春がくる前 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 春がくる前  さびしい野原の中に一本の木立がありました。見渡すかぎり、あたりは、まだ一面に真っ白に雪が積もっていました。そして、寒い風が、葉の落ちつくしてしまった枝を吹くのよりほかに、聞こえるものもなかったのです。  木は、こうして毎日、長い寒い冬の間、さびしいのを我慢していました。それにつけても、過ぎ去った春、夏、秋の間のいろいろ楽しかったこと、おもしろかったことを思い出していたのであります。  その中でも、くびのまわりの赤い鳥が、枝に巣を造って、三羽の雛をかえして、三羽の雛が仲よく枝から枝へ飛びうつっていましたのを、木は忘れることができませんでした。 「いまごろは、あの親子の鳥はどこへいったろう。さだめし暖かな土地へいって、ああして、楽しくさえずったり、飛びまわったりしているであろう。そして、また、こちらが春になって暖かになったら、忘れずにやってくるかもしれない。そのときは、もう三羽とも雛鳥は、大きくなっていることだろう。」と、木は思いました。  こうして、木立は、毎日、風の音を聞いて、白い雲を見つめるよりほかになかったので、さびしく、退屈でなりませんでした。 「ああ、早く春がきてくれればいい。」と、独りで野原の中で脊伸びをして、あくびをしましても、だれもそばで聞いているものもなかったのです。  しかるに、ある日のこと、一羽の小さなうぐいすがどこからか飛んできて、この木のこずえに止まりました。  木は、さっそく、このうぐいすに話しかけたのであります。 「うぐいすさん、見れば、まだおまえさんはお若いが、この寒いのにどこへおゆきなさるのですか。そして、どこからおいでなさいました。」と、木立は、うぐいすに問うたのであります。  すると、年こそ幼いが、りこうそうなうぐいすは、木のいうことを頭を傾けて聞いていましたが、 「私は、あちらのふもとのやぶの中からやってきました。私は、お母さんといっしょに、そのやぶの中で暮らしました。いい香いのする花が咲いていました。また赤い実がなっていました。それは、いいところでした。私は、お母さんといっしょなら、けっしてよそへはゆきたいなどと思うことはありません。  けれど、平常お母さんは、私に向かって、町の方へいってはならない、おまえのようなよい子がいったら、きっと人間が捕まえて、かごの中に入れてしまうだろう。これまで、このやぶから出たもので、いくたり人間に捕まって帰ってこないものがあるかしれない。しかし人間は殺すのではない。かえって、うまいものを食べさせ、暖かにして、ときには水も浴びさせてくれて、大事にしてくれる。けれど、もう一生帰ってくることができないのだから、町の方へいってはならないといわれました。  私は、なんだか町を一度見たくてしかたがありません。たとえ、いくら見たくても、お母さんを残してゆく気は起こらなかったのです。  その私の大事な、そして、このうえなく私をかわいがってくださいましたお母さんが、この秋、病気で死んでしまわれたのです。私は、気が狂いそうでした。毎日、悲しくて泣きあかしました。そのうちに冬がきて雪が降りました。しかし、私は、長い間棲んだ、そのやぶを離れる気はしなかったのですが、このごろになって、せめては、一度なりと町へいって、その景色をながめたり、また私どもの仲間の生活を見てきたいものだと思って、いま、旅立つ途中にあるのでございます。」と、若いうぐいすは、目に涙をためて答えました。  木は、しばらく、黙って聞いていましたが、 「おまえさんは、幼いけれど、なかなかしっかりしていなさる。それなら、町へいっても人間に捕らえられるようなことはあるまいから、見てきなさるがいい。いくらお友だちが、いい生活をしてもうらやみなさるな。帰りには、またきっと立ち寄ってください。」と、木はいいました。 「そんなら、いってきます。」といって、若いうぐいすは、灰色の空をあちらへと、町の方をさして姿を消してしまったのであります。  また、木は独りぼっちとなりました。  どこを見ても真っ白な雪が積もっていました。そして、絶えず寒い風が吹いて、身震いせずにはいられなかったのです。夜になると、星の光がものすごく頭の上を照らしました。  明くる日から、木は、幼いうぐいすのことが気にかかってなりませんでした。無事でいようか、人間に捕まりはしないかと、木は年をとっていましたので、いろいろのことが案じられてなりませんでした。  うぐいすは、町にいって、高い煙突を見ました。車のゆくのを見ました。火の見やぐらを見ました。いろいろなものを見ました。そして、垣根や、軒端に身を隠して、仲間のいる家をのぞきました。すると障子のはまった箱の中に入って、仲間がうたっていました。けれど、その箱はばかに狭く窮屈であったのです。なんだか、そのなき声に、聞き覚えがあったようでした。もう気が詰まるように感じて、そんなことをも考える余裕もなく、ふたたび野原の方を指して飛んできました。 「ただいま、帰りました。」といって、うぐいすは、木立に止まりました。  木は、うぐいすの帰ってきたのを喜んで、 「町は、どんなでした。」と聞きました。  うぐいすは、これに答えて、 「たとえ町の生活がどんなによくても、私はやはり、お母さんと暮らした、山の生活がいちばん好きです。」といいました。  うぐいすは、山のやぶへ帰るときに、一声いい音色を出してなきました。野原も、森も、木立はもちろんのこと、その音色に耳を傾けました。そして、彼らは、一時に長い眠りから呼びさまされたように、感心したのでありました。  二、三日すると、春が、この野原にも、木立にも、森にもやってきたのです。 ──一九二〇・一二作── 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日第1刷    1977(昭和52)年C第3刷 初出:「まなびの友」    1921(大正10)年3月 ※表題は底本では、「春がくる前」となっています。 ※初出時の表題は「春が来る前」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:江村秀之 2013年9月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。