初めて西田幾多郎の名を聞いたころ 和辻哲郎 Guide 扉 本文 目 次 初めて西田幾多郎の名を聞いたころ  わたくしが初めて西田幾多郎という名を聞いたのは、明治四十二年の九月ごろのことであった。ちょうどその八月に西田先生は、学習院に転任して東京へ引っ越して来られたのであるが、わたくしが西田先生のことを聞いたのはその方面からではない。第四高等学校を卒業してその九月から東京の大学へ来た中学時代の同窓の友人からである。  その友人は岡本保三と言って、後に内務省の役人になり、樺太庁の長官のすぐ下の役などをやった。明治三十九年の三月に中学を卒業して、初めて東京に出てくる時にも一緒の汽車であった。中央大学の予備科に一、二か月席を置いたのも一緒であった。それが九月からは四高と一高とに分かれて三年を送り、久しぶりにまた逢うようになったときに、最初に話して聞かせたのが、四高の名物西田幾多郎先生のことであった。日本には今西田先生ほど深い思想を持った哲学者はいない。先生はすでに独特な体系を築き上げている。形而上学でも倫理学でも宗教学でもすべて先生の独特な原理で一貫している。僕たちはその講義を聞いて来たのだ。よく解ったとはいえないけれども、よほど素晴らしいもののように思う。しかし自分たちが敬服したのは、その哲学よりも一層その人物に対してである。哲学者などといえばとかく人生のことに迂遠な、小難かしい理屈ばかり言っている人のように思われるが、先生は決してそんな干からびた学者ではない。それは先生が藤岡東圃の子供をなくしたのに同情して、自分が子供をなくした経験を書いていられる文章を見ても解る。哲学者で宇宙の真理を考えているのだから、子供をなくした悲しみぐらいはなんでもなく超越できるというのではないのだ。実に人間的に率直に悲しんでいられる。亡きわが児が可愛いのは何の理由もない、ただわけもなく可愛い。甘いものは甘い、辛いものは辛いというと同じように可愛い。ここまで育てて置いて亡くしたのは惜しかろうと言って同情してくれる人もあるが、そんな意味で惜しいなどという気持ちではない。また女の子でよかったとか、ほかに子供もあるからとかと言って慰めてくれる人もあるが、そんなことで慰まるような気持ちでもない。ただ亡くしたその子が惜しく、ほかの何を持って来ても償うことのできない悲しみなのだ。亡き子の面影が浮かんでくると、無限になつかしく、可愛そうで、どうにかして生きていてくれればよかったと思う。死は人生の常で、わが子ばかりが死ぬのではないが、しかし人生の常事であっても、悲しいことは悲しい。悲しんだとて還っては来ないのだから、あきらめよ、忘れよといわれるが、しかし忘れ去るような不人情なことはしたくないというのが親の真情である。悲しみは苦痛であるに相違ないが、しかし親はこの苦痛を去ることを欲しない。折にふれて思い出しては悲しむのが、せめてもの慰めであり、死者への心づくしである。そういう点からいえば、親の愛はまことに愚痴にほかならないが、しかし自分は子を亡くして見て、人間の愚痴というもののなかに、人情の味のあることを悟った。人格は目的そのものである。人には絶対的価値があるということが、子を亡くした場合に最も痛切に感じられた。人間の仕事は人情ということを離れてほかに目的があるのではない。学問も事業も究竟の目的は人情のためにするのだ。そういう意味のことが実に達意の文章で書いてある。あれを読んでわれわれは実に打たれた。ああいうふうに人生のことのよく解っている人ならば、あの哲学もよほど深いところのあるものに相違ない。そういう意味のことを岡本保三がわたくしに説いて聞かせたのである。  それは明治四十二年の九月ごろであった。その時までに西田先生の論文は二度ぐらい哲学雑誌に出たかと思うが、一高の生徒であったわたくしたちの眼には触れなかった。だからわたくしは非常に驚いて岡本の話を聞いたのである。しかし四高では、すでに前々から先生の存在が大きく生徒たちの眼に映っていたようであるし、岡本が入学した三十九年ごろには先生の講義案も印刷になったといわれているから、岡本の話したことは岡本個人の意見ではなく、四高で一般に行なわれていた意見ではないかと思われる。一高の方ではちょうどそれに当たるような教授として岩元禎先生がいられたが、しかしそのころの岩元先生はただドイツ語を教えるだけで、講義はされなかった。論理学、心理学、倫理学など、哲学関係の講義は、速水滉さんの受持であった。従って岩元先生の哲学には全然ふれる機会がなかったのであるが、それでも先生は哲学者として評判であった。それくらいであるから、後に『善の研究』としてまとめられたような思想を、いろいろ苦心して育てていられた時代の西田先生は、その講義によって相当に深い感銘を生徒に与えられたことと思われる。それを考えると、右にあげたような意見が四高の生徒の間に行なわれていたとしても、少しも不思議はないのである。  そういうふうにして初めて名を知った西田幾多郎は、わたくしにとっては初めから偉い哲学者であった。四高で行なわれていた意見はそのままわたくしにも移って来たのである。そういう事情は明治の末期の一つの特徴であるかも知れない。というのは、そのころ有名な学者や文人には、あまり高齢の人はなく、四十歳といえばもう老大家のような印象を与えたからである。夏目漱石は西田先生の戸籍面の生年である明治元年の生まれであるが、明治四十年に朝日新聞にはいって、続き物の小説を書き始めた時には、わたくしたちは実際老大家だと思っていた。だから明治四十二年に正味の年が四十歳であった西田先生も、同じく老大家に見えたのである。先生の処女作が『善の研究』であり、その刊行がこの年よりもなお二年の後であるというようなことは、あとになって考えることであって、その当時はすでに四高における長い教歴を持った哲学者、すでにおのれの体系を築き上げた哲学者としてわたくしどもの眼に映ったのである。  これは決してわたくしの主観的な印象に過ぎないのではあるまい。当時まだ二十歳で、初めて大学生になったわたくしなどには、全然事情は解らなかったが、専門の哲学者の間では、あるいは少なくとも一部の哲学者の間では、先生の力量はすでに認められていたのであろう。哲学者の先生に対する態度にしても、少し後のことではあるが『善の研究』に対する高橋里美君の批評にしても、当時のそういう雰囲気を反映しているように思われる。先生が四高から学習院に移り、わずか一年でさらに京都大学に移られたことも、そういう雰囲気と無関係ではあるまい。東京転任に先立つ数か月、四十二年四月に上京せられた際には、井上(哲)、元良などの「先生」たちを訪ねていられるし、また井上、元良両先生の方でも、田中喜一、得能、紀平などの諸氏とともに、学士会で西田先生のために会合を催していられる。田中、得能、紀平などの諸氏は、当時東京大学の哲学の講師の候補者であったらしい。西田先生はその八月の末に東京に移られたが、九月には井上、元良、上田などの諸氏としきりに接触していられる。そうして十月十日の日記には「午前井上先生を訪う。先生の日本哲学をかける小冊子を送らる。……元良先生を訪う。小生の事は今年は望みなしとの事なり」と記されている。多分東京大学での講義のことであろう。この学期から初めて講師になって哲学の講義を受け持ったのは紀平氏であった。わたくしたちは新入生としてこれを聞いた。事によると紀平氏の講義の代わりに西田先生の講義が聞けたかも知れないというような事情が当時あったということは、この日記を読むまでわたくしは知らなかったのである。なお日記には、右のことから一か月も経たない十一月六日に、山本良吉氏からの手紙で、京都大学についての話があったと記されている。この話の内容はよくは解らないが、京都大学への転任の話が京都の教授会で確定したのは、翌年四月のことである。だからこの話が前年の十一月ごろに始まったと考えても差し支えはあるまい。いずれにしても先生は、この当時大学での講義を予期していられたのである。京都へ移る前、七月に、学士会で送別会が催された。来会者は井上、元良、中島、狩野、姉崎、常盤、中島(徳)、戸川、茨木、八田、大島(正)、宮森、得能、紀平の諸氏であったという。これらの中の一番若い人でも大学生から見ると先生だったのであるから、こういう出来事はすべて別世界のことであって、わたくしたちには知る由もなく、また関心もなかった。  多分先生が日記に、「小生の事は今年は望みなしとの事なり」と書かれたころであろう。わたくしは友人の岡本の言葉に刺激されて、藤岡作太郎著『国文学史講話』の序文を読んだ。そうして非常に動かされた。しかしそのなかに「とにかく余は今度我が子のあえなき死ということによりて、多大の教訓を得た。名利を思うて煩悶絶え間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられたような心持ちがして、一種の涼味を感ずるとともに、心の奥より秋の日のような清く温かき光が照らして、すべての人の上に純潔なる愛を感ずることができた」という個所のあるのに対して、特別の注意をひかれることはなかった。名利を思うて煩悶するというようなことに特別の内容が感じられなかったのである。しかし現在のように、『善の研究』を処女作としてその後に大きい思想的展開を見せた哲学者として西田先生を考える場合、従って明治四十三年の先生がかつてその名を聞いたことのない哲学者と呼ばれている場合、右のような言葉はかえって率直に理解せられ得るかも知れない。右の文章を書いた、先生は戸籍面四十歳、実年齢三十八歳であった。その年齢の先生に、名利を思うて煩悶絶え間なき心があったとしても、少しも、不思議ではない。実際そのころの先生は、力量相応の待遇を受けてはいなかったのである。 底本:「日本の名随筆 別巻92 哲学」作品社    1998(平成10)年10月25日第1刷発行 底本の親本:「和辻哲郎全集 第二三巻」岩波書店    1991(平成3)年5月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2010年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。