若い僧侶の話 スティーヴンスン 佐藤緑葉訳 Guide 扉 本文 目 次 若い僧侶の話  サイモン・ロールズ師は倫理學でも名の聞こえた人だつたが、神學の研究でも竝々ならぬ練達の士であつた。彼の「社會的の義務に關する基督教義に就て」と題する論文は、それが出版された當時、牛津大學で相當な評判となつたものであつた。また僧侶や學者の仲間では、若いロールズ氏が教父の權能に關する大著述──それは二折本になるといふ事だつた──を考へてゐるといふ事も一般に知られてゐた。だが之等の學識も、功名心に滿ちた計畫も、まだ彼を高僧の地位に陞らせる助けにはならなかつた。そこで彼は先づ何よりも牧師補の地位に有りつかうとしたのであつたが、その頃ふとした事から倫敦のある方面をぶらついてゐると、靜かで庭の眺めの面白い家に行き當つた。獨りで暮してしつかり勉強したいとも思ひ、また下宿料も安かつたので、かうして彼はスタックダヴ町の植木屋のレイバーンの家に住むことになつたのであつた。  一日に七八時間づゝ聖アンブローズだの、聖クリサスタムなどの事を研究した後で、毎日午後になると、彼はきまつて薔薇の花の咲き匂つてゐる間を、冥想しながら散歩する事にしてゐた。そしてかういふ折が一日の中でも最も良い考への浮ぶ時であつた。だが思想を求めてやまぬ眞面目な究理心も、解決を待つてゐる重大問題に關する心の昂奮も、世間の小さな動搖や、または世間との接觸から、いつもこの哲學者の心を引き留めて置くとは限らなかつた。そこでロールズ氏は、ヴァンデラー將軍の秘書役が着物をぼろ〳〵にして、からだからは血を流して、宿の亭主と連れだつてゐるのを見た時、また二人が顏色をかへて、何か聞かれるのを避けようとしたのを見た時、そして殊に秘書役が如何にもそしらぬ顏をして、自分の名を打ち消した時には、彼は忽ち聖者も教父も忘れ果てゝ、ありふれた強い好奇心を起したのであつた。 「私が間違つてゐる筈はない。」と、彼は考へた。「確かにあれはハートリー君だ。どうしてあんな慘めな樣子になつたのだらう? なぜ自分の名を打ち消したのだらう? そしてこゝの亭主のあの腹黒らしい男に何の用があるのだらう?」  彼がかうして思案をめぐらしてゐると、今一つ奇體な出來事が彼の注意を惹いた。レイバーンの顏が戸口の次の低い窓に現はれた。そして偶然にもその眼がロールズ氏の眼と行きあつた。すると植木屋はどぎまぎして、びつくりしたやうな樣子さへあらはした。そして直ぐその後で部屋の日よけが忙しく引きおろされたのであつた。 「これでも別に何事も無いのかも知れない。」と、ロールズ氏は思案した。「これでも至極當り前の事かも知れない。だが私は確かにさうでないと思ふ。疑はしさうな容子をしたり、後ぐらい態度をとつたり、嘘を吐いたり、人から見られるのを恐れたり──どうも確かに、」と、彼は考へた。「二人は何か不都合な事を企てゝゐるのだ。」  誰の心の中にでもある探偵心が眼をさまして、それがロールズ氏の胸の中で騷ぎ出した。そこで彼のいつもの歩きぶりには全く似つかぬ、活溌な、熱心な足どりで、庭をぐるりと一巡りしようとした。かうしてハリーが塀を越えた場所までくると、彼の眼はすぐさま、壞れた薔薇の藪と、土を踏みつけた足痕とに捉はれた。眼をあげて見ると、煉瓦の表面には引つ掻いた痕が付いて居て、壞れた瓶のかけらからはズボンの裂布がひらめいてゐた。さうすると、レイバーンの親しい友達といふのは、かうした遣り方で庭へ這入つて來たのだ。ヴァンデラー將軍の秘書役は、かうして花園の見物にやつて來たのだ! 若い僧侶はこゞんで地面を調べながら、獨りで輕く口笛を吹いた。彼はハリーが危ない跳び方で飛び降りた場所を見分ける事が出來た。彼は深く土の中へめり込んでゐるレイバーンの平な足痕を見つけたが、それは庭師が襟頸をつかんで秘書役を引き起した時につけたものであつた。いや、もつとよく調べて見ると、何かそこに撒きちらされて、熱心にそれが掻き集められたやうに、その邊を掻き𢌞した指の痕も見分けられるやうに思はれた。 「いやどうも、」と、彼は考へた。「大分、事が面白くなつて來たぞ。」  ところが丁度その時、彼は何か土の中に殆ど全く埋まつてゐる物のある事に氣が付いた。そこで直ぐさま掘り出してみると、それは金の飾りや留金のついてゐる上品なモロッコ革の箱であつた。それはひどく踏みこまれてゐたので、レイバーンがあわてゝ探した時にはその眼に這入らなかつたのである。ロールズ氏は箱をあけて見た。そして殆ど恐ろしくなつたほど驚いて、長い溜息を吐いた。といふのは、そこに、緑の天鵞絨の搖籃に埋まつて、竝はづれて大きな、この上もない美しい光澤のダイヤモンドがあつたからである。それは家鴨の卵ぐらゐの大きさで、美しい形に切つてあり、少しの疵も無かつた。そして日光がそれに當ると、電光のやうな光澤を放ち、その中にある無數の熖が彼の手の中で燃えるかのやうに思はれた。  彼は寶石の事は殆ど知らなかつた。併し王のダイヤモンドは説明のいらないほど驚くべきものであつた。もし田舍の子供がこんな寶石を見付けたとしたら、きつと大聲をあげて手近の家へ驅けつけて行くだらう。そして野蠻人なら、かういふ驚くべき物神の前には、崇拜の極平伏するだらう。全くこの寶石の美しさは、若い僧侶の眼をうつとりさせた。その測り知れないねうちを思ふと、彼の智力も打ち負かされてしまつた。今自分の手に持つてゐる物は、大僧正の地位からする數十年の收入よりももつと價値のあるものである事が分つた。これがあれば、イリーやコローニユの伽藍よりももつと堂々たるお寺を建てる事が出來る。またこれを持つてゐる者は永久に生活難から解放されて、心配も焦慮もなく、また故障も妨害も受けず、自分自身の望み通りに暮して行ける事も明かだつた。そこで彼は突然それをころがして見ると、またも新らしい光輝が躍り出して、自分の胸まで射透すかと思はれた。  人の決定的な行動は、屡〻瞬間的に行はれて、必ずしも理性から意識的にばかり生み出されるものでは無い。ロールズ氏の今の場合がさうであつた。彼は大急ぎであたりを見𢌞した。だが、レイバーンの時と同じやうに、日の當つてゐる花園と、高い樹の梢と、窓に日除のおりてゐる家の外には何も見えなかつた。そこで彼は急いで箱を閉ぢて、ポケットに突つ込んで、罪を犯した覺えのある人の足どりで、あわてゝ自分の書齋へ歸つて行つた。  かうしてサイモン・ロールズ師は王のダイヤモンドを盜んだのであつた。  その日の午後まだ早い頃、警官がハリー・ハートリーと共にやつて來た。植木屋は恐ろしさに顛倒してしまつて、忽ちその贓品を吐き出してしまつた。そこで寶石は秘書役の目の前で一々確かめられ、目録に載せられた。ところでロールズ氏はどうかといふに、彼はひどく親切さうな樣子を見せて、自分の知つてるだけの事をあけすけに述べ立てた。そしてこれ以上警官の手傳ひが出來ないのが殘念だなどゝ附け加へた。 「でも、あなたの仕事ももう大抵お終ひでせう。」と、彼は附け足した。 「いやどうして。」と、警視廳から來た役人は答へた。そしてハリーが直接に犧牲となつた二度目の盜難の事や、まだ見つからぬもつと大切な寶石のことや、殊に王のダイヤモンドの事などを、精しくこの若い僧侶に話してきかせた。 「それでは一身代位のねうちはありませうね。」と、ロールズ氏は言つた。 「どうして、十身代も──二十身代もありますよ。」と、警官は言つた。 「ねうちがあればあるだけ、」と、サイモンは拔目なく言つた。「賣る事も餘計むづかしくなるでせうね。さういふ物は隱しきれない形をしてゐるものです。もしそれが賣れるなら、聖ポールのお寺だつて容易に話がまとまりませうよ。」 「いや、全くです!」と警官は言つた。「併しその泥棒が悧巧な奴だつたら、それを三つか四つに截つてしまふでせう。それでもまだ十分金持になれますからね。」 「どうも有難うございました。」と、僧侶は言つた。「實に面白いお話を承りました。」  そこで警官は、自分達は職業上いろ〳〵な事を知つてゐるのだと打明け、やがてそこそこに歸つて行つた。  ロールズ氏は再び自分の部屋に戻つた。ところがそれはいつもより小さくて、何となく物寂しいやうに思はれた。自分の大著述のために集めた材料も、こんなにつまらなく思はれた事はなかつた。彼は自分の書齋を輕蔑の眼で眺めやつた。幾人かの教父の本を一册一册手に取つて、それに眼を通して見ても、自分の目的に適ふやうな事は何一つ書いてなかつた。 「これ等の昔の人達は勿論非常に立派な著述家に違ひない。」と、彼は考へた。「だが實際の人生に就いては恐ろしく無智だつたらしく思はれる。こゝにゐるこの私は僧正になれる位の學問を持つてゐる。それでゐてこの手に這入つたダイヤモンドをどう處置してよいか全く分らないでゐる。私はたゞの巡査から暗示を受けた。そしてこんなに書物はありながら、私はその暗示を實行に移すことさへ出來ないでゐる。して見ると大學教育などゝいふものは何の役にも立たないものだといふ事が分る。」  そこで彼は本棚を蹴倒した。そして帽子を被つて、大急ぎで家を出て、自分の加はつてゐる倶樂部へ出かけて行つた。かういふ世間的な集會所へ行つたら、好い相談相手にも會へようし、世間の事に鋭い經驗のある人にもぶつつかるだらうと思つた。そこで讀書室に行つて見ると、そこには澤山の田舍僧侶と、一人の副僧正がゐた。それから三人の新聞記者と、一人の哲學者とが玉突をやつてゐた。そして食事になると、ありふれた倶樂部の御定連が、いつもの平凡な役にも立たぬ顏をあらはした。これ等の人達のうち一人でも、自分が知つてゐる以上に、かういふ危險な問題を知つてゐる者はないだらう、自分の今の窮厄に解決を輿へてくれる者はないだらう、とロールズ氏は思つた。それからあき〳〵する程階段を上つて、喫煙室へ這入つてみると、そこで何となく體格の立派な、服裝のひどく淡白な一人の紳士に行き當つた。その人は葉卷を嚥みながら「隔週評論」を讀んでゐた。その顏は不思議にも何かに心を奪はれてゐるやうなところや、疲れてゐるやうなところは全くなかつた。またその樣子には何となく人の信頼を受け、服從を期待するやうなところがあつた。若い僧侶はこの人の容貌をよく見れば見るほど、自分に適當な助言を與へてくれる人に出會つたと信じないではゐられなかつた。 「突然でまことに失禮ですが、」と、彼は言つた。「お見かけ致しますところ、あなたは世間の事をよく御存知のお方だと思ひますが。」 「成程その事なら多少は分つてゐると思ひますが。」と、その人は雜誌を傍へ置いて、半ば面白いとも思ひ、半ば驚いたやうな顏色をして答へた。 「私は、」と、ロールズ氏は續けて言つた。「世捨人で、學究で、インキ壺や、教父に關する書物などを相手にして暮す人間でございます。ところが近頃ある事件に出あつて、自分の愚な事がはつきり分つて參りました。そこで世の中といふものをもつとのみ込みたいと思ふやうになりました。尤も世の中と言つても、」と、彼は附け加へた。「私はサッカレーの小説などの事を言ふのではございません。吾々が造つてゐるこの社會の罪惡や、隱れた萬一の見込や、それから例外な出來事などの間で、賢明に振舞ひ得る原則などを言ふのでございます。私は讀書家としては辛棒強い方ですが、今のやうな事は書物から學べる事でせうか。」 「どうもむづかしいお話ですな。」と、その人は言つた。「ざつくばらんに言ふと、私は本といふものは、汽車で旅行する時に慰みに讀む外には、たいして役に立つ物だとは思ひません。尤も天文學とか、地球儀の用法とか、農學とか、または造花法とかに就いては、相應に正確な著述があると思ひますが。世の中の事に關する漠然とした方面では、本當に役に立つやうな物はあるまいと思ひますよ。だが、お待ち下さい。」と、彼は附け加へた。「あなたはガボリオーの物をお讀みになつた事がありますか?」  ロールズ氏は、そんな名は聞いた事も無いと答へた。 「ガボリオーの物を讀んで見れば何か面白い考へに打つかるかも知れませんね。」と、その人はまた言つた。「あの人の物は少くとも暗示的です。そしてビスマルク公が非常に研究したほどの作者だから、最も惡い場合を考へても、立派な人達の仲間入をして暇潰しをする位のものですな。」 「まことに御親切に、有難うございました。」と、僧侶は言つた。 「いや、お禮を言つて頂いては却つて痛み入ります。」と、相手は答へた。 「どうしてでございませう?」と、サイモンはたづねた。 「お尋ねが珍らしかつたのでね。」と、その人は答へた。そして暇乞でもするやうな丁寧な身振をして、再び「隔週評論」を讀み出した。  歸り道でロールズ氏は寶石の事を書いた書物と、ガボリオーの小説を二三册買ひ求めた。そして翌朝曉近くまで熱心に小説の方を走り讀みした。併しそれらの書物はいろ〳〵な新らしい考へを彼に與へてはくれたが、どこにも盜んだダイヤモンドを處分する方法を見つける事は出來なかつた。その上その中の知識と言つても、地味に手引風に書いてあるのではなくて、獵奇的な物語の中に散らばつて書いてあるので、一層厄介だつた。そこで彼は、よし作者はこれ等の問題をよく考へてゐるにしても、教育的の方法を全く缺いてゐるのだといふ結論に達したのであつた。だがその中のルコックといふ男の性格と學識には、彼も感嘆せずにはゐられなかつた。 「この男は全く偉い奴だ。」と、ロールズ氏は默想した。「この男は私がペイリの證言を知つてるやうに世間といふ物を知つてゐる。この男が自分の手で片付ける事の出來なかつた事は何一つない。ひどく自分に分の惡い時であつても。全く!」と、彼は突然獨り言を言ひ出した。「これはいゝ教訓ではないか。私は自分でダイヤモンドを截る方法を考へ出してはいけないつて法はあるまい。」  さう思ふと忽ち自分の當惑してゐる問題からぬけ出したやうな氣持がした。彼はエディンバラに住んでゐるビー・マカラックといふ寶石商を知つてゐる事を思ひ出した。この男なら喜んで自分を必要な訓練の方へ導いてくれよう。二三ヶ月、場合によれば二三年も思ひ切つた骨折りをすれば、自分は十分王樣のダイヤモンドを截る老練家となつて、十分有利にあれを處分する知識が得られるだらう。それが出來たら、自分は富裕な贅澤な學徒として、人から羨まれもし、尊敬もされて、暇にまかせて自分の研究をつゞける生活に返れる事だらう。とろ〳〵としてゐる間に彼はこんな華かな幻想につき絡はれ、そして眼を醒ますと、すつかり氣分がよくなつて、日の出と共に心の輕くなるのを覺えた。  レイバーンの家はその日警察から閉される事になつた。そしてこの事が彼にこの家を出るよい口實を與へた。彼は元氣よく荷造りをして、それをキングス・クロスの停車場へ運んで行つた。そこでそれを手荷物預所へ預け、その日の午後の暇潰しと食事のために倶樂部へ歸つて行つた。 「ロールズさん。」と、そこにゐたある知りあひが言つた。「今日こゝで食事をなされば、あなたは、英吉利にゐる最も立派な二人の人物に會へますよ──それはボヘミヤのフロリゼル殿下と、ジャック・ヴァンデラーさんです。」 「殿下のお噂は聞いた事があります。」と、ロールズ氏は答へた。「それからヴァンデラー將軍にはどこかでお目にかゝつた事があります。」 「ヴァンデラー將軍は阿呆です!」と、その男は言つた。「私のいふのは弟のジョンの方です。有名な冒險家で、第一流の寶石の鑑定家で、歐羅巴でも最も腕利きの外交官の一人だと言はれてゐる人物です。あなたはあの人とヴァルドルジュ侯との決鬪の話を聞いた事はありませんか。それからあの人がパラグェイの總督だつた頃の功績や失錯、サミュエル・レーヴァイ卿の寶石を取り戻したあの人の手腕や、印度に暴動の起つた際のあの人の骨折や──あの折には政府はそれで利益を得たのだが、しかしあの人の功績は認めなかつたのです。あなたはさういふ話を聞いた事はありませんか。吾々が口にする名譽とか不名譽とかいふものは妙なものですね。なぜかといふにあのジャック・ヴァンデラーといふ人はそれを兩方とも持つてゐる人なんです。まあ下へ行つてごらんなさい。」と、彼は續けて言つた。「そして二人の近くに腰をかけて、よくその言ふ事を聞いてごらんなさい。何か珍らしい話が耳に這入りますよ。噂の通りなら。」 「だがどうしたら其人達の見分けがつくでせう?」と、僧侶はたづねた。 「見分けですつて!」と、彼の友達は叫んだ。「そりや君、殿下は歐羅巴で最も立派な紳士ですよ。まあ現代で王侯らしく見える唯一の人ですな。それからジャック・ヴァンデラーですが、七十位になる、そして顏に刀傷のあるユリシーズが想像できたら、大體あの人の樣子が分ります。ほんたうに見て置きなさいよ。それこそダアビーの日にでもすぐ見分けがつきますよ。」  ロールズは急いで食堂へ降りて行つた。ところが全く友達の言つた通りで、問題の二人は間違へようにも間違へる事は出來なかつた。ジョン・ヴァンデラー老人は、素晴らしい體力を備へた人で、確かに最も困難な訓練に馴らされてゐる樣子だつた。見たところ兵隊のやうでもなく、水夫のやうでもなく、またいつも鞍にばかり馴れてゐる人のやうでもなく、何となくそれらの人全部から出來上つたやうな處があつて、いろ〳〵な違つた習慣や才能が現はれてゐるやうな人だつた。その顏立ははつきりしてゐて鷲のやうな感じだつた。またその表情は傲岸で掠奪的だつた。全體の風采は、敏捷で、猛烈で、無鐵砲な活動家のそれのやうだつた。そして房々したその白髮と、鼻から顳顬に亙つてゐる深い刀傷とは、それがなくとも特徴のある、そしてそれだけでも威嚇的な頭に、更に凄じげな調子を添へてゐた。  この老人の相手になつてゐるボヘミヤの王子といふのは、驚いたことには、ロールズにガボリオーの研究を勸めた紳士であつた。フロリゼル殿下は、いろ〳〵な倶樂部の名譽會員になつてゐるやうに、その倶樂部でもさうなのだが、併し殆どそこへ顏を出すやうな事はなかつた。ところが前の晩にサイモンが話しかけた時には、殿下は確かにそこでジョン・ヴァンデラーを待つてゐたのであつた。  他の客は皆遠慮して部屋の隅の方に退いたので、この有名な二人の人は幾らか孤立のやうな形になつてゐた。だが若い僧侶は少しも憚るやうな樣子を示さず、却つて大膽に進み出て、二人に最も近いテーブルに腰をおろした。  二人の話は全くこの學究にとつては耳新らしいものだつた。パラグェイの前總督は、自分が世界のいろ〳〵な場所で出會つたいろ〳〵な異常な經驗を話した。そして殿下はそれに註釋を加へてゐたが、それは思慮ある人の耳には、事件その物よりも更に面白くさへ聞こえるのであつた。經驗の二つの形がかうして一つに結ばれて、若い僧侶の眼の前に置かれた。そこで彼はどちらを最も感服してよいのか分らなくなつた──無鐵砲な活動家か、それとも世の中を知りぬいてゐる老練家か、自分の行爲や冒險を大膽に話してゐる男か、あらゆる事を神のやうに知つてゐて、少しも苦しんだ事のないやうに見える人か。二人の態度はよく其話しぶりに當てはまつてゐた。總督の方は話し方も身振も等しく亂暴で、手を開けたり、閉ぢたり、また荒々しくテーブルを叩いたりした。その聲は高くて性急だつた。ところが殿下の方は上品な、温厚と平靜の典型その物のやうに見えた。ほんの僅かな動作でも、ちよつとした言葉の抑揚でも、相手の大きな叫び聲や身振よりもずつと重い意味を持つてゐた。そして屡〻さういふ場合があるのは當然だが、彼が何か自分自身の經驗を話すにしても、それが他の話と同じく氣がつかぬ中に濟んでしまふやうにうまくぼかされてゐた。  やがて話は進んで、近頃の盜難事件と、王のダイヤモンドの事に移つて行つた。 「あのダイヤモンドは海にでも放り込んでしまつた方がいゝでせうね。」と、フロリゼル殿下は言つた。 「私はヴァンデラー家の者ですから、」と總督は答へた。「殿下は私に異議あるものと想像して頂きたいと思ひます。」 「私は一般政策の立場から話してゐるのです。」と、殿下は續けて言つた。「あのやうにねうちのある寶石は、王侯の蒐集か、または大國の國庫に納めて置くべきものですな。普通の人たちの間であのやうな物を取扱ふのは、道徳の首に賞金を懸けるやうなものです。もしカシュガルの王が──私は非常に進歩してゐる王だと思ふが──歐羅巴人に復讐しようと思つたら、このやうな不和の林檎を吾々に送るのが最も有効で、それ以上にその目的に添ふ方法はありますまいね。世間のどんな正直者でも、かういふ物で試されては何とも思はずにはゐられません。この私でも、自分自身のいろ〳〵な義務やら特權やら持つてゐながら──この私でも、ヴァンデラーさん、人を恍惚とさせるやうなその寶石を取扱つてゐて、それで安全だといふ事は先づ出來ないでせうね。あなたにしても、趣味から云つても、職業から云つても、ダイヤモンド探求者なのだから、罪を犯さないでゐられようとは思へませんね。またどうかして裏切るまいとしてやるやうな友達があらうとも思へませんね──あなたには家族があるかどうか知らんが、もし家族があれば、あなたはきつと子供でも犧牲にするだらうと思ふ──そしてさういふ事をするのは一體何のためなのか? それはもつと金持になりたい爲ではない。もつと悦樂や尊敬を得たい爲ではない。たゞ死ぬまでの一年か二年の間、このダイヤモンドは私の物だと言ひたいばかりにですね。そして折々金庫を開けて、ひとが繪でも見るやうにそれを見たいばかりにですね。」 「そりや全くでございますな。」と、ヴァンデラーは答へた。「私は大抵の物は漁つて見ましたよ。男や女は無論のこと、いろんな種類の蚊に至るまで漁りました。珊瑚を探して海の中まで潜りましたし、鯨や虎なども追ひかけて見ました。だがその中でダイヤモンドが一番立派な獲物ですな。ダイヤモンドには美しさもあれば價値もあります。それだけで、立派にそれを探す熱心に酬いてくれますよ。御推察下さつてる事と思ひますが、私は只今あの物を追跡中でございます。私は確かな呼吸も知つてゐるし、廣い經驗も持つて居ります。私は兄が集めた寶石類は、丁度羊飼が自分の羊を知つてるやうによく知つてゐます。そして私にもしあれが殘らず取り返せなかつたら、私は死んでも構はんと思つてゐますよ!」 「それではトマス・ヴァンデラー卿は深くあなたに感謝しなければなりませんね。」と、殿下は言つた。 「さあどんなものでせうかな。」と、總督は笑ひながら答へた。「ヴァンデラー家の誰かは感謝致しませうな。トマスかジョンか──ピーターかポールか──私どもは皆ダイヤモンド宗でございますからな。」 「私にはどうもあなたのお話はよく解りませんな。」と、殿下は幾らか不愉快さうに言つた。  すると丁度その瞬間、給仕人がヴァンデラー氏に、馬車が戸口へ來た事を知らせた。  ロールズ氏は時計を見た。そして自分も亦出かけねばならぬといふことに氣が付いた。かうして二人の出かけるのが一緒になつた事が、強くそして不愉快に彼の胸を打つた。なぜかといふに、彼はもうそのダイヤモンド狩の男を二度と見たくないと思つたからである。  勉強が過ぎたので幾分神經を痛めてゐるので、彼はいつも甚だ贅澤な方法で旅行することにしてゐた。それで今度の旅行にも、彼は寢臺車にソファを一つ約束したのであつた。 「これは至極氣樂でございますな。」と、車掌は言つた。「丁度他に一人もお客がございません。乘り合と言つては、あちらの端にたゞ一人お年寄の方が居られるだけでございます。」  それはもう時間の間際になつてゐて、改札も始まつてゐた。その時ロールズ氏は、今一人の客といふのが二三人の赤帽に案内されて乘込むのを見かけた。ところがロールズ氏にとつては、これ程會ひたくない人物は世の中に無かつた──といふのは、それは前總督ジョン・ヴァンデラー老人だつた。  大北鐵道の寢臺車は、一輛が三區劃に仕切られてゐた──兩方の端の一室づゝが旅客用で、眞中の一區劃は化粧室になつてゐた。一枚の扉が溝にはめ込んであつて、兩方の部屋を化粧室から分けてゐた。併しそれには閂も錠も無いので、全體の區劃は實際は一つゞきになつてゐた。  ロールズ氏は自分の位置を研究して見て、全然防禦の方法が無い事に氣が付いた。もし總督がその夜の中にでも彼を訪ねてくる事にしたら、彼は會はないわけにはいかなかつた。彼には全く防禦の方法は無くて、まるで野原に寢てゐて、敵の攻撃を待つてゐるやうなものだつた。かういふ地位にある事は彼に何とも言へない苦悶を與へた。彼はこの旅行相手が食卓越しに述べ立てた傲慢な話や、フロリゼル殿下に不愉快な氣持を起させた不道徳な行ひを公言した事などを思ひ出してびくりとした。彼は何かの本で讀んだ事を思ひ出したのだが、ある種の人は近處に貴金屬があると、不思議にもそれを知覺する特性を與へられてゐるといふ事である。壁越しにでも、又は相應な距離にあつても、さういふ人は黄金の在所を感知するといふことである。それはダイヤモンドに就いても同じ事ではないだらうか。もしさうだとすると、有難くもダイヤモンドあさりの名を與へられてゐるその人より他に、誰がさういふ玄妙な感覺を娯しみ得る人があらう。さういふ人がゐるのだから、自分は何事も恐れなければならぬ、と彼は思つた。そして一心に夜の明けるのを待つてゐた。  それは兎に角、彼は少しも警戒を等閑にしなかつた。そして例のダイヤモンドは一組の大外套の最も奧のポケットにしまひ込んで、自分自身は熱心に神の守護を祈つてゐた。  汽車はいつもの均一な快速力で走つてゐた。そして殆ど旅行の半ばを終つた頃から睡氣が催して來て、ロールズ氏の胸にある不安もそれに負けて來た。暫くの間彼はその力に抵抗してみた。だがそれは益〻強くなつて來て、ヨークの少し手前あたりになると、彼は甘んじて身を寢臺の上に伸ばして、眼は閉ぢるがまゝにして置いた。それで殆ど同時に意識もこの若い僧侶から離れてしまつた。彼が最後に考へてゐた事は相變らず隣りのその怖ろしい人の事だつた。  彼が眼をさました時はまだどこも眞暗だつた。たゞ被ひをかけたランプがちら〳〵してゐた。絶えす轟いてゐる音と、車の搖れてゐる事は、汽車が速力を弛めない證據であつた。彼は物に驚いて突然起き上つた。といふのは非常に不愉快な夢に苦しめられてゐたからであつた。暫くたつてから彼は漸く心を落ちつかせる事が出來た。それから又寄りかゝるやうな位置をとつてみたが、もうどうしてもまた眠る事は出來なかつた。眼はすつかり冴えて、頭の中は嵐のやうに掻き亂れてしまつたので、彼はいつまでも眼を化粧室の扉に据ゑてゐた。彼は光の射すのを遮らうとして、僧侶の被るフェルト帽を一層目深に引きおろした。そして經驗のある病人がどうかして眠らうと努める時によくするやうに、數を數へてみたり、物を考へまいとしたりするやうな、普通の方法を採つて見た。だがロールズ氏の場合にあつては、それは殘らず無効であつた。彼は澤山の違つた心配に惱まされた──客車の向ふの端にゐる老人が、極めて怖ろしい形をとつて彼の處へやつてくるやうに思つた。またどんな形をとつて寢てみても、ポケットにあるダイヤモンドがひどくからだに苦痛を起させた。それは燃えるやうな氣持を感じさせた。それはまた大き過ぎる感じがした。彼の肋骨を傷けた。そして數限りもない程幾度も、それを窓から投げ出さうと半ば決心した程だつた。  かうして彼が横になつてゐる時妙な出來事が起つた。  化粧室へ出入する引戸が少し動いて、次いでまた更に少し動いた。そして遂には二十吋ほどの餘地だけ引きあけられた。化粧室のランプは被ひ物がかけてなかつた。そこでかういふ具合に開かれた光のさす隙間に、ロールズ氏は、深い注意を拂つてゐるやうな態度のヴァンデラー氏の頭を見る事が出來た。彼は總督の注視が強く自分の顏に注がれてゐる事に氣がついた。そこで自己保存の本能から呼吸をとめて、少しもからだを動かさぬやう努力し、そして眼を伏せて、睫毛の下から訪問者を見守つてゐた。するとやがてその頭は引つ込んで、化粧室の扉は元の位置に戻された。  總督は攻撃に來たのではなくて、觀察にやつて來たのであつた。彼の動作は他人を脅かさうとする人の動作ではなくて、自分が脅かされてゐる人のそれだつた。もしロールズ氏が彼を恐れてゐたとすれば、彼の方でもロールズ氏の事を考へて全く落ついてはゐられないらしかつた。そこで彼のたゞ一人の相客が眠つてゐるかどうかをたしかめにやつて來たのらしかつた。そしてその點で滿足させられたので、彼は直ちに引返したのであつた。  僧侶は跳ね起きた。極度の恐怖が消え去つて、その反動として向ふ見ずな大膽な氣持になつて來た。彼は駛走する汽車の轟きが、あらゆる他の音を消してしまふ事に氣が付いた。そこでどうならうと構はず、自分が今受けた訪問に答禮しようと決心した。彼は行動の自由を妨げさうな上着を脱ぎすてゝ、化粧室へ這入つて行つた。そして立ち留つて耳を欹てた。豫想した通りに、汽車の走る音ばかりで、他には何の物音も聞こえなかつた。そこで扉のずつと先の方に手をかけて、用心深く六吋ほど引きあけてみた。だがそこで手を留めた。そして驚きの叫びを揚げないではゐられなかつた。  ジョン・ヴァンデラーは自分の耳を護るために、耳被ひの付いてゐる毛皮の旅行帽を被つてゐた。その爲と、急行列車の音とが一緒になつて、今そこに行はれてゐる事に氣付かせなかつたものらしかつた。兎に角彼が頭をあげないで、自分の奇妙な仕事を中絶せずに續けてゐた事は確かであつた。彼の足の間には蓋をとつた帽子箱があつた。彼は一方の手に海豹の革の大外套の袖を持ち、他方の手に恐ろしく大きなナイフを執つて、今丁度袖裏を縱に切り裂いたところだつた。ロールズ氏は革帶に金を入れて持つて歩く人の事を讀んだ事があつた。だが自分はクリッケット帶の外は何も知らなかつたので、どうしてさういふ事が出來るのか、はつきりそれを知る事は出來なかつた。併し今こゝには、それよりももつと奇妙な事があつた。といふのは、ジョン・ヴァンデラーは袖裏にダイヤモンドを入れて持つて歩いてゐるらしかつた。それで若い僧侶が眺めてゐる時でさへ、ぴか〳〵光る珠が一粒一粒と帽子箱の中へ落ちて行くのが眼にとまつた。  彼はその場に釘づけになつたやうに突つ立つて、この異常な仕事をぢつと見守つてゐた。ダイヤモンドは大部分が小さな物で、その形も光も容易に區別の附かぬやうなものであつた。すると總督は突然何か困難に打つ突かつたらしかつた。彼は兩手を使つて、その取りかゝつてゐる仕事の上に身をかゞめた。そしてさん〴〵もが〴〵した擧句、漸く袖裏から大きなダイヤモンドの頭飾を取出した。彼はそれを他の寶石と一緒に帽子箱の中に入れる前に、暫くの間手に持つて調べてゐた。この頭飾はロールズ氏に一切の事情を悟らせる鍵となつた。彼は直ちにそれは例の浮浪人がハリー・ハートリーから盜み去つた寶物の一部である事を認めた。それは間違へる餘地の無い事だつた。それは確かにその折の探偵が話した通りの物だつた。眞中に大きなエメラルドが据ゑられて、ルビーの星が縫ひ付けてあつた。また寶石を半月形に組合せたり、梨子形の垂飾りにしたりして、其一つ一つが一個の寶石から成つてゐた。これはヴァンデラー夫人の頭飾りに特別な價値を與へたのであつた。  ロールズ氏はすつかり助かつたやうな氣持になつた。總督も自分と同じくこの事件に深く關係してゐるのであつた。どちらも他の事を彼是言へないわけであつた。そこで始めて幸福な氣持が湧いて來たので、僧侶は深い溜息を漏した。それまでぢつと息をつめてゐたのと、咽喉が塞がつて乾いてゐたので、溜息の後から咳が續いたのであつた。  ヴァンデラー氏は眼をあげた。その顏は極めて凄いまた最も恐ろしい癇癪で引きつつて來た。眼は大きく見開かれ、下顎は驚きの爲に垂れさがつて、今にもわめき出しさうであつた。彼は本能的にからだを動かして、上着で帽子箱を被ひかくした。半分間ほど二人は默つて睨み合つてゐた。それは長い時間ではなかつたが、ロールズ氏にとつてはもう十分だつた。彼は危險な場合に當ると、素早く物を考へるたちの男であつた。彼は奇妙な大膽不敵な行動をとつて見ようと決心した。そして危ない勝負に身を張るやうなものだとは思つたが、自分の方から先に切り出した。 「どうぞ御免下さい。」  總督は微かに身を顫はせた。そして口をきいた時にはその聲は嗄れてゐた。 「こゝに何の用があるのですか?」 「私はダイヤモンドに特に趣味を持つてゐましてね。」と、ロールズ氏は完全に落着いた態度で答へた。「二人とも鑑定家だつたら知りあひにならねばなりません。私もこゝにつまらない物を持つてゐますが、多分それはお近づきのたしになりませう。」  さう言つて、彼は靜かにポケットから箱を取り出した。そして王のダイヤモンドを一寸總督に見せて、それから又確實に元の處へ納めた。 「これは以前あなたの御兄弟のお持ちになつてゐたものです。」と、彼は附け加へた。  ジョン・ヴァンデラーは殆ど苦しい程びつくりした顏付をして、相手をぢつと見つめてゐた。併し口もきかねば、からだも動かさなかつた。 「私は本當に嬉しいと思ひます。」と、ロールズ氏はまた言ひ出した。「私どもは同じ蒐集から出た寶石を持つてゐるのでございますからね。」  總督はすつかり驚いて、どうする事も出來なかつた。 「これは失禮しました。」と、彼は言つた。「私も大分老い込んで來たものと見えますな! こんなつまらん事に打つ突かつて、全くあわてゝしまひましたからな。だがこの點だけでは私も落着いてるやうな氣持がする。私の眼が間違つてるかしらんが、あなたは坊さんぢやありませんかな。」 「御鑑定の通りでございます。」と、ロールズ氏は答へた。 「さうか。」と、相手は叫んだ。「いや、生きてる間は、坊さんの事を兎や角いふのは聽きたくないですて!」 「いや痛み入ります。」と、ロールズ氏は言つた。 「御免なさいよ。」と、ヴァンデラーは答へた。「若いお方、御免なさいよ。あなたは臆病者ではない。だがあなたが馬鹿者中の馬鹿者でないかどうかは、これからでないとまだ分りませんぞ。多分。」と、彼は自分の席にもたれかゝりながら言葉を續けた。「多分あなたは少しばかり格別の事を私に聽かせてくれるだらう。あなたがかういふびつくりするやうな厚かましい事をやるには、何かそこに目的があるに違ひないですな。ぶちまけて言ふと、私はそれを知りたいといふ好奇心を持つてゐる。」 「いや至つて單純な事なのです。」と、僧侶は答へた。「それは私が世間のことをまるで知らないことから出て來たのです。」 「そのお話を聽かせて貰ひませうかな。」と、ヴァンデラーは答へた。  そこでロールズ氏は、自分が王のダイヤモンドに關係するに至つた話をすつかり彼に打ちあけた。レイバーンの庭でそれを見つけた時の事から、この大北鐵道の急行列車で倫敦を去るに至つたまでの事を。彼はそれに旅行中の氣持や感想などの短かいスケッチを附け加へて、次のやうな言葉でその話を終つた──「私はその頭飾を見た時に、私ども二人は社會に對して同じ立場にあるのだといふ事を知りました。さうすると私の心に一つの希望が起つて參りました。それはあなたも根據のない事だとは言はれまいと思ひますが、ある意味であなたは私の地位の困難と、また勿論、私の地位の利益の仲間になつて下さるかも分らぬといふ事です。あなたのやうに特別の知識を持つて居られ、また明かに十分な經驗を積んで居られる方には、このダイヤモンドの取引は殆ど厄介でも何でもないでせうが、一方私にとつては、それは全く不可能の問題なのです。また別の方面から私は次のやうに判斷しました。あなたに手傳つて頂けば相當立派なお禮も差しあげられるのだが、私がこのダイヤモンドを截れば、それも無論未熟な腕でやる事になるのだが、さうなれば結局そのお禮位は損をする事になるといふのです。かういふ問題の口を切るのはまことにむづかしいものです。それで私の言ひ方も多分露骨になり過ぎたでせう。ですがお考へになつて頂きたいのは、こんな立場に立つたのは私は全く始めてのことでありまして、又私は全く普通の禮儀を存じませんでした。私は己惚なしに信じますが、あなたが結婚なさるとか、洗禮をお受けになるとかいふ事なら、十分立派に取扱つてあげられます。併し誰にも自分の得手があるものです。ところでかういふ取引の事は私の習つた學問の中にはありませんでしたよ。」 「お世辭を言ふつもりぢやありませんがね。」と、ヴァンデラーは答へた。「君には確かに惡い事をして暮せる立派な素質があるよ。君が自分で思つてゐるよりもずつと優れてゐる腕前がある。私は世界を歩いて、いろ〳〵な場所で澤山のならず者にも出會つたが、先づ君ぐらゐ圖太い人間には會つた事がないね、しつかりしなさい、ロールズさん。君はたうとう本當の商賣を見つけたんだよ! ところでお手傳ひの事だが、御遠慮なく用件を言ひつけて頂きませう。私は兄のちよつとした問題でたつた一日だけエディンバラに用事があります。そしてそれが濟んでしまへば巴里へ歸ります。私はふだん巴里に住んでゐます。お差支へなければ御同伴してもよろしい。それから君のお望みの仕事ですね、私は一ヶ月足らずのうちに立派にそれを片附けてあげられると思ひますよ。」 (アラビヤの原作者は、そのいつもの書き方に反して、茲で「若い僧侶の話」を打ち切つてゐる。私はかういふ書き方は遺憾でもあり又上手な遣り方とも思はないが、併し私は原作に從ふより外に仕方が無い。それからロールズ氏の冒險の結末を知るには、私は讀者にこの話の續きの別の物語「緑色の日除の家の話」をおすゝめする。) 底本:「新アラビヤ夜話」岩波文庫、岩波書店    1934(昭和9)年6月30日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第11刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:sogo 2018年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。