みれん シュニッツレル Arthur Schnitzler 森鴎外訳 Guide 扉 本文 目 次 みれん 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 四十六 四十七 四十八 四十九 五十 五十一 五十二 五十三 五十四 五十五 一  黄昏時がもう近くなった。マリイはろは台に腰を掛てから彼此半時ばかりになる。最初の内は本を読んでいたが、しまいにはフェリックスの来るはずの方角に向いて、並木の外れを見ていたのである。それが今立ち上がった。こんなに長く待たせられた事はない、陽気が少し冷たくなった。そのくせ空気にはまだなんとなく五月の末の和かみがある。  アウガルテンの公園には、もうたんと人がいない。散歩をしている群は、今少しで締められるはずの門の方へ足を向けている。マリイが出口の近所まで来た時、やっとフェリックスが見えた。約束の時間より後れたくせに男はゆっくり歩いている。女と目と目を見合せてから、少しばかり足を早めたばかりである。女は立ち留まって、男の来るのを待っていた。女の不性気に差し伸べた手を男は微笑みながら握った。 「まあ、あなたこんなに遅くなるまでお為事をなさらなくてはならないの。」こう云った女の声は穏かな不平の調子であった。男は女の手先を右の肘に掛けさせて歩き出したが別に返事はしなかった。  女が「どうなすったの」と問い返した時、男はやっと返事をした。「そうだよ。それに己は忘れて時計を見ないでいた。」  女は横から男の顔を覗き込んだ。どうもいつもより顔の色が蒼いようである。そう思ったので、女は優しい声をして云った。 「どうでしょう。あなたも少しわたくしに構って下さるようになすった方が好くはないでしょうか。お為事なんぞは、少しの間廃しておしまいになってね。御一しょに散歩でもしようじゃございませんか。ねえ。内から御一しょに出る事にして。」 「そうさなあ。」 「わたくしこれからあなたを手放さないようにしようかと思いますの。」  男はびっくりした様子で、急に女の顔を見た。 「どうなすったの」と女は問うた。 「なんでもないよ。」  二人は公園の出口に来た。日の暮方の町の賑いが、晴れやかに二人の周囲を取り巻いた。市中一般に、春の齎した喜びが拡っていて、それが無意識に人々に感ぜられると見える。 「今から一しょに行くと丁度好い処があるが、知っているか。」 「どこでしょう。」 「プラアテルへ行くのだよ。」 「わたくし厭。こないだもあんなに寒かったじゃありませんか。」 「でもこうして町を歩いていると、蒸暑いといっても好い位だ。行って直ぐ帰ったって好い。一しょに行こうじゃないか。」男は何か外の事を考えている様子で、切れ切れにこう云った。 「変な物の言いようをなさるのね。」 「変なって、どう変なのだい。」 「何を考えているの。あなたと並んで歩いているのはわたくしよ。」  男は気抜けのしたような目附きで女をじっと見た。 「どうしたの」と、女は心配そうに云って男の肘をしっかり握った。 「うんうん。蒸暑いなあ。本当だ。己は外の事なんぞを考えてはいないよ。もし少し位外の事を考えたって、おこるのじゃないよ。」男は気の散るのを強いて直そうとする様子でこう云った。  二人は横町を抜けてプラアテルの方へ歩いている。どうもフェリックスはいつもより詞少なである。もう方々に明りが点き始めた。 二  女は突然問うた。「あなたきょうアルフレットさんのとこへいらっしゃったの。」 「なぜ。」 「だって行くといっていたじゃありませんか。」 「そうだっけな。」 「ゆうべなんだか力抜けがしたようだから行って見て貰おうか知らと云ったでしょう。」 「それはそう云ったよ。」 「それなのにおいでなさらなかったの。」 「いいや。行かなかった。」 「あの、きのうは工合が悪いと云っていたのでしょう。それなのにきょうプラアテルのような湿っぽい処へ行くのはあんまり不養生じゃなくて。」 「なに構うもんか。」 「そんな事を言っちゃあ厭。それではまるで体を悪くしておしまいなさるわ。」  男は泣き出しそうな声で返事をした。「そんな事を言わないで、一しょに行くのだよ。どうも己はプラアテルが見たいのだから。こないだ一しょに行って愉快に思った処へ、もう一遍行って見たいのだ。それあの四阿屋だな。あそこなら冷たくはないよ。」 「ええええ。」 「なに冷たいものか。きょうは一体に暖かいのだ。内へ帰るにはまだ早過ぎる。それだといって、町で晩飯を食うのは厭だ。己はきょうは町の料理屋の窮屈な部屋に坐りたくないのだ。煙の中にいるのは己には毒だ。それに人の大勢いる処も厭だ。やかましい人の声を聞くのがつらい。」最初は口早に、いつもより声高に言っていたのが、段々末の方になると声が幽になってしまった。  マリイは前より堅く男の肘を握った。なんだか心細くなったのである。それに今物を言ったら、涙声になりそうなので黙っている。  プラアテルの静かな四阿屋で、緑の木立の中の春の夜を味いたいという男の憧憬が女にも伝わった。そして暫く一しょに黙って歩いている内に、男の唇の上に、寛かな、鈍い微笑みの浮かんだのを、女が見附けた。男は女の方へ顔を向けて、そのとたんに偶然出た微笑を、楽しさの微笑みにして見せようとした。しかし男の性質を底まで知り抜いている女には、その微笑みのわざとらしいのが、容易く悟られた。  二人はプラアテルに着いた。本通りから曲って初めての並木道は、向うを見ればほとんど真っ暗である。それを通り抜けた処にちょいとした料理屋がある。その周囲の広い庭には、ほとんど明も点けて無い。巾を覆わない卓が並べてある。椅子がそれに寄せ掛けてある。その傍に、緑色に塗った、ひょろ長い柱の上に、円い硝子の明りが点してある。濁った紅の焔がちらちらとして動いている。客が二三人坐っている。その中にこの料理屋の亭主も交っている。  マリイとフェリックスがその前を通る時、亭主は立って、鳥打帽を脱いで礼をした。二人は四阿屋の戸を開けた。中には活栓で細めた瓦斯の火が明るくなったり暗くなったりしている。片隅の方に給仕の少年が坐って居眠りをしていたが、慌ただしく立って、火を明るくして、客の外套を脱ぐ手伝いをした。  二人は部屋の隅の薄暗い、静かな処に場所を取って、二つの椅子を近く寄せて腰を掛けた。それから余り選り嫌いをせずに、飲物と食物とを註文した。  給仕の行ってしまった跡は、二人きりになった。ただ入口の方から濁った赤色の火が見えているばかりである。部屋の隅は薄暗くなっている。 三  二人はまだ強情に黙っていた。とうとうマリイが堪え兼て、顫声をして言い出した。「あなたどうしたのだか、そう云って下さいよ。」  男の唇の上にはまたさっきの微笑みが現われた。「なんでもないよ。そんな事を聞くものじゃない。己の機嫌買な事は、お前知っているはずじゃないか。それともまだ知らないのかい。」 「それは知っていますわ。でも、今のあなたの様子は、いつも機嫌を悪くした時とは違うわ。何か別に厭な事があるのだわ。何かわけが無くてはならないと思うの。それをなんだか云って下さいよ。お願いだから。」  男はじれったそうな顔をした。丁度そこへ給仕が註文したものを持って来た。男はそれを好い事にして、女が「仰しゃいよ、仰しゃいよ」と云っても、給仕の方を目で見て、じれったそうな身振をするばかりである。給仕は出て行った。 「さあ二人きりになりました」と、マリイは云って、椅子をぴったり傍へ寄せて男の両手を取った。「何かあるのでしょう。わたくしどうしても聞かずに置くわけには行きませんわ。まさかもうわたくしが厭になったのじゃないでしょうね。」  男は黙っている。女は男の手に接吻した。男はその手を徐かに引いた。「どうなすったの。」  男は助けを求めるようにあたりを見廻した。「廃してくれ。そんな事を聞かないでくれ。そんなに人をいじめるものじゃない。」  女は男の手を放して、顔をじっと見た。「わたくしどうしても聞かないで置くわけには行きませんわ。」  男は立ち上がって、深い息をした。それから両手で頭を押えて云った。「ほんとにお前は己を気違いにしてしまう。もう問わずに置いてくれ。」こう云って、そのまま立っていて、何かじっと見詰めている。女は心配そうに男の見ている方角を見たが、男は空を見ているのである。  男は腰を掛けた。息使いが前より静かになって、顔には疲れたような優しみが拡がった。それから数秒時間立つと、今まで自分を襲っていた恐怖が全く消えてしまった様子で、小声に優しく、「飲まないか、食べる物も来ているぜ」と、女に言った。  女は男の云うなりに、ナイフとフォオクとを手に持ったが、心配気に「あなたは」と云った。 「己も遣るよ」とは云ったが、男はやはり動かずにいて、飲物にも、食物にも手を触れない。 「それではわたくしも食べられないわ」と、女が云った。 四  男はようようの事で飲み食いをし始めた。しかし一口食ったかと思うと、黙ってナイフもフォオクも置いてしまって、手で額を支えて、女の方を見ないでいる。女は上唇と下唇とを堅く結んで、暫く男の様子を見ていたが、その額を押さえている手を引き退けて、隠していた顔を覗き込んだ。  男の目には涙が一ぱいになっている。女がそれを見て、「あら、フェリックスさん」と声を立てるや否や、男は泣き出した。さも思い迫ったような歔欷をするのである。女は男の頭を自分の胸のところへ引き寄せて、髪の上を撫でて、額に接吻して遣った。それから涙を口で吸い取って遣ろうとした。続いて「フェリックスさん」と呼んで見た。男は次第に泣き止んだ。「どうしたのか仰ゃいよ。」  男は女の胸に顔を埋めている。そして鈍い、重くろしい声で、切れ切れに云った。「己はどうしても言わずに置こうと思ったのだ。マリイ。聞いてくれ。もう跡たった一年だそうだ。それでおしまいだというのだ。」言い畢って男はまた声を立てて劇しく泣き出した。  女は死人のような顔色になって、口を開いたままで聞いている。男の言う事が分らない。分らせたくない。冷やかな、恐しいある物が吭を締め付ているようである。  それから突然女が「フェリックスさん」と叫んで、男の前に身を倒して、その時力無く俯向いた男の泣顔を見た。男は女が自分の前に跪いたのを見て、「お立ちよ」と囁いた。女は器械的に、言うなりに立ち上がって、向いに腰を掛けた。もうなんにも問う事も言う事も出来ない。  およそ二三秒時間二人とも黙っていたが男が突然空を睨んで、何か不思議な重い物が自分を押付けるように感じたと見えて、声高く「ああ、溜らん、溜らん」と云った。  女はやっと声が出て、「行きましょうね」と云ったが、それより上の事は言われなかった。 「うん行こう」と、男は何か体から振落すような身振をして云った。それから給仕を呼んで勘定をして、二人は足早に四阿屋を出た。  外では春の夜の沈黙が二人を包んだ。暗い並木を通る時マリイは立ち留まって、男の手を握って云った。「わけを話して下さいな。」  男はすっかり落ち着いた。そして今女に言うことは簡単で、さっぱりしていて、ほとんど何も変った事ではないらしく聞えた。男は女に取られていた手を引き放して、女の頬をさすった。そこは真っ暗で互に顔が好く見えない位である。 「ミッチェルや。びっくりしてはいけないよ。なにしろ一年というものは随分長いものだからね。実は己はもう一年しか生きていないのだ。」 「あなたそれは気が変になってそんな事を仰しゃるのでしょう。」女の声は叫ぶようであった。 「一体己がこんな事をお前にいうのは吝なのだ。馬鹿だと云っても好いかも知れない。しかし考えて見てくれ。そういう事を自分一人だけが知っていて、絶えずその事を思いながら、心寂しく歩き廻っているという事は、事に依ったら己にはどうせ久しくは出来なかったのかも知れない。事に依ったらまたお前の方でも己というものが一年先にはいないのだという考えに段々慣れてくれる事が出来るかも知れない。兎に角こうしてぼんやり立っていたって為方がない。一しょに行こうじゃないか。己の方ではもうその考えに馴染んでしまっている。アルフレットのいう事なんぞはもう疾うから己は当にしていないのだ。」 「それではあなた、アルフレットさんの処へはおいでなさらなかったのですね。あの方でなくてはほんとの事は分かりゃしませんわ。」 「実はこの二三週間というものは、どうも己の病気の事が不確なので、己は気になって溜まらなかったのだ。それが今は大ぶ好くなった。兎に角実際の事が分かったのだからなあ。己は大学のベルナルドさんの処へ行ったのだ。為合せにあの人は本当の事を言ってくれた。」 「なんだか知れるものですか。その方の言ったのが譃かも知れないわ。あなたが御用心をなさるようにおどかしたのかも知れないわ。」 五 「いや、いや。お前は知らないが、己は極く真面目な話をしたのだ。己はどうしても本当の事を言って貰わなくてはならないといって、ベルナルドさんに迫ったのだ。お前の身の上も、この病気次第でどうにかして置かなくてはならないのだからな。」 「フェリックスさん」と叫んで、女は両手で男に抱き付いた。 「そんな事は余計な事だわ。あなたが死んでしまえば、わたくし一日も生きてはいませんわ。一時間も生きてはいませんわ。」 「さあ行こう。余計な心配をしないでな」と、男が小声で云った。  二人はプラアテルの出口の所に来た。歩いている周囲が賑かになった。明りも点いていて物音もする。町を走る車輪の音、電車の鈴や笛の音、頭の上を走る重い汽車のはためく音などがする。女はぎっくりした。この身の周囲の生活が、突然自分を嘲笑って、敵意を表しているように感ぜられて、切なかったのである。女は男の手を引っ張って、大通を除けて静かな横町から内へ帰り掛けた。  女は馬車を雇う事を男に勧めようかと一寸考えたが、それを口に出す事を躊躇した。ゆっくり歩けば好いと思ったからである。  女は男の肩に頭をぴったり寄せ掛けて、中音で云った。「譃だわ。あなたが死んでしまうもんですか。もしあなたが生きていなけりゃあ、わたくしも生きてはいないわ。」 「まあ、そう云わないものだ。も少しすると、お前の考えだって変って来る。己はもう何もかも好く考えて置いたのだ。実に妙なものだよ。もうこれまでで、これから先は駄目だとはっきりと限界を立てて見せられたのだからなあ。」 「そんな界なんぞがあるものですか。」 「それがあるから妙なのだよ。ほとんど想像の出来ないような事ではないか。己だって今こう云っている一刹那にはどうも譃のように思われてならない。実に不思議なわけじゃないか。こうしてお前の傍を歩いていて、大きな声をしてお前に何か饒舌っているくせに、一年先になると冷たくなって、事に依ったら腐ってしまっているというのだからな。」 「お廃しなさいよ。お廃しなさいよ。」 「その時お前はやはりこのままでいるのだ。このままそっくりしているか、それとも己が死んだ跡で少しは泣くだろうから顔が今よりは少し蒼くなっている位なものだろう。それからまた夜が来る昼が来る夏になる秋になる冬になる。それから春が来る。そうすれば己の一週忌だ。おや。どうしたのだい。」  女はしくしく泣いている。涙が頬から領筋へ伝わっている。  男の顔には絶望の微笑みが現れた。そして息を歯の間から出すような囁き声で、「堪忍しろ」と云った。声は咳枯れて惨酷に聞えた。  女は歩きながら、歔欷をしている。男は黙っている。丁度市の公園の前を通っている。暗い、静かな、広い町の上へ、公園の木立の中から、接骨木の花の香が、軽く悲しげに吹いて来る。二人は徐かに歩いている。公園の反対の側には単調な灰色や黄色に見える高い家が並んでいる。夜の青空に聳えている、カルルスキルエの大屋根が、次第に近くなって来る。二人はまた横町へ曲って、間もなく自分達の住んでいる家に着いた。  薄暗い明りの点いている梯子段を、二人は徐かに登って行く。誰かの家の窓や戸の奥で、女中達の話して笑っている声がする。  二三分立つと、二人は我が家に這入って戸口の戸を締めた。窓の戸は開けてある。寝台の傍に据えてある小卓の上には、常の花瓶に赤い薔薇の花が活けてある。その匂が部屋に満ちている。窓の外には幽に物音がしている。二人は窓から外を覗いて見た。向いの家は明りも点いていない。総てひっそりしている。男は長椅子に腰を掛けた。女は窓の鎧戸を締めて窓掛を引いた。それから蝋燭に明りを点けて卓の上に置いた。男は女のしている事を見ずに考え込んで坐っている。女は傍に寄って、「フェリックスさん」と呼んだ。男は仰向いて微笑みながら、「なんだい」と云った。 六  その男の声が優しく静かに響いた時、女は言うに言われない、切ない感じに襲われた。どうしてもこの男を死なせるわけには行かない。そんな事があってなるものか。それは譃に違いない。そんな事のありようがない。そう思う心を男に話して聞かせようと思って、男の前に蹲んで、下から見上げたが、声が出なかった。そこで頭を男の膝に載せて泣いた。男は両手で女の髪を摩って、「泣くのじゃないよ」と優しく囁いた。それでも泣くので、「もう廃せよ」と言い足した。  女は頭を上げた。そしてなぜと云うわけもなく不思議な希望が萌して来た。「嘘でしょう。ねえあなた。」男は女に長い熱した接吻をした。そしてほとんどすげないように、「本当だよ」と言い放って立ち上がった。  男は窓の処に行って、そこの蔭になっている処に立っている。蝋燭の光は男の足の所にちら付いているだけである。暫くして男が言い出した。「どうも為方がないからお前がそういう考えに慣れてくれるより外はないよ。死ぬるといえば変なようだが、一年立てば別れるのだと思えば、それまでの事ではないか。己が傍にいなくなったと思うだけで、この世にいなくなったのだという事を知らずにいても好いのだ。」女はその詞を聞かない様子で、顔をぴったり長椅子に押し付けている。男は詞を続けた。「なに哲学上に考えて見れば、そんなに恐ろしい事ではない。まだこれから楽しむ時が大ぶあるのだ。そうじゃないか。」  女は涙のない、大きい目をして突然男を見た。そして駈けて来て両手で抱き付いて、胸と胸とを押し付けた。そして囁いた。「わたくし一所に死にますわ。」  男は微笑んだ。「なんだ。そんな子供らしい事を言わないものだ。己はお前が思うほど吝な性根の男ではない。それにお前に己の運命を分たせる権利は、己は持ってはいないのだ。」 「でもあなたが居なくなっては、わたくし生きていられないのですもの。」 「考えて見ろ。己というものの世の中にいる事を知らずに、お前は長く生きていたのだ。それからお前とこんな中になってからもう一年になるが、そのお前と知り合になった時、己はもう今の病気を持っていたのだそうだ。ただ己がそれを知らずにいただけの事だ。知らずにはいたがなんだかそんな事があるのではないかと己にはぼんやり知れていた。」 「いいえ。あなた今だってそんな事が本当に分かっているのではないわ。」 「いや。ところが己にはそれが分かった。分かったからきょうお前に打明けるのだ。お前の考え次第できょうから己と別れてくれても好いのだ。」  女はいよいよ緊しく抱き付いた。男が、「どうだ、己のいう通りにしないか」と云っても、女は返事をせずに、顔を見上げている。相手のいう事が分からない様子である。 「お前は綺麗だなあ。そして底の底まで健康なようだ。お前のような人間は人生に対して十分の権利を持っているのだ。どうぞ己に構わないで、別れてしまってくれい。」 「いいえ。わたくしはあなたと一しょに生きたのですから、あなたと一しょに死ななくては」と、叫ぶように女は云った。  男は女の額に接吻した。「そんな事をさせるものか。己が決して承知しない。どうぞそんな考えを綺麗に頭から除けてくれい。」 「どうぞそう仰ゃらないで。わたくしは誓います。」 「待った。そんな事をするものじゃない。そんな事をすると後になってから、あの時の誓いを取消してくれと、己に頼むようになるからな。」 「わたくしをそんな女だと思っていらっしゃるの。」 「なに。お前を疑っているのではない。お前の己を愛していてくれる事は、己も好く知っている、お前はあたりまえで己を見棄てるような事はない。しかし。」 「いいえ。どんな事があってもわたくし別れるのは厭。」  男は首を振っている。女は身を寄せ掛て、男の両手を取って、それに接吻した。 「ほんとにお前は可哀い奴だなあ。それを思うと、己は悲しくてならない。」 七 「いいえ。悲しくなんぞお思いなすっては厭。たとえ二人の身の上にはどんな事があっても、二人は別れずに、お互の運命を分つのだと云って下さい。」  男は真面目にきっぱりと云った。「いや。そんな事は廃せ。己はこれでも並の人間とは違う積りだ。並の人間にするような事はしたくない。己には何もかも分かっている。今お前が始めて受けた苦痛に促されてそう云ってくれるのを、己が好い事にして同意して、その詞に酔わされてしまっては、己は吝な野郎になってしまう。どうしても己は行ってしまわなくてはならない人間だ。そしてお前は跡に残るのだ。」  女はまた泣き出した。男は女の髪を撫でて女に接吻して宥めようとしている。二人とも窓の処に立ったままで、暫くはなんにも言わない。こうして何分か立った。蝋燭は段々燃え下がって行く。  暫くして男は女の体を放して、長椅子の処へ行って腰を掛けた。なんとも言いようのない疲労に襲われたのである。女は跡から付いて行って傍へ腰を掛けた。そして男の頭を引き寄せて、自分の肩へ寄り掛からせた。男は優しく女と顔を見合って、目を閉じたが、直ぐに寐入った。  淡く冷に暁が這い寄って来た。フェリックスが目を覚して見ると、自分の頭は女の胸に寄せ掛けてあった。そして女はぐっすり寐ていた。男はそっと起きて窓の処へ出て町を見下ろした。明方の灰色な空気が漲ってまだ人影はない。体がぞくぞくした。数分間すると、男はそのまま寝台の処へ行って、その上に倒れて天井を見詰めていた。  男が二度目に目の覚めた時には、もう室内がすっかり明るくなっていた。マリイは寝台の縁に腰を掛けている。接吻して自分を覚してくれたのである。二人は微笑み交した。ゆうべの事は皆悪い夢ではなかっただろうか。男も自分の体がすっかり健康で何事もないように思われる。外には日が照っている。町からは賑かな物音がする、何もかも活動している。向いの家には窓の戸が処々開けてある。部屋の卓の上には、いつもの朝と同じように朝食の支度がしてある。部屋は明るい。隅々まで日がさしている。細かい塵が日光の中で踊っている。総て希望の影が満ちている。  医学士が昼食後の葉巻を喫んでいるところへ、女の客が来た。まだ患者を見るはずの時間にはなっていないので、学士は少し不愉快に思った。そこへ客は這入って来た。 「マリイさんじゃないか」と、学士は驚いて呼び掛けた。 「こんなに早く参ったのですけれど、おおこりなすっては厭よ。御烟草はどうぞそのまま上がっていて下さいまし。」 「それじゃあ御免蒙って喫むよ。しかしなんの用ですか。どうかしたのですか。」  女は片手に日傘を持ったままで、片手を卓の上に突いて、学士の前に立っている。「本当でしょうか。フェリックスさんがひどく悪いというのは。おや。あなたお顔の色が変りましたわ。そんなら今までわたくしに隠していらっしゃったのね。なぜ言って下さらなかったの。」語気頗る急である。 「あなたは何をいうのです。」こう言い掛けて学士は立ち上がって、部屋の中をあちこち歩き出した。「あなたはどうかしているのだ。まあ、そこへお掛けなさい。」 「あなたわたくしの申した事に御返事をして下さいまし。」 「それはあの男は病身ですとも。それはあなたにだって疾うから分っているでしょう。」 「いいえ。その事ではありません。助からないそうじゃありませんか。」女の声は叫ぶようである。 「なんですと。そんな事を。」 「いいえ。わたくしは知っています。フェリックスさんも知っています。きのう大学のベルナルドさんの所へ参ってすっかり聞いて来ましたのだそうです。」 「大学の教授だって随分見損う事があるものですよ。」 「だってあなたフェリックスさんを何遍も診察なさったのでしょう。どうぞわたくしに本当のところを言って下さいまし。」 「一体そういう問題にはたしかに本当だという判断は下せないものなのですよ。」 「それはあなたが御自分のお友達の事だからと仰ゃるのでしょう。ね、だから言われないと仰ゃるのでしょう。仰ゃらなくったって、あなたのお顔に出ているわ。あ、本当だ、本当だ。まあ、わたくしどうしよう。」 「困りますな。まあ、気を落ち着けて下さい。」 八  女は鋭く学士の顔を見た。「本当ですね。」 「さあ。あの男は病気ですよ。それはあなただって知っていましょう。」 「それが直らない病気なのでしょう。」 「一体なんだってそんな事をあの男に言ったのか知らん。それに。」 「ねえ、あなたどうぞ望みがないのなら、わたくしをいたわって無駄な望みを起させないようにして下さいまし。」 「しかしそんな事は確と予言の出来るはずのものではないのです。随分長く生命が保てる事もあるのですから。」 「ええ、ええ、それが一年なのでしょう。」  学士は唇を噛んだ。「なんだって外の医者の所なんぞへ行ったのでしょう。」 「それは知れていますわ。あなたが本当の事を言ってお聞かせなさらないからです。」 「下らない。実に下らない。馬鹿な事を言ったものだ。言って聞かせてなんになるというのだろう。」医学士アルフレットは不平に堪えない様子である。  この時戸が開いてフェリックスが這入って来た。そしてマリイを見て云った。 「大方こんな事だろうと思った。」 「おい。君は馬鹿な事を遣ったね。実に馬鹿げている。」学士はこう呼び掛けた。 「君、いろんな言草は廃してくれ給え。君が友人として僕をいたわってくれた段は実に感謝する。それが好意というものだろう。」  女が詞を挟んだ。「あの大学の先生の仰ゃったのは。」 「廃せよ。これまではアルフレット君だって、お前だって、己を騙して安心させて置いても好かったのかも知れない。しかし今から先そんな事をすれば、それは下手な喜劇というものだ。」  学士は云った。「君は無経験なのだ。僕が言って聞せるがね、このウィインの町を歩き廻っている人間の中には、もう二十年も前に死の宣告を受けた事のあるものが何人あるか知れないのだ。」 「しかしその宣告を受けて、宣告通りに死んだものの方が無論多いのだろう。」  学士は室内をあちこち歩いている。「第一こういう事を考えてくれ給え。きのうときょうと、君の体になんの変った事もないのだぜ。そこできょうから君が前より養生をして、今までより僕の言う事を好く聞いてくれれば、それだけはたしかに得だ。丁度八日前の事だが、僕のところへ五十になる男が遣って来た。」 「待ち給え。分かっているよ。その五十になった男が二十の時に不治の病だといわれて、今でも元気が好くて、子供が八人とも達者でいるというような事を君は話すのだろう。」 「まあ、そんな事だがそれが事実なのだ。実際そういう人がある。」 「しかしね、世間に奇蹟というものがあるとしても、それが僕の体にあろうとは僕は思わないのだ。」 「奇蹟だと。大違いだ。僕の話すのは自然の事実だ。」  女がまた詞を挟んだ。「あの、ちょいとフェリックスさんの顔を御覧なすって下さい。どうもわたくしには昨年の冬よりは御様子が好いように見えるのですが。」  学士はフェリックスの前に立ち留まった。「まあ。養生をしなくてはいけないのだ。これから二人でどこか山奥の方へ行ってすっかり懶けるのだね。」  女は学士の詞を歓迎するように答えた。「いつから行ったら好いのでしょう。」  フェリックスは遮った。「下らない。」 「それから秋になると南の方へ旅行するが好い」と学士が云った。 「それから春になるとどうしろというのだ」と、フェリックスは嘲けるように云った。 「春になるとあなた直っていらっしゃるかも知れないわ」と、女が声に力を入れて云った。  フェリックスは笑った。「直る。そうさな。兎に角苦痛が無くなっているのだろう。」  学士は憤慨した調子で云った。「僕はいつでも考えているのだが、内科の大先生なんというものは、どれもどれも心理学というものを知らないのだ。」 「そうさ。人間という者は真理には耐えないと云う事を先生方は知らないのさ。」 九 「ところがそんな真理だのなんのというものはないのだ。僕の考えでは、先生君をおどかして、君に摂生をさせようと思ったのだろう。どうもその位な事に違いない。そこで君がしっかり摂生をして、直ってしまったところで、何も向うの耻にはならない。ただ君に警戒を加えたと云えば済むのだ。」 「もうそんな幼稚な言草は廃め給え。僕は教授と極く真面目に話した。どうしても正確なところを聞かなくてはならない理由があるのだという事を、向うに呑み込ませたのだ。詰まり親戚の処分だねえ。そういう理由は大抵向うが有力だと感じてくれるからね。一体もう疾うから僕は不確な診断に悩まされて、我慢がし切れなくなっていたからね。」  学士は憤然とした。「それが違うのだ。今だって君がなんのたしかな事を知っているものかい。」 「いや。今はたしかなところを知っているよ。幾ら君がごまかそうとしたって駄目だ。僕は考えているが、こうなっては僕の最後の一年をなるべく有利に過す方法を講ずるより外はない。今に君に見せて遣る。僕はこう見えても、笑いを含んでこの世に暇乞をして見せるよ。おい、ミイツ。泣くな。己がいなくなった跡で、まだこの世界がどの位面白いか、お前はそれを夢にも知らないのだ。アルフレット君、君はどう思う。」 「廃し給え。そんな事を云ってマリイさんを切ながらせて、それがなんになるのだ。」 「なるほど。それはそうかも知れない。結末を付ける事は、早く結末を付けるに限る。おい、ミイツ。お前は直ぐ己と別れて、己を一人で死なしてくれ。」  女は突然学士に向って叫んだ。「あの、どうぞわたくしに毒を調合して下さいまし。」  学士は声を励まして云った。「いやはや、それでは二人共気が違っているというものだ。」 「いいえ。毒を下さいまし。わたくしはフェリックスさんが死んだ跡で、一秒時間だって生きていようとは思いません。わたくしのこの心持をフェリックスさんに見せて遣りたいのです。なんだってこれが分からないのでしょう。ええ、口惜しい。」 「おい。ミイツ。そんなら今お前に言って聞かせる事がある。今云ったようなむちゃな事をもう一遍云って見るが好い。己はお前の目に掛からない処へ隠れてしまって、生涯お前に逢わない事にする。お前の運命を己の体に結び付けてしまうという権利は己には無いからな。また己はそんな責任を負いたくもなんともないからな。」  学士がこう言い出した。「フェリックス君。どうもそういう工合では僕は君に直ぐに旅行をして貰わなくてはならない。あすよりはきょう立つが好い。そんな風になっては、君方は何をし出すか分からないから、どうも傍で構わずに見ているわけには行かない。僕が今晩にも君方を停車場まで送って行こう。先ずこの土地を離れて、清い空気を呼吸して、気を落ち着けたら、君方も普通な考えに戻って来るだろう。」 「それは僕はどうでも好いよ。どこでこうしていたって、全く同じ事だからねえ。詰まり。」フェリックスはこう言い掛けた。  学士はそれを遮るようにして云った。「待ち給え。差当り何も君が絶望するような状況はちっともありはしない。だから余計な、悲しげな話は暫く度外に置いて貰いたいものだね。」  マリイは涙を拭いて、難有そうに学士の顔を見た。  フェリックスは微笑みながら云った。「君は豪いよ。大した心理学者だ。なんでも医者は患者を荒っぽく扱うと、その患者が丈夫なような気になるものと見える。」 「兎に角僕は君の医者というよりも、君の友人だという訳だからね。」 「好いよ。そんなら旅行する。あすどこか山の方へ立とう。」 「無論そうしなくてはいけない。」 「兎に角君には感謝するよ。そこでもうこっちとらは行こうじゃないか。あの戸の外で咳払いをするのは患者だろう。ミイツ。行こう行こう。」こう云ってフェリックスは学士と握手した。  マリイは暇乞いをして、学士に言った。「どうも難有うございました。」 「なに。僕にお礼なんぞを言うに及ぶものですか。あなたも気をしっかり持って、フェリックス君に気を付けて遣らなくてはいけないのです。そんならいずれまた。」 十  二人は梯子段を降り掛かった。途中でフェリックスが突然云った。「実に親切な男だなあ。どうだい。」 「ええ、ええ。」 「それにあんなに体が好くて若いのだから、これからまだ四十年位生きられるのだろう。それとも百までも生きるかしら。」  二人は往来へ出た。その周囲には歩いたり、饒舌ったり、笑ったりして生きていて、死ぬる事なんぞは考えない人がうようよしていた。  二人は湖水にぴったり食っ付いている小家を借りた。本当の村とは離れて、一列の家が水に沿うて立てられていて、それがしまいには離れ離れになっている、その一番端の一軒である。家の背後は傾斜地になっていて、そこから牧場が高い処まで続いている。そのまた上には畑に夏の作物の花が咲いている。そのまた奥の方には、めったに好くは見えないが、微に遠山のぼんやりした輪廓が現われている。家の前には階段がある。その階段を支えている四五本の褐色をしている、濡った木の柱は、澄んだ水底に立ててある。そこへ出て見ると向いの岸にごつごつした岩が鎖のように長く続いているのが見える。その上の方には沈黙した大空の冷やかな輝きがある。  ここへ来てから数日間二人は意外な落ち着きを感じた。自分でもどうしてこんなに気が鎮まったかと不思議に思う位であった。なんだか運命の威力というものも常に住っている処でなくては、人の心の上に抑圧を逞ゅうする事が出来ないのではないかとさえ思われた。いつもの住いで自分達を強く圧し付けていたような運命が、ここへ移り住んでからは、どうした事か、少しも力を逞ゅうしなくなった。そればかりではない。二人は知り合になってから此方、今のような心を新たにするような寂しさを味わった事はなかった。折々二人は顔を見合せて、妙な心持をしている。なんだかちょっとした喧嘩か思違えかをした跡で、その事を避けて口に出さずにいるような心持なのである。天気の好い夏日和に、男は余り気分が好いので、またそろそろ為事を始めようかとさえ云った。女はそれに同意しなかった。 「だってあなた、本当に心から健康におなりなすったのではないのですからね」と、微笑みながら云った。男が持って来た本や書物の積み上げてある小卓の上に日影が躍っている。窓からは湖水を渡って、柔かい、人に媚るような空気が吹き入れる。その空気は世界のあらゆる不幸をまるで知らないような空気である。  ある晩の事二人はいつものように、年の寄った土地のものに舟を漕がせて湖水へ出た。その舟は好く出来ていて、幅も広く、それに柔かい、弾力のある腰掛が取り附けてある。いつもそれへ女が腰を掛けると、その足下に男は横になっている。一枚の暖かい、鼠色の毛布を持って来て、それを敷物にも上掛けにもするのである。そこに横になって頭を女の膝の上に載せている。広い、静かな水の上に軽い霧が立ち籠めている。なんだか夕闇がゆるやかに湖水の底から登って来て、次第に岸の方へ拡がって行くように感ぜられる。きょうは男が奮発して、久し振に葉巻を喫んで見た。徐かに煙を吹きながら湖水の波や、その向うの岩の頭に薄黄いろい夕日の差しているのを眺めている。  男は言い出した。「おい。ミイツ。お前あの上の方を平気で見る事が出来るかい。」 「どこの方でございますの。」  男は天を指さした。「真っ直ぐにあの上の方を見るのだ。あの藍色な処を見るのだ。己にはそれが、なんだか気味が悪いようで出来ないから、お前に聞くのさ。」  女は上を見た。そして数秒間見詰めていた。「わたくし好い心持ちですわ。」 「そうかなあ。きょうのようにすっかり晴れ切っていると、己にはとても見ていられない。なんという遠い事だろう。身ぶるいがする程遠いのだからな。雲でも上の方にあると少しは気持ちが好いのだ。雲というやつはまだおれ達と心易いものなのだからな。雲を見るのはお馴染のものを見るようなものだ。」 十一  その時舟を漕いでいる男が口を出した。「あしたは雨でございましょうね。ひどく山が近く見えますから。」こう云って船頭は艣の手を停めると、舟は音もせずに、ゆるやかに波の上を滑って行く。  フェリックスは咳払いをした。「妙だ。どうも葉巻はまだ己には好くないようだ。」 「そんなら水の中へ棄てておしまいなさいな。」  フェリックスは火の付いたところが赤く見えている葉巻を、指で摘んで振り廻していたが、とうとうそれを水の中へ投げ入れてしまった。そして顔をマリイの方へ向けずにこう云った。 「どうも己はまだ本当に健康にはなっていないなあ。」 「好い事よ。そんな事を言うのはお廃しなさいよ。」こう遮るように云って女は徐かに男の髪を撫でた。  フェリックスは云った。「これから雨でも降り出したら、何をしようかなあ。そうなったら、己が為事をしたって、文句を言いはしないだろうな。」 「それはいけませんわ。」  女は身を屈めて、男と顔を見合せた。その時男の頬が赤くなっているのに気が付いた。 「そんな厭な事をお考えなさらないが好いわ。もうそろそろ帰ろうじゃありませんか。寒くなって来るようですから。」 「なに。寒くなって来ると。己は寒くはない。」 「それはあなたそんな厚い毛布を着ていらっしゃるのですもの。」 「そうだったなあ。お前が夏服一枚でいるのを己はまるで忘れてしまっていた。随分勝手だったなあ。」  フェリックスはこう云って、船頭の方に向いて、漕ぎ戻せと言い付けた。  艣を二三百遍ばかりも動かしたかと思うと、もう家が近くなった。その時フェリックスが右の手で左の手の脈を抑えているのに、マリイは気が付いた。「あなたどうかなすったの。」 「ミイツ。どうも己はまだ健康でないよ。」 「なぜ。」 「どうも熱が出たようだ。下らない。」  マリイは心配げに云った。「きっとあなたの思違えですわ。兎に角直ぐにお医者の処へそう云って遣りましょうね。」 「なんだ。それがさぞ役に立つだろうよ。」  舟が岸に着いて、二人は下り立った。家へ帰って見れば、部屋はほとんど真っ暗になっている。それでもまだ日の内の温まりが残っている。女が夕食の支度をする間、男は腕附きの椅子に腰を掛けてじっとしている。  男は突然云った。「それでももうここへ来てから八日立ったなあ。」  卓の上へ、食器を並べていた女は、急いで男の傍へ来て背後から両手で肩を押さえた。「何かまた詰まらない事を考え出していらっしゃるのね。」 「廃せよ。」男はこう云ってその手を振り落として立ち上がって、卓の傍へ腰を掛けた。女はそこへ付いて行った。男は指先で卓の上をとんとんと叩いている。そしてこう云った。「実にまるで防禦のないところへ敵が突然襲撃して来るようなものだからな。」 「あら、そんな事を。」女はこう云って自分の椅子を男の傍へ寄せて腰を掛けた。  男は目を大きく睜って部屋中をあちこち見廻している。それから何事か腑に落ちぬという様子で、腹立たしげに頭を振って、それから歯の間から空気を押し出すようなものの言振をして、こう云った。「実に防禦がないのだ。誰に救いの求めようもない。事柄は何もそんなに恐れるには及ばない事柄なのだ。ただ防ぐという事が、まるで出来ないのが溜らない。」 「あなた、後生ですから、そんなにいらいらしないで下さいよ。それ程の事ではないと、わたくし思いますの。ただ御安心のためですから、わたくしがお医者の処へそう云いに参っても好いでしょう。」 「どうぞ廃してくれ。全体また己が病気の事を言い出したのが悪かったから堪忍してくれ。」 「あら。そんな事を。」 「もう己は決して言わないよ。さあ、注いでくれ。注ぐのだ注ぐのだ。よし。何か外の話をしないかい。」 「そうでございますね。なんのお話にしましょうか。」 「なんでも好いよ。なんにも話す事がないようなら、何か読んで聞せてくれても好い。直ぐでなくても好いよ。食事が済んでからで好い。食べないか。己も食べるから。食は進む位だ。なかなか旨い。」こう云って食べ始めた。 「それ御覧なさい。」  女はわざとらしい微笑をして云ったのである。二人は飲んだり食ったりし始めた。 十二  それから数日間暖かい雨の日が続いた。二人は夕方になるまで、部屋の中にいたり、階段の上に出たりして暮した。二人で本を読んでいる時もある。窓から外を見ている時もある。またある時は女が針為事をしていると、男は傍でそれを見ている。骨牌なんぞをもして見る。男はある日女に将棋の駒の行き道を教えたり何かもした。またある時は男が長椅子の上に横になっていると、女はその傍へ来て腰を掛けて、本を読んで聞かせる。兎に角昼も夜も徐かに過ぎて行く。男は気分が悪くはなかった。天気は悪くても体に異状もなく、その後熱も出ないのを、男は喜んでいた。ある午後の事であった。久し振に長雨が降り止んで、空が少し明るくなり掛かって来た。二人は出窓に腰を掛けていた。男がこれまでの話の続きでもなんでもなく、出し抜けにこう云った。「一体この世界には死の宣告を受けたものばかりがうようよしているのだなあ。」  女は針為事の手を停めて、顔を上げた。  男ばかり語り続けた。「それはこう云うわけだ。譬えて見れば、誰れかお前の処へ来て云うのだな。あなたは千九百七十年五月一日にお亡くなりなさいますよというのだな。お前だって何も百年生きているわけではないが、そう云われた日には、それからは千九百七十年五月一日が気になって、生涯厭な思いをし通しにするのだ。」  女は黙って聞いている。  男は今日の光が洩れ始めて、湖水の水がきらきらとし出したのを眺めながら語り続けた。「またこんな人間もいるだろう。其奴はきょうあたり大丈夫で、息張って歩いている。ところが詰まらない、偶然の出来事で、此奴は一二週間の内に死んでしまうのだ。そのくせ死という事なんぞをまるで考えてはいない。そうじゃないか。」  女は云った。「そんな馬鹿な事を考えるのはお廃しなさいよ。今ではもうあなたすっかり健康になっていらっしゃるのが、御自分にもお分かりになっているのでしょう。」  男は微笑んで黙っていた。 「だってあなたなんぞこそ健康になる質の人ですわ。」  男は声を出して笑った。「お前。己が運命というものが分らないでいると思うのかい。今ちょっと工合が好くなったからといって、己がそれに騙されていると思うのかい。己は偶然自分の前途を知る事が出来て、死ぬる日の近いのが分って、外の豪い奴のように、哲学者になってしまったのだ。」 「もう大抵にしてお廃しなさいよ。後生ですから。」 「はいはい。拙者は今に死にますから、さよういたせばあなたに死のお話しなんぞをして、御迷惑を掛ける事も無くなります。」  女は手為事を置いて、男の傍へ寄って来て、確信しているような調子で云った。「あなたが大丈夫無事でおいでなさるという事が、わたくしには本当に分っていますの。この頃のあなたの体の好くなった事ってありませんわ。それが御自分ではお分りにならないのでしょうね。ですから死ぬる事なんぞをまるで考えずにおいでなされば、それであなたとわたくしとの上に落ちて来た暗い影はまるで消えてしまうのですわ。」 十三  男はじっと女の顔を見ていた。そしてこう云った。「どうもお前には絶対的に物の真相を理解する事が出来ないのだ。どうかして具体的に分からせて遣らなくてはならない。ちょいとこれを見い。ここになんと書いてある。」男はそこにあった新聞を手に取って、日附のところを指さした。 「千八百九十年六月十二日とありますわ。」 「そうだ。そこで考えて見ろ。この一八九零とある零の代りに一が書いてある日が来るのだなあ。その時は己はもういないのだ。どうだ分かるかい。」  女は新聞を荒々しく男の手から奪って、床の上に投げた。 「新聞に罪はないよ。」男は徐かにこう言い放って、突然立ち上がって、あらゆる陰気な考えを一時に遠く擲ったらしい様子をして、こう云った。「どうだい。あれを見ろ。綺麗じゃないか。あの水の上に日の差しているところは。それからあそこを見ろ。」こう云いながら男は階段の横の方へ捩じ向いて反対の方角を見た。平地になっている方角である。「あの畑の作物の揺れているのを見ないか。あそこへ出て見たいなあ。」 「あんまり濡っぽくはないでしょうか。」 「行こう行こう。己は外へ出たくてしょうがない。」  女は強いて留めてもどうかと遠慮した。  二人は帽子を手に取って、外套を引っ掛けて、畑の方へ行く道に掛かった。空はほとんど晴れ切っている。遠い山の端に色々な形をした白い霧が掛かっている。牧場の緑が遠い金色を帯びた白の中へ消えて行くようである。  暫くして二人は穀物の作ってある畑の中の道に出た。道が狭いので二人は跡先に歩いている。外套の裾が作物の茎に触てさらさらと鳴る。少し歩いて横へ曲って木の茂っている森の中へ這入った。そこには綺麗な道の所々に腰掛が置いてある。二人は手を取り合って並んで歩き出した。  男がこう云った。「どうだい。綺麗じゃないか。それにこの匀が好いなあ。」 「雨上がりですが好いでしょうか。」女はこう言い掛けた。  男はじれったそうに首を振った。「好いよ。そんな事はどうでも好いのだ。余計な事を言い出さないでくれ。」  暫く歩いていると、木立が段々まばらになって来る。そして木の枝の間から湖水が見える。もう湖水まで百歩もない位である。狭く岬のように突き出した処があって、森の木立の続きがまばらになりながらその辺まで延びている。そこに樅の木で拵えた卓と腰掛とが置いてある。水打際には木の柵が結ってある。夕方になって少し風が出て来たので、波が岸を打っている。その風の余りが森の木をゆすって、濡れた木葉から雫を垂らし始めた。湖水の上には暮れて行く日の疲れた影が横っている。  フェリックスが云った。「こんな好い景色があるという事は、己はこれまで夢にも知らなかった。」 「ほんとに好いのねえ。」 「お前に分かるものか。景色が本当に好いという事は、暇乞いをする積りで見なくては分からないのだ。」  男はこう云って、ゆるやかに二三歩前へ歩き出して、下の方を水に洗われている柵の、細い木の上に両肘を衝いた。そして長い間きらめく水の面を見ていた。暫くして振り返ると、女が背後へ付いて来ていた。女は目に涙の出そうなのを堪えているのが知れた。  男は笑談らしく云った。「これをみんな己はお前に残して遣って行ってしまうのだ。そう云うと可笑しく思うだろうが、これはみんな己のものだ。この頃己は人生の秘密の感じが分かって来て、人間というものは無窮の占有権を持っているという事が分かった。この感じは実に偉大な感じだ。このあらゆるものが、己の自由自在になるのだ。あのごつごつした岩の上へ、己は花を咲かせて見る事も出来る。あの空に漂っている白い雲を己は追い除けてしまう事も出来る。しかしあれはみんなあのままで綺麗だから、己はどうもせずに置いて遣るのだ。お前だって己がいなくなって、一人になって見ろ。そうすると己の心持ちが分かるのだ。その時はお前もあらゆるものが自分のものになったという感じがするに違いない。」 十四  男はこう云って女の手を取って自分の傍へ並ばせた。それから片手を差し伸べて、景色を指さして、「あれがみんなだ」と云った。それでも女は、さっきの涙の出そうな目をして黙っているので、男は「もうそろそろ帰ろう」と、急に思い出したように云った。  日暮が近くなって来た。二人は岸に沿うて程なく家の前に出た。この時男が云った。「兎に角好い散歩だったなあ。」  女は黙って頷いた。 「おい。ミイツ。きょうのような散歩を、これからもまたしようじゃないか。」 「ええ。」 「だがきょうのようにお前をいじめる事は、これからは廃めにするよ。」男はさげすんで憫むような調子でこう言い足した。  それからまだ何日も立たない頃の事で、ある日の午後フェリックスはまた為事を始めて見ようかと思った。そこで紙を出して、鉛筆を手に取って、何か書きそうにして、マリイの方をちょいと見た。少し意地の悪い心持ちで、女がどうするだろう、留るだろうかと思ったのである。しかし女はなんとも云わなかった。暫くして男は紙と鉛筆とを脇へ置いて、何か意味のない書物を手に取って読みそうにした。少し読みかけて見たが、この方がよほど気が晴れて好いように思われた。まだ本当の為事は出来ないのである。なんでも少し人生を馬鹿にし切って沈黙の前途に向って、平気で未来を迎え見るようにして、哲人が遺言をするように、何か書きたい。それが望みなのである。尋常の人は遺言をしても、内々は前途にある死を恐れながら書いている。それではいけない。それに書くものは、目で見たり手で掴んだりするようなものを材料にしたくない。そんなものは皆自分が死んだ跡で、いつか亡びて無くなってしまうのである。自分が遺言として残して置くのは、一篇の詩でなくてはならない。自分が剋伏してしまった世界に向って、静かに微笑んで別れを告げる詩でなくてはならない。そういう心持は、女には話して聞かせなかった。話したところで、とても分かるまいと思うのである。どうしてもこの女なぞに比べて見ると、自分はよほど豪い人間のように思われる。毎日長い午後の時間に、男は一種高慢な心持ちになって、向うに坐っている女を見ている。どうかすると女は読み掛けた本の上に俯伏しになって居眠りをしている。額からほつれて飜れ掛かった髪が、本の上に渦を巻いている。男の心の中では、女に打明けずに、自分の考えている事が沢山あるというのが、自慢しても好い事のように思われている。自分が如何にも寂しく、如何にも偉大に存在しているように思うのである。  きょうの午後には女がまたいつものように転寝をしたので、男はそっと抜け出して、森の中を散歩した。夏の午後の、むっとするような静さが周囲を取り巻いている。なんだかきょうこそという心持ちがした。なんだか身が軽いようで、何物にも縛せられないような気がして、深い息をした。そして木の下の、重くろしい蔭を歩いていた。木の枝で遮られて、翳められたような日の光が、好い心持ちに自分を照している。日蔭も、静けさも、柔かい空気も、総て我が身の幸福であるように感じた。そしてそれを受用した。これだけの色々な柔かい、優しいもののある人生を棄てて行かなくてはならないのが、今は別段苦痛にならない。「棄てて行くと、棄てて行くと」と中音に独言を言って見た。それからまた深い息をすると、柔かい空気が、如何にも軽々と、好い心持ちに胸の中へ這入って行く。その時、一体己が病気だというのが、分らないなあと思った。しかし兎に角病気なはずだ。助からないはずだ。そう考える内に、忽ち大いに発明したというような気がした。それはその病気だという事、助からないという事を信ぜなくなったのである。そうだ。皆嘘だ。それだからこんなに何物にも縛せられないような、好い心持ちがするのだ。さっききょうこそという心持ちのしたのは、それが分ったのであった。そうして見れば人生の快楽を剋伏したのではない。死の恐怖が消え失せたのだ。もう死ななくてはならぬという事を信ぜなくなったのだ。縦い今は体が少し悪くても、いずれ直る。自分もその直って好くなる病人の内なのだ。なんだか魂の奥の片隅の方で、あるこれまで潜んでいたものが覚めて来たように思われる。目をこれまでより大きく開いて、これまでより大股に歩いて、これまでより深い息をしたいような気がする。日の光が一層明るくなって、人生の活動が一層盛んになったように思う。これだ。これだ。しかしなぜだろう。なぜこんなに突然希望に酔わせられたような心持ちになったのだろう。なに。希望ではない。それ以上の物だ。確信だ。けさまでは自分は恐怖に責められていた。咽喉を扼せられていた。しかし今は健康だ。けさも健康であったのだ。こう思って大声に「健康だ」と叫んで見た。 十五  この時男は森の出口に立っていた。目の前に湖水が濃い藍色に湛えられている。そこにあったベンチに腰を掛けて、好い心持ちになって、鏡のように平かな水の面を見渡した。そして、一体妙だな、人生を快く擲ってしまおうと思ったのは、あれは、実は体の直った快さであったかと思っているのである。  ふいと背後に軽い物音がした。それはマリイであった。見返る隙もない内に、女はそこへ出て来て、輝く目をして、顔を少し赤くしている。 「どうしたのだい」と、男は云った。 「なぜあなたお出掛けなすったの、わたくしを一人ぼっちにして置いて。わたくしびっくりしましたわ。」 「なんだ。馬鹿な。」男はこう云って女を引っ張って、側へ腰を掛けさせた。そして笑顔をして女を見て接吻した。この女はいつも暖かい、柔かに肥えた唇をしているのである。「こっちへおいで」と男は小声で云って自分の膝の上に腰を掛けさせた。女はぴったり身を寄せ掛けて、男の頸に手を搦んだ。女の姿は如何にも美しい。明るい色の髪の毛から、鬱陶しいような薫りが立つ。男はこのしなやかな、好い匀のする人を、限りなく愛する情の、胸に沸き上がって来るのを覚えた。そして目に涙を浮べて、女の手を取って接吻した。まあ、自分はどんなにかこの女を愛しているのだろうと、心に思った。  湖水の方から微かな、しゅうというような音がした。二人共頭を上げて見て、それから立ち上がって、岸の方へ歩いて行った。遠い処に汽船が見えている。二人はそれを眺めていて、汽船が段々近くなって、甲板の上の人の姿が見分けられるようになった時、始めて船の方に背を向けて、森の中を歩いて内へ帰り掛けた。二人は手を引き合って、ゆっくり歩きながら、折々顔を見て笑い交すのである。口に出る詞は昔恋の初めて萌した頃の詞と同じであった。まだ不確かなような愛情の甘い疑問と、媚びるような慰めの、親切な詞とが、二人の間に交された。二人とも気が晴れやかで、子供の心のようであった。幸福が再び返って来たのである。  重くろしい、燃えるような夏の日が来た。昼は焦げ付くように暑くて、夜は人を誘惑するように生温い。きょうの昼もきのうの昼のようで、きょうの夜もきのうの夜のようである。丁度時間が静止しているかと思われる。  二人は誰にも逢わずに籠っている。そしてお互に気を付け合うだけで、余所の人には構わずにいる。森と、湖水と、小さい家と、これだけが二人の世界である。心持ちの好い鬱陶しさが身を包んで物を考える事を忘れさせている。心配のない、笑い交す夜と、疲れた親密な昼とが二人の上を通り過ぎる。  そういう夜の続いた後のある晩の事である。蝋燭を点けたままで二人は寝ていた。目を明いたままで横になっていた女が床の上でふいと起き直った。女は穏かな眠に沈んでいる男の顔を眺めた。そして息遣いを聞いた。今ではどうも一日一日直る方に向いて行くのがたしかなようである。如何にも嬉しいので男の顔に自分の顔を摺り寄せて、男の息が自分の頬に触れるようにした。まあ、生きていると云事は、どんなに美しい事だろう。それに自分の生活の内容は、全くこの男の事で填められているのである。無くするかと思ったこの人を取り返した。いつまでも別れないように、取り返してしまった。  そう思っている時、ふいと寐ている男の息遣いが今までと違って来たのに気が付いた。軽い、抑え付けられたようなうめきをしたのである。そして男の少し開いた唇に苦痛の表情が見えた。それから男の額には汗が玉のように出ているのに気が付いて、女はひどく驚いた。男は頭を少し横へ向けた。そして唇を締めた。表情はまた平和に戻って、二つ三つ不安らしい息をした跡で、平生の息を音を立てずにするようになった。 十六  しかし女は急に心配し出して来た。出来る事なら男を呼び醒してぴったり寄り添って男の体の暖りを、男の生活を直接に身に感じて見たい。それから、なんだか不思議に自分が罪を犯しているような気がして来た。この頃男の命が助かると信じていたのが、ひどい大胆な望みであったかのように思われて来た。そしてこんな事を思った。自分が男の事を、たしかに直ると思ったというのは嘘ではなかっただろうか。実はただ直りそうな様子を見て、難有く感じていただけではあるまいか。そうして見れば何も深く自分を罪するには及ばない。これから先き放縦な心持ちになって、丈夫な人を相手にするように、十分の幸福を受けようとはしないようにしよう。今までつい夢のように歓楽を極めていたのは、あれは如何にも軽はずみな、罪の深い事であった。その罪は償わなくてはならない。そうだそうだ。一体人間の上で罪である事は、二人の間でも罪であるに違いないではないか。それとも愛情が奇蹟をする事が出来るのではあるまいか。この頃の夜のように打ち解けていたのが、却って男の健康を恢復させ掛けたのではあるまいか。女の考えはこんな風にとつおいつしていた。  突然恐ろしいうめき声が男の口から洩れた。夢現の境に、目を大きく開いて、体を半分起して、空を睨んでいる。女は覚えず大声で叫んだ。男はそれを聞いてやっと本当に目が醒めた。 「なんだ、なんだ」と、男は押し出すように云った。女はなんとも返事をする事が出来なかった。「今声を立てたのはお前かい。誰か大声を出して叫んだように聞えたが。」こう言い掛けて、男は忙しい息を衝いて、こう言い足した。「己は息が詰まるような気がした。なんだか忘れてしまったが、夢も見ていたようだった。」 「わたくし本当にびっくりしてよ」と、女は吃りながら云った。 「知っているかい。己は今寒けがしているのだ。」 「それはこわい夢を御覧なすったからですわ。」 「そんなわけじゃないよ。」こう云って、男は腹を立ったような目付きをして、上の方を見た。「なに。己はまた熱が出たのだ。知れていらあ。」男は歯をがちがちいわせて、横になって、布団を襟元まで引き寄せた。 「どうしましょう。何か。」女はこう言い掛けて、途方に暮れたようにあたりを見廻した。 「なにをするに及ぶものか。寐るが好い。己もひどくがっかりした。これから寐なくちゃあならない。明りは消さずに置くのだよ。」こう云って男は目を瞑って布団を口の隠れるように被った。  女は遠慮して何もいう事が出来なかった。男の容体の悪い時、気の毒がるような事をいうと、どんなにか腹を立てるだろうと、これまでの経験から推して考えたのである。それから二三分すると、男は寐入ったが、女はそれきり寐付かれずにいた。  程なく彼誰時の薄明りが、忍びやかに部屋の窓から這入って来た。この暁の近づいて来る微なしるしが、女のためにはひどく嬉しかった。何か親しいもの、ひとりでに微笑まれるようなものが近づいて来るように感ぜられた。暁の来るのを出迎えにこっちから行きたいような気がして来た。そこでそっと床から抜け出して、朝の着物に着替えて階段の処へ、忍足をして出て見た。  空も、山も、湖水も、総て暗い、不確な灰色の中に漂っている。その輪廓をはっきり見ようと、目に力を入れるのが、愉快である。女は榻に腰を掛けて薄明りの中を見詰めている。この静かな夏の朝の空気の中にひとりで坐っているのが、なんとも云われない程好い心持ちである。体の周囲は如何にも平和で、柔かで、永遠なように思われる。この偉大なる沈黙の内に、暫く一人でいるのが、如何にも愉快である。あの狭い、息の籠ったような部屋から出ているのが、如何にも愉快である。こう思うと同時に、電光の如くある認識がこの女の頭の内にひらめいた。それは自分があの男の側を離れて、ここへ来て、一人でいるのが愉快なのだという認識であった。 十七  翌日女は朝から晩まで前晩の事を思っていた。暗い所で考えたように気味悪く思わない代りに、一層はっきりと、何かそれに本づいて決断をしなくてはならないように思われた。そこでなるたけ男の色情が強く起らないように、気を付けようという決心が先ず出来た。さてそう思って見ると、なぜ今まで久しい間、そこへ気が付かなかったかと、我れながら不思議な位である。しかしこれを実行するには、よほど優しく、よほど巧者にしなくてはならない。拒むように思われてはならない。むしろ今までの愛情より一層高尚な、一種の新しい愛情だと思われるようにしなくてはならないと思うのである。  しかしそれ程の工みをしなくても済むようになった。なぜというに、その晩から後には、男の烈しい色情が、暴風の凪いだように鎮まったからである。男は女を、疲れを帯びた優しさで待遇した。女は最初それを嬉しく思って安心していたが、後になっては変だと感じた。男は昼の内は本ばかり見ている。しかし側で気を付けて見ると、どうも本当に読んでいるのではないらしい。たびたび目は本から余所へ逸れて、遠い所を見詰めている。毎日の話しは平凡な事ばかりになった。しかし女は別に自分が疎外せられて、男の本当の考えを聞く事が出来なくなったのだとは感ぜずにいた。男の様子は如何にも自然らしく、その中音で、毒にも薬にもならない事を言っているのが、やはり病気の直り掛かった人の、晴れやかな、落ち着いた心から出るらしく思われた。朝は女が明け切らない内に、一人で外へ出るようになったのに、男は長い間床に寝ていた。女は外へ出ると、階段に腰を掛けていたり、時々は湖水まで下りて舟に乗って、沖へ出ずに、岸辺で舟を波に揺らせていたりするのである。また森へ散歩に行く事もある。そんな風に暫く外にいてから部屋に帰って男を起す事になっていた。男の長い間好く眠るのを、女は体のために好いように思っていた。女は、男が夜中にたびたび目を覚して、好く眠っている女の顔を悲しげに見るのを、夢にも知らなかったのである。  ある朝の事、女はまた舟に乗っていた。朝日の黄金色の火花が水の面にちらばっている。その時女はふいときょうだけ沖の方へ出て見たくなった。暫く漕いでいる内に、手が慣れていないので、次第に骨が折れて来た。しかしそれを却って面白く思っていた。まだ夜の明けたばかりであるのに、もう外にも舟で出ている人がある。中にはわざと女の舟に近く漕ぎ寄せて見て行くのもあった。中にも美しい小舟に乗った二人の男は、女の舟の側を摺れ違い様に、帽を脱いで、微笑みながら丁寧に礼をした。  女は呆れて二人の顔を見て、なんとも思わずに、その舟の方を振り返って見た。その時男はまた礼をした。女は二度目に礼をせられた時、これは悪い事をしたと気が付いたので、弱い腕の力一ぱい漕いで、舟を家の方へ戻そうとした。岸に着くまでには、半時間も掛かって、髪は乱れ、顔は赤くなっていた。舟の着く前に、女はフェリックスが階段に出て腰を掛けているのを見付けた。それから舟を着けると、女は男の側へ駈け付けて、背後から男の目隠しをして、「さあ誰だか当てて御覧なさい」と云った。  男は静かにその手を振り放して、女の顔を横から見た。「どうしたのだい。大変浮れているではないか。」 「あなたにお目に掛かったのが嬉しいのですわ。」 「大変赤い顔をしているじゃないか。」 「わたくし好い心持ちなのですもの。」  こう云って女は男の膝の上に掛けている毛布を引き退けて、自分が男の膝に腰を掛けた。自分のちょっと間の悪いような気のしたのが忌々しい。男の不機嫌なのが忌々しい。女はそんなような心持ちで男に接吻した。 「でもそんなにむやみに上機嫌なのは可笑しいじゃないか」と、男が云った。 「それはわけがありますわ。わたくし嬉しいのですもの。」こう云ってちょっと言い淀んで、跡を継ぎ足した。「あなたがお忘れになったのが。」 「なにを」と男は疑うような調子でいった。こうなると女は跡を言わずにはいられなくなった。「こわがる事をお忘れなすったのですもの。」 十八 「死の恐怖を忘れたというのかい。」 「そんな事をはっきり言うのはおよしなさいよ。」 「ふん。己が死の恐怖を忘れたというのだな。お前だって忘れたじゃないか。」こう云って、男は女の顔をじっと見た。女の心の底を探るような、ほとんど意地の悪い目付きで見たのである。女はなんにも云わずに両手で男の髪をいじりながら、額に接吻しようとして口を寄せた。その時男は顔を少し後へ引いて、それを避けて、冷やかに、不遠慮に云った。「一体お前は己と運命を一つにすると、少くも一度は云った事があるのだから、己に死の恐怖が無くなれば、お前にも無くなるはずだなあ。」 「それはわたくしにも無くなるだろうと思いますの。」女は活溌に、晴れやかな調子で云った。  男は真面目にその詞を遮った。「ところがそうは行かないのだ。何も知れている事を隠しているには及ばない。死の恐怖は無くなりはしない。死が次第に近づいて来るのが、己には分かっている。」 「まあ。」女は目立たぬように男の側を離れて、欄にもたれた。  男は立ち上がって、あちこち歩き出した。「実際己には分かっている。それだからお前に一通り言って聞かせて置くのは、己の義務だろうと思うのだ。もし出し抜けに死んでしまうと、お前がびっくりするだろうからなあ。己の死ぬるまでの日数がもう四分一は立っているぞ。なに。こう言って話すのが義務だなんぞというのも、やっぱり自ら欺くので、己が臆病からこんな事をいうのかも知れないよ。」  女は心配気に云った。「あなた、わたくしが黙って出て行ったものですから、おおこりになったのではなくって。」  男は急に答えた。「馬鹿言え。実はお前の晴々しているのを見るのは、己だって悪くはない。己もこれから晴々した気分になって、ある事件の熟して来る日を待つ積りだ。しかしお前の今のように浮れているのを見ると、正直を言えば、己は余り好い心持ちはしないのだ。だからお前に相談をするのだが、いっその事近い内に別れてしまおうじゃないか。」 「あなた。」女は歩いている男の両腕をつかまえた。  男はそれを振り放した。「これから厭な時が来るのだ。これまで己は面白い病人だった。少し色が蒼くて、少し咳をして、少し気がふさいでいる。そういうのは女に嫌われはしない。しかしこれからはな、違うぞ。段々己の病気の悪くなるのを見ていると、己という人間の記念が次第に傷つけられてしまうばかりだ。」  女はなんと返事をして好いか分らぬので、途方に暮れて男の顔を見ている。「己がこう云ったって、直ぐ置いて逃げるわけには行かないと、お前は思っているのだろう。なんだか冷淡なようで、今少し極端に言えば、卑劣なようにさえ見えるのだ。そこで己が言って聞かせるが、そんな遠慮は決していらない。お前が別れて行ってくれれば、己は為合せだ。己の自信が傷つけられずに済むのだ。なぜというに、別れた跡で、お前が己の事を思い出す時に惜しんで泣いてくれる事が出来るようにして置きたいのだ。もしあべこべにお前がこの上己の側にいて、昼も夜も介抱して、どうせ死ななくてはならないものなら、早く死んでくれれば好いと思い続けて、とうとう己の死んだ時、ようようの事で助かったと思って別れてくれるのが、己は難有くはないからなあ。」  女はなんと言って好かろうと思い悩んでいる。ようようの事で、「わたくしいつまでもあなたの側にいてよ」と云った。  男はそれを聞き流して云った。「もうそんな話しはよそう。これから八日程したらウィインへ帰らなくてはならない。色々整理して置きたい事があるからなあ。そこでいよいよこの家を引き払う日になったら、己はお前にさっきの問をもう一遍繰り返して見る積りだ。さっきの願いと云った方が好いかも知れない。」 「あの、わたくし。」  男は烈しく女の詞を遮った。「どうぞもう黙っていて貰いたい。さっき云った時が来るまでは、何を言うのも無駄だからなあ。」こう云って、階段から立って部屋の方へ行き掛けた。女が跡に付いて行きそうにすると、「どうぞちょいとの間己を一人で置いてくれ」と云った。その声は優しかった。  女は階段の処に残っていた。そして涙も何も出ない目で、きらきら光る湖水の面を見詰めた。男は寝間へ帰って、床の上へ横になって、長い間天井を睨んでいた。それから唇を噛んで、両手を拳に握った。この時その唇から、嘲るような調子で、「忍耐、忍耐」という声が洩れた。 十九  この頃からなんだかある邪魔物が二人の中に這入ったような工合になった。それと同時に二人は絶えず、ほとんど神経質に、何事をか話し続けなくてはいられなくなった。二人は日常の事を詞数多く話し合った。どうも物を言い止めるのがこわいような気がするのである。あの山の上に棚引いている鼠色の雲はどこから出て来たのでしょう、あしたの天気はどんなでしょう、湖水の色が朝昼晩と変るのはなぜでしょうというような対話が、長く長く続くのである。散歩に出る時は、これまでのように、家の周囲の寂しい所ばかりを歩いていずに、海岸の人家のある方へ行く事になった。そうすると、色々な人の顔を見て、話しの種が出来るのである。そんな道で、向うから若い男が来ると、女はひどく慎み深い風をする。もし男が舟を漕ぎに来た人や、山に登りに行く人を見て、その着物の批評なんぞをすると、女は実際その人を見たのに、つい見なかったと嘘を衝いて、今度出逢った時、わざわざ叮嚀に見直す事がある。そんな時に男にちょっと顔を見られると、女はせつないような気がした。ある時は十五分間も並んで黙って歩いている事がある。それから内にいると階段に出て並んで坐って、やはり黙っている事がある。そんな時は女が「新聞を読みましょうね」と言い出す。それが如何にもわざとらしいのを、隠す事も出来ないのである。それから読んで聞かせている内に、男がもう聞いていない事がある。その時女は心の内で、それを知っていながら、知らない顔をして読み続けている。自分の声を聞いているのが、心持ちが好い、二人の間に声のしているだけでも、ひっそりとしているよりは好いと思うのである。こんな風に互に心配をごまかしていようとしているが、それでもやはり男は男、女は女で、自分自分の思案に耽っているのである。 二十  男はこないだ女に対して馬鹿らしい狂言をして見せたという事を、自分で認めずにはいられなかった。もし女にこれから先の苦労をさせまいという情願が本当なら、自分がそっと身を引いてしまうのが一番好いはずである。どこか静かな土地を見付けて、そこで一人死ぬるのは、造作もない事ではないか、こんな事を平気で考えて見られるのが、我れながら不思議だと、男は思った。さてその身を引いて、一人で死のうという事を、どうして実行したら好かろうかと、考え出すと、そんな事のなかなか出来ないのが分って来た。それはある夜眠らずに、その実行の為方を細かに考えて見た時の事である。先ずあすの朝明けない内に、暇乞いをせずに、ここを出て行って、寂しい所へ死ぬる日の来るのを待ちに行くとする。そして女をこの晴れやかな、面白い、我が物で無くなった人生の中に残して置くのである。そう思うと、そんな事は出来ない、いつまで立っても出来ないと、つくづく自分の腑甲斐なさを感ぜずにはいられない。そんならどうしたら好かろう。その日は厭でも来るに違いない。実際一日一日と迫って来ている。その日には女を残して置いて、自分はこの世を去ってしまわなくてはならない。今の自分の存在というものは、その日を待っているに過ぎない。実は死そのものよりも厭うべき、苦悶の期間に過ぎない。どうも今になって見れば小さい時から、自分で自分を観察する癖を付けたのが悪かった。今の病気の種々な徴候も、この癖がなかったら、見逃すかも知れない。見逃さなくても、さ程に思わないかも知れない。こう思って、男は自分の昔知っていた、二三の人の事を思い出して見る。その人々は、自分が今煩っているのと同じ病気になって、次第に衰えて行ったのである。それでも死ぬる二三週間前まで、晴れやかに未来の事を考えていた。それが今では羨ましい。あの医者の所へ尋ねて行って、嘘の限りを尽して、とうとう本当の事を言わせてしまった。あの日は実に咀うべき日である。あんな事をしたので、自分は今咀われた人間のようになって、こうして寝ている。譬えば、いつ首切役が来て、刑場へ引き出すかも知れない、宣告を受けた罪人のようになって寝ている。一体自分の存在は恐れても恐れ足りない程のものである。然るにその恐怖の全体を、はっきり意識している時は少しもない。いつでも心のどこかの隅に、横着な、便佞な希望が綺麗に離れ去ってしまった事はない。しかし自分にはそれより強い理性がある。それが寝られない、長い夜や、暮れ易い、単調な昼の間に、十遍も百遍も千遍も繰り返して、こういう事を自分に言って聞かせる。それは自分の逃道、自分の活路はただ一つしかないという事である。それは一時間も、一秒間も待たずに、自分でこの世の暇を取る事である。それなら、病気で死ぬるのを待つより、少しは男らしいだろう。いよいよそうしようとさえ思えば、誰も待てといって束縛するもののないのが、ほとんど慰めのようにも思われる。しようとさえ思えば、何時でもこの世の暇を取るに、差支はないのである。 二十一  ところで女だ。昼間、自分と並んで歩いていたり、側に坐って本を読んでいたりする時などに考えて見ると、この女と別れるのが、そうむつかしくもなさそうである。詰まりこの女も我が存在の一部分たるに過ぎない。この周囲の生活を棄てなくてはならないものとすれば、女もその一部分に過ぎないから、無論棄てなくてはならないと思う。しかし外の時、殊に夜になって若い女の美しい顔をして、目を堅く瞑って、ぐっすり寐ているのを見ると、女が際限もなく可哀い。女の眠りが穏かなだけ、現在を遠く離れているらしく見えるだけ、眠らずにいる自分の苦悩に関係がなくなっているだけ、男は女の可哀さが増すのである。とうとうある夜の事、それは丁度あすはこの湖水の側を離れてしまおうと思い定めた晩の事であったが、男は好く寐ている女の顔を見て、自分の病苦に構わずに寝ているのを、如何にも不人情なように感じて、一つ揺り起して、耳に口を寄せて、「お前が己を愛しているというのが本当なら、己と一しょに死ね、今直ぐ死ね」とどなって遣りたく思った。しかしその場はそのままに寝かして置いた。そして事に依ったら、あす言って聞かせようと思った。  男は知らなかったが、女はたびたび自分の寐顔を、男が見ているのを知っていた。男は知らなかったが、女はたびたび目を細目に明けて、寝間の薄明りの中に、男が床の上で半分起き上がって自分を見ているのを見ながら、こわさにその目を皆明けずにいた。いつかの真面目な談判の記念は長く女の心を去らずにいて、女はいつかあの問いを繰りかえされることだろうと、顫えるようにこわがっていた。一体なぜそんなにこわいのだろう。男が何遍問うたところで、自分の答える詞は極まっているではないか。「あなたの生ていらっしゃる最後の一秒まで、わたくしはお側を離れません。あなたの唇から洩れる溜息や、あなたの睫から飜れる涙を、わたくしの唇で受けて上げます。」こういうより外はない。一体男は自分を疑っているのであろうか。自分にこれより外の答えが出来ようか。その外の答えはどんな事だろう。例えばこんな答えが出来ようか。「あなたの仰ゃるのは御尤なようですから、わたくしはお暇をいたしましょう。面白い、優しいところのある御病人の側にいたという、わたくしの記念だけをいつまでも持っている事にいたしましょう。その大事な記念を傷けないために、わたくしはあなたを一人置いて、お暇をいたします。」こんな事を言ったら、その跡はどうなるだろう。女はそれから先の事を細に想像して見ずにはいられなかった。多分男は冷やかに微笑んで、自分と握手をして、「難有う」というだろう。そして男が脊中を向けるとき、自分は急いでその場を逃げるだろう。その日は目の醒めるような喜びに輝いている夏の朝であろう。自分は成るたけ早く男の側から遠ざかろうと思って、黄金色に輝いている朝の空気の中を、次第に遠く遠く馳せ去るのであろう。その時あらゆる縛が取れてしまって、自分は再び独立して、人を気の毒がる、厭な心持ちが無くなるだろう。数箇月の長い間ひどく自分を苦めた、あの物を問うような、死に掛かった目が自分を見詰めているという感じが、綺麗になくなってしまうだろう。自分の身は歓喜に返り、人生に返って、再び若々しくなるだろう。自分の走って行く跡から、夏の朝風が笑いながら自分の裾を吹いているだろう。 二十二  こういう物狂わしい夢の影が、忽然消えてしまうと、女は今までより一層はかない身の上になったように思う。そしてそんな夢の影が、仮にも浮んで来たのを、切なく思うのである。  そして女は男が死ななくてはならないという事を自覚しているという事、絶望に陥っているという事を思うたびに、どんなにか同情の胸を痛めて、身ぶるいのするような心持ちになっただろう。男の死ななくてはならない日が、次第に近づいて来るのを覚えると共に、女の男を愛する情は、どんなにか深くなっただろう。そして女は自分の男に答えるはずの詞が別にあるように思って見る。病人の側にいつまでも付いていて一しょに苦んで遣るというのは、どうもまだ物足りない。男の死を待っているのを見ていて、何箇月の間も男と一しょに死の恐怖を味わうというのもまだ物足りない。何かそれ以上の最善の事、最高の事をして遣る事は出来まいか。「あなたがお亡くなりになったら、わたくしはお墓の前で死にましょう」と云ったらどうだろう。そうしたら、男は自分を半信半疑して、墓の前で本当に死ぬか知らぬと思いながら死ぬるだろう。それよりは男と一しょに、いや、男に先立って死ぬるが好かろう。男がいつかの問いを繰り返した時自分は気をしっかり持っていてこう答えよう。「ねえ、あなた。お互にこんな苦みをいつまでもしていずに、早く切上げてしまおうではありませんか。御一しょに死ましょうね。つい今直ぐに。」この詞を心の内で言って見て女は物に酔ったような心持ちになる。しかしそれと同時にその心の内には、別な夢の影が浮ぶ。それは優しい朝風に身を吹かれて、歓喜と人生とを向うに見て、野の上を走って逃げる影である。まあ、なんという卑劣な、みじめな事だろう。  二人が旅立とうと思った日の夜が明けた。春が再び返って来たかと思われるほどの、珍らしく暖かい朝であった。マリイがもう階段の所へ出て朝食の用意をしてしまって待っていると、そこへフェリックスが部屋から出て来た。 「ひどく好い天気だなあ」と男が深い息をして云った。 「本当ですわね。」 「ちょいとお前に言いたい事があるよ。」 「なんでしょう。」女はこう云って置いて、先潜りをするように言い足した。「もっとここにいるのでしょう。」 「そうじゃない。しかしここから直ぐにウィインへは帰らない事にしようと思うのだ。己はきょうはよほど工合が好いから、ここを立って、どこか途中でまた滞留しようかというのだ。」 「ようございますとも。」女は近頃にない好い心持ちで、こう答えた。もう一週間この方、こんな風に心にわだかまりのない話し振をした事はなかった。 「まあ、己の考えでは、ザルツブルヒあたりに足を留めようかと思う。」 「ようございますとも。」 「そうしたって、ウィインへは随分早く帰られるのだ。それに己は汽車旅を一息に長く続けるのは嫌いなのだ。」 「それはお草臥なさいますわね。それにそんなに急がなくても宜しいのですから。」女は活溌にこう云った。 「もう荷物は皆しまっただろうね。」 「もうとっくに出来ていますわ。直ぐにでも立たれるようになっていますの。」 「そんなら馬車を雇って立つとしよう。ここから四時間か五時間で着くだろう。汽車に乗るよりか、その方がよっぽど好い。汽車の中にはきのうの暑さが残っているからなあ。」 「ではそうしましょうね。」  女は男に勧めていつもの牛乳を一杯飲ませた。それから湖水の波の波頭に、美しい、銀色の光の見えているのを、男に指さして示した。二人はひどく愉快らしく、色々の事を話した。女が何か言うと、男は無邪気に、優しく返事をした。 二十三  とうとう女がこれから馬車を誂えに、自分で行って来ようと言い出した。それに乗って正午に立ってザルツブルヒへ行こうというのである。男は笑いながら、そうして貰おうと云った。女は大きな麦藁帽子を急いで被って、男に二三度キスをして置いて、往来へ駈け出した。  兼て女に問おうと思った事を、男はとうとう問わずにしまった。多分もう問わずに置くだろう。それは男の晴やかな額を見ても直分る。いつもは優しい詞を掛けていても、その底に隙を覗っているような、意地の悪い心持ちがあった。そして何か罪のない話しをしている間に、突然わざと憎らしい事を一言いうのであった。そういう時は、女はその一言を聞かない内に、先へ悟っていた。きょうはその意地の悪い詞が出ないので、女は感謝しなくてはならないように思った。きょうの男の優しさには、和睦するような、恩恵を施すような趣があった。  女が階段の所へ帰って来て見ると、男は留守の間に来た新聞を読んでいた。 「おい。不思議な事があるよ。」男はこう云って目食ばせをして女を側へ呼んだ。 「なにが書いてありますの。」 「まあ、読んで見ろ。あの男が死んだのだ。あの大学教授のベルナルドだなあ。」 「どういう方でございますの。」 「それ、あの男さ。己に病気の事をひどくむずかしく言って聞せたあの男さ。」 「まあ、あのベルナルドという人が亡くなりましたの。」女は男の持って居る新聞を取って覗いて見た。「まあ、好い気味だ事」と口まで出そうなのを、女は堪えていた。  この出来事は、二人がためには、大層意味があるように思われた。ベルナルド教授は自分が飽くまで健康でいて、さも豪そうに専門の知識を吹聴して、見て貰いに行った男の希望を打ち破ってしまったのに、自分が却て数日間に死ななくてはならなかったのである。今あの人が死んだという事を聞くと同時に、男はこれまで心の底でひどくあの教授を憎んでいた事を自覚した。そして自然にその復讐が出来たのを、自分の運命のために大層好い前兆ででもあるように感じた。言って見れば自分の身の周囲から、気味の悪い幽霊を逐い退けてしまったような心持ちである。  女は新聞をそこへほうり出して云った。「一体人間というものは、どんなに豪くったって、未来は分からないはずでございますわね。」 「そうだ。あすどうなるという事が分かるものじゃあないなあ。まるで分からないのだ。」男は心から女に同意してこう云った。それから少し間を置いて、突然外の問題に移った。「車は云い付けたのかい。」 「ええ、十一時に来るようにそう云って置きましたの。」 「そんならまだちょっと舟でそこらを廻って見る隙位あるなあ。」  二人は手を引き合って、舟の繋いである小屋の方へ歩いて行った。二人ともなんだか当然享けるはずの幸福を享けるような心持ちがしているのである。  ザルツブルヒに着いたのは午後遅くなってからであった。どの家を見ても旗が立ててあるので、二人は驚いた。町で出合う人が皆晴着を着て、中には印の付いた帽子を被っている人もあった。宿屋へ着いて、ミョンヒスベルヒという岡の方の見える部屋を借りた。そこで聞けば、きょうこの町では大きい唱歌会の大会があるのであった。宿屋の主人は一枚の切符をくれた。これを持って今晩八時にクウルパルク公園に行くと、大層なイルミネエションがあって、そこで合奏をするのだという事であった。借りた部屋は二階で、窓の下をザルツァハの流れが通っている。二人ともここまで来る馬車の中で大ぶ眠ったので、好い心持ちになっている。そこで内には余り長くいずに日が暮れ掛かると、町へ出掛けた。 二十四  町中なんとなく人の気が立っている。誰彼となく家の中に落ち着いてはいられないので往来へ出ているらしく思われる。その雑沓の間を、印の付いた服を着た唱歌会員が通っている。大ぶ外から来ているらしい人も見える。近所の村から来た田舎びた晴着を着た人も、町の人の間に交って押し合っている。家々の搏風からは、市の定色に染めた旗がひらめいている。大通りには、花で飾った凱旋門が出来ている。どの町に行って見ても大勢の人が、落ち着かないような様子をして歩いている。その上に匀のある夏の夕の空気が、心地好く柔かに漂っている。  ザルツァハの岸の、心持ちの好い、静な所から、二人は市中の賑かな所へ出た。これまで例の湖水の側で、ひっそりした生活をして来たので、この慣れない賑いに出逢って、ほとんど茫然とするようであった。しかし暫くすると、大都会に育った人の、世慣れた心持ちが出て来て、平気で周囲の刺戟を身に受けて見るようになった。一体男は大勢の騒いでいる事は好かないので、きょうも少し不快に思った。女はその反対で、直ぐに興に乗って来た。そして子供か何かのように、土地の異様な衣服を着た女を、立ち止まって見たり、襷を掛けた唱歌会員の、体格の好い男を、振り返って見たりしている。折々は項を反せて、どの家かの美しい装飾を見ている。そして格別面白がらずに、並んで歩いている男に、「あれ、御覧なさいよ、綺麗ではありませんか」などと云う。しかし男は黙って頷くばかりである。 「丁度好い所へ来ましたわねえ。あなたそう思わなくって。」  こう云われたので、男は妙な目付きをして女の顔を見た。その目付きはどういう意味だか、ちょっと女に読めなかった。男は「大方お前は今夜己を公園へ合奏を聴きに引っ張って行きたいのだろう」と云った。  女は微笑んで答えた。「ここへ来て最初からそんなに吝にしなくったって好うございましょう。」 「それではほんとにそんなところへ己を連れ出す積りかい。」男は女の微笑が癪に障ってこう云った。 「まあ、お厭なら参ろうとは申しませんわ」と女は驚いて云ったが、その目は直ぐに横の方を通り掛った男女の連れを見ている。様子の好い、美しい、若い二人連れで、結婚旅行に出たのででもあるらしく笑い交して通り過ぎたのである。  フェリックスとマリイとは並んで歩いてはいるが、女は男の肘に手を掛けてはいなかった。人込みになると、ちょっと押し隔てられて、また出逢うような事がある。兎角男は不愉快らしく、人家の壁に沿うて歩いていて、面白げに往来する人達に触れないようにしているので、猶更押し隔てられ易いのである。  その内段々暗くなった。街燈に火が点いた。町の所々、殊に凱旋門のあるあたりには酸漿提灯が点けてある。歩いている人の多数は公園の方へ向いて行く。合奏の時間が近づいて来るのである。暫くの間は二人とも大勢と同じ方向に、押されて歩いていたが、男は突然女の肘をつかまえて、狭い横町へ曲った。暫くそこを歩いていると、明りなんぞも多く点いていない、寂しい所へ出た。また数分間黙って歩いている内に、とうとうザルツァハ河の岸に出た。単調な水の音が下から聞えて来る。 「こんなところへ来て、どうなさるの」と女が問うた。 二十五 「まあ、黙っていないか」と、叱るように男は云った。それから女の黙ってしまったのを見て、男は神経質な、いらいらする声をして云った。「己なんぞにはあんな所は向かないのだ。明りが沢山点いていたり、面白そうに歌を歌っていたり、若い人間が笑っていたりするところは、己達の行く場所ではない。己達はこういう所にいなくてはならない。ここへなら人の喜んでどなる声なんぞは聞えない。ここなら寂しくしていられるのだ。己達はこんな所にいなくてはならないのだ。」これまでの詞を腹の立つのを我慢しているような調子で言って、それから冷かすような調子になって、「少くも己はそうだ」と言い足した。女はこの詞を聞いた時、自分が今までほど同情しなくなっているのに気が付いた。しかし女はこう思った。これは多分余りたびたび聞かせられているからだろう。それにあんまり誇張して言われるので、感動しないのだろうと思った。そして仲直りをしようとするような、優しい声で答えた。 「わたくしそんな事を言われるはずはありませんわ。」 「御免よ。」やはり嘲るような調子である。  女は男の手に搦み付いて、ぴったり身を寄せて云った。「あなたもわたくしも、二人ともこんな所にいるのは好くありませんわ。」 「いやこんな所が好いのだ。」叫ぶように云うのである。 「いいえ。わたくしだってあの人込みへ帰って行こうとは思いませんわ。あなたが厭にお思いなさるように、わたくしも厭でございますの。ですけれど、何も人交わりの出来ないもののように、こんなにして逃げ廻らなくったって好うございますでしょう。」女の声は優しい。  こう云ったとたんに、風のない、澄んだ空気の内に合奏のオルケストラの響が伝わって来た。一音毎にはっきり聞き取られる位であった。多分今宵の祭りの序開きの曲であろう。花やかな、晴がましい、金笛の響のようであった。  暫く立ち止まって聞いていた男が突然云った。「行こう行こう。音楽というものは遠くから聞いていると、悲しげになっていけない。」 「本当にメランコリイの音色がしますわ。」  二人は足を早めて賑かな方へ歩き出した。家の間へ這入って見ると、河の岸で聞くよりは音楽の声が幽になっている。段々明りの沢山点いている、人通りの多い町へ出て来ると、女はまた昔のように男を可哀そうに思う同情を起して来た。男の心持ちが分って、さっき云った詞の毒々しさが忘れられたのである。 「内へ行きましょうか」と女が問うた。 「なぜだい。眠むたいのか。」 「なに。眠むたいものですか。」 「もっと外にいようじゃないか。」 「あなたが宜しければ、わたくしまだ外にいたくってよ。でもあんまり寒くなりはしないでしょうか。」 「なに。蒸々するようだ。暑いと云っても好い位だ。晩飯を外で遣ろうじゃないか。」男は少し神経質な調子でこう云った。 「ではそうしましょうね。」 二十六  二人は公園近くに来た。楽人団が序開きの音楽を奏してしまった所である。昼のように明るく、火の点してある公園から、面白げに話しをしている大勢の声が聞える。後れて合奏を聞きに急いで行く人がちらほら通り過ぎる。その中に唱歌会員が二人、後れたものと見えて、あわただしくフェリックス、マリイの二人連と摺れ違って行った。マリイはこれを見送ったが、悪い事でもしたと思うらしく、直にその目をフェリックスに移した。フェリックスは唇を噛んでいる。やっと我慢している怒りが額の皺に現われている。何か言うだろうと思って、女が待っていたが、何も言わない。そして今公園の入口に這入って行く唱歌会員の二人を、さも憎げに見送っている。その心の内には自分の不愉快な感じを分析して見て、自分で理解しているのである。  摺れ違って行った二人は、フェリックスの最も憎んでいるものである。自分がこの世から消えて無くなった跡に、残っている物の一部分である。自分がもう笑いも泣きも出来なくなってしまった跡でまだ若々しく生きていて、笑う人間である。それから今、うっかり悪い事をしたと思って、後悔して、自分の肘に力を入れて搦み付いている女も、やはり跡に残る物の一部分である。女も笑って生き残っている若々しさの仲間なので、その同類相求める心持ちが、知らず識らず発動して、さっきのように唱歌会員の二人を見送ったのである。男はそれが分かっているので、物狂わしくなるほど腹が立っている。  二人は長い間黙って歩いていた。それから男が大きい溜息を衝いた。それを聞いて、女が男の顔を見ようとすると、男は顔を反けた。そして突然云った。「ここが好いじゃないか。」  女はなんの事だかちょっと分からなかった。 「ええ。」  二人は庭に卓や椅子を並べた料理屋の前に立っていた。公園の直ぐ側で、高い木立が白い布を掛けた卓の上に枝を拡げている。所々に明りが点いているが、その数が少いので、あたりは薄暗い。客は余り無い。そこでどこへでも勝手な所へ席を取る事が出来るので、男は好いじゃないかと云ったのである。  二人はこの庭の片隅に席を取った。庭中に二十人ばかりも客がいるだろう。直ぐ側の卓には、さっき一度出逢った、気の利いた風をしている、若い男女の二人連れが掛けていた。マリイは直ぐにさっきの人だなと思った。  丁度公園で唱歌会員の合唱が始まった。少し微かではあるが、善く調子の合った歌が聞える。面白げに歌っている声が掠めて通るので、木立の葉がゆらぐような心持ちがする。  フェリックスは上等のライン産の葡萄酒を註文した。そして一口含んでは、目を半分瞑って、音楽に耳を傾けている。しかしどこで奏している音楽だという事さえ考えずに、ただ聴いているのである。  マリイは男の側へぴったり寄った。女の膝の障っているところだけ、肌の温まりが男に感ぜられる。男はさっきひどく腹を立てたので、その反動が来て、何事にも冷淡になって、大体好い心持ちがしている。そして誰の力も借らずに、自分の心持ちを、こんなに冷淡になるように落ち着かせたと思って、それを喜んでいる。実際男はここへ腰を掛ける時、どうしてもこの苦痛を押え付けてしまわなくてはならないと、堅く決心したのであった。そしてそういう結果になったのが、どれだけ自分の意志の作用であるかという事を、細かに研究して見る程の精力はもうなかった。さて落ち着いて見るといろんな事が思われて来た。さっき女が余所の男を見た目付を、ひどく憎らしく思ったのは、どうも少し無理であったかも知れない。外の人が通ったって、やはりあんな風にして見たのではあるまいか。現に今隣に坐っている二人を見る、マリイの目付も、さっきの唱歌会員を見た目附と、余り違ってはいないようだと思うのである。 二十七  葡萄酒は好かった。音楽は人に媚びるように聞えて来る。夏の夜の人を酔わせるような微温みがある。男はちょいと女の目を見た。その目の中には無限の愛情と好意とが輝いていた。そこで男は精一ぱい心を今の一刹那に集中しようと思った。過去をも未来をも、少しも思うまいと男は意志に最後の鞭撻を加えた。兎に角今だけでも幸福を感じていたい。少くも苦痛をぼかしていたい。  その時忽然と、少しも予期しないのに、解脱したような、一種の新しい感じが出て来た。それは今自殺してしまえば、わけはないという感じであった。直ぐに遣ればなんでもない。今遣らないところで、いつでもこの感じを起して自殺すれば、わけはないと思ったのである。音楽は聞える。ほろ酔い機嫌になっている。可哀らしい娘が側にいる。こういう時に遣るのだなあ。女はマリイだっけ。しかしマリイでなくったって外の女でも好いわけだと考えた。  女も旨げに酒を啜っている。男は今一本と註文した。近頃にない好い心持である。自分でもよくよく思って見れば、こんな感じのするのは、常より少し余計に酒を飲んでいるからかも知れない。しかしそうだって構わないのだ。兎に角そんな心持ちになられるのが難有い。この感じのしている間は、「死」なんというものはこわくもなんともない。どうでも好いのだ。「なあ、マリイ」と男はふと云った。  女は体をぴったり寄せた。「なんですって。」 「何がどうなっても構わないじゃないか。」 「ええ。構いませんとも。ただわたくしがあなたの事をいつまでも大事に思っているという事だけは、変りっこなしでございますの。」  女が真面目で、この誓言めいた事を言うのが、男には異様に感ぜられた。今の刹那の心持ちでは、男のためには、女は誰でも好いのである。このマリイという女も、自分を取り巻いている万有と、解けて流れて、一しょになってしまうのである。これは面白い。なんでも世の中をこんな風に観察しなくてはいけない。待てよ。これは酒のために浮かぶ幻影だけではないぞ。ただ酒がある物を己の心から奪い去ったのだ。そのある物が平生己を臆病に、おっくうにしているのだ。人間や事物をひどく勿体らしく見せているのだ。こういう時に白い粉薬を、少し許りコップの中へ叩き込んでしまえば好い。まあなんという造作もない事だろう。こう思うと同時に、なぜだか目の中に涙が涌いて来た。自分で自分を気の毒に感じたのである。  今唱歌が済んだ。手を叩く音、褒める声が聞える。それからがやがやと、話声がする。その内楽人団がまた奏楽を始めた。今度は晴々とした心持ちのポロネエズの曲である。男は指先で卓を叩いて拍子を取った。この時一つの考えが頭をかすめて過ぎた。それは「もう少しばかりの命だ、面白く暮されるだけ暮して見よう」という考えであった。しかしこの考えには少しも気味の悪いような分子は含んでいない。むしろ人に傲るような、君主的なような分子を含んでいる。なんだ。息を引き取るという事は、人間と生れた以上は誰も免れない事ではないか。何もそれをびくびくして待っているには及ばないじゃないか。一体自分はまだ体が衰えていないで、どんな快楽をも受ける事が出来る。音楽を聴いて面白がる事も出来る。酒を飲めば旨い。可哀らしい娘を見れば膝の上に抱てキスをして遣りたくなる。これ程の力を体の内に持っていながら、何も夜昼下らない事を考えて気持ちを悪くしている事はないじゃないか。なんだ。今から機嫌を悪くしているのは太早計だ。そんな面白味や情慾が、いつかは無くなってしまうだろう。その時自由意志で、決然として実行すれば好いのだ。そうすれば君主的な行いだ。意張って出来る行いだ。こんな事を思いながら、男は女の手を取って、それを長い間握っていた。そしてその手の上に、ゆるやかに息を嘘き掛けていた。 「あら」と女は満足したらしい様子で囁いた。 二十八  男は女の顔をじっと見た。そして大層美しいと思った。そして「行こう」と云った。 「も一つ歌が済むまでいようじゃありませんか」と女は無邪気に促した。 「好いとも」と男は云った。「だが内へ帰って窓を明けて置けば、後の歌は風が持って来て聞かせてくれるぜ。」 「あなたもうお草臥なすって」という女の声は、心配しているらしかった。 「そうさ。ひどく草臥ている。」男は笑いながらこう云って、笑談らしく女の髪を撫でた。 「そんなら参りましょうね。」  二人は立ち上がって、料理屋の庭を出た。女は男の肘に手を掛けて、手に力を入れて、片頬を男の肩に押し付けた。歌い始めた次の歌が、次第に遠くなりながら、帰って行く二人に付いて来る。ワルツの拍子で、晴やかに、最後に繰り返して一しょに歌う文句が元気好く聞えるので、二人は覚えず活溌な歩調になった。宿屋までは、数分間しか掛からない。梯子段を昇る時は、歌が聞えなかった。しかし部屋に這入ると、さっきのワルツの節がまた元気好く聞えて来る。  部屋の窓は皆明け放ってあった。月の光が青い色の、柔かい波を打たせて這入っている。丁度向いの所にミョンヒスベルヒ山と、その巓にある城とが、はっきりした輪廓をなして、空にえがかれている。明りなぞを点けるには及ばない。部屋の床の上には、銀色の月の光が、幅の広い帯のようにさし込んでいる。ただ部屋の隅々だけが暗いのである。一つの窓の側に腕附の椅子が置いてある。男はそれに身を投げ掛けて、女を力強く引き寄せた。そしてキスをすると、女もキスをし返した。丁度公園では歌が停んだところであったが、聴衆がひどく喝采して止まないので、同じ歌がまた始めから繰り返された。  突然女が立ち上がって、窓の方へ走って行った。男は跡から追い掛けた。 「どうしたのだ。」 「よしましょうね。」 「なぜ。」男は足踏みをした。 「だってあなた。」女はあやまるように手を組み合せた。 「よすのだって。そんなら己におとなしくしていて、死ぬる日を待てというのか。」歯を喰いしばって、その間から押し出すような物の言い振である。 「だってあなた。」女は男の前に膝を突いて、男の膝を両手で抱いた。  男は女を引き上げた。「お前は分からないのだ」と云って置いて、耳に口を寄せて囁いた。「己はお前が可哀いのだぞ。もう長くは生きていられないのだから、何も余計な遠慮をしなくっても好いじゃないか。己はもう心配をしながら一年も生きていようとは思わない。それよりは二三週間でも、二三日でも、一夜でも二夜でも好い。己は生活が味いたい。したいと思う事がしたい。そしてその挙句で、お前が不承知でないなら、一しょにあそこへ」男は片手で女を抱えて、片手で窓から下を指さした。そこには河が流れている。唱歌会の歌はもう止んで、河の水音が二階まで静かに聞えている。  女は返事をしなかった。しかし両手で男の頸に搦み付いた。男は女の髪の香を吸い込んだ。どんなにか男は女を愛しているだろう。もう二三日でも好いから幸福を享けたい。そしてその上でどうともなりたい。  四辺が静かになった。女は側で寝ている。合奏はとっくに済んでいる。公園から後れて帰る人達が、声高に話しながら窓の下を通っている。今卑しい高声をして歩いている人達が、さっき好い声で歌って、人を感動させたのと、同じ人達かと思うと、不思議だと男は考えた。話声は次第に遠くなって、跡には訴えるような水音ばかりが聞えている。 二十九  もう二三日で、もう一晩か二晩で好い。それでおしまいにするのだ。しかし女はまだ生きていたいのだ。思い切ってくれるだろうか。なに、何も思い切ってくれなくても好い。何も知らずにいても好い。ただその時は、己に抱かれて、今のように寐入って、それからもう醒めないばかりだ。そしてそれをたしかめた上で、自分が遣るのだ。あんなに生きていたがるものに、何も前以て知らせるには及ばない。もし余計な事を知らせたら、己をこわがり出すだろう。そうなると己一人で死ななくてはならない。それは如何にもつらいのだ。事に依ったら今直に実行しようか知ら。あんなに好く寐ているのだ。この手に力を入れて、あの頸をうんと抑えれば済むのだ。しかしそれは馬鹿げている。まだ愉快に暮せる時間が幾らか残っているじゃないか。いつ最後の時が打つという事が、己には分かるに違いない。こう思って男は女の顔を眺めていた。そしてその心持ちは生殺の自由になる女の奴隷を掻き抱いているようであった。  フェリックスは決心が付いたので、安心した。当分の間は、マリイと町を散歩していて、余所の男の目が、マリイに注がれているのに気が付くと、嘲るような微笑がフェリックスの唇の上に漂った。馬車に乗って一しょに散歩している時や、夜一しょに横になっている時、男はこれまでになく、この女を我が物にしているという、自慢したいような心持ちになった。ただ一つ気に掛かるのは、一しょに死ぬるにしても、女は自由意志で死ぬるのでないという事であった。しかしそれもいつかはこっちの思い通りになるらしい徴候が見えているように思った。男の愛情が如何に猛烈に発現しても、女は拒む事を敢てしない。この頃の夜のように、女が控え目でなく自由になっていた事は、これまでない。この様子では、「さあ、きょう一しょに死ぬるのだぞ」という事が、近い内に出来そうである。しかしそれを言い出す事を、男は一日一日と延ばしている。どうかすると夢のように、こんな光景が目に浮ぶ。自分が短刀を手に持って、女の胸を刺していると、女は最後の呼吸をしながら、自分の手にキスをしてくれるのである。折々もう言い出しても好い頃だろうと思っては、また疑念を起すのである。  ある朝女が目を覚して見ると、男が側にいないので、ひどく驚いた。起き上がって見ると、男は窓の側の腕附の椅子に腰を掛けている。顔は真っ蒼で、頭をうなだれて胸のところのシャツを明けている。女は堪えられない程心配になって、飛び起きて、男の側へ行った。「あなたどうなすったの。」 「なんだ。」男は目を開いた。そして手で胸を抑えて、うめいた。 「なぜわたくしをお起しなさらなかったの。」  女はこう云って手を組み合せた。 「なに、もう好くなったのだ」と男は云った。女は急いで寝台の所へ行って、掛布団を卸して、それを男の膝の上に掛けて遣った。「どうしてあなたここへいらっしゃったの。」 「なんだか己にも分らない。大方夢を見たのだろうよ。なんだか頸を締め付けられたようで、息が出来なくなっていたのだ。お前の事なんぞはまるで考えなかった。それからこの窓の所へ来ていたら、好くなったのだ。」 三十  女は急いで着物を着て、窓を締めた。外には厭な風が吹き出していて、見ているうちに空が灰色になって、細かい雨が降って来て、厭にしめっぽい空気を吹き込んで来たからである。夏の夜の快さが、忽ち消え失せて、灰色の、物悲しい景色になった。夜の明方になって、急に秋が来て、美しい幻の影を破ってしまったのである。  男は落ち着いている。「なぜお前そんな心配げな目附をしているのだい。なんでもないじゃないか。丈夫な時だって、夢に魘われて飛び起きる事はあるからなあ。」  女は中々安心しない。「ねえ、あなた、御一しょにウィインへ帰ろうではありませんか。」 「だがなあ。」 「どうせもう夏はおしまいになったのですもの。あの外の様子を御覧なさい。如何にも寂れて、悲しげになっているではありませんか。それに寒くなると、お体のためにも悪いでしょう。」  男は黙って聞いている。そして丁度草臥た回復期の患者のように、一種の好い心持ちのしているのを、自分ながら不思議に思っている。呼吸は楽である。自分を包囲している、一種の疲れた空気が、眠りを催すような甘味を感ぜさせる。しかしこの土地を立つのが好かろうという事だけは、自分にも分っている。居所の変るのは、なんとなく愉快なようにも思われる。冷たい雨の降っている日に、汽車の中に寝転んで、頭を女の胸に寄せ掛けているのは、好い心持ちだろうと想像して見る。「好いや。立つ事にしよう。」 「きょうでも好いでしょうか。」 「好いとも。お前の都合が好いなら、正午の急行で立っても好い。」 「お疲れが出はしますまいか。」 「なんの詰まらない。草臥る程の旅ではないじゃないか。それにお前が万事旨く世話をしてくれるだろうから。」  思いの外容易く、男が立とうというので、女は喜んだ。直ぐに荷物を片付ける。宿屋の勘定をする。馬車を呼びに遣る。電話で停車場へ言って遣って、借切りの室を取る。その内男も着物を着替えたが、部屋より外へは出ないで、午になるまで長椅子の上に寝転んで、折々微笑んだ。その間々にはうとうとしていた。そんな風に半分眠ったようになって、折々女の方を見ては、心の内に嬉しく思った。この女はいつまでも己に付いているのだ。それから死ぬる時も一しょに死ぬるのだと思って見るのである。「もう近い内だ。」声に出さずにこうつぶやいたが、心の底にはそんなに早く死ぬるようには思わなかった。  その日の午後には、午前に想像したように、男は汽車の中で、楽に横になって頭を女の胸にもたせて、足の上にはショオルを拡げて掛けていた。鎖してある汽車の窓から外を見れば、空は鼠色で、細かい雨が降っている。立ち籠めている霧の中を見込むと、時々岡や村が近い所に見える。電信柱が背後へ走って行く。電線が高くなったり低くなったり、跳るようにして跡へ消えて行く。折々停車場で列車が留まるが、寝ているのでプラットフォオムに立っている人は見えない。人の足音や話声や、鐸の音や、相図の笛が聞えるだけである。最初は女に新聞を読ませて聞いたが、声が嗄れて来たので止めさせた。二人とも都の住いへ帰るのが嬉しかった。 三十一  晩になった。雨は相変らず降っている。男は考えを極めようと思って見たが、どうも輪廓がぼやけて来て、思想が纏まらない。兎に角こんな事を考えた。ここに大病になった人間が寝ている。そいつは夏の間山地にいるのが好いというので、そこへ行っていたのだ。その側に女がいる。女は長い間誠実に看病をしてくれた。しかし今はもう倦んでいる。大層女の顔が蒼く見える。しかしこれは明りのせいかも知れない。そうだ。もう明りが点いている。外は真っ暗だ。もう秋だな。秋というものは静かに物悲しいものだ。今夜はいつもの住いの部屋へ帰るのだ。あの部屋に這入って見たら、元のようで、一旦そこを出て山になんぞ行ていなかったのも同じであろう。女は眠っているな。こんな時は眠っていて、物を言ってくれない方が好い。あの唱歌会の連中がこの汽車に乗っているだろうか。己は草臥れてはいるが、病気なようではない。この列車には己よりひどい病気になっているものが幾らもいるだろう。ああ。ひっそりして好いなあ。一体きょう一日はどうして暮しただろうか。あのザルツブルヒの宿屋の長椅子に寝ていたのはきょうだっけな。あれからはもう大分時が立っているようだ。時間と空間が。一体分らないものだ。世界の謎か。そんなものも、死んで見たら解釈が付くかも知れない。なんだか耳に旋律が聞えて来た。あれは進行している列車の音だ。そのくせそれが旋律のようでならない。どこかの民謡だな。ロシアのだろうか。単調で、しかも好い感じだな。 「もしあなた。」 「なんだい。」男は自分の前に来て、立っていて、頬を撫でてくれる女を見た。 「好くお休みになって。」 「なにを言いに来たのだい。」 「もう十五分で着きますよ。」 「嘘のようだなあ。」 「まあ大層好くお休みになったようね。きっとお体のために好いのだわ。」  女は荷物を纏めている。列車は相変らず闇を穿って走っている。二三分毎に汽笛の音が聞える。窓硝子を通して、ぱっと明るくなって、直また消える火の光が見える。列車が都近くの停車場を通過するのである。  男は起き直って、「あんまり長く横になっていたものだから、却て草臥た」と云って、腰掛の隅に坐って、窓の外を見ている。もう遥か向うに明りの点いたウィインの町が見える。列車は速度をゆるめている。女は窓を開けて、体を前屈みにして外を見ている。車がホオルに這入った。女は手招きをした。そして男の方へ向いて、「来ていらっしゃいますわ」と云った。 「誰が。」 「アルフレットさんですわ。」 「そうか。」  女はまた手招きをした。男は立ち上がって、女の肩越しに、プラットフォオムを見た。なるほど友達の医学士が窓に近づいて来た。マリイと握手した。それからフェリックスにこう云った。「帰って来たね。」 「どうして来てくれたのだい。」  女は急に詞を挟んだ。「わたくしが電報でお知らせ申しましたの。」  学士が云った。「君はひどいよ。手紙なんというものは書かない流義と見えるね。まあ、為方がない。さあ、出て来給えよ。」 「僕はあんまり長く眠ったもんだから、まだ頭がぼんやりしている。」フェリックスは、車室から降りながらよろめいたので、こう云って微笑んだ。  学士は病人の肘をつかまえた。そうすると女が、いつものように肘に縋ると見せて、片々の肘をつかまえた。  学士が云った。「二人とも随分草臥ているだろうね。」 「わたくし本当にがっかりしていますの。」女はこう云って、それからフェリックスの方に向いて。「ねえ、あなた、汽車旅は随分疲れるものでございますわね。」  一同ゆるゆる停車場の石段を降りた。その間女は学士と目を見合せようとするのを、学士は除けるようにしていた。  石段を降りて、学士は馬車を呼んだ。そしてフェリックスにこう云った。「まあ、君が無事で帰ったのを見て安心したよ。またあすの朝君の所へ行くからね。」 「僕はぼんやりしている」とフェリックスは繰り返した。それから馬車に乗ろうとするのを、学士が手を出して助けそうにしたので、「そんなに意気地がなくなってはいないよ」と云って、一人で車に乗った。続いて女が乗るのを、手を貸して乗せた。 三十二  女は車の窓から手を出して、学士と握手をして、「そんならあしたどうぞ」と云った。  その女の目附が如何にも心配げなので、学士はわざと微笑んだ。「あした早く行って、君方と一しょに朝食を食べよう。」  馬車は停車場を離れた。学士は真面目な顔をして、暫く見送っていて、「気の毒だなあ」と独言を云った。  翌朝医学士が急いでフェリックスの住いへ来て見ると、マリイが戸口に待ち受けていた。「ちょっとお話しがございますの。」 「まあ、先きへわたしに診察をさせて下さい。その上でお話しをした方が、都合が好さそうに思うのですから。」 「いいえ。ただ一つ申して置きたい事があるのです。あの方の体がどんなになっていても、どうぞそれを言って聞かせないで下さいまし。」 「なに。そんなに心配しなくっても好いのですよ。それ程悪くなってはいまいから。まだ寐ていますか。」 「いいえ。もう目を覚しているのです。」 「昨晩どうでした。」 「さようでございますね。午前四時頃まで、ぐっすり寐て、それからは好く寐られなかったのです。」 「まあ、わたしが診察をする間は、あなたははずしていて下さい。あなたが機嫌を好くして、あの男の気分を引き立たせて遣らなくてはいけないのです。ですからちょいとの間避けていて、わたくしに任せて置いて下さい。」こう云って微笑みながら握手して、一人寝間へ這入って行った。  フェリックスは着布団を腮のところまで掛けて寝ていて、友達の這入って来たのを見て、合点合点をした。  学士は寝台の縁に腰を掛けて云った。「内へ帰って安心しただろうね。大ぶ様子が好いようだから、持病のメランコリイなんぞは山に置いて来たのだろうね。」 「まあ、そんなものさ。」フェリックスは真面目で云った。 「君、ちょいと坐って見ないか。こんなに僕が早く来たのは、医者として職務を尽しに来たのだからね。」 「さあ、見てくれ給え。」フェリックスは平気な様子で診察を受けた。  診察が済んでから、学士は二つ三つ何か問うて、返事を聞いて、こう云った。「まあ、この位なら満足しなくてはならないね。」 「おい。もう狂言はよしてくれ給え。」こういうフェリックスの顔は不機嫌であった。 「君こそそんな馬鹿げた様子をするのをよし給え。兎に角真面目に病気と闘わなくてはならないのだ。君の方では健康になろうという意志を堅固にしていなくてはいけない。成行き次第だなんぞという料簡になられては困るよ。そんな態度は、第一君の柄にない。」 「そんならどうすれば好いというのだい。」 「先ず二三日はそうしていて、起きないのだね。」 「そんな事か。君が言わなくても僕は起きたくないのだ。」 「それは丁度好いというものだね。」  フェリックスは少し調子付いて来て、こう云った。「ただ一つ僕には分らない事があるよ。それはきのうの始末だ。君、分かるなら説明してくれ給え。どうも僕には何もかも夢のようだがね。汽車で帰って来たのも、停車場に着いたのも、この寝床に這入ったのも。」 「それになんの不思議があるものか。君だって人間以上の力は持っていない。誰でも草臥切った時はそんな事があるものだ。」 「いや。そうでないよ。きのうのような疲れようはこれまで無かった。きょうだって僕は疲れているが、頭ははっきりしている。実はきのうの方が却って愉快であったのだ。しかしそれを今から思って見ると、気味が悪くなるね。またあんな風になるだろうかと思うと。」 三十三  こう云っているところへ女が這入って来たので、フェリックスが女に言った。「おい。アルフレット君に礼を言ってくれ。お前は看護婦を仰付けられたのだ。なんでも己はきょうからはこう遣って寝ていなくてはならないのだそうだ。まあ、これが己の死ぬる寝床なのだから、その積りでいて貰おうか。」  女がひどくつらそうな顔をして聞いているので学士が云った。 「馬鹿を言うのを真面目で聞いてはいけませんよ。ただ二三日こうして寝ているが好いと、わたしが云ったのです。乱暴に起きないように、あなたは気を付けて下されば好いのです。」 「ふん。君は知るまいが、僕に付いていてくれるこの女は、大した天使だぜ。」フェリックスは皮肉な調子で女を褒めた。  学士は色々養生の為方を話して、女に監督を頼んだ。それからフェリックスに言った。「そこで君にきょう約束をして置くよ。僕は隔日に医者として見舞いに来る。それで沢山なのだ。その外の日に来た時、病気の事を言いっこなしだよ。僕はいつもの通り、友達として話しに来るのだからね。」 「いやはや。君は豪い心理学者だよ。しかしそんなけれんは外の病人に遣って見せ給え。そんなあさはかな手には、僕は乗らないからね。」 「困るね。僕は男子が男子に話しをする積りで言っているのだ。好く聞き給えよ。なるほど、君は病気だ。しかし旨く摂生をすれば直す事の出来るのも事実だ。僕は何も加減をして物を言うのではない。」こう云って置いて、学士は立ち上がった。  フェリックスは疑い深い目附をして、学士を見送った。「まるで本当の事を言っているように見えるから可笑しい。」 「信ぜないのは君の勝手だよ。」学士は手短にこう云った。 「今のは拙かったね。大病人に荒い詞を使って気を引き立てるなんというのは、古い手だ。」 「そんならあした来るよ。」学士は戸の方へ歩いて行った。そして女が付いて出そうにしたので、「いなくてはいけません」と、命令するように囁いた。  女は学士の出て行った跡の戸を締めた。それから顔に微笑を見せて、縫物を取り出して、卓の側へ寄った。  フェリックスは女の様子を見ていて、こう云った。「おい。ここへ来ないか。そうだ。お前は大した親切な女だね。」この優しげな詞を、苦々しい、鋭い調子で云ったのである。  帰ってから暫くの間はマリイはフェリックスの床の側を離れずにいて、親切に看病した。その間女の様子は、落ち着いて、わざとらしくなく晴やかに見えていた。勿論病人の気を落ち着けるようにと心掛けているのである。また実際時々は病人もそれを見て心持ちを好くしていた。しかしその反対に、女の落ち着いた様子に反感を起す事もある。何か今新聞で見た事を話したり、病人の様子が好く見えると云ったり、病気が直ったらどんな生活をして見ようと云ったりする時、フェリックスは不機嫌になって、「どうぞもう己に構わないでいてくれ」という事もある。  医学士は毎日来た。一日に二度来る事もあった。しかし友達の体の事なぞは少しも話さない。両方で知っている人の噂をしたり、病院で見て来た話しをしたりする。稀には美術文学の話しもする。そしてなるたけ病人に多く物を言わせないように力めている。そんな風に恋人と友達とで、病人を気楽にならせようとしているので、病人も体の好くなる時が来るだろうかと思わずにはいられないようになる事がある。重い病人に対して、側にいるものがこんな狂言をするものだという事は、無論病人の心に分っている。狂言だ狂言だと思いながら一しょになって話している。しかしその内にいつとなく引き入れられて、自分がまだ何年も生きているはずと思うらしい詞が、自分の口から出る事がある。 三十四  そういう時は病人は反省して、死に掛かった病人というものは、却って気分が好くなって、健康になる夢を見るものだという話しを思い出す。それからその道理から推して、自分の気が鬱したり、心配が起って来たりするのを、却って気分の好いよりは有望な徴候だと思うようになる。さてそんな論理は余り間違っていると思うので、とうとう病気の未来なぞというものは知れないものだ、たしかめられないものだという結論に到着する。  フェリックスはまた本を読み出した。もう小説は面白くなく、読む内に厭きて来て、就中作中の人物が栄華をしたり、色々に活動するのを見ると、癪に障って来るのである。そこで哲学書を読む事にして、マリイに言い付けて、本箱からショペンハウエルとニイチェとを出させた。暫く読んでいる内は、その説いている道理から平和を見出す事も出来た。しかしそれが長くは続かなかった。  ある晩医学士が来た時、病人は丁度ショペンハウエルの一巻を布団の上に伏せて、厭な顔をして空を見ていた。側には女が手為事をしていた。 「君、僕はまた小説の方を読もうと思う。」病人は学士の顔を見て、激したような調子でこう云った。 「どうしたのだ。」 「小説なら、兎に角嘘だという事を白状して書いているのだ。立派な詩人が上手に書いたのでも、下手な素人が拙く書いたのでも、それだけは同じ事だ。それと違って、この先生なんぞは気取っているのだ。」こう云って伏せてある本の方を見た。 「いやはや。」  病人は床の上で起き上がった。「哲学者なんという奴は、自分が神のように丈夫でいて、人生を厭うだの、平気で死を待っているだのというのだ。そういいながらイタリアで散歩をしていて、賑かな生活に身の周囲を取り巻かれているのだ。僕はそういうのを気取っているというのだ。そんな先生を部屋の中へ閉じ込めて熱を出させて、息苦しくして遣って、お前は来年の一月一日から二月一日までの間に土の下に埋られるのだといって聞かせて、其上でどんな哲学を説き出すか、聞いて遣りたい。」 「よし給え。そんなパラドックスな洒落は。」 「君には分らないよ。分るはずがない。僕は読んでいると胸が悪くなる。みんな気取りやだ。」 「そんならソクラテスなんぞはどうだ。」 「あいつも狂言をしていた奴だ。あたりまえの人間なら、未知の事物に対しては、恐怖を感じなくてはならない。旨く行ったところで、その恐怖を隠しているに過ぎない。僕は正直な話をするがね、一体これまで歴史に書いてある臨終の心理というものは皆偽物だ。それは人に名を知られている、歴史上の人物は、後世の人のために、狂言をしなくてはならない義務があるように思っていたからだ。僕なんぞでさえそうだ。僕が何をしていると思う。こうして、もう僕に対してなんの利害得失をも有せない事柄を、君なんぞと話しているのも、可笑しいじゃないか。これはなんというものだろう。」 「もうよせよせ。殊にそんな無意味な事をいうものじゃないよ。」 三十五 「僕だってやはり狂言をする義務を有しているように思って、こんな事を饒舌るので、実際を言って見れば普通の人間の夢にも知らない、非常な恐怖に僕は襲われているのだ。それと同じ事で、英雄だって、哲学者だって、恐怖していたには相違ない。ただあいつらは狂言が上手だったのだ。」 「もうおよしなさいよ」と女が頼むように云った。 「大方お前なんぞも、アルフレット君と同じように、平気で死を向うに見る事が出来ると思っているのだろう。それは死というものを知らないからだ。犯罪者になって死刑の宣告を受けて見るが好い。それか、己のような体になって見るが好い。その上でなくては話しは出来ないのだ。盗坊は平気な顔で絞首台へ連れて行かれる。大哲学者は毒薬を呑んでから、旨い文句を考える。革命を起して、失敗した英雄は、銃の先を胸に突き付けられて笑う。そういうのはみんなごまかしだ。己には好く分かっている。平気を装ったり、笑ったりするのは気取るのだ。なぜというに死に対しては非常な恐怖を抱いているに相違ないからだ。死の恐怖は死そのものと同じように、自然の現象だ。」  学士は静かに寝台の縁に腰を掛けて聞いていた。そして病人が饒舌り止んだ時こう云った。「第一君そんなに長く饒舌ってはいけない。殊にそんな大きい声を出してはいけない。それから君のいう事は飽くまで馬鹿げている。それはひどいヒポコンドリイというものだ。」 「それにあなたきょうなんぞはそんなに御様子が好いじゃありませんか」と女が口を出した。 「君、ほんとにあんな事を思っているのだろうか」と、病人は学士に向いて云った。「どうだろう。こいつに君が本当の事を言って聞かせてくれたら。」 「ところがほんとの事を言って聞かせなくてはならないのは、マリイさんじゃなくって、君なのだ。しかし君は何を言ったって、きょうは聞きそうでないから、僕は止めにして置く。まあ、二三日立って、その間今のような長演説を慎んでいる事が出来たら、君も起きられるようになるだろう。その上で君にしっかり言って聞かせる事があるよ。」 「ふん。どうも君の腹の中がこんなに見え透かないといいのだがなあ。」  学士は「もう好いよ」と云って置いて、女の方に向いた。「あなたもそんな困ったような顔をしていないが好いのです。この先生だって今に物の分かる時も来るでしょう。それはそうと、なぜ窓が一つも明けてないのですね。外はひどく好い秋日和ではありませんか。」  女は立って窓を明けた。丁度日の暮れ掛かる時である。外から吹き入れて来る風が如何にも好い心持ちなので、女は暫くその風に吹かれていたいように思った。そこで窓の側に立ち留まって、頭を外へ出して見た。その時女の心持ちは、病室を出てしまって外に一人でいるようであった。もう何日もこんな好い心持ちのした事はない。それから頭を引っ込めると、病室の、鈍い空気が顔を撲って胸が詰まるような気がした。見れば病人と学士とで何か言っているが、詞は聞えない。しかしそれを聞きたくも思わなかった。そこでまた頭を窓から外へ出した。往来は人けが絶えてひっそりしている。近い大通りから馬車の通る音が微に聞えるばかりである。その内窓の下の人道を散歩する人がちらほら通る。向いの家の門口には、女中が二三人出て、何か話して笑っている。向いの家の窓が明いて、若い上さんが、自分と同じように顔を出して外を見る。マリイはそれを見て、なぜあのお上さんは散歩に出ないのだろうと思った。そしてどの人もどの人も自分よりは幸福なように思って羨ましがった。 三十六  爽かな九月の天気が来た。日は早く暮れるが、風もなく、寒くもない。  マリイは隙があると、病人の側を離れて、開けた窓の前に椅子を据えているのが癖になる。殊に病人の眠っている間は、何時間もそうしている。なんだかがっかりしたようで自分の境遇がどんなものだという事を、はっきり考えるのが厭である。そればかりではない。何事をも考えるのが厭である。過去の事も思わず、未来の事も思わずに、何時間もぼんやりしている事がある。目を大きく明いて空を見詰めて坐っている。ただ外から気持ちの好い風が這入って、自分の額を吹いてくれれば、それで満足に思っている。その内病人がうめくので驚いて見に行くのである。しかし自分の病人に対する同情が次第に薄らいで来る。憐憫が変じて神経過敏になって、苦痛が変じて恐怖と冷淡との混合物になって来る。しかし自分が悪い人になったとは思われない。いつか学士が、あなたは天使のようだと云ったが、そういう褒詞を受けて恥じなくてはならないような気はしない。今のように冷淡に傾いて来たのは、それは疲れたのである。極端に疲れたのである。もう外へ出なくなってから十日以上になる。なぜ出ずにいるのだろうと考えて見る。そうすると病人をおこらせまいと思って出ないのだという事が、新しい発明のように心に浮ぶ。無論側にいるのがつらいとは思わない。あの人を愛している事も決して昔に劣らない。ただ自分は疲れたのだ。それも無理ではない。こう思っている内に、外へ出たいという要求が次第に切になって来る。これを無理に我慢しているのは、子供らしい事ではないか。病人だって少し考えて見たら分かりそうなものである。一体もし病人がおこりはすまいかと思って、こんなに久しく出ずにいたのは、随分病人のために尽していたというものではあるまいか。自分が病人を深く愛している証拠ではあるまいか。  女はこんな事を考えている内に、手に持っていた縫物を床の上に取り落してちょいと寝台の方を見た。もう寝台のあたりは薄暗くなっている。きょうは病人も落ち着いている。今眠ったところである。こんな時にそっと出て行ったら、病人は知らずにいるだろう。ちょいとあの梯子を下りて、あの町の角を回れば、賑かな公園に出られる。それからあの都の中心を輪なりに繞っている大通りに出て、電燈の沢山点いている、オペラ座の前を通る。あの辺はいつも賑かである。その賑かさが如何にも恋しい。しかしそんな事が出来るのはいつだろう。無論病人が直ってしまえば出来るだろう。あの人が病気でいては、往来や、公園や、大勢の人を見たって詰まらない。  女はとうとう出ずにいた。そうして寝台の側へ椅子を持って行って病人の手をつかまえて涙を飜した。その涙は、もう側にいる男の事を考えなくなっても止まらなかった。  その日の午後であった。学士が来て見ると、病人がこの頃になく好い血色をしていた。それを見て学士が云った。「この塩梅だと、もう二三日立ってから起きられそうだね。」 「そうかね」と病人は云ったが、何事に依らず友達の言う事を猜疑の耳を持って聞く癖が付いているので、嬉しくも思わなかった。  学士は、卓の側にいるマリイに向いて云った。「あなたもも少し血色が好くっても好いね。」  その詞を聞いて、病人も女の顔を見たが、なるほど目立って色が悪い。一体この頃病人は、女の親切を感謝したいような心持ちになると、わざとその心持ちを排斥する癖が付いている。女の犠牲的精神が幾分か偽物らしく思われて、その忍耐の表情が白々しく思われたのである。そこで女がいっその事じれったがって来れば好いと思う。いつか詞か科で、女が薄情な根性を曝露したら、その時面と向ってそう云って遣りたい。もう疾うからお前が面を被っているという事は知っていた。己は胸が悪かった。どうぞ己の側を退いて己に落ち着いて死なせてくれと云って遣りたい。  女は学士の詞を聞いて、少し顔を赤くして微笑んだ。「わたくしちっとも弱りなんかしていませんわ。」 三十七 「いや。そうでありませんよ。フェリックス君だって、自分が直って、あなたが病気になっては困るでしょう。」こう云いながら、学士は女の側へ歩いて行った。 「だってわたくし本当になんともないのでございますもの。」 「一体あなたはちっとも外へ出ないのですか。」 「出たくなんざありませんもの。」 「おい。フェリックス君。マリイさんはまるで君の側を離れっこなしだと云うぜ。」 「そうだろう。御承知の通り天使だからね。」病人は平気でこう云った。 「しかしね、マリイさん、それはあまり馬鹿げていますよ。そんなにして無駄な骨を折るのは、子供らしくて、なんの用にも立ちません。是非折々は外へお出なさい。わたしがその必要を言明しますね。」  女はかすかに微笑んだ。「なぜそんなに仰ゃいますの。出たくなけりゃあ好いじゃありませんか。」 「それは出たくても出たくなくても同じ事です。一体その出たくないというのが、もう悪徴候です。是非きょうは出なくてはいけません。そして一時間許り公園のベンチに腰を掛けておいでなさい。それとも厭なら、馬車を雇ってプラアテルあたりへでも行っておいでなさい。あの辺はこの頃面白い時節ですから。」 「でも。」 「でもなんぞと云ったって駄目です。そんな風に続いて遣っていて、余り天使になり澄すと、体が台なしになりますよ。まあ、ちょっとそこの鏡で顔を御覧なさい。実際大変な事になるのです。」  学士がこう云った時、病人はちょいと胸を衝かれたような心持ちがした。抑えた怒が腹の中を掻き交ぜている。なんだかこの会話をしている時、マリイの顔に、人の憐みを乞うような、自覚したる忍耐の表情が見えたように、病人は感じた。そして動かすべからざる真理ででもあるように、この女は己と一しょに苦労すべきはず、己と一しょに死ぬべきはずの女だという思想が、頭の中をひらめき過ぎた。女が体を台なしにする。無論それで好いじゃないか。己が死に向って進んで行くのに、あいつが薄赤い顔をして目を赫かしていなくてはならないというのだろうか。一体アルフレットだって女がそうすべきだと思うのだろうか。それとも女までが自分にそんな考えを。  学士がさっき云った事を繰り返して、女に勧めている間、病人は女の顔の表情を一しょう懸命覗っていた。とうとう学士は女に承諾させた。それはきょうの内に外へ出るというのであった。学士に言わせると外へ出るのも、看病すると同じように、女の病人に対して尽すべき義務の一つなのである。 「あんな事を言っているのは、己というものを度外視しているのだ。どうせ直らない病人だというので、構わずに死なせる気なのだ。」病人はこう思った。そして学士が帰って行く時、ひどく冷淡に握手をした。心のうちに学士を憎んでいるのである。  女は学士を部屋の入口まで送ったきりで、直に病人の所へ帰って来た。病人は唇を堅く閉じて、額に深い怒りの皺を寄せていた。その心持ちがマリイには分った、底から好く分った。そして男の上へ身を屈めて微笑んだ。男は溜息を衝いた。それから何か言おうとした。何か非常な侮辱を覿面に与えて遣りたいのである。そうするのが当然だと考えられるのである。女は優しく男の髪を撫でて遣って、顔には忍耐に慣れた、疲れた微笑を続けて、口を側に寄せて、親切に囁いた。「わたくし行かなくってよ。」  男は黙っていた。その晩は夜の更けるまで、病人の側に坐っていて、女はとうとう椅子に掛けたまま眠ってしまった。  翌日学士が来た時、女は話しをしないように避けていた。しかし学士はきょうは女の顔なんぞに構わない様子で病人とばかり話しをしていた。  学士はもう程なく起きて好いという事を、きょうに限って言わずにいる。病人もそれを問う事を憚っている。一体病人は、きょうは物が言いたくない。いつもになく口不性である。そして学士が暇乞いをして帰るのを、嬉しく思った。 三十八  病人は女にも不機嫌な、短い返事ばかりしている。午後になって何時間も黙っていた跡で女が問うた。「きょうは御気分はどんなですの。」 「どうだって好いじゃないか。」病人は両手を頭の上で組合せて、目を瞑って寐入ってしまった。  女は暫く側で病人の様子を見ていた。その内頭がぼんやりして、夢見心地になって来た。  暫くして女がふと心付くと、好く寐た跡のように爽快な感じが体中に漲っていた。女は立ち上がって、卸してあった窓掛を巻き上げた。なんだか近い公園から、遅れ咲きの花の香が、この狭い町へ迷い込んで来たようで、部屋に這入って来る空気に、いつにない美しい匀がある。女は病人の方を振り返った。病人はさっきと同じように寐ていて、呼吸も静かである。これまではこんな時に、女はきっと一種の感動を起して、この部屋を離れる気にならずに、鈍い沈んだ心持に体を任せていたのである。それがきょうはなんにも感ぜない。そして病人の眠っているのを喜んで、心の内に何の争闘をも起さずに、いつも平気でする事ででもあるように、一時間外へ出て来ようという決心をした。  女は足を爪立てて台所へ出て、女中に病室へ行っているように差図した。それから帽子と蝙蝠傘とを持って、飛ぶように梯子段を降りた。  女は往来へ出た。足早に狭い町を二つ三つ通り過ぎると、公園である。両側に大きい木や小さい木が植わっていて、頭の上には薄青い空がひろがっている。何もかも久しく恋しく思っていた景物ばかりである。  女はベンチに腰を掛けた。同じベンチにも、近所にある外のベンチにも乳母や子守が掛けている。並木の下では子供が遊んでいる。その内次第に暗くなって来るので、もう遊びも末になったと見えて、女達はそれぞれ子供を呼んで、手を引いて公園を出て行った。とうとうマリイは一人になった。ちらほら人が通り過ぎる。男の中には、ちょっと振り返ってマリイを見て行くものもある。  とうとう外へ来たのである。一体どうしたというのだろう。丁度こういう時、人に邪魔をせられずに、自分の現在の地位を見渡して、好く考えて見なくてはならないと、女は思った。自分の思想を、はっきりした詞に直して、口の内で言って見たいのである。  わたしがあの人の側にいるのは、あの人を愛しているからである。側にいなくては気が済まないから側にいるのだ。そうして見れば犠牲になっているというものではない。さてこれからどうなるのだろう。いつまでこれが続くだろうか。どうせあの人は助からない。しかし末はどうなるのだろう。いつかあの人と一しょに死のうと思った事もある。それになぜ今はこんなに余所余所しくなっているのだろう。  どうもあの人は自分の事ばかり思っているようだ。今でもわたしと一しょに死にたいのだろうか。こう思うや否や、きっと一しょに死ぬる積りでいるのだという断案が、はっきりと下された。しかしその時の男の姿は、永遠に愛人を側に寝かしていたいという優しい青年の姿ではなかった。意地悪く、嫉み深く、一旦我物にした女だからというので、無理に引き摺って連れて行く人の姿が見えたのである。  その時若い男が一人来て、マリイの側に腰を掛けて何か言った。女はうっかりして、「なんです」と問い返した。しかし直ぐに気が付いて、立ち上がって、足早にそこを逃げた。  公園を歩いている間、出逢う人の自分を見るのが不快であった。例の輪形になった大通りへ出て、馬車を呼んで、そこらを散歩するように歩けと云い付けた。  日が暮れた。女は馬車の隅に、楽に身を寄せて、車の心地好く滑って行くのを喜び、夜の薄明りと、ひらめく瓦斯燈の明りとの間を出没する、種々の事物の移り変るのを眺めて楽しんだ。九月の、天気の好い晩なので、大勢の人が散歩に出ているのである。 三十九  市民公園の前を通る時、中から爽かな軍楽の声が聞えた。マリイはザルツブルヒで合奏を聞いた晩の事を思い出した。そしてこの周囲の事物が皆無常な無価値なもので、それを擲って死ぬるのは、なんでもないと思って見ようとしたが、どうもそれは出来なかった。自分の心に沁み込んで来る心地好さを忘れようとしても、忘れられなかった。なんだか愉快で溜まらない。あそこには電気燈の白く照っている劇場がある。あそこには議事堂前の広場の並木の間から、人が暢気らしく往来を歩いて来る。あそこには珈琲店の前に大勢の人が腰を掛けている。この色々な人は心配なんぞはなさそうに見える。事に依ったら全く心配はないのかも知れない。柔かい、暖かい空気が顔に当る。こんな心持の好い晩を、生きていて何遍でも味う事が出来る。その外天気の好い夜昼を何千度でも楽んで過ごす事が出来る。健康の喜びの感じが体中の脈々を流れて通る。この色々のものが総て愉快に感ぜられる。  一体永い間死ぬるほどの疲れに体を委ねていたものが、たった何分間かこんな楽をしているのが、不都合だというべきだろうか。自己の存在という事を自覚するのが、当然の権利ではないだろうか。自分は健康である。年も若い。千百の泉から一時に人生の喜が流れ出て、自分の上に注ぎ掛かって来るのである。これは自分は呼吸をしているという事や天が自分の上に覆っているという事と同じように自然である。それを恥じなくてはならないだろうか。  マリイはふと病人の事を考えた。もし奇蹟があって、あの人が直ったら、自分は無論あの人と一しょに暮すだろう。あの人の事を思えば、優しい、寛恕して遣りたい悲哀が萌して来る。そしてもうそろそろあの人の側へ帰って遣らなくてはならない時だろうかと思う。  しかしあの人はわたしの側にいて遣るのに満足しているだろうか。わたしの優しくして遣るのを、難有く思っているだろうか。なんという毒々しい詞使いをこの頃はするだろう。なんという憎々しい目附きでこの頃は見るだろう。それから接吻なんぞはどうしたのだろう。もう接吻という事をしなくなってから大ぶ久しくなっている。こう思うと同時に病人の唇の蒼ざめて、いつも乾いているのが思い出される。それから額にキスをして遣ろうかと考える。ああ額は冷たくて、いつも汗ばんでいたっけ。まあ、病気というものは厭なものだこと。  マリイは車に背を寄せ掛けた。そして故意に病人の事を思うまいとした。病人の事を思わないようにするには、往来の方を熱心に見なくてはならない。こう思っていつまでも記憶して置かなくてはならないものを見るように、往来の事物の一つ一つに目を付けていた。  フェリックスは目を開いた。寝台の側には蝋燭が一本弱い光を放っている。そこの椅子の上に、婆あさんが手を膝に置いて、冷淡な様子をして坐っている。 「あいつはどこへ行ったのだ。」病人がこういうと、婆あさんはぎくりとした。そして「さっきお出掛けになりましたが、直ぐお帰りになるはずです」と答えた。 「もうあっちへおいで」と病人が云った。それでも婆あさんはもじもじしているので、「行っても好いというじゃないか、用はないのだ」とすげなく云った。  病人は一人になった。これまでについぞ覚えない不安が襲って来た。  女はどこへ行ったのだろう。そう思うと寝台に寝てはいられないような気がして来た。しかし起きて見ようとするだけの決心も出来なかった。  忽然こんな事が頭に浮んだ。「事に依ったらあいつは逃げたのではあるまいか。長く己を見棄てて行ってしまったのではあるまいか。もう己の側で暮しているのが我慢しにくくなったのだ。己がこわくなったのだ。あいつは己の腹を見破ったのだ。それとも己は寝言でも云ったのではあるまいか。もう大ぶ久しい間、はっきりとは考えなかったが、始終己の心の底には、思っていた事なのだから、いつかそれを声に出して言ったかも知れない。それを聞いて、女は一しょに死にたくないと思ったのではあるまいか。 四十  思想は織るが如くに頭の内を往来する。毎晩発する熱が出て来た。「一体己はあいつに優しい詞を掛けないようになってから、もう大ぶ久しくなる。ただそれだけの事で逃げたのかも知れない。己は癇癪を起したり、猜疑の目附きで見たり、苦々しい事を云ったりした。礼を言わなくてはならないのに、そんな事をしたのだ。よしや感謝して遣らないまでも、少くも公平にだけは考えて遣るべきであったのだ。ああ。ここにいてくれれば好いなあ。どうもあいつがいなくては困る。あいつがいなくなるだろうと思うと、胸が燃えるように苦しい。已む事を得ないなら、どんなにもあやまって遣りたい。これからはどんなに自分が苦しくても、一人でこらえて、言わずにいても好い。胸が押し付けられるように切ないのに、微笑んでいても好い。息が詰まって溜らないのに、手にキスをして遣っても好い。己はむちゃな夢を見るのだ、よしや夢に何か言った事があっても、それは熱に浮されたのだと、よく言って聞かせよう。それから己はお前を崇拝しているのだ。お前になるたけ長生をさせたい、末長く楽に暮させたいと思っているのだと誓って遣ろう。どうぞ己の側にだけいてくれ、己の寝床の側を離れてくれるな、一人で死なせてくれるなと頼もう。お前が側にいるとさえ思えば、平和な気分で、明るい理性で死を待つ事が出来るのだと云おう。どうせ程なく死ぬるのだ、きょうあすかも知れないのだ、それだから側にいてくれなくてはならない、いてくれんでは心細いと云おう。あいつは一体どこにいるのだろう。どこにいるのだろう。頭の中で血が渦巻いている。目が昏んで来る。息が忙しくなって来る。それに誰も側にはいない。なぜ己は婆あさんを追い出してしまっただろう。あれだって人間だ。これでは己は手も足も利かないのに一人でいるのだ。」  病人は起き上がった。そして思ったより力強く感じた。しかし呼吸が如何にも苦しい。なんとも言われないように切ない心持ちがする。とうとう我慢し切れなくなって床から出た。そして着物を半分着て窓の所へ出て見た。新鮮な空気が顔に触れる。病人は深い息を二三度した。それは好い心持ちであった。寝台の縁に掛けてあるショオルを取って体に巻いて、椅子に腰を掛けた。それから数秒間は思想が乱れて、ぼんやりしていたが、またしては電光のように「どこにいるのだろう、どこにいるのだろう」という考えが閃き過ぎる。「今まで己が眠っている間に、出て行った事があるのだろうか。そうかも知れない。どこへ行くのだろう。つい一二時間病室の陰気な空気を除けている積りだろうか。それとも己の病気を嫌って除けるのだろうか。己の側にいるのが厭になったのだろうか。この部屋に漂っている死の影がこわいのだろうか。生が恋しいのだろうか。生を求めるのだろうか。何を求めるのだろうか。何を思っているのだろうか。どこにいるのだろう、どこにいるのだろう。」  飛び翔るような思想が囁きになり、うめき出すような詞になる。そして「どこへ行ったのだろう」と叫ぶのである。女がこの部屋を逃げ出して、自由を得た喜びの微笑を唇の上に湛えて、梯子段を駈け降りて、どこか病気や、胸の悪い事や、ゆるゆると死んで行く有様の見えていないところへ、どこか、ある不明なもの、ある花咲き匀うもののある所へ、逃げ込んで行こうとするのが、目の前に見えて来る。女の姿は、赫く霧の中へ隠れてしまって、その霧の中から、女の笑声が聞える。幸福の笑声、歓喜の笑声である。そしてその霧が散ってしまうと、女の踊っているのが見える。女はくるくる廻って踊りながら見えなくなってしまう。  その時ごろごろいう音が次第に近づいて来て突然止んだ。男は「どこへ行ったのだろう」とまた思って、ふと気が付いて窓の所へ走って行った。ごろごろいったのは馬車で、それが門口に留まっている。馬車ははっきり見える。そしてその中から人が出て来る。それはマリイであった。 四十一  相違なくマリイである。出迎えようと思って、次の間へ飛び出した。そこは真っ暗である。どこに戸の撮みがあるか見えない。まごまごしている内に、外から鍵を挿て錠を開けた。戸が開いた。マリイが這入って来た。廊下から微な瓦斯燈の光が差し込んで、女の身の周囲を照している。男がくら闇にいたので、女が知らずに打っ付かって、きゃっと云った。男はいきなりその肩を掴んで、部屋の中へ引き摺り入れた。そして口を開いて何か言おうとしたが、声が出なかった。 「あなたどうなすったの。気が変になっていらっしゃるじゃありませんか。」  女は恐怖の余りにこう云って、男の手を振りほどこうとした。  男は棒立ちに立っている。その様子が見る見る丈が伸びて大きくなるように見える。男はようよう物が言われるようになった。「どこから帰って来たのだ。どこから。」 「まあ、あなたしっかりして下さいよ。どうしてそんな。まあ、そこへお掛けなさいよ。」 「どこから帰って来たのだ。どこから。どこから。」男の声は前よりは小さくなって、茫然として言っているように聞える。どこからを繰り返した声は、ほとんど囁くようである。  女は男の手を握った。その手は焼けるように熱かった。  女に手を引かれて、男は長椅子の所へ連れて行かれた。そして女は椅子の隅へ男を押し付けると、男は素直にそこへ坐って、なんだか正気になろうと努力するような様子で、周囲を見廻した。そして今度は、はっきりした声で、前と同じように、「どこから帰ったのだ」を繰り返した。  女はようよう落ち着いて、帽を脱いで、背後の椅子の上に投げて、男の側へ腰を掛けた。そして媚びるように云った。「わたくし、たった一時間外に出て、風に当って来ましたの。なんだか、自分でも病気になりはしないかと思ったものですから。病気にでもなろうもんなら、あなたのお役にも立たないでしょう。帰りには、早くお目に掛かろうと思って、馬車に乗って帰りましたの。」  男は長椅子の隅に坐って、がっかりしたような様子でいる。そして女の顔を横から覗き込んで、なんにも言わない。  女は熱い男の頬をさすりながら、語り続けた。「ねえ、おおこりなすったのではないでしょう。それにあの女中に、わたくしの帰って来るまで、お側にいるように云って置きましたわ。いませんでしたか。どこへ参りましたの。」 「己があっちへ行けと云ったのだ。」 「なぜそんな事をなすったの。あれはわたくしの帰るまで、お側にいるように、そう云って置いたのではありませんか。わたくし早くお側へ帰って来たくてなりませんでしたの。幾ら空気が好くったって、あなたがいらっしゃらなくっては、詰まりませんわ。」  男は病気な子供のように、頭を女の胸に寄せ掛けた。女は昔したように、男の髪に軽く接吻した。男は訴えるような目付で、女を見上げた。「おい。己の側にいつまでもいてくれなくってはいけないぜ。」 「ええ。」女はまた男の濡った乱髪に接吻した。女はなんとも云えないほど悲しかった。泣きたいようであった。しかしその感動には一種の枯れた、乾燥びたような心持ちが交っていた。どこからも慰藉は来ない。自分の悲痛の内にも、それを見出す事が出来ない。そして男の涙の頬を伝わって流れるのを見て、その涙を羨ましく思った。  それからは夜も昼も女が男の病床を離れずにいる。食事を運んで来る。薬を飲ませる。男が気分が好くて、何か聞きたいと云うと、新聞やら、小説の一節やらを読んで聞かせる。  女の散歩に出た翌朝から雨が降り出して、いつもより早く秋が来た。窓の外を見ていると、毎日朝から晩まで、ほとんど小止みなしに降る、細い、鼠色の雨の糸が見えている。 四十二  この頃になって、病人は夜折々、何やら連続のない事を言う事がある。そんな時には、女が機械的に、男の額や髪をさすって遣って、「お寐なさいよ、お寐なさいよ」と囁く。子供が夜中に不安になった時、母が宥めるような工合である。見る見る男は弱って行く。しかし苦痛はひどくない。病気の元を思い出させるような、短い間の呼吸困難が折々あるが、それが過ぎ去ると、一種の弛緩状態になる。そしてもう自分で、なぜそんな状態になるかを考えて見るほどの力もない。ただ折々ふと気が付いて、「なぜ己はこの頃、何事にもこんなに冷淡になったのだろう」と云う事がある。外で雨の降っているのを見ると、「ああ、秋だな」というが、それ以上の事は考えない。自分の病気がどうなるだろうという事も考えない。死をも思わない。健康をも思わない。側にいるマリイも、この頃は病人の様子がどう変るだろうなどとは思わないようになった。たびたび見舞いに来る医学士もただ習慣的に見舞いに来るという風になった。勿論学士は外にいて、生々した世間の状態を見て暮すのだから、この病室へ這入って来る度ごとに、病人の様子が日々に変るのが見える。学士はもう全然希望を擲ってしまった。そして病人の身の上にも、側に付いている女の身の上にも、ある新時期の来たのを認めた。それは人間が深い感動を閲した跡で到達する時期である。その時期には希望もなければ恐怖もない。その現在の感じも、過去を省みるという事もなく、未来を見渡すという事もないので、鈍く、ぼんやりしている。学士はいつも這入って来る時、一種の不愉快を感じて這入って来て、病人と女とが変った事もなくているのを見て、始めて安心して息を衝くのである。いずれもう遠からず、この二人は最後の決心を促される時期に逢うのである。  ある日学士は、やはりこんな事を考えて、梯子を升って来た。戸口から這入って見ると、女が次の間に、青い顔をして、手を組み合せて立っている。「どうぞいらっしゃって下さいまし」と云って、女は学士を病室に案内する。学士は急いで這入って見た。  病人は床の上に坐っている。そうして憎々しい目附で二人を見て云った。「一体己をどうしてくれるのだい。」  学士は足早に側へ寄った。「君こそどうしたのだ。」 「いや。君が僕をどうしてくれるのか聞きたいのだ。」 「まあ、それはなんという馬鹿げた物の言いようだね。」 「君もあいつも、僕を行き着かしてしまうのだ。」病人の声は叫ぶようである。  学士は病人の手を握ろうとしたが、病人は荒々しく自分の手を引いた。「廃してくれ給え。マリイもそんな手附きなんぞをしているには及ばない。僕はただ君やあいつが、僕をどうしてくれるのだか、それが聞きたい。これからどうなるのだかそれが聞きたい。」  学士は落ち着いた声で云った。「君さえそんなにむちゃくちゃに興奮しないでいれば、もっと早く好くなるのだ。」 「己はもう随分長い間こうして寝てばっかしいるのだ。それを二人共平気で見物している。」こう云い掛けて病人は突然学士の方に向いた。「一体君は僕をどうしてくれるのだ。」 「まあ、そんなわけの分らない事を云うのは廃し給え。」 「だって君は僕をどうもしてくれないじゃないか。もう時期は切迫している。それに誰も手を出して防いではくれない。」 「まあ、気を落ち着けなくてはね」と云って、学士は寝台の縁へ腰を掛けて、また病人の手を取ろうとした。 「君はもう僕を見放しているのだね。それだからこうして寝かして置いて、モルヒネばかり飲ませているのだ。」 「どうも今二三日の処は忍耐して貰わなくてはならないよ。」 四十三 「しかしね、こうしているのがなんの役にも立たないのだ。僕がこれからどうなるという事は、はっきり分かっている。なぜ君は僕をこんなにじりじり衰えて行かせるのだ。君にだって、マリイにだって、僕がこのまままいってしまうのだという事は、分かっているに違いない。僕の身になって見給え。どうも我慢が仕切れない。どうにかして見ようがあろうじゃないか。君は医者じゃないか。考えて見てくれ給え。どうにかしてくれるのが、君の義務だ。」 「それは手段はあるとも。」 「手段なんか、ないね。奇蹟でも現われるなら、知らぬ事だ。ところが奇蹟なんぞは現われまい。そこで僕は兎に角どこへか行こうと思う。」 「それは君がも少し力付いて来れば、起きる事が出来るのだ。」 「いや。君に言うがね、そんなことを言っていると、機会は過ぎ去ってしまうのだ。なぜ僕がこの厭な部屋にいつまでもいなくてはならないのか。僕はどこかへ行きたい。この町が離れたい。僕の体に何が必要だという事が、僕には分かっている。僕は春に逢いたい。僕は南の国へ行きたい。僕の頭の上に暖かい日が照ってくれれば、僕は丈夫になるのだ。」 「それは分かっているよ。南の方へ行くのは無論好い。しかしも少し辛抱しなくてはいけないね。きょうなんぞ立とうと思ったって立たれない。あすも駄目だ。その時期が来れば、僕がそういうよ。」 「ところが僕はきょうでも立たれる積だ。この厭な部屋の外へ出てさえしまえば、僕はたしかに生れ変ったような人間になる。このままにしてここに置かれては、僕は一日一日危険を冒しているというものだ。」 「しかし兎に角僕は医者だよ。」 「それは君は医者に相違ない。しかし君は特別の場合を考えないで、どの病人をも同じように扱おうとするのだ。病人には自分がどうすれば好いという事が却って好く分かる。僕をこう遣って寝かして置いて、衰えさせてしまうのは、どうも好い加減な為方で、不親切極まるのだ。南の方へ転地して、体が不思議に好くなったものは幾らもある。たとえ一縷の望みでもある以上は、何も手を束ねているには及ばない。僕にだってまだ望みはある。君のするように僕を運命の弄ぶがままにして置くのは、実に冷酷極まるのだ。僕は是非南の方へ行って見たい。春のある方へ行って見たい。」 「好いよ。それは僕だって承認しているのだ。」  女は急に口を挟んだ。「ねえ、あなた、フェリックスさんとわたくしとで、明日立ちましても好うございましょう。」 「そうですね。フェリックス君が僕に約束して、三日間動かずにいてくれたら、立たせる事にしましょう。兎に角きょうなんぞ立たせては、僕が犯罪をするようなものです。どうしてもそんな事は出来ません。それにあの天気を御覧なさい。雨風です。どんな丈夫なものだって、きょうなんぞは旅に立たない方が好いのです。」 「そんならあしただ」と病人が叫んだ。 「まあ、天気が少し好くなったら、二三日の内に立つという事にするのだね。」  病人は学士の顔を、ねらうように見た。 「きっとかね。」 「きっとだ。」  女が「それ御覧なさい」と云った。  病人が学士に言った。「一体君はもう僕の命は救われないものだと思っているのだろう。そこでここで死なせようと思うのだろう。それは間違った人道だよ。人間が死ぬる段になると、故郷も何もあったものではない。生きていられる所が故郷だ。兎に角僕は手を束ねては死にたくないのだ。」 「まあ、好く聞き給え。冬は南の方で送らせようと、僕が思っていたという事は、君も知っていなくてはならないはずだ。しかしこんな天気に旅行するものはないからね。」 四十四  病人は女に言った。「兎に角直ぐに支度をしてくれ。」  女は心配げに学士の顔を見た。 「それは支度はするが好いよ。いずれいつか用に立つのだ。」学士がこう云った。 「すっかり支度をしてくれ。己はもう一時間すると起きて、日の差して来るのを待っている。日が差して来たら、直ぐ立つ。」  午後になってフェリックスは起きた。転地をするという考えが、精神上によほど好影響を与えたらしく見える。気分がはっきりして、長椅子に寝転んでいる。近頃の物事に冷淡な様子もなく、絶望の発作もない。マリイの支度をするのを見て、色々な註文を言う。蔵書の中で、何々を持って行きたいと指図する。一度なんぞは、自分で立って行って書類を一山卓の抽斗から出して、それを行李へ入れさせた。 「元から書き掛けているものに、目を通して見る積りだ」と、女に言った。それから女がその書類を行李の中へ入れようとしている時、こう云った。「己は長らくなんにもせずにいたが、却ってそれがためになったようだ。どうも思想が成熟したかとさえ思われる。今まで考えて置いた事が、今になって不思議に明瞭に想像せられるようだ。」  雨風の日の翌日天気が直って、その翌日は意外に暖かになって窓が開けていられる位になったのである。そこで午後になって病人が起きた時には、愉快な、暖かい日影が床の上に落ちて、片付け物をするために跪いた女の髪の波を打っている上には、きらきらする反射が見えているのである。  丁度女が書類を丁寧に行李にしまっているところへ、医学士が来た。病人は長椅子の上に横になっていて、例の書き物の事を話した。  学士は微笑んだ。「それも悪いとは云わないよ。君だって体は大切にしているのだから、むやみに早く著述に掛かるような事もあるまい。」 「なに著述といっても、労力ではない。これまで闇の内に隠れていた、僕の思想の上に、新しい光線の反射が一ぱいに見えて来たような気がするのだよ。」 「それは好いね。」学士はこの詞をゆっくり言って、病人の様子を見ている。  病人は虚空を凝視している。「君、僕を誤解してはいけないよ。思想といっても、はっきりした輪廓のあるものを持っているのではない。ただ何かが出来そうな感じがあるばかりだからね。」 「そうか。」 「これまでも僕は、オルケストラが調子を合わせるのを聞くと、強い感じを受けた事がある。今に一斉に清い諧律が聞えて来るのだ。今にあらゆる楽器が正しく奏し始められるのだという感じだね。」こういい掛けて突然、「汽車の室は誂えてくれたのだね」と問うた。 「取って置かせたよ。」 「そんならあすの朝は立たれますね」と、女が機嫌好く云った。女は忙しそうに箪笥から行李へ、行李から書棚へ、書棚からまた行李へと走って、物を整頓しては詰め込んでいる。  学士は妙な心持ちがした。なんだか面白い遊山の旅に立って行く、若い男女を見ているように思われるのである。きょうはこの部屋中に、如何にも希望に富んでいる、濁りのない情調が漲っているのである。  学士が暇乞いをして出る時、女が次の間まで付いて出た。「ほんとに立たれる事になって好うございますわ。わたくし嬉しくて溜りませんの。いよいよ立つという事になってからは、フェリックスさんが、まるで別な人のようになったのですもの。」  学士はなんとも答える事が出来なくって、ただ女と握手して帰りそうにしたが、振り返って云った。「あなたに言って置かなくってはならないのですが。」 「なんでございますの。」 「わたしは医者ではあるが、同時にあなた方の友達ですからね、何か僕に用が出来て来たら、僕はいつでも出掛けて行きますよ。どうぞ忘れないで電報を打って下さい。」 四十五 「そんな事になりますでしょうか。」女は驚いたような顔をしている。 「万一という事がありますからね。」学士はこう云って置いて帰った。  女は暫く立ち留まって考えていたが、余り長くここにいたら病人がなんとか思いはすまいかと心配して、急いで病室へ帰った。しかし病人はなんの気も付かずに、女の這入って来るのを待ち受けて、前の話しの続きを饒舌った。「お前は知るまいが、これまでも太陽が己の体に好影響を与えた事はたびたびある。時候が段々寒くなったら、次第に南へ行こう。リヴィエラへ行くのだな。それからもっと先きになったら、アフリカへ行っても好い。どうだ。赤道直下にいたら、己はきっと傑作を纏める事が出来る。」  いつまでも饒舌り息めないので、とうとう女が側へ行って、男の頬をさすりながら、微笑んで云った。「もうお廃しなさいよ。あんまり軽はずみですわ。あしたは早く起きなくてはならないのですから、もうお寝なさいよ。」女は男の頬の赤くなって、目の赫いているのに気が付いた。そして男の手を取って長椅子から起き上がらせようとした時、男の手の燃えるように熱いのに驚いた。  夜が明け掛かると直ぐにフェリックスは目を覚した。丁度休日に内へ帰る子供のような喜びを感じている。停車場へ馬車に乗って出掛けるはずの時刻より二時間も早く支度をしてしまって、長椅子に掛けて待っている。マリイも用が疾っくに済んでいる。鼠色の外套を着て、帽子を被って、その上に青色の面紗を掛けて、女は窓に立っている。註文した馬車の来るのを早く見付けるためである。大抵五分置き位に、男はもう馬車が来はしないかと問う。もう男はじれったがって外の馬車を雇いに遣ろうかという時、「あそこに来ました」と女が叫んだ。それから「アルフレットさんも来てよ」と女が言い足した。  丁度馬車と一しょに町の角を曲って来た医学士は、愛想好く二階の窓に向いて挨拶をした。それから程なく部屋に這入って来た。「おや。もう二人共そっくり支度が出来ているね。朝食も済んだ様子だのに、そんなに早く停車場へ行って、どうする積りだね。」 「だってフェリックスさんが、じれったがるのですもの」と女が云った。  学士は病人の側へ歩み寄った。  病人は機嫌好く微笑んで、「旅には持って来いの天気だ」と云った。 「そうさ。きっと非常に愉快な旅行になるよ。」学士はこういいながら、卓の上の堅パンを一切れ取った。「頂戴しても好いのだろうね。」  女は驚いた様子で云った。「あなたまだなんにも上がらずに出ていらっしゃったのでしょうか。」 「なんにも遣らないとはいわれませんよ。実はコニャックを一杯飲んで出ました。」 「そんならまだこの中に珈琲がありましたようですから、どうぞ。」女は無理に勧めて、珈琲の残ったのを茶碗に注いで、学士に出した。そして何か女中に言い付けに次の間へ出た。学士はゆっくり一杯の珈琲を飲んで、茶碗を口から離さずにいた。それは病人と二人ぎりになったので、話しをするのが厭だからである。  間もなくマリイは這入って来て、もう何もかも揃っているから、いつでも出掛けられるのだと云った。  病人は立ち上がって真っ先きに戸口を出た。鼠色の外套を羽織り、柔かい黒の帽子を被って、手にはステッキを持っている。梯子段も真っ先きに降りようとして、欄干に手を掛けたが、直ぐよろけ出した。背後にいた学士と女とが手を貸した。病人は「少し目舞いがするのだよ」と云った。 「それはあたり前さ。何週間も寝台の上に寝ていたものが、久し振りに起きたのだから。」こう云って学士が片手を掴えると、女が反対の側の手を掴えた。そして両方から支えて、梯子段を連れて降りた。  病人の降りて来るのを見て、御者が帽を脱いで礼をした。向いの家の窓から女が二三人顔を出して、気の毒そうに見ている。学士と女とで、死人のように青い顔の病人を車へ連れ込むのを見て、家番の親爺も手を貸そうとして進み出た。  車が出て行った跡で、家番と向いの家の女達と意味ありげな、同情のある目付きをして顔を見合せた。 四十六  最後の鐸が鳴るまで、医学士が汽車の踏板に足を掛けて、マリイと雑談をしていた。  フェリックスは車室の隅に腰を掛けて、何事にも興味を有せないような様子をしている。その内汽笛が鳴り出したので、病人もようよう気が付いたらしく、学士の方へ向いて合点合点をした。  汽車が動き出した。学士は暫くの間、プラットフォオムに立ち止まって、見送っていたが、ゆるやかに踵を旋らして帰った。  汽車が停車場の屋根の下を離れるや否や、女は男の側へ腰を掛けて男の希望を尋ねた。コニャックの瓶の栓を抜こうか、本を取って渡そうか、新聞を読んで聞かせようかというのである。男はその親切に感じたらしく、女の手を握った。そして「メランに着くのはいつだい」と問うた。女は確とした時刻を覚えていなかった。そこで男は女に旅行案内を調べさせた。昼食はどこで食べられるか、夜泊るのはどこであるか、などという事を調べたのである。その外いつも気にしない、色々な細かい事を調べさせた。それからこの列車に乗っている人の数は何人位だろうと云って、勘定をして見たり、その中に若夫婦がいるだろうかと云ったりした。それから暫くしてコニャックが飲みたいと云った。しかし一口飲むとひどく咳が出たので、これからは自分が飲みたいと云っても、飲ませてくれては困ると、女に言い付けた。  その跡で男は新聞の中で気象の事の書いてあるところを女に読ませて、天気が好さそうだという予報を聞いて、満足らしく頷いた。その時汽車は丁度ゼンメリングを通っていた。男は注意して窓の外の景色の変るのを見ていて、折々「好い景色だな」などという。しかしその声の調子は、喜んで言うらしくは見えなかった。昼時分になると、女が用意して来た冷肉を出して食べさせた。その時男はコニャックを飲もうと云った。女がそれは悪かろうというと、男はひどくおこった。女は為方なしに少し飲ませた。今度は飲んでも障らずに、却てひどく機嫌が好くなって、何事に付けても興味を有するようになった。窓の外に見える景色や、通過する停車場で見た事を批評するのである。その末にこう云った。「己がいつか読んだ物の中にソムナンビュウルの事が書いてあった。そいつは自分の病気に利く薬を夢に見て知ったのだ。どの医者も気の付かなかった薬だそうだ。その薬を飲むと病気が直ったと云ってあったよ。なんでも病人は自分のしたいと思う事をするに限ると、己は思う。」 「きっとそうなのよ」と、女が答えた。 「なんでも南の国に限る。南の国の空気が好いのだ。世間の人は南の国の空気の違うのは、暖で年中花を咲かせるのと、オゾンが少し多いのと、嵐が吹いたり、雪が降ったりしないのと、ただそれだけだと思っている。実はその外にどんなものがあっちの空気の中に漂っているか、誰も知らないのだ。何か我々の夢にも知らない、秘密な物質を含んでいるかも知れないじゃないか。」 「兎に角あっちへいらっしゃると、あなたきっと御丈夫にお成りなさいますわ。」女は病人の手を取って接吻した。  男は色々な事を話し続けた。イタリアでは大勢の画工に出逢うだろうという事、古来王侯や芸術家が望んでロオマへ行ったという事、自分がマリイと知り合いになるよりよほど前に、一度ヴェネチアへ行った事があるという事などを話したのである。とうとう話し草臥て、腰掛の上に横になった。それからは夕方になるまでうとうとしていた。 四十七  女は向側に坐って、男の様子を見ている。心持ちは割合に落ち着いている。ただ気の毒だという、軽い同情がある。男の顔は如何にも青い。それに此頃めっきり更けて見えるようになった。初め美しかったこの男の顔が、春頃からこの方、どんなにか変っただろう。女の思うには、自分の頬だって、折々青く見える事はあるが、この男の顔の色は、それとはまるで変っている。自分の顔は、青い時は却て若く、娘らしく見える。男のは反対である。同じ青さでも、自分は青くなるのが、男と違って得なのである。こういう考えは、この時初めてはっきり心に浮んだ。こんな事を考え付いて、なぜそれが切なく思われないだろう。これはきっと男に対する同情が無くなったのではあるまい。多分近頃自分が極端に疲労していて、よしや折々気分が好くなったように思っても疲労が真に直る事がないからであろう。こんなに疲労しているのは、却て自分の為合せである。もしこの疲労が無くなったら、男の身の上をどんなにか切なく感ずるだろう。そしていつかその感じをしなくてはならないかと思うと、それが今から如何にも恐ろしい。  こんな事を考えながら女は寐入ってしまったが、ある一刹那にその眠りが突然醒めた。あたりを見廻せば、ほとんど真っ暗になっている。車室の天井に下がっている明りには布が掛けてあるので、室内は鈍い緑色に照されている。窓の外は闇夜である。丁度長い、長いトンネルを通って行くような気がする。  なぜ驚いて目を醒ましたのだろう。進行する汽車の車輪の音が、単調に聞えている外には、あたりに物音はしないのである。  暫くして目が薄明りに慣れたので、男の顔が見えて来た。よく眠っているらしい。少しも体を動かさずにいる。暫く見ているうちに、忽ち男は深い溜息を衝いた。気味の悪い、訴えるような声が出た。それを聞いて、女は動悸がし出した。さっき驚いて目を醒ましたのは、多分今のような溜息を聞いたからであろう。  こう思った直ぐ跡で、女はまたびっくりした。それはよくよく男を見ると、眠ってはいないのである。男は目を大きく、大きく見開いている。それがはっきり見える。この空に向い、遠方に向い、暗黒に向って開いている目が、女のためには気味が悪くってならない。その内男はまたうめいた。その声は前よりも気味悪く訴えるようである。それから男は身を動かして、また溜息を衝いた。しかし今度のは苦しげではなくて、むしろ荒々しいのである。  突然男は両手を腰掛の布団の上に突いて身を起して、両足で、掛けてあった鼠色の外套を下へ蹴落して、立ち上がろうとした。しかし汽車の動揺に妨げられて、また腰掛の隅へ倒れ掛かった。  女は驚いて飛び起きた。そして明りに掛けてある緑色の紗を退けようとした。そのとたんに女は男に抱き付かれた。  がたがた顫えている女を、男は自分の膝の所へ引き据えて、咳嗄た声で、「マリイ、マリイ」と呼んだ。  女は振りほどこうとしたが、それが出来なかった。健康であった時と同じ程な力を恢復したらしい様子で、男はしっかり女を抱き締めた。そして唇を女の領の側へ寄せて囁くのである。 「マリイ。覚悟をしているか。」  女にはその意味がちょっと分からなかった。ただ際限もなく恐しいと感ずるだけである。しかし抵抗する力はない。叫ぼうと思っても声が出ない。 「覚悟をしているか」と、男は繰り返した。しかし男の手が少し緩んだので、男の唇、その息、その声が前より遠くに離れて感ぜられた。そして女は前より楽に息が出来るようになった。その時女はようようの事で、恐る恐る云った。「どうしようと仰ゃるの。」 「己のいう事が分らないのか。」 「放して下さい、放して下さい。」女は叫ぶように云ったが、その声は進行している汽車の響に消されてしまった。  男は少しも女の言う事に構わない。しかし手だけは放した。女は男の膝元から起き上がって、向いの腰掛の隅に坐った。 四十八 「己の言う事が分からないのか」と、男は繰り返した。 「どうしようと仰ゃるの。」と、女が向いの腰掛の隅で囁いた。 「己は返事が聞きたい。」  女は黙って顫えている。そして早く夜が明ければ好いと思うのである。  男は前屈みになって小声で云った。「もう時間が切迫して来るから、お前の覚悟は好いかと問うのだ。」前屈みになって云うので、今度ははっきり聞えた。 「時間と仰ゃるのは。」 「お前と己との時間だ。」  男の心持ちが分かったので、女は咽を締め付けられるような気がして、何も言う事が出来ずにいる。 「お前、覚えているだろうな。この事をお前に相談する権利を、お前は己にくれた事がある。覚えているだろうな。」男の声は少し優しくなって、ほとんど嘆願するように聞える。男は女の両手を取った。  男の詞は気味の悪い詞であるが、その目が前のように空を睨んでいないのと、その声が前ほど人を嚇すようでないのとのために、女は少し落ち着いた。今見れば男は自分に頼んでいるようである。  男はまた「お前、覚えているだろうね」と繰返したが、今度はその声が泣き出しそうに聞えた。  女はこの時ようよう物の言われるまでに、力を恢復した。そしてまだ唇を顫わせながら云った。「あなた、それは子供らしい事ですわ。」  男は女の詞が耳に這入らないらしい様子をして、半分忘れた事を、再びはっきり思い浮べるように穏かな調子で云った。「もうお暇乞いが近くなった。お前と一しょに行ってしまわなくってはならない。己達二人の時間がおしまいになるのだよ。」  女のためには、この詞が自分を縛って、自分の運命を極めてしまって、逃れようのないようにするらしく聞えた。低い声で囁いたのであるが、如何にも力強く聞えた。もし同じ詞でも、荒々しく嚇すように言われたなら、抗抵しようもあったのだろう。しかし今のように静かに言われると、なんとも答える事が出来ない。暫くして男が少し前へ寄って来たので、女の恐怖は極端に達した。今少しで男に飛び付かれて、咽を締められるのではあるまいかと思ったのである。そこで車室の反対の隅に飛び退いて硝子窓を打ち破ってでも、人に救いを求めようかと思った。  しかしその瞬間に、男は女の手を放して、体を背後へ寄せ掛けて、もうこの上何も言う事はないというような様子をした。 「あなたはほんとに分からない事を仰ゃるわ。これから南の方へいらっしゃって、すっかり丈夫にお成りなさるのではありませんか。」女はこう云って見た。  男は向側で体を背後に寄せ掛けて、物を案じている。  女は立ち上がって、明りに被せてある緑色の紗を除けた。まあ、明るくなっただけでも、どんなにか力強く感ぜられるだろう。明るくなってからは、胸の動悸が鎮まって恐怖が薄らいだ。女は元の所へ坐った。  男は床を睨んでいたが、この時顔を上げて女と目を見合せた。そしてゆっくり云った。「マリイ。己は夜が明けたって、もう馬鹿な望みは起さない。南の方へ行ったって駄目だ。きょうそれが己にはっきり分かったのだ。」  なぜあんなに落ち着いて来たのだろうと、女は思った。安心させて騙すのではあるまいか。逃げ出されては困ると心配して、あんな真似をするのではあるまいか。こう思って、女は用心する気になった。そして男が何を言っても、その詞には耳を貸さないで、熱心に男の様子を観察している。その目附き、その体の運動に一々注意している。  男が云った。「お前には意志の自由がある。仮令これまでに己に誓った事があっても、己はお前に約束を履行しろというのではない。お前に脅迫しようとは思わない。まあ、その手を握らせてくれ。」 四十九  女は握手した。しかし自分の手を上にするだけの注意をした。 「早くその時になれば好い」と、男は囁いた。 「わたしあなたに忠告しますわ。少しお眠りなさるが好いのよ。もう今に夜が明けます。そしてメランに一二時間で着くのです。」 「己はもう寐られない」と、男は云って顔を上げた。そして女と目を見合せて女の表情に、自分を疑って自分を窺っているところがあるのに気が付いた。そして女の腹がすっかり分ったと思った。どうも女は己を寐かし付けて、次の停車場でそっと降りて逃げようとしているらしい。こう思うと、なんともかとも云われない心持ちになったので、男は叫んだ。「お前なにかたくらんでいるね。」  女はぎっくりとした。「いいえ。」  男は立ち上がろうとした。  その様子を見るや否や、女は車室の反対の隅へ駈けて行ったので、男との距離が大ぶ大きくなった。  しかし男はただ「息が、息が」と苦しそうに云って、慌ただしく窓を明けて、首を外へ出した。急に立ち上がろうとしたのは、呼吸が苦しくなったからであった。  女は安心して、また男の側へ戻って、窓から首を出している男を徐かに腰掛の上へ引き据えた。 「あなたそれはお為めに悪いわ。」  男は苦しげに息をしながら、腰掛の隅に坐っている。  女は片手を窓の縁に掛けて、暫く男の側に立っていたが、また自分の元の席に帰った。暫くして男は楽な息をするようになって、その唇には軽い微笑みが見えた。女は気の毒げに、心配らしく男の顔を見た。「窓を締めましょうね。」  男は頷いた。そして「朝だ、朝だ」と叫んだ。この時地平線に赤み掛かった灰色の横雲が見えて来た。  二人は暫く黙って向き合っていた。それから男が、さっきの微笑みを口の周囲に見せて云った。「お前は覚悟が悪いね。」  女は何か不断の調子で言って遣りたかった。男の言う事が子供らしいとか、なんとか云いたかったのである。しかし男の微笑みに打ち破られて、その詞は出されなかった。  汽車が速度をゆるめた。数分間にして、朝食をするはずの停車場に着いた。  プラットフォオムには給仕がパンや珈琲を持って駈け廻っている。旅客の中には、ここで下車するものもある。人の呼び交す声が喧しい。  女は恐ろしい夢の醒めたような心持ちがした。この世の常の停車場生活が、如何にも快いのである。自分の体になんの危険もないと思うので、すっかり安心して、座を立って、プラットフォオムを眺めていたが、とうとう一人の給仕に手招きをして呼び寄せて、一杯の珈琲を買った。  男は女の珈琲を飲むのを眺めていたが、女が勧めても、首を振って聴かなかった。 五十  間もなく汽車がまた動き出した。停車場の屋根の下を出離れると、本当の昼の明りになった。なんという好い天気だろう。それに向うには朝日に赤く染められた山々が聳えている。女はもう夜になっても、こわがらずにいられそうだと思った。男は折々窓の外を眺めて、なるたけ女と目を見合せないようにしている。ゆうべの事を少しは恥かしく思っているのだなと、女は思った。  汽車は少しずつ行って一二度停まった。それからメラン停車場に這入ったのは、夏のように暖かく日の差している午前であった。 「さあ、着きました。やっとの事で。」女が嬉しそうにこう云った。  二人は馬車を雇って、似合わしい家を捜して歩いた。「別に倹約をしなくても好い、まだ己の財産が無くなりはしないから」とフェリックスが云った。貸家があるたびに、馭者に車を留めさせて、マリイが間取りの様子や庭などを見て来る間、男は車の中に待っていた。  程なく気に入った家を見付けた。小さい家で、中二階のように出来ている。それに小さい庭が付いている。マリイは家主を連れて出て来て、車の中に坐っている男に、この貸別荘の好い所を話させた。男は別に異議がなかったので、数分時間の後に、二人はその家を借り受けた。  女は忙しそうに片付け物をしているのに、男は構わずに寝部屋へ這入った。寝部屋の中だけは男もざっと様子を見廻した。随分広くて気持ちが好い。明るい緑色の形紙で壁が張ってある。大きい窓が開けてあるので、庭から這入った草木の匀が部屋一ぱいに満ちている。窓に向き合って、寝台が二つ据えてある。男は草臥切っていたので、直にその一つに寝転んだ。  その隙にマリイは家主の女にそこらを見せて貰って、庭に出て見てひどく喜んだ。庭は高い格子のような柵で囲んである。裏門が付いていて、家の中を抜けずに這入って来られるようにしてある。その裏門の外は広い道で、そこから停車場へは真っ直で、街道を過ぎるよりは早く往来する事が出来るのである。  部屋へ帰って見ると、男は元のままに寝台の上に寝ていた。声を掛けて見たが返事をしない。ずっと近く寄って見ると、顔の色がいつもより一層青く見えた。もう一遍呼んで見たが、やはり返事をしない。また身動きもしない。  女はひどく驚いて家主の女を呼んで、医者を請待する事を頼んだ。家主の女が出て行った、直ぐ跡で、男は目を開いた。しかし何か言おうとして起き上がったが、直ぐ苦しげな顔をして倒れて、うめき声を出している。口の角から血が少し流れている。女は途方に暮れて側に寄って見詰めていた。それからもう医者が来そうなものだと、戸口へ走って行ったり、また病人の側へ戻って来て、名を呼んで見たりした。そして心の内で、アルフレットさんがいてくれたらと思った。  ようようの事で医者が来た。頬髯の白い老人である。女は出迎えて、「どうぞどうにかして上げて下さいまし」と云った。それから逆上している気分を出来るだけ落ち着けて、これまでの様子を話した。  医者は病人の様子を見て、脈を取って今血を吐いたばかりのところだから、精しい診察は出来ないと云って、色々養生の事を話した。  医者が帰り掛けるので、女は門口まで送って行って、「どうでございましょう」と問うた。 「まだなんとも云われませんね。先ず暫く忍耐して御様子を見ておいでなさい。決して失望するには及びません。」医者はこう答えた。そして今晩また見に来るという約束をして、馬車に乗って、優しく平気な様子で会釈をして、帰って行った。その様子がまるで形式的な訪問をした人のようであった。  女はちょっと途方に暮れて立っていたが、忽ち思い附いた事があるらしく、一人頷いて郵便局へ駈けて行った。医学士に宛てた電報を打ったのである。  電報を打ってしまうと、気分がよほど落ち着いた。そこで内へ帰って、留守中病人の世話をしてくれた家主の女に礼を云って、着いた早々色々世話になって済まないが、いずれお礼をすると誓った。  男は旅行服のままで、生気を失って床の上に寝ている。しかし息はよほど楽になった。  マリイが病人の枕元に腰を掛けていると、家主の女が慰めて、これまで大病人がこのメランに来て直った話をした。それから自分も若い時病身であったが、今はこの通り丈夫になっていると云った。それから身上話しをし出した。この女は随分不幸な目に逢ったというのである。亭主は結婚してから二年立つと死んでしまった。息子は遠方に行っている。望みを言えば限りはないが、今この家を預って人に貸しているのは、自分の身の上に取っては不足ではない。本当の家主はポオゼンに住んで居て、月に二度位見廻りに来るだけである。こんな風に色々細かい事まで話し出して、大層親切そうにする。それから荷物をほどく手伝いをしようというので、マリイは喜んで手伝って貰った。 五十一  程なく昼食を運んで来た。病人のと云って、牛乳が添えてある。  その内病人が少し体を動かした。なんだか気が付きそうな様子である。暫くして実際気が付いたと見えて、頭をあちこち動かして、とうとう自分の上にかぶさるようにして看病しているマリイの顔に目を付けた。そしてにっこりして、静かに手を握った。「一体己はどうしたのだろう。」  午後になって医者が来た。大分様子が好いからというので、着物を着換て、寝台に寝るように差図した。病人はおとなしく医者の言うがままにしていた。  マリイは病人の側を離れずにいる。まあ、なんという長い半日だろう。医者の言付けで開けて置いた窓から、庭の草木の匀がほのかに通って来る。あたりはひっそりしている。マリイは日の光が床の上に落ちてきらきらしているのを、無心で眺めている。その手を病人は握って放さずにいる。男の手は冷たくて湿っている。それが女には心持ちが悪い。女は折々何か言おうと思って、力めて口を開く。「もう大分好いでしょう。それ御覧なさいな。あなた何も言うのではありませんよ。物を仰ゃっては悪いのですから。あさってあたりはきっと庭に出て御覧なさる事が出来ますわ。」  男は頷いて微笑むのである。  女は心の内に、いつアルフレットさんが着くだろうかと、時間の勘定をしている。あすの夕方には来られるはずである。そうして見ればまだ一晩と一日だけは待たなくてはならない。ほんにあの方が早く来て下されば好い。  半日が如何にも長い。日は入った。部屋が次第に薄暗くなって来る。しかし庭の方を見れば、白い砂の敷いてある道の上や、格子になっている柵に、黄いろい日の光がまだあたっている。  突然男が「マリイ」と呼ぶのが聞えた。庭の方を見ていた女が、急に病人の方へ振り向いた。 「もう大ぶ好いよ」と、男が意外に大きい声で云った。 「そんなに大きな声をしてはいけませんよ」と、女が優しく留めた。 「大ぶ好い。今度のは旨く経過したようだ。これが病気の転機になるのかも知れない。」今度は囁くように云った。 「きっとそうですわ。」裏書をするように女が云った。 「己は空気が好いから好くなりそうに思うのだ。しかし今のような奴がまた来てはかなわない。今度は駄目だ。」 「だって、もう御気分が好いじゃありませんか。」 「いや。兎に角お前は親切だよ。好く気を付けていてくれ。」 「そんなことは仰ゃるまでもありませんわ。」女は少し不平らしく云った。 「己がいよいよ行く時には。お前も一しょに連れて行くのだよ。」男はこう囁いた。  その詞を聞くと同時に、女は非常に恐怖に襲われた。なぜこんなにこわいのだろう。何もこの男がこっちに危険を加えようとは思われない。暴行を加えようと云っても、もうこんなに弱くなっていてはそれは出来ない。体力から言って見れば、今ではこっちの方が病人の十倍も強い。一体男はどうしようと思っているのだろう。今も空を見たり壁の方を見たりしているが、なんと思ってあんなに見廻しているのだろう。もう一人で起き上がる事も出来そうにはない。それに刃物なんぞは持っていない。それとも毒でも持っているのだろうか。事に依ったら、どうにかして毒を手に入れて、現に持っていて、それをこっちの飲むものに入れようとするかも知れない。それにしてもその毒はどこにしまってあるだろう。さっきも着物はこっちが着せ替えて遣った。粉薬か何かを紙入に入れて持っていはしないか。紙入はあの上着にあるはずである。いやいや。さっきのような事を言ったのは、あれは熱が言わせたのだ。それにあんな事を言って、こっちを苦しめようと思うだけの事かも知れない。 五十二  しかし熱があんな事を言わせるとして見れば、同じ熱がどんな事を実行させないにも限らない。事に依ったらこっちが眠っている内に、咽を締めようとするかも知れない。それは格別力がなくても出来る事である。その時気を失ったら、跡はどうせられるか分からない。なんでも今夜は寐ずにいなくてはならない。あしたはアルフレットさんが来るのだから。  日が段々暮れて来た。もう夜になった。病人はその後一言もものを言わない。もう口の周囲に見えていた微笑みの影も消えた。今は真面目な、陰気な顔をして空を見詰めている。  暗くなり切った時、家主の女が蝋燭を点して来て、病人の寝ている側の、今一つの寝台を拵えに掛かった。それを見てマリイはそれには及ばぬと、手真似で知らせた。  それが病人に分ったと見えて、「なぜ拵えさせないのだ」と云った。それから間を置かずに、「そんなにしなくても好い、お前も寝なくてはいけない、己はもうこんなに好いのだから」と言い足した。  この病人の詞が、マリイの耳には嘲りのように聞えた。  女はとうとう寝台へ行かずにいた。病人の寝台の側で目を瞑らずに、長い沈黙の夜を過している。病人は大抵静かにしている。女は折々病人が寐た振りをして、こっちに安心をさせようと思うのではないかと疑った。病人の顔を好く見ようと思っても、蝋燭がちら付いて、病人の目の周囲や、口の脇に、痙攣するような運動があるように見えたり、またそれが明りのせいのように思われたりして、どうもしかと見定められない。  女は立って窓まで出て庭の方を眺めた。外は鈍い青色を帯びた闇である。少し乗り出して仰いで見ると、庭の木立の真上の所に月が出ている。風はちっとも吹かない。あたりが如何にも静かで、何一つ動くものがないので、暫くじっと見ていると、向うにはっきり見えている外囲の柵がじりじりと手前の方へ寄って来て、暫くしてまた留まるように見える。  夜中過ぎに病人が目を醒ました。女は枕の歪んだのを直して遣った。その時ふと思い付いて指で枕の下を捜して見た。何か隠してありはしないかと思ったのである。しかしなんにも無かった。  女の耳には「お前を連れて行く、お前を連れて行く」という詞が絶えず響いている。しかし好く思って見れば、男が真面目にそう思っていたら、そんな事を言うはずがないようでもある。男が実際何かたくらむ程の気力を持っているだろうか。もし持っているとしたら、飽くまで目的を隠して、けどられないようにすべきではあるまいか。事に依ったらこっちは病人の譫語を気にして、子供らしく恐れているのかも知れない。  女は段々眠たくなって来た。そこで万一の用心に、自分の椅子をずっと遠くへいざらせた。しかしどうしても寐入らない積りでいる。  その内思想が段々不明瞭になって来た。昼間の明るい意識から次第に灰色の夢の薄明りに這入って行く。昔の記念が浮ぶ。楽しかった時代の昼の事、夜の事が思い出される。男が自分の体を抱いていてくれて、部屋の内に、新春の息が通っていた時の事を思い出す。  女は庭の物の香が自分の坐っている所まで這入って来なくなったように思った。窓の所まで行って、その香を吸い込みたいのである。なんだか病人の髪の毛から、厭な甘ったるい匀が立ち昇って部屋中に満ちているように思うのである。  いよいよおしまいになったらどうだろう。この「おしまいになったら」という事を思て見ても、もう別段驚きもしない。心の底の恐ろしい願いを、「当人も楽になるのだから」という偽善の同情で覆い隠す、この如何わしい詞が口の内に浮んで来ても、もう驚かなくなっている。そうなったらどうだろう。女は自分の体が外の庭に出て腰を掛けていて、その顔が青ざめ、目が泣き腫れているのを見るように思う。しかしこの悲哀の徴はただ上辺ばかりである。心の内には、これまで久しく味わずにいた、嬉しい平和が来ている。見ている内にその姿が立ち上がって柵の外へ出て、道をゆっくり歩いて行く。もうどこへでも自由に行かれるのである。 五十三  こんなにぼんやりした想像をしていながら、女は男の寐息を聞く事を怠らない。寐息は折々うめき声になる。  夜は次第に明けて来た。やっと明るくなったと思うと、家主の女が来て交代してくれようと云った。マリイは嬉しそうに同意して、病人を一目見て、次の間へ出た。そこには家主の女が長椅子を寝床に拵えて置いてくれたのである。まあ、なんという好い心持ちだろう。女は着物を着たまま横になって、直ぐに目を閉じた。  よほど時間が立ってからマリイは目を醒ました。部屋は気持ちの好い薄明りになっている。鎧戸を締めた窓から日の光が狭い筋になって差し込んでいる。女は急いで起き上がって、直ぐに自分の現在の位置をはっきり考える事が出来た。きょうは医学士のアルフレットさんが着くはずである。これから出逢わなくてはならない、暫くの間の陰気な境界に対して、この人の来るという事がよほど力になるのである。  女は躊躇せずに病人の部屋に這入った。戸を開けた当座一秒時間程は病人の寝床に掛けてある白い布に目を射られて、物が見えなかった。暫くしてから見ると家主の女がいる。それが指先を口に当てて、物を言うなという合図をして椅子から立ち上がって、爪先で歩きながら、マリイを出迎えた。そして「好くお休みです」と囁いて、それから今までの様子を話した。一時間程前までは、熱がひどい様子で目を醒ましていて、二三度奥さんの事を聞かれた。朝早くお医者が来て見たが、容体は前と変った事もないという事であった。その時奥さんを起そうかと思ったが、医者がそれには及ばないと云った。医者は午後の内に、また一度来て見るはずだというのである。  マリイはこの話しを注意して聞いて、自分に代って看病してくれた礼を言って、病床の側の椅子に腰を掛けた。  きょうは暖かい日である。ほとんど蒸し蒸しすると云っても好い位である。もう正午に間もあるまい。庭の方を見れば、静かな重くろしい日の光が差している。  寝台の上を見て、最初に目に付いたのは、病人の両手である。両手は着布団の上に出ていて、折々ぴくぴくと動いている。それから顔を見れば下顎が締りなくたるんで、唇が軽く明いている。色は死人のように青い。数秒時間呼吸の息んでいる時がある。それから上面でするような、啜るような息をする。 「事に依ったらアルフレットさんの来ない内に、死んでしまうのではあるまいか」と、女はちょっと思った。今寐ている病人の様子を見れば、顔付きに悩んでいる青年の表情が見える。ひどい苦痛の跡の弛緩、勝算の無い闘いの跡の諦めが見える。こういう容態が昨今暫らくの間見えずにいたという事に、女は急に気が付いた。それは病人が女を見るたびに、その顔に不平が現われていたからである。多分今は夢の中でも女を憎んではいまい。あんなに美しい顔付きになっているから。  女は今目を醒ましてくれれば好いと思った。そしてじっと病人を見ていると、なんとも言われない悲しみと悔みとが起って来る。今ここで死に掛かっているのは恋人に違いない。女は急に避くべからざる、恐ろしい運命に自分が襲われるのだという事を感じて、一時に何もかも分かったように思った。やはりこの男が我が幸福、我が生命であったのだ。自分はこの男と一しょに死んでも好いとまで、思った事もあった。それにその男の帰らぬ旅に赴く一刹那が、今迫って来ているのである。こう思って見れば、これまで一時自分の胸の上にかぶさっていた冷やかさ、何日も続いていた無情が解せられないもののようになって来る。それでも今はまだ男が生きている。息もしている。夢でも見ているかも知れない。しかしもう程なく死んでしまうだろう。そして葬られてしまうだろう。どこかの静かな墓地の土の下に埋られて、次第に朽ちて行くのに、その土の上では何事もない日が立って行く事だろう。そして自分は生き残って、人交りもするだろう。自分の愛していた男は沈黙した墓の中にいるという事を知っていながら、人交りもするだろう。  女の顔を伝わって、涙が止所もなく流れる。とうとう女は声を立てた。その時病人が動いた。女は急いでハンカチイフで頬を拭いた。その時病人は目を開いて、何か問いたそうな目附きで、暫く女をじっと見ていた。しかし何も言わなかった。それから二三分立ってから、男が「おいで」と囁いた。  女は椅子から立ち上がって、男の上に身を屈めた。 五十四  男は腕を伸ばして女の頸を抱きそうにしたが、それを止めて、また腕を卸した。 「お前泣いたのか。」 「いいえ」と女は急に答えて、額に飜れ掛かっている髪を掻き上げた。  男はまたじっと真面目に女の顔を見て、それから顔を反けた。何か物を案じている様子である。  女は考えた。それは医学士に電報を打った事を、病人に打ち明けて話したものだろうか、どうだろうかと云う問題である。友達が来るのだから、知らせた方が好くはあるまいか。いやいや。そんな必要はあるまい。なに、学士が来た時に、自分も不意であったという風をすれば済むのである。  その日の暮れるまで、女は鈍い緊張を感じて、来るはずの人を待っていた。目前の事は総て霧の中で見るもののように、ぼやけて過ぎ去ってしまう。医者の見舞いなんぞは、なんでもなく済んでしまった。病人は始終何事にも感ぜずにいる。呻吟して半眠りになっている状態から、折々醒めて、なんでもない事を問うたり、何か欲しがったりする。時間を問う事もある。水を飲みたがる事もある。家主の女が出たり這入ったりする。マリイは始終外へ出ずに、病人の側の椅子に掛けている。時々は寝台の背後の横木に手を掛けて立っている事もある。また窓の所へ行って庭を見ている事もある。庭では木の影が段々長くなって、とうとう草原や道の上を闇が這い寄って来た。  少し蒸し蒸しするような晩である。病人の枕元の卓の上に点けてある蝋燭の火がほとんど少しも動かない。すっかり暮てしまって、向うの奥に見える青み掛かった鼠色の山の上に月が出た頃、風が少し吹いて来た。それが額に当るのを、女は好い心持ちだと思った。  病人も同じ感じでいるらしく、頭を動かして、大きく開けた目を窓の方へ向けた。それから深い深い息をして、「ああ」と云った。  女は布団の脇へ垂れている病人の手を取って、「何か上げましょうか」と云った。  病人はそっと手を引いて、「マリイ、こちらへおいで」と云った。  女は側へ寄って、頭を病人の枕近く寄せた。  病人は女の髪の上に、祝福をするように、手を拡げて載せて、小声で、「お前のこれまでの親切は難有かったよ」と云った。  女は頭を病人の枕に寄せ掛けていたが、目に涙が湧いて来た。  部屋の中はひっそりしている。遠くから汽車の汽笛の声が消え消えに聞えて来た。その跡はまたしんとして、夏の夕べの重くろしい、甘いような、不思議な感じが満ちている。  病人が突然寝床から起上がった。その動作が如何にも急で劇しかったので、女はびっくりした。そして頭を上げて、病人の顔をじっと見た。  病人は両手で女の顔を挟んだ。昔可哀がった時にしたようなし方である。「マリイ。約束の事はどうしてくれるのだ。」 「約束とはなんでしょう。」こう云って、女は病人の手を放そうと思った。  病人は平生の力を悉く恢復し得たように、しっかり女の頭を抑えて放さない。「己と一しょに死んでくれる約束じゃないか」と、忙しい語調で云って、女の顔の側へぴったり顔を寄せた。病人の息が女の口に障る。  女は顔を引こうとしても引かれない。  病人は自分の詞を一句一句女の口に注ぎ込むように言うのである。「己は一人で行くのは厭だから、お前を連れて行くよ。己はこんなにお前を愛しているのだから、お前を手放して置く事は出来ない。」  女は恐ろしさに麻痺したようになっている。その咽からは自分にもほとんど聞えない位な、咳嗄れた叫び声が出た。顳顬と頬とをしっかり抑えられていて、頭を動かす事が出来ない。  病人は頻りに口説き立てる。湿っぽい、熱い息が女の顔に触れる。「一しょだ。一しょだ。お前の意志でそう極めたのじゃないか。一人ではこわくて死なれない。一しょに死んでくれるかい。」  女は足で自分の椅子を押し退けた。そして鉄の箍を脱すように、自分の頭を病人の手から引き放した。 五十五  病人は女の顔を挟んでいた手を、そのままにしている。丁度まだ女の頭が間に挟まっているように、空を掴んでいるのである。そして女の頭が抜け出したのが、まだ分からないかと思われるような顔をして目を据えている。 「厭です。厭です。わたくしはそんな事は出来ません。」女はこう叫んで戸口の方へ駈け出した。  病人は寝台から飛び降りたい様子で、起き上がった。しかしもう力を使い尽したと見えて、死物のようにばたりと寝台の上に倒れた。  女はそれを見返らずに、戸を引き開けて、次の間に走り抜けて、廊下へ出た。ほとんど夢中である。男が自分を締め殺そうとした。顳顬や頬から、頸へ滑り落ちようとした、男の指をまだ肌が感じている。女は門口へ出た。そこには誰もいない。家主の女は夕食の品物を買いに出たはずだという事を思い出した。  どうしよう。女は引き返して廊下を抜けて、庭へ出た。人に追い掛けられるように、草原や道を横切って、庭の向うの端まで行った。そこから振り返って見れば、病人の部屋の窓が見える。窓には蝋燭の火がちらちらしているが、その外にはなんにも見えない。 「どうしたのだろう」と独語を云った。そして自分もどうして好いか、分らなかった。ただ意味もなく柵の内をあちこち走り廻っている。  その時ふと思い出した事がある。アルフレットさんが来るはずだった。丁度今頃来るはずだった。こう思って柵の格子の間から、月の差している道を眺めた。停車場の側まで見えているのである。  女は庭の戸のある所へ駈け寄って、戸を開けた。目の前には人のない、白い道が見えている。もし外の道からおいでなさりはすまいか。いや。あそこに人影が見える。次第に近くなって来る。急いで来る男の姿である。あの方だろうか。  女は二三歩走り出した。「アルフレットさんですか。」 「マリイさんですね。」  待っていた医学士が来たのである。女は嬉しさに泣きたくなった。学士が側へ歩み寄った時、女はその手に接吻をしようとした。 「どうなすったのです。」  女は黙って学士の手を取って、引き摩るようにして跡へ引き返した。  部屋の中では、フェリックスが暫く茫然としていたが、また起き上がって、あたりを見廻した。女はもう逃げて、自分一人になっているのである。咽を締め付けられるような恐怖が襲って来た。どうしてもあの女を側に引き付けて置かなくてはならないと思うより外、なんにも考えて見る事が出来ない。  一跳に寝台から飛び出した。しかし立っている程の力がないので、また仰向けに寝台の上に倒れた。頭の中ががんがん鳴っている。また起き上がって椅子の背を掴んで、椅子を前へずらせながら歩き出した。「マリイや。マリイや。己は一人では死なれない。」  女はどこへ行ったのだろう。行く所はないはずだが。こう思いながら椅子を杖にして、いざりながら窓の側まで来た。庭が見える。蒸暑い晩の、青み掛かった月の光が差している。それが目の前にちらちらして、草や木が踊っているようである。ああ。これが己の体を直してくれるはずの、南の国の春であった。この空気だ。この空気だ。こんな空気がいつも己を吹いていれば、健康にならなくてはならないはずだと思ったのである。  ああ。あれはなんだ。病人は地の底にあるように見える柵の格子のあたりから、青い月の光に照らされて、真っ白に光る小石の道を歩いて来る女の姿を見付けた。女は飛ぶように駈けて来る。次第に近くなる。マリイだ。マリイだ。しかしその背後から男が来る。マリイと一しょに男が来る。恐ろしい大男のように見える。これまで見ている内に、柵の格子が踊って来る。何もかも踊って来る。遠方から歌のような物音が聞える。好い音だ。好い音だ。病人の目は昏んでしまった。  マリイと学士とが駈け付けた。窓の所へ来て、女は立ち留まって、恐る恐る部屋の中を覗いた。そして「ああ、いらっしゃいませんわ、寝台はからっぽです」と叫んだ。  その跡で突然女はきゃっと云って倒れそうになったので、学士が抱き留めた。学士はそっと女の体を脇へ寄せて、自分が窓の中を覗いて見た。  部屋の中には、窓の直ぐ下に、白い襦袢一つを着て、フェリックスがばったり倒れて、両足を大きく拡げている。片手はひっくり返った椅子の背を握っている。口の角から一筋の血が腮の方へ流れている。唇と瞼とが、まだぴくぴく動いているらしい。しかし好く見れば、それは月の光が青ざめた顔を照して人の目を惑わしていたのであった。 (明治四十五年一月─三月) 底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 底本の親本:「鴎外全集 第九卷」岩波書店    1972(昭和47)年7月22日発行 初出:「東京日日新聞」    1912(明治45)年1月1日~3月10日 ※「匂」と「匀」、「嘘」と「譃」の混在は、底本通りです。 ※「合点」に対するルビの「がてん」と「がってん」の混在は、底本通りです。 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 入力:門田裕志 校正:館野浩美 2019年1月29日作成 青空文庫作成ファイル: 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