ちょうと三つの石 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 ちょうと三つの石  あるところに、まことにやさしい女がありました。女は年ごろになると、水車屋の主人と結婚をしました。  村はずれの、小川にかかっている水車は、朝から晩まで、唄をうたいながらまわっていました。女も主人も、水車といっしょに働きました。 「なんでも働いて、この村の地主さまのように金持ちにならなければだめだ。」と、主人は頭を振りながら、妻をはげますようにいいました。  妻も、そうだと思いました。そして、それよりほかのことをば、考えませんでした。春になると、緑色の空はかすんで見えました。木々には、いろいろの花が咲きました。小鳥は、おもしろそうにこずえにとまってさえずりました。  夏になると、真っ白な雲が屋根の上を流れました。女は、ときどき、それらのうつりかわる自然に対して、ぼんやりながめましたが、 「ぐずぐずしていると、じきに日が暮れてしまう。せっせと働かなけりゃならん。」 と、そばから主人に促されると、気づいたように、また、せっせと働きました。  女は、一日、頭から真っ白に粉を浴びて、働いていました。二人は、まだ、楽な日を送らないうちに、主人は、病気にかかりました。そして、その病気は、日に日に、重くなるばかりでした。  医者は、ついに恢復の見込みがないと、見放しました。そのとき、主人は、この世を見捨ててゆかなければならぬのを、なげきましたばかりでなく、女は、夫に別れなければならぬのを、たいへんに悲しみました。 「俺は、おまえを残して、独りあの世へゆくのを悲しく思う。けれど、もうこうなってはしかたがない。先にあの世へいって、おまえのくるのを待っているから、おまえは、この世を幸福に暮らしてからやってくるがいい。」 と、主人は、涙ながらにいいました。  女は、泣いて聞いていましたが、 「どうか、わたしのゆくのを待っていてください。あの世へゆくには、山を上るといいますから、峠のところで、わたしのゆくのを待っていてください。」と、女はいいました。  主人は、安心してうなずきました。そして、ついにこの世から立ってしまったのであります。  女は、泣き悲しみました。しかし、どうすることもできませんでした。その日から、一人となって働いていました。  水車の音は昔のように、唄をうたってまわっていましたけれど、女はけっして、昔の日のように幸福でなかった。  女は、一人で生活することは困難でありました。それを知った村の人は、気の毒に思いました。 「おまえさんは、まだ若く、美しいのだから、お嫁にゆきなさるがいい、ゆくならお世話をしてあげます。」と、女に向かって、しんせつにいってくれるものもあった。  女は、夫が死ぬときに、先へいって待っているという、約束をしたことを思い出すと、そんな気にはなれませんでした。 「死んだ主人に対してすまない。」と、女は答えました。  しかし、村の人は、女のいうことをかえって笑いました。 「人間というものは、死んでしまえば、ろうそくの火の消えたようなものだ。それよりも、生きているうちがたいせつなのだから。」と申しました。  女は、そうかと思いました。急に、心細いような感じがして、ついに、お嫁にゆく気になってしまいました。  女は、機織りの家に、二度めに嫁いだのであります。そして、今度は、一日じゅう機を織って、夫の仕事を助けました。夫は、また、妻をかわいがりました。女は、前に水車場の男に嫁いだ日のことを忘れて、いまの夫を、なによりもたいせつに思うようになりました。  女は、織物の入った、大ぶろしきの包みをしょって、街道を歩いて、町へ出ることもありました。頭の上の青空は、いつになっても変わりがなかったけれど、また、その空を流れる白い雲にも変わりがなかったけれど、女のようすは変わっていました。  水車場には、知らぬ人が入って住まうようになりました。 「若いうちに、うんと働いて、年をとってから楽な暮らしをしたいものだ。」と、二番めの夫はいいました。  彼女も、また、そう思いました。 「ほんとうに、そうでございます。」と、女は答えた。  そして、夫婦は、いっしょうけんめいに、家業に精を出したのであります。四、五年たちました。  すると、夫が病気にかかりました。病気はだんだんと重くなって、医者にみてもらうと、とても助からないということでありました。  夫は、死んでゆく自分の身の上を悲しみました。女は、また、夫に別れなければならぬのをなげきました。 「私が死んでしまったら、後でどんなにおまえは困るだろう、しかし正直にさえ働いていれば、この世の中にそう鬼はない、あまり心配しないほうがいい。」と、夫は、悲しみに沈んでいる妻をなぐさめていいました。 「わたしは、自分のことを思って、悲しんでいるのでありません。あなたにお別れしなければならぬのが悲しいのです。」と、女は答えました。 「なに、私は、あの世へいって、おまえのくるのを待っている。おまえは、できるだけ、この世の中を幸福に送ってくるがいい。」と、夫はいった。 「あの世へいくときには、なんでも高い山を上るそうです。どうか、その峠のところで待っていてください。」と、女はいいました。  夫は、うなずいて、なんの心残りもなく、ついにこの世を去ってしまったのです。  女は、また一人になりました。そして、たよりない日を送らなければならなくなりました。村の人は、この不しあわせの女に同情をしました。 「まだ若いんだから、いいところがあったら、お嫁にいったがいい、お世話をしてあげます。」と、村の人はいった。 「そんなことをしては、死んだ夫にすみません。」と、女は涙ながらに答えました。 「すむも、すまないもない。死んでしまった人は、消えたも同じものだ。あの世などというものは、まったくないものです。」と、村の人はいいました。  女は、ほんとうにそうかと思いました。そして、人にすすめられるままに、三たびお嫁にゆきました。  三度めにいったのは、鳥屋でありました。そこへいっても、彼女はよく働きました。鳥に餌をやったり、いろいろ鳥の世話をしました。月日は早くもたって、すでに三たび結婚をしてから、十年あまりにもなりました。すると、夫はあるとき、病気にかかりました。彼女は、よく看護をいたしました。けれど、そのかいもなく、夫の病気は、だんだん重くなるばかりでした。 「おまえを後に残していくのは、このうえなく悲しい。けれど、これも運命だからしかたがない。おまえは、あの鳥のめんどうを見てやったら、どうにか暮らしていけないことはない。」と、夫はいいました。 「ほんとうに悲しいことです。わたしは、もっと鳥のめんどうを見てやります。そして、一日も早くあなたのところへゆかれる日を待っています。」と、女は答えました。 「それで安心をした。どうか達者で、幸福に日を送ってくれい。きっと、私は、待っているから。」と、夫はいいました。 「あの世へゆくには、高い山を越さなければならないそうです。どうか峠でわたしを待っていてください。」と、女はいいました。  男はうなずいて、ついにこの世から去ってしまいました。女は夫の亡くなってしまった後、よくその家業を守りました。それから、また長い月日がたちました。女は年をとりました。そして、いつか女自身が、墓にゆく日がきたのであります。  女は、仏さまに、どうかあの世へとどこおりなくいけるようにと祈りました。そして、ついに目を閉じるときがきました。  女は、この世を去ったのです。けれど、霊魂は女の念じたように、あの世へゆく旅に上りました。  女は、長い道を歩きました。うららかに日が当たって、野も、山も、かすんで見えました。夢の国の景色をながめたのであります。女は、やさしい仏さまに道案内をされて、広い野原の中をたどり、いよいよ極楽の世界が、山を一つ越せば見えるというところまで達しました。 「さあ、もうじきだ、この山を越すのだ。」と、仏さまはいわれました。  女は、青竹のつえをついて、山を上りはじめました。やがて、峠に達しますと、そこに三人の男が立って待っていました。三人は、自分たちの待っている女が、この一人の女であるということを知りませんでした。三人は、女を見ると、 「おまえのくるのを待っていた。」といって、三方から寄ってきました。女はびっくりしてしまいました。よく見ると、第一の夫と、第二の夫と、第三の夫であったのです。  女は、どちらへいっていいか、まったくわからずに途方にくれてしまった。 「俺は、長い間、どんなにおまえを待ったかしれない。」と、第一の夫がいいました。 「私は、いちばん最後におまえと別れたのだ。おまえは私といっしょに、あの世へゆくのがほんとうだ。」と、第三の夫がいいました。 「おまえは、私といっしょに、あの世へゆくといって約束をしたじゃないか。」と、第二の夫がいいました。  女は、まったく途方にくれてしまいました。  このようすを、仏さまはごらんなされていました。 「おまえは、悪気のある女ではないが、そういって、三人に約束をしたのはほんとうか。」と、仏さまは、女にたずねられました。 「わたしが悪うございます。そういって、三人に約束をしました。けれど、心からうそをいう気でいったのではございません。一時は、あの世があることを信じました。一時は、あの世があるかどうかを疑いました。」と、女は申しました。  仏さまは、しばらく黙って考えていられましたが、 「おまえは、三人の中で、いちばんどの人を愛しているか?」と、お聞きになりました。  女は、かつて、いちばんどの人を愛しているかを心に考えたことがないので、返答に困っていました。すると、仏さまは、 「おまえは、どういうような気持ちで、たびたび結婚をしたのか。」と、おたずねになりました。  女は、自分一人で暮らしてゆけないから結婚をしたとも、気恥ずかしくて申されませんでした。 「そんな信仰のないものは、あの世へゆくことはできない。おまえは、ちょうになって、もう一度下界へ帰って、よく考えてくるがいい。そして、ほんとうにまどわない悟りがついたら、そのとき、あの世へやってやる。」と、仏さまは女に申されました。  また、仏さまは、三人の男に向かって、 「女がほんとうに悟りがついて、永久に変わらない自分の夫を見分けがつくまで、ここに待っているがいい。」といわれました。  やがて、女の姿は、ちょうとなりました。そして、夕日の空に向かって、どこへとなく飛んでゆきました。  三人は、峠で、十年、百年、幾百年と待ちました。そのうちに、三人は、三つの石になってしまいました。けれど、下界に去ったちょうは、いまだに悟りがつかないとみえて、花から花へと、美しい姿をして飛びまわっていて、帰ってこないのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 2」講談社    1976(昭和51)年12月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「婦人倶楽部」    1921(大正10)年5月 ※表題は底本では、「ちょうと三つの石」となっています。 ※初出時の表題は「蝶と三つの石」です。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:富田倫生 2012年5月23日作成 2012年9月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。