上海游記 芥川龍之介 Guide 扉 本文 目 次 上海游記 一 海上 二 第一瞥(上) 三 第一瞥(中) 四 第一瞥(下) 五 病院 六 城内(上) 七 城内(中) 八 城内(下) 九 戯台(上) 十 戯台(下) 十一 章炳麟氏 十二 西洋 十三 鄭孝胥氏 十四 罪悪 十五 南国の美人(上) 十六 南国の美人(中) 十七 南国の美人(下) 十八 李人傑氏 十九 日本人 二十 徐家滙 二十一 最後の一瞥 一 海上  愈東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。──こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯なる事を気の毒に思った。  処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々煮え返っている。その向うに何処かの島の影が、ぼんやり浮んで来たと思ったら、それは九州の本土だった。が、船に慣れている馬杉君は、巻煙草の煙を吐き出しながら、一向弱ったらしい気色も見せない。私は外套の襟を立てて、ポケットへ両手を突っこんで、時々仁丹を口に含んで、──要するに長野草風氏が船酔いの薬を用意したのは、賢明な処置だと感服していた。  その内に隣の馬杉君は、バアか何処かへ行ってしまった。私はやはり悠々と、籐椅子に腰を下している。はた眼には悠々と構えていても、頭の中の不安はそんなものじゃない。少しでも体を動かしたが最後、すぐに目まいがしそうになる。その上どうやら胃袋の中も、穏かならない気がし出した。私の前には一人の水夫が、絶えず甲板を往来している。(これは後に発見した事だが、彼も亦実は憐れむべき船酔い患者の一人だったのである。)その目まぐるしい往来も、私には妙に不愉快だった。それから又向うの浪の中には、細い煙を挙げたトロオル船が、殆船体も没しないばかりに、際どい行進を続けている。一体何の必要があって、あんなに大浪をかぶって行くのだか、その船も当時の私には、業腹で仕方がなかったものである。  だから私は一心に、現在の苦しさを忘れるような、愉快な事許り考えようとした。子供、草花、渦福の鉢、日本アルプス、初代ぽんた、──後は何だったか覚えていない。いや、まだある。何でもワグネルは若い時に、英吉利へ渡る航海中、ひどい暴風雨に遇ったそうである。そうしてその時の経験が、後年フリイゲンデ・ホルレンデルを書くのに大役を勤めたそうである。そんな事もいろいろ考えて見たが、頭は益ふらついて来る。胸のむかつくのも癒りそうじゃない。とうとうしまいにはワグネルなぞは、犬にでも食われろと云う気になった。  十分ばかり経った後、寝床に横になった私の耳には、食卓の皿やナイフなぞが一度に床へ落ちる音が聞えた。しかし私は強情に、胃の中の物が出そうになるのを抑えつけるのに苦心していた。この際これだけの勇気が出たのは、事によると船酔いに罹ったのは、私一人じゃないかと云う懸念があったおかげである。虚栄心なぞと云うものも、こう云う時には思いの外、武士道の代用を勤めるらしい。  処が翌朝になって見ると、少くとも一等船客だけは、いずれも船に酔った結果、唯一人の亜米利加人の外は、食堂へも出ずにしまったそうである。が、その非凡なる亜米利加人だけは、食後も独り船のサロンに、タイプライタアを叩いていたそうである。私はその話を聞かされると、急に心もちが陽気になった。同時にその又亜米利加人が、怪物のような気がし出した。実際あんなしけに遇っても、泰然自若としているなぞは、人間以上の離れ業である。或はあの亜米利加人も、体格検査をやって見たら、歯が三十九枚あるとか、小さな尻尾が生えているとか、意外な事実が見つかるかも知れない。──私は不相変馬杉君と、甲板の籐椅子に腰をかけながら、そんな空想を逞くした。海は昨日荒れた事も、もうけろりと忘れたように、蒼々と和んだ右舷の向うへ、済州島の影を横えている。 二 第一瞥(上)  埠頭の外へ出たと思うと、何十人とも知れない車屋が、いきなり我々を包囲した。我々とは社の村田君、友住君、国際通信社のジョオンズ君並に私の四人である。抑車屋なる言葉が、日本人に与える映像は、決して薄ぎたないものじゃない。寧ろその勢の好い所は、何処か江戸前な心もちを起させる位なものである。処が支那の車屋となると、不潔それ自身と云っても誇張じゃない。その上ざっと見渡した所、どれも皆怪しげな人相をしている。それが前後左右べた一面に、いろいろな首をさし伸しては、大声に何か喚き立てるのだから、上陸したての日本婦人なぞは、少からず不気味に感ずるらしい。現に私なぞも彼等の一人に、外套の袖を引っ張られた時には、思わず背の高いジョオンズ君の後へ、退却しかかった位である。  我々はこの車屋の包囲を切り抜けてから、やっと馬車の上の客になった。が、その馬車も動き出したと思うと、忽ち馬が無鉄砲に、町角の煉瓦塀と衝突してしまった。若い支那人の馭者は腹立たしそうに、ぴしぴし馬を殴りつける。馬は煉瓦塀に鼻をつけた儘、無暗に尻ばかり躍らせている。馬車は無論顛覆しそうになる。往来にはすぐに人だかりが出来る。どうも上海では死を決しないと、うっかり馬車へも乗れないらしい。  その内に又馬車が動き出すと、鉄橋の架った川の側へ出た。川には支那の達磨船が、水も見えない程群っている。川の縁には緑色の電車が、滑かに何台も動いている。建物はどちらを眺めても、赤煉瓦の三階か四階である。アスファルトの大道には、西洋人や支那人が気忙しそうに歩いている。が、その世界的な群衆は、赤いタバアンをまきつけた印度人の巡査が相図をすると、ちゃんと馬車の路を譲ってくれる。交通整理の行き届いている事は、いくら贔屓眼に見た所が、到底東京や大阪なぞの日本の都会の及ぶ所じゃない。車屋や馬車の勇猛なのに、聊恐れをなしていた私は、こう云う晴れ晴れした景色を見ている内に、だんだん愉快な心もちになった。  やがて馬車が止まったのは、昔金玉均が暗殺された、東亜洋行と云うホテルの前である。するとまっさきに下りた村田君が、馭者に何文だか銭をやった。が、馭者はそれでは不足だと見えて、容易に出した手を引っこめない。のみならず口角泡を飛ばして、頻に何かまくし立てている。しかし村田君は知らん顔をして、ずんずん玄関へ上って行く。ジョオンズ、友住の両君も、やはり馭者の雄弁なぞは、一向問題にもしていないらしい。私はちょいとこの支那人に、気の毒なような心もちがした。が、多分これが上海では、流行なのだろうと思ったから、さっさと跡について戸の中へはいった。その時もう一度振返って見ると、馭者はもう何事もなかったように、恬然と馭者台に坐っている。その位なら、あんなに騒がなければ好いのに。  我々はすぐに薄暗い、その癖装飾はけばけばしい、妙な応接室へ案内された。成程これじゃ金玉均でなくても、いつ何時どんな窓の外から、ピストルの丸位は食わされるかも知れない。──そんな事を内々考えていると、其処へ勇ましい洋服着の主人が、スリッパアを鳴らしながら、気忙しそうにはいって来た。何でも村田君の話によると、このホテルを私の宿にしたのは、大阪の社の沢村君の考案によったものだそうである。処がこの精悍な主人は、芥川龍之介には宿を貸しても、万一暗殺された所が、得にはならないとでも思ったものか、玄関の前の部屋の外には、生憎明き間はごわせんと云う。それからその部屋へ行って見ると、ベッドだけは何故か二つもあるが、壁が煤けていて、窓掛が古びていて、椅子さえ満足なのは一つもなくて、──要するに金玉均の幽霊でもなければ、安住出来る様な明き間じゃない。そこで私はやむを得ず、沢村君の厚意は無になるが、外の三君とも相談の上、此処から余り遠くない万歳館へ移る事にした。 三 第一瞥(中)  その晩私はジョオンズ君と一しょに、シェッファアドという料理屋へ飯を食いに行った。此処は壁でも食卓でも、一と通り愉快に出来上っている。給仕は悉支那人だが、隣近所の客の中には、一人も黄色い顔は見えない。料理も郵船会社の船に比べると、三割方は確に上等である、私は多少ジョオンズ君を相手に、イエスとかノオとか英語をしゃべるのが、愉快なような心もちになった。  ジョオンズ君は悠々と、南京米のカリイを平げながら、いろいろ別後の話をした。その中の一つにこんな話がある。何でも或晩ジョオンズ君が、──やっぱり君附けにしていたのじゃ、何だか友だちらしい心もちがしない。彼は前後五年間、日本に住んでいた英吉利人である。私はその五年間、(一度喧嘩をした事はあるが)始終彼と親しくしていた。一しょに歌舞伎座の立ち見をした事もある。鎌倉の海を泳いだ事もある。殆夜中上野の茶屋に、盃盤狼藉としていた事もある。その時彼は久米正雄の一張羅の袴をはいた儘、いきなり其処の池へ飛込んだりした。その彼を君などと奉っていちゃ、誰よりも彼にすまないかも知れない。次手にもう一つ断って置くが、私が彼と親しいのは、彼の日本語が達者だからである。私の英語がうまいからじゃない。──何でも或晩そのジョオンズが、何処かのカッフェへ酒を飲みに行ったら、日本の給仕女がたった一人、ぼんやり椅子に腰をかけていた。彼は日頃口癖のように支那は彼の道楽だが日本は彼の情熱だと呼号している男である。殊に当時は上海へ引越し立てだったそうだから、余計日本の思い出が懐しかったのに違いない。彼は日本語を使いながら、すぐにその給仕へ話しかけた。「何時上海へ来ましたか?」「昨日来たばかりでございます。」「じゃ日本へ帰りたくはありませんか?」給仕は彼にこう云われると、急に涙ぐんだ声を出した。「帰りたいわ。」ジョオンズは英語をしゃべる合い間に、この「帰りたいわ」を繰返した。そうしてにやにや笑い出した。「僕もそう云われた時には、Awfully sentimental になったっけ。」  我々は食事をすませた後、賑かな四馬路を散歩した。それからカッフェ・パリジャンへ、ちょいと舞蹈を覗きに行った。  舞蹈場は可也広い。が、管絃楽の音と一しょに、電燈の光が青くなったり赤くなったりする工合は如何にも浅草によく似ている。唯その管絃楽の巧拙になると、到底浅草は問題にならない。其処だけはいくら上海でも、さすがに西洋人の舞蹈場である。  我々は隅の卓子に、アニセットの盃を舐めながら、真赤な着物を着たフィリッピンの少女や、背広を一着した亜米利加の青年が、愉快そうに踊るのを見物した。ホイットマンか誰かの短い詩に、若い男女も美しいが、年をとった男女の美しさは、又格別だとか云うのがある。私はどちらも同じように、肥った英吉利の老人夫婦が、私の前へ踊って来た時、成程とこの詩を思い浮べた。が、ジョオンズにそう云ったら、折角の私の詠嘆も、ふふんと一笑に付せられてしまった、彼は老夫婦の舞蹈を見ると、その肥れると痩せたるとを問わず、吹き出したい誘惑を感ずるのだそうである。 四 第一瞥(下)  カッフェ・パリジァンを引き上げたら、もう広い往来にも、人通りが稀になっていた。その癖時計を出して見ると、十一時がいくらも廻っていない。存外上海の町は早寝である。  但しあの恐るべき車屋だけは、未に何人もうろついている。そうして我々の姿を見ると、必何とか言葉をかける。私は昼間村田君に、不要と云う支那語を教わっていた。不要は勿論いらんの意である。だから私は車屋さえ見れば、忽悪魔払いの呪文のように、不要不要を連発した。これが私の口から出た、記念すべき最初の支那語である。如何に私が欣欣然と、この言葉を車屋へ抛りつけたか、その間の消息がわからない読者は、きっと一度も外国語を習った経験がないに違いない。  我々は靴音を響かせながら、静かな往来を歩いて行った。その往来の右左には、三階四階の煉瓦建が、星だらけの空を塞ぐ事がある。そうかと思うと街燈の光が、筆太に大きな「当」の字を書いた質屋の白壁を見せる事もある。或時は又歩道の丁度真上に、女医生何とかの招牌がぶら下っている所も通れば、漆喰の剥げた塀か何かに、南洋煙草の広告びらが貼りつけてある所も通った。が、いくら歩いて行っても、容易に私の旅館へ来ない。その内に私はアニセットの祟りか、喉が渇いてたまらなくなった。 「おい、何か飲む所はないかな。僕は莫迦に喉が渇くんだが。」 「すぐ其処にカッフェが一軒ある。もう少しの辛抱だ。」  五分の後我々両人は、冷たい曹達を飲みながら、小さな卓子に坐っていた。  このカッフェはパリジァンなぞより、余程下等な所らしい。桃色に塗った壁の側には、髪を分けた支那の少年が、大きなピアノを叩いている。それからカッフェのまん中には、英吉利の水兵が三四人、頬紅の濃い女たちを相手に、だらしのない舞蹈を続けている。最後に入口の硝子戸の側には、薔薇の花を売る支那の婆さんが、私に不要を食わされた後、ぼんやり舞蹈を眺めている。私は何だか画入新聞の挿画でも見るような心もちになった。画の題は勿論「上海」である。  其処へ外から五六人、同じような水兵仲間が、一時にどやどやはいって来た。この時一番莫迦を見たのは、戸口に立っていた婆さんである。婆さんは酔ぱらいの水兵連が、乱暴に戸を押し開ける途端、腕にかけた籠を落してしまった。しかも当の水兵連は、そんな事にかまう所じゃない。もう踊っていた連中と一しょに、気違いのようにとち狂っている。婆さんはぶつぶつ云いながら、床に落ちた薔薇を拾い出した。が、それさえ拾っている内には、水兵たちの靴に踏みにじられる。…… 「行こうか?」  ジョオンズは辟易したように、ぬっと大きな体を起した。 「行こう。」  私もすぐに立ち上った。が、我々の足もとには、点々と薔薇が散乱している。私は戸口へ足を向けながら、ドオミエの画を思い出した。 「おい、人生はね。」  ジョオンズは婆さんの籠の中へ、銀貨を一つ拡りこんでから、私の方へ振返った。 「人生は、──何だい?」 「人生は薔薇を撒き散らした路であるさ。」  我々はカッフェの外へ出た。其処には不相変黄包車が、何台か客を待っている。それが我々の姿を見ると、我勝ちに四方から駈けつけて来た。車屋はもとより不要である。が、この時私は彼等の外にも、もう一人別な厄介者がついて来たのを発見した。我々の側には、何時の間にか、あの花売りの婆さんが、くどくどと何かしゃべりながら、乞食のように手を出している。婆さんは銀貨を貰った上にも、また我々の財布の口を開けさせる心算でいるらしい。私はこんな欲張りに売られる、美しい薔薇が気の毒になった。この図々しい婆さんと、昼間乗った馬車の馭者と、──これは何も上海の第一瞥に限った事じゃない。残念ながら同時に又、確に支那の第一瞥であった。 五 病院  私はその翌日から床に就いた。そうしてその又翌日から、里見さんの病院に入院した。病名は何でも乾性の肋膜炎とか云う事だった。仮にも肋膜炎になった以上、折角企てた支那旅行も、一先ず見合せなければならないかも知れない。そう思うと大いに心細かった。私は早速大阪の社へ、入院したと云う電報を打った。すると社の薄田氏から、「ユックリリョウヨウセヨ」と云う返電があった。しかし一月なり二月なり、病院にはいったぎりだったら、社でも困るのには違いない。私は薄田氏の返電にほっと一先安心しながら、しかも紀行の筆を執るべき私の義務を考えると、愈心細がらずにはいられなかった。  しかし幸い上海には、社の村田君や友住君の外にも、ジョオンズや西村貞吉のような、学生時代の友人があった。そうしてこれらの友人知己は、忙しい体にも関らず、始終私を見舞ってくれた。しかも作家とか何とか云う、多少の虚名を負っていたおかげに、時々未知の御客からも、花だの果物だのを頂戴した。現に一度なぞはビスケットの缶が、聊か処分にも苦しむ位、ずらりと枕頭に並んだりした。(この窮境を救ってくれたのは、やはりわが敬愛する友人知己諸君である。諸君は病人の私から見ると、いずれも不思議な程健啖だった。)いや、そう云う御見舞物を辱くしたばかりじゃない。始は未知の御客だった中にも、何時か互に遠慮のない友達づき合いをする諸君が、二人も三人も出来るようになった。俳人四十起君もその一人である。石黒政吉君もその一人である。上海東方通信社の波多博君もその一人である。  それでも七度五分程の熱が、容易にとれないとなって見ると、不安は依然として不安だった。どうかすると真っ昼間でも、じっと横になってはいられない程、急に死ぬ事が怖くなりなぞした。私はこう云う神経作用に、祟られたくない一心から、昼は満鉄の井川氏やジョオンズが親切に貸してくれた、二十冊あまりの横文字の本を手当り次第読破した。ラ・モットの短篇を読んだのも、ティッチェンズの詩を読んだのも、ジャイルズの議論を読んだのも、悉この間の事である。夜は、──これは里見さんには内証だったが、万一の不眠を気づかう余り、毎晩欠かさずカルモチンを呑んだ。それでさえ時々は夜明け前に、眼がさめてしまうのには辟易した。確か王次回の疑雨集の中に、「薬餌無徴怪夢頻」とか云う句がある。これは詩人が病気なのじゃない。細君の重病を歎いた詩だが、当時の私を詠じたとしても、この句は文字通り痛切だった。「薬餌無徴怪夢頻」私は何度床の上に、この句を口にしたかわからない。  その内に春は遠慮なしに、ずんずん深くなって行った。西村が龍華の桃の話をする。蒙古風が太陽も見えない程、黄塵を空へ運んで来る。誰かがマンゴオを御見舞にくれる。もう蘇州や杭州を見るには、持って来いの気候になったらしい。私は隔日に里見さんに、ドイヨジカルの注射をして貰いながら、このベッドに寝なくなるのは、何時の事だろうと思い思いした。  附記 入院中の事を書いていれば、まだいくらでも書けるかも知れない。が、格別上海なるものに大関係もなさそうだから、これだけにして置こうと思う。唯書き加えて置きたいのは、里見さんが新傾向の俳人だった事である。次手に近什を一つ挙げると、 炭をつぎつつ胎動のあるを語る 六 城内(上)  上海の城内を一見したのは、俳人四十起氏の案内だった。  薄暗い雨もよいの午後である。二人を乗せた馬車は一散に、賑かな通りを走って行った。朱泥のような丸焼きの鶏が、べた一面に下った店がある。種々雑多の吊洋燈が、無気味な程並んだ店がある。精巧な銀器が鮮かに光った、裕福そうな銀楼もあれば、太白の遺風の招牌が古びた、貧乏らしい酒桟もある。──そんな支那の店構えを面白がって見ている内に、馬車は広い往来へ出ると、急に速力を緩めながら、その向うに見える横町へはいった。何でも四十起氏の話によると、以前はこの広い往来に、城壁が聳えていたのだそうである。  馬車を下りた我々は、すぐに又細い横町へ曲った。これは横町と云うよりも、露路と云った方が適当かも知れない。その狭い路の両側には、麻雀の道具を売る店だの、紫檀の道具を売る店だのが、ぎっしり軒を並べている。その又せせこましい軒先には、無暗に招牌がぶら下っているから、空の色を見るのも困難である。其処へ人通りが非常に多い。うっかり店先に並べ立てた安物の印材でも覗いていると、忽ち誰かにぶつかってしまう。しかもその目まぐるしい通行人は、大抵支那の平民である。私は四十起氏の跡につきながら、滅多に側眼もふらない程、恐る恐る敷石を踏んで行った。  その露路を向うへつき当ると、噂に聞き及んだ湖心亭が見えた。湖心亭と云えば立派らしいが、実は今にも壊れ兼ねない、荒廃を極めた茶館である。その上亭外の池を見ても、まっ蒼な水どろが浮んでいるから、水の色などは殆見えない。池のまわりには石を畳んだ、これも怪しげな欄干がある。我々が丁度其処へ来た時、浅葱木綿の服を着た、辮子の長い支那人が一人、──ちょいとこの間に書き添えるが、菊池寛の説によると、私は度々小説の中に、後架とか何とか云うような、下等な言葉を使うそうである。そうしてこれは句作なぞするから、自然と蕪村の馬の糞や芭蕉の馬の尿の感化を受けてしまったのだそうである。私は勿論菊池の説に、耳を傾けない心算じゃない。しかし支那の紀行となると、場所その物が下等なのだから、時々は礼節も破らなければ、溌溂たる描写は不可能である。もし譃だと思ったら、試みに誰でも書いて見るが好い。──そこで又元へ立ち戻ると、その一人の支那人は、悠々と池へ小便をしていた。陳樹藩が叛旗を翻そうが、白話詩の流行が下火になろうが、日英続盟が持ち上ろうが、そんな事は全然この男には、問題にならないのに相違ない。少くともこの男の態度や顔には、そうとしか思われない長閑さがあった。曇天にそば立った支那風の亭と、病的な緑色を拡げた池と、その池へ斜めに注がれた、隆々たる一条の小便と、──これは憂鬱愛すべき風景画たるばかりじゃない。同時に又わが老大国の、辛辣恐るべき象徴である。私はこの支那人の姿に、しみじみと少時眺め入った。が、生憎四十起氏には、これも感慨に価する程、珍しい景色じゃなかったと見える。 「御覧なさい。この敷石に流れているのも、こいつはみんな小便ですぜ。」  四十起氏は苦笑を洩した儘、さっさと池の縁を曲って行った。そう云えば成程空気の中にも、重苦しい尿臭が漂っている。この尿臭を感ずるが早いか、魔術は忽ちに破れてしまった。湖心亭は畢に湖心亭であり、小便は畢に小便である、私は靴を爪立てながら、匆々四十起氏の跡を追った。出たらめな詠歎なぞに耽るものじゃない。 七 城内(中)  それから少し先へ行くと、盲目の老乞食が坐っていた。──一体乞食と云うものは、ロマンティックなものである。ロマンティシズムとは何ぞやとは、議論の干ない問題だが、少くともその一特色は、中世紀とか幽霊とか、アフリカとか夢とか女の理窟とか、何時も不可知な何物かに憧れる所が身上らしい。して見れば乞食が会社員より、ロマンティックなのは当然である。処が支那の乞食となると、一通りや二通りの不可知じゃない。雨の降る往来に寝ころんでいたり、新聞紙の反古しか着ていなかったり、石榴のように肉の腐った膝頭をべろべろ舐めていたり、──要するに少々恐縮する程、ロマンティックに出来上っている。支那の小説を読んで見ると、如何なる道楽か神仙が、乞食に化けている話が多い。あれは支那の乞食から、自然に発達したロマンティシズムである。日本の乞食では支那のように、超自然な不潔さを具えていないから、ああ云う話は生まれて来ない。まず精々将軍家の駕籠へ、種ヶ島を打ちかけるとか、山中の茶の湯を御馳走しに、柳里恭を招待するとか、その位の所が関の山である。──あまり横道へ反れすぎたが、この盲目の老乞食も、赤脚仙人か鉄枴仙人が、化けてでもいそうな恰好だった。殊に前の敷石を見ると、悲惨な彼の一生が、綺麗に白墨で書き立ててある。字も私に比べるとどうやら多少うまいらしい。私はこんな乞食の代書は、誰がするのだろうと考えた。  その先の露路へさしかかると、今度は骨董屋が沢山あった。此処はどの店を覗いて見ても、銅の香炉だの、埴輪の馬だの、七宝の鉢だの、龍頭瓶だの、玉の文鎮だの、青貝の戸棚だの、大理石の硯屏だの、剥製の雉だの、恐るべき仇英だのが、雑然とあたりを塞いだ中に、水煙管を啣えた支那服の主人が、気楽そうに客を待ち受けている。次手にちょいとひやかして見たが、五割方は懸値であるとしても、値段は格別安そうじゃない。これは日本へ帰った後、香取秀真氏にひやかされた事だが、骨董を買うには支那へ行くより、東京日本橋仲通りを徘徊した方が好さそうである。  骨董屋の間を通り抜けたら、大きな廟のある所へ出た。これが画端書でも御馴染の、名高い城内の城隍廟である。廟の中には参詣人が、入れ交り立ち交り叩頭に来る。勿論線香を献じたり、紙銭を焚いたりするものも、想像以上に大勢ある。その煙に燻ぶるせいか、梁間の額や柱上の聯は悉妙に油ぎっている。事によると煤けていないものは、天井から幾つも吊り下げた、金銀二色の紙銭だの、螺旋状の線香だのばかりかも知れない。これだけでも既に私には、さっきの乞食と同じように、昔読んだ支那の小説を想起させるのに十分である。まして左右に居流れた、判官らしい像になると、──或は正面に端坐した城隍らしい像になると、殆聊斎志異だとか、新斉諧だとかと云う書物の挿画を見るのと変りはない。私は大いに敬服しながら、四十起氏の迷惑などはそっち除けに、何時までも其処を離れなかった。 八 城内(下)  今更云うまでもない事だが、鬼狐の談に富んだ支那の小説では、城隍を始め下廻りの判官や鬼隷も暇じゃない。城隍が廡下に一夜を明かした書生の運勢を開いてやると、判官は町中を荒し廻った泥坊を驚死させてしまう。──と云うと好い事ばかりのようだが、狗の肉さえ供物にすれば、悪人の味方もすると云う、賊城隍がある位だから、人間の女房を追い廻した報いに、肘を折られたり頭を落されたり、天下に赤恥を広告する判官や鬼隷も少くない。それが本だけ読んだのでは、何だか得心の出来ない所がある。つまり筋だけは呑みこめても、その割に感じがぴったり来ない。其処が歯痒い気がしたものだが、今この城隍廟を目のあたりに見ると、如何に支那の小説が、荒唐無稽に出来上っていても、その想像の生れた因縁は、一々成程と頷かれる。いやあんな赤っ面の判官では、悪少の真似位はするかも知れない。あんな美髯の城隍なら、堂々たる儀衛に囲まれた儘、夜空に昇るのも似合いそうである。  こんな事を考えた後、私は又四十起氏と一しょに、廟の前へ店を出した、いろいろな露店を見物した。靴足袋、玩具、甘蔗の茎、貝釦、手巾、南京豆、──その外まだ薄穢い食物店が沢山ある。勿論此処の人の出は、日本の縁日と変りはない。向うには派手な縞の背広に、紫水晶のネクタイ・ピンをした、支那人のハイカラが歩いている。と思うと又こちらには、手首に銀の環を嵌めた、纏足の靴が二三寸しかない、旧式なお上さんも歩いている。金瓶梅の陳敬済、品花宝鑑の谿十一、──これだけ人の多い中には、そう云う豪傑もいそうである。しかし杜甫だとか、岳飛だとか、王陽明だとか、諸葛亮だとかは、薬にしたくもいそうじゃない。言い換えれば現代の支那なるものは、詩文にあるような支那じゃない。猥褻な、残酷な、食意地の張った、小説にあるような支那である。瀬戸物の亭だの、睡蓮だの、刺繍の鳥だのを有難がった、安物のモック・オリエンタリズムは、西洋でも追い追い流行らなくなった。文章軌範や唐詩選の外に、支那あるを知らない漢学趣味は、日本でも好い加減に消滅するが好い。  それから我々は引き返して、さっきの池の側にある、大きな茶館を通り抜けた。伽藍のような茶館の中には、思いの外客が立て込んでいない。が、其処へはいるや否や、雲雀、目白、文鳥、鸚哥、──ありとあらゆる小鳥の声が、目に見えない驟雨か何かのように、一度に私の耳を襲った。見れば薄暗い天井の梁には、一面に鳥籠がぶら下っている。支那人が小鳥を愛する事は、今になって知った次第じゃない。が、こんなに鳥籠を並べて、こんなに鳥の声を闘わせようとは、夢にも考えなかった事実である。これでは鳥の声を愛する所か、まず鼓膜が破れないように、匆々両耳を塞がざるを得ない。私は殆逃げるように、四十起氏を促し立てながら、この金切声に充満した、恐るべき茶館を飛び出した。  しかし小鳥の啼き声は、茶館の中にばかりある訣じゃない。やっとその外へ脱出しても、狭い往来の右左に、ずらりと懸け並べた鳥籠からは、しっきりない囀りが降りかかって来る。尤もこれは閑人どもが、道楽に啼かせているのじゃない。いずれも専門の小鳥屋が、(実を云うと小鳥屋だか、それとも又鳥籠屋だか、どちらだか未だに判然しない。)店を連ねているのである。 「少し待って下さい。鳥を一つ買って来ますから。」  四十起氏は私にそう云ってから、その店の一つにはいって行った。其処をちょいと通りすぎた所に、ペンキ塗りの写真屋が一軒ある。私は四十起氏を待つ間、その飾り窓の正面にある、梅蘭芳の写真を眺めていた。四十起氏の帰りを待っている子供たちの事なぞを考えながら。 九 戯台(上)  上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機会がなかった。私が速成の劇通になったのは、北京へ行った後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生では名高い蓋叫天とか、花旦では緑牡丹とか小翠花とか、兎に角当代の名伶があった。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はっきり読者には通じないかも知れない。  私の行った劇場の一つは、天蟾舞台と号するものだった。此処は白い漆喰塗りの、まだ真新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと真鍮の欄干をつりた、半円形になっているのは、勿論当世流行の西洋の真似に違いない。天井には大きな電燈が、煌々と三つぶら下っている。客席には煉瓦の床の上に、ずっと籐椅子が並べてある、が、苟も支那たる以上、籐椅子と雖も油断は出来ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐っていたら、兼ね兼ね恐れていた南京虫に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまず芝居の中は、大体不快を感じない程度に、綺麗だと云って差支ない。  舞台の両側には大きな時計が一つずつちゃんと懸けてある。(尤も一つは止まっていた。)その下には煙草の広告が、あくどい色彩を並べている。舞台の上の欄間には、漆喰の薔薇やアッカンサスの中に、天声人語と云う大文字がある。舞台は有楽座より広いかも知れない。此処にももう西洋式に、フット・ライトの装置がある。幕は、──さあ、その幕だが、一場一場を区別する為には、全然幕を使用しない。が、背景を換える為には、──と云うよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲台香烟即ちスリイ・キャッスルズの下等な広告幕を引く事がある。幕は何処でもまん中から、両方へ引く事になっているらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでいる。背景はまず油絵風に、室内や室外の景色を描いた、新旧いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維が馬を走らせるのも、武松が人殺しを演ずるのも、背景には一向変化がない。その舞台の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼などを持った、支那の御囃しが控えている。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶった先生も見える。  序に芝居を見る順序を云えば、一等だろうが二等だろうが、ずんずん何処へでもはいってしまえば好い。支那では席を取った後、場代を払うのが慣例だから、その辺は甚軽便である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが来る、活版刷りの番附が来る。茶は勿論大土瓶が来る。その外西瓜の種だとか、一文菓子だとか云う物は、不要不要をきめてしまえば好い。タオルも一度隣にいた、風貌堂々たる支那人が、さんざん顔を拭いた挙句鼻をかんだのを目撃して以来、当分不要をきめた事がある。勘定は出方の祝儀とも、一等では大抵二円から一円五十銭の間かと思う。かと思うと云う理由は、何時でも私に払わせずに、村田君が払ってしまったからである。  支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇──立ち廻りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語所じゃない。実際私も慣れない内は、両手に耳を押えない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江君などになると、この鳴物が穏かな時は物足りない気持がするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである。「あの騒々しい所がよかもんなあ。」──私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした。 十 戯台(下)  その代り支那の芝居にいれば、客席では話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとい見物が静かでなくとも、聴戯には差支えが起らないように、こんな鳴物が出来たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった。  支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使わない事である。背景の如きも此処にはあるが、これは近頃の発明に過ぎない。支那本来の舞台の道具は、椅子と机と幕とだけである。山岳、海洋、宮殿、道塗──如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も使ったことはない。役者がさも重そうに、閂を外すらしい真似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意気揚々と、房のついた韃を振りまわしていたら、その役者の股ぐらの下には、驕って行かざる紫騮か何かが、嘶いているなと思うべきである。しかしこれは日本人だと、能と云う物を知っているから、すぐにそのこつを呑みこんでしまう。椅子や机を積上げたのも、山だと思えと云われれば、咄嗟によろしいと引き受けられる。役者がちょいと片足上げたら、其処に内外を分つべき閾があるのだと云われても、これ亦想像に難くはない。のみならずその写実主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささえ見る事がある。そう云えば今でも忘れないが、小翠花が梅龍鎮を演じた時、旗亭の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色の褲子の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかったとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかったのに相違ない。  この道具を使わない所は、上に述べたような次第だから、一向我々には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使われる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとえば今の梅龍鎮にしても、つらつら戯考を按ずると、当世に起った出来事じゃない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎮の旗亭の娘、鳳姐を見染めると云う筋である。処がその娘の持っている盆は、薔薇の花を描いた陶器の底に、銀鍍金の縁なぞがついている。あれは何処かのデパアトメント・ストアに、並んでいたものに違いない。もし梅若万三郎が、大口にサアベルをぶら下げて出たら、──そんな事の莫迦莫迦しいのは、多言を要せずとも明かである。  支那の芝居の第三の特色は、隈取りの変化が多い事である。何でも辻聴花翁によると、曹操一人の隈取りが、六十何種もあるそうだから、到底市川流所の騒ぎじゃない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭だのが、一面に皮膚を蔽っている。まず最初の感じから云うと、どうしても化粧とは思われない。私なぞは武松の芝居へ、蒋門神がのそのそ出て来た時には、いくら村田君の説明を聴いても、やはり仮面だとしか思われなかった。一見あの所謂花臉も、仮面ではない事が看破出来れば、その人は確に幾分か千里眼に近いのに相違ない。  支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、軽業師と称するの当れるに若かない。彼等は舞台の端から端へ、続けさまに二度宙返りを打ったり、正面に積上げた机の上から、真っ倒に跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、愈曲馬か玉乗りの親類らしい気がしてしまう。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云う事だが、これでは腕力がなかった日には、肝腎の商売が勤まりっこはない。しかし武劇の名人となると、やはりこう云う離れ業以外に、何処か独得な気品がある。その証拠には蓋叫天が、宛然日本の車屋のような、パッチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀を揮う時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者武松らしい、凄味に富んでいるかわからない。  勿論こう云う特色は、支那の旧劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何処までも新しいかと云うと、亦舞台とかに上演していた、売身投靠と云うのなぞは、火のない蝋燭を持って出てもやはり見物はその蝋燭が、ともっている事と想像する。──つまり旧劇の象徴主義は依然として舞台に残っていた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此点ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だったと云う外はない。少くとも雨とか稲妻とか夜になったとか云う事は、全然見物の想像に依頼するものばかりだった。  最後に役者の事を述べると、──蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の緑牡丹である。私が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或は実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、蒜臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗な事だったと云うが、こう云う楽屋に比べると、成程帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子は殆百鬼夜行の図だった。そう云う連中の通り路から、ちょいと陰になった所に、支那鞄や何かが施り出してある。緑牡丹はその支那鞄の一つに、鬘だけは脱いでいたが、妓女蘇三に扮した儘、丁度茶を飲んで居る所だった。舞台では細面に見えた顔も、今見れば存外華奢ではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も私に比べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しょだった村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧そうな女形と、互に久闊を叙し合ったりした。聞けば君は緑牡丹が、まだ無名の子役だった頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓の一人なのだそうである。私は彼に、玉堂春は面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云う日本語を使った。そうして──そうして彼が何をしたか。私は彼自身の為にも又わが村田烏江君の為にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、──彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸の繍をした、美しい袖を翻して、見事に床の上へ手洟をかんだ。 十一 章炳麟氏  章炳麟氏の書斎には、如何なる趣味か知らないが、大きな鰐の剥製が一匹、腹這いに壁に引っ付いている。が、この書物に埋まった書斎は、その鰐が皮肉に感じられる程、言葉通り肌に沁みるように寒い。尤も当日の天候は、発句の季題を借用すると、正に冴え返る雨天だった。其処へ瓦を張った部屋には、敷物もなければ、ストオヴもない。坐るのは勿論蒲団のない、角張った紫檀の肘掛椅子である。おまけに私の着ていたのは、薄いセルの間着だった。私は今でもあの書斎に、坐っていた事を考えると、幸にも風を引かなかったのは、全然奇蹟としか思われない。  しかし章太炎先生は、鼠色の大掛児に、厚い毛皮の裏のついた、黒い馬掛児を一着している。だから無論寒くはない。その上氏の坐っているのは、毛皮を掛けた籐椅子である。私は氏の雄弁に、煙草を吸う事も忘れながら、しかも氏が暖そうに、悠然と足を伸ばしているのには、大いに健羨に堪えなかった。  風説によれば章炳麟氏は、自ら王者の師を以て任じていると云う事である。そうして一時はその御弟子に、黎元洪を選んだと云う事である。そう云えば机の横手の壁には、あの鰐の剥製の下に、「東南撲学、章太炎先生、元洪」と書いた、横巻の軸が懸っている。しかし遠慮のない所を云うと、氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顋髯は気の毒な程薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、──上品な縁無しの眼鏡の後に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確に出来合いの代物じゃない。この眼の為に袁世凱は、先生を囹圄に苦しませたのである。同時に又この眼の為に、一旦は先生を監禁しても、とうとう殺害は出来なかったのである。  氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治や社会の問題だった。勿論不要とか「等一等」とか、車屋相手の熟語以外は、一言も支那語を知らない私に議論なぞのわかる理由はない。それが氏の論旨を知ったり、時々は氏に生意気な質問なぞも発したりしたのは、悉週報「上海」の主筆西本省三氏のおかげである。西本氏は私の隣りの椅子に、ちゃんと胸を反らせた儘、どんな面倒な議論になっても、親切に通訳を勤めてくれた。(殊に当時は週報「上海」の締切り日が迫っていたのだから、私は愈氏の御苦労に感謝せざるを得ないのである。) 「現代の支那は遺憾ながら、政治的には堕落している。不正が公行している事も、或は清朝の末年よりも、一層夥しいと云えるかも知れない。学問芸術の方面になれば、猶更沈滞は甚しいようである。しかし支那の国民は、元来極端に趨る事をしない。この特性が存する限り、支那の赤化は不可能である。成程一部の学生は、労農主義を歓迎した。が、学生は即ち国民ではない。彼等さえ一度は赤化しても必ず何時かはその主張を抛つ時が来るであろう。何故と云えば国民性は、──中庸を愛する国民性は、一時の感激よりも強いからである。」  章炳麟氏はしっきりなしに、爪の長い手を振りながら、滔々と独得な説を述べた。私は──唯寒かった。 「では支那を復興するには、どう云う手段に出るが好いか? この問題の解決は、具体的にはどうするにもせよ、机上の学説からは生まれる筈がない。古人も時務を知るものは俊傑なりと道破した。一つの主張から演繹せずに、無数の事実から帰納する、──それが時務を知るのである。時務を知った後に、計画を定める、──時に循って、宜しきを制すとは、結局この意味に外ならない。……」  私は耳を傾けながら、時々壁上の鰐を眺めた。そうして支那問題とは没交渉に、こんな事をふと考えたりした。──あの鰐はきっと睡蓮の匂と太陽の光と暖な水とを承知しているのに相違ない。して見れば現在の私の寒さは、あの鰐に一番通じる筈である。鰐よ、剥製のお前は仕合せだった。どうか私を憐んでくれ。まだこの通り生きている私を。…… 十二 西洋  問。上海は単なる支那じゃない。同時に又一面では西洋なのだから、その辺も十分見て行ってくれ給え。公園だけでも日本よりは、余程進歩していると思うが、──  答。公園も一通りは見物したよ。仏蘭西公園やジェスフィルド公園は、散歩するに、持って来いだ。殊に仏蘭西公園では、若葉を出した篠懸の間に、西洋人のお袋だの乳母だのが子供を遊ばせている、それが大変綺麗だったっけ。だが格別日本よりも、進歩しているとは思わないね。唯此処の公園は、西洋式だと云うだけじゃないか? 何も西洋式になりさえすれば、進歩したと云う訣でもあるまいし。  問。新公園にも行ったかい?  答。行ったとも。しかしあれは運動場だろう。僕は公園だとは思わなかった。  問。パブリック・ガアデンは?  答。あの公園は面白かった。外国人ははいっても好いが、支那人は一人もはいる事が出来ない。しかもパブリックと号するのだから、命名の妙を極めているよ。  問。しかし往来を歩いていても、西洋人の多い所なぞは、何だか感じが好いじゃないか? 此も日本じゃ見られない事だが、──  答。そう云えば僕はこの間、鼻のない異人を見かけたっけ。あんな異人に遇う事は、ちょいと日本じゃむずかしいかも知れない。  問。あれか? あれは流感の時、まっさきにマスクをかけた男だ。──しかし往来を歩いていても、やはり異人に比べると、日本人は皆貧弱だね。  答。洋服を着た日本人はね。  問。和服を着たのは猶困るじゃないか? 何しろ日本人と云うやつは、肌が人に見える事は、何とも思っていないんだから、──  答。もし何とか思うとすれば、それは思うものが猥褻なのさ。久米の仙人と云う人は、その為に雲から落ちたじゃないか?  問。じゃ西洋人は猥褻かい?  答。勿論その点では猥褻だね。唯風俗と云うやつは、残念ながら多数決のものだ。だから今に日本人も、素足で外へ出かけるのは、卑しい事のように思うだろう。つまりだんだん以前よりも、猥褻になって行くのだね。  問。しかし日本の芸者なぞが、白昼往来を歩いているのは、西洋人の手前も恥入るからね。  答。何、そんな事は安心し給え。西洋人の芸者も歩いているのだから、──唯君には見分けられないのさ。  問。これはちと手厳しいな。仏蘭西租界なぞへも行ったかい?  答。あの住宅地は愉快だった。柳がもう煙っていたり、鳩がかすかに啼いていたり、桃がまだ咲いていたり、支那の民家が残っていたり、──  問。あの辺は殆西洋だね。赤瓦だの、白煉瓦だの、西洋人の家も好いじゃないか?  答。西洋人の家は大抵駄目だね。少くとも僕の見た家は、悉下等なものばかりだった。  問。君がそんな西洋嫌いとは、夢にも僕は思わなかったが、──  答。僕は西洋が嫌いなのじゃない。俗悪なものが嫌いなのだ。  問。それは僕も勿論そうさ。  答。譃をつき給え。君は和服を着るよりも、洋服を着たいと思っている。門構えの家に住むよりも、バンガロオに住みたいと思っている。釜揚うどんを食うよりも、マカロニを食いたいと思っている。山本山を飲むよりも、ブラジル珈琲を飲み──  問。もうわかったよ。しかし墓地は悪くはあるまい、あの静安寺路の西洋人の墓地は?  答。墓地とは亦窮したね。成程あの墓地は気が利いていた。しかし僕はどちらかと云えば、大理石の十字架の下より、土饅頭の下に横になっていたい。況や怪しげな天使なぞの彫刻の下は真平御免だ。  問。すると君は上海の西洋には、全然興味を感じないのかい?  答。いや、大いに感じているのだ。上海は君の云う通り、兎に角一面では西洋だからね。善かれ悪かれ西洋を見るのは、面白い事に違いないじゃないか? 唯此処の西洋は本場を見ない僕の眼にも、やはり場違いのような気がするのだ。 十三 鄭孝胥氏  坊間に伝うる所によれば、鄭孝胥氏は悠々と、清貧に処しているそうである。処が或曇天の午前、村田君や波多君と一しょに、門前へ自動車を乗りつけて見ると、その清貧に処している家は、私の予想よりもずっと立派な、鼠色に塗った三階建だった。門の内には庭続きらしい、やや黄ばんだ竹むらの前に、雪毬の花なぞが匂っている。私もこう云う清貧ならば、何時身を処しても差支えない。  五分の後我々三人は、応接室に通されていた。此処は壁に懸けた軸の外に殆何も装飾はない。が、マントル・ピイスの上には、左右一対の焼き物の花瓶に、小さな黄龍旗が尾を垂れている。鄭蘇戡先生は中華民国の政治家じゃない、大清帝国の遺臣である。私はこの旗を眺めながら、誰かが氏を批評した、「他人之退而不隠者殆不可同日論」とか云う、うろ覚えの一句を思い出した。  其処へ小肥りの青年が一人、足音もさせずにはいって来た。これが日本に留学していた、氏の令息鄭垂氏である。氏と懇意な波多君は、すぐに私を紹介した。鄭垂氏は日本語に堪能だから、氏と話をする場合は、波多村田両先生の通訳を煩わす必要はない。  鄭孝胥氏が我々の前に、背の高い姿を現わしたのは、それから間もなくの事だった。氏は一見した所、老人に似合わず血色が好い。眼も殆青年のように、朗な光を帯びている。殊に胸を反らせた態度や、盛な手真似を交える工合は、鄭垂氏よりも反って若々しい。それが黒い馬掛児に、心もち藍の調子が勝った、薄鼠の大掛児を着ている所は、さすがは当年の才人だけに、如何にも気が利いた風采である。いや、閑日月に富んだ今さえ、こう溌剌としているようじゃ、康有為氏を中心とした、芝居のような戊戌の変に、花々しい役割を演じた頃には、どの位才気煥発だったか、想像する事も難くはない。  氏を加えた我々は、少時支那問題を談じ合った。勿論私も臆面なしに、新借款団の成立以後、日本に対する支那の輿論はとか何とか、柄にもない事を弁じ立てた。──と云うと甚不真面目らしいが、その時は何も出たらめに、そんな事を饒舌っていたのではない。私自身では大真面目に、自説を披露していたのである。が、今になって考えて見ると、どうもその時の私は、多少正気ではなかったらしい。尤もこの逆上の原因は、私の軽薄な根性の外にも、確に現代の支那その物が、一半の責を負うべきものである。もし譃だと思ったら、誰でも支那へ行って見るが好い。必一月といる内には、妙に政治を論じたい気がして来る。あれは現代の支那の空気が、二十年来の政治問題を孕んでいるからに相違ない。私の如きは御丁寧にも、江南一帯を経めぐる間、容易にこの熱がさめなかった。そうして誰も頼まないのに、芸術なぞよりは数段下等な政治の事ばかり考えていた。  鄭孝胥氏は政治的には、現代の支那に絶望していた。支那は共和に執する限り、永久に混乱は免れ得ない。が、王政を行うとしても、当面の難局を切り抜けるには、英雄の出現を待つばかりである。その英雄も現代では、同時に又利害の錯綜した国際関係に処さなければならぬ。して見れば英雄の出現を待つのは、奇蹟の出現を待つものである。  そんな話をしている内に、私が巻煙草を啣えると、氏はすぐに立上って、燐寸の火をそれへ移してくれた。私は大いに恐縮しながら、どうも客を遇する事は、隣国の君子に比べると、日本人が一番拙らしいと思った。  紅茶の御馳走になった後、我々は氏に案内されて、家の後にある広庭へ出て見た。庭は綺麗な芝原のまわりに、氏が日本から取り寄せた桜や、幹の白い松が植わっている。その向うにもう一つ、同じような鼠色の三階建があると思ったら、それは近頃建てたとか云う、鄭垂氏一家の住居だった。私はこの庭を歩きながら、一むらの竹の林の上に、やっと雲切れのした青空を眺めた。そうしてもう一度、これならば私も清貧に処したいと思った。  此原稿を書いて居る時、丁度表具屋から私の所へ、一本の軸が届いて来た。軸は二度目に訪問した時、氏が私に書いてくれた七言絶句を仕立てたのである。「夢奠何如史事強。呉興題識遜元章。延平剣合誇神異。合浦珠還好秘蔵」──そう云う字が飛舞するように墨痕を走らせているのを見ると、氏と相対していた何分かは、やはり未に懐しい気がする。私はその何分かの間、独り前朝の遺臣たる名士と相対していたのみではない。又実に支那近代の詩宗、海蔵楼詩集の著者の謦咳に接していたのである。 十四 罪悪  拝啓。上海は支那第一の「悪の都会」だとか云う事です。何しろ各国の人間が、寄り集まっている所ですから、自然そうもなり易いのでしょう。私が見聞しただけでも、風儀は確に悪いようです。たとえば支那の人力車夫が、追剥ぎに早変りをする事なぞは、始終新聞に載っています。又人の話によれば、人力車を走らせている間に、後から帽子を盗まれる事も、此処では家常茶飯事だそうです。その最もひどいのになると、女の耳環を盗む為に、耳を切るのさえあると云います。これは或は泥坊と云うより、Psychopathia sexualis の一種が手伝うのかも知れません。そう云う罪悪では数月前から、蓮英殺しと云う事件が、芝居にも小説にも仕組まれています。これは此処では拆白党と云う、つまり無頼の少年団の一人が、金剛石の指環を奪う為に、蓮英と云う芸者を殺したのです。その又殺し方が、自動車へ乗せて、徐家滙近傍へ連れ出した挙句、絞り殺したと云うのですから、支那では兎に角前例のない、新機軸を出した犯罪なのでしょう。何でも世間の評判では、日本でも度々耳にする通り、探偵物なぞの活動写真が、悪影響を与えたのだと云う事でした。尤も蓮英と云う芸者は、私の見た写真によると、義理にも美人とは評されません。  勿論売婬も盛です。青蓮閣なぞと云う茶館へ行けば、彼是薄暮に近い頃から、無数の売笑婦が集まっています。これを野雉と号しますが、ざっとどれも見た所は、二十歳以上とは思われません。それが日本人なぞの姿を見ると、「アナタ、アナタ」と云いながら、一度に周囲へ集まって来ます。「アナタ」の外にもこう云う連中は、「サイゴ、サイゴ」と云う事を云います。「サイゴ」とは何の意味かと思うと、これは日本の軍人たちが、日露戦争に出征中、支那の女をつかまえては、近所の高粱の畑か何かへ、「さあ行こう」と云ったのが、濫觴だろうと云う事です。語原を聞けば落語のようですが、何にせよ我々日本人には、余り名誉のある話ではなさそうです。それから夜は四馬路あたりに、人力車へ乗った野雉たちが、必何人もうろついています。この連中は客があると、その客は自分の車に乗せ、自分は歩いて彼等の家へつれこむと云うのが習慣だそうです。彼等はどう云う料簡か、大抵眼鏡をかけています。事によると今の支那では、女が眼鏡をかける事は、新流行の一つかも知れません。  鴉片も半ばは公然と、何処でも吸っているようです。私の見に行った鴉片窟なぞでは、かすかな豆ランプを中にしながら、売笑婦も一人、客と一しょに、柄の長い煙管を啣えていました。その外人の話では、磨鏡党とか男堂子とか云う、大へんな物もあるようです。男堂子とは女の為に、男が媚を売るのであり、磨鏡党とは客の為に、女が婬戯を見せるのだそうです。そんな事を聞かされると、往来を通る支那人の中にも、辮髪を下げた Marquis de Sade なぞは何人もいそうな気がして来ます。又実際にいるのでしょう。或丁抹人が話したのでは、四川や広東には六年いても、屍姦の噂は聞かなかったのが、上海では近々三週間の内に、二つも実例が見当ったそうです。  その上この頃ではシベリア辺から、男女とも怪しい西洋人が、大勢此処へ来ているようです。私も一度友だちと一しょに、パブリック・ガアデンを歩いていた時、身なりの悪い露西亜人に、しつっこく金をねだられました。あれなぞは唯の乞食でしょうが、余り気味の好いものじゃありません。尤も工部局がやかましい為、上海もまず大体としては、おいおい風紀が改まるようです。現に西洋人の方面でも、エル・ドラドオとかパレルモとか云う、如何わしいカッフェはなくなりました。しかしずっと郊外に近い、デル・モンテと云う所には、まだ商売人が大勢来ます。 〝Green satin, and a dance, white wine and gleaming laughter, with two nodding ear-rings─these are Lotus.〟  これはユニイス・ティッチェンズが、上海の妓ロオタスを歌った詩の一節です。「白葡萄酒と輝かしい笑いと」──それは一ロオタスばかりじゃない、デル・モンテの卓に倚りながら、印度人を交えたオオケストラの音に、耳を貸している女たちは、畢竟この外に出ないのです。以上。 十五 南国の美人(上)  上海では美人を大勢見た。見たのは如何なる因縁か、何時も小有天と云う酒楼だった。此処は近年物故した清道人李瑞清が、贔屓にしていた家だそうである。「道道非常道、天天小有天」──そう云う洒落さえあると云う事だから、その贔屓も一方ならず、御念が入っているのに違いない。尤もこの有名な文人は、一度に蟹を七十匹、ぺろりと平げてしまう位、非凡な胃袋を持っていたそうである。  一体上海の料理屋は、余り居心の好いものじゃない。部屋毎の境は小有天でも無風流を極めた板壁である。その上卓子に並ぶ器物は、綺麗事が看板の一品香でも、日本の洋食屋と選ぶ所はない。その外雅叙園でも、杏花楼でも、乃至興華川菜館でも、味覚以外の感覚は、まあ満足させられるよりも、ショックを受けるような所ばかりである。殊に一度波多君が、雅叙園を御馳走してくれた時には、給仕に便所は何処だと訊いたら、料理場の流しへしろと云う。実際又其処には私よりも先に、油じみた庖丁が一人、ちゃんと先例を示している。あれには少からず辞易した。  その代り料理は日本よりも旨い。聊か通らしい顔をすれば、私の行った上海の御茶屋は、たとえば瑞記とか厚徳福とか云う、北京の御茶屋より劣っている。が、それにも関らず、東京の支那料理に比べれば、小有天なぞでも確に旨い。しかも値段の安い事は、ざっと日本の五分の一である。  大分話が横道に外れたが、私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長余洵氏と、食事を共にした時に勝るものはない。此も前に云った通り、小有天の楼上にいた時である。小有天は何しろ上海でも、夜は殊に賑かな三馬路の往来に面しているから、欄干の外の車馬の響は、殆一分も止む事はない。楼上では勿論談笑の声や、唄に合せる胡弓の音が、しっきりなしに湧き返っている。私はそう云う騒ぎの中に、玫瑰の茶を啜りながち、余君穀民が局票の上へ健筆を振うのを眺めた時は、何だか御茶屋に来ていると云うより、郵便局の腰掛の上にでも、待たされているような忙しさを感じた。  局票は洋紙にうねうねと、「叫─速至三馬路大舞台東首小有天閩菜館─座侍酒勿延」と赤刷の文字をうねらせている。確か雅叙園の局票には、隅に毋忘国恥と、排日の気焔を挙げていたが、此処のには幸いそんな句は見えない。(局票とは大阪の逢い状のように、校書を呼びにやる用箋である。)余氏はその一枚の上に、私の姓を書いてから、梅逢春と云う三字を加えた。 「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年間の政局の秘密を知っているのは、大総統の徐世昌を除けば、この人一人だとか云う事です。あなたが呼ぶ事にして置きますから、参考の為に御覧なさい。」  余氏はにやにや笑いながら、次の局票を書き始めた。氏の日本語の達者な事は、嘗て日支両国語の卓上演説か何かやって、お客の徳富蘇峰氏を感服させたとか云う位である。  その内に我々、──余氏と波多君と村田君と私とが食卓のまわりへ坐ると、まっさきに愛春と云う美人が来た。これは如何にも利巧そうな、多少日本の女学生めいた、品の好い丸顔の芸者である。なりは白い織紋のある、薄紫の衣裳に、やはり何か模様の出た、青磁色の褲子だった。髪は日本の御下げのように、根もとを青い紐に括ったきり、長々と後に垂らしている。額に劉海(前髪)が下っている所も、日本の少女と違わないらしい。その外胸には翡翠の蝶、耳には金と真珠との耳環、手頸には金の腕時計が、いずれもきらきら光っている。 十六 南国の美人(中)  私は大いに敬服したから、長い象牙箸を使う間も、つらつらこの美人を眺めていた。しかし料理がそれからそれへと、食卓の上へ運ばれるように、美人も続々とはいって来る。到底一愛春ばかりに、感歎しているべき場合じゃない。私はその次にはいって来た、時鴻と云う芸者を眺め出した。  この時鴻と云う芸者は、愛春より美人じゃない。が、全体に調子の強い、何処か田園の匂を帯びた、特色のある顔をしている。髪を御下げに括った紐が、これは桃色をしている外に、全然愛春と変りはない。着物には濃い紫緞子に、銀と藍と織りまぜた、五分程の縁がついている。余君穀民の説明によると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追わず、古風を存しているのだと云う。そう云えば紅や白粉も、素顔自慢の愛春よりも、遥に濃艶を極めている。私はその腕時計だの、(左の胸の)金剛石の蝶だの、大粒の真珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた宝石入りの指環だのを見ながら、いくら新橋の芸者でも、これ程燦然と着飾ったのは、一人もあるまいと感心した。  時鴻の次にはいって来たのは、──そう一々書き立てていては、如何に私でもくたびれるから、後は唯その中の二人だけをちょいと紹介しよう。その一人の洛娥と云うのは、貴州の省長王文華と結婚するばかりになっていた所、王が暗殺された為に、今でも芸者をしていると云う、甚薄命な美人だった。これは黒い紋緞子に、匂の好い白蘭花を挿んだきり、全然何も着飾っていない。その年よりも地味ななりが、涼しい瞳の持ち主だけに、如何にも清楚な感じを与えた。もう一人はまだ十二三のおとなしそうな少女である。金の腕環や真珠の首飾りも、この芸者がしているのを見ると、玩具のようにしか思われない。しかも何とかからかわれると、世間一般の処子のように、恥しそうな表情を見せる。それが又不思議な事には、日本人だと失笑に堪えない、天竺と云う名の主人公だった。  これらの美人は順々に、局票へ書いた客の名通り、我々の間に席を占める。が、私が呼んだ筈の、嬌名一代を圧した林黛玉は、容易に姿を現さない。その内に秦楼と云う芸者が、のみかけた紙巻を持ったなり、西皮調の汾河湾とか云う、宛転たる唄をうたい出した。芸者が唄をうたう時には、胡弓に合わせるのが普通らしい。胡弓弾きの男はどう云う訣か、大抵胡弓を弾きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶっている。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮を張ったのが多かった。秦楼が一曲うたいやむと、今度は時鴻の番である。これは胡弓を使わずに自ら琵琶を弾じながら、何だか寂しい唄をうたった。江西と云えば彼女の産地は、潯陽江上の平野である。中学生じみた感慨に耽ければ、楓葉荻花瑟瑟の秋に、江州の司馬白楽天が、青袗を沾した琵琶の曲は、斯の如きものがあったかも知れない。時鴻がすむと萍郷がうたう。萍郷がすむと、──村田君が突然立ち上りながら「八月十五、月光明」と、西皮調の武家坡の唄をうたい始めたのには一驚した。尤もこの位器用でなければ、君程複雑な支那生活の表裏に通暁する事は出来ないかも知れない。  林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶の鰭の湯が、荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、余程娼婦の型に近い、まるまると肥った女である。顔も今では格段に、美しい器量とは思われない。頬紅や黛を粧っていても、往年の麗色を思わせるのは、細い眼の中に漂った、さすがにあでやかな光だけである。しかし彼女の年齢を思うと、──これが行年五十八歳とは、どう考えても譃のような気がする。まず一見した所は、精々四十としか思われない。殊に手なぞは子供のように、指のつけ根の関節が、ふっくりした甲にくぼんでいる。なりは銀の縁をとった、蘭花の黒緞子の衣裳に、同じ鞘形の褲子だった。それが耳環にも腕環にも、胸に下げた牌にも、べた一面に金銀の台へ、翡翠と金剛石とを嵌めこんでいる。中でも指環の金剛石なぞは、雀の卵程の大きさがあった。これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢とが入り交った、たとえば「天鵞絨の夢」のような、谷崎潤一郎氏の小説中に、髣髴さるべき姿である。  しかしいくら年はとっても、林黛玉は畢に林黛玉である。彼女が如何に才気があるか、それは彼女の話振りでも、すぐに想像が出来そうだった。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛とに合わせながら、秦腔の唄をうたい出した時には、その声と共に迸る力も、確に群妓を圧していた。 十七 南国の美人(下) 「どうです、林黛玉は?」  彼女が席を去った後、余氏は私にこう尋ねた。 「女傑ですね。第一若いのに驚きました。」 「あの人は何でも若い時分に真珠の粉末を呑んでいたそうです。真珠は不老の薬ですからね。あの人は鴉片を呑まないと、もっと若くも見える人ですよ。」  その時はもう林黛玉の跡に、新に来た芸者が坐っていた。これは色の白い、小造りな、御嬢様じみた美人である。宝尽しの模様を織った、薄紫の緞子の衣裳に、水晶の耳環を下げているのも、一層この妓の品の好さを助けているのに違いない。早速名前を尋ねて見たら、花宝玉と云う返事があった。花宝玉、──この美人がこの名を発音するのは宛然たる鳩の啼き声である。私は巻煙草をとってやりながら、「布穀催春種」と云う杜少陵の詩を思い出した。 「芥川さん。」  余洵氏は老酒を勧めながら、言い憎そうに私の名を呼んだ。 「どうです、支那の女は? 好きですか?」 「何処の女も好きですが、支那の女も綺麗ですね。」 「何処が好いと思いますか?」 「そうですね。一番美しいのは耳かと思います。」  実際私は支那人の耳に、少からず敬意を払っていた。日本の女は其処に来ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳は平すぎる上に、肉の厚いのが沢山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顔に生えた、木の子のようなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目になったのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗った鬢の後に、ずっと姿を隠して来た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて来たばかりか、御丁寧にも宝石を嵌めた耳環なぞさえぶら下げている。その為に日本の女の耳は、今日のように堕落したが、支那のは自然と手入れの届いた、美しい耳になったらしい。現にこの花宝玉を見ても、丁度小さい貝殻のような、世にも愛すべき耳をしている。西廂記の中の鶯鶯が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲乱挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾回掻耳。一声長歎。」と云うのも、きっとこう云う耳だったのに相違ない。笠翁は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集巻之三、声容部)未嘗この耳には、一言も述べる所がなかった。この点では偉大な十種曲の作者も、当に芥川龍之介に、発見の功を譲るべきである。  耳の説を弁じた後、私は他の三君と一しょに、砂糖のはいった粥を食った。其から妓館を見物しに、賑かな三馬路の往来へ出た。  妓館は大抵横へ切れた、石畳みの露路の両側にある。余氏は我々を案内しながら、軒燈の名前を読んで行ったが、やがて或家の前へ来ると、さっさと中へはいって行った。はいった所には不景気な土間に、身なりの悪そうな支那人どもが、飯を食ったり何かしている。これが芸者のいる家とは、前以て聞いていない限り、誰でも譃としか思われまい。しかしすぐに階段を上ると、小ぢんまりした支那のサロンに、明るい電燈が輝いている。紫檀の椅子を並べたり、大きな鏡を立てたりした所は、さすがに一流の妓館らしい。青い紙を貼った壁にも、硝子を入れた南画の額が、何枚もずらりと懸っている。 「支那の芸者の檀那になるのも、容易な事じゃありませんね。何しろこんな家具類さえ、みんな買ってやるのですから。」  余氏は我々と茶を飲みながら、いろいろ嫖界の説明をした。 「まあ今夜来た芸者なぞだと、どうしても檀那になるまでに、五百円位は要るでしょう。」  その間にさっきの花宝玉が、ちょいと次の間から顔を出した。支那の芸者は座敷へ出ても、五分ばかりすると帰ってしまう。小有天にいた花宝玉が、もう此処にいるのも不思議はない。のみならず支那では檀那なるものが、──後は井上紅梅氏著「支那風俗巻之上、花柳語彙」を参照するが好い。  我々は二三人の芸者と一しょに、西瓜の種を撮んだり、御先煙草をふかしたりしながら、少時の間無駄話をした。尤も無駄話をしたと云っても、私は唖に変りはない。波多君が私を指さしながら、悪戯そうな子供の芸者に、「あれは東洋人じゃないぜ。広東人だぜ。」とか何とか云う。芸者が村田君に、本当かと云う。村田君も、「そうだ。そうだ。」と云う。そんな話を聞きながら、私は独り漫然とくだらない事を考えていた。──日本にトコトンヤレナと云う唄がある。あのトンヤレナは事によると、東洋人の変化かも知れない。……  二十分の後、やや退屈を覚えた私は、部屋の中をあちこち歩いた次手に、そっと次の間を覗いて見た。すると其処の電燈の下には、あの優しい花宝玉が、でっぷり肥った阿姨と一しょに、晩餐の食卓を囲んでいた。食卓には皿が二枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花宝玉はそれでも熱心に、茶碗と箸とを使っているらしい。私は思わず微笑した。小有天に来ていた花宝玉は、成程南国の美人かも知れない。しかしこの花宝玉は、──菜根を噛んでいる花宝玉は、蕩児の玩弄に任すべき美人以上の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。 十八 李人傑氏 「村田君と共に李人傑氏を訪う。李氏は年未二十八歳、信条よりすれば社会主義者、上海に於ける『若き支那』を代表すべき一人なり。途上電車の窓より、青々たる街路の樹、既に夏を迎えたるを見る。天陰、稀に日色あり。風吹けども塵を揚げず。」  これは李氏を訪ねた後、書き留めて置いた手控えである。今手帳をあけて見ると、走り書きにした鉛筆の字が、消えかかったのも少くない。文章は勿論蕪雑である。が、当時の心もちは、或はその蕪雑な所に、反ってはっきり出ているかも知れない。 「僮あり、直に予等を引いて応接室に到る。長方形の卓一、洋風の椅子二三、卓上に盤あり。陶製の果物を盛る。この梨、この葡萄、この林檎、──この拙き自然の摸倣以外に、一も目を慰むべき装飾なし。然れども室に塵埃を見ず。簡素の気に満てるは愉快なり。」 「数分の後、李人傑氏来る。氏は小づくりの青年なり。やや長き髪。細面。血色は余り宜しからず。才気ある眼。小さき手。態度は頗る真摯なり。その真摯は同時に又、鋭敏なる神経を想察せしむ。刹那の印象は悪しからず。恰も細且強靭なる時計の弾機に触れしが如し。卓を隔てて予と相対す。氏は鼠色の大掛児を着たり。」  李氏は東京の大学にいたから、日本語は流暢を極めている。殊に面倒な理窟なども、はっきり相手に会得させる事は、私の日本語より上かも知れない。それから手控えには書いてないが、我々の通った応接室は、二階の梯子が部屋の隅へ、じかに根を下した構造だった。その為に梯子を下って来ると、まず御客には足が見える。李人傑氏の姿にしても、まっさきに見たのは支那靴だった。私はまだ李氏以外に、如何なる天下の名士と雖も、足からさきへ相見した事はない。 「李氏云う。現代の支那を如何にすべきか? この問題を解決するものは、共和にあらず復辟にあらず。這般の政治革命が、支那の改造に無力なるは、過去既に之を証し、現在亦之を証す。然らば吾人の努力すべきは、社会革命の一途あるのみと。こは文化運動を宣伝する『若き支那』の思想家が、いずれも呼号する主張なり。李氏又云う。社会革命を齎さんとせば、プロパガンダに依らざるべからず。この故に吾人は著述するなり。且覚醒せる支那の士人は、新しき智識に冷淡ならず。否、智識に餓えつつあり。然れどもこの餓を充すべき書籍雑誌に乏しきを如何。予は君に断言す。刻下の急務は著述にありと。或は李氏の言の如くならん。現代の支那には民意なし。民意なくんば革命生ぜず。況んやその成功をや。李氏又云う。種子は手にあり。唯万里の荒蕪、或は力の及ばざらんを惧る。吾人の肉体、この労に堪うるや否や、憂いなきを得ざる所以なりと。言い畢って眉を顰む。予は李氏に同情したり。李氏又云う。近時注目すべきものは、支那銀行団の勢力なり。その背後の勢力は間わず、北京政府が支那銀行団に、左右せられんとする傾向あるは、打消し難き事実なるべし。こは必しも悲しむべきにあらず。何となれば吾人の敵は──吾人の砲火を集中すべき的は、一銀行団に定まればなりと。予云う。予は支那の芸術に失望したり。予が眼に入れる小説絵画、共に未だ談ずるに足らず。然れども支那の現状を見れば、この土に芸術の興隆を期する、期するの寧ろ誤れるに似たり。君に問う、プロパガンダの手段以外に、芸術を顧慮する余裕ありやと。李氏云う。無きに近しと。」  私の手控えはこれだけである。が、李氏の話しぶりは、如何にもきびきびしたものだった。一しょに行った村田君が、「あの男は頭が好かもんなあ。」と感歎したのも不思議じゃない。のみならず李氏は留学中、一二私の小説を読んだとか何とか云う事だった。これも確に李氏に対する好意を増したのに相違ない。私のような君子人でも、小説家などと云うものは、この位虚栄を求める心が、旺盛に出来上っているものである。 十九 日本人  上海紡績の小島氏の所へ、晩飯に呼ばれて行った時、氏の社宅の前の庭に、小さな桜が植わっていた。すると同行の四十起氏が、「御覧なさい。桜が咲いています。」と云った。その又言い方には不思議な程、嬉しそうな調子がこもっていた。玄関に出ていた小島氏も、もし大袈裟に形容すれば、亜米利加帰りのコロンブスが、土産でも見せるような顔色だった。その癖桜は痩せ枯れた枝に、乏しい花しかつけていなかった。私はこの時両先生が、何故こんなに大喜びをするのか、内心妙に思っていた。しかし上海に一月程いると、これは両氏ばかりじゃない、誰でもそうだと云う事を知った。日本人はどう云う人種か、それは私の知る所じゃない。が、兎に角海外に出ると、その八重たると一重たるとを問わず、桜の花さえ見る事が出来れば、忽幸福になる人種である。      ×  同文書院を見に行った時、寄宿舎の二階を歩いていると、廊下のつき当りの窓の外に、青い穂麦の海が見えた。その麦畑の処々に、平凡な菜の花の群ったのが見えた。最後にそれ等のずっと向うに、──低い屋根が続いた上に、大きな鯉幟のあるのが見えた。鯉は風に吹かれながら、鮮かに空へ翻っていた。この一本の鯉幟は、忽風景を変化させた。私は支那にいるのじゃない。日本にいるのだと云う気になった。しかしその窓の側へ行ったら、すぐ目の下の麦畑に、支那の百姓が働いていた。それが何だか私には、怪しからんような気を起させた。私も遠い上海の空に、日本の鯉幟を眺めたのは、やはり多少愉快だったのである。桜の事なぞは笑えないかも知れない。      ×  上海の日本婦人倶楽部に、招待を受けた事がある。場所は確か仏蘭西租界の、松本夫人の邸宅だった。白い布をかけた円卓子。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウィッチと。──卓子を囲んだ奥さん達は、私が予想していたよりも、皆温良貞淑そうだった。私はそう云う奥さん達と、小説や戯曲の話をした。すると或奥さんが、こう私に話しかけた。 「今月中央公論に御出しになった『鴉』と云う小説は、大へん面白うございました。」 「いえ、あれは悪作です。」  私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思った。      ×  南陽丸の船長竹内氏の話に、漢口のバンドを歩いていたら、篠懸の並木の下のベンチに、英吉利だか亜米利加だかの船乗が、日本の女と坐っていた。その女は一と目見ても、職業がすぐにわかるものだった。竹内氏はそれを見た時に、不快な気もちがしたそうである。私はその話を聞いた後、北四川路を歩いていると、向うへ来かかった自動車の中に、三人か四人の日本の芸者が、一人の西洋人を擁しながら、頻にはしゃいでいるのを見た。が、別段竹内氏のように、不快な気もちにはならなかった。が、不快な気もちになるのも、まんざら理解に苦しむ訣じゃない。いや、寧ろそう云う心理に、興味を持たずにはいられないのである。この場合は不快な気持だけだが、もしこれを大にすれば、愛国的義憤に違いないじゃないか?      ×  何でもXと云う日本人があった。Xは上海に二十年住んでいた。結婚したのも上海である。子が出来たのも上海である。金がたまったのも上海である。その為かXは上海に熱烈な愛着を持っていた。たまに日本から客が来ると、何時も上海の自慢をした。建築、道路、料理、娯楽、──いずれも日本は上海に若かない。上海は西洋も同然である。日本なぞに齷齪しているより、一日も早く上海に来給え。──そう客を促しさえした。そのXが死んだ時、遺言状を出して見ると、意外な事が書いてあった。──「骨は如何なる事情ありとも、必日本に埋むべし。……」  私は或日ホテルの窓に、火のついたハヴァナを啣えながら、こんな話を想像した。Xの矛盾は笑うべきものじゃない。我々はこう云う点になると、大抵Xの仲間なのである。 二十 徐家滙  明の万暦年間。墻外。処々に柳の立木あり。墻の彼方に天主堂の屋根見ゆ。その頂の黄金の十字架、落日の光に輝けり。雲水の僧一人、村の童と共に出で来る。  雲水。徐公の御屋敷はあすこかい?  童。あすこだよ。あすこだけれど──叔父さんはあすこへ行ったって、御斎の御馳走にはなれないぜ、殿様は坊さんが大嫌いだから。──  雲水。よし。よし。そんな事はわかっている。  童。わかっているのなら、行かなければ好いのに。  雲水。(苦笑)お前は中々口が悪いな。私は掛錫を願いに行くのじゃない。天主教の坊さんと問答をしにやって来たのだ。  童。そうかい。じゃ勝手におし。御家来たちに打たれても知らないから。  童走り去る。  雲水。(独白)あすこに堂の屋根が見えるようだが、門は何処にあるのかしら。  紅毛の宣教師一人、驢馬に跨りつつ通りかかる。後に僕一人従いたり。  雲水。もし、もし。  宣教師驢馬を止む。  雲水。(勇猛に)什麼の処より来る?  宣教師。(不審そうに)信者の家に行ったのです。  雲水。黄巣過ぎて後、還って剣を収得するや否や?  宣教師呆然たり。  雲水。還って剣を収得するや否や? 道え。道え。道わなければ、──  雲水如意を揮い、将に宣教師を打たんとす。僕雲水を突き倒す。  僕。気違いです。かまわずに御出なさいまし。  宣教師。可哀そうに。どうも眼の色が妙だと思った。  宣教師等去る。雲水起き上る。  雲水。忌々しい外道だな。如意まで折ってしまい居った。鉢は何処へ行ったかしら。  墻内よりかすかに讃頌の声起る。      × × × × ×  清の雍正年間。草原。処々に柳の立木あり。その間に荒廃せる礼拝堂見ゆ。村の娘三人、いずれも籃を腕にかけつつ、蓬なぞを摘みつつあり。  甲。雲雀の声がうるさい位だわね。  乙。ええ。──あら、いやな蜥蜴だ事。  甲。姉さんの御嫁入りはまだ?  乙。多分来月になりそうだわ。  丙。あら、何でしょう、これは?(土にまみれたる十字架を拾う。丙は三人中、最も年少なり。)人の形が彫ってあるわ。  乙。どれ? ちょいと見せて頂戴。これは十字架と云うものだわ。  丙。十字架って何の事?  乙。天主教の人の持つものだわ。これは金じゃないかしら?  甲。およしなさいよ。そんな物を持っていたり何かすると、又張さんのように首を斬られるわ。  丙。じゃ元の通り埋て置きましょうか?  甲。ねえ、その方が好くはなくって?  乙。そうねえ。その方が間違いなさそうだわね。  娘等去る。数時間の後、暮色次第に草原に迫る。丙、盲目の老人と共に出で来る。  丙。この辺だったわ。お祖父さん。  老人。じゃ早く捜しておくれ。邪魔がはいるといけないから。  丙。ほら、此処にあったわ、これでしょう?  新月の光。老人は十字架を手にせる儘、徐に黙祷の頭を垂る。      × × × × ×  中華民国十年。麦畑の中に花崗石の十字架あり。柳の立木の上に、天主堂の尖塔、屹然と雲端を摩せるを見る。日本人五人、麦畑を縫いつつ出で来る。その一人は同文書院の学生なり。  甲。あの天主堂は何時頃出来たものでしょう?  乙。道光の末だそうですよ。(案内記を開きつつ)奥行二百五十呎、幅百二十七呎、あの塔の高さは百六十九呎だそうです。  学生。あれが墓です。あの十字架が、──  甲。成程、石柱や石獣が残っているのを見ると、以前はもっと立派だったのでしょうね。  丁。そうでしょう。何しろ大臣の墓ですから。  学生。この煉瓦の台座に、石が嵌めこんであるでしょう。これが徐氏の墓誌銘です。  丁。明故少保加贈大保礼部尚書兼文淵閣大学士徐文定公墓前十字記とありますね。  甲。墓は別にあったのでしょうか?  乙。さあ、そうかと思いますが、──  甲。十字架にも銘がありますね。十字聖架万世瞻依か。  丙。(遠方より声をかける。)ちょいと動かずにいてくれ給え。写真を一枚とらせて貰うから。  四人十字架の前に立つ。不自然なる数秒の沈黙。 二十一 最後の一瞥  村田君や波多君が去った後、私は巻煙草を啣えた儘、鳳陽丸の甲板へ出て見た。電燈の明い波止場には、もう殆人影も見えない。その向うの往来には、三階か四階の煉瓦建が、ずっと夜空に聳えている。と思うと苦力が一人、鮮かな影を落しながら、目の下の波止場を歩いて行った。あの苦力と一しょに行けば、何時か護照を貰いに行った日本領事館の門の前へ、自然と出てしまうのに相違ない。  私は静かな甲板を、船尾の方へ歩いて行った。此処から川下を眺めると、バンドに沿うた往来に、点々と灯が燦いている。蘇州河の口に渡された、昼は車馬の絶えた事のないガアドン・ブリッジは見えないかしら。その橋の袂の公園は、若葉の色こそ見えないが、あすこに群った木立ちらしい。この間あすこに行った時には、白々と噴水が上った芝生に、S・M・Cの赤半被を着た、背むしのような支那人が一人、巻煙草の殻を拾っていた。あの公園の花壇には、今でも鬱金香や黄水仙が、電燈の光に咲いているであろうか? 向うへあすこを通り抜けると、庭の広い英吉利領事館や、正金銀行が見える筈である。その横を川伝いにまっ直行けば、左へ曲る横町に、ライシアム・シアタアも見えるであろう。あの入り口の石段の上には、コミック・オペラの画看板はあっても、もう人出入は途絶えたかも知れない。其処へ一台の自動車が、まっ直ぐに河岸を走って来る。薔薇の花、絹、頸飾りの琥珀、──それらがちらりと見えたと思うと、すぐに眼の前から消えてしまう。あれはきっとカルトン・カッフェへ、舞蹈に行っていたのに違いない。その跡は森とした往来に、誰か小唄をうたいながら、靴音をさせて行くものがある。Chin chin Chinaman ──私は暗い黄浦江の水に、煙草の吸いさしを拠りこむと、ゆっくりサロンへ引き返した。  サロンにもやはり人影はない。唯絨氈を敷いた床に、鉢物の蘭の葉が光っている。私は長椅子によりかかりながら、漫然と回想に耽り出した。──呉景濂氏に会った時、氏は大きな一分刈の頭に、紫の膏薬を貼りつけていた。そうして其処を気にしながら、「腫物が出来ましてね。」とこぼしていた。あの腫物は直ったかしら? ──酔歩蹣跚たる四十起氏と、暗い往来を歩いていたら、丁度我々の頭の上に、真四角の小窓が一つあった。窓は雨雲の垂れた空へ、斜に光を射上げていた。そうして其処から小鳥のように、若い支那の女が一人、目の下の我々を見下している。四十起氏はそれを指さしながら、「あれです、広東婔は。」と教えてくれた。あすこには今夜も不相変、あの女が顔を出しているかも知れない。──樹木の多い仏蘭西租界に、軽快な馬車を走らせていると、ずっと前方に支那の馬丁が、白馬二頭を引っ張って行く。その馬の一頭がどう云う訣か、突然地面へころがってしまった。すると同乗の村田君が、「あれは背中が掻いんだよ。」と、私の疑念を晴らしてくれた。──そんな事を思い続けながら、私は煙草の箱を出しに、間着のポケットへ手を入れた。が、つかみ出したものは、黄色い埃及の箱ではない、先夜其処に入れ忘れた、支那の芝居の戯単である。と同時に戯単の中から、何かがほろりと床へ落ちた。何かが、──一瞬間の後、私は素枯れた白蘭花を拾い上げていた。白蘭花はちょいと嗅いで見たが、もう匂さえ残っていない。花びらも褐色に変っている。「白蘭花、白蘭花」──そう云う花売りの声を聞いたのも、何時か追憶に過ぎなくなった。この花が南国の美人の胸に、匂っているのを眺めたのも、今では夢と同様である。私は手軽な感傷癖に、堕し兼ねない危険を感じながら、素枯れた白蘭花を床へ投げた。そうして巻煙草へ火をつけると、立つ前に小島氏が贈ってくれた、メリイ・ストオプスの本を読み始めた。 底本:「上海游記・江南游記」講談社文芸文庫、講談社    2001(平成13)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「芥川龍之介全集 第八巻」岩波書店    1996(平成8)年6月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※編集部による注は省略しました。 入力:門田裕志 校正:岡山勝美 2015年4月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。