牧羊神 上田敏 上田敏訳 Guide 扉 本文 目 次 牧羊神 牧羊神 滊車に乘りて ちやるめら 踏繪 啄木 トリスタン・コルビエェル 蟾蜍 ジュル・ラフォルグ お月樣のなげきぶし 月光 ピエロオの詞 月の出前の對話 冬が來る 日曜 日曜日 モリス・マアテルリンク 温室 祈祷 愁のむろ こころ 病院 燧玉 めつき エミイル・ヹルハアレン 都會 思想 世界 俊傑 フェルナン・グレエグ われは生きたり ポオル・フォオル 兩替橋 このをとめ 別離 小歌 夏の夜 ギイ・シャルル・クロオ 窓にもたれて 譫語 世間のある人人には…… レミ・ドゥ・グルモン 髮 雪 柊冬青 薔薇連祷 むかしの花 立木の物語 牧羊神 阜の上の森陰に直立ちて 牧羊の神パアン笙を吹く。 晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。 天青し、雲白し、野山影短き 音無の世に、たゞ笙の聲、 ちよう、りよう、ふりよう、 ひうやりやに、ひやるろ、 あら、よい、ふりよう、るり、 ひよう、ふりよう、 蘆笛の管の簧、 震ひ響きていづる音に、 神も昔をおもふらむ。 髯そゝげたる相好は、 翁さびたる咲まひがほ、 角さへみゆる額髮、 髮はらゝぎて、さばらかに、 風雅の心浮べたる ──耳も山羊、脚も山羊── 半獸の姿ぞなつかしき。 音の程らひの搖曳に、 憧れごゝち、夢に入るを きけば昔の戀がたり、 「細谷川の丸木橋、 ふみかへしては、かへしては、 あの山みるにおもひだす、 わかき心のはやりぎに 森の女神のシュリンクス 追ひしその日の雄誥を。 岩の峽間の白樫の 枝かきわけてラウラ木や ミュルトスの森すぎゆけば、 木蔦の蔓に絡まるゝ 山葡萄こそうるさけれ。 去年の落栗毬栗は 蹄の割に挾まれど、 君を思へば正體無しや、 岩角、木株、細流を 踏みしめ、飛びこえ、徒わたり、 雲の御髮や、白妙の 肌理こまやかの肉置の 肩を抱めむと喘ぎゆく。 やがてぞ谷は極まりて。 鳶尾草の濃紫 にほひすみれのしぼ鹿子、 春山祇の來て遊ぶ 泉のもとにつきぬれば 胸もとゞろに、かの君を 今こそ終に得てしかと 思ふ心のそらだのめ。 淺澤水の中島に 仆れてつかむ蘆の根よ。 あまりに物のはかなさに、 空手をしめて、よゝと泣く 吐息ためいきとめあへず、 愁ひ嘯くをりしもあれ、 ふしぎや、音のしみじみと、 うつろ蘆莖鳴りいでぬ、 蘆莩響き鳴りいでぬ。 さては抱けるこの草は 君が心のやどり草、 戀は草、草は戀。 せめてはこれぞわが物と 笙にしつらひ、年來の つもる思を口うつし 移して吹けば片岡に 夫呼ぶ雉子の雌鳥も、 胡桃に耽ける友鳥も、 原ににれがむ黄牛も、 牧に嘶く黒駒も、 埒にむれゐる小羊も、 聞惚れ、見惚れ、あこがれて、 蝉の連節のどやかに、 蜥蜴も石に眠るなる 世は寂寥の眞晝時、 蘆に變りしわが戀と おのれも、いつか、ひとつなる うつら心や、のんやほ、のんやほ、 常春藤のいつまでも うれし愁にまぎれむと、 けふも日影の長閑さに、 心をこめて吹き吹けば、 つもる思も口うつし、 ああ蘆の笛、蘆の笙の笛」。 日はやゝに傾きて、遠里に 靄はたち、中空の温もりに、 草の香いや高き片岡、 夢薫り、現は匂ふ今、 眠眼の牧羊神、笙を吹きやみぬ。 森陰に音もなし。 村雨ははらゝほろ、 山梨の枝にかゝれば、 けんけんほろゝうつ 雉子の鳴く音に覺まされて、 磐床いづる牧羊の神パアン、 胸毛の露をはらひつゝ 延欠して仰ぎ見れば、 有無雲の中天を ひとり寂しく鸛の鳥、 遠の柴山かけて飛ぶ。 かへりみすれば、川添の 根白柳を濡燕、 掠め飛び交ふ雨あがり、 今、夕影のしるけきに、 生のこの世の忙しさよ、 地には蟻のいとなみを、 空には蜂の分封を つくづく見れば、宿命の かたき掟ぞいちじるき。 水の面に映りたる おのが姿に戀じにの 玉玲瓏の水仙花、 花は散りてし葉の上を、 蟻は斜に、まじくらに ──なに營のすさびなる── 生の力に驅られたり、 またある時は糧運ぶ いそしき業のもなかにも、 蟻塜近き砂の上、 二疋の蟻の足とめて、 なに語りあふ、たゆたへる、 遇ふさ離るさのみち惑、 蟲の世界のまつりごと、 健氣にも、はた傷ましや。 空は今何の反橋ぞ、 天馳使わたらすか、 東の山に虹かゝり、 更に黄金の一帶の 霓わたせるけしきにて、 鹿とり靡く弓雄等が 鳴鏑射放つ音たてゝ、 蜂の巣立の子別に 父蜂さそふ細工蜂、 七歩ばかりの後より、 やゝ高く飛ぶ女王蜂、 たとへば修羅の巷にて、 亂飛、亂廻、虎走、 勇猛たぐひ無き兵も、 パアンふと脅しぬれば 人崩つきて、人馬落ちかさなり、 惑ひ、ふためき走るごと、 大騷亂のわたましや、 生の力の仕業なる。 遙に山のあなたには、 人の築きし城のうち、 國富み榮え、民繁き 都はあれど、ものみなは かたみにつらき犧牲の 鬮のさだめを免れあへず、 青人草の細工蜂、 黄泉の坂路のさかしきに、 とはに磐石押し上ぐる シシュフォス王の姿かな。 種とり蜂のふところ手、 夢の浮世のぬめり男の しやらり、しやらりとしたる身も、 子別過ぎし初秋の 朝の命を知らざるや、 イクシオオンのたえまなく 車輪に廻るあはれさよ、 それにひきかへ王蜂の 滿ち足らひたる幸は こよなき物と見えながら ウラノスはクロノスに、クロノスは 其子ジウスに滅され、 ジウスの代さへ危きを プロメエチウスは知るといふ 流轉の世こそ悲しけれ。 噫勢力の強くとも 命の掟になに克たむ。 理を知る心深ければ 悲さらに深まさる。 慰はたゞこの笙の笛、 牧羊神の笛の音に、 世の秘事ぞかくれたる。 名に負ふパアン吹く笛の音に、 この天地のものみなは、 擧りて群れゐふくまれて、 身も世も忘れ、處、時の 辨別も無き醉心地、 夢見る心地誘ふなる 不思議の笙の笛の聲、 悠やかに、朗かに、あんら、緩やかに、 森の泉に來て歎く 谺姫さへほゝゑませ、 谷の八十隈吹き靡け、 人里遠く傳はれば、 牧人笻を擲ちて、 羊踊りをひとをどり、 生の悦みちわたる 面にしばし夕づく日、 耀ふみれば宿命の 覊絆はいつか解かれたり。 をちこち山の影長く、 夕の空の艶なるに なほも笛吹く牧羊神。 雲の湊の漁火か、 ちろり、ちろりと、長庚は 朝が散らせるよき物を、 羊を、山羊を集むるか、 母の乳房に髫髮兒を 呼びかへすなるひとつ星 ああ二つ星、三つ星と 數添ふ空の縹色、 深まさり行く夕まぐれ、 羊の鈴の音も絶えて、 いづこの野邊の花垣か、 燕の妹、雉子の叔母、 舌を絶たれし弟姫の あの容鳥の歌の聲、 間無く繁鳴く恨さへ、 和らぎたりや、この夕。 こゝにパアンも今はとて、 さらばの音取、末長く、 「さらば明日參らう。 うえうちり、たちえろ」 白樺木立わけ入れば 東の阜に月はのぼりぬ。 滊車に乘りて 赤松の林をあとに、 麻畠ひだりにみつゝ、 滊車はいま堤にかゝる。 ほのかなる水のにほひに、 河淀の近きは著るし。 三稜草生ふる河原に 葦切はけゝしと噪ぎ、 鵠こそ夏は來らね、 たまたまに百舌の速贄、 篦鷺の何をか思ふ しよんぼりと立てる畷に、 紡績の宿にやあらむ、 きり、はたり、はたり、ちやう、ちやう、 筬の音やゝにへだゝり、 道祖神祭るあたりの 鐵道の踏切近く、 繩帶の襤褸の衣、 勝色は飾磨の染の 乳呑子を負へる少女は、 淺茅生の末黒に立ちて 萬歳と囃し送りぬ。 萬歳はなれにこそあれ、 幾年を生きよ、里の子。 人の世に尊きものは 土の香ぞ、國の御魂ぞ。 僞の市に住へば 産土の神に離りて 養をかきたる人も、 埴安の郷の土より 生ぬきのなれに呼ばれて 本然の命にかへる。 道芝の上吹く風よ、 農人の寢覺に通ふ 微かなる土のおとづれ、 なつかしき母の聲音か。 晝さがり草の香高く 松脂のにほひもまじる 地の胸の乳房のかをり 蘇門答剌の香も及ばじ。 忽ちに鐵のにほひす。 鳴神の落ちかゝるごと、 滊車は今、橋に轟く。 桁搆眼路をかぎりて、 ひとり見る蛇籠の礫。 ちやるめら 薄日のかげも衰へて、 風冷やかに雲低き 鈍色空のゆふまぐれ、 はづれの辻のかたすみに、 ちやるめらの聲吹きおこる。 はじめの節のゆるやかに 心を誘ふ管の聲、 音は華やげるしらべかと おもへば、あらず、せきあぐる 悲哀の曲の搖曳に、  みそらかけりて、あの山越えて、  越えてゆかまし夢の里。  よしや、わざくれ、身はうつし世の  榮にまぎるゝとがめびと、  有爲の奧山、路嶮し。 響はるかに鳴りわたる おほまが時のうすあかり、 飴屋の笛にそゞろげる 子供心もおのづから 家路をおもふ二の聲に  夢の浮橋、あら、なつかしや  戀ひし、なつかし、虹の橋、  いつし、いづれの日に架けそめて、  涙の谷の中空を  雲につらぬるそり橋か。 細き金具の歌口に かなしみあふれ、氣も萎えて、 折りまはしたる聲のはて、 忽ちくづれ調かはる あゝ、ちやるめらの末の曲。  「やぶれ菅笠、しめ緒が切れて  さらにきもせず、すてもせず。」  人に思のなまなかあれば、  夢に現を代へ難き  ──えい、なんとせう──あだ心。 踏繪 眞鍮の角なる版に ビルゼンの像あり、 諸の御弟子之を環る。 母にてをとめ、 わが兒のむすめ、 歸命頂禮、サンタ・マリヤ。 これもまた眞鍮の版、 萬民にかはりて、 髑髏の阜にクルスを 負ふ猶太の君 那撒禮のイエスス キリストス、神の御子。 不思議なる御名にこそあれ、 イエスス・キリストス、 かみのみこ、よの人のすくひ、 げにいきがみよ。 始なり、終なり。 繪踏せよ、轉べ、轉べと 糺問ぞ切なる。 いでや、この今日の試に 克ちおほせなば、 パライソに行き、 挫けたらむには、インヘルノ。 伴天連の師の宣はく マルチルの功は 大惡の七つのモルタル 科を贖ふ。 ブルガトリオを まつしぐら、ゆけ、パライソへ。 大日本、朝日の國の 信者たち、努めよ、 名にし負ふアンチクリストの 力を挫く 義軍の先驅、 上れ、主の如く磔刑に。 この標、世に克つ標、 あらかたの標ぞ。 ありし、ある、あらむ世をかけて、 絶えず消えせぬ 命の光、 高くに仰げ、サンタ・クルスを。 見よ、かゝる殉教の士を。 天草は農人、 五島には鯨とる子も ガリレヤ海の 海人の習と 悲節を守りつぐ。 代代に聞く名こそ異なれ。 神はなほこの世を 知ろす、たゞひとり、おぼつかな、 今の求道者、 「識らざる神」の 證にと死する勇ありや。 啄木 婆羅門の作れる小田を食む鴉 なく音の耳に慣れたるか、 おほをそ鳥の名にし負ふ いつはり聲のだみ聲を 又無き歌とほめたつる 木兎、梟や椋鳥の ともばやしこそ笑止なれ。 聞かずや春の山ぶみに、 林の奧ゆ、伐木の 丁々として山更に なほも幽なる山彦を。 こはそも仙家の斧の音か、 よし足引の山姥が めぐりめぐれる山めぐり、 輪廻の業の音づれか。 いなとよ、たゞの鳥なれど、 赤染色のはねばうし、 黒斑白斑の綾模樣 紅梅、朽葉の色ゆりて、 なに思ふらむ啄木の つくづくわたる歌の枝。 げに虚なる朽木の 幹にひそめるけら蟲は 風雅の森のそこなひぞ、 鉤けて食ひね、てらつゝき、 また人の世の道なかば 闇路の林ゆきまよふ 惱の人を導きて 歡樂山にしるべせよ。 あゝ、あこがれのその歌よ、 そゞろぎわたり、胸に沁み さもこそ似たれ、陸奧の 卒都の濱邊の呼子鳥、 なくなる聲のうとう、やすかた。 トリスタン・コルビエェル 蟾蜍 風の無い晩に歌がきこえる…… ──月は黒ずんだ青葉の 曲折に銀を被せてる。 ……歌がきこえる、生埋になつた 木精かしら、そらあの石垣の下さ…… ──已んだ。行つて見よう、そこだ、その陰だ。 ──蟾蜍よっ。──なにも恐い事は無い。 こつちへお寄り、僕が附いてる。 よつく御覽、これは頭を圓めた、翼の無い詩人さ、 溝の中の迦陵嚬伽……あら厭だ。 ……歌つてる──おゝ厭だ。──なぜ厭なの。 そら、あの眼の光つてること…… おや冷して、石の下へ潛つてく。 さよなら──あの蟾蜍は僕だ。 ジュル・ラフォルグ お月樣のなげきぶし 星の聲  膝の上、  天道樣の膝の上、 踊るは、をどるは、  膝の上、  天道樣の膝の上、 星の踊のひとをどり。 ──もうし、もうし、お月さま、 そんなに、つんとあそばすな。 をどりの組へおいでなら、 金の頸環をまゐらせう。 おや、まあ、いつそ難有い 思召だが、わたしには お姉樣のくだすつた これ、このメダルで澤山よ。 ──ふふん、地球なんざあ、いけ好ない、 ありやあ、思想の臺ですよ。 それよか、もつと歴とした 立派な星がたんとある。 ──もう、もう、これで澤山よ、 おや、どこやらで聲がする。 ──なに、そりや何かのききちがひ、 宇宙の舍密が鳴るのでせう。 ──口のわるい人たちだ、 わたしや、よつぴて起きてゝよ。 お引摺のお轉婆さん、 夜遊にでもいつといで。 ──こまつちやくれた尼つちよめ、 へへへのへ、のんだくれの御本尊、 掏摸や狗のお守番、 猫の戀のなかうど、 あばよ、さばよ。 衆星退場。靜寂と月光。遙に聲。  はてしらぬ  空の天井のその下で、 踊るは、をどるは、  はてしらぬ  空の天井のその下で、 星の踊をひとをどり。 月光 とてもあの星には住まへないと思ふと、 まるで鳩尾でも、どやされたやうだ。 ああ月は美しいな、あのしんとした中空を 夏八月の良夜に乘つきつて。 帆柱なんぞはうつちやつて、ふらりふらりと 轉けてゆく、雲のまつ黒けの崖下を。 ああ往つてみたいな、無暗に往つてみたいな、 尊いあすこの水盤へ乘つてみたなら嘸よからう。 お月さまは盲だ、險難至極な燈臺だ。 哀れなる哉、イカルスが幾人も來ておつこちる。 自殺者の眼のやうに、死つてござるお月樣、 吾等疲勞者大會の議長の席につきたまへ。 冷たい頭腦で遠慮無く散々貶して貰ひませう、 とても癒らぬ官僚主義で、つるつる禿げた凡骨を。 これが最後の睡眠劑か、どれひとつその丸藥を どうか世間の石頭へも頒けて呑ませてやりたいものだ。 どりや袍を甲斐甲斐しくも、きりりと羽織つたお月さま、 愛の冷きつた世でござる、何卒箙の矢をとつて、 よつぴき引いて、ひようと放ち、この世に住まふ翅無の 人間どもの心中に情の種を植ゑたまへ。 大洪水に洗はれて、さつぱりとしたお月さま、 解熱の効あるその光、今夜ここへもさして來て、 寢臺に一杯漲れよ、さるほどに小生も この浮世から手を洗ふべく候。 ピエロオの詞 また本か。戀しいな、 氣障な奴等の居ないとこ、 錢やお辭儀の無いとこや、 無駄の議論の無いとこが。 また一人ピエロオが 慢性孤獨病で死んだ。 見てくれは滑稽かつたが、 垢拔のした奴だつた。 神樣は退去になる、猪頭ばかり殘つてる。 ああ天下の事日日に非なりだ。 用もひととほり濟んだから、 どれ、ひとつ「空扶持」にでもありつかう。 月の出前の對話 ──そりやあ眞の生活もしてはみたいさ、 だがね、理想といふものは、あまり漠としてゐる。 ──そこが理想なんだ、理想の理想たるところだ。 譯が解るくらゐなら、別の名がつく。 ──しかし、何事も不確な世の中だ。哲學また哲學、 生れたり、刺違たり、まるで筋が立つてゐない。 ──さうさ、眞とは生きるのだといふんだもの、 絶對なんざあ、たつ瀬があるまい。 ──ひとつ旗を下して了はうか、えい、 お荷物はすつかり虚無へ渡して了はう。 ──空から吹きおろす無邊の風の聲がいふ、 「おい、おい、ばかもいゝ加減にしなさい。」 ──もつとも、さうさな「可能」の工場の汽笛は、 「不可思議」のかたへ向つて唸つてはゐる。 ──其間唯一歩だ。なるほど黎明と 曙のあはひのちがひほどである。 ──それでは、かうかな、現實とは、少なくとも 「或物」に對して益があるといふことか。 ──そこでかうなる、ねえ、さうぢやないか、 薔薇の花は必要である──其必要に對してと。 ──話が少し妙になつて來たね、 すべては循環論法に入つてくる。 ──循環はしてゐるが、これが凡てだ。            ──何だ、さうか、 なら、いつそ月の方へいつちまはう。 冬が來る 感情の封鎖。近東行の郵船…… ああ雨が降る、日が暮れる、 ああ木枯の聲…… 萬聖節、降誕祭、やがて新年、 ああ霧雨の中に、煙突の林…… しかも工場の…… どのベンチも皆濡れてゐて腰を下せない。 とても來年にならなければ徒目だ。 どのベンチも濡れてゐる、森もすつかり霜枯れて、 トントン、トンテンと、もう角笛も鳴つて了つた。 ああ、海峽の濱邊から驅けつけた雲のおかげで、 前の日曜もまる潰れだつた。 霧雨が降つてる、 づぶ濡の木立にかけた蜘蛛の網は、 水玉の重みに弛んで毀れて了つた。 豐年祭のころに、 砂金の波の光を漂はせて、豪勢な景氣だつた日光は 今どこに隱れてゐる。 けふの夕方は、泣きだしさうな日が、丘の上の 金雀花の中で外套を羽織つたまま、横向に臥てゐる。 薄れた白つぽい日の目は酒場の床に吐散らした痰のやうで、 黄いろい金雀花の敷藁と、 黄いろい秋の金雀花を照してゐる。 角笛が頻に呼んでゐる、 歸れ…… 歸れと呼んでゐる。 タイオオ、タイオオ、アラリ。 ああ悲しい、もう已めてくれ…… 堪らなく悲しい…… 日は丘の上に臥てゐて、頸筋から挘取つた腺のやうだ、 日は慄へてゐる、孤ぼつちで…… さ、さ、アラリ! 熟知の冬が來たぞ、來たぞ。 ああ、街道の紆曲に、 「赤外套の兒」も見えない。 ああ此間通つた車の跡が、 ドン・キホオテ流に、途方も無い勇氣を出して、 總崩になつた雲の斥候隊の方へ上つてゆくと、 風はその雲を大西洋上の埒へと追ひたてる。 急げ急げ、こんどこそ本當だ。 昨夜は、よくも吹いたものだ。 やあ、滅茶苦茶だ、そら、鳥の巣も花壇も。 ああわが心、わが眠、それ、斧の音が響く。 きのふまでは、まだ青葉の枝、 けふは、下生に枯葉の山、 大風に芽も葉も揉まれて、 一團に池へ行く。 或は獵の番舍の火に燒ばり、 或は遠征隊の兵士が寢る 野戰病院用の蒲團に入るだらう。 冬だ、冬だ、霜枯時だ。 霜枯は幾基米突に亘る鬱憂を逞しうして 人つ子ひとり通らない街道の電線を腐蝕してゐる。 角笛が、角笛が──悲しい…… 角笛が悲しい…… 消えて行く音色の變化、 調と音色の變化、 トントン、トンテン、トントン…… 角笛が、角笛が 北風に消えてゆく。 耳につく角笛の音、なんとまあ餘韻の深い音だらう…… 冬だ、冬だ。葡萄祭も、さらば、さらば…… 天人のやうに辛抱づよく、長雨が降りだした。 おさらば、さらば葡萄祭、さらばよ花籠、 橡の葉陰の舞踏の庭のワットオぶりの花籠よ。 今、中學の寄宿舍に咳嗽の音繁く、 暖爐に火は消えて煎藥が匂ひ、 肺炎が各區に流行して 大都會のあらゆる不幸一時に襲來する。 さりながら、毛織物、護謨、藥種店、物思、 場末の町の屋根瓦の海に臨んで、 その岸とも謂つべき張出の欄干近い窓掛、 洋燈、版繪、茶、茶菓子、 樂は、これきりか知ら。 (ああ、まだある、それから洋琴のほかに、 毎週一囘、新聞に出る、 あの地味な、薄暗い、不思議な 衞生統計表さ。) いや、何しろ冬がやつて來た。地球が痴呆なのさ。 ああ南風よ、南風よ、 「時」が編みあげたこの古靴を、ぎざぎざにしておくれ、 冬だ、ああ厭な冬が來た。 毎年、毎年、 一々その報告を書いてみようとおもふ。 日曜 ハムレツト──そちに娘があるか。 ポロウニヤス──はい、御座りまする。 ハムレツト──あまり外へ出すなよ。腹のあるのは結構だが、そちの娘の腹に何か出來ると大變だからな。 しとしとと、無意味に雨が降る、雨が降る、 雨が降るぞや、川面に、羊の番の小娘よ…… どんたくの休日のけしき川に浮び、 上にも下にも、どこみても、艀も小船も出て居ない。 夕がたのつとめの鐘が市で鳴る。 人氣の絶えたかしっぷち、薄ら寂しい河岸っぷち。 いづこの塾の女生徒か(おお、いたはしや) 大抵はもう、冬支度、マフを抱へて有つてるに、 唯ひとり、毛の襟卷もマフも無く 鼠の服でしよんぼりと足を引摺るいぢらしさ。 おやおや、列を離れたぞ、變だな。 それ驅出した、これ、これ、ど、ど、どうしたんだ。 身を投げた、身を投げた。大變、大變、 ああ船が無い、しまつた、救助犬も居ないのか。 日が暮れる、向の揚場に火がついた。 悲しい悲しい火がついた。(尤もよくある書割さ!) じめじめと川もびっしより濡れるほど しとしとと、譯もなく、無意味の雨が降る、雨が降る。 日曜日 日曜日には、ゆかりある 阿嬭兒の名誦みあげて 珠數爪繰るを常とする。 オルフェエよ、若きオルフェエ、 アルフェエ川の夕波に 轟きわたる踏歌の聲…… パルシファル、パルシファル、 おほ禍つびの城壁に 白妙清き旗じるし…… プロメテエ、プロメテエ、 不信心者の百代が 口傳にする合言葉…… ナビュコドノソル皇帝は 金の時代の荒御魂、 今なほこれらを領するか…… さて、つぎに厄娃の女たち、 われらと同じ運命の 乳に育つた姉妹…… サロメ、サロメ、 戀のおほくが眠つてる 蘭麝に馨る石の唐櫃…… オフェリイ姫はなつかしや、 この夏の夜に來たまはば 人雜もせず語らはう…… サラムボオ、サラムボオ、 墓場の石にさしかゝる 清い暈きた月あかり…… おほがらの后メッサリイヌよ、 紗の薄衣を掻きなでて、 足音ぬすむ豹の媚…… おお、いたいけなサンドリヨン、 蟋蟀も來ぬ爐のそばで、 裂れた靴下縫つてゐる…… またポオル、ヸルジニイ、 殖民領の空のもと さても似合の女夫雛…… プシケエよ、ふはり、ふはりと 罪の燐火に燃えあがり、 消えはしまいか、氣にかかる…… モリス・マアテルリンク 温室 森の奧なる温室、 永久に鎖ざせるその戸、 その圓屋根の下にあるもの、 これに準へて、わが心の下にあるもの。 飢に惱む王女の思、 荒野に迷ふ船乘の愁、 不治の患者の窓下に起る樂隊の音。 さていとも温き隅に行きてみよ。 收穫時のある日に氣絶したる女ともいふべし。 病院の中庭に驛傳の馭者來り、 麋の狩人の成の果なる看護人、かなたを通り過ぐ。 月影にすかし見よ。 (物皆こゝに處を得ず。) 法官の前に狂人立てりともいふべし、 軍ぶね、帆を張りて運河に浮び、 白百合に夜の鳥啼き、 眞晝がた、葬禮の鐘は鳴る、 (かの鐘形の玻璃器の下に。) 平原に病人の舍營あり、 晴れし日に依的兒匂ふ。 あな、あはれ、あな、あはれ、いつか雨ふらむ、 雪ふらむ、風ふかむ、温室に。 祈祷 あはれみたまへ、もくろみの 戸にたたずめるうつけさを、 わがたましひは、しろたへの 無能に無爲にあをざめり。 業をやめたるたましひは 吐息に蒼きたましひは、 たゞ眺むらむ、疲れはて、 莟の花に震ふ手を。 かかりしほどにわが心、 紫紺の夢の玉を吹き、 蝋の纖手のたましひは 月の光をふりそゝぐ。 月の光に明日といふ 黄花のさゆり透きみえて、 月の光に手の影は ひとり悲しくあらはれぬ。 愁のむろ 胸にある青き愁よ、 さいはひを求めてやまず、 よよと泣く月の光に 夢青く力無けれど。 この青き愁の室に さしよりて透見をすれば、 ぐらす戸の緑のあなた、 月を浴び、玻璃に覆はれ、 生ひ繁る葉もの、花もの、 夢の如く、不動に立ちて 宵よひは、忘我の影を 愛執の薔薇におとす。 水は、はた、ゆるく噴きいで、 薄曇る不斷の息に、 月影と空とをまぜて、 夢の如く節もかはらず。 こころ わが心 ああ、げに蔽はれたるわが心かな。 わが願の羊群は温室の内に在りて、 牧に暴風の來るを待つ。 まづ最も病めるものを訪はむ。 そはあやしき臭を放てり。 その中に入れば、われ母と共に戰場を過ぐる如し。 眞晝がた人人、一戰友を葬り、 歩哨は時の食を喫す。 また最も弱きものを訪はむ。 そはあやしき汗を流したり。 こゝに新婦は病み、 日曜に謀叛起り、 小兒、牢に引かる。 (その先、はるかに霧を隔てて、) 厨の口に横はるは垂死の女か、 あるは不治の患者の床の下に野菜を切る看護の尼か。 終に最も悲しきものを訪はむ。 (毒あるが故に、これを最後にしたり。) ああ、わが唇は手負の接吻を受く。 この夏、城の妃は皆わが心の塔の内に餓死したり。 今ここに曙の光、祭を照し、 河岸づたひ羊の歩むを見る、 また病院の窓に帆あらはる。 胸より心へ行く道の遠さよ。 歩哨は悉く受持の地に死したり。 ひと日わが心の郊外に小やかなる祭ありき。 日曜の朝、人、失鳩答を苅入れたり。 天晴れたる斷食の日、尼寺の童貞は擧りて運河に船の行くを眺めたり。 其時、白鳥は毒水の橋の下に惱みぬ。 囹圄の周なる樹樹の枝は伐りとられ、 六月の午後、人、藥水を齎し、 患者の食は眼路のかぎりに擴げられたり。 わが心よ。 萬物の悲しさ、ああ、わが心よ、ああ、萬物の悲しさ。 病院 病院。運河の岸の病院。 夏七月の病院。 廣間には爐を焚きたり。 時しもあれや、運河の上、大西洋定期船の汽笛の聲。 (ああ窓に近づく勿れ。) 移民宮殿を通拔す。 暴風雨の中に遊船一艘、 また他の船は悉く羊群を載せたり。 (窓はかたく閉ぢたるこそよけれ。 人々外より殆んど全く覆はれたり。) 雪の上なる温室の心地す。 暴風雨の日、産後の初詣ある如し。 夜具の上に草木の散りぼふが見えて、 日うららかなるに出火あり。 われ、負傷者に充ちたる森を通過す。 ああ今終に月はのぼりぬ。 廣間の中央よりは噴水迸り、 一群の少女ら、戸を細目に開く。 牧の島には羊の群、 氷河の上に美々しき木立、 大理石造の玄關に百合の花。 人の通はぬ森の奧に祭あり。 氷の淵に東邦の本草は茂りたり。 聞け、今水門は開かる。 大西洋定期船は運河の水を搖り亂る。 ああ、されど看護の尼は爐を掻いたり。 河添の道のかたへの蘆の葉は、緑凉しく燃えさかる。 月の光に漂ふは手負載せたる船一艘、 王女は皆暴風雨の下の船に乘り、 あまたの姫は失鳩答の原に死したり。 ああ、この窓はゆめな開きそ。 開け、水天の際、大西洋定期船の汽笛の聲。 花苑に何者か毒害せらる。 敵がたに盛なる祭のけはひす。 包圍せられたる市街に鹿が放たれ、 花百合のなかに獸の檻は見ゆ。 炭鑛の底深く熱帶の植物茂り、 牝羊の一群、鐵橋を過ぎ、 牡の羊は悲しげに廣間をさして入り來りぬ。 看護の尼、いま燈を點じて 患者の食を運びつつ、 運河にのぞむ窓の戸を、 すべての門の戸を閉ぢて、月の光を隱したり。 燧玉 悔といふ燧玉、手にとりて 過ぎし日を其下に照らしてみれば、 内證のかくれたる色青き 底の上に、うるはしき花は浮ぶ。 その玉の照らしたるわが願、 その願、つらぬけるわが心、 その心、思出に近づけば、 忽ちに枯草はもえあがる。 このたびは思をと、かの玉に 窺へば、晶玉のつとひかり、 忘れたる悲の花びらは、 ほのぼのとおもむろに咲きにほふ。 記憶にはあともなく消えはてし ありし夜のことわざも歸り來て、 なよげなる毳をもて撫でらるる 新しき望あるわが心。 めつき 憐なる疲れたるこのめつき、 汝等のめつき、わがめつき、 今は亡きめつき、今に來るべきめつき、 終に來ずして已むとも、實は世に在る目付。 日曜の日、貧者を訪ふ如きもあり、 家無き病人の如きもあり、 白布に被はれたる牧に羊の迷ふが如きもあり。 また類罕なる目付もあり、 圓天井の下、閉ぢたる廣間の内、童貞の刑に就くを眺むる如きもあり。 何ともわかぬ悲を思はしむる目付あり。 即ち工場の窓に居る農民を、 機織となりし園丁を、 蝋人形の見世物の夏の晝過を、 庭に居る病人を見る女王の心を、 森の中なる樟腦の香を、 祭の日、塔に王女を押籠むるを、 水温き運河の上、七日七夜を舟にて行くを思はしむ。 憐み給へ、收穫時の病人のやうに、小股にて出て來る目付を。 憐み給へ、食事の時に迷兒となりしやうなる目付を。 憐み給へ、外科醫を仰ぎ見る怪我人の目付を、 そのさま、暴風雨の下の天幕に似たり。 憐み給へ、誘惑せらるる處女の目付を、 (噫、乳の流は闇に逃げ入る、 白鳥は蛇の群のなかに死したり。) また憐み給へ、終に屈したる處女の目付を。 路無き沼に棄てられし王女の姿かな。 また暴風雨の中を照り輝ける諸船の眞帆あげて遠ざかり行くが如き目付もあり。 また何處にか他に居る事能はずして苦む目付あり、げに憐むに堪へたるかな。 殆ど區別無く而も實は相異れる苦悶の目付。 何人も終にそれと曉り得ぬ目付。 殆ど無言なる目付。 また憐なる囁の目付、 押殺されたる憐の目付。 あるものの中に在れば、病院となりし古城に居る心地す。 また他のものは尼寺の小さき芝生の上に百合の紋章打つたる天幕を張りたる如し。 更に他のものは温室に收容したる負傷者の風ありて、 また更に他のものは病人無き大西洋定期船に乘組みたる看護の尼の姿あり。 噫すべてかかる目付を眺め知り、 かかる目付を受け入れて、 かかる目付の應接におのが目付を費ひはて、 それより後は、わが眼をもまた閉ぢえざるとは。 エミイル・ヹルハアレン 都會 路はみな都會にむかふ。 煤煙のおくのかた、 かなた、階は階を重ね、 幅廣き大石段のかずかず、 絶頂の階までも、天までも上る往來の道となりて、 夢の如く都會は髣髴たり。 ふりさけみれば、 鐵材を網に組みたる橋梁の、 虚空に躍りて架るあり、 石あり、柱あり、 ゴルゴンの鬼面これを飾る。 郊外に聳ゆるは何の塔ぞ、 屋根あり、破風ありて、家屋の上に峙つは、 下摶つ鳥の皷翼に似たり。 即ちこれ觸手ある大都會、 屹然として、 平野田園の盡くるところに立つ。 紅き光の きらめくは 標柱の上、大圓柱の上、 晝なほ燃えて、 巨大なる黄金の卵子の如し。 天日こゝに見えず、 光明の口にはあれど、 煤煙の奧に閉さる。 揮發の油、瀝青の波は、 石造の波止場、木製の假橋を洗ひ、 ゆききの船の鋭き汽笛、 霧の奧に恐怖を叫ぶ、 緑色の船の燈はその眼、 大洋と虚空とを眺むらむ。 川岸は荷車の轣轆に震ひ、 芥車、蝶番の如く軋り、 鐵の權衡は角なる影を落して、 忽ちこれを地下室の底に投ず。 鐵橋ありて、中央に割れて開けば、 帆檣の森に立つすさまじき絞臺の姿。 また中天に銅の文字、 長大にして屋根を越え、 壁を越え、軒蛇腹を越え、 對立して宛も戰場の觀あり。 かなたには馬車動き、荷車過ぎ、 汽車は走り、努力は飛ぶ、 皆停車場に向ふ。見よ、金色の欄干、 處々に連りて泊てたる船の如し。 鐵路また枝線を廣げて軌道地下に入り、 隧道を洞穴を潛行すれば、 忽ち歴々たる光明の網變じて、 沙塵と騷擾との中に現はる。 即ちこれ觸手ある大都會。 見よ、この市街を。──人波は大綱の如く、 大厦高樓のめぐりに絡はるなか、 道は遠長く紆りて、見えつ隱れつ、 解し難くうち雜りたる群集の、 手振狂ほしく足並亂れ、 眼には憎の色を湛へて、 駈拔く「時」をやらじとばかり、齒にて引留む。 さる程に朝より夕をかけて、夕暮が夜になりても、 騷擾と喧囂と憂愁の中に立ち、 「偶發」の方にむかひて人が播く勞作の辛苦の種も、 「時」すぐに奪ひて去るをいかにせむ。 ここに暗憺として薄暗き帳場、 瞟眼にして疑の念深き事務室、 また銀行も狂亂大衆の風の音に、 はたと戸を閉づ。 戸外には天鵞絨のぬめりの光、 赤く曇りて襤褸布の燃ゆるが如く、 點燈の柱柱に退りゆく。 生活は酒精の波に醗酵せり。 人道にむかひて開く酒場こそは、 爭鬪爛醉の影を映す 鏡明るき殿堂ならずや。 壁に背をもたせつつ、 燐寸箱を賣る盲人もあり。 一つの穴に落ち合へる酒色と饑餓との民もあり。 肉の惱みの相尅が、 小路に跳りかつ消ゆる其聲黒し。 かくて怒號の叫つぎつぎに高まさりて、 憤怒の聲、暴風となれば、 金色と憐光の快樂を追ふに、 眼も眩みてか、人皆は互に蹂みあふ。 近づくは女人か、はた蒼顏の傀儡か、 異性の徴は髮の毛にのみめだちぬ。 かかるとき、偶偶に煤けたる赤黒き空氣の幕が、 日をさかり卷れあがれば、 光を仰ぐ大衆の 大叫喚の海潮音、 廣場に、旅館に、市場に、住居に、 とよもし呻る聲強く、 垂死の人も安んじて、 今際の時を送り得ず。 晝既に斯の如きを──、夕暮が 黒檀の槌をもて天空を彫りきざむ時、 をちかたの都會の光、平原を領する顏に、 巨大なる夜の間の望の如し。 そそりたつ此大都會、如法、樂欲と光華と游狎となり。 光明は闌干として天雲のあなたに流れ、 千萬の瓦斯の燈は金光の林の如く、 鐵路、軌道を投げて憚ることなく、 佯の幸福を追へば、 富貴と勢力とこれに伴ふ。 城壁のしるく見ゆるは大軍の屯するに似て、 またもたちのぼる煤煙は、 田野を招く劉喨たる角の聲。 これ即ち觸手ある大都會、 貪婪の蛸に比すべし、骨堂なり。 威力ある屍なり。 かくて諸の路ここよりして遙に かの都會にむかふ。 思想 驕慢の都、その宿命に驅らるる上を、 眼にはみえねども儼然として、 悲よりも高く、悦よりも高く、 生生として思想は領す。 沈靜なる勢力と熱意との世のはじめ、 精神の炬火もえいでしよりこのかた、 人間の頭腦に入りまじりて、 黄金の迷宮に これを包みしは思想、 光芒これが爲に更にまさりぬ。 かくて思想の力ますます強く、 人間の恐怖と熱望と批判とを統治し、 心情と生氣とを動かし、 有情と非情とを眺めて、 宛もその常に閉さざる眶の下、 無限の眼は開きたるに似たり。 かくて思想は廣大の物界に震動して、 大方の世界に火焔の環をめぐらせり、 いづれかはじめの光なるを知らず。 されど天空に常見ゆるその金光を仰ぎみれば、 人は自己の光よりこれらを生みし事を忘れ、 さすがにこれらの光華に醉ひて、一日、神を造りぬ。 けふもなほこの光、久遠に亘る如し、 されど之を養ふに力と美とを缺きたり、 常に靜まらず、とこしへに新なる 現實の血なくんば久しくは保たじ、 われら今常に之を濺ぐ。 一世の思想家は其心ますます明にして精なる可し。 生命の高貴なる工人として、 額は輝き心は跳り、 新しき光もて忽ち頭腦を照せる、 光明をこそ驅使すべく、 征服の途にその歩調ますます勇ましく、 悠久たる覆載の下、人こそは至上なれと 自らの高貴なるに感ずるならむ。 廣遠にして豐富なる哉、めもはるに、 華さきわたる大思想よ。 世界 世界は星と人とより成る。 空高く、 とこしへに無聲なるいつの時より、 空高く、 奧深くして風荒るる天上のいづこの庭に、 空高く、 いづれの太陽を央にして、 ものに譬ふれば 火焔の蜂の巣をさながらに、 勢力彌漫したる虚空の大壯觀中、 幾千萬の不可思議にして壯烈なる 星の巣立は飛散す。 星ありき、何の世とは知らねど、蜜蜂の如く、 これら衆星をまき散しぬ。 これ、今、金色の精氣の中、 花に、籬に、園生の上に飛びかひて、 夜は輝き、晝は隱るる 久遠の天の運行に、 往きつ、離りつ、はた戻りつ、とこしへに囘轉す、 母なる星のめぐりを。 嗚呼熾烈なる光明の、狂へる如き大旋轉よ。 白色の大靜寂、これを領す。 うまれの火爐を中心に、狂ひつ、とどろきつ、 𢌞轉する金色の天體は、宇宙の則に從ふなり。 嗚呼大法に從ひて、而も無邊なる大群飛よ。 焔の落葉か、燃え上る草むらか、 更に更に遠く進み、更に更に高く跳り、 發生し、死滅し、はた増殖して、 輝くもの、燃ゆるもの、 さながら似たり、 寶冠のおもてを飾る珠の光に。 かくて地球も其昔、いつとは知らず在天の 大寶冠より滴りたる夜光の玉のひとひかり。 緩慢にして遲鈍なる寒氣、鉛の色の濕りたる空氣は この炎々として猛烈なる火氣を靜めて、 大洋の水、まづ其面を曇らせ、 山岳、つぎに其氷りたる脊椎を擡げ、 森林は、底土の下より動るぎ出で、 朱に染みて骨々しき猛獸の怒號、爭鬪に戰き、 天災、東より西へ流れて、 大陸は作られ、また滅びぬ。 かしこ、旋風の怒をなして渦卷くところ、 狂瀾怒濤の上、岬はつきいでぬ。 突進し、震蕩し、顛覆する天地の苦鬪、 漸くにして其狂亂を收むるや、 影と爭との幾千年後、 徐ろに人は宇宙の鏡に顯はる。 彼はじめより主たり、 忽然として 其上半身を直立し、其額を上げ、 萬物の主たりと名乘る、かくて其祖より離れぬ。 晝あり夜あるこの地球は、 はるばると限なく 東西にひろがり、 はじめの思想、はじめの飛躍は、 人間の 至上なる腦の奧より 日の下にあらはれぬ。 嗚呼、思想よ、 恐ろしき飛躍なる哉、火焔の散らふに似たり。 其爭ふや赤く、其和するや緑に、 天上の星光、雲を破る如く、 はてしらぬ原にかがやき、 火の如くなりて虚空に轉じ、 山を攀ぢ、川を照らし、 新光明を隈なく放ちぬ、 海より海へと、靜寂の邦の上に。 されどこの金色の喧囂の中、 いつも空にある如く、今も空にある如き 大諧音の終に起らむを望みて、 さながら 日輪の如く、 あらはれ、のぼるものは、 此世の民の中より出づる 天才なり。 火焔の心を有し、蜜の唇を有して、 天才は事も無げに、「道」を語りぬ。 苦悶の闇に迷ふ凡百のともがら、 皆この大思想の巣にかへり來て、 切なる求道、狂ほしき疑惑の 滿干の波はひたせども、 此突如たる光明に影も停まりつ、 萬の物質に新しき震動は傳り、 水も、森も、山岳も、山風に、濱風に、 身の輕きをおぼえて、 波自から跳り、枝自から飛びて、 白き泉の接吻に岩も動きぬ。 萬物其基よりして革りぬ。 眞と善と、愛と美と醜と、 水火が作る微妙なる結合は、 宇宙の精神の經緯となりて、 愛する物が織りなせる世のすべては、 終に天上の則に從つて生く。 世界は星と人とより成る。 俊傑 「智慧」は山嶽の中腹に坐して、 山川の白波 左に折れ、 右に外れ、 谷間の岩を縫ひつ、絡ひつ、 流るるを見て、 分別らしき眼差に、不安の色を浮べたれど、 井然たる山下の村落に、 軛に繋がれたる牛馬の 列も亂さず、靜かに勞作に向ふを見ては、 「智慧」の腦中に築かれたる宮殿に、 炬火の焔、沈として、平安は復り來りぬ。 平靜なる山川の景に、何の變化も無し。 人もし仰いで高きを望まば、 「智慧」は徐ろに手を擧げて、 著るき山路を指すを知らむ。 唯ひとりかの炎々たる熱望を抱きて、 一たび昇るとも、又更に高く昇らむとする人、 かの金色の眩暈を避け難き人は、 其精神の聲のみを聞きて、毫も他を聞かず。 其大飛躍に足代となるものは喜悦なり、 危きを冒し、難きに就く沈痛の喜悦なり。 飄逸にして且活躍を好む其心は、 大風の黒き喇叭のいと微かなる音をだに逸せず。 斯る人は人生の戰鬪を一の祝祭とす、 そこには人、群を成して行かず、ひとり行くを悦ぶ。 眼もくらむ深雪の光、 白妙の劍が峰を被ふ葬衣、 かじかむ指を噛み、張りつむる胸を毟る。 大風の擦子、極寒の萬力、 岩より岩へ轉ずる雪なだれ、 是等のものも終に止めえじ、 かの肅々として頑強に巓を極めむとする歩を。 しかすがに樂しきは谷底の命かな。 人の姿、人の聲、 藺を席とし、日光を敷石としたる室、 砂石の甕、木づくりの古椅子。 週の日はすべて 勞作と辛苦との淺黒き藪に暮しつ。 日曜のたび毎に 紅白の花をかざして、 朝には御堂の鐘の聲を聽く。 夕されば、少女の姿、つねよりも艶めきて、 口ふるれば、耻らひて身は竦めども、 かたくなに否むとに非らず、忽ちに諾なふもよし。 されど、かの絶壁の細道をたどりて 徐ろにのぼりゆく人々は、 喜悦に醉ひ、未來に醉ひ、 人里を思ひ出づる歌聲に耳をも假さず、 孤獨なるその振舞を世の人の顧みずとも何かあらむ、 天に向ひ、無限に向ひ、今開く此戸よりして、 後の世は擧りて必らず續かむと、 わが夢の終をも問はず、 巓の金の照しと白雪と蹈み轟かし、 いや高き光を、空に仰ぎつつ、 築き上げたる熱望と意志との巖。 フェルナン・グレエグ われは生きたり われは命の渦卷の中にあり…… 弱し、顫へたり、蒼ざめたり、不安なり、苛苛し。 悔に、願に、祈に、 思出に、望に、欲に滿ちたり…… われとわが求むる所を知らず、 われとわが誰なるをも知らず、 散亂し、變化し、樣樣に分裂したるを感ず。 幸なるか、知らず、唯、 われは生きたり。 われは愛す、何とは無しに愛す。 われは戰慄す、魅られたる人の如くに恐る。 わが愛するは眤さはる温柔の黒き眼にして、 嬉しげに、優しげに、かはるがはる麗はしく、 閉づれば長く曳く睫の影、 見開いたる時の愛らしさ。 わが愛するは清き唇、香よき唇、 煙の如く纖やかに吹きまよふ丈長の髮、 珠ひとつ、にこやかに笑む細き指なり。 しかもわれ何故に愛するかを、 また何故に愛せられたるかを究めず、唯、 われは愛す。 われは榮譽を欲す、而も知らず、 果して之を欲するか否かを。 われは思考す、而して其思想を 定かならぬ恐懼の語に述ぶ。 ここのわが額の中に詩ありと感ずれど、 後々に生き殘るべき詩なるか、否か、知る由なし、 唯之を敍ぶれば、心昂り、思樂し。 この聲抑ふ可からず。 われは詩人なるか、知らず、唯、 われは歌ふ。 われは生きて萬物の中を行く。 善か、惡か、知らず、 そは屡々萬物に眤さはれ、 また屡々傷つけらるればなり。 われは愛す、冬も、夏も、絲杉も、薔薇も、 色青き大山、鈍色の名無の阜、 大海の轟、巴里の轟も…… 善か、惡か、知らず、唯、 われは生き、われは行き、われは萬物を愛す。 われまた男女の間を行く。 額の下に、眼の中に、その魂を見てあれば、 巣立に散り行くおもしろさ。 世は影の鳥、火の鳥の飛び去る如く、 われ高山に昇りて、その過ぐるを眺む…… 男はわれを害し、女はただ泣けども、 われはその男女を愛す。 われは生きたり。 ──かくて、われは死なむ。後にか、遙後にか、はた今直にか、 知らず、 けだし、わが行く處は、 あなたの、あなたの知らぬ國、 勇んで窓を飛び出づる鳥の如く、 あなたの、あなたの知らぬ國へ行きて 神の光に甦へらむ。否、 知らず。 或はわが行きて長久の眠に朽ち果つる所は、 地下の數尺、 草木も、天も、懷かしきかの眼もあらぬ 忌はしき闇の世界か。 しかはあれど、われは命の熱き味を知る。 このわが小さき瞳にも ただ稻妻の束の間に 久遠にわたる光明は映りたらずや、 われも亦聖なる宴に列りて、わが歡樂は飮みほしぬ、 また何の望かあらむ。 われは生きたり。 ──かくてわれは死なむ。 ポオル・フォオル 兩替橋  ポン・トオ・シァンジュ、花市の晩。風のまにまに、ふはふはと、夏水仙のにほひ、土の匂、あすはマリヤのお祭の宵宮にあたる賑やかさ。西の雲間に、河岸並に、金の入日がぱつとして、群集の上に、淡紅の光の波のてりかへし。今シァアトレエの廣場には、人の出さかり、馬車が跳れば電車が滑る。辻の庭から打水の繁吹の霧がたちのぼり、風情くははるサン・ジァック、塔の姿が見榮する……風のまにまに、ふはふはと、夏水仙の匂、土のにほひ。……その風薫る橋の上、ゆきつ、もどりつ、人波のなかに交つて見てゐると、撫子の花、薔薇の花、欄干に溢れ、人道のそとまで、瀧と溢れ出る。花はゆかしや、行く人の裾に卷きつく、足へも絡む、道ゆく車の輪に絡む。  角のパレエの大時鐘、七時を打つた──都の上に、金無垢の湖水と見える西の空、雲重つてどことなく、雷のけしきの東の空。風の飜が蒸暑く、呼吸の出入も苦しいと……ひとしほマノンの戀しさに、ほつと溜息二度ついた……風の飜が蒸暑く、踏まれた花の香が高い……見渡せば、入日華やぐポン・ヌウフ、橋の眼鏡の下を行く濃い紫の水の色、みるに心が結ぼれて──えい、かうまでも思ふのに、さても情ないマノンよと、恨む途端に、ごろ、ごろ、ごろ、遠くで雷が鳴りだして、風の飜が蒸暑い。  植木鉢、草花、花束、植木棚、その間を靜かに流れるは、艶消の金の光を映しつつ、入日の運を悲んで、西へ伴ふセエヌ川、紫色の波長く恨をひいてこの流、手摺から散る花びらをいづこの岸へ寄せるやら。夕日は低く惱ましく、わかれの光悲しげに、河岸を左右のセエヌ川、川一杯を抱きしめて、咽んで搖る漣に熱い動悸を見せてゐる。……われもあまりの悲しさに河岸の手摺に身をもたせたが……花のかをりの夜の風、かへつてふさぎの種となり、つれないマノンを思ひだす。  あれ、ルウヴルの屋根の上、望の色の天のおく、ちろりちろりとひとつ星。おお、それ、マノンの歌にも聞いた。「あれこそなさけのひとつ星、空には、めうとも、こひびとも、心變りのないものか。」涙ながらに、金星を仰いで見れば、寶石の光のやうにきらめくが、憎らしいぞや、雲めが隱す、折角樂しい昨日は夢、せつない今日が現かと、つい煩惱も生じるが、世の戀人の身の上を何で雲めが思ふであらう。……もう、もう、そんな愚痴はやめ……星も出よ、あらしも吹けよ、唯ひとすぢに、あの人を思ふわが身には、どうでもよい。ある日マノンの歌ふには「移ろひやすい人心」。そこでこちらも早速に「君が色香もかんばせも」と鸚鵡返をしておいた。したが、あらしに打たれる花は、さぞ色褪せることだらう。……ぴかりと稻妻はたたがみ、はつとばかりに氣がついた。  雨こそは、さても眞面目に、しつとりと人の氣分を落ちつかせ、石の心も浮きあげて冷たい光を投げかける。雨よ、この燃える思を冷やかに、亂れた胸を平らかに、このさし伸べた熱の手を凉しいやうにひやせかし。おゝ、ぽつりぽつりやつて來た。……あゝ、さつとひと雨……おや、もう月の出か。さては村雨の通つたのか。何となく明るいぞ。風のまにまにふはふはと、撫子が匂ふ、夏水仙が匂ふ、薔薇が匂ふ、土が匂ふ。ルウヴル宮の屋根の上、なさけの星も傾いた。どれこの花束を買ひませう。おやおや氣でもちがつたか。そして心で笑ひつつ、薔薇の花束ひと抱、さきの口説もどこへやら、マノンのとこへ飛んで行く。 このをとめ このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。 ひとこれを葬りぬ、葬りぬ、あけがたに。 寂しくも唯ひとり、唯ひとり、きのままに、 棺のうち、唯ひとり、唯ひとり、のこしきて、 朝まだき、はなやかに、はなやかに、うちつれて、 歌ふやう「時くれば、時くれば、ゆくみちぞ、 このをとめ、みまかりぬ、みまかりぬ、戀やみに。」 かくてみな、けふもまた、けふもまた、野に出でぬ。 別離 せめてなごりのくちづけを濱へ出てみて送りませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、くちづけなんぞは吹きはらふ。 せめてわかれのしるしにと、この手拭をふりませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、手拭なんぞは飛んでしまふ。 せめて船出のその日には、涙ながして、おくりませう。 いや、いや、濱風、むかひ風、涙なんぞは干てしまふ。 えい、そんなら、いつも、いつまでも、思ひつづけて忘れまい。 おゝ、それでこそお前だ、それでこそお前だ。 小歌  木立生ひ繁る阜は、岸まで下りて、靜かな水の中へつづく。薄暗い水の半は緑葉を、まつ青なまたの半は中空の雲をゆすぶる。  ここを通るは白雲の眞珠船、ついそのさきを滑りゆく水枝の筏……それ、眼の下に堰の波、渦卷く靄のその中に、船も筏もあらばこそ。  われらが夢の姿かな。船は碎け、筏は崩れ、帆はあれど、めあてなく、波のまにまに、影の夢、青い夢、堰に裂け、波に散り、あともない。  木立生ひ繁る阜は岸までつづく。向の岸の野原には今一面の花ざかり、中空の雲一ぱいに白い光が掠めゆく……ああ、また別の影が來て、うつるかと見て消えるのか。 夏の夜  蟋蟀が鳴く夏の夜の青空のもと、神、佛蘭西の上に星の盃をそそぐ。風は脣に夏の夜の味を傳ふ。銀砂子ひかり凉しき空の爲、われは盃をあげむとす。  夜の風は盃の冷き縁に似たり。半眼になりて、口なめずりて飮み干さむかな、石榴の果の汁を吸ふやうに滿天の星の凉しさを。  晝間の暑き日の熱のほてり、未だに消えやらぬ牧の草間に横はり、あゝこの夕のみほさむ、空が漂ふ青色のこの大盃を。 ギイ・シャルル・クロオ 窓にもたれて 夜の紫の肩巾が ふはりと地の肩の上に滑り落ちる 黄昏の窓にもたれて 今夜もまた空の悲劇を見はじめると、 雲はけふどこへいつたか、 いつもの逢引にかげもみせない。 西方一面に和ぎわたり、 光いつとなく白んで薄れて、 さながら、あまりに脆く美しい花束が ちよいとのことにこぼれ散るやうだ。 夕影はいま山あひの虚の窪まで及んだが、 むかうの阜は入日のはての光を浴びて、 あのカナアンの國よりもなほ遠い 神の誓の郷のやうに照りわたる。 温柔の氣、水の如く中天に流れ跳つて、 一分一分の嬌めいて滑りゆくには、 つい、ぼんやりと、恍惚して了ふところを、 これではならぬと、やつとこさ、 胸の思をなだめて眠かす、 心いきの小歌もくひとめた。 おや、うしろの方でらんぷがつく。 見よ、大空の奧深く、 千萬年も倦んぜずに、また、こよひ、 ちろり、ちろりと見える、聞える、 色の數々顫はせた、星の光の節まはし。 譫語 新しき美をわれは求める。 墓の上に遠慮無く舞踏するわれらだ。 爾等はモツァルト、ラファエルを守れ、 ベエトホヹン、シェイクスピア、マルク・オオレルを守れ、 われらは敢て異端の道を擇ぶ。 爾等の旌に敬禮しようや。 もし古の俊傑が復活するとならば、 このわが身中に、このわが血液に甦るべし。 爾等の見窄らしい繪馬の前に、 なんでこの身が、額づき祈らう。 むしろ、われは大風の中を濶歩して、 轟き騷ぐ胸を勵まし、 鶫鳴く葡萄園に導きたい。 沖の汐風に胸ひらくとも、 葡萄の酒に醉はうとも、何のその。 古書に傍註して之を汚す者よ、 額づき拜せ、われは神だ。 われ敢て墓の上に舞踏して憚らぬ所以のものは、 全世界の美、われにとりては、 朝毎、朝毎に、新しいからだ。 世間のある人人には…… 世間のある人々には、その日々の消光が ひとりで牌を打つパシアンスの遊の如く、 またはすつかり覺えこんだ日課を 夢うつゝで譫語に言ふ如く、 またはカフェエに相變らずの顏觸と 薄ぎたない歌留多札を弄ぶやうだ。 ある人々には、一體、生はごく手輕な 造作も無い尋常一樣の事で、 手紙を書いたり、一寸は「あそび」もしたり、 とにかく「用事」は濟せてゆく。 してその翌日も同じ事を繰返して、 昨日に異らぬ慣例に從へばよい。 即ち荒つぽい大きな歡樂を避けてさへゐれば、 自然また大きな悲哀もやつて來ないのだ。 ゆくてを塞ぐ邪魔な石を 蟾蜍は𢌞つて通る。 しかし、君、もし本當に生きてゐたいなら、 其日其日に新しい力を出して、 荒れ狂ふ生、鼻息強く跳ね躍る生、 御せられまいとする生にうち克たねばならぬ。 一刻も息む間の無い奇蹟を行つてこそ 亂れそそげたこの鬣、 汗ばみ跳むこの脇腹、 湯氣を立てたるこの鼻頭は自由に出來る。 君よ、君の生は愛の一念であれ、 心殘の銹も無く、 後悔の銹も無く、 鋼鐵の清い光に耀け。 君が心はいつまでも望と同じく雄大に、 神の授の松明を吝むな。 塞ぎがちなる肉身から雄々しい聲を噴上げよ、 苦痛にすべてうち任せたその肉身から、 從容として死の許嫁たる肉身から叫べ。 寶玉は鑛石を破つて光る。 レミ・ドゥ・グルモン 髮 シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には よほどの不思議が籠つてゐる。 そなたは乾草の匂がする。牛なぞの ながく眠てゐた石の匂がする。 鞣皮の匂がするかと思へば、 麥を箕に煽りわける時の匂もする。 また森の匂もするやうだ。 朝配ばつて來る麺包の匂もする。 廢園の石垣にそつて亂れ咲く 草花の匂もする。 懸鉤子の匂もするやうだし、 雨に洗はれた蔦の匂もする。 日が暮れてから苅りとつた 羊齒の匂、藺の匂がする。 柊の匂、苔の匂、 垣根の下に實が割れた朽葉色の 萎れた雜草の匂がする。 蕁麻の匂、金雀花の匂がして、 和蘭陀げんげの匂もして、乳の匂がする。 黒穗草の匂、茴香の匂、 胡桃の匂がする、またよく熟れて 摘みとつた果物の匂がする。 柳や菩提樹が瓣の多い 花を咲かせるときの匂がする。 蜂蜜の匂もする。牧の草原に さまよふ生物の匂がする。 土の匂、川の匂、 愛の匂、火の匂がする。 シモオヌよ、そなたの髮の毛の森には よほどの不思議が籠つてゐる。 雪 シモオヌよ、雪はそなたの頸のやうに白い、 シモオヌよ、雪はそなたの膝のやうに白い。 シモオヌよ、そなたの手は雪のやうに冷たい、 シモオヌよ、そなたの心は雪のやうに冷たい。 雪は火のくちづけにふれて溶ける、 そなたの心はわかれのくちづけに溶ける。 雪は松が枝の上につもつて悲しい、 そなたの額は栗色の髮の下に悲しい。 シモオヌよ、雪はそなたの妹、中庭に眠てゐる。 シモオヌよ、われはそなたを雪よ、戀よと思つてゐる。 柊冬青 シモオヌよ、柊冬青に日が照つて、 四月は遊にやつて來た。 肩の籠からあふれる花を、 茨に柳に橡の樹に、 小川や溝や淺沼の 汀の草にもわけてやる。 水の上には黄水仙、 森のはづれへ日々花、 素足もかまはず踏み込んで、 棘のひかげへすみれぐさ、 原一面に雛菊や 鈴を頸環の櫻草、 森の木の間にきみかげ草、 その細路へおきなぐさ、 人家の軒へあやめぐさ、 さてシモオヌよ、わが庭の 春の花には苧環、遊蝶花、 唐水仙、匂の高い阿羅世伊止宇。 薔薇連祷  僞善の花よ、  無言の花よ。  銅色の薔薇の花、人間の歡よりもなほ頼み難い銅色の薔薇の花、おまへの僞多い匂を移しておくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  うかれ女のやうに化粧した薔薇の花、遊女の心を有つた薔薇の花、綺麗に顏を塗つた薔薇の花、情深さうな容子をしておみせ、僞善の花よ、無言の花よ。  あどけ無い頬の薔薇の花、末は變心をしさうな少女、あどけ無い頬に無邪氣な紅い色をみせた薔薇の花、ぱつちりした眼の罠をお張り、僞善の花よ、無言の花よ。  眼の黒い薔薇の花、おまへの死の鏡のやうな眼の黒い薔薇の花、不思議といふ事を思はせておくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  純金色の薔薇の花、理想の寶函ともいふべき純金色の薔薇の花、おまへのお腹の鑰をおくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  銀色の薔薇の花、人間の夢の香爐にも譬ふべき薔薇の花、吾等の心臟を取つて煙にしてお了ひ、僞善の花よ、無言の花よ。  女同志の愛を思はせる眼付の薔薇の花よ、百合の花よりも白くて、女同志の愛を思はせる眼付の薔薇の花、處女に見せかけてゐるおまへの匂をおくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  茜さす額の薔薇の花、蔑まれた女の憤怒、茜さす額の薔薇の花、おまへの驕慢の祕密をお話し、僞善の花よ、無言の花よ。  黄ばんだ象牙の額の薔薇の花、自分で自分を愛してゐる黄ばんだ象牙の額の薔薇の花、處女の夜の祕密をお話し、僞善の花よ、無言の花よ。  血汐の色の唇の薔薇の花、肉を食ふ血汐の色の唇の薔薇の花、おまへに血を所望されたら、はて何としよう、さあ、お飮み、僞善の花よ、無言の花よ。  硫黄の色の薔薇の花、煩惱の地獄ともいふべき硫黄の色の薔薇の花、魂となり焔となり、おまへが上に舞つてゐるその薪に火をおつけ、僞善の花よ、無言の花よ。  桃の實の色の薔薇の花、紅粉の粧でつるつるした果物のやうな、桃の實の色の薔薇の花、いかにも狡さうな薔薇の花、吾等の齒に毒をお塗り、僞善の花よ、無言の花よ。  肉色の薔薇の花、慈悲の女神のやうに肉色の薔薇の花、若々してゐて味の無いおまへの肌の悲みに、この口を觸らせておくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  葡萄のやうな薔薇の花、窖と酒室の花である葡萄のやうな薔薇の花、狂氣の亞爾箇保兒がおまへの息に跳ねてゐる、愛の狂亂を吹つかけておくれ、僞善の花よ、無言の花よ。  菫色の薔薇の花、曲けた小娘の淑やかさが見える黄色の薔薇の花、おまへの眼は他よりも大きい、僞善の花よ、無言の花よ。  淡紅色の薔薇の花、亂心地の少女にみたてる淡紅色の薔薇の花、綿紗の袍とも、天の使ともみえる拵へもののその翼を廣げてごらん、僞善の花よ、無言の花よ。  紙細工の薔薇の花、この世にあるまじき美を巧にも作り上げた紙細工の薔薇の花、もしや本當の花でないかえ、僞善の花よ、無言の花よ。  曙色の薔薇の花、「時」の色「無」の色を浮べて、獅身女面獸の微笑を思はせる暗色の薔薇の花、虚無に向つて開いた笑顏、その嘘つきの所が今に好きになりさうだ、僞善の花よ、無言の花よ。  紫陽花色の薔薇の花、品の良い、心の平凡な樂ともいふべく、新基督教風の薔薇の花、紫陽花色の薔薇の花、おまへを見るとイエスさまも厭になる、僞善の花よ、無言の花よ。  佛桑花色の薔薇の花、優しくも色の褪めたところが返咲の女の不思議な愛のやうな佛桑花色の薔薇の花、おまへの刺には斑があつて、おまへの爪は隱れてゐる、その天鵞絨の足先よ、僞善の花よ、無言の花よ。  亞麻色の薔薇の花、華車な撫肩にひつかけた格魯謨色の輕い塵除のやうな亞麻色の牡よりも強い牝と見える、僞善の花よ、無言の花よ。  香橙色の薔薇の花、物語に傳はつた威尼知亞女、姫御前よ、妃よ、香橙色の薔薇の花、おまへの葉陰の綾絹に、虎の顎が眠てゐるやうだ、僞善の花よ、無言の花よ。  杏色の薔薇の花、おまへの愛はのろい火で温まる杏色の薔薇の花よ、菓子をとろとろ煮てゐる火皿がおまへの心だ、僞善の花よ、無言の花よ。  盃形の薔薇の花、口をつけて飮みにかかると、齒の根が浮出す盃形の薔薇の花、噛まれて莞爾、吸はれて泣きだす、僞善の花よ、無言の花よ。  眞白な薔薇の花、乳色で、無邪氣で眞白な薔薇の花、あまりの潔白には人も驚く、僞善の花よ、無言の花よ。  藁色の薔薇の花、稜鏡の生硬な色にたち雜つた黄ばんだ金剛石のやうに藁色の薔薇の花、扇のかげで心と心とをひしと合せて、芒の匂をかいでゐる僞善の花よ、無言の花よ。  麥色の薔薇の花、括の弛んだ重い小束の麥色の薔薇の花、柔くなりさうでもあり、硬くもなりたさうである、僞善の花よ、無言の花よ。  藤色の薔薇の花、決着の惡い藤色の薔薇の花、波にあたつて枯れ凋んだが、その酸化した肌をばなるたけ高く賣らうとしてゐる、僞善の花よ、無言の花よ。  深紅の色の薔薇の花、秋の夕日の豪奢やかさを思はせる深紅の色の薔薇の花、まだ世心のつかないのに欲を貪る者の爲添伏をして身を任す貴い供物、僞善の花よ、無言の花よ。  大理石色の薔薇の花、紅く、また淡紅に熟して今にも溶けさうな大理石色の薔薇の花、おまへは極内證で花瓣の裏をみせてくれる、僞善の花よ、無言の花よ。  唐金色の薔薇の花、天日に乾いた捏粉、唐金色の薔薇の花、どんなに利れる投槍も、おまへの肌に當つては齒も鈍る、僞善の花よ、無言の花よ。  焔の色の薔薇の花、強情な肉を溶かす特製の坩堝、焔の色の薔薇の花、老耄した黨員の用心、僞善の花よ、無言の花よ。  肉色の薔薇の花、さも丈夫らしい、間の拔けた薔薇の花、肉色の薔薇の花、おまへは、わたしたちに紅い弱い葡萄酒を注けて誘惑する、僞善の花よ、無言の花よ。  玉蟲染の天鵞絨のやうな薔薇の花、紅と黄の品格があつて、人の長たる雅致がある玉蟲染の天鵞絨のやうな薔薇の花、成上の姫たちが着る胴着、似而非道徳家もはおりさうな衣服、僞善の花よ、無言の花よ。  櫻綾子のやうな薔薇の花、勝ち誇つた唇の結構な氣の廣さ、櫻綾子のやうな薔薇の花、光り輝くおまへの口は、わたしどもの肌の上、その迷景の赤い封印を押してくれる、僞善の花よ、無言の花よ。  乙女心の薔薇の花、ああ、まだ口もきかれぬぼんやりした薄紅い生娘、乙女心の薔薇の花、まだおまへには話がなからう、僞善の花よ、無言の花よ。  苺の色の薔薇の花、可笑しな罪の恥と赤面、苺の色の薔薇の花、おまへの上衣を、ひとが揉みくちやにした、僞善の花よ、無言の花よ。  夕暮色の薔薇の花、愁に半死んでゐる、噫たそがれ刻の霧、夕暮色の薔薇の花、ぐつたりした手に接吻しながら、おまへは戀死でもしさうだ、僞善の花よ、無言の花よ。  水色の薔薇の花、虹色の薔薇の花、怪獸の眼に浮ぶあやしい色、水色の薔薇の花、おまへの瞼を少しおあげ、怪獸よ、おまへは面と向つて、ぢつと眼と眼と合せるのが恐いのか、僞善の花よ、無言の花よ。  草色の薔薇の花、海の色の薔薇の花、ああ海のあやしい妖女の臍、草色の薔薇の花、波に漂ふ不思議な珠玉、指が一寸觸ると、おまへは唯の水になつてしまふ、僞善の花よ、無言の花よ。  紅玉のやうな薔薇の花、顏の黒ずんだ額に咲く薔薇の花、紅玉のやうな薔薇の花、おまへは帶の締緒の玉にすぎない、僞善の花よ、無言の花よ。  朱の色の薔薇の花、羊守る娘が、戀に惱んで畠に眠てゐる姿、羊牧はゆきずりに匂を吸ふ、山羊はおまへに觸つてゆく、僞善の花よ、無言の花よ。  墓場の薔薇の花、屍體から出た若い命、墓場の薔薇の花、おまへはいかにも可愛らしい、薄紅い、さうして美しい爛壞の薫神神しく、まるで生きてゐるやうだ、僞善の花よ、無言の花よ。  褐色の薔薇の花、陰鬱な桃花心木の色、褐色の薔薇の花、免許の快樂、世智、用心、先見、おまへは、ひとの惡さうな眼つきをしてゐる、僞善の花よ、無言の花よ。  雛罌粟色の薔薇の花、雛形娘の飾紐、雛罌粟色の薔薇の花、小さい人形のやうに立派なので兄弟の玩弄になつてゐる、おまへは全體愚なのか、狡いのか、僞善の花よ、無言の花よ。  赤くてまた黒い薔薇の花、いやに矜つて物隱しする薔薇の花、赤くてまた黒い薔薇の花、おまへの矜りも、赤味も、道徳が拵へる妥協の爲に白つちやけて了つた、僞善の花よ、無言の花よ。  鈴蘭のやうな薔薇の花、アカデエモスの庭に咲く夾竹桃に絡んだ旋花、極樂の園にも亂れ咲くだらう、噫、鈴蘭のやうな薔薇の花、おまへは香も色もなく、洒落た心意氣も無い、年端もゆかぬ花だ、僞善の花よ、無言の花よ。  罌粟色の薔薇の花、藥局の花、あやしい媚藥を呑んだ時の夢心地、贋の方士が被る頭巾のやうな薄紅い花、罌粟色の薔薇の花、馬鹿者どもの手がおまへの下衣の襞に觸つて顫へることもある、僞善の花よ、無言の花よ。  瓦色の薔薇の花、煙のやうな道徳の鼠繪具、瓦色の薔薇の花、おまへは寂しさうな古びた床机に這ひあがつて、咲き亂れてゐる、夕方の薔薇の花、僞善の花よ、無言の花よ。  牡丹色の薔薇の花、仰山に植木のある花園の愼ましやかな誇、牡丹色の薔薇の花、風がおまへの瓣を飜るのは、ほんの偶然であるのだが、それでもおまへは不滿でないらしい、僞善の花よ、無言の花よ。  雪のやうな薔薇の花、雪の色、白鳥の羽の色、雪のやうな薔薇の花、おまへは雪の脆いことを知つてゐるから、よほど立派な者のほかには、その白鳥の羽を開いてみせない、僞善の花よ、無言の花よ。  玻璃色の薔薇の花、草間に迸る岩清水の色、玻璃色の薔薇の花、おまへの眼を愛したばかりで、ヒュラスは死んだ、僞善の花よ、無言の花よ。  黄玉色の薔薇の花、忘れられてゆく傳説の姫君、黄玉色の薔薇の花、おまへの城塞は旅館となり、おまへの本丸は滅んでゆく、おまへの白い手は曖昧な手振をする、僞善の花よ、無言の花よ。  紅玉色の薔薇の花、轎で練つてゆく印度の姫君、紅玉色の薔薇の花、けだしアケディセリルの妹君であらう、噫衰殘の妹君よ、その血僅に皮に流れてゐる、僞善の花よ、無言の花よ。  莧のやうに紫ばんだ薔薇の花、賢明はフロンド黨の姫君の如く、優雅はプレシウズ連の女王とも謂つべき莧のやうに紫ばんだ薔薇の花、美しい歌を好む姫君、姫が寢室の帷の上に、即興の戀歌を、ひとが置いてゆく、僞善の花よ、無言の花よ。  蛋白石色の薔薇の花、後宮の香烟につつまれて眠む土耳古の皇后、蛋白石色の薔薇の花、絶間無い撫さすりの疲、おまへの心はしたたかに滿足した惡徳の深い安心を知つてゐる、僞善の花よ、無言の花よ。  紫水晶色の薔薇の花、曉方の星、司教のやうな優しさ、紫水晶色の薔薇の花、信心深い柔かな胸の上におまへは寢てゐる、おまへは瑪利亞樣に捧げた寶石だ、噫寶藏の珠玉、僞善の花よ、無言の花よ。  君牧師の衣の色、濃紅色の薔薇の花、羅馬公教會の血の色の薔薇の花、濃紅色の薔薇の花、おまへは愛人の大きな眼を思ひださせる、おまへを襪紐の結目に差すものは一人ばかりではあるまい、僞善の花よ、無言の花よ。  羅馬法皇のやうな薔薇の花、世界を祝福する御手から播き散らし給ふ薔薇の花、羅馬法皇のやうな薔薇の花、その金色の心は銅づくり、その空なる輪の上に、露と結ぶ涙は基督の御歎き、僞善の花よ、無言の花よ、僞善の花よ、無言の花よ。  僞善の花よ。  無言の花よ。 むかしの花  どんなに立派な心よりも、おまへたちの方がわたしは好だ、滅んだ心よ、むかしの心よ。  長壽花、金髮のをとめ、幾人もの清い睫はこれで出來る。  東洋の水仙花、實のならぬ花、道で無い花。  黄金色の金盞花、男の夢に通つてこれと契る魑魅のもの凄い艶やかさ、これはまた惑星にもみえる、或は悲しい「夢」の愁の髮に燃える火。  長壽花、水仙花、金盞花、どんなに明るい色の髮の毛よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ、滅んだ花よ、むかしの花よ。  白百合、處女で死んだ者の、さまよふ魂。  紅百合、身の潔白を失して赤面した花、世心づいた花。  鳶尾草の花、清淨無垢の腕の上に透いて見える脈管の薄い水色、肌身の微笑、新しい大空の清らかさ、朝空のふと映つた細流。  白百合、紅百合、鳶尾草の花、信頼心の足りない若いものたちよりも、おまへたちの方がわたしは好だ、滅んだ花よ、むかしの花よ。  花薄荷、燃えたつ草叢、火焔の臠、火蛇のやうなこの花の魂は黒い涙となつて鈍染んでゐる。  双鸞菊、毒の兜を戴き、鳥の羽根の飾を揷した女軍の勇者。  風鈴草、色つぽい音の鈴、春ここにちりりんと鳴る、榛の樹が作る筋違骨の下に蹲る色よい少女。  花薄荷、双鸞菊、風鈴草、毒の薄い、浮れやうの足りないほかの花よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  牡丹、愛嬌たつぷりの花娘、尤も品は無い、味もない。  匂阿羅世伊止宇、眼に萎えた愁のあるむすめ。  苧環、成人びてゐないのが身上の女學生、短い袴、纖い脚、燕の羽根のやうに動く腕。  牡丹、匂阿羅世伊止宇、苧環の花、女ざかりの姿よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  水剪紅羅、すこし不格好だが、白鳥の頸のやうにむくむくした毧毛がある。  龍膽、太陽の忠やかな戀人。  赤熊百合、王の御座所の天幕の屋根飾、夢を鏤めた笏、埃及王の窮屈な禮服を無理に被せられた古風な女王。  水剪紅羅、龍膽、赤熊百合、本物の女性美よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  櫻草、はつ春の姉娘。  毛莨、貧しいうかれ女の金貨。  鈴蘭、おめかしの好な女、白い喉を見せて歩く蓮葉者の故意とらしいあどけなさ、丸裸の罔象女。  櫻草、毛莨、鈴蘭、愼の足りない接吻よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  茴香、愛の女神の青雲の髮。  野罌粟、戀人に噛まれて血を鈍染ました唇。  黄蜀葵、土耳古皇帝鍾愛の花、麻色に曇つた眼、肌理こまかな婀娜もの──おまへの胸から好い香がする、潔白の氣は露ほどもない香がする。  茴香、野罌粟、黄蜀葵、色々と物言ひかけるよその小花よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  山百合のマルタゴン、何百となく頭を上げて、強い薫を放つ怪物、淺藍色の多頭の大蛇。  山百合のマルタゴン、葡萄色の頭巾を被つてゐる。  山百合のマルタゴン、黄いろい眼をしたマルタゴン、東羅馬の百合の花、澆季皇帝の愛玩、聖像の香。  マルタゴン、鈴なり花のマルタゴン、名指してもいいが、ほかの怪物よりもおまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  猿猴草、さも毒がありさうな白い花。  翁草、吟味して雅びた物言ばかりなさるマダアム・プレシウズ。  オンファロオド、人を蕩す明色の眼をした臍形の花、影を無言に映して見せる奧深い鏡。  猿猴草、翁草、オンファロオド、粉粧が足りない尋常の化生のものよりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  瑠璃草、アンゴラの生れか、手ざはりの快い、柔かい女猫。  紫羅欄花、帽子の帶の縁にさした人柄な前立。  罌粟の花、愛の疲の眠、片田舍の廢園。蓬生の中に、ぐつすり眠るまろ寢姿──靴の音にも眼が醒めぬ。  瑠璃草、紫羅欄花、罌粟の花、どんなに嫖緻の好い子よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  矢車草、まるで火の車。  思草、わたしはおまへを思ひだす──めんとおまへを見るときに。  白粉花、夜中に表を叩くから、雨戸を明けてふと見れば、墓場の上の狐火か、暗闇のなかにおまへの眼が光る。噫、おしろい、おしろい、汚れた夜の白粉花。  矢車草、思草、白粉花、生の眞の美人よりもおまへの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  雛菊、指で隱したおまへのその眼のしをらしさ。  釣舟草、不謹愼の女である、秋波をする、科をする。  莧の花、男なんぞは物ともしない女の帽子の羽根、口元も腰元も溶けるやうだ、おまへの蜜の湖に若い男が溺れ死ぬ。  雛菊、釣舟草、莧の花、もつと眞劍の迷はしよりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  忍冬、うかれて歩く女。  素馨、ゆきずりに袖ふれる女。  濱萵苣、すました女、おまへには道義の匂がする、秤にかけた接吻の智慧もある、樫の箪笥に下着が十二枚、乙な容子の濱萵苣、しかも優しい濱萵苣。  忍冬、素馨、濱萵苣、迷はしの足りないほかの花よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  蛇苺、蘭引で拵へあげた女。  芍藥、腕套に包んだ手で、頻に皮肉を播いてゐる。  雪の下、堅い心も突きとほす執念深い愛、石に立つ矢、どんなに暗い鐵柵の網の中へも入る微笑。  蛇苺、芍藥、雪の下、もつと穩しい隱立よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  ブラテエルといふ花は、所帶染みた世話女房。  モレエヌはラブレエのやうに笑ひのめす花。  水蓼は無情の美人、燒木だ、蘆の篝だ、眼にばかり心が出てゐて、胸は空。  ブラテエル、モレエヌ、水蓼、もつと媚めかしい姿よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  亞米利加の薄荷の花、愛の衰にふりかける胡椒。  鐵線蓮、人の魂に絡む蛇。  留紅草、樽形の花、その底にダナウスの娘たちが落ちてゐさうな花、人間の弱い心臟の血を皆關はずに吸いこむため、おまへの唇には痍がある。  亞米利加の薄荷、鐵線蓮、留紅草、もつと優しい鳩のやうな肉よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。 「十一時の女」といふ花は白い日傘ですらりと立つてゐる。  芥菜の花、おまへの優しい心はみんな歌になつて、なくなつて了ふ。  木犀、可愛い從姉妹の匂、子供の戀、眞味を飾る微笑。 「十一時の女」、芥菜、木犀の花、僞のもつと少ない手足よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。 「聖母の手套」即ち實芰答利斯の花、信心の諸人みなこれに接吻する。  刺罌粟、すきな手の甲の靨。  母子草、すいた人の指にはめた脆い蛋白花、寢室でもつて、月を映してみるつもりか。 「聖母の手套」、刺罌粟、母子草、どんなに眞白な手よりも、おまへたちの方が、わたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  杜若、悲しい松明の強い焔。  菖蒲、女丈夫の血に染まつた凄い短刀。  伊吹虎尾、振りかざす手の怒、空になつた心臟にしがみつく蝮、自害した人。  杜若、菖蒲、伊吹虎尾、どんなに恐しい娘よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。  犬芥、苦痛にほほゑむ尼僧、隱れたる殉教者の光。 「約百の涙」といふ川穀、蒼ざめた瞼の下の涙、暗い頬の上の悲しい眞珠。  紫苑、基督の御最後のおん眼を象るせつない花。  犬芥、「約百の涙」、紫苑、どんなに血の滴れる心よりも、おまへたちの方がわたしは好だ。滅んだ花よ、むかしの花よ。 立木の物語  いろいろの立木よ、押籠になつた心よ。  まづその樹皮を窘んで、そろそろ、おまへたちの祕密を汚してみよう、傷ましいいろいろの心よ、  わたしの悲しい心の悦。  樫の木よ、滅んだ神々に向つて輝きわたる榮光の波、おそろしく大きな足の夷、光と血の岩。  おまへの緑の髮の毛の波は、貝の音が斧の刻を告せると、眞紅に染まる。すぎ來しかたを憶ひだして。  樫の木よ、憎の階、尊い神木、わたしの悲しい心の悦。  色白の腕を伸した椈の木よ、聖母瑪利亞、子持を歎き給ふ禮拜堂、二形の利未僧が重い足で踏み碎いた、あらずもがなの足臺、僧官濫賣の金を容れて、燒焦をこしらへた財嚢、「愛」の神が、嘗てここに人間を愛してみたいと思つた虚の胎内。  おまへの臍の上に、銀の蛇の帶をきりりとお締め、  とはいふものの、また可愛くもある椈の木、不思議の木、わたしの悲しい心の悦。  人間の罪をひとりに引受けた孤獨の老僧と見立てる楡の木よ、祈念を勤める楡の木、潮風はゴモラ人の涙より鹹い。  罪障深いおまへの肌の毛孔を海の風に吹かせて、わたしどもの爲に苦んでおくれ。  鞭索の苦行に身を鍛へた楡の木よ、わたしの悲しい心の悦。  腰もあらはの梣よ、草叢から生へた汚れた夢のやうだ。生の無い影の中に咲きたいといふ狂氣の百合のやうでもある。  惡龍の眼もおまへの清い冷たい肌は通されぬ。  梣よ、色蒼ざめた天竺の赤脚仙、えたいの知れぬ木、わたしの悲しい心の悦。  冷たい肌黒の胡桃の木よ、海草の髮を垂れ、くすんだ緑玉の飾をした女、空の草原の池に浸つて青くなつた念珠、ぼんやりとした愛の咽首を締めてやらうとするばかりの望、よく實を結び損ふ繖形花。  いやに冷つく繖形花、わたしはおまへの陰に寢て、自殺者の聲で眼が醒めた。  冷たい肌黒の胡桃の木よ、わたしの悲しい心の悦。  林檎の木よ、發情期の壓迫で、身の内が熱つて重くなつた爛醉、情の實の房、粒の熟した葡萄の實、寛んだ帶の金具、花を飾つた酒樽、葡萄色の蜂の飮水場。  さも樂しさうな林檎の木よ、昔はおまへの香をかいで悦んだこともある、その時おまへの幹へ、牛が鼻先を擦つてゐた。  花を飾つた酒樽、林檎の木よ、さも樂しさうな木、わたしの悲しい心の悦。  やつと灌木の高さしか無い柊よ、僞善の尻を刺す鑿、愛着の背を刻む鏨、鞭の柄、手燭の取手。  眼を赤くした柊よ、おまへの爪の下に迸る血でもつて兄弟の契を結ばせる藥が出來さうだ。  やつと灌木の高さしか無い柊よ、小さい劊手、わたしの悲しい心の悦。  篠懸の木よ、總大將が乘る親船の帆檣、遠い國の戀に向ふ孕んだ帆──男の篠懸は種子を風に播く石弩の如く、甲を通し腹を刺す──女の篠懸は始終東をばかり氣にしてゐて定業を瞑想する、さうして胚種の通りすがりに、おまへは之を髮に受けとめる、おまへは風と花とを遮らうとして張りつめた網だ。  獨ぼつちの男の木、唯、氣で感應する女の木、不可知の中で一緒になれ。  篠懸の一本木よ、片意地の戀人たちよ、わたしの悲しい心の悦。  白樺よ、蓬生の大海原に浴する女の身震、風がその薄色の髮に戲れると、おまへたちはなにか祕密を守らうとして象牙の戸のやうに脚を合せる。その時この白い女人柱の張切つた背の上に、神々の涙が墮ちて、突き刺された怪獸の痍口から、血の滴れるのがみえる。  それでも、背中や胸を拭いてやるまい、噫木魂精よ、おまへは腕を伸して勝ち誇る夢を捧げてゐる。  名も知られずに悲しげな白樺、處女で通す健氣の木、わたしの悲しい心の悦。  殯宮に通夜をしてゐるやうな赤楊よ、おまへの王樣は崩御になつた、赤楊の民よ、靜かな水底に冠の光を探しても、夜の宴の歌舞の響を求めても、詮ない事になつて了つた、赤楊の王樣、今、禍の方士の鬚である藻草の下、深淵の底に眠つてゐられる、忘却の花は、その眼の窩を貫いて咲いてゐる。  だれかまだ手に力のある者がゐるならば、はやくその花を摘るがよからう。  諒闇の民、赤楊よ、涙に暮れる木、わたしの悲しい心の悦。  垂飾をつけた日傘、花楸樹よ、ジタナ少女の頸にある珊瑚玉、その頸飾と柔肌を巫山戲た雀が來て啄く。  その頸飾は二つある。雀は少女の肩に眠た。  ねんごろに客をもてなす花楸樹、小鳥が毎年當にする降誕祭の飾木よ、わたしの悲しい心の悦。  戀人のやうに顏を赧める秋の櫻の木、その紅いのはおまへの枝にぶら下る心臟の血であらう、この間、通りすがりの人たちに實のおいしいのは食べられて、今は唯情に脆い風の出來心を、紅らんだ葉に待つばかり。  ただ泣いておいで、おまへの琥珀色の涙へ、わたしは指環の印を押してあげる、後の思出の種として。  秋の櫻の木、紅い木よ、親切な木、わたしの悲しい心の悦。  常世の生の常世のざざんざ、傷ましい松の木よ、おまへの歎は甲斐が無い、いくらおまへが死たくても、宇宙の律が許すまい、獨ぼつちで生きてゆくのさ、おまへを厭がる森の中、おまへのふとい溜息を嘲つてゐる森の中で。  死んでゆく身は今ここに敬禮する。  傷ましい木よ、常世の生の常世のざざんざ。わたしの悲しい心の悦。  刺槐よ、好い匂がして、ちくちく刺してくれるのが愛の戲なら、後生だ、わたしの兩眼を刳りぬいておくれ、さうしたら、おまへの爪の皮肉も見えなくなるだらう。  してまた漠たる撫さすりで、わたしを存分に裂いておくれ。  女の匂のする木よ、肉を食ふ木よ、わたしの悲しい心の悦。  髮に微笑を含んで清い小川の岸に寄りかかる少女子、金雀花、金髮の金雀花、色白の金雀花、清淨な金雀花。  金髮を風の脣に、白い肌を野山の精の眼にみえぬ手に、無垢の身を狂風に乘る男に、おまへは任せる。  金髮の金雀花よ、夢ばかりみてゐる纖弱い木、わたしの悲しい心の悦。  愁に沈む女よ、落葉松よ、石垣の崩に寄りかかる抛物線。  銀の蜘蛛の巣がおまへの耳に絲を張つた、おまへの胴中に這つてゐる甲蟲は涙の雨に打たれて血を吐いた。  愁に沈む女よ、落葉松よ、わたしの悲しい心の悦。  涙に暮れる枝垂柳よ、棄てられた女の亂髮、心と世とを隔てる幕、おまへの愁のやうに輕い花を織り合せた縮緬。  涙に暮れる枝垂柳よ、おまへの髮を掻きあげて、そら御覽よ、あすこを通る人を、曙の阜に立つ人を、  すこしは駈引もありさうな戀人、しやれた心配もする柳の木よ、わたしの悲しい心の悦。  鼠色の白楊よ、罪ありさうに顫へてゐる、全體どんな打明話が、その蒼白い葉の上に書いてあつたのだらう、どういふ思出を恐れてゐるのだ、秋の小逕に棄てられた熱に惱んだ少女子よ。  おまへの妹は黄昏色の髮を垂れて、水のほとりに愁へてゐる、亂倫の交を敢てするおまへたち、何ぞ願があるのかい、媒をして上げようか。  始終、心の安まらないおまへたちよ、わたしの悲しい心の悦。  張箍の女袴を穿いた官女よ、橡の木よ、三葉形の縫を置いて、鳥の羽根の飾をした上衣を曳ずる官女よ、大柄で權高で、無益の美形。  おまへの指先から落ちる輕蔑には、大概の田舍者は殺されて了ふ、わたしならその手を挫いてやる、こちらさへ其氣になれば愛させてもみせる。  張箍の女袴を穿いた女、高慢の上衣を着た女、わたしの悲しい心の悦。  死より生れて、死の僧となつた水松の木よ、おまへの枝は骨だ。  つるつるした墓石の枕元にある免罪符をおもひだす永久の鎭魂歌。  わたしの爲に祈つてくれ、翁びた水松の木よ、憐愍深き木、わたしの悲しい心の悦。  御主の冠となつた荊棘の木よ、血塗の王の額に嵌めた見窄らしい冠。  憐愍の房の血に赤く染つた尊い荊棘。  愛の荊棘よ、末期の苦の時、この罪ある心の中にその針を突き通し給へ。  敬愛すべき荊棘の木、わたしの悲しい心の悦。 底本:「明治文學全集 31 上田敏集」筑摩書房    1966(昭和41)年4月10日初版第1刷発行    1983(昭和58)年10月1日初版第4刷発行 底本の親本:「牧羊神」金尾文淵堂    1920(大正9)年10月5日発行 初出:「牧羊神」金尾文淵堂    1920(大正9)年10月5日発行 入力:阿部哲也 校正:川山隆 2011年1月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。