黒い旗物語 小川未明 Guide 扉 本文 目 次 黒い旗物語 一 二 三 一  どこからともなく、爺と子供の二人の乞食が、ある北の方の港の町に入ってきました。  もう、ころは秋の末で、日にまし気候が寒くなって、太陽は南へと遠ざかって、照らす光が弱くなった時分であります。毎日のように渡り鳥は、ほばしらの林のように立った港の空をかすめて、暖かな国のある方へ慕ってゆきました。  爺は破れた帽子をかぶっていました。そして西洋の絵にある年とった牧羊者のように、白いあごひげがのびていました。子供は、やっと十か十一になったくらいの年ごろで、寒そうなふうをして爺の手を引いて町の中を歩きました。爺は胡弓を持って、とぼとぼと子供の後から従いました。  その町の人々は、この見慣れない乞食の後ろ姿を見送りながら、どこからあんなものがやってきたのだろう。これから風の吹くときには気をつけねばならぬ。火でもつけられたりしてはたいへんだ。早くどこかへ追いやってしまわなければならぬ、といったものもありました。子供は毎日爺の手を引いて町へ入ってきました。そして戸ごとの軒下にたたずんで、哀れな声で情けを乞いました。けれど、この二人のものをあわれんで、ものを与えるものもなければ、また優しい言葉をかけてくれるものもありませんでした。 「やかましい、あっちへゆけ。」 と、どなるものもあれば、また家の内から、大きな声で、 「出ないぞ。」 といったものもありました。  こうして二人のものは、終日この町の中をむなしく歩きまわって、疲れて空腹を感じて、日暮れ方になると、どこへともなく帰ってゆくのでした。爺の歩きながら弾く胡弓の音は、寒い北風に送られて、だんだんと遠くに消えてゆくのでありました。こんなふうに町の人々には、この二人の乞食を情けなく取り扱いましたけれど、やはりどんなに風の吹く日も、また寒い日にでも、二人はこの町へやってきました。  町の人々は二人を見送って、 「まだあの乞食がこの辺りをうろついている。早くどこへなりとゆきそうなものだ。犬にでもかまれればいいのだ。」 と、涙のない残忍なことをいったものもあります。  そして爺と子供は、犬に追い駆けられてひどいめにあわされたこともありました。そのとき町の人々は、子供が泣きながら爺さんの手を引いて逃げようとして、爺さんが胡弓を振りあげて犬をおどしている有り様を見ても黙っていました。ある日町の人は二人を捕らえて、 「おまえらは、どこからきたのだ。」 といって聞きました。すると子供は、 「ずっと遠い南の国からやってきました。そこは暖かで冬でもつばきの花が咲きます。山の畑にはオレンジの樹があり、日の落ちるときには海が紫色に光って、この町よりも、ずっときれいな町であります。」 といいました。すると町の人はこれを聞いて、気持ちを悪くいたしました。 「この町よりもきれいな町があるといったな。そんならなぜその町にいなかったのだ。なんでこの町などへやってきた。さあ早くどこかへいってしまえ。」 とどなりました。 二  乞食の子供は、町の人の怖ろしいけんまくに震えながらいいました。 「北の方へゆけば哀れな人間をあわれんでくださる人さまのいなさる町があると聞きましたので、こうして二人はわざわざ遠いところをやってきました。」  すると町の人々は、口々に虫のいいことをいう奴だといってあざけりました。 「おい、小僧め、これから風が吹くから火など焚いてはならんぞ。そしてうろついていずに、どこへなりと早くいってしまったほうがいい。ものがなくなると、おまえたちの盗んだことにするからそう思え。」  冷酷にも、こんなことまでいいました。  子供はなんといわれても、これにたいして怒ることもできずに、爺の手を引いて町の中を戸ごとにたたずみながら歩いてゆきました。そしてある店の前に立っていると、その店の主人はまた、 「なんでそこにぐずぐずしているんだ。早くいってしまえ、人が見ていなかったら盗むつもりだろう。」 とどなりました。  子供は腹だたしさに、顔の色を赤くして、しおしおとしてその店の前を立ち去ってしまいました。  ある日二人は町の人々から追われて、港の端のところにやってきました。そこは海の中に突き出ていて、岩がそばだっています。そして波が寄せて躍り上がり、はねかえり、響きをたてて砕けていました。  空の色は一面に鉛色に重く、暗く、濁っていて、地平線に墨を流したようにものすごく見えます。風は叫び声をあげて頭の上を鋭く過ぎていました。名も知らぬ海鳥が悲しく鳴いて中空に乱れて飛んでいました。爺と子供の二人は、ガタガタと寒さに体を震わして岩の上に立っていますと、足先まで大波が押し寄せてきて、赤くなった子供の指を浸しています。二人は空腹と疲労のために、もはや一歩も動くことができずに、沖の方をながめて、ぼんやりと泣かんばかりにして立っていました。そのうちに、みぞれまじりの雨がしとしとと降りだしてきて、日はとっぷりと暮れてしまいました。二人は闇のうちに抱き合っていましたが、まったくその影が見えなくなってしまいました。  その夜のことです。この辺りには近来なかったような暴風が吹き、波が荒れ狂ったのであります。そしてその暗い、すさまじい夜が明け放れたときには、二人の姿は、もはやその岬の上には見えなかったのであります。町の人々はその日もその翌日も、かの乞食二人の姿を見なかったので、なかにはどこへいってしまったろうなどと思ったものもありました。すると一日天気のいい日のこと、漁夫が沖へ出て網を下ろしますと、それに胡弓が一つひっかかってきました。それが、後になって、乞食の持っていた胡弓であることがわかりました。 三  その後というものは日増しに海が荒れて、沖の方が暗うございました。毎年冬になると、この港から出る船の航路がとだえます。  それで沖を見渡しても、一つの帆影も、また一条の煙の跡も見ることがなかったのです。ただ波頭が白く見えるかと思うと消えたりして、渺茫とした海原を幾百万の白いうさぎの群れが駆けまわっているように思われました。  毎夜のように町では戸を閉めてから火鉢やこたつに当たりながら、家内の人々がいろいろの話をしていますと、沖の方で遠鳴りのする海の声がものさびしく、もの怖ろしく、ものすさまじく聞こえてくるのでありました。ある夜のこと、海の響きが常よりまして、空怖ろしく鳴りとどろきましたので、人々は、なにごとか起こるのではなかろうかと不安におののき、夜の明けるのを待ちました。ほのぼのと、夜が明け放れると、人々は浜辺にきて海をながめました。そして顔の色を変えてびっくりいたしました。 「あのいやな色をした船は、どこからきたのだろう。」 と、一人はいって、沖のかなたに見えた船を指さしました。 「あの不思議な黒い旗をごらんなさい。いったいあの船はどこからきた船でしょう。」 と、ほかのものがやはり沖をながめていっていました。遠く沖の方を見渡しますと、昨日にまして暗く、ものすごうございました。その地平線から抜け上がったように真っ赤な船が浮いていて、黒い旗がひらひらと二本のほばしらの上にひるがえっていました。 「昨夜は怖ろしい海鳴りがしたから、なにか変わったことがなければいいと思った。」 と、老人がいっていました。 「よくこの荒波の上を航海して、この港近くまでやってきたものだ。なにか用があって、この港にきたものだろうか。」 と、一人がいっていました。 「ごらんなさい。あの船は止まっています。だれかあの船はどこの国の船か、お知りの方はありませんか。」 と聞いている若者もありました。 「たぶんこの大波でゆくえを迷ったか、それとも船に故障ができてこの港に入ってきたのでありましょう。」 といったものもありました。そこでその船に向かって、陸からいろいろの合図をいたしました。けれど、その船からはなんの返答もありませんでした。 「あれはあたりまえの船と違うようだ。きっと幽霊船であるかもしれない。」 といったものもありました。そして幽霊船というものは見るものでないといって、町の人々はだんだん家の方へ帰りました。  すると不思議なことには、ちょうどその日から、町へ見慣れないようすをした十か十一ぐらいの年ごろの子供が、体に破れた着物を着て、しかも霏々として雪の降るなかに、素足で足の指を赤くして、手に一つのかごを下げて町の中を歩いていました。町の人々は顔をしかめて、そのあわれな子供の後ろ姿を見送りました。子供は町のいちばんきれいな呉服屋に入りました。 「どうか私に着物を売ってください。」  慄えた声で子供はいいました。 「おまえは銭を持っているか。」  店頭にすわった番頭は、いぶかしげな顔つきをしてたずねました。子供はかごの中をのぞきながら、 「銭は持っていないが、ここに、さんごや真珠や金の塊があります。これで売ってください。私の着物でありません。お爺さんの着る着物です。」 と申しました。  呉服屋の番頭は、うさんな目つきで、輝く真珠や、あかがにの指のような赤いさんごをながめていましたが、 「どうしておまえはそんなものを持っている。おまえがそんなものを持っているはずがない。きっと偽物だろう。どこから拾ってきたか。」 「いいえ偽物でもなければ、拾ってきたのでもありません。これはほんとうの真珠や、さんごです。私を疑ってくださいますな。早く私に着物を売ってください。お爺さんは船に待っています。沖に止まっています船がこれでございます。お爺さんは、あの黒い旗の立っているほばしらの下のところにすわって待っています。」 と、子供はいいました。 「おまえのいうことは、みなうそらしい、着物は売ることができない。早くこの店の前をいってくれい。」  番頭は子供をおいたてました。  子供はしかたなしに、雪の降る中をとぼとぼと歩いて、その店の前を去って、あてなくこちらにきかかりますと、そこには食べ物屋があって、おいしそうな魚の臭いや、酒の暖まる香いなどがもれてきました。子供は其店の前に立ちました。そして戸を開けてのぞきながら、 「どうか私に煮えた魚と、暖かいご飯を売ってください。銭はないけれど、ここにみごとなさんご樹と、きれいな星のような真珠と、重たい金の塊があります。私はなんでも暖かな食べ物を持っていって、お爺さんにあげたいと思います。」 といいました。  すると、このときそこで酒を飲んでいた三、四人の若者は、目を円くして子供のかごと、子供の顔を見比べていましたが、 「汝は、いつかこの町へきた乞食の子供じゃないか、太いやつだ。どこからそんな品物を盗んできた。さあ白状してしまえ。みなその品物をここへおいてゆけ。」 といいながら飛び出してきました。 「いいえ、盗んだり、拾ってきたりしたものではありません。あの沖にきている船からもらってきたのです。」 と泣きながらいったのです。けれど若者らは無理にかごを奪い取って、子供をおいたててしまいました。子供はどこともなく雪の降る中を、泣きながら去ってしまいました。いつしか吹雪のうちに日が暮れてしまいました。  その夜のことであります。この町から火事が出て、おりしも吹き募った海風にあおられて、一軒も残らず焼きはらわれてしまいました。いまでも北海の地平線にはおりおり黒い旗が見えます。 底本:「定本小川未明童話全集 1」講談社    1976(昭和51)年11月10日第1刷    1982(昭和57)年9月10日第7刷 初出:「日本少年」    1915(大正4)年4月 ※表題は底本では、「黒い旗物語」となっています。 入力:ぷろぼの青空工作員チーム入力班 校正:ぷろぼの青空工作員チーム校正班 2011年11月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。