだ年端も行かぬ女のことだ、身が持てなかったのも無理はない。こういうことは何も彼女に始まったことではなく、彼女で最後という訳でもないのだ。ただね』と附け加えて、『お願いは、これまで君らの間に何事もなかったように、そんな気振りも見せないようにして貰いたいのだ。僕としてはせいぜい彼女に尽してやって、また愛を取戻すように力めるつもりだ。』そう言って約束のしるしに手を差し出し、お茶を一杯飲んで機嫌よく帰って行きました。『やれやれ有難い』と私はほっとしました。万事上首尾に運んだので、胸が清々しました。ところが、ヷーシャが庭先を出て行くと、入れ違いにマーシェンカがやって来たのです。ああ、何という責苦でしょう。頸っ玉に抱きついて、泣きながら、『ねえお願いだから棄てないで。あんたと別れたら生きちゃ行けないわ』とせがむのです。」 「飛んだひきずり女めが」と、ヂューヂャが歎息した。 「私は足踏みしながら呶鳴りつけて、玄関へ引きずり出して戸の掛金を卸してしまいました。そして、『亭主の所へ帰るんだ。俺の顔へ泥を塗って呉れるな。恥を知れ』ってどなりました。こんな騒ぎが、それから毎日つづいたのです。 「或る朝庭先へ出て、厩の所で馬勒を直していると、いきなり彼女が耳門から駈け込んで来ました。跣足で、下袴一枚の姿です。私に飛びかかって来て、両手で馬勒に縋りついて、顔も手も瀝青だらけにしながら身悶えて泣くのです。……『あんな厭な男とは一緒にはいられないわ。とても我慢がならないわ。もしもう愛してくれないのなら、いっそひと思いに殺して頂戴。』私はかっとして、馬勒で二度ほど殴りつけてやりました。すると丁度その時、耳門からヷーシャが、懸命な大声を上げながら駈け込んで来ました、『ぶっちゃいけない。ぶっちゃいけない!』そして駈け寄りざま、気違いのように拳を振り上げて、力任せに彼女をどやしつけたのです。それから地面に引きずり倒して、踏む蹴る、いや大変な騒ぎです。私がとめようとすると、今度は手綱を引掴んでぴしぴし打ちだすのです。打ちながら、まるで仔馬のようにひんひん言っているのです。」 「どうせ手綱でやるんなら、お前さんをやればよかったよ……」と、ヷルヷーラが座を離れながら呟いた、「弱い女をひどい目に逢わせたりして、極道者……」 「ええ黙っとれ」とヂューヂャが呶鳴りつけた、「このあばずれめが!」 「ひんひん言ってるんです」マトヴェイ・サヴィチは続けた、「隣からは馭者が駈けつけて来ました。私は私で自分の所の下男を呼んで、三人がかりで彼の手からマーシェンカを離して、抱えるようにして家へ運んでやりました。飛んだ恥曝しです。その晩、私は様子を見に行きました。彼女は身体じゅう罨法の繃帯でくるまれて、寝台に寝ていました。出ているのは眼と鼻だけです。じっと天井を見ています。『今晩は、マリヤ・セミョーノヴナ』と言っても黙っています。ヷーシャはというと、隣の部屋に坐って、頭を抱えて泣いています。──『俺は悪党だ。自分の一生を台無しにしてしまった。ああ死にたい、死なせてくれ!』私は半時間ほどマーシェンカの傍についていて、お説教をしてやりました。少々威かしてやったのです。──『行いの正しい人間は、あの世で極楽へ行く。だがお前なんかは大勢の姦婦共と一緒にゲヘナの火に投げ込まれる。……夫に歯向うのはやめなさい、あの人の足許へ行って跪きなさい。』けれども彼女は一言も口を利きません。瞬きひとつしないのです。棒杙相手に物を言うようなものです。 「その翌る日、ヷーシャが何かコレラのような病気になって、日暮れには死んだという知らせがありました。葬式を出しました。マーシェンカはさすがに、恥知らずな顔や紫斑を人目に曝したくなかったのでしょう、埋葬には立ち会いませんでした。ところが間もなく、ヷーシャの死は当り前の死に様ではない、あれはマーシェンカが盛り殺したのだという評判が、界隈にぱっと立ちました。それがお上の耳にはいる。ヷーシャを掘り起して解剖して見ると、胃に砒素が残っていました。もう疑う余地はありません。警官が来て、罪もないクージカもろともマーシェンカを引張って行きました。牢屋へ入れられたのです。浅慮な奴であまりやりすぎたので到頭神罰が下ったのですね。……八ヵ月して裁判になりました。今でも憶えています、白い頭布をして、灰色の上っ張りを着て小さな腰掛に坐っていました。痩せこけて顔の色もなく、眼ばかりぎょろつかせて、見るも哀れな姿でした。後ろには兵隊が銃を持って立っています。どうしても白状しません。傍聴人の中には、彼女が夫に毒を盛ったのだという人もありますし、夫が悲歎のあまり自分から毒を嚥んだのだと言い張る人もありました。私も証人として呼ばれていましたが、いよいよ訊問の番が廻って来ると、良心の命ずるままにすっかり申し立てました。──『悪いのはこの女でございます。今更隠し立てをしても始まりませんが、もともと夫を愛しておりませんのです。一体この女の性質は……』裁判は朝から始まって、夜が更けてから判決が下りました。シベリヤにて十三年の徒刑に処す。 「そういう判決が下りてからも、マーシェンカは町の監獄に三ヵ月ほどおりました。私はよく茶や砂糖などを持っては、見舞いに行ってやりました。これも人情です。ですがあの女は、私の姿を見るが早いか身体じゅうを顫わせて、両手を振りながら呟きます──『行って、あっちへ行って。』そして、まるで私が攫って行きはしまいかと怖れるように、クージカをしっかり抱き緊めるのです。『そら御覧、到頭こんな事になってしまった。ああマーシャ、お前も可哀そうな女だ。あのとき折角俺が教えてやった事を聴かないもんだから、今じゃその償いをしなけりゃならん。みんな身から出た錆だ。誰も怨むでないぞ。』──そんな風に説教をしてやっても、『行って、あっちへ行って』と言い通しで、クージカと一緒に壁にへたばり着いて、ぶるぶる顫えています。いよいよ町を離れて県市へ送られるときは、停車場まで送って行って、後生のため一ルーブル札を包みへ押し込んでやりました。だがシベリヤまでは行きつけなかったんで……。県市で熱病にかかって、そこの監獄で死にました。」 「犬にゃ野垂死にが丁度似合っとる」と、ヂューヂャが言った。 「クージカは送り還されて来ました。……私はさんざ考えて見た挙句に、引取ってやることにしました。だって、何ぼ懲役人の子にしろ、やっぱり息の通った人間だし、洗礼も受けていますからね。……思えば可哀そうな奴です。まあ番頭代りに使って、万一私に子供が出来なかったら、商人に仕立ててやってもいいと思っています。今じゃ何処へ出掛けるにも、一緒に連れて歩きます。見習わせて置かなければね。」  マトヴェイ・サヴィチが話しているあいだ、クージカは門口の石の上に坐り通していた。両手を後頭に当てがって天を見つめている姿は、暗がりの中の遠目には木の根っこのように見えた。 「クージカ、もうこっちへ来て寝ろ」と、マトヴェイ・サヴィチが呼んだ。 「そうさ、大分更けましただ」ヂューヂャは起ち上りながら相槌を打った。そして大きな声で欠伸を一つして、附け加えた、「自分の料簡に頼って人の言うことを聴かない者は、つまりそうした事になる。」  月はもう中天に漂っていた。非常な早さで走っている。下の雲はそれと反対の方角に走っている。雲の方はずんずん行ってしまうが、月はいつまでも中庭の上に見えていた。マトヴェイ・サヴィチは教会の方を向いて祈祷をしてから、お寝みを言って馬車の傍の地面に横たわった。クージカもお祈りを上げて、これは馬車の中に、長上衣にくるまって横になった。楽に寝られるように、彼は乾草の真中に穴を拵えて、膝頭に肘が届くほどまん円くなっている。ヂューヂャが階下の自分の部屋に蝋燭をともし、眼鏡をかけて、小さな本を手にして一隅に立っているのが中庭から見えた。彼は長いこと本を読んでは拝んでいた。  お客は寝入った。アファナーシエヴナとソフィヤとは馬車の傍へ寄って行って、クージカを眺めはじめた。 「みなし子はよう寝とる」と老婆が言った、「痩せこけて、骨と皮ばかりだ。生みの母親がなけりゃ、心から世話をする者もないからの。」 「私のグリーシュトカの方が、二つぐらい年上らしいね」とソフィヤが言った、「工場で母親もなしに、懲役人みたいな暮らしをしてるわ。旦那に打たれてるかも知れないね。この子を一目見たとき、自分のグリーシュトカのことを思い出しちまったよ。心臓ん所の血が固まっちまうような気がしたっけ。」  一分ほど沈黙のうちに過ぎた。 「母親のことは憶えちゃいまいの」と老婆が言う。 「何で憶えてるもんかね。」  そう言ったソフィヤの眼から、大粒の涙が落ちた。 「猫のようにまんまるになってさ……」と、彼女はこみ上げて来る情愛と不憫さに、啜り泣くような笑うような声を出した、「ほんとに可哀そうな……」  クージカはぶるっと身顫いして、眼をあけた。するとすぐ眼の前に、みっともない皺くちゃの泣き腫らした顔が見え、その隣には鉤鼻で頤の尖った、歯の一本もない老婆の顔が見えた。二つの顔の遙か上の方には、雲が飛び月が漂う底知れぬ夜空がある。彼は恐怖のあまり叫び声を立てた。するとソフィヤも叫び声を立てた。木魂がその二つの叫びに応えて、蒸暑い空気が一しきりざわめいた。隣の番人がかちかち鳴らし、犬も何処かで吠えはじめた。マトヴェイ・サヴィチは何か夢のなかで呟いて、寝返りを打った。  夜が更けて、ヂューヂャも婆さんも隣の番人も寝てしまった頃、ソフィヤは門の外へ出てベンチに腰を掛けた。寝苦しかったし、それに泣いたので頭が痛かった。往還はひろくて、どこまでもつづいていた。右の方に半里、左の方にもそれくらいつづいて、その先は見えなかった。月はもう庭先をはずれて、今では教会の後方にかかっていた。往還の片側は月の光に溢れ、片側は影になって黒かった。白楊と椋鳥の鳥舎竿の長い影が道幅一ぱいに伸び、教会の大きな影は黒々と脅かすように、ヂューヂャの家の門を蔽い、家の半ばにまでかぶさっていた。人影はなく、しんとしていた。時々往還の末の方から、微かな音楽の音がつたわって来た。アリョーシャが風琴を弾いているのだろう。  教会の囲いのあたりに、誰かが歩いていた。人間なのか牛なのか、見わけはつかなかった。それとも誰もいるのではなくて、ただ大きな鳥が樹の枝を騒がせただけかも知れない。すると暗い蔭から人が出て来て、立ちどまって何やら男の声で言うと、教会について横町に姿を消した。暫くすると門から二間あまりの所に、別の人影が浮び出た。教会から門の方へ、真直ぐに歩いて来たが、ベンチにいるソフィヤに気がつくと立ち停った。 「ヷルヷーラじゃないかね?」と、ソフィヤがきいた。 「私だったらどうしたのさ。」  それはヷルヷーラだった。彼女はちょっと立ちすくんでいたが、やがてベンチに寄って来て腰を下ろした。 「何処へ行ってたのかね?」とソフィヤがきく。  ヷルヷーラは何も返事をしない。 「ふしだらな真似をして、後で後悔しないがいいよ」とソフィヤが言った、「聞いたろう、マーシェンカの話を。足蹴にされる、手綱でひゅうひゅう打たれる。お前さんも用心おしよ。」 「構うもんか。」  ヷルヷーラは頭布のなかでくすっと笑って、小声で囁いた。 「坊さんの息子と一緒にいたのさ。」 「なにを馬鹿なことを。」 「本当だとも。」 「罰当りな。」 「構わないさ……。困りゃしないさ。罰当りなら罰当りでいいさ。こんな暮らしよりゃ雷様にでも打たれた方がましだもの。私は若いし身体も丈夫なのに、亭主は傴僂で厭らしい業つく張りで、ヂューヂャ爺に輪をかけたような悪者さ。娘の頃にはパン一つ満足に貰えず、いつも跣足でいたんで、貧乏が厭さにアリョーシカの小金に眼がくらんだのさ。そいで魚籠の中の魚みたいに捕まっちまった。あんな疥癬やみのアリョーシカと寝るくらいなら、蛇とでも寝た方がましさ。そういう姉さんの暮らしはどうなの。眼も当てられやしない。フョードルはお前さんを工場から追い出して他の女を引き入れるし、伜までお前さんの手から捥ぎ取って、奴隷境涯に売り飛ばしたじゃないか。お前さんがいくら馬みたいに稼いだところで、親切な言葉ひとつ掛ける者はない。……こんなことなら嫁なぞには来ずに、一生くよくよ暮らしをした方がましさ。坊さんの息子から五十銭貰うなり、乞食をするなり、井戸へ飛びこむなりした方が、よっぽど増しさ……。」 「罰当りな」とソフィヤがまた囁いた。 「構うもんか。」  教会の裏の方で、また例の三つの声が悲しげな歌を歌いはじめた。二つはテノールで、一つはバスである。やはり歌詞は聞き取れない。 「宵っ張りな人たちだ……」とヷルヷーラが笑う。  そして彼女はひそひそ声で、坊さんの息子と毎晩逢引をしていることや、彼がして聴かせる話や、その遊び仲間や、家に泊る役人や商人たちとも面白可笑しく遊んだことなどを話した。物悲しい歌声は、自由な生活への憧れをそそり立てた。ソフィヤは笑いはじめた。そんな話を耳にするのが罪のような気もし、空恐ろしくもあり、またうっとりと快くもあった。なぜ自分も、若くて綺麗なうちに罪作りをして置かなかったのかと、口惜しいような羨ましいような気がした。……  古びた教会の境内で、夜番が十二時を打ち鳴らした。 「もう寝る時だ」起ち上りながらソフィヤが言った、「ヂューヂャに見附かるといけないよ。」  二人はそっと庭先へはいった。 「私出てったので、マーシェンカがどうなったのか聞かなかったわ」と、窓の下に寝る支度をしながらヷルヷーラが言った。 「牢屋で死んだとさ。亭主に毒を盛ってね。」  ヷルヷーラはソフィヤと並んで横になって、ちょっと考えてから小声で言った。 「私なら、アリョーシカを盛り殺しても後悔はしないね。」 「またそんなことを……。」  ソフィヤがうとうとしたとき、ヷルヷーラは身をすり寄せて耳に囁き込んだ。 「ヂューヂャとアリョーシカをやっちまおうか、姉さん。」  ソフィヤはぶるっとしたが、何も言わなかった。やがて眼をあいて、身動きもせずにいつまでもじっと空を見ていた。 「人に知れるよ」と彼女は言った。 「知れるもんか。ヂューヂャは年寄りでもう死んでもいい頃だし、アリョーシカの方なら、飲み過ぎで死んだことになるさ。」 「怖かない。神様が取り殺しなさる。」 「構うもんか。……」  二人とも眠らずに、黙って考えていた。 「おお寒む」ソフィヤは身体じゅうがくがく顫えながら、そう言った、「もうじきに朝だ。……寝たかね。」 「いいや。……姉さん、私の言ったことなんぞ気に掛けなさるな」とヷルヷーラは囁いた、「つい業つく張り共に腹が立って、口から出まかせを言ったんだから。おやすみよ、もう明るくなるわ。……おやすみよ……。」  二人は黙って静かになった。そして間もなく寝入った。  一番先に眼を醒ましたのは婆さんだった。彼女はソフィヤを起して、二人で乳を搾りに牛部屋へ行った。傴僂のアリョーシカがひどく酔っ払って、風琴を失くして帰って来た。道傍へ転げ落ちたと見え、胸も膝も埃と藁で汚れている。よろよろしながら牛部屋へはいって来て、そこにある橇の中に着物も脱がずに倒れると、すぐさま鼾をかきはじめた。日が上って、教会の十字架がまずきらきらと燃え、やがてそれが窓に移り、庭先の露を置いた草のうえに木々や車井戸が影をひきはじめたとき、マトヴェイ・サヴィチは跳ね起きて、慌だしく駈け廻りはじめた。 「クージカ、起きろ」と彼は叫んだ、「馬を附けるんだ。しゃんしゃんしな。」  朝の忙しさが始まった。若いユダヤ女が、裾飾りのついた褐色の着物を着て、水飼いをしに馬を庭先に引いて来た。井戸の滑車が悲しげに軋り、釣瓶のぶつかる音もする。……クージカは身体一面に露を浴びて、睡くて懶いらしい。馬車の中に坐って、のろくさと長上衣を着ている。そして釣瓶の水が井戸の中で撥ね散る音に耳を澄まして、寒さに首をすくめる。 「小母さん」とマトヴェイ・サヴィチがソフィヤを呼ぶ、「あの若僧に、早く馬を附けろと言って来て下さらんか。」  ヂューヂャがそのとき窓から叫ぶ。── 「ソフィヤ、あのユダヤ女から水飼い料に一銭取って置け。しょっちゅう這入って来くさる、疥癬やみめが。」  往還では羊が走り廻って、メエメエ啼いている。女房どもが牧飼いにやいやい言うが、こちらは平気だ。蘆笛を吹きながら鞭を鳴らしたり、嗄れただみ声で何やら言い返す。庭先へ羊が三匹迷い込んだ。出口が分らなくなって、垣根を頭でつつく。物音でヷルヷーラも眼を醒まして、寝床をぐるぐる巻きに抱えて、家へはいって行く。 「羊ぐらい追い出したってよかろ、ここな嬢ちゃんや」と婆さんが喚く。 「ふん、ヘロデの奴隷じゃあるまいし」──ヷルヷーラが家にはいりながら呟く。  馬車に油を差して馬を附けた。ヂューヂャが算盤を抱えて家から出て来る。そして昇り段に腰を下ろして、泊りと燕麦と水飼い賃は幾らになるかと勘定しだす。 「高いよ、爺さん、その燕麦の代は」とマトヴェイ・サヴィチが言う。 「高けりゃ持って行きなさんな。俺らあ、押売りはしねえ。」  さていよいよ馬車に乗り込む段になって、ちょっとしたごたごたが出発を引き留めた。クージカの帽子が見えなくなったのだ。 「ええこの餓鬼め、一体どこへ置き忘れたんだ!」とマトヴェイ・サヴィチが声を荒らげる、「何処だと言うに。」  クージカの顔は恐怖で歪んだ。馬車のまわりを走り廻って見たが無いので、門口へ駈けて行き、それから牛部屋へ駈けて行った。婆さんとソフィヤも一緒になって探した。 「耳っ朶引っちぎるぞ」とマトヴェイ・サヴィチが呶鳴った、「やくざ者めが。」  帽子は馬車の底に落ちていた。クージカは袖で藁を払ってそれを被り、背後からがあんとやられはしまいかと絶えず恐怖の色を浮べながら、おずおずと車に這い込んだ。マトヴェイ・サヴィチが十字を切り、若者が手綱をとると、馬車は動きだして庭先を出て行った。 底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社    1960(昭和35)年2月15日初版発行    1980(昭和55)年6月20日再訂再版発行 入力:米田 校正:阿部哲也 2010年9月6日作成 2012年2月21日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。