女の魚売り 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 女の魚売り  ある空の赤い、晩方のことであります。  海の方から、若い女が、かごの中にたくさんのたいを入れて、てんびん棒でかついで村の中へはいってきました。 「たいは、いりませんか。たいを買ってください。」と、若い女はいって歩きました。  この村に、一軒の金持ちが住んでいました。その家はすぎの木や、葉の色の黒ずんだ、かしの木などで取り囲まれていました。そして、その広い屋敷の周囲には、土手が築いてあって、その土手へは、だれも登れないように、とげのある、いろいろの木などが植えてありました。  若い女の魚売りは、その屋敷についている門から、しんとした内へ入ってゆきました。 「たいを買ってください。」と、女はいいました。  この家は、金持ちでありながら、たいへん吝薔であるということを、村では、みんな知らぬものがないくらいでした。 「どれ、たいを見せろ。」という声がすると、この家の主人が顔を出しました。  女の魚売りは、かごを下に置いて、たいを主人に見せました。林の間をとおして、西の空の赤い色が見られたのです。その空の色に負けずに、たいの色は紅くあったのでした。 「このたいは、新しいか。」と、この家の主人は聞きました。 「新しいにも、なんにも、もうすこし前まで、かごの中で、ぴんぴんはねていたのです。」と、女は、主人の顔を見上げて答えました。 「なに、昨日捕れたのだろう。」と、主人は冷笑いながらいいました。すると、女は、ほおをすこし赤くしながら、 「まだ、生きています。」と答えました。  主人は、じっと、かごの中のたいをながめていました。ほんとうに、たいのうろこは、一つ一つ、紅い貝がらのように、ぬれて光っています。目は、真っ黒に、なんでも見えるように澄んでいました。 「なにっ、生きているって。こんなに、じっとして動かないものが、生きているはずがない。死んでいるものを、生きているなんてうそをつくな。」と、主人はいいました。 「ほんとうに、海から、上がったばかりなのですから、どうか買ってください。」 「こんな古い魚は、うんと安くまければ買ってやるが、それでなければいらない。」と、主人はいいました。 「まだ、これで生きています。海の水に入れば、泳いではねます。どうかそういわないで買ってください。」 「もし、この魚が生きていたら、みんな買ってやる。もし、この魚が死んでいたら、みんなおれに、ただでくれるか。」と、主人はいいました。 「ほんとうに、生きていましたら、これをみんな買ってくださいますか。」と、女はたずねました。 「ああ、これだけのたいの金を払ってやる。そのかわり死んでいたら、みんなこのたいをただでくれるか。」と、女の魚売りに向かって念を押しました。 「お金はいりません。みんなさしあげます。」と、女は答えました。  主人は、かごの中から、一ぴきのたいをつまみあげて、宙にぶらさげました。そのたいは、冷たく、大きかったが、じっとしてはねなかった。 「これで、おまえは、生きているというのか?」と、主人は、女を見て冷笑いました。  女は、たいと、主人とを見くらべていましたが、 「さきほども申したように、海の水に入れると泳ぎます。どうか海まで私といっしょにきてください。」と、女は頼みました。  主人は、一里や、一里半歩いていっても、これだけのたいが、みんな自分のものになるのだと考えると、ゆくことをいとう気にはなれませんでした。 「ゆくとも、まあ、待ってくれ。」と、主人はいって、支度をしました。そして、やがて、女は、かごをかついで先に立ち、主人は、その後からついて門を出て、まっすぐに、海岸の方を指して道を急いだのです。  だんだん海に近づくと、風が、強く吹いていました。そして、松の木が、風に吹かれて鳴っている。そのあいまに、ド、ド、ド──という海鳴りの音がしていたのでした。  二人は、一つの砂山を上がりますと、もう、目の前には、真っ青な海が、浮き上がっていました。そして波の音が、絶え間なく起こっています。海にも、夕日が赤々とさしていました。白帆は、酒に酔ったように、ほんのりと色づいて、青い波の間に、見えたり消えたりしていました。陸に近いところには、岩が重なり合っていて、その岩に打突かると波のしぶきが、霧となって、夕暮れの空に細かく光って舞い上がっています。  女は、岩の近くにきて、肩からてんびん棒をはずして、かごを湿った砂の上に下ろしました。 「さあ、たいを海に放すのだ。」と、金持ちはいいました。 「よく、見ていてください。」と、若い女はいいました。そして、かごの中のたいを、一ぴきずつ白い手ですくうようにして、取り上げました。  たいは、いま、ふたたび故郷に帰ろうとします。女が、紅いたいを、波の間に落としますと、たいは、おどって、はや、その姿を青黒い海の底に隠したのです。 「あれは波にさらわれたのだ。」と、金持ちは信じませんでした。 「さあ、今度は、よく見ていてください。」と、女はいって、第二、第三、第四、というふうに、一ぴきずつたいを海に放しました。  たいは喜んで、高く波の間におどり上がって、しぶきを金持ちの顔にかけてゆくのでありました。 「どうでございますか。」と、女は、すっかりたいを海に放してしまったときに、いいました。  金持ちは、ぼんやりとして、見ていましたが、これは、夢ではないかと思ったのです。 「さあ、私に、お約束通り、たいのお金を払ってください。」と、女は、金持ちに向かっていいました。  すると、金持ちは、いちはやく、逃げ支度をして、 「だって、自分のものにしないものに、金を払う必要がない。」といいました。  女は、あきれた顔つきをしながら、金持ちを見て、 「生きていたら、お金をくださるお約束ではありませんか。」といいました。 「そんな金は持たない。」と、金持ちはいい捨てて、そこから駈け出しました。そして、後も振り向かずに、どんどんと、あちらへ逃げていってしまいました。  女は、途方に暮れて、波打ちぎわに立ったまま泣いていました。そのとき、空の色は、しだいにうすれて、やがて、空も、海も、まったく、青黒くなってしまったのであります。  空の色が銀色に光って、生暖かな日のことでありました。年をとった女が、浜の方から、かごの中に、たくさんのたらをいれて売りにまいりました。 「たらを買ってくださいませんか。」  女はこういって、村の中を歩きまわりました。たらは、冬の寒い日に捕れる魚であります。こんなに、暖かになってから、捕れることはありません。みんな、北の寒い、寒い、海の方にいってしまうからであります。 「いまごろたらが捕れるなんて、不思議なことですね。」  村の人たちは、こう語り合って、だれも、その女の持ってきたたらを買おうというものはありませんでした。 「安く、まけておきますから、たらを買ってください。」と、女はいいました。  その女は、よく見ると、すがめでありました。人々は、その女の顔と、かごの中のたらとを見くらべて、買おうとするものはありませんでした。  女は、金持ちの家の門を入ってゆきました。 「たらを買ってくださいまし。」と、女はいいました。 「いらない。」と、金持ちは答えました。 「まけますから、買ってください。」と、女はいった。  すると、金持ちは、戸口に出て、女の持ってきたたらを見ました。 「いま時分、たらがどうして捕れたろう。」と、金持ちは不思議がりました。 「今朝、たくさん上がったのです。」と、女は答えた。 「この生暖かな陽気じゃ、たらは腐ってしまうだろう。うんとまけてゆけば買ってもいい。」 「いくらにでもまけてゆきます。」と、女はいいました。  金持ちは、うんとまけさして、みんなこのたらを買いました。そして、その晩は家じゅうのものが腹いっぱい食べたのであります。  すがめの女が、浜の方へ帰った時分から、南の風が吹きはじめました。あまり暖かなもので、遅咲きの花までが、一時に咲き、地の下からは、いろいろの草が、一夜の中に芽を出したのであります。だれでも、頭痛がするといわないものがないほどでありました。  たらを腹いっぱい食べた金持ちの一家は、どうしたことか、その夜から髪の毛がばらばらと抜けて、それから幾日もたたないうちに、みんなぴかぴか光るはげ頭になってしまいました。 「たらにあたったのだ。」と、みんなはいいました。  金持ちは、たらにあたったことから、いつかたいを海に放して、金を払わないで逃げてきたことを思い出しました。一家のものが、生まれもつかない、あさましい姿になると、金持ちは、いままでした、いろいろのよくないことが後悔されました。そこで、金持ちは村に寺を建てました。自分は、ちょうどはげ頭なので、その寺の坊さんになりました。身に黒い衣をまとって、一日、御堂の中でお経を読んで暮らしました。  村の人々も、いつかは、その坊さんを信ずるようになりましたが、坊さんは、とうとう年をとって、その寺の中で死んでしまったのです。  後には、寺が残りました。寺のまわりには、すぎの木がこんもりとしげっています。そして、いつまでも、晩方の風に、さびしく吹かれて、その黒ずんだ葉をゆすっています。桜の花の咲くころには、この寺の境内にも桜の花が咲くのであります。  空の赤い晩方、たいが捕れて、この村へ売りにきたときは、きっといいことがあるというので、村の人々は争って、そのたいを買います。けれど、季節に遅れたたらは、買うと悪いことがあるというので、売りにきても、けっして買わないのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社    1976(昭和51)年12月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「赤い鳥」    1922(大正11)年4月 ※表題は底本では、「女の魚売り」となっています。 ※初出時の表題は「女の魚売」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:江村秀之 2013年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。