おじいさんの家 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 おじいさんの家 一 二 三 一  学校から帰ると正雄は、ボンと楽しく遊びました。ボンはりこうな犬で、なんでも正雄のいうことはよく聞き分けました。ただものがいえないばかりでありましたから、正雄の姉さんも、お母さんも、みんながボンをかわいがりました。  ただ一つ困ることは、日が暮れてから、ボンがほえることであります。しかしこれは犬の役目で、夜中になにか足音がすればほえるのに不思議なことはありませんけれど、あまりよくほえますので近所で迷惑することであります。 「ボン、なぜそんなにおまえはほえるのだ。もう今夜からほえてはならんよ、ご近所で眠れないとおっしゃるじゃないか。」と、正雄のお母さんがおしかりになると、ボンは尾を振って、じっとりこうそうな目つきをして顔を見上げていましたが、やはり、夜になると、家の前を通る人の足音や、遠くの物音などを聞きつけて、あいかわらずほえたのであります。  正雄は、床の中で目をさまして、またボンがほえているが、近所で迷惑しているだろう。どうしたらいいかと心配しました。正雄は起きて戸口に出てボンを呼びました。するとボンは喜んですぐに走ってきました。思いがけなく夜中の寂しいときに呼ばれたので、ボンはうれしさのあまり、正雄に飛びついて、ほおをなめたり、手をなめたりして喜んだのであります。 「ボンや、あんまりほえると、また、いつかのようにひどいめにあわされるから、黙っているんだぞ。夜が明けたらいっしょに散歩にゆくから、おとなしくしておれ。」と、正雄はボンの頭をなでながらよくいいきかせました。そうしてまた、正雄は床の中に入って眠りました。  その後でも、おそらくボンはほえたかしれません。けれど正雄はよく眠ってしまいましたから、なにごとも知らなかったのであります。  朝起きると正雄は、戸口に出てボンを呼びました。ボンは、さっそくそばにやってきましたけれど、どうしたことかいつものように元気がなかったのでありました。  ボンは病気にかかっているように見えました。正雄を見ますと、いつものように尾を振りましたけれど、すぐにぐたりとなって地面に腹ばいになってしまいました。そうして、苦しそうな息づかいをしていました。口笛を吹きましても、ついてくる気力がもうボンにはなかったのであります。  正雄は驚いて、家の中へ入って、 「ボンが病気ですよ。」と、お母さんや、姉さんに告げました。  そこで、みんなが外に出てみますと、ボンは脇腹のあたりをせわしそうに波立て、苦しい息をしていました。そうして、もう呼んでも、起き上がって尾を振ることもできなかったのであります。 「あんまり、おまえがほえるものだから、だれかに悪いものを食べさせられたのだよ。」と、お母さんは、ボンの頭をなでて、いたわりながらいわれました。  姉さんは、ボンの苦しむのを見てかわいそうに思って、さっそく獣医のもとへボンを車に乗せて連れていこうといいました。お母さんもそれがいいというので、正雄は車を迎えにゆきました。そのうち車がきましたので、ボンを乗せて、姉さんと正雄はついてゆきました。  獣医のもとへいってみますと、ほかにもたくさんの、病気の犬や猫が入院していました。ほかの病気の犬は、檻の中から、くびをかしげて、新たにきた患者をながめていました。獣医はさっそくボンの診察にかかりました。  診察の結果は、お母さんのいわれたとおり、だれかに毒の入った食物をたべさせられたのだろうということです。医者はボンの体を子細に検べていましたが、後足についている傷痕を指さして、 「この傷は、いつつけたのですか。」と聞きました。 「その傷は二、三か月前に、やはりだれかにいじめられてつけたのでございます。なにしろ、夜になるとよくほえますので、近所から憎まれていますもんですから。」と、姉さんは答えました。  ボンの後足には、かなり大きな傷がついていました。 「ボンは助かりましょうか。」と、正雄は心配しながら獣医に聞きました。 「さあ手を尽くしてみますが、そのへんのことはわかりかねます。」と、不安な顔つきをして獣医は答えました。  そのうちにボンは、しだいに気力が衰えてゆきました。正雄や、姉さんがその名を呼びましたけれど、しまいには、まったくその声がボンには聞こえないようになりました。そうして、薬をのましたり、手当をしたりしたかいもなく、とうとうボンは目を閉じたまま死んでしまいました。  正雄は悲しみました。姉さんも目をしめらして悲しみました。そうして、ボンをまた車に乗せて家へ帰りました。ボンが死んだということを聞かれて、お母んも悲しまれました。 二  みんなは相談をして、ボンをていねいにお寺の墓地へ葬りました。そうして、坊さんに頼んでお経を読んでやりました。その当座、正雄はボンがいなくなったのでさびしくてなりませんでした。朝起きても、学校から帰ってきても、飛びついて自分を迎えてくれるものがなくなり、またいっしょに散歩をするものがなくなったと思うと、いままでのように楽しみがなかったのであります。  こうして、はや幾日かたってしまいました。正雄は、ボンのことをいままでほど思い出さなくなりました。  ある日のこと、戸口から尾を振りながら入ってきた犬があります。なんの気なしに、その犬を見ますと、正雄は驚いて声をあげました。 「あ、ボンが帰ってきた。ボンが帰ってきた。」 と、つづけざまにいいましたので、みんなはびっくりして、そのほうを見ますと、なるほど、ボンが帰ってきたのでありました。 「どうしてボンが帰ってきたろう。」と、お母さんは不思議がられました。 「死んだボンが、どうして生きてきたのでしょうね。」と、姉さんもびっくりしていいました。  正雄は、すぐさま戸口に走り出て、ボンを見ようとしました。ボンは喜んで正雄の足もとにすりよってきました。正雄は夢中になって、ボンの頭や脊中をなでたのであります。 「しかし、死んだ犬が、生きてくるはずがないですねえ、お母さん。」と、姉さんはいいました。 「私もそう思うよ。ああして死んでお寺に埋めてしまったのじゃないか。それがどうして生きてきたんでしょう。」と、お母さんも不思議がっていられました。  けれど、その形から、毛の色から、どこまでもボンと変わりがありませんでした。正雄は、たしかにボンが帰ってきたのだと思いましたから、 「だって、ちっともボンと変わりがないじゃありませんか。どうしてもこれはボンです。」と正雄はいいはりました。 「ボンは後足に傷痕があったはずだから、そんなら検べてみればわかるでしょう。」と、姉さんはいいました。  正雄は、犬を抱くようにして、その犬の後足を検べていましたが、急に大きな声をたてて、 「これ、こんなに後足に傷痕があります。」と叫びました。お母さんも、姉さんも、みんなそばにきて、それを見て、びっくりしました。 「まあ、どうしてボンが生きかえってきたろう……。」 と、不思議がりました。  とにかく、ボンが帰ってきたのだというので、肉をやったり、ご飯をやったり、お菓子をやったり、ボンが好きであったものをやったりして、家じゅうは急ににぎやかになったのでありました。そうして、正雄は、また明日から朝早く起きていっしょに散歩をし、学校から帰ってきてもいっしょに散歩することのできるのを喜んだのであります。  するとその日の晩方のことでありました。白いひげの生えたおじいさんが戸口を入ってきて、 「あ、ここに家の犬がきていたか。さあ、こい、こい。」といって、ボンを呼びました。しますと、いままで、正雄のそばに喜んでいた犬が急に立って、おじいさんのほうへ走ってゆきました。正雄は驚いて、 「あ、この犬は僕の家の犬ですよ。連れていってはいけません。」と、正雄はおじいさんに向かっていいました。 「はははは、この犬は私の家の犬じゃ、それは坊の思い違いじゃ、これこのとおり、私についてくるじゃないか。」と、おじいさんは笑って答えました。 「いいえ、どうしてもそれは僕の家の犬ですから、連れていってはいけません。」と、正雄は、あくまでもいいはりました。 「ははは、困った坊だ。」と、おじいさんは笑っていました。  そのとき、お母さんは出てこられて、正雄に向かい、 「家のボンは、このあいだ死んだのじゃないか。やはりこの犬は、おじいさんの家のですよ。そんな聞き分けのないことをいうものでない。」と、しかられました。正雄も、なるほどと思いました。 「私は、何町、何番地のだれというものじゃ。今度の日曜にでも坊は遊びにおいで。」と、おじいさんは立ち去るときにいいました。そうして、つえをついて門口を出ますと、ボンはおじいさんの後について、さっさといってしまったのであります。みんなは不思議に思って、その後ろ姿を見送りました。 三  正雄は姉さんといっしょに、おじいさんの家へたずねていってみようと話し合いました。  やがて日曜日になりまして、その日の朝からよいお天気でありましたから、正雄は姉さんと、おじいさんの家へ出かけました。おじいさんの家は町の端になっていまして、その辺は圃や、庭が広うございまして、なんとなく田舎へいったような趣がありました。  おじいさんの家はちょっとわかりにくうございました。二人は番地を探して、あちらで聞き、こちらで聞きいたしました。そうして、やっとその家を探しあてることができたのです。  その家は珍しいわら家でありました。日の光がほこほこと暖かそうに屋根の上に当たっていました。鶏が圃で餌を探して歩いていたり、はとが地面に降りて群がって遊んでいたりしまして、まことにのどかな景色でありました。 「まあ、ほんとうにいいところですこと。」と、姉さんは感心していいました。 「ボンはいるかしらん。」と、正雄はいって口笛を吹いてみました。けれど、ボンはどこからも走ってきませんでした。どこかへ遊びにいっているのだろうと思って、二人は、その家の門を入りました。  ちょうど日当たりのいい縁側に、おばあさんがすわって、下を向いて、ぷうぷうと糸車をまわして糸を紡いでいました。二人は、その音を聞くと、たいへんに遠い田舎へでもいっているような気がしたのであります。おばあさんは耳がすこし遠いようでありました。で、二人の入ってきたのをすこしも知りませんでした。 「ここがおじいさんの家だろうか?」と、正雄は姉さんに向かっていいました。 「おばあさんにたずねてみましょう。」と、姉さんはいって、おばあさんのそばへゆきました。おばあさんははじめて、人のきたのに気がついたようすでありました。姉さんは、おじいさんの姓と名とをいって、 「このお家でございますか。」と、おばあさんに聞きますと、おばあさんは、糸車をまわす手をやめて、つくづくと姉さんと正雄の顔をながめながら、 「おまえさんたちは、どこからおいでになりました。私は、ちっとも見覚えがないが。」と、おばあさんは答えました。  そこで、二人は、先日おじいさんが犬を連れて帰ったことを、おはあさんによくわかるように子細に語りますと、おばあさんは、やはり、ふに落ちぬような顔つきをして、 「多分、それは家がちがいますよ、そんなはずがないから。」と、おばあさんはいいました。 「じゃ、同じ番地に、こういうおじいさんは住んでいませんか。」と、正雄は聞きますと、 「そのおじいさんの家ならここです。その人は私の連れ合いですが、もう一月ばかり前になくなりました。」と、おばあさんは答えました。二人は思わず顔を見合って驚きました。 「どうしたのだろう。」といって、大いに不思議がりました。よくおばあさんに聞いてみますと、ボンの死んだころと、おじいさんのなくなったころと同じでありました。また、先日正雄の家へやってきたおじいさんと、死んだおじいさんとは、ようすがそっくり似ているのでありました。そのとき、おばあさんは、うなずきなから二人に向かって、 「わかりました。おじいさんは平常犬や猫や鳥が大好きであったから、きっとその犬をつれて、いまごろは、極楽の路を歩いていなさるのだ。坊ちゃんが、犬をかわいがっておやりだったから、きっと犬があの世からたずねてきたのですよ。それをおじいさんが迎えにきて、また、連れていったのです。」といいました。  正雄も姉さんも、あるいはそうかと思いました。やがておばあさんに別れを告げて帰る途すがら、二人はボンのことを話し合いました。ボンはこの世に生きていて、人情のない人たちにいじめられるよりか、かえってあの世にいって、しんせつなおじいさんにかわいがられたほうが、どれほどしあわせであるかしれないと語り合ったのであります。 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日    1977(昭和52)年C第3刷 初出:「おとぎの世界」    1919(大正8)年4月 ※初出時の表題は「お爺さんの家」です。 入力:特定非営利活動法人はるかぜ 校正:雪森 2013年4月11日作成 2013年10月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。