世界漫遊 ダウィット Jacob Julius David 森鴎外訳 Guide 扉 本文 目 次 世界漫遊  ウィインで頗る勢力のある一大銀行に、先ずいてもいなくても差支のない小役人があった。名をチルナウエルと云う小男である。いてもいなくても好いにしても、兎に角あの大銀行の役をしているだけでも名誉には違いない。  この都に大勢いる銀行員と云うものの中で、この男には何の特色もない。風采はかなりで、極力身なりに気を附けている。そして文士の出入する珈琲店に行く。  そこへ行けば、精神上の修養を心掛けていると云う評を受ける。こう云う評は損にはならない。そこには最新の出来事を知っていて、それを伝播させる新聞記者が大勢来るから、噂評判の源にいるようなものである。その噂評判を知ることも、先ず益があって損のない事である。  この店に這入って据わると、誰でも自分の前に、新聞を山のように積み上げられる。チルナウエルもその新聞の山の蔭に座を占めていて、隣の卓でする話を、一言も聞き漏さないように、気を附けている。中には内で十分腹案をして置いて、この席で「洒落」の広めをする人がある。それをも聞き漏さない。そんな時心から笑う。それで定連に可哀がられている。こう云う社会では「話を受ける」人物もいなくてはならないのである。  こんな風で何年か立った。  そのうちある時、いつも話の受け手にばかりなっていた、このチルナウエルが忽ち話題になった。多分当人も生涯この事件を唯一の話の種にすることであろう。それをなんだと云うと、この男は世界を一周した。そこで珍らしい人物ばかり来るこの店でさえ、珍らしい人物として扱われるようになったのである。この男がその壮遊をしたのは、富籤に当ったのではない。また研究心に促されて起ったのでもない。この店の給仕頭は多年文士に交際しているので、人物の鑑識が上手になって、まだ鬚の生えない高等学校の生徒を相して、「あなたはきっと晩年のギョオテのような爛熟した作をお出しになる」なんぞと云うのだが、この給仕頭の炬の如き眼光を以て見ても、チルナウエルを研究家だとすることは出来なかったのである。それから銀行であるが、なるほどウィインの銀行は、いてもいなくても好い役人位は置く。しかしそれに世界を漫遊させる程、おうような評議会を持っている銀行は、先ずウィインにも無い。        *          *          *  文士珈琲店の客は皆知り合いである。その中に折々来る貴族が二人あった。それが来るのを、定連は名誉としている。二人共陸軍騎兵中尉で、一人は竜騎兵、一人は旆騎兵に属している。  中にもどこへ顔を出しても、人の注意を惹くのは、竜騎兵中尉の方である。画にあるような美男子である。人を眩するような、生々とした気力を持っている。馬鹿ではない。ただ話し振りなどがひどくじだらくである。何をするにも、努力とか勉強とか云うことをしたことがない。そのくせ人に取り入ろうと思うと、きっと取り入る。決して失敗したことがない。  この二人は大抵極まった隅の卓に据わる。そしてコニャックを飲む。往来を眺める。格別物を考えはしない。  用事があってこの店へ来ることはない。金貸しには交際があるが、それはこの店を禁物にしていて近寄らない。さて文士連と何の触接点があるかと云うと、当時流行のある女優を、文士連も崇拝しているし、中尉達も崇拝しているに過ぎない。中尉達の方では、それに金を掛けているだけが違う。それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる卓に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微笑して、コニャックをもう一杯呑んで帰ることがある。  これが銀行員チルナウエルの大事件に出逢う因縁になったのである。チルナウエルはいつか文士卓の隅に据わることを許されていたのである。        *          *          *  ある日の事であった。まだ時間は早い。文士卓にはもう大勢団欒をしていて、隅の方には銀行員チルナウエルもいた。そこへ竜騎兵中尉が這入って来て、平生の無頓着な、傲慢な調子でこう云った。 「諸君のうちで誰か世界を一周して来る気はありませんか。」  ただこれだけで、跡はなんにも言わない。青天の霹靂である。一同暫くは茫然としていた。笑談だろうか。この貴族先生の顔色を見るに、そうは受け取れない。世界を一周する。誰一人それを望まないものはない。しかしどんな条件があるのだろうと、誰も猶予する。 「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声で、チルナウエルが叫んだ。 「その日数だけ休暇が貰えるかね。半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。 「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが、どうにかして貰えないことはなかろうと思います。」実はこれ程容易な事はない。自分がいなくても好いことは、自分が一番好く知っているのである。 「宜しい。それじゃあ、明日邸へ来てくれ給え。何もかも話して聞せるから。」中尉はくるりと背中を向けて、同僚と一しょに店を出て行った。  門口に出ると、旆騎兵中尉が云った。 「あれは誰だい。君に、君だの僕だのという、あの小男は。」 「僕と話をする時、君僕と云う男を一々覚えていられるものか。」尤もである。竜騎兵中尉と君僕の交換をしている人はむやみに多いのだから。殊に少し酒が廻っていると、君僕の交際範囲が広くなる。そこで一旦君僕で話をした人に、跡で改まった口上も使いにくい。とうとう誰彼となく君僕で話す。先方がそれに応ずると否とは、勝手である。竜騎兵中尉はこの返事をして間もなく、「そんなら」と云って、別れそうにした。 「どこへ行く。」 「内へ帰る。書きものがある。」 「書きもの。」旆騎兵中尉は、「気が違ったかい」と附け加えたかったのを、我慢して呑み込んだ。 「うん。書きものだ。」こう云うとたんに、丁度美しい小娘がジュポンの裾を撮んで、ぬかるみを跨ごうとしているのを見附けた竜騎兵中尉は、左の手に𣠽を握っていた軍刀を高く持ち上げて、極めて熱心にその娘の足附きを見ていたが、跨いでしまったのを見届けて、長い脚を大股に踏んで、その場を立ち去った。        *          *          *  陸軍竜騎兵中尉伯爵ポルジイ・キルヒネツゲルは実際邸へ帰った。そして夜の更けるまで書きものをしていた。友達の旆騎兵中尉は、「なに、色文だろう」と、自ら慰めるように、跡で独言を言っていたが、色文なんぞではなかった。  ポルジイは非常な決心と抑えた怒とを以て、書きものに従事している。夕食にはいつも外へ出るのだが、今日は従卒に内へ持って来させた。食事の時は、赤葡萄酒を大ぶ飲んで、しまいにコニャックを一杯飲んだ。  翌日まだ書いている。前日より一層劇しい怒を以て、書いている。いやな事と云うものは、する時間が長引くだけいやになるからである。午頃になって、一寸町へ出た。何か少し食って、黒ビイルを一杯引っ掛けて帰って、また書いている。  ようよう銀行員の来る前に書いてしまった。右の腕を、虚空を斫るように、猛烈に二三度振って、自分の力量と弾力との衰えないのを試めして見て、独り自ら喜んだ。それから書いたものをざっと読んで見た。かなりの出来である。格別読みづらくはない。いよいよ遣らなくてはならないとなると、遣れるものだと、自分で満足した。  そう思うと同時に、平生の傲慢が萌す。幸な事には、いつまでもこんな事をする必要がない。出来たからって、えらがるのは、沙汰の限りだ。こう思うと、頗る愉快になって来た。  その時銀行員は戸を叩いた。ポルジイは這入らせはしたが、ちょっと誰だったか、何の用で来させたかと云うことを忘れて、ようよう思い出した。それからは頗る慇懃に待遇した。  さて一切の用件を話して聞せた。  それを聞いたチルナウエルには、なぜそんな事をさせられるのだかは、分からないが、どんな事をすれば好いと云うことだけは、すっかり飲み込めた。チルナウエルも気の利いた男でポルジイも物をはっきり言う男だからである。そのはっきり言うのは、軍隊で命令をしつけているからである。  チルナウエルは地図、旅行案内、紹介状、旅行券を受け取った。紹介状はどこで誰に渡せと云うことを、一々はっきり言い附けられた。そして少からぬ金額を旅費として受け取った。最後に暇乞をしようとした時、名所記類を一山授けた。ポルジイは頭痛に病みながら、これを調べたのであった。  さてこの一切の物を受け取って、前に立っている銀行員を、ポルジイ中尉は批評眼で暫く見て、余り感心しない様子で云った。 「君も少し姿勢がどうかならんかねえ。気を附けて見給え。損の行かない話だ。」  これは少し冤罪であった。勿論この銀行員の風采は、伯爵中尉と比べることは出来ない。しかし世間並から言えば、かなりの男振りで、立派に通用するのである。  ポルジイは暇を遣るとき握手して遣ることは出来なかった。それは自分の手が両方共塞がっていたからである。右には紙巻烟草を持っていた。左には鞭を持っていた。鞭を持っていたのは、慣れない為事で草臥れた跡で、一鞍乗って、それから身分相応の気晴らしをしようと思ったからである。  その晩のうちにチルナウエルは汽船に乗り込んで、南へ向けて立った。最初に着く土地はトリエストである。それから先きへ先きへと、東の方へ向けて、不思議の国へ行くのである。  さて到る処で紹介状を出すと、どこでも非常に厚く待遇する。いかに自分の勤めている銀行が大銀行だとしても、その中のいてもいなくても好い役人の受くべき待遇ではない。そこでチルナウエルは次第に小さい銀行員たることを忘れて、次第に昔話の魔法で化された王子になりすました。  珈琲店では新しい話の種がたっぷり出来た。伯爵中尉の気まぐれも非常であるが、小さい銀行員の僥倖も非常である。あんな結構な旅行を、何もあのチルナウエルにさせないでも好さそうなものだ。誰だって同じ旅行が出来たら、あの男よりは有利にそれをし遂げるだろうに。  チルナウエルの旅程が遠くなればなる程、跡に残っている連中の悪口はひどくなる。もう幾月か立ったので、なんに附けても悪く言う。葉書が来ない。そりゃ高慢になった。来た。そりゃ見せびらかす。チルナウエルの身になっては、どうして好いか分からない。  竜騎兵中尉も消え失せたようにいなくなった。いつも盛んな事ばかりして、人に評判せられたものが、今はどこにいるか、誰も知らない。        *          *          *  ポルジイは大した世襲財産のある伯爵家の未来の主人である。親類には大きい尼寺の長老になっている尼君が大勢あって、それがこの活溌な美少年を、やたらに甘やかすのである。  二三年勤める積で、陸軍には出た。大尉になり次第罷めるはずである。それを一段落として、身分相応に結婚して、ボヘミアにある広い田畑を受け取ることになっている。結婚の相手の令嬢も、疾っくに内定してある。令嬢フィニイはキルヒネツグ領のキルヒネツゲル伯爵夫人になるのが本望である。この社会では結婚前は勿論、結婚してからも、さ程厳重に束縛せられないと云うことを、令嬢は好く知っているのである。  勿論ポルジイの品行は随分ひどい。しかし女達に追い廻されている男だと云う所を酌量して遣らなくてはならない。馬は目醒ましい上手である。その外青年貴族のするような事には、何にも熟錬している。馬の体の事は、毛櫛が知っているより好く知っている。女の容色の事も、外に真似手のない程精しく心得ている。ポルジイが一度好いと云った女の周囲には、耳食の徒が集まって来て、その女は大幣の引手あまたになる。それに学問というものを一切していないのが、最も及ぶべからざる処である。うぶで、無邪気で、何事に逢っても挫折しない元気を持っている。物に拘泥しない、思索ということをしない、純血な人間に出来るだけの受用をする。いつも何か事あれかしと、居合腰をしているのである。  それだから金のいること夥だしい。定額では所詮足らない。尼寺のおばさん達が、表面に口小言を言って、内心に驚歎しながら、折々送ってくれる補助金を加えても足らない。ウィイン市内で金貸業をしているものは多いが、一人としてポルジイと取引をしたことのないものはない。いざ金がいるとなると、ポルジイはどんな危険な相談にでも乗る。お負にそれを洒々落々たる態度で遣って除ける。ある時ポルジイはプリュウンという果の干したのをぶら下げていた。それはボスニア産のプリュウン二千俵を買って、それを仲買に四分の一の代価で売り払った時の事である。これ程の大損をさせるプリュウンというものを、好くも見ずに置くのは遺憾だと云って、時計の鎖に下げたのである。またある時はどこかの二等線路を一手に引き受けられる程の数の機関車を所有していた。またある時は、平生活人画以上の面白味は解せないくせに、歴代の名作のある画廊を経営していた。一体どうしてこんな事件に続々関係するかと云うに、それはこうである。墺匈国では高利貸しが厳禁せられている。犯すと重い刑に処せられる。そこで名義さえ附くと好い。ボスニア産のプリュウンであろうが、機関車であろうが、レンブラントの名画であろうが、それを大金で買って、気に入らないから、直ぐに廉価に売るには、何の差支もない。これは立派な売買である。仲買にたっぷり握らせて、自分も現金を融通する。仲買は公民権を失うような危険を冒さずに済むのである。  丁度この話の出来事のあった時、いつも女に追い掛けられているポルジイが、珍らしく自分の方から女に懸想していた。女色の趣味は生来解している。これは遺伝である。そこで目差す女が平凡な容貌でないことは、言うまでもない。女は女優である。遊んだり、人のおもちゃになったりしていずに、少し稽古でもしたら、立派な俳優になった女かも知れない。どうかして舞台で旨い事をしたのを、劇評家が見て、あれは好く導いて発展させたら、立派なものになるだろうにと、惜んで遣ることもある。しかしその発展が出来ないで、永遠に愛くるしい見せ物に甘んじている。その名はドリスである。  ドリス自身には、技芸の発展が出来なくて気の毒だのなんのと云ったって、分からないかも知れない。結構ずくめの境界である。崇拝者に取り巻かれていて、望みなら何一つ愜わないことはない。余り結構過ぎると云っても好い位である。  ドリスは可哀らしい情婦としてはこの上のない女である。不機嫌な時がない。反抗しない。それに好い女と云う意味から云えば、どの女だってドリスより好く見えようがない。人を悩殺する媚がある。凡て盛りの短い生物には、生活に対する飢渇があるものだが、それをドリスは強く感じている。それが優しい、褐色の、余り大きいとさえ云いたいような、余りきらきらする潤いが有り過ぎるような目の中から耀いて見える。  無邪気な事は小児のようである。軽はずみの中にさえ、子供めいた、人の好げな処がある。物を遣れば喜ぶ。装飾品が大好きである。それはこの女には似合わしい事である。さてそんならその贈ものばかりで、人の自由になるかと云うと、そうではない。好きな人にでなくては靡かない。そしてきのう貰った高価の装飾品をでも、その贈主がきょう金に困ると云えば、平気で戻してくれる。もしその困る人が一晩の間に急に可哀くなった別人なら、その別人にでも平気で投げ出してくれる。  ポルジイとドリスとはその頃無類の、好く似合った一対だと称せられていた。これは誰でもそう思う。どこへでも二人が並んで顔を出すと、人が皆囁き合う。男はしっかりして危げがなく、気力が溢れて人を凌いで行く。女はすらりとして、内々少し太り掛けていると云う風の体附きである。まるで娘のように見える。手なんぞは極小くて、どうしてあれで大金を払い出すことが出来るだろうと怪まれる。一体金と云う概念については、この女程分からずにいるものは少かろう。その位だから、我身の未来なんぞと云うことも、秘蔵子が考えないと同じように考えないでいる。  こう云う二人が出逢ったのだから、面白く月日を送ることは、この上もない。勿論その入費は非常である。ポルジイのドリスを愛することは、知り合いになってから、月日が立つと共に、深くなって来る。どんなに面白い女か、どんな途方もない落想のある女かと云うことが、段々知れて来るのである。貴族仲間の禁物は退屈と云うものであるに、ポルジイはこの女と一しょにいて、その退屈を感じたことが、かつてない。ドリスはフランス語を旨く話す。立居振舞は立派な上流の婦人であって、その底には人を馬鹿にした、大胆な行を隠している。ピアノを上手に弾いて、クプレエを歌う。その時は周囲が知らず識らずの間に浮かれ出してしまう。先ずこんなわけで、いつの間にかポルジイは真面目にドリスに結婚を申し込んだと云う噂が伝えられた。  これはひどく人の耳目を聳動した。尤もこれに驚かされたのは、ストロオガツセなる伯爵キルヒネツゲル家の邸の人々である。  邸あたりでは、人生一切の事物をただ二つの概念で判断している。曰く身分相応、曰く身分不相応、この二つである。ポルジイがドリスを囲って世話をして置く。これは身分相応の行為である。なぜと云うに、あれは伯爵の持物だと云われても、恥ずかしくない、意気な女だからである。どうもそれにしても、ポルジイは余り所嫌わずにそれを連れ歩くようではあるが、それは兎角そうなり易い習だと見れば見られる。しかしドリスを伯爵夫人にするとなると、それは身分不相応の行為である。一大不幸である。どうにかして妨害せねばならぬ。  さてどうしたものだろう。困る事には、ポルジイは依怙地な奴で、それが出来ないなら云々すると、暗に種々の秘密を示して脅かす。それが総て身分不相応な事である。そこで邸では幾度となく秘密の親族会議が開かれた。弁護士や、ポルジイと金銭上の取引をしたもの共が、参考に呼び出される。プラハとウィインとの間を、幾人かの尼君達が旅行せられる。実際鉄道庁で、この線路の列車の往復を一時増加しようかと評議をした位である。無論急行で、一等車ばかりを聯結しようと云うのであった。  その会議の結果はこうである。親族一同はポルジイに二つの道を示して、そのどれかを行わなくてはならないことにした。その一は軍職を罷めて、耕作地の経営に長じているという噂のあるおじさんのいる、スラヴ領の荘園に行って、農業を研究するのである。ポルジイはこれを承って、乱暴にも、「それでは肥料車の積載の修行をするのですな」と云った。その二は世界を一周して来いと云うのである。半年程留守を明けて、変った事物を見聞して来るうちには、ドリスを忘れるだろうと云うのである。勿論漫遊だって、身分相応にするので、見て廻らなくてはならない箇所が頗る多い。墺匈国で領事の置いてある所では、必ず面会しなくてはならない。見聞した事は詳細に書き留めて、領事の証明書を添えて、親戚に報告しなくてはならない。  ポルジイは会議の結果に服従しなくてはならない。腹を立てて、色々な物を従卒に打ち附けてこわした。ドリスを棄てようか。それは「絶待」に不可能である。少し用心深く言ったところで、「当分」不可能である。罷職になって、スラヴ領へ行って、厚皮の長靴を穿く。飛んでもない事だ。世界を一周する。知識欲が丸でなくて、紀行文を書くなんと云うことに興味を有せない身にとっては、余り馬鹿らしい。  こう考えた末、ポルジイは今時の貴族の青年も、偉大なる恋愛のためには、いかなる犠牲をも辞せないと云うことを証明するに至った。ポルジイは始て思索を費した。大部の紀行類を読んだ。そして意気な女と遊ぶ夜を、寂しい我居間に閉じ籠っていて、書きものをした。        *          *          *  銀行員は遠く、いよいよ遠く故郷の空を離れて、見馴れぬ物という物を見て歩く。言い附けられた事は、きちんきちんとする。それ程込み入って、覚えていにくいような事ではない。言語挙動も役相応に見られるようになった。訪問すべき人を訪問して、滞留日数に応じて何本と極めてある手紙を出した跡は、自分の勝手な楽もする。段々鋭くなった目で観察もする。  しかし一つの恐怖心が次第に増長する。それは不意に我身の上に授けられた、夢物語めいた幸福が、遠からず消え失せてしまって、跡には銀行のいてもいなくても好い小役人が残ると云うことである。少くも半年間は、いてもいなくても好いと云うことを、立派に上役から証明せられているのである。この恐怖心を懐いて、チルナウエルは生涯の思出だと思いながら、出来るだけの受用をしている。  伯爵家では郵便が来る度に、跡継ぎの報告を受け取って、その旅行の滞なく捗って行くのを喜び、また自分達の計略の図に当ったのを喜んでいる。金は随分掛かる。しかし構わない。旅行は功を奏するに違いないからである。それに報告が存外立派に書ける。殊に書物をも少しは読む尼君達さえ、立派だと云って褒めて、学問をしなかったのが惜しいと思っている。伯爵夫人になりたがっている令嬢にも、報告が気に入っている。        *          *          *  この間ポルジイとドリスとの二人は悪くない目に逢っている。旅費に貰った金を皆銀行員に遣るには及ばないから、かなりたっぷり除けて置いた。勿論今までのように途方もない贅沢は出来ない。  先ずノイレングバハに別荘を借りた。ウィインから急行で半時間掛かる。風景はなかなか好い。そして丸で人が来ない。そこに二人は気楽に住んでいる。風来もののドリスがどの位面白い家持ちをするかと云うことが、始て経験せられた。こせこせした秩序に構わないで、住心地の好いようにしてくれる。それになかなか品位を保っている。なんの役も勤まる女である。  二人きりで寂しくばかり暮しているというわけではない。ドリスの方は折々人に顔を見せないと、人がどうしたかと思って、疑って穿鑿をし始めようものなら、どんなまずい事になるかも知れない。詐偽の全体が発覚すまいものでもない。そこで芝居へ稽古に行く。買物に出る。デルビイの店へも、人に怪まれない位に、ちょいちょい顔を出して、ポルジイの留守を物足らなく思うと云う話をも聞く。ついでに賭にも勝って、金を儲ける。何につけても運の好い女である。  舞台が済んで帰る時には、ポルジイが人の目に掛からないように、物蔭に、外套の領を馬鹿に高く立てて、たたずんでいる。ヒュッテルドルフまで出迎えている時もある。停車場に来ている時もある。生死に関すると云う程でもなく、ちょいとした危険があるのを冒すのが、なんとも云えないように面白い。ポルジイはまだ子供らしく、こんなかくれん坊の興味を感じる。ドリスも冒険という冒険が好きだから、同じように嬉しがる。芝居のない日には、朝から晩まで差向いで楽む。  折々極親しい友達を呼んで来る。内証の宴会をする。それがまた愉快である。どうかすると盛んな酒盛になる。ドリスが色々な思附きをして興を添えてくれる。ドリスが端倪すべからず、涸渇することのない生活の喜びを持っているのが、こんな時にも発揮せられる。この宴会に来たものは、永くその面白さを忘れずにいて、ポルジイが柄にない、気の利いた事をして、のん気に歓楽を極めているのを羨んだ。  こんな風に二人は、この山毛欅に囲まれた片田舎で、これまでにない、面白い一春を過した。春というものの華やかさと楽しさとは、二人に迎合して遊ばせてくれた。轡を並べて遠乗をして、美しい谷間から、遥にアルピイの青い山を望んだこともある。  町に育って芝居者になったドリスがためには、何もかも目新しい。その知らない事を言って聞せるのが、またポルジイがためには面白い。ドリスが珍らしがるのは無理もない。これまでした旅行は、夏になってイッシュルなぞへ行っただけである。景色が好いの、空気が新鮮だのと云うのは言いわけで、実は外の楽しみの出来ない土地へ行っただけである。こんな風で休暇は立ってしまった。そして存外物入りは少かった。  夏もいつか過ぎて、秋の雨が降り出した。ドリスはまた毎日ウィインへ出る。面白い話を土産に持って帰る。楽屋落の処に、特殊の興味のあるような話で、それをまた面白く可笑しく話して聞せる。  しかしポルジイにはそれが面白くなくなって来た。折角の話を半分しか聞かないことがある。自分の行きたくて行かれない処の話を、人伝に聞いては満足が出来なくたった。あらゆる面白い事のあるウィインは鼻の先きにある。それを行って見ずに、ぐずぐずしていて、朝夕お極まりに涌き上がって来る、悲しい霧を見ているのである。実に退屈である。ドリスがいかに巧みに機嫌を取ってくれても、歓楽の天地の閾の外に立って、中に這入る事の出来ない恨を霽らすには足らない。詰まらない友達が羨ましい。あの替玉の銀行員が、新しい物を見て歩いているのも羨ましい。いくら端倪すべからざるドリスでも、もう眺めていて目新しくはなくなった。外の女よりは面白いに違いないが、やはり同じ女である。  さてこうなった所で、ポルジイはこれまで自分の身に覚えのない感情を発見した。それは妬である。ドリスの噂に上ぼる人が皆妬ましい。ドリスの逢ったと云う人が皆妬ましい。  それに別荘は夏住まいに出来ているのだから、余り気持ちが好くなくなった。その中で焼餅話をするとなると、いよいよ不愉快である。ドリスも毎日霧の中を往復するので咳をし出した。舞台を休んで内にいる晩は、時間の過しように困る。女の話すことだけ聞くのに甘んじないで、根問いをすると、女はそんな目に逢ったことがないので厭がる。そして何の権利があって、そんな事を問うのだか分からないとさえ思う。  とうとう喧嘩をした。ドリスは喧嘩が大嫌いである。喧嘩で、一たび失ったこの女の歓心を取り戻すことは出来ない。それはポルジイにも分かっているから、我ながら腑甲斐なく思う。しかし平生克己ということをしたことのない男だから、またしては怒に任せて喧嘩をする。  ある日ドリスが失踪した。暇乞もせずに、こっそりいなくなった。焼餅喧嘩に懲りたのである。ポルジイは独り残って、二つの学科を修行した。溜息の音楽を奏して、日を数える算術をしたのである。  こう云うわけで、二つの出来事が落ち合った。小さい銀行員が漫遊から帰って来て珍らしがられると云うことが一つ、ポルジイ中尉が再びウィインの交際社会に現われたと云うことが一つである。そしてポルジイの事を知っている人々の間には、ドリスと切れて、身分相応な結婚をするそうだという噂が立った。伯爵家の両親がこの成行に満足して、計略の当ったのを喜ぶことは一通りでない。実に可哀い子には旅をさせろである。  小さい銀行員はまた銀行に通い始めた。経験が出来たので、段々上の役に進む。妻を迎える。その家の食堂には、漫遊の記念品が飾ってある。小役人の家の食堂とは思われない。主人チルナウエルは客にこんな事を言う。「わたくしがラホレのマハラジャの宮殿にいました時の事ですが」なんと云う。昔話をするのか、大法螺を吹くのかと思われるのである。ところが、それが事実である。三方四方がめでたく納まった話であるから、チルナウエルは生涯人に話しても、一向差支はないのである。 (明治四十四年六月) 底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年3月21日第1刷発行 入力:門田裕志 校正:米田 2010年8月14日作成 2011年4月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。